十字架の絆

一.椎名兄弟

 二人が一緒にいて、話題がなくなったりすると必ず言われる台詞があった。
「ほんと似てないね、おまえら」
 自分たちでもそんなことは十分承知だから、言われる度に顔を見合わせて、またかと苦笑した。
「しかも兄弟逆転だから」
 なんて、ちょっぴりハスキーな声で自分から茶化すのは、双子の兄である、斗音(とおん)の方だ。身長が173cmで、フランス人だった母の面影を色濃く受け継いだ、全体的に色素が薄く、華奢な印象を与える風貌の綺麗な少年である。
 
隣で口数少なく微笑むのが、弟の慈恩(じおん)。180cmというすらりとした体躯で、小さいころから剣道で鍛え上げている筋肉質な胸には、いつもクロスのペンダントが密かに揺れていた。漆黒の髪や瞳は凛々しい顔立ちを更に引き立てている。どちらも、何事にも秀でているという点では類似しているのだが、二卵性双生児とはいえ、その外見はあまりにも似ていなかった。
「斗音はいかにもハーフって感じだけど、慈恩は日本の若武者っぽいもんなあ」
「二卵性って、普通の兄弟くらいしか似てなくて当然っていうけど、普通の兄弟でももう少し似てるよな」
「二人とも美形ってところは共通してんだけど」
 「美形」のところは「頭脳派」など、大概褒める言葉が続いたが、その辺りは、二人の人柄の成せるところだろう。とにかく、好き勝手なことを言う周りにも十七年間ですっかり慣れた。似てない双子・椎名斗音、椎名慈恩は、高校二年生になったばかりである。

   ***

 如月高校、全国でも屈指の名門進学校で、公立の中では更に三本の指に入る。今時ブレザーの多い高校の制服の中で、漆黒に合わせがグレーのラインの伝統的な学生服は、街行く人の憧れの対象だった。斗音はその学生服に身を包み、黒のスクールバッグを肩にかけて、電車の扉近くにもたれかかっていた。そして、傍らで胴着や竹刀の入った大荷物を軽々と肩にかけ、同じ制服の慈恩が手すりにつかまって、窓越しに過ぎ行く桜の景色を見るともなしに眺めている。斗音がふと口を開く。
「・・・・・・」
「?何か言った?」
 慈恩に聞き返されて、騒がしい電車の音に掻き消されないように、斗音は声を強めた。
「俺、生徒会の副会長やらないかって言われたんだけど」
「・・・・・・誰に?」
「伊藤先生。と、この前の会長選挙で当選した今井先輩」
 今まで斗音が何か役をやっていなかったという記憶が、慈恩にはない。ちなみに慈恩の記憶力はやはり人並みはずれて優れているので、その辺は確かである。
「やるんだろ?」
「やろうかと思ってるんだけど。今井先輩なら信用できるし、あの人のもとで働くのは悪くないかなって。どうせ何か委員会には入らなきゃいけないんだろうし、だったら下手に誰だかわかんないような人を仰ぐよりはいいと思って。でさ、相談」
「俺に?」
「執行部、入らない?」
 にこりと斗音が笑う。電車の窓越しとはいえ、夕日の残す最後の光に、その笑顔の映えること映えること。慈恩は眉をしかめて額に手をやった。
「俺がか?」
 天使の笑顔で悪魔の誘いである。
「だって、一緒にやれたら、執行部活気付くと思うし。どうせなら仕事できる人間がいいだろ」
「でも、そういうのって先生の思い入れとかもあるんだろ。やらせたい奴とか、決まってんじゃないのか?」
「まだ副会長だけって言ってた。それに、慈恩がやりたいって言ったら百発百中、先生大喜びだと思うよ。なんだかんだ言っても、慈恩いろいろ今までやってきてるし。第一、有能だから」
 斗音が自分から買って出る人間なら、慈恩は頼まれて断れずにやる羽目になるタイプだった。できないわけではないが、斗音ほどのリーダーシップがあると思っていなかったので、特にやりたいとも思わなかった。そんな慈恩に、教師側は、リーダーとして力をつけさせようとすることが多かったのだが、慈恩には己に与えている使命があって・・・それ以上のものは、今のところなかったのだ。
「執行部って、大変じゃないのか?」
「まあ、その辺の委員よりはよっぽど仕事あると思うけど」
「俺はともかく・・・あんまり無理すると、また酷くなるぞ」
「平気だって。最近比較的安定してるじゃん」
 自信ありげに、笑顔でうなずいてみせる。斗音の顔にはやる気満々と書いてある。
「・・・・・・・・・・・・そうだな」
 
慈恩はしばしの沈黙の後、真剣な表情を和らげた。
「・・・・・・やろうか、執行部・・・」
 ぱっと斗音の顔が明るくなる。それを見て、慈恩は仕方ないな、という顔で苦笑した。

 二人とも部活にも熱心なので、春とはいえ、家につくころには辺りはすっかり暗くなっている。都心に、遠慮しても小さいとは言えない家。そこには二人が帰ったことで初めて明かりが灯る。
「早くシャワー浴びて、汗流してこいよ。また風邪でも拾ったら大変だぞ」
 慈恩の声に、斗音がありがと、と返して浴室へと向かう。慈恩はさっさと荷物を置くと、干してあった洗濯物を取り入れにかかる。更に手早くたたんで自分のものと斗音のものに分け、次は夕食の準備に取り掛かる。ほぼ下ごしらえが終わったところで、斗音が出てきた。綺麗にたたまれた洗濯物に、大きい目を更に大きくする。
「あっ、またたたむところまでやっちゃったの?それ、俺の仕事なのに」
「俺は有能なんだろ。そんなこと気にしてる暇があったら、早く髪乾かせよ」
「うん、ごめん、ありがと」
 慈恩が浴室に向かうところで、ぶぉーん、とドライヤーの音が聞こえてきた。
 椎名家に両親はいない。二人がまだ十一歳だった時、喘息もちだった母が風邪をこじらせて、肺炎を併発してあっけなくこの世を去ってしまった。フランスから日本に留学してきて、比較的名のある家出身で外交官の卵だった父と知り合い、親類の反対を押し切って結婚した母だったが、空気の綺麗なフランスの田舎に近いところから東京に出てきたことで、もともと虚弱だった体質は慢性的な喘息を患っていた。また、結婚のことで家から勘当を言い渡された代わりに、外交官としては名を馳せた父だったが、母を失ってからますます仕事にのめりこみ、くも膜下出血で倒れ、そのまま戻らぬ人となってしまった。二人が如月高校に合格した直後だった。
 仕事に成功していた父のおかげで、大きな家や遺産は残ったが、親類の言葉を聞かずに、外国籍だった母と結婚した父親のことを、快く思わない親類一同は、斗音と慈恩を引き取ろうとしなかった。斗音はあれだけ反対した外国人の血をはっきりと感じさせていたし、双子でありながら斗音とまるで似ていない慈恩に対しても、いぶかしむ者が多く、疎まれていたのだ。更に言えば、二人ともどの家の子供よりも優れていたので、避けられた部分も、少なからずあった。
 しかし、二人は全くそのことを意に介さず、逆に自由がきく生活が保障されたことを喜んだくらいだった。疎ましがられながら人の世話になるのは、斗音も慈恩も好まなかったのだ。まして二人とも母を早くに亡くしたことで、生活力もあり、大して困りもしなかったのだ。難しい書類や契約書なんかも、父が留守の間に何度もやっているので、何の障害にもならなかった。こうして、広い家での二人暮らしが始まった。

   ***

「お前、執行部やることにしたのか?・・・・・・本気か?・・・・・・でも、部活はちゃんと出ろよ。お前なしでは、俺たちが全国を目指すのが十パーセントくらい困難になる」
 慈恩が、自分が執行部に入ることを、真っ先に剣道部部長に告げると、なかなか頼もしい答えが返って来た。
 
剣道部の部長は、部の中で唯一、全国区の実力の持ち主である慈恩といい勝負をすることができる人物だった。去年のインターハイでは、三年生を差し置いて、慈恩と団体戦、個人戦ともに出場している。それこそ竹を割ったような性格で、いつも豪快で自信ありげな彼は、恐れられてはいたものの、部員からの信頼も一応厚かった。
「俺がいなくても、近藤さんがいれば絶対勝てると思いますけど」
 慈恩の言葉に、部長はからからと笑った。
「個人戦ならな。でも、団体戦は俺だけ勝っても負けちまう。お前が副将にいりゃ、俺は気苦労しなくて済むだろう」
 自分と近藤さんが勝ってもあとが勝てなければ負けますけど、と口に出すほど、慈恩は軽はずみではない。微笑して見せた。
「わかってます。部活にはなるべく支障を来たさないようにしますから」
「それなら思う存分、執行部でも頑張れ。それくらいのリーダー性も、次期部長としては持ち合わせてもらわなきゃならんからな」
 脈絡のない唐突な話に、慈恩が目をしばたたく。
「何ですか、その次期部長って」
 
聞いてない、という前に現部長は肩をすくめて、慈恩の言いたい言葉をさえぎった。
「お前以外、誰がやるんだ」
「如月に入ってる人物だったら、大概誰でも優秀だし、リーダー性の一つや二つ、持ち合わせてると思いますけど」
 ささやかな反論は、あっけなく次の言葉で片付けられてしまった。
「従えるには、強さも必要なんだ」
 あっけなく、執行部の激務とともに、慈恩は剣道部次期部長も約束させられたのであった。
 一方、斗音はというと。
「お前、生徒会副会長だってな。一年の時は前期級長後期執行部役員だったから、まあ妥当だな。実績と信頼度から言って、お前以外に二年で副が務まる奴いないだろ」
 男子バスケットボール部の中で、比較的仲のいいグループが斗音の周りに集まっている。慈恩を5㎝上回る長身を誇る羽澄翔一郎が、すっきりと整った顔をほころばせて言った言葉に、その中で唯一斗音と同じくらいの身長の、樋口瞬が頷く。
「執行部のこともよく知ってるしね。喘息で部活ができない時でも、悔しそうに練習見てる暇がなくなるんじゃない?」
 からかうように言ってみせるその笑顔は、斗音に負けない天使のそれである。瞬はドイツ人とのハーフで色が白く、やわらかそうな髪も長めで、父の再婚相手である継母にいつも気を遣われているという複雑な家庭環境に似合わない、その女の子顔負けの可愛らしさは校内でも有名である。
「あんまり無茶して、また慈恩を心配させんじゃねえぞ」
 瞬を小突きながら苦笑して見せたのは、淡い紫色の髪に端正な輪郭を縁取らせ、後ろでひとつにしているのが印象的な、校内一の美男子と噂の東雲嵐である。慈恩と同じクラスの嵐は、翔一郎よりやや斗音たちに視線の高さが近い。その三人に斗音を加えたこの集団は、傍目から見ても異様なほどの「出来過ぎ集団(Perfects)」だった。瞬以外はバスケットの腕も人並み外れて優れており、少々思考の歪んだ女子などに、おかしな妄想をさせるという特技も持ち合わせている。
「分かってるよ。でも、今できるチャンスがあるなら、やっぱやってみたいしさ」
 にこりと笑って応じる斗音に、嵐はわずかな笑いを表情から消した。
「・・・・・・いつできなくなるかわからない・・・・・・か?」
 残りの三人の表情が、一気に深刻さを漂わせる。が、すぐに斗音が笑みを取り戻した。
「まあ、ね」

 言ってから、嵐の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だって。俺、中学でバスケ始めてからかなり体力ついてきたし、発作もすごく減ったんだから。入院するほど酷かったのは、軟弱だった小学校の頃だけだって」
 ちょっと擦化音の混じる声・・・・・・いわゆるハスキーボイスも、斗音の魅力のひとつであるが、その声になる要因は斗音の持つ喘息にある。母親に似ているのは、姿形だけではなかった。
「それに、今回執行部に慈恩もいるから。心強いだろ?」
 斗音が嬉しそうに言うのを見て、三人は顔を見合わせた。
「慈恩が?あいつ執行部に入るのか?」
「斗音、慈恩にやってってねだったんじゃないの?」
 翔一郎と瞬が、たて続けに思い思いの言葉を口にする。瞬の言葉は全くの図星だったので、斗音は苦笑した。
「一緒にやって欲しいとは言った」
 嵐は少し遠い目をしてつぶやいた。
「・・・・・・ほんっと、あいつ苦労性だなあ・・・・・・」

 生徒会の認証式が終わってから、たちまち慈恩に言わせれば悪夢のような仕事量が、執行部に襲いかかってきた。
「新入生歓迎会と、組織でどんな取り組みをしていくのかだけは、今週中に決めないとなあ」

 放課後の部活に行く前に集まった生徒会室で、三人いた立候補者の中で全校の八十パーセントほどの票を獲得して会長の座を射止めた今井文弥(ふみや)は、大きく息をついた。

「今日が火曜日だから、それぞれ仕事を分担して、あさってには持ち寄って話し合おう。それが水曜日で、新入生歓迎会の内容を決定するだろ。プログラムを組んで、文書出して、進行表を作って、使うもの準備して、先生にも許可もらって・・・・・・再来週の金曜日には歓迎会が予定通りできるな。で、組織の構成は・・・・・・各委員会の今までの取り組みを合わせて、執行部中心にどんな学校づくりをしていくのかってところから始めなきゃな。まずは生徒会スローガンだけど、そのビジョンが見えてないとスローガンも立てられないからなあ。歓迎会にはスローガン出していかなきゃいけねえし。執行部のメンバー七人で何とかこなさなきゃなあ」
「前期は一年生がいないのが、痛いわね」
 紅一点となった三年生の伊佐治莉紗(りさ)が、ショートボブの髪をさらさらと揺らして首を振った。如月高校は、学級の代表となる級長は前期と後期で入れ替わるが、執行部は一年間同じメンバーで存続する。ただし、後期には一年生からもメンバーが加わることになるのだ。
 同じく三年生のメンバーである弓削清重(ゆげせいじゅう)と武知玄道(たけちげんどう)が、頼もしい後輩を見て笑い合う。弓削は比較的さっぱり顔の賢い好青年。武知は中学時代やんちゃな集団のボス的存在でならした経験がある、ちょっと強面の、そしてその顔を裏切らない柔道三段の全国区選手である。なぜかこの二人は中学時代からの親友である。

「とりあえず、やること書き出して、分担だけしましょう。部活行かなきゃいけないメンバーもいるし」
 にこりと斗音が笑って言うのに、莉紗も難しい顔を緩めた。
「さすが副会長ね。前向きでいいなあ」
「俺らは会長と副会長を徹底的にサポートする役だから、言われたとおりに考えるし、動けるぜ。うちは伝統的に二年が副会長だけど、椎名なら支える方もやりがいがあるってもんだ」
 武知がどすのきいた声で言ってにやりと笑う。弓削がくすっと笑って武知にツッコミを入れる。
「お前が言うと脅迫じみてるよ。それに、椎名は一人じゃない」
「そうね。じゃあ、副会長は斗音くんね」
 莉紗がよろしく、と手を出すのを、斗音はぎゅっと握って笑顔で返した。
「よろしくおねがいします」
 そして執行部の紅一点は、快活な笑顔をもう一人の椎名という姓を持つ二年生メンバーに向けた。
「そして、慈恩くん。私たちと一緒に今井くんと斗音くんを支えようね」
「・・・・・・はい」
 誠実そうな漆黒の瞳をまっすぐ莉紗に向け、慈恩は差し出された彼女の手を優しく握った。
「慈恩は大人っぽいな。下手すると今井より紳士だよな」
 弓削がくすくす笑った。今井が舌を出して見せる。
「ふん。別にそんなところで勝とうと思ってねえよ。俺は一応全校を動かすトップってところで手腕を発揮すりゃいいんだ」
「ガキみてえな言い方してんなよ、全校のトップが」
 武知のツッコミで三年連中は爆笑し、メンバーの雰囲気が一気に和んだ。そして、まだ笑いの収まらない中で、莉紗が女性らしい気遣いというのか、まだ会話に参加できていなかった最後のメンバー、二年生の藤堂大河にも手を差し出した。
「藤堂くんも、よろしくね」
 藤堂も大概みんなの前に出る役を買って出るタイプで、サッカー部では唯一二年生でレギュラーを獲得するような運動神経も持ち合わせている。スポーツマンらしい爽やかな笑みで、藤堂も莉紗の手を強く握った。
「こちらこそ、よろしくッス」
「それじゃ、まずはあさってまでの宿題を手分けしようか。ここには各部の期待選手も多いからな」
 今井が武知、慈恩、藤堂、そして斗音の順に目を向けて、にっと笑った。
「だろ、斗音」
「そうですね。じゃあ、二年生で新入生歓迎会のほうを担当しますから、大元の組織とスローガンをお願いできますか」
「そうしよう。じゃ、早速それぞれでやらなきゃいけねえこと、まとめようか」

   ***

「ちこーーーーく!!」
 部活に行くなり近藤に言われ、慈恩は静かに頭を下げた。
「すいません」
「いきなり約束破りやがって。罰として、全員と掛り稽古だ!!」
「はい」
 サボっていたわけではなくても、口ごたえひとつしない。近藤もそんなことは百も承知である。慈恩が防具をつけるのを待って、地獄の稽古が始まった。独特の掛け声が剣道場内に響き渡る。慈恩はあまり声を上げないが(そこが部長に言わせれば欠点なのだが)、一本一本確実に防ぎ、確実に相手に打ち込んでいく。普通は一人相手でも死にそうになるのだが、慈恩は部員二十三人全てと、休憩を一切挟まずにそれをこなした。当然誰よりも慈恩はレベルが高いのだが、掛かれと言われたからには掛からなければならない。そして最後は部長の近藤である。
「死んでも恨むなよ。その代わり、最後だけは俺が掛かる」
「お願いします」
 気合の入った掛け声とともに近藤の竹刀が慈恩に襲い掛かる。さすがの慈恩も、必死にそれを受ける。鬼のような気迫で打ち込んでくる近藤は、言葉どおり容赦がない。何本受けただろう、慈恩は自分の腕が上がらなくなってきたのを感じた。その瞬間、
「やああああっ!!」
 力いっぱい振り下ろされた竹刀を、必死で流す形に受け止めたが、流しきれずに慈恩の竹刀が弾き飛ばされた。とたん、喉元に突きがぴたりと突きつけられる。
「・・・・・・よく死ななかったな。褒めてやるよ」
「・・・・・・ありがとう、ございました」
 近藤は竹刀を引いて、場内に響き渡る声で全員に整列を命じた。

「お前、化け物だな。俺、お前一人とやっただけでかなりきつかったのに、二十人以上とやって、ラストに近藤先輩だろ。信じられねえ」
 二年生の田近が肩をすくめながら、汗だくの慈恩に声をかける。さすがの慈恩も、荒い呼吸が抑えられない。
「きつかった・・・・・・」
「そりゃそうだよな。シャワー、浴びてこいよ。また斗音を待たせるぞ」
「・・・・・・ああ・・・・・・でも、少し休んでからにさせてくれ」
「分かった。じゃあ、斗音見かけたらちょっと遅くなるかもって言っておくよ。お先」
「・・・ありがとう」
 
剣道着もそのままに、壁にぐったりと寄りかかって、慈恩は目を閉じた。
 
斗音はバスケ部の仲のいい連中と、ことごとく帰り道が異なるためか、よく慈恩を待っているのだ。慈恩はどちらかというと崇拝されることはあるが、親友といえるほどの仲間が剣道部にはいないので、決まった誰かと一緒に帰ったりすることはあまりない。だから、校門までは一緒に終わった剣道部の仲間と行って、そこで待っている斗音や、途中で別れることになるバスケ部の「出来過ぎ集団」と帰ることが多かった。「出来過ぎ集団」は慈恩のことも大好きなので、雑談をしながら慈恩を待っているのだ。ある理由から仕事を持っている嵐は忙しいらしく、先に帰っていることも多いのだが。
 身体が重くて、言うことをきかない。慈恩は急激に重くなる思考の中で、斗音が先に帰ることを願った。

「・・・・・・椎名。大丈夫か?」
 自分の名前を呼ばれたことに気づいて、慈恩はふと目を開ける。目の前には心配そうにのぞき込む近藤がいた。

「・・・・・・大丈夫・・・・・・ですけど、今何時ですか?」
 まだ全身に疲れは残っているが、意識はすぐにはっきりした。眠ってしまったと気づいて、慌てて壁の時計を見る。
「六時半くらいか?お前、風邪ひくぞ」
 すっかり着替え終わっている近藤が肩をすくめて、慈恩の腕を引いて身体をぐいっと起こした。剣道部で慈恩より背が高く、力が上回るのはこの部長だけである。技術で慈恩が上回るので、近藤はなかなか勝てないのだが。
「わ、剣道着もぐっしょりじゃねえか。全く・・・・・・馬鹿だな」
「・・・・・・どうしてここに?」
「部長が最後の見届けをするのは当たり前だろ。ロッカーにまだお前の荷物が置いたままだったから、来てみた。死んでねぇかと思って」
 そして、引き起こした際に首からのぞいた金属の光に、ちっと舌打ちをする。
「こんなちゃらちゃらしたもんつけてやってるからだ、この軟弱者が」
 苦笑いをしたものの、慈恩は悪気の一切感じられない漆黒の瞳を、近藤に向ける。
「・・・・・・これだけは失くせないので・・・・・・」
 近藤は肩をすくめた。
「分かってる。今のも言葉の弾みだ。お前がかっこつけてやってるとは思ってねえよ。いいから早くしろ」
「・・・・・・ありがとうございます。すぐに着替えます」
 一歩踏み出そうとして、言うことをきかない足がもつれそうになる。慌てて近藤が支えた。
「死んでないけど、死にそうだな、お前。これだけ汗かいてんだし、熱いシャワーちゃんと浴びて着替えろよ。お前が倒れたら大変なんだからな」
「・・・そのわりに、よく死ねとか言いますよね」
「言葉のあやだろ」
「わかってますけど。っと・・・・・・」
 支えられた態勢を立て直そうとして、またバランスを崩す。それを抱きとめた近藤は、思わずその腕に力を込めた。
「馬鹿だな、お前は。ほんとに馬鹿だ」
「・・・・・・すみません」
 連発される馬鹿に、近藤の心配してくれる気持ちを感じて、慈恩はそんな思いをさせてしまったことに対して素直に謝った。そんな慈恩に、近藤は眉根を寄せて短く溜息を吐き捨てる。
「俺はお前の兄貴よりお前のほうが大事だから、お前が兄貴のために黙々といろんなものを被ってるのがたまらねえよ。周りから見りゃ、あの兄貴はきらきらしてて、明るくて、まるで太陽だ。それに比べてお前は静かに光を湛える月だろう。けどな。あの太陽が輝けるのは、お前の存在があってこそだ。本来なら太陽こそが月を輝かせるものなのにな。そしてお前は、それを自覚してる。あいつを輝かせるために、精一杯自分を削ろうとする。どうしてだ。お前だって、太陽になれる素質がある存在なのに!」
 慈恩は意外なほど感情を高ぶらせて、思ってもみなかった言葉を口にする近藤に、困惑の表情を浮かべる。
「・・・・・・近藤さん・・・・・・」
 色々言いたいことはあった。近藤がそう思ってくれているということも、決して悪い気はしなかった。常にたくさんの人に囲まれる斗音の近くにいて、体の弱い斗音を常に心配し、気遣う人たちの中にいて、自分のことをここまで気にしている人物に出会ったことは、あまりなかった。今までに、自分の彼女という名目を肩書きにしていた女の子たちが、時折「斗音くんのことを心配する気持ちはわかるけど、慈恩は損してるんじゃない?」と言うことはあった。しかし、彼女らもやはり斗音のことが好きだったし、大事にしなければならないと当たり前のように思っていた。
「・・・・・・いつ発作が起こるかわからない。だから、今を必死に生きてる。そんなあいつを見てると、放っておけないんです。多分、斗音のことを知ってる人間なら、誰でもそういう気持ちになる。その中で、俺が一番あいつの近くにいる・・・・・・。ただ、それだけのことです」
 まだ納得できない顔をしている近藤の二の腕をそっと押しやって、慈恩は相手の目を見つめた。
「もう、大丈夫そうです」
 近藤は腕を引いて、視線を一度、磨かれた床面に落とした。
「馬鹿は死ななきゃ治らねえからな」
 皮肉めいた笑いを閃かせて、慈恩を見据える。

「だから、今度遅刻したら本気で半殺しにしてやる。覚えてろよ」
 慈恩は苦笑した。

「分かりました。・・・・・・覚悟してます」

   ***

「おかえり、慈恩!田近に遅くなるって聞いたから、先帰ってきたけど、ごめんね」
 灯りのついた家に入ったとたん、斗音がダッシュで出てきて、手にしたおたまを慈恩に振って見せた。
「今日は俺が夕飯作ってるから。先に風呂入ってきてくれる?」
 慈恩は軽く目を瞬かせた。
「えっ・・・・・・何を作ってるんだ?」
「ふふふ。できてからのおっ楽しみっ!あ、そうそう、風呂、慈恩が帰ってくるまでに冷めちゃいけないと思ってちょっと熱めにしちゃったけど、熱かったら水入れといて」
 斗音のハイテンションに押されて、慈恩は自分の部屋に向かいながら首をかしげる。正直、斗音が家事に向いているとは、お世辞にも言えない。料理を作れば、味見をしすぎて舌を麻痺させ、かなり味の濃厚なものを作り上げるし、揚げ物は中が煮えているかどうか不安で、なかなか油から取り出さずに焦がしてしまう。風呂も湯加減をみすぎて神経を麻痺させ、かなり熱い風呂を入れる。掃除機をかければ丁寧すぎて、広い家全てを綺麗にするのに一日かかってしまうし、洗濯をすれば汚れが落ちるようにと洗剤を入れすぎ、すすぎが大変になる。要は、自分の不器用さをよく知っているがため、必要以上に心配性になり、それが失敗につながってしまうのである。だから斗音は、あまり家事を積極的にしたがらないのだ。
(とりあえず、遅くなってる分、やってくれるのはありがたいんだけど・・・・・・)
 着替えを持って風呂場に行くと、脱衣室のドアを開けた時点で既に湯気が立ち込めていて、熱すぎる湯を想像するのは容易かった。
(・・・・・・あいつ、まだ風呂に入ってないのか。今日は部活にほとんど顔も出せてないはずだから、風邪をひいたりすることはないかな)
 浴室のガラス戸を開けると、中が真っ白な水蒸気に満たされていて、浴槽すら見えなかった。そっと中の湯加減をみようと、湯に触れてみるが。
(あっつっ!!!)
 瞬時に手を引いて、慈恩はどきどきしながら熱かった右手を、左手で包み込んだ。

(・・・・・・・・・・・・有り得ねえ、この熱さ・・・・・・)
 さっそく湯船に水を足しながら、その水に右手を浸す慈恩であった。

 かなり熱めの風呂から上がった慈恩は、心臓がバクバクするのを感じながら、ビーフシチューの香り漂う台所をのぞいた。
「斗音、上がったけど・・・・・・何か手伝おうか?」
 斗音は振り返り、にこりと笑って見せた。
「大丈夫。もう出来上がるから。あ、やっぱ熱かった?」
「ちょっとな。じゃ、皿出そうか」
 言って、シチュー皿を取り出すと、斗音は目をぱちくりさせた。
「何でシチューって分かった?」
「分からないわけないだろ。換気扇も回さずにそれだけ煮詰めれば」

「あっ、しまった。あんまり気にしてなかった。でも、今日は味はばっちりなはず!さ、飯にしよ」
(味、は?)

 ご飯を茶碗に、シチューをシチュー皿によそう斗音の横で、慈恩は神業的な速さで大根の明太子サラダを作り、一品追加した。
「うそ、はやっ!しかもすげーうまそう。よし、かんぜーい!いただきますっ」
「いただきます」
 斗音は一番にサラダに手をつけて、口に入れるなり絶賛した。
「美味い。慈恩天才」
 慈恩は苦笑しながらシチューをスプーンでゆっくり口に運んだ。
「・・・・・・・・・・・・」
 斗音はそれをじっと見て、評価が下されるのを待っている。慈恩はよく味わってから、微笑んだ。
「・・・・・・うん、美味しい。お前にしちゃ上出来」
 斗音の顔がぱっと明るくなる。
「だろ?!やった、良かった。今回はさ、ルーの裏に書いてある通りにちゃんと作ったから」
「なるほど。飯もちゃんと炊けてるし」
 ちょっとやわらかいけど、とは口に出しては言わなかった。ついでに、書いてある通りに作ったのだろうが、ジャガイモやにんじんがかなり小さめで、ほぼ形を成していないということにも、敢えて触れなかった。それを含めても、斗音にしては上出来だったのだ。大体、ルーを使って作る料理で、失敗も何もなさそうだが、それでも斗音は水を入れすぎたり、逆に入れなさすぎたり、具を焦がしたりするのである。
 斗音も自分でシチューを食べてみて、うん、美味しい、とうなずいた後、ポツリとつぶやく。
「でも、歯ごたえのないシチューだな・・・・・・」
「じっくり煮た証拠だよ」
 さりげなく慈恩がフォローしたが、斗音は首をかしげる。
「でも、慈恩が作るのは、もっと食べてる感じがする・・・・・・ご飯もちょっとやらかい?」
「たまにはいいよ」
 優しい慈恩である。それでもしゅんとした斗音を横目に、一気にシチューを掻き込んで言った。
「もう一杯、もらうよ。俺、今日は体力使い果たしてきたから腹減ってるんだ」
 斗音が寂しそうな顔を一瞬で輝かせる。
「あ、俺つける!」
 皿を受け取り、嬉しそうにお代わりをつける斗音を見ながら、慈恩も微笑した。

 時刻は九時を過ぎ、慈恩が明日のための宿題を始めた頃、斗音が風呂から上がり、髪を拭きながら慈恩のいる居間に入ってきた。
「ねえ、慈恩。風呂、かなり熱かったんじゃない?」
 濡れた前髪がなかなか色っぽい斗音を見ながら、慈恩が首をかしげる。
「どうして」
「だって、慈恩が入ったの二時間くらい前だろ。なのに、それでも熱いくらいだった」
「・・・・・・まあ、ちょっと熱かった・・・・・・かな・・・・・・」
 ごまかしながら慈恩は物理の問題に目を向ける。
「慈恩」
 咎めるような声色が頭上から降ってきた。ごまかすのはまずかったか、と声の降ってきた方を見上げた途端、ひやりと濡れた髪が頬にこすりつけられた。その髪に、やれやれ、と大きな手を載せる。
「・・・・・・重いぞ」
「ごめん。俺、何でそんなにドジなんだろ。ほんとごめん」
 首にぎゅっとしがみついてくる斗音は、本当に憎めない。わしゃわしゃと濡れた髪を乱して、慈恩は苦笑した。
「いいよそんなことは。全く、学校では完全無欠の兄貴なのにな。ほら、早く髪乾かさないと」
「誰が完全無欠だって?」
 慈恩から離れて、斗音は乱された髪をタオルでかきあげながら、口を尖らせる。
「お前だよ。如月で生徒会副会長の肩書きが背負える人間って、そういないだろ。バスケはうまいし成績はいいし、ルックスもいい、性格も明るい。全く非の打ち所がないだろ」
 立て板に水ですらすらと言葉が出てくる慈恩に、斗音は肩をすくめた。
「おまけに喘息持ちで家事は全く駄目と来た。それに比べて生徒会執行部役員の肩書き背負って、剣道は全国区、成績もトップクラス、ルックスも申し分なく、落ち着いて大人。家事は天才的で健康体」
 唖然としている慈恩の額を、軽く指で弾いた。
「いて」
「完全無欠ってのは、慈恩だろ。自覚してないな、お前」
「・・・・・・・・・・・・」
「考えたこともなかった、って顔してる」
 斗音はくすくすと笑いながら、ドライヤーの熱風を髪に当て始めた。
「俺なんかより、ずっと慈恩の方がすごい人間だよ」
「・・・・・・・・・・・・・」

 本気で考えたことがなかったので、慈恩は言葉も出ない。自分の中では有り得なかった。自分にとって、常に一番にしてきたのが斗音だったのだから。その斗音にそんなふうに言われるとは、全く思ってもみなかった。
 
斗音がドライヤーで髪を乾かし始めても何も言えないので、途中にしていた物理の問題を考えようとしたが、さっぱり頭に入らない。しばらくしかめっ面をしていたが、諦めて溜息をつき、がしがしとハリのある黒髪を掻き回した。
「どうしたの。さっきから進んでない」
 いつの間にやらドライヤーの騒音がやんでおり、麗しい兄が慈恩のノートをのぞき込んでいた。
「俺も宿題やろっと。執行部で考えなきゃいけないこともあるし」
 自分の部屋からパタパタと色々抱えて居間に戻ってきた。自分の部屋でやることもあるのだが、文系の斗音と理系の慈恩は互いに得意な分野を教え合えるという利点もあるので、居間で額をつき合わせて勉強することも多い。ソファに座ると机が低すぎるので、慈恩の隣で絨毯にあぐらをかく。
「慈恩、物理得意だろ?そんなに難しいの、それ」
 のぞきこんでくる斗音に、苦笑して見せた。
「いや、集中できなかっただけ」
「なあんだ」
 言いながら斗音も数学を広げる。
「授業中解けなかったのが一問あってさ、慈恩に聞こうと思ってたんだ」
 どれだっけ、といいながら教科書をめくる。慈恩はふと口を開いた。
「今日、部長に、似たようなこと言われた」
「え?数学?」

 唐突な慈恩の言葉に、斗音がとんちんかんな反応を返す。
「いや、そうじゃなくて・・・・・・」
「ああ、完全無欠だって?」
 素早く頭を切り替えられるところは、さすがである。
「うん。その時も、意外なこと言う人がいると思った。・・・・・・俺にとっては、いつもお前が一番ってのがあったからさ。だから、考えてた・・・・・・。家で見せるお前の人間らしさは、俺にしか分からない・・・・・・」
 慈恩が何を言いたいのかよく分からない斗音は、きょとんとしている。
「だから・・・・・・周りは完全無欠なお前を見てお前を好きになるし、俺はその人間らしさ含めて・・・・・・お前の魅力だと思う。逆に、お前らしさが見られる俺は、みんなが知らないお前の魅力を知ってると思う」
「・・・・・・慈恩?」
 慈恩は苦笑した。自分の言っていることが、とりとめもなくて、まとまりもなくて、その上面と向かって言うには結構躊躇うような内容だということに気づいたのだ。
「つまり・・・・・・近藤さんはお前の一番人間らしい魅力を知らないし、お前もそれに気づいてない。それで俺は周り以上にお前のいいところ知ってるってことだよ」
 斗音は訝しげに慈恩を見つめていたが、その意図を理解してか、嬉しそうに微笑んだ。

「だから、自分より俺の方がいいって言ってくれるの?俺のドジなところ、フォローしてくれてるんだ?慈恩、優しいなあ」
 照れながら、でも開けっぴろげにこんな表情を見せられる斗音が、羨ましいと思う。自分には決してできないことだ。
「ありがと。そんな慈恩が、俺の中では一番だよ」
 天使の笑顔でそんなことを言ってもらえるのは、世界で慈恩だけだろう。誰もが憧れる、きらきら輝いている斗音。
(ある意味、俺は幸せ者なのかもしれないな)

 慈恩は小さく微笑んだ。

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ニ.黒髪の美人

 いつしか、若葉が濃い緑に変わり始める季節になっていた。緑の少ない都会とはいえ、その季節が暑さを運んでくれば、いやでも夏が近づいてきていることは分かる。梅雨に入れば蒸し暑いのだが、まだからりと爽やかな日々が続いていた。
 如月高校はひとまず新入生歓迎会も終え、二ヵ月後のインターハイに向けて部活動が活発になっていた。
「あっ、ごめん!」
 運動場の一角にあるテニスコートから、大きく黄色いボールが跳ね上がり、アスファルトでもう一度派手にバウンドして、学校の敷地から飛び出していった。
「しまったー・・・・・・」
 眩しげにボールを目で追った部員の一人が、後方を振り返る。
「おい一年、ボール取ってきてくれ」
「はいっ」
 目線の合った一人が、元気に返事をする。
「悪い、三村」
「いいです、稲垣先輩。ところで、どっちに行きました?ボール」
「ごめん、駐車場越えて道路まで行っちまったかも」
「わかりました」
 言われたとおりに道路まで出てボールを捜す一年生テニス部員だったが、これがなかなか見つからない。
「ちくしょ、どこだよ?」
ややイラッとしながら吐き捨てた彼に、しなやかな白い手が静かに、探しものを差し出した。
「もしかして、これをお探しじゃなくて?」
 驚いて三村がその白い指の持ち主に目を向けると、艶やかな長い黒髪を下の方だけ巻いた、黒い瞳の印象的な女性が一人、にこりと微笑んでいた。
「え、あ、ありがとうございますっ!!」
 あわてて受け取った少年がぺこりと頭を下げる。
「いいえ、どういたしまして。部活動がとても盛んなのね、ここは」
 感心したような物言いに、如月の一生徒としてプライドをくすぐられた少年は嬉しそうにうなずいた。
「はい!文武両道がうちの学校のモットーなんです。特に武道系は去年も全国に行ってるらしくて」
 女性は美しく微笑んで、そうなの、と返す。
「武道場はどちらのほうかしら?」
「あー、体育館の西に建ってる二階建ての建物で・・・・・・」
 ほら、あそこに見える建物です、と指をさす。その時、テニスコートの方から彼を呼ぶ声が聞こえた。
「あ、いけない、戻らねえと。あの、ボールありがとうございました!」
「いいえ。頑張ってくださいね」
「はいっ、ありがとうございます」
 大急ぎでコートまで駆け戻った三村が、先輩に小突かれる。
「おい、誰だよあの美人」
「へっ?あ、見てたんですか。いや、よく知らないっすけど、美人でしたね」
「なんだあ、知り合いじゃねえのか。あんな美人が拾ってくれてたと知ってりゃ、俺行ってもよかったなあ」
「よく言った、稲垣。次ボール出たら、お前取りに行けよ」
「え、あの美人がいなきゃ行く意味ないッスよ」
「一年が入ってくるつい最近まで、お前らが拾ってたんだろうが。既に先輩面が定着してやがる上に、えらく都合がいい奴だな」
 テニスコートの片隅でささやかな笑いが起きているのを、遠くから眺めながら、噂の女性はくるりと方向を変え、体育館の西に向かって姿を消した。

   ***

「え?黒髪の美人?」
 昼休みの時間である。購買で買った焼きそばパンの袋をもてあそびながら、慈恩が聞き返す。
「うん。昨日あれから武道場の方に行っちゃってさ。俺も近くで見たかったなーと思って。見かけなかった?」
 前日の練習で、テニスコートからホームランをかっ飛ばしたらしいクラスメイトが、軽く肩をすくめて言うのに、慈恩はふむ、と首をかしげる。
「稲垣、ひとつ聞いていいか?」
「何?」
「何で遠いのに、美人って分かるんだ?」
 質問というよりはツッコミに近いものがあったが、稲垣は同じく購買で買ったハムカツサンドを頬張りながら、ウーロン茶でそれを一気に押し流した。
「何でって、もうオーラが出てんだよ。お嬢様って言うか、いいとこの人だなっていうのは一発で分かるし、上品な感じとか、長くてきれいそうな髪とか、優しそうな感じとか、全てが美人って感じなんだ」
「・・・・・・お前、フィーリングで物しゃべってて、長島とかあだ名つけられなかった?」
「もう、慈恩。ツッコミ入れてる場合じゃねえって。さっきから論点ずれまくりじゃねえか。とにかくだ。雰囲気まで美人をまとってる女の人がいたんだ。間近で見た後輩も美人だったって言ってたんだから、間違いないって。で、その人が武道場の方に行ったの。で、お前見かけなかった?」

 うーん、と首をかしげながら、慈恩はペットボトルのお茶を一口飲んだ。
「全然知らないな」
 大体よそ見なんかしたら部長に殺される、と言って笑う。
「なんだー、そっかー。残念。しかし、お前クールだね。ふつー美人がいたって聞いたらもうちょっと興味示さねえ?」
「見たことのない美人なんて絵に描いた餅と一緒だろ」

「そうか。やっぱ見なきゃあの雰囲気は伝わんねーよな」
「そうだな。少なくともお前のフィーリングは伝わってこなかった」
 くすくす笑う慈恩に、稲垣はふくれっ面になる。
「お前、俺苛めて楽しい?」
「苛めてるつもりはないよ」
「じゃあ何だよ、全く。人の話ろくに聞きもしねえで」

「聞いてるって。ただからかってるだけ」
「お前ねー」
「おまたせ、慈恩。って、稲垣がここにいるのは珍しいな」
 後からやってきた嵐が窓際の椅子に座る。昼食時は誰の席も関係なくなっていた。
「遅かったな。購買混んでた?」
 慈恩がペットボトルのふたを再び開けながら微笑する。
「混んでたは混んでたけど、それ以上に女子に付きまとわれて」
 なるほど、と慈恩は苦笑し、稲垣が肩をすくめた。
「さすが東雲。モテる男は言うことが違うなぁ」

「ま、そうだな。ところで、俺、今慈恩が楽しそうに笑ってるのを目撃した気がしたんだけど、何話してたんだ?」
 さらりと流してしまう辺りがさすがである。
「稲垣からかってたんだ」
「あのなあ」
「なんだ、そうか」
「東雲まで乗るなよ。俺は真剣に黒髪の美人の話をしてたんだ」
 買ってきたお茶のペットボトルを開け、嵐は一口飲んだ。
「へえ。で、慈恩に軽くかわされたわけだ」
「かわされたっていうか、まあ、知らないってあっさり片付けられたって言うか」
「聞く相手が間違ってるよ、お前。慈恩は女に不自由してねえもん」
 慈恩がもてあそんでいた焼きそばパンの袋を破りながら、肩をすくめる。

「嵐、語弊がある」
 稲垣が驚いて、飲んでいたウーロン茶を気管に入れ、思わず咳き込む。咳き込みながら慈恩を凝視する。
「え、お前、彼女いるのっ!?」
「ほらみろ」
 嵐はおかしそうに笑って、自分の買ってきたたらこおにぎりを包装から取り出す。
「今はいねえよな」
「そうだな」

 稲垣は訝しげに眉間にしわを寄せる。
「不自由してないって?」
 たらこおにぎりをかじりながら、嵐が意味ありげに慈恩を見る。
「それ以上に大事なものがあるってとこ?」
 慈恩は苦笑した。嵐はかなりの切れ者である。おまけに洞察力も半端ではない。彼への隠し事は、隠そうと努力するだけ無駄なのだ。
「今は・・・・・・そうかもな」
「何だよそれ。剣道?」
 興味津々に覗き込んでくるクラスメイトに、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「違うって言ったら殺されるから、そういうことにしとくよ」
 嵐も笑いながらうなずいた。
「近藤さんの口癖は『死ね』『殺す』だもんなあ」
 二人の間に、自分にだけ伏せられた暗黙の了解があることは、稲垣にもよく分かったし、それを探ろうとしても二人にはかわされるだけだということも、普段からの言動でよく分かっていた。
「まあいいや。もし今度その黒髪の美人見かけたら、教えてくれよな」
 自分の出したごみをくしゃっと丸めると、稲垣は、じゃ、と言ってテニス部の仲間の方へ向かった。その後ろ姿を見送ってから、改めて嵐は慈恩を見つめた。
「何だよ、黒髪の美人って」

