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四十六.崩壊していく精神(こころ)

 高い崖を這い上がるのは、並大抵の苦労ではない。その崖が急で険しければなおのこと、その位置にしがみついているだけでも、本人は必死に違いない。
(落ちていくのは、それがどんなにつらいことでも、あっという間のことなのに)
 携帯の通話を切って、斗音はくすっと笑った。翔一郎の寂しそうな声が、頭に焼き付いている。
『無理言ってごめんな』
「ひどいことを言ったのは、俺なのに」
 言いながら携帯をカチンと閉じた。くすくすと剥き出しの肩を揺らして天井を見上げ、声を上げて笑う。左手の中にあるものを握り締めながら、携帯を乱暴に床に放り出す。
「あははは、ははははははっ!」

 その薄茶の瞳は充血していて、長い睫毛は涙に濡れている。目の下には白い肌に黒ずんだ隈が浮かび上がり、睫毛同様に濡れて、その色を濃くしていた。
 
放り出したばかりの携帯が、また音楽を奏で始める。
 
途端、擦れた笑い声は引きつり、斗音は両手で硬く耳を塞いだ。それでも電子音は微かに聴覚を刺激する。
 
斗音の喉が、ひくり、と震えた。そして、擦れた悲鳴が迸った。
「うわあああああああああああっ!」
 斗音の心の中に、悲痛な思いがはちきれんばかりに膨れ上がって、苦しさのあまり、煙草の匂いが残る空気をまるで金魚がそうするかのように、無理矢理肺に押し込もうとする。喘いで、滲んだ視界をカッと見開いた目で見つめ、握り締めた左手に右手をかぶせて、爪が白くなるほど硬く握り締めた。その指からこぼれるのは、細い銀色の鎖。その鎖に、ツツ、と赤い重い雫が絡まった。
「あ・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・・」
 ふ、と瞳が焦点を失う。同時に涙が病的に白い頬を転がり落ち、腕や腰に布を絡ませた痩躯は、はたりとベッドに崩れるように倒れた。
 直後に、何の合図もなしに乱暴にドアが開けられる。
「斗音!斗音さん!」
 素肌にシャツを羽織り、前をはだけたままにしている格好の三神が飛び込んできて、ベッドの脇に片膝をついた。
「斗音さん!聞こえますか!」
 耳元で強く呼びかけ、その痩せた肩を揺するが、斗音には何の反応もない。
「・・・・・・また、か」
 ちっ、と舌打ちして、三神は立ち上がった。ズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火を点けて、深々と煙を肺に吸い込む。長い吐息とともに紫煙を吐き出して、眉根をひそめながら倒れた痩躯を見つめ、ぎしっとベッドに腰をかける。
「・・・・・・もう、止められない。俺と一緒にあなたは、堕ちていく」
 優しくアッシュの髪を撫で、痛々しく笑んだ。
「・・・・・・あなたは優しすぎる。もう、俺を拒むこともできない。そうやって、俺の代わりに壊れていく」
 すっと顔を近づけて、頬に唇を触れさせ、左手の平に食い込んだ十字架をじっと見つめる。
「それがなかったら、もっと楽に現実から逃げ出せたのに。馬鹿な人だ」
 切れ長の目が、すっと細められた。

「本当に・・・・・・・・・・・・馬鹿な、人だ」

   ***

 ひと月前、慈恩が身につけていた、母親の形見だという十字架のペンダントを引きちぎり、斗音を無理矢理自分の下に組み敷いたあの日を、三神は激しく後悔した。ますます自分に怯え、警戒し、死ぬことすら己の未来に見出していた斗音に、近づくことすらできなかった。穢された自分の命より、慈恩のペンダントを心配した彼。そこまで自分が受け入れられない存在なのだと突きつけられた瞬間だった。
 それでも、斗音が何とか回復するまでは、必死で、彼を生かしたい一心で、尽くそうとした。斗音は三神と目を合わせようともしなかったが、自責の念でそのつらさは乗り越えられた。彼が自力で起き上がれるようになり、自分から「甘酒が飲みたい」とつぶやいたときは、涙すらこぼれたのだ。
 
