十字架の絆

五十五.十字架の絆

 桜花高等学校の名にふさわしい、グラウンドをぐるりと囲んだ桜の木。その枝の先が、遠目に見ても赤みを帯び、ところどころ、ほころぶように薄い紅色の花が開き始めている。
「春休みが終わるまでは二年生だが、この春休みは三年生のスタートを決めるものだ。受験生としてのスタートをどう切るかは、一人一人の心がけ次第になってくる。大学へのエスカレーターはあるにせよ、それでも試験はあるのだから気を抜かないように・・・」
 そんな担任の櫻木の言葉を、完全に聞き流しながら、そんな外の風景に目をやっているのは、このクラスの大黒柱を演じ続けてきた近衛だった。

 クリスマスから年末にかけての、あの途方もない出来事が落ち着いて、近衛は自分の中でずいぶん大きく何かが変わったような気がしていた。まずそれが現れたのが、水面下で渦巻いていた鷹司家との対立においてだった。鷹司の陰謀は、近衛と近衛の母によって、見事に退けられた。
 
近衛の右腕の一つを担う西園寺が、伏原家の裏切りによって大ダメージをこうむりそうになったところで、近衛の母は伏原夫人や、その傘下の企業を担う名のある家のご婦人方を、個人的なお茶会を何度か催して招き、その人柄でうまく丸め込んだ。そして近衛自身は、近衛を継ぐ後継者として、正月の大規模な年賀パーティーで、比類なき実力を備えた御曹司振りを披露して見せた。これまで「まだ早い」という理由で、正式に参加しようとしなかった会だったので、父親や祖父は大いに驚き、喜んだ。知的な容姿を裏切らない明晰な頭脳と、どこに出しても恥ずかしくない礼節を身につけている近衛家の跡取り息子は、近衛家のとっておきだった。
「悠大さんも、覚悟はなさったのですね」
 近衛の母が優美に笑いながら言ったものである。この母にだけは、口実をつけて逃げていたのがばれていたらしい。
「でも、あなたの姿を見て、こちらに付いたほうが先々明るいと思われた方々も多かったようですよ。冷泉と醍醐の御当主が、近衛のバックアップを約束してくださいましたからね」
 冷泉と醍醐は鷹司の両翼である。間違いなく冷泉の方が伏原をそそのかしたに違いないのだが、伏原が西園寺との提携を切ることを渋り始めたこともあり、元々敵対している相手であるわけでもないので、万が一鷹司に切られたとしても、近衛についておけば生き残れる、と判断したようだ。むしろ、こちらを敵に回したくないといったところかもしれない。
 近衛を駆り立てたのは、鷹司から慈恩を守りたい、ただその一心だった。もしこれで近衛に少しでもダメージがあったとしたら、つらい思いをするのは慈恩だろう。そんなふうにはさせない。そして、二度と鷹司から慈恩や近衛に何かしらの妨害をさせない。・・・・・・鷹司が、あれ以来自分たちに何も関わってくることなく卒業し、この学校への影響力がなくなって、とりあえずはしのげたに違いない。自分が家の駒になることを嫌悪している近衛にとっては、大きな決心が必要だったのだが、それでも躊躇いはなかった。つらい思いをした慈恩に、少しでも心の平穏を取り戻せる環境を作ってやりたいという思いに比べれば、自分の今までのポリシーだとか、こだわりなんてものは、小さなものに過ぎなかった。
(あの、小さくほころんだ花・・・慈恩の兄貴みたいだ)
 病室で、自分を見てふわっと微笑んだ、あの綺麗で華奢な少年は、近衛の脳裏に深く刻み込まれている。あんなに儚いのに、惹かれてやまない。そんな雰囲気をもっていた。隼でなくても、あれは惚れるかもしれない。
 そんな斗音がある程度回復するまで、慈恩は学校を欠席すると決めた。そして、その視野の中には、如月高校への転校が含まれていることも、近衛には分かっていた。
 慈恩の大事な、たった一人の家族を、死の間際まで追い込んだという事実は、さすがの九条家にとっても重いものだった。
「いっそ死んでしまえば、慈恩も心を囚われるものがなくなったろうに」
 それでも、九条家の最高権力を握る重盛は、そうつぶやいたという。しかし、それを聞いた慈恩は殺気をみなぎらせた目で、堂々と重盛を威圧した。
「もし斗音が死んでいたら、俺は斗音を殺した九条家を、自分も含めて許さない。生かしてなんか、おかない。俺は九条慈恩である前に、椎名慈恩で、椎名斗音の、たった一人の家族だ」
 重盛を怒鳴りつけようと身構えた絢音や雅成でさえ、その漆黒の瞳の底で煮えたぎる怒りに、言葉を失った。

「俗だと言うのなら言えばいい。九条が望んで身内に抱えた人間は、こんな人間なのだから」
 
重盛が更に口を開く前にそう吐き捨てて、慈恩はしばらく九条家に戻らない旨を、雅成に告げた。自分たちが認め、手に入れたがった慈恩自身の固い決心である。さすがの九条家も、慈恩への拘束力を緩めざるを得なかった。
 
桜花の剣道部で仲間に認められ、今や欠かせない存在にまで成長した慈恩を、失うのは痛手だった。何より近衛自身が、心底惹かれた相手を失うことが、つらかった。それを思うたびに、苦しさが胸を貫いた。
(俺、ほんとにあいつに惚れてたんだなぁ・・・・・・)
「・・・おい」
 小声で隣からつつかれる。はっと振り返ると、漆黒の瞳がちらりと前を促す。
「・・・っ、き、起立!」
 担任の話がとっくに終わって、このクラス最後の挨拶を求められていたのだ。櫻木が、珍しく目元を和らげた。
「近衛でも他ごとを考えていたりするんだな。最後に珍しいものを見られた」
 櫻木の、それこそ珍しい物言いに、クラス中が笑いでどよめく。
「すみません・・・」
 ちらりと横へ視線を流すと、すらりとした身体に桜花のブレザーの冬服を身にまとう剣道部のエースが、おかしそうに口元に長い指を押し当てて、笑いをこらえている。
(・・・この野郎)
「礼っ!」

 学級解散の合図でもある最後の礼は、このクラスで最も親しみやすいものであった。

   ***

「ただいま」
 慈恩の開けた玄関を、近衛は少し戸惑いながらくぐる。ここに来るのは三度目だが、この小ささにはまだあまり慣れない。一般の家庭よりは、庭も広いし玄関も大きい・・・のだろうが、自分の住んでいる世界が違うのだ。
「・・・お邪魔し」
「おかえりっ!」
 近衛が訪問の挨拶をするのとほぼ同時に、元気のいいハスキーボイスと素敵な笑顔が、近衛の聴覚と視覚を奪った。
「ようこそ、椎名家へ。悠大、待ってたよ」
(っ・・・・・・これは反則だろ)
 いきなり白くて細い指が、自分の右手に絡まって、ぶんぶんと握手。目の前には、満開の桜のように華やかな満面の笑み。ものすごく儚い印象だったのが、ちょっと覆される。
「あ・・・えっと、快気祝い・・・・・・」
 スクールバッグに入れてあった、小さいけれどしっかりした紙袋を、思わず突き出す。斗音はそれをきょとんと、綺麗な薄茶の瞳で見つめる。ずいぶん睫毛が長いのだ、と思う。
「え、よかったのに、そんな気を遣ってくれなくても・・・・・・」
 それでも、にっこり微笑む。
「ありがとう。どうぞ、あがって。あのさ、慈恩。悠大が来てくれるってんで、俺ちょっと張り切って、おやつ、作ってみたんだけど」
 たちまち慈恩が、何とも言えない表情で首をかしげた。
「・・・・・・何を作ったんだ?」
「フルーツサンドイッチ」
 にこりと微笑む様は、まるで天使のようだ。年末に病室を見舞った時に比べると、やせてげっそりしていた頬は丸みを帯びて、ほっそりしてはいるが、赤みもさしている。何より、表情が生き生きしている。
「・・・・・・フルーツサンドイッチ?」
 初めて聞く名前に近衛が首をかしげると、斗音はまたふんわりと笑う。
「サンドイッチの中身がね、生クリームとフルーツなんだよ」
「へえ・・・・・・そんなのがあるんだ」
「まあ、庶民の味かもしれないな」
 慈恩はやや苦笑した。
 以前泊まった時に、みんなで雑魚寝した居間である。雑魚寝というのを初めて経験したが、斗音や慈恩のことが心配でなければ、かなり楽しいものだったに違いない。そこで、ソファに座って、慈恩が入れてくれた炭酸のジュースを口にする。
「・・・・・・うまい」
 これはジンジャーエールだ。炭酸もきつすぎず、ジンジャーの香りがたって、とても香ばしい。思わずつぶやいた近衛に、斗音が嬉しそうに微笑む。
「慈恩は料理の天才だからね。慈恩が作るものは、何だってメチャメチャおいしいよ」
「・・・・・・そ、そうなのか・・・・・・」
 これまた初耳である。が、以前手作りのジンジャーエールのレシピを欲しがったことがあったのを思い出す。そして、初めて諭されたときに、料理を作る側の話をされたことがあった。
(そっか。こいつ、ほんとに何でもできるんだな)
 感心しながら、サンドイッチに手を伸ばす。甘いサンドイッチというのを、近衛は食べたことがなかったので、最初は小さめの一口を含んでみた。それを斗音が心配そうに、ガラスのような薄茶の瞳で、じっと見つめている。その視線に、やや緊張を覚えながら、近衛はフルーツサンドイッチを味わってみる。口からでまかせに「美味しい」と言うことは容易かったが、斗音にそれは失礼な気がしたのだ。
 食パンの微かな塩味と、やや泡立てすぎの感はあるものの、あまり甘くない生クリーム、そしてインパクトのある甘さの、桃のコンポートだろうか。味としては悪くない。食感も、面白い。
「・・・・・・美味しいと思う」
 正直な感想を口にすると、斗音が少し不思議そうに首をかしげた。
「思う?」
「え~と、なんて言うか・・・・・・初めてこういう味を経験したから、なんて言っていいのかよく分からないけど・・・親しみやすい味だな」
「褒められたのかな?俺」
 やや苦笑気味の斗音に、慈恩がやはり一口フルーツサンドイッチを口にしてうなずく。
「美味いぞ、これ。ちょっとかためだけど、生クリームがあんまり甘くないところがいい。桃缶が甘いから、丁度いい感じだ」
「モモカンって?」
 思わず近衛が聞き返すと、二人から驚きの眼差しを返されてしまった。
「えっ、桃缶知らないの?」
「えっ、これ、桃のコンポートじゃないのか?」
「・・・まあ、似たようなもんだけど・・・・・・これはそこらで売ってる桃の缶詰だ」
 苦笑する慈恩に、近衛はやや気まずさを感じた。そんな当たり前のことも、自分は知らないのか。そう思った瞬間、くすくすっと笑う斗音が目に入った。
「やっだなぁ。慈恩ならともかく、俺は桃のコンポートなんて高等テクニック、使えないって」
 さらさらのアッシュの髪が小刻みに揺れる。それに慈恩も相槌を打った。
「確かにな。でもあれ、砂糖とワインを加えて煮るだけだぞ」
「ワインが出てきた時点で無理」
 思わず近衛も笑いに巻き込まれる。そして、笑いながら悟った。普通の日本人なら誰でも知っていることを知らなかった自分に、恥をかかせまいとして、斗音が自分の不得手をさらけ出すことで、さらりと話を逸らしたことを。
「あ、そう言えば、快気祝い・・・開けていい?」
 先ほど渡した小さな紙袋を引き寄せて、斗音が近衛を見つめる。本当に綺麗な瞳だと思う。慈恩の漆黒の瞳は、引き込まれるような魅力があると思うが、斗音のこの瞳は、放っておけずに手を差し延べたくなる魅力がある。
「ああ・・・大したものじゃ、ないんだけど・・・・・・」
 紙袋から黒い小箱を取り出す。金色の文字を見て、斗音の綺麗な瞳がぎょっと見開かれる。
「ちょっと待って、こ、これって・・・・・・」
「時計だよ。俺、どういうものがいいのかほんと分からなくて、俺が気に入ってるものだったらいいかと思って・・・。いくつあっても使えると思うし」
 斗音の様子をいぶかしんだ慈恩が、その箱の文字を見てやっぱり目を瞠る。
「だからって、これ、ブルガリって・・・・・・」
「ディアゴノ プロフェッショナルのエア。バスケやるって聞いたから、スポーツ用がいいだろ?うちがよく買ってる店があって、安くしてくれるって言うから、丁度いいと思って」
 自分の腕時計を見せる。
「ほら、このタイプだ。色々使えて便利だぜ。海外に行く時とかも、時間合わせられるし」
「ちょっと待て、悠大。こういうことは、あんまり聞くもんじゃないって分かってるけど、これ、いくらだ?」
 かなり切羽詰ったような顔をして慈恩が訊くので、近衛は、ちょっと自分の感覚がずれていたかもしれない、と思わなくもなかったが、自分が株で儲けた分から出しているし、それほどまずいことはないだろう、と、やや少なく見積もった値段を口にした。
「八十と、ちょっと」
「ええええええええっ!?」
 斗音は思わず箱を取り落としそうになり、慌ててそれを大事そうに両手で受け止める。慈恩は額に長い指を添えて、微かに首を振った。
「悠大、それは・・・・・・一般の高校生には、あまりにも受け取りがたい値段なんだけど」
「・・・・・・そう、か?でも、親の金じゃないし・・・・・・」
 やっぱり自分の感覚はずれているのだ、と、改めて思い知る。せっかく手に入れた物なのだが、また改めて別の物を買い直すか。と、やや気落ちした瞬間、ぎゅっと両手をつかまれて、驚いて顔を上げる。目の前に、大きなガラスのように薄い色の瞳。

「俺・・・・・・悠大が俺のお見舞いに来てくれた時から思ってたんだ。この時計、かっこいいなって。あのさ、あの・・・・・・ほんっとにもらっちゃっていいの?」
「え・・・いいも何も、その為だけに持って来たんだけど・・・」
 その勢いに押されながら、うなずいて答える。それでも斗音の勢いは衰えない。
「ほんとに?ほんとに俺でいいの?」
「だから、お前に使ってもらいたくて、持って来たんだって」
 言った瞬間、細い腕が思ったより強い力で首に絡み付いてきて、抱きつかれたのだと知った。
「・・・・・・ありがと・・・。大事に・・・・・・大事に使うよ・・・・・・」
 擦れた声が耳元で囁く。その言葉に、この高級時計を受け取ることの重さを感じた。それでも斗音は、近衛の思いを優先してくれたのだ。
(・・・・・・まただ。こいつはどこまで優しいんだろう。絶対に俺が傷つかないように・・・)
「いいのか、斗音」
 低くて優しい声。慈恩は、斗音を気遣う時、こんな声で話す。
「うん」
 ようやく近衛から離れた斗音は、少し照れたように笑った。
「俺、とてもお返しなんてできないけど・・・・・・その代わりに、慈恩の作る夕ご飯、よかったら食べてって。俺にできる最高のお返しだから」
 つられたように、慈恩も笑う。
「俺が作るのか」
「だって、俺が作ったらお返しにならない。手伝うから」
 両手を顔の前で合わせて、器用にぱちんと片目を閉じて見せる。そんなかわいらしくお願いされて、断れる人間がどれだけいるだろう。慈恩が軽く肩をすくめた。
「火曜日から土曜日までは慈恩もこっちにいるから、いつでも好きなときに来てよ。これ以上のものは・・・今の俺には返せないんだけど・・・・・・」
 少し困ったように微笑んで首を傾ける斗音を見て、次からの土産やお見舞いは一万円以内にしようと心に決めた近衛だった。それ以上にありがたい申し出など、近衛にも存在しなかったのだが。
「それ、全面的に俺がやることだろ。それでいいのか?如月の次期生徒会長ともあろう人間が」
 からかうような慈恩の言葉に、今度は斗音が肩をすくめる。
「学校で慈恩のサポートが期待できない分、家で期待したいなあ。それに悠大は、桜花の親友なんだろ?」
 その言葉に、近衛は胸をぎゅっとつかまれるような気がした。
 慈恩は、如月高校には戻らなかった。色々悩んだようだが、斗音は学校では大丈夫だ、と判断したらしい。そして最も気がかりだった椎名の家に、戻ることを決めた。とはいえ、九条に全く帰らないのも、九条夫妻に申し訳ないと考えるところが慈恩らしい。今は日曜日に九条へ行って、火曜日には学校から直で椎名家に帰ってくる。
 慈恩のその選択が、近衛にとってどれほど嬉しいものだったか。それを聞いたときの感激は、言葉になんて表せないほどだった。
「俺は、また如月の剣道部と対戦したい。・・・・・・そりゃ、如月に未練がないとは言わないけど・・・・・・桜花の剣道部は、俺にとっては捨てがたいものだから」
 もっともっと捨てがたいものを、無理矢理切り捨てさせられた慈恩だ。今なら近衛にも、少し分かる。如月が、どんなに生徒主体で生き生きと活動しているのか。桜花がどれだけ形式に囚われた学校なのか。
「・・・・・・生徒、会長なのか。お前も」
 あのひどい状態を乗り越えてよくぞと思うが、分からなくはない。これだけの器の人間だ。十分勤まるだろう。斗音はやや苦笑する。
「何とか、ね。いっぱいいっぱい、たくさんの人が支えてくれたから」
 候補者は二人。藤堂と斗音の獲得票数は、意外に開いた。斗音の得票率は六十八%で、恐らく長期欠席がなければ、今井に劣らない八割の票を確保していたに違いない。
「ていうか、お前もって・・・・・・」
 斗音の問い返しに、近衛は小さく、けれど、固くうなずく。
「俺が、桜花を少しでも変えたいと思って・・・・・・少しでも、如月みたいに自主性を生み出したい」
 如月ほど会長に権限なんてないんだけど、と話すが、それで終わらせるつもりなどない。
「如月の生徒会のこと、色々教えて欲しい。慈恩に、少しでも楽しいと思える高校生活を、味わわせたい。やっぱり如月に戻ればよかったなんて、後悔させたくないんだ」
 瞬間、軽く瞬きをした薄茶の瞳が、真剣な光を浮かべる。それだけで、空気がピンと張りつめたような気がした。斗音のまとうオーラの色が、一瞬にして変わる。
「・・・いい目をするんだね、悠大」
 張りつめた空気が、たちまち斗音の微笑みに溶けていく。気のせいかと思うほどの一瞬が、この斗音の見せた本気の一角だったのだろう。

「・・・慈恩のこと、大事に思ってくれてるんだね。ありがとう。きっと、変えられるよ。悠大なら」

 アボガドとゆで卵とトマトのサラダに海老とミズナの生春巻き、デミグラスソースの煮込みハンバーグとごま油で風味付けした卵スープ。それに硬めのライスがよく合って、確かに慈恩は天才だと思った。高級料理を食べ慣れている近衛ですら、どれもこれも驚くほど美味しかったのだ。
 慈恩の手料理を味わう幸せを味わった近衛が椎名家を退出したのは、午後九時を過ぎていた。迎えの車を前に、快気祝いのせめてものお返しにと、慈恩が何かを思い立ったように、急いで家の中にとって返した。
「・・・斗音の快気祝いなんだけどなあ」
 栗色の髪を掻き上げながら近衛が言うと、斗音も少し首をかしげた。
「何だろ。まあ、慈恩の方が、悠大の喜ぶものは分かるだろうけど・・・・・・」
 改めて、門灯に照らし出される綺麗な瞳が近衛を捉えた。
「悠大」
 少し擦れた声に呼ばれて、視線を合わせると、自分のブレザーの袖をそっとつかむ白い指が目に入った。
「ん?」
「・・・・・・慈恩を、頼むね」
「・・・え?」
 じっと見つめてくる斗音の表情に、柔らかさはない。どちらかというと、固い。こんな表情もするのか、と思った瞬間、その表情が隠れた。ブレザーの胸に、白い額が押し当てられたのだ。
「慈恩に、何もかもを捨てさせたのは、俺なんだ。・・・まさか、学校を変われって言われるとは思ってなかったけど・・・・・・でも、慈恩を逃げられなくしたのは、俺で。だから・・・・・・その報いだね。俺がどんなに如月で頑張ったって、慈恩を楽しませることはもうできない。それでも・・・・・・」
 次に見た斗音の表情は、悲壮な願いに満ちていた。
「俺も・・・・・・慈恩に後悔してほしくない。悠大、だから、どうか」
 夜目にも白い指にぎゅっと力が込められ、さっきより強く額を押し付けられる。
「本気で慈恩を思ってくれる悠大に・・・・・・!」
「・・・・・・うん」
 柔らかい髪の上に、そっと手を載せる。よし、よしと、優しくなでた。
「・・・うん」
 任せろ、なんて大言壮語を吐く気にはなれない。ただ、自分と同じことを願っている斗音の気持ちは、痛いほどよく分かった。
 玄関が勢いよく開いて、何かを手に抱えた慈恩が走ってくる。斗音がそっと近衛から離れて振り返る。
「悪い、お待たせ」
 軽く走ってきたくせに、息の一つも乱さない。布の袋に包まれたものを、控え目に差し出す。
「あのさ・・・これで釣り合いが取れるなんて思わないけど・・・・・・使って、みるか?」
「・・・竹刀・・・?」
 丁寧に受け取って、紐をほどき、するりと引き出す。結構使い込んであるのは分かるが、まだまだ使えそうだし、長さや太さもいい感じだ。手にしっくり来る。
「お前が使ってるやつ?」
「インターハイで使ってた。桜花に行くことになって、九条の家が新しい竹刀を用意してくれたから、今はそれを使ってるけど・・・・・・俺に合うように作ったし、気に入ってる」
 思わず近衛は、竹刀を抱き締めたくなるような衝動に駆られた。胸が震える。
「い、いいのか・・・・・・そんな、大事な・・・・・・」
「使わないのも、もったいないだろ。もし、悠大さえよければもらってほしい」
 静かな漆黒の瞳が、少し照れくさそうな笑みを浮かべた。目頭が熱くなって、近衛はそっと竹刀を腕に包み込む。
「俺にとっては・・・・・・使うのももったいない宝物だ」
 釣り合うわけがない。ちょっと金を出せば手に入る時計なんかと、慈恩の手で作られた、慈恩の最高峰の思い出が込められた竹刀。それほど、慈恩にとって斗音は特別なのだ。
「・・・ありがとう」
「お礼を言うのはこっちだよ。なんか、何から何まで慈恩がお返ししちゃってるけど・・・・・・」
 苦笑した斗音だが、最後に優しい声が囁いた。
「それ、慈恩は大事にしてたよ。悠大は、慈恩の中で特別な存在なんだね」

 顔を上げたら、綺麗な月の光に照らされて、桜の花がほころぶような微笑みがあった。

   ***

 風呂上がりの濡れた髪をタオルで拭きながら、慈恩は自分の部屋へ上がった。元々斗音の部屋だったところだ。そこへ、コンコン、とノック。
「どうした?」
 振り返ると、ドアが開いてうかがうような視線とぶつかる。
「ごめん、本棚に一年生の時の物理の参考書、入ってない?」
「ちょっと待ってろ」
 現在は慈恩の部屋だったところを使っている斗音だが、大きな立て付けの本棚はこちらにしかない。本好きの斗音だったから、本棚のあるほうを使っていたのだ。
 グリーンの背表紙のそれを、一番高いところからやすやすと取り出して、斗音に渡す。
「ありがと」
「この時間から勉強か?」
 斗音にやや苦い笑みが浮かぶ。
「うん・・・・・・ちょっと、忘れちゃってるところが、あってさ」
 一ヶ月、まともに勉強などできる状態ではなかった。如月の鬼のように早い授業の分を、斗音は必死に取り戻そうとしている。少しでも時間があれば、ずっと翔一郎たちが取ってくれていたノートと教科書や参考書を照らし合わせている。
「そっちへ行こうか?」
「・・・・・・・・・・・・うん・・・・・・助かる」

 躊躇った上での返事には、複雑なものがあると分かる。それを励ますように、アッシュの髪をくしゃくしゃとなでた。

 斗音が入院している間に、斗音の部屋はそれなりに隼が片付けた。だから、慈恩がここに帰ってきたときは、特に何かを感じることもなかったのだが、斗音が退院して帰ってきたときのことを、今でも慈恩は忘れられない。
 階段を上る辺りで、急に斗音の足が重くなった。疲れたのかと思ったのだが、白い顔が青ざめていた。そして、この部屋に足を踏み入れた瞬間、斗音の呼吸音に笛のような音が混じった。
「・・・斗音?」
「・・・・・・あ・・・あっ・・・・・・」
 がくんと膝が折れ、倒れる寸前で慈恩はその華奢な身体を抱きとめた。
(発作・・・・・・!?)
 手術以降、一度も発作を起こしていなかった。それが突然だったので、慈恩は戸惑いを隠せなかった。とにかく、目の前のベッドに寝かせようとした途端、渾身の力で腕を振りほどかれた。
「や・・・・・・嫌・・・だっ!!」
「なっ・・・」
 苦悶に歪む表情。見開かれた瞳の焦点は、この空間にあるどこにも合っていなくて、慈恩が触れることさえ拒絶した。
「・・・来るな・・・っ・・・・・・俺に・・・触れるなっ・・・!」
 叫んだかと思うと、ひどく濁った咳をして、崩れ落ちる。
「斗音・・・!」
 慌てて荷物の中から吸入器を取り出し、それを口にあてがおうとするが、それも腕で払いのけようとする。
「おい、何して・・・!」
「っ・・・・・・や・・・めろ・・・・・・」
(・・・・・・これ、は・・・・・・)
 愕然とした。斗音の精神に刻み込まれた、深い傷。
「・・・ぅ・・・・・・っく・・・るな・・・」
 ままならない呼吸で声を絞り出してしまうので、どうにもならない。暴れ、もがき苦しむ身体を、無理やり抱き締めて、必死に耳元に唇を寄せた。
「斗音、斗音!落ち着け!もうここにあいつはいない!」
「・・・・・・ぃや・・・・・・っ・・・こ・・・・・・ないで・・・・・・し・・・に・・・神・・・」
「馬鹿っ、しゃべったら息ができなくなる!」
「・・・す・・・けて・・・・・・っ・・・も・・・やめ・・・・・・」
 涙混じりの縋るような声に、熱いものが込み上げてくる。いつもいつも、こんなふうに悲鳴を上げていたのか。あの体躯から、あの馬鹿力から、斗音がどんなにあがこうと、逃れられるはずがないのに。
「聞いて・・・俺の声を、聞いてくれ、斗音!・・・俺の声が分からないか!」
 叱りつけたのか、悲痛な声を上げたのか、自分でも分からなかった。ただつらくてたまらなかった。けれど、その瞬間に斗音の動きはふっと止まった。
「・・・慈・・・・・・恩・・・・・・」
 聞き取れないほどの、空気をかするだけの声。
(分かってくれた!)
 切なさに、一瞬だけぎゅっと腕に力を込めてから、その身体を床に横たえ、素早く薬をあてがった。薄く開いただけの瞳から、すっとひとすじ、涙が尾をひいた。
 しばらく休んでようやく起き上がれた斗音だったが、ひどく青ざめて、小さく肩を震わせていた。それを優しく腕に包み込んで、慈恩はそのやわらかい髪を、華奢な背を、何度も何度もなでた。
「・・・・・・ありがとう・・・ごめん・・・」
 消え入りそうな声はそれでも震えていて、慈恩は胸が張り裂けそうだった。それを飲み込んで、静かに首を振る。
「・・・・・・部屋、引っ越そう。俺の部屋、使うか?」

 斗音が小さくうなずいたのを確認して、慈恩はもう一度腕におさまった華奢な身体を抱き締めた。

 それ以来、斗音はこの部屋には足を踏み入れていない。のぞくのもこわごわという様子は、どこまでも痛々しい。引っ越すとはいっても、家具の中身や必要なものを移動しただけだったが、慈恩は思い切って部屋を模様替えしてみた。それでもまだここに入るのは気が進まないようだ。逆に、慈恩が使っていたそのままの部屋は、斗音にとってお気に入りになっているらしい。

慈恩に苦手な物理を教えてもらって、ついでに慈恩の苦手な漢文を少し一緒に勉強して、斗音はある程度満足してベッドに潜った。この部屋にいるのは心地いい。このベッドも、斗音は大好きだった。幼い頃から、発作を起こした夜などは、不安で眠れなくて、慈恩の部屋をノックすることがあった。そうすると、慈恩は寝ぼけ眼であっても必ず起きてきてくれた。
「・・・眠れないのか?」
 いつもそう言って、自分も眠いのだろう、目をこすりながら手招きして、ベッドを半分開けてくれた。
「発作起こしたら・・・絶対気づくから・・・・・・安心して寝てろよ・・・」
 斗音がもぐりこんだら、すとんと眠りに落ちてしまう慈恩だったが、その一言で、心底安心して眠れた。だから、このベッドは斗音にとって安らかな眠りを与えてくれるものだったのだ。
 慈恩がいなくなってからは、それを思い出すのがつらくて寂しくて、この部屋にはほとんど入らなかった。でも、今は違う。あの時のやすらぎと暖かさが戻ってきている。それが嬉しくてたまらなかった。胸にかかる十字架をぎゅっと握り締める。
 三神の仕打ちは、今でも斗音の心を、ふとしたことでいとも簡単に引き裂こうとする。元の自分の部屋は、そのきっかけの最たるものだった。自分の恐怖と狂気が染み付いているようで、見るだけで震えが来る。慈恩がだいぶ模様替えして雰囲気はがらりと変わったので、少しほっとしたのだが、それでも躊躇いが大きい。そのストレスで発作を起こすのも、怖かった。でも、いつまでもそんなものに囚われていたくなかったし、早く乗り越えたいという強い意志が、斗音の中にはあった。

 突き放して、ひどい言葉を浴びせて、傷つけてしまった大切な人たち。でも、失っても仕方ないはずの人たちが、みんなして手を差し延べてくれた。慈恩はもちろん、嵐も、翔一郎も、瞬も・・・瓜生も。それがどれだけ自分を支えてくれたことか。どんなに救われたことか。そして、どんなに嬉しかったことか。何よりも彼らのために、自分は全てを乗り越えることで応えたかった。斗音の目を瞠る回復ぶりは、その強い意志にも大きく起因していた。

 斗音が休んでとりあえずほっとした慈恩は、部屋の机の上で、ふと携帯がちかちか光を放っているのに気づいて、それを手に取った。斗音の部屋に行っている間に、一件の着信と、メールがあったらしい。
(・・・あぁ)
「件名:料理名人へ
 本文:今日はご馳走様。お前ってほんと尊敬する。斗音のことも、俺は尊敬する。またそっちへ遊びに行くよ。おやすみ。」
 思わず笑みがこぼれる。長い指でゆっくりと、返信の言葉を綴る。ボタンを押すたびに、携帯につけられた十字架のストラップが、小さく揺れた。
「件名:どういたしまして。
 本文:口に合ってよかった。またぜひ斗音にも会いに来てほしい。おやすみ。PS:手ぶらで来ればいいからな。」
 
悠大の苦笑いや舌打ちが目に浮かぶ。でも、斗音を認めてくれた悠大が、嬉しかった。
「さて、と」
 明日からは春休みだ。部活はあるが、今日くらい、少しだけ夜更かしをするのは構わないだろう。もうひとつ、着信履歴の方を選択して、発信ボタンを押す。コールが、一回・・・二回。
『もしもし』
「遅くにすみません。俺です」
『ああ・・・久しぶりだな。・・・・・・なんて呼んだらいい?』
 あまりに今更な問いに、思わずベッドに腰掛けながらくすっと笑う。
「なんて呼ぶつもりだったんです?」
『・・・・・・考えてなかったから、今訊いてんだろうが』
「俺はなんて呼ばれても構いませんよ。呼び方を変えるのに違和感があるなら、今まで通りでも」
『・・・・・・椎名。元気そうだな』
 その選択が、慈恩は何だか嬉しかった。長い脚を組んで、長期戦に備える。
「ええ。・・・・・・近藤さんも。今日は、大学の合格報告・・・ですか?」
『何で分かる?』
「いえ・・・先輩方から少しずつ聞いてるので」
『今井・・・・・・あの野郎』
 くすくす、と、変わらない様子が懐かしくて、慈恩は笑った。今井が東大に受かったことは、本人からも斗音からも聞いていた。ついでに、近藤が同じように受かっていることも。それでも、春休みに入るまでかけてこなかったところが、近藤らしい。朝練があることを考慮したのだろう。
「さすが、という所ですね。如月の先輩方は」
『・・・・・・お前は?』
 突然訊かれて、何を訊かれたのか分からずに、慈恩が戸惑う。
「俺・・・・・・?」
『大学。自由に選べるのか』
 
・・・・・・ああ、そうか。と、納得する。近藤が、間接的にではあるが、斗音の救出に関わってくれていたことを思い出したのだ。そのつながりから、自分の情報も届いているのだろう。小さく吐息して、軽く目を伏せる。
「選びますよ。あっちがどんな条件を出してこようと、俺はもう、飲むつもりはありませんから」
 あの事件以来、慈恩の九条家での立場はかなり強くなった。九条家が弱みを抱えたという部分もあるだろうが、重盛を怒気で威圧した慈恩に、逆らえる者がいなくなったことも大きかった。もちろんそれ以降、図々しい態度をとるような慈恩ではなかったが、誰も逆らえなかった重盛自身が、慈恩に対して一目を置くところが増えたのだ。
『そうか。だったら、話は早い』
「はい?」
『お前も東大に入れ』
 何度か瞬きをしてから、慈恩は小さく唸った。
「基本的に、国内最高の難関大学ですよね、それ」
『入れるだろ、お前なら』
「・・・・・・・・・・・・近藤さんは、いつも俺を過大評価しすぎですよ」
 軽く溜息に近い吐息をこぼす。そして、でも、と続けた。
「また、あなたと剣道をやれるのなら・・・悪くないかもしれない。選択肢の一つとして考慮はします。・・・・・・ただ、斗音が別の大学を望んだとしたら・・・・・・俺はきっと・・・」
 わずか言いよどんだ先で、近藤の苦笑が聞こえた。
『・・・・・・そうか。分かった。だったら、お前の兄貴にも東大を勧めるとしよう。ていうか、兄貴でも十分入れるだろう。それ以外に志望する大学とか、あるのか?』
 確かに、東大には様々な学部がそろっているし、斗音の能力なら、そのどこでも通用するだろう。けれども、斗音にとって、もう一つ魅力的な大学が、ある。
「・・・・・・東京学芸大・・・」
『東京芸大?・・・まさか、とは思うけど・・・芸術スポーツ文化・・・とか?』
「さあ、そこまでは。でも、可能性はゼロじゃない・・・と思います」
 数少ない公立大学でのスポーツ専門学科。当然、倍率も高く、東大ほどとは言わなくても、難易度は高い。
『・・・・・・瓜生、ね。俺も詳しくは知らないけど、あいつ、随分お前の兄貴の近くにいたんだな。でも、お前もそうだけど、大学ってのは将来のことを考えて選ぶもんだろ?そいつがいるからって、その大学に行く、なんて決めるか?』
(いや、それをあなたが言いますか)
 
ツッコミを入れそうになって、慌てて理性で抑え、そんな自分に笑ってしまった。何より自分が、その基準で選ぼうとしていたではないか。
「・・・そうですね。それにしても、少し、気の早い話のような気がしますけど」
『俺としてはそうでもないんだけどな。・・・お前、もう少し時間あるか?』
「・・・ええ、構いませんよ」
『だったらもう少し、俺の話に付き合え』
「そうですね。久しぶりですから・・・近藤さんの毒舌を聞くのも」
 付き合いますよ、と笑いながら返す。最初からそのつもりだ。
 部屋の明かりを消して、斗音に気づかれないようにする。まだまだ夜は長い。斗音がぐっすりと、ゆっくり眠れるように。
 カーテンからのぞく満月が明るい。綺麗な月だ。とても、安らかな。
 ささやかな月影が、慈恩の手元で、十字架にキラキラと反射して踊っている。

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五十四.卒業式

「今年は寒いなぁ・・・桜咲くとか桜散るとか、まだまだ実感できなさそうだ」
 ちらつく雪の破片を目で追いながら、今井は隣を歩く友人につぶやく。
「どっちかって言うと、散ってるみたいに見えるしな」
 くっ、と笑って、近藤も空を見上げた。今井は思わず苦笑する。
「おいおい、縁起悪い」
「悪いもクソもないだろ、とりあえずセンターは終わったんだ」
「まぁそうだけど」
 一月中旬。偶然同じ大学を受けるのだと知った二人だったが。
「とりあえず試験中に自己採点した分には合格ラインだ。お前もそうだろう?」
「まあ・・・そうだなぁ」
 似たような返事をして肩をすくめる今井に、近藤はちらりと視線を送る。
「一応、第一志望だろ?」
「そうだな。ていうか、それ以外俺、受けないからな」
「・・・・・・自信満々ってところか。さすがだな」
 近藤の呆れたような言葉に、ははっ、と笑うのは、苦笑とも自嘲とも取れる。マフラーを口元まで上げるようにしてその表情を半分覆った今井は、その中で小さく首を横に振った。
「余裕がないんだ」
「は?」
「色々とせわしないっていうか。精神的にも色々と、さ」
 その瞳には、翳りが色濃く潜んでいる。けれど、と近藤は思う。
「それで東大一本なら世話ねえよ」
「ん・・・まあ、そうかな。お前に言われたくないけど」
「俺は私立も二つ受ける」
「慶応と早稲田が滑り止めか?しかも、受験真っ最中でも剣道部に顔出してるし」
「精神統一には俺にとって剣道が一番だ。勉強の邪魔になんてならねえよ。それに椎名・・・慈恩、が、如月のライバルになっちまったからな。ちょっとでもうちの部をハイレベルにしておきたかったっていうのもある。もちろん、大学に入っても続けるつもりだし」
 そこまで言って、大きく白い息を吐き出した。
「お前は・・・・・・執行部、いや・・・・・・椎名斗音・・・か」
 今井が瞠目する。近藤は軽く首をかしげた。
「いつからだ?あいつが来てねえのは。十二月にはもう来てなかったよな。副会長の長期不在は、うちの執行部ではかなり厳しいはずだ。うちは執行部で動いてるところが大きいからな」
 今井は言葉を飲み込む。それは肯定に他ならなかったが、近藤がそこまで気のまわる男だと思ってはいなかった。クラスが同じで親しかった頃は、剣道のことで頭が一杯の無骨な奴だったから。
「お互い、椎名には振り回されてるな」
 笑う近藤を、今井はああ、と納得して頷いた。そうか、慈恩つながりで事情を知っているのか。そんな今井の目線の前で、近藤が笑いを納め、それでもにやっとしたまま続ける。
「あと、伊佐治とも別れたんだったな。執行部も色々ごたごたで大変だったろう」
 思わず眉根を寄せた今井が、口をひん曲げる。
「何で知ってんだよ」
「アホかお前。全校で最も有名なカップルだぞ。情報なんてあちこちで飛び交ってる」
 やれやれ、と今井は溜息をついた。
「それくらい余裕がなかったんだよ。お互いにな。いいんだ、俺はあれ以上あいつを苦しめたくなかったし、あのあと斗音が大変なことになったって分かって、いっそよかったと思ったよ。あの時別れて」
 苦笑しながら近藤に理知的な視線を投げる。
「斗音のことで俺、頭一杯だったから」
「・・・・・・というと?」
「ん・・・・・・俺、あいつを会長にしたいんだ。俺が創り上げたものを、託すことができるのはあいつしかいない」
 はっきりと言い切る今井に、近藤は思わず険しい表情を顕わにした。
「それは・・・・・・可能なのか?藤堂が立候補するって聞いたぞ。もうすぐ俺たちは卒業だ。卒業したら、お前とはいえ何の権威もなくなる。そもそも、あいつは長期欠席で執行部の仕事をおろそかにしてるっていう印象が強いし、そうでなくても会長なんてきつい仕事、こなせるのか?あの身体で?」
 まるで立て板に水状態で、不可能の可能性を並べ立てる近藤に、今井は好感を覚えこそすれ、不快は感じなかった。誰もがそう考えていることは把握していたし、近藤が客観的立場ではっきり言ってくれるのはむしろありがたかった。
「さあなぁ・・・・・・一か八かの賭けだ。あいつが、間に合うかどうか」
「・・・・・・間に合う・・・・・・?」
「ああ。・・・・・・でも、きっと間に合う。あいつには慈恩がついてる」
 今井の言葉は、妙に確信に満ちていて、懐かしい後輩の名に一瞬心を捕らわれた近藤をいぶかしませた。けれど、今井はそれ以上言うつもりがないことを、近藤はすぐに悟った。ならば、と、腕時計で時間を確認し、人の悪い笑みを浮かべる。

「一人、待ち合わせしてんだが、一緒に仏頂面拝みに行かねえか」

 ただでさえも愛想の欠片もない表情が、予想通りの仏頂面になる。それを見て近藤は、おかしそうに今井を振り返る。
「な?」
 な、じゃねえ!と、心の中で近藤以外の二人は同時に叫んでいたが、互いにそれを声に出すほど子供でもなかったので、片やむっつりと黙り込み、片や目を瞠るにとどめた。
「どうだった、手応えは」
 訊かれて、瓜生が仏頂面のまま視線を逸らす。
「どうもこうも・・・・・・とりあえずやれるだけやった。それだけだ」
「自己採点は?」
「できるかよ。答えに確信もねえし、そんな暇もねえ。てめえらと一緒にすんな」
 今井は以前ほど瓜生に悪い感情をもってはいない。けれど、心の中に拭いきれないものがあるのは確かだ。
「・・・・・・どこ、受けるんだ?」
「・・・・・・かっ・・・・・・かんけーねーだろ・・・・・・」
 ありきたりの質問のつもりだったが、瓜生は口ごもるようにして更に顔まで逸らしてしまった。
「ま、センターの結果次第だよな。ところで、あれから何か変わったことあったか?」
 雰囲気を読んでなのか、さらりと流す近藤に、瓜生はちらりと今井を見てから、近藤に視線を移した。
「・・・・・・いや・・・・・・でも、もう数日で退院できるらしい」
「そうか。よかった。だとよ、今井」
「え?」
 突然話を振られて戸惑う今井に、近藤が二カッと笑った。
「知りたかったんじゃねえのか。椎名斗音の現状を」
「え?ああ、それは・・・そうだけど・・・なんで、お前が・・・?」
 その問いには、瓜生は押し黙ってしまった。近藤は苦笑する。
「色々事情があんだよ。こいつにも、な」
 気まずくなりそうな雰囲気だったが、近藤は意に介さなかったようだ。
「さて、じゃあ飯でも食って帰るか」
(えっ!?このメンバーでか!?)

