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五十.心の求めるもの

 外ではますます雪が積もっていく。中ではますますテンションが上がってくる。
「せやろせやろ?せやから、さっきからゆうとんねん。慈恩は俺の永遠のライバルやて」
「分かるよ、だって、九条はやっぱ体裁きとかも格が違うんだ」
「隼も動き見えないしな。全国大会でも、素早く相手の背後に回り込んだりしてたよな?」
「なんか、最初もゆらっとして見えるんだよな。あの不思議な動きで、惑わされるよな」
「そんなもん、格闘家の端くれやったら大抵身につけるもんやろ」
「格闘家・・・・・・剣道でも格闘って言うのか?」
「つーか、身につけてねえし」
 あちこちで笑いが起きて、その中心にいるのは隼で。その隣にいる慈恩も、否応なしに巻き込まれていく。やはり剣道が好きなのだ。慈恩も時折苦笑を交えながらも、いろんなところで真剣に議論を交わしている。
「フェイント、に近いよな。行くぞ行くぞって見せかけるのと同じで、それを最初から、こっちに行くと見せかけるのをいくつもやって、相手に行くところを絞らせなかったり、勘違いさせたりする。目の錯覚も使って、思ったより遠くに見せたりもしてるな」
「当然や。そっから試合の駆け引きは始まっとんねん。これは、相手の前に立った瞬間に分かるで。慈恩もやってることやん」
「強い相手になってくると、使わざるを得ない」
「俺たち、使われてるか?」
 慈恩は苦笑する。
「仲間にあまり手の内は見せたくないっていうか。フェイントは知らなくて初めて通じるものだし」
「仲間とやる可能性があるんやったら、絶対見せへんよ。そんでな、練習中から狙いつけとくんや。自分はこうやて、相手に印象付けとくねん。その裏掻くためにな」
「ああ、インターハイの決勝の」
 言わなくても理解できる慈恩に、隼は気を良くする。
「せや。よう分かってくれてんねんな、お前は。あん時の小手は三ヶ月前から、俺用意しとってん」
「飛馬さんが、俺に突きで一本取ってたことも、計算に入れてただろう?」
「あの人、普段の練習中でも、結構突き使わはるんや。実は、これもわざと練習中に何回かやられといた。ほんまは俺、突きなんか絶対喰らわへん自信あんねんけどな」
 さすがの慈恩も目を瞠った。
「そこまで・・・・・・」
 隼はノンアルコールのスパークリングワインの五杯目を喉に流し込み、肉汁の滴る厚いローストビーフを口に押し込む。ん~~、絶品や、と幸せそうに唸ってから、にやっと笑う。その笑みには自信の程がうかがえる。
「念には念をや。あの人はほんまに強かったさかいな。俺よりひとまわり身体も大きかったし、力ではかなんて分かってるし。俺は絶対あの人に負けるわけにはいかんかってん。お前の前にあの人に当たる可能性もあったさかいな。全てはお前とやりたいがため、や」
 思わず近衛が肩をすくめる。
「すごい想われようだな」
「当たり前や。こいつの本気の剣道見てみ。ゾクゾクするで。次は何やらかしてくれるんやろて。たぶんこいつやったら、俺、自分の持ってる全ての技術出し切れるんちゃうかなって。そんな想像するだけで、ほれ見てみ、こんななるで」
 上着の袖を捲って見せる。剥き出しになった腕を見て、桜花剣道部は驚きの声を上げた。
「うわ、鳥肌立ってんじゃん!」
「お前ほどの奴でも、そんなふうになるんだ」
「今がパーティーやなかったら、俺ソッコーで試合やってくれて申し込んでるで」
「よく言うよ、全国大会優勝チームの主将が」
「何ゆうとん。個人戦やったら、お前決勝まできとるやろ」
「おい、隼!」
 隣から肘でつつかれて、隼は大人びた切れ長の二重の瞳をぱちくりと見開く。ん?と言いたげな表情。
「まあ、団体だとどうしても僕らがお荷物になっちゃうからなあ」
 カリカリと頭を掻く東坊城の姿を見て、あっ、と声を上げる。そして、同じように短い髪の中に指を突っ込んで同じようにカシカシと掻いた。
「またやらかしてもた・・・・・・かんにん、な。ほんま、そんなつもりやないねん。俺、桜花のチームも悪ない思うで。まだ荒削りなとこあるけど、鍛えようで強なる思とんねん。ほんまや」
 心の底から申し訳なさそうにする様子が、また何ともいえず愛嬌があって、憎めないキャラだ。桜花のメンバーは顔を見合わせてから、一斉に吹き出した。
「これで高校日本一の剣士だってんだから、なんか調子狂うよな」
「お前、黙って剣道やってりゃ、絶対モテるのに」
「しゃべれへん俺なんて、俺ちゃうて」
「ま、そりゃそうだ」
 更に爆笑。隼はちらりと慈恩に視線を投げる。
「慈恩やったら、しゃべっても剣道しとってもしとらんでも、モテるやろうけどなあ」
「いや、そんなことは・・・・・・」
「あ、こっちもちょっと天然だった」
 けたけたと和田が笑う。隼は大いにうなずく。
「せや、お前がモテへんわけあれへんがな。気付いてへんのやったら、俺に負けてへんボケやで」
 言い終わると、東坊城が継いでくれたワインを、更にぐいっと飲み干した。そして、おもむろに立ち上がる。
「あかん、飲み過ぎや。ちょお、手洗い貸してな」
「ああ、それなら廊下に出てすぐ・・・・・・」
 近衛が説明しようとすると、にこぉっと笑って目の前でひらひらと手を振った。
「了解や。なあ、慈恩。案内してんか?」
「は?」
「お前知ってんねやろ?ほらええから、はよ立って」
「案内って、するほどの距離じゃ・・・・・・」
「つべこべゆわんと、はよせえて」
 滅茶苦茶強引に急かされて、慈恩は仕方なさそうに腰を上げた。
「分かった分かった。こっちだよ」
 廊下に出たところで、すぐ目の前にある扉を指差す。
「ほら、あの・・・」
「俺、外見たいねん」
「は?」
 ぐい、と慈恩の手首をつかんで、隼がぐんぐん引っ張っていく。
「え、ちょっと、隼・・・・・・」
「お前と一緒にいてると、楽しい。話もおうてるし、もっとずっと剣道のことしゃべっとりたい。あの仲間も、ええ仲間や。如月の仲間もそうやった。それはお前がいてるからや。お前がいてると、剣道やってる人間はほんまに強なりたいて思うんや。そんで、強いお前を尊敬して信頼して、頼る。お前はどこにいてても、人の支えになれる人間や」
 靴をはき、屋根のある通路まで来ると、外の気温が冷たく二人に襲い掛かる。雪は既に五センチほど積もっている。その中で、隼はくるりと慈恩に向きなおり、真っ白な呼気とともに、言葉を吐き出した。
「斗音には会うたか?あれから、ちゃんと会うてるか?」
 思わず慈恩は言葉を失う。唇を噛んでうつむいた。その両腕をつかんで、隼は強く揺さぶった。
「誰の支えになっとってもええよ。けど、一番肝心なとこで、支えたらなあかん一番大事な人間、ほかっといたらあかんやろ!せやから、それ自分で思てるから、お前元気ないんちゃうんか」
 言葉が痛い。心に突き刺さる。同時に、斗音に告げられた片時も忘れることのできない言葉も、慈恩を苛む。
『・・・・・・・・・・・・もう、来ないで。・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・お前に、・・・・・・・・・・・・・・・会いたく・・・・・・ないよ』
「・・・・・・どうしろっていうんだ。電話にも出てくれない。会いに行ってもいない。あいつの言葉は信じたくないけど、それでも必死に訴えるんだ。会いたくないって!俺は・・・・・・俺はどうしたらいいんだよ!」
 ぎゅっと握り締めた拳が震える。隼がぐっと眉根を寄せた。
「会いたないなんて、嘘や。そんなことも、分からへんのか?」
「嘘・・・・・・だったら、どんなにいいか。だけど、嘘じゃない。あれは、嘘をついてる言葉なんかじゃない!」
 つかまれた腕に、隼の指が食い込む。
「そんでも!心のどっかで、斗音がお前を求めてへんわけがない!お前にそないなことゆうのは何でや!弱ってる自分を見せて、お前を心配させたないでちゃうんか!」
「・・・・・・隼」
「ゆうたやろ、お前考えすぎやねんて!俺から見たら、そうゆうふうにしか思われへんよ。もっと単純に考えたらええねん!斗音もお前も、まわりくどいて!」
 隼が慈恩の目をのぞきこむようにして訴えかけた瞬間、慈恩の携帯が美しいメロディを奏で始める。互いに見合ってから、慈恩がポケットのそれを取り出した。

