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五十二.目覚め

 深夜三時ごろまで降り続いた雪は、十二月にしては近年に珍しく、東京で十センチ以上の積雪を記録した。翌日のテレビでは、こぞってこの雪によって起こった公共交通機関の異常や事故のニュースを取り上げた。それがいかに都会を混乱に陥らせたのかを語っていた。
 キラキラと光る雪は、太陽が照っているにも関わらず、昼になってもとけなかった。低温注意報が出るほど冷たい空気の中、都会では珍しいダイヤモンドダストが風にきらめいている。
「この辺の雪って、綺麗だね。なんか、街中は踏み荒らされて車の排気ガスで煤がついちゃうけど、こういうところに来ると、雪も氷も天然の芸術みたい。ダイヤモンドダストなんて、生まれて初めてだけど、この景色ならすごく似合う」
 珍しく風流なことを言いながら、ふうっ、と白い息を吐き出す瞬の腕には、可愛らしくラッピングされた大きな紙袋が抱えられている。ファーが縁取るフードをつけたジャケット姿の瞬に比べると、やや長めのハーフコートの襟を立てて、そのスタイルのよさを無意識に際立たせている翔一郎が、手にした携帯の地図を確認する。
「ほんのちょっと郊外に出ただけで、こんなに変わるもんか?あ、見えてきた。あれだ」
 翔一郎が指をさす。都会を一歩出たところ、急に自然が二人を囲んだ。実はその森林が始まったところから、既に二人が目的地としている病院の敷地内だったのだが、せいぜい公園の一部かと思う程度の低い柵がある程度だったので、分かるはずもない。
「ねえ、翔。今日、嵐が学校に来なかったのって、仕事で?」
「いや、そんなことは言ってなかったけど。ただ、病院で待ってるって携帯に地図送ってきたんだ」
「もしかして、斗音が病院に運ばれたことと関係あるのかな」
「あるんじゃないか?だって、病院の名前が滝総合医療院、だろ?」
 意味ありげに言う翔一郎に、瞬が、あ、と声を上げる。
「そういえば、前に斗音が言ってたっけ。滝って人、お医者さんだって」
「ああ。もしかしたら、嵐の・・・・・・ええと、彼氏?の家って、病院なのかな」
「そういう言い方はどうかと思うよ」
「だって、なんて言っていいか分かんないだろ?」
 瞬の大きくて可愛らしい瞳が、うろん気に翔一郎を一瞥する。
「恋人でいいじゃん」
 翔一郎は少し口を尖らせた。それも考えたけど、ちょっと言いにくかったのだ、と反論するのもかっこ悪い気がしたし、反論したって言い伏せられるのは目に見えている。仕方なく諦めて溜息をつく。
「でも、その滝って人、暴走族の頭やってるって言ってなかったか?」
「聞いたことあるけど・・・・・・あの嵐が惚れ込む人だからね。普通の暴走族じゃないでしょ」
「・・・・・・かもなあ」

 そんなどうでもいい話でもしていなければ、二人は不安でならなかった。
 
今朝早くに嵐から翔一郎に連絡があって、斗音が昨夜病院に運ばれて緊急手術をしたので、見舞いは直接病院の方にしよう、と言われた。手術って?入院って?と、翔一郎は訊けなかった。昨日嵐が妙に渋っていたこと、今朝になって事態が急変していること。何も分からない。ただ、きっと大変なことになっていたのだということだけが分かって、そのことを知らなかった自分に悔しさを覚えた瞬間、知らされなかったのだということに気付いたからだった。嵐の考えることだ。そこに意図が働かないはずがない。そう、翔一郎は捉え、その推察は見事に的中していた。そして、その関係ができているからこそ、嵐は連絡の相手に翔一郎を選んだのだが。
 
ようやく病院について、翔一郎と瞬は受付で斗音の病室を聞こうとした。その瞬間、二人の肩が後ろから軽くたたかれた。素晴らしい反射神経で翔一郎が、それに続いて瞬が振り返る。
「待ってた。案内するよ」