 ぎょっとした二人は、強引に鍛えられた腕で背を押されながら、再び同時に同じことを心の中で叫んでいた。

   ***

 ぎょっとした慈恩の顔を、斗音は微笑んで見つめる。微笑んではいるが、その瞳には芯の通った強い光が宿っている。ほんのひと月前には、完全に消えてしまっていた、意志の光。
「・・・・・・本気、なのか?」
「もちろん」
 擦れた声ではあるが、それには揺るぎない強さがある。ようやく声帯を使ってもいいと許可が出て、斗音が音声にした言葉は、慈恩を困惑させた。
「俺にできるかどうかは分からないけど、やってみたい。・・・・・・その前に、当選するかどうかっていう問題があるんだけど・・・・・・いっぱい休んじゃったし、執行部にも沢山迷惑掛けたし・・・・・・」
 苦笑を、吹きぬける風に踊る髪が縁取る。病室の窓は開け放たれて、まだ冷たい風に侵略されている。すっかり綺麗に片付いた部屋の空気を、最後に入れ替えるためだった。
「・・・それ以前に、まだ手術して一ヶ月経ってないんだぞ?体力だってまだ・・・・・・」
 心配という気持ちをこれでもかと漆黒の瞳に浮かべながら、慈恩が口ごもる。斗音の希望を叶えてやりたい、という思いは、以前と全く変わらない。変わらないどころか、今はもっともっと強く、できる限り支えてやりたいと思う。けれど、今回ばかりはその過酷さを思うと不安でならない。そんな慈恩の前で、斗音は綺麗なカードを慣れた動作で開く。
「『卒業式の送辞にお前が間に合えば、可能性はある。こう言っちゃなんだけど、俺はお前に会長を継いで欲しい』」
「・・・・・・斗音・・・・・・」
 今井と氷室からのクリスマスカード。そこに何が書かれているかは、慈恩もよく知っている。慈恩宛の励ましの言葉も、綴られている。
「『俺はお前ならできると思ってる。お前に如月を託したい。これが俺の・・・如月の生徒会長としての、最後の願いだ』・・・・・・この言葉があったから、俺はこれまで治そうと思って頑張ることができた。俺だって、この一年・・・会長に就くことを考えなかったわけじゃない。今井さんと仕事しながら、色々教わってきたんだ。・・・・・・ほんとに、色々。だから、俺・・・選挙に出る」
 にこりと笑んで見せた斗音に、儚さはなかった。そして、慈恩にもクリスマスカードの文面を開いて見せる。
「慈恩にも、あるよ。選択肢が。・・・・・・慈恩は、どうするの?」
 慈恩は途方に暮れた。いろいろな物の狭間で板ばさみになって、身動きがとれなかった自分。今だって、自分のしたいことははっきりしている。斗音の傍にいたい。護りたい。それは変わらないのに、桜花にも大切なものができてしまった。彼らを切り捨てるのは、つらい。
『慈恩がもし、如月に帰ってくるつもりがあるのなら・・・・・・みんなが待ってる。お前がいてくれたら、これほど心強いことはないんだから』
(今井さん・・・・・・こんなところであなたのカリスマ性発揮しないで欲しい・・・・・・)
 一体どれだけの人間が、この強い言葉に逆らえるというのだろう。慈恩は長い指を、こめかみに当てて軽く押さえた。

「・・・・・・考えさせてくれ」

   ***

 事務所で巽の報告を聞き流しているかの如く、脇目も振らず、丁寧に銃の手入れを終えた安土は、手にしたものを立派なデスクの引き出しに片付け、鍵を掛けた。
「ふぅん・・・自白剤でも吐かなかったなら、本当に適当な売人から買ったのかもな。適当に売人知ってる時点で、今まで何回か道踏み外してるんだろうが・・・・・・」
 独り言のように言ってから、軽く舌打ちする。
「ルートに関わってるなら、芋づる式で潰してやれたのに」
 巽は思わず、その悔しさののぞいた表情に笑みをこぼしそうになって、慌てて顔を引き締める。こんな所で笑みでも浮かべようものなら、絶対にケチをつけられて叱り飛ばされる。ところが、どう見ても二十三、四の組長はじろりと上目で巽を射た。
「何がおかしい」
「えっ、いや、おかしくなんかないです・・・・・・!」
 慌てて否定するも、ふん、と鼻であしらわれた。
「表情筋が緩んでんだよ」
 本当に油断ならない。でも、巽にはまだ報告すべき事実が残っていた。
「すみません。それから、あの男ですが・・・ちょっと精神的にキているといいますか・・・ずっと妄想をつぶやいてるんです。たぶん、今の自分の状況すら、理解できていないでしょう」
 巽の言葉に、安土は少しだけ眉を上げた。
「へえ?なんて言ってる?」

「何、と言われても、ちょっと難しいんですが・・・・・・泣いてるのか笑ってるのかもよく分からないし、ただ・・・あの斗音、という少年のことを言ってるんだろう、ということしか」

   ***

 厳かな雰囲気の中、朗々と体育館内に響く、擦れた声。如月高等学校の、記念すべき第百回の卒業証書授与式。卒業生の前に立って、在校生代表で送辞を読み上げるのは、学校に復帰したばかりの、ほっそりした色白の少年。それを、全校の生徒は身じろぎもせず見入って、聞き入っていた。
「・・・先輩方が私たちの心に残してくださったものは、計り知れないほど大きな宝物です。この如月高校の伝統を引き継がれ、その重さをものともせず、更に発展させてこられた先輩方は、私たちの憧れであり、尊敬の的でした。特に、今年度の如月祭の大成功は、今井生徒会長初め、全ての先輩方の力と、アイデアの結晶でした・・・」
 静かで優しかった口調が、ふと止まる。あの、怒涛のように過ぎ去った日々の思いが胸に込み上げて、斗音はそれを押し殺すのに、数秒を要した。
 今井に弓削、武知、伊佐治。本当に頼もしかった執行部の先輩たち。如月祭で飛びまわっていた自分をフォローしてくれた徳本に、こんな病気持ちの自分を重宝してくれたバスケット部の先輩たち。団を力強く引っ張っていた近藤。・・・・・・そして、力尽きて倒れた自分に、不器用な手をそっと差し延べてくれた瓜生。
 脳裏に甦る、あの熱狂した熱い思いと、つらかった時に沢山たくさん支えてくれた人たちの温かさ。
「・・・あんなに充実した時間を・・・・・・先輩方と共有できたことは・・・本当に・・・幸せでした・・・」
(あ、ヤバイ・・・・・・)
 無理に続けようとしたものの、声がはっきりと震えるのを感じた。
「・・・・・・執行部の、一員と、して・・・それに、深く・・・関わることが・・・できたことも・・・・・・」
 そんな人たちとの別れ。それは、必然ではあるけれども。
(・・・・・・寂しい・・・・・・)
 ぱたり、と、送辞を綴った和紙が、零れた雫に濡れた。これではいけない、と斗音は自分を叱咤する。教師の間では、送辞はほぼ藤堂に内定していた。本来ならば副会長である斗音の仕事なのだが、それが無理であろうと判断されていたからだ。それが藤堂に告げられる直前に、斗音は執行部の顧問である伊藤先生に申し出た。自分にやらせて欲しい、と。今井の言葉に押されたからというだけではなく、この、卒業式という厳粛な行事で、三年生の残したものを引き継ぐ者の代表として、副会長として、最後の責務を果たしたかったのだ。
 斗音の震える声に、卒業生の幾人かがすすり泣きを始める。同じく熱い思いが胸を駆け巡っているのだろう。
「・・・・・・私は、本当に・・・本当に・・・・・・感謝しています・・・・・・」
 在校生代表だということはよく分かっていた。けれど、心配してくれた人たちに・・・もしかしたら、これっきり、二度と会えない人たちもいるかもしれない。その人たちに、伝えたいことが、あった。それを伝えるまでは、止まれない。涙の伝った跡を拭うこともなく、斗音は、すい、と顔を上げた。
「・・・インターハイの大事な場面で、発作を起こしてしまった時・・・先輩方は本当に温かく・・・こんな俺を、迎え入れてくださいました・・・。そして・・・途中から・・・体調を崩して・・・・・・執行部の仕事も満足にこなせずにいたのに・・・・・・それでも、いつも優しい言葉をかけてくださった今井会長・・・・・・執行部の先輩方。・・・どんな・・・・・・どんなお礼の言葉でも、この気持ちは・・・・・・言い表せないくらいです・・・」
 職員席の最前列・・・三年生担任として座っていた、礼服がちょっと窮屈そうな木下が、その隣の執行部顧問の伊藤にこそっと耳打ちする。
「あれ、こんな内容だったか?」
「いや・・・そんなこと、送辞には書いてないはずですけど」
 なるほど、と「プーさん」の愛称で親しまれる木下は、ヒゲ面でにんまり笑った。
「やっと帰ってきたなぁ、椎名」
 その意味ありげな笑みに、伊藤の方も納得気にうなずいて見せた。
「そうッスね。まさか、気管支喘息から悪性腫瘍に発展するとは思いませんでしたけど、卒業式までに復帰できてよかった。十一月下旬ごろから、やたら頻繁に体調を崩して休むから、何事かと思ったんですけど・・・」
「ほんとになぁ。俺、あんな危なっかしい奴、スタメンに使ってたんだな」
 苦笑する木下に、伊藤は肩をすくめる。
「それを言うなら僕もですけどね。でも、それでもあいつは使う価値ありでしょう?」
「もちろんだ」
「お二人とも。その椎名くんの、こんなに思いを込めた送辞を、聞き逃すおつもりですか?」
 一組担任の伊藤を、机の下からそっと小突いたのは、その隣に座っていた校長だった。その表情は大変穏やかで、その人柄を表すものだったが、言われた二人は慌てて襟を正した。
 何とか込み上げる感情を飲み込みながら、斗音は、卒業生一人一人の顔を目に焼き付けるように、視線を巡らせながら言葉を紡いだ。
「・・・こんな・・・・・・こんなに素敵な先輩方と、共に過ごせたことが・・・俺の・・・・・・いいえ、在校生全員の誇りです。全て自分たちの力で。・・・・・・そんなふうに引っ張ってくださった力強さも、その頼もしさも、私たちには本当に眩しくて・・・誇らしくて。・・・そんな先輩方の姿、決して忘れません。忘れることなんて、できるはずがない。・・・・・・こんなに素晴らしい先輩方と・・・お別れしなくてはならないことは、必然だと分かっていても・・・・・・俺は・・・・・・やっぱり、寂しい・・・・・・です・・・・・・」

 言うつもりもなかった本音が、思わず零れてしまい、再び込み上げたものに、言葉が遮られそうになる。その瞬間、近藤と目が合った。いかにも自信に満ちた笑みが、その客観的に見ると男前の顔に閃いた。瞬きの次に瞳に留まった徳本は、こともあろうに、目が合った瞬間に、影でぐっと親指を立てて、片目を瞑って笑った。瓜生は・・・・・・少しだけ笑みを見せたような気がしたが、そうと分かるか分からないかの内に、ふいと視線を逸らしてしまった。それは、実に瓜生らしい仕草だった。
 
そんな姿に、逆に斗音は、背を押された気がした。泣きそうな気持ちに、暖かさが混じって、広がる。震える息を全部吐き出して、次に大きく息を吸った。
「そんな先輩方の創り上げられたものを引き継ぐ責任は、とても大きくて重くて・・・でも、今それを思うと、身が引き締まるのを強く感じます。だからこそ、私たち、一人一人が、先輩方が如月高等学校で輝いてこられた姿を胸に刻み、この如月高等学校の歴史を、更に築き上げていく一員であることを誓います」

 弓削は涼やかな笑みで、武知は苦笑に近い表情で、斗音の視線に応えた。莉紗は、溢れる涙を必死にかわいらしいハンカチで押さえながら、何度もうなずいた。
 
この日のために髪を黒く染められた栃沢や、その取り巻きの志垣・佐藤とは、目が合わなかった。斗音の言葉に後悔の念が溢れて、それが涙となってとめどなく流れる彼らは、顔を上げていられなかったのだ。

 そんな様々な表情の卒業生に向かって、溢れんばかりの思いをこらえながら、以前よりずっと擦れた声で、斗音は優しく語りかけた。
「・・・・・・ですから、先輩方、どうか・・・・・・ご自分の道を、堂々と歩んでください。ここで培われた力は、きっとその道において、大きな支えとなるに違いありません。先輩方の輝ける未来を信じ、祝福し、そして精一杯の感謝の気持ちを込めて・・・・・・送辞の言葉と代えさせていただきます。今まで・・・本当に・・・・・・」
 これで最後。斗音の視界が一気にぼやける。
「・・・本当に・・・ありがとう、ございました・・・。・・・在校生代表、椎名斗音」
 ぱたたっ。礼をした瞬間にこぼれた涙の音が聞こえるかと思うほど、体育館の中は静まり返っていた。送辞の紙を折り畳み、そっと机上に置いて、斗音は白い手の甲でぐっと涙を拭った。その瞬間、割れんばかりの拍手が体育館を揺るがした。驚いて顔を上げた斗音は、一瞬戸惑うように視線を彷徨わせたが、その時、三年一組の出席番号二番として、最前列にいた今井が目に止まった。今井が少しだけ目を細めて、優しい笑みで力強くうなずくのに、ふわりと微笑んで小さくうなずき返し、改めて拍手を送ってくれた人々に対して深く一礼をした。
「卒業生、答辞。卒業生代表、今井文弥」
「はい」
 斗音が席に戻ると同時に呼ばれた今井が、重く静かに返事をして壇上に上がる。既にそこに待機していた校長に対して、丁寧に礼。答辞の紙を開く。
「春も間近に歩み寄り、木々も蓄えた力をいざ芽吹かせんとするこのよき日に、我々卒業生二百十名のために、このような盛大な卒業式を挙行していただき、感激の思いが込み上げてやみません」
 決まり文句のような言葉も、今井が感情を込めると、その言霊が胸に届くようだ。教師や来賓、保護者に宛てて、誠実さのこもった言葉を丁寧に織り上げていく。それを面と向かって聴く校長も、感動を呼び起こされているのだろう。何度も何度もうなずいている。
「これまで私たちを温かく見守り、育て、導いてくださった皆様。本当にありがとうございました。まだまだ未熟な私たちですが、ここでの経験を糧に、ここからはまた、それぞれの新たな人生に向かって進んでいきます。皆様の教えが、きっと私たちの原動力となるでしょう。私たちは、この如月高等学校を卒業したことを誇りに、生きていきます」
 一通りの感謝の思いや、今までの思い出を語った今井は、軽く一礼した。校長も、少し短かった答辞にやや焦りを見せながら、それでも落ち着いて礼を返した。今井が答辞の紙を片付けて、校長に丁寧に渡す。
(え?)
 その体育館にいた全員が、その次の今井の行動に目を瞠り、息を飲んだ。目の前にあったマイクをスタンドから取り外した今井は、くるりとステージから体育館の内側に身体を向けたのだ。
「・・・・・・何やってんだあいつ」
 思わずつぶやいた瓜生の隣に立っている近藤は、ふん、と笑った。
「ここからがあいつの答辞だろうよ」
 今までこの会場の荘厳さを身にまとっていたかのような今井に、晴れやかな笑みが満ちる。
「在校生のみんな・・・そして、代表の斗音。送辞、ありがとう!俺たちはその魂の言葉、確かに受け取った!」
 ざわ、と来賓席や保護者席がどよめく。そんなことお構いなしの今井に、職員席や卒業生の面々は、さもありなんと言わんばかりの苦笑。みんな、今井をよく知っている。今井が生徒会長になったときから、今年度の卒業式は何かが起こると予想していた。在校生からは、女の子たちのきゃあ、という小さな悲鳴から、おぉおっという男子生徒たちの野太い声が上がる。下級生の中で、この今井という人物の人柄を認めない者はない。褒められた話ではないが、女子生徒の中には、彼が莉紗と別れたと聞いて喜んだ者も少なくなかったという。
 斗音も、自分が送辞の文章をそっちのけにした分、予想しなかったことではなかったが、このおおっぴらなやり方が今井らしくて、思わずくすっと笑ってしまった。
「みんなとこの如月高校で過ごした時間は、俺たち卒業生にとってもかけがえのない宝物だ。俺自身、かなり破天荒なことやらかしてた自覚はある。こうやってみんなの前に立ったって、ろくに丁寧語も使いやしない。でも、これが俺だ。こんな俺を、生徒会長に選んでくれたみんな、本当にありがとう!おかげで俺は、最高の高校生活を送ることができた。そして、みんなとそれを分かち合えたこと。それが、どれだけ嬉しかったか。ありがとう。本当にありがとう!」
 在校生の中でもすすり泣きの声がこぼれ始める。
「みんながそれぞれ磨いてきた腕を、精一杯発揮したインターハイへの道。輝かしい地区大会の成績は、例年に勝るものだった。その上インターハイには、剣道団体ベスト8の快挙を成し遂げたのをはじめ、陸上・柔道・男子バスケット・男子テニスが出場した。これだって、三年間の努力を支えてくれた後輩がいてくれたからこそだ。現に、剣道の団体戦を引っ張ってくれていたのは、個人戦で全国三位になった二年生だった。俺たちはその献身的な支えを受けて、思う存分力を出し切ることができた」
 個人的な名前こそ出さなかったけれど、今井がこの場に存在しない剣道部の立役者をほのめかしたとき、斗音は息が止まるかと思った。この場にいなかったからこそ、敢えてその存在を示した今井の思いが、痛いほど伝わってきた。
(慈恩・・・!)
 胸がきゅっと締め付けられる。でも、それは、以前とは違う優しい痛み。心の底に、嬉しさが染みこんでいく。
「そして、忙しくて楽しくて楽しくて楽しくて、一日があっという間に過ぎていった如月祭。あんなに充実した日を、俺は初めて体験した。文化祭では一年生や二年生の出し物で、散々楽しませてもらった。本当にレベルの高い出し物ばかりで、来年が楽しみだと思った。ぜひ、今年最優秀を持っていったベルばらを超えるものを創り上げてくれ。それに、全身の細胞が沸騰するかというくらい盛り上がった体育祭。声を枯らした応援、全力を出し切った競技。全力で喜んで悔しがって・・・団席が一体になって。それもこれも、必死だった俺たちに、一生懸命応えてくれたみんながいたからだ。あんなに密度の濃い時間があった。ここに確かに、そんな時間が存在して、そんな思いが存在して。楽しかったな。それを、執行部を中心にして、自分たちの手で創り上げられたこと。・・・俺たちは本当に幸せだった!」
 すすり泣きから、嗚咽に変わる女子生徒も出始めた。男子生徒の中にも、押さえ切れない涙を拭う者が何人も見られる。卒業生ばかりではない。藤堂もこらえきれずに泣いている。
「如月に来てよかった。本当によかった。俺は欲張りだから、この母校の価値をもっともっと上げたいと願って、そのために精一杯を生徒会長として尽くしてきたつもりだ。ここにいる卒業生も、そして在校生も、みんなその思いに応えてくれた。そして、微々たるとはいえ、成果を残してきたつもりだ。だからこそ・・・・・・俺たちニ百十名が如月の歴史に刻んだものを、椎名副会長をはじめとする、在校生全員に託したい!」
 今度は個人的な名前を挙げられて、斗音は思わず大きく目を瞠って、それを瞬かせた。その瞬間に、在校生全体に視線を送っていた今井と、はっきりと視線が合う。今井の笑みが、力強くうなずいた。
「・・・・・・さっきの送辞を聴いて、託すことができると思った。強い確信だった。あんなに心を揺さぶられる送辞を聴いたのは、初めてだ。原稿なんかじゃない本当の思いを、この卒業式で聴けて嬉しかった。だから俺もそれに応えたいと思った。みんなに届いただろうか・・・。これが、俺の・・・俺たちの在校生への答辞だ!みんな、楽しい時間を本当に、本当にありがとう!卒業生代表、今井文弥!」

 最後まで力強く言い切って、深々と一礼した今井を、場内一斉の拍手喝采が包み込んだ。

   ***

「あ・のカリスマ性は反則だぜ」
 いかにも楽しそうに嵐が笑う。翔一郎もやや興奮気味で、ぎゅっと拳を握る。
「あんなに卒業式で感動したの、初めてだぜ、俺。背筋がぞくぞくしたもんな。中学の時に自分が卒業した時より、ずっと感動した」
 既に、日は傾いて来ている。卒業式の後は、予想通り卒業生にもみくちゃにされた彼らだったが、予想以上に人だかりを作ってしまったのは、斗音と今井だった。その後、生徒会執行部の面々は最後に、在校生の三人で企画したミニ謝恩会を行うということで、生徒会室に集まっていた。その斗音の帰りを待つつもりで、嵐と翔一郎と瞬は、近くのファミレスに来ていた。
「かっこいいよねぇ、今井さんは。でもさぁ、俺は斗音の送辞でも思わず泣けちゃったよ」
 泣けたといいながら、本当に嬉しそうな笑顔は、天使のそれと言っても過言ではない。
「あんなにつらい思いをしてきた斗音がさ。泣くのをこらえながら、一生懸命自分の言葉で言ってて。もうほんと泣けた」
 うなずく嵐と、くすっと笑う翔一郎。
「お前、マジ泣きしてたもんな」
 出席番号の都合上、瞬は翔一郎の後ろだったのだ。そんな翔一郎を、パフェのスプーンをぱくんと口に入れた状態で、瞬がじっと睨む。
「悪かったね、マジ泣きして。翔一郎だって人のこと言えないし」
「いや、だって、なあ・・・」
 困ったように短い前髪を掻き上げる。そんな翔一郎をフォローするように、嵐が割って入った。
「まあまあ。俺だってぐっと来るものがあったさ。その上で、あの今井さんの答辞。すげーよあの人。ていうか、うちの会長副会長コンビがすげーよ」
 嵐がこれほど絶賛するのは珍しい。それだけ心を動かされたのだろう。だが、それで終わらないのが、外見以上に常人離れしている嵐である。頼んでいたコーヒーを一度口に運んでほっと一息ついてから、その灰色がかった瞳に鋭い洞察の光が宿る。
「今井さんは、斗音が会長に出ること・・・知ってるよな、もちろん。役者だぜ。感動させながら、不利だった斗音の印象、きっちり拭ってくれた」
 翔一郎が少し目を細めて笑みを浮かべる。
「そうだな。ま、今は全校のほとんどが、斗音が体調を崩して休み始めた理由を、気管腫瘍だったためっていうの、分かってるんだけど・・・・・・やっぱ、身体が弱くていつ休むかわかんないっていうのはいい印象じゃ、ないからな」
「それを補うだけの器があるって、アピールしてくれたんだね」
 とろける生クリームのように、ふんわりと瞬が微笑む。翔一郎と嵐は顔を見合わせて、思わず肩をすくめた。
「お前はほんとに、パフェが似合うね」
「斗音と並んでパフェ食ってたら、さぞ見目麗しい光景だろうな」
「・・・・・・・・・・・・」
 言われた瞬は、せっかくの笑顔を引っ込めたが、しばし無言で考えたあと、いきなりテーブルに設置されたコールボタンを押した。
「?」
「どうした、瞬?」
 如月バスケット部を支える部長とエースが首をかしげる中、そそくさと駆けつけてきたウエイトレスに、瞬はパフェより甘い笑顔で追加注文する。
「あのね、チャレンジパフェに、この二人が挑戦したいんだって」
「えっ」
「なっ」
 目を見開いた二人が抗議するより早く、店員は嬉しそうに伝票に注文を追加して、少々お待ちください、と笑顔を残して去っていった。
「・・・・・・な・・・んで、チャレンジ?」
 恐る恐る聞いた翔一郎に、瞬は再びにっこり。
「斗音待ってる間、暇だし?いい男二人が並んで、でっかいパフェにかじりついてる光景も、面白いんじゃないかと思って」
 思わず翔一郎が、隣の嵐を肘でつつく。嵐も、しまったという表情を隠しきれない。
「悪い、不用意だった」
 自分のセリフが、瞬を天邪鬼な行動に駆り立てたことは、疑いない。翔一郎が、更に縋るような目を向ける。
「俺、あんま甘いの得意じゃないんだけど」
「偶然だな、俺もだ」
「ふふっ、楽しみだね♪どんなのがくるのかなぁ」

 無邪気とは言いがたい瞬の天使の笑みに、バスケ部の主将と副主将は、げんなりと肩を落とした。

 とけかけた大量のアイスクリームに、たっぷり飾り付けられた生クリームも崩れかけ、突き立てられたフルーツのいくつかはなくなっているものの。
「・・・・・・・・・・・・何、この惨状は」
 その巨大なパフェの前に討ち死に状態の、イケメン高校生二人。
「・・・・・・よぉ、斗音。あとは・・・頼んだ・・・・・・」
「・・・も、俺、ダメ・・・・・・・・・」
「斗音!待ってたよ。この二人が潰れちゃって、暇でさ」
 その前に、女の子でもそうそう敵わないような、それはそれはかわいらしいスマイル。何となく状況は察したものの、思わずこぼした。
「何を言われたのかは知らないけど、この二人にこのパフェはないだろ」
「ん~、まあ、細かいことはいいじゃん。食べかけで悪いけどさ、よかったら一緒につつかない?もったいないっしょ?」
 ほら、とスプーンを差し出されて、斗音は瞬の隣に腰を下ろし、スプーンを受け取る。
「そこの二人も。まだ全然食べてないじゃん。とけちゃうよ」
 瞬の誘いに、何とか身体を起こした嵐は青い溜息を返す。
「無理」
 突っ伏したままの翔一郎は、歯切れの悪いこもった声で呻いた。
「せめてコーンフレークが出てきたらにしてくれ」
 斗音は、昼食をかねていたはずのミニ謝恩会で、準備していたジュースを少し口にした程度だったので、空腹といえば空腹だったのだが。
「・・・・・・胸が一杯で食べられない?」
 うかがうような言葉に、はっと目を向ける。笑みを含んだ視線は、淡紫色の髪の友人。
「・・・嵐・・・・・・」
「今日の答辞、お前へのメッセージが含まれてたろ。今井さんは、お前を応援するつもりでいるんじゃないのか?」
 相変わらずの鋭さに、斗音は諦めたように笑った。彼に隠し事は、するだけ無駄。そんなことは、嫌というほど分かっている。
「そう、言ってくれてる。もちろん、謝恩会では藤堂もいたし、おおっぴらにはそんな話してないけど」
 少しはにかむような笑みが、細面の綺麗な顔にふわりと浮かぶ。ミニ謝恩会での今井の姿が、斗音の記憶を優しくくすぐる。
「慈恩が抜けて、あの卓越した力を補って進めてくるのは、本当に大変だったと思う。だけど、斗音は倒れるまで無理をしながら、俺たちを支えてくれた。斗音が倒れてからは、藤堂。そして、氷室。二人が、本当によくフォローしてくれた。ありがとう。卒業式の大役も果たしたことだし、俺としては、もう思い残すことはない」
 そう、みんなの前で、全てを包み込むような笑みを見せた。泣きっぱなしの藤堂と、涙の一つも見せずにクールな態度を崩さなかった氷室。斗音は・・・・・・送辞で抑え込んだ思いを、今度は抑えなかった。
「斗音と藤堂が、会長に立候補するんだから、如月生徒会執行部も安泰だな。どっちが会長になっても、もう一人が執行部員の一人になって、会長を支えてくれればいいと思う。弓削や莉紗みたいに」
 くすっと笑ったのは、弓削と莉紗だった。この二人は、一年前に今井と会長の座を懸けて、選挙戦を戦った間柄だった。今井が出るというのは分かっていたけれど、会長が信任投票では、その責任の重さが変わってしまうという理由で、敢えて対抗馬に立った二人だった。この二人を落選させた責任を、今井が背負っていくために。
「俺はここにいられてよかったと思ってるよ。最初から負ける気で立候補したわけじゃないから、選挙で今井に負けたのは悔しかったけど、でも、今井とやってこられて、やっぱこいつは会長の器だったと思ったし、何より楽しかったから」
「私は紅一点ってところで票の獲得を狙ったんだけど、男女どっちにも人気の高い文弥くんには、やっぱり敵わなかった。つらいこともあったけど、やっぱり楽しかったわ。藤堂くん、斗音くん、氷室くん・・・それに、慈恩くんとも一緒に仕事ができて、嬉しかった。だから、二人とも・・・きっと執行部を支えていく一員になってね」
 まだ莉紗の目は潤んでいる。卒業式で散々泣いて、みんなで写真を撮るときに散々苦労したのだが、感情がまた昂ぶっているのだろう。それを見て、藤堂がまた隠すこともなく涙を流す。
「俺、小学校も中学校も、ずっと会長やってきて、高校でも・・・って当たり前に考えてたんです。けど、ここの執行部は、やってることも何もかも、全然レベルが違ってて・・・・・・先輩みんなが、俺の目標でした。ほんと俺楽しくて・・・だから、やっぱり高校でも会長やりたいって、改めて思って」
 涙を拭って、てへっと照れ笑いをする。
「斗音が相手だったら、勝ちたいけど、でも負けても悔しくないっス。俺、こいつがどれだけ頑張れる奴か、知ってるっスから」
 その人懐っこい笑みに、みんなが苦笑しながら、頑張れ、と声を掛ける。莉紗が自分のハンカチでその涙を押さえてくれたのに、真っ赤になって、更にからかわれる。
「・・・・・・副会長も、なんか言ったらどうです?」
 笑わない唯一の後輩が、チラッと斗音を見下ろす。一番年下なのに、このメンバーの中で一番背の高い氷室は、視線の高さを合わせるなんてことはしないので、大体見下ろされる羽目になる。斗音は目尻にたまる涙を、そっと指で拭って微笑んだ。
「俺、言いたいことは送辞で言ったつもりだから」
「な~に遠慮してんだ」
 全く別のところから、頭をわしゃわしゃと乱されて、斗音は慌てる。
「た、武知先輩・・・」
 そのまま肩を力強く引き寄せられた。振り返るより前に、強面がにやっと笑いながらのぞき込んでくる。
「お前にはな、頑張れよ、なんて言ってやらねえぞ。お前はそんなこと言わなくても頑張りすぎるからな。どの道執行部に関わるつもりなら、お前はもうちょっと自分を大事にしろ。それくらいで十分だ」
 大きな茶色の瞳を瞬かせて、斗音は思わず言葉に詰まる。
「いや、でも俺は・・・・・・」
 続けようと、思い切って顔を上げた瞬間、今日でその役目を終えた生徒会長の真摯な視線にぶつかった。
「迷惑掛けた、なんて、この後に及んで言うんじゃないぞ、斗音」
「・・・・・・・・・・・・」
 ズバリ言い当てられて、言葉を取り上げられてしまう。
「俺は、副会長にお前を指名したこと、一片たりとも後悔してない。お前でよかった、斗音。この大変な仕事、受けてくれて嬉しかった」
 ニッと笑みを載せる。その笑顔に、斗音の涙が思わずこぼれる。武知の手が離れた肩を、今度は今井が正面から強く抱き寄せた。
「最高の相棒だったよ、お前は」
 まだ回復しきらない身体が折れそうなくらい、その力は強くて、耳元で囁かれた言葉の熱さと優しさが、身体中に流れて、斗音はなす術なくその腕に包まれたまま、込み上げてくる思いを涙に託すばかりだった。
 目の前でとろりととけていくアイスクリームを見るともなしに、斗音はぼんやり目に映す。
「・・・・・・正直、選挙に出るって決めてから、それでも・・・・・・体調の不安も、俺に務まるのかっていう不安も、選挙で勝てるのかっていう不安もあって、その上現執行部に散々迷惑掛けたっていう負い目があって。だけど、そういうもの、みんな全部どうでもいいって思わせてくれるような・・・そんな感じだった。俺たちが開いた会だったのに、結局励まされたのは俺たちでさ。やっぱり、みんな最高の先輩たちだったなって」
 少し目を潤ませて話す斗音を、三人は優しく見守る。如月祭で見せた精神的な不安定さは、今の斗音にはあまり見られない。本当に心を動かされたその様子は、三人にとってはとても心温まるものだった。
 その三人の柔らかな視線を感じたのか、斗音は白い手の甲でごしごしと目をこすって、ニコッと笑った。
「さあ、じゃあみんなでパフェ食べようか。さすがにこれを残したら、バチが当たるよ」
「りょーかい!」
 元気よくスプーンを構えたのは瞬だけで、あとの二人は再び突きつけられた現実に、うっと言葉を詰まらせてしまった。

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五十三.たくさんの想い

 大晦日は大掃除、正月は初稽古に寒稽古、色々せわしいねん。
 それはもう残念そうな顔をして、隼はせわしく東京を発っていった。翔一郎と瞬が二回目の見舞いに来た日の午後だった。
 
隼は東京にいた三日間、実によく動いた。二十五日は雪で来られないと連絡してきた沢村に
「俺やっとくさかい、かまへんで。あ、そんでな、俺慈恩と斗音の友達やねんけど、今日から二人、しばらく島根のうちに来はるんや。せやから、クリスマスと大晦日と正月、ゆっくりうちで過ごしてや。また来てほしなったら、前もって連絡するさかい」
などと、口からでまかせとはいえ、上手く嘘八百を並べて牽制し、しっかり布団を干して片付け、みんなで使った居間の掃除をし、あの信じられないほど煙草の煙を吸い込んでしまっていた部屋にも徹底的にてこ入れをした。無理矢理カーテンもシーツも毛布も洗い、消臭剤をかけまくってソファやベッド、カーペットまでも馬鹿力で外へ運び出して干し、寒風も何のその、部屋の窓を開け放って空気を入れ替え、バリバリと掃除機を掛けた。やにでうっすら茶色くなっていた壁紙までも、沢村が掃除に使っていたらしい天然素材の強力クリーナーを使って、綺麗な白に戻した。まず、それを一日でやり終えたのだから、大したものだ。ただし、午後に迎えに来た近衛とその運転手は、思い切りこき使われたのだが。
 正直そういうことにあまり慣れない近衛は、午後だけでとことん疲れ果ててしまったのだが、その上連れ帰ってきた隼は、夕食の前に稽古をしないと身体がなまると言い張った。無理矢理近衛の家に設けられている、この家のたった一人の息子のための、小さいとはいえちゃんとした道場に引っ張っていき、地獄の稽古を味わわせてくれたのである。やっぱりこいつは化け物なのだ、と、近衛は心の底から実感させられたのだった。
 翌日は斗音の意識が戻ったと聞いたが、まだ少し不安定で会える状態ではないということだったので、隼は潔く諦めた。そして、せめて一目、意識の戻った斗音に会って帰りたい、ということで、二日目は世話になっているからといって近衛家の道場をぴかぴかに磨き上げた。(しかも、また近衛を巻き込んだ。)
「あらまあ・・・・・・お客様にこんなに綺麗にしていただいてしまって」
 ふふふっ、とあくまで上品に微笑んで、近衛の母は何気に喜んでいた。
「悠大さんに素敵なお友達が増えて、本当に頼もしいこと」
「他人事だと思っておられませんか?」
 床にへたり込んで、死ぬ思いで恨めしげに母を見上げると、隼はにこぉっと微笑んだ。
「ほんま綺麗なおふくろさんやなあ。俺、どこぞの美人演歌歌手がきはったかと思たわ」
 からからとお世辞にも聞こえる本音をさらりと言う。そして、目をキラキラ輝かせながら近衛の手を引っ張った。
「ほしたら、昼までまんだ時間あるさかい、軽く竹刀だけでも振ろか」
(凡人を怪物と同等に扱うなよ!)
 そう心で叫んだ近衛だったが、自分の三倍はよく動いて道場の掃除をした隼の前で、弱音は吐けなかった。結局昼食をとってからも、しごきかと思える隼の普段の練習につき合わされ、シャワーを浴びて部屋で死んでいると、更に使った道場を磨き上げてきた隼が笑顔でこう言った。
「なあ、明日は斗音と慈恩の見舞い行って、さすがに実家帰らなあかんし、見舞いと土産こうときたいんやけど・・・・・・東京、案内してくれへんやろか?」
 げ、と青ざめた近衛が、思わず首だけ隼に向けた。
「明日の午前中に行って買えばいいだろ?」
 冬にも関わらず汗に濡れた短い髪を、隼はうーんと唸って掻き上げる。
「せやけど、それやと明日の稽古どないするん?俺、新幹線でも島根まで結構掛かるさかい、午前中にやっとかんと、午後は無理やで?」
 あくまで自分の計画で進めようとする隼に、近衛は力尽きて天井を仰いだ。
「・・・・・・分かったよ。もう、好きにしろって・・・・・・」
「おおきに!したら、最速でシャワー浴びるさかいな!」
 きっと満面の笑顔で言っているのだろうが、それを見る気はとてもおきなかった。とりあえず、一言だけぼやいておく。
「いや・・・・・・ぜひゆっくり浴びてくれ」
 もう、隼相手に仮面をかぶるなんて、そんな気も起きなくなっていた。・・・・・・実質近衛が隼と共にした時間は二日ほどだったが、まさしく嵐が駆け抜けたかのようなせわしさだった。
「・・・・・・お前、痩せたか?」
 見舞いに行って聞いた慈恩の第一声がそれだったのだから、どれほどしごかれ、こき使われていたのかがうかがえるというものだ。
 それはともかくとして、近衛は意識のある斗音を初めて見た。あの夜、雪の中で見た姿よりは、かなり生気を取り戻しているようだった。日本人としては、かなり薄い茶色の瞳がとても綺麗で、印象的だった。
「斗音!よかったわぁ、ほんま。ずっとお前に会いたかってんけど、かんにんな。なかなかチャンスがのうて・・・」
 切なくも明るく振舞う隼に、小さな花がほころぶように微笑むのが、綺麗だと思った。声を出してはいけないらしく、小さな手振りと頭の動きだけで、一生懸命意思の疎通を図ろうとしていた。
「何ていうか・・・・・・すごい儚げな美人だな」
 とても柔らかそうなソファーに、身体の負担にならないような姿勢で掛けている慈恩が、その言葉に少しだけ笑った。
(そう言えば、慈恩を見てそう思ったこともあったっけ)
 その「美」は少々異なった類のものかもしれないけれど、さすが兄弟だと思う。その兄の方が、その頼りなさげな視線を近衛に向けた。小さく首を縦に振ったのは、会釈だろうか。
「桜花剣道部主将の近衛悠大だよ。あっちの学校では、一番の友達だ」
 そう慈恩が口添えしてくれたのが嬉しかった。綺麗な薄茶の瞳が瞬いて、ふわりと笑みが咲く。軽く目を伏せるようにして、唇が何か言葉を刻む。
「どないした、斗音?・・・・・・慈恩が、お世話になってます・・・・・・?」
 隼の解説に、近衛は思わずかぶりを振った。
「とんでもない。世話になってるのは、俺たちの方だ」
 初対面の相手にも関わらず、なぜか自分を表面的に飾ろうとは思わなかった。隼も慈恩も、既に自分の素顔を知っているし、他人だといって遠ざけておく気が全く起きなかったのだ。
「あの・・・・・・俺はよく事情を知らないんだけど・・・・・・大変だったな。・・・・・・何ていうか、その・・・・・・慈恩が心配するから・・・・・・早くよく、なってくれよ」
 透き通るガラスのような瞳に見つめられて、思わずしどろもどろになってしまった近衛だったが、隼の「初恋の相手」というのもうなずけない話ではない、と感じた。こくり、とうなずいたこの少年を女の子だと思い込んだとしたら、相当な美少女に見えるだろう。
 見舞いに持ってきた、かごに盛り合わされた果物の中から、冬にも関わらずよく熟した桃を一つ取り上げ、隼が器用に皮を剥く。慈恩が出してくれた皿に切った実を載せ、更に一番甘いところを細かく削いだ。それをそっと斗音の口に含ませてやる。斗音は少し驚いたようだったが、微かに口を動かしてからにっこり微笑んだ。
「甘いやろ?これ、めっちゃええ桃なんやで。悠大がな、ほんま目玉飛び出すほどのお坊ちゃまやねん。店で一番ええ果物ばっかぽーんとこうてまうから、俺なんか心臓止まるか思たわ」
 くすくすと笑う兄弟に思わず耳が熱くなる。隼をたしなめた。
「お前ね、人に送るものの値段とか、言わねえから、普通」
「値段はゆうてへん。さすがにそこまでアホやないて」
 自信満々に言う隼の頭を、思わずぺし、とたたいてしまった。
「言ってんのと大差ないっ!」
「え、そうか?お前、えらい細かいやっちゃなぁ」

 はたかれた頭を撫でながら嘆く隼に、近衛は脱力し、慈恩と斗音は声に出さないものの、更に身体を抱えるようにして笑っていた。

   ***

 その日に東京を離れたのは、隼だけではなかった。
「年末年始ってのは、普通故郷で過ごすもんだろう」
 斗音が入院してから二日目以降は、慈恩のために個室の隅にもう一つベッドを入れてあった。そこで深い黒のスーツをまとい、長い脚を組んだ安土が、膝の上で肘を付く。斗音のベッド脇でたたずむ嵐は、何を言うでもなく、「Jion」の頭をぼんやり撫でていた。
「明日珍しい症例のオペがあるんです。その経過観察から全て、研修に行ったドクターたちと研究していたんですから、オペに参加できなければ、何のためにドイツに行っていたのか分からないでしょう」
 拓海と安土のそんな会話を聞きながら、慈恩は少し不思議な気持ちで嵐を見つめた。まさか拓海が日本に長期間いなかったなどと、考えたこともなかったのだが、似たようなシチュエーションを例えにして嵐と会話したことがあった。その時の嵐の様子に、やや違和感を覚えた記憶があった。
「まあ、俺としては目的を果たせたわけだが、それでもゆっくり一緒に飯くらい食いたかったな」
「目的?」
 ふと気に留めたように、嵐が安土を振り返る。安土はきりりと形のいい眉を軽く上げた。
「言ったろ?クリスマスにプレゼントやるって」
「俺はプレゼントだったんですか?」
 呆れたように、それでも静かな雰囲気を壊さない医者が、思わず問い返す。安土はにやりと笑った。
「クリスマスに帰って来い、なんつったら、お前がそれに気づかないはずないだろう?」
「それどころじゃなかったですよ。何が何でも二十四日までに帰って来なかったら、嵐を・・・ひどい目に遭わせてやると脅迫されて」
 斗音たちを気にしたらしい拓海は、一瞬言葉を選ぶ。その気遣いを暴力団組長はさらりと流した。
「俺はそんな生ぬるいこと言ってねえぞ。監禁して」
「黙れこのサド男」
 非難の塊が声となって安土の言葉を遮る。嵐の眼光は鋭い。
「てめえ、またそうやって滝さんの仕事、邪魔したのかよ」
「またとは聞き捨てならんな。ドイツから呼び戻したのは初めてだろうが」
「まあ・・・・・・しばらく患者の容態も安定していて、特に俺が必要だったわけじゃない。結果的には斗音のオペをすることもできたんだから、一概に間違っていたとも言えませんが」
 苦笑すら魅入られるほど美しい拓海が、嵐をなだめて安土を立てる。とても大人の対応だ。それでも嵐は眉根を寄せる。
「俺を下品なだしに使ったのが気に食わねえ」
 はっ、と安土が笑みを吐き出す。
「お前以外のどんな餌に、この堅物が喰い付くってんだ」
「餌、というより脅しでしょう」
 仕方なさそうに吐息して安土を諫める滝は、下手をすれば童顔の美丈夫より大人に見える。この落ち着きぶりで十九歳というのが、むしろ嘘である。
 不意に一人掛けのソファから立ち上がっていた慈恩の指に、細い指が弱々しく絡まる。
「?」
 身体をこちらに向けて横たわる斗音が、枕元のメモ帳を指す。なかなかジェスチャーで伝えることのできない言葉を、斗音は筆談で補うようにしていた。力が入らないためあまりに弱々しい字は、視力に不便を感じたことのない慈恩でも読みづらい。一番上の紙を破り取る。
「・・・・・・斗音」
 その意志を確認すると、白い顔が浅くうなずく。
「いいじゃねえか。餌だろうが脅しだろうが、お前にとっても最高のクリスマスプレゼントだろう」
「その心遣いだけはありがたく頂いておきます」
 だけとは何だ、と東洋医学の天才が反駁するのに、慈恩はようやく口を挟んだ。
「あの」
 大人二人(に見えるが、あくまで片方は十九歳)が、言い合いをとめて慈恩を見る。会話を遮ったことに対する不快感を二人が(特に暴力団の現役組長が)全く感じていなさそうなことに、慈恩はとりあえずほっとした。白い紙切れを握り締める。
「あの、斗音が・・・・・・滝先生に申し訳なかったって・・・・・・本当なら嵐や斯波さんと素敵なクリスマスを、送るはずだったのに・・・つきっきりにさせてしまって・・・・・・」
 慈恩の声は白くてこぎれいな部屋に、妙に響いた。拓海は柳眉を軽く上げた。そして、シーツを目のすぐ下までかぶってうずくまる斗音を包み込むように、穏やかに微笑んだ。
「・・・・・・お前が今生きてここにいる。それで嵐が救われている。・・・・・・俺にその手助けができたのなら、俺はそれでいい」
 一瞬、嵐の端正な顔に切なさが色濃く浮かんだ。長い睫毛がそっと伏せられる。慈恩はその言葉が意図する想いと微笑みの美しさに、思わず溜息をつきそうになった。
(何てできた人だろう。それに・・・・・・ほんとに嵐のこと・・・・・・)
 斗音の薄茶の瞳が瞬時に潤んだ。少し伸びて柔らかく流れるアッシュの髪を、拓海は優しく撫でた。
「気遣ってくれて・・・・・・ありがとう」

 きゅ、と閉じられたまなじりから、一粒雫がすべり落ちた。

   ***

 意外な見舞い客も、斗音の病室に訪れた。慈恩は既に入院の対象から外れていたが、斗音の傍を離れる気は全くなかったため、病院に泊まりこんでいた。九条の両親には、近衛の家に泊まりこんで剣道の練習をしている、などと取り繕って、詳しい話はしていなかった。のだが。
 淡い薄紅色のアンゴラの、襟元がゆるいタートルセーターに、やや光沢を帯びた濃いダージリンティーの色の上品なフレアスカートがよく似合う絢音と、くすんだ赤ワインの色のシャツに薄いベージュのカーディガン、黒のジーンズを合わせた雅成が、綺麗で豪華な花束と、高級洋菓子店で通った店の名のロゴが入ったケーキの箱を持ってやってきたのは、大晦日を三日後に控えた寒い日だった。
「お父さん・・・お母・・・さん・・・・・・なぜ・・・・・・?」
 驚愕に目を見開く慈恩に、絢音は痛々しいほど赤く泣きはらした目を潤ませた。
「・・・・・・近衛さまに・・・・・・お聞きしたの」
 それだけ言って、視線を落とした。
「・・・・・・斗音さん、これ・・・おいしいって・・・・・・有名な・・・ケーキなんです・・・・・・どうか・・・・・・受け取って・・・」
 斗音をまともに見ることができず、声を詰まらせながら丁寧に大きな箱を差し出す。はたはたと涙が床で弾けた。斗音の困惑したような視線が、慈恩に縋る。慈恩がその箱を受け取った。雅成が絢音を支えるように、その華奢な肩を抱く。
「すまない、悠大くんから事情を聞いて・・・・・・」
 深々と頭を下げる。絢音も肩を抱かれたまま、夫に習った。斗音が綺麗な眉を寄せて、息を飲む。
「本当にすまなかった!僕たちが君たちに関わりさえしなければ、こんなことにはならなかった。・・・・・・許して欲しいなんて、言わない。言えない。ただ・・・・・・せめて、謝らせて欲しくて、恥を忍んできたんだ」
 少しだけ顔を上げて、雅成は斗音を見つめた。そして再び頭を下げる。
「申し訳ない・・・・・・本当に・・・・・・本当にごめん・・・・・・ごめん・・・・・・」

 ごめんなさい、と泣き崩れた絢音に付き添うようにして花束を脇に置いた雅成も、膝を折った。
 
斗音の手が慈恩のシャツを引っ張る。振り返ると、怯えたように斗音が表情を強張らせていた。涙ぐんだ瞳で、弱く首を横に振る。その意を悟って、慈恩はケーキの箱を棚に置き、土下座をしようとする雅成の肩を押しとどめた。
「やめてください。俺も斗音も、こんなこと望んでません」
「それでも通さなければならないこともある!」
「これ以上斗音が傷つくことをしないで下さいと言っているんです!」
 はっと顔を上げた雅成に、一喝した慈恩はそっと息をついた。
「あなたたちは、俺たちに精一杯尽くしてくれようとしていた。そんなこと、俺も斗音もよく分かっています。・・・・・・そんなふうに、頭を下げないで下さい」
 ごくり、と雅成の喉が動く。そして、深く溜息をついた。
「・・・・・・君は、本当に・・・・・・僕たちには出来過ぎた子だ。・・・・・・絢音、この花を生けてくれないか」
 花束を押し付けると、絢音は力なくうなずいた。彼女が足取り重く部屋を出て行くのを見届けてから、雅成はゆっくり立ち上がった。慈恩に勧められるままに、見舞い客用の長いすに腰掛ける。
「・・・・・・ほとんど連絡らしい連絡も入れずに、君が帰って来なくなるなんて、おかしいと思ったんだ。それで悠大くんと連絡を取った・・・・・・」
 それから雅成は、ぽつぽつと近衛に聞いたことを話し始めた。途中、どこから手に入れたのか、立派な花瓶に美しく花を生けた絢音が入ってきて、雅成の隣にそっと座った。
 近衛家に連絡を入れるより先に、悠大本人なら慈恩の事情を知っているのではないか、と判断した雅成が、何とか彼に連絡をつけることができたのは、昨日だった。隼を東京駅まで送って行った近衛は、その足で雅成と絢音に会いに来てくれた。もちろん、近衛は詳しい事情を知らない。見たままのことと、現在斗音と慈恩が病院にいること。それを伝えた。慈恩のことをひどく心配する両親に、隠しておくべきではないと判断したのだろう。それは雅成にも慈恩にも、想像できた。どのみち隠し通せることでもない、と慈恩は思っていたので、近衛の判断を特に恨むこともなかった。
 近衛には分からなくても、近衛の見た事情から、九条夫妻はある程度何が起こったのか理解できた。やたら自分たちを斗音に会わせまいと、遠ざけるような言動をとっていた三神に、さすがに不審を感じ始めていたからだ。三神が斗音に何をしたのかまでは見通せなかったにしろ、彼が暴れて慈恩を傷つけ、如月の友人を傷つけ、近衛を襲おうとした。九条で絢音に仕えていた彼との相違を思えば、斗音を命の危機に追いやった原因がこの男にあったことは、容易に想像できた。
「三神は自分の仕事に傷を付けたことを隠しておきたかったんだろう。それを九条家に知られたら、確実に仕事を失うんだ。けれど、それが斗音くんの命を危険に晒してしまった。僕たちは本当に甘かった。三神の連絡が途切れがちになったときに、おかしいと思ったのに・・・・・・もっと早くに、どうして行動しなかったのか、悔やんでも悔やみきれない。これほどの後悔を、僕は初めて味わった」
 そう言って頭を垂れる雅成を、慈恩と斗音は顔を見合わせてから見つめた。九条夫妻にはそれ以上深いことを知らずにいてもらいたかった。彼らに罪はない。彼らは、ただただ、自分たちの幸せを必死につかもうとしただけなのだ。ただでさえつらい思いをしてきたこの夫婦に、これ以上つらい思いをして欲しくはなかった。
「斗音さん・・・・・・病院での、費用の方は・・・・・・私たちに・・・・・・任せて、頂けるかしら・・・・・・。私たち・・・・・・本当に情けないことですけど・・・・・・少しでも、あなたの親代わりで、ありたいんです・・・・・・」

 蚊の泣くような声で絢音が申し出た。これに対しても、二人は顔を見合わせた。この申し出をしてきたのは、九条夫妻が初めてではなかったのだ。とりあえず安土は、自分が施した治療に関して「本人や身内の承諾なく勝手にやったこと」だからと言い張り、本気で治療費を請求する気なら、かなりの金額になろうというところを、「百パーセント引き」のサービスにしてくれたし、その上病院での治療費も自分が払うと、拓海にそれこそ勝手に話をつけようとした。さすがにそれは困る、と慈恩が口を挟み、何とかそれを阻止した。保険証では雅成が斗音を扶養していることにしてあったため、どのみち九条の世話になっていることに変わりなかったが、手術だけでもかなりの実費が必要であった。もちろん、椎名家の財産でまかなえないことはなかったが、それに関してはありがたく申し出を受けることにした。実際、そうすることでどちらも救われるのなら、それに越したことはなかった。費用の負担を受け入れてもらえた九条夫妻は、少しだけ顔を上げて帰宅することができたのだ。

   ***

「たくさんの人が来てくれたのはありがたいけど、大丈夫か?疲れてないか?」
 微かに聞こえる優しい低い声は、どれだけ兄を心配しているのかが滲んでいた。斗音はそっと微笑んで、うなずいたに違いない。
「今日はもう休んだ方がいい。点滴は終わったら外しておくから」

 まだ点滴もしているのだ。自分が行ったことでまた心労を重ねさせるわけにはいかない。その思いが、病室の扉をノックさせることをとどまらせた。そのまま病院をあとにする。
 
空を見上げると、深い藍色の中に散りばめられたように細かい光の粒がくっきりと輝いている。早く帰らなければ、また放射冷却で道が凍るだろう。雪もとけきらないのだから。
「・・・・・・生きていてくれればいい。・・・・・・いつでも、会える」
 声に出すつもりもなくつぶやく口元からは、白い息がくっきり零れた。

 不意に外で聞き慣れたバイクのエンジン音が聞こえた気がして、眠りにつく狭間の意識で、斗音はうっすら開いた視界に、窓の外の景色を求めた。
(・・・・・・あの、音は・・・・・・)
 五階の窓に自分の求めた景色が映るはずもなく、それ以上意識を保つこともできなかった。
(・・・・・・来るはず・・・ないか・・・・・・)
「・・・・・・斗音?」