 焼きそばパンを飲み込んでから、慈恩が答える。

「昨日の部活の時間に、美人のオーラをまとった人が武道場の方に来たらしい」
「ふうん・・・・・・美人のオーラねえ・・・・・・。ま、斗音一筋のお前には関係ねえか」
 流し目を受け止めて、慈恩はまたもや苦笑いである。
「微妙だな。一筋って、まるで俺が斗音に恋してるみたいだろ」
「近くないか?」
 しれっとした顔で嵐は小さくなったおにぎりを口に放り込む。
「どの辺が?」
「んー?」
 嵐は残りのものを飲み込んで、お茶を喉に流し込む。
「だってすっごく大事にしてるだろ?」
「そりゃしてるけど、でもそれはお前らだって・・・・・・」
「いくら喘息が心配だからって、そこまでなかなかできねえよ。それこそ、兄弟逆転のポイントはそこだと思うけどな。可愛い弟を溺愛するお兄ちゃんって感じだ。しかもその弟は、性格も外見も含めて本当に可愛いからな」
 お前くらい近くにいたら、俺も好きになるかも、と言って笑う。
「あいにくもう手一杯だけどな」
 そんなことをあっさりと言えるところが、嵐のかっこいいところなのだろう、と慈恩は思う。嵐には命に代えてもいいと思えるほどの相手がいる。まだ高校一年の頃に出会った相手で、年上だということらしいが、関東一帯を占めている暴走族にいるのだと言うから、なかなかハードな世界である。この嵐が心底尊敬し、敬愛していると言うのだから、人間的に間違った人ではないのだろう。
「お前の斗音への関わり方は、俺が滝さんを大切にしたいと思ってとるような行動に似てる」
 説得力のある嵐にそう言われると、慈恩も思わず考えてしまう。
「・・・・・・過保護過ぎるかな?」
「いや、そういう問題じゃないだろ。お前ね。多少なりとも彼女いたことあるんだったら、恋愛対象に対する想いとか行動とか、自分で経験してるだろ。お前の愛情は過保護か?」
「・・・・・・どうかな。しっかりした子が多かったから・・・・・・」
 嵐は苦笑した。
「天然ボケなのか、確信犯なのか。お前、曲者だな」
「天然ボケ?それも初めて言われたな」
 ゆっくり焼きそばパンを消費しながら、真面目に考えている。
(そういや自分の事には鈍感なんだ、こいつは)
 クスクスと嵐が淡紫色の髪を揺らす。
「何、俺、笑えるようなこと言った?」
「まあね。なんにしろ俺はお前が好きだよ、慈恩。お前はいい奴だ」
(自分が大切に思う相手を、自分が犠牲を払って守れるんだから。その上自分が犠牲になってるとかそんなこと、思いもしねえんだから)

 そんな友人をもてたという喜びが不意に胸にあふれ、嵐はごく自然に笑みをこぼす。
ふわりと微笑む嵐は、それはもう綺麗で、慈恩は一瞬見とれた。さすが、校内一の美貌だな、と思う。
「・・・・・・変な奴」
 言って慈恩も微笑んだ。
「さて、生徒会室に行くか・・・・・・」
 ゆっくりと立ち上がると、嵐がえびマヨネーズおにぎりを開けながらにっと笑って見せた。
「執行部も大変だな。如月祭の有志の件、決まったのか?」
「これで最終決定だ。まだみんな悩んでる。ほぼ、方向は決まったんだけどな」

「そっか。何かを変えるには、リスクが必要さ。俺はお前らの意見に賛成だぜ」
嵐のさりげない激励に、慈恩も笑みを載せて応えた。
「さんきゅ。心強いよ」

   ***

 その日は生徒会主催の全校集会があった。生徒会から委員会などの活動報告、企画に対する呼びかけ、今年の如月祭(前期の締めくくりとして行われる三日間の行事で、文化祭が二日間、最終日に体育祭が行われる)のテーマや構成の提案などが行われた。如月祭は執行部担当なので、まだ六月に入ったばかりにも関わらず、相変わらず執行部は忙しかった。もう六月下旬には各クラスや部活で何をやるのか申請してもらわなければならず、七月には具体的なことをまとめて夏休みに入ってもらわねばならない。夏休みに色々な準備をするところも多いのだ。その上で九月に入ったらすぐ色々な準備を進め、九月下旬に如月祭開催となるのである。
 全校集会が設けられ、会長の今井から、如月祭に対する思い入れや、全校生徒に願うことなどの発表があり、細かい構成などの提案は副会長である斗音が行った。今までの伝統的な部分は大事にしながら、生徒会スローガンのテーマに沿った企画なども行う予定であること、昨年度希望者全てを受け入れ、日程的にクラスの劇などとかぶったり、観客争奪のための妨害など、様々なトラブルが起こったため、有志のバンドやパントマイムなどの発表枠を最初から決め、希望する生徒にはオーディションを受けてもらって、その合格者のみが発表するように制限を設けることなど、声柔らかに、しかし明確に全校生徒に告げた。
 有志の発表の制限については、発表した瞬間澱んだざわめきが起きた。如月に来ている者は、芸達者も多い。よって、有志による発表は人気コーナーでもあったのだ。しかし、制限されるべきれっきとした理由があり、反論が出場希望をもくろんでいた生徒たちの胸の中でくすぶる結果となったのは確かだった。
「有志はオーディションかあ。いったい誰が審査するんだ?先生?」
「んなの、俺らは絶対出られないぜ。学校否定してるような歌詞だし」
「執行部じゃねえの?生徒に理解あるし、選挙で選ばれた人が会長なんだし」
「けど、会長以外はそれこそ有志じゃねえか」
「いや、でも会長が声かけたり承認してるんだから、選んだ俺たちに口挟む権限ねえだろ」
「あのバンドの演奏だけは見たいよねえ。落ちちゃったらやだなあ」
「男の子のバンドが多い中で、あたしたち演奏も下手だもん。絶対落ちちゃうなあ」
「まずはオーディション突破に向けて練習しなきゃなあ」
 集会の帰り道、生徒たちの話題はそれに集中した。
「つめてーよなあ。みんなが楽しみにしてるコーナーに制限加えるなんてさー」
「でも、確かに去年みたいに妨害とか客取り合戦になると、すさんじゃうじゃん。仕方ないよね」
「斗音くんだって、きっと言いたくなかったよね。みんなをがっかりさせることなんて」
 如月は、女子生徒が少ない。文武両道というモットーのせいなのか、学力レベルの問題なのかは分からないが、各学年六クラス、一クラス三十五名の中、各クラスに女子は五名から十名しかいない。その中で、当然女子生徒を彼女としてゲットするための競争率は高い。女子の中にも、ここまで学力を強要されると、がり勉タイプかお堅い女史タイプか、可愛くてスポーツもできて勉強もできるというパーフェクトタイプかに別れる。前者二つのタイプはあまり競争率が上がることはないのだが、残りのパーフェクトタイプの競争率は嫌でも上がる。

 集会が終わって、有志発表制限を公言した斗音に非難を浴びせる女生徒は、まずいなかった。斗音が普段から誰にでも優しく、同級生はもちろん、下級生にも上級生にも人気があったからだ。しかし、その女子の人気を快く思わない男子生徒はたくさんいた。普段、斗音が敵視されることがあるとすれば、斗音の人柄を知らず、その女子からの人気のみを見てひがむ者がいる場合だ。全校六百人いれば、直接斗音と話したこともない人間はたくさんいる。しかし、斗音は一年の後期から執行部役員を務めているので、斗音のことを知らない生徒は少なかった。
  斗音が全校の前に出るとき、人の神経を逆なでするようなことはまずなかったし、その外見も手伝って、それのみで悪印象を持たれることはあまりない。だが、今回はそうはいかなかった。
「あいつはまだ一年しか如月祭経験してねえから、有志がどれだけ大事か分かってねえんだよ」
「でも、それって執行部が決めたことだろ。椎名斗音が代表で言ってるだけで」

「三年の連中が有志の制限なんかするかよ。あいつがしゃしゃり出たに決まってる。副会長の権限もあることだしな。仕事てきぱき片付けるって、有名だぜ」
「厄介ごとは切り捨てるってか」
 特に三年生の有志希望の男子からは、かなり痛烈な言葉もちらほら聞かれた。
「三年が有志楽しみにしてるの、知ってたからさ。結局斗音に言わせちまったけど、いい判断じゃなかったかな」
 武知が少し顔をしかめる。
「仕方ねえよ。今更変えられるわけでもないだろ。俺たちで内側からきっちり説明していくのが、一番波風立てずに済むだろう」
 弓削も溜息ごと、言葉を吐き出した。莉紗は可愛らしい目を吊り上げている。
「言ってやればよかった!!あの場で、全員で決めたことだって。斗音くんに対する侮辱だよ!」
「言える訳ねえだろ。反論が起きると決め付けてそんなこと言ったら、一気に執行部の信用は地に落ちるぜ。今より結果はまずくなってるさ」
  今井も苦い顔である。女子の人気なんか考えもしなかったので、まさか、ここまで斗音に三年男子の反発が集中するとは思わなかったのだ。
「・・・・・・やっぱり俺が言えばよかった」
 ポツリとつぶやいたのは、慈恩である。斗音に柔らかく断られて断念したのだが、慈恩は有志制限の発表は自分がすると申し出ていた。三年生のしがらみもないし、斗音ほど派手に女子に人気があるわけでもない(本人が気づいていないだけで、結構人気はあるのだが)。標的にされて動じない自信もあった。ここまで予想していたので、尚更苦い思いを禁じ得ない。しかし、斗音は毅然と弟を見据えた。
「会長がスローガンと願いを言ったら、副会長が詳しいことを言うのが筋だろ。慈恩。最初に言った通りだ。そこで俺が言わなかったら、逆に逃げたって言われるだけだ」

 普段は儚げな印象を与えるくせに、こんな時はやたら男らしい。このリーダー性は天性である。三年生のメンバーは固唾を飲み、武知はその後にひゅっと口笛を鳴らした。
 
慈恩は悔しそうに視線を逸らし、唇を噛んだ。ここにいるのは、斗音をサポートするためであり、それなのに何もできなかったことが、慈恩はとにかく悔やまれて仕方なかった。
 
斗音はそんな慈恩を少し悲しげに見つめて、硬く握り締められたこぶしにそっと手を添えた。
「それにさ、俺、別に何言われても平気だよ。俺たちは一生懸命考えてこの手段を取ったんだ。それが間違ってるとは思わないし、変なところで逆恨みしてるような人たちには、勝手に言わせておけばいいんだ。そんな野次に、俺が負けることはないよ」
 にこりと笑って見せる。
「それとも、みんなは俺が挫けるとでも?」
 挑戦的なまでの視線を、笑顔のままで生徒会室に集まっているメンバーに向けた。
「・・・・・・斗音・・・・・・・・・・・・」
 今井がにやりと笑った。
「俺にそんな挑発的な笑いを見せた後輩は、お前が初めてだぜ。お前がその覚悟なら、これ以上俺たちが気にするのは、かえって斗音に対する侮辱になる。俺たちはできる限り三年の不平分子を抑えよう。そして、執行部は本格的に如月祭に向けて計画を進めなきゃいけないし、選考会のことも決めて発表しなきゃならない」
 一同はその言葉に自然に背筋を伸ばした。

   ***

「なんか、あの人こっち見てんじゃないか?」
 部長の目が逸れたのを見計らい、田近が慈恩に囁く。この日の放課後、何とかぎりぎり遅刻を免れて、全員と同じ練習をこなしていた慈恩は、田近が顎で指し示した、開け放してある扉から見える景色を視界に映す。
「・・・・・・あれ・・・・・・?」
 武道場と道路に挟まれたアスファルトの通路の隅に、密やかにたたずむ女性の姿を認めた瞬間、慈恩の脳裏に、昼のクラスメイトの言葉がよみがえった。
『とにかくだ。雰囲気まで美人をまとってる女の人がいたんだ』
(黒髪の・・・・・・あの人か)
「綺麗な人だな」
 田近がわずかばかり浮かれた声を出した瞬間、部長の鋭い檄が飛んだ。
「椎名!田近!!ぼんやりするな!打ち込みはじめっ!!」
「はいっ」
「はい」
(確かに、近くで見なくても雰囲気がお嬢様だな。稲垣のフィーリングも的を射てる)
 それ以上ほかごとを考えていたら、間違いなく近藤に半殺しにされることは目に見えていたので、慈恩は目の前の相手に集中した。団体戦の中堅を務める橋本である。しかし、はっきり言って近藤以外の相手で、慈恩が実力を発揮することはできない。相手が吹っ飛んでしまう。当然近藤も然りである。
「橋本、代われ」
 近藤の指示に、橋本はぜいぜい言いながら低い返事で従った。近藤が慈恩の前で威圧感を漂わせて構える。
「椎名、外の美女に目を取られてたら、俺が速攻殺すからな」
 結局こうなるんだな、と思いつつ慈恩は悪戯っぽく聞いた。
「近藤さんもよそ見したんですね?」
 しかし部長もさしたるもの、全く動じない。

「お前が練習中によそ見をするほど気をとられるものが何なのか、興味があってな」
(ス、ストーカー!?)
 田近の心の中など知る由もない近藤は、野獣のような笑みを面の中で閃かせ、慈恩は苦笑する。
「もう気を取られることはありませんから、お気遣いなく」
 合い向かった二人の間の空気が、まるで真空にでもなったかのような緊張感を帯びる。近藤の、周りを怯えさせんばかりの気合の声を合図に、二人の足が同時に床を蹴り、竹が激しくぶつかり合う厳しい音が、宙に響き渡った。

 体育館の中に、床にボールが弾かれる音、バッシュが床をこする音、そして仲間への声が響き渡っている。
「よーし、そこまで!」
 男子バスケ部の部長、徳本の声が体育館中に響いていたボールの音を一瞬で消す。
「次、五対五でミニゲームするぞ。門真、岡崎、佐々、羽澄、俺が赤。宮本、東雲、高野、椎名、佐野が白だ。言われた者はゼッケンつけてコートに入れ。残った三年は審判、二年は記録。一年は声出しだ!」
「うすっ」
 全員が一斉に返事をすると、素早く部長の指示に従う。
「斗音、大丈夫か」
 嵐がゼッケンを渡しながらさりげなく友人を気遣う。斗音は弾む息を整えながらにこりと笑った。
「平気だよ。対等にするために岡崎先輩と嵐が入れ替わってるけど、一応あっちがスタメンチームってわけだ」
「俺一人で対等になるとも思えねえけど」
 嵐は好戦的な瞳で、赤いゼッケンをつける五人を見つめる。
「勝ちにいこうな」
 斗音はうなずいて微笑む。学校一の美貌の持ち主は、男でも見惚れるほどかっこよかった。
「嵐が言うと、心強いな」
 斗音の言葉を聞いた瞬間、嵐は不思議そうな顔をして、次にくすくすと肩に触れるさらさらの髪を揺らした。
「ああ、似てないって言われるけど、やっぱお前ら双子なんだな」
 きょとんと大きな薄茶の瞳を見開く斗音に、嵐は柔らかそうな薄い紫の髪をかきあげる。
「今日の昼に、慈恩から同じ言葉を聞いた」
 それを聞いた斗音は、爽やかな風が通り過ぎたかのような微笑みを浮かべた。
「へえ。さすがだね」
 今度は嵐が目をしばたたく。そんな友の肩を、斗音は軽く叩いた。
「俺たち二人の信頼を、お前はその肩に背負ってるってことだ」
 楽しそうに笑う斗音と苦笑して見せる嵐は、傍から見るとこの上なく見目麗しい光景だった。しかしこの数分後、ミニゲームで気持ちを昂ぶらせていたバスケ部員たちは、一気にその足を凍りつかせることになった。
「佐々!飛びつけ!!」
 叫んだ徳本に応えて、佐々がコートから出そうになったパスミスのボールに飛びつこうとした。が、勢いあまってボールが跳ね飛ばされる。
「くそっ」
 ピピッと笛が鳴り、審判の三年生部員が騒音に負けじと怒鳴る。
「白ボール!」
 ステージの幕の下まで飛んでいったボールを、一年生部員があわてて取ってきて、大急ぎで白チームの佐野に渡す。斗音がすかさず赤チームの間を縫って、パスを取れる場所に動く。
「東雲、走れっ!」
 白のリーダーである宮本の指示と同時に嵐がゴールに向かって走る。白チーム含め、全員がそちらに気を取られた隙に、佐野は勢いよく斗音にパスを出した。ぱしいん、と斗音の手の中でボールが音をたて、斗音は絶妙の高いパスで嵐にボールを回す。走る速度を全く落とさず、嵐はボール落下地点でそのパスを受け取る。

「・・・・・・!?」
 
一瞬不審そうな表情を浮かべた嵐だが、そのまま勢いよくジャンプして、ボールをリングに叩き込んだ。
「うおおおっ、ダンクかよ!」
 全員がそのプレイに見とれた瞬間、嵐は着地した足でそのまま今来た方向へ駆け出した。
「「斗音!」」
 同時に叫んだのは得点を担当していた瞬と、嵐と同じ位置まで走っていた翔一郎だった。一人は得点板を突き飛ばし、もう一人は嵐を追って猛ダッシュする。全員が、その異変にぎょっとして三人が駆け寄った方に目を向けた。その視線の先で、斗音が激しく咳き込んで崩れ落ちる。
「椎名!まずい、おい、救急箱持ってこいっ!!」

 徳本が一年生部員に指示を出し、斗音に駆け寄る。
「発作だ。早く薬を!」
 斗音は技術も高く、チームに貢献できるプレイヤーだったので、試合にも出られることが多かった。しかし、いつ発作が起こるかわからないという爆弾も抱えていたので、現在如月高校男子バスケット部の救急箱には、斗音のための喘息の薬と吸入器が常備してあった。
 精一杯のスピードで一年生部員が持ってきた救急箱を乱暴に開け、嵐が簡易吸入器の準備をする。
「瞬、翔一郎、斗音を支えてくれ」
 血を吐きそうな勢いで咳き込む斗音の身体全身から、汗が噴出している。その口元に吸入器をあてがって、嵐が二人に抱き起こされた斗音の頭を抱え込む。
「吸えるか?」
 斗音の真っ白な指が激しく震えながら、嵐のゼッケンをぎゅっとつかむ。
「おい、一年!誰でもいいから先生呼んでこい!!あと、タオルをぬらしてもってこい!」
 部長の声に一年生の数名が駆け出した。言った本人は斗音の脇にひざまずく。
「椎名、すまん」
 紙のように白くなった顔色のまま、斗音は苦しげに綺麗な顔を歪める。嵐のゼッケンをつかんだ手は、まだがたがた震えているが、時折咳き込みながらも薬を吸い込むことができたおかげで、既に発作はおさまり始めている。しばらくそのまま全員がその光景を見守る時間が続いた。斗音の頬に、わずかながら赤みがさしてきて、全員がほっと胸をなでおろす。斗音の指が徐々に震えを小さくしていき、嵐のゼッケンから離れた。
「タオルくれ」
 持ってきたタオルをどうしたものかと困っていた一年生が、徳本にしっかり絞られたタオルを手渡す。
「・・・・・・す・・・みま、せ・・・ん・・・・・・」
 力なく、いつもの何倍もかすれた声で言葉を紡ぐ斗音の額を、徳本はそっとタオルで拭う。
「大丈夫か?」
 はい、と小さくうなずく。ほとんど声にはならなかったが、翔一郎と瞬はようやく緊張した顔をほころばせた。ぐったりした斗音を嵐が軽々と抱き上げる。
「保健室行って、休むか?」

 ふるふる、と斗音が首を振る。細いアッシュの髪が汗で顔に張り付いている。
「ここ、で、いい・・・・・・よ・・・」
「そっか」
 コートから少し離れたところに、そっと力の入らない華奢な身体を横たえる。瞬が自分や翔一郎のタオルをかき集めて持ってきて、斗音の頭の下に敷いた。翔一郎は自分のウォームアップシャツをその身体に掛ける。
「暑いかもだけど、それだけ汗かいたんだから、身体冷やさねえようにしねえとな」
「・・・ありがと」
 瞬は近くにいた一年生に得点係を押し付けると、部長から受け取った濡れたタオルで斗音の汗をふき取る。
「ここにいていい?」
 可愛らしく、悪戯っぽい笑みを浮かべる瞬である。言外に、ここにいればサボれるから、と含ませている。斗音はわずかに微笑んだ。
「ん・・・・・・ありがと」
 その言外に含ませたものこそが、瞬の気遣いであり、そんなことは斗音もよく分かっていた。
「よし、じゃあゲームの続き始めるぞ。椎名に代わって芹沢、入れ。芹沢の代わりに審判、板頭。赤のスローインからだ」
 徳本の指示で、ゲームが再開する。それと同時くらいのタイミングで、顧問の教師が呼びに行った生徒と一緒に駆け込んできた。

 練習が終わった頃には、斗音もだいぶ元気を取り戻していた。いつもの出来過ぎ集団がそんな斗音を気遣いながら、ロッカー室で下校の準備をしていた。
「今日は慈恩、待ってなきゃな」
「うん。斗音が途中で倒れたりしたら、洒落になんないからね」
 さりげなく翔一郎が斗音の荷物を一つ持つ。
「大丈夫か?とりあえず自分の力で帰れるよな?」
 嵐の言葉に、斗音はうなずいて、いつもの三割増のハスキーボイスで答える。
「うん。もう平気だよ。翔一郎、いいよ、荷物持てる」
 翔一郎は、途中までだけだから、と言って荷物を返そうとしなかったので、斗音は顔をほころばせた。
「うん・・・ありがとう」
 そこに着替え終わった徳本が近づいて、いきなり斗音に深々と頭を下げた。
「すまない、椎名。無茶させちまった。悪かった」
 斗音は座っていた椅子から立ち上がり、部長の肩をそっと押し上げる。
「練習がきつかったわけじゃないです。だから先輩に謝られるようなことは、ありません」
 これくらいのことで発作を起こすと思われちゃったら困るし、と苦笑して見せる。嵐が学生服のボタンを留めながら、部長に視線を流す。
「俺が斗音からのパスを取ったとき、ボールが埃で滑ったんです」
 徳本が、はっとした顔をする。
「そうか、それでお前、すぐに斗音の異変に気づいたんだな」
 うなずいて、嵐は続ける。

「おそらくボールがステージの隅まで転がっていったときに、大量の埃が付着したんです。一年生はあわてていたから、そのまま佐野さんに渡してしまった。斗音が絶妙の位置にいて、絶好のチャンスだったから、佐野さんもそのままパスを出してしまった。鋭いパスだったから、取った瞬間に斗音の目の前で埃が舞い散った。不幸な偶然が重なった結果ですよ」
「よく分かったな、あの一瞬で」
 感心したように、徳本が声を上げる。斗音は、見ている者が切なくなるような微笑みを、一瞬浮かべた。
「それだけ普段から、嵐は斗音に気を配ってるってことだね」
 にこやかに瞬が補足するが、嵐は軽く首を振って、斗音の淡い色の髪をくしゃりと乱した。
「ただの偶然だ」
 気にするな、と。はっと口をつぐんだ瞬を含め、その場にいた者は全員、さりげない嵐の優しさと、それ以上に、斗音が自分の身体のことで心に負担を強いられていることに気づいたのだった。

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三.喘息

 真っ白な病室。街中の騒音すら、外界がこの部屋には関わりなく時を刻んでいることを知らせるだけ。
「斗音。具合はどうだい」
 大きな花束を抱えて、父親と一緒に兄を見舞った。色とりどりの薔薇が、何もなかった病室に、鮮やかな色と香りを添えた。呼吸器をつけた斗音は、にこりと笑って二人を迎えてくれた。
「斗音」
 駆け寄ってのぞき込むと、点滴の針の痕が痛々しい、透けるほど白い腕を布団から出して、細い指で弱々しく、慈恩の頬に触れる。そして、寂しそうに微笑むのだ。
「本、たくさん持ってきたんだ。読みたいって言ってただろ」
 わざと元気に振舞った。この部屋は、斗音の哀しみや寂しさでいつも染められていたから。
「ありがとう、慈恩。ねえ、斗音にあなたの話を聞かせてあげて。ずっとあなたが来るのを待ってたのよ」
 流暢な日本語で、胸にクロスのペンダントをかけた美しい母が、優しく言葉を紡ぐ。信心深かったキリスト教徒の母は、そのペンダントをいつも胸にきらめかせていた。その母に良く似た顔立ちの斗音が、こくりとうなずく。
「俺、今度関東大会に出るんだ」
 小学校一年生から剣道を始めて、四年目。慈恩は既に頭角を現していた。都大会の準決勝戦で相手の六年生の動きがやたら早くて、思わず勝負を急いだらそれが決まってしまったこと、一学年上にやたら大きな強い相手がいたが、小さい分小回りがきいて、決勝戦も何とかしのげたことなどを、一生懸命に話す。まだほんの小学校四年生の息子が、決して自慢するのではなく、事実を楽しく、聞いている者が喜ぶように話すのを、両親は眩しそうに見つめていた。
「すごいな、慈恩。関東大会、見に行きたい」
 斗音の声は擦れている上、呼吸器に阻まれてほとんど聞き取れない。それでも慈恩は大きくうなずく。
「来いよ!退院できなくても、元気だったら外出許可してもらえるって!」
 退院できたらもっといいけど、と付け足したら、父親に黒い髪をくしゃくしゃにされた。
「あんまり無茶言うもんじゃないぞ」
 母は楽しそうに涼やかな声で笑って、薄茶色の斗音の髪を撫でた。
「でも、慈恩の大会が励みになるわね。それまでに少しでも良くなりましょう」
 斗音も蕾が開くような微笑みを浮かべた。

 関東大会の日。父親と二人で会場に向かった。
「斗音、来られるかな」
「うん。お母さんは元気そうなら外出許可取れないか、先生に聞いてみるって言ってたぞ。来られるようなら、お母さんが連れてきてくれることになってる」
「ほんと!?来てくれるといいな。俺、絶対頑張って勝って、あいつを元気付けてやるんだ」
 会場では少年団の先生が待っていた。少年団の友達も、何人か応援に来てくれていた。
「慈恩、頑張れよ!」
「お前なら絶対勝てるって。応援するからな!」
「うん、ありがとな」
 言いながらも、視線を周りに彷徨わせる。しかし、捜し求める姿は見当たらなかった。
(いくらなんでも、まだ早すぎるかな・・・・・・)
 一回戦が始まる直前、一回戦に勝った直後、二回戦が始まる前、二回戦に勝ったそのあと、三回戦が始まるぎりぎりまで、三回戦に見事に二本決めて勝ちを収めたあと、準決勝の始まりの合図が上がるまで、そして、準決勝で、この春の全国大会に出場していた六年生を相手に、一本及ばず敗れた直後も、慈恩はずっと斗音を探していた。でも、双子の兄の姿が慈恩の視界に捉えられることはなかった。
 関東大会三位の見事な成績を収めた慈恩を、表彰式を待たずに父は車に乗せた。
「先生にあとのことは頼んでおいた。病院へ行こう。斗音に、今日のことを報告しよう」
 兄が来られなかったというのは、よく分かっていた。そして、今日兄の発作が起きたのだということをすぐに悟った。
「大丈夫なの!?」
「お前が元気付けてやるんだろう?」

 父親の強い声に、慈恩は唇を噛んだ。
「うん!」

 いつもに増して殺風景な、外の景色すら見えない部屋に、斗音は寝かされていた。腕のチューブといつもより強力そうな呼吸器のマスクが痛々しかった。
「ごめんなさいね、慈恩。大会に行ってあげられなくて・・・・・・」
 母が申し訳なさそうに言った。
「今は?」
 父親がガラス越しに我が子の姿をのぞく。
「泣き疲れて眠ってるわ」
「入って、いい?」
 慈恩がはやる心を目一杯表情に載せると、金色の髪を揺らして母がうなずいた。
 そっと中に入ると、耳が痛いほどの静けさが慈恩を襲った。なんだかその静けさを壊してはいけないような気がして、足音すら気遣いながら、ベッドの脇に近づく。
 天使のように綺麗な顔には血の気がなくて、頬には幾筋もの涙の跡がそのままになっていた。長い睫毛もまだぐっしょり濡れている。
(苦しかったんだろうな・・・・・・)
 そっと額に張り付いた髪を分ける。
「・・・・・・斗音」
(かわいそうに・・・・・・・・・・・・)
 持っていたハンカチで、慈恩はそっと涙の跡をなぞった。
 それをガラス越しに見ていた両親が、言葉を交わしていたことを、慈恩は知らない。
「ひどい発作だったのか」
「見てる方はこのまま死んじゃうんじゃないかと思って、気が気じゃなかったわ。でもね、斗音は苦しくて泣いたんじゃないの。慈恩の試合を見にいけなかったことが悔しくて、泣いたのよ。ひどく泣いて・・・・・・泣き疲れて眠ってしまったわ」
「楽しみにしてたからな。慈恩は斗音の憧れなんだ。健康で強くて何でもできて・・・・・・斗音は慈恩が双子の弟であることが誇りなんだな」

「ええ・・・・・・あの子は慈恩のことが大好きよ」
「・・・・・・・・・・・・慈恩がいてくれてよかった。きっとあの子はこれから先も斗音を支えてくれる」
「あの子を私たちの元へ授けてくださった神様に、感謝しましょう」
 美しいフランス人の母は、ガラス越しに二人を見つめて、胸のクロスをそっと手の平に包み込んだ。

 夜になって、斗音はいつもの個室に移された。集中治療室での手当てが功を奏したのか、一時的に呼吸器も外されている。両親はともに医者の説明を別室で聞いている。夏とはいえ、病院内は冷暖房完備なので、全く暑いとは感じない。慈恩はベッドの脇に腰掛けて、暑いはずの暗い外を眺める。春から夏に移ったことすら感じられない毎日を、斗音は送っているのだと知る。
 不意に斗音が慈恩の袖をつかんで、くいくい、と引っ張った。
「あ、起きた?」
 こくりと小さな頭を縦に振って、更に引っ張る。慈恩はベッドの脇に膝をついて、斗音の口元に耳を近づける。
「試合、どうだった?」
 聞き取れないほど擦れてしまった声が痛々しくて、慈恩は何かこみ上げてくるものを無理やり飲み込んだ。とっさに元気な笑顔を見せる。
「俺、三位。準決勝まで行ったんだけど、相手が強くってさ。さっき純平から聞いたけど、そいつ優勝したって。1-0で負けた。でも、すげー惜しかったんだよ。ラスト五秒くらいでかなり追い込んで、あと一歩で一本いけそうだったんだ。決めらんなくって、結局ダメだったんだけど」
 見せたかった、と言いそうになって、慈恩は口をつぐむ。一瞬置いてから、改めて続けた。
「でも、全国にいけるよ。今度はもっともっと稽古して、あいつに勝ってやる。今日みたいなかっこ悪いの、お前に見せられないからさ。今度こそ絶対見せられるような試合にするから、だから」
 慈恩はその続きの言葉を思わず飲み込んでしまった。華奢な腕が弱いながらも懸命な力で、慈恩の首に巻きついていた。そっと背中に手を回すと、その背は細かく震えていた。
(泣いて・・・・・・)
 耳元で、音になるかならないかという声が、嗚咽混じりに聞こえた。
「ごめ・・・行けなく・・・て・・・・・・ごめん・・・・・・」
(斗音-------)
「いいよ、斗音。俺、次にお前にもっといいとこ見せられるように頑張るよ。だから・・・」
 泣かなくていいよ、と優しく頭を撫でる。
「お前がいつでも見に来られるように、俺強くなって絶対上の大会に勝ち進めるようにするから。あせらなくていいよ」
 慈恩は自分が泣きそうになるのを必死でこらえた。柔らかな髪を撫でながら、自分にしがみついて泣きじゃくるこの兄を、何とか励ましてやりたいと思った。自分にできることなら、何でもしてやりたいと思った。心の底から、そう思った。

   ***

 斗音は約十ヶ月の入院生活を経て、ようやく退院することができた。小学校三年生の三月にひどい発作を起こして入院してから、結局四年生の一月まで、病院で過ごしたことになる。更にその後一ヶ月は自宅療養で学校に通うことはもちろん、スポーツなども全て禁止され、やりたいことがありすぎる時期にほとんど何もできずにいた。あまり動かずにできるものということで、ピアノを買ってもらって、何かができることの喜びを覚えた斗音は、ピアノに夢中になった。ピアノを弾くと母が喜ぶので、一生懸命練習するうち、斗音の腕はぐんぐん伸びていった。慈恩はその間、斗音に教える分も人一倍勉強を頑張ったし、剣道は小学生の大会でその名を全国に轟かせるようになっていた。
 
そんな慈恩を心の支えにして、斗音は回復してからというもの、今までできなかった分の反動かと思うほど何にでも積極的に取り組んだ。さすがにスポーツだけは、必要以上にさせてもらえなかったが、友達と遊ぶことも、勉強することも。そしてピアノはちゃんと先生について習うようになった。持ち前のリーダー性も思う存分発揮して、色々な役割にも挑戦した。明るくて元気が良くて、誰にでも公平に接して、友達を大切にして・・・・・・。そんな斗音は、誰からも好かれた。たちまち周りからの強い信頼を得て、小学校六年生になるときには、児童会長を務めるほどだった。時折発作を起こして、みんなの不安を掻き立てることはあったが、それを含めても、誰もが斗音を認めていた。もちろん、慈恩は慈恩で勉強は人並み外れてできたし、剣道でならした腕には誰もが一目を置いていた。
 
しかし、椎名家には次の試練が圧し掛かってきていた。もともと持病で喘息を患っていた母が、軽い風邪をこじらせて入院してしまったのだ。まだ二人が六年生になって一月も経たない頃だった。
「大丈夫よ。ただの風邪だもの・・・・・・すぐよくなるわ。迷惑掛けてごめんなさいね」
 見舞いに行くたびに、クロスに手を置いて優しく微笑んでそう言っていた母。誰もがそれを信じて、疑わなかった。帰りが遅い父に代わって、毎日少年団の練習があって早くに家を出なければならない慈恩が夕食を作り、斗音は片付けるようにしていた。
 見舞い三昧だったゴールデンウィークも過ぎ、久しぶりの学校で慈恩が算数の授業を受けていたとき、教頭先生が教室に現れた。呼ばれて廊下に出ると、既に呼ばれて荷物をまとめていた斗音が、不安そうな顔を隠しきれずに、慈恩を見つめた。教頭先生は、母親の容態が急変したことを告げ、二人にすぐさま帰る準備をするように言った。
 二人は教頭先生の車に乗せられて、母が入院している病院へ向かった。玄関先に父の車が止めてあった。
 病室まで、二人は全力で走った。心の中で、いつも母の言っていた言葉を繰り返し、不安を打ち消そうとした。互いに不安も、それを打ち消す言葉も同じだということは、嫌というほど分かっていたから、一言も話さなかった。
 病室に駆け込んだ時、目に映ったのは、二人の医者が必死に「大丈夫ですか、意識をしっかり持ってください!」と、怒鳴っている姿、悲痛な声で母の名を呼び続けている父。そして母は、いつもの雪のような白い肌を青白く変化させ、苦しげに父の手を握り返していた。
「母さん!!」
 二人とも、尋常ならざる状態であることは、すぐに分かった。ベッドに駆け寄って、父の手を握り締める母の手を、更にきつく握り締める。
「母さん、母さんっ!!」
 慈恩が叫ぶ横で、斗音はがたがた震えながら、首を振った。
「大丈夫だよ、母さん、大丈夫・・・・・・ここさえ乗り切ったら、すぐ楽になるからっ・・・・・・!!」
 医者が母の喉に管を通しながら、片方で看護師から受け取った注射をする。
「先生、駄目です、粘膜で完全に気管が塞がってます!!」
 チューブを通す手伝いをしている看護士が、悲鳴を上げる。
「先生、どうして!!いつもならこれで治まるのに・・・・・・!」
 父親の責めるような声に、貫禄のあるほうの医者が苦い顔をする。
「こじらせている風邪から肺炎を起こしています。熱もひどくて身体が敏感になっているんです。だから、薬にすら拒否反応を起こしています。普段なら有り得ないんですが・・・・・・抵抗力自体もひどく低下していて、体力もない。今打った注射が効くまで・・・・・・何とか呼吸を確保しないと・・・・・・!」
「粘膜をこじ開けましょう!」
 若い方の医師が縋るように叫ぶ。言われた方の医師は、父親の顔を見た。
「傷つけることになると思います。でも、この場は持ち直すかもしれない。無理やり気管を開きますが、了解をいただけますか」
 父親は苦しそうにうなずいた。直ちに貫禄ある医者が看護師ともう一人の医者に指示を出し、母の身体を押さえつけて、喉にもう一つの管のようなものを通し始めた。母の苦しみ方がいっそうひどくなった。
「母さん、頑張って!!頑張って!!今楽になるから、頑張って!!」
 斗音が声を枯らして叫んだ。不安で胸が張り裂けそうだった。その時間が、一時間にも二時間にも感じられた。もがいていた母の身体から、ゆっくり力が抜けていった。
「ノエル!」
 父の声に、母が小さく反応する。そしてそのままふっと目を閉じた。一瞬室内に不安が満ちるが、年配の医師がほっと息をついてその不安を打ち消してくれた。
「とりあえず、この場は持ったようです。今は意識を失っているだけです」
 だが、その後に続いた言葉は、更なる不安を掻き立てた。
「でも、この状態でもう一度発作が起これば・・・・・・危険でしょう。その時は・・・・・・覚悟してください」
 全員が、言葉を飲み込んだ。ただ一人、斗音がぽつりと言った。
「発作が起きる確率は・・・・・・?」
 医師は苦しそうに顔を歪めた。
「なんとも言えませんが・・・・・・非常に高いことは、確かでしょう」

 夕方に、母は一度意識を取り戻した。誰も医者に聞いたことを母に告げることはなかったが、母自身が何かを感じていたらしかった。まず、父の名を擦れた声で呼んだ。父がベッドの脇に寄って母に顔を近づけた。
「絽登(ろと)・・・・・・斗音と、慈恩のことをお願い・・・・・・。二人とも・・・・・・私の自慢の・・・・・・大切な・・・子・・・・・・」
「分かってる。大丈夫だ。心配要らない。だから、お前は元気になることだけ考えていればいい」
 父の声が震えていた。母は、微かに微笑んだ。
「ありがとう・・・・・・。・・・・・・斗音。・・・おいで」
 呼ばれた斗音がベッドの脇にひざまずく。そのアッシュのやわらかい髪を、母は優しくなでた。
「可愛い・・・・・・斗音。・・・愛してるわ。・・・・・・ごめんね・・・・・・健康な身体に・・・・・・産んで、あげられなくて・・・・・・」
 斗音は激しく首を横に振った。
「そのおかげで、俺ピアノ弾けるようになったんだから。家に帰ったら、また弾いてあげるからね。それからさ、俺、中学になったら絶対スポーツやって、体力つけるんだ。慈恩みたいに、強くなって、みせる。大丈夫だよ。先生も、中学校になったらやっていいって。だから、そしたら慈恩の時みたいに、お弁当もって見に来て・・・・・・」
 目を潤ませる自分の息子を、いとおしそうに目を細めて見つめた。その視線を、慈恩に移す。
「慈恩・・・・・・いらっしゃい」
 そっと慈恩が近づくと、母はゆっくり身体を起こして、既に170㎝近かったすらりとしたその身体を優しく抱きしめた。
「あなたには・・・・・・頼ってばかり、いたわ。・・・・・・斗音のことも・・・・・・家のことも・・・・・・。慈恩・・・・・・あなたがいてくれて・・・・・・よかった。・・・・・・あなたの強さなら・・・・・・この先、何があっても・・・・・・きっと乗り越えられる。・・・・・・愛してるわ、慈恩」
 慈恩は力強くうなずいた。それしかできなかった。やつれた母は、クロスのペンダントを外して、慈恩に握らせた。

「・・・・・・あなたのこと、何も・・・・・・構ってあげられなかった・・・・・・ごめんね。・・・・・・これは私たちと・・・・・・あなたをつなぐものよ・・・・・・。これからはあなたが・・・・・・私の代わりに・・・・・・斗音を・・・・・・支えてあげてね・・・・・・」
 
喉元に熱い何かが込み上げてきて、慈恩は苦しさに整った顔を歪めた。歪めながら再度うなずいた。
 
それを確認するようにして微笑むと、最後にもう一度、母は父を呼んだ。
「・・・・・・ごめんなさい、絽登・・・・・・ごめんなさい。・・・・・・・・・・・・ごめんなさい」
 父は華奢な母を抱きしめた。
「もういい、ノエル」
「絽登・・・・・・愛してるわ」
「・・・・・・ああ。愛してる」
 父の目から涙が溢れるのを、二人は見ないふりをしていた。母の死を認めてしまうようで、怖かった。

 そして、その日の夜。家族の祈りも願いも空しく、再び母は発作を起こした。駆けつけた医師の懸命の処置も、今度は報われることはなかった。次の日を迎えることなく、母は息を引き取った。
 
冷たくなっていく母の身体にすがり付いて号泣する父を見ていられず、慈恩は母に渡されたクロスを握り締めたまま、目を逸らしていた。斗音がそんな慈恩の腕を引いて、外へ連れ出した。深夜である。患者たちのくつろぎの場になるよう、机や椅子を設けてある自販機コーナーも、静まり返っていた。
「何か、飲もうか」
 ポケットから小銭を取り出して、斗音が言った。ハスキーな声が、静まり返った空間に響いた。
「何がいい?」
 慈恩は答えられなかった。つらくて、それどころではなかった。
「ねえ、何がいい?」
 涙でぼやけてまともに飲み物の種類を見ることすらできないのに、どうして選べるだろう。慈恩はうつむいた。
「何がいいって、聞いてるだろ」
 苛立ちを含んだ声に、慈恩がはっとして斗音を見つめる。その視線の先で、斗音はきっと慈恩を睨んでいた。
「何で返事しないんだよ」
 慈恩は唇を噛んだ。
「・・・そんな気に、なれない」
 言った瞬間、いくつかの百円玉が飛んできて、思わず腕を上げてぎゅっと目を閉じた。腕にばらばらと硬いものがぶつかって、床で金属音を立てる。
「・・・・・・母さんは、あの地獄の苦しみから永遠に解放されたんだ!もう、苦しまなくていいんだよ・・・・・・っ!」
 目を開いた慈恩に投げつけられた斗音の言葉は、激しかった。でも、そこにあるのは怒りではなくて、壮絶な悲しみだった。斗音の薄茶の瞳からは、あとからあとから涙が溢れていた。
「もう・・・・・・苦しまなくて・・・・・・・・・いいんだ・・・・・・」
 そして、慈恩の袖をぐっとつかんだ。その仕草に、悲しみに耐えようとしている斗音の気持ちを痛いほど感じた。十ヶ月間の一番苦しかった時、一番心細かった時、いつも側にいてくれた母親だったのだ。つらくないはずがなかった。うつむいて、ぽろぽろ涙を床にこぼす斗音を、慈恩は思い切り抱きしめた。込み上げてくる涙は、もう止めようがなかった。

 斗音はそれから約一年の間、ピアノに決して触れようとはしなかった。

   ***

 斗音が部活中に発作で倒れたと聞いた慈恩は、かすかに眉根を寄せて斗音を見つめた。
「・・・・・・今は?」
「もう平気」
 にこっと笑って見せた斗音の声は、やはりいつもよりずっと擦れていて、慈恩の表情を曇らせた。
「大丈夫だよ。軽い発作だったし」
 いつも以上に明るく振舞う斗音に、嵐が声を掛けた。
「あんまり無茶すると、また発作起こすぞ。慈恩は心配してくれてんだ。今日くらい甘えとけよ」
 瞬の、そうだよ、と言う声と、翔一郎のそうだぞ、と言う声が見事にハモる。この二人、思考回路とタイミングがよく似ているらしい。
「甘えなくても、俺今日は何もさせてもらえないよ」
 ふざけた口調で言って慈恩にちらりと視線を流す斗音だが、思いっきり本音であることがよく分かる。
「分かってるなら、今日は夜遅くまで読書するんじゃないぞ」
 しかめっ面をして見せる慈恩もふざけた口調だが、前日の夜に三時まで本を読んでいたことがばれていたと知って、斗音は肩をすくめた。
「起こさないようにしてたのに」
「隣の部屋の明かりが煌々とついてれば、誰だって気づくだろ」
「だって、スタンドの灯りだけだと目が悪くなるって怒るじゃん」
「実際それを繰り返して視力を低下させた実績があるだろ」
 そのやり取りを聞きながら、嵐はおかしそうに肩を揺らした。
「副会長も慈恩には形無しだな」
 瞬も可愛らしく声を立てて笑う。
「慈恩、完全に斗音の保護者だよね」
 翔一郎も精悍な顔を崩して、爆笑している。
「慈恩の方がどう見ても兄貴だな。まさしく逆転だ」
 斗音が口を尖らせた。
「いいんだよ。自覚してるから」
 そんな顔でも、通りすがりの一般の人が見て十中八九振り返るくらい、綺麗で可愛らしい。なんにしても、本当に元気そうなのが、慈恩には一番ありがたいことだった。
 三人と別れて、家にたどり着いたのは七時を過ぎていた。斗音は慈恩に言われる前に、風呂を入れ始めた。
「湯かげん気をつけろよ」
「分かってるよ」

