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四十七.雪

 その日、昼過ぎには、鉛色のどんよりと重い空から、静かに雪が舞い降り始めた。
 暗くなると、木々に囲まれた広い庭に灯されたいくつかの明かりに、小さな影をちらちらと落としながら降り注いでくる雪は、幻想的な光景を演出していた。
 豪奢で広い部屋は暖かく、外の張り詰めた寒さが伝わってくることはなかった。それでも、じっと、心持ちカーテンの隙間を広げるようにして、外の光景を見つめている部屋の主の心は、凍りついたように冷たく、鉛色の空よりも重かった。
「・・・・・・ねえ、雅成さん。あの子・・・・・・このところ、ずっとあの調子だわ・・・」
 自室にこもったままの慈恩を気遣うのは、もちろん彼の両親となったことを誇りに思っている二人である。
 襟ぐりが上品な程度に開いて、白いファーに包まれている清楚なオフホワイトのカットソーに、何段か切り返しになっているスウェードのフレアスカートの濃くくすんだワイン色が、美しい絢音によく合っている。しかし、雅成は愛する妻の美しい姿に見とれるより、食事の間中憂いを含んだ表情が消えなかった息子が気になっていた。
「剣道でも勉強の方でも、三者懇談では特に何も言われなかったけど・・・・・・学校では何もないふうを装ってるんだろうか。いや、私たちの前でも、あの子はきっと心配させないように振舞っている」
 絢音が微かに長い睫毛を伏せた。漆黒の瞳が悲しげに翳る。
「お食事のとき以外、部屋から降りてこないし・・・・・・自分から出かけることも最近ないわ。話しかけても上の空だったり、いつも沈んだ顔をしてるの」
「ここ・・・二週間、いや、三週間くらいかな。口数が減った。絢音、お前はいつから気になってる?」
 食後に運ばれてきた紅茶にも手をつけず、二人はしばし考え込む。
「・・・・・・十一月の全国大会・・・・・・、少し、元気がなかったわ」
「斗音くんが来られなかったんだったね。でもそれは、関東大会でもそうだった」
「ええ、そのときも気にしてるふうだったけど・・・・・・必ず大会の日前後に斗音くんの体調が優れなかったりして。でも、それはそれで仕方がないって納得していたと思うわ」
 ソファに腰掛けてその膝の上に肘を立て、両手を組んだ雅成が、微かに眉根を寄せた。
「・・・・・・僕はずっと思ってたことがあるんだけど」
 言ってから、顔を上げて絢音の瞳を正面から捉える。
「僕らは斗音くんから、慈恩を取り上げてしまった。慈恩を知れば知るほど、あの子がどれだけ素晴らしい人間なのかを思い知ってきた。斗音くんもしっかりした子だ。まして高校生だし、よっぽど大丈夫だろうと思っていたんだけど・・・・・・これだけ頻繁に体調を崩してるってことに、もっと不安を感じるべきだったかもしれない」
 絢音の瞳が瞬間的に潤む。慈恩を自分たちの養子に迎えるに当たって、自分たちがこの兄弟にどれだけつらい選択を強いたのか、嫌というほど解っているのだ。もちろん、それは雅成も同じである。
「これまで・・・慈恩が斗音くんの元にいた頃も、これだけ体調を崩すほど身体の弱い子だったとしたら、僕たちは彼から大きな支えを奪ってしまったことになる」
 形のいい唇をぎゅっと噛んで、それでも絢音は首を振った。
「いいえ、だってもしそうだったら、慈恩は絶対に養子の件を承諾しなかったはずだわ」
 雅成の眉間のしわが深くなった。
「だとしたら、もっと憂うべき状況だよ。あの子がいなくなったことで斗音くんが体調を崩すようになったのだとしたら、それはそれで彼にいかに慈恩が必要だったかということになるだろう?そうでなければ、三神の対応が悪いかだ。最近斗音くんからのメールも途切れることがあるし・・・・・・慈恩と一緒に食事でもと誘っても、必ず断られてしまうんだ。忙しかったり、体調が悪かったり、都合が悪かったり・・・・・・理由は様々なんだけど・・・・・・僕はそれを、やはり気まずさのようなものがあるからだと捉えていた。だけど・・・・・・」
 絢音の表情と膝に置いた手が硬くなる。
「それ以上の理由が、あるとおっしゃるの?」
 一瞬躊躇ってから、雅成は視線を妻から逸らした。
「僕たちに気まずさを感じるのは仕方がない。でも・・・・・・慈恩は?もしかして、あの子にも会ってないんじゃないのか?大会にも、食事にも出てこない・・・・・・もう三ヵ月半になる。もし慈恩にも会っていないのだとしたら・・・・・・僕たちはとんでもない楔を、あの子達の間に打ち込んでしまったんじゃないだろうか」
「そんな、まさか・・・・・・」
 色白の美しい顔が青ざめる。雅成は首を振った。
「分からない。三神からの報告では、体調がよくないときがある以外は、特に変わったことはないとある。丁度全国大会の頃だったかな。三神からの報告が一週間ほど遅れたことがあったけど、斗音くんが体調を崩して付きっ切りだったと言っていたから・・・・・・もしかしたら、本当に体調が悪いだけなのかもしれない。いや、でも体調が悪いこと自体が心配なんだ・・・・・・。三神は学校での疲れが溜まっているようだと言っているが、会いに行きたいと言っても、今は休ませた方がいいとか、部活の試合だとかでこっちも会う段取りができないし・・・・・・」
 言っているうちに自分が何を言いたいのかが分からなくなってきて、雅成は溜息をついた。
「慈恩に元気がないのは、間違いなく斗音くんのことが気がかりだからだろう。・・・・・・あの子なら、きっと本人と連絡を取り合ってるはずだけど・・・・・・」