 一瞬外を気にしたように見えた兄に、ふと慈恩が気を留めたときには、斗音の意識は眠りの淵へ滑り落ちていた。

   ***

 年末年始を病院で迎えた斗音と慈恩には、毎日のように客が訪れた。一番頻繁に訪れたのは嵐で、必ず一日に一度は顔を出した。忙しいに違いないのにそうは見せずに、毎日斗音と慈恩の様子を自分の目で確認して、拓海に報告していた。そして、拓海からの指示を医者に伝えたり、慈恩たちに教えたりした。
「ずいぶん顔色がよくなってるから、できるなら動いたほうがいいって。でないと、急激に筋力が衰えちまったりするし。散歩するくらいなら外に出ても構わないってさ」
 年が明けて三日もした頃に嵐がそう言ったときは、斗音の顔が輝いた。
「そうなのか?十日ほど前に手術したばっかりなのに?」
 驚いた慈恩だったが、嵐は整った顔に自信ありげに笑みを浮かべる。
「最近では癌の手術した翌日に動けっていう医者だっている。まあ、特に高齢者がそうなんだけど、寝てる間に弱っちまったりもするんだ。斗音の場合はそれ以上に動く体力すら残ってなかったから、それを充電しなきゃならなかっただけで、十日も寝たきりの方が珍しいくらいだ」
「最近は結構動き回ったりしてんだけどな」
 苦笑する慈恩に、斗音は小さく舌を出した。体力が回復するにつれて、じっとしているのがむしろつらくなってきていた斗音は、自分の足でふらふら売店まで行ったりフロントまで出歩いたりして退屈しのぎをしていた。入院に慣れているので、どんなところで何ができるかは大体分かっているのだ。
 だって、ここすごく色々充実してるんだよ。
 声を出さずにそう唇で紡いで、文庫本や珍しい種類の紅茶の包みを見せた。こんなものまであるのだ、と言いたかったらしい。嵐は何だか誇らしげにうなずいた。
「あんまり動いちゃ駄目だろうって、九条のお父さんが携帯ゲーム機を見舞いに持ってきてくれるくらいに、徘徊してたからな」
 二日くらいは携帯ゲームも楽しんでいたが、やはり動きたかったらしい。各階に設置されているシャワー室にも最近は毎日通っているし、喫茶室のハンバーグランチを羨ましそうに眺めていたり、リハビリのトレーニングルームまで行って色んな器具を触っていたりと、慈恩が目を離すといなくなるので、慈恩は極力家に帰るとき以外は斗音についていた。そもそも、九条の家に帰るのは自分の着替えを取りにいくためくらいで、あとは椎名の家へ行って風呂に入ったり斗音に必要なものを持ってきたりする方が多かった。
「じゃあまた来るな。ああ、翔一郎たちが明日行きたいって言ってたから、明日はあいつらと一緒に来る」
 軽く手を挙げて病室を出て行く嵐を笑顔で見送って、慈恩はほっと一息ついた。
「明日はまたにぎやかだな。今日のうちに片付けられるもの片付けるか。うちに帰って洗濯してくるよ。ついでに何か必要なものがあればもって来るけど?」
 年賀状。あったら持ってきて。
 たくさん届いていた友人からの年賀状を、斗音は暇に任せて丁寧に返していた。そのためのパソコンやプリンターもこの病室に既に運び込まれている。慈恩の苦労の賜物である。それでも、斗音の唇が紡ぐ言葉をほぼ正確に読み取れるようになっている慈恩は、苦笑しながらうなずいた。
「分かった。じゃあ、夕方には戻ってくるから、それまで許可が出たからって羽目外すんじゃないぞ」
 ぐっ、とまだ細い親指を立てて見せる斗音に、また苦笑する。満面の笑顔は、まだ正常とは言いがたい白さのくせに、外に出たい気持ちがキラキラと溢れている。無理をしたら、また外にも出られなくなるということも分かっている斗音なのだから、くどく言い含めることはしない。さらさらのアッシュの髪をくしゃっと撫でて、慈恩は大きな紙袋を抱えて病室を出た。
 それを待っていたかのように、斗音はひょこっとベッドから降りた。もう熱はすっかり平熱に戻っていて、ここに来て初めて地に足をつけたときの、頼りない感覚は消えた。慈恩は心配するけれど、自分ではだいぶ回復してきているのも分かったし、動かなければ食欲もわかないし、入院生活を少しでも早く切り上げるためには動けるなら動いた方がいい、と経験から学んでいた。医者から駄目だと言われても、それを飲み込んで我慢しているよりは、その方がずっといいのだ。
 身に着けているのは、冬用の少し厚手の生地のパジャマだが、これは安土がプレゼントだと言ってくれたもので、なかなか高級なものらしい。外見は普通のおしゃれ着と変わらない毛織のシャツに見え、そのくせ肌触りがとても柔らかくて暖かい。濃紺に薄い水色の縁取りやチェックの折り返しがあり、上品な中にもかわいらしさがある。斗音としてはかなりお気に入りだ。けれど、外に出るからにはさすがにそれだけではまずいだろう、と、白のスリムなロングダウンコートを羽織る。これまたあの暴力団組長のプレゼントだ。入院すると分かった時点で、「とりあえず着る物がいるだろう」と、パジャマとともにとっとと見繕ってきた。誰かが口を挟む間もなかった。断るにも、こんな女性でも着られそうな細身のものは、斗音が着る以外用途もなかった。だから、こうしてありがたく頂いているわけだが、これもまた決して安物ではないのだろうという代物だ。逆に使わなければ宝の持ち腐れである。これ一つ羽織れば、パジャマでも外に出られてしまうという優れものだった。これまでもロビーなど、外の空気に触れそうなところへはしばしば羽織って出かけていた、お気に入りの一品である。
(暖かいな。薄くて軽いのに。絶対高いよなあ)
 そうは思うけれど、安土にそんなこと一言でも言おうものなら、厚意を踏みにじるなと罵倒されるに違いない。彼はやりたいことをただやっているだけなのだから。けれど、そんな風に思ってもらえる対象であるということが嬉しいと思う。自分にそれだけの価値を見出してくれているということなのだから。あれだけの人物が。
 あえてゆっくりした足取りで階段を下りる。エレベーターでもいいのだが、衰えてしまった足の筋肉を少しでも元に戻したい。つらくなったらエレベーターにすればいい。一階まで降りる頃には手すりにつかまりながらになっていたが、それでも軽く息を切らす程度でこられたことに喜びが湧き上がる。一時は身動きするのも身体が鉛のようでひどく重かったし、呼吸も苦しくて意識が飛びそうだったのだ。こんなに早く回復するなんて、自分でも思っていなかった。拓海と安土の治療が優れているのだ、ということも、何となくこれまでの闘病経験から感じていた。
 二重の自動ドアをくぐり抜けて、驚いた。周りがまるで森林に作られた公園のように緑に囲まれていたからだ。冷たい空気は澄んでいるのが分かる。肺に染み渡るような気がした。窓から見た景色が、妙に緑だとは思っていたけれど、まさかこんな風に緑に取り囲まれ、更に緑がずっと続いているとは。
(この病院、すごい)
 ゆっくりと深呼吸すると、すがすがしい空気に心身が洗い流されたような気がした。
(気持ちいい・・・・・・)
 五ヶ月前の自分だったら思わず駆け出していただろう。今は、それはできない。それでも、切らしていた息が整うのを待ちきれなくて、少しふらつく足取りのまま森の小道のような散歩道に足を踏み入れた。昼の陽光に照らされて、梢の雪がきらめいている。時折遠くで、枝を揺らしてそれが落ちてくるような音もする。さすがに正月の雰囲気が残っている中、この寒さで出歩く人間は少ないらしい。しんとした静寂が辺りを包んでいる。まるで異空間に足を踏み入れたかのような感覚に陥って、一番近くの立派な月桂樹に触れてみた。
(・・・本物だ・・・・・・)
 軽い疲労を感じて、そのままゆっくり前のめりにもたれかかる。額に滑らかな木の皮の感触が何だか心地いい。こんなに自然を感じるのは、どれくらいぶりだろう。自分の呼吸の白さが、何だか新鮮だった。
(・・・・・・森の妖精、とか、出てきそう)
 自分の発想の幼稚さに思わず笑ってしまったが、けれど、そんな雰囲気が確かにある。
 頭上でかさかさ、と葉を揺らすような音がした。鳥でもいるのだろうか、とふと見上げると、葉と葉の間から差し込む陽光に混じって、確かに小さなきらめきが零れ落ちてくる。そう思った瞬間に、白い塊が自分めがけて降ってくるのが目に映った。
(うわっ、雪・・・・・・!)
 首を縮めて大きな樹の幹にしがみつく。飛びのくほどの瞬発力は、今の斗音には望めなかった。
 バサバサッ
 雪の塊が当たって砕けて飛び散った。確かに、何かに当たった音を耳にしながら、何の衝撃も感じない自分をいぶかしむ。きょとん、と思わず閉じた目を開けた。
(・・・・・・?冷たく、ない・・・)
「・・・・・・冷てぇ・・・・・・」
 耳元で低い声を捉えた瞬間、斗音は自分の心臓が跳ねたのを知った。自分に覆い被さるようにしていた人の気配が、雪を振り払うのが分かった。
(・・・・・・どう・・・して・・・・・・)
 指が小刻みに震える。虚ろな記憶は夢と混じって、現実と区別がつかなくなっているけれど、最後に見たのは、あの日だ。慈恩からは、確かにあの場にいたことは聞いたけれど、それ以上は怖くて聞けなかった。自分から望んで失くした大切な存在。そうして、巻き込んで、傷つけて、苦しませてしまった人。
「・・・・・・おい、大丈夫か?」
(あ・・・・・・あ・・・・・・)
 膝がカクンと落ちるのを、どうすることもできなかった。目の前の樹の幹がぼやける。頬を伝うものがたちまち温度を失ってコートを濡らした。
「あ、おいっ・・・・・・椎名?」
 ぺたんと座り込んでしまった斗音に合わせて、気配が膝をつく。それが分かって、震える白い手を自身で握り込んだ。どうしたらいいのか、白く凍り付いてしまった思考では答えを出せなかった。声も出せない。振り返ることさえ、できない。どんな言葉を尽くしても、この人に自分が許されることは、あってはならない。そう心の声が自分なじる。ただただ何の見返りも求めずに、自分を受け止めてくれたその人を、酷い裏切りの言葉で切り捨てた。
「・・・・・・椎名・・・・・・」
 ふわりと背中から包み込まれた。
「・・・・・・・・・・・・泣くな」
 その背の暖かさに、目から熱いものがほろほろと溢れて零れた。その言葉は禁止でも何でもなくて、泣けばいい・・・と、そう言ってくれていた。涙が零れていくほどに、胸で凍りついた苦い痛みが、融けて流れ出していくのが分かった。その底なしの優しさが、心に甘い痺れを誘う。
「・・・・・・温かい・・・・・・・・・ちゃんと・・・・・・生きてんだな・・・・・・」
 こくん、とうなずいた。それしか、できなかった。腕に力が加わる。だんだん、強くなる。苦しいほどに抱き締められて、その力に込められた思いを知る。
「・・・・・・ちゃんと・・・・・・生きて・・・・・・」
 聞こえるかどうか分からないくらいの微かな声は、震えて詰まった。
(・・・・・・瓜生さん・・・・・・・・・・・・)
 零れ続ける涙が、自分を抱き締める腕を濡らしていく。その腕に、そっと白い手を重ねた。突き放した自分のために、あの雪の中、慈恩を連れてきてくれたのは、嘘でも幻でもなかったと、何の躊躇いもなくストンと胸に落ちる。身体を張って三神に立ち向かい、自分を守ろうとしてくれたその姿が、くっきり脳裏に甦る。
(・・・・・・・・・・・・瓜生・・・さん・・・・・・)

 自分を抱き締める腕を、そっと抱き締めた。

   ***

(斗音・・・・・・)
 瓜生に包み込まれるようにしてうずくまるその姿を、最上階の拓海の控え室から見守りながら、そっと自分の腕を抱きしめるようにした。
 迷って迷って迷って、結局何もしてやれなかった。あそこまで追い込んでしまった。恐らくあの瓜生にさえも、望まぬ言葉を言わせてしまったのだろう。
「・・・・・・ごめんな・・・・・・つらかったろうに」
 斗音にとって、瓜生の存在がどれだけ大きな支えだったのかは理解していた。一緒にいるところを見かけたのは数えるほどしかない。でも、あの様子を見ればすぐに分かる。互いに大切な存在だということは。
 カチャ、とドアノブが回る音がして、遠慮のない人の気配が部屋に入ってくる。
「よ。浮かねぇ顔してるな」
 にやっと笑みを載せる若い組長を、嵐は一瞥した。そして苦笑する。
「・・・・・・自己嫌悪が深すぎて、溺れそうだ」
「馬鹿だな。お前、どれだけ自分が万能だと思ってんだ」
「お前も言ったじゃねえか、俺は特別だって・・・っ・・・」
 一瞬身を引こうとした嵐の肩に、強引に腕を回して引き寄せる。
「奴らにとってはな。でも、俺から見たらお前なんてただの弱い一高校生だ。お前なんて、俺の力の前じゃなにもできやしない」
 やすやすと腕を封じられ、抗うこともろくにできずにあっさりと唇を奪われる。
「―――っ・・・やめ、ろよっ!」
 日本人としてはかなり珍しい、不思議な色合いの瞳が安土を射抜く。美丈夫はそれを受けて平気で笑う。
「ほら、な?」
「な、じゃねえ!」
 毛を逆立てる狼のような嵐の気色も、安土には全く歯が立たない。カラカラと笑われた。
「言ったろ、万能じゃねえって。俺ですらそうなのに、お前がそこまで人のこと背負えるか。あれ、見てたんだろ?」
 窓からかなり遠くに見える、瓜生と斗音の姿。本人たちを知らなければ、それが誰だかの判別は難しいだろう。
「あいつにはたくさんの支えがある。あのボクサー小僧もそうだし、慈恩にお前に、バスケ部の仲間もいる」
 小さく吐息して、今度は意外なほど優しい笑みで窓の外を見遣る。
「それに・・・・・・身体的なことはもちろん、あんなに強いとは思わなかった。あいつ・・・・・・もっと壊れてるかと思った」
「・・・・・・安土」
 ふっ、と目を伏せる安土は、男前だと嵐は思う。拓海に対しても常にそう思うのだが、安土は下手をするとそれ以上に、自分にとって心強い大人だ。
「心療内科は俺の領域じゃねえが、お前の話を聞いてて、もっとうつ病とか錯乱状態になってる可能性が高いと踏んでたんだがな。いや・・・・・・なってただろうな、一時は。でも・・・・・・今は少し不安定なくらいで、精神的にはほぼ健全に見える・・・根底にはまだ色々隠れてるだろうが、それにしても・・・なかなかそんな簡単に克服できるもんじゃねえ。弟の精神力も大したもんだと思ったが、下手するとあいつはそれ以上のものをもってるかもしれねえな。あと・・・それだけ周りとの絆や信頼関係も確立してたんだろうな。・・・・・・大した奴だ」

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五十二.目覚め

 深夜三時ごろまで降り続いた雪は、十二月にしては近年に珍しく、東京で十センチ以上の積雪を記録した。翌日のテレビでは、こぞってこの雪によって起こった公共交通機関の異常や事故のニュースを取り上げた。それがいかに都会を混乱に陥らせたのかを語っていた。
 キラキラと光る雪は、太陽が照っているにも関わらず、昼になってもとけなかった。低温注意報が出るほど冷たい空気の中、都会では珍しいダイヤモンドダストが風にきらめいている。
「この辺の雪って、綺麗だね。なんか、街中は踏み荒らされて車の排気ガスで煤がついちゃうけど、こういうところに来ると、雪も氷も天然の芸術みたい。ダイヤモンドダストなんて、生まれて初めてだけど、この景色ならすごく似合う」
 珍しく風流なことを言いながら、ふうっ、と白い息を吐き出す瞬の腕には、可愛らしくラッピングされた大きな紙袋が抱えられている。ファーが縁取るフードをつけたジャケット姿の瞬に比べると、やや長めのハーフコートの襟を立てて、そのスタイルのよさを無意識に際立たせている翔一郎が、手にした携帯の地図を確認する。
「ほんのちょっと郊外に出ただけで、こんなに変わるもんか?あ、見えてきた。あれだ」
 翔一郎が指をさす。都会を一歩出たところ、急に自然が二人を囲んだ。実はその森林が始まったところから、既に二人が目的地としている病院の敷地内だったのだが、せいぜい公園の一部かと思う程度の低い柵がある程度だったので、分かるはずもない。
「ねえ、翔。今日、嵐が学校に来なかったのって、仕事で?」
「いや、そんなことは言ってなかったけど。ただ、病院で待ってるって携帯に地図送ってきたんだ」
「もしかして、斗音が病院に運ばれたことと関係あるのかな」
「あるんじゃないか?だって、病院の名前が滝総合医療院、だろ?」
 意味ありげに言う翔一郎に、瞬が、あ、と声を上げる。
「そういえば、前に斗音が言ってたっけ。滝って人、お医者さんだって」
「ああ。もしかしたら、嵐の・・・・・・ええと、彼氏?の家って、病院なのかな」
「そういう言い方はどうかと思うよ」
「だって、なんて言っていいか分かんないだろ?」
 瞬の大きくて可愛らしい瞳が、うろん気に翔一郎を一瞥する。
「恋人でいいじゃん」
 翔一郎は少し口を尖らせた。それも考えたけど、ちょっと言いにくかったのだ、と反論するのもかっこ悪い気がしたし、反論したって言い伏せられるのは目に見えている。仕方なく諦めて溜息をつく。
「でも、その滝って人、暴走族の頭やってるって言ってなかったか?」
「聞いたことあるけど・・・・・・あの嵐が惚れ込む人だからね。普通の暴走族じゃないでしょ」
「・・・・・・かもなあ」

 そんなどうでもいい話でもしていなければ、二人は不安でならなかった。
 
今朝早くに嵐から翔一郎に連絡があって、斗音が昨夜病院に運ばれて緊急手術をしたので、見舞いは直接病院の方にしよう、と言われた。手術って?入院って?と、翔一郎は訊けなかった。昨日嵐が妙に渋っていたこと、今朝になって事態が急変していること。何も分からない。ただ、きっと大変なことになっていたのだということだけが分かって、そのことを知らなかった自分に悔しさを覚えた瞬間、知らされなかったのだということに気付いたからだった。嵐の考えることだ。そこに意図が働かないはずがない。そう、翔一郎は捉え、その推察は見事に的中していた。そして、その関係ができているからこそ、嵐は連絡の相手に翔一郎を選んだのだが。
 
ようやく病院について、翔一郎と瞬は受付で斗音の病室を聞こうとした。その瞬間、二人の肩が後ろから軽くたたかれた。素晴らしい反射神経で翔一郎が、それに続いて瞬が振り返る。
「待ってた。案内するよ」

 嵐の美貌が小さく笑みを湛えていた。

「慈恩!」
 案内された病室で、ベッドの上に身体を起こしていた人物を見るなり、瞬はラッピングした紙袋を翔一郎に押し付けて、ベッドの人物に抱きついた。その瞬間顔をしかめた慈恩だったが、すぐに優しく微笑んだ。柔らかい不思議な色の混じる髪を、よしよしと撫でる。
「何でここにいるの?慈恩も、入院してるの?」
 うるる、と涙目になる瞬を、嵐がたしなめる。
「慈恩は肋骨折れてんだから、あんまり過激なことしてやるなよ」
 瞬は大きな目をさらに大きく見開き、翔一郎も瞠目する。
「そうなの?ごめん、慈恩!痛かった?」 
 じわっと涙を膨れ上がらせる瞬に、慈恩は笑んだまま首を振る。そして、また優しく頭を撫でた。
「大丈夫だ。びっくりさせてごめん」
 その大人びた優しさに、瞬はこくりとうなずき、目をこすりながら嵐を睨む。
「言ってくんなきゃ分かんないよ」
 嵐は思わず苦笑する。
「て、なんも言う暇なかったと思ったけど」
 翔一郎がうんうん、とうなずく。
「しかも人に荷物押し付けて、自分だけ」
「だって・・・・・・久しぶりで嬉しくて懐かしくて、どうしようもなかったんだ。それに」
 ちょっと肩を落としてそこまでつぶやき、翔一郎にチラッと視線を走らせる。
「翔は飛びつくようなキャラじゃないじゃん」
 翔一郎はやや呆れたように肩をすくめた。
「え、なに?お前、あの瞬間そこまで計算してたわけ?」
「してないよっ!結果論だから、それでも別にいいじゃんかってことだよ!」
 食って掛かる瞬は、それでも可愛らしいので、慈恩はなんだか主人に甘えてわがままな吠え方をするポメラニアンでも見ている気分になった。
 やれやれ、と翔一郎は押し付けられた荷物を見て溜息をつく。
「こんな可愛らしい飾り付けができる繊細さがあるのに、何でそれが人に向かないかなぁ」
「飾りつけって何!それはラッピングって言うんだよ!」
「いいだろ別に、通じれば。反射的に出てこなかったんだよ」
「あ、そう。さっきもそうだったけど、翔一郎、語彙が貧弱なんじゃないの?」
「ああ、どうせ俺は理系だよ」
「そんな言い方したら、理系の人に失礼だよ。翔の個人的問題なのに」
「俺の語彙は問題になるほど貧弱じゃない!」
 たまらず慈恩は吹き出す。横隔膜が揺れてたちまちしかめっ面になったが。嵐は軽く溜息をついた。
「お前ら、漫才は場をわきまえてやれよ」
「「漫才じゃないっ!」」
 二人の非難を浴びながら、痛みに身体を抱きしめるようにしながらも込み上げる笑いを抑えきれない慈恩に、笑みをこぼす。
「ま、いいか」
 二人に椅子を勧めて、嵐は個室の冷蔵庫から小さな紙パックのジュースを取り出す。椅子の二人に放り投げ、慈恩に手渡しながら、自分の分にストローを挿した。
「とりあえず事情を説明するよ」

 その一言で、慈恩の笑いが消え、表情が翳る。二人は顔を見合わせて、小さく息を飲んだ。

 集中治療室はガラス張りになっていて、その外から中の様子がうかがえた。そのベッドに横たわる姿を目にした翔一郎と瞬は、声が出せなかった。慈恩はつらそうに目を細める。
「ごめんな。見舞いにこいなんて言いながら、実際会うこともできなくて」
 申し訳なさそうな嵐の声にも、翔一郎は何も返せなかった。斗音のためのプレゼントをぎゅ、と抱き締めた瞬が、小さくつぶやく。
「・・・・・・いつ、ここから出てこられる?」
 やや躊躇って、嵐は答えた。
「・・・滝さんは、ある程度熱が安定すれば・・・って言ってた」
「それ・・・・・・いつ?」
 縋るような瞳で、瞬が重ねる。嵐は困惑の表情を浮かべた。数瞬、沈黙が流れる。
「二日後までには、必ず」
 美しい旋律を思わせる声が、そこに静かに響いた。少年たちが振り返った先には、翔一郎を上回る背丈の白衣姿があった。見る者の心を惹き付けずにおかないその並外れた美貌が、ふわりと微笑む。
「・・・・・・ほんとに?」
 瞬の声が震えた。拓海は美しい瞳に強い意志を浮かべてうなずく。
「主治医として、約束する」
 ぽろぽろ、と瞬の大きな瞳から涙の粒が零れた。

「・・・・・・だったら、これ、慈恩に預けるから」
 
抱えていた紙袋を慈恩にそっと押し付ける。慈恩がわずかに不思議そうな色合いを浮かべてそれを抱える。
「斗音が目を覚ましたら、渡して。俺たちからの、クリスマスプレゼントだって」
 潤む瞳のままにっこり微笑んだ。
「二日後に、今度は慈恩の分もクリスマスプレゼント、ちゃんと持ってくる」
 ね?と翔一郎に同意を求める。翔一郎は軽くうなずいた。そして、ポケットから封筒に入った手紙のようなものを取り出し、それも慈恩に差し出す。
「これ、生徒会長の今井さんから預かった。お前と、斗音にって。・・・・・・次はお前も斗音も・・・・・・思い切り笑わせてやるからな」
 爽やかな笑みに、慈恩は小さくうなずいてそっと笑んだ。

「・・・・・・ありがとう」

   ***

 翔一郎たちが斗音を見舞うために病院に訪れる、半日ほど前の時間帯。
「そんな、あまり知らない、しかも主人もいない家で雑魚寝なんて、とんでもございません!」
と猛反対する運転手に、鳳は上品な笑みを浮かべた。
「こんな場面に居合わせて、帰ろうって気になれると思う?大体、もう夜中の一時半だよ?道だって凍ってるし、これだけ人が来ちゃったのに、どうやって乗せて帰る気?」
 斗音の手術が無事に終わった、と連絡があったのはよかったが、それまで気が気ではなく、結局隼、近衛のみならず、鳳も和田も、加えて今井や氷室まで、その時間まで椎名家に居座ってしまった。それに運転手を加えれば七人。これがまた運転手を除けば、一番小柄な和田でも170㎝、あとは全部それ以上で、一番大きな氷室に至っては186㎝という長身である。いくら余裕のある高級車とはいえ、それがセダンである限り、四人しか乗れない。詰めて乗ったとしても五人が限界だった。
「如月の生徒さんは、お近くでしょう。タクシーでもお呼びになれば・・・」
「未だに交通渋滞はあちこちで続いてるらしいけどね」
「しかし、真聡(まさと)さま・・・・・・」
 懇願するような運転手に、鳳は優しいながらも毅然とした瞳を見せた。
「僕は意見を変える気はないよ。阿部、お前も車で寝るわけにも行かないから、中に入れてもらおう」
「な、なんと・・・わたくしまで、でございますか?とんでもございません!近衛さまや真聡さまと同じ場所でなど、恐れおおうございます。・・・・・・近くのビジネスホテルにでも、宿を求めさせて頂きます。よろしければ、真聡さまと近衛さまだけでも、どこかちゃんとしたホテルをお探しいたしましょうか?」
 諦めの悪い使用人に、ふう、と一息。

「いいよ。この時間でそれが探せるのなら、自分のことについては好きにして。だけど、僕と近衛の件に関しては、構わないでおいてもらおう。それから」
 
その眼が厳しさを帯びる。
「ここでは僕も近衛もただの高校生だ。僕たちだけを妙に特別扱いすることは、出過ぎたことだと覚えておいて欲しい」
 それだけ言って踵を返した。運転手はしどろもどろになる。
「しかし、真聡さま・・・・・・夕子さまが・・・奥様が何と言われるか・・・・・・」
「もういい。ただし、朝六時には迎えに来て。学校を休むわけにもいかないからね」

 振り返りもせず、それでもあくまで声を荒げることもなく、鳳は淡々と告げた。

 そもそも、これだけの高校生が深夜に集まって、じっとしていられるはずがない。この家に来たことのある者はいなかったが、なぜか一番遠いところにいるはずの隼が一番動いていた。適当に和室の押入れやクローゼットをあさって毛布や布団を引っ張り出してくる。
「なあ、勝手に出していいのか?」
 躊躇い気味の和田に、あっけらかんと答える。
「何ゆうとん。慈恩、適当に泊まったらええゆうたやん。適当ゆうんは、こうゆうことや。俺、もう冬休みに入っとるさかい、しばらく留守番するし、つこた布団とか、ちゃあんと干しとくよって。ほんでちゃんと戻しといたらええねん」
 さすが道場の息子である。時折行われる道場での合宿などで鍛えられているのだ。今井がその姿に感心する。
「なるほどね。氷室、手伝おうか」
 無言でうなずく氷室は、何やら考え事をしているらしく、先ほどからかなり無口だ。年上の人間ばかりで遠慮しているともとれるが、この無遠慮な後輩がそれだけの理由で黙っているとも思えない。
 二人で居間を出た途端、氷室が口を開いた。
「会長。さっきの話ですけど」
「さっき?」
 この後輩が指す話が即座には思いつかず、今井は首をひねる。氷室は続けた。
「副会長の弟さん・・・・・・慈恩先輩のことですけど・・・・・・これがきっかけで如月に戻るってことは、あるでしょうか」
 一瞬戸惑って、やはり首をひねる。
「うーん・・・・・・どうかな。俺にはちょっと分からないけど・・・・・・どうして?それが気になってるのか?」
 こくりとうなずいて、氷室は今井を見る。
「例えば、椎名副会長が選挙に出られなかったとしたときに、彼の方が会長に出ることは考えられますか?」
 思わず今井は息を飲んだ。自分が無意識に考えないようにしていたことを突いてきた後輩の視線を受け止める。斗音が出られない可能性。それは、考えないわけにはいかないことかもしれない。
(やっぱりこいつ、冷静だ)
「どうして、それを訊く?」
「・・・・・・考えたくはないけど、副会長、間に合わないかもしれないでしょう。俺としては、藤堂先輩の下でやるという選択肢も、なくはないんですけど・・・・・・」
 わずかに躊躇いを見せてから、思い切ったように言葉を紡ぎだす。
「俺、慈恩先輩・・・・・・話したりしたことはなかったけど、執行委員をやっていた時のあの人の印象は、冷静でとても思慮深く見えた。剣道部の奴らなんて、盲目的に尊敬してましたしね。あの人がいるとしたら、あの人が会長という線もあるかと思ったんです。・・・・・・実際俺も、こう言っちゃなんだけど、藤堂先輩より興味あります」

 それはそうだろう、と今井も思った。どちらに魅力があるか、と問われれば、藤堂より慈恩だ。慈恩は大人びていて、落ち着いていて、頼りたくなるような雰囲気を持っている。それでいて、頼れる器でもある。藤堂は情が分かり、明るくて活気があり、みんなを動かす力はあるだろうが、自身が魅力的というより、載せ上手という感じなのだ。それはそれで、リーダーとして欠かせない要素なのだが、比べる相手が悪い。
 
けれど。
「俺の見解を言わせてもらうなら、斗音の出ない会長選挙に、慈恩が出ることはないな。まず、あいつが如月に戻ってこられるかどうかということも大きな問題なんだけど・・・・・・戻ってこられることを大前提にしたとしても、それは九十九パーセントないと思う」
「どうしてそう言い切れるんです?」
 詰問するような口調に、苦笑する。
「近衛が言ってたろ。もしあいつが桜花を離れるとしたら、それは斗音のためだ。会長なんて大変な仕事を引き受けたら、斗音にかまけていられなくなる。それに、そういう役割上で、あいつが斗音の上に立つことも望まないだろう。もともとそういう役割につくことを好む奴じゃない。執行部に入ったのだって、俺が斗音を副会長に誘って、斗音が自分を補佐して欲しいと頼み込んだからだ」
「・・・・・・そう、ですか」
 がっかりしたような氷室の乾いた髪を、今井は手を伸ばしてくしゃっと撫でた。驚いた氷室に笑って見せる。
「慈恩が如月で会長になる可能性よりは、斗音が会長選挙に間に合う可能性のほうがまだ高い。今は斗音を見守ってやろう。それにな、藤堂が会長でも悪くないと思うぞ。お前が補佐についてくれるなら、尚更だ」
「・・・・・・会長・・・・・・」
 氷室の大きな手が、固く握り締められていた。もう一度その髪を掻き回すようにしてから、今井は思いついたようにその手で鍛えられた肩をつかんだ。

「そうだ、斗音のクリスマスカード・・・あれに、慈恩へのメッセージも入れていいか?伝えたいことがある。よければお前の気持ちも、書いてやれ。病院へ届けるにしても、慈恩はいるはずだし・・・・・・な」

 それと同じ頃、全く動けないお坊ちゃま軍団を残してせかせかと働く隼が、書斎の扉を開いていた。開いた瞬間ぎゅうっと眉根を寄せる。
「何や、これ」
 煙草の匂いが染み付いた部屋。あの怪力男の部屋だろうか。使用人だったらしいが、喘息の斗音の世話をするのに、これほどのヘビースモーカーが適しているとは、到底思えない。ついでに言えば、隼は煙草が大の苦手だった。道場ではもちろん、剣を志す者に煙草などあってはならないという姿勢でいる。自分もそう思う。

 ここにはベッドもあったが、最近使われたような形跡がない。毛布などを拝借することはできそうだったが、隼としてはその臭いの染み付いたものを使う気には、到底なれなかった。

 翌早朝、高校生たちは帰路についた。その際近衛は、隼にぽんぽん、と肩をたたかれた。
「あんさんに頼みがあるんや。俺な、昨夜急いでこっち来てもうたさかい、携帯以外の荷物全部置いてきてしもたし、実は財布もあれへんねん。せやから、あんさんは一回家帰って学校行って、そんで俺のこと迎えに来てくれへんやろか」
 にこ、と笑う無邪気な顔を、近衛は訝しげに見た。
「本当にここに残るのか?鍵は預かってるんだから、それで戸締りして家に来ればいいだろう。食事なんかの世話が、ここだとできない」
 その訝しげな表情を、隼はきょとんと見た。
「せやかて、折角今日は雪もやんで天気もええし、昨日つこた布団干さんとかんし、掃除なんかもしたほうがええやろ。干すにも、竿もベランダも雪はろたりせなあかんさかい、忙しいで。飯くらいここにあるもんで何とでもなるよって」
 確かに、夕食も食べずに来た今井や氷室に、キッチンを借りて、クリスマスには不似合いだったが、上手に卵とじうどんなんかを作って出していた。しかし、自分が呼んでおいて、食事も自分で作らせるというのが、近衛には躊躇われる。遠回しにそれを言うと、隼にカラカラと笑われた。
「やっぱあんたいい家の子やなあ。こんな状況になって、そんなことだあれも思わへんよ。あ、せや。俺斗音が気ぃつくまでこっちにおりたいねんけど、あんたの家に泊めてもろてかまへんやろか?」
「もちろん、それは構わないけど・・・」
 にぱ、と、なんだか久しぶりの隼スマイルが咲いた。
「おおきに!したら、今晩、一緒に稽古してな」

(・・・・・・へっ?)

   ***

 斗音の意識が表層に浮上してきたのは、瞬たちが見舞いに来た翌日の深夜。手術後丁度四十八時間が過ぎた頃だった。その時には薬の効果もあり、熱も三十八度を切るようになってきていて、個室だったが一般病棟の方に移されていた。思った以上に早く移れたのは、どうやら安土の針が功を奏したからだったらしい。自力での呼吸も安定し始めて、呼吸器もいつでもできるように準備してはあるものの、とりあえず外された。
「・・・・・・目が、覚める」
 つぶやくように言った拓海の声に、慈恩の心臓は緊張の鎖に縛られた。思わずほっそりとした手を十字架のペンダントと一緒に包み込む。斗音、と心の中で呼んだ瞬間、静かに震えながら、長い睫毛がゆっくり持ち上げられた。
「・・・・・・斗音!」
 慈恩の声も震えた。拓海がその肩をそっと抑える。
「興奮させるなよ。・・・・・・声帯のポリープを除去するよりずっとひどい炎症があるんだ。最低でも二週間は声を出させたくない」
 目を細めてうなずく慈恩の前で、斗音が不思議そうに自らの網膜が映し出した視界をぼんやり眺めた。その視点が、浮遊するような危うさで拓海へ、そして手を握っている慈恩へと漂っていく。その唇が動こうとするのを、拓海が美しい長い指でそっと触れて制止した。
「声を出すなよ。お前の気管と声帯は・・・・・・ひどく痛んでいる。分かるか?」
 落ち着いた優しい声に、頼りない視線をその指の主に向けて、斗音はぼんやりとうなずいた。拓海がすんなりと指をひいた。再び斗音の浅く開かれた瞳が、慈恩を捉える。唇だけが、慈恩、とつぶやく。慈恩はそっとうなずいた。その前で、斗音の瞳が気だるそうに揺れた。まだ起きていられるほど体力は戻っていない。

「・・・・・・おやすみ。もう誰もお前の眠りを妨げたりしない」
 
低い優しい声に、それでも斗音の瞳に翳がよぎる。

「・・・大丈夫。次に目が覚めたときも、俺はここにいる」
 
斗音は儚げに、ほんのり笑みを載せた。そのまま重い瞼を閉じる。すとん、と意識を失った斗音に、拓海はほっと溜息をついた。
「よかった。予想以上にしっかり回復している。それに今の言葉で、斗音は心底安心して休めるだろう」
「そう・・・・・・ですか・・・・・・よかった・・・・・・」
 斗音の手術が終わって気を失ってから、こちらは一度も眠っていなかった慈恩の身体が、ゆらりとかしぐ。さりげなくそれを支えた拓海がほのかに微笑する。
「お前も休め。ずっと起きていられる精神力も大したものだが、少なくとも身体は負担に感じているはずだ」
「あ・・・いえ、でも、斗音と約束したので」
 美しい笑みをまともに眼前にして、慈恩は少しはにかんだように笑う。
「そうか」
 慈恩の無茶な意見を否定することなく、美しい医師は小さくうなずいた。
「それなら、少しでも休めるものをこの部屋に運ばせよう。そこで休むといい」

 流麗な動作で立ち去る拓海を見送ってから、慈恩は椅子に座ったままそっと包み込んだ斗音の手に額を寄せた。

 次の目覚めは早朝に訪れた。優しい朝の光が瞼の裏に映って、自然に目が開いた。少しだけ瞼が重かったけれど、それは眠気からくるのではなくて、身体のだるさゆえのもの、という気がした。
(・・・・・・やっぱり・・・・・・・・・・・・俺、生きてる・・・・・・)
 夢の中で慈恩が優しく言ってくれた。次に目が覚めたときも、傍にいると。あのときは夢だと思っていたのだが。左手が温かくて、それがどうしてなのか何も見なくても分かっていた。自分の手を包んでくれている手に、そっと指を添える。
(・・・・・・ありがとう・・・・・・慈恩・・・)
 ひたすら隠そうとした。心配させたくなくて、会わずに、避けて避けて、遠ざけて。情けない自分の姿を見せたくない、なんてちっぽけな自尊心がこんなふうにねじれた現実を招いてしまった。慈恩を心配させたくない、なんていうのは口実でしかない。そのためにひどく傷つけて突き放したのだから。それなのに、こうして偽りなく傍にいてくれる存在が嬉しい。心に染みる。
 たくさんの人たちを傷つけた。大事な人たちばかりを。自分の精神をまともに保つためだけに、何て馬鹿なことをしたんだろう。いや、その方法自体、自分の精神をもすり減らしていったのだ。今なら分かる。それがいかに愚かしい選択だったのか。それが分からないほど精神的に追い詰められていた。そう言えば、少しは聞こえがいいだろうか。そう繕おうとする自分が、また苦しいほど情けない。
「・・・・・・一番苦しかったのはお前だよ。他の誰でもない」
 耳元で優しい低音が響く。そっと視線を向けると、少しだけ顔色の悪い慈恩が、優しい漆黒の瞳を既にこちらに向けていた。自分の手を包んでいた一つが離れて、斗音の頬をすっと指でなぞった。
「今はゆっくり休んで欲しい。誰もがそう願ってる」
 顔色が悪いのは、俺のせい・・・・・・なんだろうね。思わずそう口をついて、言葉がでそうになる。その唇に、濡れた指が押し当てられる。
「駄目だ・・・・・・声は、出しちゃ駄目だ」
(・・・・・・そうだった・・・・・・先生に、夢で・・・・・・)
 こくり、とうなずくと、ほっとしたような笑みが凛々しい顔に開いた。

 唇から離れた指の跡は、涙の味がした。

   ***

 瞬や翔一郎が見舞いに来ると知って、少なからず斗音は動揺した。声も出せない、起き上がれもしない。そんな自分が、どんなにひどい言葉を浴びせても、自分を諦めずにいてくれた彼らに、どんな接し方ができるというのか。微力ながらも震える手で謝罪の言葉を紙に綴ろうとして、何度も失敗して力尽き、ついには枕に頬をうずめて泣き伏してしまった。
「大丈夫だよ。お前に謝ってもらおうなんて、瞬も翔一郎も思ってない。・・・どれだけお前が弱ってたかってことも、知ってるから」
 優しく言った慈恩は、その枕元に大きなものを、ドン、と置いて笑みを載せる。
「ほら、お前にクリスマスプレゼントって、持って来てくれたんだ。カードにも、お前のこと信じてるって。・・・・・・だからお前も、あいつらのこと、信じてやれよ」

 涙に濡れた睫毛をパタパタと瞬かせて、枕元に置かれたものを見遣る。そして、手渡されたラブリーなクリスマスカードにしたためられた文字を目で追ってから、また涙を零した。そっと微笑みながら。

 斗音の病室に来るなり、学習する気があるのかないのか、瞬は涙を浮かべて駆け寄って、斗音をぎゅうっと抱き締めた。
「斗音、斗音、斗音・・・っ・・・・・・!」
 
斗音が、どうしようとか、何をしたらとか、迷う暇なんか与えなかった。そのまま胸に天使のような頬をうずめて、わんわん泣き始め、戸惑う斗音に切なそうに近づいてきた翔一郎が、その柔らかな髪を、思いっきりくしゃくしゃに乱した。
「やっと会えた。やっと会えたな、斗音」
 その翔一郎の涼やかな瞳にもうっすらと涙の幕がかかっていて、その大きな手の平に込められた力は、手加減しようとしてしきれずに、小さく震えているのが分かった。
 ごめんね・・・ごめんね・・・・・・。
 震える唇と零れる涙が、無音のまま斗音の思いを紡ぐ。翔一郎が小さく首を横に振った。
「いいんだ。お前に会えてよかった・・・やっぱり斗音は斗音のままだ。・・・・・・俺たちの知ってる、斗音だ」
 涙の奥の薄茶の瞳が揺れて、更に大粒の涙が零れ落ちる。
「・・・・・・お帰り、斗音」

 優しく微笑んだ翔一郎の頬に、一筋の涙の跡が光っていた。

・・・・・・で、これは何?
 涙涙の再会がひとまず落ち着いて、最後まで泣いていた瞬の涙がようやく乾いた頃、手振りで枕元に置かれた大きなクマのぬいぐるみを指して、まだ少し潤んだままの斗音の薄茶の瞳が問うた。翔一郎が爽やかに笑みを浮かべた。
「あれ?慈恩から聞いてるだろ?クリスマスプレゼントだよ」
 
そうじゃなくて、と、斗音が微かに首を振ると、華やかで愛らしい笑みが、斗音のベッドの脇に置いてあった、かなり柔らかいソファに身体を沈めていた瞬の顔にぱっと浮かぶ。
「ちゃんとリボンに書いてあるでしょ?」
 大きなハニーブラウンのクマさんが首にしている大きなブルーのリボン。そのリボンに、確かに白糸で刺繍が施されている。ローマ字で「Jion」と。
「渡す相手、間違ってないか?俺のぬいぐるみには、Tohn・・・これ、斗音、だろ?」
 慈恩は手の中にくったりと収まっている灰色のネコのぬいぐるみを、首をかしげて見つめる。確かに、ネコちゃんが首にしている、可愛らしいピンクのリボンには、群青の刺繍糸でそう書かれている。
「いいや?確かに、それは慈恩のだし、クマの方は斗音のだ」
 嵐の笑みはいたずらっ子のそれで、言動の大人びている嵐にしては珍しい表情だった。瞬の笑顔はもうはちきれんばかりの嬉しさと喜びに彩られて、輝いている。
「慈恩の方は、斗音にあげたのとセットになるようにしたんだけどね。三人で一生懸命考えたんだ。斗音が一番欲しいものって、何だろう、ってね」
 ぱちんと片目を閉じて見せるのは本当に可愛らしくて、普段見慣れている翔一郎たちでさえ、どうして男に生まれてきてしまったのだろうと、いらぬ悔しさを抱かずにはいられなかった。
「で、つまりこのクマは俺の代わりってことか?それでこのネコが、斗音?」
 やや呆れ気味の慈恩に、翔一郎が苦笑した。
「ほら、似てるだろ?」
「どの辺が?」
「なんかでかくて、しがみつきたくなるだろ?このクマ」
 くすくす、と笑ったのは斗音だった。少し苦しげに肺を抱えたので、嵐が少し伸びたアッシュの柔らかい髪を撫でた。
「ごめんな?大丈夫か?」
 ゆっくり首を振って、斗音は少し涙ぐんだ目で微笑んだ。大丈夫、と。
「斗音、ごめん。でも、そう言い張ってこのクマ選んだの、瞬だからな。ちなみにネコもだけど」
 翔一郎の、いかにも自分たちの趣味ではないのだと言わんばかりの口ぶりに、慈恩が吹き出し、斗音は笑いに備えて肺を抱え込んだ。案の定、瞬の峻烈な反撃が開始される。
「なに、その自分だけ責任逃れしようとする言い草」
「俺は事実を言ったまでだろ。それに、ちゃんと嵐の尊厳にも傷が付かないように、考えて言ったぞ」
「翔一郎だって嵐だって、それでいいって言ったじゃん!責任転嫁、甚だしいよっ!」
「だって、お前それは」
 翔一郎が思わず嵐を見る。嵐も合わせたように翔一郎を見た。
「ああ、だってなぁ」
 言いながら声が笑っている。その嵐の同意に力を得た翔一郎が、くすっと笑う。
「瞬がクマに抱きついて離れないから」
「ネコとじゃれて離さないから」
 二人して肩をすくめる。
「あの場面ではそうせざるを得なかったっていうか」
「だよなあ」
 ぷーっと瞬の天使のような頬が膨らんだ。
「じゃあ言わせてもらうけどっ!翔や嵐にぬいぐるみの可愛さの何たるかが、理解できるのっ!」
「いや、あんまり」
 悪びれずに即答する嵐。翔一郎は一瞬考えて口を開いた。
「ま、これだけ綺麗にラッピングしたり、刺繍したりできる瞬ならではのセンスだからな」
「それ、ラッピングとか刺繍とかは普通の男子高生にはできないって、暗に言ってるわけ?」
 可愛い瞳にきらりと睨まれて、翔一郎は半歩あとずさった。
「ええっ?ちょっと、俺ちゃんと褒めたのに、矛先俺かよ?」
「俺は男らしくないって言ってんの?」
「ひとっことも言ってない!ていうか、何で俺のセリフだけ、そうやってことごとく天邪鬼に捉えるんだ、お前は!」
 折角少々気遣ったはずのセリフを逆手に取られて、翔一郎は息をまく。そんな翔一郎を横目に、瞬は溜息をついた。
「あーあ、ほんと、刺繍もラッピングも大変だったんだけどなー。なんせ俺、男だしー」
「だから、褒めてるじゃないか!」
「ちょっと顔が可愛いからって、偏見だよねー」
「誰も顔のことについては触れてないって」
「男のくせに可愛いって、ほんと損だよねー」
 むしろ堂々と言う瞬に、翔一郎は溜息を返す。
「大丈夫だ、お前は性格の悪さで、その顔の可愛さを全部チャラにしてるから」
「むっ。それ、どういうこと?」
「その通りの意味だけど?」
 素っ気無く返した翔一郎に、瞬は可憐な花びらのような唇を歪めた。
「ひどいっ!ねえ、斗音、慈恩!俺って、悪魔に魂売り渡したかと思うほど、極悪非道な性格してる?」
「って、お前、どんだけ自分のこと可愛いと思ってんだよ!」
「お、ナイスボケとツッコミ」
 横やりを入れた嵐に、二人が食ってかかった。
「「コントじゃないっ!」」
 ベッドの脇で慈恩が自分を抱き締めるようにして、ベッドの上で斗音がやはり胸を抱えるようにうずくまって、音なく笑い転げている。それぞれの身体が訴える痛みより、込み上げるそれに耐えられずに。
「あっ、ごめん、斗音、慈恩!痛かったよね?」
 瞬が焦って二人の腕に手を添えて気遣う。顔をしかめながらも笑いを抑えきれない慈恩が、喉をひくひくさせながら首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。このネコ、大事にする」
 片手にくたんとしている柔らかい子ネコのぬいぐるみは、その感覚がくすぐったくて、思わず撫でてやりたくなるような雰囲気がある。確かに、これが斗音、というのなら、似ているだろう。
 斗音も枕もとのクマさんに頬を摺り寄せた。ふさふさした毛が柔らかくて気持ちがいい。それに、存在感がなかなかに頼もしい。思わず笑みがこぼれる。そのクマの頭を、細い手を伸ばしてよしよしと撫でた。
「気に入ってくれた?」
 のぞきこむように言う瞬に、斗音はこくん、とうなずいた。ふわりと笑って、またそのクマに頬を触れる。
「あー、似てる。斗音やっぱり、仔猫みたい。カワイイ~」
 そんな斗音の髪をわしゃわしゃと乱して、瞬がはしゃいだ。嵐と翔一郎は、やや目を細めて微笑む。
 
え?え?
 戸惑ったように、ほんのわずかながら頬を赤らめる斗音の肩を、瞬は優しく抱き締めた。
「俺たちのプレゼント・・・大事にしてね」
 包帯の厚く巻かれた頼りない首が、小さくうなずいた。細い手が力なく、震える瞬の髪を撫でる。そのままきゅ、と瞬の小さな頭を抱き寄せた。
 ありがとう。
 瞬には見えなかったけれど、斗音の唇はそう言葉を刻んだ。

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五十一.命の重さ

「なあ、もう九時近いよな。こんな天気のこんな時間に、人の家に行くのは非常識じゃないか?」
 傘の下で、白い息が白く舞い降りる雪に紛れて消えていく。氷室は肩をすくめた。
「ここまで来ておいて、それは今更でしょう。まあ、電車が遅れていたことは仕方ないとして、メッセージ書くのに何書いたらいいか分からないって悩んで、散々時間食ったのは誰でしたっけ?」
 この雪の中でも傘をさそうとしない、自分より背の高い後輩をちらりと見遣って、今井は苦笑した。
「お前、ほんと容赦ないな」
「気遣いが足りないとは、よく言われますね」
 笑みを引いて、今井は雪が舞い降りる虚空に目を遣った。
「・・・・・・今はそれでもいい。けど会長になったら、正論と皮肉だけじゃ、やってけないぞ」
 その言葉に、氷室は軽く瞠目した。反射的に現生徒会長を見つめる。
「・・・・・・それは、あなたの経験から来る個人的感想ですか?それとも」
「お前への教訓だよ。氷室」
 くす、と笑ってその肩を軽くたたく。はっきりした二重でもやや切れ長の印象が強い氷室の目が、さらに大きくなる。
「待って下さい、俺は・・・・・・」
「知ってるよ。推薦があまりに多くて、仕方なく執行部を引き受けた。本当は部活に専念したかったのに」
「・・・・・・会長」
 今井の笑みは包み込むように優しい。そのくせ男らしくて元気付けてくれるような。
「両立はつらいさ。でも、誰かはやらなきゃならない。だったら、それができる人間がやるしかないだろ。俺はお前がその器だと思ってる」
「・・・・・・俺は、そんな・・・・・・」
 躊躇う氷室の、日に灼けてややぱさつく髪に、雪が斑に積もる。結構です、と言われていたが、今井は傘を氷室にもかかるように軽く持ち上げた。
「断り切れなかったんだろ?そういう優しいところもある。責任感もある。考え方だってまともだ。きっとお前は、三年になったときに生徒会長になってる」
 小さい吐息は、溜息だったかもしれない。ふっと笑んで、今井は自身にうなずいた。
「うん。きっとなってる。だから、そのために、来年は副会長をやるといい」
「・・・・・・買い被りすぎです。俺は、あなたほどの見識もないし、椎名副会長ほど誠実でもない」
「人にはそれぞれのよさがある。お前には俺にも斗音にもない、冷静さと客観性がある」
「・・・・・・・・・・・・」
 今井の視線が地面に落ちた。つぶやくような声。
「・・・・・・だから、斗音を支えてやって欲しい」
 さりげなく自分に傘をさしてくれている今井を、氷室はうかがった。
「副会長を・・・・・・会長に?」
「ああ。適任だと思ってる」
「・・・・・・でも・・・・・・」
 一ヶ月近くの欠席。全く来なくなってしまう前から、頻繁に休むようになっていたことを考えると、全校生徒、そして教師にも決していい印象はないだろう。下手をすると、不登校の要援助生徒として捉えられているはずだ。そのことは、今井にも伝わったらしい。
「あいつの場合は病気での欠席だ。できるのにやらず、放り出すのとは訳が違う。もちろん、そんな事情を知らない人間もいる以上、あいつの立場は悪くはなっても決してよくはならない。あいつがまた同じことにならないとも限らない。・・・・・・俺たちが卒業して、すぐに選挙がある。あいつが立候補するかどうかは分からないけど・・・・・・俺は勧めるつもりでいる。たぶん、藤堂も出てくるだろう。秤にかけるわけじゃないけど、どちらが器かと問われるなら、俺は迷わず斗音だと答える」
「・・・・・・そうでしょうね」
 藤堂も優秀だ。リーダー性も問題ない。それはよく分かるが、多少流されるところがある。それに比べると、斗音はどこまでも公平で誠実だった。そして、何よりよく気が付くし、判断力、決断力ともに、藤堂よりは格段に優れていた。女子生徒からも男子生徒からも愛される人柄で、それゆえ上級生からのやっかみを買うこともあったが、そういったことにも挫けず毅然とした態度をとることもできた。
「でも、あの学年には東雲先輩とかもいるでしょう?」
 学校一の有名人だ。彼に不可能の文字はないとすら思えるほどの人物。今井は笑ってうなずいた。
「あいつはなあ。確かに、やれるだろうな。でも、絶対やらないだろうし、ちょっとアクが強い」
「・・・・・・なるほど」
 今井の表情に翳が宿る。
「ただ、慈恩がいなくなって・・・・・・あいつには支えがなくなった。ただでさえ身体は強くない。精神的な負担を考えると、つらいだろうと思う。俺は支えてやりたかった。・・・・・・結局こうなった以上、俺では役者不足だったんだろうと思う。でも、それでもあいつが会長をやってみたいと考えてくれるなら・・・・・・」
「そんな、会長にできなかったことが、俺にできると思ってるんですか?」
 思わず反語を使った反論をしてしまった氷室に、今井は笑みを取り戻した。
「お前は少し慈恩に似てる。なんていうか、落ち着いた雰囲気みたいなのが。あいつは全然皮肉屋でも生意気でもなかったけどな」
「いや、似てるったって・・・・・・」
 ていうか、皮肉屋で生意気って。と、思わずぼやく。確かに自分はそんなキャラだと思っているが、面と向かってこの人に言われるとややへこむ。それを見て今井は笑んだまま、いや、とかぶりを振った。
「お前のそんなところが、斗音はきっと、頼りやすいと思う」
 やれやれ、と氷室は雪に濡れた髪を軽く払った。氷室としては、確かに野球が大切で、たくさんの人に推されたときにかなり迷った。けれど、如月祭での今井の手腕には憧れていた。純粋にすごい人だと思っていた。だから、やってみてもいいかもしれない、と思ったのだ。入ってみて、今井同様、副会長の斗音の誠実さにも惹かれた。華奢で、何だかよく青い顔をしていたし、時折その表情に翳りを見せることもあったけれど、仕事に手を抜くとか、楽をしようとかいう素振りを見せたことは、一度たりともなかった。効率よく手際よく工夫をしながら仕事を進める傍ら、今井を補佐すること、仲間を気遣うことを忘れず、人を優しく包み込むような雰囲気も持っていた。それでいて、何か人を動かさずにはおかないような、ある種のオーラもあった。それがだんだん弱々しくなっていったのも確かだったけれど。
「会長に言われると、ちょっと俺、弱いんですけど」
「へえ、初耳。俺に物怖じせずに意見するくせに」
「本当ですよ。あなたのことは尊敬してます。だからこそ、俺の理想像でいて欲しい。それだけです」
 ふうん、とやや考えて、今井は再び氷室を振り返る。

