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五十一.命の重さ

「なあ、もう九時近いよな。こんな天気のこんな時間に、人の家に行くのは非常識じゃないか?」
 傘の下で、白い息が白く舞い降りる雪に紛れて消えていく。氷室は肩をすくめた。
「ここまで来ておいて、それは今更でしょう。まあ、電車が遅れていたことは仕方ないとして、メッセージ書くのに何書いたらいいか分からないって悩んで、散々時間食ったのは誰でしたっけ?」
 この雪の中でも傘をさそうとしない、自分より背の高い後輩をちらりと見遣って、今井は苦笑した。
「お前、ほんと容赦ないな」
「気遣いが足りないとは、よく言われますね」
 笑みを引いて、今井は雪が舞い降りる虚空に目を遣った。
「・・・・・・今はそれでもいい。けど会長になったら、正論と皮肉だけじゃ、やってけないぞ」
 その言葉に、氷室は軽く瞠目した。反射的に現生徒会長を見つめる。
「・・・・・・それは、あなたの経験から来る個人的感想ですか?それとも」
「お前への教訓だよ。氷室」
 くす、と笑ってその肩を軽くたたく。はっきりした二重でもやや切れ長の印象が強い氷室の目が、さらに大きくなる。
「待って下さい、俺は・・・・・・」
「知ってるよ。推薦があまりに多くて、仕方なく執行部を引き受けた。本当は部活に専念したかったのに」
「・・・・・・会長」
 今井の笑みは包み込むように優しい。そのくせ男らしくて元気付けてくれるような。
「両立はつらいさ。でも、誰かはやらなきゃならない。だったら、それができる人間がやるしかないだろ。俺はお前がその器だと思ってる」
「・・・・・・俺は、そんな・・・・・・」
 躊躇う氷室の、日に灼けてややぱさつく髪に、雪が斑に積もる。結構です、と言われていたが、今井は傘を氷室にもかかるように軽く持ち上げた。
「断り切れなかったんだろ?そういう優しいところもある。責任感もある。考え方だってまともだ。きっとお前は、三年になったときに生徒会長になってる」
 小さい吐息は、溜息だったかもしれない。ふっと笑んで、今井は自身にうなずいた。
「うん。きっとなってる。だから、そのために、来年は副会長をやるといい」
「・・・・・・買い被りすぎです。俺は、あなたほどの見識もないし、椎名副会長ほど誠実でもない」
「人にはそれぞれのよさがある。お前には俺にも斗音にもない、冷静さと客観性がある」
「・・・・・・・・・・・・」
 今井の視線が地面に落ちた。つぶやくような声。
「・・・・・・だから、斗音を支えてやって欲しい」
 さりげなく自分に傘をさしてくれている今井を、氷室はうかがった。
「副会長を・・・・・・会長に?」
「ああ。適任だと思ってる」
「・・・・・・でも・・・・・・」
 一ヶ月近くの欠席。全く来なくなってしまう前から、頻繁に休むようになっていたことを考えると、全校生徒、そして教師にも決していい印象はないだろう。下手をすると、不登校の要援助生徒として捉えられているはずだ。そのことは、今井にも伝わったらしい。
「あいつの場合は病気での欠席だ。できるのにやらず、放り出すのとは訳が違う。もちろん、そんな事情を知らない人間もいる以上、あいつの立場は悪くはなっても決してよくはならない。あいつがまた同じことにならないとも限らない。・・・・・・俺たちが卒業して、すぐに選挙がある。あいつが立候補するかどうかは分からないけど・・・・・・俺は勧めるつもりでいる。たぶん、藤堂も出てくるだろう。秤にかけるわけじゃないけど、どちらが器かと問われるなら、俺は迷わず斗音だと答える」
「・・・・・・そうでしょうね」
 藤堂も優秀だ。リーダー性も問題ない。それはよく分かるが、多少流されるところがある。それに比べると、斗音はどこまでも公平で誠実だった。そして、何よりよく気が付くし、判断力、決断力ともに、藤堂よりは格段に優れていた。女子生徒からも男子生徒からも愛される人柄で、それゆえ上級生からのやっかみを買うこともあったが、そういったことにも挫けず毅然とした態度をとることもできた。
「でも、あの学年には東雲先輩とかもいるでしょう?」
 学校一の有名人だ。彼に不可能の文字はないとすら思えるほどの人物。今井は笑ってうなずいた。
「あいつはなあ。確かに、やれるだろうな。でも、絶対やらないだろうし、ちょっとアクが強い」
「・・・・・・なるほど」
 今井の表情に翳が宿る。
「ただ、慈恩がいなくなって・・・・・・あいつには支えがなくなった。ただでさえ身体は強くない。精神的な負担を考えると、つらいだろうと思う。俺は支えてやりたかった。・・・・・・結局こうなった以上、俺では役者不足だったんだろうと思う。でも、それでもあいつが会長をやってみたいと考えてくれるなら・・・・・・」
「そんな、会長にできなかったことが、俺にできると思ってるんですか?」
 思わず反語を使った反論をしてしまった氷室に、今井は笑みを取り戻した。
「お前は少し慈恩に似てる。なんていうか、落ち着いた雰囲気みたいなのが。あいつは全然皮肉屋でも生意気でもなかったけどな」
「いや、似てるったって・・・・・・」
 ていうか、皮肉屋で生意気って。と、思わずぼやく。確かに自分はそんなキャラだと思っているが、面と向かってこの人に言われるとややへこむ。それを見て今井は笑んだまま、いや、とかぶりを振った。
「お前のそんなところが、斗音はきっと、頼りやすいと思う」
 やれやれ、と氷室は雪に濡れた髪を軽く払った。氷室としては、確かに野球が大切で、たくさんの人に推されたときにかなり迷った。けれど、如月祭での今井の手腕には憧れていた。純粋にすごい人だと思っていた。だから、やってみてもいいかもしれない、と思ったのだ。入ってみて、今井同様、副会長の斗音の誠実さにも惹かれた。華奢で、何だかよく青い顔をしていたし、時折その表情に翳りを見せることもあったけれど、仕事に手を抜くとか、楽をしようとかいう素振りを見せたことは、一度たりともなかった。効率よく手際よく工夫をしながら仕事を進める傍ら、今井を補佐すること、仲間を気遣うことを忘れず、人を優しく包み込むような雰囲気も持っていた。それでいて、何か人を動かさずにはおかないような、ある種のオーラもあった。それがだんだん弱々しくなっていったのも確かだったけれど。
「会長に言われると、ちょっと俺、弱いんですけど」
「へえ、初耳。俺に物怖じせずに意見するくせに」
「本当ですよ。あなたのことは尊敬してます。だからこそ、俺の理想像でいて欲しい。それだけです」
 ふうん、とやや考えて、今井は再び氷室を振り返る。