 最後は言葉を濁すようにして、雅成は上の階を見上げるようにした。そこに閉じこもっているはずの自分の息子を思って。

   ***

 素晴らしく美しい景色だった。一応、慈恩の目には、そう映っていた。
(斗音・・・・・・お前は今、何を見てる?・・・・・・雪が降ってる・・・・・・綺麗だ。これにお前は、気付いているか?)
 そうメールを送ったところで、返ってはこないだろう。そう思うだけで、胸が締め付けられる。電話を掛けたところで、果たして出てくれるかどうか。
 全国大会の前日。斗音からメールが来た。ここのところ微熱がひかないのだと。応援に行ったら、逆に迷惑をかけてしまうかもしれないから、行けないと。正直、寂しかった。でも、体調が最優先だと言ったのは自分だったから、仕方がないと自分に言い聞かせた。
 でも、全国大会のあとに隼に言われたことは、慈恩の心を揺さぶった。
『お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな。俺が絶対間違うてへんと思うのは、お前が斗音の傍を離れたことが間違うてるてことや』
 斗音の本音はどこにあったのだろう。病院に担ぎ込まれて、自分の傍にいることが苦痛だと言ったあの言葉を、慈恩は斗音の本音だと捉えた。だから、九条家の養子の件でも、行くべきだと断言したのだと。もちろん、絢音が本当の母親だということもあったのだろうが、『根っこの部分』は自分と離れたいというところにあるのだと。
(おりこうさんの答えか・・・・・・それを選んだのは俺・・・・・・。だったら、斗音は?あれが斗音の本音じゃないのなら・・・・・・)
 考えようとして、ズキンと心臓が痛んだ。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』

 あの言葉は?本音じゃないと思う。でも、そう思いたいだけなんじゃないかとも思う。斗音がそんなことを言うのが信じられなかった。でも、そう信じたくないだけなんじゃないかという疑いも、心の隅に卑屈に巣食う。斗音にそう言わせてしまうほど、自分は彼を放っておいてしまったのではないだろうか。

 全国大会が終わった日、斗音とは連絡が取れなかった。その日の結果や隼に会ったことなどをメールで送ったけれど、返信はなかった。それが二日、三日と続いて、さすがに心配になった。電話を掛けても出ないので、再びメールを送った。約束どおり、そちらに行くと。
『今週末は予定が入ってるから、また都合を教えてくれる?』
 それが、久しぶりに来たメールだった。都合も何も、部活だろうが友人の誘いだろうが、全ては斗音の予定に合わせるつもりだったから、特にこちらは予定がない、と返した。だが、肝心の斗音の予定を知らせるメールが、また途絶えてしまったのだ。
 忙しいのかもしれない、と思って斗音からの連絡を待った。予定が入っているという週末が過ぎても、何の連絡もなかった。不審に思って携帯に何度か掛けてみたが、やはりつながらない。業を煮やして、慈恩は学校の帰りに三ヶ月ぶりに自分の元の家に寄った。