「分かった。じゃあ、俺はお前のためにお前の理想像でいる。その代わり、お前も俺の願いをきいてくれないか」
「・・・・・・副会長に、なることですか?」
「そうだ。来年は斗音の支えに徹して欲しい。その上で、会長を望め」
「この先二年間、俺をその言葉で束縛する気ですか?」
 やや呆れたように、そして困惑したように氷室が訊ねる。その視線の先で、生徒会長はふっと笑った。
「そうだな。お前の言うことは一理ある。なら俺は、一生お前の望む姿でいよう。それならいいか?」
「え・・・・・・?」
「それでもまだ釣り合わないか?」
 今度は氷室が笑わずにいられなかった。
「釣り合うも何も、それではあなたがあまりに気の毒です」
 平気でそんな言葉を、この今井が口にできてしまうほど、斗音の存在が重いということか。
「そうか?だって、俺は比較的俺らしくあればいいんだろ?別にそれほど大変なことじゃない。それに比べたら、甲子園の夢を背負わなきゃいけないお前にとって、この二年間はかなり厳しい」
 本気で言っているらしい今井に、氷室は荷物を持たない片手を軽く挙げた。
「降参です。副会長のことを大事に思うあなたの気持ちを尊重しましょう。俺もあの人の下でなら頑張ってやろうという気になるでしょうし」
 一瞬理知的な瞳をきょとんとさせた今井だったが、次に苦笑した。
「斗音も大事だけどな。お前も、それから俺が一応心血注いだ如月高校生徒会そのものも、俺にとっては大事だ。これを守ってもらいたいから、お前や斗音っていう、俺の信用できる人間に、俺の意志を継いでもらいたい。無茶を言ってるのは分かってる。でも、きっとお前たちになら・・・・・・なんて、ムシがいいんだけどな」
 目を瞬かせながらそれを聴いていた氷室は、小さくうなずいた。一つの家の前にたどり着いて足を止めた今井に習って歩みを止める。自分の方に傘を傾けたために雪の積もりはじめた今井の右肩をそっとはたいた。
「いいですよ。そこまであなたに見込まれたのなら、いっそ光栄です。でも、その前に・・・・・・」
 門柱の標識を確認して、明かりのついた家を見遣る。
「副会長の体調を何とかしないと、ですね」
 うん、と今井はうなずいた。やや躊躇ってから門柱のチャイムを鳴らす。インターホンに人の出る気配。
『はい?』
 その後ろで、なにやらがやがやと聞こえる。おい、何で出てんだよ、ここ人んちだぞ、などなど。思わず今井と氷室は顔を見合わせた。
「あの・・・如月高校の今井と申しますが、斗音さん、いらっしゃいますか?」
 不審に思いつつも今井が丁寧に名乗る。インターホンが応えた。
『あっ、今井さん?もしかして、生徒会長の?』
 なんか、聞き覚えあるぞ、この声。思わず今井は眉をしかめた。氷室が不思議そうに、そんな今井を見つめる。
「そう、だけど」
 渋るように応えた今井と、その隣にいた氷室の耳に豪快な声が聞こえた。
『あー!やっぱり!しかめっ面の今井さんでっしゃろ?ええねん、この人、俺の知り合いやて』
『何でここにお前の知り合いがいるんだよっ!』
『全国大会に来てはったんや。あっ、今開けますよって。待っとおせ』
「何スか、あれは」
 完全に呆れたように氷室が額にしわを寄せる。今井はがっくり肩を落として、思わず溜息をついた。
「インターハイの剣道優勝者だ」
「はぁ?」
 バタン、と勢いよく玄関が開いて、駆け寄ってきたのは結構身長のある大人っぽい少年。それがにこっと笑った。
「久しゅおすなあ。俺のこと、覚えててくれはりました?」
「お前みたいな強烈なキャラ、忘れたくても忘れられないだろ」
 綺麗だと思えるほどの切れ長の目が、きょろっと氷室を見る。
「こちらさんは?」
「うちの執行部の氷室。ところで隼、何でお前がここにいるんだ?」
 本当に力の抜けてしまったらしい今井であるが、隼の方は笑みを浮かべながらも困ったような表情になる。
「ややこしい話になるさかい、全部しゃべってたらあんさんら凍えてまうで。とりあえず、折角来はったんやから、入りぃな。斗音は、おれへんけど・・・・・・」
「え?」
 反射的に聞き返した氷室に、隼がまた困ったように笑む。
「せやから、ややこしいねん。この雪ん中、門前払いはあんまりやろ?な、今井さん?」
 返事を求められた今井は、氷室に真剣な目を向けた。
「寄っていくことに異存は?」
「ありません」
 どうせ寄るはずだったのだ。それに、何だかただならぬ様子を放っておくこともできなかった。
「ってことだけど」
 ものの数秒で答えを出した二人に、隼はちょっと大人びた笑みを載せた。
「そか。なら」

 隼の右手が玄関の方を示した。

   ***

 如月生徒会の二人が椎名家に到着するより三十分ほど前に遡る。
 ヘリコプターに乗ったのは慈恩と斗音、そして安土。本来なら二人しか乗せたくなかったらしいが、重量的には大丈夫だったし、危篤状態の斗音を慈恩だけで運ぶにはあまりに不安が大きかった。瓜生は確かにひどい殴打を受けていたものの、ボクシングで鍛えている身体であったためか、骨に異常はないようだった。巽という暴力団の一員に軽く診てはもらったものの、詳しくはレントゲンを撮らないと分からない、ということで、バイクで同じく病院に向かうことになった。銃創を抱えた三神は、そのまま斯波組の事務所まで運ばれた。どうやら巽という部下は少々医術の心得のある人らしく、東洋医学では取り出すのが困難な銃弾を、無免許の彼がこっそり手術して取り出す、ということになったらしい。
「あんな傷、普通の医者に見せたら警察に通報されちまうだろうが」
とは、安土の言であるが、普通でない医者の滝は、斗音に付きっ切りになるだろうから、そうする以外なかったのだろう。
 鳳と和田の到着は待たずに、すぐ近くのビルの屋上から、ヘリコプターは離陸した。二人に連絡をしたときにはすぐ近くまで来ているということだったため、近衛と隼は斗音の家で二人を待つことにした。近衛たちを乗せてきたヘリも、瓜生のバイクも、安土の部下たちの車も全て必要に応じてその場を去ってしまったのだから、二人はその場から動くことができなかったのだ。
「悠大、隼。悪いけど、戸締りとか何もできてないと思うから、よかったらここにいて連絡を待っててくれないか?戻ってこられるかどうかも分からないけど・・・・・・もし、帰ることができなかったら、渋滞がマシになった頃、鳳たちの車で帰ってくれればいいし、適当に泊まってくれてもいい。斗音の鍵がたぶん玄関の飾り棚の引き出しの中にある。それを、預けるから」
 痛みに凛々しい眉を歪めながら、真摯な瞳がじっと近衛を見つめた。うなずくしかなかった。隼も慈恩を元気付けるように、頼もしい大人びた笑みを見せた。
「ええよ。まかしとき。俺ら、泥棒とか絶対入らせへんさかい。火の用心とかもちゃあんとしといたる。お前は何の心配もせんでええ。斗音の傍についとったり。気ぃ済むまで、帰ってこんでええよ」
 漆黒の瞳から涙が零れて、すぐに慈恩はうつむいてしまったが、一言、ありがとう、とつぶやいた。
 隼は安土に抱きかかえられた斗音の髪を、あとからあとから降り注ぐ雪から守るように、優しく調えるように撫でて、切なそうに目を細めた。
「やっと会うたのにな。けど、慈恩はずっと、お前の傍にいてるから。せやから、はよう元気んなって、笑ろてな?」

 その様子を見ながら、安土は少し目を細めた。

 病院の屋上で雪の中、ヘリコプターを出迎えたのは、嵐と拓海だった。ヘリコプターの起こす突風に長い髪と白衣を弄ばれながら、拓海は颯爽と機体に近づいた。斗音をかばうようにしながらヘリコプターから降りた安土に、麗しい視線を鋭く投げる。
「斯波さん、患者の容態は?」
「意識はない。俺はかなりヤバイと判断した。たぶん、喘息の発作を頻繁に起こしすぎて、常に半発作状態に陥ってる上、肺炎を併発している。それだけなら、まだマシだが・・・・・・」
 珍しく安土が迷いを見せる。
「こいつの咳は、尋常じゃねえ。音もおかしいし・・・もしかすると・・・・・・いや、あとはお前に任せる」
「オペの準備をしろ、と嵐から聞きました」
「誤診はまずいと思うが、これは俺の勘だ。気管腫瘍の可能性を疑え」
「・・・・・・!」
 
拓海の美しい瞳が驚愕に見開かれる。次の瞬間、その瞳は険しく細められていた。

「雪と風がひどいので、扉のすぐ内側でストレッチャーが待機しています。そこまでお願いします。嵐、慈恩を整形外科の内海先生の方へ。斯波さんは俺と来てください」
 テキパキと素早い指示。言われた人間が個々にうなずく。

「おい、慈恩。お前も骨の位置だけとりあえず戻してやっただけだから、無理に動くんじゃねえぞ」
 
機内で筋肉の形を整えるという無痛整体を施してくれた安土が、そう言って降りたあと、身体を抱えるようにしてなるべく身体をひねらないように降りた慈恩を、嵐は傷に障らないように、それでも固く抱き締めた。
「ごめん・・・・・・!斗音をこんな目に遭わせてごめん!守ってやれなくて・・・・・・ほんとに」
 ごめん、と言う声は悔しそうでつらそうで、聞いている慈恩が苦しくなった。
「・・・・・・謝らないでくれ・・・・・・俺が、選択を誤った。ただそれだけのことだ。お前にも・・・・・・迷惑掛けた」
「迷惑なんて・・・・・・言うなよ。俺は・・・・・・言っただろ、お前ら兄弟が好きなんだ。友達として、本当に・・・大事なんだよ・・・・・・それなのに、お前も、斗音も・・・・・・こんな目に遭わせちまった」
 ヘリコプターのせいでひどく吹雪く雪に、頬を打たれる。まだ三神に殴られて熱をもつそこが気持ちよかったが、耳は冷たすぎて痛かった。きっと嵐もそうだろう、と思って耳や頬を庇うようにそっと嵐を抱いた。
「・・・・・・ありがとう。嵐がいてくれて・・・・・・よかった」
 慈恩に回された手にぎゅっと力が込められた。
「何でだよ・・・・・・馬鹿」

 嵐の声が震えていた。初めて聞いた、と、慈恩は心の隅で思った。

 レントゲン、そしてCTスキャンの写真を並べて、拓海は固く目を閉じた。気管に映る影。肺に映る影。肺の方は肺炎だ。しかも、かなり悪化している。気管の方も、勘、と本人は言っていたが、恐らくある程度診て推察をしていたのだろう。気管腫瘍だった。その周りにもひどい炎症が見られる。
「・・・・・・映ってるな。どうする?」
 診察用の固いベッドに、安土は行儀悪くあぐらをかいて、片肘をついている。
「手術・・・・・・できるか?あの衰弱ぶりはちょっと予想外だった。申し訳ない。もっと早くこうすべきだった」
「例えもっと早くにこうしてくれていたとして、肺炎とこれだけひどい気管支喘息の発作が併発しているだけで、本来なら死を覚悟してもらわなければならない。そして、そのときに俺はここにいなかった。考えても詮無いことです。それに気管腫瘍が加わった。それを処置できるとしたら、俺以外にないでしょう。ならば、今俺がここにいる以上、これが最善、と言えるかもしれません」
 開いた目に長い睫毛の影が落ちる。
「オペに必要な医師は、あなたの忠告のおかげでそろえてあります。技術は確かな医師ばかりです。・・・・・・これだけ免疫力が落ちていて、肺の細胞、気管支の細胞を多大に損なっていて、そこで気管支の方に腫瘍ができた。ということは、気管支に異常な刺激が加わり続けた結果生まれた突然変異の細胞。壊れた細胞の間に根付くことができてしまう細胞です。このまま回復を待つ間にも、まず気管支の周りでたちまち成長するでしょうし、下手をすれば弱った肺への転移が考えられます。検査の上ではまだリンパへの転移はないようですが・・・・・・まあ、一刻を争う、状態でしょうね」
 安土が片目を眇めた。
「やるしかねえってことか」
「・・・・・・ええ、そうです」
「あいつが術後に生存してる確率は?」
 拓海は再びその美しい瞳を固く閉じた。数瞬の沈黙の後、美声が静かにそれを砕く。
「三十パーセント、と言っておきましょう」
 ぐ、と安土が唇を噛んだ。付いていた肘を解き、ベッドの縁を手でつかむ。
「俺は普通の医者が執刀したときの確率を訊いてるんじゃない」
「これは、俺が執刀したとしての確率です」
 安土の喉が無意識に鳴った。
「・・・・・・なら、普通の医者が執刀したときの確率は?」
 拓海は伏せがちの瞳のまま安土に視線を流した。

「一パーセント未満でしょう」

 斗音が喘息の発作と肺炎を併発している上、気管腫瘍を患っており、このまま放置した場合その腫瘍の成長、転移が考えられること、そのために、早急に手術をした方がよいこと。それを告げてくれた拓海のその美貌がひどく翳っていて、慈恩はその深刻さを肌で感じざるを得なかった。そもそも、慈恩は喘息の発作と肺炎の併発の時点で、大切な人を一人失っているのだ。
「・・・・・・体力が、落ちてるけど・・・・・・大丈夫、なんですか?」
 自然に声が震えた。拓海は肯定も否定もしなかった。
「俺に言えるのは・・・・・・今何もしなければ、斗音の命がいつ消えてもおかしくないということだけだ」
「そん・・・な・・・・・・」
 膝ががくがく震えてよろめいた。安土がそれを支えてくれたが、へなへなと床に座り込むしかなかった。全身が、ひどく震えていた。頭が真っ白になって、全身から冷たい汗が噴き出す。
「・・・・・・手術には、本人か身内の承諾が必要だ。お前が許してくれるのなら、俺は全力を尽くす」

 もし、手術中に斗音の体力が尽きてしまったら、これっきり、二度と会えない。そういうことだ。しかも、その可能性がかなり高いというのだ。けれど、手術をしなければ、明日をも知れない命。生きて会うことは叶うかもしれないが、失う可能性は、今より飛躍的に高まる。
 
どうしようもない恐怖に、慈恩は震える指を同じように震える指で押さえ込もうとしながら、微かに首を横に振った。
「き・・・決められ・・・ない・・・・・・俺、には・・・・・・」
 嵐は縋るような視線を拓海に向けたが、淡紫色の髪を翻して、そのまま診察室を出ていった。それをわずかに見ただけで、拓海は微動だにしなかった。肩を抱くようにして支えてくれている安土が、耳元で囁いた。
「・・・・・・こいつは日本、いや、世界でも屈指の腕の持ち主だ。お前の兄貴を生かせる可能性を、一番高く持っている天才医師だ。・・・・・・俺なら、迷わない。こいつになら、俺は全てを託す」
「・・・・・・!」
 見上げた意志の強い瞳の持ち主は、強くうなずく。知らず、涙が溢れた。歯の根も合わないほど震えながら、慈恩は拓海を見つめた。翳ってはいても、あくまで静かな美しい眼差しと視線が交わる。言うことをきかない身体を、慈恩は必死に折り曲げた。
「と・・・・・・斗音を・・・・・・どう、か・・・・・・」
 床がハラハラと零れる涙に濡れていく。慈恩はぎゅっと目をつぶった。
「ど・・・どう・・・か・・・・・・お願い、します・・・・・・!」
「分かった」
 美しい旋律の楽器が奏でられたかと思うような声が、静かに返ってきた。
「・・・・・・ありがとう」
 すぐ近くにその低音の美声を捉えた。次の瞬間、頭に優しく手が置かれたのが分かった。ぎこちなく振り返ると、白衣の裾が翻るのが目に入った。目線を上げると、小さく振り返ってほんのわずか微笑んだ、優しい美貌が網膜に焼きついた。そのまま拓海が部屋を出るのを、ただ見つめる。
「・・・よく決心した」
 安土の腕が、背後から力強く慈恩を抱き寄せた。固く握り締めた慈恩の手を包み込んで一本一本丁寧に指を剥がし、何かを握らせる。
「あいつが握ってた。それ、お前のだろ」
 ひどく震える拳を、おそるおそる開く。赤黒いものがこびりついたそれは、紛れもない、母の形見だった。
「・・・・・・は・・・い」

 消え入りそうな声で答えて、慈恩はそれを握り締める。また涙が込み上げてくる。安土がそんな慈恩を優しく抱き締めた。

 部屋から優美とも思える仕草で出てきた拓海を、そのすぐ脇で壁にもたれていた嵐が、身体を起こして呼び止めた。
「滝さん・・・・・・!」
 やや驚いたように、拓海は美麗な眉を上げた。
「・・・・・・嵐」
 端整な顔に不安が色濃く刻まれている。それを縁取る淡紫色の髪が、その持ち主の顔を上げる仕草に揺れる。拓海はもの言いたげな嵐に、そっと微笑んだ。
「お前は俺を信じてくれるか?」
 こくり、と嵐は息を飲んだ。瞬時視線を逸らして躊躇う。

「・・・・・・考えたくなんかないけど、もし、斗音が・・・死んだと、したら、きっと滝さんはそれを自分の罪として抱え込む。・・・・・・そんなふうに、なって欲しくない」
 
きり、と顔を上げて、再び正面から拓海の視線を受け止める。
「俺が望むのは、それだけです。・・・・・・あなたの医師としての腕、俺は疑うことなんて知らない」
 笑みを消して静かに聴いた拓海は、そっとうなずいた。
「そうか」
 手を伸ばそうとした拓海に、嵐はわずかに身を引いてみせる。
「今の俺には、触れない方がいい」
「・・・・・・そうだな」

 非凡な安土をして天才と言わしめた医師は、ほのかに美しく笑んだ。

 ヘリコプターに遅れること一時間強、瓜生のバイクが病院に到着した。慈恩を診た医師が同様に瓜生を診察した。診察を終えたのは既に十時を回るころだったが、医師は嫌な顔一つせず、丁寧に診てくれた。
「骨に異常はないね。いい身体をしてる。打たれ慣れてるし、それ以上に打たれ強い身体を君自身が創り上げているんだろう。ただ、グローブで殴られるのと素手で殴られるのは訳が違う。みぞおち、右の脇腹、それに左の頬はかなりひどい打撲になってる。左のこめかみと右の頬も傷になってるね。この勢いでここにまともに喰らっていたら、死んでたかもしれないよ。気をつけないとね」
 言いながら自身の左こめかみを指した。改めて、瓜生はあの狂気の恐ろしさを思い知った。
 診察室を出ると、如月高校で知らない者はいない、淡紫色の髪をもつ異端児が、廊下の壁に寄りかかるようにして立っていた。
「・・・・・・怪我の方、どうでした?」
 端整な美貌には何の意図もうかがえなくて、瓜生は心の内で身構える。
「あなたと話すのは、初めてかもしれませんね」
 唇の端がわずかに持ち上がったのを見ると、笑って見せたのだろうか。それにしては、表情が険しい。
「・・・・・・俺を、知ってるのか」
「知っているか、と言われれば、俺は全校生徒の名前と顔くらいは覚えてると思うけど。瓜生さんのことは、そこらの一般生徒よりよっぽど知ってます」
 皮肉だろうか、と瓜生は不審に思う。もしそうなら、つまりそういうことだろう。自然に自嘲の笑みが浮かぶ。
「お前ほどの奴にでも、俺程度の小物の悪評が届くわけか。・・・・・・まあ、お前の大事な仲間に傷をつけた人間を、見過ごすはずもねえな」
 我ながら卑屈だとは思う。けれどそう言わずにはいられない。
 そんな瓜生を見つめていた嵐は、うつむいて視線を逸らし、今度こそその整った顔に浅い笑みを刻んだ。
「いや、むしろ逆。あんたには感謝してる。ずっと陰で斗音を支えてくれていた」
 ぎくりと瓜生が表情を強張らせる。ちらりと瓜生に目線を流して、軽くかぶりを振った。
「あいつは俺たちに事情を隠したがってた。・・・・・・それは、俺には寂しかったけど、でもあいつが立ち直るためには、あんな非道で残酷なことを知らずにいてくれる仲間が必要だとも分かった。あいつがされてたことを知った人間の、どれだけがあいつに同情せずにいられる?前と同じ接し方ができる?瞬だって、翔一郎だって、どうしても見る目を変えてしまう。全て知った上で包み込むには、俺たちは対等で身近すぎた」
 綺麗な顔が悲しみを湛える。上級生から見たら、自信過剰で生意気に捉えられがちの少年だったが、こんな表情を見ると、それが偏見でしかないのだと、瓜生は悟る。これほどの能力を兼ね備えた人間でも、思い悩む一人の未熟な若者なのだ。
「俺は本当に何もしてやれなかった。でも、あんたがいてくれたから、あいつは救われてた。瓜生さんのことに気付いたのはほんの偶然で、たぶん俺以外に知ってる奴はほとんどいない。だから・・・・・・そういう意味では心配する必要はないと思う。あんたは周りのこと、気にしすぎだとは思うけど。でも斗音のことをすごく思って大事にしてくれてた」
 瓜生は小さく溜息をついた。なんと鋭く、思慮深いことか。確かに、凡人ではない。自分が敵う相手でも、ない。それも悟った。
「・・・・・・類は友をってヤツか。あいつの周りには、でかい器がそろってやがる」
 いったん言葉を止めて、深く息を吐いた。溜息ではなく、躊躇を振り払うための。
「あいつ・・・は、どうなった?」

 ずっとずっと心に巣食った不安に、少なからず苛まれ続けていた。言葉にするのも、躊躇うほどに。
 
瞬間、嵐の瞳が険しさとつらさを浮かべた。
「・・・・・・まだ、答えを聞いてなかった。あんた、怪我は?」
 よく考えれば、最初の対応に比べ、ずいぶん横柄になっていたが、嵐の表情の険しさに、瓜生は息を飲む。
「大したことは、ない。ただの打撲とかすり傷だ」
 嵐の形よい唇から、微かに吐息が零れた。

「・・・・・・よかった。じゃあ、俺と来てください」

 慈恩の身体は、肋骨の骨折に加え、受けた衝撃から言えば内臓破裂の危険性すら案じられた。が、これも鍛えた身体が幸いして、強いて言うなら「内臓の打撲」程度でおさまっていた。しかし、衝撃が加わった際に胃が強く圧迫され、胃壁の一部が傷ついたらしい。血を吐いたのはそのためだった。頬はとりあえず打撲で済んだ。
 安土に肩を抱かれたまま、本来なら安静にしていなければならない身でありながら、手術室の前で小刻みに震えているのは、痛みのせいなどではなかった。身体の、心の奥底から来る震えを、そして涙を、慈恩はどうしても止めることができずにいた。
「・・・・・・・・・・・・」
 ただただ、見覚えのある鎖を握り締め、打ち震えるその姿を、瓜生は信じられない思いで目にした。
「・・・・・・慈恩・・・・・・横になってなきゃ駄目だ」
 苦しそうに掛けた嵐の言葉が、耳に入ったのかどうか。慈恩に動きはない。代わりに高級そうな毛織のシャツの上にこれも劣らぬ高そうな黒のジャケットを羽織り、長い脚を大きく開いて堂々と腰掛けながら、力強く震える肩を抱きしめている暴力団の組長が、軽く首を振った。
「好きにさせてやれ。死にはしない」
 その言葉に、びくりと慈恩の肩が揺れる。それを、安土は痛ましく見つめた。
 瓜生は部屋の入り口に赤く点灯された文字をじっと睨む。斗音が手術中だということ、決して楽観できる状態ではないことを、嵐から聞かされた。それは少なからず瓜生の不安を掻き立てたが、その反面、何だか実感できずにいた。
(椎名が、死ぬかもしれない・・・・・・)
 そう心でつぶやく。ひどく痩せて、意識も定かではなくて、声も出なくて、のた打ち回るように激しい咳をして。思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。けれど、確かに生きていた。その命がなくなるというのが、どうしても納得できなかった。あのまま、斗音と別れてしまうなんて、にわかには信じられない。
 慈恩はそれを実感しているのだろうか。どう見ても堅気ではない男の様子も、やはり深刻そうで、それが感じられないのは、一体自分に何が欠けているからなのだろう。
(・・・・・・俺がお前を思う気持ちは・・・・・・その程度、なんだろうか)
 そう考えると妙に心が締め付けられた。その切なさと息苦しさに、思わず心臓の辺りをくしゃっとつかむ。

(・・・・・・あいつの笑ってる顔が、見てぇ・・・・・・)

   ***

「え・・・・・・?それ、今から、なんか?」
 ひどく驚いた声に、今井、氷室、近衛、鳳、和田が一斉に隼を振り返る。今井たちがこの家に来訪して三十分ほど経過していた。突然隼の携帯が鳴ったのである。オレンジの携帯を慌てて持ち直すようにして、隼は問いを重ねる。
「東雲、そんで、斗音、どこ悪いん?」
 それきりしばらく相手の声に聞き入る隼を、全員が固唾を飲んで見守った。
 近衛と隼は、鳳と和田、それから今井と氷室に、自分たちの見た限りを同じように二度話した。鳳と和田は全てが初耳で、慈恩にそんな複雑な事情があったことを初めて知り、ひどく驚いた。今井と氷室は逆にある程度のことは知っていたが、まさか斗音がそこまでひどい状態になっていたと聞いて、黙りこくった。そこへ、この緊迫した電話。否が応でも空気は張り詰める。
「・・・・・・そか。・・・・・・分かった。こっちのみんなには伝えとくよって。あ、せや、こっちにな、斗音のこと心配して生徒会長の今井さんと、あと氷室ゆう人来てはるで。・・・・・・ん、了解や。・・・・・・うん、ほしたらな」
 通話を切った隼は、思いっきり集中した視線に、一瞬ぎょっとする。
「何だって?」
 鋭い語調の今井にややたじろいで、それから茶化しもおどけもせず、その切れ長の瞳を翳らせた。
「東雲から・・・・・・慈恩と瓜生ゆう人は、怪我はしてるけど無事やて。けど、今日はとても帰れへんて。・・・・・・斗音が今から、手術、する・・・らしいわ」
「手・・・術・・・・・・?何の」
 更に身を乗り出す今井に、しゅん、とうなだれる。
「気管に、悪性の腫瘍があるんやて」
「えっ!?癌・・・って、ことか?」
 思わず声を上げたのは和田。その場の全員が、それを聞かずとも承知していた。
「・・・・・・そん、な・・・・・・」
 氷室がつぶやく。それが早期であれ、もし本当なら長期の入院ということになるのではないか。会長どころの話ではないかもしれない。
「ちょっと待ってくれ。斗音って、慈恩の兄さんだろ?あんな状態で手術だなんて、有り得ない。だって、意識もなかったんだ。それに・・・・・・とてもじゃないけど、手術に耐えられる体力があるとは・・・・・・」
 語尾を濁して、近衛は押し黙った。つまり、それでもやらなければならないほど、切羽詰った状態にあったということか。
「・・・せや。危険な状態やて・・・ゆうてはった。けど、最高の医者が執刀してくれはる、って」
「最高の医者?そんな人、どこに・・・・・・ドイツには高名な医者が何人かいると・・・聞いたことが、あるけど」
 鳳が曇った表情のまま、独語する。隼は、わずかにかぶりを振る。
「その辺は、俺にも分からへんけど・・・あの東雲が、それだけはえらい自信もってゆうてた気ぃする。せやから、たぶん嘘やないと思う」
 歯を食いしばっていた今井が、長く吐息した。
「・・・・・・そうか。・・・・・・俺は、本当に何も分かっちゃいなかったんだな。けど、今更どうしようもない。俺たちは今この場では、ただの役立たずだ。できることは、一つだけ」
「・・・・・・副会長の、フォローですか?」
 氷室の問いに、シニカルな笑みで答える。
「そうだな。俺とお前にできるのは」
「・・・・・・俺たちは、九条の・・・・・・支えになれたらいいな」
 つぶやいた鳳に、和田がうなずく。近衛は知性をうかがわせる眉を寄せ、吐息した。
「あの兄さんのこと、慈恩は本当に大事にしてたみたいだからな。あいつがあんなふうに取り乱すなんて、考えたこともなかった。・・・・・・兄さんが、助かるといい。・・・・・・その上で、あいつがまだ桜花に残ってくれるのなら・・・・・・俺は頼ってもらえる存在になりたい」
 その言葉に、鳳と和田ははっと近衛に視線を合わせる。その前で近衛は自嘲した。
「知ってたんだ。あいつが家の都合で桜花に転校させられたこと。いつか俺に言ってた。如月を卒業したかったって。すごく大事な友達や仲間や・・・・・・兄貴がいるんだって。・・・・・・こんなことになって、九条の家がどう出るかは分からないけど・・・・・・もう慈恩は、あの兄さんの傍を離れるなんて、考えられないだろうと思う」
 ほんの少し見ただけだったけれど、それでも保護意欲を掻き立てられた。そんな存在を、あんなふうに貶められて、きっと慈恩は傷ついているだろう。きっと、自分を責めるだろう。それを慰める術など、今の自分は持たない。だから、今井の言うとおり、役立たずでしかない。それで病院に押しかけようとか、無謀なことも思わない。ただ、戻ってきてくれるのなら・・・・・・今度こそ、支えたい。近衛はそっと胸に誓う。
「九条がいなくなるなんて、俺としては考えたくないんだけど・・・・・・なんだか、素顔の近衛を見た気がする」

 優しく笑った鳳に、苦笑する和田。今井は氷室と顔を見合わせた。

   ***

 手術室の前の空間は、間違いなく外の世界から取り残されている、と、そこにいる誰もが思った。瓜生は何度も時計を確認して、その度にほんの十分そこそこしか進んでいないことに、舌打ちをしたくなった。嵐は一度仕事で呼び出しを受けたが、「今は勘弁してくれ」と一蹴し、それ以降は時折慈恩を気遣いつつも、長いすに座ったまま、じっと固く組んだ指を額に押し付けていた。慈恩に至っては、時間が経つにつれ、その心の内に恐怖からくる激しいストレスを蓄積し、痛めつけられた内臓と肋骨が訴えてくる不快感や痛みにも次第に強く苛まれるようになった。時折倒れそうになる慈恩を、その度に安土は支えた。
「お前、ボディーブローで吐血してんだろ?手の施しようがねえから治療してねえだけで、身体にはひどい負担がかかってるんだ。骨折だって、してるだけで体力は消耗する。少し横になれ」
 それが四度目にもなると、さすがの安土も不安になったらしく、渋みのある深い声で、安土には珍しいほど優しく促した。それでも頑なに、慈恩は拒絶した。
「・・・・・・すみません・・・・・・・・・・・・ただ・・・・・・あいつが・・・・・・闘っている・・・・・・間は・・・・・・」
 相当気分が悪いらしく、顔色も悪かった。それがそう言うのだから、安土としても困惑の小さな溜息をつくしかなかった。
 斗音が目覚めたときに、お前まで倒れてたら話にならないだろう。
 そんな言葉が言えたら、どんなによかったか。しかし、その言葉はむしろ慈恩の心の負担を重ねるだけだと、誰もが分かっていた。斗音が目覚める可能性は、三割しかない。
 深夜の一時を回り、心痛の疲労が慈恩以外の三人にも圧し掛かり始めたとき、不意に空間の色が一つ失われた。瓜生がはっと目の前の部屋の表示を見上げる。
 ランプが消えていた。
「慈恩!」
 同じようにそれを乗り出して見上げた慈恩の身体が、ぐらりと傾ぐ。小さく叫んで、安土がそれを抱きとめた。
「・・・・・・この緊迫感は、慈恩にはあまりに酷だ」
 嵐が息苦しそうに唇を噛む。安土も眉根を寄せる。その腕の中で、慈恩は自分の心臓にクロスのペンダントを押し当てた。
「・・・・・・斗音・・・・・・!」
 静かにオペ室のドアが開き、オペ用のブルーの着衣をまとったままの滝が現れた。ふと慈恩の姿を目に留め、汗の滲んだ帽子をとりながら歩み寄る。
「・・・・・・貧血を起こしてるな。よく意識を保っていられたものだ。斯波さん、あなたがついていながら?」
「すまん。どうしても・・・・・・休んでくれなかった」
 申し訳なさそうに言って、今にも長いすから落ちそうな慈恩の身体を、身を乗り出して支え直す。
「慈恩・・・ベッドを用意する。横になれ」
 慣れた仕草で美しい髪を掻き上げる。こちらも慈恩の前に片膝をついて、その長い指で蒼白の頬をそっとなぞった。
「・・・・・・つらかっただろう」

「先生・・・・・・斗音・・・は・・・・・・?」
 
言葉にするのが苦しくて、慈恩は心臓が、胸が破裂しそうに感じた。その答えを聞くのが、怖くて怖くて、どうしようもなくて。
 その漆黒の髪を優しく撫でて、拓海は静かに、美しい微笑を浮かべた。
「予断は許さない。・・・・・・でも、生きている」
「・・・・・・あ・・・・・・・・・ぁ・・・・・・」
 まだ枯れていなかったのかと思うほど、新たな涙がいっきに込み上げてきた。よかった、と唇が動いた。
「おい、慈恩!」
 ふつりと意識の途切れた身体は、安土の腕に抱えられる。その閉じた瞳から頬を伝って、二つの雫が床に零れた。慌てて嵐が駆け寄るのを、拓海が軽く制する。
「大丈夫。斯波さんに任せればいい。張り詰めていたものが途切れただけだ。むしろ、意識があったこと自体が普通じゃない。・・・・・・大した精神力だ」
 肺の中にあった空気が全て吐き出されたかと思うほどの大きな溜息をついて、安土は苦笑した。
「全くだ。・・・・・・しかし、お前も大したもんだな」
 拓海の美しい眉が訝しそうに寄せられる。
「どうして?」
 ふっ、と吊り上がる口角。安土らしい笑みだった。
「たった三時間で終わらせるとは。しかも、患者の体力を少しでも損なわないように、内視鏡を使って、だろう?」
 拓海は結わえた長い髪をほどいて軽く首を振る。金色に見える美しい髪がその背で波打った。前にこぼれたそれを後ろに流しながら、応えるような笑みを、浮かべる。
「顎の下と首筋、それから腹部に何点か針を打った痕がありました。俺に針は打てませんが・・・・・・あれは確か、呼吸器系と体力回復の経絡だったと記憶しています。それに、炎症を抑え、免疫力を高める薬のようなものも、検査に出ていた。・・・・・・正直厳しいオペでした。なのに、奇跡的にあの微々たる体力が落ちなかった。本格的な発作も起きなかった。どちらか一つでも欠けていたら、あの子は生きていなかったでしょう」
「・・・・・・あの」
 美しいという言葉が陳腐に思えるほどの麗しい医師と視線が合うのを確認して、瓜生は軽く頭を下げた。
「あいつは・・・・・・斗音、は・・・・・・生きて、いられますか」
 長い睫毛の下、透き通るようなあめ色の瞳が、ほんのり細められる。
「現段階で予断を許さない、というのは本当だが、俺が診ることのできる三日間で、許す状況にまでしてみせる。とりあえず今夜と明日一杯。それを越えれば本来の寿命をまっとうできる」
 流れるような美声。しかしそれは、弱々しさではなく自信と確信に裏付けられていた。はっきりとそれを耳にした瞬間、思いもよらず膝が折れ、瓜生はそれを床についた。はた、と一粒雫が落ちる。それが自分の目から零れたのだと知り、目を見開いた。
(・・・・・・涙・・・・・・?)
 豪奢な花が開くように、拓海は優しい笑みを載せた。
「そうか・・・・・・お前も、斗音を大事に思っているんだな」
 その美しい微笑みに、瓜生は思わず深く頭を垂れた。

「・・・・・・ありがとう・・・・・・ございました・・・・・・」

 安土は結構身長のある慈恩の身体を軽々と抱き上げて、拓海に指定された病室へ運んだ。瓜生はストレッチャーで運ばれる斗音について、集中治療室の方へ行った。残されたのは、膝をついたままの拓海とただ立ち尽くす嵐。
 運ばれていった斗音と慈恩を見送って、嵐はようやく拓海の脇に片膝をつく。
「・・・・・・人を気遣う余裕なんて、本当はないくせに・・・・・・無理をして」
 美しい眼差しが嵐を捉える。優しい微笑みが浮かぶ。
「いつもの数倍集中したから、ちょっと疲れただけだ」
 長い綺麗な指が淡紫色の髪にそっと伸びる。

「もう、触れてもいいか?」
 
嵐の端整な顔に切なさが浮かび上がった。小さくうなずく。その身体を、拓海はゆっくり包み込んで、深く息をついた。

「・・・・・・会いたかった」

集中治療室に運ばれた斗音は呼吸器を取り付けられ、点滴を打たれ、様々な機材に囲まれた。首には包帯が巻かれ、白皙の頬はやつれていた。それでも、確かに呼吸をして、心拍を刻んでいる。
 
生きている。
 
その姿は痛々しかったが、瓜生は心底安堵した。生きていてくれた。あれが遺体だったかもしれないと思うと、今更ながら背筋が凍りつきそうになる。
「・・・・・・よかった。本当に・・・・・・本当によかった」

 誰もいなくなったそのガラス戸の前で、瓜生は濡れた目尻をぐい、と拭った。

「お前みたいな奴が、俺も部下に欲しい」
 蒼い顔のまま、まだ意識の戻らない慈恩に、安土はつぶやいた。
「ちょっと、危なっかしいけどな」
 ふ、と苦笑する。斗音に手術を受けさせることは、安土にとっても拓海にとっても必然だった。けれど、その命が失われる可能性を考えると、まだ若いこの少年に決断させなければならなかった。それをそそのかしたのは自分であり、どれだけ重いものを背負わせたのかは、よく分かっていた。身体的にダメージを負っていることも承知の上で、背負わせた。だからこそ、その責任は自分が負ってやらなければと思った。
 気を失っても固くペンダントを握り締めている慈恩の手を、優しく包んでやる。
「斗音も気絶してるくせに、こんなふうに握ってたな。遺伝子的にどうかはしらねえが・・・・・・お前らはほんと、よく似てる」

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五十.心の求めるもの

 外ではますます雪が積もっていく。中ではますますテンションが上がってくる。
「せやろせやろ?せやから、さっきからゆうとんねん。慈恩は俺の永遠のライバルやて」
「分かるよ、だって、九条はやっぱ体裁きとかも格が違うんだ」
「隼も動き見えないしな。全国大会でも、素早く相手の背後に回り込んだりしてたよな?」
「なんか、最初もゆらっとして見えるんだよな。あの不思議な動きで、惑わされるよな」
「そんなもん、格闘家の端くれやったら大抵身につけるもんやろ」
「格闘家・・・・・・剣道でも格闘って言うのか?」
「つーか、身につけてねえし」
 あちこちで笑いが起きて、その中心にいるのは隼で。その隣にいる慈恩も、否応なしに巻き込まれていく。やはり剣道が好きなのだ。慈恩も時折苦笑を交えながらも、いろんなところで真剣に議論を交わしている。
「フェイント、に近いよな。行くぞ行くぞって見せかけるのと同じで、それを最初から、こっちに行くと見せかけるのをいくつもやって、相手に行くところを絞らせなかったり、勘違いさせたりする。目の錯覚も使って、思ったより遠くに見せたりもしてるな」
「当然や。そっから試合の駆け引きは始まっとんねん。これは、相手の前に立った瞬間に分かるで。慈恩もやってることやん」
「強い相手になってくると、使わざるを得ない」
「俺たち、使われてるか?」
 慈恩は苦笑する。
「仲間にあまり手の内は見せたくないっていうか。フェイントは知らなくて初めて通じるものだし」
「仲間とやる可能性があるんやったら、絶対見せへんよ。そんでな、練習中から狙いつけとくんや。自分はこうやて、相手に印象付けとくねん。その裏掻くためにな」
「ああ、インターハイの決勝の」
 言わなくても理解できる慈恩に、隼は気を良くする。
「せや。よう分かってくれてんねんな、お前は。あん時の小手は三ヶ月前から、俺用意しとってん」
「飛馬さんが、俺に突きで一本取ってたことも、計算に入れてただろう?」
「あの人、普段の練習中でも、結構突き使わはるんや。実は、これもわざと練習中に何回かやられといた。ほんまは俺、突きなんか絶対喰らわへん自信あんねんけどな」
 さすがの慈恩も目を瞠った。
「そこまで・・・・・・」
 隼はノンアルコールのスパークリングワインの五杯目を喉に流し込み、肉汁の滴る厚いローストビーフを口に押し込む。ん~~、絶品や、と幸せそうに唸ってから、にやっと笑う。その笑みには自信の程がうかがえる。
「念には念をや。あの人はほんまに強かったさかいな。俺よりひとまわり身体も大きかったし、力ではかなんて分かってるし。俺は絶対あの人に負けるわけにはいかんかってん。お前の前にあの人に当たる可能性もあったさかいな。全てはお前とやりたいがため、や」
 思わず近衛が肩をすくめる。
「すごい想われようだな」
「当たり前や。こいつの本気の剣道見てみ。ゾクゾクするで。次は何やらかしてくれるんやろて。たぶんこいつやったら、俺、自分の持ってる全ての技術出し切れるんちゃうかなって。そんな想像するだけで、ほれ見てみ、こんななるで」
 上着の袖を捲って見せる。剥き出しになった腕を見て、桜花剣道部は驚きの声を上げた。
「うわ、鳥肌立ってんじゃん!」
「お前ほどの奴でも、そんなふうになるんだ」
「今がパーティーやなかったら、俺ソッコーで試合やってくれて申し込んでるで」
「よく言うよ、全国大会優勝チームの主将が」
「何ゆうとん。個人戦やったら、お前決勝まできとるやろ」
「おい、隼!」
 隣から肘でつつかれて、隼は大人びた切れ長の二重の瞳をぱちくりと見開く。ん?と言いたげな表情。
「まあ、団体だとどうしても僕らがお荷物になっちゃうからなあ」
 カリカリと頭を掻く東坊城の姿を見て、あっ、と声を上げる。そして、同じように短い髪の中に指を突っ込んで同じようにカシカシと掻いた。
「またやらかしてもた・・・・・・かんにん、な。ほんま、そんなつもりやないねん。俺、桜花のチームも悪ない思うで。まだ荒削りなとこあるけど、鍛えようで強なる思とんねん。ほんまや」
 心の底から申し訳なさそうにする様子が、また何ともいえず愛嬌があって、憎めないキャラだ。桜花のメンバーは顔を見合わせてから、一斉に吹き出した。
「これで高校日本一の剣士だってんだから、なんか調子狂うよな」
「お前、黙って剣道やってりゃ、絶対モテるのに」
「しゃべれへん俺なんて、俺ちゃうて」
「ま、そりゃそうだ」
 更に爆笑。隼はちらりと慈恩に視線を投げる。
「慈恩やったら、しゃべっても剣道しとってもしとらんでも、モテるやろうけどなあ」
「いや、そんなことは・・・・・・」
「あ、こっちもちょっと天然だった」
 けたけたと和田が笑う。隼は大いにうなずく。
「せや、お前がモテへんわけあれへんがな。気付いてへんのやったら、俺に負けてへんボケやで」
 言い終わると、東坊城が継いでくれたワインを、更にぐいっと飲み干した。そして、おもむろに立ち上がる。
「あかん、飲み過ぎや。ちょお、手洗い貸してな」
「ああ、それなら廊下に出てすぐ・・・・・・」
 近衛が説明しようとすると、にこぉっと笑って目の前でひらひらと手を振った。
「了解や。なあ、慈恩。案内してんか?」
「は?」
「お前知ってんねやろ?ほらええから、はよ立って」
「案内って、するほどの距離じゃ・・・・・・」
「つべこべゆわんと、はよせえて」
 滅茶苦茶強引に急かされて、慈恩は仕方なさそうに腰を上げた。
「分かった分かった。こっちだよ」
 廊下に出たところで、すぐ目の前にある扉を指差す。
「ほら、あの・・・」
「俺、外見たいねん」
「は?」
 ぐい、と慈恩の手首をつかんで、隼がぐんぐん引っ張っていく。
「え、ちょっと、隼・・・・・・」
「お前と一緒にいてると、楽しい。話もおうてるし、もっとずっと剣道のことしゃべっとりたい。あの仲間も、ええ仲間や。如月の仲間もそうやった。それはお前がいてるからや。お前がいてると、剣道やってる人間はほんまに強なりたいて思うんや。そんで、強いお前を尊敬して信頼して、頼る。お前はどこにいてても、人の支えになれる人間や」
 靴をはき、屋根のある通路まで来ると、外の気温が冷たく二人に襲い掛かる。雪は既に五センチほど積もっている。その中で、隼はくるりと慈恩に向きなおり、真っ白な呼気とともに、言葉を吐き出した。
「斗音には会うたか?あれから、ちゃんと会うてるか?」
 思わず慈恩は言葉を失う。唇を噛んでうつむいた。その両腕をつかんで、隼は強く揺さぶった。
「誰の支えになっとってもええよ。けど、一番肝心なとこで、支えたらなあかん一番大事な人間、ほかっといたらあかんやろ!せやから、それ自分で思てるから、お前元気ないんちゃうんか」
 言葉が痛い。心に突き刺さる。同時に、斗音に告げられた片時も忘れることのできない言葉も、慈恩を苛む。
『・・・・・・・・・・・・もう、来ないで。・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・お前に、・・・・・・・・・・・・・・・会いたく・・・・・・ないよ』
「・・・・・・どうしろっていうんだ。電話にも出てくれない。会いに行ってもいない。あいつの言葉は信じたくないけど、それでも必死に訴えるんだ。会いたくないって!俺は・・・・・・俺はどうしたらいいんだよ!」
 ぎゅっと握り締めた拳が震える。隼がぐっと眉根を寄せた。
「会いたないなんて、嘘や。そんなことも、分からへんのか?」
「嘘・・・・・・だったら、どんなにいいか。だけど、嘘じゃない。あれは、嘘をついてる言葉なんかじゃない!」
 つかまれた腕に、隼の指が食い込む。
「そんでも!心のどっかで、斗音がお前を求めてへんわけがない!お前にそないなことゆうのは何でや!弱ってる自分を見せて、お前を心配させたないでちゃうんか!」
「・・・・・・隼」
「ゆうたやろ、お前考えすぎやねんて!俺から見たら、そうゆうふうにしか思われへんよ。もっと単純に考えたらええねん!斗音もお前も、まわりくどいて!」
 隼が慈恩の目をのぞきこむようにして訴えかけた瞬間、慈恩の携帯が美しいメロディを奏で始める。互いに見合ってから、慈恩がポケットのそれを取り出した。