 慈恩が奥に向かって投げかけた言葉に、浴室独特の響きを伴った、斗音の三割り増しハスキーボイスが返ってきた。
 
冬でも汗だくになる剣道部は、汗で防具や道着から移る藍染めの匂いに悩まされる。剣道部が実績を残していることや、夜間に社会人体育で使うこともあり、剣道場にはシャワー室が設けられているが、色々な部と共同で体育館を使うバスケ部には、そんなものはない。もちろん、汗を流すだけなので、剣道部とはいえ慈恩も家に帰ったらシャワーなり風呂なり、入らないわけにはいかないが。
 
その間に、慈恩は米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れ、さっさと洗濯物を入れてたたみ、夕食の準備をし始める。片方のコンロで鶏がらスープの素を入れ、煮立たせる傍ら、豆腐をざっくりと切って、ひき肉をいため、ねぎを加えて味噌や豆板醤などで味をつけ、鷹の爪を加える。炒めながら、ミズナを洗い、ざくざくと切って解凍しておいたむきえびを茹でて合わせ、ガラス皿に入れてマヨネーズで和える。そこまでやったところで斗音が戻ってきた。

「上がったよ・・・・・・。何か手伝う?」
 のぞきこんでくる斗音に、食器棚を指し示す。

「大皿ひとつ、取り皿二つ、スープカップ二つ、スープ用のスプーン二つ、茶碗が二つ、湯飲みが二つ、箸が二つ、あと、レンゲが二つ欲しいな」
 一度言っただけだったが、斗音は分かった!と張り切って言われたものを準備し始めた。その間に慈恩は作っているものの仕上げにかかる。スープが沸騰したところでわずかに水溶き片栗粉を加え、溶き卵を加える。更にもう片方の中華鍋に豆腐を加え、豪快に炒めると、仕上げに軽くごま油をふりかける。斗音が用意した皿に、麻婆豆腐、卵スープをよそう。斗音はご飯をつけて、お茶を入れた。
「中華だね」
「チャーハンにしたら完璧だろうけど、油分が多すぎるし、味が濃いからな。品数が少なくて悪いけど」
「どこがだよ」
 思わず斗音が言葉をこぼす。
「食欲は?」
「これを前にして食欲が湧かない人、いないと思う」
 自分が作るときとは大違いだ、と斗音がぼやく。
「病人食じゃないけど・・・・・・大丈夫だよな?」
「平気だって。発作のたびにお粥なんて、おなかすいて死んじゃうよ」
 嬉しそうに、せっせと皿を並べて、斗音が椅子に座る。
「せっかくだから、冷めないうちに食べようよ」
 慈恩に催促をして、弟が座るや否や、手を合わせた。
「いただきますっ」
「いただきます・・・・・・急いで食べると大変なことになるんだから、ゆっくりな」
 どこまでも保護者な慈恩に、斗音は苦笑した。
「分かってるよ。発作起きた日にむせるような真似、しないって」
 たった一度、むせるだけでも、斗音の場合は発作の引き金になる確率が非常に高い。だから、普段から物を口に入れることには、とても気を遣う。
 食事が済んで、後片付けをすると主張した斗音だったが、慈恩は首を振った。
「駄目。風呂冷めしないうちに、早く薬飲んで、今日はもう寝るんだ」
(やっぱり)
 慈恩は過保護だ、と、きっと誰が見ても言うだろう。斗音も、時々それを思わなくもない。でも、慈恩がそういった行動を取る理由を、斗音は嫌というほど分かっている。
「ね、慈恩。宿題があるんだけど」
 言外に、もう少し起きていたいと、嵐たちの言葉を意識したわけではないが、ちょっと甘えてみる。
「何が出てる?」
 早速片づけを手際よく始めながら、慈恩が聞く。
「基礎解析」
「すぐできるだろ。三十分もあれば」
「えっ、無理無理。だって、基礎解析、明日単元テストなんだ。一応全部復習しておかないと」
 慈恩は眉をしかめる。こういうところで手を抜く斗音ではない。まして、斗音は人並み以上に勉強できるとはいえ、数学や物理はあまり得意ではなく、慎重にならないわけがないのだ。
「でも、今日は無理しちゃ駄目だ。分からないところだけにして・・・・・・」
「俺が数学あんまり好きじゃないこと、知ってるよね?」
 じいっと見上げる斗音の目は、正当な理由を盾にして、完全に甘えモードになっている。
「・・・・・・・・・・・・」
 慈恩は斗音のこの目に弱い。何かをしたいという斗音を、なるべく縛りたくないという気持ちも、持ち合わせているからだ。
「好きじゃなくても、お前ならできるだろ?」
 片づけを終えて、タオルで手を拭きながら、斗音をなだめにかかる。
「さあ?」
 悪戯な瞳は、完全に楽しんでいる。斗音にしてみればダメもとで、OKが出たらラッキーなのだ。慈恩は眉根を寄せて、漆黒の髪をくしゃくしゃかき乱した。
「お前、楽しんでるだろ」
 斗音はくすっと笑った。悪戯っ子の笑いではなく、どちらかと言うと、それは弟を思う兄のものだった。
「ごめん。甘えてみたかっただけ。お前が俺のことを思って言ってくれてるのは、分かってるよ」
 三十分でできるだけやったら、ちゃんと寝る、と言って微笑んだ

 慈恩がちょっとぬるめの風呂から出て居間に戻ると、パジャマに着替えた斗音が一心不乱に勉強をしていた。慈恩が出てきたのに気づいて、ふと綺麗な顔を上げる。
「あ・・・・・・もう三十分・・・・・・だね・・・・・・」
 顔一杯に未練がましさを浮かべて、つぶやいた。まだ納得がいっていないのだろう。でも、パタパタとノートや教科書を閉じた。
「もう、寝るよ。・・・・・・・・・慈恩、おやすみ・・・」
 たくさんのテキストや問題集を抱えて、立ち上がる。慈恩はタオルをハンガーに掛け、その荷物を半分取り上げた。
「持ってくよ」
「・・・・・・あ、ありがと」
 きょとんとした顔で、斗音は慈恩を見た。
 斗音の部屋まで来ると、慈恩は持ってきた勉強道具を机にそっと置いた。斗音は言われる前に、ベッドにもぐりこむ。
「・・・・・・慈恩。・・・・・・今日は心配かけてごめん」
 目の下まですっぽり布団をかぶって、薄茶の大きな瞳だけを慈恩に向ける。慈恩はちらりとそっちを見て、机の上に置いたノートなどを広げて見ている。
「・・・・・・分からないところはなかった?」
 斗音はしばらく間をおいてから、布団の中で、ううん、とこもった声で否定した。
「答え見れば分かるんだけど、同じような問題でちょっとパターン変えられると・・・・・・自信ないな」
「・・・・・・どの問題?」
 テキストを差し出す。それを受け取り、斗音はぱらぱらとページをめくって、枕元に置く。
「これ。グラフがいくつかあるパターンなんだけど、どの問題でどのグラフが必要になるのか、答えを見ればその必要性が分かるんだけど、答え見ないと思いつかないんだ。こういう場合、どうしたらいいと思う?」
 慈恩はそれをしばらく見つめ、机でさらさらとノートにグラフや式を書き始める。そして、椅子を枕元まで持ってきて、改めてそこに座る。
「ここで見えるか?」
「・・・・・・うん」
 斗音は寝返りを打って、枕元に置かれたノートをのぞき込んだ。
「この式の場合、変域はどうなると思う?」
「・・・・・・yは・・・・・・えーと、ちょっとシャーペン貸して」
 こうなって、この場合が・・・などとつぶやきながら、慈恩が書いたところに付け足していく。
「これでいい?」
「ほとんど出てきたな。でも、これは大なりイコールだから、この場合もあるわけだ」
 言いながら、慈恩が書き足す。斗音が悔しそうな顔をする。
「あ、そうだ。それ、絶対に見落とすんだよなあ」
「イコールがついてる場合は要注意だ。もうひとつないか、必ず確認すること。じゃあ、この式の場合は?」
「これは、こっちが大なりで、こっちが大なりイコールだから・・・・・・」
「うん、それでいい。じゃあ、グラフ書くとどうなる?」
「yが4のときにxの値が・・・・・・こうで、変域に合わせてこのグラフはここまで。もうひとつは・・・・・・」
「この点はイコールだから・・・」
「含める、で黒だよね。と言うことは、この式の値はこれだけ?」
「そう。これで正解だ」
「そっか・・・・・・うん、これは分かった。大丈夫」
 言ってから、斗音はふわりと微笑んだ。
「・・・ありがと」
 慈恩は何瞬かの間、言葉に詰まっていたが、少し翳りのある笑みを返した。
「・・・・・・・・・・・・できないつらさを、お前にはもう味わわせたくない」
 慈恩の言葉に斗音が軽く目を見開く。
「・・・・・そのために俺にできることがあるなら、何でもする」
「・・・・・・慈恩・・・・・・」
 静かに、でもそう言い切った双子の弟の、真摯な漆黒の瞳を斗音は見つめた。
(もしかして・・・・・・もしかして俺は)
「・・・・・・あり・・・がと・・・・・・」
(・・・・・・慈恩の足枷になってる・・・・・・・・・・・・?)
 斗音は突如心の中に湧き上がった不安を押し殺すように、微笑んで見せた。

   ***

 翌日の登校を、慈恩は心配した。発作のこともあったが、昨日の如月祭の発表のことも気にかかっていた。斗音が野次に負けないと言ったのは信じている。でも、ストレスが喘息に良くないことも確かだったのだ。斗音は全く気にもしていなかったのだが。
 しかし、現実は思ったよりも厳しいものがあった。人というものは、「自分より下」(この場合は年下ということになるのだが)だと思っていた人物に、自分の不愉快の原因を作られたと思うと、その相手がひどく腹立たしく思えるものらしい。学力では優秀な如月の生徒でも、例外でない者は多かった。
「小生意気な副会長さんのお出ましだぜ」
 意地の悪い言葉と刺すような視線が、校門をくぐった瞬間に飛んできた。軽音楽部が使っている三階の音楽室辺りからである。慈恩が窓際でこちらを見下ろしている何人かを視界に捉え、眉根を寄せる。
 嫌な人物だと決めてかかると、今まで見えていなかったことや、気にもなっていなかったことですら悪く見えてくるようで、今まで聞いたこともないような中傷が斗音に浴びせられた。
「すました顔してるよな。ハーフだっけ」
「弟をいつも従えてるんだよな。身体が弱いとか何とか言って」
「だって、軟弱そうだろ、どう見ても」
 聞こえるように言うのが醜い、と慈恩は思う。しかも、外見だけで中身の伴わないこと。全く愚かだと思う。ちらりと斗音をうかがうと、多少硬い表情になっているようだが、自分なりのバリアーを張っているように見える。
「弟は強いもんな。虎の威を借る・・・・・・ってやつ?」
「でも、影に隠れてんじゃねえからさあ。それを下僕扱いしてんだぜ」
 そんな声が聞こえた瞬間、慈恩は声の発信源に向けた視線に殺気を込めた。その視線に刺された一人の男子生徒が、その迫力に一瞬で色を失う。
「慈恩」
 ぐい、と腕を引っ張られて、慈恩は兄を振り返った。
「敵増やしてどうすんの」
 苦笑だろうか。斗音は微かに笑みを浮かべている。
「言わせとけばいい。俺は俺だよ」
 淡い微笑みがなんだか消えてしまいそうなのに、意志の強い言葉は揺るぎない。その不思議な力に押されて、慈恩は心臓が大きく、脈を打ったのを感じた。純粋に、斗音に尊敬の思いを抱く。
 突如、二人の首に長い腕が絡まった。
「よっ」
 二人の間からさらさらっと淡紫色の髪が揺れる。慈恩よりやや身長の高い嵐が、二人に交互に笑みを送る。
「元気か、斗音」
 斗音がにっこり笑った。

「うん」
「慈恩、お前が殺気立つなよ。お前も執行部だろ」
 慈恩が見つめると、嵐はにやりと笑った。
「俺もあれをのさばらせておく気にはなれねえけど、ま、俺が殺気立つ分には構わねえか」
 言って、音楽室の方を見上げる。嵐は大きく息を吸い込んだ。
「よお、あんたら冴えねえバンド組んでる伊東さん、森野さん、井戸さんだよな」
 名前を呼ばれた窓際の三人はぎょっとしてあとずさる。嵐のいい声はよく透る。おまけに人並み外れたというよりは、異常な記憶力から、ちょっとでも聞いたことは忘れない。正確に言えば、普段はすっぱりと忘れているのだが、これまた異常な集中力で自分の記憶を自在に引き出すことができるのだ。全校生徒の名前くらい、恐らくその頭の中に全て記憶されている。
「今日は下衆野郎がいつもより多い気がするけど、あんたらもその類かい」
 慈恩に劣らない殺気を込めた視線を、こちらは不敵な笑みに載せて送る。その端正な顔に、楽しみながら、本当に殺しに行きそうな雰囲気を湛えている。
「自分らが冴えないからって、他の人間中傷か。そんなんだから冴えねえんだよ、あんたら」
 核心の図星を痛烈な言葉で皮肉られ、窓際にいた三人はよろめくように、視界から消えた。それなりにプライドのある如月の生徒である。間違いなく精神的に大ダメージをこうむっているだろう。はっきり言って、絶対に敵に回したくないタイプである。
(本気で殺しにいったな)
 慈恩は苦笑する。自分も嵐くらいの力があれば、と思うのだが、そうもいかない。嵐は全てにおいて別格なのだ。全校生徒で、この淡紫色の髪を持つ異端児を知らない者は皆無で、三年生ですら恐らく、彼に敵う者はない。今の言葉を聞いていた人間であれば、二度と斗音を中傷しようとは思わないだろう。それを、わざと校庭から校舎の三階までの距離を置いてやってのけたのは、間違いなく嵐の作戦である。嵐の声量がなければ、できないことだ。
「ありがと」
 斗音が囁く。嵐は軽く首を振る。
「慈恩がやりたかったことをやっただけ。でも、これで収まるとも思えねえからな。しばらくは嫌な思いすること、あると思うぜ」
 決して軽はずみなことは言わない。斗音はうなずいた。
「うん、分かってる」
「ま、慈恩が守ろうとするんだろうけど」
 すらりとした体躯の嵐にその凛とした眼差しを向けられて、慈恩は苦笑いである。
「分かってるよ。後先のことは考える」
「お前、本気で怒ると見境なく相手殺しそうな気がするからなあ」
(いや、お前だよ)

 双子はこの恩人に、同時に心の中で突っ込んだ。

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四.近藤の想い

 時は半日ほどさかのぼる。

 都会の高級住宅地にこれだけ大きな土地、大きな家があるというのは、反則だろう。と、誰もが思うようなその屋敷には、九条という表札が掲げられている。

 午後六時半を過ぎた頃、その門に、大きな黒いベンツがつけ、中からその大きな門が開かれる。ベンツがその大きな庭へ入ると、まるでそれを飲み込むかのように大きな門が閉まった。

 これまた大きな玄関に車が寄り、立派な体躯の運転手が下りてきて、後部座席のドアをうやうやしく開ける。
 先のほうだけ上品にカールしたしなやかな長い黒髪を、慣れた仕草で肩の後ろへ流し、車から女性が一人、静かに降り立つ。

「ありがとう、三神」
 
年の頃は、三十くらいに見える。白い肌に、漆黒の瞳と長い睫毛が印象的な美人である。
「絢音様、お帰りなさいませ」
 玄関で女性が一人出迎える。
「雅成さんは、もう帰っていらっしゃる?」
「はい、先ほど。奥様のお帰りをお待ちでいらっしゃいます」
「そう。ありがとう」
 歩く姿は何とやら、と、美しい女性を花に例えた格言は、この女性のためにあるかと思われるほど、たおやかに開けられた玄関をくぐる。
「おかえり、絢音」
 広い居間のソファで待っていたのは、優しげな一人の男性。
「今日は、どうだった?」
 絢音と呼ばれた女性は、胸の前で手を組み合わせて、うっとりと先ほど見てきた光景を語る。
「ええ・・・・・・少しだけですけど、あの子が私を見てくれた気がしたの。とても精悍で・・・・・・貴方にも見て欲しかったわ」
 そんな絢音の言葉を、そう、と微笑んで男性は聞いている。
「お母様たちには、まだ知られるわけにいかないけれど・・・・・・今はあの子をこうして見ることができるのが、何より嬉しいの。もっと、あの子のことを知りたいわ」
 そして、ふと思いついたように言う。

「ね、雅成さんも、明日とか早めに帰ってらして、如月高校に見に行きません?」
 
一瞬、男性の顔には苦悩の表情が浮かぶ。しかし、自分の世界に没頭している絢音の方は、それに気づかない。
「僕みたいなのが行ったら、怪しまれるよ。それに、仕事もそんなに早く終わらないと思うし・・・・・・僕は君の話を聴いてるほうが楽しいよ」
「そう?残念だわ・・・・・・。部活だけじゃなくて、もっと普段のあの子も見てみたいわ。だって、部活だと剣道でしょう?最後くらいしか、顔を見ることができないの。でも、遠目に見ても凛々しい顔立ちで、背も高くて・・・・・・」
 永遠に続きそうな絢音の話を、雅成は少し寂しそうな顔で聞いていた。

   ***

 嵐の攻撃的な牽制により、斗音への非難は二割ばかり減った。もともと三年生の有志希望(しかも、オーディションに受かる自信がない者中心)の男子生徒という限定された不平分子たちは、全校生徒の中でそれほど多数を占めているわけではない。その日、斗音は心無い言葉を何度か浴びせられることはあったが、決して驕ることもなく、かといって弱気になることもなく、それらをやり過ごした。三年生の執行部の面々が中から動いているのも確かだった。
「斗音、ごめんな。嫌な思いさせてると思うけど・・・・・・」
 部活の始まる前に、いつものように執行部メンバーが生徒会室に集まっている。今井の言葉に、三年生の面々が申し訳なさそうにうなずく。
「東雲が朝、派手にやってくれたおかげでいくらかマシになったみてえだけどな」
 武知がおかしそうに笑った。ちょうど朝練の前に自分の教室にいた武知は、自分のクラスでも窓越しに斗音を見下すようにしていた輩が青ざめて、たじろいでいるのを目撃していたのだ。そこで、
「東雲か。あいつのすごいところは、低レベルな次元で言い争いをしないところだな。完全に封じ込められて、言われた方はぐうの音もでねえ」
と、付け足して釘を刺したのだが。
「それほど気になることはありません。先輩たちのおかげです」
「と、お前の頼りがいのある友達ね」
 斗音の言葉に、弓削が補足する。斗音は、肯定も否定もせず、ただ少し微笑んだ。
 改めて、今井がメンバーを座らせ、資料を配布した。
「全員受け取った?さて、じゃあ今日の本題。問題のオーディションの方法と、受付、それから部活の企画、クラスの企画。クラスの企画については、全クラスがやることになるから、学活の使い方も級長に伝達しなきゃいけない。確保できるのは二時間。申請してもらってから詰める分に関しては、各クラス裁量になる。そのことは顧問の伊藤先生から各クラスの担任の先生に了解を取ってもらってある。級長に計画させるようにしよう。申請は毎年六月末。こちらの審査を通して、承認もしなきゃいけないけど、間に合うかな?」
「いつも思うけど、それって厳しいわ。それで却下されたところは一からやり直しよ。せっかく早め早めに事を進めてるんだから、六月中旬に申請でもいいと思うわ」
 武知と藤堂がうなずいて同意する。
「けど、あんまり早くても、士気が持たないってのもあるぜ。盛り上がりに欠ける分、企画内容が希薄になるってことはないか?」
 弓削は慎重派である。今井がまだ意思を示していない慈恩に振る。

「慈恩はどう思う?」
 慈恩は少し考えてから、視線を上げる。
「六月中旬の方が、どちらにしても余裕はあるでしょう。弓削先輩の指摘されたことをどうするか、対策を立てられれば」
 うなずいて斗音が付け加える。
「盛り上げる手順を考えましょう。例えば、今までの如月祭のビデオを流すとか、こちらが挙げたテーマに沿っていた企画には、何か賞を贈るようにするとか、生徒の活動意欲を刺激してから企画の話し合いに持ち込むようにしたら?」
 今井が感心しつつも半分呆れ顔で笑った。

「よくもそうぽんぽん思いつくもんだな。なるほど、俺はなかなかいいと思うけど、みんなはどうだ」
「それなら、盛り上がると思う。アイデアを刺激されるし、競争心も煽れそうだし。とするなら、話し合いの二時間の前に、それをこっちで実行しなきゃな」
「じゃあ、その計画の担当者もいるわね」
「この時点で、既に斗音のアイデア実行決定だな」

 武知の言葉に今井がうなずく。
「もう少し、対策について吟味してから、残りのことも含めて担当者決めちまおうか。ちょっと時間押しちゃうけど、玄道、大丈夫か?」
「俺は三年だから、そう支障はねえよ。どっちかって言うと二年生の方が・・・・・・」
「俺は平気っす。前もって集まること伝えてあれば、お咎めはないっす」
 藤堂が元気に答える。慈恩は静かに伏目がちなまま答えた。
「大丈夫です」
 斗音が少し心配そうに慈恩を見遣る。近藤の慈恩に対するスパルタぶりはよく知っていた。慈恩の大丈夫、は、お咎めはあるが、その試練に耐えることができるから大丈夫だ、という意味なのである。
「斗音は?」
 言われてはっと今井に向き直る。
「あ、俺は・・・・・・平気です」
 恐らく今日は、無茶はさせてもらえないだろう。それに、バスケ部では斗音が副会長になった時点で、斗音の遅刻や欠席はカウントされなくなっている。甘いといえば甘いし、理解があるといえばある。逆に、斗音が信用されているという証拠でもあるのだろう。部長に気に入られているのは、慈恩と同じ(?)なのだが、身体の弱い斗音に厳しいお咎めをするような人間であれば、恐らく如月で部長などやってはいまい。
 今井はうなずいた。

「よし、じゃあまずは企画を立てる前の盛り上げ作戦からだ」

   ***

 結局四十分近く執行部の面々は遅れて部活にいくことになった。会長の今井と副会長の斗音だけは、それでもまだ足りなくて、残って仕事をすることになっているので、部活をやっているメンバーのことを考えた上で、最短の遅刻時間にしてもらえたのであったが。
「椎名、てめぇ、俺が練習できんだろうが!」
 剣道部全員が、ひいっ、と肩をすくめる。当の慈恩だけが、すっと頭を下げた。
「すみません」
「俺と対等にできるのはお前しかいねえんだ。分かってんのかっ!」

(ちょー自己中ーっ)

 部員たちの心の声など、もし聞こえていたとしてもお構いなしの近藤である。慈恩は苦笑いした。
「そこまで自分のこと過信してるつもりはありませんけど」
(口ごたえかいっ!)
 近藤ははっきり言って怖いので、三年生の部員ですらあまり逆らうことはない。そういう意味で、慈恩は大物である。
「じゃあ、自覚しろ!お前、今日は残りの時間で全員が今日こなしたメニュー全部やれ。その後、遅刻した分残って俺の練習に付き合え」
 中堅で副部長の橋本が、控えめに近藤に意見する。
「って、もう部活時間かなり過ぎてんだぞ。今から全部なんて、無理じゃねえ?」
「無理でも何でもやらせる。部の規律を乱すようでは困るからな。例外はない。相手が必要な稽古に関しては、橋本、お前が相手しろ」
(げげ、とばっちり!?)

 橋本含め、全員が心の中で、近藤に意見する恐ろしさを思い知った。

「分かりました」
 慈恩がもう一度礼をして、橋本の横を通り過ぎる。
「すみません。お願いします」
 通り過ぎざまに掛けられた囁き声に、橋本は仕方なさそうに吐息した。
「笑ってそんなこと言われたら、俺、断ることもできねえじゃん」
(かっこいい奴め)
 田近が感嘆の溜息をついて、周りを見回す。そら、一年生部員なんて、うっとり陶酔してしまっているではないか。近藤が二年の夏に部長になってから、あまりに厳しくて、ほとんどいなかった女子部員は全員、幽霊部員と化すか、退部してしまったのだが、もしいたとしたら、間違いなく慈恩に惚れているだろう。
 そんなことを思いながら、ふと開いた扉の向こうに既視感を覚えて、田近は巡らせていた目を留める。
(あれ、あの人、昨日の・・・・・・?)

 昨日と同じ場所に、控えめにたたずんでいる黒髪の女性がいた。

 残りの時間で全員と同じ稽古をこなした慈恩は、剣道部員全員に、更なる尊敬の思いを抱かせるのに十分だった。
「ほんとに、やりやがった・・・・・・」
 ぜいぜい言っているのは、相手をした橋本である。基本的に受ける役ばかりだったのだが、慈恩に攻められる役というのは相当の力と技術を要するのだ。
「ありがとうございました」
 呼吸は荒いものの、しっかりした口調で慈恩は言って、頭を下げる。時間を短くする分、人の倍のスピードでやってのけたのだ。きつくなかったわけがない。
「まだ生きてるな。結構。よし、全員整列!」
 近藤の威圧感ある声に、全員がさっと動いた。
 礼に始まり、礼に終わる。防具を外すまできっちり全員でそろえて行う剣道部は、そこでようやく挨拶をして解散となる。
「頑張れ、慈恩。近藤先輩と心中しないように」
 田近が笑いながら言うと、慈恩は天井を仰ぎながら、まだ荒い呼吸のひとつで溜息をつく。
「俺が死んでも、あの人はきっと生きてるよ」
 くすっと笑う。田近もそりゃそうだ、と相槌を打った。そして、改めて慈恩をその視線で捉える。
「死ぬなよ。俺も含めて、剣道部にはお前を崇拝してやまないファンが大勢いるんだ」
「なんだそれ。・・・はは、激励にしては、大げさだな」
 田近は肩をすくめた。
「かもな。激励のつもりで言ったんじゃねえから」
 にやっと笑って、田近は慈恩の肩をたたく。
「じゃ、お先。そうそう、あの美人、今日もいるぜ。まだ残りそうなところを見ると、慈恩か部長のこと見てるのは確かだぜ」
「・・・・・・ほんとだ。でも、俺は見られるような心当たり、ないな」
 ふう、と大きく息をつく。田近は自分のことに鈍感な慈恩に、もう一度お先、と言って剣道場の更衣室へ歩を進める。

(慈恩なら、外にファンがいてもおかしくねえって)
 
その背中に、慈恩が声を掛けた。

「悪い、田近。斗音に・・・・・・遅くなるから先に帰れって・・・・・・伝えてくれ」

「分かった。遺言として聞いとくよ」
 近藤の影響なのか、剣道部では縁起でもない言葉が飛び交う習慣になっているらしい。
「椎名。防具をつけろ。遅れた四十分、死ぬまできっちり相手しろよ」
 傲慢に笑って、縁起でもない大元が喉元に竹刀を突きつける。慈恩は顎を引いて、大きく息を吐き出した。
「はい。・・・・・・お願いします」
 近藤だって、他の部員たちと同じだけの練習をしている。プラス四十分の練習は、絶対につらい。まして慈恩を相手に、だ。インターハイを狙うには自分が強くなければ、という強固な思いが、近藤にはある。だからこそ、慈恩は敬服するのだ。この部長に。しかも。
「やああああああああっ!!」

「っ!」

(容赦なしかっ)

 他の部員だったら吹っ飛ばされる一撃を、受け止めて流す。流したというのに、腕がしびれるほどの衝撃だ。

 掟破りの練習試合八連続である。体力的には近藤が上回るので、七試合目ともなると慈恩は攻められっぱなしになっていた。

(どっからこの力が出てくるんだよっ!)
 
猛然と襲い掛かってくる竹刀をかわし、止める。防戦一方である。

「りゃあああああああっ!!」
 
その中でもひときわ強力な面への一撃を間一髪でかわす。大振りだっただけに、かわされて一瞬の隙ができる。

「小手ぇっ!」
 その隙を突いて、慈恩はその流れた腕を思い切り竹刀で打ち払った。近藤の竹刀が手から離れ、音を立てる。
「っやろぉ・・・・・・バテバテのくせに、てめえはどこまで鋭いんだ」
 手首をつかんでうずくまる近藤の息も、かなり荒い。
「いつも、しごかれてますから」
 軽口っぽく言い返す慈恩は、その何倍も乱れた呼吸である。
「くそ・・・・・・これで五対ニか。ラスト、絶対一本とってやる」
 普通にしていれば、きりっと意志の強そうな眉、彫りの深い目鼻立ちで、甘いマスクだと騒がれてもおかしくないくらいの近藤だが、何せその目がぎらぎらしているから、飢えた野獣のようなイメージの方が、剣道部では一般的である。慈恩も面の下のその目に、気圧されるような迫力を覚える。
「よし、ラストだ!」

「お願い、します」
 慈恩はよろめきそうな足を、何とか踏みしめた。

 剣道場で繰り広げられている、鬼のような試合の様子をじっと見つめていた絢音は、ふっと後ろを振り返った。それを合図に、道路の脇に止めてあったベンツがゆっくり近づいてくる。
「お帰りですか、絢音様」
 降りてきたガタイのいい運転手が、慣れた仕草で絢音の手を取る。
「とりあえず、終わったみたい。これ以上いると、怪しまれてしまいそう・・・・・・。でも、普段の姿を一目見てみたいわ。三神、校門へ回して頂戴」
 開けられた後部座席へ、優雅な仕草で乗り込む。
「はい」

 三神と呼ばれた運転手はうやうやしく頭を下げた。

 まだ慈恩と近藤が一騎打ちの真っ最中だった頃。
「なあ、斗音見なかった?」
 田近に声を掛けられて、部活帰りの翔一郎と瞬が振り返る。
「斗音、今日は執行部で部活来られなかったから、分かんないな」
「まだ靴はあったから、仕事してんじゃないかな」
「げ、まだ?参ったなあ」
 田近は頭を掻く。
「今日はあいつを待ってるわけじゃないんだ?」
 瞬がうーん、と首をかしげた。
「俺、塾があるからなあ。遅くなるかもって言ってたから、今日は先帰ろうと思ってたんだ」
「何で?なんか用事でもあった?」
 翔一郎の質問に、田近は困り顔でうなずいた。
「今日、慈恩が居残りで部長の練習に付き合わされてんだ。遅刻してきた分、きっちり四十分。だから、慈恩が先に帰ってくれって。そっかー、仕事長引いてんのかー。でも、だったら慈恩も一緒に帰れるかも知れねえじゃん。俺、生徒会室に行ってくる」
 自分で勝手に答えを導き出して、ぽんと手をうった田近に、瞬がにっこり笑って言う。

「斗音、携帯持ってるから、メールで教えてやればいいじゃん」
「へ?でも、携帯って先生とかに許可もらわねえと、持てないだろ?」
「万が一発作が起きた時にさ。そう言われて許可出さない人、いないだろ」
 翔一郎が軽く片目を閉じて見せる。かっこいいくせに、お茶目である。
「いいなあ。でも、俺携帯持ってねえし、あいつの番号も知らない」
「俺持ってるから打ってあげるよ」
 瞬がちゃきっとシルバーの携帯を取り出す。
「お前は何で持ってるんだよ」
「ん?ただの校則違反」

「ダメじゃん」

 三人で笑い合う。笑いながら、瞬が可愛らしく首を傾けて見せる。
「ちょっとね。親が心配性でうるさくってさ。持てって聞かないんだよ。塾で遅くなるし」
「一応正当な理由、あるんだ」
「うん、あるんだけどな。ただ単に、こいつめんどくさがって許可取ろうとしねえの」
 翔一郎が小さな頭を小突く。瞬はにっこり笑った。

「うん。だから、校則違反」
 可愛い顔して、ずぼらだわ小悪魔だわ。田近は笑いつつ呆れ顔である。
「じゃ、メール打っとくよ。田近、ごくろーさん」
「おう、じゃ、頼んだぞ」
 待たせていたらしい友人のところへ走り出す田近に、翔一郎は爽やかな微笑みを浮かべる。
「あいつ、いい奴だな」

「ん、なんで?」
 メールを手早く打ちながら生返事をする瞬に、翔一郎はご丁寧に説明した。
「だって、友達待たせて斗音を探し回ってたんだぜ。俺たちに声掛けたのも、俺たちに伝言させるためじゃなくて、あくまで斗音の居場所を聞くためでさ。居場所知って、生徒会室まで行こうとしただろ。慈恩からの伝言を、確実に伝えようとしてたんじゃないかな」
「でも、俺にメール任せたよ?」
「お前がやるって言ったからだろ。そこはお前を信用したんだよ」

「ああ、なるほど」
 送信ボタンを押して、瞬はうなずいた。

「確かに、いい奴だね。ていうか、きっとあいつも慈恩のことが好きなんだよ」

 翔一郎もうなずいた。

「ん。だろうな」

「あ」
 小さく声を上げた斗音に、今井がちらりと視線を送る。
「どした?」
「いや、ちょっと失礼します」
 生徒会室から出て、そっと細かく振動を伝えてきている携帯を開く。許可されているとはいえ、許可されている内容以外に使うのはやはり躊躇われる。その辺り、瞬と違って斗音は真面目である。それに、携帯を持っていることを快く思わない者もいるのだ。
(瞬から、メール?)

 液晶画面に「今日は慈恩が居残りで部長の練習に四十分、遅刻した分きっちり付き合わされるみたいだよ。だから、先に帰ってくれ、だって。慈恩からの伝言。慈恩、かわいそー。By田近。P.S.斗音も仕事頑張れ!あんまり無茶しないよーにね!」と、瞬らしいといえばらしい言葉が連なっている。「By田近」は、「~伝言。」の後につけるべきだろうとか、そのメールを見た斗音は思う余裕がなかった。

「・・・・・・慈恩」
 申し訳ないと思う。自分が慈恩を執行部に誘いさえしなければ、剣道部のしごきに合うこともなかったはずだ。「了解。ありがと」と、短く打って、メールを返しながら時間を見ると、部活が終了してからそろそろ二十分ほど経過しようとしていた。
(・・・・・・もう少し仕事して、待ってようかな)
 ぱちん、と携帯をたたんで、斗音はそれを制服のポケットに片付けた。
 生徒会室に戻ると、今井がニヤニヤ笑っていた。
「何?彼女からメール?」
 誤解はあるが、ばれている。
「あ、いや、友達から伝言です」
「別に、堂々と使えばいいのに。許可されてるんだろ?」
「許可された内容以外で使ってたら、示しがつかないでしょう?」

「まあ、確かにそうだけど。俺は気にしねえから、俺の前で気を遣わなくていいぞ」
 この気さくさは、今井の魅力のひとつだろう。更に付け加える。
「誰か待ってるようなら、もう帰っていいぞ。あとは俺だけでも何とかなる。部活もサボらせちまったし、いくら副会長だからって、これ以上つき合わせるのも悪いから」

「一応、俺の仕事は会長のサポートだと思ってますから。それに、もう少し残ってた方が、都合がいいんです。これだけ片付けます」
 斗音の知的な笑顔の中に、少し陰があるような気がして、今井は一瞬言葉を詰めた。しかし、それを聞くほど野暮でもなかったので、そのままうなずいた。

「そうか。助かるよ」

 一仕事終えてから、斗音は剣道場へ向かった。ちょうど、慈恩の居残りが終了して、もう片付け始めているくらいの時刻である。視界に、扉が開け放たれている道場が入った。
(あれ、まだ終わってない?)
 不審に思って、そっと入り口からのぞいてみる。広い場内。二人分の防具がバラバラに置いてあるのが、まず目に入った。おかしいと思う前に、壁に寄りかかるようにしている人の姿を見つける。
(・・・え?)
 一瞬、自分の目が悪くて、二人の姿がしっかり識別できないのかと思った。でも、そうではないとはっきり認識したとき、斗音は反射的に中から見えないように、外の壁に背中を張り付かせていた。心臓が激しく踊り狂い、息をすることさえ苦しい。その上、頭の中は今見たものを否定しようとか、自分を何とか納得させようとか、どうやらやりたいことがありすぎて大混乱に陥っているようだ。
(何?今の、何?)
 斗音は思わず、自分の網膜に焼き付いてはなれない一瞬の光景を、払いのけるかのように、激しく首を横に振った。
 壁に押し付けた慈恩に、剣道部の部長が覆いかぶさるようにして。
(・・・・・・・・・何で?!)

 唇を押し付けていた。

 意識が朦朧としていたせいか、ちょっとの間、何が起こっているのか分からなかった。
(・・・・・・息、苦しい)
 慈恩は凛々しい眉を寄せ、喉でこもった声を立てる。呼吸を遮るものを振りほどこうとして、首を振ったら、強い力で後頭部から抱え込まれて、ますます強く唇を塞がれた。
(な・・・に・・・・・・・・・?)
 肩や背中が硬いものに押し付けられて、痛みを訴えている。
「・・・んっ・・・・・・」
 苦しくてもがいたら、唇が圧迫感から開放され、一気に呼吸が楽になった。
「・・・・・・すまん」
 非常に聞き覚えのある声が耳の後ろで聞こえ、今度は上半身が束縛された。自分が抱きしめられていると分かったのは、数瞬を置いてからである。
「・・・・・・・・・・・近藤・・・さん?」
 なぜこうなったのだろう、とぼんやり考える。
 ラストの一戦、完全に体力が限界に来ていた。後ずさりながらも、気力だけで近藤の攻撃をかわしていたが、膝ががくがく震えてきて、まずい、と思った瞬間、身体ががくんと揺れた。そこへ力一杯胴を打ち込まれ、文字通り吹っ飛ばされたのは覚えている。身体が鉛のように重くて、起き上がれなかった。それで、近藤が自分の防具を取り払い、投げ捨てるようにして駆け寄ってきた。
「おい、椎名!椎名、大丈夫か!?」
 自分の力では、指一本動かせなかったので、近藤の声に反応することができなかった。こんな時、いつもの近藤なら、生きてるか、とか、死んだか、なんて言いそうなのに、と、どうでもいいことを思っていた。

 近藤は自分の防具を外しながら、ずっと大丈夫か、しっかりしろ、と呼びかけていた気がする。

「椎名、立てるか?」
 かなり意識に濃い霧がかかっているようで、うなずきはしたものの、全く身体は言うことを聞かなかった。近藤が肩に自分の腕をかけ、身体を引っ張り上げたので、この期に及んでなんて馬鹿力、となんだかおかしくさえ思った。この人には、敵わないと思った。

(・・・・・・ああ、そうか、そこで俺がよろけて・・・・・・)
 壁にもたれかかった。そんな自分に、近藤は確か馬鹿野郎、とつぶやいて、襟の合わせをつかみ上げて・・・・・・自分は壁に押し付けられた。そして・・・・・・
(・・・・・・俺、キスされた・・・・・・?)
 結構ショックな気がするが、なにしろ考えてくれるはずの脳細胞が、恐らく酸素や水分不足で、しっかり働いてくれない。脳貧血の一歩手前といったところか。
「・・・・・・あの・・・」
「すまんって、言っただろ!」
(怒るし)
 まだ霞がかった思考のまま、自分をその両腕できつく縛り付ける相手に問いかける。
「・・・・・・・・・どう、して・・・?」
 しばらく、反応はなかった。この人らしくない、と思ったら、耳の後ろでぼそりと、もっとらしくない言い方で、つぶやくような声。
「・・・・・・お前が好きだ」

 沈黙のまま、何瞬かが流れた。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・え・・・・・・?」
 いつもはものすごく切れる慈恩の頭だが、ただでさえ朦朧としている上に、理解しがたい言葉だったものだから、慈恩はものすごく時間をかけてぼんやり考えた挙句、間の抜けた声を出す羽目になった。瞬間、近藤の血管のひとつが、ブチッと音を立てたような気がした。両の二の腕を力いっぱいつかまれ、頭の上から覆いかぶさるような怒鳴り声が降ってきた。
「お前に惚れてるって言ってんだよっ!!!」
(・・・・・・うわっ!?・・・・・・えぇっ?)
「・・・・・・ほ、惚れ・・・?」
「鈍いな貴様はぁっ!」
 また怒られる。首をすくめて、耳に響く声を受け止める。その衝撃というわけでもないのだろうが、疲れきっていた膝が、いきなりがくんと折れて、身体が壁からずり落ちる。
「椎名!」

 近藤があわてて膝をつき、その身体を抱き留めて支えた。
「すいませ・・・・・・」
「馬鹿野郎が」

 なんだか、聞いたような台詞だと思い、以前も似たようなことがあったな、などと思う。
「この近藤勇鯉(ゆうり)
が一世一代の告白をしたってのに、お前は」
 困ったような、呆れたような苦笑いを見せる近藤である。支えながら、ゆっくり慈恩を床に座らせる。片足は曲げたまま、もう一方の足はすべるままに伸ばした。慈恩は壁にもたれて、自分を上からのぞくようにしている近藤を、見上げた。頬を大きな両手で包まれる。
「・・・・・・俺は・・・・・・・・・・・・」
 続く言葉が見つからない。考えるのは、近藤のその想いに対して、自分がどう反応したらいいのか、ということ。少なくとも、嵐に言われた「好き」と種類が違うことくらいは、よく分かる。しかし、女の子ならともかく、こんな告白には、どう言ったものかさっぱり見当がつかない。これはもう、頭がボーっとしているせいだけではあるまい。仕方なく、そのままの混乱振りを言葉にする。
「・・・・・・同性に、そんな風に言われるの・・・・・・ちょっと、慣れてなくて・・・・・・」
「当たり前だ。そんなのがしょっちゅうあってたまるか、アホ」
(アホ・・・・・・?)
 一生懸命考えた挙句の言葉だったのに、とちょっと思う。近藤は慈恩の伸ばした足の両脇に膝をついて、その困惑した顔を両手で包んだまま、しっかり自分の方を向かせた。
「俺はお前に、俺を見て欲しいとか、同じ想いを感じて欲しいとか、そんなつまらんことは求めてない。いいか、俺がお前のことをそう想ってるっていうのは事実で、俺にとっては、それが全てだ。お前はお前で、それを知っててくれればいい。お前にそれを引きずってもらう気もないし、当然何か応えようなんて、思う必要もない。ていうか、態度変えたらぶっ殺す」
「・・・・・・・・・・・・」
 慈恩は向けられるまま、近藤の顔をまじまじと見つめた。滅茶苦茶な練習をさせておいて、強引にキスしておいて、とんでもない告白でこっちを散々混乱させた挙句に、ぶっ殺すと来たものだ。理不尽この上ない。思わずくすっと肩を揺らす。
「何がおかしい」
「いえ・・・・・・近藤さんらしくなった・・・・・・と思って」
 自分の頬に手を添える、その左手首にそっと手を掛ける。ようやく、意識にかかった霧も晴れてきたようだ。
「応えるとか、そんなのは・・・・・・よく分からないですけど」
 ふ、と微笑む。

「俺は・・・・・・純粋に強さを求める、近藤さんのこと・・・・・・尊敬してますよ」

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五.携帯電話

 はあ、はあ、はあ。
 自分の激しい呼吸だけが、ひどく大きく耳に聞こえる。鼓膜がどうにかなるんじゃないかと思うくらいだ。心臓もバクバクいっている。そんなに走ったはずはないのに。
「・・・・・・何やってんだ・・・」
 なじるのは、自分。校門に近い校舎の影で、空を仰ぐ。
「・・・・・・・・・・・・ばっかみたい」
 身体を投げ出すようにして、校舎の壁にもたれかかる。スクールバッグが右肩から滑り落ちて、どさりと音を立てた。
(何逃げてんだろ)
 全身を電撃に貫かれたかと思った。自分の目を疑った。とにかくその場にいることが、耐えられなかった。そして、そう感じる自分の浅ましさに気づく。
(俺は・・・・・・・・・・・・いつの間にか、慈恩を・・・・・・俺一人のものだと・・・勘違いして・・・・・・)

『弟をいつも従えてるんだよな。身体が弱いとか何とか言って』
『それを下僕扱いしてんだぜ』

 不意に、今朝浴びせられた言葉が、脳裏を駆け抜ける。
 その言葉は、斗音の心臓に鋭く突き刺さっていた。そんなつもりはない、と自分の中で打ち消したが、周りからはそう見えていたかもしれない、と思い、実は自分で違うと思っているだけで、他の人からすれば自分と慈恩の関係は、主従に近いものがあったのではないかと思い、心の底から何か冷たいものが湧き上って、自分を支配していった。慈恩や嵐の行動が、その不安を打ち消してくれたのだが、今再び、同じ冷たい思いに心が囚われていく。

(勘違いしてたのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺の方だ。俺の身体を心配してくれる慈恩に甘えて・・・・・・散々甘えて・・・・・・俺のためにあいつがいるんじゃないのに!!)
 嫌だ、と思った。近藤が慈恩にキスしているのが、許せなかった。同性に慈恩がそのような行為をされることで、慈恩が穢れるような気がした。慈恩を、そんなことで穢されたくなかった。そう感じること自体、慈恩を私物化している証拠だと、理性で考え、納得させようとするが、それがどうしてもできなかった。だから、耐えられなかった。
(あの人、まだ慈恩といる・・・はず・・・)
 ふと考えて、背筋に悪寒が走る。慈恩が近藤に応えるとは思わないが、だからこそ無理強いされているのではないかと、不安や不快で思考が荒んでいくのを感じる。
(嫌だ・・・嫌だ・・・・・・嫌だ!!)