 母の大事にしていた庭は、自分がここを出たときよりも綺麗に整えられていた。
 
それに逆に違和感を覚えた慈恩を、玄関で出迎えたのは、三神だった。
「お久しぶりです、慈恩様。お元気そうで何よりでございます」
 丁寧に頭を下げる三神は、三ヶ月前に比べ、少し痩せたように感じた。そして、ふと微かに香るコロンに気付いた。とても清々しい、優しい香りだったのだが、この男はそんな香りを漂わせていただろうか。
「・・・・・・あの、斗音は・・・・・・?」
 挨拶も忘れて、思わず口にしていた。少し首をかしげるようにした三神は、すっとシャープな笑みを浮かべた。
「まだお帰りになっておられません。最近お忙しいようですから・・・・・・八時や九時を過ぎることも珍しくありませんので・・・・・・」
「そんなに遅く?一体、どうして?」
「詳しくは存じませんが、執行部の仕事が忙しいと、うかがっております」
「執行部・・・・・・?でも、そんな時間、もう学校も閉まってると思うけど・・・・・・」
 凍りつきそうな寒さに、思わずマフラーをつかんで顔を埋める。三神は苦笑した。
「私はあくまで斗音様のおっしゃられたことをお伝えしているだけでございます。それをどう捉えるかは、慈恩様次第ではございませんか?」
「・・・・・・え?」
 暗い中でもはっきりと、慈恩は漆黒の瞳を見開いた。三神の切れ長の瞳は、それに対してやや細められる。
「最近親密な方がいらっしゃるようですし。学校帰りにデートなんて、最近の若い方ならよくあることでしょう」
「・・・・・・そう、ですか」
「いえ、あくまでこれは私の想像です。実際に見たり聞いたりしたわけではございませんから」
「・・・・・・」
 そんなことは考えたことがなかった。斗音に彼女ができていたとしたら、休日に都合がつかないのも道理かもしれない。メールなども、自分より彼女を優先させるかもしれない。ただ、斗音ならそのことを自分に言ってくれそうな気がした。これまでも、互いにそういう存在がいれば、当たり前のように知っていたから。
「今日こちらへいらっしゃることは、斗音様はご存知でしたか?」
 訊かれて首を横に振ると、そうですか、と三神はうなずいた。
「私もいつお帰りになられるかは申し上げかねます。九条様の方では、御夕食はご家族そろってでございましたね。お待ちになられるとなると、お断りの連絡をされた方がよろしいかもしれません」
「・・・・・・いえ、今日は・・・・・・帰ります。ただ、最近斗音と連絡が取れないことが多くて。今日も、行くことを何度か伝えようと思ったんですけど・・・・・・」
 慈恩が視線を落とすと、三神はゆっくりうなずいた。
「それだけお忙しいのでしょう。斗音様のお身体の具合だけは、常に雅成様に連絡させていただいておりますので、ご安心ください」
 自分が連絡すら取れない以上、彼に任せるしかなかった。
「・・・・・・斗音を、お願いします」
 頭を下げたのに対し、三神は更に深く低頭した。
「はい。必ず」
 顔を上げて、懐かしい我が家を見つめた。よく使う部屋には煌々と明かりが灯され、ここは自分たちが帰るまで明かりがつかなかった家ではなくなっているのだと感じた。斗音の部屋にも、既に明かりがついている。そうして、主が帰るのを待っているのだろうか。
 踵を返すと、後ろから低い声が呼び止めた。
「慈恩様」
「はい?」
 振り返ると、顔を上げた三神が笑みを浮かべていた。
「・・・・・・素敵なコートですね。学校指定のものですか?」
 意外な質問に、慈恩は目を瞬かせた。そして、上品なグレーのロングコートに目をやる。
「あ・・・はい、そうですけど」
 三神の笑みが、すっと線を引いたようにシャープになった。
「お似合いですよ」
「・・・・・・どうも・・・・・・」
 躊躇いがちに会釈をしてから、慈恩は改めて帰路に足を向けた。そこで再び斗音の携帯を鳴らしてみたが、長いコールのあと、いつも通り伝言を促すメッセージが流れ始めた。
「・・・・・・斗音。今、家へ行ったんだ。三神さんに、まだ帰ってないって言われたけど・・・・・・。・・・お前、今どこにいるんだ?・・・・・・お前の口から、お前のこと聞かせて欲しい。斗音の話が聞きたい。・・・・・・また、連絡するよ・・・・・・」
 携帯に向かって、一人でそう話して、通話を切る。慈恩がそうやってメッセージを残すことは珍しかった。メールなら自分の伝えたいことを、一番適切な言葉を選んで送ることができるからだ。でも、今回は文字ではなく、自分の声を伝えたかった。そんな気分だった。
「・・・・・・・・・・・・?」
 何かの音が耳に届いた気がして、ふと振り返った。目に映ったのは、少し離れた懐かしい家の、斗音の部屋。
(まさか、あの距離で何かが聞こえるはずがない)
 慈恩が苦笑交じりに視線を戻した直後、部屋の中で微かに影が動いた。だが、視力に関しては何の問題も抱えていない慈恩でも、さすがに気づくことはなかった。
 そして、慈恩が去るのを見送る三神が、薄笑いを浮かべてつぶやいたのも。