「分かった。じゃあ、俺はお前のためにお前の理想像でいる。その代わり、お前も俺の願いをきいてくれないか」
「・・・・・・副会長に、なることですか?」
「そうだ。来年は斗音の支えに徹して欲しい。その上で、会長を望め」
「この先二年間、俺をその言葉で束縛する気ですか?」
 やや呆れたように、そして困惑したように氷室が訊ねる。その視線の先で、生徒会長はふっと笑った。
「そうだな。お前の言うことは一理ある。なら俺は、一生お前の望む姿でいよう。それならいいか?」
「え・・・・・・?」
「それでもまだ釣り合わないか?」
 今度は氷室が笑わずにいられなかった。
「釣り合うも何も、それではあなたがあまりに気の毒です」
 平気でそんな言葉を、この今井が口にできてしまうほど、斗音の存在が重いということか。
「そうか?だって、俺は比較的俺らしくあればいいんだろ?別にそれほど大変なことじゃない。それに比べたら、甲子園の夢を背負わなきゃいけないお前にとって、この二年間はかなり厳しい」
 本気で言っているらしい今井に、氷室は荷物を持たない片手を軽く挙げた。
「降参です。副会長のことを大事に思うあなたの気持ちを尊重しましょう。俺もあの人の下でなら頑張ってやろうという気になるでしょうし」
 一瞬理知的な瞳をきょとんとさせた今井だったが、次に苦笑した。
「斗音も大事だけどな。お前も、それから俺が一応心血注いだ如月高校生徒会そのものも、俺にとっては大事だ。これを守ってもらいたいから、お前や斗音っていう、俺の信用できる人間に、俺の意志を継いでもらいたい。無茶を言ってるのは分かってる。でも、きっとお前たちになら・・・・・・なんて、ムシがいいんだけどな」
 目を瞬かせながらそれを聴いていた氷室は、小さくうなずいた。一つの家の前にたどり着いて足を止めた今井に習って歩みを止める。自分の方に傘を傾けたために雪の積もりはじめた今井の右肩をそっとはたいた。
「いいですよ。そこまであなたに見込まれたのなら、いっそ光栄です。でも、その前に・・・・・・」
 門柱の標識を確認して、明かりのついた家を見遣る。
「副会長の体調を何とかしないと、ですね」
 うん、と今井はうなずいた。やや躊躇ってから門柱のチャイムを鳴らす。インターホンに人の出る気配。
『はい?』
 その後ろで、なにやらがやがやと聞こえる。おい、何で出てんだよ、ここ人んちだぞ、などなど。思わず今井と氷室は顔を見合わせた。
「あの・・・如月高校の今井と申しますが、斗音さん、いらっしゃいますか?」
 不審に思いつつも今井が丁寧に名乗る。インターホンが応えた。
『あっ、今井さん?もしかして、生徒会長の?』
 なんか、聞き覚えあるぞ、この声。思わず今井は眉をしかめた。氷室が不思議そうに、そんな今井を見つめる。
「そう、だけど」
 渋るように応えた今井と、その隣にいた氷室の耳に豪快な声が聞こえた。
『あー!やっぱり!しかめっ面の今井さんでっしゃろ?ええねん、この人、俺の知り合いやて』
『何でここにお前の知り合いがいるんだよっ!』
『全国大会に来てはったんや。あっ、今開けますよって。待っとおせ』
「何スか、あれは」
 完全に呆れたように氷室が額にしわを寄せる。今井はがっくり肩を落として、思わず溜息をついた。
「インターハイの剣道優勝者だ」
「はぁ?」
 バタン、と勢いよく玄関が開いて、駆け寄ってきたのは結構身長のある大人っぽい少年。それがにこっと笑った。
「久しゅおすなあ。俺のこと、覚えててくれはりました?」
「お前みたいな強烈なキャラ、忘れたくても忘れられないだろ」
 綺麗だと思えるほどの切れ長の目が、きょろっと氷室を見る。
「こちらさんは?」
「うちの執行部の氷室。ところで隼、何でお前がここにいるんだ?」
 本当に力の抜けてしまったらしい今井であるが、隼の方は笑みを浮かべながらも困ったような表情になる。
「ややこしい話になるさかい、全部しゃべってたらあんさんら凍えてまうで。とりあえず、折角来はったんやから、入りぃな。斗音は、おれへんけど・・・・・・」
「え?」
 反射的に聞き返した氷室に、隼がまた困ったように笑む。
「せやから、ややこしいねん。この雪ん中、門前払いはあんまりやろ?な、今井さん?」
 返事を求められた今井は、氷室に真剣な目を向けた。
「寄っていくことに異存は?」
「ありません」
 どうせ寄るはずだったのだ。それに、何だかただならぬ様子を放っておくこともできなかった。
「ってことだけど」
 ものの数秒で答えを出した二人に、隼はちょっと大人びた笑みを載せた。
「そか。なら」