 思わずポケットを探って、淡いブルーメタリックの携帯を取り出した。
 
慈恩は、携帯の許可をもらっている。斗音の発作が起きて、一番に連絡をもらうべき人物が、唯一の家族である慈恩だからだ。逆に言えば、慈恩が許可されないのならば、斗音が携帯を持つ意味もあまりないだろう。
 
もし慈恩の携帯を鳴らして、慈恩が気づけば、二人の邪魔をすることができるかもしれない。音が鳴らないようにはしているだろうが、バイブが作動することで、気づいてくれるかもしれない。もし気づいたら、慈恩は絶対に自分を優先するだろう。
 
躊躇いに躊躇って、でも、いてもたってもいられなくて、ついに、校門で待っていると伝えるメールを打った。普段の斗音だったら、絶対にそんなところで携帯を使ったりはしなかっただろう。メールを送信してから、自分に激しい嫌悪を覚える。
(・・・・・・俺は・・・・・・・・・・・・何してるんだよ・・・・・・)
 携帯をたたんで、ぎゅっと握り締めた。うつむいて唇を噛む。情けなくて、涙が滲んだ。
 途端。頭上から、からかいと皮肉を込めた声が浴びせられた。
「あれえ、生徒会副会長が、そんなむやみに携帯使ってていいのかあ?」

 如月は、憧れの高校である。合格する者の中には、自分の能力以上に無理をして、何とか引っかかるような者もあった。しかし、そんなタイプは如月の授業ペースやレベルについていけず、自暴自棄になったり、いわゆる非行に足を踏み入れることが、時折ある。斗音の周りに近づいてきたのは、そのタイプの、後者の集まりだった。特に、ボス格である瓜生は身体が大きくて腕っ節も強く、恐れられていた。三年生の中でも、比較的有名な連中なので、斗音も彼らのことは知っていた。
「確か身体弱くて、万が一の時に助けを呼べるように、それ持たせてもらってんだよな」
 俺たちとは大違いだ、と嘲笑うように校則違反の携帯を出して見せる。周りの取り巻きがぎゃははは、と品のない笑いを起こした。長めの髪を茶色に脱色している瓜生がずい、と、顔を上げた斗音に詰め寄る。
「何でもできる優等生が、みんなにおだてられて、最近調子乗ってるって言われてんの、当然知ってるよな」

「有志の発表に難癖つけて、制限したんだってな。伝統ある行事を大事にするとか、偉そうなこと言いながら、伝統的にみんなが楽しくやってた発表に規制作ってりゃ、世話ねえよ」
 
瓜生に続いて言ったのは、髪を激しいオレンジ色に染めている男だった。続いて、周りからかぶせるように汚い言葉が投げつけられる。
「女からちやほやされて、付け上がり過ぎだぜ」
「こんな女みてえな顔の、どこがいいんだか」
「女にかわいがられる方なんじゃねえ?」
 また下卑た笑いが集団に広がり、斗音の肌を粟立たせた。それでも、きっ、と複数の相手を見上げる。
「有志の件なら、全校集会ではっきり理由を言ったはずです。そのことについては、執行部全員の一致した意見ですから、俺に何か言っても、撤回されることは有り得ません。携帯の使い方については・・・・・・自分でも恥じるところがある。それは認めます。でも、校則違反を見せびらかすようなあなた方にそれを言われるのは納得いきません」
 瓜生以外の取り巻き三人は、その毅然とした態度に鼻白んだ。瓜生だけが、ふん、と笑う。
「へえ、威勢いいんだな」
 からかうような、馬鹿にした顔つきが、肉食獣が本気で獲物を狙うそれに豹変した。
「正しいことばっかり言って、自分の非も素直に認めて、それこそ非の打ち所がない反論だなあ。え?有能で結構じゃねえか。その御立派な口先で今まで世間渡ってきたのか」
「口先・・・?」
 カチンと来て、斗音が聞き咎める。しかし、瓜生の猛獣じみた危険なオーラは、既に止めようもないほど膨れ上がっていた。
「俺がむかついてんのは、有能で御立派な脳みそと、すまし顔で自分はそれが当たり前みたいに振舞うその態度なんだよ。なんせ俺らは、如月の優秀な脳みそに置いてきぼりにされた落ちこぼれだからな」
 ぎらぎらした目が斗音を縛り付けるかの如く、睨みつける。
(・・・なに・・・・・・?)
「考えたことねえだろ、優秀な人間は。ある程度プライド持った人間がそれ以上に優秀な人間を前にして、自分はそいつに及ばないと悟ったときの屈辱感なんて。てめえが御立派な口をたたけばたたくほど、こっちはむかつくんだよ!!」
 瓜生がつかみかかってきたのは分かった。でも、それに対して自分の防衛本能が働いて身体が反射的にその命令を実行するより前に、斗音は校舎の壁にたたきつけるように押し付けられた。

(・・・強い・・・・・・こいつ・・・!)
 制服の胸倉をつかみ上げる厳つい手首を引き離そうと、両手を掛けるが、びくともしない。
「だから、そういう奴には思い知らせてやりてえんだよ。どんなに頭の中身が優秀でも恐怖とか力には敵わねえってよ。てめえみてえな口先だけの軟弱野郎なんか俺が潰してやる」
 それまで、斗音の態度に少々恐れをなしていた取り巻きたちが、瓜生の反撃に元気を取り戻す。
「弱っ。見かけどおりだな」
「だっせえの。英ちゃん、やっちまえよ」
 最初に斗音をからかってきた金髪のおちゃらけと、茶髪のだぼだぼの制服が囃し立てる。瓜生は怒りをその目に滲ませて、ぎろりと彼らをひと睨みする。
「やかましい。遠吠えしてんじゃねえ」
(・・・・・・こいつ・・・・・・)
 斗音は綺麗に整った顔を苦しさに歪めながら、瓜生が完全に彼らの上に立っていることを認める。
(格が違う。力もあって・・・・・・人の上に立てる素質も・・・・・・)

 だからこそ、それなりに高いプライドがあったのだ。茶髪に耳はピアスだらけの目の前の男は、如月に入っていなければ、きっと頼りがいのあるリーダーとして活躍していただろう。それは仮定でしかなく、今となっては、その仮定は虚しいものでしかないのだが。
「英嗣(えいじ)、
そんなに締め上げると首に痕が残っちまうよ。それを盾にされたら、俺たちまた停学だ」
 恐らくこの集団のナンバー2なのだろう。オレンジの髪にそり立つ眉毛の男が瓜生に忠告する。内ポケットから取り出したものを、瓜生に見せる。
「多分こっちの方が、恐怖だ」
 瓜生は一瞬目を剥いた。オレンジ頭は更にライターを取り出す。
「撤回することは有り得ねえって言ったよな。有志の制限。撤回させてやろうぜ」
 どうやらこのオレンジは、有志で何かをやろうと思っているらしい。普段の態度から、選抜制度に残れる自信がないに違いない。
「英嗣、こいつ羽交い締めにしててくれよ。俺、有志の制限だけは許せねえんだよ。英嗣が先にこいつ締め上げたら、しゃべることもできなくなっちまう。だから、先に撤回だけさせといていいだろ」
 瓜生は眉根を寄せた。少々躊躇いがあるようだ。オレンジ頭が顔をしかめた。
「なんだよ、この調子こいた二年坊主の肩持つのかよ」
「誰が!」
 煽られて、瓜生はつかんだ斗音の制服を力任せに引き寄せ、よろけた斗音の背後に回り込む。
(やばい!)
 一瞬の隙を突いて逃げようとしたが、やはり瓜生の方が速かった。両腕の付け根を抱え込まれ、腕の自由を奪われる。
「ようし、これでてめえは俺に逆らえねえな」
 オレンジ頭がにやりと笑って、ポケットから出した煙草を一本取り、口にくわえる。慣れた手つきでそれに火を点けた。

「な・・・にを・・・・・・!」

 斗音はぞくりと背筋に寒気が走るのを感じた。まさか、と思う。オレンジ頭は煙草をくわえたまま、斗音の制服のボタンを全て取り外した。中に着ているカッターの襟をつかみ、乱暴に左右へ引き開く。いくつかボタンが弾け飛んで、斗音の白い肌と、そこにくっきりと浮き出る鎖骨が現れる。
「よお、副会長。有志の制限、撤回するよな。今年もいつもどおり、有志希望は全部やらせるって、約束しろよ」

 斗音は小さく息を呑んだ。オレンジ頭がやろうとしていることは、少なからず恐怖だった。しかし、斗音は首を横に振った。
「全校に宣言をしたんです。それを今更撤回するとなれば、じゃあ去年の混乱はどうするのか。なぜ撤回するのか。新たな対策は何なのか。それらを説明しなければ、納得してもらえないでしょう。それを説明する自信は、俺にはありません」
 煙草の火をちらつかされてなお、理路整然と要求をはねつける姿に、金髪とだぼだぼは逆に息を呑んだ。瓜生も眉根を寄せる。オレンジ頭もしかめ面で考え込んだ。そして、改めて顔を上げる。
「なるほどな。それは確かにそうかもしれねえ。じゃあこうしよう。俺は有志でバンドのライブをしようと思ってる。俺の入ってるバンドをお前の権限で出場枠に入れろ。それくらいのことはできるはずだ」
 斗音は唇を強く噛んだ。きっ、と顔を上げる。
「それはできません。公平を期してこそ、生徒代表で構成されている執行部です。信用を失ったら、執行部は機能しなくなる」
 オレンジ頭の眉が吊り上がった。
「綺麗ごと言ってんじゃねえ!勘違いすんな、俺は命令してんだよ!もう一度だけ言う。俺たちのバンドを出場枠に入れろ。お前の返事次第で、お前の皮膚が焦げることになるぜ」
 つい、と煙草を浮き出た鎖骨の下に近づける。じわりと熱が伝わってくる。立ち上る煙に、斗音は眉をしかめた。軽く咳き込む。
「おら、どうすんだ。俺は短気なんだ。早くしねえと、消えねえ痕が残るぜ」
 斗音は目を閉じた。軽く息を吸う。
「・・・・・・できません」
 目の前の男が怒りの空気をまとったのを、斗音は感じた。
「やっろお・・・・・・後悔させてやる!!いいか、お前が要求を呑むまでいくつでも焼きいれてやっからな!」
 激しい苛立ちの声に、斗音はゆっくり瞼を上げる。視界を、たゆたう白い気体に阻まれ、濃い煙の匂いに襲われた。鎖骨の下を刺すような刺激がかすめる。瞬間、気管が斗音の呼吸を遮った。
(しまっ・・・・・・・・・・・・!)
 頭のてっぺんから背筋に冷たいものが突き抜ける。
「っ、・・・!」
(煙・・・振り切らなきゃ・・・!)
「な、何だこいつっ」

 いきなり信じがたい力で暴れだした斗音を、瓜生は反射的に押さえ込む。
 
斗音は焦った。死に物狂いで暴れるが、瓜生の力は斗音のそれを上回っていた。

(頼む、離せっ!!)
「うわ、お前何やって・・・・・・!」
 瓜生が叫んだのが分かった。先ほど刺すような刺激に襲われた辺りに、ジリ、と痛みが走った。でも、斗音はそれどころではなかった。煙草の煙を排除すべきものだと感知した、敏感すぎる斗音の身体は、その気管に異常な粘液や粘膜を発生させ、それを防ごうとしていた。苦しさのあまり無理に呼吸をしようとして、その粘液を気管に絡ませ、激しくむせ返り、それでも酸素を取り込もうとする本能が、斗音の呼吸を掻き乱していた。全身に冷たい汗が噴き出す。
「おい、これってまさか・・・・・・」

 青ざめた瓜生が、腕の力を緩める。喉を切り裂くかのように咳き込んでいた斗音は、そのまま身体をアスファルトの地面にたたきつけるようにして、倒れ込んだ。激しく身体を痙攣させながら、強張った白い指がアスファルトに爪を立てる。既に斗音は、自分で荷物を手繰り寄せて薬を取るという、ごく簡単な動作すらできなくなっていた。もう周りの声さえ聞こえない。ただただ苦しくて、いっそ殺して欲しい、とさえ、斗音は薄れそうな意識の片隅で思った。
「何やってんだ、てめえら」
 その時、いぶかしむような響きを含んだ声が投げかけられた。斗音以外の全員が、校舎沿いにこちらに向かってくる二人分の人影を、一斉に振り返った。
「近藤!」

 瓜生が縋るように声を上げる。名前を呼ばれたほうは、そのあまりに切羽詰った様子に不審な表情を浮かべ、その隣にいた人物は、はっと息を呑んだ。
「椎名?」
 近藤が一瞬固まった後輩の表情に、怪訝な顔をする。隣にいたはずの慈恩は、次の瞬間、もう近藤の傍にはいなかった。
「おい、椎名!」
 慌てて慈恩が駆け寄った集団の方へ、近藤も走り寄る。
「どけっ!」
 丁度校舎の角、三年生の素行の悪い連中がたまっているようだ。近藤と同じクラスの瓜生がいるところを見ると、恐らくその取り巻きの三人だろう。普段は冷静で大人びた慈恩が、如月の中では誰もあまり関わろうとしない不良軍団に向かって、怒りと焦りの感情を顕わにして怒鳴ったことに、近藤は驚いた。慈恩に遅れること数秒、剣道部の部長は、目にした光景から瓜生や慈恩の尋常ならざる様子を理解した。

 身体を強張らせて激しく咳き込む華奢な兄を抱きかかえ、慈恩はその脇にあったスクールバッグから見慣れないものを取り出した。何かを確認するように、軽くそれをいじってから、完全に血の気を失った形のいい唇に押し当てる。激しく震えながら慈恩にしがみつく白い指には、血が滲んでいる。
「・・・・・・椎名・・・斗音・・・・・・」

 近藤にとって、「椎名」は慈恩である。その似ていない双子の兄のことはよく知っていたが、名前を口にしたのは初めてだった。その斗音の制服がひどく乱れているのに、違和感を覚える。最初は発作を起こしたことで、苦しくて自分でそうしたのかとも思ったが、そんな苦しい中、学ランのボタンをご丁寧に外し、その上でカッターシャツのボタンを引きちぎったりするだろうか。
「おい、貢平(こうへい)。てめえら、ここで何してた」

 名を呼ばれたオレンジ頭はびくりと顔を上げる。その足元では、まだ長いままの煙草が、先から煙を上げていた。
 
何かを恐れたりしない近藤は、彼らとは別の意味でやはり三年生の中で恐れられている。そんな近藤に睨まれて声も出ないオレンジ頭に代わって、瓜生が斜め目線で斗音をうかがいながら答えた。
「脅してた。・・・・・・こいつが気に食わなかったから」
 ひどい咳が少しずつ収まってきた兄の頬に、呼吸を確かめるように己のそれを寄せていた慈恩が、きり、とまなじりを上げて瓜生を睨む。その鋭さに、不良のボスが言葉を躊躇う。
「・・・・・・初めは、生意気に携帯なんか使ってやがるから、からかってやろうと思ったんだ。けど、軽口じゃこいつは全く動じもしなかった。だから余計腹が立って、ちょっと痛い目見せてやろうと思って」
「痛い目だと?」
 どすを聞かせた近藤の声に、瓜生は黙り込んだ。代わりに金髪とだぼだぼが、自分の弁護をするため、喚きだす。
「俺は何もしてねーよ!からかってただけだし」
「俺もだ。手は一切出してねえかんな!!」
「大体最初に使用許可されてる以外の理由で、生徒会副会長の肩書き持ってる奴が、携帯なんか使ってるからわりいんだよ」
「そうだ、全校生徒の見本になろうって奴が、軽々しいっての」

 喚き立てる二人の見苦しさに、近藤は呆れ顔で溜息をついた。馬鹿馬鹿しすぎて、口を挟む気にもなれない。
 慈恩は眉根を寄せながら、だんだん強張っていた身体の力が抜けてきた斗音の、秀でた額の汗を拭い、自分の荷物を枕にして横たわらせた。だいぶ血の気が戻ってきたことにほっとしながら、乱れた襟元を直そうとしたその手が、ふと止まる。
「どうした、椎名?」
 近藤の問いかけに、慈恩は反応しなかった。ただ、斗音の襟元を握り締める手が小刻みに震えた。
「・・・椎名・・・・・・?」
 慈恩の視線が、ゆっくりとアスファルトで煙を漂わせ続ける煙草に止まり、その延長線上で立ちすくんでいるオレンジ頭を射抜く。その漆黒の瞳が、みるみる怒りと殺気を湛えていく。壮絶なまでに激しいその瞳の力に、オレンジ頭は怯え、震え上がった。
「お、俺がやったんじゃねえよ。こいつが勝手に・・・・・・」
「勝手に、何だ」
「え・・・・・・?」
 聞き返されて逆に言葉に詰まったオレンジ頭は、すくっと立ち上がった慈恩の威圧感に、ずず、とあとずさる。

「発作を起こして、あ、暴れだした時に、自分から押し付けたんだ」
 慈恩は一歩踏み出す。その足で、アスファルトが抉れるのではないかという勢いでタバコを踏みにじる。
「ほ、ほんとだ!嘘じゃなっ・・・・・・」
 オレンジ頭の抗議は慈恩に襟首をつかみ上げられて遮られた。金髪とだぼだぼが恐れおののきながらも、仲間をフォローする。
「ほんとだ、貢平は近づけて脅しただけで、あいつが勝手に暴れだして煙草に触ったんだ!」
「貢平は本気じゃなかったし・・・・・・っ」
 
慈恩は二人を視線ひとつで黙らせた。そして、オレンジ頭に向き直る。
「ひとつ聞く。斗音が喘息をもってるってことは、知ってたのか」
 とても先輩に対する態度ではないが、この場合、力関係は完全に慈恩が上をいっていた。逆らうことを一切許さない慈恩のオーラに、オレンジ頭は小刻みにうなずく。
「そ、それは、聞いてたけど、でもそれが・・・・・・」
 言った瞬間、オレンジ頭は首を締め上げられ、苦痛の声を上げた。
「く、ぅぅっ、は、なせ・・・っ」
 慈恩は、いつもなら艶やかで心地よい声を、怒りを織り交ぜるかの如く絞り出した。
「携帯を許可されるほど、斗音の喘息がひどいと知りながら、煙草の煙を近づけたのか!!!」

 椎名兄弟以外、その場にいた全員が、はっと身体を硬直させる。
 
もしここで慈恩が暴力沙汰を起こせば、剣道部が全国高校総体出場停止を食らう可能性があった。慈恩がそのことを念頭に置いているか、近藤は自信がなかった。恐らく今は、このぐったりと横たわる華奢で弱々しい兄のことで、慈恩は頭が一杯だろう。それでも、近藤は止めようとしなかった。殴りたいのなら殴らせてやりたかった。慈恩の怒りは、普段からどれだけ斗音を大事にしているかよく知っているだけに、痛いほど分かっていた。
 張り詰めた空気が、その時、音になりきらないほど擦れた声で、微かに振動した。
「慈恩」
 呼ばれた本人以外、全員が、ぐったり横たわっていたはずの斗音を振り返る。斗音は肘で自分を支えるようにして、わずかに身体を起こしていた。

「駄目だ・・・・・・離・・・せっ」
 表情は、苦しげである。まだ無理をしてるのがありありと分かる。でも、慈恩は振り返らない。オレンジ頭を締め上げたまま、その腕を微かに震わせる。
「・・・分かっ・・・てる・・・だろ、今・・・・・・どん、な、時期、か・・・っ」
 斗音は必死だった。近藤はその言葉に、知らず感嘆の思いが湧くのを感じる。
(こいつは・・・・・・思った以上に器がでかいな・・・・・・)
「分かってる!!!分かってる、そんなこと!!!」
 叫んだのは慈恩だった。その表情には、やりきれない悔しさが溢れていた。
「それでも俺は、こいつが許せない!!」
 オレンジ頭がひいっと情けない声を上げる。
「じお・・・・・・っ」
 無理やり声を上げた斗音が、喉で声を詰まらせた。二、三度咳き込む。慈恩は全ての思いを振り払うようにオレンジ頭を突き放した。

「次はない」
 
怒りの炎を漆黒の瞳に燃え上がらせながら、瓜生を睨みつける。瓜生はギリ、と唇を噛んだ。
「・・・・・すまな・・・・・・かった・・・・・・」
「英ちゃん!」
「わりいのはあっちだよ!」

 性懲りもなく吠え立てる金髪とだぼだぼに、近藤は哀れみの表情を浮かべた。
「馬鹿野郎。瓜生がどんな思いで今言ったのか、分かんなかったのかてめえらは」
 二人がぎくりと近藤を見つめ、恐る恐る瓜生に視線を戻す。強く唇を噛み締めてうつむく瓜生に、今度はおろおろする。同じ三年として、情けないことこの上ない。近藤は溜息をついた。
「瓜生、もういい。こいつら早く連れてけ」
「・・・・・・すまない、近藤」
 顔を上げて、瓜生が斗音を振り返る。
「・・・・・・・・・・・・椎名。俺がもっと、早く離してればよかった。気づかなくて・・・・・・悪かった。・・・・・・二度としない。こいつらにも、させない」
 はっきりと断言する。斗音は微かに微笑んだようだ。そのあまりの儚さと、その微笑みを浮かべられる強さに、近藤は胸を打たれた。
(敵わない)
 思わず苦笑する。

(こいつに俺は、敵わない)

   ***

 車に戻ってきた絢音が、あまりにも呆けているので、運転手の三神がいぶかしむ。
「絢音様?」
「いいの、三神。出して頂戴」
「はい」

 言われたとおりに車を出す。ロボットのように、言われたことをただ遂行するのみの九条家の使用人ではあるが、人である。三神は、絢音がここまで呆ける理由が気になった。今まで絢音が様子をうかがっていた校門の中に、ちらりとその鋭い視線を流した。
服装や髪の様子から見て、明らかに校則違反の何人かと、絢音が見に来ている剣道部の少年と、もう一人、これも剣道部にいる生徒だと分かる。それから、アスファルトに横たわっている、色が白くてアッシュの髪の少年が、目に入る。その様子が気になって、じっと目を凝らした。
(これ・・・・・・は・・・)
 顔が白いのは、何か具合が悪いせいでもあるようだが、それでも透き通るくらいの白い肌に、淡い色のやわらかそうな髪。大きな目。日本人離れした、なんと整った顔であることか。制服がはだけているのも、気になった。襟元からわずかにのぞく白い肌に、ぞくりとする。
 あっという間に遠ざかっていく景色に名残惜しさを感じつつ、三神は自分の使命を果たすために前方に目線を戻した。
(・・・・・・上玉だな)

 視線の鋭い運転手の口元が、にやりと歪んだ。

   ***

 瓜生たちが立ち去って、立ち尽くす慈恩と、それを見つめる近藤と斗音が残された。沈黙を破ったのは、斗音のひどい擦れ声だった。
「慈恩」
 振り向いた慈恩の悔しそうな、悲しそうな顔に、近藤は切なくさえなる。
「無茶して・・・・・・!」
 つかつかと歩み寄って、名前を呼んで再び臥せってしまった華奢な兄を抱き起こす。そんな慈恩に斗音は身体を預けて、血の滲んだ指先でその制服にそっとしがみついた。
「・・・・・・よ・・・か・・・・・・った・・・」
「何がだ!こんな火傷負わされて!!」
 斗音が力なく、アッシュの髪を、制服にこすりつけるようにして首を振る。
「馬鹿・・・・・・あん・・・なに・・・・・・たいへ・・・んな・・・・・・練習・・・・・・して、るのに・・・・・・」
 微かではあるけれど、微笑みながら、音にならないような声で一生懸命に言葉を紡ぐ、その様子がいじらしい。
「・・・・・・俺のせぇ・・・で、大、会、出られなか・・・・・・ったり、したら・・・・・・俺」
 はぁはぁ、と、小さく呼吸を繰り返してから、慈恩の漆黒の瞳を見つめ、ふわ、と笑った。
「こぉ・・・や・・・って、お前の顔・・・・・・・・・・・・見れな・・・いよ・・・・・・」
 精一杯言ったのだろう、力尽きたようにくったりと胸にもたれかかってきた斗音の小さな頭を、慈恩は華奢な身体ごと抱きしめた。
「何でだよ。馬鹿はお前だろ!ちょっとは自分のことも・・・・・・考えろよっ!」
 また斗音が首を振る。今度はもたれかかったままで、ほのかに自嘲の笑いを含んでいた。

「・・・・・・俺・・・・・・いつも・・・・・・・・・自分のこと・・・しか・・・・・・考えて、ない・・・よ・・・・・・」
 慈恩の顔を見られなくなるのが嫌だったから、ただそれだけ。大きな茶色の瞳だけで、そう訴える。慈恩は凛々しい眉を寄せ、唇を噛んだ。もう一度、馬鹿、と小さくつぶやく。
「椎名。どうやって帰るんだ?兄貴、歩いて帰るの、無理だろ」
 椎名兄弟のやり取りをずっと切なげに見つめていた近藤が、ふと慈恩に声を掛ける。掛けられた方も近藤に目を向けた。そして、ちょっと引け目を感じる。あれだけはっきり想いを打ち明けられておいて、完全に無視していたのだから。
「あ・・・えーと、タクシー呼びます」

「そうか・・・・・・。親がいないってのも、大変だな。一応、保護者ってのはいるんだろ?」
「父方の祖父母です。・・・・・・名前借りてるだけですけど」
「ふうん。・・・・・・じゃあタクシー呼んできてやるよ。んで、そのまま帰る」
 携帯で呼ぼうと思えば呼べるのだが、近藤が帰るきっかけを探していることが分かったので、慈恩はうなずいた。
「・・・・・・ありがとうございます」
 腕の中で兄が動いたのを感じて、慈恩は腕の力を緩めた。斗音が慈恩の肩を弱々しく押して身体を持ち上げ、近藤に向き直る。
「・・・助けて・・・いただいて、ありがと、う、ござ、い・・・ました」
 近藤は苦々しい思いが込み上げてくるのを感じながら、自嘲の笑みを見せた。
「俺は何もしちゃいねえよ」
「いえ、彼らが、おとなしく、引きさが・・・ってくれ、たの、は・・・・・・あなたが、いてくれた・・・おかげです」
 ふ、と近藤は笑った。自嘲の笑みではなく、それよりはもう少し近藤らしい顔になった。
「じゃあそうしとく。・・・・・・なあ、副会長。お前の双子の弟、いつもお前のこと心配して無茶しやがる。お前もそうみたいだけどな。弟の無茶が少しでも減るように・・・・・・身体大事にしろよ」
 斗音は、少し哀しげに微笑んだ。はい、とうなずく。その、どこまでも儚い微笑みに、にやりと笑い返して見せると、近藤はじゃあな、と別れを告げて門をくぐり抜けて行った。

  出てすぐ近くにある公衆電話には、近くのタクシー会社の電話番号も書いてある。恐らく彼なら、間違いなくすぐにタクシーを回してくれるだろう。そう思って、慈恩はほっと一安心する。

「・・・ねえ、慈恩」
 ひどく擦れた声に呼ばれて兄に視線を戻すと、薄茶の大きな瞳が、じっと自分を見つめていた。

「・・・何?」
 少しだけ薄茶の瞳が揺れた。

「・・・・・・瓜生って人は・・・・・・悪い、人じゃ・・・・・・ないかも、ね・・・」
 慈恩は眉根を寄せて目を逸らした。
「そうか?分からない」
 斗音が小さく刻んだのは、苦笑だったろうか。自嘲だったろうか。
「携帯・・・・・・メール入れたの・・・・・・気づいてた?」
「ああ。ここで待ってるってやつだろ?シャワー浴びて着替えようとしたら丁度震えてて、それで気づいた。学校でそんなメール送ってくるの、珍しいと思ったけど、それで急いで来た」

「・・・・・・そっか」
 斗音はうつむいた。笑みを浮かべているようだが、はっきりと翳っている。
「・・・無駄じゃ、なかったんだ」
 おかげで助かった、とつぶやくように言う。あまりにも落ち込んでいる様子に、慈恩が心配する。
「どうした?」
 再び長い睫毛に縁取られた瞳に見つめられたとき、それがわずかに潤んでいるのを知る。
「・・・・・・俺、嫉妬したんだ」
「・・・え?」
 一瞬何のことだか分からなくて、慈恩が不思議そうな顔をする。でも哀しそうな斗音の表情は変わらない。

「・・・仕事・・・遅くなって・・・・・・俺、お前に謝りたくて・・・剣道場に、行ったんだ」
「謝る?・・・・・・何を」
「・・・無理やり・・・・・・執行部に、誘ったこと」
 慈恩が眉根を寄せる。
「無理やりって。別に俺は俺の意志でやることにしただけだろ。確かに誘われてなかったらやらなかったかもしれないけど、俺だって考えて、自分がやる意義があると思ってやってるんだから、何もお前がそんな・・・・・・」
「けど、そのせいで、剣道・・・練習、大変になってる・・・・・・!」

 今日だって、残されて、と、擦れた声を絞り出す。
「・・・・・・お前のせいじゃないし、それで力がつくなら結構だ。俺は強くなりたい。ずっと・・・・・・強くなることを目標にしてきてる。だから、お前がそれを気に病む必要なんて、どこにもない」
 断言して斗音の綺麗な瞳を見返す。斗音は、気持ちの昂ぶりとともに目に込められていた力を、ふぅっと抜いた。そしてまた、哀しげにそれを翳らせる。
「・・・ありがと・・・・・・。でも、謝らなきゃいけないこと・・・・・・まだ一杯ある」
「一体どうしたんだよ。・・・・・・あいつらに色々言われたこと、気にしてるのか?」
 斗音が微笑した。刺さりそうなほど切ない微笑だった。原因は分からないものの、兄の心境がひどくマイナス方向に向かっていることだけは、慈恩にもはっきり分かった。こうなったらとことん聞いて、全部気にするほどのことじゃない、と言ってやろう、と心に決める。
「・・・・・・俺・・・道場で、あの人がお前に・・・・・・キスしてるの、見て・・・」
 歯切れが悪いのは、発作の後遺症のせいばかりではない。言いづらそうに口ごもる斗音の言葉に、決めたばかりの心構えを、いきなり慈恩は崩されそうになった。
(・・・・・・見られてたのかよ)
 思わず額に手をやる。その隙から斗音をちらりと見遣ると、斗音のおずおずとした綺麗な瞳に出会ってしまい、反射的にその瞳に逃げられてしまった。

「それで、俺、嫉妬して・・・・・・見ちゃいけないって、ここ、まで来て・・・・・・でも・・・・・・慈恩が誰かに取られるって・・・・・・勘違い、してる、俺がいて・・・・・・」
 焦っているのか、言葉はたどたどしいし、前後が入れ替わっているし、分かりやすい説明になっているとはお世辞にも言えない。そんな自分に苛々するらしく、斗音は吐き捨てるように言った。
「メール入れたら、お前が、気づくかも・・・って・・・・・・つまんないことして・・・・・・あいつらに、見つかってっ」
 自己嫌悪のあまり、斗音の薄茶の瞳に涙の幕がかかる。
「・・・・・・俺はいつも・・・・・・いつも・・・・・・自分のこと・・・ばっかり・・・・・・で・・・お前に・・・・・・迷惑かけて・・・・・・」
(・・・あっ)
 慈恩は思わずその瞳から転がり落ちた綺麗な雫を、受け止めたい衝動に駆られた。
「・・・・・・ごめん・・・」
 綺麗な頬に、すっと二つの涙の跡が描かれる。吸い寄せられるように、慈恩はその跡に指をなぞらせた。
「・・・馬鹿だなあ」
 優しく肩をつかんで、引き寄せる。傷に触れないように気をつけながら、ぽんぽん、と軽く頭を撫でる。
「・・・・・・?」
 まるで子供をあやすような仕草に、斗音が首を傾げるのに、慈恩は肩をすくめて笑って見せる。
「大丈夫だ」
「え?」
「俺はあの人を尊敬してるけど、そういう意味で好きなわけじゃない。あっちも俺にそういう見返りなんて、求めちゃいないよ」
 ほら、あの人野獣みたいなとこあるし、と、優しく見つめ、まだ残る涙の跡を親指で拭う。
「ごめんな。嫌な思いさせて」
 痛かったか?と。慈恩の表情は、笑っているのに少し悲しそうだった。少しだけ、と斗音が微笑んだら、火傷の周りについている灰をそっと長い指が払ってくれた。びりっと痛みが走ったが、斗音はびく、と肩を揺らしただけで、声は立てなかった。その痛みは、じわりとくすぐったさを伴って、斗音の身体の芯へ消えていった。

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六.九条夫妻の事情

 十七年前の七月二十一日。夜明け前のほぼ同じ時間に、二つの生命が誕生した。
 
一つは、都会のある病院で、父と母に見守られながら、元気に産声を上げた。望まれて産まれて来た、母の遺伝子を受け継いで、全体的に少し、一般の日本人より色素が薄かったその赤ん坊。身体の弱い母親によく似ていたその子に、両親は、メロディの主旋律のように、いつでも仲間の中で主人公になれるような、元気で明るい子に育って欲しいと願いを込めて、斗音と名づけた。
 
もう一つは、密かに呼びつけられた産婦人科医の手によって、大きな屋敷の中の部屋のひとつで、産声を上げた。母親は、まだ十七歳という若さで、父親はその場に存在しなかった。いや、存在することを許されなかった。母によく似た黒い髪と瞳が印象的な赤ん坊は、名をつけられるよりも前に、周りにいた大人たちによって、母親から引き離され、母親にはその所在を一切知らされることはなかった。若すぎる母親は泣き叫んだが、家名の重さに逆らい切れず、我が子を奪われるという過酷な試練を受け入れざるを得なかった。

   ***

 斗音が生まれた直後、その父親であった椎名絽登は、嬉しさに舞い上がっていた。身体が弱かったにも関わらず、その子を無事産んでくれた妻が、果汁百%のりんごジュースを望んだので、それを買うため、自動販売機コーナーへスキップしそうな勢いで向かった。自分をこんなに幸せにしてくれた妻の喜ぶことなら、何でもしてやりたかったし、早く戻って生まれたばかりの息子の顔をもう一度見たかった。そして、ひとつの自販機の前で、立ち止まった。
 真っ白な、高級そうなタオル地の布団に幾重にもくるまれた、かごに入った赤ん坊が目に入った。自販機コーナーに来た人なら、絶対に気づく場所である。
 絽登は、生まれたばかりの息子をもつ身として、それに不信感をもたずにはいられなかった。そして、思わずのぞいて、驚いた。わが子と同じくらい、生まれたばかりの赤ん坊だったのだ。そんな赤ん坊がこんなところにいていいはずがない。こんなところに誰かが連れ歩くはずがない。まして、忘れていくはずがない。賢かった絽登は、すぐに悟った。この子は、置き去りにされた子だと。
 絽登は、そのかごに買い込んだ百%りんごジュースを入れて、妻の待つ病室へ持って帰った。妻の驚いたことといったら、なかった。
「絽登、誰もかご一杯りんごジュース飲みたいなんて、言っていないわ」
「違うよ。りんごジュースは十箱しか買ってない。自販機のところに、この子が捨てられてたんだ」
「・・・・・・え?」
 更に驚いた妻は、胸のクロスに手をやりながら、先ほど絽登がしたように、かごを覗き込んだ。
「・・・・・・・・・・・・まあ・・・・・・まだ生まれたばかりのよう。泣きもしないで・・・・・・弱っているんじゃないのかしら」
「寝てるみたいだけど?」
「確かにそうだけど、いくら七月って言ったって、生まれてすぐに放り出されて、平気なわけないわ。・・・・・・看護師さんたちに、この子のことを確認してもらいましょう」

 担当の看護師に、ごくごく内密に調べてもらったのだが、やはりこの病院で生まれた子供ではないということは、すぐ分かった。明け方に生まれたのは、斗音だけだったのだ。
 
更に極めつけは、看護師がその赤ん坊を抱き上げたときに出てきた書き置きである。

「故あってこの赤ん坊の両親やその周りで、この子の存在は許されない。身勝手を承知で、この子に縁があった人に、この子の運命を託したい」と。
「斗音は私たちに望まれて、この世に生を受けたのに、この子は両親や家に望まれることなく、こうして今ここにいるのね・・・・・・。同じ日に、同じように生を受けているのに、この差は何なのかしら。こんなに可愛いのに・・・・・・可哀想に・・・・・・」
 絽登も、妻に共感した。
「大変な思いをして生まれてきたに違いないだろうに・・・・・・。私たちの子は幸せな家庭で育てられて、この子は親の愛情も知らず、病院から施設にでも送られるんだろうか。この子には何の罪もないのに・・・・・・」
「ねえ、絽登。私たち、それで幸せになれるかしら。この子のこと、ずっと一生背負っていくような気がするの」
 妻が言わんとしているところを、絽登はすぐに理解した。もともと、ノエルは身体が弱くて、これが最初で最後の子だろうと言われていた。だからこそ、斗音の誕生は舞い上がるほど嬉しかったのだが。

「賛成だよ、ノエル。私たちの子として、この子を育てよう。なに、担当の先生と看護師さんに言って、双子だったことにしてもらえばいいんだ。どうせ親戚には子供が生まれることしか言ってないんだし」
 妻はたいそう喜んだ。自分の思いを夫が理解してくれていること、同じ思いでいてくれることが嬉しかったのだ。そして何より、もしかすると身体が弱いかもしれない息子の、かけがえのない支えになってくれるかもしれない子だった。

「じゃあ、さっそくこの子にも名前をつけましょう。ね、絽登。いいわよね?」

「もちろんだとも。どんな名前がいいかな?」
「双子らしい名前がいいわ」

 さっそく二人は、勝手に自分たちの子供と決めた二人目の赤ん坊に、どんな名前をつけたものか盛り上がり始めた。
 その話を聞いた担当医は、初めひどく驚いた。誰の子かも分からないのに、それをあっさり、引き取るから自分の息子と同じ扱いをして欲しいと言われたのだ。法的にも認められているわけではないし、と悩む医師に、椎名夫妻は懇々と説教をしたものである。
「この子の両親を探して、この子は幸せになれるんですか?」
「そうです、捨てるほどの理由があるところに帰って、虐待でもされたらどうするんです」
「法律より人の心でしょう?」

「私たちにとって、斗音に兄弟ができる可能性は、今この時しかないんです。その千載一遇のチャンスを、先生は私たちから奪うと。そんな冷たいこと、おっしゃいませんよね?」

「大体、縁のあった人にこの子の運命任せるって、書いてあったじゃないですか」

「この子達が双子だったと、先生がそう承認してくだされば、全てが丸く収まるんですよ」
 覆い被せるように、次から次へと畳み掛けてくる夫妻に、医師は困惑した。

「でも・・・・・・」
「でもじゃありませんよ。先生だって人でしょう?先生がこの子だったら、どう思うんですか?」
 大概無茶な質問である。

「そうですよ。それに、私たち、この子の名前ももう決めたんです!」

 医者は、二人の押しの強さに、すでに心の中で片手を上げていた。
「どんな名前になさったんです?」
 絽登は、胸を張った。

「この子が幸せになれるように、たくさん慈しまれ、たくさん受けた恩恵を周りにも分け与えられる子になるように、慈恩、と」

「双子ということで、斗音とも合わせてみたんです」
 嬉しそうに言う二人に、ついに担当医師は完全にお手上げ、降参となった。
「分かりました。でも、このことは一切口外なさらないでくださいね。看護師の方にも、固く口止めしますから。この子の・・・・・・慈恩くんのためにも」
 二人の喜びようといったら、言葉では表せないくらいだった。その喜びようを見て、医師は自分がしたことに少し、くすぐったさを感じながらも、自分の判断は間違っていなかったと確信したのだった。

   ***

「絢音さん。あの桂家の次男の方、もしかして・・・・・・お悪いんじゃありませんこと?あの人が婿入りしてからもう十年になりますのよ。なのに、一人の子供にも恵まれないなんて・・・・・・」
 母親を含め、親類からそんな風に言われるのは、日常茶飯事だった。
「ねえ、いっそあの方と離縁させていただいて、別の御方と再婚なさったら?絢音さん、お美しいから、まだまだいくらでもお相手はいらっしゃいますよ」
 毎日毎日、必ず誰かがそう言いに来た。家意識にがんじがらめになっている親類。そして、絢音も例外ではなかった。平安から続くこの九条家を、己の代で絶やしてしまうことは、絢音にとって耐え難い罪だった。そういう点では、絢音とて、親類の意識の重さと、大差はなかった。
 ただひとつ違うのは、絢音が雅成のことも、とても大切に思っていることだった。

「私にとって、夫はあの人以外おりませんわ。全く可能性がないというわけではございませんもの。もう少し、長い目で見ていただけるとありがたいのですけれど」
 絢音はいつも、そう返していたが、それもいつまで納得してもらえるか分からない言い訳だった。現に、厳しく追及されることも、しばしばであった。
「長い目にも限度があろうに。そう言い続けて十年じゃ。お前に落ち度があるわけではないのだ。となれば、あの婿殿に原因があることは、分かり切っておろう。ならば、婿殿に理解してもらって、離縁するも仕方のない手であろうが」
 祖父に至っては、もうそれしか手段がないと言わんばかりで、絢音はいつも切り抜けるのに必死だった。
 絢音が三十四歳を迎える年の春、雅成がふと、口にした言葉があった。
「絢音。僕が重荷になってるのなら、言って欲しい。君の足枷には、なりたくないんだ」
 抽象的な言葉だったが、二人の間にその言葉の意味は一つしかなかった。絢音には、衝撃的な言葉だった。
「どうして・・・・・・?おじい様に、何か言われましたの?」
 たちまち泣き出しそうな顔になる絢音に、雅成は小さく笑って首を振った。
「うちは九条家ほど大した家柄じゃなかったけど、家の重さや、それを背負う者の苦しみは、多少理解できるつもりだよ。君が毎日、お義母様たちから色々言われてることも、知ってる」
「そのようなお話は、全てお断りしてるのよ。貴方は私に何か過去があるということをを知っていて、それでも私を思って今までそれを追及しないで、全てを受け入れてくださった人。貴方以外の方と生涯連れ添えるとは、私には思えないの」
「絢音・・・・・・」

 雅成は苦笑した。結局この時は、これ以上その会話が続くことはなかった。
 
雅成も絢音のことを大切に思っている。時々彼女の箱入り加減に振り回されることはあるが、子供を持たないせいか、まだ少女のような無垢なところを含めて、彼女を愛していた。
 
二人は見合い結婚だったのだが、絢音が一人娘であり、九条家にふさわしい家柄で、家を継ぐ必要がない人間ということで選ばれたのが、九条家には及ばないものの、由緒正しい貴族の血を受け継いできていた、桂雅成である。二十三だった絢音には、深い心の傷があって、家同士が進めようとするこの見合いには、乗り気ではなかった。雅成も、自分が家の手駒として使われることはあまりいい気がしないので、見合い自体には乗り気ではなかった。ただ、絢音の漆黒の瞳に宿る悲しみの翳が、気になった。
 
絢音の方でも優しい雅成には気兼ねなく接することができたせいか、二人は見合いのあとも何度か会うようになった。
 
激しく燃え上がるような恋ではなかった。それでも雅成は絢音を思いやり、絢音は雅成の優しさに心の安らぎを見出すようになっていた。絢音の瞳の翳りが、完全に消えることはなかったが、癒されていったことは確かだった。
 
そうして、二人は家の意志ではなく互いの意志を確かめ合って結婚した。二人は、ささやかな幸せに包まれていた。しかし、その幸せは家の重圧によって、徐々にすり減らされていくことになる。

 それでも初めの二年、三年はよかった。絢音の祖父母はしきりに孫が見たいとせっついていたが、周りがまだ若い二人だからとなだめていた。それが年を経るごとに少しずつ変わっていった。絢音ではなく、雅成に冷たい視線が向いていた。それでも、互いの家の関係があるため、雅成に直接その冷たい視線の訳を伝えることはなく、全て絢音が窓口にされた。
 