 嵐の美貌が小さく笑みを湛えていた。

「慈恩!」
 案内された病室で、ベッドの上に身体を起こしていた人物を見るなり、瞬はラッピングした紙袋を翔一郎に押し付けて、ベッドの人物に抱きついた。その瞬間顔をしかめた慈恩だったが、すぐに優しく微笑んだ。柔らかい不思議な色の混じる髪を、よしよしと撫でる。
「何でここにいるの?慈恩も、入院してるの?」
 うるる、と涙目になる瞬を、嵐がたしなめる。
「慈恩は肋骨折れてんだから、あんまり過激なことしてやるなよ」
 瞬は大きな目をさらに大きく見開き、翔一郎も瞠目する。
「そうなの?ごめん、慈恩!痛かった?」 
 じわっと涙を膨れ上がらせる瞬に、慈恩は笑んだまま首を振る。そして、また優しく頭を撫でた。
「大丈夫だ。びっくりさせてごめん」
 その大人びた優しさに、瞬はこくりとうなずき、目をこすりながら嵐を睨む。
「言ってくんなきゃ分かんないよ」
 嵐は思わず苦笑する。
「て、なんも言う暇なかったと思ったけど」
 翔一郎がうんうん、とうなずく。
「しかも人に荷物押し付けて、自分だけ」
「だって・・・・・・久しぶりで嬉しくて懐かしくて、どうしようもなかったんだ。それに」
 ちょっと肩を落としてそこまでつぶやき、翔一郎にチラッと視線を走らせる。
「翔は飛びつくようなキャラじゃないじゃん」
 翔一郎はやや呆れたように肩をすくめた。
「え、なに?お前、あの瞬間そこまで計算してたわけ?」
「してないよっ!結果論だから、それでも別にいいじゃんかってことだよ!」
 食って掛かる瞬は、それでも可愛らしいので、慈恩はなんだか主人に甘えてわがままな吠え方をするポメラニアンでも見ている気分になった。
 やれやれ、と翔一郎は押し付けられた荷物を見て溜息をつく。
「こんな可愛らしい飾り付けができる繊細さがあるのに、何でそれが人に向かないかなぁ」
「飾りつけって何!それはラッピングって言うんだよ!」
「いいだろ別に、通じれば。反射的に出てこなかったんだよ」
「あ、そう。さっきもそうだったけど、翔一郎、語彙が貧弱なんじゃないの?」
「ああ、どうせ俺は理系だよ」
「そんな言い方したら、理系の人に失礼だよ。翔の個人的問題なのに」
「俺の語彙は問題になるほど貧弱じゃない!」
 たまらず慈恩は吹き出す。横隔膜が揺れてたちまちしかめっ面になったが。嵐は軽く溜息をついた。
「お前ら、漫才は場をわきまえてやれよ」
「「漫才じゃないっ!」」
 二人の非難を浴びながら、痛みに身体を抱きしめるようにしながらも込み上げる笑いを抑えきれない慈恩に、笑みをこぼす。
「ま、いいか」
 二人に椅子を勧めて、嵐は個室の冷蔵庫から小さな紙パックのジュースを取り出す。椅子の二人に放り投げ、慈恩に手渡しながら、自分の分にストローを挿した。
「とりあえず事情を説明するよ」

 その一言で、慈恩の笑いが消え、表情が翳る。二人は顔を見合わせて、小さく息を飲んだ。

 集中治療室はガラス張りになっていて、その外から中の様子がうかがえた。そのベッドに横たわる姿を目にした翔一郎と瞬は、声が出せなかった。慈恩はつらそうに目を細める。
「ごめんな。見舞いにこいなんて言いながら、実際会うこともできなくて」
 申し訳なさそうな嵐の声にも、翔一郎は何も返せなかった。斗音のためのプレゼントをぎゅ、と抱き締めた瞬が、小さくつぶやく。
「・・・・・・いつ、ここから出てこられる?」
 やや躊躇って、嵐は答えた。
「・・・滝さんは、ある程度熱が安定すれば・・・って言ってた」
「それ・・・・・・いつ?」
 縋るような瞳で、瞬が重ねる。嵐は困惑の表情を浮かべた。数瞬、沈黙が流れる。
「二日後までには、必ず」
 美しい旋律を思わせる声が、そこに静かに響いた。少年たちが振り返った先には、翔一郎を上回る背丈の白衣姿があった。見る者の心を惹き付けずにおかないその並外れた美貌が、ふわりと微笑む。
「・・・・・・ほんとに?」
 瞬の声が震えた。拓海は美しい瞳に強い意志を浮かべてうなずく。
「主治医として、約束する」
 ぽろぽろ、と瞬の大きな瞳から涙の粒が零れた。