 隼の右手が玄関の方を示した。

   ***

 如月生徒会の二人が椎名家に到着するより三十分ほど前に遡る。
 ヘリコプターに乗ったのは慈恩と斗音、そして安土。本来なら二人しか乗せたくなかったらしいが、重量的には大丈夫だったし、危篤状態の斗音を慈恩だけで運ぶにはあまりに不安が大きかった。瓜生は確かにひどい殴打を受けていたものの、ボクシングで鍛えている身体であったためか、骨に異常はないようだった。巽という暴力団の一員に軽く診てはもらったものの、詳しくはレントゲンを撮らないと分からない、ということで、バイクで同じく病院に向かうことになった。銃創を抱えた三神は、そのまま斯波組の事務所まで運ばれた。どうやら巽という部下は少々医術の心得のある人らしく、東洋医学では取り出すのが困難な銃弾を、無免許の彼がこっそり手術して取り出す、ということになったらしい。
「あんな傷、普通の医者に見せたら警察に通報されちまうだろうが」
とは、安土の言であるが、普通でない医者の滝は、斗音に付きっ切りになるだろうから、そうする以外なかったのだろう。
 鳳と和田の到着は待たずに、すぐ近くのビルの屋上から、ヘリコプターは離陸した。二人に連絡をしたときにはすぐ近くまで来ているということだったため、近衛と隼は斗音の家で二人を待つことにした。近衛たちを乗せてきたヘリも、瓜生のバイクも、安土の部下たちの車も全て必要に応じてその場を去ってしまったのだから、二人はその場から動くことができなかったのだ。
「悠大、隼。悪いけど、戸締りとか何もできてないと思うから、よかったらここにいて連絡を待っててくれないか?戻ってこられるかどうかも分からないけど・・・・・・もし、帰ることができなかったら、渋滞がマシになった頃、鳳たちの車で帰ってくれればいいし、適当に泊まってくれてもいい。斗音の鍵がたぶん玄関の飾り棚の引き出しの中にある。それを、預けるから」
 痛みに凛々しい眉を歪めながら、真摯な瞳がじっと近衛を見つめた。うなずくしかなかった。隼も慈恩を元気付けるように、頼もしい大人びた笑みを見せた。
「ええよ。まかしとき。俺ら、泥棒とか絶対入らせへんさかい。火の用心とかもちゃあんとしといたる。お前は何の心配もせんでええ。斗音の傍についとったり。気ぃ済むまで、帰ってこんでええよ」
 漆黒の瞳から涙が零れて、すぐに慈恩はうつむいてしまったが、一言、ありがとう、とつぶやいた。
 隼は安土に抱きかかえられた斗音の髪を、あとからあとから降り注ぐ雪から守るように、優しく調えるように撫でて、切なそうに目を細めた。
「やっと会うたのにな。けど、慈恩はずっと、お前の傍にいてるから。せやから、はよう元気んなって、笑ろてな?」

 その様子を見ながら、安土は少し目を細めた。

 病院の屋上で雪の中、ヘリコプターを出迎えたのは、嵐と拓海だった。ヘリコプターの起こす突風に長い髪と白衣を弄ばれながら、拓海は颯爽と機体に近づいた。斗音をかばうようにしながらヘリコプターから降りた安土に、麗しい視線を鋭く投げる。
「斯波さん、患者の容態は?」
「意識はない。俺はかなりヤバイと判断した。たぶん、喘息の発作を頻繁に起こしすぎて、常に半発作状態に陥ってる上、肺炎を併発している。それだけなら、まだマシだが・・・・・・」
 珍しく安土が迷いを見せる。
「こいつの咳は、尋常じゃねえ。音もおかしいし・・・もしかすると・・・・・・いや、あとはお前に任せる」
「オペの準備をしろ、と嵐から聞きました」
「誤診はまずいと思うが、これは俺の勘だ。気管腫瘍の可能性を疑え」
「・・・・・・!」
 
拓海の美しい瞳が驚愕に見開かれる。次の瞬間、その瞳は険しく細められていた。

「雪と風がひどいので、扉のすぐ内側でストレッチャーが待機しています。そこまでお願いします。嵐、慈恩を整形外科の内海先生の方へ。斯波さんは俺と来てください」
 テキパキと素早い指示。言われた人間が個々にうなずく。

「おい、慈恩。お前も骨の位置だけとりあえず戻してやっただけだから、無理に動くんじゃねえぞ」
 
機内で筋肉の形を整えるという無痛整体を施してくれた安土が、そう言って降りたあと、身体を抱えるようにしてなるべく身体をひねらないように降りた慈恩を、嵐は傷に障らないように、それでも固く抱き締めた。
「ごめん・・・・・・!斗音をこんな目に遭わせてごめん!守ってやれなくて・・・・・・ほんとに」
 ごめん、と言う声は悔しそうでつらそうで、聞いている慈恩が苦しくなった。
「・・・・・・謝らないでくれ・・・・・・俺が、選択を誤った。ただそれだけのことだ。お前にも・・・・・・迷惑掛けた」
「迷惑なんて・・・・・・言うなよ。俺は・・・・・・言っただろ、お前ら兄弟が好きなんだ。友達として、本当に・・・大事なんだよ・・・・・・それなのに、お前も、斗音も・・・・・・こんな目に遭わせちまった」
 ヘリコプターのせいでひどく吹雪く雪に、頬を打たれる。まだ三神に殴られて熱をもつそこが気持ちよかったが、耳は冷たすぎて痛かった。きっと嵐もそうだろう、と思って耳や頬を庇うようにそっと嵐を抱いた。
「・・・・・・ありがとう。嵐がいてくれて・・・・・・よかった」
 慈恩に回された手にぎゅっと力が込められた。
「何でだよ・・・・・・馬鹿」