しかし、斗音がだいぶ回復して、再び無理を押して学校へ行くようになって、最初に彼がしたことは、ペンダントを直すことだった。少し遅くに帰ってきた斗音は、少し寂しそうに、それでも殊のほか大事そうに、そのペンダントを握り締めて放さなかった。ほとんど口もきいてくれない斗音だったが、沢村に酒の粕で甘酒を作らせて出すと、少しだけ嬉しそうにした。三神への言葉は、期待などしていなかったが、やはりなかった。
「今まで甘酒なんて、言われたことありませんでしたが、お好きだったんですか?」
 何の話題も切り出せなくて、苦しくて、勇気を振り絞って言った一言だった。斗音は細い両の指でマグカップを包みながら、ほんのりと微笑んだ。久しぶりに見せたその微かな笑みは、強く三神の心をつかんだ。つかんだのだ。目頭が熱くなるくらいに。だが。
「・・・・・・瓜生さんが、作ってくれたのが、美味しかったんだ」

 本当に久しぶりに見たその微笑みすら、自分に向けられたものではなく、それどころか彼が喜ぶからと用意していたものは、他人との思い出の品で。
 
それからは苦しくて苦しくて、与えられた自室で取り付かれたように煙草を吸い、それでも今度ばかりは満たされなくて、浴びるほどのアルコールを摂取した。日に日にそれは過剰になっていき、たちまち自分の仕事に支障を来たすまでになった。
 
一週間ほど飲み続けて、ついに酔いつぶれて起きられなかった自分を、沢村は見てみぬ振りをした。彼女は仕事に対してはどこまでも積極的で忠実だが、決して人のきな臭い部分に深く関わろうとすることはなかったのだ。それを、彼女はこの仕事をする上での信条としていた。それはそれでありがたかった。斗音はもともと自分を避けている節があったから、彼の前に現れなかったらそれはそれで好機と捉えていたに違いなかった。そう思うとつらくて、一人で何日も部屋にこもっているうち、アルコールですら耐え切れなくなった。苦しさから逃げることしか考えられなかった。ついには、違法の薬を手にしていた。
 