「・・・・・・嵐?」

   ***

 俺は今何をしてるんだろう。何もできない。身体に力が入らない。思うように呼吸ができない。気管がどうかしてしまったかもしれない。発作が起きたわけでもないのにずっと違和感があるし、喘息の薬も効かない。咳をすると苦しいなんて言葉が可愛らしく思えてくるほどの激痛と苦痛が襲ってくる。下手をすると咳の拍子に血の霧が呼気に混じる。喉のどこかが切れてしまったのだろうか。それに、もうこれが平熱になってしまっているかのごとく下がらない熱。三十九度を切ることはなくなってきている。自分が意識を保っているのかどうかもよく分からない。ふと目にする枕元の時計はいつも思いのほか、針が進んでいるから。
(さっき・・・・・・五時くらいだったのに・・・・・・もう、七時過ぎなんだ・・・・・・朝?夜?・・・・・・暗い・・・ってことは・・・まだ、今日?・・・・・・あぁ・・・・・・息苦しい・・・・・・息が、肺に、届かない・・・感じ・・・・・・)
 目の前の暗い部屋が霞む。涙?それとも、また意識が朦朧としているのだろうか。もう本当に、生きているのが不思議だと思う。どうして死なないのだろう。このままでいれば、たぶん死ぬ。あと何日もつだろう。明日まで自分の魂は、この身体につながっているだろうか。
(死ぬ・・・って分かってたら、あれもしたいとか、これがしたかった、とか、考えると思ってたけど・・・・・・何かができる気もしない・・・・・・何かしたいなんて・・・・・・考える気力もない・・・・・・)
「・・・・・・斗音さん。気がついて、いるんですか?」
 突如、視界を遮る黒い影。ああ、と、脳の片隅で納得した。死神だ。ついに迎えが来た。
(・・・・・・ああ、もし、望んでもいいのなら・・・・・・慈恩・・・・・・それに、瓜生さん・・・・・・嵐たち・・・・・・みんなが俺を思ってほんの少し、悲しんで・・・・・・でも、あとは忘れてくれたらいい。俺の死に囚われたりしないで、笑ってくれたら・・・・・・いいなぁ・・・)
 自分が大好きだった人たちの笑顔を思い浮かべると、少し幸せな気分になった。血の気の薄い唇が、ほんのり笑みを載せる。
「・・・・・・斗音さん?笑って・・・・・・いるんですか?少し、薬が効いたかもしれませんね。点滴ばかりでは本当に身体が参ってしまう。今、何か食べられる物を作ってきますから。少しは口からものを摂取すべきです」
 声が耳から入ってきたが、理解するには至らなかった。そのまま黒い影は去る。
(・・・・・・あれ・・・・・・、消え・・・た・・・・・・?)
 まだ生きられるのかな?などとぼんやり考えた瞬間、傷だらけの携帯がぼうっと光った。次いで聞き慣れた電子音。大事な友人から掛かってきたときに鳴る音楽。
(・・・・・・どうして?ひどい言葉を、送ったはずなのに・・・・・・)
 ずず、と手を伸ばす。まだ動けたことに、少し驚いた。携帯の小窓の文字は「嵐携帯」と表示されている。
(・・・・・・嵐・・・・・・)
 大体あの三人の中で掛けてくるのは瞬か翔一郎で、その近くに嵐がいて、嵐と話すことになることが多かった。嵐が、自分の今の状況を少なからず把握しているだろうということは、薄々分かっていた。そもそも、あの嵐が気付かないはずがない。それでも、大切な仲間たちにこんなおぞましい姿を知られたくないと思っている自分を思って、嵐は知らないふりをしていてくれた。恐らく、あの二人に気付かれないようにも、気を遣ってくれていたに違いない。
 その嵐が、なぜ?と思った。同時に、嵐なら、と思った。
 もしかして、嵐なら・・・・・・あの死神を何とかしてくれるかもしれない。そうしたら、生きていられる。みんなの笑顔を、もう一度この目で、見ることができる。
 そう思った瞬間、自分が泣いていることに気付いた。そして、悟る。
(・・・・・・俺の大好きなみんな・・・・・・みんなの笑顔が、俺は見たい。・・・死にたくない!俺は・・・笑ってるみんなの中にいたい!)
 通話ボタンを押す。
『・・・・・・斗音?斗音、か?』
 紛れもない、嵐の声。嵐の声以外、何も聞こえてこない。嵐、一人なのだろうか。
「・・・・・・嵐」
 そうつぶやいた。声には、ならなかった。空気が小さくこすれるような音が、微かにその名を紡いだ。
『斗音・・・なんだな?・・・・・・よかった。・・・・・・ずっと、ちゃんとお前と向き合わなきゃいけないと思ってた』
 やっぱり。嵐は、気付いていた。だったら、今更隠す必要なんてない。助けて欲しい。あの、死神から。伝えなくちゃ。意識があるうちに。息苦しさに喘ぎながら、必死に言葉を絞り出した。
「・・・・・・嵐・・・・・・助・・・けて・・・・・・」
 それだけ言うのに、意識が朦朧とするほど呼吸が困難を極めた。それでも、涙は止まらなかった。声はやはり擦れ過ぎて、音というにはあまりにお粗末で、むしろ震える呼気にわずかに音が混じる程度だった。それでも嵐は確かに聞き取ってくれたようだった。ひどくつらそうな声が返ってきた。
『・・・ごめん。ごめんな。滅茶苦茶つらい思いさせちまって。もっと早くに何とかしてやるべきだったのに。俺は・・・・・・怖かった。お前を精神的に追いつめちまうかもしれないと思うと、どうしても動けなかった。・・・・・・そうやって、逃げてた。けど・・・・・・もう逃げねえ。俺はお前を助けたい。あの男に、これ以上好き勝手は、させねえから』
 震えるその言葉を聴覚が感じた途端、今まで耐えてきたものが一気に込み上げてきた。どっと溢れる涙に、嗚咽が零れる。しかし、嗚咽を許すほど斗音の気管はまともに働いてはいなかった。激痛と耐えがたい苦痛を伴うひどい咳が同時に込み上げ、携帯に細かい血の粒が飛び散った。
『斗音?!しっかりしろ!斗音!』
「・・・・・・死、に・・・たく・・・な・・・い・・・・・・」
『斗音!斗音!』
 鼓膜を震わせる嵐の声が、一気に遠のいた。くらりと意識が歪む。立て続けに出る咳が、いっきに現実を奪っていく。
 ・・・やっぱり、駄目かも。でも、嵐なら、きっと・・・・・・それまで、せめてそれまで。
(神様・・・・・・俺を、連れて行かないで・・・・・・)

 苦し紛れにつかんだのは、手に巻きついた鎖と、握り締めたままの十字架。

   ***

「斗音がおかしい!声も出ないし、咳も・・・・・・こんなの、聞いたこともない・・・・・・!」
 蒼白になった嵐の手から携帯を取り上げて、安土はそれを耳に押し当てた。その瞬間、ぎりっと眉根を寄せる。
「おい、お前今すぐ空港に行け。もうすぐ滝が到着するはずだ。バイクなら車の間を抜けていける。迎えに行って、そのまま病院へ直行。手術の準備をさせろ。一分でも、一秒でも早い方がいい。俺はこいつを迎えに行く」
 嵐の目が驚愕に見開かれる。
「・・・・・・なん・・・で・・・・・・?」
 ち、と舌打ちして、安土は自分の携帯を開いた。
「説明はあとだ。遅れたらあいつは死ぬ。滝には、ひどく弱ってる気管支喘息の人間の気管支がいかれてるって言っとけ。あいつなら分かる」
「分かった」
 それ以上何も言わず、嵐は上着を羽織った。ポケットに携帯を突っ込む。安土は既に携帯の向こうの相手と話し始めている。
「いいからすぐに来い。代休なら三倍にしてくれてやる。家の方だ」
 言いながら、嵐にちらりと視線を向けた。
「あいつの弟も呼んでおけ。必ずあの存在が必要になる」
 こくりとうなずくのを確認しながら、安土は視線だけでうなずき返す。
「巽に配下の人間を三人連れてくるように伝えろ。それから、事務所に寄って今から言う生薬を少しずつ持って・・・・・・」

 自分に向けての言葉ではないことを確認して、嵐はそのまま広い部屋をあとにした。

   ***

 街のあちこちで、車のブレーキランプが点きっぱなしになり、クラクションが響いていた。シュルルルル、とタイヤが空回りし、ちょっとした坂道が上がれなくなっている車。
 急な積雪で、備えを怠っていた都会の車はスピードが出せず、全体的に動きは遅々として、渋滞があちこちで多発している。
「悠大さま、これはちょっと動きそうにありません」
 運転手が心配そうに振り返る。仕える家のお坊ちゃまが顔色を変えて急いでいるのがよく分かるからだ。
「駅までの方が早いかもしれない。近衛」
 和田が慈恩の隣から近衛に訴えかける。同じことを考えていた助手席の近衛は、慣れた手つきで携帯電話を操作するが、その表情にはすぐに翳が宿る。
「―――――駄目だ。電車が遅れてる。今行っても、大混雑だ」
 慈恩は強く目を閉じ、拳を握り締める。
 どうして放っておいてしまったのだろう。どうして今、隣にいないのだろう。自分は一体、何をやっているのだろう。何故自分は、何度もこんな思いを、後悔を繰り返しているのだろう。
『・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・』
 嘘じゃなかったかもしれない。でも、泣いていた。部屋にこもって、自分に隠して、泣いていることを知っていた。その涙が、どうして理解してやれなかったのだろう。言葉の裏にあった思いは、理性で抑えきれなかった「行って欲しくない」の思い。
『お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな』
 その通りだった。きっと、斗音は何度も心の中で自分を呼んでいたのだ。あんなに思い悩んだのに、そうであって欲しいと望んだのに、その願望が強すぎて信じ切れなかった。あの、一言から、全てが狂い始めてしまった。あの一言の裏側の思いに、自分が応えられなかったばかりに。自分たちの関係に溝が穿たれてしまったのは、自分が斗音との絆の深さを信じられなかったためだ。
 嵐からの電話は、切羽詰った声で、否応なしに慈恩の心臓と脳を激しく殴りつけた。
『今すぐに斗音の家に行ってくれ。・・・・・・俺、斗音がお前にだけは知られたくないって思ってること知ってて、だから言えなかった。あいつ、三神って野郎に乱暴されてた。ひどく弱ってる。ヤバイ咳してるし、安土がすぐに病院に運ぶって。・・・・・・黙っててごめんな。とにかく、斗音を・・・・・・頼む』
 一瞬にして色を失った慈恩によく分からないながらも一大事を感じて、隼は近衛を呼んだ。近衛は隼より更に的確にその重大さを理解した。
「どこに行けばいい?今すぐ車を用意させる」
 近衛が用意してくれた車には、近衛と和田が共に乗り込んでくれた。送ってきたまま待機していた鳳家の車も、鳳の一声で動いた。
「車を出してくれ。それから父に連絡を。できる限り今から向かう道程がスムーズに進むように、警察で交通整理に当たるよう指示を出して欲しい」
 鳳の祖父は警視庁の元警視総監であり、父親も次期総監候補と言われる人物である。だからといって私的に警察官を動かせるわけではないが、現在の交通事情を踏まえた上で、少しでも混雑を解消するために動かすくらいの力はある。
 しかし、そうはいってもこの大混雑が膠着した状態を、そうそう簡単に無くすことなどできはしない。命令が出されてから動くまでにも時間が掛かるだろう。すぐ後ろに鳳と隼を乗せた超高級車がついているが、やはり同じように動けずにいる。
 翼でもあれば、この地上の無秩序な状態を置き去りにして飛んでいけるだろうが、もちろん、剣道が少々できる以外は普通の人間である慈恩に、今なす術はなかった。
 切れんばかりに唇を噛む慈恩を、痛々しそうに近衛が見遣る。しかし、さすがの近衛もやはり人間でしかない。しん、と気まずさが漂う車内の空気を、いきなり電子音が打ち砕いた。驚いて、次に訝しげにその音源である携帯をつかんだ慈恩は、それをぱちんと開き、低い声で応対した。

「・・・もしもし?」

   ***

「・・・・・・よう。椎名の弟・・・・・・だな」
 慈恩に負けない低音で、瓜生はぼそりと電話を掛けた相手に向かって、つぶやくように呼びかけた。
 
近藤に聞いた住所へとりあえず行ってみた瓜生だったが、とても自分が訪ねていい家だとは思えなかった。仕方がないので、あまりにも立派な門を入っていこうとする車を止めて、彼を呼んでもらえないかと頼んでみた。
 瓜生にとって、斗音の最後の砦は慈恩でしかなかった。自分に何もできない状況で、つらい思いをしているであろう斗音の心を少しでも救うために、考えに考えて、結局慈恩の存在以外、思い浮かばなかった。だから、さらってでも連れて行って、どんなに嫌がられても、自分が恨まれてもいい、慈恩に会わせてやろう、と思ったのだ。
 だが、訝しげに車の窓を開けた中年の男に、案の定ものっすごく不審そうに全身をじろじろ見られた挙句、
「まだ慈恩様はお帰りになっていない。それに、お前のような者との付き合いは、九条家のご子息として重盛様がお許しにならんだろう」
と、つっけんどんに返された。
 その態度に関しては少々不快を感じたが、それ以上に慈恩が置かれた状況の異世界ぶりに呆れてしまった。そして、椎名兄弟に起こったことが尋常ならざることだったのだと理解した。とにもかくにも、その中年男の言ったことが嘘だったとも思えなかったので、慈恩の居場所を更に問うてみた。
「近衛様のご自宅で今日は御学友とクリスマスパーティーをしておられるはずだが。何?近衛様の御自宅?お前みたいな奴が行っても、門前払いだぞ」
 そう言いながらも、大体の場所を運転手は教えてくれた。礼を言う代わりに軽く頭を下げて、言われた場所の辺りまできたのだが、何しろこちらもあまり足を踏み入れたことのない高級住宅地の一角である。地理がさっぱり分からない。
 気は進まなかったが、最後の手段、近藤から聞いた慈恩の携帯番号に掛けてみたのだった。
『・・・・・・誰ですか?』
 警戒したような声。けれど、名を名乗るのに躊躇った。自分がこの人物にいい印象を持ってもらえているとは、到底思えない。左手に抱えたヘルメットをぎゅっとつかんで、気持ちを奮い立たせる。
「・・・・・・瓜生」
『・・・・・・瓜生・・・・・・如月の、三年の・・・?』
 低いままだが、警戒がやや意外に変わったようだ。少し、ほっとする。
「・・・そうだ。覚えて・・・・・・ねえわけねえよな。・・・・・・まあ、いろいろ込み入った事情があるみたいで悪いが、お前に椎名の・・・・・・斗音のことで、頼みがある」
『頼み・・・・・・?』
 なぜあなたが?という含みを言外に感じて、やや困惑を覚えた。舞い降りてくる細かく白い切片を見上げ、真っ白な息を吐き出して躊躇いを振り切る。
「・・・・・・あいつに、会ってやってくれ」
 言ってしまってから、それが更に相手の不審を買ってしまったような気がして、慈恩の返事を待たずに言葉をつなぐ。
「こっちにもちょっとした事情があって・・・・・・少なくとも、俺はあいつを助けてやりたいと思ってる。・・・いや、そんなたいそうなことができるとは思ってねえけど・・・せめて、今日くらいは・・・・・・あいつが笑えたらと思った。お前以外に、それができる奴がいるとは、思えねえ」
 言い訳がましい言葉を並べてしまったことは分かっていたが、それでも、どうしても慈恩の気持ちを動かしたかった。
『・・・・・・』
 慈恩の沈黙が、躊躇いなのか迷いなのか分からず、今も苦しんでいるに違いない斗音を思って、切ない想いを噛み締める。
「・・・会う、約束をしてただろう。そのときのあいつは・・・・・・嬉しそうだった。その日を待ち遠しそうにしてたように、見えた。・・・・・・それが、叶わなかったのは、あいつのせいじゃねえ。それからずっと元気がなくて・・・・・・」
 事情を説明するのには、さすがに躊躇いが勝(まさ)った。それ以上言えずに、話の流れを切り替える。
「今、どこにいる」
 しばしの間をおいて、やや苦しげな声が返ってきた。
『・・・・・・斗音のところへ、向かっています。嵐から、あいつに何が起きたのかは聞きました。でも、この雪で渋滞してて・・・車が動かない・・・・・・』
 瓜生は止めていたバイクのエンジンを掛けた。勢いよく車体が武者震いをする。

「どこにいる。車から出て待ってろ。すぐに行く」

   ***

 降りしきる雪に、きらきらのネオンが華やかに色を与える。待つこと十分弱で、完全に流れの止まってしまっている車の間を器用にすり抜けながら、一台のバイクが慈恩の前につけた。その目の前でライダーがフルフェイスのヘルメットを外した。勢いよく首を振ってまとわりつく髪を払い、じっと慈恩を捉える瞳は、以前慈恩が見知っていたその人物と、全く印象が異なっていた。
「さすがに事故らねえ自信はねえからな。これ、かぶってろ」
 促されるまま後部座席にまたがり、渡されたヘルメットを素直にかぶる。
「しっかりつかまってろよ。飛ばすからな」
 エンジンを吹かし、バイクが勢いよく発進する。慣性の法則に捕らわれそうになり、慈恩は思わず瓜生に回した腕に力を込めた。来たとき同様、あちこちで動けなくなっている車の間を、小気味よいくらいすいすいと抜けていく。これがこの雪の中、容易くできるはずはない。この男は、自分と斗音のために、懸命に飛ばしてくれているのだ。
 先ほど自分を見つめた瞳に見えたものや、電話から受けた印象と同じ真摯さを感じて、慈恩は思わずつぶやいた。
「・・・・・・斗音が・・・・・・ずいぶんお世話になったんですね」
「・・・・・・俺は何もしちゃいねえよ」
 エンジン音のために微かにしか聞き取れなかったが、瓜生が何を言ったのかは自然に理解できた。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう、ございます」
 そっと言った言葉に、返事はなかった。届くより先にエンジンが立てる音が掻き消してしまったのだろう。それでもいいと思った。まさかこの人物に対して、こんな感謝の気持ちを抱くことになるとは、思いもしなかった。怒りしか覚えなかった、あの事件。ただ一人潔く謝ったこの人物は、確かに他のクズに比べればマシだったかもしれない。そんなこと、あのときには考える余裕もなかったけれど、斗音はあの時、既に見抜いていた。
(やっぱり、斗音は人を見る目がある)
 じわりと湧いたのは、懐かしい兄への思慕。そして、涙。

(斗音・・・・・・情けない弟でごめん。お前の気持ちを分かってやれなくてごめん。すぐに行くから。斗音・・・!)

   ***

 降りしきる雪の中、車から降りてバイクを見送った近衛と和田、そして鳳と隼は、何となく顔を見合わせた。
「あれも、九条の友達か?」
「友達って感じじゃ、なかったけどな。敬語だったし。三年とか言ってたから、先輩とかじゃないか?」
「先輩や何や知らんけど、えらいかっこええ人やったなあ」
「・・・・・・そうか?」
 意外そうな声を返した近衛に、鳳と和田がうなずく。
「なんていうか。ちょっと・・・ヤンキーっぽかったよな」
「うん。九条と知り合いっていうのがちょっと信じられないっていうか」
「そないなもん、偏見や。外見だけで人間判断したらあかんて」
 隼が大人びた表情で器用に片目を閉じ、目の前で、人差し指をちっちっと振って見せる。
「めっちゃ鍛えてはるみたいやったし、ええ目してはった。真剣に自分をあんだけ鍛えられるゆうんは、並大抵のことやあれへんで。そんだけのことできる人なんや。ただのヤンキーちゃうて。それにな」
 近衛は軽く目をしばたたいた。本当にこの茶目っ気たっぷりの剣道少年は、浅はかかと思いきや、時折こんな鋭い視点を持っている。
(やっぱこいつ、すごい奴だ)
「バイクに乗ってはるっちゅーのがまたかっこええやん。ええなあ、俺もああやってかっこよく乗ってみたいわぁ」
「・・・・・・・・・・・・」
(すごい奴、だと、思うんだけどな・・・・・・)
 毎回毎回そんな思いをしているような気がする近衛である。
「ところでさ、どうする?このままだと、しばらく車動かないよ?」
 鳳の言葉に気を取り直して、近衛はうーんと唸る。唸ったところで、なかなかいい案は浮かばない。
「交通整理にも時間が掛かりそうだし。とりあえず、バイクが抜けられる程度にはしてくれてると思うけど、車となると簡単には動かないからね」
 更に被せるように言われて、知的な眉根を徐々に寄せていく。和田が肩をすくめた。
「ま、車は無理だって。あれだ、ヘリとかなら行けんじゃない?」
「ヘリか・・・・・・飛べるかな」
 何気なく提案しただけなのに、近衛にはそれは考えるべき選択肢に存在するのだと知って、和田は更に肩をすくめた。やはり近衛は半端な家ではない。
「そうだね。風はないけど・・・・・・夜だし、ライト装備型でも、ちょっと雪で視界が悪いかもね」
 当たり前のようにその可能性について論じることのできる鳳もだ。隼が感嘆の声を上げる。
「ヘリ!ヘリコプター持ってはるん?ほんまにあんたら、すごい世界の人やなあ」
 和田も全くだ、とうなずく。和田の家も色々あるが、彼の出身の家柄は、二人に比べるとはるかに劣る。
「ヘリの場合、ヘリポートかそれに見合う場所も必要になってくるしな。ちょっと調べさせてみる」
 携帯を取り出して、近衛は手早くボタンを押す。
「悠大です。この雪で車が動かなくなってしまって。・・・ええ、それでヘリが出せないかと思いまして」
 即実行に移せるところも、近衛ならではであろう。
「・・・・・・難しいのは承知です。でも、非常時ですから。金井を呼んでください。彼ならできると思います。この近辺と、目的地近辺にヘリポートもしくはそれ同等の広い場所があるかどうかも調べさせてください」
 しばらく話していた近衛だったが、カチンと携帯を閉じて仲間を見回す。
「ヘリを出す。ただ、あまり人は乗せられない。悪いけど、鳳と和田は鳳の車でそのまま向かってくれ。隼、この近くのビルの屋上にヘリポートがある。こっちの車で、裏道から抜けてそのビルに向かう。隼は慈恩の兄さんのこと、知ってるんだろう?だから、一緒に来て欲しい」
 鳳と和田がうなずき、隼は一瞬驚いたように切れ長の目を瞬かせた。そして、にこぉっと笑う。
「もちろんや!なんせ、斗音は俺の片想いの相手やさかい」

(・・・・・・はい?)

   ***

「斗音さん、起きられますか?・・・・・・これを、飲んでください」
 香ばしい香りがする。食欲なんて欠片もないけれど、何だか懐かしくて恋しい香りだと思った。重い瞼を持ち上げるには、気力が必要だったが、その恋しさに惹かれるままゆっくり目を開く。まぶしい光が視界を白く灼き、部屋の中がはっきり認識できるようになるまでに数瞬を要した。
(・・・・・・息・・・苦しい・・・・・・)
 喉からの呼気に鉄の匂いを感じる。また意識を失っていたのだろうか。嵐から電話が掛かってきたときは、確か七時くらいだったはずだが、今見ると、時計は七時半を過ぎている。
「・・・・・・作るのに少々手間取りました。すみません。・・・・・・お好きなんでしょう?」
 斗音は視界ににゅっと差し出されたマグカップをぼんやり見つめた。
(・・・・・・焦点が合わない。見えているのか?)

 三神は持ってきたマグカップをナイトテーブルにそっと置いて、ぐったりと力の入らない斗音の身体を抱き起こし、枕にもたせかけるようにした。が、すぐにぐらりと傾きそうになる。華奢な身体を支えるようにして、枕元に腰掛け、自分の方にもたれさせた。それで少し安定する。
 
シャツの上から伝わってくるのは、驚くほど高い熱。白い頬は上気しても良さそうなのに、どうも呼吸が浅いようで、生気が感じられないほど顔色が悪い。その浅い呼吸のたび、途切れがちに笛音が聞こえる。意識もまだ朦朧としているようだ。そんな状態なのに、自分にぐったりもたれかかる様子がいとおしくてならない。そのまま抱き締めて押し倒してしまいたい衝動に駆られる。その衝動のままに自分の欲望を果たせば、この生はこと切れるかもしれない。それほど弱っていた。夕方に一度だけ、それでも三神は心身の欲望に逆らいきれず、斗音に無体を強いた。激しい負担を感じたのだろう、斗音はひどい発作を起こし、咳に血を混じらせた。そしてたちまち意識を失った。
 
ことの最中には、このまま殺してしまってもいいとさえ思うほど、心身の恍惚に溺れる三神だが、斗音のこんな様子を見ていると、欲情と同じくらいの激しい後悔に襲われる。
「・・・・・・死なないで・・・・・・」
 血の気の薄い唇を優しく貪ると、血の味が混じる。呼吸がほとんど感じられない。その表情をうかがうと、虚ろな薄茶の瞳からは光が失われ、ぼんやりと宙に視線を放り出している。心臓が押し潰されそうな気がした。
「・・・・・・甘酒、作ってみました。沢村ほどうまくは作れていないと思いますが・・・・・・飲んで、ください」
 スプーンですくって、そっと口元まで運ぶ。しかし、唇は動かない。下手に流し込めば、発作を起こすだろう。三神はそれを自分の口に含んだ。とても甘くて、ほんのり生姜の風味がする。そのまま斗音の唇を優しく包み込む。甘酒を絡めた舌で斗音のそれを探り、それを舐めるようにする。
「・・・・・・ん」
 斗音の喉が微かに鳴った。瞬間、力なく目が細められ、柳眉が寄せられた。喉がやられているのだろう。溜飲時に炎症を起こした部分に触れたのだ。
「すみません、斗音さん・・・大丈夫ですか・・・・・・?」
 斗音の唇が微かに動く。三神はそれを読み取るため、凝視した。
 あ、ま、い・・・。
 ほんのりと小さく、苦しげな笑みが浮かんだ。
 ・・・おいしい。
 急激に視界が歪んでぼやけ、頬を伝って二滴、三滴四滴、雫がシーツを濡らした。
(・・・・・・ああ・・・・・・!)
 どうしてこれが、抱き締めずにいられよう。華奢な身体を掻き抱いて、力の限りに抱きすくめた。
「死なないで・・・・・・!死なないでください・・・・・・お願いだから・・・・・・!」
 耳元で力ない咳が苦しげに零れる。続いて、全身を痙攣させるようなひどい咳。三神は思わず悲痛な声を上げていた。
「嫌だ・・・・・・!死ぬな!死なないでくれ!」

 愛しているから・・・・・・!

   ***

 懐かしいわが家。居間にも、斗音の部屋にも明かりがついている。降り続ける雪の中、瓜生は時々ひやりとするような運転でありながらも、何とか事故を起こすことなく、慈恩をここまで連れて来てくれた。
「ありがとうございます」
「・・・・・・俺の目的のために連れてきただけだ。・・・・・・礼なんか、いらない」
 ヘルメットを脱いでぶっきらぼうにそうつぶやく瓜生は、額の汗を拭った。その仕草に、慈恩はいかに大変な運転だったのかを改めて思い知った。
「早く行け」
「・・・・・・あなたは?」
 瓜生が微かに唇を噛む。
「・・・・・・俺では、駄目だ。お前が行け。俺はここにいる」
 どういういきさつなのかは分からないが、きっと瓜生は斗音と親しくしていたのだろう。そして、自分と同じように、斗音から会うことを拒否されたのだ。だったら、自分と大差ないだろうに、と思うが、瓜生は動こうとしなかった。
「・・・・・・分かりました」
 丁寧に頭を下げて感謝の意を表してから、慈恩は門を抜け、玄関まで駆け寄る。まだあの暴力団組長は来ていないようだ。そのまま玄関を開けようとして一瞬躊躇い、チャイムを鳴らした。長い間来ていなかったせいで、気後れしたのだ。
 じれったい数十秒の後、インターホンから三神の低い声が聞こえた。
『・・・・・・はい』
「・・・・・・俺です。慈恩です」
『・・・お待ちください』
 素っ気無い応対があり、更に待つこと数十秒。玄関がゆっくりと開いた。長身の男が丁重に礼をする。
「お久しぶりでございます。こんな雪の中、こんなに遅くに、いかがなさいましたか?」
 礼をしたまま、ややうつむき加減の三神に、やや違和感を覚える。同時に込み上げる、憤り。
「斗音に・・・・・・会いに来ました。いますよね?」
 知らず、語調がきつくなる。この男が、斗音を苦しめているのだ。慈恩の漆黒の瞳が鋭く三神を射抜く。その目の前で、三神はゆっくり顔を上げた。それを見て、慈恩は思わず息を飲んだ。玄関ホールの明かりが逆光になっていて、やや見づらかったのだが。
(・・・・・・泣いていた・・・・・・?)
 目が微かに赤い。その目が、険しさを帯びる。
「・・・・・・斗音様は、あなたにはお会いしたくないそうです」
 返された言葉は、それほど慈恩を驚かせはしなかった。けれど、その心に深く突き刺さった。それでも慈恩は気丈に三神を見据える。
「俺が会いたいんだ。もう、あなたに斗音を任せてはおけない」
 きっぱりと言った慈恩に、三神はうっすらと笑った。
「よく言う。あの人を捨てたくせに」
「なに・・・・・・」
「お前は九条をとった。あの人よりも、九条を選んだ。そうして俺にあの人を託した。それを今更?自分のとった行動を棚に上げて何を言ってる」
 いきなり乱暴な言葉遣いになった三神の、その言葉に、慈恩は激しい衝撃を受けた。
「俺は好んで九条に入ったわけじゃない!それが斗音の望みだった!」
 少なくとも、そう判断してしまったのだ。あの時に。だが、三神はそれを高笑いで受け流す。
「馬鹿を言え。あの人のことをその程度しか理解できなかったお前が、今更あの人になんと申し開きをする気だ。あの人は渡さない。もう、お前の入る余地なんてないんだ」
「黙れ!そういうお前はあいつに何をした!」
 激昂する慈恩に、三神は蔑むようににやりと笑った。
「そうか。知ったのか。・・・・・・あいつには言うなと忠告したんだが。でも、知っているのなら聞く必要はないだろう?」
「貴様・・・・・・!」
「それとも聞きたいのか?あの人が、どんなに淫らに俺を受け入れたのかを」
 聞き終わるより先に、慈恩はわななく拳を渾身で三神にたたき込んでいた。が、それはあっさりと大きな手の平に弾かれて流される。三神の瞳が、野生の獣が獲物を狙い定めるかのごとく、ぎらつく。
「あの人を一番苦しめたのは貴様だ。貴様に見捨てられて打ちひしがれたあの人を、俺は慰めた。それだけだ。お前に何の権利がある。あの人を想ったり、俺を非難したりする資格が、貴様にあると思っているのか!」
 低いが、威圧するような声。それは容赦なく慈恩の心を抉る。
「・・・・・・お前はあの人を見放した。その時点でお前の役割は終わったんだ。これ以上あの人を苦しめるな。・・・・・・ずっと会ってもいなかったんだろう?あの人は会いたくなかったんだ。お前に。自分を捨てたお前に」
「会おうとしてた。話がしたいと言ってた!」
 過去に聞いた斗音の言葉を思い返して、必死に自分たちの絆を信じようとする。それが虚しく、冷たい空間に白く漂う気がした。
「・・・・・・でも、実現しなかった」
 三神は少し長めの黒い髪を掻き上げた。その瞳にはもう先ほどの哀は感じられない。優越と憎悪の混在した嫌悪が、慈恩を絡め取る。
「あの人はお前より俺を選んだ。お前に会うことより、俺に愛されることを選んだんだ。あの人は決して俺を拒まない。お前を拒んでも俺は拒まない。そういうことだ」
 胸にいくつもの刃が突き刺さる。思わずコートの上から心臓をつかむように拳を握り締める。違う、と心の声が悲鳴を上げる。けれど冷たい理性は確かに拒まれた事実を自身に突きつけてくる。慈恩は唇を噛んだ。

「・・・・・・拒んでいた。だから憔悴していった」
 背後から静かに低く、声が響いた。玄関先の二人の視線が同時にその声の主を捉える。茶色の長めの髪が白く斑になっている。その雪を軽く頭を振って払い落として、瓜生は手を上着のポケットに突っ込んだまま門柱にもたれかかった。
「あいつの優しさが、それを表に出させなかっただけだろ。てめえはその優しさに付け込んで、あいつを食い物にしやがった」
 ギリ、と唇を噛んだのは三神だった。そして次の瞬間に薄ら笑いを浮かべる。
「ああ・・・・・・誰かと思えば。またやられに来たのか?今度は腕一本では済まないぞ」
「・・・腕・・・・・・?」
 思わずつぶやいた慈恩に、三神は右腕をつかんで見せた。
「確か折ってやったのはこの辺りだったか。あれからあの人にまとわり付くのをやめたんだったか?この根性なしが」
「あいつは自分のために他人が傷つくのが耐えられなかった。お前に分からないようにすることの方が、骨が折れた」
「・・・・・・なん・・・・・だと・・・・・・?」
 きりっと黒い瞳が三神を射抜く。
「学校に来られなくなるまで、俺はあいつを近くで見ていた。・・・・・・だから、よく分かる。あいつがどれだけ苦痛を味わっていたか。何も言わずにただもたれかかって泣いていた。・・・・・・さらってでもあいつを守ってやりたかった。・・・・・・でもあいつは怖がった。てめえがいつまた俺に危害を加えるんじゃねえかってな。そして俺も・・・・・・何もしてやれなかった。最終的にてめえが牙を剥く相手は、あいつだと分かってたから」
 わなわなと三神の手が震える。こいつはヤバイ、と直感的に慈恩は感じた。これ以上関わらない方がいい。
「とにかく、斗音に会わせてもらう」
 怒りに震える長身の脇を抜けようとした瞬間、圧倒的な力で二の腕をつかまれ、力ずくで引き戻された。思わずよろめく。
「おい、やめろ!」
 思わず声を上げた瓜生の目の前で、三神は慈恩の襟首をつかむや否や、締め上げる。そしてそのまま玄関へ上がる石段の下へ、決して小さくない慈恩の身体を、自分の体重を上乗せして、力任せにたたきつけた。信じがたい腕力だった。慈恩は視界が一瞬遠のいたのを感じた。とっさに冷たい雪の上で受身を取ったが、自分よりひとまわり大きい身体が自分に圧し掛かってきているのだ。ダメージがないわけがない。後頭部を強打しなかっただけでも幸せだ。もしそうなっていたら、下手をすればあっけなくこの世に別れを告げていたに違いない。
「・・・貴様が、貴様がいるから、あの人は俺を見ることができないんだ。死ね。お前が生きているのは、俺のためにも、あの人のためにもならない。死ね。今すぐ死ね!」
 首に掛かった手が容赦なく締まっていく。呼吸が遮られ、動脈も静脈も止められ、慈恩は苦しさに呻いた。
(本気だ、こいつ!本気で殺そうとしてる!)
「気でも狂ってんのかてめえ!やめろ!」
 目の前で黒いブーツが狂気に満ちた男の顔を蹴り飛ばす。あと五センチずれたら慈恩の顔もただでは済まなかっただろう。それでもその一撃で首の束縛は解かれた。思わず激しく咳き込む。顔をしかめて上げると、唇の端から血を流した三神が鬼のような形相で瓜生を睨みつけていた。
「よくよく貴様は顔を狙うのが得意なんだな。これを見たらまた、あの人が怖がるというのに・・・・・・よくも!」
 はっきりと眉を寄せ、瓜生は信じられない、と小さく首を横に振った。
「てめえ、自分のしたこと分かってんのか。人一人、殺すところだったんだぞ」
「殺すことに何の問題がある。害虫の一匹、消えたところで何の支障もない」
 ぐい、と血を拭いながら三神が、それでも唇を歪めて笑む。さすがに瓜生も慈恩も身体中の血の気が引くのを感じた。
(こいつ、正気じゃない!)
「馬鹿野郎、ここは日本だぞ!人殺しがどれだけ大変なことか、分かってんだろ!」
 思わず叫んだ瓜生に、さも訝しげに三神が眉根を寄せる。
「人?これが人だと?お前もそうだが、害虫と人を一緒にするな、よ!」
 言うや否や、慈恩のみぞおちに鋭く重い、肘の一撃が入った。同時に、体内で鈍い音がいくつか弾ける。
「っ!」
 凛々しい眉が苦痛に歪む。身体の上からの衝撃が、門扉から敷き詰められた石にめり込むかと思った。そして次にやってきたのは、鋭い痛みと腹部の激しい鈍痛。全身が麻痺したように動かない。
(っ・・・・・・肋骨、イった・・・・・・)
「やめろ!本気で死ぬ!」
「安心しろ。貴様もあとで殺してやる」
 重い拳が更に一発、二発。内臓が潰れそうだ。呼吸が遮られて、何度も咳き込んだ。込み上げるものを、その咳に混じらせた。地面に積もって掻き乱された白が、赤い斑点に汚れる。霞みそうな思考の片隅で、ふと思った。斗音が発作を起こしたときの苦しみは、こんな感じかもしれない。苦しい。痛くてつらくて、どうしようもなく苦しい。
「・・・・・・斗・・・・・・音・・・」
「汚らわしい。お前のようなカスがその名を口にするな!」
 頬に激しい衝撃。脳が揺さぶられて、視界が眩む。殴られたのだと、数瞬後に理解する。
「やめろっ!」
 上に圧し掛かっていた黒い塊に、バネのような肢体が勢いよくぶつかって、一気に重圧を押しのけてくれた。喘いで咳き込みながら、慈恩は動かない身体を無理矢理起こした。
「う、りう・・・さん・・・っ」
 もんどりうって新たな白い地面にその跡を残しながら、瓜生が三神につかみかかっていた。
「てめー、やってることが度を越してんだろ!」
「今度は腕で済まないと言っただろうが!」
 瓜生は決して弱くないだろう。体裁きも早いし無駄がない。けれど体格が違う。瓜生より三神の方がひとまわり大きい。同格の力の持ち主なら、当然体格がものを言う。たちまち組み敷かれる。
(いけない・・・・・・!瓜生さんまで・・・・・・)
 ギッ、と慈恩は顔を上げた。明るい光がこぼれる、斗音の部屋。
 届け。今度こそ。
「っ、斗音っ!」 
 ゲホ、と咳が込み上げる。喉の奥で血の味がする。わき腹には刺すような痛みが走る。
 苦しい。痛い。でもそれより、潰れてしまいそうに心が締め付けられる。
(こんな苦しい思いを、していたのか。お前は)
 痛む肋骨をなだめながら、大きく息を吸った。握り締めた雪が手の中でじわりととける。
「斗音!っ、いるんだろ・・・っ斗音!」

 苦しげな、でもひび割れながらも低い透る声が夜陰に響いた。

   ***

 ああ、苦しい。呼吸が苦しい。気管が痛い。身体が重い。いつまで俺は、この白い部屋にいなければいけないの?ねえ、母さん、母さん。今日は慈恩の試合の日なのに。こんな日に発作を起こしてしまうなんて。悔しい。悔しすぎて苦しいよ。涙が止まらない。
『泣かないで、斗音。慈恩はあなたを責めたりしないわ』
 うん、分かってるよ。でも、涙が止まらない。俺がつらいのは、慈恩が責めるからじゃない。
『・・・・・・見たかったのね。慈恩の試合・・・・・・いいえ、慈恩の姿が』
 そうだよ・・・・・・そうなんだ。早く行かなきゃ・・・・・・俺は、約束したんだ。観に行くって。慈恩は喜んでくれたんだ。俺もその為だけに・・・・・・あんなに我慢してきたのに・・・・・・。

「斗音!」
 
呼ばれた気がした。
 懐かしい声。ああ、この低い響きは、慈恩。凛とした姿に似合う声だ。お前にだけは知られたくない。こんな情けない姿。でも、死ぬくらいなら慈恩に一目会いたい。

 死ぬ・・・・・・?そうだ、俺は・・・・・・。

(・・・・・・あれ?また、意識飛んでた・・・・・・?)
 目に映る見慣れた景色。だるくて重い身体。呼吸はやはりまともにできなくて、気管に違和感と血の気配を感じる。たぶん四十度近い熱は、全く下がっていないのだろう。
(・・・・・・苦しい・・・・・・)
 零れ落ちる涙は、苦しさからなのか、あの夢の続きなのか。分からない。もうどうでもいい。
「斗音!・・・・・いるんだろ・・・斗音!」
(・・・・・・!)
 幻聴でも夢でもない。確かに聞こえた。紛れもない、慈恩の声。
(・・・夢じゃ、なかった?)
 どうして出てきたりするんだ、と一瞬思った。突き放したはずなのに。そして同時に大きな疑惑が心に不安を掻き立てる。
(切羽詰ったような・・・・・・あの、声は・・・・・・?)
 ズル、とベッドから身体を乗り出して、ふらつく足で床を踏む。重心がどこにあるのか分からない。とにかく、何かにつかまらないと立てない。ナイトテーブルに、そしてカーテンに、壁にと自分の体重の大半を預けながら、息も絶え絶えになりながら、ようやく声の聞こえた玄関の方が見える窓にもたれかかる。震える指で、カーテンのすきまからそっとうかがった。
 薄茶の瞳が瞠目した。苦しげに見上げてくる、凛とした漆黒の瞳。視線が合った。数ヶ月ぶりに、合った。隠れたい、と思う心が生まれた。けれど、離せない。目が、離せない。雪の舞う中に、それらに包まれた柔らかい明かりの中に、強い意志の瞳。
 浅い呼吸で必死に肺に酸素を送り込みながら、その苦しげな様子をいぶかしむ。
(・・・・・・慈恩、どうして・・・・・・それに・・・・・・あれは、三神、と・・・・・・瓜生、さん・・・・・・?)

 どくん、と心臓が跳ねた。まだこの心臓がそんなに動けるのか、と思うくらいだったが、そんなことを思う余裕はなかった。雪のうっすら積もった中に、這いずるように必死にこちらを見上げている慈恩。その腕が抱えているのは脇腹?あの苦しげな表情は?何十日ぶりかに、斗音の脳が目まぐるしく思考を開始する。
 
三神が圧し掛かっているのは、間違いなく瓜生。その瓜生に対して、容赦のない拳を振るう三神。その勢いは、狂人じみている。
(・・・・・・殺・・・される・・・・・・!)
 警察に通報すべきだと思った。でも、声が出ない。伝えることが、できない。どうしたらいい?他人に助けを求められない。・・・・・・だったら、三神を止める方法は・・・・・・。
 窓際に置かれていた机の引き出しの取っ手を必死でつかむ。そこにしまってあったカッターナイフを、震える手で取り上げた。

 三神の前に、行かなければ。

   ***

 苛烈な攻撃を、瓜生は必死に避けてはいるものの、突き下ろされてくる拳は全てストレート以上の威力がある。というより、避けられた拳は雪の積もる地面に突き刺さって、その度にこの狂人の血を滲ませているのだ。瓜生もその表情に何とも言いがたい、恐怖に似たものを貼り付けている。頬を掠めるだけでそこにみみず腫れのような跡を残すほどの威力なのだ。
(もう少し、俺が動けたら)
 慈恩はそう思い、必死に立とうとするが、足が言うことを聞かない。肋骨も相当痛い。正直、吐き気を催すほど、臓腑が掻き回されている。
 瓜生を助けなければ、と思うが、それもできない。斗音は、どうしただろう。確かにさっき、部屋からのぞいていたようだけれど。本当に、そっと、カーテンの隙間からうかがうように。よくは見えなかったけれど、視線が合った。それだけは分かった。何だか陽炎のように弱々しく思える視線。
「くっ・・・・・・」
 しっかりと肋骨の辺りを支えながら、無理矢理身体の向きを変えた。それだけで身体の中に、肋骨から発された痛みが駆けていく。
「やめろ・・・・・・!いい加減にしろ!瓜生さんから手を離せ!」
 そんな言葉が虚しいだけのものだということはよく分かっている。そんなもので止まるほど、あの男の狂気は半端ではない。雪をつかんで、それを投げつける。ビリッと電撃が走った。思わずうずくまる。
「やめてくれ・・・!そんなことをしても・・・・・・傷つくのは斗音だ・・・・・・!」
 歯を食いしばる。自分に執着するこの男が、そのために誰かを傷つけて、斗音が苦しまないわけがない。先ほど三神の言ったことは本当だろう。瓜生の腕を折ったことで、斗音を縛り付けたのだ。何もできない自分が歯がゆくて悔しくて、拳を地面にたたきつけた。それでもやはり痛みが駆け抜けていく。どうしようもない。何をしてもこの痛みからは逃げられない。
「・・・・・・これ以上、あいつを傷つけないでくれ・・・・・・!」
 冷たい雪の、その冷たさが虚しい。
(斗音・・・・・・!俺は、こんな人間に、お前を託してしまった・・・・・・!)
 悔しくて痛くてつらくて。こんなに自分が嫌になることはない。
「俺は・・・・・・なんて・・・・・・馬鹿な選択を・・・・・・」
 離れるべきではないと、何人もの人に言われた。嵐に、今井に、そして滝に。離れてからも、そんなに自分たちのことを知らない隼にまで、その真実が見えていたのに。
 遠くで、重々しいエンジン音のようなものが聞こえる。あれは、何の音だったか。頭の片隅でふと思ったけれど、激しい自己嫌悪がたちまち意識の外に追い出してしまった。
 どうしようもなく気分が悪い。みぞおちに喰らったいくつものパンチがそうさせているのだろう。けれど、そればかりではない。気が滅入る、というより、地の底までめり込んでしまいそうだ。何より、自分の情けなさを己が痛感しているからだ。
「ごめん・・・・・・斗音、ごめん・・・・・・」
 またせり上がってきた鉄の臭いに耐え切れず、込み上げた咳と共に吐き出した。暗い中でも優しい明かりと雪に浮き上がったそれは、やはり赤黒かった。
「・・・・・・血・・・・・・」
 声、ではなかった。それは、ただの擦れた摩擦音。ふらり、と自分の視界によろめいてきた影に、慈恩は脇腹から駆け抜ける痛みのことも忘れて思わず顔を上げた。直後衝撃的なまでの痛みが身体を貫いたが、それ以上の衝撃が慈恩の脳を震撼させた。
「・・・・・・・・・斗・・・・・・音・・・・・・」
 大きくはだけたパジャマから顕わになっているのは、右上半身。華奢な骨格が浮き上がるほどの痩躯、それを包む異常なくらい白い肌には、赤いものから薄れかけて色あせたものまで、はっきり残る痣。少し伸びて不ぞろいになったアッシュの髪は乱れて、それが覆う頬の輪郭は明らかに削げ落ち、焦点のしっかり合わないうつろな薄茶の瞳の下には、憔悴を表す隈が浮き出している。裸足のままの歩みはおぼつかなくて、頼りなく壁に寄り添っている。そして、苦しげに繰り返される浅い呼吸と、それに伴う細い笛のような音。
 これがあの、自分の生を必死に生きる、輝かしい兄の姿なのか。
「椎名・・・・・・っ?」
 愕然としたような瓜生の声に、三神が一瞬拳の動きを止めて、ゆっくり視線を流した。その前で、華奢な姿がふらっと崩れた。手を差し伸べるのも、間に合わなかった。壁に背を預けるように雪の上にへたり込む。隙間風のような弱々しい音の呼吸が、浅く苦しげに繰り返される。それが、何だか徐々に近づいて大きくなってくる騒音に、掻き消されそうになる。
「とお・・・」
 騒音に負けないように、必死に震える声で、名を呼ぼうとした。けれどそのうつろなままの瞳は、暴力を一方的に振るっていた側に向けられた。
「・・・み、か・・・み・・・・・・・・・・・・やめ・・・ろ・・・・・・」
 慈恩は思わず息を飲む。聞き間違いではなかった。やはり声と言えるほどの音に、なっていない。瓜生の襟首をつかんで、三神は締め付けながら薄く笑った。
「斗音さん、少しお待ちください。この害虫二匹、すぐ退治しますから。そんな格好でこの寒い中におられては、お身体に障ります」
「ぁ・・・ぐ・・・っ・・・!」
 瓜生の喉がこもった音を立てる。斗音の表情に、微かに悲しげなものがよぎった。
「・・・三・・・神・・・・・・離・・・し、て・・・・・・く、れ・・・ない・・・・・・なら・・・・・・」
 小刻みに震える、悲しいほど白く細い手。それが握っているのは、黒くて短い棒のようなもの。カチ、カチと小さな音がして銀色の薄い刃が顔を出した。
「なっ・・・・・・斗音!」
 長く伸びた刃を、白い手は同じくらい白く、花弁のような痣をいくつも残したほっそりした首に押し当てた。
「・・・・・・俺・・・・・・死ぬ・・・よ・・・・・・?」
 か細い音は、静かにそう告げた。慈恩も瓜生も、驚愕に目を見開く。そして、三神も。
「斗音、さん・・・・・・なぜ・・・・・・」
 それはつらそうに、三神の眉根が寄せられた。切れ長の目が眇められる。
「自分の命より、こいつらが大事ですか?こんな・・・・・・こんな害虫どものことがっ!」
 言うや否や、三神の大きな手は直接瓜生の首に絡みつき、瞬時に締め上げた。瓜生の肢体が大きくよじれる。
「が・・・・・・っ・・・」
 ふぅっ、と、空虚な瞳に涙のベールがかかった。何か細いものを巻きつけているもう一方の手を添えて、斗音は押し当てた刃を渾身の力で内側へ走らせる。ぎょっとした三神が思わず声を上げた。
「斗音さ・・・!」
「よせっ!」
 自分の痛みとか、そんなものは分からなかった。ただ無我夢中で足は地を蹴り、カッターを持った手首を壁に押し付けて、折れそうな痩躯を抱き締めた。
「椎名!」
 ほぼ同時に、斗音の行動にひるんだ三神の脇腹に、瓜生のボディーブローが突き刺さった。慈恩がやられた、まさに肝臓の位置。その衝撃にうずくまる長身を更に蹴り上げて、瓜生も駆け寄った。
「この・・・・・・馬鹿が!」
 激しい怒声と共に、血の付いたカッターナイフを取り上げる。白い首の浅い傷が、赤い血を滲ませている。
 慈恩はがたがた震える己の身体で、雪の中で異常なほどの熱い身体を抱きすくめたまま、動けなかった。その耳元に、小さく、力ない咳が零れる。ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸に、擦れた音が混じった。