 嵐の声が震えていた。初めて聞いた、と、慈恩は心の隅で思った。

 レントゲン、そしてCTスキャンの写真を並べて、拓海は固く目を閉じた。気管に映る影。肺に映る影。肺の方は肺炎だ。しかも、かなり悪化している。気管の方も、勘、と本人は言っていたが、恐らくある程度診て推察をしていたのだろう。気管腫瘍だった。その周りにもひどい炎症が見られる。
「・・・・・・映ってるな。どうする?」
 診察用の固いベッドに、安土は行儀悪くあぐらをかいて、片肘をついている。
「手術・・・・・・できるか?あの衰弱ぶりはちょっと予想外だった。申し訳ない。もっと早くこうすべきだった」
「例えもっと早くにこうしてくれていたとして、肺炎とこれだけひどい気管支喘息の発作が併発しているだけで、本来なら死を覚悟してもらわなければならない。そして、そのときに俺はここにいなかった。考えても詮無いことです。それに気管腫瘍が加わった。それを処置できるとしたら、俺以外にないでしょう。ならば、今俺がここにいる以上、これが最善、と言えるかもしれません」
 開いた目に長い睫毛の影が落ちる。
「オペに必要な医師は、あなたの忠告のおかげでそろえてあります。技術は確かな医師ばかりです。・・・・・・これだけ免疫力が落ちていて、肺の細胞、気管支の細胞を多大に損なっていて、そこで気管支の方に腫瘍ができた。ということは、気管支に異常な刺激が加わり続けた結果生まれた突然変異の細胞。壊れた細胞の間に根付くことができてしまう細胞です。このまま回復を待つ間にも、まず気管支の周りでたちまち成長するでしょうし、下手をすれば弱った肺への転移が考えられます。検査の上ではまだリンパへの転移はないようですが・・・・・・まあ、一刻を争う、状態でしょうね」
 安土が片目を眇めた。
「やるしかねえってことか」
「・・・・・・ええ、そうです」
「あいつが術後に生存してる確率は?」
 拓海は再びその美しい瞳を固く閉じた。数瞬の沈黙の後、美声が静かにそれを砕く。
「三十パーセント、と言っておきましょう」
 ぐ、と安土が唇を噛んだ。付いていた肘を解き、ベッドの縁を手でつかむ。
「俺は普通の医者が執刀したときの確率を訊いてるんじゃない」
「これは、俺が執刀したとしての確率です」
 安土の喉が無意識に鳴った。
「・・・・・・なら、普通の医者が執刀したときの確率は?」
 拓海は伏せがちの瞳のまま安土に視線を流した。

「一パーセント未満でしょう」

 斗音が喘息の発作と肺炎を併発している上、気管腫瘍を患っており、このまま放置した場合その腫瘍の成長、転移が考えられること、そのために、早急に手術をした方がよいこと。それを告げてくれた拓海のその美貌がひどく翳っていて、慈恩はその深刻さを肌で感じざるを得なかった。そもそも、慈恩は喘息の発作と肺炎の併発の時点で、大切な人を一人失っているのだ。
「・・・・・・体力が、落ちてるけど・・・・・・大丈夫、なんですか?」
 自然に声が震えた。拓海は肯定も否定もしなかった。
「俺に言えるのは・・・・・・今何もしなければ、斗音の命がいつ消えてもおかしくないということだけだ」
「そん・・・な・・・・・・」
 膝ががくがく震えてよろめいた。安土がそれを支えてくれたが、へなへなと床に座り込むしかなかった。全身が、ひどく震えていた。頭が真っ白になって、全身から冷たい汗が噴き出す。
「・・・・・・手術には、本人か身内の承諾が必要だ。お前が許してくれるのなら、俺は全力を尽くす」

 もし、手術中に斗音の体力が尽きてしまったら、これっきり、二度と会えない。そういうことだ。しかも、その可能性がかなり高いというのだ。けれど、手術をしなければ、明日をも知れない命。生きて会うことは叶うかもしれないが、失う可能性は、今より飛躍的に高まる。
 
どうしようもない恐怖に、慈恩は震える指を同じように震える指で押さえ込もうとしながら、微かに首を横に振った。
「き・・・決められ・・・ない・・・・・・俺、には・・・・・・」
 嵐は縋るような視線を拓海に向けたが、淡紫色の髪を翻して、そのまま診察室を出ていった。それをわずかに見ただけで、拓海は微動だにしなかった。肩を抱くようにして支えてくれている安土が、耳元で囁いた。
「・・・・・・こいつは日本、いや、世界でも屈指の腕の持ち主だ。お前の兄貴を生かせる可能性を、一番高く持っている天才医師だ。・・・・・・俺なら、迷わない。こいつになら、俺は全てを託す」
「・・・・・・!」
 見上げた意志の強い瞳の持ち主は、強くうなずく。知らず、涙が溢れた。歯の根も合わないほど震えながら、慈恩は拓海を見つめた。翳ってはいても、あくまで静かな美しい眼差しと視線が交わる。言うことをきかない身体を、慈恩は必死に折り曲げた。
「と・・・・・・斗音を・・・・・・どう、か・・・・・・」
 床がハラハラと零れる涙に濡れていく。慈恩はぎゅっと目をつぶった。
「ど・・・どう・・・か・・・・・・お願い、します・・・・・・!」
「分かった」
 美しい旋律の楽器が奏でられたかと思うような声が、静かに返ってきた。
「・・・・・・ありがとう」
 すぐ近くにその低音の美声を捉えた。次の瞬間、頭に優しく手が置かれたのが分かった。ぎこちなく振り返ると、白衣の裾が翻るのが目に入った。目線を上げると、小さく振り返ってほんのわずか微笑んだ、優しい美貌が網膜に焼きついた。そのまま拓海が部屋を出るのを、ただ見つめる。
「・・・よく決心した」
 安土の腕が、背後から力強く慈恩を抱き寄せた。固く握り締めた慈恩の手を包み込んで一本一本丁寧に指を剥がし、何かを握らせる。
「あいつが握ってた。それ、お前のだろ」
 ひどく震える拳を、おそるおそる開く。赤黒いものがこびりついたそれは、紛れもない、母の形見だった。
「・・・・・・は・・・い」