朝斗音を起こさなくなって二週間、薬に手を出し始めてから二日ほどたったとき、斗音が何ヶ月ぶりかに三神の部屋を訪れた。
 
躊躇いがちのノックに、もっと躊躇うハスキーボイスが続いた。
「・・・・・・三神?・・・・・・いるのか?」
 いますよ、と、答えたつもりだったが、はっきりと発音できなかった。ウイスキーで泥酔した上、ソファーに身体を預けながら薬を吸ったばかりだったのだ。
「・・・・・・どうか、した?ろれつが回ってないけど・・・・・・大丈夫なのか?」
「・・・大丈夫?大丈夫なもんか・・・・・・」
 そう独りごちて、笑ったが、それもはっきりとした言葉にはならなかった。
「入るよ?」
「どぅぞぉ・・・・・・」
 煙草の痕跡を消さなくては、などという正常な感覚は、もう働くのをやめて久しかった。何の躊躇いもなくそう返事をしていた。
 ドアを開けた瞬間の斗音の顔は、今でも忘れられない。驚愕に見開かれた薄茶の瞳。久しぶりに相対したのに、慌てて細い手指で形よい口や鼻を覆ってしまったので、ぼんやりと残念に感じた。
 ああ、そうだった。この人に煙草は禁物だったか・・・・・・。
 思い出しても今更で、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。解雇されるかもしれない。その正当な理由を与えてしまった。そう思うと、胸が一杯になって、今までの苦しみやつらさや悲しみが全て溢れてきて、笑いながら涙がこぼれた。
「俺の・・・・・・首、切られちゃいますねぇ・・・・・・」
 そう言ったのだが、斗音は柳眉をぎゅっと寄せた。
「何言ってんの?分かんない。お前、何してるんだよ。ひどい煙草の匂い・・・・・・お酒も。一体何やってんだよ!」
「何ってことも・・・・・・ないですけど、ね・・・・・・」
 自分でも発音が明瞭でないことは分かっていた。でも、どうすることもできない。悲しすぎておかしくなって、ひゃははは、と間の抜けた笑い声を立てたのを聞いた。まるで自分の声ではないかのようで、更に泣きながら笑い続けた。
「三神!しっかりしろ!お前がここにいる理由は何だよ!」
 分かりきったことを訊く。斗音を手に入れるためだ。斗音に尽くして、斗音の心を奪って、そうして自分のものにしてやるのだ。彼の全てを。そう、全てを。
「・・・はず、だったのに・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・もう、叶わない・・・・・・」
 悲しさが込み上げてくる。愛してしまったがために、全てが狂ってしまった。斗音が自分を愛さなければならなかったのに、彼の愛は自分には向かなかった。そして、自分が心奪われてしまったのだ。
「あなたを愛したばかりに・・・全てが、狂ってしまった・・・・・・」
「はっきり言えないのか?全然聞き取れない!」
 苛立つように言葉をたたきつけてから、斗音は机にこぼれた白い粉にはっと目を留め、息を飲んだ。
「・・・・・・まさか・・・・・・これ、アルコールのせいだけじゃ・・・・・・」
 さすがに聡い。見たこともない粉を見て、これが麻薬だと察知するとは。
「へへっ・・・・・・ヘロイン、っすねぇ・・・」
 もともと白い上によくない顔色が、それでもさっと青ざめたのが分かった。瞬間、頬に衝撃が走って、鈍くなっていた感覚の中に、じわりと痺れと熱さが湧いた。
「この大馬鹿っ!」
 言うや否や走り去る斗音の背中を見て、もう二度と戻ってきてくれはしないだろう、と感じた。
「ははっ・・・・・・ふ、はははは・・・・・・」
 笑い声なのか泣き声なのか、自分でも判別がつかなかった。何て愚かなのだろう。何て無様なのだろう。もう九条にすら戻ることもできまい。これで全て終わりだ。
「あーっはっはっはっは、わははっはははははっ・・・・・・」
 自暴自棄になって高笑いをした瞬間。
 ばっしゃあ!
 冷たさに襲われると同時に派手な水音がした。全身にたたきつけられたバケツの水が、頭から指からパタパタと滴り落ち、ひやりと服を身体に張り付かせた。
「目を覚ませ、この馬鹿っ!」
 擦れた声で怒鳴られて、思わず凛々しい斗音を見上げた。綺麗な眉とまなじりが吊りあがっていて、本気で怒っているのが分かった。一瞬で正気が全身を支配する。
「あんなに自分の仕事にプライドもってた奴が、仕事放り出して、俺の喘息をあんなに気遣ってくれてた奴が平気で煙草吸って、酒飲んで薬にまで手を出して!自分のやらかしたことに責任も持てずに、現実逃避なんかしてんじゃない!」
 ・・・・・・その言葉は、俺に向けてのものなのか。
「お前はその程度の人間なのか!」
 俺を・・・・・・見捨てずにいてくれるのか。俺のために、言ってくれるのか。
(何て人だ・・・・・・あなたは・・・・・・)
 滴り落ち続ける雫に、涙が溶け込んでともに頬を伝った。
「・・・・・・あ・・・なたなんて・・・・・・愛するんじゃなかった・・・・・・」
 斗音が瞠目する。
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
「こんなに・・・・・・こんなに苦しい思いをするくらいなら・・・・・・もう、あなたを愛したくなんか、ない」
 斗音の手にしていたバケツが転がって、わずかに残っていた水をじわじわと絨毯に吸わせた。
「・・・・・・そう、思うのに・・・・・・あなたが・・・・・・いとおしくて、たまらない」
 床を踏みしめて立つと、足がよろめいた。身体が傾いたその勢いのまま、斗音を力任せに抱き締めた。
「・・・・・・っ・・・・・・俺、の・・・・・・せい・・・・・・?」
 ハスキーな声が、耳元で震えた。
 ああ、何て優しい人だろう。俺の過ちを、自分が関わったせいだと、そう捉えてしまうのか。俺があなたに抱いてしまった感情を責めることなく。
「あなたを・・・・・・愛してる。・・・・・・気が、狂いそうなくらい、愛してる」
 その優しさは間違いなく、あなた自身を苦しめるだろうけれど。

(いとおしい人・・・・・・もう、離さない・・・・・・!)