「・・・・・・だったら、これ、慈恩に預けるから」
 
抱えていた紙袋を慈恩にそっと押し付ける。慈恩がわずかに不思議そうな色合いを浮かべてそれを抱える。
「斗音が目を覚ましたら、渡して。俺たちからの、クリスマスプレゼントだって」
 潤む瞳のままにっこり微笑んだ。
「二日後に、今度は慈恩の分もクリスマスプレゼント、ちゃんと持ってくる」
 ね?と翔一郎に同意を求める。翔一郎は軽くうなずいた。そして、ポケットから封筒に入った手紙のようなものを取り出し、それも慈恩に差し出す。
「これ、生徒会長の今井さんから預かった。お前と、斗音にって。・・・・・・次はお前も斗音も・・・・・・思い切り笑わせてやるからな」
 爽やかな笑みに、慈恩は小さくうなずいてそっと笑んだ。

「・・・・・・ありがとう」

   ***

 翔一郎たちが斗音を見舞うために病院に訪れる、半日ほど前の時間帯。
「そんな、あまり知らない、しかも主人もいない家で雑魚寝なんて、とんでもございません!」
と猛反対する運転手に、鳳は上品な笑みを浮かべた。
「こんな場面に居合わせて、帰ろうって気になれると思う?大体、もう夜中の一時半だよ?道だって凍ってるし、これだけ人が来ちゃったのに、どうやって乗せて帰る気?」
 斗音の手術が無事に終わった、と連絡があったのはよかったが、それまで気が気ではなく、結局隼、近衛のみならず、鳳も和田も、加えて今井や氷室まで、その時間まで椎名家に居座ってしまった。それに運転手を加えれば七人。これがまた運転手を除けば、一番小柄な和田でも170㎝、あとは全部それ以上で、一番大きな氷室に至っては186㎝という長身である。いくら余裕のある高級車とはいえ、それがセダンである限り、四人しか乗れない。詰めて乗ったとしても五人が限界だった。
「如月の生徒さんは、お近くでしょう。タクシーでもお呼びになれば・・・」
「未だに交通渋滞はあちこちで続いてるらしいけどね」
「しかし、真聡(まさと)さま・・・・・・」
 懇願するような運転手に、鳳は優しいながらも毅然とした瞳を見せた。
「僕は意見を変える気はないよ。阿部、お前も車で寝るわけにも行かないから、中に入れてもらおう」
「な、なんと・・・わたくしまで、でございますか?とんでもございません!近衛さまや真聡さまと同じ場所でなど、恐れおおうございます。・・・・・・近くのビジネスホテルにでも、宿を求めさせて頂きます。よろしければ、真聡さまと近衛さまだけでも、どこかちゃんとしたホテルをお探しいたしましょうか?」
 諦めの悪い使用人に、ふう、と一息。

「いいよ。この時間でそれが探せるのなら、自分のことについては好きにして。だけど、僕と近衛の件に関しては、構わないでおいてもらおう。それから」
 
その眼が厳しさを帯びる。
「ここでは僕も近衛もただの高校生だ。僕たちだけを妙に特別扱いすることは、出過ぎたことだと覚えておいて欲しい」
 それだけ言って踵を返した。運転手はしどろもどろになる。
「しかし、真聡さま・・・・・・夕子さまが・・・奥様が何と言われるか・・・・・・」
「もういい。ただし、朝六時には迎えに来て。学校を休むわけにもいかないからね」