「・・・・・・嵐?」

   ***

 俺は今何をしてるんだろう。何もできない。身体に力が入らない。思うように呼吸ができない。気管がどうかしてしまったかもしれない。発作が起きたわけでもないのにずっと違和感があるし、喘息の薬も効かない。咳をすると苦しいなんて言葉が可愛らしく思えてくるほどの激痛と苦痛が襲ってくる。下手をすると咳の拍子に血の霧が呼気に混じる。喉のどこかが切れてしまったのだろうか。それに、もうこれが平熱になってしまっているかのごとく下がらない熱。三十九度を切ることはなくなってきている。自分が意識を保っているのかどうかもよく分からない。ふと目にする枕元の時計はいつも思いのほか、針が進んでいるから。
(さっき・・・・・・五時くらいだったのに・・・・・・もう、七時過ぎなんだ・・・・・・朝?夜?・・・・・・暗い・・・ってことは・・・まだ、今日?・・・・・・あぁ・・・・・・息苦しい・・・・・・息が、肺に、届かない・・・感じ・・・・・・)
 目の前の暗い部屋が霞む。涙?それとも、また意識が朦朧としているのだろうか。もう本当に、生きているのが不思議だと思う。どうして死なないのだろう。このままでいれば、たぶん死ぬ。あと何日もつだろう。明日まで自分の魂は、この身体につながっているだろうか。
(死ぬ・・・って分かってたら、あれもしたいとか、これがしたかった、とか、考えると思ってたけど・・・・・・何かができる気もしない・・・・・・何かしたいなんて・・・・・・考える気力もない・・・・・・)
「・・・・・・斗音さん。気がついて、いるんですか?」
 突如、視界を遮る黒い影。ああ、と、脳の片隅で納得した。死神だ。ついに迎えが来た。
(・・・・・・ああ、もし、望んでもいいのなら・・・・・・慈恩・・・・・・それに、瓜生さん・・・・・・嵐たち・・・・・・みんなが俺を思ってほんの少し、悲しんで・・・・・・でも、あとは忘れてくれたらいい。俺の死に囚われたりしないで、笑ってくれたら・・・・・・いいなぁ・・・)
 自分が大好きだった人たちの笑顔を思い浮かべると、少し幸せな気分になった。血の気の薄い唇が、ほんのり笑みを載せる。
「・・・・・・斗音さん?笑って・・・・・・いるんですか?少し、薬が効いたかもしれませんね。点滴ばかりでは本当に身体が参ってしまう。今、何か食べられる物を作ってきますから。少しは口からものを摂取すべきです」
 声が耳から入ってきたが、理解するには至らなかった。そのまま黒い影は去る。
(・・・・・・あれ・・・・・・、消え・・・た・・・・・・?)
 まだ生きられるのかな?などとぼんやり考えた瞬間、傷だらけの携帯がぼうっと光った。次いで聞き慣れた電子音。大事な友人から掛かってきたときに鳴る音楽。
(・・・・・・どうして?ひどい言葉を、送ったはずなのに・・・・・・)
 ずず、と手を伸ばす。まだ動けたことに、少し驚いた。携帯の小窓の文字は「嵐携帯」と表示されている。
(・・・・・・嵐・・・・・・)
 大体あの三人の中で掛けてくるのは瞬か翔一郎で、その近くに嵐がいて、嵐と話すことになることが多かった。嵐が、自分の今の状況を少なからず把握しているだろうということは、薄々分かっていた。そもそも、あの嵐が気付かないはずがない。それでも、大切な仲間たちにこんなおぞましい姿を知られたくないと思っている自分を思って、嵐は知らないふりをしていてくれた。恐らく、あの二人に気付かれないようにも、気を遣ってくれていたに違いない。
 その嵐が、なぜ?と思った。同時に、嵐なら、と思った。
 もしかして、嵐なら・・・・・・あの死神を何とかしてくれるかもしれない。そうしたら、生きていられる。みんなの笑顔を、もう一度この目で、見ることができる。
 そう思った瞬間、自分が泣いていることに気付いた。そして、悟る。
(・・・・・・俺の大好きなみんな・・・・・・みんなの笑顔が、俺は見たい。・・・死にたくない!俺は・・・笑ってるみんなの中にいたい!)
 通話ボタンを押す。
『・・・・・・斗音?斗音、か?』
 紛れもない、嵐の声。嵐の声以外、何も聞こえてこない。嵐、一人なのだろうか。
「・・・・・・嵐」
 そうつぶやいた。声には、ならなかった。空気が小さくこすれるような音が、微かにその名を紡いだ。
『斗音・・・なんだな?・・・・・・よかった。・・・・・・ずっと、ちゃんとお前と向き合わなきゃいけないと思ってた』
 やっぱり。嵐は、気付いていた。だったら、今更隠す必要なんてない。助けて欲しい。あの、死神から。伝えなくちゃ。意識があるうちに。息苦しさに喘ぎながら、必死に言葉を絞り出した。
「・・・・・・嵐・・・・・・助・・・けて・・・・・・」
 それだけ言うのに、意識が朦朧とするほど呼吸が困難を極めた。それでも、涙は止まらなかった。声はやはり擦れ過ぎて、音というにはあまりにお粗末で、むしろ震える呼気にわずかに音が混じる程度だった。それでも嵐は確かに聞き取ってくれたようだった。ひどくつらそうな声が返ってきた。
『・・・ごめん。ごめんな。滅茶苦茶つらい思いさせちまって。もっと早くに何とかしてやるべきだったのに。俺は・・・・・・怖かった。お前を精神的に追いつめちまうかもしれないと思うと、どうしても動けなかった。・・・・・・そうやって、逃げてた。けど・・・・・・もう逃げねえ。俺はお前を助けたい。あの男に、これ以上好き勝手は、させねえから』
 震えるその言葉を聴覚が感じた途端、今まで耐えてきたものが一気に込み上げてきた。どっと溢れる涙に、嗚咽が零れる。しかし、嗚咽を許すほど斗音の気管はまともに働いてはいなかった。激痛と耐えがたい苦痛を伴うひどい咳が同時に込み上げ、携帯に細かい血の粒が飛び散った。
『斗音?!しっかりしろ!斗音!』
「・・・・・・死、に・・・たく・・・な・・・い・・・・・・」
『斗音!斗音!』
 鼓膜を震わせる嵐の声が、一気に遠のいた。くらりと意識が歪む。立て続けに出る咳が、いっきに現実を奪っていく。
 ・・・やっぱり、駄目かも。でも、嵐なら、きっと・・・・・・それまで、せめてそれまで。
(神様・・・・・・俺を、連れて行かないで・・・・・・)

 苦し紛れにつかんだのは、手に巻きついた鎖と、握り締めたままの十字架。

   ***

「斗音がおかしい!声も出ないし、咳も・・・・・・こんなの、聞いたこともない・・・・・・!」
 蒼白になった嵐の手から携帯を取り上げて、安土はそれを耳に押し当てた。その瞬間、ぎりっと眉根を寄せる。
「おい、お前今すぐ空港に行け。もうすぐ滝が到着するはずだ。バイクなら車の間を抜けていける。迎えに行って、そのまま病院へ直行。手術の準備をさせろ。一分でも、一秒でも早い方がいい。俺はこいつを迎えに行く」
 嵐の目が驚愕に見開かれる。
「・・・・・・なん・・・で・・・・・・?」
 ち、と舌打ちして、安土は自分の携帯を開いた。
「説明はあとだ。遅れたらあいつは死ぬ。滝には、ひどく弱ってる気管支喘息の人間の気管支がいかれてるって言っとけ。あいつなら分かる」
「分かった」
 それ以上何も言わず、嵐は上着を羽織った。ポケットに携帯を突っ込む。安土は既に携帯の向こうの相手と話し始めている。
「いいからすぐに来い。代休なら三倍にしてくれてやる。家の方だ」
 言いながら、嵐にちらりと視線を向けた。
「あいつの弟も呼んでおけ。必ずあの存在が必要になる」
 こくりとうなずくのを確認しながら、安土は視線だけでうなずき返す。
「巽に配下の人間を三人連れてくるように伝えろ。それから、事務所に寄って今から言う生薬を少しずつ持って・・・・・・」