「・・・・・・ご、めん・・・・・・ね・・・・・・」
 どっと熱いものが目から溢れた。なぜ、謝る。こんな目に、遭わされながら。
 が、次の瞬間、強張った細すぎる身体からひどい咳が立て続けに起こった。ぎりっと奥歯を噛み締めて震える身体を斗音から剥がす。苦痛に歪められた表情、そして雪に飛び散る細かい赤。
「椎名!椎名っ!」
 雪に膝をついて、白い息で必死に呼ぶ瓜生。いつの間にか騒音は消え、その声が明瞭に冷たい宙に響く。
 知らない。こんな斗音の症状を、俺は知らない。
 慈恩を縛り付けたのは、恐怖だった。斗音を失うという、底の見えない恐怖。
「嫌だ・・・こんなの・・・斗音・・・・・・」
 病院へ、早く連れて行かなくちゃ。けれど、どうやって?車は動かない。バイクになんて、乗せられない。どうしたらいい?どうしたら、どうしたらいい!
「触れ・・・るな・・・・・・その人に・・・・・・」
 ゆらりと長い影が差す。とっさに瓜生が身構えた。その目に映るのは、狂気の瞳。瓜生の背筋を、この冷気の中で汗が伝った。
(なんでっ・・・・・・俺の、渾身のリバーブローが・・・)
 瓜生の前で、長い脚が地を踏みしめる。見たことがある、この構えは。ぞくりと寒気が走った。
 次に来るのは鋭い蹴り。それも、この半端ではない狂気から繰り出される・・・
(やべぇ・・・・・・っ!)
 決死の覚悟でガードを固める。それでも吹っ飛ばされるかもしれない。吹っ飛ばされれば、二人を巻き添えにする。でも、避ければその一撃が二人を襲う。
 ぐっと両脚で地を踏みしめた。ぎゅっと目を閉じる。頼む、耐えてくれ!
 パスッ パスッ
 その音は、表現するなら圧縮された空気が鋭く解放されたようなものだった。あまり聞き覚えのない音。少なくともあの痛烈な蹴りが当たった音でもないし、何より、瓜生のガードした腕には、何の衝撃も来なかった。続いて、濁った悲鳴と重いものが地に倒れる音。
 瓜生はおそるおそる目を開けてガードを下げた。
「ああああああああっ!」
 雪を掻き乱しながらのたうちまわる長身。それが抱える右肩と、そして右足からはおびただしい量の赤い色が振りまかれている。
「殺しても構わんが、下手に素性の分かる奴は厄介だからな」
 瓜生は思わず、渋みのある低い声を振り返った。大きな黒い車の前で、黒の革のロングコートが冷たい風に翻っている。黒の凛とした眉目、そして黒い髪が印象的な美丈夫。黒革の手袋をはめた手に握られているのは、黒い、拳銃。筒の先が妙に長くなっている。テレビドラマでしか見たことのないそれに、瓜生は瞠目する。
「・・・・・・斯波・・・・・・さん・・・・・・」
 震える声を絞り出したのは、慈恩だった。それに対して、美丈夫は軽くシニカルな笑みを見せた。
「ようやく俺が、そういう世界の人間だって思い知ったか?」
 その笑みをすぐに消して、斯波は慣れた手つきで銃をコートの内側へしまいこむ。

「おい、巽。その変態、死んでも厄介だから、処置しとけ。坂本、運んでやれ」
 
同じような黒い服装の男たちが、やはり黒のベンツから重々しいドアの音をさせて降りてくる。斯波はつかつかと慈恩たちに歩み寄った。そして、コートが雪に濡れるのも構わず片膝をついた。
「意識がないのか。思った以上にひどいな。ちょっとお前、こいつの身体を支えてろ」
 言いながら、後方の部下たちに視線を流す。
「巽、変態の処置が済んだら、ボクサー少年の方も診てやれ。あちこち殴られてる」
「はっ」
「お前も、斗音のあとに診てやる。肋骨折れてんだろ」
「え、あ・・・・・・はい」
 自信に満ちた漆黒の瞳が、恐怖に支配された漆黒の瞳を捉えて、笑んだ。
「兄貴は必ず助けてやる。心配すんな」
 どうやって、と思うより先に、安心感が心の底から溢れてくる。この人なら、大丈夫だ、と慈恩は思った。同時にはたはたと落ちた涙が雪をそこだけ溶かした。
「・・・・・・お願い・・・・・・します・・・・・・」
 ふっ、と安土は優しい笑みを浮かべた。その、瞬間。まるで獣のような咆哮が闇を裂いた。
「何しやがる、このっ!」
 怒号に続く悲鳴。坂本と呼ばれた男が雪の上を転がっていた。瓜生と慈恩がはっと身構える。安土がチッと舌打ちして懐に素早く手を差し込む。
「タフな野郎め」
 駆け寄ってきた二人がたちまち蹴りや突きでなぎ倒される。初めて安土の眉根が寄せられた。
「あいつ・・・・・・有段者。あいつらにはちょっと重荷か」
 すい、と慈恩の目の前で銃が構えられた。思わず制止の言葉を掛けようとしたとき。
「若、いけません!あれでもかなりの重症、これ以上撃てば命に関わります!」
 巽と呼ばれていた部下が間合いを詰められないように後退しながら叫ぶ。ふん、と安土は鼻で笑った。
「なら殺す」
「斯波さん、それは!」
「おい」
 瓜生の手が銃口を遮る。安土はそのあまりに無謀な仕草に一瞬ぽかんと目を瞬かせた。
「・・・・・・お前、やるな」
「あんたが撃たないと勝手に信じてるからな。それより、あれ、見ろよ」
 その口調からすると、どうやら慈恩に言っているらしい。視線を促されて、慈恩は門の陰をじっと見た。そして声を上げそうになった。
 二箇所にも銃弾を受けているため、洗練された技、とはいかないが、暴れるというにはあまりにハイレベルな三神の攻撃。その前に木刀を構えて立っているのは、近衛だった。長い脚だが剣との間合いではやや不利。いや、三神の技のレベルを持ってすれば、同等かもしれないが。
「どうやって・・・ここまで・・・・・・」
「手負いの獣相手に、あいつもなかなか度胸が座ってるな」
 感心したように言いながら、安土は拳銃を懐にしまって、代わりに薄くて細長いケースを取り出した。そのケースもやはり黒。やたら黒が多すぎる気はするけれど、それがよく似合っている。手際よくそれを開くと、あらゆる太さ、長さの針が入っていた。長くて細いその一本を取り出し、慈恩の抱きかかえる斗音の顎を軽くのけぞらせるようにして、その喉に驚くほど迷いなく針を突き立てた。それをニ・三箇所繰り返してから、今度は華奢な身体を慈恩の方にもたれさせ、うなじの何点かにも同様に針を刺す。
「これで、少しは呼吸が楽になるはずだ。まあ、ここまでひどくなってりゃ、これごときでどうなるわけでもないだろうがな」
 その間に、近衛は打つぞと見せかけて踏み込んで見せたり引いたりして、何気に三神を翻弄している。さすがに三神はそれが腹立たしいらしく、かなり憤っている。ともすれば、近衛の喉笛に飛び掛りそうだ。
「このクソガキっ!」
 罵声と共に三神は怪我人とは思えない素早さで、近衛の間合いを破った。近衛が飛び退ると同時に反対の門柱からすいっと歩み寄ったもう一人の若者。
「あ・・・・・・」
 高校生としては、日本一の剣道の使い手だった。三神はその背後に全く気づかない。近衛の挑発に乗ってしまっている上、隼は完全に気配を消していた。
 もう一歩踏み込んで、近衛の足を払おうとした三神は、いきなり動きを奪われて、驚きを顕わにした。
「たいがいにしなあかんて。あんた、そんな怪我して動かはったら、死んでしまうよって」
 羽交い絞めにした隼が、暴れる三神を、のんきな関西弁で諭す。あの怪力をものともしない隼に、改めて慈恩は感服した。やはり鍛えているのだと実感する。
「ちょお、そこに転がってる人。俺、結構これ押さえてんの大変なんやで。分かったら、はよ加勢してや」
「あれも大したもんだな。あのでかい図体をやすやすと抑えてやがる」
 くく、と安土は笑った。笑いながらも今度は斗音のはだけたパジャマを更に広げ、窪むほどに痩せたそのみぞおちの辺りや下腹部の辺りを針で突く。不安そうに見る慈恩に軽く唇を吊り上げる。
「中脘(ちゅうかん)と気海だ。一応疲労回復の経絡だが。かなり衰えているからな。あいつに渡すまでに、少しでも回復しているにこしたことはない」
「あいつ・・・・・・?」
「ああ、そうだ。さてと、とりあえずあの変態も大人しくなったことだし」
 羽交い絞めになったところを、ヤクザが三人で寄ってたかって、ボコボコにしていた。
「いや、ちょっとやりすぎちゃう?俺、そんなふうに加勢してくれなんて、ゆうてへんけど」

「怪我してんですから、もう少し丁寧に扱った方が・・・・・・」
 近衛と隼が逆に気遣うほどに。やれやれ、と安土は吐息した。
「おい、坂本、勅使河原、永澤。殺さんようにわざわざ撃たずにおいてやったものを、お前らが殺す気か。それだけやっておけば懲りるだろう。おい、巽。さっきてめえ俺のことなんて呼んだ?あとでお前をぶっ殺す。さっさとそいつ終わらせろ」
「え、あっ・・・はい、申し訳ありませんでしたっ」
 さすがにぐったりした三神を、車内に運び込む。木刀をヤクザの一人に丁重に返した近衛と隼が駆け寄ってきた。近衛が思わず足を止める。
「あ、えっと・・・・・・慈恩を連れて行ってくれた人・・・?」
「・・・うん。先輩、だ」
 慈恩はそっと視線を横へずらす。針を片付けている安土の脇に膝をついて、ぐったりと自分に抱かれている斗音を、目を眇めて見つめる瓜生。つらそうだった。彼が少なからず斗音を大事に思ってくれているのを感じた。
「この人が・・・・・・お前の、兄さん?」
 以前ほど、その言葉はつらくなかった。静かにうなずく。そうだ、兄だ。かけがえのない、たった一人の家族。それは躊躇う余地もないほど、自分の中では絶対的な真実。そのくすんだアッシュの髪をそっと撫でる。こんなに痩せ衰えて・・・・・・痣だらけの身体で。その姿を見ているだけで込み上げる涙が視界を潤ませる。
「・・・・・・綺麗な、人だな。一瞬女の子かと、思った」
 色白の細い手足。それに首。柔らかそうな薄い色の髪。とても華奢・・・というより、ひどく痩せている。その身体中についた痣は、何かしらの暴力を受けたに違いないと確信できた。
「・・・・・・つらい目に、遭うたんやな。・・・・・・可哀想に。俺、もっとはように押しかけたらよかった」
 悲しそうに大人びた顔を曇らせて、隼がつぶやく。慈恩の脇に膝をついて、その髪にそっと触れる。
 その中で積極的に動いているのは、安土だった。巽という若手の部下に黒いかばんを持ってこさせ、そこから色々な粉を取り出して混ぜている。それを少しの水で溶いて練る。
「さてと、これが飲めるといいが」
 意識のない口腔を軽く開いてミニライトを灯し、のぞき込む。やや眉が寄せられた。
「飲んだ瞬間、発作だな、これは」
 さて、どうしたものかと首をひねってから、それを薄く伸ばすようにして口腔の奥に塗った。
「まあ、嫌でも少しずつ入っていくだろう。あと、この首の傷はこれでいい」
 別の塗り薬を塗ってガーゼを当て、サージカルテープで止める。そして、一息。
「さて、勇敢な近衛の御子息。お前ここまでどうやって来た?」
 驚いたのは近衛の御子息だった。自分はこの美丈夫を知らない。
「え、ええと・・・・・・、すみません、僕、あなたをちょっと存じ上げないんですけれど・・・・・・」
 安土は肩をすくめた。
「知らない方がいいと思うがなあ。俺はちょっと仕事の都合上でお前の親父さんを知ってるだけだ。まあそこはいいとして、さっきこの近くで、この雪で、なぜかヘリの音を聞いた。お前くらいの金持ちになれば、ヘリ持ってんだろ?今日はひどい渋滞だった。俺はここまで来るのにいつもの五倍の時間が掛かった。・・・・・・バイクは一台しかない。ならお前らは、ヘリでこの近くのヘリポートにでも来たんじゃないかと思ったわけだ」
 近衛と隼が思わず顔を見合わせた。
「その・・・・・・通り、ですが」
「じゃあ、悪いがヘリでこの二人を運んでくれ。兄貴は見ての通りだし、弟の方も肋骨イってる。病院は滝総合医療院。医者はもう待機しているはずだ。できるか?」
 慈恩の肋骨が折れていることに驚きを隠せなかったが、それでも近衛は大きくうなずいた。
「もちろんです。やらせてください」

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四十九.プレゼント

 低い空は冬らしく、東京では夜からひどい風が続いていた。
「雪起こしの風っ、て、言うんだろうな、こういうの」
 朝っぱらから冷たい強風に晒されて、近衛の言葉が思わず詰まる。正面から吹きつける寒風は健康な人間の気管でさえ詰まらせるほどの勢いがある。上品なグレーのコートの裾が、狂ったように舞い踊る。慈恩も思わず目を細めた。その脳裏には、深くマフラーに顔を埋めて、強い風から気管支を守ろうとする斗音の姿が浮かぶ。
「今日は雪が降るってさ。久しぶりだよな、クリスマスイブに雪だなんて」
 ガキの頃にあったっけ、などとつぶやく近衛が、自分に気を遣ってくれているのがよく分かる。ほとんど口をきけない自分の代わりに、雰囲気を暗くさせないように、話題が尽きないように。
「雪が降ってくれんのは悪くないけど、風はちょっとなあ。もう少し弱まってくれりゃいいのに」
 ああ、と言う代わりに小さくうなずく。こんなに強い風では、斗音が苦労するだろうと思った。
「今日、部活が終わったらうちの車を迎えによこすから。それでいいか?」
「・・・・・・ああ」
 小さく答えた慈恩を近衛はちらりと見て、軽く唇の左端を吊り上げる。
「せっかくだ。楽しもうぜ、今日くらい。俺がこんなイベント企画するなんて、ツチノコが発見されるくらい珍しいんだから」
 慈恩の細められていた目が少し開いて、それから儚い笑みが浮かんだ。

「・・・・・・そうだな。・・・・・・ありがとう」

   ***

「雪が、降るそうですよ」
 部屋の中にいても、強い寒風の音が絶え間なく聞こえている。部屋はファンヒーターがつけられ、寒くはないはずだった。しかし、ベッドの中で斗音は小さく震える。
「三十九度四分・・・・・・下がりませんね。薬も点滴も、毎日投与しているのに」
 ふう、と三神が小さく溜息をつく。
「最近はちゃんと眠っている時間もあるはずですが・・・・・・。まあ、気を失うのと眠るのは、似て非なるものかもしれませんけど」
 憐憫の笑みを浮かべて、白い頬に指を這わせる。
「昨夜も私がイくより先に意識を失くしてしまわれましたし。・・・・・・できれば最後まで反応して欲しかったですね」
 虚ろな瞳がぼんやりと三神を捉え、唇が音にならない言葉を綴る。それを読んで、三神は薄く笑った。
「・・・・・・ケダモノ・・・?そうですね。私はあなたに飢えている。知れば知るほどもっともっと欲しくなる。足りないんだ。もっと、もっと欲しい。あなたを俺で埋め尽くして、俺のものにして、俺しか見えなくなるようにして。俺のことだけ考えて俺を愛してくれるまで。それまで俺は、あなたを貪りつくしてあげるから」
 ベッドを軋ませて腰を下ろし、そのまま斗音の唇に己の唇を被せる。小さく首を振ろうとしたが、いとも簡単に押さえ込まれてしまう。
「・・・・・・熱いですね。・・・・・・身体も・・・・・・」
 検温をしたばかりで剥き出しになっている薄い肩から、更にパジャマを引き剥がす。くびれて折れてしまいそうなほど細い腰までが顕わになった。
「・・・熱い・・・・・・ここも、ここも」
 言いながら長い手指で浮き出ている骨と薄い筋肉を探るようにねっとりと撫でていく。
「・・・・・・・・・っ・・・ぅ・・・・・・」
 声帯が震えて、擦れすぎて聞き取ることが困難なほど小さな声が零れる。
「中も、熱いんでしょうね・・・・・・」
 うっとりと陶酔した三神の表情は、斗音の背筋に熱とは別の寒気を伝わらせた。
「・・・・・・こ・・・ろ、す気・・・・・・?」
 ひくり、と喉を引きつらせる斗音に、三神は残酷に優しく笑んだ。
「あなたを壊して・・・・・・俺の手で殺してしまったなら、俺はあなたを抱き締めながら後を追ってあげる。一人になんて、しませんから・・・・・・永遠に」
(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・慈恩・・・・・・・・・助けて・・・・・・)
 虚ろな瞳に膨れ上がった涙が、一粒転がり落ちた。ゴホ、と濁った力ない咳が喉を鳴らす。

(・・・・・・俺・・・・・・殺される)

   ***

 ショートホームルーム終了のチャイムと同時に、わらわらと校舎がにぎわい始める。
「よーし、さくっと頑張ってさくっと終わらせるか」
 伸びをしながら和田がやる気の意志を表明する。近衛はふっと笑みを浮かべた。正直、この男と同じクラスになって前半は、ウザイ奴だと思っていた。ノリがよくてムードメーカーではあるものの、軽いばかりでいい加減なところがあったし、人をちょっと小馬鹿にするようなところがあって、近衛のことも「いい家柄のできのいいボンボン」といった扱いをしていた。剣道に関しては認めてくれていたのだろうが、和田は近衛家ほどの家柄でもないし、成績も中の下くらい。いろいろ嫉妬の対象になっていたようだった。
「なあ、近衛。楽しみがあるとちょっとやる気が起きるよな」
「めでたい奴だな。まあ、今はそのノリがありがたいか。慈恩に言ってやれよ」
 鷹司の一件以来、和田には完全に本性で接している。こいつに関しては、隠すのも馬鹿馬鹿しいと思うくらい、今はそれが当たり前だ。
「うわー、皮肉きつっ。あいつには、お前の方がいいんじゃねえの?」
「俺ばかりでも気が滅入るだろ。お前だって心配してるんだから」
「そりゃあ・・・・・・あいつは、俺たちを変えてくれた奴だし。なんか悩みがあるなら何とかしてやりたいと思うけどさ・・・・・・」
 和田がカリカリと頭を掻く。
「俺はむしろ、お前があいつのことで悩んでんのが、つらそうに見えるんだ」
「・・・・・・は?」
「だからさ、お前が一生懸命雰囲気明るくしようとしてたりするじゃん。一人で頑張ってんの見てるとさ、ちょっと手伝わなきゃって気がする。今日も、盛り上げていこうぜ」
 ポン、と肩をたたいて教室をあとにする。ぽかんとそれを見送ってから、近衛はくしゃっと表情を崩した。
「マジで?」
 片手を額に当て、栗色の前髪をつかむ。少しうつむいて、くっと肩を揺らした。
「ふ・・・・・・ははっ・・・・・・そう、なんだ」
(・・・・・・俺にも、いた・・・・・・)
 珍しい様子の近衛に、クラスメイトたちが不思議そうな視線を向ける。その視線の前で、近衛は顔を上げた。そして、ちらりとブルガリの腕時計に目をやる。
(予定では、あとニ時間半くらいか)
 キレのない動作でかばんを片付けている慈恩にカツンと革靴の音を立てて歩み寄った。
「慈恩、行こう」
 ふっと浮かべた笑みは、いつもの知的な笑み。けれど、唇の左端を吊り上げる皮肉めいたものではなくて、ただ純粋に優しさを載せたものだった。何気なくそれを見た慈恩は、つられて微笑んだ。

「ああ」

   ***

「わあ、降ってきた!」
 体育館を出るなり、瞬が男子高生にしては高めの声を上げる。続いて体育館から出てきた翔一郎も、ウインドブレーカーをTシャツ姿の瞬に掛けてやりながら灰色の空を見上げた。
「ほんとだ。天気予報って、当たるんだなあ」
 さすがにこの時期は、思い切りハードに練習しても、汗はすぐに引いてしまう。日が短いため、夏より練習時間も短い。その分、今日のような日は遊ぶ時間が増えるというものだが。
「風はおさまったな。けど・・・・・・ちょっとこれは・・・・・・積もりそうだな・・・・・・」
 わずかに表情を曇らせたのは嵐だ。
「クリスマスに雪が積もるなんて、なんか素敵な感じじゃない?」
 見る者の心を奪わずにはいないほど愛らしい笑みを浮かべて振り返る瞬に、嵐は苦笑した。
「そういう見方ができると幸せだな」
 瞬のつぶらな瞳が見開かれる。
「え?何か問題がある?」
 翔一郎が軽く首をかしげた。
「靴が濡れる、とか?」
「まあ、それもそうだけど・・・・・・スリップしそうだと思って」
 お子様並みの答えを出した二人は、顔を見合わせてくすっと笑った。
「車に乗る人間の答えだな」
「大人だねー。ていうか、現実的?夢がないなあ」
「おーい、なんだ?イジメか?」
 苦笑いの嵐である。肩に触れるくらいになったさらさらの髪を掻き上げ、白い溜息を吐き出す。
「それだけじゃないだろ。一番気がかりなのは」
「斗音だろ」
「斗音だよね」
「斗音だな」
 語尾の違う三人のセリフがかぶった。真剣な視線が互いを見つめる。
「とりあえず、着替え終わったらもう一回連絡、だね」
「・・・・・・出てくれるといいな」
「・・・・・・この雪が、どう影響するか・・・・・・」

 嵐の不思議な色の瞳が、憂いを含んで重い空を見上げた。

   ***

(畜生、降ってきやがった)
 舌打ちをして、空を睨んだ。早くしなければ、まずいことになるかもしれない。
(くそ、こんな日にまであいつは何やってんだ。早く終わりやがれ!)
 苛立つ吐息は真っ白だ。かなり冷え込んできている。
(頼むから、早くしてくれ!)
 格技場の入り口の石段で頭を抱えた瞬間、背後から野太い声が掛かった。
「瓜生か?何してんだ、こんなところで」
 呼ばれた瞬間、勢いよく振り返って立ち上がる。
「お前を待ってた。頼みがある」
「俺にか?」
 驚いたのは、いきなり意外な人物に意外なことを言われた方だった。手に持っていた竹刀と防具をどすんと石段に置いて、コキコキと首を鳴らす。
「教室で言ってくれればよかったじゃねえか。随分待ったんじゃねえのか?」
「・・・・・・お前、誰よりも早くいなくなってたじゃねえか」
「練習中でも、呼んでくれりゃいいだろう」
「・・・・・・・・・・・・」
 瓜生は少し言葉に詰まる。そんな瓜生を、元剣道部部長は仕方なさそうに苦笑して見つめた。
「自分が呼んだら、俺のイメージが悪くなるとでも思ってんだろ、お前は」
「・・・・・・っ、それは・・・」
「マイナス思考な奴だな。そんなこと思ってる奴、もういねえよ。いたとしても、その程度の人間、俺が気にするとでも思ってんのか」
 全くもって近藤らしい答えである。それでも瓜生はぐっと眉根を寄せた。逆に近藤は、ふ、と笑みを載せる。
「・・・・・・それだけ、自分のしてきたことを後悔してるってことなんだろうな」
「・・・・・・・・・・・・」
 言葉に詰まりっぱなしの瓜生の前で、近藤は大きな荷物を肩に掛け直した。
「ま、こんな所で立ち話もなんだ。お前電車通学だったな。駅まで付き合う。そこで用件を聞かせてもらおう」

 近藤の気遣いが分かったので、瓜生は無言でうなずいた。

   ***

 漆黒の革の質感の携帯に向かって、安土は広い室内に怒声を響かせていた。
「今日に間に合わなかったら意味ねーんだ。雪で着陸が遅れそうだと?たかがこれくらいの雪で何ほざいてやがる。パイロット首にしろ!俺が操縦してやる」
 「仁義心」の額のある事務所で、その報告を持ってきたかなり年配の組員は首をすくめる。
「若、あまり無茶をおっしゃらんで下さい」
 言った瞬間、携帯に向かって話しているはずの二代目組長は、ギラリと部下を睨みつけた。
「誰が若だコラ!」
「もっ、申し訳ありませ・・・・・・っ」
「いいか、何が何でも今日中だ。管制塔に連絡つけて、最大の努力で着陸させろ。多少遅れるのは構わん。でも、今日中に下ろさなかったら、今度からお前に処方してる通風の薬、百倍に値上げしてやるからな!」
 ブチッと音が聞こえそうな勢いで通話を切ると、白髪混じりの部下を怒鳴りつける。
「お前はいつまで俺をガキ扱いしてんだ!そもそも、本来そう呼ぶべき時期だって、俺はこの組を継がねえって断言してたのに、ずっとそう呼びやがって。仕方なく二代目に就任したら就任したで、いつまでたっても俺はお前の中で組長に昇格はできてねえのか?あ?」
「す、すみませんっ!しかし、長年そうお呼びしておりましたので、癖が・・・・・・」
「お前の癖なんか知ったことか!お前らが失業すんのを防ぐために俺は二代目やらざるを得なかったんだぞ!ちょっとは俺に敬意を払え!」
 払ってるのに!と、この先代から仕える組員は思わなくもなかったが、とにかくこの迫力に押されて頭を下げることしかできなかった。
「あー畜生、腹が立つ!俺の代では絶対に必要以上の組員は増やさねえ!覚えとけ、この野郎」
「あの、若、それで・・・・・・」
 思わず慣れ親しんだ呼び方をまたもや口にしてしまって、あわわ、と組員がたじろぐ。それを、怒りを載せた漆黒の瞳で射抜き、こう見えても組員の誰もに親しまれ、愛されている二代目は、艶のある声にどすをきかせた。
「俺は若くないっ!」
「ももも、申し訳ありませんでしたぁっ!」
 老体に差しかかっている身体に鞭打って、組員は猛ダッシュで部屋を飛び出した。そのためにつりそうになった右足を引きずりながら、ほぅっと深い安堵の息をつく。
「御自分が若く見えることに、コンプレックス持ち過ぎだと思うんだがなあ・・・・・・そもそも若く見えるなんて羨ましいことじゃないか。全く、若も妙なところにこだわりなさる。大体こっちから見たら二十八なんて、実際若いだろう。全く・・・・・・」
 ぶつぶつ言いながら、ふと足を止め、そっと出てきたばかりの部屋を振り返る。
「それにしても、若は一体誰に電話を掛けておられたんだ?・・・・・・変なところで顔が広くていらっしゃるが・・・・・・相変わらず複数相手に同時にしゃべっておられるし」
 東洋医学を研究し、針から呼吸法、気功法、指圧や整体、漢方薬をこの歳で極め、診療院の経営と漢方薬の処方、販売も自ら執り行い、その上先代が立ち上げた組を継ぎ、高利貸しや不動産も変わらず経営し続けている安土は、とにかく忙しい。忙しいけれどプライベートも大事にするため、仕事はできるだけ短い時間で済ませようとする。それゆえ培われたのが、複数の人間と同時に会話する能力である。もちろん、それは安土の能力の高さを示すほんのひとかけらの片鱗でしかないのだが。
「本当に、大した方だ」

 まるで我が子のことのように目を細めて、組員は嬉しそうに笑みを浮かべた。

   ***

 クリスマスイブと言えば、大抵の恋人たちは浮かれるのではないだろうか。高校生でも、その事情に大差ないと思うのだが。
 そう思いながら今井は溜息をついた。受験生である自分たちに、その定義は当てはまらないのかもしれない。志望校はどんな模試でもA判定を取っている今井であるから、さほど心配もしていないし焦ってもいない。が、同じく執行部仲間の弓削や武知、莉紗は、さすがに余裕がなくなってきている。少しでも暇があるようなら、図書館にこもったりこの生徒会室に来たりして勉強している。彼らとて優秀なのだが、目指すところがやはり高いのだろう。センター試験までに、もう一ヶ月を切っているのだから、むしろ余裕で他ごとを考えている自分は、いっそ憎たらしく見えるのかもしれない。
「またそんなふうに溜息つくんだね。そんなに私といると疲れる?それとも、文弥くんを憂鬱にさせてるのは、もう私ですらないのかな」
 大きくて二重の、理知的で可愛い瞳が涙で潤んでいる。まだ、そう思える。でも、その言葉にはうんざりした。
「泣くなよ。何なら今から予定変更するか?いいぜ、一緒に飯でも食ってケーキとか買って、うちで勉強。それならお前の条件にも合うだろ?」
 初めは、そうやって二人で過ごしたい、と莉紗は言った。けれど、彼女は先日の模試で思ったほど結果が伸びず、それに加え、今井はそんな莉紗をあまり気遣ってやれなかったため、やっぱり勉強しなきゃいけないから、真っ直ぐ帰る、と言い出した。それが昨日。ならば、自分は斗音の見舞いにでも行こうと思っていた。最近はメールも電話も通じないし、通じなくなる直前はその応対も斗音らしくない投げやりな感じだったので、ずっと気にしていたのだ。しかし、斗音がいない分仕事も忙しく、とても見舞いどころではなかった。でも、明日からは冬休み。そんな日くらいはそれも許されるだろう、と、そのためにいろいろ考え始めていたというのに、今日になって莉紗は今井に詰め寄ったのだ。なぜ、一緒にいようと言ってくれないのか、と。
 真っ直ぐ帰るという言葉が、自分の気を引き付けるためのものであったことに、今更ながらに気づいた今井だったが、さすがに振り回されている感が拭い切れず、思わず溜息をついてしまったのである。最近、こんなことが増えたのも、分かっている。莉紗に「また」と言われるくらいだから、莉紗だって気付いているのだろう。
「いいぜ、なんて思ってないくせに。条件って、何?私のわがままに合わせてますって言ってるの?もうやだよ・・・・・・こんな状態で一緒にいたって、お互い苦痛しか感じないじゃない!」
 ぽろぽろと零れる涙を、莉紗は両手で顔を覆って隠す。震える肩を、ここは抱き締めてやるべきなのだろうか。それともこれは、別れようという宣告なのか。心に負担を感じて、思わず息を吐き出した。
「なあ、俺にどうしろって言うんだ。俺はお前を傷つけたいなんて思ってない」
「思ってなくても重荷なんでしょ?その溜息がつらいの・・・・・・もう聞きたくないの!」
 はぁ、と息をついてしまって、唇を噛む。莉紗の言うとおりだ。思った以上に、自分は溜息をついている。
「悪い。斗音のこともあるし、俺も色々・・・・・・」
「こんなときに他人の名前持ち出さないでよ!今斗音くんは関係ないじゃない!」
 ヒステリックな声に、今度はカチンと来た。それなりに気を遣っているつもりなのに、こちらの言い分は一切聞かないつもりだろうか。と。
「関係ない、なんてことねえだろ。お前、あいつのこと心配じゃないのかよ」
「心配だよ!だけど、今はそんなことに気を掛けてる余裕、全然ない!受験のことも、文弥くんのことも、心配事で一杯過ぎて、斗音くんにかまけてる隙なんて、私には全くないの!」
 覆っていた手を外し、涙を頬に伝わせながら、莉紗は叫んだ。瞬間、今井は表情が引きつったのが分かった。莉紗の細い手首をつかんでぐいと引き寄せる。
「そんなこと?お前にとってあいつはその程度なのか。大事な仲間のことすら心配してやれないほど、お前小さい人間なのかよ」
 莉紗の涙に濡れた瞳が怯える。つかまれた手首を振りほどこうともがく。
「やだ、やめてよ。何でそんな怖い顔するの・・・・・・?そんなに斗音くんが、大事・・・なの?」
「悩んでたって学校に出てこられるお前と、学校に出てこないはずがないのに出てこない斗音と、どっちが心配かって?そう言ってるのか?」
 ひどいことを言っているという認識はあった。それでもおさまりがつかないくらい、自分の感情が昂ぶっていた。その瞬間。
「生徒会長のセリフとは思えませんね」
 カラカラと戸が開いて姿を現したのは、まだ夏に焼けた肌の色が残ったままの、背の高い少年。腕を組んだまま入り口にもたれて、開いて重なった戸を長い脚で押しやっている。ということはしばらくそこで聞いていた上、行儀悪く足で開けたのだろうか。
「痴話喧嘩はもう少し人が来ないところでやったらどうです?」
 更にその脚を飛び越えるようにして駆け込んできたのは、今や執行部に一人しか顔を出していない二年生。
「莉紗さんっ!」
 二人の予想外の登場に、今井は怒気を殺がれて思わずつかんだ手を離す。離した手は逃げるように今井から離れ、藤堂の制服に縋りついた。そのままその胸で号泣する莉紗を、藤堂はそっと抱き寄せた。
「斗音も大事だけど・・・・・・俺は、あなたのことも大事です」
 優しく、言い聞かせるような声音に、莉紗の泣き声は更に激しくなる。よしよし、とあやすようにしながら、藤堂は氷室に目配せした。

「・・・・・・ここにいてもつらいから、少し外に出ましょう」
 
今井に軽く会釈をして、そのまま、莉紗を気遣いつつ部屋を出る。泣き声が徐々に遠ざかっていくのを耳に捉えながら、今井は大きな溜息を吐き出した。
「かっこわりいな」
「そうですね」
 即答されて、思わず苦笑する。
「女の子って、難しいな」
「俺、あんま経験ないんで、それには答えかねます」
「あ、そう」
 能面のように表情を見せない後輩に、再び苦笑を重ねる。氷室はもたれかかっていた長身を起こして、足で器用に戸を閉めた。
「けど、あれは可哀想でしょ。お前の大したことない悩みなんて、知ったことかって聞こえましたよ」
「そう、だな。そんなつもりで、言ってたと思う」
 やっぱり、と言う代わりに、氷室は肩をすくめた。
「会長の気持ちも分からなくはないですよ。同じことを言われたら、俺はムカつくかもしれない。でも、彼女だったんでしょ?好きならあんな言い方、できないんじゃないですかね」
「・・・・・・」
 ああ、そうか、と心がうなずいた。好きかどうか、と聞かれたら、自分は「好きだったと思う」としか、答えられない。その答えは明確とは言えず、それ以上に、過去形でしかない。
「会長は伊佐治先輩より、副会長の方が心配。藤堂先輩は、副会長より伊佐治先輩の方が心配。伊佐治先輩は自分のことで一杯一杯、何より自分を気遣ってくれる人を必要としてる。・・・・・・この構図、まあなるようになるとは思いますけど・・・・・・早い方が、お互い楽なんじゃないですか」
 客観的なその意見に、今井はうなずくしかなかった。自嘲の笑みに、溜息を混ぜる。
「クリスマスイブに別れるってのも、ちょっと切ないけどな」
 氷室の顔に、今井のものに似た笑みが浮かんだ。

「・・・・・・俺的には・・・・・・会長の天秤に近いですよ」

   ***

 粉雪は大気が染められそうな密度で、天からこぼれてくる。美しく立派な日本庭園の見事な松の葉が、うっすらと白く染められ始め、優しい照明の中に浮かび上がっているのは、いかにも幻想的だ。
「・・・・・・素晴らしいね。僕の見たことがある日本庭園の中で、これだけ雪の似合うものは初めてだ」
 鳳が溜息をつく。鳳の家も相当の資産家だから、家も立派である。その鳳が言うのだから、それ以外の部員にしてもうなずくしかない。
「クリスマスって雰囲気に似合うわけじゃないけどね」
 苦笑いしながら近衛が足を崩す。和室だからどちらかというと大晦日が似合うのだろうが、そんなことを言っては申し訳ないくらいの贅沢な景色と部屋だった。既に大きな机が運び込まれ、次々と使用人たちが料理を運んでくる。料理だけは西洋風であるが、その豪華さはやはり半端じゃない。
「うは、うっまそ~!これ、本物の七面鳥だよな。でけぇ~」
 はしゃぐ和田に、東坊城や秋月も嬉しそうに目を輝かせる。
「この前菜は素敵だね。色とりどりの野菜のゼリー寄せと鴨肉を添えたもの、それに、ゴルゴンゾーラとトマトとホウレンソウのキッシュ、この魚は何だろ。ポテトのクリーム煮を添えてあるんだね」
「こっちはフォアグラのムースをカリカリのフランスパンにつけて食べるんだろ?俺、これ好きなんだよね~」
「ローストビーフのキャビア添え、毛蟹のトマトクリームパスタ、和牛ひれステーキのポルチーニ茸ソース、ホタテのガーリックバターソテーとアスパラ、伊勢海老のフリッターに柑橘系ベースのタルタルソース、タンシチュー、サラダはシーザーサラダと海の幸と山の幸の三種。うお、まだ来るのか」

 三人にとっては花より団子というわけだ。確かに、ハードな部活を終えて来ているのだから、育ち盛りの男子高生にとってはどちらが魅力的か、考えるまでもない。ここで外の雅さに気付くというのは、普段の感性の磨き方に違いがあるからなのだろう。別に近衛としては、みんなが喜んでくれるのならそれでいい。そう思いながら、ちらりと一番気がかりな仲間へ目を向ける。
 
慈恩は・・・・・・外を見ていた。見とれる、というわけでもなく、切なそうに、目を細めて。
(駄目かなあ・・・・・・俺では、こいつのために、何もしてやれないのか。俺には何でもできるのに、こいつを喜ばせることができない)

 やれやれ、と小さく吐息する。それでも、豪華な料理が並びきったところで、みんなのテンションは否が応にも高まって、全員が手にしたグラスに注いだ、特別に造らせたノンアルコールのスパークリングワインで乾杯した頃には、既に雪がうっすらと地面を覆い始めていた。

   ***

 駅ビルの中で、瞬、翔一郎、嵐は沈痛な面持ちのまま様々なコーナーを巡り歩いていた。
「ねえ、やっぱり斗音は寒さに弱いから、マフラーとかそういうのにしようよ。あっ、でも紅茶好きだから、色んなお茶とティーサーバーなんてのもいいかな?」
 無理に明るく振舞う瞬だが、いつもの声のトーンに届いていないのは、自分でも分かっている。
「・・・・・・そうだな・・・・・・」
 翔一郎は一応相槌を打っているが、明らかに上の空である。嵐は何度も携帯でどこかに掛けようとしているが、掛からずに舌打ちをしている。それが斗音でないことは分かるのだが。
 部活が終わってから、メールも電話も何度もした。けれど、なかなか返事は返ってこなかった。仕方がないので、押し掛ける口実にクリスマスプレゼントを持っていこうということになり、選び始めたはいいが、その矢先に、瞬の携帯にたった一言、メールが来たのだ。
『ほんと勘弁して、頼むから!』
 やっぱり駄目か、と思う反面、その言葉に何か切羽詰ったものを感じて、不安になった。押し掛けていいのだろうか。押し掛けた方がいいのだろうか。何かギリギリのところに斗音がいるような気がした。自分たちが選択肢を間違えれば、斗音を壊してしまう。それは、嫌な予感でしかなかったけれど。
「あの馬鹿、肝心な時に何やってんだよ!」
 声を荒げる嵐に、瞬はますます不安になって、翔一郎のコートの袖をつかんだ。それに気付いた翔一郎が、気遣わしげな瞳を嵐に向ける。
「どした?誰に掛けてんの?」
「悪ぃ、何でもねえよ」
 何でもないってことはないだろう、と思うのだが、嵐には時折こんなことがある。自分たちを関わらせないようにしている、そんな世界をもっている。たぶん、その世界の人につなげようとしているのだ。普段自分たちの前ではなるべくそういうところを見せたがらないのだが。
「あの、さ、クリスマスカードも、添えない?もしかしたら、会って話すこと、できないかもしれないし」
 ぎゅっと袖をつかんだ手に力を込めると、翔一郎が優しく頭をたたいた。
「・・・・・・うん。そうしようか」
 言って、嵐を振り返る。
「いいだろ?」
 突然振られた嵐は、眉間に寄せていたしわを消して、ああ、とうなずいた。そして、少し躊躇ってから迷う瞳を上げる。
「なあ・・・・・・俺、どうしても今日あいつのところへ行っていいのかどうか、判断できねぇんだ。行かなきゃいけないとは思う。でも、俺たちだけは今のあいつを知らないでいてやらなきゃいけない気もする。これまで俺は、ずっとその思いの狭間で葛藤してた」
 瞬は驚きに瞳を見開く。嵐のこんな弱気な言葉は、聞いたことがなかった。翔一郎は少しだけ、目を細めた。
「知ってしまえばもう戻れない。あいつが帰れる場所をなくして、もっと追い詰めちまうかもしれない。それが怖かった。・・・・・・それでも、もうほっといていい時間はとうに過ぎちまった気がして、今日は行く覚悟を決めてた。でも、さっきのメールを見てそれがまた分からなくなった。・・・・・・だから、俺に一晩、時間をくれないか。俺は・・・・・・一人で斗音のことを背負うのが怖い。・・・・・・どうしても、相談したい奴がいるんだ。そいつの言うことなら、俺は自信を持って信じることができるから」
 うん、と小さく言ったのは、翔一郎だった。その顔には、微笑が浮かんでいた。
「ずっと俺たちはお前に頼ってた。お前一人の判断に任せて、お前の言うことは、自信を持って信じてた。ごめんな、重かったろ。お前一人に背負わせるつもりはなかったけど、俺は自分に自信が持てなかったから。・・・・・・お前も同じ人間なのにな。でも、なんかほっとした。・・・・・・俺も同じように、迷ってたから」
「・・・・・・俺も、思ってた。なんか、俺たちはどっちかしなきゃいけないけど、間違えたら斗音を失っちゃう気がして、怖かった」
 みんなが同じ不安を感じていた。あの、嵐ですら。不安は、一人だけのものではなかった。だからこそ、迷った。どうしても間違えられなかったから。
「どっちにしても、プレゼントは選んじゃっていいよね?俺たちはどんなことがあっても、斗音のことを大事に思ってる。それを伝えるだけでも、いいよね?」

 瞬の言葉に、嵐も翔一郎も微笑んで深くうなずいた。

   ***

「・・・・・・そんなにつらそうな顔をしないで・・・・・・これは、わたしからあなたへの、クリスマスプレゼントですよ・・・・・・」
 ギシ、とスプリングの軋む音が、耳元の囁きに混じる。同時に耐え難い負担が身体に襲い掛かった。
(・・・・・・・・・・・・あ・・・・・・また・・・・・・)
 意識にもやが掛かる。幾度も経験させられたこの瞬間。もう、ろくに息ができていなかった。苦しみから解放されることへの安堵と、二度と目が覚めない可能性への恐怖が入り混じる。
(・・・・・・・・・・・・こんな・・・・・・なのに・・・・・・・・・まだ・・・・・・死にたくない・・・・・・・・・・・・)

 意識が途切れる瞬間、白い頬をまた一つの雫が滑り落ちた。

   ***

 にぎやかな部屋の中で、そっと使用人から連絡を受けた近衛が、和田を手招きした。
「あいつが着いた。俺、迎えに行って来るから、とりあえず慈恩の気を逸らしといてくれ」
 和田の目が嬉しそうに輝いた。
「オッケー、任しとけ。よかったな、間に合って。雪で遅れるかもって、連絡あったんだろ?」
「ああ。もう少し早く着く予定だったけど、まあいい。慈恩以外にも、こっそり伝えとけよ」
「分かってるって。九条の驚く顔が・・・・・・いや、喜ぶ顔が見られるといいな」
 純粋な言葉に、近衛は一瞬どんな表情をしたらいいのか、戸惑った。それを隠すように、視線を逸らして小さく笑った。
「・・・そうだな」
 その視線の先で、慈恩は表面的な笑みだけ浮かべて、仲間の雑談を聞いているように見せていた。少なくとも、四ヶ月彼を見続けてきた近衛には、そう見えた。
(奴なら、慈恩の心を開いてくれる。そんな気がする)
 こっそり部屋を抜け出して、客人が通されている応接室に、早足で向かう。
「あ、かんにんな、遅なってしもて」
 部屋のドアを開けた瞬間、ソファに居心地悪そうに座っていた隼が、そそくさと立ち上がった。
「いや、済まなかったね。急にとんでもないことを頼んでしまって。でも、どうしても君に来て欲しくて」
 握手の手を差し伸べると、大人っぽい顔が無邪気に笑った。遠慮なくブンブンと握手する。
「何ゆうとん。全部費用出してくれはったやんか。俺、グリーン車で東京来たの初めてやで」
 普通の高校生なら当たり前だ。なんてツッコミは、優等生の近衛は入れない。胸の内に収める。
「いや、それでも、こんな雪になるなんて、大変だっただろう。今晩はうちに泊まっていってくれればいいし、ゆっくり楽しんでくれたら嬉しいよ。このこと、慈恩にだけは知らせてないんだ」
「ああ、サプライズ企画なんや。けど、あいつ喜ばしたろゆうて、俺のこと思い出してくれはったのが、俺は嬉しかったわ」
 そう言ってから、隼のきりっとした眉が寄せられた。
「全国大会の日、あいつと少し話ししてん。事情も聞いてたんやけど・・・・・・あんた、あいつに双子の兄貴いてること知ってはる?」
「あ、ああ、聞いたことは、ある。確か、喘息の・・・」
 隼は真剣な顔でうなずく。こんな表情をしていると、この日本一の剣道少年はとても大人っぽく見える。
「せや。慈恩と斗音・・・・・・ああ、兄貴は斗音てゆわはるんやけどな、ほんま綺麗な顔しとって、俺小学校で初めて見よったとき、女の子や思たくらいで。まあ、そらあんま関係あれへんかもしれんけど、あいつらは、ほんと信頼し合って、支え合って生きとる感じがしたもんや。せやけど、あの時話してて、転校してからあいつ、斗音に全然会うてへんてゆうてたから、おかしいとは思てたんや。慈恩ももちろんやけど、斗音が慈恩と離れて平気やとは、俺には到底思われへんねん」
「・・・・・・そう、なのか」
 初めて聞いた。転校してきてから三週間目だったあの日、あの弱音の中でその存在を知り、鼓の練習のときに、携帯電話で話していた相手が恐らくそうだったはずだ。
『俺が守らなきゃと思ってた』
 そういえば、あの時の言葉は過去形だった。ひどく懐かしむように。確かに、連絡は取っていたように思うが、会ったという話は聞いていない。新人戦の関東大会では、変わった髪の色の友人たちとは会ったようだったが、そこにその斗音という少年はいなかった気がする。そして、慈恩は・・・・・・確かに少し、元気がなかった。
 しかし、近衛の胸に重い鉛が沈む。また聞いてやれなかった。打ち明けてはもらえなかった。慈恩にとって自分は、その程度か。それを突きつけられた気がした。この隼は知っていたのに。
「・・・・・・俺、慈恩は唯一認めたライバルやさかい、いつも元気でいて最高のコンディション保っとって欲しい。あいつと竹刀合わせる時は、俺にとって至福の時なんや。・・・・・・そんで、斗音は・・・・・・俺の一目惚れした初恋の相手やった。あはは、もちろん、その日のうちに初失恋やったけど。でも、今見ても、やっぱかわええし、なんか一生懸命なとこは男とか女とか関係のうて、ほんと守ったりたいて思うような奴やねん」
 ところどころで自虐ネタで笑いを取ろうとするところは、やはり隼らしい気がするが、その言葉は誠実で、この少年がこれまでどれだけ真剣な思いで慈恩たちと関わってきたのかを感じた。付き合い四ヶ月の自分では、足りなかった。それだけのことだ。そう、それだけ。
「なあ、あんた・・・・・・なんでそんなしかめっ面してはるん?パーティーやろ?もっと楽しそうにしな、慈恩かて楽しめへんやろ」
 のぞき込むようにして言われ、はっと顔を上げた。
「しかめっ面、してたかな」
「してたで。うちの姉ちゃんがひくひくっと怒ってるのを抑えてはる感じに似てるわ」
 言われた瞬間、昨夜の隼との会話を思い出して、思わず吹き出してしまった。
「般若の一歩手前?」
「ああ、そうそう。次は絶対怒鳴り声飛んでくんねん」
「そりゃ気をつけないとな。さ、こんな所で話してちゃもったいない。僕の部屋に案内するよ」
 気を取り直して笑みを浮かべると、隼はにこぉっと笑った。
「俺な、実はパーティーてあんま経験ないねん。駅にでかい車来よったときもそらびびったけど、この家着いて、もっとびびったわ。なんで門くぐってから車で移動せなあかんねん、て。こんなでかい家、俺見たの初めてやさかい。そんな家のパーティーに参加できるなんて、光栄やわ」
 何て屈託ない笑みだろう。人に対して、何の憶測もなく素直に自分の思いのまま触れられる、そんなタイプの人間だ。常に体裁を考える自分とは、全く違う。心の壁がなければ、誰だって気軽に心を開ける。歩きながら、その差に気付く。慈恩には心を開いているつもりだったのだが、それでも気を遣っていたのかも・・・・・・
「なあなあ、それより、あんた彼女やなくて許婚がおるてゆうてはったやろ?やっぱ、いい家ゆうのは、世界がちごてんねんな。けど、許婚とはデートせんでええの?将来、結婚すんねやろ?」
(ちょっとは気を遣えよ、ちょっとは!)
 開けっぴろげすぎる隼に、近衛は少々頭を抱えたくなったが、そこはポーカーフェイスのベテランである。笑みを浮かべて応対した。
「さあ、どうなるかは分からないけど、まあ今日はそういうの抜きで楽しもうって企画なんだよ」
「ふうん。それにしても、廊下も広いわぁ。うちやったら、これ、部屋やで。天井も高いし。けど、基本的には和風で、俺的には親近感やなあ」
 身構えて答えた言葉は軽くかわされた上、どうでもいい感想を思いつくままに口にされると、時折隼にもちそうになった尊敬の念などがガラガラと崩れていく。一体この男の本心はどこにあるのだろう。
(何か考えてるのかと思ったら、なんも考えてないし。よく分かんない奴だな)
 それでも腹が立ったり憎らしく思ったりする気になれないのは、この人柄のなせる業なのかもしれない。

(全国大会の、あの日みたいに・・・・・・こいつなら慈恩を心から笑わせることができる。・・・きっと)

   ***

『俺も連絡したいのは山々なんだが、なんか事情が複雑そうだしな。俺にしてやれるのは、あいつの連絡先を教えることくらいだ』
 そう言って近藤がくれたメモには、現在彼が住んでいる住所と、携帯電話の番号が記されていた。
(もう、あいつしかいない。・・・・・・椎名を救えるのは)
 その住所を頭に叩き込んで、ぎゅっと小さな紙切れを握り締める。寒さに耐えられるように、黒い革のパンツとジャケットで身を固めた。そのポケットに紙切れをねじ込み、瓜生は勢いよくバイクのエンジンを吹かした。明るく点灯したヘッドライトに照らされてひっきりなしに降ってくる雪を、フルフェイスのヘルメット越しに睨む。こいつのおかげで、タイヤ交換に時間が掛かってしまったが。
(何が何でも、力ずくで引っ張ってきてやる!)