 斗音が差し伸べてくれた手を、三神はつかんだ。つかんで、自分が這い上がる代わりに斗音を引きずりおろし、踏み台にした。

 水をぶっ掛けられて正気は取り戻した。しかし、急激に身体に染み込ませてしまったニコチン、アルコール、そして麻薬の禁断症状は耐え難いものがあった。一日絶っただけで、苛々する、身体がだるい、重い。いっそ発狂してしまいたいほどの訳の分からない嫌悪感。飲めたら、吸えたら、すっとするのが分かっている。その快感の記憶が激しく三神を誘惑した。それを感じたらしい斗音は、常に三神を監視していた。自分が冷たく接したことでこうなってしまったのだという、責任感からだったのだろう。
 
あのときに首を切ってしまえばよかったのに、と、三神は憫笑する。
 でも斗音はそれをしなかった。そして、誘惑に逆らい切れなかった三神は、斗音の前であるにも関わらず、震える手で手放せなかった最後の薬に手を伸ばそうとした。
「駄目だ!そんなものに負けるな!」
 そう言って、斗音は震える手から薬を叩き落した。舞い上がり、絨毯に散らかった誘惑の粉を、三神は焦って受け止めようとした。これがなくなってしまえば、この肉体的なつらさから逃れられない。そう思った。
「やめろってば!」
「あ、ああ・・・・・・少しで、いいから・・・・・・」
 わなわなと手が震える。床に這いつくばって絨毯に顔を寄せようとしたが、華奢な腕が必死で自分の肩を押し上げ、それを妨害してきた。
「煙草とかアルコールはともかく、それだけは絶対駄目だ!」
「いま、今だけですから」
「今我慢できなかったら、もっとつらくなる!」
「あなたにこのつらさが、わ、分かるものか・・・・・・は、離して下さい・・・」
「分からないよ!だけど、今ここで許しちゃいけないことは分かる!」
 懸命に自分を止めようとする愛しいはずの主人に、激しい苛立ちを覚えた。
「知ったような、口を・・・・・・きくな・・・ッ!」
 華奢な肩を乱暴につかんだ。薬で病みかけた身体の奥底からくる震えに全身をわななかせ、その細い喉笛を喰いちぎってやりたい衝動に駆られる。知らず殺気を込めた目を、斗音はそれでも真っ直ぐに見返してきた。
「三神、逃げたってつらさからは解放されない!」
「そんな正当論が、何の解決になる・・・・・・そんなもので、こ、この身体の・・・つらさが、す、救われるとでも・・・言うんですか・・・っ!」

 それでも逃げない綺麗な瞳。それを見た瞬間、ふと気が触れそうなつらさが遠のいた。
 
ああ、そうか。今この人は、俺だけを見ている。俺だけを。
 
瞬時に胸を支配する高揚感。
「・・・そうだ、あなたが・・・・・・俺を、救えば、いい」
 目の前で微かに浮かぶ、訝しげな表情。
「・・・・・・俺だけを、見て・・・・・・俺の、ものに、なればいい」
「な、に・・・」
 彼の言葉を奪うように、唇で噛み付く。大きく見開かれた瞳。
 俺の、ものだ。
 込み上げる喜び。身体のつらさを忘れるほどに、心が至福で満たされる。
 力任せに抱き締めると、耳元で擦れた声が訴えた。
 やめて、と。悲しそうに。
「・・・・・・薬なら、やめますから・・・・・・俺に、抱かれて」
「・・・・・・三、神・・・」
「あ、あなたに、触れていると・・・・・・つらさが、遠ざかるから」
 斗音が息を飲んだのが分かった。そんな、と微かにこぼれた声を無視して、絨毯の上にいとも容易く押し倒した。愕然と見開かれた瞳は、それでも綺麗で、優しい気持ちと込み上げる欲情が入り混じった。
「俺を、拒まないで」
 大好きな綺麗な顔が、今にも泣きそうに歪んで。
「・・・・・・三神、お願い」
「・・・・・・薬をやれば、このく、苦痛から、逃れられる。そう、すれば、あなたを、解放してあげられる。斗音・・・・・・あなたは、お、俺に、どちらを、望むの?」
 綺麗な綺麗な薄茶の瞳が涙の膜でたちまち覆われた。
 分かっていた。斗音がどちらも選べないことは。だから、答えを出すことなど、できはしないと。
(あなたは、優しすぎる)
「・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・」

 拒む言葉さえ封じられ、抵抗することすらできずに、斗音は三神に抱かれた。封じられた言葉の代わりに、涙だけが斗音の瞳を、睫毛を、頬を濡らし続けた。そんな彼が、たまらなくいとおしかった。