 自分に向けての言葉ではないことを確認して、嵐はそのまま広い部屋をあとにした。

   ***

 街のあちこちで、車のブレーキランプが点きっぱなしになり、クラクションが響いていた。シュルルルル、とタイヤが空回りし、ちょっとした坂道が上がれなくなっている車。
 急な積雪で、備えを怠っていた都会の車はスピードが出せず、全体的に動きは遅々として、渋滞があちこちで多発している。
「悠大さま、これはちょっと動きそうにありません」
 運転手が心配そうに振り返る。仕える家のお坊ちゃまが顔色を変えて急いでいるのがよく分かるからだ。
「駅までの方が早いかもしれない。近衛」
 和田が慈恩の隣から近衛に訴えかける。同じことを考えていた助手席の近衛は、慣れた手つきで携帯電話を操作するが、その表情にはすぐに翳が宿る。
「―――――駄目だ。電車が遅れてる。今行っても、大混雑だ」
 慈恩は強く目を閉じ、拳を握り締める。
 どうして放っておいてしまったのだろう。どうして今、隣にいないのだろう。自分は一体、何をやっているのだろう。何故自分は、何度もこんな思いを、後悔を繰り返しているのだろう。
『・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・』
 嘘じゃなかったかもしれない。でも、泣いていた。部屋にこもって、自分に隠して、泣いていることを知っていた。その涙が、どうして理解してやれなかったのだろう。言葉の裏にあった思いは、理性で抑えきれなかった「行って欲しくない」の思い。
『お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな』
 その通りだった。きっと、斗音は何度も心の中で自分を呼んでいたのだ。あんなに思い悩んだのに、そうであって欲しいと望んだのに、その願望が強すぎて信じ切れなかった。あの、一言から、全てが狂い始めてしまった。あの一言の裏側の思いに、自分が応えられなかったばかりに。自分たちの関係に溝が穿たれてしまったのは、自分が斗音との絆の深さを信じられなかったためだ。
 嵐からの電話は、切羽詰った声で、否応なしに慈恩の心臓と脳を激しく殴りつけた。
『今すぐに斗音の家に行ってくれ。・・・・・・俺、斗音がお前にだけは知られたくないって思ってること知ってて、だから言えなかった。あいつ、三神って野郎に乱暴されてた。ひどく弱ってる。ヤバイ咳してるし、安土がすぐに病院に運ぶって。・・・・・・黙っててごめんな。とにかく、斗音を・・・・・・頼む』
 一瞬にして色を失った慈恩によく分からないながらも一大事を感じて、隼は近衛を呼んだ。近衛は隼より更に的確にその重大さを理解した。
「どこに行けばいい?今すぐ車を用意させる」
 近衛が用意してくれた車には、近衛と和田が共に乗り込んでくれた。送ってきたまま待機していた鳳家の車も、鳳の一声で動いた。
「車を出してくれ。それから父に連絡を。できる限り今から向かう道程がスムーズに進むように、警察で交通整理に当たるよう指示を出して欲しい」
 鳳の祖父は警視庁の元警視総監であり、父親も次期総監候補と言われる人物である。だからといって私的に警察官を動かせるわけではないが、現在の交通事情を踏まえた上で、少しでも混雑を解消するために動かすくらいの力はある。
 しかし、そうはいってもこの大混雑が膠着した状態を、そうそう簡単に無くすことなどできはしない。命令が出されてから動くまでにも時間が掛かるだろう。すぐ後ろに鳳と隼を乗せた超高級車がついているが、やはり同じように動けずにいる。
 翼でもあれば、この地上の無秩序な状態を置き去りにして飛んでいけるだろうが、もちろん、剣道が少々できる以外は普通の人間である慈恩に、今なす術はなかった。
 切れんばかりに唇を噛む慈恩を、痛々しそうに近衛が見遣る。しかし、さすがの近衛もやはり人間でしかない。しん、と気まずさが漂う車内の空気を、いきなり電子音が打ち砕いた。驚いて、次に訝しげにその音源である携帯をつかんだ慈恩は、それをぱちんと開き、低い声で応対した。

「・・・もしもし?」

   ***

「・・・・・・よう。椎名の弟・・・・・・だな」
 慈恩に負けない低音で、瓜生はぼそりと電話を掛けた相手に向かって、つぶやくように呼びかけた。
 
近藤に聞いた住所へとりあえず行ってみた瓜生だったが、とても自分が訪ねていい家だとは思えなかった。仕方がないので、あまりにも立派な門を入っていこうとする車を止めて、彼を呼んでもらえないかと頼んでみた。
 瓜生にとって、斗音の最後の砦は慈恩でしかなかった。自分に何もできない状況で、つらい思いをしているであろう斗音の心を少しでも救うために、考えに考えて、結局慈恩の存在以外、思い浮かばなかった。だから、さらってでも連れて行って、どんなに嫌がられても、自分が恨まれてもいい、慈恩に会わせてやろう、と思ったのだ。
 だが、訝しげに車の窓を開けた中年の男に、案の定ものっすごく不審そうに全身をじろじろ見られた挙句、
「まだ慈恩様はお帰りになっていない。それに、お前のような者との付き合いは、九条家のご子息として重盛様がお許しにならんだろう」
と、つっけんどんに返された。
 その態度に関しては少々不快を感じたが、それ以上に慈恩が置かれた状況の異世界ぶりに呆れてしまった。そして、椎名兄弟に起こったことが尋常ならざることだったのだと理解した。とにもかくにも、その中年男の言ったことが嘘だったとも思えなかったので、慈恩の居場所を更に問うてみた。
「近衛様のご自宅で今日は御学友とクリスマスパーティーをしておられるはずだが。何?近衛様の御自宅?お前みたいな奴が行っても、門前払いだぞ」
 そう言いながらも、大体の場所を運転手は教えてくれた。礼を言う代わりに軽く頭を下げて、言われた場所の辺りまできたのだが、何しろこちらもあまり足を踏み入れたことのない高級住宅地の一角である。地理がさっぱり分からない。
 気は進まなかったが、最後の手段、近藤から聞いた慈恩の携帯番号に掛けてみたのだった。
『・・・・・・誰ですか?』
 警戒したような声。けれど、名を名乗るのに躊躇った。自分がこの人物にいい印象を持ってもらえているとは、到底思えない。左手に抱えたヘルメットをぎゅっとつかんで、気持ちを奮い立たせる。
「・・・・・・瓜生」
『・・・・・・瓜生・・・・・・如月の、三年の・・・?』
 低いままだが、警戒がやや意外に変わったようだ。少し、ほっとする。
「・・・そうだ。覚えて・・・・・・ねえわけねえよな。・・・・・・まあ、いろいろ込み入った事情があるみたいで悪いが、お前に椎名の・・・・・・斗音のことで、頼みがある」
『頼み・・・・・・?』
 なぜあなたが?という含みを言外に感じて、やや困惑を覚えた。舞い降りてくる細かく白い切片を見上げ、真っ白な息を吐き出して躊躇いを振り切る。
「・・・・・・あいつに、会ってやってくれ」
 言ってしまってから、それが更に相手の不審を買ってしまったような気がして、慈恩の返事を待たずに言葉をつなぐ。
「こっちにもちょっとした事情があって・・・・・・少なくとも、俺はあいつを助けてやりたいと思ってる。・・・いや、そんなたいそうなことができるとは思ってねえけど・・・せめて、今日くらいは・・・・・・あいつが笑えたらと思った。お前以外に、それができる奴がいるとは、思えねえ」
 言い訳がましい言葉を並べてしまったことは分かっていたが、それでも、どうしても慈恩の気持ちを動かしたかった。
『・・・・・・』
 慈恩の沈黙が、躊躇いなのか迷いなのか分からず、今も苦しんでいるに違いない斗音を思って、切ない想いを噛み締める。
「・・・会う、約束をしてただろう。そのときのあいつは・・・・・・嬉しそうだった。その日を待ち遠しそうにしてたように、見えた。・・・・・・それが、叶わなかったのは、あいつのせいじゃねえ。それからずっと元気がなくて・・・・・・」
 事情を説明するのには、さすがに躊躇いが勝(まさ)った。それ以上言えずに、話の流れを切り替える。
「今、どこにいる」
 しばしの間をおいて、やや苦しげな声が返ってきた。
『・・・・・・斗音のところへ、向かっています。嵐から、あいつに何が起きたのかは聞きました。でも、この雪で渋滞してて・・・車が動かない・・・・・・』
 瓜生は止めていたバイクのエンジンを掛けた。勢いよく車体が武者震いをする。

「どこにいる。車から出て待ってろ。すぐに行く」

   ***

 降りしきる雪に、きらきらのネオンが華やかに色を与える。待つこと十分弱で、完全に流れの止まってしまっている車の間を器用にすり抜けながら、一台のバイクが慈恩の前につけた。その目の前でライダーがフルフェイスのヘルメットを外した。勢いよく首を振ってまとわりつく髪を払い、じっと慈恩を捉える瞳は、以前慈恩が見知っていたその人物と、全く印象が異なっていた。
「さすがに事故らねえ自信はねえからな。これ、かぶってろ」
 促されるまま後部座席にまたがり、渡されたヘルメットを素直にかぶる。
「しっかりつかまってろよ。飛ばすからな」
 エンジンを吹かし、バイクが勢いよく発進する。慣性の法則に捕らわれそうになり、慈恩は思わず瓜生に回した腕に力を込めた。来たとき同様、あちこちで動けなくなっている車の間を、小気味よいくらいすいすいと抜けていく。これがこの雪の中、容易くできるはずはない。この男は、自分と斗音のために、懸命に飛ばしてくれているのだ。
 先ほど自分を見つめた瞳に見えたものや、電話から受けた印象と同じ真摯さを感じて、慈恩は思わずつぶやいた。
「・・・・・・斗音が・・・・・・ずいぶんお世話になったんですね」
「・・・・・・俺は何もしちゃいねえよ」
 エンジン音のために微かにしか聞き取れなかったが、瓜生が何を言ったのかは自然に理解できた。
「・・・・・・・・・・・・ありがとう、ございます」
 そっと言った言葉に、返事はなかった。届くより先にエンジンが立てる音が掻き消してしまったのだろう。それでもいいと思った。まさかこの人物に対して、こんな感謝の気持ちを抱くことになるとは、思いもしなかった。怒りしか覚えなかった、あの事件。ただ一人潔く謝ったこの人物は、確かに他のクズに比べればマシだったかもしれない。そんなこと、あのときには考える余裕もなかったけれど、斗音はあの時、既に見抜いていた。
(やっぱり、斗音は人を見る目がある)
 じわりと湧いたのは、懐かしい兄への思慕。そして、涙。

(斗音・・・・・・情けない弟でごめん。お前の気持ちを分かってやれなくてごめん。すぐに行くから。斗音・・・!)