 振り返りもせず、それでもあくまで声を荒げることもなく、鳳は淡々と告げた。

 そもそも、これだけの高校生が深夜に集まって、じっとしていられるはずがない。この家に来たことのある者はいなかったが、なぜか一番遠いところにいるはずの隼が一番動いていた。適当に和室の押入れやクローゼットをあさって毛布や布団を引っ張り出してくる。
「なあ、勝手に出していいのか?」
 躊躇い気味の和田に、あっけらかんと答える。
「何ゆうとん。慈恩、適当に泊まったらええゆうたやん。適当ゆうんは、こうゆうことや。俺、もう冬休みに入っとるさかい、しばらく留守番するし、つこた布団とか、ちゃあんと干しとくよって。ほんでちゃんと戻しといたらええねん」
 さすが道場の息子である。時折行われる道場での合宿などで鍛えられているのだ。今井がその姿に感心する。
「なるほどね。氷室、手伝おうか」
 無言でうなずく氷室は、何やら考え事をしているらしく、先ほどからかなり無口だ。年上の人間ばかりで遠慮しているともとれるが、この無遠慮な後輩がそれだけの理由で黙っているとも思えない。
 二人で居間を出た途端、氷室が口を開いた。
「会長。さっきの話ですけど」
「さっき?」
 この後輩が指す話が即座には思いつかず、今井は首をひねる。氷室は続けた。
「副会長の弟さん・・・・・・慈恩先輩のことですけど・・・・・・これがきっかけで如月に戻るってことは、あるでしょうか」
 一瞬戸惑って、やはり首をひねる。
「うーん・・・・・・どうかな。俺にはちょっと分からないけど・・・・・・どうして?それが気になってるのか?」
 こくりとうなずいて、氷室は今井を見る。
「例えば、椎名副会長が選挙に出られなかったとしたときに、彼の方が会長に出ることは考えられますか?」
 思わず今井は息を飲んだ。自分が無意識に考えないようにしていたことを突いてきた後輩の視線を受け止める。斗音が出られない可能性。それは、考えないわけにはいかないことかもしれない。
(やっぱりこいつ、冷静だ)
「どうして、それを訊く?」
「・・・・・・考えたくはないけど、副会長、間に合わないかもしれないでしょう。俺としては、藤堂先輩の下でやるという選択肢も、なくはないんですけど・・・・・・」
 わずかに躊躇いを見せてから、思い切ったように言葉を紡ぎだす。
「俺、慈恩先輩・・・・・・話したりしたことはなかったけど、執行委員をやっていた時のあの人の印象は、冷静でとても思慮深く見えた。剣道部の奴らなんて、盲目的に尊敬してましたしね。あの人がいるとしたら、あの人が会長という線もあるかと思ったんです。・・・・・・実際俺も、こう言っちゃなんだけど、藤堂先輩より興味あります」

 それはそうだろう、と今井も思った。どちらに魅力があるか、と問われれば、藤堂より慈恩だ。慈恩は大人びていて、落ち着いていて、頼りたくなるような雰囲気を持っている。それでいて、頼れる器でもある。藤堂は情が分かり、明るくて活気があり、みんなを動かす力はあるだろうが、自身が魅力的というより、載せ上手という感じなのだ。それはそれで、リーダーとして欠かせない要素なのだが、比べる相手が悪い。
 
けれど。
「俺の見解を言わせてもらうなら、斗音の出ない会長選挙に、慈恩が出ることはないな。まず、あいつが如月に戻ってこられるかどうかということも大きな問題なんだけど・・・・・・戻ってこられることを大前提にしたとしても、それは九十九パーセントないと思う」
「どうしてそう言い切れるんです?」
 詰問するような口調に、苦笑する。
「近衛が言ってたろ。もしあいつが桜花を離れるとしたら、それは斗音のためだ。会長なんて大変な仕事を引き受けたら、斗音にかまけていられなくなる。それに、そういう役割上で、あいつが斗音の上に立つことも望まないだろう。もともとそういう役割につくことを好む奴じゃない。執行部に入ったのだって、俺が斗音を副会長に誘って、斗音が自分を補佐して欲しいと頼み込んだからだ」
「・・・・・・そう、ですか」
 がっかりしたような氷室の乾いた髪を、今井は手を伸ばしてくしゃっと撫でた。驚いた氷室に笑って見せる。
「慈恩が如月で会長になる可能性よりは、斗音が会長選挙に間に合う可能性のほうがまだ高い。今は斗音を見守ってやろう。それにな、藤堂が会長でも悪くないと思うぞ。お前が補佐についてくれるなら、尚更だ」
「・・・・・・会長・・・・・・」
 氷室の大きな手が、固く握り締められていた。もう一度その髪を掻き回すようにしてから、今井は思いついたようにその手で鍛えられた肩をつかんだ。

「そうだ、斗音のクリスマスカード・・・あれに、慈恩へのメッセージも入れていいか?伝えたいことがある。よければお前の気持ちも、書いてやれ。病院へ届けるにしても、慈恩はいるはずだし・・・・・・な」

 それと同じ頃、全く動けないお坊ちゃま軍団を残してせかせかと働く隼が、書斎の扉を開いていた。開いた瞬間ぎゅうっと眉根を寄せる。
「何や、これ」
 煙草の匂いが染み付いた部屋。あの怪力男の部屋だろうか。使用人だったらしいが、喘息の斗音の世話をするのに、これほどのヘビースモーカーが適しているとは、到底思えない。ついでに言えば、隼は煙草が大の苦手だった。道場ではもちろん、剣を志す者に煙草などあってはならないという姿勢でいる。自分もそう思う。