それが繰り返された結果が、結婚十周年を迎える春の、雅成の言葉だったのだ。それ以上、その時は会話が展開することはなかったが、癒されつつあったはずの絢音の瞳の翳りが、再び濃くなるきっかけとなった。

   ***

いつもより遅くなった絢音を、いつものように出迎えた雅成は、絢音がぼんやりしているような気がして、思わずその目の前で手を振ってみた。
「・・・・・・なあに?雅成さんてば、お茶目な感じ・・・・・・」
 やっぱりぼんやりしてたな、と思いながら、雅成は苦笑した。
「どうしたの?何かいいことでも、あった?」
 絢音はようやく正気を取り戻した。そして目をきらきら輝かせる。
「今日はね、普段の姿も少し見たいと思って、部活が終わった後も校門の方であの子が現れるのを待っていたのよ。そうしたら、とんでもないことが起こって」
「とんでもないこと?のわりに、君は生き生きしてるような気がするけど?」
 雅成の問いかけに、漆黒の長い髪を揺らしてうなずく。
「ええ、とんでもないことなんですけど、思いもかけないところが見られて・・・・・・私ちょっとぼんやりしてたかもしれないわ」
 いや、してたし、と、雅成は心の中で突っ込む。
「何を見たんだい?」

 雅成が再び尋ねたとき、使用人の女性が二人のために薫り高い紅茶を運んできた。
お夕飯までもう少しお時間がありますので、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、沢村。ちょっと下がっていてもらえるかしら?」
 中年の彼女にそう声をかけ、彼女の姿がドアから消え、完全に足音が遠ざかったのを確認してから、絢音は雅成に向き直った。
「校門で待っていたら、ちょっと外国の方の血を感じる子が来て、初めて見たんだけど・・・・・・その子があの子のお兄さんになってる・・・・・・確か、斗音くん、だったわ。とても綺麗な子で、賢そうな子だったわ」
 言いながら持ってきてもらった紅茶に、添えられていたミルクを少々入れる。
「雅成さんは、どうなさる?」
「僕はストレートでいいよ」

 そう?と自分のカップをかき混ぜながら、絢音は続けた。
「それで、しばらく見ていたら、柄の悪い四人にね、その斗音くんが囲まれてしまったの。よく聞こえなかったけれど、何か・・・・・・なんて言うんでしょう?難癖をつけている、というか・・・・・・」
「ああ・・・・・・俗に言う『イチャモン』ってやつだね」
「そう、そんな感じよ。で、煙草の火で脅されていて、私よっぽど三神を呼ぼうかと思ったんだけど、そうこうしてる内に、斗音くんが喘息の発作を起こしてしまって。あの華奢な感じからいって、あまり丈夫そうには見えなかったけれど、喘息持ちのようで。なのに、あの子達は斗音くんを離そうとしなくて、気づいて離したときにはもう自分では動けない感じだったわ。それで私、我慢できなくて三神を呼びに行こうとしたら、あの子ともう一人、剣道部の部長が来てね。あの子は異変を察してすぐに斗音くんのところに走っていったわ」
 そこまできて、雅成は、絢音が見た光景を何となく想像できた。
「彼が、そのお兄さんを助けたのかい?」
 絢音は嬉しそうにうなずいた。
「そうなのよ。本当に凛々しくて、頼りがいがあって・・・・・・周りにいた不良の子達も、あの子の怒りに恐れをなしていたのよ。手際よく発作の薬を処置しながら、周りをその精悍な視線だけで威圧していたわ。身体の弱いお兄さんを守るために、必死で、本気で怒って・・・・・・斗音くんに煙草を近づけた男の子なんて、あの子に締め上げられて。あの子、力もだけれど、心もとても強いの」
 その漆黒の瞳が、浮かれた熱っぽさから、真剣なものに変わった。

「雅成さん、私、あの子なら・・・・・・絶対に雅成さんも気に入ると思うの。正直私たち夫婦の年齢にしたら、大きすぎる子かもしれないけど、あの子なら九条家を継げるわ。そうしたら、私たちが別れる必要もなくなるし、周りも納得するはずよ。正真正銘、私の血を受け継いだ子・・・・・・・・・・・・慈恩なら」

   ***

二日連続で発作を起こした斗音は、結局張りつめた表情の慈恩とともに、タクシーで病院に直行させられた。そこでいつもより多めの薬をもらい、火傷の手当てをしてもらって、ようやく慈恩の表情が緩んだ。
「夜には火傷の方、薬を塗りなおして、ガーゼも変えてください。それから・・・・・・」

カウンターで薬などの説明を確認しながら、慈恩がうなずいている。斗音は少し情けなかった。
(どう見ても、慈恩が保護者だなあ)
 ふぅ、と溜息をつく。
「お待たせ。あれ、具合悪いのか?」

 冴えない顔をしていたらしく、慈恩が訝しそうな顔をする。斗音は苦笑した。
疲れた顔してた?ほら、色々ショックなことがあったなって、思い出してたから」
「あんな奴らの言うことなんて、気にする価値もないだろ。あいつらは自分たちの劣等感を・・・」
「そっちじゃなくて、お前のこと。俺、お前の兄貴って柄じゃないなあって」
「別にいいだろ、双子なんだから。俺は兄貴だと思ってるよ、ちゃんと」
「そう?どの辺が?」
 にこりと無垢に微笑んで聞く斗音は、かなり綺麗である。本人はあまり自覚していないが、周りにいたおばあちゃんでさえ、癒された顔になる。
「意志とか、精神的に俺より強いところ」
 慈恩の答えに、あっという間に綺麗な笑顔は首をかしげて疑わしそうな表情になる。
「そうかぁー?説得力ないなあ。嘘っぽーい」
 慈恩にしてみれば本音なのだが、斗音はあまり納得していない。今度は慈恩が苦笑する番だった。

 家に帰ると、再び斗音は何もやらせてもらえない地獄に悩まされた。挙句に慈恩から、翌日学校禁止令まで出て、大いに反抗を試みた。
「無理だよ、執行部の仕事、やりかけにしてきたんだよ。明日やるって言ったし、それに如月祭のビデオを流すのだって、俺が担当なんだから、明日中には編集しとかなきゃ」
「駄目だ。どうしてもやらなきゃいけないなら、俺がやっとくから」
「これ以上お前に迷惑掛けらんないよ」
「そう思うなら、じっとしててしっかり体力を取り戻すことだな。それが一番の近道だ」
「え--っ、これから明日にかけてしっかり寝てれば戻るよ~」
「大体、今日だって本当は休むべきだったんだ。それを無茶して行くからだぞ。だから絶対駄目」
 どこが俺より意志が強いだよ、と斗音はむすっと口を尖らせる。頑固なことこの上ない。
「今日はスタミナ粥作ってやるから、早く風呂に入ってこいよ」
「・・・・・・・・・・・・懐柔作戦だね?」
「梅干しでもいいけど?」
「分かったよ。入ってくるよ。でも、諦めないからな」
 最後の意地を見せつつ、斗音は素直に慈恩に従った。
 そのスタミナ粥。慈恩の創作料理である。発作が起きた後や、斗音の食欲があまり見られない時のために、食べやすく、野菜やスタミナの元になるようなものを密かにたくさん入れてあるお粥である。和風であれば、銀杏や鴨肉、大根にネギに卵など。時々海鮮風になっていることもある。中華風であれば鶏肉やにんにくに青梗菜、ちょっとピリ辛の唐辛子やごま油の風味が効いている。イタリアン風であればたくさんのきのこにフレッシュトマトにオリーブオイルかバター、ホウレンソウや白菜、魚介類にモッツァレラチーズやパルメザンチーズだったりもする。ここまでくれば、雑炊やリゾットに近いのだが、米はやっぱりお粥なのである。そして、斗音はどれもかなりお気に入りである。ちなみに、何が出来上がるかは、冷蔵庫の中身と慈恩の気分で決まる。
 冷蔵庫をのぞいた慈恩が取り出したのは、トマトに白菜やエリンギ、マイタケ、そして冷凍庫から海老やイカ。どうやら洋風であるらしい。

 火傷に気をつけながら風呂に入ってきた斗音は、ほのかなバターやチーズの香りに心をくすぐられた。
(美味しそう。結局こうやって、俺、言いくるめられちゃうんだなあ・・・・・・)
 髪を乾かしてキッチンへ行くと、すっかり食事の準備が整えられていた。
「火傷、大丈夫だったか?」
 お茶を湯飲みに注ぎながら、慈恩が心配そうに尋ねる。それに返す言葉は、斗音がいかに自分のことより目の前の土鍋の中身に興味を持っているかが、よくわかるものだった。
「全然。今日は洋風?ふた開けていい?」

料理上手の弟ががっくり肩を落として苦笑いしながら、うなずくのを確認してふたを開ける。一気に立ち上る湯気の香りが、斗音に幸せな気分を運んでくる。
「暑いかも知れないけど、しっかり食べろよ」
「年がら年中これでもいいよ」
 知らず満面の笑みで、斗音が応える。慈恩も微笑した。二人で席について手を合わせる。
「いただきます」
 慈恩の前にはトマトスープと魚介類にキノコとチーズを乗せたホイル焼き、そして白いご飯とサラダといった感じである。あの短時間で、同じ食材で、違うメニューを作り上げていたらしい。
「これ、たかだか三十分で作ったの?」
「お前のは材料入れてほっとけばできるだろ。その間に自分の分を作ってただけだ」
「俺だったら土鍋の前で三十分間味見をし続けると思うね」

 だから味覚が麻痺して、必然的に味が濃くなるのだろう、と慈恩は思うのだが、斗音はそういったことはとことん不器用なのである。二つの料理を一度に作ったりしたら、絶対に両方失敗するに違いない。
「ん---うまいっ!マジうま。涙出そう。ほんとお前って、すごいやつ」
 ちょっと呆れ気味に笑みを見せる慈恩にお構いなく、斗音は感激を率直に、かなり擦れた声で表現する。
「どうやったらこんなの思いつくんだよ」
「冷蔵庫に残ってるもの入れるだけだろ」
「何と何が合うかとか、分かってなかったらそういうのもできないだろ?」
「テレビとか新聞とか、色々あるだろ。それに、外に食べに行けばそれがヒントになる」
「作る人の台詞だ。俺、食べて美味しいで終わりだもん」
「作るの担当してるのは俺なんだから、別に支障ないだろ」
「まあね。でも、一人になったら大変だろうな」
 何気なく言った自分の言葉に、斗音はふとスプーンを運んでいた手を止める。なんだか不安がよぎった気がした。慈恩はホイル焼きをつつきながら笑った。
「料理上手な人と、結婚することだな」
「・・・・・・だね」
 少し遅れて笑った自分が、ぎこちなくなかったか、慈恩の顔をうかがってみた。でも、慈恩はサラダを箸でつまんでいたので、どうもこちらを見てはいなかったようだ。
 とりあえず斗音は、なぜだか分からなかったけれど、ほっとした。
 食事の後も、散々翌日の登校をねだった斗音だったが、結局許可されず、更に休むんだから宿題も駄目、と言われて、ほんっとうに何もさせてもらえなかった。渋々自分の部屋で、ベッドにもぐりこんだ。
(ああ、迷惑掛けちゃうな・・・・・・一杯。今井さんに・・・翔一郎もきっとノートとか取ってくれるだろうし、何より慈恩・・・・・・俺がやりかけの仕事、全部やらせちゃうんだろうな・・・・・・)
 そう思うと、憂鬱になる。もぐりこんだ布団の中で、ぎゅっと自分の腕を抱きしめるようにした。
(っ・・・いて・・・・・・)
 鎖骨の下の火傷がジリ、と痛みを訴える。なんだか無性に悔しかった。

「・・・・・・馬鹿」
 自分をこんな気分にさせてくれた慈恩に向かって。同時に、自分に向かって。
 コホ、と軽い咳が喉をくすぐる。コホ、コホと続いた。今日いっぱいのストレスだろうか。それとも、風邪の前兆だろうか。まずいな、と思う。やはり、無理ができる状態ではないようだ。慈恩が言っていることは、正しい。
 そのとき、カチャリとドアノブの金属音がして、慈恩が入ってきた。
「斗音、ガーゼ、換えたのか?もらった分、減ってないけど」
 言いながら、布団をそっとめくる。
「・・・・・・どうした、もぐり込んだりして」
「・・・・・・拗ねてただけ」
 漆黒の髪が濡れて、いつもの精悍さに少し柔らかさが混じっている。暑いせいか、黒に白い縁の入った綿のパジャマの襟元を開けていて、そこからクロスのペンダントがのぞいている。
「風呂の時、ちゃんと換えたか?」
「ううん、濡らさないように気をつけて入って、そのまま」
「夜には換えろって言われただろう。ほら、傷見せてみろよ」
「いいよ、自分でやる」
「お前不器用だろ。いいから見せてみろ」
 持ってきた薬やガーゼを棚に置いて、慈恩が布団を剥がした。

「いいって、子供じゃないんだから」
 それくらいできる、と腕を伸ばして抵抗する斗音を完全無視である。のしかかるようにして左手首を押さえ、ボタンを上からいくつか器用に外して、綿素材の白地に黒い縁が入ったパジャマの襟を開く。白い肌に、仰々しいガーゼが張り付いている。
「ちょっと濡れてないか?」
「・・・・・・全く濡らさないってのは、難しいって」
「じゃあ換えなきゃ駄目だろ」
「すぐ乾くと思ったし、さっきやってもらったばっかりだったから、いいかと思って」
 大ざっぱなO型の斗音である。比べてA型の慈恩は、そういうところも几帳面である。白い肌を気遣いながら、そっとサージカルテープをはがす。慈恩の力に敵うはずのない斗音は、横を向いたまま、慈恩のするがままに任せる。
 かすかに湿ったガーゼをゆっくりはがすと、白い肌に赤くただれた部分が痛々しい。慈恩は長い指で、その周りにそっと触れてみる。傷は小さいものの、その周りもほんのり赤く、熱を持っている。
「つっ」
 かすかに顔をしかめて、小さく声を上げた斗音に、慈恩はすぐに指を浮かせた。
「ごめん。今、薬塗るから」
 医者にもらった塗り薬を多めに人差し指に絡ませて、優しく傷口をなぞった。
「・・・・・・っ」

 それでも痛みは感じる。斗音はぎゅっと目を閉じた。
「すぐ終わるから」
 手早く薬を塗って、ガーゼを当てる。
「もういいよ、自分でやるから」
 また手を伸ばそうとして、押さえつけられてしまった。
「お前がやると雑になる」
 言いながら、片手と口を使って、器用にテープを切り、最後まで綺麗に貼り付ける。濡れてしなやかになった黒髪と首から下がったクロスが、ふとした瞬間にひやりと触れて、斗音は思わずほのかに溜息をついた。
「慈恩、ねえ」
「ん、何」
「・・・・・・お前、色っぽいね」
 言われた方は、顔をあげて何度かその漆黒の瞳を瞬かせた。
「・・・・・・何が?」
「全体的に」
 長い指も、濡れた漆黒の髪に縁取られた、いつもより柔らかい精悍さを湛える顔も、その髪のしなやかさも、テープの張り方も。そして、自分の手首を押し付けるその力強さも。
(女の子がこんな風にされたら、きっと参っちゃうだろうな)

斗音は自分の脳裏に浮かんだ考えに、苦笑した。きっと、過去に既にあるだろう、と思いついたからだった。
(女の子の方が、放っておかないよな。絶対に)

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七.母と子の再会

 斗音が二日連続で発作を起こしたらしいということは、今日やるはずの仕事を残して昨日帰っていった斗音の不在を不審に思って、何かと情報通の武知に彼の出席を確認したことで耳に入ってきた。
「詳しいことは知らねえが、さっき朝部の時に近藤に会ってな。自信過剰のあいつがなんか元気なさそうにしてたから、ちょっと声掛けたんだ。そしたらあいつ、一言。喘息の発作って、大変なんだな、ってつぶやいて去ってったんだ。あれ、斗音のことじゃねえかな」
「近藤が現場に居合わせたってことか」
「恐らくな。今井、お前直接聞いてみたら。気になってるんだろ」
 言われて生徒会室の椅子に深くもたれかかった生徒会長は、ふう、と大きく息をついた。
「あの責任感の強い斗音が、仕事をほったらかしにするはずないし、ちょっとな」
「丁度剣道も朝部終わってる頃だと思うぜ。ここに来るように声掛けといてやろうか」
 執行部員はトップの生徒会長がそうだからなのか、気さくな人物が集まっている。今井は浅くうなずいた。
「悪いな。頼めるか」
 武知も磊落な笑みを浮かべてうなずいた。

「すぐ来させる。ホームルームは用があって行けないって担任の先生に報告しといてやるよ」
「かさねがさねすまん。よろしく頼む」

 それに貫禄のある笑みを返し、武知は生徒会室を出ていった。
(・・・・・・発作か。あんなにできる奴なのに、なかなかパーフェクトってわけにはいかねえもんだな。人間何かひとつは背負うものがある・・・・・・か)
 今井はすっと通った鼻筋の上に寄せた縦じわを、指で押さえた。少し外側へ流れていたくせっ毛の前髪が落ちる。知的な切れ長の目をわずか細める。

 明後日には今までの如月祭のビデオを編集したものを流すことになっている。その担当は斗音だから、少なくとも今日中には編集を済ませなければならない。ぎりぎりで何か不備があっては、今の状態である。快く思わない人物が増えるだろう。それだけは避けたかった。残っているビデオの内容確認と編集する場面をまとめることなどは昨日やってあるのだが、ビデオそのものができなくてはどうにもならない。執行部員は全員自分なりの役割を持っているから、ビデオ編集という時間のかかる仕事を誰かが兼ねるというのは、かなりきつい。斗音が欠席となると、とても痛いのだ。遅刻でもいい、出てきてくれればと思うのだが、近藤がつぶやいていたという「大変な発作」だったりしたら、無理はさせられないというのも事実だった。
 そして、今井が何よりも気がかりなのは斗音の発作の原因だった。生徒会の激務や、有志発表からの斗音に対する心無い中傷が彼に負担を掛けていたのではないかという不安を、今井は生徒会を束ねる立場として不安に思わざるを得ない。
 そこへ、カラカラと引き戸がすべる音をさせて、近藤が鍛えられた体躯をその間から現した。
「呼び出してすまない、近藤」
 今井は立って客人を迎えた。自分の近くにあった椅子を勧めると、近藤は遠慮なくそれにどかっと腰掛けた。
「あまり人に聞かれたくない話だったから・・・・・・」
 確かに元気がないというか、機嫌が悪いというのか、いつもに似つかわしくない近藤の様子に、少し気を遣いながら今井が言葉を掛けると、近藤はすいと顔を上げた。
「意味もなくこんなところに呼び出すお前じゃないだろう。そんなことは分かってる」
 傲岸不遜な様子はいつもと大して変わらないようだ。今井はふっと笑みをこぼした。
「俺に聞きたい話って、何だ?」
「昨日、斗音が発作を起こしたところに居合わせなかったか?」
 今井の言葉に、近藤はきりっとした眉根を寄せた。
「情報源は、武知か」
「ああ。今日、斗音がまだ来ていないみたいだったからな。仕事を残してやすやすと欠席するような奴じゃない。それで、もしやと思ってな」
「・・・・・・そうか」
 そこでHRが始まることを告げるチャイムが鳴った。そのチャイムが終わるのを待って、近藤は口を開いた。
「確かに俺は、昨日あいつが発作を起こしているのを見た」
 やはり、と今井は苦い顔になる。
「ひどい発作だったのか?」
「分からねえよ。喘息の発作なんて初めて見たんだから。でも、軽そうには見えなかったぜ。少なくとも俺はやばいと思ったからな」
「何が原因だったのかは、分かるか?」
「・・・・・・瓜生とその取り巻きが、どうもあいつを脅してたみたいだな。直接の原因になったのは、貢平が煙草を近づけてその煙をもろに吸い込んじまったことらしい」
 途端、今井の表情が険しくなる。

「・・・・・・どういう、ことだ」
「お前なら分かってるだろう。根性焼きを脅しの道具に使ったらしいってことぐらい」
 今井が身体を硬くする。繰り出された言葉も、ぎこちなかった。
「・・・・・・怪我、は?」
「貢平が押し付ける前に煙で発作を起こしたみたいだったな。俺はもう起こしてるところに通りがかっただけだから、詳しいいきさつは分からねえが、あいつらの言い分を聞いてると、瓜生が椎名斗音を捕まえて、貢平が煙草を近づけた。そこで発作を起こして、瓜生の手から逃れようとして暴れた時、自分でその煙草を押し付けることになった。そんな感じだった。右の鎖骨の下辺りに火傷を負ってた」
 今井は眉根をきつく寄せて、強く目を閉じた。栃沢貢平。確か素行の悪い連中と集まってバンドを組んでいる。煙草を近づけて脅して、何を迫ったのか、想像は容易だった。自分から押し付けたとは言っても、斗音に発作を起こさせてしまったこと、火傷を負わせてしまったこと、全ては有志の制限が原因であることに、変わりなかった。なぜ、と思わず言葉をこぼす。なぜ斗音がそんな目に遭わなければならないのだろう。必死で一生懸命に仕事をして、一生懸命企画を安全に運営するために動いていた彼が。
 今井がこぼした言葉に、近藤が反応した。
「なんか、きっかけになったのは椎名斗音がむやみに携帯を使ってたことらしいぜ。それが気に食わなかったらしい」
 その言葉に、如月高校という名門校で生徒会長を張る男が、聞き入れる耳を失った。
「馬鹿な。あいつは絶対にそんな軽はずみなことはしない。有り得ない!」
 その強く断定する口調に、近藤が肩をすくめた。
「俺に言うな。佐藤や志垣がそう喚いてただけだ。あいつらの言うことを信じるか否かはお前の器次第だが?」
 たしなめるように言われて、今井は激した自分に気づいた。
「・・・・・・ああ・・・・・・悪い、ちょっと取り乱した。・・・・・・あいつらの言うことはともかく、お前が言ってることは事実だ。そうだろ」
「それで結構だ、生徒会長」
 近藤は満足気に、自分の選んだ生徒会長に笑みを返した。そして、ふっとその表情に翳を載せた。
「お前ほどの男でも・・・・・・椎名斗音には入れ込むんだな」
「え?」

「いや、何でもない。昨日ちょっとフラれてな。そいつも椎名斗音が大事で・・・・・・その上俺はその椎名斗音に敵わないと思った。あいつは・・・・・・本当にすごい奴だ」
 近藤の元気がないと言っていた武知の観察力も大したものだ。まさかそんな話を聞くとは思わなかったので、今井も驚いた。近藤とは二年までクラスが同じで、それなりに気が合う仲だったが、三年でクラスが離れてからはあまり接点もなく、互いに忙しい身だったため、話す機会もほとんどなくなっていた。
「お前でも、人並みに恋心なんて持ち合わせてるんだな」
 苦笑を交えた今井に、近藤も同じものを返した。
「人並みかどうかは知らないが?まあ、とりあえず俺が昨日のことについて知ってるのはそれだけだ。もし副会長が欠席だったら、椎名が・・・・・・椎名弟の方がたぶん副会長の分まで仕事すると思うぜ。あいつはそういう奴だ。そしてその分部活時間を削るだろう」
 言って、今井の目をまっすぐに見つめる。
「なあ、今井。あいつなくして剣道部の全国は有り得ねえ。執行部の仕事が大変なのはよく分かってるつもりだが、俺は椎名の練習量を絶対に減らさない。あいつは執行部の仕事がずれ込むたびに地獄の練習をこなしている。考慮してやってくれとは言わないが、あいつがそういう奴だってことは、お前に知っておいて欲しい」
 軽く目を瞠ってから、今井は深く溜息をついた。
「そうか。あいつがいつも言う『大丈夫』は、その地獄の練習メニューに耐え抜く覚悟をした言葉だったんだな。全く、どいつもこいつも無茶ばっかりしやがって」
「椎名兄弟が、だろ。あの双子、外見は似てねえけど、根性あるところは似てやがる」
「・・・・・・そうだな。HR抜け出させちまって悪かった。でも、お前のおかげで事情を知ることもできたし、ちょっと放っておけない事態だったってこともよく分かった。感謝する」
 言って腕時計に目をやると、そろそろHRが終わる時間だった。
「構わねえよ。俺はお前のことも買ってる。・・・・・・執行部、頑張れよ」
 にやりと笑った近藤にいつもの彼らしさを感じて、今井も笑みを載せてうなずいた。
「ああ。お前も、剣道頑張れ。全国、上位まで行けるといいな」
「お前のテニス部はどうなんだ」
「俺がなかなか行けないからな。副部長に任せきりだが・・・・・・目指せ地区予選突破だ」
「そうか。身体ひとつで大変だな。お前こそ、無茶して身体壊したりしねえようにな」

 近藤が言ったところで、HRが終わったことをチャイムが知らせる。それをきっかけに、近藤はじゃあ、と手を上げて生徒会室を出た。
 出た途端、その目の前に、漆黒の髪と瞳を捉えて、近藤は一瞬のけぞった。ぶつかりそうになった慈恩も反射的に一歩下がる。
「・・・・・・椎名」
 早めにHRが終わったため、急いで仕事内容を確認しに来た慈恩だった。昨日のことで気まずい雰囲気が流れそうになったが、その前に慈恩が事務的な礼をする。
「すいません、近藤さん。今日は多分、部活に出られないと思います。罰は受けます。だから・・・・・・」

 続けようとする慈恩を、近藤は苦笑いで遮った。
「兄貴の分も、今日は仕事があるんだろ。兄貴、大丈夫か?」
「あ・・・・・・はい。とりあえず今日は休んでますけど」
「そうか・・・・・・よかった。お前もあんまり無茶はするな。今日の分は明日きっちりやってもらう。だから、今日は仕事に専念するといい。・・・・・・一人で抱え切れなければ、今井に手伝ってもらえ。あいつはきっと力になってくれる」
 慈恩がうなずくのも待たず、近藤はさっさと歩を進めた。一番気まずい思いをしたくなかったのは、近藤自身だった。慈恩もそれを感じ取って、その後ろ姿に小さく感謝の言葉を投げて、生徒会室の扉を開いた。
「会長?」

「慈恩か。今、近藤に会わなかったか」
 
HRが終わったばかりで絶対に誰もいないと思ったところに近藤に会って、更に今井までいたことに慈恩は少々驚きながらうなずく。
「会いました・・・けど。HR出なかったんですか?」
「ああ。昨日の斗音と瓜生たちのことについて、聞いていた」
 立ち上がって慈恩の前に歩み寄る。そしておもむろに頭を下げた。
「すまない。結局こんなことになるまで何もしてやれなかった。莉紗が言ってたみたいに、全校に先手を打つべきだったかもしれない。斗音にも、必ず納得いくように謝罪をする。斗音のことを一番に心配していたお前に、まず謝らなきゃいけないと思った。本当に申し訳ない」
「会長、やめてください」
 慈恩はあわてて今井の肩を押し上げようとする。
「会長には何の責任もありません。それに、あなたに謝ってもらいたいなんて、俺も斗音も思ってません」
「俺のけじめだ。それから、二度とこんなことが起こらないように俺から全校に直接話をする。・・・・・・斗音とお前の許可が欲しい。昨日のことを全校に話すことになるが、いいだろうか」
 今井の態度は潔くて、同性の慈恩から見てもとても男らしかった。顔を上げた今井としっかり視線を合わせて慈恩は応える。
「俺はそうしてもらえるとありがたいと思います。・・・・・・斗音は大げさにする必要はないって言うと思いますけど、一歩間違えば本当に大変なことになっていたのは確かです」
「・・・・・・分かった。今日の帰りのHRは緊急全校集会にする。それで、お前が朝のHR終わって急いでここに来たのは、斗音の分の仕事もやるつもりだからなのか」
 見抜かれて、漆黒の瞳を瞠る。
「あ、はい。斗音が、ビデオの編集をすることになってますから。テープと原案を取りに来ました。昼休みと放課後を使ってやります」
「ということは、斗音は欠席なんだな・・・・・・。お前が分担されてる食物関係を取り扱う企画への注意事項と各企画への予算案の文書は、できそうか?」
「・・・・・・明日までには完成させます」

 少し躊躇った慈恩に、今井が微笑した。
「全部一人でやろうなんて、無茶な話だ。食物関係の文書は去年のがあったよな。それは俺がやっておく。ビデオの編集も、昼休みだけで悪いが、手伝おう。その間だけでも予算の方に集中することができるはずだ。これ以上部活の時間を削るわけにはいかないだろう?」
「会長・・・・・・」
 今井は慈恩の肩を優しくたたいた。
「斗音と、それから今までお前に掛けていた負担に気づかなかったことに対する、せめてもの罪滅ぼしだ」
「でも、会長自身も一番仕事を抱えてるでしょう」
「生徒会長ってのは、自由もきくもんなんだ。あんまり詳しくばらすことはできないが、少なくともお前らより時間の確保はできる。気にしなくていいさ」
「・・・・・・ありがとうございます」
 この人の下でなら、働いてもいい。そう言った斗音の言葉を、慈恩はふと思い出した。思わず微笑む。

(斗音・・・・・・お前、人を見る目、あるな)

 教師陣の今井に対する信頼は厚い。昨日の事件のことを知って、放っておけないと感じた学校側は、今井の申し出を一も二もなく受け入れた。

「昨日、斗音があの瓜生たちに囲まれて大変だったんだって?俺、昨日仕事で早退してたから全然知らなかった。ごめん、役に立てなくて」
 緊急集会のため、体育館へ移動する途中にさりげなく嵐が慈恩に囁いた。
(ていうか、今現在知ってる奴の方が少ないと思うんだけど)
 嵐の情報網は侮れない。自分も忙しくてほとんど話す暇がなかったし、昨日のことについては言った覚えがない。
「お前が謝ることないだろ」
「分かってるよ。それでも役に立ちたかった。俺は椎名兄弟が好きなんだよ」
「・・・・・・さんきゅ」
 高校生なのに仕事もしていて(バイトではなく、しかも、かなり秘密裏なものらしい)、暴走族の彼女(?)を、命を懸けられるくらい愛していて、髪の色は淡い紫色(しかも地毛)で、テストではこの如月で学年トップを譲ったことがなくて、何をやらせてもトップに立てる能力を秘めていて、校内一の美形。そんな嵐は誰から見ても別格で、そんな嵐に気に入ってもらえるということは、端から見たら非常に羨ましいことだろう。しかも兄弟そろってだ。慈恩にとっては親友と呼ぶにふさわしい友人の一人に過ぎないのだが、それでもそう言ってもらえると嬉しいと思う。
 体育館に全クラスが集合したところで、今井がステージに上がった。壇上のマイクのスイッチを入れ、礼をしてから全校を見渡す。
「俺は一昨日、ここに立って全員に如月祭にかける思いを伝えた。それからたった二日でまたこうやって集まってもらうことになった。みんなにどうしても分かって欲しいことがあったからだ」
 全校を相手に丁寧語を使うでもなく、全校一人一人に向かって一分の一の姿で思いを語る。
「昨日、生徒会副会長の椎名斗音に、有志の制限のことから逆恨みして暴挙を働いた生徒がいる。動けないように羽交い絞めにして、煙草の火で脅した奴が如月の生徒の中にいるんだ。それがもとで彼は発作を起こし、火傷を負った」
 生徒会長の言葉に、全校生徒がざわめいた。初めて聞いた者が大半だったのだ。

「俺はそれを聞いて目の前が真っ暗になった気がした。彼が何をした」
 
今井の声が感情を帯びて昂ぶる。ざわめきはその今井の思いの強さに打たれ、たちまち静まった。

「有志の制限の発表をしたのは、確かに副会長だ。だが、勘違いしないで欲しい。俺たちは執行部として、去年の後味の悪い如月祭を何とかみんなが楽しめるものにしたいと考えて、悩んで悩んで有志の制限を決めた。これは執行部全員が出した答えだった。俺は選挙で選ばれた会長として、最善の決定を下したつもりだ。それを勝手な想像で副会長を逆恨みして、心無い言葉で彼を中傷する生徒もいた。それでも彼は努めて平静に振舞っていた。毎日一般生徒の倍以上の仕事を一生懸命こなしていた。そんな彼が、どうしてそんな目に遭わなければならない。俺はそれが納得いかない!」
 マイクの余韻が静まり返る体育館内に染み渡る。ステージ上の生徒会長は、静かに吐息した。
「この中には、自分は関係ないと思っている者もいると思う。はっきり言って、今回の件に関しては関係ない生徒の方が多いと思う。だが、この際だから言わせてもらう。次またそんなことが起きるようなら、俺は会長として独断で、有志の発表そのものを如月祭から廃止する!!俺は何と言われようと構わない。誰かが傷つかなければならないような企画なら、無い方がましだ。それが例え、ほんの一部の人間の仕業であったとしても、そんな危険性のあるものをこの先伝統として続けることはできない。何のための如月祭なのか、今一度如月高校に所属する一員として、全員に考えてもらいたかった。俺がみんなに伝えたかったのはこれだけだ」
 きっちりと礼をして堂々とステージを降りた今井に、体育館の一角から拍手が起こった。慈恩は思わずその音の源である自分の後ろを振り返った。嵐だった。それにつられるかのように、たちまちまばらだった音が降り始めの雨から一気に降り始めた夕立のごとく体育館内を埋め尽くした。
「やるな、今井さん。さすが他を寄せ付けず選ばれただけあるぜ」
 嘆賞を込めた嵐の言葉に、慈恩もうなずいた。これで斗音に対する中傷はまずなくなるだろう。しかし、斗音がそんな目に遭ったという事実があったからこその説得力である。莉紗の言ったように最初からそういうことが起こると決めてかかって言っていたとしても、これほどの効果はなかったのだろう。慈恩としては複雑な思いを禁じ得ない。
「慈恩、気持ちは分かるよ。でも起きちまったことはもうどうしようもない。そこから前に進むなら、起きたことも無駄じゃなくなる」
「・・・・・・ああ、そうだな」
「明日は、斗音、来れそうなのか」
「今日発作を起こさなければ、駄目って言っても来ると思う」

「だろうな」
 嵐は、さもありなんと笑った。

 今井文弥が生徒会長として生徒集会で熱弁をふるってからは、見事なまでに斗音に対する中傷誹謗は影を潜めた。今井は全校の中で最も信頼厚く、正統派の強い権力を持つ人間の一人だったし、最高学年ということもあり、この生徒会長に逆らおうという輩は皆無に等しかった。誰もが身体が弱いにも関わらず懸命に仕事をしている斗音に同情したし、そんな斗音に乱暴な振舞いをした生徒についてあれこれ詮索し、非難した。今井や慈恩にしてみれば、それは瓜生やその取り巻きのしたことに対する当然の報いであり、そちらに同情する気持ちは持ち合わせてはいなかった。
 翌日から学校に出てきた斗音は周りから異常に心配され、下手をすると壊れ物を扱うかのように接する人間もいたので、それにはさすがに戸惑った。仲のいい友人や自分をよく知る仲間などはいつも通り接してくれたので、それで不便を感じたりすることはなかったのだが。
「椎名くん、怪我は大丈夫なの?そんなことする奴、サイテーだよね」
 そんな風に言ってくる女の子たちに、にこりと微笑んで「ありがとう、心配してくれて」の言葉を送っていた斗音に、一人の男子生徒が話し掛けてきた。普段あまり話すことのないクラスメイトだ。
「椎名、大変だったな。三年生の瓜生って人たちだろ、やったの」
「え、何で?」
 慈恩に今井のした話のことは聞いていたが、加害者の名を出したなんてことは聞いていなかったので、不審に思って問い返す。相手はやや優越感を滲ませた表情を浮かべた。
「おおっぴらにはなってないけど、陰で噂になってるぜ。情報の出所は分からないけど、結構筋は確かな話らしいぜ。当たり、だろ?」
 出所が分からないのに筋が確かなんておかしな話だ、と思いながら、斗音は困ったように微笑んで見せた。
「ごめん、それには答えられない」

 斗音自身、瓜生のことをそんなに恨んではいない。最終的に仲間の分も全部罪を被る形で謝った彼を、憎む気にはなれなかったし、逆に今こんなに知れ渡っているとなると肩身の狭い思いをしているのではないかと、気の毒にすら思えた。

その当の瓜生英嗣に、金髪と茶髪でだぼだぼの制服を身にまとった取り巻き二人が、その名のとおり付きまとっていた。
「英ちゃん、俺らがやったっての、大概の奴が知ってるぜ。周りの目がみんな突き刺すみてえじゃねえ?」

 金髪の方が溜息交じりに訴える。
「やっぱそう思うよな、夕人(ゆうと)。
あのクソガキの弟の方がばらしてやがんのかな」
 
茶色のだぼだぼが相槌を打つ。
「本人も言ってんじゃねえの。俺らにやられたって。近藤だって、俺らに義理立てする必要ねえしさ」

 二人のとめどない愚痴まがいの醜い会話に、瓜生は顔をしかめた。
「おい、夕人、渡(わたる)。お前ら、ほんとにそう思ってんのか」

 その怒りオーラに、二人が口ごもる。情けない二人を睨みつけて、瓜生は言葉を吐き捨てた。
「お前らはあいつらの器も見抜けねえような節穴野郎かよ。近藤はそんなちんけな野郎じゃねえし、椎名弟もそんなつまんねえ小細工する小物じゃねえ。最後に俺らを許そうと笑って見せたあの副会長も、そんなことするほど器小さくねえだろう。それも解らねえなら、お前ら二度と俺に付きまとうな。騒々しくて迷惑だ」
 縮こまる二人を残して歩き出す。
「え・・・・・・英ちゃん、どこ行くんだよ・・・・・・」
 おそるおそる金髪が声をかける。振り向きもせず、瓜生は答えた。
「もうすぐ午後の授業始まるだろ。サボりももう飽きた。教室に行く」
「え!?授業受けんのかよ・・・・・・?」
「それ以外に聞こえるんだったら、病院行った方がいいぞ。最後に一緒にいたよしみでいいとこ紹介してやる」
 瓜生の言葉は棘だらけで、金髪とだぼだぼ・・・・・・志垣夕人と佐藤渡は声も出せずうなだれるしかなかった。しばらくは、互いに目を見合わせることすら躊躇われるほどだった。
「あれ、英嗣は」
 そんな二人に声を掛けてきたのは、いつもつるんでいる最後の一人だった。
「貢平。それがさあ・・・・・・」
 志垣が元気のない声を出す。ついさっきまでいた自分たちのボス格の行動を、やや不満と、不安を含ませた口調で説明する。オレンジ頭の栃沢は眉をしかめた。
「・・・・・・英嗣は自分が認めた人間には甘いんだよ。近藤は同じクラスでよく知ってるだろうし、あの双子には英嗣を納得させるだけの何かがあったってことだろ。確かに弟の方は強かったし、まとうオーラは英嗣に勝るとも劣らないものがあった。軟弱兄貴の方はよく分からねえけどな」
 どうやら、未だに有志の恨みを持っているらしい。女々しい限りだが、そんなことに本人も話を聞いている二人も気づいてはいない。瓜生と違って自分たちの話に近い感覚でいてくれる栃沢に気をよくして、志垣と佐藤はここ数日で溜まった鬱憤を散々撒き散らし始めた。
「大体さ、何で俺らがこんな全校の目の敵にされなきゃなんねえわけ?今井があんなこと言わなけりゃ、あの軟弱野郎の決めたことに反発してる奴は多かったはずだぜ」
「全くだよ。俺らがそいつらの代わりにちょっと言ってやっただけじゃねえか。なあ」
「大体発作起こしたのだってあいつが素直にうなずきゃよかったものを、粘るからああなったんだぜ」
「そうそう、火傷とか言うけどさ、あいつ自分でやったんだしなあ。理不尽じゃねえ?」

 慈恩辺りに聞かれたら、今度こそ本当に剣道部はインターハイ出場権を失っただろうし、彼らは五体満足でいられなかったかもしれない。しかし、すでに授業の始まるチャイムが鳴ってから半時が過ぎようとしており、そんな会話を聞いている者はいなかった。
「英ちゃんもなんか俺らに冷てーしさ。確かにあんまり優しかったこともねえけど」
「あの発作見てから、なんか英嗣も臆病になってるんだろ」
 佐藤が伸びてきた茶髪を撫で付けながら、ふう、と溜息をついた。
「でもさ、実際あれはびびったよ。喉がつぶれて血が出てくるんじゃねえかと思ったし、アスファルト引っかいて指とか爪とか削ってさ。ヤベエと思ったもんよ」
 栃沢はあからさまに機嫌を損ねる表情を浮かべた。
「だからって何だよ。もうぴんぴんしてんじゃねえか。一時苦しいだけで、あとは大したことねえんだろ。そんなもんにびびるなんて、英嗣も焼きが回ったもんだ」
「はあ、それにしてもどこにいても居づれえんだよ。やってらんねー」
「この時間終わったら部活だろ。お前らどうする?」
 栃沢の言葉に、二人はぐっと詰まった。部活でも落ちこぼれている二人である。栃沢は自分でバンドを組んでいるので、大概その練習に軽音楽部でもないのに音楽室に出入りしている。
「めんどくせーな。もうフケようか」
「フケたってすることねーしな。ゲーセン行くにも金ねーしなー」
 どこまでも冴えない志垣と佐藤に、栃沢はオレンジの頭を軽く振った。
「今日みてーな気分わりー日はさ、その辺で金持ってそうな奴カモってリッチにゲーセンでも何でもぱーっと使わねえ?そんで憂さ晴らそうぜ」

 オレンジ頭の彼らの仲間が、当社比二倍で荒んでいるのは、その提案でよく分かった。しかし、彼らの中で瓜生がいなければ栃沢が一番の権力者だった。それに何より、彼ら自身の精神も栃沢と同じくらい荒んでいたので、大して迷うでもなく三人の意見は一致した。

 丁度その頃、九条家では絢音が出かける支度を済ませた頃だった。自分の息子が如月高校にいると知ってから、彼女は外から慈恩が見られる部活の時間に出かけるのを欠かしたことはなかった。
「三神、車を出してもらえるかしら?」
 家に仕える三神元爾は、五年前に体育系で名を馳せている大学を卒業した、空手・柔道・合気道の実力者だった。常にスーツの長身は、190に届きそうな勢いで、長い手足には無駄のない鍛えられた筋肉が備わっていた。彼は運転手という肩書きではあったが、箱入り娘の絢音につけられた体のいいボディーガードでもあった。
「はい、絢音様。如月高校でよろしかったでしょうか?」
「ええ、お願い」

 形よく弧を描いた黒い眉が精悍で、どちらかと言うと切れ長で上がり気味の目はその精悍さを更に増している。さすが名家に仕えるだけあって、外見も申し分ない男である。それでも決して、誰もがその美しさに一度は惹かれずにはいられない絢音に対して、邪な思いを抱いたりする素振りを全く見せず、誠実に仕えていたので、絢音の祖父にはいたく気に入られていた。
 
三神自身そのことは自覚しており、心の中ではこの高給が望める仕事に自分がついていられることに、内心ほくそえんでいた。絢音は三神の好みでは、全くなかったのだ。手を出したりなんて有り得なかった。そんなことで気に入られるのなら、いくらでも誠実ぶって仕事のできる男だった。
 
いつもと同じ時刻に同じ道を走らせながら、珍しく三神から絢音に話し掛けた。
「申し訳ありません、絢音様。私(わたくし)
五時から私用で行かなければならない場所があるのですが、絢音様が剣道部をご覧になっている間、しばし出掛けるお許しを頂く訳にはいきませんか?」
 絢音は一瞬きょとんとした。それから可憐な花が開くように微笑んだ。
「ええ、構わないわ。いつも私はしたいことしてるだけで、三神はじっと待たされているんですものね。部活が終わる時間には戻ってこられるの?」
「はい、それは必ず」
「じゃあ、行ってくるといいわ。私はいつもの場所で降ろして頂戴」
「ありがとうございます」
 高校の見学をしているだけで、なんら危険もあるまいと三神は判断したし、絢音は三神をボディーガードだと思ってはいないので、三神の交渉はあっさりと成立した。
 絢音を降ろして、三神は黒い大きなベンツを発進させた。三神の私用も、実は如月高校にあった。
(校門にいるはずはないな・・・・・・部活に参加していると見るべきか)
 三神が探そうとしていたのは、数日前に見た「上玉」の少年だった。あの日、一瞬で目に焼きついた儚げなあの少年が、ずっと脳裏から離れることはなかった。どうしてももう一度見てみたい。自分の目がどれほど確かだったかを、確認したかったのだ。
(といっても、剣道部じゃないってことしか分からないな)
 車を東側の駐車場につける。西の武道場の、更に西からのぞいている絢音には、この位置の車は絶対に見えない。来客用の駐車場のようだし、迷惑がかかることもなさそうだ。

 車から降りた三神は、さっそく例の少年を探す算段を練り始めた。

 瓜生というボスを抜いたその取り巻き三人は、獲物を探すべく、最初は授業中に抜け出しているような生徒を狙っていた。しかし、さすが名門進学校如月だけあって、そうそう授業を抜け出している者はいない。たまに彼らのように如月の進度についていけなくて落ちこぼれた生徒が図書室でぼんやりしていたり、校舎の陰で油を売っていたりしたが、司書がいて静まり返っている図書室で乱暴を働くことはできなかったし、外でサボっているような者でも彼らの姿を見るとこそこそ何か囁きあって、颯爽といなくなってしまった。「あいつらやばいぜ」と言う顔をして逃げていくから、追いかける気にもならない。結局授業はあっという間に終わり、そのあとのショートホームルームを終えると、掃除当番が掃除を始め、それ以外の者は部活に向かい始めた。
「くっそー、人目が増えてきたなー」
 志垣がうんざりしたようにうなった。佐藤は相槌をうち、栃沢は諦めがちの溜息をついた。
「これじゃあ中でやるとばれるかな。停学食らうのもうんざりだし、外でカモって来ようぜ」
 二人が同意を示すのを確認して、栃沢は裏門に向かった。正門から堂々と下校すれば間違いなく誰かに咎められるだろうし、外に出たという目撃があれば、外で恐喝に遭った人間が学校に訴え出た時に、自分たちが真っ先に疑われる可能性が高くなる。
 校舎の周りを三分の一ほど歩いたとき、三人は思わず足を止めた。ちょうど武道場の裏側で、道路との境の生垣の間からじっと中を見つめている女性が目に留まったのだ。
「・・・・・・何だろ、あの女。剣道部見てんのかな」
「見学か?にしては、えらく控えめな位置にいるよな。中からも生垣に隠れてあんまり見えなさそうだぜ」
 栃沢がにやりと唇を曲げた。
「あの格好からして、かなりいい家の御令嬢って感じだな。二十代後半くらいだけど。金持ってそうじゃねえ?」
「・・・・・・か弱そうだし。ちょっと脅せば軽いかもな」
「俺らの名前も知らねえだろうし」
「決定だな。よし、行こうぜ」
 三人は心持ち顎を上げ、気だるそうに歩きながら黒髪の女性に近づいた。女性は一心に中の様子をうかがっているようだったが、わずかに目線を武道場に向かう通路に向けたことで、自分に近づいてくる人間がいることに気づいた。
「なあ、あんた何してんだ。のぞき見か?悪趣味だな」
 栃沢が横柄さをいつもの倍くらいに増加させた口調で、相手を見下ろした。女性が改めて身体を三人の方に向ける。それで生垣となっている木と並ぶことになり、武道場からは死角になった。
「なあ、おネエさん。あんたえらく品のいいかっこしてるな。何、お金持ち?」
 からかうように言って、志垣が金髪を掻き上げながら相手をじろじろ品定めするように見た。

「何でこんなとこでのぞき見してんのかなんて、野暮なこと聞きゃしねえからさ。俺らにちょっとお小遣いくれねえかなあ」
 へらへら笑いながら佐藤がさっそく用件を切り出す。女性は美しい眉を寄せて、漆黒の瞳に蔑むような光を浮かべた。
「貴方たち、如月高校の生徒でしょう?如月の名を貶めるような行動は慎んだ方がよろしいんじゃなくて?」
 その毅然とした態度に、志垣と佐藤はひるみかけたが、栃沢は更に横柄に受け流した。
「言葉遣いまでお嬢様だなあ。わりーこと言わねえよ。お嬢さん一人で俺らには敵わねえだろ。それとも何?そのか細い腕に覚えでもあんの?」
「もしかして、優秀な兄弟でもこの学校にいるわけ?如月にだって、俺らみてーのいるんだよ。如月如月って、神聖視しちゃって、馬鹿じゃねえ?」
 女性はきり、と吊り上げた美しい目に力を込めた。
「情けない方々ね。如月の学力についていけなくなって、如月という名前にコンプレックスでもお持ちのようだけれど。高校や周りをどうこう言う前に、ついて行く努力を怠ったご自分に、まずは嫌悪のひとつでも感じた方がよろしいんじゃありませんこと?」
 当然三人は、彼女が彼らの恐れた椎名慈恩の実の母親だなどということは知りようもない。しかし、全くひるむ様子もなく、この痛烈な毒舌である。只者ではない、ということはすぐに感じた。
「なんだよてめえ。てめえに言われる筋合いねえぞ」
 佐藤が凄みを利かせると、女性は軽く吐息した。
「私もあなた方にお金をせびられる筋合いはありませんのよ。あなた方、ご自分のことしか見えてらっしゃらないようだけれど」
 鋭い言葉は全て図星だから、尚更腹が立つ。志垣と佐藤がギリ、と歯軋りをした。怒りに激した栃沢の手が女性の襟首をつかんだ。逆立った眉に拍車がかかる。
「偉そうな口きいてんじゃねえぞ。女だからって手加減してもらえるとでも思ってんのか。立場対等だと思ってんじゃねえぞ。力がある分こっちの方が立場つえーんだよ。勘違いしてんじゃねえよ」
 女性はひるまなかった。凛とした光が、漆黒の瞳に湛えられている。栃沢の脳裏を既視感が襲う。
(何・・・・・・だ?この眼・・・・・・?)