   ***

 降りしきる雪の中、車から降りてバイクを見送った近衛と和田、そして鳳と隼は、何となく顔を見合わせた。
「あれも、九条の友達か?」
「友達って感じじゃ、なかったけどな。敬語だったし。三年とか言ってたから、先輩とかじゃないか?」
「先輩や何や知らんけど、えらいかっこええ人やったなあ」
「・・・・・・そうか?」
 意外そうな声を返した近衛に、鳳と和田がうなずく。
「なんていうか。ちょっと・・・ヤンキーっぽかったよな」
「うん。九条と知り合いっていうのがちょっと信じられないっていうか」
「そないなもん、偏見や。外見だけで人間判断したらあかんて」
 隼が大人びた表情で器用に片目を閉じ、目の前で、人差し指をちっちっと振って見せる。
「めっちゃ鍛えてはるみたいやったし、ええ目してはった。真剣に自分をあんだけ鍛えられるゆうんは、並大抵のことやあれへんで。そんだけのことできる人なんや。ただのヤンキーちゃうて。それにな」
 近衛は軽く目をしばたたいた。本当にこの茶目っ気たっぷりの剣道少年は、浅はかかと思いきや、時折こんな鋭い視点を持っている。
(やっぱこいつ、すごい奴だ)
「バイクに乗ってはるっちゅーのがまたかっこええやん。ええなあ、俺もああやってかっこよく乗ってみたいわぁ」
「・・・・・・・・・・・・」
(すごい奴、だと、思うんだけどな・・・・・・)
 毎回毎回そんな思いをしているような気がする近衛である。
「ところでさ、どうする?このままだと、しばらく車動かないよ?」
 鳳の言葉に気を取り直して、近衛はうーんと唸る。唸ったところで、なかなかいい案は浮かばない。
「交通整理にも時間が掛かりそうだし。とりあえず、バイクが抜けられる程度にはしてくれてると思うけど、車となると簡単には動かないからね」
 更に被せるように言われて、知的な眉根を徐々に寄せていく。和田が肩をすくめた。
「ま、車は無理だって。あれだ、ヘリとかなら行けんじゃない?」
「ヘリか・・・・・・飛べるかな」
 何気なく提案しただけなのに、近衛にはそれは考えるべき選択肢に存在するのだと知って、和田は更に肩をすくめた。やはり近衛は半端な家ではない。
「そうだね。風はないけど・・・・・・夜だし、ライト装備型でも、ちょっと雪で視界が悪いかもね」
 当たり前のようにその可能性について論じることのできる鳳もだ。隼が感嘆の声を上げる。
「ヘリ!ヘリコプター持ってはるん?ほんまにあんたら、すごい世界の人やなあ」
 和田も全くだ、とうなずく。和田の家も色々あるが、彼の出身の家柄は、二人に比べるとはるかに劣る。
「ヘリの場合、ヘリポートかそれに見合う場所も必要になってくるしな。ちょっと調べさせてみる」
 携帯を取り出して、近衛は手早くボタンを押す。
「悠大です。この雪で車が動かなくなってしまって。・・・ええ、それでヘリが出せないかと思いまして」
 即実行に移せるところも、近衛ならではであろう。
「・・・・・・難しいのは承知です。でも、非常時ですから。金井を呼んでください。彼ならできると思います。この近辺と、目的地近辺にヘリポートもしくはそれ同等の広い場所があるかどうかも調べさせてください」
 しばらく話していた近衛だったが、カチンと携帯を閉じて仲間を見回す。
「ヘリを出す。ただ、あまり人は乗せられない。悪いけど、鳳と和田は鳳の車でそのまま向かってくれ。隼、この近くのビルの屋上にヘリポートがある。こっちの車で、裏道から抜けてそのビルに向かう。隼は慈恩の兄さんのこと、知ってるんだろう?だから、一緒に来て欲しい」
 鳳と和田がうなずき、隼は一瞬驚いたように切れ長の目を瞬かせた。そして、にこぉっと笑う。
「もちろんや!なんせ、斗音は俺の片想いの相手やさかい」

(・・・・・・はい?)

   ***

「斗音さん、起きられますか?・・・・・・これを、飲んでください」
 香ばしい香りがする。食欲なんて欠片もないけれど、何だか懐かしくて恋しい香りだと思った。重い瞼を持ち上げるには、気力が必要だったが、その恋しさに惹かれるままゆっくり目を開く。まぶしい光が視界を白く灼き、部屋の中がはっきり認識できるようになるまでに数瞬を要した。
(・・・・・・息・・・苦しい・・・・・・)
 喉からの呼気に鉄の匂いを感じる。また意識を失っていたのだろうか。嵐から電話が掛かってきたときは、確か七時くらいだったはずだが、今見ると、時計は七時半を過ぎている。
「・・・・・・作るのに少々手間取りました。すみません。・・・・・・お好きなんでしょう?」
 斗音は視界ににゅっと差し出されたマグカップをぼんやり見つめた。
(・・・・・・焦点が合わない。見えているのか?)

 三神は持ってきたマグカップをナイトテーブルにそっと置いて、ぐったりと力の入らない斗音の身体を抱き起こし、枕にもたせかけるようにした。が、すぐにぐらりと傾きそうになる。華奢な身体を支えるようにして、枕元に腰掛け、自分の方にもたれさせた。それで少し安定する。
 
シャツの上から伝わってくるのは、驚くほど高い熱。白い頬は上気しても良さそうなのに、どうも呼吸が浅いようで、生気が感じられないほど顔色が悪い。その浅い呼吸のたび、途切れがちに笛音が聞こえる。意識もまだ朦朧としているようだ。そんな状態なのに、自分にぐったりもたれかかる様子がいとおしくてならない。そのまま抱き締めて押し倒してしまいたい衝動に駆られる。その衝動のままに自分の欲望を果たせば、この生はこと切れるかもしれない。それほど弱っていた。夕方に一度だけ、それでも三神は心身の欲望に逆らいきれず、斗音に無体を強いた。激しい負担を感じたのだろう、斗音はひどい発作を起こし、咳に血を混じらせた。そしてたちまち意識を失った。
 
ことの最中には、このまま殺してしまってもいいとさえ思うほど、心身の恍惚に溺れる三神だが、斗音のこんな様子を見ていると、欲情と同じくらいの激しい後悔に襲われる。
「・・・・・・死なないで・・・・・・」
 血の気の薄い唇を優しく貪ると、血の味が混じる。呼吸がほとんど感じられない。その表情をうかがうと、虚ろな薄茶の瞳からは光が失われ、ぼんやりと宙に視線を放り出している。心臓が押し潰されそうな気がした。
「・・・・・・甘酒、作ってみました。沢村ほどうまくは作れていないと思いますが・・・・・・飲んで、ください」
 スプーンですくって、そっと口元まで運ぶ。しかし、唇は動かない。下手に流し込めば、発作を起こすだろう。三神はそれを自分の口に含んだ。とても甘くて、ほんのり生姜の風味がする。そのまま斗音の唇を優しく包み込む。甘酒を絡めた舌で斗音のそれを探り、それを舐めるようにする。
「・・・・・・ん」
 斗音の喉が微かに鳴った。瞬間、力なく目が細められ、柳眉が寄せられた。喉がやられているのだろう。溜飲時に炎症を起こした部分に触れたのだ。
「すみません、斗音さん・・・大丈夫ですか・・・・・・?」
 斗音の唇が微かに動く。三神はそれを読み取るため、凝視した。
 あ、ま、い・・・。
 ほんのりと小さく、苦しげな笑みが浮かんだ。
 ・・・おいしい。
 急激に視界が歪んでぼやけ、頬を伝って二滴、三滴四滴、雫がシーツを濡らした。
(・・・・・・ああ・・・・・・!)
 どうしてこれが、抱き締めずにいられよう。華奢な身体を掻き抱いて、力の限りに抱きすくめた。
「死なないで・・・・・・!死なないでください・・・・・・お願いだから・・・・・・!」
 耳元で力ない咳が苦しげに零れる。続いて、全身を痙攣させるようなひどい咳。三神は思わず悲痛な声を上げていた。
「嫌だ・・・・・・!死ぬな!死なないでくれ!」

 愛しているから・・・・・・!