 消え入りそうな声で答えて、慈恩はそれを握り締める。また涙が込み上げてくる。安土がそんな慈恩を優しく抱き締めた。

 部屋から優美とも思える仕草で出てきた拓海を、そのすぐ脇で壁にもたれていた嵐が、身体を起こして呼び止めた。
「滝さん・・・・・・!」
 やや驚いたように、拓海は美麗な眉を上げた。
「・・・・・・嵐」
 端整な顔に不安が色濃く刻まれている。それを縁取る淡紫色の髪が、その持ち主の顔を上げる仕草に揺れる。拓海はもの言いたげな嵐に、そっと微笑んだ。
「お前は俺を信じてくれるか?」
 こくり、と嵐は息を飲んだ。瞬時視線を逸らして躊躇う。

「・・・・・・考えたくなんかないけど、もし、斗音が・・・死んだと、したら、きっと滝さんはそれを自分の罪として抱え込む。・・・・・・そんなふうに、なって欲しくない」
 
きり、と顔を上げて、再び正面から拓海の視線を受け止める。
「俺が望むのは、それだけです。・・・・・・あなたの医師としての腕、俺は疑うことなんて知らない」
 笑みを消して静かに聴いた拓海は、そっとうなずいた。
「そうか」
 手を伸ばそうとした拓海に、嵐はわずかに身を引いてみせる。
「今の俺には、触れない方がいい」
「・・・・・・そうだな」

 非凡な安土をして天才と言わしめた医師は、ほのかに美しく笑んだ。

 ヘリコプターに遅れること一時間強、瓜生のバイクが病院に到着した。慈恩を診た医師が同様に瓜生を診察した。診察を終えたのは既に十時を回るころだったが、医師は嫌な顔一つせず、丁寧に診てくれた。
「骨に異常はないね。いい身体をしてる。打たれ慣れてるし、それ以上に打たれ強い身体を君自身が創り上げているんだろう。ただ、グローブで殴られるのと素手で殴られるのは訳が違う。みぞおち、右の脇腹、それに左の頬はかなりひどい打撲になってる。左のこめかみと右の頬も傷になってるね。この勢いでここにまともに喰らっていたら、死んでたかもしれないよ。気をつけないとね」
 言いながら自身の左こめかみを指した。改めて、瓜生はあの狂気の恐ろしさを思い知った。
 診察室を出ると、如月高校で知らない者はいない、淡紫色の髪をもつ異端児が、廊下の壁に寄りかかるようにして立っていた。
「・・・・・・怪我の方、どうでした?」
 端整な美貌には何の意図もうかがえなくて、瓜生は心の内で身構える。
「あなたと話すのは、初めてかもしれませんね」
 唇の端がわずかに持ち上がったのを見ると、笑って見せたのだろうか。それにしては、表情が険しい。
「・・・・・・俺を、知ってるのか」
「知っているか、と言われれば、俺は全校生徒の名前と顔くらいは覚えてると思うけど。瓜生さんのことは、そこらの一般生徒よりよっぽど知ってます」
 皮肉だろうか、と瓜生は不審に思う。もしそうなら、つまりそういうことだろう。自然に自嘲の笑みが浮かぶ。
「お前ほどの奴にでも、俺程度の小物の悪評が届くわけか。・・・・・・まあ、お前の大事な仲間に傷をつけた人間を、見過ごすはずもねえな」
 我ながら卑屈だとは思う。けれどそう言わずにはいられない。
 そんな瓜生を見つめていた嵐は、うつむいて視線を逸らし、今度こそその整った顔に浅い笑みを刻んだ。
「いや、むしろ逆。あんたには感謝してる。ずっと陰で斗音を支えてくれていた」
 ぎくりと瓜生が表情を強張らせる。ちらりと瓜生に目線を流して、軽くかぶりを振った。
「あいつは俺たちに事情を隠したがってた。・・・・・・それは、俺には寂しかったけど、でもあいつが立ち直るためには、あんな非道で残酷なことを知らずにいてくれる仲間が必要だとも分かった。あいつがされてたことを知った人間の、どれだけがあいつに同情せずにいられる?前と同じ接し方ができる?瞬だって、翔一郎だって、どうしても見る目を変えてしまう。全て知った上で包み込むには、俺たちは対等で身近すぎた」
 綺麗な顔が悲しみを湛える。上級生から見たら、自信過剰で生意気に捉えられがちの少年だったが、こんな表情を見ると、それが偏見でしかないのだと、瓜生は悟る。これほどの能力を兼ね備えた人間でも、思い悩む一人の未熟な若者なのだ。
「俺は本当に何もしてやれなかった。でも、あんたがいてくれたから、あいつは救われてた。瓜生さんのことに気付いたのはほんの偶然で、たぶん俺以外に知ってる奴はほとんどいない。だから・・・・・・そういう意味では心配する必要はないと思う。あんたは周りのこと、気にしすぎだとは思うけど。でも斗音のことをすごく思って大事にしてくれてた」
 瓜生は小さく溜息をついた。なんと鋭く、思慮深いことか。確かに、凡人ではない。自分が敵う相手でも、ない。それも悟った。
「・・・・・・類は友をってヤツか。あいつの周りには、でかい器がそろってやがる」
 いったん言葉を止めて、深く息を吐いた。溜息ではなく、躊躇を振り払うための。
「あいつ・・・は、どうなった?」