「立場ですって?何の関わりもない初対面の立場は、どんな人間でも対等なものよ。卑怯なやり方で力や権力をかざしさえしなければね」
「黙れ!てめえの口上聞く気なんかさらさらねえんだよ。さっさと金出しゃいいんだよてめえは」
「ウゼエんだよ、説教かましやがって。金持ちが偉そうに」
 佐藤がガードの甘くなっていた女性の右手から、ハンドバッグを奪い取った。口を開け、いきなり逆さにする。品のいい小物や化粧品、携帯電話や財布も転がり落ちてアスファルトに散らかった。きっ、と顔を上げて栃沢を鋭い視線で貫いた黒髪の美しい女性は、研ぎ上げた包丁のような言葉を相手にたたきつけた。
「これが犯罪だということ、当然分かってやってらっしゃるんでしょうね。曲がりなりにも如月に入ることのできた生徒さんですもの。ここまで落ちぶれるとは、入ったときは思ってもみずに、きっと喜びと希望に溢れていたんでしょうね。ここまで来ると哀れすぎて言葉も出ないわ」
 栃沢の顔が怒りで朱に染まる。財布を拾った佐藤もぎくりと硬直する。志垣は精神に最大級の傷を負って唇を噛み締め、その唇から赤い雫を、瞳には透明な雫を浮き上がらせた。
「死にてえか、このくそアマが!!」
 栃沢が握り固めた拳を思い切り引いた瞬間、その腕がものすごい力で後ろからつかまれ、その力に物理的にだけでなく、精神的にも固まらざるを得なかった。
「あんたら、人を傷つけることがどんなことなのか、ついこの間思い知ったんじゃなかったのか」
 低いいい声だが、凄みがある。志垣と佐藤は瞬間で振り返り、色を失う。二人の視界に映ったのは、漆黒の苛烈な瞳。数日前に目の当たりにしたその瞳は、彼らに恐怖と恐れを刻み込んだものだった。
「それとも、救いようのない愚か者だと、自らその行動で示すのか」
 椎名慈恩の研ぎ澄まされた皮肉な言葉は、今まで散々浴びてきた女性からの痛烈な言葉で傷つきまくっていた彼らのプライドに、とどめを刺すことになった。じりじり、とあとずさった佐藤は、手にしていた財布をぽとりと手からこぼすと、うめきと悲鳴をたして二で割ったような声を上げて、自分たちが来た方向へ猛然と走り出した。
「あ、あ、渡っ、待てよっ!」
 志垣が追いかける形で逃げ出す。

「さあ、あとはあんた一人だ。どうする」
 栃沢の耳に、低い声が更に低く流れるように入ってくる。ここで逃げるほど屈辱的なことはなかった。しかし、前回この後ろから腕をがっちりつかんでいる人間に、まさに殺されんばかりの空気を感じた栃沢は、ここでキレることの危険さも感じていた。ゆっくりつかんでいた女性の襟首から指を解く。
「この場面で都合よく出てくるなんて、正義のヒーローだな。見計らってたんじゃねえのか」
 それでもすぐに引き下がれず、憎まれ口をたたいてみる。内心かなりどきどきしていた栃沢だったが、意外にも拘束されていた腕が開放された。それに密かに胸を撫で下ろしつつ、今や瓜生より恐れを抱いている相手を振り返った。途端、凛とした漆黒の瞳に見返される。
「執行部の仕事で遅れて剣道場に来た。剣道場からは見えない位置だったようだが、その通路からこの状況が見えた。そんな俺にも気づかないほど、あんたらは加熱してたみたいだな」
 ち、と舌打ちして、栃沢は目を逸らした。つくづく自分たちには運がない、と思った。もうどうすることもできない。今この状況では、未遂だったことが何よりもありがたいことだった。
「てめえと関わるとロクなことにならねえ。その面見るのは二度とごめんだ」
 捨て台詞を控えめに放って、栃沢は二人が自分を見捨てて走り去った方に歩を向けた。
 ゆっくり遠ざかっていく姿を今一度眺めてから、慈恩は溜息をつき、武道場から何度か見かけたことのある黒髪の女性を、初めて間近から見つめた。
「うちの生徒が無礼を働いたようで、本当に申し訳ありません。この学校の生徒会役員を務める椎名といいます。彼らに代わってお詫びします」
 静かに頭を垂れる。品のいい女性はつかまれてしわの寄った洋服を調えながら、優しく声を掛けた。
「何をおっしゃるの。貴方がそんなふうに頭を下げる必要はないわ。私がお礼を言わなければならないのに。ね・・・・・・椎名、さん?」
 慈恩は頭を上げ、その品のいい女性を再び見つめた。間違いなく美しい女性だった。漆黒のやわらかそうな長い髪。長い睫毛の下の漆黒の大きな瞳。やわらかく通った鼻筋に形のよい唇。白く美しい肌に、その漆黒と唇のやわらかい色の紅がまた映えて美しかった。
(本当に美人だな)
 ちょっと感心する慈恩である。日本人の女性でここまで美しいと感じた人は、初めてだと思った。

「お礼なんて・・・・・・とんでもないです。うちの生徒に非があるのですから。すいません、これ、貴女のかばんですよね」
 言って上背のある身体を折り曲げて、ばら撒かれた小物をハンドバッグに収め始める。
「あら、いいですわ、私がやります・・・・・・。・・・・・・ありがとう。椎名さんはお優しいのね」
「人として当然のことをしているだけです。・・・・・・あ、すみません、これ、傷ついて・・・・・・」
 慈恩が拾い上げた携帯電話は、アスファルトによって大小いくつかの傷をつけられていた。女性はそれを受け取り、にこりと微笑んだ。
「構いませんわ。・・・・・・貴方にここでこうして拾っていただいた記念です。さっきの方たちに脅されたことで貴方にこうして親切にしていただくことができたんですもの。私、あの方たちに感謝したいくらいですわ」
「え・・・・・・?」
 あまりの極論に、慈恩が凛々しい眉をかすかに歪めると、美しい女性は少し慌てたように笑った。
「いえ、それくらい、貴方という素晴らしい人に助けていただけたことが嬉しかったのです。ねえ、よろしければ、貴方のお名前を聞かせていただけませんこと?」
 少々困惑したように笑みを浮かべてから、慈恩は応えた。
「椎名慈恩といいます」
「じおん・・・・・・さん?」
「はい。慈しむに恩恵の恩と書いて」
 言いながら、慈恩は拾ったもの全てを入れたバッグを女性に返した。
「・・・・・・そう・・・・・・。ありがとう。いいお名前ですわ。珍しい響きですわね」
「ええ、双子の兄がいて、両親が音をそろえてつけた名です」
「あら、そうなの?お兄さんはなんておっしゃるの?」
「北斗の斗に音(おと)と書いて、斗音と」

「まあ、そう。どちらもなんて素敵なお名前。素敵なご両親ですのね」
 誰もが見惚れそうなほどの美しい笑顔だったが、慈恩が返した笑みにはわずかに苦さが混じった。
「はい・・・・・・。いい両親・・・・・・でした」
 その様子に、女性は下の方だけ柔らかくカールした髪を後ろへ流しながら、笑みを消す。
「あの、私、もしかして余計なことを・・・・・・」
 女性に気を遣わせまいと、慈恩は苦笑した。
「いえ、母はもうだいぶ前に亡くなりましたし、父が亡くなってから一年以上経っていますから。お気になさることはありません」
 しかし、また戻ってきた美しい黒髪をしなやかに後ろへ流しながら、女性は神妙な顔を見せる。
「ごめんなさい。私、本当に気がつかなくて・・・・・・。助けていただいておきながら、本当にごめんなさいね」
「いえ、本当に・・・・・・」
 逆に戸惑いを見せる慈恩に、女性は優しい声で、しかし強い意志を込めて言った。

「ね、慈恩さん。今日のお礼と、それからお詫びをさせていただけないかしら。いえ、今すぐなんて無茶は言いませんわ。貴方のご都合のつく時で構いませんの。そうでないと、私、自分で自分が許せませんわ」
 強引なその誘いに、慈恩はどう反応したものか困惑した。しかし、あまりに押しの強い彼女の姿勢に、ついに折れざるを得なかった。自分への連絡先と引き換えに、慈恩は相手の携帯番号と、その美しい女性の「九条絢音」という名前を知ることになった。

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八.空

 絢音がカツアゲに遭ったおかげで自分の息子と初めて会話を交わすことができ、至福の時を過ごしていた頃、その運転手兼ボディーガードであるはずの三神は、名前すら知らない一人の少年の居場所に見当をつけるところまで、成功していた。最近校門の辺りで部活が終わってから何か事件がなかったか、と数人固まってたむろっていた女生徒達に聞いたところ、彼女らは三神の外見に気を良くしたのか、いろいろしゃべってくれた。濃紺のブレザーにグレーを基調としたチェックのプリーツスカート、濃いブルーのタイの先端が三段階のグラデーションになっている如月の女子の制服は、これまた女の子たちの憧れであり、なかなかかわいらしいものだったが、三神には何の感銘も与えなかった。
 彼女らの話を聞く中で、あのアッシュの髪の色白の少年がこの学校の生徒会副会長という肩書きを持っているということ、喘息持ちで、つい最近トラブルで発作を起こし、煙草を押し付けられて火傷を負ったこと、バスケ部に所属していること、生徒会の仕事が忙しくて部活に行けないこともあること、全然似ていない双子の弟がいることなどの情報を得た。
(椎名斗音・・・・・・か。いい名だ。あの儚さによく似合っている)
 生徒会室になんて自分が入り込めるはずもないので、バスケ部が活動しているという体育館に向かう。二階建ての体育館の一階で、男女のバスケ部が体育館を半分に区切って二面つくってあるコートを使って、それぞれ練習しているようだった。武道場側には決して近づかないようにしながら、三神はさりげなさを装って体育館内をのぞいた。
(・・・・・・いない・・・・・・か・・・・・・?)
 見覚えのあるアッシュの髪が見当たらない。目立つのは淡い紫色の髪の少年だけだ。もう一人柔らかそうな、色の薄い髪の少年がいるが、そんなに長かった覚えはない。心底がっかりしながらも、三神は感嘆の思いを己の中に感じた。
(えらく上玉がいるじゃないか。・・・・・・あの髪は染めてるのか?男であれだけの美人はそう拝めるもんじゃない。・・・・・・あの可愛らしいのもレベルが高いな。椎名斗音といい、男子バスケは豊作だな)
 目線がばれないように、胸のポケットに挿してあった濃い色のサングラスをそっとかける。しばらくその二人の麗しさや愛らしさを堪能してから、それでもあの時の少年に心をくすぐられるまま、未練たらたらで三神は車へ戻った。あの綺麗に整った顔立ちや、はだけた襟首からのぞいていた白い肌を思い出すだけでぞくぞくする。
(くそ・・・・・・もう一回見たかったな。明日も許してもらえたら見にくるんだがなあ)

 そろそろ部活が終わる時間が近づいている。未練はあるが、仕事を怠るわけにはいかなかった。三神は諦めて車を出した。

 九条家に戻るなり、絢音はいつものうんざりするような台詞を母親から言われた。それでも絢音はとびきりの幸せに包まれていたから、ニコニコ笑いながら答えた。
「お母様、私、雅成さんとずっと幸せでいられるチャンスをつかみましたの。しばらくお時間を下さい。九条家を絶やすようなことは絶対にしませんわ。ご安心なさって」
 母親は訝しげな顔を見せたが、自分の娘が何かひとつのことを心に決めると、一直線に進んでいく性格だということをよく知っていたので、そこまで言うからには何らかの報告が近いうちに聞けるだろうという確信はした。しかし、走り出したら止まらないということもよく知っていたので、思わず口にせずにはいられなかった。
「絢音さん、あんまり突拍子もない報告だけは、勘弁してくださいね。あの時のような思いをもう一回したら、私心臓が止まってしまいます」
 絢音が返した微笑みは嬉しさ半分に、何か負の感情が混じっていた。
「突拍子もない報告かもしれませんわ。でも、私も雅成さんも不幸にならずにすむ報告には違いありません」
「・・・・・・絢音さん・・・・・・」
 その負の感情が、自分に・・・・・・いや、絢音にひどくつらい試練を与えた九条家の親類一同に対するものであることを、母は理解していた。それ故、それ以上の言葉を紡ぐことは敵わなかった。
 絢音はすぐさま雅成の待つ居間へ、蝶が舞い込むような軽やかさで戻った。
「・・・・・・何か進展が、あったんだね?」
 その浮かれぶりに、雅成は苦笑した。絢音はあいさつすら忘れて雅成に抱きつきそうな勢いで駆け寄る。
「雅成さん、私もう、嬉しくて・・・・・・何から話したらいいかわからない。あの子が、慈恩が私を助けてくれたの。話もしたわ。また会う約束もしたの。あの子と知り合えたの。初めて間近で・・・・・・」
 時間軸がめちゃくちゃになった説明を上擦った声でしながら、たちまち漆黒の瞳に涙のベールを覆わせた。
「私を・・・・・・見てくれた・・・・・・」
 ぽろぽろと大きな雫が零れ落ち、雅成は自分のハンカチを出してそっと頬を拭ってやった。
「よかったな。よかったな、絢音。ずっと願ってたんだから・・・・・・」

 本当によかったな、と華奢な肩をぎゅっと抱きしめる。その腕の中で、絢音は何度も小さくうなずきながら、もう一度ゆっくりと、雅成に今日あったことの説明を試み始めた。

   ***

 梅雨の時期に入っても、如月高校の活気は衰えることがなかった。如月祭に向けて各クラスや部活、有志などの企画が申請され、具体的に動き始めたからだ。学力的に優れた者が集まれば、やはりそれなりに仕事も早く、計画もオリジナリティ溢れるアイデアがそれぞれで多彩に飛び出し、みんながわくわくし始めていた。
 多くの議論を呼んだ有志のオーディションも、執行部員と各クラスからの代表一名ずつ、更に先生も各学年と管理職から一名(今井の要望でなんと校長が参加し、全ての人物を驚かせた。)、更に専門職として音楽教師を審査員として招き、厳正な判定基準と項目のもとで公平に行われた。十組の合格者は、バンド演奏三組、漫才二組、大道芸、アカペラ演奏、ものまね芸、ダンス二組とバラエティに富んだものになった。バンド志望者は多かったが、それだけに競争率が高く、かなりレベルの高いところが選ばれた。その中に女生徒だけで組んだバンドが食い込んだことが、一時話題をさらった。有志志望がオーディションに決定してから、一生懸命練習を頑張ってきたバンドだった。審査員の見抜く目も高く、選ばれなかった者は気落ちしたものの、目の前で技術やレベルの違いを見せ付けられたことで、納得して諦めることができたのだ。当然栃沢たちのバンドもオーディションを受けたが、何事からも逃げてきた彼らがその中に残れるはずもなかった。
 しかし、そこで執行部は終わることなく、オーディションに落選した者たちには審査結果から足りなかった部分や評価できる部分を明確にして伝え、来年度またレベルアップして挑戦できるように、三年生であれば腕を磨いて大学や社会人になっても続けていける励みになるような言葉を送った。アフターケアまで完璧だった執行部に対して、毒づく者はもうどこにもいなかった。
 忙しかった時期を抜けて、久しぶりに部活に出て来られた斗音をいつもの出来過ぎ集団と男子バスケ部部長が嬉しそうに出迎えた。
「お疲れだったな。これでしばらくは部活に出てこられそうか?」
 徳本の問いに、斗音はわずかに微笑んで答えた。
「はい。勝手ばかりしてすいませんでした。遅れを取った分少しずつでも追いつけるようにします」
「仕方ないじゃん。副会長なんだから、忙しくて当たり前だし、今回の有志のオーディションで一番大変な目に遭ったのは斗音だったと思うし」
 ね、と可愛らしく笑いかけるのは瞬である。徳本もうなずいている。翔一郎は斗音の華奢な肩を軽くたたいた。
「発作連続で起こしてから、なかなか本格的にできなかったしな。待ってたんだぜ、みんな」
「ごめん。でも、足引っ張るかも」
「何言ってんだ。バスケットは集団のスポーツだろ。仲間を助けられないチームなんて結局勝てやしない」
 斗音のさらさらアッシュをくしゃりと乱して、嵐がその瞳をのぞきこんだ。嵐の瞳の色は不思議だ。完全な黒ではなくて、光の加減でグレーに見える。髪の色もそうだが、大和民族以外の血が混じっているのは確かなのだろう。
「斗音・・・・・・?」
「うん・・・・・・そうだね。ありがと」

 いつかも見せた、切なくなるような儚い微笑だった。嵐は密かに形のいい眉をひそめた。

 如月高校は二期制になっているので、六月末に中間試験があり、如月祭の二週間ほど前に期末試験がある。ラスト二週間は勉強のことを忘れて如月祭にかけるためだ。後期は十月から始まり、十二月中旬に中間試験、二月末に期末試験となる。三年生のみ受験の関係から中間試験が十一月、期末試験が一月頭に行われる。とはいっても、進学の名門校である如月は、よく希望者のために模擬試験も行われているので、その四回だけの試験をクリアすればいいと言うわけではないのだが。
 
慈恩のオリジナリティ溢れる天ぷら(この日はミニかき揚、蟹身、椎茸、しその葉にカマンベールチーズをくるんだもの、豚肉で鶉卵を巻いたものなどがあり、斗音は感激した)をメインにした夕食の後、かなり近づいてきた中間試験に向けて二人で額をつき合わせて勉強していた。斗音は嘆賞しながら弟に話しかけた。
「やっぱり今井さんはすごいね。あれだけ忙しかったのに、今回のオーディション、非の打ち所がなかった。きっとあの人は出世するだろうね、将来」
 慈恩も文句なしの賛同を示す。
「手間を一切惜しまなかった。二度と生徒の中から不満を出さないように、細心の注意を払って企画した。あの人以外にオーディションの担当は勤まらなかったと思う」
 さすがに如月のトップに立つだけある。と、慈恩は尊敬してやまない。二人とも、他人の優れた部分を素直に認め、尊敬の気持ちを持つことができる。
 うんうん、とうなずきながら、斗音がふと顔を上げる。
「そうだ、慈恩。試験終わった次の土曜日の部活の後、翔一郎たちと遊びに行こうって話してたんだけど、慈恩も来ない?部活、午前だろ?執行部の仕事も一段落したし」
 その唐突な誘いに、慈恩は何度か瞬きしてから、苦笑した。
「いいな、たまには気晴らしも。でも悪い、先約があるんだ」
 休みの日は大概用事のある斗音であるが、部活に縛られることの多い慈恩はそう頻繁には遊びに出ない。掃除や洗濯、食料品の買出しなどに残った半日を費やしたりすることが多い。時折図書館で本を探したり、一人でふらりと買い物に行ったりもする。その慈恩に先約があるというのは、慈恩に彼女がいなくなってからは久しかった。
「そうなんだ?残念。みんな慈恩が来るの楽しみにしてるんだよ。いつも剣道の練習でなかなか一緒に遊べないから。次はもっと早めに計画立てるから、バスケ部連中に付き合ってよね」
 そこまで言ってから、はっと思いついたように慈恩を見つめる。
「もしかして、誰かと付き合うことにした?」
 しかし、慈恩はあっさり首を横に振った。
「いや。そういうわけじゃないけど。ちょっと込み入った事情があって」
 斗音が首を傾ける。さらさらの色素の薄い髪が、さらさらとその綺麗な頬のラインから離れる。

「事情?」
 そこで、半月ほど前に女性に絡んでいた栃沢たちを止め、その人からお礼がしたいと言われていたこと、何度かその人から連絡があって、半ば強引に日程などが決められたことなどを話した。
 斗音は綺麗で大きな目を何度か瞬かせながら聞いていたが、手の中でシャーペンをくるくる器用に回して言った。
「ねえ、その人って黒い髪の美人って言われてる人じゃないの?」
「知ってたのか?」
「ちょっと前から噂になってたよ。剣道場を見てる人がいるって。うちのクラスの百瀬、剣道部だろ。あいつから俺、聞いたよ。毎日部活の時間になるといつの間にか来てて、じっと剣道部の練習見てんだって。すごい上品そうな美人なんだって。俺思わず、何で遠くから見てんのに美人って分かるのって聞いちゃったよ」
 慈恩は思わずくすっと笑う。
「俺も最初その人のこと噂してる奴に、同じこと聞いた。でも、確かに遠くから見ても間違いなく美人だろうって感じがするんだ。なんかまとってる雰囲気がそんな感じで」
「で、で?間近で見たんだろ。どうだった?」
「いや、本当に綺麗な人だったよ。びっくりした」
「へえ・・・・・・。慈恩が言うんだから、かなりの美人なんだろうなあ。慈恩、芸能人とかでも滅多にそうやって言わないもんな」
 面白そうに斗音が笑みを浮かべる。斗音が笑うのは珍しいことではないが、慈恩は斗音が笑っているのを見るのが好きだった。あの白い部屋で、寂しさ一杯湛えた悲しそうな微笑じゃなくて、楽しそうだったり嬉しそうだったり、そんな感情を込めて斗音が自分を見ると、今の自分がここにいる意味があるのだと信じることができた。
「ねえ、もしかしてさ。その人最初から慈恩のこと見てたんじゃないの。だから、慈恩がその人のこと助けたのは偶然だったけど、その人にとっては慈恩と知り合うラッキーな出来事でさ。だから慈恩と知り合いになれたことが嬉しくて、そうやって友好関係を深めようとしてるんじゃないかな」
 絢音が聞いたらあまりの的確さに心臓が止まるような思いをしただろう。だが二人はそんなことを知るはずもなく、確かにそれなら筋が通るなあなんて笑い合っていた。
「でも、俺見られるような覚えもないけど」
「剣道の試合にでも来てたんじゃないの?それで見初められたとか」
「・・・・・・でも確かあの人・・・・・・結婚指輪してたような気がするぞ」
「じゃあ不倫だなあ。今度の慈恩の相手は年上の旦那持ちかなー」
「こら、勝手に俺の未来を決めるな」

 しばらく斗音が慈恩をからかうという構図が続き、彼らは勉強に一時間の半分ほどの支障を来たした。

   ***

 学力に多少なりとも覚えのある如月の生徒たちがしのぎを削りあう中間試験が金曜日に終わり、校内は解放感に溢れていた。これで部活が思い切りできる、如月祭の企画に力を入れられる、遊べる、勉強しなくていい、など生徒たちの解放感は様々であったが、梅雨のじめじめした天気も、生徒たちの気分と呼応したかのように中休みに入り、二・三日は晴れると予想されていた。
 予報どおり晴れた翌日の土曜日、斗音たちは久々のバスケットで汗を流し、近くの結構新しい銭湯に寄ってさっぱりしてから、まずは腹ごしらえと昼食ゲットに向かった。
 慈恩は同様に、午前中近藤の地獄メニューをこなし、シャワーを浴びながら仲間内でハンバーガーでも食べようと盛り上がっている中、申し訳なさそうにそれを断って、絢音との約束の場所に向かった。絢音は車で迎えに行くと言ったのだが、どうしてもそれは人目に付くし、相手の手の内に乗りすぎるような気がしたので遠慮した。絢音に説明されたとおり、電車で一駅通過したところの、高級住宅地が並ぶ中にある、高級そうな雰囲気を湛えているこじんまりとしたレストランの入り口を、慈恩は少々気後れしながらくぐった。どう考えても、制服のままでスクールバッグを肩にかけている自分が入るところではなさそうだ。
 如月高校の夏服は、ブレザーの高校の夏服に近くなる。白のカッターシャツに、女子の冬服のタイと同じタイプの濃いブルーのネクタイ、その襟元に白い鷺が羽ばたく様子をモチーフにした校章。ズボンは学生服のときと変わらない黒だが、夏用の薄い生地になる。シンプルなその夏服を着用した慈恩は、傍から見ればとても上品な雰囲気をまとっていて、それはそれは似合うので、その思いとは異なって、上品なレストランの雰囲気に溶け込めていた・・・・・・荷物以外は。
 しかし、そんなことは露ほどにも感じない慈恩が、どうしたものかと店内に視線を巡らせようとすると、上品な制服のウエイトレスが静かに近づいてきた。

「いらっしゃいませ。椎名様でいらっしゃいますか?」
「はい」
「お連れ様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
 ひとつの礼にしても丁寧な身のこなしを感じる。店のテーブルの半分くらいは、やはり上品そうな客で占められていた。そのウエイトレスに導かれるまま店の最も奥の、最も人目に付きにくいのに、景色が素晴らしく見える一角に進む。隣のテーブルから十分にスペースを取ってあるところや、それらの調度品ひとつをとっても、ここが間違いなく高級な店であることをうかがい知ることができる。
「こちらでございます」
 そう言われて、周りに気を取られていた慈恩が勧められた席の正面に目をやると、絢音がふわりと花の開くような微笑みで自分を迎えていた。
「ごゆっくりどうぞ」
 どこまでも丁寧な口調で言ったウエイトレスが立ち去ると、慈恩はぺこりと頭を下げた。
「すみません、お待たせしましたか」
 絢音はにっこり笑う。上品な微笑みは、控えめな照明の下でもやはり綺麗だった。
「いいえ、私も今来たところですわ。どうぞ、お掛けになって」

「はい」
 肩にかけていた荷物を椅子の脇に置き、言われたとおりに引かれてあった椅子に座る。硬くもやわらかくもなく、優しい座り心地のする椅子である。
(場違いだな。私服に着替えたほうがよかったかも)
 微妙な居心地の悪さを感じる慈恩だったが、そんなことは欠片も表情に出さない。
「ごめんなさいね、私強引にいろいろ決めてしまって。来てくださって、ありがとう」
 上品な言葉遣いに、慈恩も少々硬くなる。
「いえ、あの・・・・・・俺、大したことしてないのに、何だかかえって申し訳ないような・・・・・・」
「まあ、私がしたいと思ってるから勝手にしているだけですわ。逆に貴方の方がこんなおばさんに振り回されて・・・・・・ご迷惑おかけしてるのは重々承知ですのよ」
(おばさん?)
 見かけ二十代後半くらいに見えるのだが、自分の認識が間違っているのだろうか。それとも、自分の年齢に比べれば、ということなのだろうか。迷惑なんて、そんなこと、と言いながら慈恩は心の中だけで首をかしげる。
「あの、九条さんは、如月高校によくいらっしゃるんですか?」

 前回訊けなかった質問である。黒髪の美人として如月の一部の生徒に噂されるほど、多くの人間に目撃されているのだから、かなりの回数足を運んでいるはずである。

 絢音は軽く首をかしげるようにして、あまり濃くない色の紅で彩られた形よい唇に笑みを載せる。

「ええ・・・・・・そうね。如月高校の剣道部に興味がありましたの」

「剣道部に・・・・・・?」
「だから、名字しか存じませんけれど、剣道部に在籍なさってる方々は大体覚えておりますわ」
 少し躊躇ってから、慈恩は更に問いかけた。

「なぜ・・・・・・とお聞きしても、よろしいですか」

「ええ。構いませんわ」
 にっこりと小首をかしげるようにして、絢音は返した。
「・・・・・・実はあまり剣道というスポーツが分かるわけではありませんの。けれど、ちょっと落ち込んでいたときにあなた方の前向きな姿をお見かけしましたの。ずいぶん励まされましたのよ。・・・・・・特に、貴方に」

「えっ・・・・・・」

 斗音の言葉どおりの展開に、慈恩は言葉を失った。絢音はふふ、と笑った。
「私が武道場の外からいつもあなた方の練習を見せていただいていたこと、ご存知だったんでしょう?」
「あ、ええ。何度かお見かけしたことがあります」
 ウエイトレスが水を、失礼しますの言葉とともに置き、どうぞ、とお絞りを一人ずつに差し出す。運ばれてきたグラスには、ものすごく透明な水にものすごく透明な氷が浮いていて、微かにレモンのような香りが漂っている。渡されたお絞りは小綺麗な模様の付いた淡いブルーで、清潔感をいっそう高めている。今日は暑いからなのか、お絞りは冷たくて気持ちよかった。そして、拭いた手は爽やかなこれも柑橘系の淡い香りが移っていた。
「あの剣道部を・・・・・・かれこれ二ヶ月弱になるのかしら。ずっと見てましたから、剣道のことはよく分からなくても、貴方があの中で格段にお上手だということくらいは分かります。元気のいい方・・・・・・部長さんだと思うんですけれど、あの方もお強いですわね。けれど、貴方はそれを越えてらっしゃるわ」
 何だかとても嬉しそうに語る絢音が、不思議な感じだ。確かに斗音の言うとおり、この女性は自分に入れ込んでいるようだ。今までそういう女の子たちがいなかったわけでもないし、慈恩は比較的年上の女性にも受けがよかったのだが、何しろ慈恩が鈍かったし、そういうことに気づいたとしても、あまりそのことを考えたこともなかったので、少々戸惑う。

「だから・・・・・・本当は、貴方に助けて頂いた時、とても嬉しかったんです。ずっと・・・・・・勝手にですけれど、励まされていたんですもの。こうして強引にお誘いしたのも、今までの分、お礼をさせていただきたかったからなんですの」
 メニューを開きながら、絢音が貴方もどうぞ、と促す。優しい声は耳をくすぐるように涼やかで、心地よかった。はあ、と曖昧な返事をしながらウエイトレスが置いていったメニューを手に取る。
「今日も部活でいらしたのでしょう?こんな時間までお食事を遅らせてしまってごめんなさいね。私からのお礼ですもの、遠慮なさらずに何でも注文なさって。お腹すいてらっしゃるでしょう」
 メニューを開くと、西洋系の料理が並んでいる。料理に関してはそれなりの知識がある慈恩ですら、あまり聞いたことのないものもいくつかある。どうでもいいけれど、一品一品が一般的なレストランの二倍をゆうに越える値段なのに驚く。これで選べと言われても、一般市民の慈恩は躊躇ってしまう。
「どうかなさいまして?」
 なかなか選べずにいる慈恩に、絢音がにこりと微笑む。
「見慣れない名前が多くて・・・・・・」
 苦肉の策でそう答えると、絢音は、そう、とやっぱり微笑して、どれがどうお勧めかを説明し始めた。かといって、絢音のお勧めはメニューの中でも値の張るものばかりで、慈恩はおいそれと返事ができない。金銭感覚に疎い絢音も、やっとそのことに気づいたらしく、ちょっと慌てた。
「ごめんなさい、ここ、私の行きつけだったものだから、安直に決めてしまったのだけれど・・・・・・お金のことなら心配なさらないで。私のような人間にとっては、これくらいが普通なんですのよ・・・・・・」
 決してうぬぼれている言い方ではなくて、自分は世間とずれているという欠点を持っているのだと言うことで、慈恩に気を遣わせまいとする言い方だった。それでも躊躇う慈恩に、絢音は一問一答を始めた。
「ね、慈恩さん。スープはどんなものがお好きかしら?ビシソワーズなんて、お口に合うかしら。今日は暑いから、飲みやすいと思いますわ。あ、でも食べ盛りだからビーフシチューくらい、スープ代わりに頼んだ方がよろしいかもしれませんわ・・・・・・」
 慈恩の反応を見ながら、勝手に頼むものを片っ端から決め始める。その量は膨大で、慈恩は気が気でなかったが、絢音はお構いなしだった。勝手に決めて全部ウエイトレスに注文する。そして、くすくすと笑った。
「嫌味じゃなくて・・・・・・私、見てのとおり世間で言うお嬢様なんです。私の家は旧家で・・・・・・箱に入れられて育ってしまったものですから、こんな世間知らずになってしまって。結婚して家を継いだ身なんですけれど、夫も優しすぎるものですから、ちっとも直らないんですわ」
 嫌味でないことは、その表現からよく分かる。慈恩も思わず苦笑した。何だか可愛らしい人だと思った。
「武道場の前でうちの生徒が貴女に無礼を働いたとき、とても毅然としていらっしゃった気がします。彼らの方がずいぶんと動揺していたようですから。しっかりなさっていると思います」
 あら、お上手ね、と涼やかに笑う姿が美しい。涼しげな白を基調としたシースルーを重ねることで可愛らしさと上品さと不透明を手に入れたワンピースが、小刻みに揺れる。大きく開いた首もとから、綺麗に鎖骨が浮き出している。それを貧弱に見せないのが、上品な程度に付いた襟元のフリルである。
「綺麗だとか素敵な服だとかバッグだとか、そんなものを褒める人もいるけれど、そうやって中身を褒めていただけるほうがずっと嬉しいものですわね」

 考え方なども、ちょっとただのお嬢様ではなさそうである。
「私、結構一直線なところがあって、あの時もちょっとカッときてしまって。あの方たちにはずいぶん厳しいことを言ってしまいましたわ。後悔をしているわけではありませんけれど、それであの方たちのご機嫌を損ねてしまったのも、確かなんですの」
 ちょっぴり苦笑いである。

「どんなことを?」
「言ったら、引かれてしまいそうですわ」
 言いながらも、ちょっと遠まわしにあの時の名台詞を復活させる。慈恩は聞きながら思わず笑ってしまった。言葉遣いが丁寧な分、絢音の言葉はさぞかしきつかったことだろう。
「ちょっと大人気なかったとも思いますのよ。あなた方の倍も人生を経験している人間としては、もう少し寛大に接するべきだったかもしれませんわ」
「・・・・・・え?」
 慈恩は一瞬耳を疑う。そして、忘れもしない自分の年齢を振り返る。もうすぐ十七になる自分の倍、ということは、三十代前半ということだ。信じられない思いで絢音を見ると、こちらの思いに気づいたのか、上品にくすくすと笑った。
「今、計算なさったでしょう?私こう見えても三十三ですの。七月三十一日でもう三十四ですわ」
 そこでウエイトレスが前菜の鯛とサーモンのカルパッチョと、ビシソワーズを二人分運んできた。
「さあ、お腹すかれたでしょう?遠慮なさらずに食べてくださいね。私では注文した分全部食べることなんてできませんもの」
 にっこりと笑顔で勧める。ここまで言われてまだ遠慮したら、逆に相手の厚意を傷つけるだろう。
「はい。いただきます」
 運ばれてきたスプーンで、白いスープを口に運ぶ。ジャガイモの風味を殺さず、それでいて生クリームでまろやかにまとめられた味が心地よい。ジャガイモのざらざら感もほとんどないのが驚きだった。思わず、うまい、と言葉をこぼす。絢音は至極満足そうに、よかったわ、とうなずいた。刺身系や寿司が好物である慈恩は、カルパッチョの控えめなくせに絶妙の味や、歯ごたえに感動すら覚える。
「ここの食材はとても新鮮ですの。私、お刺身には目がなくて、ここのカルパッチョはお気に入りですのよ。お口に合いますかしら?」
「すごく美味しいです。俺も刺身は、好きです」
「まあ、本当に?奇遇ですわね」
 ころころと、実に楽しそうに絢音は笑う。絢音はもちろんだが、慈恩も彼女に対して好感を抱いていたので、話は弾み、初めの緊張感もすっかり消えて、そのあとも次々と出てくる絶品ぞろいの料理に、慈恩は一般の男子高校生としては少々高度な感動をしながら、楽しい時間を過ごすことができた。
(どうやったらこんなにやわらかく煮込めるんだろう。斗音にもこんなの食べさせてやりたいな)

 舌の上でとろけるビーフシチューに、本日数度目の感激を覚えながら、慈恩は思っていた。

   ***

「うわぁ、広いんだなあ。一人でここ住んでんの?贅沢」
 都内の新しいマンションが立ち並ぶ、そのうちのひとつ。その八階の一部屋に入るなり、斗音は感嘆の声を上げた。
「お前んちの方がよっぽど広いだろ。上がれよ」
 苦笑しながら先に上がっていたこの部屋の主が、淡い紫の髪を掻き上げる。
「翔一郎たちは、ここに来たことあるの?」
 靴を脱いで一段上がりながら、斗音が嵐に問いかける。
「ないな。あんまり高校の仲間を連れてきたことはない」
 さらりと言う友人に、斗音は何気なく問いを重ねた。
「どうして?」
「ちょっと、俺のプライベートは世界が違うから」
 これまた何でもないことのように嵐が答える。斗音は、へえ、とつぶやきながら、風呂や洗面所につながる短い廊下を通って、案内された居間に足を踏み入れた。
「綺麗にしてるんだ。結構こだわり派?なんか、大人っぽい」
 広めの居間にはシルバーをモチーフにした感のある、テレビやビデオ、そしてそれを支えるラックがあり、正直生活感というものはあまり感じられない。しかし、戸棚などは温かみのある木製で、硝子のテーブルの上に落ち着いた色調のクロスがかけられている。三人くらい座れそうなソファは淡いブルーとグレーの柔らかいチェックのシートが掛けられていて、部屋の色調は崩さずに、優しい雰囲気にしていた。
「どうして俺は、よかったの?」
 改めて、というより、ソファの肌触りのいいシートを撫でながらさりげなく、斗音は言葉を紡いだ。嵐は少し、間を置いた。そんな彼に視線を向けると、相手の視線もこちらを射止めていた。
「お前が、帰りたくなさそうだったから」
「え?」
 斗音が二、三度瞬きをする。嵐は笑っていない。真剣な話をしようとしているのが分かった。
「・・・・・・帰りたく・・・・・・ない?」
「自分で気づいてないのか?翔一郎と瞬は、夕飯食って暗黙の了解で『じゃあな』って言ったろ。お前だけなんか取り残されたような顔してたぜ」
 嵐は真剣な眼差しで斗音を見つめていたが、斗音が物憂げな表情のまま首を傾げたので、軽く吐息した。
「ここ半月くらいだな。お前、ぼんやりしてることが増えた」
「・・・・・・そう、かな・・・・・・」
 言いながら考えるでもなく、ただつぶやくだけの斗音に、嵐はソファに座るように勧めた。
「何飲む?ジュースからワインまで、大概期待には応えられると思うぜ」
 言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。斗音はやっと笑った。
「生徒会副会長の前で堂々とアルコール勧めない。何でもいいよ、一番お手軽なので」
「お手軽でいいんだな?あとで文句言うなよ」
「言わないよ。多分」
 斗音の返事に嵐は肩をすくめた。
「まあ、ゆっくりくつろいでてくれ。腕によりをかけてお手軽を作ってやるから」
 言って、リモコンでコンポを作動させる。耳に心地よいサラウンドの音が、鼓膜をくすぐる。聴いたことのない洋楽だが、癒されるような綺麗な曲だった。