   ***

 懐かしいわが家。居間にも、斗音の部屋にも明かりがついている。降り続ける雪の中、瓜生は時々ひやりとするような運転でありながらも、何とか事故を起こすことなく、慈恩をここまで連れて来てくれた。
「ありがとうございます」
「・・・・・・俺の目的のために連れてきただけだ。・・・・・・礼なんか、いらない」
 ヘルメットを脱いでぶっきらぼうにそうつぶやく瓜生は、額の汗を拭った。その仕草に、慈恩はいかに大変な運転だったのかを改めて思い知った。
「早く行け」
「・・・・・・あなたは?」
 瓜生が微かに唇を噛む。
「・・・・・・俺では、駄目だ。お前が行け。俺はここにいる」
 どういういきさつなのかは分からないが、きっと瓜生は斗音と親しくしていたのだろう。そして、自分と同じように、斗音から会うことを拒否されたのだ。だったら、自分と大差ないだろうに、と思うが、瓜生は動こうとしなかった。
「・・・・・・分かりました」
 丁寧に頭を下げて感謝の意を表してから、慈恩は門を抜け、玄関まで駆け寄る。まだあの暴力団組長は来ていないようだ。そのまま玄関を開けようとして一瞬躊躇い、チャイムを鳴らした。長い間来ていなかったせいで、気後れしたのだ。
 じれったい数十秒の後、インターホンから三神の低い声が聞こえた。
『・・・・・・はい』
「・・・・・・俺です。慈恩です」
『・・・お待ちください』
 素っ気無い応対があり、更に待つこと数十秒。玄関がゆっくりと開いた。長身の男が丁重に礼をする。
「お久しぶりでございます。こんな雪の中、こんなに遅くに、いかがなさいましたか?」
 礼をしたまま、ややうつむき加減の三神に、やや違和感を覚える。同時に込み上げる、憤り。
「斗音に・・・・・・会いに来ました。いますよね?」
 知らず、語調がきつくなる。この男が、斗音を苦しめているのだ。慈恩の漆黒の瞳が鋭く三神を射抜く。その目の前で、三神はゆっくり顔を上げた。それを見て、慈恩は思わず息を飲んだ。玄関ホールの明かりが逆光になっていて、やや見づらかったのだが。
(・・・・・・泣いていた・・・・・・?)
 目が微かに赤い。その目が、険しさを帯びる。
「・・・・・・斗音様は、あなたにはお会いしたくないそうです」
 返された言葉は、それほど慈恩を驚かせはしなかった。けれど、その心に深く突き刺さった。それでも慈恩は気丈に三神を見据える。
「俺が会いたいんだ。もう、あなたに斗音を任せてはおけない」
 きっぱりと言った慈恩に、三神はうっすらと笑った。
「よく言う。あの人を捨てたくせに」
「なに・・・・・・」
「お前は九条をとった。あの人よりも、九条を選んだ。そうして俺にあの人を託した。それを今更?自分のとった行動を棚に上げて何を言ってる」
 いきなり乱暴な言葉遣いになった三神の、その言葉に、慈恩は激しい衝撃を受けた。
「俺は好んで九条に入ったわけじゃない!それが斗音の望みだった!」
 少なくとも、そう判断してしまったのだ。あの時に。だが、三神はそれを高笑いで受け流す。
「馬鹿を言え。あの人のことをその程度しか理解できなかったお前が、今更あの人になんと申し開きをする気だ。あの人は渡さない。もう、お前の入る余地なんてないんだ」
「黙れ!そういうお前はあいつに何をした!」
 激昂する慈恩に、三神は蔑むようににやりと笑った。
「そうか。知ったのか。・・・・・・あいつには言うなと忠告したんだが。でも、知っているのなら聞く必要はないだろう?」
「貴様・・・・・・!」
「それとも聞きたいのか?あの人が、どんなに淫らに俺を受け入れたのかを」
 聞き終わるより先に、慈恩はわななく拳を渾身で三神にたたき込んでいた。が、それはあっさりと大きな手の平に弾かれて流される。三神の瞳が、野生の獣が獲物を狙い定めるかのごとく、ぎらつく。
「あの人を一番苦しめたのは貴様だ。貴様に見捨てられて打ちひしがれたあの人を、俺は慰めた。それだけだ。お前に何の権利がある。あの人を想ったり、俺を非難したりする資格が、貴様にあると思っているのか!」
 低いが、威圧するような声。それは容赦なく慈恩の心を抉る。
「・・・・・・お前はあの人を見放した。その時点でお前の役割は終わったんだ。これ以上あの人を苦しめるな。・・・・・・ずっと会ってもいなかったんだろう?あの人は会いたくなかったんだ。お前に。自分を捨てたお前に」
「会おうとしてた。話がしたいと言ってた!」
 過去に聞いた斗音の言葉を思い返して、必死に自分たちの絆を信じようとする。それが虚しく、冷たい空間に白く漂う気がした。
「・・・・・・でも、実現しなかった」
 三神は少し長めの黒い髪を掻き上げた。その瞳にはもう先ほどの哀は感じられない。優越と憎悪の混在した嫌悪が、慈恩を絡め取る。
「あの人はお前より俺を選んだ。お前に会うことより、俺に愛されることを選んだんだ。あの人は決して俺を拒まない。お前を拒んでも俺は拒まない。そういうことだ」
 胸にいくつもの刃が突き刺さる。思わずコートの上から心臓をつかむように拳を握り締める。違う、と心の声が悲鳴を上げる。けれど冷たい理性は確かに拒まれた事実を自身に突きつけてくる。慈恩は唇を噛んだ。

「・・・・・・拒んでいた。だから憔悴していった」
 背後から静かに低く、声が響いた。玄関先の二人の視線が同時にその声の主を捉える。茶色の長めの髪が白く斑になっている。その雪を軽く頭を振って払い落として、瓜生は手を上着のポケットに突っ込んだまま門柱にもたれかかった。
「あいつの優しさが、それを表に出させなかっただけだろ。てめえはその優しさに付け込んで、あいつを食い物にしやがった」
 ギリ、と唇を噛んだのは三神だった。そして次の瞬間に薄ら笑いを浮かべる。
「ああ・・・・・・誰かと思えば。またやられに来たのか?今度は腕一本では済まないぞ」
「・・・腕・・・・・・?」
 思わずつぶやいた慈恩に、三神は右腕をつかんで見せた。
「確か折ってやったのはこの辺りだったか。あれからあの人にまとわり付くのをやめたんだったか?この根性なしが」
「あいつは自分のために他人が傷つくのが耐えられなかった。お前に分からないようにすることの方が、骨が折れた」
「・・・・・・なん・・・・・だと・・・・・・?」
 きりっと黒い瞳が三神を射抜く。
「学校に来られなくなるまで、俺はあいつを近くで見ていた。・・・・・・だから、よく分かる。あいつがどれだけ苦痛を味わっていたか。何も言わずにただもたれかかって泣いていた。・・・・・・さらってでもあいつを守ってやりたかった。・・・・・・でもあいつは怖がった。てめえがいつまた俺に危害を加えるんじゃねえかってな。そして俺も・・・・・・何もしてやれなかった。最終的にてめえが牙を剥く相手は、あいつだと分かってたから」
 わなわなと三神の手が震える。こいつはヤバイ、と直感的に慈恩は感じた。これ以上関わらない方がいい。
「とにかく、斗音に会わせてもらう」
 怒りに震える長身の脇を抜けようとした瞬間、圧倒的な力で二の腕をつかまれ、力ずくで引き戻された。思わずよろめく。
「おい、やめろ!」
 思わず声を上げた瓜生の目の前で、三神は慈恩の襟首をつかむや否や、締め上げる。そしてそのまま玄関へ上がる石段の下へ、決して小さくない慈恩の身体を、自分の体重を上乗せして、力任せにたたきつけた。信じがたい腕力だった。慈恩は視界が一瞬遠のいたのを感じた。とっさに冷たい雪の上で受身を取ったが、自分よりひとまわり大きい身体が自分に圧し掛かってきているのだ。ダメージがないわけがない。後頭部を強打しなかっただけでも幸せだ。もしそうなっていたら、下手をすればあっけなくこの世に別れを告げていたに違いない。
「・・・貴様が、貴様がいるから、あの人は俺を見ることができないんだ。死ね。お前が生きているのは、俺のためにも、あの人のためにもならない。死ね。今すぐ死ね!」
 首に掛かった手が容赦なく締まっていく。呼吸が遮られ、動脈も静脈も止められ、慈恩は苦しさに呻いた。
(本気だ、こいつ!本気で殺そうとしてる!)
「気でも狂ってんのかてめえ!やめろ!」
 目の前で黒いブーツが狂気に満ちた男の顔を蹴り飛ばす。あと五センチずれたら慈恩の顔もただでは済まなかっただろう。それでもその一撃で首の束縛は解かれた。思わず激しく咳き込む。顔をしかめて上げると、唇の端から血を流した三神が鬼のような形相で瓜生を睨みつけていた。
「よくよく貴様は顔を狙うのが得意なんだな。これを見たらまた、あの人が怖がるというのに・・・・・・よくも!」
 はっきりと眉を寄せ、瓜生は信じられない、と小さく首を横に振った。
「てめえ、自分のしたこと分かってんのか。人一人、殺すところだったんだぞ」
「殺すことに何の問題がある。害虫の一匹、消えたところで何の支障もない」
 ぐい、と血を拭いながら三神が、それでも唇を歪めて笑む。さすがに瓜生も慈恩も身体中の血の気が引くのを感じた。
(こいつ、正気じゃない!)
「馬鹿野郎、ここは日本だぞ!人殺しがどれだけ大変なことか、分かってんだろ!」
 思わず叫んだ瓜生に、さも訝しげに三神が眉根を寄せる。
「人?これが人だと?お前もそうだが、害虫と人を一緒にするな、よ!」
 言うや否や、慈恩のみぞおちに鋭く重い、肘の一撃が入った。同時に、体内で鈍い音がいくつか弾ける。
「っ!」
 凛々しい眉が苦痛に歪む。身体の上からの衝撃が、門扉から敷き詰められた石にめり込むかと思った。そして次にやってきたのは、鋭い痛みと腹部の激しい鈍痛。全身が麻痺したように動かない。
(っ・・・・・・肋骨、イった・・・・・・)
「やめろ!本気で死ぬ!」
「安心しろ。貴様もあとで殺してやる」
 重い拳が更に一発、二発。内臓が潰れそうだ。呼吸が遮られて、何度も咳き込んだ。込み上げるものを、その咳に混じらせた。地面に積もって掻き乱された白が、赤い斑点に汚れる。霞みそうな思考の片隅で、ふと思った。斗音が発作を起こしたときの苦しみは、こんな感じかもしれない。苦しい。痛くてつらくて、どうしようもなく苦しい。
「・・・・・・斗・・・・・・音・・・」
「汚らわしい。お前のようなカスがその名を口にするな!」
 頬に激しい衝撃。脳が揺さぶられて、視界が眩む。殴られたのだと、数瞬後に理解する。
「やめろっ!」
 上に圧し掛かっていた黒い塊に、バネのような肢体が勢いよくぶつかって、一気に重圧を押しのけてくれた。喘いで咳き込みながら、慈恩は動かない身体を無理矢理起こした。
「う、りう・・・さん・・・っ」
 もんどりうって新たな白い地面にその跡を残しながら、瓜生が三神につかみかかっていた。
「てめー、やってることが度を越してんだろ!」
「今度は腕で済まないと言っただろうが!」
 瓜生は決して弱くないだろう。体裁きも早いし無駄がない。けれど体格が違う。瓜生より三神の方がひとまわり大きい。同格の力の持ち主なら、当然体格がものを言う。たちまち組み敷かれる。
(いけない・・・・・・!瓜生さんまで・・・・・・)
 ギッ、と慈恩は顔を上げた。明るい光がこぼれる、斗音の部屋。
 届け。今度こそ。
「っ、斗音っ!」 
 ゲホ、と咳が込み上げる。喉の奥で血の味がする。わき腹には刺すような痛みが走る。
 苦しい。痛い。でもそれより、潰れてしまいそうに心が締め付けられる。
(こんな苦しい思いを、していたのか。お前は)
 痛む肋骨をなだめながら、大きく息を吸った。握り締めた雪が手の中でじわりととける。
「斗音!っ、いるんだろ・・・っ斗音!」