 それから二週間が過ぎた。麻薬の禁断症状にかこつけて、三神はことあるごとに斗音を求めた。朝の検温時、入浴の直後、発作を起こして倒れたとき、就寝前。斗音に無理を強いて、彼に発作を起ここさせてしまうことも頻繁にあった。それでも、少しでも抵抗しようものなら、斗音の意識があるうちは薬を与えなかった。苦しめて苦しめて、その身体に恐怖を刻み付けるためだった。自分に逆らうことができないように。
 
そうするうちに、斗音の瞳は意志の光を失った。時々虚ろになる瞳は何も映さず、全ての感情を自分の中に押し込め、殺そうとするようになった。
 
反面、その生気を奪い取るようにして、三神は薬の症状を克服した。煙草とアルコールは、もう少し時間がかかるだろうが、それでもあの地獄の二週間に比べれば摂取は十分の一に減っていた。
 
だがその見返りとして求められた負担は、斗音の中で蓄積され、顕著に外見に現れていった。ただでさえも華奢な身体は痩せて、ちょっとでも無理な力を加えようものなら折れてしまいそうだった。もう、学校に行くことなど叶わなかった。今斗音にできることは、慈恩や友人からの電話に冷たく応対をすることと、自分の命を投げ出してしまうことがないように、十字架のペンダントを握り締めることくらいだった。
「・・・・・・あなたを心配してくれる人たちに冷たくするのは、これ以上心配させないためですか。そうやって突き放せば、内情を知られずに済むからですか。・・・・・・本当は、助けを求めたいくせに」
 ずっとずっと負担を掛けてきた斗音の心は、ここに来て一気にバランスを失い始めていた。大切な慈恩に、瓜生に、バスケの仲間たちに、執行部の仲間たちに、冷たい言葉を浴びせるたび、斗音の虚ろな瞳は涙に濡れ、そうして斗音は泣きながら笑った。自嘲なのか、嘲笑なのか。ぽろぽろ涙をこぼしながら狂ったように笑い、時折狂気じみた悲鳴を上げる。その重さに押し潰され、こうして気を失うこともたびたびあった。
(あの時の俺と、同じだ。でも、あなたは煙草も吸えない。酒にも薬にも逃げないで、そのクロスのペンダントのために死ぬことすらできず、簡単に狂ってしまうこともできないで)
「つらいだろうに。大嫌いな俺に抱かれ続けて、拒むこともできずにいる。あなたをこんな酷い目に遭わせている男なんだ。突き落とせばいいのに、それもできない。それならば大切なものなど捨てて、忘れてしまえばいいのに、その鎖で心をがんじがらめにして、そうやって苦しみ続ける。本当に・・・・・・馬鹿な人だ」
 そっと病的に白い頬に唇を当てる。
「俺に目をつけられたばかりにこんな姿になって」
 三神は切れ長の瞳をすっと細め、憐憫の笑みを浮かべた。