「ん、ありがと」
 ソファに座る。そのシートの座り心地がいいのに、一瞬驚く。リビングからカウンターを境にしてキッチンになっているところで、嵐はなにやら硝子の音をさせ始めた。
(ここにいられるって、もしかしてすごいことなんじゃないのか?)
 世界が違う、と断言した嵐の私生活は、確かに謎に包まれている。しかし、だからといって部屋をぐるりと見回してみても、大人っぽくて洒落た雰囲気の部屋だということ以外、特に変わった様子もない。強いて言えば、家具や電化製品の一つ一つが決して安い間に合わせのものではなく、こだわりを感じるものだということか。既にある職について収入のある身なのだから、それくらいのものは買えるのかもしれない。でも、このマンションにしても、きっと高いだろうと思うのだ。それを払って、それでもこれだけ家具にこだわれるほどの収入があるのだろうか、と考えるととても不思議な気がする。そんなのは、一般のサラリーマンでもちょっと難しいのではないだろうか。
「ねえ。この家具をそろえたのは、嵐の趣味?」
「一応、そうだな」
「一応って何?」
「選んだのは俺だけど、俺が買ったわけじゃない」
 嵐には親がいない。彼は孤児院で育ち、中学から既に一人暮らしを始めている。あまりそういったことを嵐から言うことはないが、訊かれれば何の躊躇いもなく事実を答える。だから、嵐と親しい仲間内なら大概そのことは知っていた。ということは、それを買ってくれたのが親ではないということくらい、斗音には分かる。

「お金出してくれる人がいるの?」
「俺が出すって言っても聞かねえから」
 言いながら、氷と炭酸の気体を発生させている、うっすら色のついた透明な飲み物の入ったグラスに、一つはレモンを添えて、もうひとつはチェリーを沈めてあるものを運んでくる。
「どっちがいい?」
「綺麗だね。俺、こっちがいいな」
 チェリーが沈んでいる、ほのかに桃色がかった縦長のグラスを手に取る。
「これでお手軽なの?なんかすごい、喫茶店で出てくる飲み物みたいだ」
「外見はな。こっちはつまんでくれ」
 更にナッツがミックスされたものを小皿に流し込む。斗音は手にしたグラスに綺麗な唇をつけ、わずかに傾けた。中の液体が形を変えて水平を保ち、その喉に流れ込んだ。
「・・・・・・ねえ、嵐。これ、何?」
 今自分が飲んだものが何なのか、はっきり判別できずに斗音が訊ねる。
「美味いだろ?」
 全く答えになっていない返事を返して、嵐は笑った。斗音はうなずきながら、首をかしげる。
「何だろ?ほんのり甘くて炭酸。この風味って・・・・・・えっと・・・・・・桜・・・・・・?」
「正解。チェリーブロッサム・リキュール。いい香りだろ?炭酸で割ってみた」
(リキュール?それって・・・・・・)

「お、お酒っ!?」
「製菓とかにも使われるやつだ。あんまり出回ってないんだぜ」
 お前、お目が高いよ、と言ってくすくす笑う。

「ちなみにこっちはよくあるレモンのやつ。甘くないけど、飲んでみるか?」

「ていうか、何でアルコールが出てくんの」
「お前、文句言わないって言ったろ?」
「言ったけど」
「それともまずくて飲めないか?」

「いや、美味しいけど、でも」
 声を上げて嵐は笑った。そして斗音のグラスに自分のそれを軽く当てる。透き通るような音が響く。
「大丈夫。大した分量じゃないよ。それに今のお前は、ちょっとたがを外さなきゃ駄目だ」
 言って、乾杯、とグラスを小さく掲げた。斗音も遅れて、乾杯、と口にする。嵐がそう言うのなら、と思わせる説得力や信頼するに値するものを、この淡紫色の髪の友人は持っていた。
 時計が八時半から九時まで針を移動させた頃、嵐はグラスを替え、顔色ひとつ変えずに白ワインを既に瓶の半分ほど自分の身体に収めていた。斗音は最初に嵐が作った縦長のグラスの、ようやく半分ほどを飲んだところだった。いつもの陶器のように白い頬が、ほんのりそのグラスに注がれている色を移したように染まっていた。
「嵐、そんなに飲んで平気なの?」
「これくらいじゃ俺は酔わない。これが全部泡盛だったら酔ってるけどな」
 笑いつつ、嵐は斗音の表情をうかがう。
「ていうか、お前もしかして滅茶苦茶弱い?」
 斗音はソファに寄りかかったまま、熱い息を吐き出した。
「知らないよ、飲んだことないんだから。でも、心臓がブレイクダンスしてる感じ?」
「そりゃまた派手に酔ってるな。アルコール度数で言えば四%未満なんだけど」
「それって、少ないの?多いの?」
「俺の今飲んでるワインが十七%」
「・・・・・・ねえ、横になっていい?」
 それなりにショックを受けながら気だるそうに言う斗音は、ちょっと目が潤んだりして、うっすら頬を染めて、かなり色っぽい。嵐は苦笑してうなずいた。薄い綿毛布を別の部屋から運んできて、ソファに身体を横たえた斗音に掛けてやる。
「眠いか?」
「ううん、そういうわけじゃないけど・・・・・・ちょっと休みたい感じ」
「・・・・・・話くらいはできるか?」
「大丈夫だよ」
 床に座り込んで、嵐はソファにもたれた。目を閉じて、長い睫毛の影を頬に落としている斗音の顔を間近に見ながら、嵐はことさら感情を消して問いかける。
「・・・・・・今日、まだ慈恩は帰ってないのか」
 耳の側で、吐息とも溜息とも判別できないような呼吸がこぼれる。
「どうかな・・・・・・。夕食まで済ませてくるって言ってたけど・・・・・・」
「帰りたくないのは、そのせいか」
 しばらく間が空く。その間に続いて活舌の悪い斗音のハスキーな声がつぶやくように言った。

「・・・・・・ああ、そうかも」
 斗音は白い華奢な手の甲を、己の額に当てる。
「・・・・・・よく考えると、俺、あいつがいない時に家にいることって、少ないんだ」
 グラスを傾けながら、嵐はうなずいた。
「だろうな。お前はよく出かける方だし、慈恩は剣道ばっかりで、あんまり出かけないもんな」
「・・・・・・あの家、広くて・・・・・・広すぎて、一人じゃ寂しいんだ」
 俺家事もできないし、と小さく笑う。何だか壊れてしまいそうな儚さだと、嵐は思った。
「慈恩のデートの相手・・・・・・黒髪の例の人、なんて名前?」
「んー・・・・・・確か、九条さん、だった気がする・・・・・・」

「九条?本当に、九条?」
 嵐は眉根を寄せて、ふと自分の脳裏によぎった記憶を追いかける。
「・・・・・・何、知ってるの?」

「知ってるって言うか・・・・・・九条って言ったら田園調布の馬鹿みたいにでかい豪邸の表札がそうだった気がする。それにその名字、旧家のひとつ。ありきたりにあるもんじゃない」
 額に載せた手の下で、斗音は薄茶の瞳をのぞかせた。

「そうなんだ。・・・・・・お嬢様って噂あったし、案外そうかもね」

 まるで他人事のようにつぶやく。それが逆に嵐には気になった。

「何が不安なんだ?」
「・・・不安・・・・・・?」
 また斗音がつぶやく。上辺で言葉をなぞっているだけで、あまり考えてはいないようだ。大丈夫か、と気遣いながら、嵐はそっと斗音の頬に自分の手の甲を触れさせた。アルコールのためか、熱を持っている。
「嵐の手、冷たくて気持ちいい・・・・・・」

 再び目を閉じて、斗音が少し、笑った。それなのに、嵐は胸が痛んだ。
(泣きそうな顔しやがって)
 間近に見える斗音の顔にすっと長い指を近づけ、優しいラインを描く頬を、そっとなぞる。長い睫毛を微かに震わせて、斗音が薄茶の瞳を嵐に向ける。
「・・・・・・?・・・なに・・・・・・?」
「一人で抱え込もうとしてるからつらいんだぜ。言ってみろよ。お前の中にあるもやもやしたもの」
 優しい目が斗音を包み込むようだ。斗音は、まだ波間を漂っているような頭にぼんやり浮かんできたことを、言葉にし始めた。

「・・・・・・俺、今回の有志絡みのことで色々考えたんだ。投げつけられた言葉が痛かった。痛かったのは、事実だと思ったからなんだ」
 嵐は眉をひそめたが、いちいち言葉を遮ったりはしなかった。グラスを煽り、新たに淡い黄金色の液体を注ぐ。斗音は続けた。
「俺が気づいてなかっただけで、周りから見たら俺と慈恩の関係って、主従だったのかも。知らないうちに慈恩はずっと自分だけを大事に思ってくれるって・・・・・・俺勘違いしてた。違うのに。それどころか、俺は・・・・・・あいつの足枷なんだ。俺がいると、慈恩は自分のこと、何もできない」
 微かに擦れた声が震えた。潤んだ瞳は、アルコールのせいだろうか。
「でも、不安なのは・・・・・・それでも俺が、あいつにすごく依存してることなんだ。いつかは慈恩も俺から離れる。その時俺は・・・・・・どうしたらいいんだろうって」
 突然、くすっと笑う。
「慈恩にそうやって、何気なく言ったんだ。お前がいなくなったら大変だろうなって。そしたら、なんて返ってきたと思う?・・・・・・料理上手な人と結婚するんだな、だって。とんだ天然だよね。慈恩って」
 嵐もそれにはうなずいて見せた。しっかり者のくせに、斗音の弟は、自分自身のことが絡むと途端に鈍感になるのだ。
「今日あいつが九条って人に誘われたって聞いたときも、なんかよく分からないけど、やな気分になって。話聞いてると、その人最初から慈恩に興味があったとしか思えない。ずっと慈恩のことを見てたんだ。何が目的なのかよく分からないけど・・・・・・漠然とした不安みたいなものが・・・・・・なんでかな、その人が慈恩を連れて行っちゃうような気がして・・・・・・」
 自嘲を含んで斗音が笑った。
「馬鹿だね、俺は。でも、不安だったんだ。帰ってこなかったらどうしようって。一人でそれを待つのが耐えられなかった」
(連れてきて正解だったな)
 嵐は小さく吐息した。まさかここまで自分を追い詰めているとは。みんなと別れる時に一瞬見せた、あの迷子になった仔猫のような表情が、斗音のSOSだったのだ。嵐は優しくアッシュの髪を撫でた。
「お前、酔ってるな。・・・・・・でも、俺がこれから言うこと、ぼんやりでもいいから覚えとけよ」
 目を閉じて、こくりとうなずくのを確認すると、嵐は軽く息を吸った。
「俺は慈恩のこともお前のことも、すごく好きだ。どうしてだと思う?お前らの互いを思い合う気持ちとか、自分のことを過信しないところとか、そういう人柄が本当に信用できると思うからだ。それが嘘だとは思わない。少なくとも、お前に乱暴な言葉を投げつけてきた輩より、俺はお前たちのことを解ってるつもりだ。俺の言うこと、信じられるか」
 斗音は目を閉じたまま、熱い吐息とともにうなずいてみせる。嵐もそれを確認してうなずいた。

「お前が慈恩のことをすごく頼ってることは解ってる。だけど、慈恩はそんなお前だからこそ大事にしたいと思ってるし、それで自分が犠牲になってるとか、そんなこと欠片も思っちゃいない。剣道もそうだけど、あいつはお前が生きがいなんだぜ。お前がいるから頑張ってる。お前はあいつの足枷じゃない。お前があいつの空なんだ」
「・・・・・・空?」
 斗音は額に載せた手の下から、嵐をじっと見つめていた。嵐もそれをしっかりと見つめ返す。
「・・・・・・鳥は空があるから飛べる。自由に大きく羽ばたいて成長していく。慈恩があんなに剣道で強くなれたのは、お前を励ましたかったからだ。料理が上手なのは、お前に元気になってもらいたかったから。家事ができるのは、お前の不器用さをフォローできるように、だろ」
 斗音はソファの背もたれの方へ顔を傾けた。沸きあがった熱いものが、目から溢れて、頬を横切って滑った。
「もういいよ、嵐。ありがと」
 まだ酔っているのかもしれない、と斗音は思った。なぜこんなに涙が溢れてくるのか、分からなかったのだ。
「・・・・・・慈恩に連絡しといてやるよ。もうとっくに帰ってきてると思うから」
 ふわふわしたままで斗音がうなずくと、その後ろで嵐が微笑んだのが、雰囲気で分かった。携帯のボタン音が二、三発信され、快活な嵐の声が、電波の先にいる慈恩と話を始める。
「ああ、慈恩。もう帰ってた?え?九時に?早かったんだな。・・・・・・斗音、うちに来てる。ん。ごめん、酒飲ませたら寝ちまったんだけど・・・・・・わりい、だってそんなに弱いと思わなかったんだ。・・・・・・うん、だからさ、今日はうちに泊めるよ。うん。・・・・・・いいよ、構わない。ああ。じゃあな」
 そんな自分を除外した会話の片方だけを耳にしながら、斗音は流れた涙の後をそっと拭った。嵐が言ってくれたことは、少なからず斗音の不安に沈んだ心を引き上げてくれたし、嬉しかった。でも、完全に晴れ切らない雲も、斗音の心の中には残っていたのだ。

(飛ぶ力を充分につけた鳥は・・・・・・次はどこに行くんだろう・・・・・・・・・・・・)

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九.絢音の計画

「だからそういうのはちゃんと連絡入れてからにしろって!」
「連絡だと、本当に都合が悪くて断られてるかどうか、納得いかねえだろ」
「俺のこと信用してないわけ?」

「お前、俺には素っ気無くしても構わないと思ってるだろう?」
「そういうこと言うと、本当に素っ気無くするぞ」
 なんだかとてつもなく騒々しい会話に、斗音は意識を呼び起こされた。
(・・・・・・嵐・・・・・・?)
 ちょっと身体がだるい気がした。ゆっくり身体を起こして、辺りを見回す。見知らぬ部屋のベッドの上。
「ちょっと、やめ、人がいるって言ってんだろっ!!」
 どかっと何かがぶつかるような音。なんだか不安になって、斗音はベッドから降り、そっと寝室のドアを開けてみた。そこは、昨夜確か嵐にアルコールをご馳走になった部屋だった。硝子のテーブルの近くで、嵐が上に圧し掛かる人物に組み敷かれていた。

 嵐が人間というものに後れを取るなんて、見たこともなかったので、斗音は思わず目を瞠った。
「安土(あづち)、てめえ、ぶっ殺すっ!!」
 あの嵐が力一杯もがいているのに、いともたやすく抵抗を封じられ、圧し掛かった人物の大きな手で、あとに続く言葉を奪われた。

(な、何!?)
 嵐に圧し掛かっていた人物はにやりと笑うと身体を起こし、ふとこちらに視線を向けた。
(や、やばっ)
 斗音がぎくりとするのと、相手が軽く目を見開くのが同時だった。漆黒の前髪を六割ほど上げて横へ流し、同じように漆黒の眉はきりりと上がって弧を描き、その下にはやはり漆黒の瞳が野性的に輝いている。高く通った鼻筋に意志の強そうな、自信ありげな唇。かなりの美丈夫であり、その眼光は並の人間が身につけられるものではない、独特の威光を含んでいた。その光が、含み笑いで、少しからかうように悪戯っぽく変化する。
「よう。朝早くに騒々しくて悪いな。こいつの往生際が悪いばっかりに」
 途端、下から男性のみぞおちに嵐の拳が飛ぶ。入ったかと思ったのに、それは間一髪で嵐よりひとまわり大きな手の平にヒットしていた。
(・・・・・・人間業じゃない・・・・・・)
 斗音が驚きを隠せないまま、大きな目を更に大きくする。あの、誰よりも別格の嵐が、その拳を握りこまれて悔しそうに舌打ちをした。
「お前が東雲の高校の友達か。さすがは類友。綺麗な顔してるな」
 美丈夫の男性がニヤニヤしながら斗音を見た。なんだかすごく楽しんでいるようだ。
「失礼な言い方するな。大体いつもお前は外見から入る」
 かなりむっとしながら嵐が睨みつけるが、それでも平然としているところがまたすごい。
「外見だって人間の付き合いの入り口には違いない。それで気に入れば、内面を知るきっかけになるだろ」
 なるほど、と思わず斗音は感心した。そんな考え方をしたことはあまりなかった。
 どけよ、と嵐は腹立たしげに、絹のような光沢を持つグレーのシャツに黒のジャケットを着た相手の上半身を突き押した。男が立ち上がって、斗音はその長身に更に驚く。190を越えているのではないかと思える、すらりとしたその身体に、黒のスーツがとても映えて見えた。
「俺は斯波安土。東雲の・・・・・・友人。今のところはな。お前は?」

 自分に振られて、斗音はかなり心臓に悪い思いをしたが、慌ててしゃんと立った。
「椎名斗音です」
 にっと笑って、斯波安土と名乗った男性は、嵐の腕をつかんで引っ張り起こした。
「朝食を誘いに来たんだが、できればあと十分で準備してくれないか、椎名。東雲、お前もだ」
「あのな。俺らの意見も少しは聞けよ」
「例え聞いたとしても、俺は連れて行くから、一緒だろ」
(なんて強引な・・・・・・)
 斗音は少々嵐を気の毒に思いながら、慌てて準備をするために洗面所に向かった。
 かくして十分後には、朝早くからの騒動の主の予言通り、二人は車で移動していた。車は真っ黒のベンツ。かなり大きいタイプである。助手席から嵐が説明をする。
「安土は・・・・・・表向き、東洋医学専門家。漢方の処方もするし、針治療もできる。裏家業は暴力団斯波組の組長。といっても、何するわけでもないけど、高利貸しとか不動産とかやってるんだよな」
 なるほど、と斗音は思う。このベンツはいかにもという感じだ。運転席の斯波が訂正する。
「違うぞ。表向きが組長、裏が東洋医術関係だ」
「そっちのがタチ悪いじゃねえか」

 暴力団というと、かなり関わりたくないイメージのはずだが、なんだかこの斯波はちょっと違う。義理人情とか堅苦しい家の雰囲気とか、ドスとか、特攻部隊のチンピラとか、指詰めとか、そういったものとは縁遠い気がする。大体、東洋医学と同居するものでもなさそうだ。それに、組長が直々に車を運転していていいのだろうか。
「特に何もしないなら、暴力団なんて名乗らなくてもいいんじゃ・・・・・・?」
 控えめに質問した斗音に、斯波がカラカラと笑って答えた。

「親父が一代で立てた看板でな。親父の代ではまあ、ちゃんと暴力団とか、やくざな世界だったぞ。俺はそれが肌に合わなくて、とりあえず少数精鋭で組を立て替えた。だから、暴力的なことはしない。頭脳的に効率よく、だ。大体企業ってのはそういうもんだろ。今時脅しなんかかけたって、客取れねえんだよ。組員も少ねえし。時々抗争なんかに巻き込まれたり発展したりする以外は、普通の企業と変わらねえな」
 斗音は不思議でならない。斯波は見たところ二十二、三である。それだけの仕事ができるということは、少なくとも大学は出ているだろう。そうなると最低でも三十代に入っていなければ、ここまで達観した企業感みたいなものは持てないのではないだろうか。それを後部座席からそっと嵐に聞くと、嵐が今度は爆笑した。
「こいつ、何歳に見える?」
 途端、運転席から鋭い声が、機嫌悪さを載せて飛んでくる。
「東雲、てめえ」
「さっき俺で遊んだだろ。これくらいいいじゃねえか。な、斗音。どう思う?」
 正直に答えてみな、と、促す。斗音は散々迷って、正直に答えた。
「二十・・・・・・三歳くらいに見えるかな」
 嵐がくくっと肩を揺らした。安土がバックミラー越しにむっとしているのが分かった。斗音は自分が言ったことで何らかの波紋を呼んだのが分かって、ハラハラした。

「ほらみろ。絶対二十代前半に見えるって。自分では二十五、六に見えると思ってるんだぜ」
「笑い過ぎだ」
 嵐はそれでも込み上げる笑いを抑えながら、斗音を振り返った。
「こいつ、二十八。童顔の組長なんて、笑えるだろ」
「そ、そんなことないけど、お若いのにすごいですね。いろいろ手がけていらっしゃって・・・・・・」
 一生懸命フォローしたつもりの斗音だったが、斯波はバックミラーを使って斗音をちらりと睨んだ。

「若くない」
「えっ、そ、そうですか?」
「一回り近く離れてるお前らに若いなんて言われたくねえぞ、俺は」
 妙なこだわりがあるようだ。若いという言葉にコンプレックスがあるのだろうか。
「ええと、じゃあ、思ったよりお年を召してらっしゃるんですね?」
 やぶれかぶれで言ってみると、斯波はいきなりスイッチが入ったように笑い出した。隣で嵐も大爆笑である。一通り笑ってから、斯波は嵐を見遣った。
「こいつ、面白いな」
「お前には誰も敵わねえけどな」

 なんだかコントを見ている気分になるのは、気のせいだろうか。こんな組長だったら、きっと素敵な暴力団なんだろう、なんて思いながら、斗音は前の二人を眺めていた。

 なぜか朝っぱらからホテルの朝食をご馳走になった斗音は、そのまま慈恩の待つ家まで送ってもらうことになった。家の前に大きなベンツが止まったので、慈恩はかなり驚いたらしい。干しかけの洗濯物を放り出して門まで走って出迎えに来た。
 嵐が車から降りて、ことの次第を説明すると、慈恩は運転席の美丈夫に丁寧に頭を下げた。
「兄がお世話になりました。どうもありがとうございました」
 斯波はにっと笑って見せたが、次の瞬間に慈恩をまじまじと見つめた。
「兄?」
「双子なんだ。斗音が兄貴、こっちが弟の慈恩」
 嵐が紹介したので、もう一度慈恩は軽く会釈する。斯波はふうん、と感心したように二人を見たが、もう一度、いつものようににやりと笑った。
「東雲がいつも世話になってるみたいだからな。なあ、斗音の方。お前、喘息の気があるだろう。よかったらうちで体質改善の薬、処方してやるぞ。ちょっと値が張るが、酷くなるようなら来るといい。東雲のよしみでまけてやる」
 じゃあ、と開けていたウインドウを閉じる。硝子に色がついているので、斯波はほとんど見えなくなる。嵐が助手席側のドアを開けながら、慈恩を見た。
「慈恩、ごめんな。一晩斗音を借りたけど。・・・・・・もう少し、お前の思いを話してやるといい。お前が自分のことを自覚してないことも、あんまり話さないことも知ってるけど・・・・・・な」
 言って軽く手を上げると、助手席に滑り込んでドアを閉めた。静かに車が発進する。慈恩は更に軽く頭を下げた。そして、斗音に目を向ける。
「何、喘息のこと、話したのか?」
 斗音がふるふると首を振る。
「俺もびっくりした。あの人、東洋医学の専門家なんだって。多分、俺の顔色とか様子見て、だと思う」
「・・・・・・すごいな、専門家ってのは」
 感心の溜息とともに慈恩が言うと、斗音は大いにうなずいた。
「そう、それに滅茶苦茶いい男だった。慈恩より十センチくらい背が高くて、あの嵐が子ども扱いされるほど腕が立って、すげーかっこいい人だった。なんか嵐としゃべってるとコントに聞こえるんだけど。でさ、俺見てて思ったんだけど、あの人嵐のことが好きなんだと思う」
「どういう意味で?」
「本気で」
「は?」

 斗音はくすくす笑った。
「自分から名乗ってくれたんだけど、自己紹介がね、嵐の友人。今は、だったんだ。これから発展させるって意志だろ。それに、嵐の部屋の家具とか、たぶんあの人がお金出してるんだよ。嵐が出すって言っても聞かないって言ってたから」
 
それは斗音の推理だが、当たっている。慈恩は半分感心しながら聞いていた。
「なんかすごい人だな・・・・・・。さすが嵐の知り合い?」
「ほんとそんな感じだった」
 玄関に向かって歩きながら、斗音の話は止まらない。
「でさ、もっとすごいのが、あの人の裏家業でね・・・・・・」
 慈恩は干しかけの洗濯物の続きをしなければ、と考えながら、苦笑した。斗音に言いたかったことを一晩、胸に抱えていたというのに、それをすっかり忘れそうになっていたことに気づいたのだ。

(この調子じゃ、しばらくは話せないだろうな)

   ***

 斗音のクラスは、如月祭で様々な「名場面」の再現をすることになっている。誰もが知っている映画や人気番組の名場面で、どんな方法を使っても、それらしく見せられたら大成功、といった感じだ。例えば翔一郎は、マトリックスの主人公、ネオが、上体を反らして銃弾をかわすというシーンを担当する。もちろん、あんなのができるわけがない。黒子役の数人がそれを支えるのだ。瞬はもっと笑える。同じ名前で可愛らしいキャラがかぶっていると言う理由で、アニメにもなった聖闘士星矢に出てくるアンドロメダ瞬の再現である。翔一郎のアクションつながりで、「アクションと言えば?」で場面が移る。何でも双魚宮のアフロディーテとの戦いなのだとか。それをみんなが知っているのかどうかは分からないが、瞬が命尽きていくアンドロメダの役をやれば、客に受けることは間違いない。アフロディーテというキャラも超美形らしく、バレー部のすごく背の高い女子がやる事になった。チェーンが渦巻いたり、薔薇が飛んだりするのを、人で補佐するらしい。アフロディーテ役にも名の挙がっていた斗音だが、更に異色の役に納まってしまった。
「なかなか鎖のヨーヨーって難しいんだよ」
 溜息をつきながら、生徒会室でヨーヨーの練習をする斗音が藤堂に苦笑して見せる。この場面は瞬のネビュラチェーンから「鎖と言えば?」で斗音のスケバン刑事につながる設定になっている。
「スケバン刑事ねえ。よくそのおもちゃ、あったな」
「昔流行ったらしいよ。年の離れてる姉さんがいるって子がいてさ。その姉さんがまた物持ちよくて、これ小さい頃に買ってもらったのとってあったんだって。大体、その話があったから、俺がこんな役をやる羽目になったんだ」
 ドラマとはちょっと違った細めの鎖のヨーヨーである。よく考えれば、あんな人を縛れるような太い鎖でヨーヨーができるはずがない。シャララ、と音を立ててヨーヨーが回る。
「うまいもんじゃん。それで敵をぐるぐる巻きにするのか?」
「するよ。でも、よく考えたら敵に巻きついたヨーヨーが手の中に帰ってくるわけないだろ。その辺をどうするかが、2-3の見所ってとこだよ」
「セーラー服も着るのか?」
「・・・・・・」
 思わず斗音は言葉を詰まらせた。嫌だと言ってもやらされるだろう。大体、このあと続くのは「セーラー服といえば?」で、美少女戦士セーラームーンなのだから。それに当たらなかっただけ、ましである。
「お楽しみってことで」

 笑ってごまかしておくことにした。
 そこへ、カラカラと戸を開く音がして、弓削と慈恩が入ってきた。
「お、相変わらず斗音はヨーヨーの練習か。俺絶対見に行くからな」
 弓削が爽やかな笑みでからかうように言う。斗音は負けずに返した。

「俺も、弓削先輩のクラスでやるフリマ、行きますよ。変装見破りに」
 弓削と武知の3-6は、どれだけ変装を見破られずに物を売れるか、六人のチームごとに競うらしい。全員ばれてしまったチームは販売終了というわけだ。そこでどのチームが最後まで残るか、なんと生徒の中で五百円までの賭けが行われる。賭けに勝った者は配当金の代わりに購買のチケットが配当金の分だけもらえる。フリーマーケットで売るものは、全校から集めた不要品で、もちろん学校らしく、売上金はユニセフに寄付することになる。どこかのテレビ番組の企画を真似たものだが、最も売れたチームには「LOVE&PEACE+Pleasure」の如月祭スローガンのもと、生徒会長から特別景品として、購買のチケット三千円分が贈られる。

「俺らは絶対見破れない変装を考案中だよ。まあ、楽しみにしててくれ」
 弓削はくすくすと笑った。かなり自信ありげだ。よほどの案があるのだろう。
「藤堂んとこは何だっけ?」
「あ、うちはお化け屋敷っすね。全員でお化けに仮装するんで、見に来てください。結構凝ってますよ、案だけは」
 あははは、と藤堂が笑う。やりたがりの彼のことだから、きっととんでもないお化けになるに違いない。
「飯は慈恩のクラスに行けば、まけてもらえるのか?」
 弓削が楽しそうに言うと、慈恩が苦笑した。

「びた一文、まけません」
 慈恩や嵐の所属する2-5は一応喫茶をやる。しかし、ただの喫茶ではなく、一時間ごとに喫茶店内でショーが始まる。いきなり客を巻き込んだサスペンス事件が起こるのだ。事件は二日分、十二通り準備されることになっている。全てオチかハッピーエンドが用意されており、利益になった金額をユニセフに寄付するところで、スローガンの「Pleasure」や「PEACE」に絡めている。一応企画賞狙いだ。ちなみに慈恩は演技派ではないので、ただのウエイターである。

「よう、みんな早いな。と言っても、会長がいねえと始まらねえか」
 言って入ってきたのは武知である。続いて莉紗が走ってきた。
「各クラスと部活の企画表、できたわよ。それぞれの催し場所と時間も。おかしなところがないか、みんなでチェックして」
 言われてみんなが莉紗の持ってきたコピーを受け取り、目を通す。
「ステージは今年、盛りだくさんだな。3-1の新撰組は見に行きたいけど、3-5のリングも面白そうだな」
「今井、土方歳三だって。なんか、主役じゃねえけど、一番オイシイとこだな」
「なあ伊佐治。貞子って、誰がやるんだ?お前?」

「どうしてそこで私の名前が出るのよ。ふふ、でも、うちの貞子は見物よ」

「時間的には余裕があるから、見ようと思えば二つとも見られそうですね。執行部の企画もぎりぎり時間から外れてるし」

「何言ってるの。外したのよ」
「お、さすが凄腕秘書」

「誰が秘書よ」
「科学部の実験の時間、昼前の方がよくないですか?ここの部長、この日の午後からクラスで手品になってます」

「あ、そうか。有志の出場メンバーとかいろいろ考えて、クラスの企画だけはかぶらないようにしたつもりだったんだけど、部活まで行き届いてなかったな。部活の出し物は室内が多かったから、クラスの企画の時間とずれた部員が当番制でやればいいと思ってたんだけど、美術部とか漫研と違って展示してるだけじゃないんだ」
 莉紗がふう、と溜息をついた。このタイムテーブルを作るのは、かなりの時間と労力を費やしたに違いない。
「大丈夫だろ。あとはステージ発表とかお菓子作りとか、時間が決まってるか分担すればできるもんばっかだし。午前の有志と入れ替えるか、3-2の手品を午前にするか。いっそ、水蒸気爆発なんだから、運動場にしたらどうだ?雨が降ったら困るけど・・・・・・」
 弓削がシャープペンシルでさらさらと印をつける。
「よう、スケジュールできたんだな。さすが莉紗、仕事が早い」
 いつの間に入ってきたのか、今井がスケジュール表を手に取っていた。
「一番話題性があるのはうちの新撰組だろ。トリにしたらどうだ?」
「それはなあ。ひいきとか言われるんじゃねえの?」
 武知の言葉に今井は笑った。
「まあそりゃそうだけど、ラストが二年のかくし芸だと、見放される可能性があるだろ」
「それもそうッスね」

「最後まで目が離せないってのは、やっぱいるよな。綺麗ごとだけじゃ駄目か」
「・・・・・・実際の話、前評判が一番高いのはどこです?」
 慈恩の質問に、三年メンバーが顔を見合わせた。

「三年三組男で作る宝塚仕様、ベルサイユのばら?」
「ああ、あそこ男クラ(男子クラス)だからね。かなり力入ってるらしいな」
「俺がいる時点で新撰組も堅いぜ」

「自分で言うか、今井」
「俺は事実を言ってるんだ」
「馬鹿、だから尚更角が立つんだろ」
「うちも負けてないと思うけどなあ」
「そうだな。莉紗、貞子やるのか?」
「だからどうして私を連想するかな」

「二年はどうだよ?」
 弓削の質問に、今度は斗音と慈恩と藤堂が一瞬顔を見合わせる。莉紗が補足した。
「二年でステージ物となると・・・・・・2-3の二年三組流名(?)場面集、それに2-1の如月祭かくし芸大会と2-6の吉本ならぬ如月新喜劇ね」
「どれも物語メインじゃないんだよな?」
「言われてみれば・・・・・・。2-4って何だっけ?」
「『うねる大捜査線』自作映画よ。これもステージ上映だけど、これは一年同様、トリってわけにはいかないかな」
 さすが、スケジュールを担当しただけあって、莉紗が一番詳しい。
「そうか。となると、やっぱ三年生陣でトリにしたほうがいいだろ。じゃあ、リングと新撰組とベルばらで多数決。前評判は同じくらいだからな」
 今井がどんどん決めていく。残り六人とも、依存はない。
「じゃ、まずリングは?」
 莉紗と藤堂が手を挙げる。
「次、新撰組」
 今井自ら手を挙げ、武知も続く。
「最後、ベルばら」
 斗音、慈恩、弓削の手が挙がる。今井はうなずいた。

「決定。トリはベルばら。反対意見は?」
 全員それぞれに首を横に振る。ものの一分足らずの決着であった。
「じゃあ、莉紗。悪いけど多少の時間の訂正と、体育館の発表順、入れ替えといてくれ。にしても、何でお前らベルばらなんだよ?」
 振られて、弓削はニマニマ笑った。
「だって、宝塚って女だけでやるもんだろ?それを男が挑戦って言うだけで、かなりインパクトあるよ」
「執行部員がいないクラスだから、のちのち色々言われなさそうですし」
 慈恩もうなずく。斗音も笑顔で補足した。
「男子生徒だけの団結力って、侮れないですよね」
 3-3は、基本的に作業の丁寧な女子がいない分、他より何かと大ざっぱになりがちだし、体育祭では三年学年種目で有利だが、女子がいないために三組連合の緑団は女子種目の棒引きが一・二年だけで不利になるし、応援団もちょっとむさくるしいし、何かと特殊なクラスになる。よって彼らは、自分たちは他とは違うのだというある種プライドのようなものがある。人数的な関係で女子クラスは有り得ないので、尚更である。
「よぉし、だんだん具体的になってきたなあ。体育祭の方は、斗音、見通し立ってるか?」
「はい。じゃあ、こっちの資料も一人一部ずつ取ってください。まだ大まかなプログラムの段階ですけど。各学年からの学年種目は出そろいましたから、入れておきました。それぞれの競技ごとにグラウンドの使い方を提案してあります。応援合戦は毎年各団準備移動を含めて持ち時間五分。変わりなしで提案したいと思います。応援団の方ですが・・・・・・」
 斗音は体育祭の全面担当になっている。文化祭の企画賞担当が弓削に移ったので、今はひたすら体育祭の計画に打ち込んでいる。クラスの企画にも参加し、執行部の仕事もこなし、家ではもちろん学習も怠らない。そんなにたくさん抱え込んで、本当に倒れはしないかと慈恩としてははらはらしているのだが、斗音は持ち前の精神力でむしろ楽しげにそれらをこなしている。
 逆に慈恩はクラスの企画ではただのウエイターなので、執行部の仕事に時間を割ける。で、その執行部の仕事は文化祭の食品を扱う関係の担当である。衛生面や資金面、料金設定などは全て慈恩の責任である。が、それほど現在の時点で忙しいことはなく、専ら家に持って帰ってくる斗音の仕事を手伝っていた。
(斗音は本当に・・・・・・すごいな。この精神力なら、どんな状況になってもきっと生きていける)

 慈恩は胸に抱いたままになっている相談事を、未だ斗音に打ち明けられないでいた。

   ***

「ねえ、慈恩さん?今日は食があまりお進みにならないのね。どうかなさったの?」
 問い掛けられて、慈恩ははっとした。七月に入り、梅雨も明けた土曜日の午後。初めて会った時と同じレストラン、同じ席で、違うメニューとちょっと薄着になった目の前の美しい女性が視界に映って、申し訳なさを感じる。
「すみません・・・・・・。ちょっと、考え事をしていました」
 九条絢音は鈴を転がすような声を立てて笑った。
「まあ、まだ堅苦しい話し方をなさるのね。こうしてお会いするのも四度目。もっと打ち解けて下さってよろしいのに」
 このお嬢様言葉の前で、どうして打ち解けた話し方ができるだろう。慈恩は苦笑した。思えば、初めて彼女のほうからコンタクトを取ってきてから、ほぼ毎週のようにこうして会っている気がする。当然、絢音のほうから誘いがあるのである。慈恩としては特に断るほどの理由もないから、こうして出かけてくるのであるが、そのたびに絢音が慈恩のために湯水のように金を使うので、それだけが心苦しくてならない。一度目も二度目も三度目もそう言ったのだが、そう言うたびに絢音はなんだか寂しそうな顔をする。そして必ず言うのが
「これくらいのことさせて頂かないと、申し訳が立たないのですわ」
という言葉だった。とてもそんな風には思えないが、それが絢音にとって何かしら意味のある行動であることは、慈恩にも分かったから、あまり強くは言えなかった。
「もしかして、最初の日にお話したことかしら?貴方をそんなうわの空にしているものは」
 絢音の言葉に、またまたはっとする。図星だった。
「・・・・・・はい・・・・・・。実は、まだ兄にも何も話していなくて・・・・・・」
 シャツの下のクロスを無意識に探りながら、躊躇いがちに言葉を選ぶ慈恩に、絢音は首を振った。

「私がいきなりとんでもないことを言ったんですもの。迷って当然ですわ。貴方を養子にしたいなんて。でも、私は今でもずっと本気ですのよ。前にも言った通り・・・・・・ずっと子供ができないことで私たち夫婦は悩んできて、貴方の強さに励まされて・・・・・・そんな貴方のご両親が亡くなられていると聞いて、不謹慎でしょうけれど、私はこれが運命のように思えたのです。神様がもし本当にいるのなら、悩んでいる私たち夫婦に救いの手を差し伸べてくれているのだろう、と」
 絢音の気持ちは、最初に会ったときに聞かされていた。両親のことを聞かれて、二人とも亡くなったこと、今は父方の祖母に名前だけ保護者として借りていることなどを話すと、熱に浮かされたように養子にならないか、と切り出してきたのだ。当然、病を抱える兄を一人残してそんなことはできないと言ったのだが、絢音はそれなら斗音も、二人一緒に引き取ると提案した。それでもいきなり返事もできないし、色々考えたいこともあったので、慈恩は二回目も三回目も、その話題に触れることができなかった。
「でも、実は私の方も両親や親類にそのことを言い出せずにいるの。もちろん、夫には話したんですけど、夫も貴方を知っているわけではないし、まして斗音さんのことは私もよく知らなくて。だから一度、私たち夫婦であなた方ご兄弟にお会いしたいと考えておりますの」
 これも、何と返事をしたものかと戸惑う。
「まずは兄に話してから・・・・・・。斗音は嫌だとは言わないと思います。俺よりずっと人間としての器は大きいですから。でも、まだ何も知らない状態なので、今は何ともお答えできないのですが」
 絢音はにっこり笑ってうなずいた。
「ごめんなさい、また私先走ってしまって。私も覚悟を決めて、両親に自分の思いを話すことから始めなくちゃ。あ、そうだわ。貴方や斗音さんの写真なんて、持ってらっしゃる?私、夫にだけは早く見せたくて。あの人は絶対に私に賛成してくれるから・・・・・・」
「家にならあるとは思いますけど、今はちょっと」
「そうよね、男の子ですもの。そんな写真とか、あまり持ち歩いたりなさらないわよね。パソコンでメールとかなさいますの?」
「はい」
「じゃあ、私アドレスをお教えしますから、もしよろしかったらこちらにメールで送っていただけません?そのほうが手っ取り・・・・・・ええと、早く見られますわ。今日にでも」
 慈恩は思わず笑ってしまった。本当に、根っからのお嬢様なのに、突っ走るとどんどんお嬢様から遠ざかってしまう。言葉遣いもそうだ。この人は、嫌いではないと思う。
「分かりました。じゃあ、送らせていただきます。でも、養子の件についてはもう少し考えさせてください」
「ええ。構いませんわ。もうすぐ夏休みですわね。インターハイ、頑張ってくださいね。さ、そのためにも力をつけていただかなくちゃ。遠慮なさらずにお食べになって」

 慈恩は促されるままにナイフとフォークを取った。今日はイタリアンコースを頼んだらしく、ゴルゴンゾーラのペンネとたっぷりのベーコンとモッツァレラチーズのカルツォーネ、牛フィレ肉のステーキに手長海老のリゾットと、次々に運ばれてくる。絢音は少食なので、慈恩はいつもかなり食べることになる。
 
斗音は今日練習試合で近隣の高校に行っている。三校合同でやるらしく、一日かかると言っていたから、部活に行く前に弁当を作って持たせた。卵とキュウリとトマトのサンドイッチに唐揚げ、小ナスのミニグラタンにレタスとチーズとハムでミニトマトを包んだ一口サラダ、巨峰を数粒。自分なりに色々と工夫したつもりだが、それに比べて自分が食べているものを思うと、斗音にも申し訳ないような気分になる。
(話してみよう。俺一人では、それがいいのかどうかも判断できない)

 慈恩に答えは出せない。慈恩の答えは、斗音の答えとともにあるはずだった。

   ***

 息子との四度目のデートを終えて、絢音の足は雲の上すら歩けそうなほど軽かった。
(今日はあの子に似合う夏のシャツが見つかったわ。爽やかな色がよく似合って。本当にかっこいいわ、あの子。早く雅成さんに報告したいわ)
 部屋に入るなり、夫の姿を見つけて飛びつく。
「雅成さん!」
「お帰り。今日もご機嫌だね。僕に言いたいことが一杯って顔してるよ」
 にこやかに絢音を支える雅成である。初めのうちは、雅成とて心穏やかではいられなかったのだ。絢音に十七になろうという子供がいた事実。それが高校時代の教師との間にできた子であったとか、産まれてすぐに親族の手によって引き離され、行方知れずになったのだとか、そういうことももちろんだが、絢音には子供ができるという証拠でもあった。薄々は感じていたが、自分に何らかの原因があるのだと思い知らされた瞬間でもあったのだ。それをずっと今まで知らずにいたということも含め、量りがたいほどのショックを受けた雅成であった。しかし、それを迷った挙句に打ち明けた絢音の前では、止めて表情に出さなかった。何より、今現在絢音を苦しめている原因が自分にあると知った雅成は、自分にその事実で衝撃を受けたり怒ったり悲しんだり、そんな感情を妻の前で表す資格はないのだと言い聞かせた。
 そんなこんなで今に至るのだが、すっかり慣れて、むしろそれで絢音が明るく楽しそうにしているのならそれでいいと思っている。それに、実際に自分の子として認めるのであれば、絢音の言うとおり素敵な少年であればありがたい。その少年を養子に迎えることで、絢音も苦しまず、自分も苦しまず、絢音と別れることなくこの先生きていけるのであれば、いいではないか。
「ね、雅成さん。あの子がメールで写真を送ってくれることになってるの。斗音くんの写真も。貴方にあの二人を見せられるわ。ほんとにかっこいいんだから。それでね、今日あの子に夏のシャツを買ってあげたの。薄いペールブルーのシャツでね、とても似合ってるの。斗音くんは慈恩とはまた違ってすごく綺麗な子なのよ。ああ、早く雅成さんに見せてあげたいっ!」

 完全に羽目を外している。これが深層の令嬢だなんて思えない。でも、絢音はいつも雅成の前だけは建前も何もなしで、素顔でいられた。雅成はそう自負していたし、その感情が雅成をこの家で支えていた。

「何かありましたか、絢音さん」
 問われて、フォークで刺していたヒラメのムニエルの欠片を皿に戻す絢音である。
「何ですか、お母様、突然」
 母が少し訝しげに首をかしげている。
「いえ、なんだか浮かれているように思えたのです。・・・・・・違いましたか?」
 一緒に夕食をとっていた雅成は、一瞬ひやりとする。さすが母親と言うべきだろうか。しかし絢音はさらりと流した。
「いつも通りですわ。強いて言えば素敵なお買い物ができたことくらいです。そうよね、雅成さん」
「ああ、そうだね」
 慈恩に買ってやったというシャツのことを言っているらしい。嘘はついていない。
「まあ、何をお買いになったの?」
「夏のシャツです」
「お洋服一枚で、そんなにご機嫌がよろしいのですか?」
「そんなに機嫌よく見えますかしら」
 絢音の母は、少し眉をひそめる。
「貴女がそういう顔をしていた時を知っています。だから不安なんです」
 絢音はころころと笑った。少女のようなそのあどけない笑いの奥に、雅成はさりげないわざとらしさを感じた。
「嫌ですわ、お母様。ご自分の娘が機嫌よくて心配するなんて、聞いたこともございませんわ。何かおっしゃりたいんですか?」
「絢音、よせよ」
 小声で雅成が制止する。絢音の芯の強さは、時に攻撃的にもなる。母親に向けて時折そうなるのを、雅成は知っている。つい最近まで、その原因は自分たち夫婦に子供ができないことを色々言うせいだと思っていたが、今となってはそれがなぜなのかよく分かる。彼女が、絢音から産まれて間もない子供を引き離した一人だからだ。その生死すら教えず、絢音を十七年近く苦しませてきた九条家の一族。