 ここにはベッドもあったが、最近使われたような形跡がない。毛布などを拝借することはできそうだったが、隼としてはその臭いの染み付いたものを使う気には、到底なれなかった。

 翌早朝、高校生たちは帰路についた。その際近衛は、隼にぽんぽん、と肩をたたかれた。
「あんさんに頼みがあるんや。俺な、昨夜急いでこっち来てもうたさかい、携帯以外の荷物全部置いてきてしもたし、実は財布もあれへんねん。せやから、あんさんは一回家帰って学校行って、そんで俺のこと迎えに来てくれへんやろか」
 にこ、と笑う無邪気な顔を、近衛は訝しげに見た。
「本当にここに残るのか?鍵は預かってるんだから、それで戸締りして家に来ればいいだろう。食事なんかの世話が、ここだとできない」
 その訝しげな表情を、隼はきょとんと見た。
「せやかて、折角今日は雪もやんで天気もええし、昨日つこた布団干さんとかんし、掃除なんかもしたほうがええやろ。干すにも、竿もベランダも雪はろたりせなあかんさかい、忙しいで。飯くらいここにあるもんで何とでもなるよって」
 確かに、夕食も食べずに来た今井や氷室に、キッチンを借りて、クリスマスには不似合いだったが、上手に卵とじうどんなんかを作って出していた。しかし、自分が呼んでおいて、食事も自分で作らせるというのが、近衛には躊躇われる。遠回しにそれを言うと、隼にカラカラと笑われた。
「やっぱあんたいい家の子やなあ。こんな状況になって、そんなことだあれも思わへんよ。あ、せや。俺斗音が気ぃつくまでこっちにおりたいねんけど、あんたの家に泊めてもろてかまへんやろか?」
「もちろん、それは構わないけど・・・」
 にぱ、と、なんだか久しぶりの隼スマイルが咲いた。
「おおきに!したら、今晩、一緒に稽古してな」

(・・・・・・へっ?)

   ***

 斗音の意識が表層に浮上してきたのは、瞬たちが見舞いに来た翌日の深夜。手術後丁度四十八時間が過ぎた頃だった。その時には薬の効果もあり、熱も三十八度を切るようになってきていて、個室だったが一般病棟の方に移されていた。思った以上に早く移れたのは、どうやら安土の針が功を奏したからだったらしい。自力での呼吸も安定し始めて、呼吸器もいつでもできるように準備してはあるものの、とりあえず外された。
「・・・・・・目が、覚める」
 つぶやくように言った拓海の声に、慈恩の心臓は緊張の鎖に縛られた。思わずほっそりとした手を十字架のペンダントと一緒に包み込む。斗音、と心の中で呼んだ瞬間、静かに震えながら、長い睫毛がゆっくり持ち上げられた。
「・・・・・・斗音!」
 慈恩の声も震えた。拓海がその肩をそっと抑える。
「興奮させるなよ。・・・・・・声帯のポリープを除去するよりずっとひどい炎症があるんだ。最低でも二週間は声を出させたくない」
 目を細めてうなずく慈恩の前で、斗音が不思議そうに自らの網膜が映し出した視界をぼんやり眺めた。その視点が、浮遊するような危うさで拓海へ、そして手を握っている慈恩へと漂っていく。その唇が動こうとするのを、拓海が美しい長い指でそっと触れて制止した。
「声を出すなよ。お前の気管と声帯は・・・・・・ひどく痛んでいる。分かるか?」
 落ち着いた優しい声に、頼りない視線をその指の主に向けて、斗音はぼんやりとうなずいた。拓海がすんなりと指をひいた。再び斗音の浅く開かれた瞳が、慈恩を捉える。唇だけが、慈恩、とつぶやく。慈恩はそっとうなずいた。その前で、斗音の瞳が気だるそうに揺れた。まだ起きていられるほど体力は戻っていない。

「・・・・・・おやすみ。もう誰もお前の眠りを妨げたりしない」
 
低い優しい声に、それでも斗音の瞳に翳がよぎる。

「・・・大丈夫。次に目が覚めたときも、俺はここにいる」
 
斗音は儚げに、ほんのり笑みを載せた。そのまま重い瞼を閉じる。すとん、と意識を失った斗音に、拓海はほっと溜息をついた。
「よかった。予想以上にしっかり回復している。それに今の言葉で、斗音は心底安心して休めるだろう」
「そう・・・・・・ですか・・・・・・よかった・・・・・・」
 斗音の手術が終わって気を失ってから、こちらは一度も眠っていなかった慈恩の身体が、ゆらりとかしぐ。さりげなくそれを支えた拓海がほのかに微笑する。
「お前も休め。ずっと起きていられる精神力も大したものだが、少なくとも身体は負担に感じているはずだ」
「あ・・・いえ、でも、斗音と約束したので」
 美しい笑みをまともに眼前にして、慈恩は少しはにかんだように笑う。
「そうか」
 慈恩の無茶な意見を否定することなく、美しい医師は小さくうなずいた。
「それなら、少しでも休めるものをこの部屋に運ばせよう。そこで休むといい」