 ドルルル、と派手なエンジン音を残して、黒いバイクは勢いよく闇を切り裂いていった。

   ***

 プレゼントは瞬が持って帰った。
「明日、持っていこうね。本当のクリスマスに・・・・・・」
 瞬の笑顔がつらそうだった。翔一郎が思わずその肩を抱かずにいられないほどに。
「・・・・・・ごめんな」
 そうつぶやいた嵐のことも、翔一郎は手を伸ばして抱き締めた。
「お前が謝ることじゃないよ」
 そんなふうに、同級生に慰められたのは初めてだった。そんなふうに、同級生に慰められるとも、思っていなかった。
「よく来たな」
 彼らと別れた嵐は、いつもの事務所ではなく、かなり立派な和風の一戸建てで、安土に出迎えられた。ここが安土の本当の家だった。部下が何人か世話係として住んでいるものの、それでも広すぎるくらいだ。
「・・・・・・いつまでそんな顔して雪の中に突っ立ってる気だ。早く入れ」
 腕をつかまれて力一杯引っ張られた瞬間、肩や髪に薄く積もっていた雪が零れ落ちる。やすやすとその腕の中に引き寄せられて、思わず鍛えられた胸板に拳をたたきつけた。安土の漆黒の眉が訝しげに寄せられる。
「何だ、いきなり」
「何で出ないんだよ!何回も携帯に掛けたのに!」
 言葉を吐き出す嵐に、暴力団の二代目組長は軽く目を見開く。
「ああ・・・・・・そうか、悪かった。ちょっとあちこちに電話してたからな。電話中になってなかったか?」
「なってた。全部そうだった」
「まさかあの時間にお前が掛けてくるとは思わなかった。何だった?」
 たたきつけた拳で、その胸のシャツをくしゃっと握り締める。洒落た薄手でありながら毛織のシャツは、その肌触りのよさから、聞かなくても高級なものだと分かる。それをぞんざいに扱われても、安土は何も言わなかった。
「どうすべきなのか・・・・・・俺には判断できなかった。お前の言葉が欲しかった」
 シャツを握り締めた手が震える。それを、少し目を細めて見つめた安土は、濡れた髪をそっと撫で、182㎝の嵐をすっぽり包み込むようにして抱き締めた。
「あの、斗音て奴のことだな」
 嵐がうなずくのを確認して、安土はそうか、とつぶやいた。

「とりあえず、その濡れた髪を乾かせ。中で事情は聴く」

   ***

 雪はしんしんと降り続いている。街はきらきらとクリスマスイルミネーションで輝いているが、その並木ですら、かなり雪で覆われ始めている。
「せっかくのクリスマスに、彼女と歩けなくて残念でしたね。それなりに綺麗な風景なのに」
「もういいんだよ。莉紗にはあいつがいる。ひどいことを言ったんだから、俺が貧乏くじを引くべきだろう?」
「すみませんね、貧乏くじで」
 軽く舌を出して見せる背の高い後輩をちらりと見上げ、今井は苦笑した。
「お前って、意外にお茶目なのな」
「初めて言われましたね」
 肩をすくめて、氷室はマフラーに顔を埋める。ちらりとも話す相手を見ようとしない様子に、今井は更に苦笑を重ねる。
 一時間ほど前になるだろうか。今井は莉紗に別れ話を切り出した。莉紗も、既に覚悟していたようだった。
『俺は、お前のことが好きだったよ。でも、これからも一緒にいて、お前を笑わせてやれる自信がない。お前の望む答えが、出せないと思う』
 一般の生徒はとうに下校している時間だった。廊下にへたり込んで、藤堂にその肩を抱かれたまま、莉紗は小さくうなずいて、はらはらと涙を零しながら、途切れ途切れに言葉を紡いだ。
『分かってたの。・・・・・・斗音くんが、来なくなって・・・・・・文弥くん、ずっと心配してたことも・・・・・・受験にカリカリしてる私に・・・・・・影で溜息ついてたことも・・・・・・。だから、それを・・・・・・見たく、なかった・・・・・・』
『うん。・・・莉紗・・・・・・ごめんな』
 その言葉には、さすがの莉紗もうなずけずに、代わりに声を上げてまた、泣き出した。その傍らに片膝をついたままで、今井は静かに、そして優しく語りかけた。
『・・・・・・彼女なんかじゃなくても、お前は大切な仲間だから。これからも、ずっと』
 泣き続ける莉紗の耳に、そっと藤堂が囁いた。
『・・・・・・莉紗さん・・・・・・』
 恐らく、この二人の間でも、今井と氷室が交わしたのと似たような会話があったのだろう。莉紗は、泣きはらした目で藤堂を見て、ぐっと唇を噛み、そして小さくうなずいた。目線の高さを合わせている今井を、ようやく見る。
『振り回して・・・ごめんね、文弥くん・・・・・・。今まで、楽し、かった・・・・・・ありがとう・・・・・・』
 最後はまたうつむいてしまった莉紗の髪を、今井は優しく撫でた。それでまた莉紗は泣き出してしまったけれど、恋人として最後にしてやれることだった。心の底から、優しくしたいと思った。思えば、最近はずいぶんこんな気持ちにはなれずにいたと、そこで初めて胸に染みた。
「俺が別れ話してるときも、俺たちから見えないところでこっそり聞いてたろ」
「見えたらやりにくいでしょ、そういうのは」
「莉紗にはちゃんと藤堂が付いてたじゃないか」
「あなたはサポートなんて要らないでしょう」
「じゃあいっそ、完全に聞こえないところにいればいいじゃないか」
「まあ、今後の参考に」
 ちぇ、と今井は形のいい唇を曲げた。そんな今井を、氷室は一瞥した。そして、珍しくくすっと笑う。
「いいセリフでしたよ。伊佐治先輩でなくても、ちょっとぐっと来た」
「へえ、どの辺が?」
「さて、クリスマスカードなんてもの、俺は買ったことも贈ったこともないんですが、どんなところに売ってるんですかね」
 思い切りあからさまに話を逸らされて、今井はもう幾度目かの苦笑をした。
「文房具を扱ってる書店とかじゃないか?あと、雑貨屋とか」
「じゃ、書店で決まりですね」
「どうして?」
「雑貨屋に男二人で押しかけて、クリスマスカード一枚買うなんて、ちょっと嫌じゃないですか?」
「・・・・・・ああ、まあ、そうかもな」
 氷室は雪の積もってきた黒い髪を掻き上げて、それを振り払うように首をふった。そして、ぼそりとつぶやく。
「・・・・・・副会長、受け取ってくれるといいですね」
「・・・・・・ああ」
 ちょっぴり皮肉屋の氷室だが、言うことは大概的を射ているし、相手が先輩であろうと生徒会長であろうと、ずばずばと思ったことを言えるというのは、稀有な才能だ。何より、人を思う気持ちを深いところに持ち合わせている。

(こいつは、きっと二年後に生徒会長になるだろうな)

   ***

 慈恩は、息を飲んで瞠目した。
「・・・・・・なんで、ここに・・・・・・?」
「いや、俺も昨夜ここの大将から電話もろてん。クリスマス会やるさかい、来いへんか、ゆうて」
 ちょっと照れながら、みんなに迎えられた隼がにっと笑う。鳳がにっこりと微笑む。
「ようこそ、隼。やっぱり九条には、高いレベルで話ができる相手もいいかなって」
「みんなで考えたんだぜ。九条に内緒のサプライズゲスト」
「そ、近衛がさ、何とか九条に元気になってもらいたいって」
「僕だけじゃないだろ」
 部員たちにちらりと視線を投げる近衛の頬に、わずかに朱がのぼる。一乗寺がくすくす笑った。
「まあ、近衛が発案者には違いないけど。俺たちも文句なしで賛成した。なんか、雰囲気盛り上げるキャラだし」
「天然だけど、また笑えるんだよね、これが」
 秋月の付け加えに、隼は短い髪に手をやってカリカリと頭を掻く。
「いやぁ、そない褒められると、ほんま照れるわ」
「え、いや、今のは褒められたのか?」
 思わず問い返した慈恩に、隼がにかっと笑う。
「当たり前や。笑えるゆうんは、関西では褒め言葉やろ」
「お前、関西人じゃないだろ」
「ええねん。東京よりは関西寄りや」
 二人の周りで爆笑が起きる。
「いいね、二人、結構いいコンビになってるよ」
 鳳のコメントに、隼は嬉しそうに笑い、慈恩は不思議そうな顔をした。
「あ、やっぱ?」
「え、どこが?」
 和田が更に爆笑する。
「ほら、その辺。隼がボケで九条がツッコミじゃん」
 言われて慈恩は苦笑した。上辺ではなく、思わずこぼれた笑み。それを見た瞬間、近衛は心の底からこの男を連れてきてよかったと確信した。やっと心から笑ってくれた。
「ほら、せっかくだから、永遠のライバルの隣に座りなよ」
 藤原に勧められて、そんなら、と隼は慈恩の隣に腰を下ろす。何気に気が利く東坊城が、色々と料理を皿に盛り、近衛が乾杯したものと同じスパークリングワインを新しいグラスに注ぐ。
「じゃあ、改めて乾杯しよう」
 知的な笑みを浮かべて、グラスを掲げると、みんなもそれぞれにグラスを掲げた。
「剣道界のナンバー1高校生との再会に乾杯!」

「乾杯!」

   ***

 暖かい居間は、洋室になっている。大きなソファにうずくまるように座る嵐のしなやかな髪には、柔らかい大きなタオルがかぶせられている。
「・・・・・・お前なら、どう判断する?」
 事情を語った最後に、力なく、そう付け加える。弱っている、と安土は思った。精神的に磨耗している。無理もない。命に代えても惜しくない愛しい人間と離れることになったときも、互いにこれでもかというくらいつらい思いを味わった。その最中に大切な友人を一人、手放し、拓海と散々傷つけ合って離れたばかりだというのに、今度はもう一人の大切な友人が地に貶められることになったのだ。
 
人を愛することに臆病な嵐は、それでも人の優しさをどこかで欲していた。人を、何かを大切に思えば、失うときにつらい。それを嫌というほど、魂の底に刻み付けられているこの少年が、それでも不器用に人に惹かれていく。その、痛々しいほどの無垢な人間らしさを、安土は愛していた。
「・・・・・・行く。俺は、隠し事をされる存在ではありたくない。それに、お前だって分かるだろう。俺に隠し事は通用しない」
 こくり、と、タオルで陰になっている憂いを含んだ顔が、より伏し目がちになった。安土は癖の強い煙草の煙をゆっくり吐き出す。
「お前も俺と同類だ。洞察力がある。現に、あいつに起こっていることも、気付いている。斗音だって聡い奴だ。きっと、お前に悟られてることくらい、感づいてる。あのバスケ部の仲間には知られない方が救われるかもしれないがな」
「俺一人、特別でいろって言うのか」
「もともと奴らの中では、お前は特別だろうが」
「・・・・・・そんなつもりはない」
「特別なんだよ。お前がどんなつもりでもな」
 嵐の頭が更にうなだれる。友人という存在と対等でありたい。そんなものは、人であれば誰でも思うだろう。それが本当に大切だと思う友人なら、尚更だ。煙草の火を灰皿に押し付けて、軽く吐息する。
「一度電話してみろ。お前の思ってること、ぶつけてみろよ」
「それができたら苦労してない。通じないんだ」
「今回は通じるかもしれんぞ。いいか、樋口や羽澄がいちゃ駄目だ。お前でなければ。あいつが本当に切羽詰まって助けて欲しいと望んでいれば、特別な存在のお前からの連絡に、応えるかも知れない」
 嵐は深く溜息をつく。
「・・・・・・応えてもらえる、自信がない」
「応えないのなら、奴はお前の助けを必要とするところまでは堕ちてねえのかもな」
 ばさっ、と大きなタオルが舞い上がったのを捉え、安土はすかさず腕を伸ばした。襲い掛かってきた腕の手首をやすやすとつかむ。
「・・・・・・何だ?」
「言葉に気をつけろよ。斗音を侮辱するな」
「そのつもりはないが」
「っつ!」
 つかんだ手首を軽くひねるようにして、嵐の身体を足元に組み伏せる。もがく嵐の下敷きになったタオルがよじれる。
「お前が俺に敵うはずないだろう。疲弊しきって、判断する気力さえ失くしているお前が」
 秀麗な顔が悔しさに歪む。それでも尚、整って美しい。低くて渋みのある甘い声で、耳元に囁く。
「それともいっそ、全部忘れちまうか?斗音のことも、滝のことも。楽になるぜ」
「ふざけんな」
 ギリギリと睨みつけてくる美しい瞳。その力は、まだ残っている。安土はにやりと笑う。
「身体も心も蕩けてなくなっちまうくらい、気持ちよくさせてやるよ」
 ぐぐっとつかんだ手首をねじ上げ、もう片方の手首も床に縫い止める。
「馬鹿っ、こんなときに、何を・・・ふざけっ・・・・・・!」
 抗え。そうだ、お前はこんなもんじゃない。強引に唇で嵐の言葉を奪い取る。その端に熱い痛みが走る。口中に鉄の匂いと味が広がった。そう思った瞬間、覆い被さっていた身体が押し返されていた。威嚇する美しい獣のように、うっすら灰色がかって見える瞳の光が、自分を射抜く。自力で自由を得た美しい手の甲が、優雅にも思えるような仕草で唇に滲んだ血を拭った。
 いい瞳をしている。
 安土はわずかに目を細め、唇の端を吊り上げた。同じように、手の甲で唇を拭う。ちくりと傷が痛んだ。思わず顔をしかめる。
「・・・・・・逃げるなよ。あいつを救いたいなら。・・・・・・俺はこれ以上、お前の苦しむ姿を見たくない」
「・・・・・・安土・・・・・・」
 微かに嵐の瞳が揺らめいた。白くて長い指が、そっ、と痛む傷に触れる。
「・・・・・・紛らわしいんだよ・・・・・・馬鹿」
(口のへらねえ野郎だ)
 苦笑したら、また傷が痛んだ。

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四十八.イブの計画

「プレゼント交換とか、ちょっと庶民的でいいだろ」
 和田がにやっと笑う。鳳が少し首をかしげた。
「難しいな。誰に当たるか分からないものなんだろ?基本的にもらった人が喜んでくれるような物でないと、せっかく選んでも価値が下がる気がするし」
「そうだよね。みんな自分の欲しいものなんて簡単に手に入れることができる人ばっかりだし、何をプレゼントに選んだらいいか、迷うところだよね」
 東坊城もしんみりうなずいた。和田が軽く唇の端を引きつらせる。
「テンション低いんだよ、お前らは。祭りみたいなもんだから、そう悩まなくてもいいんだよ」
 和田は努めて明るく振舞っている。彼らの部を引っ張ってくれる仲間が、今とても元気がないのをよく分かっていて、それを何とかしたいと考えているからだ。
「ああ、庶民的ってところで追加条件だけど、プレゼントは一万円以内の物にすること。上限がないと見境なく家の力を見せたくなる人間も出てくるだろうからな」
 唇の端を吊り上げて見せたのは近衛である。近衛も和田と同じように、場の雰囲気を少しでも盛り上げようとしていた。それを感じているのかいないのか、東坊城が素っ頓狂な声を上げる。
「一万?たった一万で一体何が買えるんだよ!無理無理。せめて十万にしようよ」
「馬鹿言わないでくれ。庶民がたかが高校生のクリスマスプレゼントに十万もかけると思うのか」
 最近はかなり剣道部の仲間に対して砕けてきた近衛である。それでも口調は慈恩と二人のときより丁寧である。
「これは提案者の僕に決定権があるだろう。僕が一万と言ったら一万だ。それを越えた物を持って来たら罰ゲームってことで」
 ええっ、とどよめく仲間たちの中、慈恩は表面的な微笑を浮かべながら、庶民の高校生のクリスマスプレゼントには一万だって高すぎだろう、などとどうでもいいことをぼんやり思っていた。
(パーティーでの交換用プレゼントなんて、ウケ狙いなら面白グッズ、せいぜい千円以内。女の子用なら適度な大きさのぬいぐるみとかアクセサリー。これもよくて二千円までだろ)
「難しいよ、一万で誰もが喜んでくれるものって。せめて渡す相手がはっきりしてればなあ」
「それじゃ、プレゼント交換の醍醐味がねえだろ」
 すかさず秋月に和田がツッコミを入れた。その会話の言葉に、慈恩の脳は何気なく反応する。
(相手がはっきりしてるなら・・・・・・さりげなく相手を喜ばせてあげられるもの・・・・・・斗音だったら、あいつの好きな料理を沢山作って、一緒にツリーを飾り付けして・・・・・・バスケで使えそうなリストバンドとか、喜んでくれたっけ・・・・・・)
 無意識にそこまで考えて、自分ですうっと温度が下がるような感覚に襲われた。自然、表面に浮かんでいた笑みは儚く消え入る。それを目撃していた近衛は、軽く唇を噛んだ。
 クリスマス・イブまであと一週間を切り、近衛は少しでも慈恩を元気付けたくて、剣道部でクリスマスパーティーをしようと提案した。あくまで自分たちだけで、大人は交えずに楽しもう、と。部活が終わってから、その話でみんなが盛り上がり、慈恩も心からというわけではないが笑みを見せているようだったから、提案してよかったと思ったのもつかの間、ともするとこんなふうに壊れてしまいそうな顔をする。
(どうしたら、支えてやれるんだろう。何でもいいんだ。慈恩の支えになるなら、何を言われたって、俺はやるだろうに)
 母に言われたことを痛感する近衛である。でも慈恩は何も言わない。訊いても微かに微笑むだけだし、むしろその笑みが痛くてつらそうで、それ以上訊くことを躊躇わずにいられなかった。だからせめて、今慈恩が心を許せる仲間たちと一緒に馬鹿騒ぎでもできれば、と思ったのだが。
「パーティーか。うちも家で毎年何か企画してる気がするけど、高校生活で弾けてられるのも今年が最後だしな。俺もこっちに参加するぜ」
「近衛の家に行くのも初めてだしな。一度お前の家、見てみたかったんだよ。一体どんなところで育ったらそんなふうに完璧になれるのか、興味あるし」
「期待しないでくれよ。料理くらいは出すけど、あくまで大人は抜きだからな。両親はもちろん、家の人間には絶対に出てこないように言っておくし、みんなも部活が終わって直行するんだからな」
「それじゃあパーティーって言うより、クリスマス会って感じだな。普通の高校生っぽくていいよ」
 仲間たちの話はいよいよ盛り上がっていく。それでも慈恩は一切会話に参加しなかったし、最後まで上辺の笑みすら、その凛々しい顔に戻ることはなかった。
 仲間たちの別れの言葉にすら薄い反応を示すだけで、ぼんやりと去っていく慈恩の背中を見つめながら、近衛は小さく溜息をついた。そして、同じように心配そうな視線を送っている部員たちの注目を、軽く指で招いた。
「ちょっとみんなに、相談があるんだ」

 近衛の表情に笑みはなく、真剣そのものだった。部員たちもつられて真顔になった。

   ***

 和風の大きな額に書き込まれたのは「仁義心」。かなり堂々とした、立派な書体だ。
「あれさあ、お前の信条と一致してるわけ?」
 ソファの背もたれに片腕をかけ、もう片方の手でさらさらの淡紫色の髪を掻き上げる美貌の少年に、暴力団の二代目組長は深々と煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。デスクの椅子はゆったりと深く、それに長身をゆったり預ける姿は、実に様になっている。ただただ、顔が若いだけで。
「外れちゃいない。つーか、親父から一応受け継いでる心だし、無碍にしちゃまずいだろ」
 にやりと浮かべる不敵な笑みが、本当によく似合う安土である。
「心、ねえ。仁義、の中に、心は入ってんじゃねえの?ていうか、仁義ってのは、心の有り方のひとつだろ」
 嵐のものの言い方は、実に愛想がない。普段ならもう少し、この二代目組長に対して心ある応対をするのだが、嵐の胸の内は悩み事が多すぎて、自分に想いを寄せるこの相手に気を遣ってやれるほどの余裕がない。安土もそれは重々理解している。安土にとって嵐は想いを寄せる相手だが、嵐にとって安土は誰よりも自分を理解してくれる親友の一人でもある。だから、誰にも相談できないことでも、安土にだけは話していた。
「いいか、あれは漢文だ。仁義と心の間に小さい片仮名のノが入るんだ。だから正確には、仁義の心、と読むのが正しい」
「それ、今とってつけただろ」
「いいや、親父はどう思っていたか知らんが、俺はそのつもりで書いたんだから俺が正しい」
「・・・・・・」
 しばし瞬きをした嵐は、それからグレーにも見える瞳を軽く見開いた。
「あれ、お前の字?」
「知らなかったのか。なかなかのもんだろ?確か中学二年くらいのとき、親父がこの組を立ち上げた記念に書いてやった」
「・・・・・・」
 再び絶句した嵐は、それから苦笑した。
「お前って、ほんとはすごい奴なんだな」
 安土は鷹揚な笑みで返す。
「助詞が間違ってる。そこは形容動詞で本当に、だ」
「あー、はいはい、間違えましたとも」
 いつもなら更に皮肉を込めて返すところで、嵐は諦めたように投げやりに返した。それを見て安土は溜息をついた。
「やる気のないお前の相手をするのは、張り合いがなくてつまらん」
 これには嵐がむっとしたように柳眉を寄せた。
「相手してんの、俺だろ。それに、やる気ないってどういうこと・・・」
「あんのか?じゃあやるか?俺はいつでも構わんぞ」
 被せるように言って椅子から少し身体を持ち上げ、シャツのボタンをひとつ外しながら挑戦的な漆黒の瞳を向ける。対する嵐は少し困った表情を浮かべた。
「そういうこと、言うなよ」
「そら見ろ、やる気ねえだろうが」
 ふん、と鼻で笑って、再びすらりとした肢体を椅子に深く預けた。
「まあいいさ。今のうちにお前の気が変わるように仕向けてやるから」
「気なんか、変わらない」
 凛とした瞳に意志の固い表情。それを少し物憂げに見つめてから、憐れむように安土は笑んだ。
「ほとんど連絡もよこさねえ相手との遠距離恋愛は、つらいだろう?やっぱり慰めてやろうか?」
「いらねえよ。お前一回三途の川渡ってこいよ」
「何回か渡りかけてるから、それでいいか」
「ちゃんと渡れ」
「ちゃんと渡ったら、二度とお前に会えなくなる。それだけは勘弁だな」
 ククッと肩を揺らして笑い、紫煙をくゆらせながらしなやかな動作で立ち上がった。
「そう思えば、ドイツだってこの世だ。会おうと思えばいつでも会える世界なんだから全然マシだ」
 優雅な動作でソファに近づき、きゅっと唇を噛む嵐の隣に腰を下ろす。
「俺の前でそんな顔するな。やりたくなんだろ」
「・・・っ」
 口付けられた唇を手の甲で拭う嵐を、安土は軽く小突いた。
「今日はここまでにしといてやるよ。クリスマスにはプレゼントやるから、家に来い」
「・・・・・・でも、その日は翔一郎たちと斗音を誘ってみようと思ってるから・・・・・・」
 躊躇いがちに言葉を紡ぐ嵐に、安土の笑みが消えた。
「ああ・・・あいつか。まだ駄目なのか」
 やや思案して、安土は凛々しい眉を寄せた。
「もしお前の考えが取り越し苦労でないなら・・・・・・まあ、絶対当たってるだろうが、これ以上放っとくのはまずいと思うぞ。ああいうタイプは芯が強いだけに、な。精神的な強さに身体が比例していない。休みが続くようになってからどれくらいだ?」
 嵐はつらそうに息を詰めた。
「一ヶ月・・・・・・近く」
「・・・・・・そんなに」
 ピリッと安土の表情が険しくなる。思っていたより時間が経っていたのだ。
「連絡は?」
「メールに返事はない。携帯に掛けても最近はもう絶対に出ない。でも、あいつが最後に言ったのが・・・・・・」
 嵐の両拳が難く握り締められる。
「・・・・・・今は気にされることが何より苦痛だって・・・・・・いっそみんなが自分を忘れてくれたらいいのに、って言葉だったんだ」
「・・・・・・不器用な奴だな」
 重い溜息を吐き出して、安土はつぶやいた。さらりと髪を揺らして嵐が安土の表情をのぞき込む。
「でも、あれは本音に聞こえた」
「本音だから、不器用だっつーの」
 漆黒の張りのある髪を掻き上げて、もう一度小さく溜息をつく。長い睫毛の影を落として、嵐はうつむいた。学校の仲間の前では、決して見せない表情だった。
「俺たちが連絡を入れようとするたび、あいつはきっと苦しんでる。そう思うと、俺、それ以上何もできなくて。いっそ押しかけてやろうかって何度も思ったけど、あいつを支えてる理性とかプライドとか、そういうもん全部潰しちまう気がして・・・・・・それがなくなったら、あいつ・・・・・・。・・・・・・そう思うと、俺は、怖くて」
 秀麗な額を現役暴力団組長の胸に押し付ける。
「・・・・・・何も、してやれない・・・・・・」
 くわえていた煙草を手馴れた長い指で灰皿へ運び、火種を押し潰す。その手を、安土は迷いなく嵐の背へ回して、自分よりひと回り小さい身体を抱き寄せた。
「・・・・・・いっぱい抱え込んで、散々苦しんだのはお前も同じだ。・・・・・・まあ、どんなに遅くなっても構わねえから」
 慈しむような優しい笑みで、淡紫色の柔らかい髪を撫でるように引き寄せる。
「イブの夜は、必ず来い。お前のためだけの、最高のもてなしをしてやる」

 躊躇ったあと、安土の腕の中で淡紫色の頭が小さくうなずいた。

   ***

 闇の中の微かな明かりを受ける白い息は、呼吸のたび強い風にさらわれていく。
(・・・・・・寒い・・・・・・)
 受験も間近に迫っているというのに、勉強には相変わらず身が入らなくて、街のにぎやかなクリスマスのイルミネーションも目障りで、港までバイクで飛ばしてきた。ただただ、静かなところで寒風にさらされていたかった。そうすれば、少しはこの胸の痛みが紛れるような気がしたのだ。
 三年生になったばかりの辺りまでは、完全に自分の進路など見失っていた。どうにでもなると思っていた。けれど今は違う。体育系の大学へ行ってボクシングを続けたい。高校の最後のインターハイまでに、無為に過ごしてしまった時間が悔いとなって残っていた。だから今度は、悔いを残さないようにやりきりたい。それで満足できればいいし、もっと上を目指したい気持ちが芽生えたら、本気でどこかのジムに通おうと思った。何もかも中途半端にしてきてしまった分、何かひとつでもいい、自分がとことんまでやったと思えるものを、自分の中に築き上げたかった。少しでも、自分に自信が持てるように。
(少しでも、あいつに見合う人間に、なりたい)
 瓜生は黒い革ジャンの上から、拳を心臓に押し付ける。そこに重くて鈍い痛みが走る。このままではいけないと、そう思えば思うほど自分を追い詰めてしまう。
(・・・・・・・・・・・・会いてぇな・・・・・・)
 溜息が白く色づき、その先から風に吹き飛ばされていく。
 もう、あの階段には行かない、と言われて、自分の存在意義が薄れた気がした。けれど、それ以上に斗音のことが心配だった。完全に拒絶されたことで、斗音に連絡を取ることもできなくなった。だから、精神的な負担だけが積み重ねられていた。・・・あの言葉を聞いてから、二週間が経とうとしていた。
(今、何してるだろう。あの変態野郎に・・・・・・抱かれてるのか)
 そう思うと、心臓が焼け付きそうだった。守ってやると言ったのに、こうして何もできずにいる。
「・・・・・・っくしょう・・・・・・!」
 ガン、と手すりをたたきつける。どんどん元気がなくなっていった斗音。あの階段で、自分の傍らで静かに時を過ごしていた姿が今でも脳裏を離れない。何を話すわけでもなく、寄り添っていた華奢な身体。伏せがちの瞳には、濃い翳りがあって、長い睫毛は、よく涙で濡れていた。柔らかい髪をそっと撫でると、本当に仔猫のように、小さな頭を摺り寄せてきた。腕に伝わってきたぬくもりも、擦れ気味の声も、時々抑えきれずに触れた唇の熱っぽさと柔らかさも、何もかもがいとおしい。その斗音があのストーカーじみた狂気を漂わせていた危険な男に襲われている。いとも簡単に自分の腕を折って見せた、あの男に。そう考えるだけで、気が狂いそうだった。
『俺・・・・・・もう、二度とそこへは行きませんから』
『分かった』
 ・・・・・・なぜあんなことを言ってしまったのだろう。斗音に言われた言葉に、動揺した。混乱した。何を一番言うべきなのか、どんな言葉を言ってやればよかったのか、今でも分からない。
「・・・・・・それでも・・・・・・俺は・・・・・・待つ、とでも言えばよかったのか。それとも・・・・・・ふざけるな、と怒鳴りつければよかったのか」
 何度あの言葉への答えを考えただろう。もう帰ることのないあの瞬間に、尽きることのない後悔を寄せて。
 もともとクリスマスという行事にいい感情などはない。幼い頃家族でそろって過ごした思い出は、両親の戻らなくなったあの家では重いだけで、高校に入ってからは現実から逃げてばかりいる仲間たちと何もかもにケチをつけて歩き、クリスマスの夜くらいは異性と過ごしたいと考える軽いノリの女子高生あたりをナンパして、互いに性欲を満たし合うだけの虚しい一夜を過ごすくらいだった。それも、普段と大差ない過ごし方で、今思えば吐き気がする。
 けれど、こんなにつらい思いをするクリスマスは初めてだった。心臓が潰れそうなほどのこの苦しさは、斗音に出会わなければ、味わうこともなかったのだろう。
 ひと際冷たい風が瓜生を襲った。氷の冷たさを感じるその風に、さすがの瓜生も身体を震わせる。
(・・・・・・明日は、雪が降るかもな・・・)
 最近はめっきりホワイトクリスマスなんていうものから遠ざかっているのだが、今年は秋から冷えるのが早く、冷え込みの厳しい冬になることは天気予報でも頻繁に伝えられていた。既に何度か、積もるほどではないものの、雪が観測されている。
「・・・・・・クリスマス、か。・・・明日くらい・・・・・・あいつが笑顔になれたら・・・・・・」
 思わずつぶやいてから、はっ、と苦笑する。それが分かっているのならとっくにやっている。そう考えて、ふと笑みを消した。

「・・・・・・そうだ・・・・・・・・・あいつ・・・なら・・・・・・」

   ***

「え?うち?うちは明日までや。どこでもそうちゃうんか。え?明後日も?ほんまか、けったいやなぁ、クリスマスに学校やなんて」
 隼はカラカラと開けっぴろげに笑った。携帯の電波の調子を気にしながら、窓際の棚にもたれかかる。
「何ゆうてはるん。うち、純和風やさかい、クリスマスなんか関係あれへんよ。え?ああ、俺的には有りなんや。けど、道場的にはゆう話や。稽古は年中無休やさかいなぁ。ま、稽古のあとにケーキ出てくんのが、昔は楽しみやったかなあ。何気に昆布茶に合うてな。え?うまいねんて、ほんまや。紅茶とか、せやからうちは純和風てゆうてるやん。え?ああ、ケーキくらい、小さい子なんやし、食わしたったらええやん。それまで取り上げたら鬼や」
 どうやらクリスマスにまつわる思い出を話しているらしい。なかなかハイテンションである。笑い方も豪快だった。そこへすらりと襖が開いて、隼に少し似た、目鼻立ちのすっきりした美人系の女性が顔を出す。美人系だが、残念ながらかなりのしかめ面である。
「ちょっと刀威、うるさいよ。今ドラマええとこやのに、あんたの馬鹿笑いで感動シーンがわやんなってしもたわ」
 言うだけ言って、たんっ、と勢いよく襖が閉まる。隼は肩をすくめた。
「あー、文句言われてしもた。聞こえたんちゃう?あはは、やっぱ?姉ちゃんやけど。怖いでー。顔とか、あれや、般若の面が生きてたら絶対あんな顔やで。あんた、兄弟はいてはるんか?あ、そう?いやいや、いてへん方が幸せや思うで?ドラマの鬼やし」
 けたけたと笑った瞬間、今度はスターンっと襖が五割増の勢いで開いて、切れ長の目をきらりと光らせた「綺麗なお姉さん」が、剣の達人の弟を睨みつけた。
「刀威!ええ加減にしなさい!そんな笑いたいんやったら外でしゃべったらええやん!」
「あ、ごめん、姉ちゃん、かんにんな。ほな、外行くわ」
 片手で手を合わせるジェスチャーをしながら、片目を閉じる。そそくさと廊下を歩いていく弟を見て、なかなかに美しい女性は、軽くカラーリングしてゆるくパーマを掛けた綺麗な髪を、ふわりと後ろへ流した。
「あの子、黙って剣道やってたらええ男やのに。アホは誰の遺伝やろ」
 アホ呼ばわりされたとは露知らず、隼は庭に出てブルッと身体を震わせた。
「うわ、寒っ。雪降ってるやん!こらアカン、中入ろかな。けど思い切りしゃべりたいと思たら、こっちの方がええしなあ。あー、姉ちゃんも黙ってたらそれなりにええ女やと思うねんけどなぁ。ああ怒りっぽいんは誰の遺伝やろな」
 ぶつぶつ言いながら、相手の声に少し耳を傾けて、軽く目を瞠った。
「え?そっち降ってへん?そうなんや。ま、そっちも明日には降るんちゃうか?ホワイトクリスマスや。ええやん、ロマンチックで。彼女でも誘わはったら、ええムードんなるで?」
 自分の身体を腕で包むようにしながら、大きな松の根元にしゃがみ込む。
「んー?俺はいてへんよ。残念ながら片想い中やさかい。せっかくホワイトクリスマスでもいつも通り稽古やって終いや。部の連中?そんなん、みんな彼女いてはるし、デートに決まってるやん。俺だけロンリークリスマスやわ」
 全く寂しそうにもせずに屈託なく笑う。
「そうなん?ええなあ。けどみんな彼女とかいてはらへんの?・・・へ?え?ほんまか、それ。ちょっと世界違うてんねんな。・・・・・・・・・・・・え、ええ?」
 隼の切れ長の瞳が、大きく見開かれた。
「・・・・・・けど・・・・・・明日学校あるさかい・・・・・・ほら午前中で終わりやけど・・・・・・」
 あれほど饒舌だったのが、どんどん言葉に詰まり始める。
「・・・・・・いや、そういうわけには・・・・・・まあ・・・・・・稽古くらいは・・・・・・何とでもなるやろけど・・・・・・」
 最後には短めの髪をがしがしと掻き上げながら、そのまま頭を抱えてしまった。
「う~~~~ん・・・・・・どないしよ・・・・・・そら・・・・・・嬉しい、けど・・・・・・・・・・・・なんで、また?」
 がたがたと震え始める身体を叱咤するようにぎゅっと抱き締めながら、相手の声に耳を傾ける。時折、うん、うんと相槌を入れながら、真剣な眼差しを、土に触れては消えていく雪に固定した。その視線を上げたとき、大人びた顔は男らしく凛々しかった。
「分かった。そうゆうことやったら、俺、遠慮せえへん。ご厚意に甘えさせてもろてええか?・・・・・・ええよ、師匠には話つけるよって。あ?まあ、血のつながり的には親父やけど。・・・・・・うん。うん、分かった。ほなら、楽しみにしとるさかい」
 じゃあ、と携帯を切って、隼は白い呼気を舞い落ちてくる雪に吹きかけるようにして空を仰いだ。
「・・・・・・せやから、俺、ゆうたのに」
 切れ長の目を少し細めて、空をつかむように腕を伸ばして。珍しく憂いを含んだ表情は、ひどく切なそうだった。

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四十七.雪

 その日、昼過ぎには、鉛色のどんよりと重い空から、静かに雪が舞い降り始めた。
 暗くなると、木々に囲まれた広い庭に灯されたいくつかの明かりに、小さな影をちらちらと落としながら降り注いでくる雪は、幻想的な光景を演出していた。
 豪奢で広い部屋は暖かく、外の張り詰めた寒さが伝わってくることはなかった。それでも、じっと、心持ちカーテンの隙間を広げるようにして、外の光景を見つめている部屋の主の心は、凍りついたように冷たく、鉛色の空よりも重かった。
「・・・・・・ねえ、雅成さん。あの子・・・・・・このところ、ずっとあの調子だわ・・・」
 自室にこもったままの慈恩を気遣うのは、もちろん彼の両親となったことを誇りに思っている二人である。
 襟ぐりが上品な程度に開いて、白いファーに包まれている清楚なオフホワイトのカットソーに、何段か切り返しになっているスウェードのフレアスカートの濃くくすんだワイン色が、美しい絢音によく合っている。しかし、雅成は愛する妻の美しい姿に見とれるより、食事の間中憂いを含んだ表情が消えなかった息子が気になっていた。
「剣道でも勉強の方でも、三者懇談では特に何も言われなかったけど・・・・・・学校では何もないふうを装ってるんだろうか。いや、私たちの前でも、あの子はきっと心配させないように振舞っている」
 絢音が微かに長い睫毛を伏せた。漆黒の瞳が悲しげに翳る。
「お食事のとき以外、部屋から降りてこないし・・・・・・自分から出かけることも最近ないわ。話しかけても上の空だったり、いつも沈んだ顔をしてるの」
「ここ・・・二週間、いや、三週間くらいかな。口数が減った。絢音、お前はいつから気になってる?」
 食後に運ばれてきた紅茶にも手をつけず、二人はしばし考え込む。
「・・・・・・十一月の全国大会・・・・・・、少し、元気がなかったわ」
「斗音くんが来られなかったんだったね。でもそれは、関東大会でもそうだった」
「ええ、そのときも気にしてるふうだったけど・・・・・・必ず大会の日前後に斗音くんの体調が優れなかったりして。でも、それはそれで仕方がないって納得していたと思うわ」
 ソファに腰掛けてその膝の上に肘を立て、両手を組んだ雅成が、微かに眉根を寄せた。
「・・・・・・僕はずっと思ってたことがあるんだけど」
 言ってから、顔を上げて絢音の瞳を正面から捉える。
「僕らは斗音くんから、慈恩を取り上げてしまった。慈恩を知れば知るほど、あの子がどれだけ素晴らしい人間なのかを思い知ってきた。斗音くんもしっかりした子だ。まして高校生だし、よっぽど大丈夫だろうと思っていたんだけど・・・・・・これだけ頻繁に体調を崩してるってことに、もっと不安を感じるべきだったかもしれない」
 絢音の瞳が瞬間的に潤む。慈恩を自分たちの養子に迎えるに当たって、自分たちがこの兄弟にどれだけつらい選択を強いたのか、嫌というほど解っているのだ。もちろん、それは雅成も同じである。
「これまで・・・慈恩が斗音くんの元にいた頃も、これだけ体調を崩すほど身体の弱い子だったとしたら、僕たちは彼から大きな支えを奪ってしまったことになる」
 形のいい唇をぎゅっと噛んで、それでも絢音は首を振った。
「いいえ、だってもしそうだったら、慈恩は絶対に養子の件を承諾しなかったはずだわ」
 雅成の眉間のしわが深くなった。
「だとしたら、もっと憂うべき状況だよ。あの子がいなくなったことで斗音くんが体調を崩すようになったのだとしたら、それはそれで彼にいかに慈恩が必要だったかということになるだろう?そうでなければ、三神の対応が悪いかだ。最近斗音くんからのメールも途切れることがあるし・・・・・・慈恩と一緒に食事でもと誘っても、必ず断られてしまうんだ。忙しかったり、体調が悪かったり、都合が悪かったり・・・・・・理由は様々なんだけど・・・・・・僕はそれを、やはり気まずさのようなものがあるからだと捉えていた。だけど・・・・・・」
 絢音の表情と膝に置いた手が硬くなる。
「それ以上の理由が、あるとおっしゃるの?」
 一瞬躊躇ってから、雅成は視線を妻から逸らした。
「僕たちに気まずさを感じるのは仕方がない。でも・・・・・・慈恩は?もしかして、あの子にも会ってないんじゃないのか?大会にも、食事にも出てこない・・・・・・もう三ヵ月半になる。もし慈恩にも会っていないのだとしたら・・・・・・僕たちはとんでもない楔を、あの子達の間に打ち込んでしまったんじゃないだろうか」
「そんな、まさか・・・・・・」
 色白の美しい顔が青ざめる。雅成は首を振った。
「分からない。三神からの報告では、体調がよくないときがある以外は、特に変わったことはないとある。丁度全国大会の頃だったかな。三神からの報告が一週間ほど遅れたことがあったけど、斗音くんが体調を崩して付きっ切りだったと言っていたから・・・・・・もしかしたら、本当に体調が悪いだけなのかもしれない。いや、でも体調が悪いこと自体が心配なんだ・・・・・・。三神は学校での疲れが溜まっているようだと言っているが、会いに行きたいと言っても、今は休ませた方がいいとか、部活の試合だとかでこっちも会う段取りができないし・・・・・・」
 言っているうちに自分が何を言いたいのかが分からなくなってきて、雅成は溜息をついた。
「慈恩に元気がないのは、間違いなく斗音くんのことが気がかりだからだろう。・・・・・・あの子なら、きっと本人と連絡を取り合ってるはずだけど・・・・・・」

 最後は言葉を濁すようにして、雅成は上の階を見上げるようにした。そこに閉じこもっているはずの自分の息子を思って。

   ***

 素晴らしく美しい景色だった。一応、慈恩の目には、そう映っていた。
(斗音・・・・・・お前は今、何を見てる?・・・・・・雪が降ってる・・・・・・綺麗だ。これにお前は、気付いているか?)
 そうメールを送ったところで、返ってはこないだろう。そう思うだけで、胸が締め付けられる。電話を掛けたところで、果たして出てくれるかどうか。
 全国大会の前日。斗音からメールが来た。ここのところ微熱がひかないのだと。応援に行ったら、逆に迷惑をかけてしまうかもしれないから、行けないと。正直、寂しかった。でも、体調が最優先だと言ったのは自分だったから、仕方がないと自分に言い聞かせた。
 でも、全国大会のあとに隼に言われたことは、慈恩の心を揺さぶった。
『お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな。俺が絶対間違うてへんと思うのは、お前が斗音の傍を離れたことが間違うてるてことや』
 斗音の本音はどこにあったのだろう。病院に担ぎ込まれて、自分の傍にいることが苦痛だと言ったあの言葉を、慈恩は斗音の本音だと捉えた。だから、九条家の養子の件でも、行くべきだと断言したのだと。もちろん、絢音が本当の母親だということもあったのだろうが、『根っこの部分』は自分と離れたいというところにあるのだと。
(おりこうさんの答えか・・・・・・それを選んだのは俺・・・・・・。だったら、斗音は?あれが斗音の本音じゃないのなら・・・・・・)
 考えようとして、ズキンと心臓が痛んだ。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』

 あの言葉は?本音じゃないと思う。でも、そう思いたいだけなんじゃないかとも思う。斗音がそんなことを言うのが信じられなかった。でも、そう信じたくないだけなんじゃないかという疑いも、心の隅に卑屈に巣食う。斗音にそう言わせてしまうほど、自分は彼を放っておいてしまったのではないだろうか。

 全国大会が終わった日、斗音とは連絡が取れなかった。その日の結果や隼に会ったことなどをメールで送ったけれど、返信はなかった。それが二日、三日と続いて、さすがに心配になった。電話を掛けても出ないので、再びメールを送った。約束どおり、そちらに行くと。
『今週末は予定が入ってるから、また都合を教えてくれる?』
 それが、久しぶりに来たメールだった。都合も何も、部活だろうが友人の誘いだろうが、全ては斗音の予定に合わせるつもりだったから、特にこちらは予定がない、と返した。だが、肝心の斗音の予定を知らせるメールが、また途絶えてしまったのだ。
 忙しいのかもしれない、と思って斗音からの連絡を待った。予定が入っているという週末が過ぎても、何の連絡もなかった。不審に思って携帯に何度か掛けてみたが、やはりつながらない。業を煮やして、慈恩は学校の帰りに三ヶ月ぶりに自分の元の家に寄った。

 母の大事にしていた庭は、自分がここを出たときよりも綺麗に整えられていた。
 
それに逆に違和感を覚えた慈恩を、玄関で出迎えたのは、三神だった。
「お久しぶりです、慈恩様。お元気そうで何よりでございます」
 丁寧に頭を下げる三神は、三ヶ月前に比べ、少し痩せたように感じた。そして、ふと微かに香るコロンに気付いた。とても清々しい、優しい香りだったのだが、この男はそんな香りを漂わせていただろうか。
「・・・・・・あの、斗音は・・・・・・?」
 挨拶も忘れて、思わず口にしていた。少し首をかしげるようにした三神は、すっとシャープな笑みを浮かべた。
「まだお帰りになっておられません。最近お忙しいようですから・・・・・・八時や九時を過ぎることも珍しくありませんので・・・・・・」
「そんなに遅く?一体、どうして?」
「詳しくは存じませんが、執行部の仕事が忙しいと、うかがっております」
「執行部・・・・・・?でも、そんな時間、もう学校も閉まってると思うけど・・・・・・」
 凍りつきそうな寒さに、思わずマフラーをつかんで顔を埋める。三神は苦笑した。
「私はあくまで斗音様のおっしゃられたことをお伝えしているだけでございます。それをどう捉えるかは、慈恩様次第ではございませんか?」
「・・・・・・え?」
 暗い中でもはっきりと、慈恩は漆黒の瞳を見開いた。三神の切れ長の瞳は、それに対してやや細められる。
「最近親密な方がいらっしゃるようですし。学校帰りにデートなんて、最近の若い方ならよくあることでしょう」
「・・・・・・そう、ですか」
「いえ、あくまでこれは私の想像です。実際に見たり聞いたりしたわけではございませんから」
「・・・・・・」
 そんなことは考えたことがなかった。斗音に彼女ができていたとしたら、休日に都合がつかないのも道理かもしれない。メールなども、自分より彼女を優先させるかもしれない。ただ、斗音ならそのことを自分に言ってくれそうな気がした。これまでも、互いにそういう存在がいれば、当たり前のように知っていたから。
「今日こちらへいらっしゃることは、斗音様はご存知でしたか?」
 訊かれて首を横に振ると、そうですか、と三神はうなずいた。
「私もいつお帰りになられるかは申し上げかねます。九条様の方では、御夕食はご家族そろってでございましたね。お待ちになられるとなると、お断りの連絡をされた方がよろしいかもしれません」
「・・・・・・いえ、今日は・・・・・・帰ります。ただ、最近斗音と連絡が取れないことが多くて。今日も、行くことを何度か伝えようと思ったんですけど・・・・・・」
 慈恩が視線を落とすと、三神はゆっくりうなずいた。
「それだけお忙しいのでしょう。斗音様のお身体の具合だけは、常に雅成様に連絡させていただいておりますので、ご安心ください」
 自分が連絡すら取れない以上、彼に任せるしかなかった。
「・・・・・・斗音を、お願いします」
 頭を下げたのに対し、三神は更に深く低頭した。
「はい。必ず」
 顔を上げて、懐かしい我が家を見つめた。よく使う部屋には煌々と明かりが灯され、ここは自分たちが帰るまで明かりがつかなかった家ではなくなっているのだと感じた。斗音の部屋にも、既に明かりがついている。そうして、主が帰るのを待っているのだろうか。
 踵を返すと、後ろから低い声が呼び止めた。
「慈恩様」
「はい?」
 振り返ると、顔を上げた三神が笑みを浮かべていた。
「・・・・・・素敵なコートですね。学校指定のものですか?」
 意外な質問に、慈恩は目を瞬かせた。そして、上品なグレーのロングコートに目をやる。
「あ・・・はい、そうですけど」
 三神の笑みが、すっと線を引いたようにシャープになった。
「お似合いですよ」
「・・・・・・どうも・・・・・・」
 躊躇いがちに会釈をしてから、慈恩は改めて帰路に足を向けた。そこで再び斗音の携帯を鳴らしてみたが、長いコールのあと、いつも通り伝言を促すメッセージが流れ始めた。
「・・・・・・斗音。今、家へ行ったんだ。三神さんに、まだ帰ってないって言われたけど・・・・・・。・・・お前、今どこにいるんだ?・・・・・・お前の口から、お前のこと聞かせて欲しい。斗音の話が聞きたい。・・・・・・また、連絡するよ・・・・・・」
 携帯に向かって、一人でそう話して、通話を切る。慈恩がそうやってメッセージを残すことは珍しかった。メールなら自分の伝えたいことを、一番適切な言葉を選んで送ることができるからだ。でも、今回は文字ではなく、自分の声を伝えたかった。そんな気分だった。
「・・・・・・・・・・・・?」
 何かの音が耳に届いた気がして、ふと振り返った。目に映ったのは、少し離れた懐かしい家の、斗音の部屋。
(まさか、あの距離で何かが聞こえるはずがない)
 慈恩が苦笑交じりに視線を戻した直後、部屋の中で微かに影が動いた。だが、視力に関しては何の問題も抱えていない慈恩でも、さすがに気づくことはなかった。
 そして、慈恩が去るのを見送る三神が、薄笑いを浮かべてつぶやいたのも。