「可哀想な、人」

   ***

「なあ、斗音。お前が授業も執行部の仕事も、何もかも放り出せるような人間じゃないってこと、誰でも知ってるよ。だからさ、・・・・・・俺にはその言葉が、信じられないんだ」
 あくまで優しく、携帯に語り掛けるようにしているのは翔一郎だ。それを少し離れて見つめるのは、瞬と嵐。十二月に入り、一気に冬の寒さが襲ってきた。部活が終わるのも早いのだが、それでも辺りは真っ暗で、そろそろ街中ではクリスマスの飾りやイルミネーションが目立ち始めていた。華やかなそれらに照らし出される三人に、時折通りすがる女の子たちが振り返り、小さく騒ぎながら去っていく。
『事実放り出してるじゃん。ふふっ、過信されたもんだよね』
 携帯から聞こえる声はひどく擦れて、微かに震えているように思える。何だか痛々しくて、翔一郎は眉根を寄せた。
「今日金曜だからさ、そっちに行こうかと思ってるんだ。お前の分取ってるノートもたまって来たし。嵐と瞬と一緒にさ。なあ、何か食いたいものとか、ないか?持ってくよ」
『・・・・・・何もないし、来て欲しくもない。ノートを取ってなんて、頼んでないし』
「頼まれなくたって、いや、やめろって言われたって、俺は続けるよ。お前が本気でそれを嫌だって思ってるとは思えないから」
 翔一郎は少し微笑んだ。最初の躊躇いが、何よりの斗音の本音だろう。
『・・・・・・馬鹿だね、翔一郎』
「ああ。そうかもな」
 固唾を飲んで見守る瞬の横で、嵐は思い詰めた表情だった。三人は頻繁に斗音に連絡を取ろうと試みていた。瞬は前回斗音と喧嘩になってしまった。いや、斗音は常に冷徹な言葉を投げ掛けてくるだけだから、瞬がその挑発に乗ってしまったといった感じだった。それで気まずくて、メールで謝罪の言葉を送ってみたが、返ってくることはなかった。嵐は斗音の身に起きたことを知っていて、そして今の状況も薄々理解していたから、それを知らないふうを装って、結局空々しい会話で終わってしまうことが多かった。知っているからこそ身動きがとれない自分に嫌気が差していた。それ以上に、嵐自身も尽きない悩みを山ほど抱えていた。自分の世界をもつ嵐は実際こちらの仲間にばかりかまけていられなかったのだ。それでも何とかしてやりたいという痛切な気持ちがあるからこそ、彼らとともに行動していた。
「今からそっちに向かうけど、いいか?」
『勝手なこと言わないでよ。こっちにはこっちの都合があるんだ。今来てもらうのは、本当に迷惑だから』
「いつもそう言うだろ?じゃあ、いつならいい?」
『・・・・・・永遠に、来ないで欲しい』
「斗音・・・・・・」
 思わず言葉を失った翔一郎に、嵐はつらそうに目を細めた。大体何を言われているのかは想像がついた。そして、そう言わざるを得ない斗音の心情も、嵐には理解できた。お互いにつらいだけの会話なのに、それでもここで斗音を見捨てることだけはできなくて、無益な会話を繰り返す。それでも、自分たちの思いが届けばいいと。それがきっと、斗音の心の支えになる。ここに斗音を受け入れる世界があることを、忘れないでいてくれれば、いつかこの問題が解決したときに、帰って来ることができるから。
「分かった。今行くと、お前が困るんだよな。無理言ってごめんな。でも、また連絡するから。・・・・・・声が聞けてよかった。じゃあな」
 通話を切った翔一郎に、瞬が駆け寄る。そのあとに、嵐が重い足取りで続いた。
「ねえ、斗音なんて?俺のこと、何か言ってた?」
 ふう、と白い溜息をついて、翔一郎が携帯をポケットに突っ込んだ。
「いや、何も。ただ、来て欲しくないって」
 マフラーに口まで埋めるようにして、嵐に視線を送る。
「強引に押しかけちゃ、駄目なのか?」
 マフラーのせいでこもった声に、嵐は首を振った。
「あいつにはあいつの、人に言えない事情があるんだろ。俺たちを遠ざけようとするのも、本当に関わって欲しくないからだ」
 翔一郎はうつむき加減の上目遣いで嵐を見つめる。
「お前、それ知ってんじゃないのか?」
 その視線を受け止めてから、嵐は長い睫毛を伏せた。
「知っていようがいまいが、俺が今それを言わないってのが事実だ」
「・・・・・・そう」
 諦めたように翔一郎はくるりと踵を返した。慌てて瞬が追う。
「どういうこと?ねえ、斗音に何があったの?」
「分かんねえよ」
 素っ気無く答えてから足を止め、再び嵐をその視線で捉えた。
「俺はお前のやることが正しいと信じてる。けど、お前の中で、お前はいつも正しいのか?」
 嵐はふっと笑った。滅多にない、自嘲の笑み。
「なわけないだろ」
「・・・・・・そっか。・・・・・・ごめん」
 視線を落とした翔一郎に、嵐はすたすたと近づいて、通りすがる瞬間その肩をたたいた。
「でも諦めねえよ。俺は、絶対に」
 はっと顔を上げて、翔一郎はその背中を目で追う。
「ああ・・・・・・そう、だよな」