 苦しげな、でもひび割れながらも低い透る声が夜陰に響いた。

   ***

 ああ、苦しい。呼吸が苦しい。気管が痛い。身体が重い。いつまで俺は、この白い部屋にいなければいけないの?ねえ、母さん、母さん。今日は慈恩の試合の日なのに。こんな日に発作を起こしてしまうなんて。悔しい。悔しすぎて苦しいよ。涙が止まらない。
『泣かないで、斗音。慈恩はあなたを責めたりしないわ』
 うん、分かってるよ。でも、涙が止まらない。俺がつらいのは、慈恩が責めるからじゃない。
『・・・・・・見たかったのね。慈恩の試合・・・・・・いいえ、慈恩の姿が』
 そうだよ・・・・・・そうなんだ。早く行かなきゃ・・・・・・俺は、約束したんだ。観に行くって。慈恩は喜んでくれたんだ。俺もその為だけに・・・・・・あんなに我慢してきたのに・・・・・・。

「斗音!」
 
呼ばれた気がした。
 懐かしい声。ああ、この低い響きは、慈恩。凛とした姿に似合う声だ。お前にだけは知られたくない。こんな情けない姿。でも、死ぬくらいなら慈恩に一目会いたい。

 死ぬ・・・・・・?そうだ、俺は・・・・・・。

(・・・・・・あれ?また、意識飛んでた・・・・・・?)
 目に映る見慣れた景色。だるくて重い身体。呼吸はやはりまともにできなくて、気管に違和感と血の気配を感じる。たぶん四十度近い熱は、全く下がっていないのだろう。
(・・・・・・苦しい・・・・・・)
 零れ落ちる涙は、苦しさからなのか、あの夢の続きなのか。分からない。もうどうでもいい。
「斗音!・・・・・いるんだろ・・・斗音!」
(・・・・・・!)
 幻聴でも夢でもない。確かに聞こえた。紛れもない、慈恩の声。
(・・・夢じゃ、なかった?)
 どうして出てきたりするんだ、と一瞬思った。突き放したはずなのに。そして同時に大きな疑惑が心に不安を掻き立てる。
(切羽詰ったような・・・・・・あの、声は・・・・・・?)
 ズル、とベッドから身体を乗り出して、ふらつく足で床を踏む。重心がどこにあるのか分からない。とにかく、何かにつかまらないと立てない。ナイトテーブルに、そしてカーテンに、壁にと自分の体重の大半を預けながら、息も絶え絶えになりながら、ようやく声の聞こえた玄関の方が見える窓にもたれかかる。震える指で、カーテンのすきまからそっとうかがった。
 薄茶の瞳が瞠目した。苦しげに見上げてくる、凛とした漆黒の瞳。視線が合った。数ヶ月ぶりに、合った。隠れたい、と思う心が生まれた。けれど、離せない。目が、離せない。雪の舞う中に、それらに包まれた柔らかい明かりの中に、強い意志の瞳。
 浅い呼吸で必死に肺に酸素を送り込みながら、その苦しげな様子をいぶかしむ。
(・・・・・・慈恩、どうして・・・・・・それに・・・・・・あれは、三神、と・・・・・・瓜生、さん・・・・・・?)

 どくん、と心臓が跳ねた。まだこの心臓がそんなに動けるのか、と思うくらいだったが、そんなことを思う余裕はなかった。雪のうっすら積もった中に、這いずるように必死にこちらを見上げている慈恩。その腕が抱えているのは脇腹?あの苦しげな表情は?何十日ぶりかに、斗音の脳が目まぐるしく思考を開始する。
 
三神が圧し掛かっているのは、間違いなく瓜生。その瓜生に対して、容赦のない拳を振るう三神。その勢いは、狂人じみている。
(・・・・・・殺・・・される・・・・・・!)
 警察に通報すべきだと思った。でも、声が出ない。伝えることが、できない。どうしたらいい?他人に助けを求められない。・・・・・・だったら、三神を止める方法は・・・・・・。
 窓際に置かれていた机の引き出しの取っ手を必死でつかむ。そこにしまってあったカッターナイフを、震える手で取り上げた。