 流麗な動作で立ち去る拓海を見送ってから、慈恩は椅子に座ったままそっと包み込んだ斗音の手に額を寄せた。

 次の目覚めは早朝に訪れた。優しい朝の光が瞼の裏に映って、自然に目が開いた。少しだけ瞼が重かったけれど、それは眠気からくるのではなくて、身体のだるさゆえのもの、という気がした。
(・・・・・・やっぱり・・・・・・・・・・・・俺、生きてる・・・・・・)
 夢の中で慈恩が優しく言ってくれた。次に目が覚めたときも、傍にいると。あのときは夢だと思っていたのだが。左手が温かくて、それがどうしてなのか何も見なくても分かっていた。自分の手を包んでくれている手に、そっと指を添える。
(・・・・・・ありがとう・・・・・・慈恩・・・)
 ひたすら隠そうとした。心配させたくなくて、会わずに、避けて避けて、遠ざけて。情けない自分の姿を見せたくない、なんてちっぽけな自尊心がこんなふうにねじれた現実を招いてしまった。慈恩を心配させたくない、なんていうのは口実でしかない。そのためにひどく傷つけて突き放したのだから。それなのに、こうして偽りなく傍にいてくれる存在が嬉しい。心に染みる。
 たくさんの人たちを傷つけた。大事な人たちばかりを。自分の精神をまともに保つためだけに、何て馬鹿なことをしたんだろう。いや、その方法自体、自分の精神をもすり減らしていったのだ。今なら分かる。それがいかに愚かしい選択だったのか。それが分からないほど精神的に追い詰められていた。そう言えば、少しは聞こえがいいだろうか。そう繕おうとする自分が、また苦しいほど情けない。
「・・・・・・一番苦しかったのはお前だよ。他の誰でもない」
 耳元で優しい低音が響く。そっと視線を向けると、少しだけ顔色の悪い慈恩が、優しい漆黒の瞳を既にこちらに向けていた。自分の手を包んでいた一つが離れて、斗音の頬をすっと指でなぞった。
「今はゆっくり休んで欲しい。誰もがそう願ってる」
 顔色が悪いのは、俺のせい・・・・・・なんだろうね。思わずそう口をついて、言葉がでそうになる。その唇に、濡れた指が押し当てられる。
「駄目だ・・・・・・声は、出しちゃ駄目だ」
(・・・・・・そうだった・・・・・・先生に、夢で・・・・・・)
 こくり、とうなずくと、ほっとしたような笑みが凛々しい顔に開いた。

 唇から離れた指の跡は、涙の味がした。

   ***

 瞬や翔一郎が見舞いに来ると知って、少なからず斗音は動揺した。声も出せない、起き上がれもしない。そんな自分が、どんなにひどい言葉を浴びせても、自分を諦めずにいてくれた彼らに、どんな接し方ができるというのか。微力ながらも震える手で謝罪の言葉を紙に綴ろうとして、何度も失敗して力尽き、ついには枕に頬をうずめて泣き伏してしまった。
「大丈夫だよ。お前に謝ってもらおうなんて、瞬も翔一郎も思ってない。・・・どれだけお前が弱ってたかってことも、知ってるから」
 優しく言った慈恩は、その枕元に大きなものを、ドン、と置いて笑みを載せる。
「ほら、お前にクリスマスプレゼントって、持って来てくれたんだ。カードにも、お前のこと信じてるって。・・・・・・だからお前も、あいつらのこと、信じてやれよ」

 涙に濡れた睫毛をパタパタと瞬かせて、枕元に置かれたものを見遣る。そして、手渡されたラブリーなクリスマスカードにしたためられた文字を目で追ってから、また涙を零した。そっと微笑みながら。