 ずっとずっと心に巣食った不安に、少なからず苛まれ続けていた。言葉にするのも、躊躇うほどに。
 
瞬間、嵐の瞳が険しさとつらさを浮かべた。
「・・・・・・まだ、答えを聞いてなかった。あんた、怪我は?」
 よく考えれば、最初の対応に比べ、ずいぶん横柄になっていたが、嵐の表情の険しさに、瓜生は息を飲む。
「大したことは、ない。ただの打撲とかすり傷だ」
 嵐の形よい唇から、微かに吐息が零れた。

「・・・・・・よかった。じゃあ、俺と来てください」

 慈恩の身体は、肋骨の骨折に加え、受けた衝撃から言えば内臓破裂の危険性すら案じられた。が、これも鍛えた身体が幸いして、強いて言うなら「内臓の打撲」程度でおさまっていた。しかし、衝撃が加わった際に胃が強く圧迫され、胃壁の一部が傷ついたらしい。血を吐いたのはそのためだった。頬はとりあえず打撲で済んだ。
 安土に肩を抱かれたまま、本来なら安静にしていなければならない身でありながら、手術室の前で小刻みに震えているのは、痛みのせいなどではなかった。身体の、心の奥底から来る震えを、そして涙を、慈恩はどうしても止めることができずにいた。
「・・・・・・・・・・・・」
 ただただ、見覚えのある鎖を握り締め、打ち震えるその姿を、瓜生は信じられない思いで目にした。
「・・・・・・慈恩・・・・・・横になってなきゃ駄目だ」
 苦しそうに掛けた嵐の言葉が、耳に入ったのかどうか。慈恩に動きはない。代わりに高級そうな毛織のシャツの上にこれも劣らぬ高そうな黒のジャケットを羽織り、長い脚を大きく開いて堂々と腰掛けながら、力強く震える肩を抱きしめている暴力団の組長が、軽く首を振った。
「好きにさせてやれ。死にはしない」
 その言葉に、びくりと慈恩の肩が揺れる。それを、安土は痛ましく見つめた。
 瓜生は部屋の入り口に赤く点灯された文字をじっと睨む。斗音が手術中だということ、決して楽観できる状態ではないことを、嵐から聞かされた。それは少なからず瓜生の不安を掻き立てたが、その反面、何だか実感できずにいた。
(椎名が、死ぬかもしれない・・・・・・)
 そう心でつぶやく。ひどく痩せて、意識も定かではなくて、声も出なくて、のた打ち回るように激しい咳をして。思い出すだけで胸が張り裂けそうになる。けれど、確かに生きていた。その命がなくなるというのが、どうしても納得できなかった。あのまま、斗音と別れてしまうなんて、にわかには信じられない。
 慈恩はそれを実感しているのだろうか。どう見ても堅気ではない男の様子も、やはり深刻そうで、それが感じられないのは、一体自分に何が欠けているからなのだろう。
(・・・・・・俺がお前を思う気持ちは・・・・・・その程度、なんだろうか)
 そう考えると妙に心が締め付けられた。その切なさと息苦しさに、思わず心臓の辺りをくしゃっとつかむ。

(・・・・・・あいつの笑ってる顔が、見てぇ・・・・・・)