 三神の前に、行かなければ。

   ***

 苛烈な攻撃を、瓜生は必死に避けてはいるものの、突き下ろされてくる拳は全てストレート以上の威力がある。というより、避けられた拳は雪の積もる地面に突き刺さって、その度にこの狂人の血を滲ませているのだ。瓜生もその表情に何とも言いがたい、恐怖に似たものを貼り付けている。頬を掠めるだけでそこにみみず腫れのような跡を残すほどの威力なのだ。
(もう少し、俺が動けたら)
 慈恩はそう思い、必死に立とうとするが、足が言うことを聞かない。肋骨も相当痛い。正直、吐き気を催すほど、臓腑が掻き回されている。
 瓜生を助けなければ、と思うが、それもできない。斗音は、どうしただろう。確かにさっき、部屋からのぞいていたようだけれど。本当に、そっと、カーテンの隙間からうかがうように。よくは見えなかったけれど、視線が合った。それだけは分かった。何だか陽炎のように弱々しく思える視線。
「くっ・・・・・・」
 しっかりと肋骨の辺りを支えながら、無理矢理身体の向きを変えた。それだけで身体の中に、肋骨から発された痛みが駆けていく。
「やめろ・・・・・・!いい加減にしろ!瓜生さんから手を離せ!」
 そんな言葉が虚しいだけのものだということはよく分かっている。そんなもので止まるほど、あの男の狂気は半端ではない。雪をつかんで、それを投げつける。ビリッと電撃が走った。思わずうずくまる。
「やめてくれ・・・!そんなことをしても・・・・・・傷つくのは斗音だ・・・・・・!」
 歯を食いしばる。自分に執着するこの男が、そのために誰かを傷つけて、斗音が苦しまないわけがない。先ほど三神の言ったことは本当だろう。瓜生の腕を折ったことで、斗音を縛り付けたのだ。何もできない自分が歯がゆくて悔しくて、拳を地面にたたきつけた。それでもやはり痛みが駆け抜けていく。どうしようもない。何をしてもこの痛みからは逃げられない。
「・・・・・・これ以上、あいつを傷つけないでくれ・・・・・・!」
 冷たい雪の、その冷たさが虚しい。
(斗音・・・・・・!俺は、こんな人間に、お前を託してしまった・・・・・・!)
 悔しくて痛くてつらくて。こんなに自分が嫌になることはない。
「俺は・・・・・・なんて・・・・・・馬鹿な選択を・・・・・・」
 離れるべきではないと、何人もの人に言われた。嵐に、今井に、そして滝に。離れてからも、そんなに自分たちのことを知らない隼にまで、その真実が見えていたのに。
 遠くで、重々しいエンジン音のようなものが聞こえる。あれは、何の音だったか。頭の片隅でふと思ったけれど、激しい自己嫌悪がたちまち意識の外に追い出してしまった。
 どうしようもなく気分が悪い。みぞおちに喰らったいくつものパンチがそうさせているのだろう。けれど、そればかりではない。気が滅入る、というより、地の底までめり込んでしまいそうだ。何より、自分の情けなさを己が痛感しているからだ。
「ごめん・・・・・・斗音、ごめん・・・・・・」
 またせり上がってきた鉄の臭いに耐え切れず、込み上げた咳と共に吐き出した。暗い中でも優しい明かりと雪に浮き上がったそれは、やはり赤黒かった。
「・・・・・・血・・・・・・」
 声、ではなかった。それは、ただの擦れた摩擦音。ふらり、と自分の視界によろめいてきた影に、慈恩は脇腹から駆け抜ける痛みのことも忘れて思わず顔を上げた。直後衝撃的なまでの痛みが身体を貫いたが、それ以上の衝撃が慈恩の脳を震撼させた。
「・・・・・・・・・斗・・・・・・音・・・・・・」
 大きくはだけたパジャマから顕わになっているのは、右上半身。華奢な骨格が浮き上がるほどの痩躯、それを包む異常なくらい白い肌には、赤いものから薄れかけて色あせたものまで、はっきり残る痣。少し伸びて不ぞろいになったアッシュの髪は乱れて、それが覆う頬の輪郭は明らかに削げ落ち、焦点のしっかり合わないうつろな薄茶の瞳の下には、憔悴を表す隈が浮き出している。裸足のままの歩みはおぼつかなくて、頼りなく壁に寄り添っている。そして、苦しげに繰り返される浅い呼吸と、それに伴う細い笛のような音。
 これがあの、自分の生を必死に生きる、輝かしい兄の姿なのか。
「椎名・・・・・・っ?」
 愕然としたような瓜生の声に、三神が一瞬拳の動きを止めて、ゆっくり視線を流した。その前で、華奢な姿がふらっと崩れた。手を差し伸べるのも、間に合わなかった。壁に背を預けるように雪の上にへたり込む。隙間風のような弱々しい音の呼吸が、浅く苦しげに繰り返される。それが、何だか徐々に近づいて大きくなってくる騒音に、掻き消されそうになる。
「とお・・・」
 騒音に負けないように、必死に震える声で、名を呼ぼうとした。けれどそのうつろなままの瞳は、暴力を一方的に振るっていた側に向けられた。
「・・・み、か・・・み・・・・・・・・・・・・やめ・・・ろ・・・・・・」
 慈恩は思わず息を飲む。聞き間違いではなかった。やはり声と言えるほどの音に、なっていない。瓜生の襟首をつかんで、三神は締め付けながら薄く笑った。
「斗音さん、少しお待ちください。この害虫二匹、すぐ退治しますから。そんな格好でこの寒い中におられては、お身体に障ります」
「ぁ・・・ぐ・・・っ・・・!」
 瓜生の喉がこもった音を立てる。斗音の表情に、微かに悲しげなものがよぎった。
「・・・三・・・神・・・・・・離・・・し、て・・・・・・く、れ・・・ない・・・・・・なら・・・・・・」
 小刻みに震える、悲しいほど白く細い手。それが握っているのは、黒くて短い棒のようなもの。カチ、カチと小さな音がして銀色の薄い刃が顔を出した。
「なっ・・・・・・斗音!」
 長く伸びた刃を、白い手は同じくらい白く、花弁のような痣をいくつも残したほっそりした首に押し当てた。
「・・・・・・俺・・・・・・死ぬ・・・よ・・・・・・?」
 か細い音は、静かにそう告げた。慈恩も瓜生も、驚愕に目を見開く。そして、三神も。
「斗音、さん・・・・・・なぜ・・・・・・」
 それはつらそうに、三神の眉根が寄せられた。切れ長の目が眇められる。
「自分の命より、こいつらが大事ですか?こんな・・・・・・こんな害虫どものことがっ!」
 言うや否や、三神の大きな手は直接瓜生の首に絡みつき、瞬時に締め上げた。瓜生の肢体が大きくよじれる。
「が・・・・・・っ・・・」
 ふぅっ、と、空虚な瞳に涙のベールがかかった。何か細いものを巻きつけているもう一方の手を添えて、斗音は押し当てた刃を渾身の力で内側へ走らせる。ぎょっとした三神が思わず声を上げた。
「斗音さ・・・!」
「よせっ!」
 自分の痛みとか、そんなものは分からなかった。ただ無我夢中で足は地を蹴り、カッターを持った手首を壁に押し付けて、折れそうな痩躯を抱き締めた。
「椎名!」
 ほぼ同時に、斗音の行動にひるんだ三神の脇腹に、瓜生のボディーブローが突き刺さった。慈恩がやられた、まさに肝臓の位置。その衝撃にうずくまる長身を更に蹴り上げて、瓜生も駆け寄った。
「この・・・・・・馬鹿が!」
 激しい怒声と共に、血の付いたカッターナイフを取り上げる。白い首の浅い傷が、赤い血を滲ませている。
 慈恩はがたがた震える己の身体で、雪の中で異常なほどの熱い身体を抱きすくめたまま、動けなかった。その耳元に、小さく、力ない咳が零れる。ひゅ、ひゅ、と浅い呼吸に、擦れた音が混じった。

「・・・・・・ご、めん・・・・・・ね・・・・・・」
 どっと熱いものが目から溢れた。なぜ、謝る。こんな目に、遭わされながら。
 が、次の瞬間、強張った細すぎる身体からひどい咳が立て続けに起こった。ぎりっと奥歯を噛み締めて震える身体を斗音から剥がす。苦痛に歪められた表情、そして雪に飛び散る細かい赤。
「椎名!椎名っ!」
 雪に膝をついて、白い息で必死に呼ぶ瓜生。いつの間にか騒音は消え、その声が明瞭に冷たい宙に響く。
 知らない。こんな斗音の症状を、俺は知らない。
 慈恩を縛り付けたのは、恐怖だった。斗音を失うという、底の見えない恐怖。
「嫌だ・・・こんなの・・・斗音・・・・・・」
 病院へ、早く連れて行かなくちゃ。けれど、どうやって?車は動かない。バイクになんて、乗せられない。どうしたらいい?どうしたら、どうしたらいい!
「触れ・・・るな・・・・・・その人に・・・・・・」
 ゆらりと長い影が差す。とっさに瓜生が身構えた。その目に映るのは、狂気の瞳。瓜生の背筋を、この冷気の中で汗が伝った。
(なんでっ・・・・・・俺の、渾身のリバーブローが・・・)
 瓜生の前で、長い脚が地を踏みしめる。見たことがある、この構えは。ぞくりと寒気が走った。
 次に来るのは鋭い蹴り。それも、この半端ではない狂気から繰り出される・・・
(やべぇ・・・・・・っ!)
 決死の覚悟でガードを固める。それでも吹っ飛ばされるかもしれない。吹っ飛ばされれば、二人を巻き添えにする。でも、避ければその一撃が二人を襲う。
 ぐっと両脚で地を踏みしめた。ぎゅっと目を閉じる。頼む、耐えてくれ!
 パスッ パスッ
 その音は、表現するなら圧縮された空気が鋭く解放されたようなものだった。あまり聞き覚えのない音。少なくともあの痛烈な蹴りが当たった音でもないし、何より、瓜生のガードした腕には、何の衝撃も来なかった。続いて、濁った悲鳴と重いものが地に倒れる音。
 瓜生はおそるおそる目を開けてガードを下げた。
「ああああああああっ!」
 雪を掻き乱しながらのたうちまわる長身。それが抱える右肩と、そして右足からはおびただしい量の赤い色が振りまかれている。
「殺しても構わんが、下手に素性の分かる奴は厄介だからな」
 瓜生は思わず、渋みのある低い声を振り返った。大きな黒い車の前で、黒の革のロングコートが冷たい風に翻っている。黒の凛とした眉目、そして黒い髪が印象的な美丈夫。黒革の手袋をはめた手に握られているのは、黒い、拳銃。筒の先が妙に長くなっている。テレビドラマでしか見たことのないそれに、瓜生は瞠目する。
「・・・・・・斯波・・・・・・さん・・・・・・」
 震える声を絞り出したのは、慈恩だった。それに対して、美丈夫は軽くシニカルな笑みを見せた。
「ようやく俺が、そういう世界の人間だって思い知ったか?」
 その笑みをすぐに消して、斯波は慣れた手つきで銃をコートの内側へしまいこむ。