 斗音の病室に来るなり、学習する気があるのかないのか、瞬は涙を浮かべて駆け寄って、斗音をぎゅうっと抱き締めた。
「斗音、斗音、斗音・・・っ・・・・・・!」
 
斗音が、どうしようとか、何をしたらとか、迷う暇なんか与えなかった。そのまま胸に天使のような頬をうずめて、わんわん泣き始め、戸惑う斗音に切なそうに近づいてきた翔一郎が、その柔らかな髪を、思いっきりくしゃくしゃに乱した。
「やっと会えた。やっと会えたな、斗音」
 その翔一郎の涼やかな瞳にもうっすらと涙の幕がかかっていて、その大きな手の平に込められた力は、手加減しようとしてしきれずに、小さく震えているのが分かった。
 ごめんね・・・ごめんね・・・・・・。
 震える唇と零れる涙が、無音のまま斗音の思いを紡ぐ。翔一郎が小さく首を横に振った。
「いいんだ。お前に会えてよかった・・・やっぱり斗音は斗音のままだ。・・・・・・俺たちの知ってる、斗音だ」
 涙の奥の薄茶の瞳が揺れて、更に大粒の涙が零れ落ちる。
「・・・・・・お帰り、斗音」

 優しく微笑んだ翔一郎の頬に、一筋の涙の跡が光っていた。

・・・・・・で、これは何?
 涙涙の再会がひとまず落ち着いて、最後まで泣いていた瞬の涙がようやく乾いた頃、手振りで枕元に置かれた大きなクマのぬいぐるみを指して、まだ少し潤んだままの斗音の薄茶の瞳が問うた。翔一郎が爽やかに笑みを浮かべた。
「あれ?慈恩から聞いてるだろ?クリスマスプレゼントだよ」
 