   ***

「え・・・・・・?それ、今から、なんか?」
 ひどく驚いた声に、今井、氷室、近衛、鳳、和田が一斉に隼を振り返る。今井たちがこの家に来訪して三十分ほど経過していた。突然隼の携帯が鳴ったのである。オレンジの携帯を慌てて持ち直すようにして、隼は問いを重ねる。
「東雲、そんで、斗音、どこ悪いん?」
 それきりしばらく相手の声に聞き入る隼を、全員が固唾を飲んで見守った。
 近衛と隼は、鳳と和田、それから今井と氷室に、自分たちの見た限りを同じように二度話した。鳳と和田は全てが初耳で、慈恩にそんな複雑な事情があったことを初めて知り、ひどく驚いた。今井と氷室は逆にある程度のことは知っていたが、まさか斗音がそこまでひどい状態になっていたと聞いて、黙りこくった。そこへ、この緊迫した電話。否が応でも空気は張り詰める。
「・・・・・・そか。・・・・・・分かった。こっちのみんなには伝えとくよって。あ、せや、こっちにな、斗音のこと心配して生徒会長の今井さんと、あと氷室ゆう人来てはるで。・・・・・・ん、了解や。・・・・・・うん、ほしたらな」
 通話を切った隼は、思いっきり集中した視線に、一瞬ぎょっとする。
「何だって?」
 鋭い語調の今井にややたじろいで、それから茶化しもおどけもせず、その切れ長の瞳を翳らせた。
「東雲から・・・・・・慈恩と瓜生ゆう人は、怪我はしてるけど無事やて。けど、今日はとても帰れへんて。・・・・・・斗音が今から、手術、する・・・らしいわ」
「手・・・術・・・・・・?何の」
 更に身を乗り出す今井に、しゅん、とうなだれる。
「気管に、悪性の腫瘍があるんやて」
「えっ!?癌・・・って、ことか?」
 思わず声を上げたのは和田。その場の全員が、それを聞かずとも承知していた。
「・・・・・・そん、な・・・・・・」
 氷室がつぶやく。それが早期であれ、もし本当なら長期の入院ということになるのではないか。会長どころの話ではないかもしれない。
「ちょっと待ってくれ。斗音って、慈恩の兄さんだろ?あんな状態で手術だなんて、有り得ない。だって、意識もなかったんだ。それに・・・・・・とてもじゃないけど、手術に耐えられる体力があるとは・・・・・・」
 語尾を濁して、近衛は押し黙った。つまり、それでもやらなければならないほど、切羽詰った状態にあったということか。
「・・・せや。危険な状態やて・・・ゆうてはった。けど、最高の医者が執刀してくれはる、って」
「最高の医者?そんな人、どこに・・・・・・ドイツには高名な医者が何人かいると・・・聞いたことが、あるけど」
 鳳が曇った表情のまま、独語する。隼は、わずかにかぶりを振る。
「その辺は、俺にも分からへんけど・・・あの東雲が、それだけはえらい自信もってゆうてた気ぃする。せやから、たぶん嘘やないと思う」
 歯を食いしばっていた今井が、長く吐息した。
「・・・・・・そうか。・・・・・・俺は、本当に何も分かっちゃいなかったんだな。けど、今更どうしようもない。俺たちは今この場では、ただの役立たずだ。できることは、一つだけ」
「・・・・・・副会長の、フォローですか?」
 氷室の問いに、シニカルな笑みで答える。
「そうだな。俺とお前にできるのは」
「・・・・・・俺たちは、九条の・・・・・・支えになれたらいいな」
 つぶやいた鳳に、和田がうなずく。近衛は知性をうかがわせる眉を寄せ、吐息した。
「あの兄さんのこと、慈恩は本当に大事にしてたみたいだからな。あいつがあんなふうに取り乱すなんて、考えたこともなかった。・・・・・・兄さんが、助かるといい。・・・・・・その上で、あいつがまだ桜花に残ってくれるのなら・・・・・・俺は頼ってもらえる存在になりたい」
 その言葉に、鳳と和田ははっと近衛に視線を合わせる。その前で近衛は自嘲した。
「知ってたんだ。あいつが家の都合で桜花に転校させられたこと。いつか俺に言ってた。如月を卒業したかったって。すごく大事な友達や仲間や・・・・・・兄貴がいるんだって。・・・・・・こんなことになって、九条の家がどう出るかは分からないけど・・・・・・もう慈恩は、あの兄さんの傍を離れるなんて、考えられないだろうと思う」
 ほんの少し見ただけだったけれど、それでも保護意欲を掻き立てられた。そんな存在を、あんなふうに貶められて、きっと慈恩は傷ついているだろう。きっと、自分を責めるだろう。それを慰める術など、今の自分は持たない。だから、今井の言うとおり、役立たずでしかない。それで病院に押しかけようとか、無謀なことも思わない。ただ、戻ってきてくれるのなら・・・・・・今度こそ、支えたい。近衛はそっと胸に誓う。
「九条がいなくなるなんて、俺としては考えたくないんだけど・・・・・・なんだか、素顔の近衛を見た気がする」

 優しく笑った鳳に、苦笑する和田。今井は氷室と顔を見合わせた。

   ***

 手術室の前の空間は、間違いなく外の世界から取り残されている、と、そこにいる誰もが思った。瓜生は何度も時計を確認して、その度にほんの十分そこそこしか進んでいないことに、舌打ちをしたくなった。嵐は一度仕事で呼び出しを受けたが、「今は勘弁してくれ」と一蹴し、それ以降は時折慈恩を気遣いつつも、長いすに座ったまま、じっと固く組んだ指を額に押し付けていた。慈恩に至っては、時間が経つにつれ、その心の内に恐怖からくる激しいストレスを蓄積し、痛めつけられた内臓と肋骨が訴えてくる不快感や痛みにも次第に強く苛まれるようになった。時折倒れそうになる慈恩を、その度に安土は支えた。
「お前、ボディーブローで吐血してんだろ?手の施しようがねえから治療してねえだけで、身体にはひどい負担がかかってるんだ。骨折だって、してるだけで体力は消耗する。少し横になれ」
 それが四度目にもなると、さすがの安土も不安になったらしく、渋みのある深い声で、安土には珍しいほど優しく促した。それでも頑なに、慈恩は拒絶した。
「・・・・・・すみません・・・・・・・・・・・・ただ・・・・・・あいつが・・・・・・闘っている・・・・・・間は・・・・・・」
 相当気分が悪いらしく、顔色も悪かった。それがそう言うのだから、安土としても困惑の小さな溜息をつくしかなかった。
 斗音が目覚めたときに、お前まで倒れてたら話にならないだろう。
 そんな言葉が言えたら、どんなによかったか。しかし、その言葉はむしろ慈恩の心の負担を重ねるだけだと、誰もが分かっていた。斗音が目覚める可能性は、三割しかない。
 深夜の一時を回り、心痛の疲労が慈恩以外の三人にも圧し掛かり始めたとき、不意に空間の色が一つ失われた。瓜生がはっと目の前の部屋の表示を見上げる。
 ランプが消えていた。
「慈恩!」
 同じようにそれを乗り出して見上げた慈恩の身体が、ぐらりと傾ぐ。小さく叫んで、安土がそれを抱きとめた。
「・・・・・・この緊迫感は、慈恩にはあまりに酷だ」
 嵐が息苦しそうに唇を噛む。安土も眉根を寄せる。その腕の中で、慈恩は自分の心臓にクロスのペンダントを押し当てた。
「・・・・・・斗音・・・・・・!」
 静かにオペ室のドアが開き、オペ用のブルーの着衣をまとったままの滝が現れた。ふと慈恩の姿を目に留め、汗の滲んだ帽子をとりながら歩み寄る。
「・・・・・・貧血を起こしてるな。よく意識を保っていられたものだ。斯波さん、あなたがついていながら?」
「すまん。どうしても・・・・・・休んでくれなかった」
 申し訳なさそうに言って、今にも長いすから落ちそうな慈恩の身体を、身を乗り出して支え直す。
「慈恩・・・ベッドを用意する。横になれ」
 慣れた仕草で美しい髪を掻き上げる。こちらも慈恩の前に片膝をついて、その長い指で蒼白の頬をそっとなぞった。
「・・・・・・つらかっただろう」