「おい、巽。その変態、死んでも厄介だから、処置しとけ。坂本、運んでやれ」
 
同じような黒い服装の男たちが、やはり黒のベンツから重々しいドアの音をさせて降りてくる。斯波はつかつかと慈恩たちに歩み寄った。そして、コートが雪に濡れるのも構わず片膝をついた。
「意識がないのか。思った以上にひどいな。ちょっとお前、こいつの身体を支えてろ」
 言いながら、後方の部下たちに視線を流す。
「巽、変態の処置が済んだら、ボクサー少年の方も診てやれ。あちこち殴られてる」
「はっ」
「お前も、斗音のあとに診てやる。肋骨折れてんだろ」
「え、あ・・・・・・はい」
 自信に満ちた漆黒の瞳が、恐怖に支配された漆黒の瞳を捉えて、笑んだ。
「兄貴は必ず助けてやる。心配すんな」
 どうやって、と思うより先に、安心感が心の底から溢れてくる。この人なら、大丈夫だ、と慈恩は思った。同時にはたはたと落ちた涙が雪をそこだけ溶かした。
「・・・・・・お願い・・・・・・します・・・・・・」
 ふっ、と安土は優しい笑みを浮かべた。その、瞬間。まるで獣のような咆哮が闇を裂いた。
「何しやがる、このっ!」
 怒号に続く悲鳴。坂本と呼ばれた男が雪の上を転がっていた。瓜生と慈恩がはっと身構える。安土がチッと舌打ちして懐に素早く手を差し込む。
「タフな野郎め」
 駆け寄ってきた二人がたちまち蹴りや突きでなぎ倒される。初めて安土の眉根が寄せられた。
「あいつ・・・・・・有段者。あいつらにはちょっと重荷か」
 すい、と慈恩の目の前で銃が構えられた。思わず制止の言葉を掛けようとしたとき。
「若、いけません!あれでもかなりの重症、これ以上撃てば命に関わります!」
 巽と呼ばれていた部下が間合いを詰められないように後退しながら叫ぶ。ふん、と安土は鼻で笑った。
「なら殺す」
「斯波さん、それは!」
「おい」
 瓜生の手が銃口を遮る。安土はそのあまりに無謀な仕草に一瞬ぽかんと目を瞬かせた。
「・・・・・・お前、やるな」
「あんたが撃たないと勝手に信じてるからな。それより、あれ、見ろよ」
 その口調からすると、どうやら慈恩に言っているらしい。視線を促されて、慈恩は門の陰をじっと見た。そして声を上げそうになった。
 二箇所にも銃弾を受けているため、洗練された技、とはいかないが、暴れるというにはあまりにハイレベルな三神の攻撃。その前に木刀を構えて立っているのは、近衛だった。長い脚だが剣との間合いではやや不利。いや、三神の技のレベルを持ってすれば、同等かもしれないが。
「どうやって・・・ここまで・・・・・・」
「手負いの獣相手に、あいつもなかなか度胸が座ってるな」
 感心したように言いながら、安土は拳銃を懐にしまって、代わりに薄くて細長いケースを取り出した。そのケースもやはり黒。やたら黒が多すぎる気はするけれど、それがよく似合っている。手際よくそれを開くと、あらゆる太さ、長さの針が入っていた。長くて細いその一本を取り出し、慈恩の抱きかかえる斗音の顎を軽くのけぞらせるようにして、その喉に驚くほど迷いなく針を突き立てた。それをニ・三箇所繰り返してから、今度は華奢な身体を慈恩の方にもたれさせ、うなじの何点かにも同様に針を刺す。
「これで、少しは呼吸が楽になるはずだ。まあ、ここまでひどくなってりゃ、これごときでどうなるわけでもないだろうがな」
 その間に、近衛は打つぞと見せかけて踏み込んで見せたり引いたりして、何気に三神を翻弄している。さすがに三神はそれが腹立たしいらしく、かなり憤っている。ともすれば、近衛の喉笛に飛び掛りそうだ。
「このクソガキっ!」
 罵声と共に三神は怪我人とは思えない素早さで、近衛の間合いを破った。近衛が飛び退ると同時に反対の門柱からすいっと歩み寄ったもう一人の若者。
「あ・・・・・・」
 高校生としては、日本一の剣道の使い手だった。三神はその背後に全く気づかない。近衛の挑発に乗ってしまっている上、隼は完全に気配を消していた。
 もう一歩踏み込んで、近衛の足を払おうとした三神は、いきなり動きを奪われて、驚きを顕わにした。
「たいがいにしなあかんて。あんた、そんな怪我して動かはったら、死んでしまうよって」
 羽交い絞めにした隼が、暴れる三神を、のんきな関西弁で諭す。あの怪力をものともしない隼に、改めて慈恩は感服した。やはり鍛えているのだと実感する。
「ちょお、そこに転がってる人。俺、結構これ押さえてんの大変なんやで。分かったら、はよ加勢してや」
「あれも大したもんだな。あのでかい図体をやすやすと抑えてやがる」
 くく、と安土は笑った。笑いながらも今度は斗音のはだけたパジャマを更に広げ、窪むほどに痩せたそのみぞおちの辺りや下腹部の辺りを針で突く。不安そうに見る慈恩に軽く唇を吊り上げる。
「中脘(ちゅうかん)と気海だ。一応疲労回復の経絡だが。かなり衰えているからな。あいつに渡すまでに、少しでも回復しているにこしたことはない」
「あいつ・・・・・・?」
「ああ、そうだ。さてと、とりあえずあの変態も大人しくなったことだし」
 羽交い絞めになったところを、ヤクザが三人で寄ってたかって、ボコボコにしていた。
「いや、ちょっとやりすぎちゃう?俺、そんなふうに加勢してくれなんて、ゆうてへんけど」

「怪我してんですから、もう少し丁寧に扱った方が・・・・・・」
 近衛と隼が逆に気遣うほどに。やれやれ、と安土は吐息した。
「おい、坂本、勅使河原、永澤。殺さんようにわざわざ撃たずにおいてやったものを、お前らが殺す気か。それだけやっておけば懲りるだろう。おい、巽。さっきてめえ俺のことなんて呼んだ?あとでお前をぶっ殺す。さっさとそいつ終わらせろ」
「え、あっ・・・はい、申し訳ありませんでしたっ」
 さすがにぐったりした三神を、車内に運び込む。木刀をヤクザの一人に丁重に返した近衛と隼が駆け寄ってきた。近衛が思わず足を止める。
「あ、えっと・・・・・・慈恩を連れて行ってくれた人・・・?」
「・・・うん。先輩、だ」
 慈恩はそっと視線を横へずらす。針を片付けている安土の脇に膝をついて、ぐったりと自分に抱かれている斗音を、目を眇めて見つめる瓜生。つらそうだった。彼が少なからず斗音を大事に思ってくれているのを感じた。
「この人が・・・・・・お前の、兄さん?」
 以前ほど、その言葉はつらくなかった。静かにうなずく。そうだ、兄だ。かけがえのない、たった一人の家族。それは躊躇う余地もないほど、自分の中では絶対的な真実。そのくすんだアッシュの髪をそっと撫でる。こんなに痩せ衰えて・・・・・・痣だらけの身体で。その姿を見ているだけで込み上げる涙が視界を潤ませる。
「・・・・・・綺麗な、人だな。一瞬女の子かと、思った」
 色白の細い手足。それに首。柔らかそうな薄い色の髪。とても華奢・・・というより、ひどく痩せている。その身体中についた痣は、何かしらの暴力を受けたに違いないと確信できた。
「・・・・・・つらい目に、遭うたんやな。・・・・・・可哀想に。俺、もっとはように押しかけたらよかった」
 悲しそうに大人びた顔を曇らせて、隼がつぶやく。慈恩の脇に膝をついて、その髪にそっと触れる。
 その中で積極的に動いているのは、安土だった。巽という若手の部下に黒いかばんを持ってこさせ、そこから色々な粉を取り出して混ぜている。それを少しの水で溶いて練る。
「さてと、これが飲めるといいが」
 意識のない口腔を軽く開いてミニライトを灯し、のぞき込む。やや眉が寄せられた。
「飲んだ瞬間、発作だな、これは」
 さて、どうしたものかと首をひねってから、それを薄く伸ばすようにして口腔の奥に塗った。
「まあ、嫌でも少しずつ入っていくだろう。あと、この首の傷はこれでいい」
 別の塗り薬を塗ってガーゼを当て、サージカルテープで止める。そして、一息。
「さて、勇敢な近衛の御子息。お前ここまでどうやって来た?」
 驚いたのは近衛の御子息だった。自分はこの美丈夫を知らない。
「え、ええと・・・・・・、すみません、僕、あなたをちょっと存じ上げないんですけれど・・・・・・」
 安土は肩をすくめた。
「知らない方がいいと思うがなあ。俺はちょっと仕事の都合上でお前の親父さんを知ってるだけだ。まあそこはいいとして、さっきこの近くで、この雪で、なぜかヘリの音を聞いた。お前くらいの金持ちになれば、ヘリ持ってんだろ?今日はひどい渋滞だった。俺はここまで来るのにいつもの五倍の時間が掛かった。・・・・・・バイクは一台しかない。ならお前らは、ヘリでこの近くのヘリポートにでも来たんじゃないかと思ったわけだ」
 近衛と隼が思わず顔を見合わせた。
「その・・・・・・通り、ですが」
「じゃあ、悪いがヘリでこの二人を運んでくれ。兄貴は見ての通りだし、弟の方も肋骨イってる。病院は滝総合医療院。医者はもう待機しているはずだ。できるか?」
 慈恩の肋骨が折れていることに驚きを隠せなかったが、それでも近衛は大きくうなずいた。
「もちろんです。やらせてください」

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