そうじゃなくて、と、斗音が微かに首を振ると、華やかで愛らしい笑みが、斗音のベッドの脇に置いてあった、かなり柔らかいソファに身体を沈めていた瞬の顔にぱっと浮かぶ。
「ちゃんとリボンに書いてあるでしょ?」
 大きなハニーブラウンのクマさんが首にしている大きなブルーのリボン。そのリボンに、確かに白糸で刺繍が施されている。ローマ字で「Jion」と。
「渡す相手、間違ってないか?俺のぬいぐるみには、Tohn・・・これ、斗音、だろ?」
 慈恩は手の中にくったりと収まっている灰色のネコのぬいぐるみを、首をかしげて見つめる。確かに、ネコちゃんが首にしている、可愛らしいピンクのリボンには、群青の刺繍糸でそう書かれている。
「いいや?確かに、それは慈恩のだし、クマの方は斗音のだ」
 嵐の笑みはいたずらっ子のそれで、言動の大人びている嵐にしては珍しい表情だった。瞬の笑顔はもうはちきれんばかりの嬉しさと喜びに彩られて、輝いている。
「慈恩の方は、斗音にあげたのとセットになるようにしたんだけどね。三人で一生懸命考えたんだ。斗音が一番欲しいものって、何だろう、ってね」
 ぱちんと片目を閉じて見せるのは本当に可愛らしくて、普段見慣れている翔一郎たちでさえ、どうして男に生まれてきてしまったのだろうと、いらぬ悔しさを抱かずにはいられなかった。
「で、つまりこのクマは俺の代わりってことか?それでこのネコが、斗音?」
 やや呆れ気味の慈恩に、翔一郎が苦笑した。
「ほら、似てるだろ?」
「どの辺が?」
「なんかでかくて、しがみつきたくなるだろ?このクマ」
 くすくす、と笑ったのは斗音だった。少し苦しげに肺を抱えたので、嵐が少し伸びたアッシュの柔らかい髪を撫でた。
「ごめんな?大丈夫か?」
 ゆっくり首を振って、斗音は少し涙ぐんだ目で微笑んだ。大丈夫、と。
「斗音、ごめん。でも、そう言い張ってこのクマ選んだの、瞬だからな。ちなみにネコもだけど」
 翔一郎の、いかにも自分たちの趣味ではないのだと言わんばかりの口ぶりに、慈恩が吹き出し、斗音は笑いに備えて肺を抱え込んだ。案の定、瞬の峻烈な反撃が開始される。
「なに、その自分だけ責任逃れしようとする言い草」
「俺は事実を言ったまでだろ。それに、ちゃんと嵐の尊厳にも傷が付かないように、考えて言ったぞ」
「翔一郎だって嵐だって、それでいいって言ったじゃん!責任転嫁、甚だしいよっ!」
「だって、お前それは」
 翔一郎が思わず嵐を見る。嵐も合わせたように翔一郎を見た。
「ああ、だってなぁ」
 言いながら声が笑っている。その嵐の同意に力を得た翔一郎が、くすっと笑う。
「瞬がクマに抱きついて離れないから」
「ネコとじゃれて離さないから」
 二人して肩をすくめる。
「あの場面ではそうせざるを得なかったっていうか」
「だよなあ」
 ぷーっと瞬の天使のような頬が膨らんだ。
「じゃあ言わせてもらうけどっ!翔や嵐にぬいぐるみの可愛さの何たるかが、理解できるのっ!」
「いや、あんまり」
 悪びれずに即答する嵐。翔一郎は一瞬考えて口を開いた。
「ま、これだけ綺麗にラッピングしたり、刺繍したりできる瞬ならではのセンスだからな」
「それ、ラッピングとか刺繍とかは普通の男子高生にはできないって、暗に言ってるわけ?」
 可愛い瞳にきらりと睨まれて、翔一郎は半歩あとずさった。
「ええっ?ちょっと、俺ちゃんと褒めたのに、矛先俺かよ?」
「俺は男らしくないって言ってんの?」
「ひとっことも言ってない!ていうか、何で俺のセリフだけ、そうやってことごとく天邪鬼に捉えるんだ、お前は!」
 折角少々気遣ったはずのセリフを逆手に取られて、翔一郎は息をまく。そんな翔一郎を横目に、瞬は溜息をついた。
「あーあ、ほんと、刺繍もラッピングも大変だったんだけどなー。なんせ俺、男だしー」
「だから、褒めてるじゃないか!」
「ちょっと顔が可愛いからって、偏見だよねー」
「誰も顔のことについては触れてないって」
「男のくせに可愛いって、ほんと損だよねー」
 むしろ堂々と言う瞬に、翔一郎は溜息を返す。
「大丈夫だ、お前は性格の悪さで、その顔の可愛さを全部チャラにしてるから」
「むっ。それ、どういうこと?」
「その通りの意味だけど?」
 素っ気無く返した翔一郎に、瞬は可憐な花びらのような唇を歪めた。
「ひどいっ!ねえ、斗音、慈恩!俺って、悪魔に魂売り渡したかと思うほど、極悪非道な性格してる?」
「って、お前、どんだけ自分のこと可愛いと思ってんだよ!」
「お、ナイスボケとツッコミ」
 横やりを入れた嵐に、二人が食ってかかった。
「「コントじゃないっ!」」
 ベッドの脇で慈恩が自分を抱き締めるようにして、ベッドの上で斗音がやはり胸を抱えるようにうずくまって、音なく笑い転げている。それぞれの身体が訴える痛みより、込み上げるそれに耐えられずに。
「あっ、ごめん、斗音、慈恩!痛かったよね?」
 瞬が焦って二人の腕に手を添えて気遣う。顔をしかめながらも笑いを抑えきれない慈恩が、喉をひくひくさせながら首を横に振った。
「いや、大丈夫だ。ありがとう。このネコ、大事にする」
 片手にくたんとしている柔らかい子ネコのぬいぐるみは、その感覚がくすぐったくて、思わず撫でてやりたくなるような雰囲気がある。確かに、これが斗音、というのなら、似ているだろう。
 斗音も枕もとのクマさんに頬を摺り寄せた。ふさふさした毛が柔らかくて気持ちがいい。それに、存在感がなかなかに頼もしい。思わず笑みがこぼれる。そのクマの頭を、細い手を伸ばしてよしよしと撫でた。
「気に入ってくれた?」
 のぞきこむように言う瞬に、斗音はこくん、とうなずいた。ふわりと笑って、またそのクマに頬を触れる。
「あー、似てる。斗音やっぱり、仔猫みたい。カワイイ~」
 そんな斗音の髪をわしゃわしゃと乱して、瞬がはしゃいだ。嵐と翔一郎は、やや目を細めて微笑む。
 
え?え?
 戸惑ったように、ほんのわずかながら頬を赤らめる斗音の肩を、瞬は優しく抱き締めた。
「俺たちのプレゼント・・・大事にしてね」
 包帯の厚く巻かれた頼りない首が、小さくうなずいた。細い手が力なく、震える瞬の髪を撫でる。そのままきゅ、と瞬の小さな頭を抱き寄せた。
 ありがとう。
 瞬には見えなかったけれど、斗音の唇はそう言葉を刻んだ。

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