「先生・・・・・・斗音・・・は・・・・・・?」
 
言葉にするのが苦しくて、慈恩は心臓が、胸が破裂しそうに感じた。その答えを聞くのが、怖くて怖くて、どうしようもなくて。
 その漆黒の髪を優しく撫でて、拓海は静かに、美しい微笑を浮かべた。
「予断は許さない。・・・・・・でも、生きている」
「・・・・・・あ・・・・・・・・・ぁ・・・・・・」
 まだ枯れていなかったのかと思うほど、新たな涙がいっきに込み上げてきた。よかった、と唇が動いた。
「おい、慈恩!」
 ふつりと意識の途切れた身体は、安土の腕に抱えられる。その閉じた瞳から頬を伝って、二つの雫が床に零れた。慌てて嵐が駆け寄るのを、拓海が軽く制する。
「大丈夫。斯波さんに任せればいい。張り詰めていたものが途切れただけだ。むしろ、意識があったこと自体が普通じゃない。・・・・・・大した精神力だ」
 肺の中にあった空気が全て吐き出されたかと思うほどの大きな溜息をついて、安土は苦笑した。
「全くだ。・・・・・・しかし、お前も大したもんだな」
 拓海の美しい眉が訝しそうに寄せられる。
「どうして?」
 ふっ、と吊り上がる口角。安土らしい笑みだった。
「たった三時間で終わらせるとは。しかも、患者の体力を少しでも損なわないように、内視鏡を使って、だろう?」
 拓海は結わえた長い髪をほどいて軽く首を振る。金色に見える美しい髪がその背で波打った。前にこぼれたそれを後ろに流しながら、応えるような笑みを、浮かべる。
「顎の下と首筋、それから腹部に何点か針を打った痕がありました。俺に針は打てませんが・・・・・・あれは確か、呼吸器系と体力回復の経絡だったと記憶しています。それに、炎症を抑え、免疫力を高める薬のようなものも、検査に出ていた。・・・・・・正直厳しいオペでした。なのに、奇跡的にあの微々たる体力が落ちなかった。本格的な発作も起きなかった。どちらか一つでも欠けていたら、あの子は生きていなかったでしょう」
「・・・・・・あの」
 美しいという言葉が陳腐に思えるほどの麗しい医師と視線が合うのを確認して、瓜生は軽く頭を下げた。
「あいつは・・・・・・斗音、は・・・・・・生きて、いられますか」
 長い睫毛の下、透き通るようなあめ色の瞳が、ほんのり細められる。
「現段階で予断を許さない、というのは本当だが、俺が診ることのできる三日間で、許す状況にまでしてみせる。とりあえず今夜と明日一杯。それを越えれば本来の寿命をまっとうできる」
 流れるような美声。しかしそれは、弱々しさではなく自信と確信に裏付けられていた。はっきりとそれを耳にした瞬間、思いもよらず膝が折れ、瓜生はそれを床についた。はた、と一粒雫が落ちる。それが自分の目から零れたのだと知り、目を見開いた。
(・・・・・・涙・・・・・・?)
 豪奢な花が開くように、拓海は優しい笑みを載せた。
「そうか・・・・・・お前も、斗音を大事に思っているんだな」
 その美しい微笑みに、瓜生は思わず深く頭を垂れた。

「・・・・・・ありがとう・・・・・・ございました・・・・・・」

 安土は結構身長のある慈恩の身体を軽々と抱き上げて、拓海に指定された病室へ運んだ。瓜生はストレッチャーで運ばれる斗音について、集中治療室の方へ行った。残されたのは、膝をついたままの拓海とただ立ち尽くす嵐。
 運ばれていった斗音と慈恩を見送って、嵐はようやく拓海の脇に片膝をつく。
「・・・・・・人を気遣う余裕なんて、本当はないくせに・・・・・・無理をして」
 美しい眼差しが嵐を捉える。優しい微笑みが浮かぶ。
「いつもの数倍集中したから、ちょっと疲れただけだ」
 長い綺麗な指が淡紫色の髪にそっと伸びる。

「もう、触れてもいいか?」
 
嵐の端整な顔に切なさが浮かび上がった。小さくうなずく。その身体を、拓海はゆっくり包み込んで、深く息をついた。

「・・・・・・会いたかった」

集中治療室に運ばれた斗音は呼吸器を取り付けられ、点滴を打たれ、様々な機材に囲まれた。首には包帯が巻かれ、白皙の頬はやつれていた。それでも、確かに呼吸をして、心拍を刻んでいる。
 
生きている。
 
その姿は痛々しかったが、瓜生は心底安堵した。生きていてくれた。あれが遺体だったかもしれないと思うと、今更ながら背筋が凍りつきそうになる。
「・・・・・・よかった。本当に・・・・・・本当によかった」

 誰もいなくなったそのガラス戸の前で、瓜生は濡れた目尻をぐい、と拭った。

「お前みたいな奴が、俺も部下に欲しい」
 蒼い顔のまま、まだ意識の戻らない慈恩に、安土はつぶやいた。
「ちょっと、危なっかしいけどな」
 ふ、と苦笑する。斗音に手術を受けさせることは、安土にとっても拓海にとっても必然だった。けれど、その命が失われる可能性を考えると、まだ若いこの少年に決断させなければならなかった。それをそそのかしたのは自分であり、どれだけ重いものを背負わせたのかは、よく分かっていた。身体的にダメージを負っていることも承知の上で、背負わせた。だからこそ、その責任は自分が負ってやらなければと思った。
 気を失っても固くペンダントを握り締めている慈恩の手を、優しく包んでやる。
「斗音も気絶してるくせに、こんなふうに握ってたな。遺伝子的にどうかはしらねえが・・・・・・お前らはほんと、よく似てる」

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