 瞬が大きくうなずいて、少し苦しそうに笑った。

   ***

 互いにつらい思いを味わっていたのは、もちろん出来過ぎ集団だけではない。
「授業中にあなたがここに来るのは、久しぶりね」
 苦笑した安江は慣れた仕草で、保健室を訪れた者が大概最初に座る長椅子を勧めた。来室者がふてくされたように視線を逸らすのに、更に苦笑を重ねる。
「くたびれた・・・って顔をしてるわね。少し休んでいく?」
「・・・・・・ああ」
 先生相手にぶっきらぼうに返事をして、瓜生は迷わずベッドに重い身体を横たえた。そのベッドを囲うようにカーテンを引きながら、安江は訝しげにその隙間からのぞき込む。
「何かあったの?」
「・・・・・・んでもねえよ」
「え?」
「何でもねえ。放っといてくれ」
 自分の言葉を聞き取ってくれなかった相手への苛立ちを溜息に載せる。それでもさすがプロというべきか、安江は軽く眉を上げただけでかわした。
「苛ついてるのね。放っといてあげてもいいけど、ここで休む理由を聞かせてくれないと、先生がサボりの共犯にされちゃうわ。それだけはごめんなの」
「・・・・・・・・・・・・」
 ちっと舌打ちした瓜生だったが、観念したように目を閉じた。
「・・・・・・集中できねえんだよ。できれば一人になりたかった」
 安江が何度か瞬きして、ほんのりと笑みを浮かべた。
「それでも帰ってしまうことを選ばなくなったのね。ここにいれば、誰かに咎められて邪魔をされることもないし。いいわ、片棒担いであげる。ついでに」
 シャッとカーテンの隙間を埋めて、安江は瓜生の空間を閉じた。
「先生職員室に用があるから、一人にしてあげる。成長したあなたへのご褒美よ」
 そのまま書類をさらうようにして部屋を出て行く足音と、鍵を掛ける音が静かな部屋に響いた。
「・・・・・・鍵まで・・・・・・ご丁寧に」
 思わずつぶやきながらも、安江の思いやりに感謝した瓜生である。
「・・・成長した、か。どうだかな」
 大きく溜息をつく。斗音が学校に全く来なくなってから早二週間。その原因は、分かっていた。斗音の状況を現段階で一番正確に把握していたのは、嵐と瓜生だった。
 斗音がぽつぽつと学校を休むようになったのは、十一月の三週目辺りからだっただろうか。その前までは、全国大会に行って慈恩の応援がしたい、と前向きだったのだ。しかしそれもまた、叶わなかったらしい。叶わなかったことがつらかったのか、それ以上のことがあったのか。斗音は話そうとしなかった。瓜生の直したペンダントを、いつも手に握っているか、そうでなくてもポケットに入れて、常に触れているのが印象的だった。首にかけなくなったのは、あの忌まわしい夜からだった。
 斗音が自分に癒しを求めていると知ってから、自分の存在意義をそこに見出すことができた。斗音にとって自分がそうであれるように務めたいと思った。薄暗い、あの階段で待てば、斗音は必ずそこに来たから。
『発作で起きられそうにありません。ごめんなさい』
 そんなメールを受信するようになったのは、斗音が学校を休み始めた頃だ。以前階段で待っている自分を気遣い、休むときは連絡すると言っていたことを思い出し、がっかりしながらも心をくすぐられるような気持ちになった。自分のことを斗音が考えてくれていることが、嬉しかった。
 