「別にお母様がお困りになるようなことは隠しておりませんわ。ご安心なさって」
 にっこりと氷点下の笑みを載せる。母親は小さく溜息をついた。
 何ともぎこちなかった夕食を終え、絢音と雅成は二人の居間に戻ってくる。
「絢音、僕は何も知らないことになってるんだから、あんまりぎりぎりのこと言わない方がいいんじゃないか?」
 雅成が肩をすくめる。可愛らしい妻は小さく口を尖らせた。
「だって、お母様が言い始めたのよ。私がそういう顔をしてて、とんでもないことをしてくれたって。いつまでもしつこいのよ。こっちはまだ恨んでるっていうのに」
「絢音」
 よしよしと優しく抱きしめて、髪を撫でる。
「そうだ、メールが来てるかも知れないよ。見てみよう」
 二人で二階の書斎に上がる。そこに雅成のパソコンが設置してある。絢音はしょっちゅう使うわけではないので、この雅成のパソコンを共用しているのだ。
 雅成が手馴れた手つきでメールをチェックしてみると、果たしてそれらしきものが一通来ている。几帳面な慈恩は、帰ってすぐにメールを送ったのだ。絢音が催促する横で、雅成自身もちょっと期待しながらメールを開いた。もしかしたら、自分の息子になるかもしれない少年たちだ。短いが丁寧な御礼の文に続き、添付されてきた写真が出てくる。七人ほどの集団が写っている。慈恩の文によると、如月高校の執行部メンバーということだ。二人とも如月高校の執行部に所属するという時点で、優秀な兄弟だということは十分に分かる。
「この控えめに後ろにいるのが慈恩よ。ね?かっこいい子でしょ?それで、この綺麗な男の子。この子が斗音くん。お母様がフランスの方だったんですって。まさに美少年、って感じがしません?」
 絢音のご丁寧な説明で、雅成は初めて椎名兄弟を認識した。二人をじっと見つめる。これで双子というのだから、かなり無理がある。あまりにも似ていない。慈恩は絢音に似た黒髪や黒い瞳が印象的で、凛と落ち着いた雰囲気を湛えている。すらりとした長身に整った凛々しい顔、剣道をやっていると言われなくても、若武者というイメージがある。斗音の方は、全体的に色素が薄くてやや華奢な感じはするが、華やかさを持つまさしく美少年である。微笑んでいる姿は天使系のものに例えたくなり、その風貌は、明らかに外国の血を感じさせる。
「それにしても、よくもまあこれだけ正反対の美形がそろったもんだね。絢音の言ってた通りだ。いや、僕のイメージよりずっと上を行ってる。こんな双子なんて、すごい人気者だろうね」

 絢音が小躍りせんばかりに喜ぶ。
「そうでしょう?やっぱり雅成さんもそう思う?会ってみたら、絶対に気に入ると思うわ。正直斗音くんのことはよく知らないけれど、この慈恩が自分より器が大きいって言うくらいですもの、絶対に素敵な子よ。今度会う時は、斗音くんも一緒にって誘ったの。あ、それでね、貴方にも来て欲しいんだけど・・・・・・」
 今絢音の頭の中には、この二人を自分たちの養子に迎える計画で一杯になっているに違いない。雅成としては、この二人がどの親戚にも引き取られなかったわけがなんとなく分かった。これだけ優秀で外見も良くて・・・・・・となると、大概の家庭の子供より優れているに違いない。自分の本当の子供より優れた人間を引き取るとなると、なんだか癪に障るのが人というものかもしれない。自分たちには子供がいないから、はっきりそうとは言えないが、少なくとも子供を可愛がっている親はいい気分になれないだろう。
 もちろん、雅成がそんな理由で引き取りたくないという感情を持つことはない。正直、一度会ってみたいというのが本音だ。愛する絢音の本当の子供でもあるのだから。
「いいよ。都合がついたら僕もぜひ、この二人に会ってみたい」
 言いながら、かすかに胸の奥に不安を覚える。家名を気にするあまり、十七歳の少女から赤ん坊を取り上げ、病院に置き去りにするような親類たちが、再びその時の赤ん坊を家に入れることに賛成するのだろうか。それに、この斗音の風貌。絢音の血を全く受け継いでいない、このハーフの少年を、九条家が認めるだろうか。
(その前に、彼らの人柄を知ってからか)

 かすかな不安を押し流すように、雅成は苦笑した。

 九条家の全ての明かりが消えて、しばし沈黙の時間が流れた真夜中の二時。雅成の書斎で、主人以外の男が暗闇の中、液晶画面の明かりに己の顔を照らし出させていた。青白い光に浮かんでいるのは、形よく弧を描いた精悍な黒い眉に、どちらかと言うと切れ長で上がり気味の目。その唇の端が吊り上がる。くくっとこもった笑いが空気を揺らす。
「部屋の鍵も掛けず、パスワードもなしか。この家にはパソコンすら使いこなせない時代遅れしかいないとでも、思ってんのか?」
 ウィーンウィーンとプリンターが音を立て、データを映し出した紙を吐き出す。長身の男がひらりと取り上げたそれを、薄明かりで確認する。闇にぼんやり浮かび上がったのは、一枚の写真。如月高校の制服に身を包んだ、六人の少年と少女が一人。それを見た、九条家の運転手兼用心棒の顔が、にやりと笑みを湛えた。

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十.受け入れられない血

 日差しとともに、蝉の声が日増しに強くなってきている。七月も中旬に差し掛かってきた土曜日。如月高校はひとまず如月祭に向けての流れも落ち着いて、今はインターハイに向けて部活の活気が最高潮になっていた。
「キャ―っ東雲先輩――っ!」
「椎名くん、素敵っっ!!」
「羽澄く――ん、こっち向いてっ!」
「樋口くん、可愛いっ!」
「東雲くん、かっこいいっ!頑張ってぇっ!」
 バスケ部男子がバッシュで床をこする音とともに、機敏に動き回っている体育館の入り口付近。インターハイに無関係な文化系の部活の女子がたむろっている。たむろうだけならまだしも、黄色い歓声が先ほどからやまない。部長の徳本はハーフタイムの合図とともに、嵐の肩をたたいた。嵐が振り返ると、徳本が笑みを引きつらせていた。
「東雲、あいつら追い払え」
 嵐が口を尖らせる。
「何で俺が」
「お前への声援が一番多い」
「で、俺に嫌われてこいと?」
「その方がまだ静かになるだろ」
 それはともかく、嵐への声援が一番多いのであれば、嵐が女子軍団に丁重に声を掛けるのが一番効果的だろう。嵐は深く溜息をついた。そして億劫そうに入り口まで歩み寄る。きゃあ、と大小の悲鳴がまばらに起こる。
「あのさ、応援してくれるのはありがたいんだけど、見ての通り今追い込みかけてるから。集中させてもらえねえかな。ここまで言えば、どうして欲しいか言わなくても分かってもらえるよな?」
 相手は如月の生徒。女子であっても自分の賢さとか、理解力にプライドを持っている。そこに訴えかけてみた嵐である。しかし如何せん、徳本ならずともこの歓声に迷惑をこうむっているわけで、優しげな言葉の中に、皮肉の欠片がちらついていた。敏感な女の子の何人かが、びくっと表情を固まらせる。
「応援、ありがとうございます。今が正念場だから、頑張って欲しいと思ってくれる気持ち、すごく嬉しい」
 嵐の後ろからハスキーボイスが優しく届き、固まった女の子たちの表情から、不安や怯えを消した。嵐が振り返るのと同時に、斗音がひょこ、と顔をのぞかせる。そして一人の女生徒に視線を向けた。

「特に、原田先輩。真剣に俺たちのこと見ててくれるの、分かりました。言葉にはしてなかったけど、すごく一生懸命応援してくださって。原田先輩は、いつもそうですよね。だからかえって覚えちゃいました。ありがとうございます」
 にっこりと微笑む。名前を言われたのは、一言も声を出せず、ぎゅっと手を握り締めて白熱した練習の様子を見ていた三年の女子だった。驚いたように瞬きをし、頬を染める。その様子を見ていた周りの女子軍団は、心の底から羨ましげに彼女を見つめた。
「行こ、嵐。ハーフタイムったって、そんなに取ってもらえないよ」
 嵐の腕を引っ張って、それじゃ、とまたにっこり。女の子たちの間から、熱い吐息がこぼれた。
 ハーフタイムが終わり、紅白戦が再開されたとき、黄色い声援はひとつも飛ばなかった。女子軍団は真剣に心の中で応援することにしたらしい。
「さすが副会長。外交担当は嵐の上を行く、か」

 ダンクを決めても小さな歓声が起こっただけで、一年生部員の掛け声に掻き消されたのを目の当たりにした翔一郎が、感心したようにつぶやいた。味方として近くを走っていた嵐がそれを耳にして、ああ、と嬉しそうに笑った。

「めぇぇぇぇぇんっ」
 ぱしいんっ、と、再び竹刀の打ち合わされる音と、ぱぁんっと防具が弾かれる音は、ほぼ同時。
「胴っ」
 更に同時に短く鋭い声が飛んだ。
「胴あり、一本!椎名!」
 きゃあっ、と格技場一階の入り口付近で悲鳴に近い歓声が上がる。途端、怒声とも罵声とも言えそうな近藤の声が道場を突き抜けんばかりの勢いでその歓声を打ち砕いた。
「やかましい、失せろ!!」
 歓声を上げた女子生徒たちはたちまち縮こまって、こそっとドアの影に身を潜める。それを確認してから、近藤は竹刀を引いて戻し、礼をする。慈恩もそれに合わせて竹刀を納め、礼をした。
「くそぅ、面返し胴か。基本の動きがきっちりできてやがる」
 悔しそうなその台詞に、審判をしていた田近は心の中でぶんぶん首を振る。
(ただの面返しじゃねえよ。滅茶苦茶早えって)
「力任せに打ってくるから、すり上げるつもりがちょっと弾かれそうになりました。相変わらず力強いですね」
「ちっ、それを〇コンマ何秒で流しやがるくせに、よく言うぜ」
「気が散る歓声を見事に退散させる技は、及びませんよ」
 慈恩がくすくすと笑った。近藤は、ふん、と息を吐き捨てた。
「ちっとも嬉しくねえよ」

「そうですか?褒めてるんですけど」
(部長をからかってるっっ!!)
 田近は恐れおののくが、慈恩はいつもどおりというか、和やか(?)に部長と話している。
(それにしても、慈恩の人気はとどまるところを知らないよな。前は黒髪の美女、今は数少ない如月の女子か)
 思ってから、田近はふとつぶやく。
「そういや最近見ないな・・・・・・」
「何を?」
 田近の独り言に反応したのは、当の慈恩である。田近は軽くうなずいた。
「黒髪の美人さ。結局、誰のこと見てたんだろうな」
 慈恩は苦笑するしかなかった。田近はその笑みを相槌代わりと取ったのか、肩をすくめた。
「俺はお前だと思うけどなあ。お前か部長には違いないだろ。でも部長は見てくれ悪くないけど、おっかねえもん。女子にだってあの調子だしさ。あんな野獣に惚れる女なんて、物好きの部類に属すると思わねえ?」

 思う、と言ったりして、それがばれたらまた近藤にどんなしごきを受けるやら。慈恩は重ねて苦笑した。

 部活を終えて、斗音は格技場で慈恩と落ち合い、シャワーを借りて夏服に変わっている制服に着替えた。校章の繊細な白鷺が襟元に羽ばたいている。
「慈恩、この前買ってもらったシャツとか着てきたほうがよかったんじゃない?」
 同じく制服に着替えた慈恩に、斗音が声を掛ける。
「学校からそんな格好で出られるわけないだろ。いったん家に帰って着替えるのがベストだけど、昼までに待ち合わせ場所に行こうとすると、間に合わないんだ」
 器用にネクタイを結びながら、慈恩が返した。ふうん、と斗音がつぶやく。
 電車で一駅通過したところの、いつものレストラン。最初はいつもここからだった。
 電車を降りて歩きながら、斗音は少々緊張気味のようだ。
「あんまり詳しいこと聞いてないけどさ、その九条さんって人、結局慈恩のことがお気に入りだったんだろ?だからいつも誘ってくれるんだろうけど、俺にも会いたいってのが何かよく分かんないんだよ」
 慈恩は困ったように苦笑した。結局、慈恩は斗音に養子の件を切り出さなかった。ただ、いつも自分が誘われている絢音が、斗音にも会ってみたいと言っている、と、それだけを告げた。何だかそれこそ慈恩にもよく分からないのだが、胸に渦巻く重苦しさみたいなものがあって、人は恐らくそれを不安、と呼ぶのだろうと、改めて慈恩は感じたのだ。何の不安なのかはさっぱり分からない。でも、とにかく斗音に話すのが躊躇われたのは確かだ。
「慈恩、九条さんに何か変なこと吹き込んだんじゃないの?」
「変なことは言ってないぞ。ありのままを言っただけで」
「なんて言ったの?」
「いや・・・・・・器の大きいやつだってことくらいか?でも、その前からお前にも興味あったような気がする」
「どこがありのままなんだよ。それに俺、九条さんには会ったことないし、見たこともないけど」
「まあ、そうなんだけど」
 レストランの入り口を慈恩がくぐろうとすると、斗音はぎょっとして立ち止まった。
「え、ここ?ここって、このカッコでいいわけ?」
「いつもは一人でそう思ってる。今日は心強いよ」
「えー、やっぱ着替えてくるべきだったんじゃないの?」
「待たせる方が悪いだろ」
「それもそうだけど・・・・・・」
 慈恩はだいぶ慣れてきているので、それほど躊躇いはない。さっさと入っていくので、斗音はついていくしかなかった。
「いらっしゃいませ。椎名様、お待ちしておりました。どうぞ」
 いつも通りの丁寧な対応で、いつも通りの席に案内される。そこに、慈恩はいつもの美しい女性と、初めて見る優しげな男性を、斗音は初めて見る噂の女性と、やはり初めて見る誠実そうな男性を見つけた。

「お待たせしてすみません」
 慈恩が軽く頭を下げ、斗音が続く。絢音はしなやかな動作で男性を促して立ち、にっこり微笑んだ。
「来て下さってありがとう、慈恩さん。そして、お会いできて光栄ですわ、斗音さん」
 斗音は丁寧にお辞儀して、にこりと微笑みを載せる。
「お誘いいただいてありがとうございます。慈恩がいつもお世話になってます」
「まあ、お世話だなんて、とんでもないわ。私が無理を言ってご迷惑をお掛けしてますのよ。九条絢音と申します。今日は貴方にまで無理をさせてしまって、ごめんなさいね。こちらは私の夫、雅成です」
 ブルーのミクロ単位のチェックになっている半そでのカッターシャツに上品な紺のパンツと、飾らない格好だが、身につけているもの一つ一つに高級感を漂わせている雅成が、優しく微笑して、会釈する。
「いつも絢音がご迷惑を。慈恩くんと斗音くんのことは、いつも絢音から聞いてます。これでもかって言うくらい」
 おどけた感じで言うので、思わずそれぞれが笑みをこぼす。一気に場が和んだ。
「絢音がそこまで入れ込む君たちに会えて、本当に光栄だよ。よろしく。さ、立ち話もなんだから、掛けて」
 お坊ちゃま育ちには間違いないのだろうが、深層の令嬢である絢音とは違って、それなりに社会性を身につけている雅成は、椎名兄弟をずいぶんリラックスさせてくれた。
「何はともあれ、まずは注文にしよう。話は待ってる間にもできるからね。何でも好きなものを頼むといいよ。今日はちゃんと稼いでるスポンサーがついてるから、心配要らない」
 慈恩が思わず苦笑する。いつも主婦である絢音にお金を使わせることに、気兼ねを覚えていたからだ。それすらも、この雅成はよく分かっているようだ。メニューを見てかなりひいていた斗音も、躊躇いがちにではあるが、慈恩と頼みたいものを相談することができた。
 色々注文をしてから、まず慈恩が絢音と雅成に遠まわしに牽制を入れた。
「すみません、俺斗音には九条さんが会いたがってらっしゃるとしか伝えていません。だから、九条さんご夫妻のことは何も知らないままです」
 養子の件のことを、伝えていないということ、そして今はまだそのことについて触れて欲しくないのだということを言外に含ませたのだ。果たしてそれで九条夫妻が理解してくれるかは賭けだったが、雅成はすぐに優しく笑ってうなずいたし、絢音もずっと躊躇っていた慈恩のことを知っていたので、ふわりと笑った。
「あら、全然構いませんわ。だって初対面なんですもの。私が剣道をやってらっしゃる慈恩さんを見て勝手に励まされて、お話を聞くに連れてそのお兄さんにもお会いしたいと思うようになって、わがままを申し上げただけですもの。ね、斗音さん。男の子にこんなこと言うのはどうかと思うんですけれど、ほんと、お綺麗ですわね」
 斗音は困惑したように笑う。雅成が苦笑した。
「絢音、確かにそれはどうかと思うよ。でも、二人ともルックスがいいし、賢そうだし、生徒会の執行部をやってるんだって?モテるんじゃないかい?」
 椎名兄弟が顔を見合わせる。そして同時に互いを指差した。
「斗音は確かに人気者です」
「慈恩はモテますよ」
 言うのも同時。今度は絢音と雅成が顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「人のことはよく見てるものなんだね。見かけがあまり双子っぽくないから、最初は信じられなかったけど、確かに双子だね」
「よく言われます」

 斗音が照れ笑いを浮かべながら返す。慈恩は苦笑である。
「彼女、いるの?」
 二人が首を振るのを見て、雅成は肩をすくめた。
「もったいない。どうして?如月は女の子が少ないって聞くけど、そのせい?」
「忙しいのもありますし。今は執行部と部活と勉強で手一杯です」
「やっぱり言うことが違うなあ、優秀な子は。僕もそういう台詞、言ってみたかったよ、現役時代に」
 四人の間に楽しそうな笑い声が上がった。その時、ふと斗音が後ろを振り返る。
「どうした?」
 慈恩の声に、斗音はちょっと首をかしげて答えた。
「何だろ、今見られてた気がしたんだ」
「お二人があんまり見目麗しくていらっしゃるから、店内のご婦人方が見とれていらっしゃったかもしれませんわね」
 絢音が鈴を転がすような声音で笑う。慈恩と雅成はつられて笑い、斗音だけは首をかしげたまま不思議そうにしていた。
 イタリアンの要素たっぷりの食事は、いつもながら豪華だった。アンティパストの盛り合わせでは、サーモンのクリームチーズ和えやかぼちゃのガーリックオイル揚げ、ささみとシメジのトマト煮、ホウレンソウとチーズとベーコンのキッシュなど、どれも美味だったし、小エビとモッツァレラチーズがたっぷりのった野菜中心の大皿サラダ、そら豆のクリームポタージュ、ウニとトリュフのクリームソースに絡めたニョッキ、夏野菜とキノコのオイルソースパスタ、生ハムと半熟卵のピザ、ワタリガニのトマトクリームパスタ、牛頬肉の赤ワイン煮込み、舌平目のソテーと続々運ばれてくるものどれも絶品で、慈恩はいつもながら一つ一つの食材の使い方や味付けの仕方、調理の丁寧さに感心したし、斗音は純粋にその美味しさに驚きを隠せなかった。
 二時間近くかけてそれらを十分に味わい、四人は腹ごなしにショッピングに出かけた。これもいつものコースである。慈恩はあまり気乗りしなかったが、九条夫妻がどうしてもと言うから、行かざるを得なかった。
「斗音さんは、どんなことに興味を持ってらっしゃるの?」
 問われて斗音は首をひねる。
「今は専らバスケですね。でも、音楽も好きです」
「音楽?どんな音楽を聴かれるの?」
「普通の流行とか、クラッシックも好きです」
「あら、お若いのに素敵な感性をお持ちなのね」
 ちょっと感心気味の絢音に、慈恩が付け加える。
「斗音はピアノを弾くんです。だからクラッシックにも興味があるんですよ」
 今度は雅成が感心する。
「そうなのかい?習ってたの?」
 斗音が少し、寂しげに笑った。
「ええ、小学校五年生から、少し。弾くと母が喜んでくれたので・・・・・・」
 慈恩はそんな斗音のアッシュの髪をくしゃくしゃと乱して、口を添えた。

「母が亡くなって、しばらく弾けなくなってしまったので、それ以来習ってはいません。自己流で今は気が向いた時に弾く程度ですけど」
 申し訳なさそうに雅成が黒い長めの髪に手をやった。
「そうか、すまない、無神経なことを聞いてしまったね」
「いえ、構いません。今でもやっぱり、弾くのは好きですから」
 にっこり斗音が笑うのを見て、慈恩もふっと微笑んだ。それを見た雅成は、斗音の精神的な強さと、それを見守る慈恩の優しさに、少なからず胸を打たれた。
 百貨店を、特に目的もなく歩き回っているうちに、楽器を取り扱っている階に出た。中央に大きなグランドピアノがあるのを目にした絢音が、いきなりぽんと手をたたいた。
「ねえ、雅成さん。あれって、弾かせてもらっていいのかしら?」
 雅成は、その周りに展示してある楽器に触れ、音を試している客が何人かいるのを見て、うなずいた。
「よさそうだね。ちょっと訊いてみようか」
 言って、近くの店員に何やら一言二言告げる。店員はうなずいて、こちらに目を向けた。
「どうぞ」
 斗音と慈恩が顔を見合わせる中、絢音が斗音の肩を優しく押した。
「斗音さんのピアノを、ぜひ聴かせて頂きたいわ。ほら、行きましょう」
「え、でも」
「いいのよ、店員さんがいいっておっしゃってるんですもの。せっかくのご厚意ですもの、受けなくては損ですわ。さ」
 促され、斗音は慈恩に目をやる。慈恩は苦笑しながらうなずいた。
「こんな立派なピアノが弾けるチャンス、滅多にないだろ。弾かせてもらうだけなら、ばちは当たらないさ」
 ちょっと躊躇いつつも、斗音は案内されたグランドピアノの前に腰かける。
「何弾こう」
 ポーン、と深みのある響きを伴って、斗音が優しく押したキーが歌うように音を立てる。
「何かお聴きになりたい曲はありますか?」
 慈恩が期待をありありと表情に出している九条夫妻に訪ねる。二人はあれこれ考えて相談していたが、タイタニックのテーマがもし弾けるなら、聴きたい、と申し出た。
「弾ける?」
 斗音はうーんとうなった。

「弾いたことないなあ」

 慈恩が店員を振り返った。
「楽譜をお借りしてもいいですか?」

 店員は笑顔で、ええ、と応え、店の奥からリクエストの品を持ってきた。斗音はそれを受け取り、丁寧に並べる。
「慈恩、めくってくれる」
 弟がうなずいたのを確認してから、軽く深呼吸する。そして、両手を鍵盤の上にそっと載せた。その指が滑るように動いた。美しい響きがなだらかにつながる。周りにいた客が一斉に中央に目を向けた。

 斗音は初めて見る楽譜を真剣に見つめているので、もう周りの視線は感じない。時に優しく、時に激しく、映画で聴き慣れた雄大な音楽が、斗音の白くて長い指先から生まれていく。
 慈恩はある程度弾くことはできるが、それこそ並々でしかない。どちらかというと、自分が弾くよりも、こうして斗音が弾くのを聴いて、楽譜をめくっていた時間の方が多かった。その時間が、慈恩は好きだった。だから、楽譜は読めるし、めくるタイミングもよく分かっていた。
 グランドピアノが、それこそ生きているかのように豊かな感情を持って、一音すら間違えることなくタイタニックのテーマを歌い終えた時、そのフロア一体が自然発生した拍手に包まれていた。そこで初めて斗音は、みんなに見られていたことに気づき、うっすらと白い頬を赤らめる。
「すごい。これが初めて弾いた曲なのかい?信じられないよ」
 雅成が感嘆の声を上げた。絢音もうっとり陶酔してしまっている。周りも、一気に斗音の腕を褒め称えてざわめいた。
「久しぶりに弾いたから、気合入っちゃったよ。うわー、恥ずかしい」
 慌てて立ち上がった斗音が、慈恩に小さくこぼす。慈恩はくすくす笑った。
「かっこよかったぞ、斗音。プロのピアニストみたいだった」
「嘘つけ。いつも見てるくせに」
 頬に更に赤みを増した斗音が、慈恩を小突く。
「本当に、このピアノがお客様のためにあるのかと思うほどでした。お上手でいらっしゃいますね」
 店員は三十代前半くらいの女性だったが、深く溜息をついた。
「すいません、売り物なのに・・・・・・」
「とんでもございません。逆に宣伝になったと思います」
 まだ拍手をやめない絢音が、斗音に近づいてその手を目の前で組み合わせた。
「素晴らしい演奏でしたわ。私、感動してしまって。実は私も幼い頃ピアノをさせられておりましたの。でも、私にはその手の才能がそれほどあったわけではなくて・・・・・・。ご大層なグランドピアノが宝の持ち腐れになってるんです。ね、あなたのお家にあるピアノはどんな型のものですの?」
「ええと、小さい頃に退屈しのぎに買ってもらったものでしたから、小型の・・・・・・アップライトピアノです。詳しい型はよく分かりませんが」
 まだ頬が赤らんだままの斗音が、それでも丁寧に答える。絢音は、組み合わせた手に更に力を込めた。慈恩がその仕草にぎょっとする。
「斗音さん、このピアノ、私からプレゼントさせていただけませんこと?」
 今度は斗音がぎょっとする。
「えぇっ!?な、何をおっしゃるんですか!こんな高価なもの、いただけません!!」

 ついている値札は百八十万円。プレゼントなんて可愛いものではない。しかし絢音は熱に浮かされたように首を振る。
「いいえ、だって今店員さんもおっしゃったわ。このピアノが貴方のためにあるかと思ったって。私もそう思いましたわ。まるで一心同体みたいに・・・・・・このピアノだって、貴方に弾かれた方が幸せです」
「いや、でも家にもピアノありますし・・・・・・」
「グランドピアノは音が違いますもの。それくらい私にも分かりますわ。貴方ほどの腕を持つ方なら、これくらいのピアノでも足りないくらいです」
「そんな・・・・・・」
 滅茶苦茶困惑する斗音に、雅成が溜息をついて額に手を当て、軽く首を振った。こうなったら絢音はなかなか止められない。
「絢音、斗音くんたちにも事情があるんじゃないか?」
 一応水をかけてみたつもりだが、焼け石の絢音には全然効かなかった。
「でももったいないわ。この腕でアップライトピアノなんて。やっぱり、グランドピアノよ」
「あの、でもそういうわけには・・・・・・」

 斗音が口ごもる。そりゃアグランドピアノの弾き心地はよかった。でも、今日初めて会った全くの他人に、そんなもの買ってもらうわけにはいかない。いくら相手が金持ちでも、限度がある。
 
困り果てる兄の肩に優しく手を置いて、慈恩が絢音に微笑みかけた。
「九条さん、お気持ちはありがたいのですが、家には、父と母が遺してくれたピアノがありますから。確かに安物だし、斗音には俺もグランドピアノが似合うと思うんですけど、たぶん斗音は今使ってるピアノに思い入れがあると思います。それに、家にこんな大きなピアノを置くスペースは、ないと思うんですが・・・・・・」
 絢音ははっと正気に戻ったような顔をした。
「そうですわね・・・・・・今使ってらっしゃるピアノには、ご両親の思い出が詰まっているんですものね。そんな宝物を、簡単に新しいものに交換するわけにはいきませんわ。私、また先走ってしまって。お恥ずかしいわ」
 組みっぱなしだった手を解いて、頬に当てる。雅成は思わず心の中で、慈恩に拍手を送った。
「せっかくのご厚意なのに、すみません。でも、斗音はきっとこのピアノを弾けて、嬉しかったと思いますよ。いつも以上に生き生き弾いてましたから。だろ?」
 慈恩のフォローの最後で自分に振られて、斗音は照れたように笑った。
「すごく音が気持ちよかった」
 その笑顔がものすごく可愛らしくて、雅成も絢音も一瞬見とれた。そして、絢音が目をきらきらさせて斗音に微笑みかけた。
「斗音さん、うちで眠ってるピアノがありますから、もしよろしかったらいつでも弾きにいらして。またこうやってお会いできる機会を作りましょう。大歓迎で家にご招待しますわ」

 絢音の「買ってあげたい病」はひとまず治まったようであった。

   ***

いつもなら嬉しくて浮かれっぱなしになるはずの絢音であったが、今日はそうはいかなかった。そして雅成とともに、斗音の鋭さを感じることになったのである。
「絢音さん、はっきりしておいてもらいたいことがあります」
 絢音の母である九条貴美枝は、その台詞から入った。夕食後のコーヒーを、家族みんなで味わっている時だった。その言葉に絢音はぎくりとしたし、雅成は何か嫌な予感を覚えた。絢音の祖父、重盛は不穏な空気を感じ取って、いつも以上にいかめしい顔を構えたし、やはり婿養子であり、あまり九条家では発言権を認められていない絢音の父でさえ、眉根を寄せて、姿勢を正した。
「何でしょう、お母様」
 なるべく普通を装って、絢音は慎重に言葉を選んだ。相手を激昂させてはならない。もし慈恩たちのことで何かがばれたのだとしても、平和に事を運ばねばならなかった。
「最近、よく土日にお出かけになりますね。どこへいらっしゃるのか、正直にお答えになって」
 母の言葉遣いは、絢音よりはるかに丁寧である。その言葉の中に、自分が予想していた通りの非常事態が現れていた。
「ショッピングですわ」
 一応、そう答えてみる。その答えの中に、母の求める答えがないことくらい、分かっている。やはり、母親の反応は予想通りだった。
「あの若い男子高校生たちと、ですか」
 雅成がはっと伏していた目を上げる。「たち」というのなら、現場を見られたのは今日である。それまでは絢音が慈恩一人と会っていただけなのだから。誰かに見られているような気がする、と言っていた斗音の感覚は、正しかったのである。
 絢音は剣呑な雰囲気をその漆黒の目に湛えた。
「こちらが詳しくお聞きしたいですわね、お母様。何を根拠にそのようなことをおっしゃるのか」
 付け回したことを白状しろ、と、絢音が言っているのを雅成は感じた。恐らく、その言葉を受けた方もそう感じているだろう。あとの者がそれに気づいているかどうかは分からないが。母親はそれでもひるまずに答えた。
「その口ぶり、当に私のしたことに気づいているのでしょう」
 言って、一口分のコーヒーを喉に流し込む。そんな仕草ですら、上品極まりない。
「貴女が最近私たちに何かを隠したまま、何か事を進めていることには気づいていました。でも、それが何なのか分かりませんでした。それで少し調べていたのです」
 ひらり、と一枚の写真を出して見せる。パソコンのプリンタから出した映像である。
「それは・・・・・・!」
 思わず声を出したのは、雅成であった。自分のパソコンに、慈恩からメールで送られてきていた如月高校生徒会執行部役員たちの写真である。なぜここに、その写真があるのだろうか。
「今日お会いしていたのは、この中の二人でしたね。絢音さん、この方たちとは一体、どういった関係なんですか?」
 一緒に行ったはずの雅成の発言は必要とされない。いかに己が九条家の中で「おまけ」として扱われているかを、このようなことがあるたびに思い知る。
「知り合いですわ」
 毅然として絢音が答える。

「一月ほど前、素行の悪そうな高校生に、私絡まれたんですわ。その時に助けてくださった方々です。お礼にお食事にお誘いしたんですわ。それからあの方たちの人柄の素晴らしさに惹かれて、こうして時々お会いするようになりましたの」
 事実として嘘はないが、真実ではない。雅成はハラハラしながら成り行きを見守るしかなかった。
「本当にそうかしら。絢音さん、貴女まだ何か隠していませんか?」
「それでは聞きますけれど、お母様。お母様はどこまでご存知なのですか?色々お調べになったんでしょう?」
 だんだん険悪な雰囲気になってきたところに、一体どこに隠していたのやら、貴美枝は何枚かの紙が束になったものをばさりとテーブルの上に置いた。今度こそ、絢音がはっと目を瞠る。それは絢音が内密に探偵を雇って調べさせた慈恩の調書だった。きり、とまなじりを上げて絢音が突っかかる。
「勝手に私の部屋にお入りになりましたのね」
「ええ。こちらとしては、貴女がよく分からない人とお付き合いすることに不安がありましたからね。彼らのことを調べさせるつもりで、その手がかりを探そうとしたんです。でもその必要はなかった、と言うわけですね。貴女はあの方たちと知り合う前から、彼らのことを知っていたのでしょう?」
「お母様」
 それ以上、今の段階で話すつもりはなかった。まだ絢音の計画は中途半端で、慈恩と斗音を養子にするに当たって、相手の思いもまだ分からないし、それを主張する段階でもなかった。だから、食い止めるために絢音が掛けた声は、しかし、厳格な祖父の声のためにその役割を永遠に失った。
「どういうことだ。貴美枝。話しなさい」
 貴美枝は静かに深呼吸した。
「あの黒髪の少年・・・・・・椎名慈恩といいましたか?あの子は、あの時の・・・・・・十七年前に貴女と数学の教師との間に産まれた子・・・・・・そうでしょう?絢音さん」
 絢音と雅成の呼吸は、完全に一時停止した。
「・・・・・・本当なのか、それは」
 重々しく沈黙を置いてから、祖父の声が静かに、だが詰問するように絢音に向かった。絢音は、唇を噛んでしばらく膝の上に置いていた手を握り締めていたが、それでもきっと祖父に視線を向けた。
「今まで、九条家の方々がどれだけ私たち夫婦を追い詰めていらしたか、お分かりにならないとはおっしゃいませんわね、おじい様、お母様」
 意外な反応に、祖父と母親と、それから父親が思わず言葉を見つけられずに戸惑う。その間に、絢音は続けた。

「雅成さんがそのことに気づいていなかったはずもありませんわ。じわじわと真綿で首を絞めるようなやり方で、私たちに子供ができないことをねちねちと毎日のようにおっしゃって。私、もうそんな言葉や視線には耐えられません」
「絢音さん、何てことを」
 母親の言葉は、鋭くとがった絢音の感情に途中から粉砕された。
「何てことを、ですって?十七年前に私にどんな仕打ちをなさったか覚えていらっしゃいませんか。その上家柄だけで雅成さんとの縁談を組んで。それで子供ができなかったら離婚ですって?冗談じゃありませんわ。初めの九条家のもくろみが何であれ、私は雅成さんを愛しています。雅成さんと別れるなんてこと、考えられません。ここまで散々苦しめられて、その上であなた方を納得させるための最善の手段を考えたところで、何てことをなんて言われる筋合いはありませんわ」
「絢音」
 雅成が、絢音の鋭さを包み込むような声音で制止の声をかけた。それ以上言えば、義理の祖父を怒らせることになる。ここは、素直に養子の考えを話す方がいい、と判断した雅成が、自分の発言権の弱さを自覚しつつ、一堂を見回して、静かに切り出した。
「ずっと絢音は苦しんでいました。私と出会った頃から、ずっと。それがなぜなのかを知ったのは、私もごく最近のことですが、九条家の・・・・・・絢音の血を受け継いでいる少年がいるのだと。絢音はその子をこの九条家に迎えたいと考えているのです」
 義祖父と貴美枝の顔がぴくりと動く。
「私は賛成です。未だ、絢音と私には子供がありません。恐らく私にその原因があるのではないかということも、皆さんは感じておられるでしょう。・・・・・・私は絢音の望むようにしたいと思っております。絢音にとって私という存在が重荷であれば、私は九条家を去ったでしょう。けれど、彼女は私と共にあることを望んでくれています。しかしそうあるためには、九条家の跡継ぎが存在することが絶対条件です」
 強張ったオーラが、九条家の中で最も発言権の強い一人と、次に強いもう一人を包んでいる。自分の言葉が遮られずに先を言うように促されているのを感じ、雅成は一呼吸置いて、続けた。
「椎名慈恩・・・・・・彼と、そして彼の双子の兄として育てられてきた斗音くんは、両親を亡くして今二人で生活しています。・・・・・・まだ斗音くんはこのことを知りませんし、慈恩くんも色々考えている段階ですが、彼らが了承してくれたら、私たちは彼らを養子として迎えたいのです」
 貴美枝がパクパクさせた口をようやく落ち着けて、混乱だらけの思考を言葉にした。
「ちょっと待ってください、それでは絢音の過去のことが表向きになってしまうのではありませんか?それに、あなた方の若さで、高校生の子供というのは・・・・・・」
 雅成は息も詰まりそうな貴美枝をそっと手で制した。
「九条家の親類の方々は、十七年前のことを皆さんご存知でいらっしゃると聞いています。今更表向きということはないでしょう。そして、それこそ一般的にはそのような過去は知られていないのですから、親をなくした身寄りのない優秀な少年たちを引き取ったのだと受け止められるはずです。ですから、私たちの年齢で高校生の少年でも、養子なのですから不自然ではありません。対外的には問題ないでしょう」
 それでも何か言いたそうにしているが、何も反論の見つからない貴美枝を置いて、今度は重盛がひとつ、重くうなずいた。
「なるほど。外には美談として映り、内ではしっかり九条家の血はつながると言うわけだな。ただ私としては、彼らが迎えるだけの条件を備えていなければ、その話、認めるわけにはいかん」
 とりあえず、反論されなかったことにほっとして、雅成はうなずいた。

「それに関して問題はないと思います。今日二人に会って、実感しました。彼らは優秀で、何より人として素晴らしいところをいくつも持っています」
 ようやく落ち着いた絢音も首を縦に振った。
「慈恩は素晴らしい子に育っていますわ。剣道は全国並みの腕前で、如月高校の執行部役員を務めるほどの人望と能力を兼ね備えています。その上、兄思いの優しい子です。斗音くんとは今日初めて会ったんですけれど、彼も同じように如月で生徒会副会長を務めているそうです。それに、びっくりするほどピアノが上手なんです。初めて見た楽譜を完璧に弾きこなして、周りから思わぬ拍手を受けてしまうほど。とても社交的で、気立ての優しい子ですわ」
「ほう、如月高校のな。あの学校は全国でも屈指の進学校だ。そこで人の上に立てるというのなら、九条財閥をまとめ上げていくこともできよう」
 感心したような祖父の言葉に、絢音も雅成も胸を撫で下ろした。
「まあ、九条家の血を継ぐ者なら、それくらいの人物であってもらわねば困るがな」
 言いながら、祖父は貴美枝が机の上に載せた写真に手を伸ばした。
「どれがお前の息子だ、絢音」
「後列の右端にいる子ですわ」
 重盛はなかなか満足そうにうなずく。
「ふむ・・・・・・なかなかの好青年ではないか。漆黒の髪や瞳、それに目の辺りはお前に似ているな。見栄えも悪くない。で、斗音という少年は?」
 当然の流れで出た質問に、絢音は隣で雅成が思わず不安そうになるのに気づかず、乗り気のまま答えた。
「前列右端の生徒です」
「前列右端・・・・・・?」
 義祖父の疑問符に、雅成は息を詰めた。
「・・・・・・絢音よ。この少年が、慈恩と双子として育てられたというのか?」
 絢音は一瞬不思議そうな顔をしてから、はっとする。

「ええ・・・・・・そうですわ。だって、双子でも一卵性でなければそれほど似ませんから・・・・・・」
 
斗音はフランス人だったという母親の面影を濃く受け継いでいる。純粋な日本の代々伝わる旧家に、彼の容貌が果たして受け入れられるかということに、絢音も気づいたのだ。

 案の定、祖父は渋面になった。
「綺麗な子でしょう?実際に会うと、本当に麗しいという言葉が似合うんです。この子がピアノを弾く姿なんて、本当に絵に描いたようで・・・・・・」
 にっこり笑いながら、絢音はまくし立てるように言葉を紡いだ。あからさまに、祖父の次の言葉が出る前に、少しでも好印象をという作戦が見え見えである。
「絢音さん。ちょっと落ち着いてお話なさいな」
 少々眉間にしわが寄り気味な貴美枝である。それでも、雅成は絢音と共に斗音の外見をフォローすべく、口を添える。
「私もそう思いました。でもそれ以上に私は彼の内面に惹かれました。芯のしっかりした、心の強い少年です。慈恩くんもそうですが、彼らには人としての魅力がたくさんあります」
 重盛は曲げた口元を更に歪めた。
「雅成くん。それは構わんが、この斗音という少年、純粋な日本人なのか」
 今まで発言を求められたことがなかったので、思わず雅成は言葉に迷って唇を噛む。
「母親はフランスの人だったそうですわ」
 答えたのは、雅成でも絢音でもなかった。調書を再び手にとってめくっていた貴美枝である。絢音と雅成は心の中で同時に力いっぱい舌打ちをしたが、表には何も出さなかったので、それを知る者がいたとしたら、それは神とか仏とか、そういった類の存在だろう。もちろんそんなことに気づくはずもなく、たとえ気づいたとしても全く意に介さないであろう重盛は、重々しく吐息した。
「九条家の中に、外国の血を入れるわけにはいかん」
「そんな・・・・・・」

 絢音はそれ以上続けることができず、絶句する。その夫として桂家から迎え入れられた雅成は、今度こそ自分が発言する場でないことを強く感じていたが、それでも自分たちと、何よりも今日出会った二人のために口を開いた。
「お義祖父(じい)様。差し出がましいことを承知で申し上げます。これからますます国際化が進んでいく中で、九条家を継ぐ者たちがそういった出会いや恋愛をしていく可能性は、決して低くありません。それが日本人であれ、外国人であれ、九条家の血が受け継がれれば、それでよいのではありませんか」

 義祖父は苦々しい顔つきになった。明らかに雅成の発言で気分を害された様子である。
「彼には九条の血は受け継がれていない。それに、お前では九条家の重さは分かるまい。純粋に代々伝わってきたこの九条の名、わしが生きているうちに、この日本以外の血で汚すことは許さん」
「汚すなんて、そんな考え方おかしいですわ、おじい様。外国の血が穢れているとでもおっしゃいますの?」
 人として当然の怒りに突き動かされ、猛然と反発した絢音は、見えない鞭のような祖父の怒声によって迎え撃たれた。
「黙れ愚か者が!それが九条の血を受け継ぐ者の言う言葉か!九条の今までの血の流れを知っているお前が、そのような口を利くのか!」

 人は年をとると保守的になることが多いというが、この老人はまだ老人と呼ばれる前から保守的だった。それが年輪を重ねるにつれ、自分の考えに堅固なまでに固執するようになっていた。そして、この老人に、九条家の中で逆らえる者はなかった。
 
絢音はこれ以上言えば祖父が尚更意固地になって斗音を拒否するのを悟って、押し黙った。ここは周りを固めて、時間を置いて、出直した方がいい。今となっては、慈恩が斗音には養子の件を話さないでいてくれたことがありがたいほどだ。それほど、今の状況は分が悪い。
「慈恩と言ったな。絢音の息子を養子に迎える件は考えた上で進めるとしよう。だが、外国の血を引いた方は諦めることだ。九条の姓を名乗らせることはならん」
 きっぱりと断言して、重盛は席を立った。貴美枝は写真と調書を手に取って立ち上がった。

「絢音さん。これはもう少し預からせていただきますわ。よろしいわね」
 了解を取るというよりは、念を押して、絢音の母が立ち去る。残された絢音と雅成に、全くこの場で発言することもなく、またその発言を必要とされることもなかった絢音の父、智満(ともみつ)が伏せていた目を上げて一言、申し訳なさそうに言った。

「すまない」
 雅成にはその心境が痛いほど分かった。苦い笑みを浮かべ、小さく首を振る。それを見届けた智満は、再度すまなそうに目を伏せて席を立った。
 その小さく見える後姿を見送ってから、雅成は固まっている絢音の肩を優しく抱いた。
「頑張ろう、絢音。幸せは自分たちでつかみ取らなきゃならない。まだ僕たちの戦いはこれからだよ」
 涙を滲ませた瞳で夫を見上げた絢音は、深くうなずいて、その胸に顔をうずめた。絹のようなしなやかな髪を優しくなでながら、雅成は小さく微笑む。
 この愛しい妻と共にいられるのなら、自分はきっと頑張れる。きっと、幸せをつかんでみせる、と。

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