「お前には金持ちのお坊ちゃまが似合いだ」

 その夜、慈恩の携帯に斗音からの着信があった。正直驚いたが、ほっとした。急いで通話ボタンを押すと、通常よりかなり擦れ気味の声が聞こえた。
『もしもし』
 三神の様子では、今特に斗音が弱っているという感じを受けていなかったので、少し不安になった。
「斗音・・・・・・声が、擦れてる」
『そう?・・・・・・最近、こんな感じだよ』
 最近、という言葉を聞いて、自分がいかに斗音の声を聞いていなかったかを痛切に感じた。今思えば、全国大会の少し前辺りから、直接会話をすることがなくなっていた。三週間近くが経っていた。
「発作が、あるのか?」
『そうだね。まあ、そこそこ。軽いことが多いから、気にしなくていいよ』
 妙に軽いというか、思慮深くて相手を思いやる斗音らしさが感じられなくて、微かに違和感を覚えた。
『今日、来たんだね。・・・・・・どうだった、久しぶりの家は?』
「どうもこうも・・・・・・お前に会いに行ったんだ。家には入ってもない」
『どうして?・・・・・・もう、自分の家じゃないから?』
 チリ、と胸の奥が痛んだ。あの家は、自分にとってかけがえのない家だ。今の家より、よほど自分にしっくり来る。そんな思いは、斗音には分からないだろうか。
「そんなんじゃなくて・・・・・・三神さんに、お前はまだ帰ってないって言われたし・・・・・・」
『そう・・・・・・あいつ、そんなこと言ったんだ。まあ、似たようなもんだけど』
「・・・どういうこと?」
 思わず問う。少し間をおいて、少し吐息交じりの声が聞こえた。
『・・・何でもないよ。慈恩には、関係ない』
「・・・・・・斗・・・・・・音・・・・・・?」
 はっきりと感じる冷たさ。突き放されたことを感じた。どうして?と目まぐるしいくらいに思いが駆け巡る。
『・・・・・・留守電、聞いたよ。慈恩の声、久しぶりに聞いた』
「・・・・・・俺もだ」
『・・・・・・俺の話が聞きたいんだっけ?』
「・・・・・ああ」
『・・・・・・何の、話をしたらいい?』
 誰と話しているのだろう、と慈恩は思った。斗音とは思えなかった。
「怒ってるのか?」
 何の確信もなかった。でも、斗音の様子がおかしいことだけはよく分かった。それでそう訊いてみたのだが、しばらくの沈黙ののち、微かに笑うような擦れた吐息が聞こえた。
『・・・・・・別に、怒ってなんかないよ。ただ、慈恩は何が聞きたいのかと思って』
「・・・・・・ずっと、話してなかったから・・・・・・お前のこと、聞きたかった。それに、如月祭のことも」
 正直、何を話していいのか分からなかった。斗音の気持ちも、分からなかった。頭の中はかなり混乱に近い状態だった。それだけ言えただけでも、上出来である。そんな慈恩に対して斗音が返した言葉は、慈恩にはとても信じられるものではなかった。
『俺のことなんて、何も話すことない。それに・・・・・・』
 しばし躊躇うような間。小さく喉で震える声がした。笑っているようで、泣いているような。そして、ひどく擦れた声がつぶやいた。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』
 馬鹿な、と。瞬間脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。むしろ、斗音はその話をすることを望んでいると思っていた。涙に言葉を詰まらせながら、そう約束をしたのだ。
「・・・・・・斗音・・・・・・」
『・・・・・・ほかに、聞きたいことは?』
「斗音!」
 何かを思うより先に、叫んでいた。向こう側で、微かに斗音が息を飲むのが分かった。知らず、拳を握り締めて、とにかくこの空々しい会話を何とかしたくて口を開いた。
「こんな話をしたいんじゃない!・・・・・・会って話そう。お前に会いたい。こんなに会わなくなるなんて思わなかった。今のお前を、この目で見て、ちゃんと面と向かって話がしたい!」
 電話の向こうで呼吸が震えているのが、微かな空気の振動で伝わってきた。返ってきた声も、微かに震えていた。
『・・・・・・・・・・・・もう、来ないで。・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・お前に、・・・・・・・・・・・・・・・会いたく・・・・・・ないよ』

 最後の否定は消え入りそうだった。迷って躊躇って、それでも萎える気持ちを必死に奮い立たせて、言った言葉なのだと解った。瞬時に、心に突き刺さって未だ融けない氷の刃が再び胸を貫く。
 
・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・
(・・・・・・どうして・・・・・・!)
 同時に頭の芯が、心臓が焼け付くような痛みを感じた。
『・・・・・・ごめん、もう、切るね』

 何も言えなかった。ただ、最後の斗音の言葉には、違和感を覚えなかった。

 今もまだ、斗音がなぜそんなことを言ったのかは解らない。斗音の本音も、分からない。ただ、また斗音にあんなことを言わせるまで、自分が追い詰めたのではないかと思うと苦しかった。あれから二度、三度、斗音に連絡を取ろうとした。メールは返って来ない。何度か携帯に掛けて、一度だけつながった。しかし、会おうとの誘いに、斗音は乗らなかった。
『・・・・・・会いたくない・・・・・・今・・・・・・・・・ちょっと体調が、悪いんだ』
 長くは話さなかった。本当に、斗音はつらそうだった。無理にでも押しかけようとも思った。でも、苦しそうにしながらも頑なにそう言う斗音は、本気でそう思っているのだと感じた。その思いが、慈恩を押し止めた。雅成から聞く三神の情報は、時折発作を起こすようになり、学校を休むこともあるとのいうものだった。もともと季節の変わり目は発作を起こしやすい斗音である。情報はさほど不自然ではなかった。
(・・・・・・斗音が何と言おうと、どう思っていようと・・・・・・隼なら、会いたい気持ちひとつで会いに行くだろうな)
 あんなふうに一途に、自分の思いに正直に、なれたらいい。何度もそう思った。でも大人びた理性がかえって邪魔をしていた。
「・・・・・・返さなくて、いいんだ」
 そうつぶやいて、慈恩は携帯のメールを一件送信した。
「件名:雪

 本文:気付いてるか?雪が舞ってる。すごく綺麗だ。見てなかったら、外を見てみろ。お前に、見せたい景色だから。」

   ***

 パチン、と携帯を閉じて、斗音はよろけながらベッドを降りた。ひどい眩暈にたたらを踏み、それでもぐっと堪えて、カーテンに縋りつく。身体がぐらついた拍子に、肩からはだけたパジャマがはらりと落ちる。肩の骨が浮き出す白い肌が顕わになった。
「・・・・・・っ」
 喉から濁った力ない咳がこぼれる。呼吸が荒いくせに擦れて弱々しい。その途中でまたつかえるように、咳が込み上げた。
「・・・・・・はぁ・・・っ・・・・・・・は・・・ぁ・・・・・・」
 呼吸の苦しさに喘ぎながら壁にもたれるようにして、そっとカーテンの隙間を広げた。
「・・・・・・ぁ・・・・・・」
 それほど大きくない雪の破片が空間一面に舞い降りてくる。門灯の光を浴びてほのかにオレンジに染められ、白と薄い灰色にひらひらと瞬間ごとに色を変えながら、静かに天空から降り注いでくるその美しさに、薄茶の瞳が見開かれ、涙に包まれた。白い頬に、透明な雫が伝う。
 小さく震える腕を伸ばして鍵を外し、カラカラと窓を滑らせた。風はないが、凍てつく空気が流れ込んで斗音の身体を包む。唇からこぼれる吐息が白く染まる。よりクリアになった視界に、それでも斗音は見とれた。
「・・・き・・・・・・れ・・・い・・・・・・」
 思わず手を差し伸べる。その細くて白い指先に、小さな結晶が触れた。一瞬形をとどめていたそれは、見る間に透明な液体となり、水滴だけを残して消えた。そして、次の結晶がまた指にとまる。
「・・・・・・見て、るよ・・・・・・慈恩・・・・・・」
 また喉を、力ない咳が遮る。伸ばしていた手で胸を押さえ、苦しげに柳眉を寄せて、しばし呼吸を整えて。
「・・・・・・っ、・・・・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・・・綺・・・麗だ・・・、ほん、とに・・・」

 長い睫毛が涙に濡れながら、新たな雫を瞬きでこぼしていく。
 
最近は、気管を通り越して肺にまで苦しさを感じるようになっていた。熱も三十八度と三十九度の間を行ったり来たりしたまま下がらない。その身体に凍るような冷気は容赦なく襲い掛かる。ベッドの中で絶えず自分の熱に蝕まれながら、それでも激しい体力の消耗を強要されたばかりの身体に、その冷たさは妙に新鮮で気持ちよかった。
「・・・・・・ごめん・・・・・・・・・メール・・・・・・返さない・・・けど・・・・・・」
 ペンダントを絡めた左手で握り締めた携帯も、胸に押し当てる。
「・・・・・・見てる・・・・・・お前と、同じ・・・・・・景色・・・・・・」
 血色の悪い唇からこぼれる呼吸がますます白さを増す。壁に寄りかかったまま、少し身を乗り出すようにして再び手を伸ばした。その手に白い結晶が一つ二つ舞い降りるのを見て、斗音は微笑んだ。まるで可憐な花がそっと開くように、優しくほのかに、そして儚く。
「・・・・・・っ」
 潤んだままの瞳が微かに見開かれ、たちまち微笑みは凍りついた。華奢な身体を絡め取るように背後から抱きすくめたのは、長身の男。
「・・・・・・こんなに身体を冷やして。さっきあれだけ火照らせてあげたのに」
 コロンの香りを漂わせながら、白い頬に頬と唇を摺り寄せる。
「俺が暖めてあげますよ」

 その頬が、新たにこぼれた雫に濡れた。窓際からあっけなく引き剥がされ、そのままもつれて崩れるようにフローリングの床に力なく組み敷かれる。左手から傷だらけの携帯が転がり落ちた。薄茶の瞳から光が失せ、瞼がゆっくりと落ちた。まるで意志のない人形のようなその肢体に、190近い体躯が覆い被さる。一方的に嬲られるだけの行為に耐えるために、斗音は左手に絡めた十字架をそっと握り締めた。

   ***

「あら・・・雪。今年は早いですね」
 少し嬉しそうに窓から空を見上げた母親に、近衛は片眉を軽く上げた。

「夕方には降っていましたよ」
 
話がある、と居間に呼び止めておいて、いきなり世間話はないだろう。そんな近衛をちら、と見遣って母親ははんなりと笑った。
「そうでしたか。そういえば今日はお客様がいらして忙しかったから、全く外を見る余裕がありませんでした」
「客人、ですか」
「ええ。西園寺グループの会長婦人が、ご相談にいらしていたのです」

「西園寺・・・・・・」
 西園寺グループといえば、近衛家が司る大グループの傘下である大企業をいくつも任せている、近衛家の右腕である。それくらいは、近衛家の嫡男として幼い頃から認識している。
「ええ。あなたの許婚、果葡璃(かほり)さまのお母様です。さすがのあなたも、西園寺の名は覚えているようですね」
「そんな理由で覚えているわけではありません」
 いきなり予想外のところから話を振られ、眉根を寄せたいのを理性で抑えて近衛が答えると、母は上品に笑みを浮かべた。
「あら、あなたはあまり近衛の財閥関係には興味がなさそうだと思っていましたから」
「・・・そんなつもりはありませんが」
 やや詰まった辺りで、母親には見抜かれているだろう。それが図星であるどころか興味の欠片ももってはいないということを。父親を影で見事に支えているこの母親は、花山院という名家の出身である。女性は男性を立て、決して前には出ないという昔ながらの女性を演じているが、そんなものに収まる人ではない。明晰な頭脳は、父親というよりむしろこの母譲りの近衛である。
 その母が、左手の指を添えるようにしてくすくすと笑った。
「それで?果葡璃さまとはちゃんと連絡を取っていらっしゃいますか?西園寺婦人から少しばかり、恨み言を聞かされてしまいましたよ」
 ぐ、と言葉に詰まってしまった。そもそも自分に許婚がいることなど、ほとんど意識していない近衛である。家同士の付き合いだからと、仕方なく時々会ってはいるが、年に数回がせいぜいだ。
「あなたはともかく、果葡璃さまは悠大さんのことをとても慕っていらっしゃるのですから、女性の気持ちをあまり無碍になさるものではありませんよ」
「・・・・・・果葡璃は大学受験を控えている身です。あまり邪魔をするわけにもいかないでしょう」
 食後に出された紅茶に、上品な仕草で口をつける。これも幼い頃から徹底的に叩き込まれたマナーである。
「そうですね。でも、その理性あるはずの受験生相手に、一体どんなことをなさったら、母親にわざわざ恨み言を言わせるほど想いを募らせることになるのでしょうね?」
 ぐぐ、と、完全に近衛の口は内側から封じられてしまった。かろうじて紅茶を噴き出すなどという最悪のマナー違反だけは免れた近衛だったが、頭の中では瞬時に過去をさかのぼる。数ヶ月前に会ったきりだが、その時は確か・・・・・・。
(ストレス溜まってたから、ベッドに連れ込みました、なんて言えるかよ!)
「・・・そ、そんなことを言いにいらしたわけじゃ、ありませんよね」
 だいぶ平静を装ったつもりだったが、動揺は確実に露見していた。なんだか楽しむような様子の母親だが、ええ、とうなずいた。
「もちろん、それは事のついでに。ちょっと困ったことがあって、いらしたのです」
「困ったこと、ですか?」
 話を逸らすためにも、近衛は鸚鵡返しの質問をするしかなかったのだが、母親は息子をからかうのをやめたらしい。柔らかな表情のままではあったが、笑みは消した。
「伏原傘下の企業が、提携をやめると言い出したそうです。伏原は西園寺の最強のバックアップをしてきましたからね。伏原自身も大打撃を受けると思いますが、西園寺を相打ちに持ち込むことができるはずです」
「なぜ、そんなリスクを顧みずに?」
「悠大さんなら、どう考えますか?」
 問い返されて、近衛は丁寧にカップをソーサーに戻し、長い脚を組んだ。
「伏原に援助を申し出たところがある・・・・・・むしろ、そちらに利益を見出すほどの援助を」
 上品な和服の母親は、笑みを表情に戻した。
「それだけですか?」
「・・・・・・また、お試しになるのですね」
「あなたは、近衛家を背負わなければなりませんからね」
 ふう、と軽く溜息をついて、近衛は組んだ膝に肘をつき、指を額に当てた。
「それだけの援助を申し出られるとなると、並大抵のところではないはずです。援助する側も相当の出費を覚悟しなければならない。それでも提携を破らせる・・・・・・そうだ、援助を申し出たところが、伏原に提携を破らせた。伏原が組するのは・・・・・・冷泉?冷泉と醍醐は・・・確か・・・・・・鷹司グループの、両翼」
 はっと顔を上げる。その目が捉えたのは、品のある微笑み。
「よくできました。そういうことです」
「まさか、鷹司が・・・・・・?」
「わたくしは、そう見ますけれど。悠大さんはどうですか?」
 近衛は唇を噛んだ。心当たりが大有りだ。
(マジか、あのクソ部長!つーか、ガキの面子のやり合いに、本気で動くってのか!)
 思わず舌打ちをする。その瞬間、母親が肩をすくめた。
「あら、悠大さん。お行儀がよろしくありませんよ。何か、思い当たることがあるのだとしても」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか」
「悠長に大きくなれ、はあなたの座右の銘ではないのですか?」
「そうですけど・・・・・・って、なぜそれをご存知なのです」
 さすがにそれを、自分に名を与えてくれた親に言うほど、近衛は馬鹿ではない。母親は軽やかに笑った。
「あなたのご親友から、聞きださせていただきましたよ。本当に飾らない、素敵なお友達でしたから」
(慈恩、あの・・・・・・馬鹿・・・・・・)
 がっくり肩を落とす。百戦錬磨の母にかかれば、この世界に擦れていない慈恩から色々自分のことを聞き出すのは、いとも容易いことだろう。
「なかなか面白い解釈ですね。私はあなたらしくていいと思います。それより、九条さまは最近あまり来てくださいませんね。あんなにいい方、そうそういらっしゃいませんよ。大切になさいませ」
「・・・・・・分かっています。しかし、今は・・・」
 優しい声で、母は優雅に笑った。
「鷹司のことは、わたくしにお任せなさい。今のあなたよりは、よほどいい手が打てます。だてにこんな大きな相談事を持ち込まれたり、ご婦人方とお付き合いをしていたりするわけではありませんから」
 そう言って、流れるような仕草で立ち上がる。
「人付き合いとは、損得ではありません。人を大切に思う気持ちこそが、思わぬときに自分を救ってくれるものです。表面的なお付き合いはどれだけ親密そうに見せていても、相手には伝わっていますから。九条さまに対する気持ちも果葡璃さまやお友達に対する気持ちも、本心から相手を大切に思い、本音で接している相手であれば、決して裏切られることはないのですよ」
 立ち上がった母を視線で追うと、百合の花が揺れるように清楚で上品な笑みがそこにあった。
「あなたが本当に大切に思う人は、どんなことがあっても助けて差し上げたいと、思いますでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「そういうことです」
 さすがだ、と近衛は心の中で両手を上げた。この母には敵わない。
「では・・・失礼いたします」
 丁寧にお辞儀をして、近衛は広い居間をあとにした。
「・・・・・・大切に思う人、か」

 離れに行くための通路にはちゃんと屋根を取り付けてあるが、それでも凛と冷たい空気は避けようがない。それは近衛の気持ちを引き締める。
 
ふと目を遣ると、巨大な和風庭園にハラハラと舞い落ちる雪が、とても美しい。
(慈恩・・・・・・お前はこの景色、見てるかな)
 自分が一番慕い、大切に思う友人が、ここのところずっと塞ぎ込んでいるのを知っている。詳しい理由は知らない。塞ぎ込んでいても、やはり剣道は強かったし、テストでもトップクラスは譲らなかった。それでも近衛にはよく解った。時折見せるつらそうな横顔や、儚げにさえ見える物憂げな表情。それは慈恩がいつか見せた表情によく似ていて、そのとき慈恩は心にものすごく重い負担を抱えていた。
(きっと今も、何かを抱えてる。・・・・・・話くらい、聞いてやれたらいいのに)
 慈恩が言おうとしないのも解っていた。話を聞いてやれるだけの存在に、自分はまだなれていないのだと思う。それは悔しかったが、それ以上につらそうな慈恩を見ているのがつらかった。
(来週はみんなで・・・・・・少しくらい羽目を外せるといいかもな)

 街中が華やかに浮かれ始めるクリスマスが近づいていた。

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四十六.崩壊していく精神(こころ)

 高い崖を這い上がるのは、並大抵の苦労ではない。その崖が急で険しければなおのこと、その位置にしがみついているだけでも、本人は必死に違いない。
(落ちていくのは、それがどんなにつらいことでも、あっという間のことなのに)
 携帯の通話を切って、斗音はくすっと笑った。翔一郎の寂しそうな声が、頭に焼き付いている。
『無理言ってごめんな』
「ひどいことを言ったのは、俺なのに」
 言いながら携帯をカチンと閉じた。くすくすと剥き出しの肩を揺らして天井を見上げ、声を上げて笑う。左手の中にあるものを握り締めながら、携帯を乱暴に床に放り出す。
「あははは、ははははははっ!」

 その薄茶の瞳は充血していて、長い睫毛は涙に濡れている。目の下には白い肌に黒ずんだ隈が浮かび上がり、睫毛同様に濡れて、その色を濃くしていた。
 
放り出したばかりの携帯が、また音楽を奏で始める。
 
途端、擦れた笑い声は引きつり、斗音は両手で硬く耳を塞いだ。それでも電子音は微かに聴覚を刺激する。
 
斗音の喉が、ひくり、と震えた。そして、擦れた悲鳴が迸った。
「うわあああああああああああっ!」
 斗音の心の中に、悲痛な思いがはちきれんばかりに膨れ上がって、苦しさのあまり、煙草の匂いが残る空気をまるで金魚がそうするかのように、無理矢理肺に押し込もうとする。喘いで、滲んだ視界をカッと見開いた目で見つめ、握り締めた左手に右手をかぶせて、爪が白くなるほど硬く握り締めた。その指からこぼれるのは、細い銀色の鎖。その鎖に、ツツ、と赤い重い雫が絡まった。
「あ・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・・」
 ふ、と瞳が焦点を失う。同時に涙が病的に白い頬を転がり落ち、腕や腰に布を絡ませた痩躯は、はたりとベッドに崩れるように倒れた。
 直後に、何の合図もなしに乱暴にドアが開けられる。
「斗音!斗音さん!」
 素肌にシャツを羽織り、前をはだけたままにしている格好の三神が飛び込んできて、ベッドの脇に片膝をついた。
「斗音さん!聞こえますか!」
 耳元で強く呼びかけ、その痩せた肩を揺するが、斗音には何の反応もない。
「・・・・・・また、か」
 ちっ、と舌打ちして、三神は立ち上がった。ズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火を点けて、深々と煙を肺に吸い込む。長い吐息とともに紫煙を吐き出して、眉根をひそめながら倒れた痩躯を見つめ、ぎしっとベッドに腰をかける。
「・・・・・・もう、止められない。俺と一緒にあなたは、堕ちていく」
 優しくアッシュの髪を撫で、痛々しく笑んだ。
「・・・・・・あなたは優しすぎる。もう、俺を拒むこともできない。そうやって、俺の代わりに壊れていく」
 すっと顔を近づけて、頬に唇を触れさせ、左手の平に食い込んだ十字架をじっと見つめる。
「それがなかったら、もっと楽に現実から逃げ出せたのに。馬鹿な人だ」
 切れ長の目が、すっと細められた。

「本当に・・・・・・・・・・・・馬鹿な、人だ」

   ***

 ひと月前、慈恩が身につけていた、母親の形見だという十字架のペンダントを引きちぎり、斗音を無理矢理自分の下に組み敷いたあの日を、三神は激しく後悔した。ますます自分に怯え、警戒し、死ぬことすら己の未来に見出していた斗音に、近づくことすらできなかった。穢された自分の命より、慈恩のペンダントを心配した彼。そこまで自分が受け入れられない存在なのだと突きつけられた瞬間だった。
 それでも、斗音が何とか回復するまでは、必死で、彼を生かしたい一心で、尽くそうとした。斗音は三神と目を合わせようともしなかったが、自責の念でそのつらさは乗り越えられた。彼が自力で起き上がれるようになり、自分から「甘酒が飲みたい」とつぶやいたときは、涙すらこぼれたのだ。
 
しかし、斗音がだいぶ回復して、再び無理を押して学校へ行くようになって、最初に彼がしたことは、ペンダントを直すことだった。少し遅くに帰ってきた斗音は、少し寂しそうに、それでも殊のほか大事そうに、そのペンダントを握り締めて放さなかった。ほとんど口もきいてくれない斗音だったが、沢村に酒の粕で甘酒を作らせて出すと、少しだけ嬉しそうにした。三神への言葉は、期待などしていなかったが、やはりなかった。
「今まで甘酒なんて、言われたことありませんでしたが、お好きだったんですか?」
 何の話題も切り出せなくて、苦しくて、勇気を振り絞って言った一言だった。斗音は細い両の指でマグカップを包みながら、ほんのりと微笑んだ。久しぶりに見せたその微かな笑みは、強く三神の心をつかんだ。つかんだのだ。目頭が熱くなるくらいに。だが。
「・・・・・・瓜生さんが、作ってくれたのが、美味しかったんだ」

 本当に久しぶりに見たその微笑みすら、自分に向けられたものではなく、それどころか彼が喜ぶからと用意していたものは、他人との思い出の品で。
 
それからは苦しくて苦しくて、与えられた自室で取り付かれたように煙草を吸い、それでも今度ばかりは満たされなくて、浴びるほどのアルコールを摂取した。日に日にそれは過剰になっていき、たちまち自分の仕事に支障を来たすまでになった。
 
一週間ほど飲み続けて、ついに酔いつぶれて起きられなかった自分を、沢村は見てみぬ振りをした。彼女は仕事に対してはどこまでも積極的で忠実だが、決して人のきな臭い部分に深く関わろうとすることはなかったのだ。それを、彼女はこの仕事をする上での信条としていた。それはそれでありがたかった。斗音はもともと自分を避けている節があったから、彼の前に現れなかったらそれはそれで好機と捉えていたに違いなかった。そう思うとつらくて、一人で何日も部屋にこもっているうち、アルコールですら耐え切れなくなった。苦しさから逃げることしか考えられなかった。ついには、違法の薬を手にしていた。
 
朝斗音を起こさなくなって二週間、薬に手を出し始めてから二日ほどたったとき、斗音が何ヶ月ぶりかに三神の部屋を訪れた。
 
躊躇いがちのノックに、もっと躊躇うハスキーボイスが続いた。
「・・・・・・三神?・・・・・・いるのか?」
 いますよ、と、答えたつもりだったが、はっきりと発音できなかった。ウイスキーで泥酔した上、ソファーに身体を預けながら薬を吸ったばかりだったのだ。
「・・・・・・どうか、した?ろれつが回ってないけど・・・・・・大丈夫なのか?」
「・・・大丈夫?大丈夫なもんか・・・・・・」
 そう独りごちて、笑ったが、それもはっきりとした言葉にはならなかった。
「入るよ?」
「どぅぞぉ・・・・・・」
 煙草の痕跡を消さなくては、などという正常な感覚は、もう働くのをやめて久しかった。何の躊躇いもなくそう返事をしていた。
 ドアを開けた瞬間の斗音の顔は、今でも忘れられない。驚愕に見開かれた薄茶の瞳。久しぶりに相対したのに、慌てて細い手指で形よい口や鼻を覆ってしまったので、ぼんやりと残念に感じた。
 ああ、そうだった。この人に煙草は禁物だったか・・・・・・。
 思い出しても今更で、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。解雇されるかもしれない。その正当な理由を与えてしまった。そう思うと、胸が一杯になって、今までの苦しみやつらさや悲しみが全て溢れてきて、笑いながら涙がこぼれた。
「俺の・・・・・・首、切られちゃいますねぇ・・・・・・」
 そう言ったのだが、斗音は柳眉をぎゅっと寄せた。
「何言ってんの?分かんない。お前、何してるんだよ。ひどい煙草の匂い・・・・・・お酒も。一体何やってんだよ!」
「何ってことも・・・・・・ないですけど、ね・・・・・・」
 自分でも発音が明瞭でないことは分かっていた。でも、どうすることもできない。悲しすぎておかしくなって、ひゃははは、と間の抜けた笑い声を立てたのを聞いた。まるで自分の声ではないかのようで、更に泣きながら笑い続けた。
「三神!しっかりしろ!お前がここにいる理由は何だよ!」
 分かりきったことを訊く。斗音を手に入れるためだ。斗音に尽くして、斗音の心を奪って、そうして自分のものにしてやるのだ。彼の全てを。そう、全てを。
「・・・はず、だったのに・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・もう、叶わない・・・・・・」
 悲しさが込み上げてくる。愛してしまったがために、全てが狂ってしまった。斗音が自分を愛さなければならなかったのに、彼の愛は自分には向かなかった。そして、自分が心奪われてしまったのだ。
「あなたを愛したばかりに・・・全てが、狂ってしまった・・・・・・」
「はっきり言えないのか?全然聞き取れない!」
 苛立つように言葉をたたきつけてから、斗音は机にこぼれた白い粉にはっと目を留め、息を飲んだ。
「・・・・・・まさか・・・・・・これ、アルコールのせいだけじゃ・・・・・・」
 さすがに聡い。見たこともない粉を見て、これが麻薬だと察知するとは。
「へへっ・・・・・・ヘロイン、っすねぇ・・・」
 もともと白い上によくない顔色が、それでもさっと青ざめたのが分かった。瞬間、頬に衝撃が走って、鈍くなっていた感覚の中に、じわりと痺れと熱さが湧いた。
「この大馬鹿っ!」
 言うや否や走り去る斗音の背中を見て、もう二度と戻ってきてくれはしないだろう、と感じた。
「ははっ・・・・・・ふ、はははは・・・・・・」
 笑い声なのか泣き声なのか、自分でも判別がつかなかった。何て愚かなのだろう。何て無様なのだろう。もう九条にすら戻ることもできまい。これで全て終わりだ。
「あーっはっはっはっは、わははっはははははっ・・・・・・」
 自暴自棄になって高笑いをした瞬間。
 ばっしゃあ!
 冷たさに襲われると同時に派手な水音がした。全身にたたきつけられたバケツの水が、頭から指からパタパタと滴り落ち、ひやりと服を身体に張り付かせた。
「目を覚ませ、この馬鹿っ!」
 擦れた声で怒鳴られて、思わず凛々しい斗音を見上げた。綺麗な眉とまなじりが吊りあがっていて、本気で怒っているのが分かった。一瞬で正気が全身を支配する。
「あんなに自分の仕事にプライドもってた奴が、仕事放り出して、俺の喘息をあんなに気遣ってくれてた奴が平気で煙草吸って、酒飲んで薬にまで手を出して!自分のやらかしたことに責任も持てずに、現実逃避なんかしてんじゃない!」
 ・・・・・・その言葉は、俺に向けてのものなのか。
「お前はその程度の人間なのか!」
 俺を・・・・・・見捨てずにいてくれるのか。俺のために、言ってくれるのか。
(何て人だ・・・・・・あなたは・・・・・・)
 滴り落ち続ける雫に、涙が溶け込んでともに頬を伝った。
「・・・・・・あ・・・なたなんて・・・・・・愛するんじゃなかった・・・・・・」
 斗音が瞠目する。
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
「こんなに・・・・・・こんなに苦しい思いをするくらいなら・・・・・・もう、あなたを愛したくなんか、ない」
 斗音の手にしていたバケツが転がって、わずかに残っていた水をじわじわと絨毯に吸わせた。
「・・・・・・そう、思うのに・・・・・・あなたが・・・・・・いとおしくて、たまらない」
 床を踏みしめて立つと、足がよろめいた。身体が傾いたその勢いのまま、斗音を力任せに抱き締めた。
「・・・・・・っ・・・・・・俺、の・・・・・・せい・・・・・・?」
 ハスキーな声が、耳元で震えた。
 ああ、何て優しい人だろう。俺の過ちを、自分が関わったせいだと、そう捉えてしまうのか。俺があなたに抱いてしまった感情を責めることなく。
「あなたを・・・・・・愛してる。・・・・・・気が、狂いそうなくらい、愛してる」
 その優しさは間違いなく、あなた自身を苦しめるだろうけれど。

(いとおしい人・・・・・・もう、離さない・・・・・・!)

 斗音が差し伸べてくれた手を、三神はつかんだ。つかんで、自分が這い上がる代わりに斗音を引きずりおろし、踏み台にした。

 水をぶっ掛けられて正気は取り戻した。しかし、急激に身体に染み込ませてしまったニコチン、アルコール、そして麻薬の禁断症状は耐え難いものがあった。一日絶っただけで、苛々する、身体がだるい、重い。いっそ発狂してしまいたいほどの訳の分からない嫌悪感。飲めたら、吸えたら、すっとするのが分かっている。その快感の記憶が激しく三神を誘惑した。それを感じたらしい斗音は、常に三神を監視していた。自分が冷たく接したことでこうなってしまったのだという、責任感からだったのだろう。
 
あのときに首を切ってしまえばよかったのに、と、三神は憫笑する。
 でも斗音はそれをしなかった。そして、誘惑に逆らい切れなかった三神は、斗音の前であるにも関わらず、震える手で手放せなかった最後の薬に手を伸ばそうとした。
「駄目だ!そんなものに負けるな!」
 そう言って、斗音は震える手から薬を叩き落した。舞い上がり、絨毯に散らかった誘惑の粉を、三神は焦って受け止めようとした。これがなくなってしまえば、この肉体的なつらさから逃れられない。そう思った。
「やめろってば!」
「あ、ああ・・・・・・少しで、いいから・・・・・・」
 わなわなと手が震える。床に這いつくばって絨毯に顔を寄せようとしたが、華奢な腕が必死で自分の肩を押し上げ、それを妨害してきた。
「煙草とかアルコールはともかく、それだけは絶対駄目だ!」
「いま、今だけですから」
「今我慢できなかったら、もっとつらくなる!」
「あなたにこのつらさが、わ、分かるものか・・・・・・は、離して下さい・・・」
「分からないよ!だけど、今ここで許しちゃいけないことは分かる!」
 懸命に自分を止めようとする愛しいはずの主人に、激しい苛立ちを覚えた。
「知ったような、口を・・・・・・きくな・・・ッ!」
 華奢な肩を乱暴につかんだ。薬で病みかけた身体の奥底からくる震えに全身をわななかせ、その細い喉笛を喰いちぎってやりたい衝動に駆られる。知らず殺気を込めた目を、斗音はそれでも真っ直ぐに見返してきた。
「三神、逃げたってつらさからは解放されない!」
「そんな正当論が、何の解決になる・・・・・・そんなもので、こ、この身体の・・・つらさが、す、救われるとでも・・・言うんですか・・・っ!」

 それでも逃げない綺麗な瞳。それを見た瞬間、ふと気が触れそうなつらさが遠のいた。
 
ああ、そうか。今この人は、俺だけを見ている。俺だけを。
 
瞬時に胸を支配する高揚感。
「・・・そうだ、あなたが・・・・・・俺を、救えば、いい」
 目の前で微かに浮かぶ、訝しげな表情。
「・・・・・・俺だけを、見て・・・・・・俺の、ものに、なればいい」
「な、に・・・」
 彼の言葉を奪うように、唇で噛み付く。大きく見開かれた瞳。
 俺の、ものだ。
 込み上げる喜び。身体のつらさを忘れるほどに、心が至福で満たされる。
 力任せに抱き締めると、耳元で擦れた声が訴えた。
 やめて、と。悲しそうに。
「・・・・・・薬なら、やめますから・・・・・・俺に、抱かれて」
「・・・・・・三、神・・・」
「あ、あなたに、触れていると・・・・・・つらさが、遠ざかるから」
 斗音が息を飲んだのが分かった。そんな、と微かにこぼれた声を無視して、絨毯の上にいとも容易く押し倒した。愕然と見開かれた瞳は、それでも綺麗で、優しい気持ちと込み上げる欲情が入り混じった。
「俺を、拒まないで」
 大好きな綺麗な顔が、今にも泣きそうに歪んで。
「・・・・・・三神、お願い」
「・・・・・・薬をやれば、このく、苦痛から、逃れられる。そう、すれば、あなたを、解放してあげられる。斗音・・・・・・あなたは、お、俺に、どちらを、望むの?」
 綺麗な綺麗な薄茶の瞳が涙の膜でたちまち覆われた。
 分かっていた。斗音がどちらも選べないことは。だから、答えを出すことなど、できはしないと。
(あなたは、優しすぎる)
「・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・」

 拒む言葉さえ封じられ、抵抗することすらできずに、斗音は三神に抱かれた。封じられた言葉の代わりに、涙だけが斗音の瞳を、睫毛を、頬を濡らし続けた。そんな彼が、たまらなくいとおしかった。

 それから二週間が過ぎた。麻薬の禁断症状にかこつけて、三神はことあるごとに斗音を求めた。朝の検温時、入浴の直後、発作を起こして倒れたとき、就寝前。斗音に無理を強いて、彼に発作を起ここさせてしまうことも頻繁にあった。それでも、少しでも抵抗しようものなら、斗音の意識があるうちは薬を与えなかった。苦しめて苦しめて、その身体に恐怖を刻み付けるためだった。自分に逆らうことができないように。
 
そうするうちに、斗音の瞳は意志の光を失った。時々虚ろになる瞳は何も映さず、全ての感情を自分の中に押し込め、殺そうとするようになった。
 
反面、その生気を奪い取るようにして、三神は薬の症状を克服した。煙草とアルコールは、もう少し時間がかかるだろうが、それでもあの地獄の二週間に比べれば摂取は十分の一に減っていた。
 
だがその見返りとして求められた負担は、斗音の中で蓄積され、顕著に外見に現れていった。ただでさえも華奢な身体は痩せて、ちょっとでも無理な力を加えようものなら折れてしまいそうだった。もう、学校に行くことなど叶わなかった。今斗音にできることは、慈恩や友人からの電話に冷たく応対をすることと、自分の命を投げ出してしまうことがないように、十字架のペンダントを握り締めることくらいだった。
「・・・・・・あなたを心配してくれる人たちに冷たくするのは、これ以上心配させないためですか。そうやって突き放せば、内情を知られずに済むからですか。・・・・・・本当は、助けを求めたいくせに」
 ずっとずっと負担を掛けてきた斗音の心は、ここに来て一気にバランスを失い始めていた。大切な慈恩に、瓜生に、バスケの仲間たちに、執行部の仲間たちに、冷たい言葉を浴びせるたび、斗音の虚ろな瞳は涙に濡れ、そうして斗音は泣きながら笑った。自嘲なのか、嘲笑なのか。ぽろぽろ涙をこぼしながら狂ったように笑い、時折狂気じみた悲鳴を上げる。その重さに押し潰され、こうして気を失うこともたびたびあった。
(あの時の俺と、同じだ。でも、あなたは煙草も吸えない。酒にも薬にも逃げないで、そのクロスのペンダントのために死ぬことすらできず、簡単に狂ってしまうこともできないで)
「つらいだろうに。大嫌いな俺に抱かれ続けて、拒むこともできずにいる。あなたをこんな酷い目に遭わせている男なんだ。突き落とせばいいのに、それもできない。それならば大切なものなど捨てて、忘れてしまえばいいのに、その鎖で心をがんじがらめにして、そうやって苦しみ続ける。本当に・・・・・・馬鹿な人だ」
 そっと病的に白い頬に唇を当てる。
「俺に目をつけられたばかりにこんな姿になって」
 三神は切れ長の瞳をすっと細め、憐憫の笑みを浮かべた。

「可哀想な、人」

   ***

「なあ、斗音。お前が授業も執行部の仕事も、何もかも放り出せるような人間じゃないってこと、誰でも知ってるよ。だからさ、・・・・・・俺にはその言葉が、信じられないんだ」
 あくまで優しく、携帯に語り掛けるようにしているのは翔一郎だ。それを少し離れて見つめるのは、瞬と嵐。十二月に入り、一気に冬の寒さが襲ってきた。部活が終わるのも早いのだが、それでも辺りは真っ暗で、そろそろ街中ではクリスマスの飾りやイルミネーションが目立ち始めていた。華やかなそれらに照らし出される三人に、時折通りすがる女の子たちが振り返り、小さく騒ぎながら去っていく。
『事実放り出してるじゃん。ふふっ、過信されたもんだよね』
 携帯から聞こえる声はひどく擦れて、微かに震えているように思える。何だか痛々しくて、翔一郎は眉根を寄せた。
「今日金曜だからさ、そっちに行こうかと思ってるんだ。お前の分取ってるノートもたまって来たし。嵐と瞬と一緒にさ。なあ、何か食いたいものとか、ないか?持ってくよ」
『・・・・・・何もないし、来て欲しくもない。ノートを取ってなんて、頼んでないし』
「頼まれなくたって、いや、やめろって言われたって、俺は続けるよ。お前が本気でそれを嫌だって思ってるとは思えないから」
 翔一郎は少し微笑んだ。最初の躊躇いが、何よりの斗音の本音だろう。
『・・・・・・馬鹿だね、翔一郎』
「ああ。そうかもな」
 固唾を飲んで見守る瞬の横で、嵐は思い詰めた表情だった。三人は頻繁に斗音に連絡を取ろうと試みていた。瞬は前回斗音と喧嘩になってしまった。いや、斗音は常に冷徹な言葉を投げ掛けてくるだけだから、瞬がその挑発に乗ってしまったといった感じだった。それで気まずくて、メールで謝罪の言葉を送ってみたが、返ってくることはなかった。嵐は斗音の身に起きたことを知っていて、そして今の状況も薄々理解していたから、それを知らないふうを装って、結局空々しい会話で終わってしまうことが多かった。知っているからこそ身動きがとれない自分に嫌気が差していた。それ以上に、嵐自身も尽きない悩みを山ほど抱えていた。自分の世界をもつ嵐は実際こちらの仲間にばかりかまけていられなかったのだ。それでも何とかしてやりたいという痛切な気持ちがあるからこそ、彼らとともに行動していた。
「今からそっちに向かうけど、いいか?」
『勝手なこと言わないでよ。こっちにはこっちの都合があるんだ。今来てもらうのは、本当に迷惑だから』
「いつもそう言うだろ?じゃあ、いつならいい?」
『・・・・・・永遠に、来ないで欲しい』
「斗音・・・・・・」
 思わず言葉を失った翔一郎に、嵐はつらそうに目を細めた。大体何を言われているのかは想像がついた。そして、そう言わざるを得ない斗音の心情も、嵐には理解できた。お互いにつらいだけの会話なのに、それでもここで斗音を見捨てることだけはできなくて、無益な会話を繰り返す。それでも、自分たちの思いが届けばいいと。それがきっと、斗音の心の支えになる。ここに斗音を受け入れる世界があることを、忘れないでいてくれれば、いつかこの問題が解決したときに、帰って来ることができるから。
「分かった。今行くと、お前が困るんだよな。無理言ってごめんな。でも、また連絡するから。・・・・・・声が聞けてよかった。じゃあな」
 通話を切った翔一郎に、瞬が駆け寄る。そのあとに、嵐が重い足取りで続いた。
「ねえ、斗音なんて?俺のこと、何か言ってた?」
 ふう、と白い溜息をついて、翔一郎が携帯をポケットに突っ込んだ。
「いや、何も。ただ、来て欲しくないって」
 マフラーに口まで埋めるようにして、嵐に視線を送る。
「強引に押しかけちゃ、駄目なのか?」
 マフラーのせいでこもった声に、嵐は首を振った。
「あいつにはあいつの、人に言えない事情があるんだろ。俺たちを遠ざけようとするのも、本当に関わって欲しくないからだ」
 翔一郎はうつむき加減の上目遣いで嵐を見つめる。
「お前、それ知ってんじゃないのか?」
 その視線を受け止めてから、嵐は長い睫毛を伏せた。
「知っていようがいまいが、俺が今それを言わないってのが事実だ」
「・・・・・・そう」
 諦めたように翔一郎はくるりと踵を返した。慌てて瞬が追う。
「どういうこと?ねえ、斗音に何があったの?」
「分かんねえよ」
 素っ気無く答えてから足を止め、再び嵐をその視線で捉えた。
「俺はお前のやることが正しいと信じてる。けど、お前の中で、お前はいつも正しいのか?」
 嵐はふっと笑った。滅多にない、自嘲の笑み。
「なわけないだろ」
「・・・・・・そっか。・・・・・・ごめん」
 視線を落とした翔一郎に、嵐はすたすたと近づいて、通りすがる瞬間その肩をたたいた。
「でも諦めねえよ。俺は、絶対に」
 はっと顔を上げて、翔一郎はその背中を目で追う。
「ああ・・・・・・そう、だよな」

 瞬が大きくうなずいて、少し苦しそうに笑った。

   ***

 互いにつらい思いを味わっていたのは、もちろん出来過ぎ集団だけではない。
「授業中にあなたがここに来るのは、久しぶりね」
 苦笑した安江は慣れた仕草で、保健室を訪れた者が大概最初に座る長椅子を勧めた。来室者がふてくされたように視線を逸らすのに、更に苦笑を重ねる。
「くたびれた・・・って顔をしてるわね。少し休んでいく?」
「・・・・・・ああ」
 先生相手にぶっきらぼうに返事をして、瓜生は迷わずベッドに重い身体を横たえた。そのベッドを囲うようにカーテンを引きながら、安江は訝しげにその隙間からのぞき込む。
「何かあったの?」
「・・・・・・んでもねえよ」
「え?」
「何でもねえ。放っといてくれ」
 自分の言葉を聞き取ってくれなかった相手への苛立ちを溜息に載せる。それでもさすがプロというべきか、安江は軽く眉を上げただけでかわした。
「苛ついてるのね。放っといてあげてもいいけど、ここで休む理由を聞かせてくれないと、先生がサボりの共犯にされちゃうわ。それだけはごめんなの」
「・・・・・・・・・・・・」
 ちっと舌打ちした瓜生だったが、観念したように目を閉じた。
「・・・・・・集中できねえんだよ。できれば一人になりたかった」
 安江が何度か瞬きして、ほんのりと笑みを浮かべた。
「それでも帰ってしまうことを選ばなくなったのね。ここにいれば、誰かに咎められて邪魔をされることもないし。いいわ、片棒担いであげる。ついでに」
 シャッとカーテンの隙間を埋めて、安江は瓜生の空間を閉じた。
「先生職員室に用があるから、一人にしてあげる。成長したあなたへのご褒美よ」
 そのまま書類をさらうようにして部屋を出て行く足音と、鍵を掛ける音が静かな部屋に響いた。
「・・・・・・鍵まで・・・・・・ご丁寧に」
 思わずつぶやきながらも、安江の思いやりに感謝した瓜生である。
「・・・成長した、か。どうだかな」
 大きく溜息をつく。斗音が学校に全く来なくなってから早二週間。その原因は、分かっていた。斗音の状況を現段階で一番正確に把握していたのは、嵐と瓜生だった。
 斗音がぽつぽつと学校を休むようになったのは、十一月の三週目辺りからだっただろうか。その前までは、全国大会に行って慈恩の応援がしたい、と前向きだったのだ。しかしそれもまた、叶わなかったらしい。叶わなかったことがつらかったのか、それ以上のことがあったのか。斗音は話そうとしなかった。瓜生の直したペンダントを、いつも手に握っているか、そうでなくてもポケットに入れて、常に触れているのが印象的だった。首にかけなくなったのは、あの忌まわしい夜からだった。
 斗音が自分に癒しを求めていると知ってから、自分の存在意義をそこに見出すことができた。斗音にとって自分がそうであれるように務めたいと思った。薄暗い、あの階段で待てば、斗音は必ずそこに来たから。
『発作で起きられそうにありません。ごめんなさい』
 そんなメールを受信するようになったのは、斗音が学校を休み始めた頃だ。以前階段で待っている自分を気遣い、休むときは連絡すると言っていたことを思い出し、がっかりしながらも心をくすぐられるような気持ちになった。自分のことを斗音が考えてくれていることが、嬉しかった。
 
ただ、それからというもの、学校に出てくるたびにやつれていく斗音は痛ましかった。彼は何も話そうとせず、時間の許す限り瓜生の隣にいた。細い身体を抱き締めると、時折その腕の中で涙ぐんでいるのが分かった。
 メールは十一月が終わる頃に来なくなった。どれだけ階段で待っても、斗音は現れなかった。休むという連絡すらできないほど参っているのだろうかと、不安になった。それでも瓜生は、一週間待ち続けた。今日は来るかもしれない、明日は来るかもしれない、と思いながら。ただただ、斗音を想いながら。
 彼が学校に来なくなって二週間目に入ったとき、たまらず瓜生は斗音の携帯を鳴らした。不安は瓜生の耐えられる限界を超えていた。
 放課後、暗くなった階段で、瓜生は散々躊躇ってから登録された番号を選び、通話ボタンを押した。何度も繰り返されるコールに、出て欲しい気持ちと出たらなんと声をかけようかと激しく迷う気持ちが入り混じって、呼吸すら苦しく感じた。
 あまりに長いコールに、瓜生が諦めて携帯を切ろうとしたとき、「呼び出し中」が「通話中」に変わった。
『・・・・・・もしもし』
 驚くほど擦れた、力ない声が鼓膜を震わせた。色々考えていたこと全てが、頭の中から吹き飛んだ。
「お前・・・・・・どうした、その声・・・・・・」
 胸にわだかまり続けていた不安が心臓を破裂させんばかりに締め付けた、そのとき。
『・・・あなたには、関係、ない』
「な・・・?」
 思わぬ言葉に我が耳を疑った。弱々しい声は、何もかも諦めたように、まるで全てを放棄するかのように続けた。
『・・・・・・もう・・・・・・俺に、構わないでください・・・・・・』
 冷たい針が心臓に突き刺さったようだった。暗い声が不吉なものを瓜生に感じさせていた。
「お前・・・・・・あいつに・・・・・・?また、何かされたのか?」
 脳裏をよぎる不吉な考えを、口にせざるを得なかった。問い質す気などなかったけれど、何とかしてやらなければ、と強く思った。しかし、暗かった声は、不意に笑ったのだ。
『ふふっ・・・・・・今更そんなの・・・どうでもいい』
 激しい違和感。何がどう、とは言えない。全てが自分の知る斗音のものに当てはまらなかった。
『・・・・・・ねえ、瓜生さん。・・・・・・まだ、あの階段にいるんですか?』
 笑いを含んだ声だった。それが微かに震えているように思えた。思い過ごし、だっただろうか。
『もう・・・・・・そこにいる必要、ありませんよ』
 くすくす、と。擦れた笑い。冷たいものに心臓をつかまれながら、かろうじて返した。
「・・・・・・どういうことだ」
 返ってきたのは、信じ難い言葉だった。
『俺・・・・・・もう、二度とそこへは行きませんから』
 握り潰された心臓から、冷たい血が全身に駆け巡った。そんなことを言うはずがない。斗音がそんなことを言うはずがない。心がそう叫んだ。でも、その声を認識した冷徹な脳が己を嘲笑った。馬鹿な男だ。華奢でか弱い外見に騙されて、いいように利用されて、こうして裏切られたのだ。現実を見ろ、と。
 そうじゃない。きっと斗音はあの得体の知れない男に酷いことをされたのだ。救ってやらなければ。心の訴える声を、瓜生は押し殺した。
「・・・・・・分かった」
 冷たい声は、冷たく静かな空間の空気を揺らした。そのまま強くボタンを押して通話を切った。とにかくそれ以上、斗音に喋らせたくなかった。それが斗音の本音であろうがなかろうが、あの斗音がその言葉を口にすることで、自身を傷つけないはずがなかった。
 とはいえ、その時の自分の言葉を、瓜生は何度後悔したことか。斗音にあの冷たい言葉を浴びせ、どんな思いをさせてしまっただろう。自分に心を開き、ただ痛みを堪えながら頼ってくれた斗音を、突き放した。そう思うと、己に嫌気が差して仕方なかった。
 ギプスが外れ、自由になった右手で、ポケットから携帯を取り出して強く握る。もう一度、斗音と連絡を取りたいと思った。でも、あの時の彼の言葉をもう一度浴びる勇気がなかった。何度も思い立っては何度も思い直し、結局躊躇って今に至る。あれだけ頑張ろうと決めた勉強にも身が入らなかったし、授業に出ていても何も頭に入って来なかった。そうしてまた保健室に逃げ込んできたのだ。
「何も変わってねえじゃねえか。俺は、逃げてばかりだ」
 会いたいと思った。そして、もう何の枷もないこの両腕で、力一杯抱き締めたい。そうすれば、きっと解る。彼が平気であんな言葉を言ったのではないということが。
(でも、あの男がどう出るか。・・・・・・それに・・・・・・きっとあいつを・・・苦しめる・・・・・・)
 それは確信に近かった。斗音は本当に構って欲しくないのだ。先ほど自分が、一人になりたかったように。いや、それ以上に強くそう望んでいる。
(・・・・・・椎名・・・・・・!)
 ドン、と鈍い音が保健室の空気を揺らし、瞬間的に加わった衝撃に、ベッドの足が抗議するように軋んだ。

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