ただ、それからというもの、学校に出てくるたびにやつれていく斗音は痛ましかった。彼は何も話そうとせず、時間の許す限り瓜生の隣にいた。細い身体を抱き締めると、時折その腕の中で涙ぐんでいるのが分かった。
 メールは十一月が終わる頃に来なくなった。どれだけ階段で待っても、斗音は現れなかった。休むという連絡すらできないほど参っているのだろうかと、不安になった。それでも瓜生は、一週間待ち続けた。今日は来るかもしれない、明日は来るかもしれない、と思いながら。ただただ、斗音を想いながら。
 彼が学校に来なくなって二週間目に入ったとき、たまらず瓜生は斗音の携帯を鳴らした。不安は瓜生の耐えられる限界を超えていた。
 放課後、暗くなった階段で、瓜生は散々躊躇ってから登録された番号を選び、通話ボタンを押した。何度も繰り返されるコールに、出て欲しい気持ちと出たらなんと声をかけようかと激しく迷う気持ちが入り混じって、呼吸すら苦しく感じた。
 あまりに長いコールに、瓜生が諦めて携帯を切ろうとしたとき、「呼び出し中」が「通話中」に変わった。
『・・・・・・もしもし』
 驚くほど擦れた、力ない声が鼓膜を震わせた。色々考えていたこと全てが、頭の中から吹き飛んだ。
「お前・・・・・・どうした、その声・・・・・・」
 胸にわだかまり続けていた不安が心臓を破裂させんばかりに締め付けた、そのとき。
『・・・あなたには、関係、ない』
「な・・・?」
 思わぬ言葉に我が耳を疑った。弱々しい声は、何もかも諦めたように、まるで全てを放棄するかのように続けた。
『・・・・・・もう・・・・・・俺に、構わないでください・・・・・・』
 冷たい針が心臓に突き刺さったようだった。暗い声が不吉なものを瓜生に感じさせていた。
「お前・・・・・・あいつに・・・・・・?また、何かされたのか?」
 脳裏をよぎる不吉な考えを、口にせざるを得なかった。問い質す気などなかったけれど、何とかしてやらなければ、と強く思った。しかし、暗かった声は、不意に笑ったのだ。
『ふふっ・・・・・・今更そんなの・・・どうでもいい』
 激しい違和感。何がどう、とは言えない。全てが自分の知る斗音のものに当てはまらなかった。
『・・・・・・ねえ、瓜生さん。・・・・・・まだ、あの階段にいるんですか?』
 笑いを含んだ声だった。それが微かに震えているように思えた。思い過ごし、だっただろうか。
『もう・・・・・・そこにいる必要、ありませんよ』
 くすくす、と。擦れた笑い。冷たいものに心臓をつかまれながら、かろうじて返した。
「・・・・・・どういうことだ」
 返ってきたのは、信じ難い言葉だった。
『俺・・・・・・もう、二度とそこへは行きませんから』
 握り潰された心臓から、冷たい血が全身に駆け巡った。そんなことを言うはずがない。斗音がそんなことを言うはずがない。心がそう叫んだ。でも、その声を認識した冷徹な脳が己を嘲笑った。馬鹿な男だ。華奢でか弱い外見に騙されて、いいように利用されて、こうして裏切られたのだ。現実を見ろ、と。
 そうじゃない。きっと斗音はあの得体の知れない男に酷いことをされたのだ。救ってやらなければ。心の訴える声を、瓜生は押し殺した。
「・・・・・・分かった」
 冷たい声は、冷たく静かな空間の空気を揺らした。そのまま強くボタンを押して通話を切った。とにかくそれ以上、斗音に喋らせたくなかった。それが斗音の本音であろうがなかろうが、あの斗音がその言葉を口にすることで、自身を傷つけないはずがなかった。
 とはいえ、その時の自分の言葉を、瓜生は何度後悔したことか。斗音にあの冷たい言葉を浴びせ、どんな思いをさせてしまっただろう。自分に心を開き、ただ痛みを堪えながら頼ってくれた斗音を、突き放した。そう思うと、己に嫌気が差して仕方なかった。
 ギプスが外れ、自由になった右手で、ポケットから携帯を取り出して強く握る。もう一度、斗音と連絡を取りたいと思った。でも、あの時の彼の言葉をもう一度浴びる勇気がなかった。何度も思い立っては何度も思い直し、結局躊躇って今に至る。あれだけ頑張ろうと決めた勉強にも身が入らなかったし、授業に出ていても何も頭に入って来なかった。そうしてまた保健室に逃げ込んできたのだ。
「何も変わってねえじゃねえか。俺は、逃げてばかりだ」
 会いたいと思った。そして、もう何の枷もないこの両腕で、力一杯抱き締めたい。そうすれば、きっと解る。彼が平気であんな言葉を言ったのではないということが。
(でも、あの男がどう出るか。・・・・・・それに・・・・・・きっとあいつを・・・苦しめる・・・・・・)
 それは確信に近かった。斗音は本当に構って欲しくないのだ。先ほど自分が、一人になりたかったように。いや、それ以上に強くそう望んでいる。
(・・・・・・椎名・・・・・・!)
 ドン、と鈍い音が保健室の空気を揺らし、瞬間的に加わった衝撃に、ベッドの足が抗議するように軋んだ。

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