「お前には金持ちのお坊ちゃまが似合いだ」

 その夜、慈恩の携帯に斗音からの着信があった。正直驚いたが、ほっとした。急いで通話ボタンを押すと、通常よりかなり擦れ気味の声が聞こえた。
『もしもし』
 三神の様子では、今特に斗音が弱っているという感じを受けていなかったので、少し不安になった。
「斗音・・・・・・声が、擦れてる」
『そう?・・・・・・最近、こんな感じだよ』
 最近、という言葉を聞いて、自分がいかに斗音の声を聞いていなかったかを痛切に感じた。今思えば、全国大会の少し前辺りから、直接会話をすることがなくなっていた。三週間近くが経っていた。
「発作が、あるのか?」
『そうだね。まあ、そこそこ。軽いことが多いから、気にしなくていいよ』
 妙に軽いというか、思慮深くて相手を思いやる斗音らしさが感じられなくて、微かに違和感を覚えた。
『今日、来たんだね。・・・・・・どうだった、久しぶりの家は?』
「どうもこうも・・・・・・お前に会いに行ったんだ。家には入ってもない」
『どうして?・・・・・・もう、自分の家じゃないから?』
 チリ、と胸の奥が痛んだ。あの家は、自分にとってかけがえのない家だ。今の家より、よほど自分にしっくり来る。そんな思いは、斗音には分からないだろうか。
「そんなんじゃなくて・・・・・・三神さんに、お前はまだ帰ってないって言われたし・・・・・・」
『そう・・・・・・あいつ、そんなこと言ったんだ。まあ、似たようなもんだけど』
「・・・どういうこと?」
 思わず問う。少し間をおいて、少し吐息交じりの声が聞こえた。
『・・・何でもないよ。慈恩には、関係ない』
「・・・・・・斗・・・・・・音・・・・・・?」
 はっきりと感じる冷たさ。突き放されたことを感じた。どうして?と目まぐるしいくらいに思いが駆け巡る。
『・・・・・・留守電、聞いたよ。慈恩の声、久しぶりに聞いた』
「・・・・・・俺もだ」
『・・・・・・俺の話が聞きたいんだっけ?』
「・・・・・ああ」
『・・・・・・何の、話をしたらいい?』
 誰と話しているのだろう、と慈恩は思った。斗音とは思えなかった。
「怒ってるのか?」
 何の確信もなかった。でも、斗音の様子がおかしいことだけはよく分かった。それでそう訊いてみたのだが、しばらくの沈黙ののち、微かに笑うような擦れた吐息が聞こえた。
『・・・・・・別に、怒ってなんかないよ。ただ、慈恩は何が聞きたいのかと思って』
「・・・・・・ずっと、話してなかったから・・・・・・お前のこと、聞きたかった。それに、如月祭のことも」
 正直、何を話していいのか分からなかった。斗音の気持ちも、分からなかった。頭の中はかなり混乱に近い状態だった。それだけ言えただけでも、上出来である。そんな慈恩に対して斗音が返した言葉は、慈恩にはとても信じられるものではなかった。
『俺のことなんて、何も話すことない。それに・・・・・・』
 しばし躊躇うような間。小さく喉で震える声がした。笑っているようで、泣いているような。そして、ひどく擦れた声がつぶやいた。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』
 馬鹿な、と。瞬間脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。むしろ、斗音はその話をすることを望んでいると思っていた。涙に言葉を詰まらせながら、そう約束をしたのだ。
「・・・・・・斗音・・・・・・」
『・・・・・・ほかに、聞きたいことは?』
「斗音!」
 何かを思うより先に、叫んでいた。向こう側で、微かに斗音が息を飲むのが分かった。知らず、拳を握り締めて、とにかくこの空々しい会話を何とかしたくて口を開いた。
「こんな話をしたいんじゃない!・・・・・・会って話そう。お前に会いたい。こんなに会わなくなるなんて思わなかった。今のお前を、この目で見て、ちゃんと面と向かって話がしたい!」
 電話の向こうで呼吸が震えているのが、微かな空気の振動で伝わってきた。返ってきた声も、微かに震えていた。
『・・・・・・・・・・・・もう、来ないで。・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・お前に、・・・・・・・・・・・・・・・会いたく・・・・・・ないよ』

 最後の否定は消え入りそうだった。迷って躊躇って、それでも萎える気持ちを必死に奮い立たせて、言った言葉なのだと解った。瞬時に、心に突き刺さって未だ融けない氷の刃が再び胸を貫く。
 
・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・
(・・・・・・どうして・・・・・・!)
 同時に頭の芯が、心臓が焼け付くような痛みを感じた。
『・・・・・・ごめん、もう、切るね』

 何も言えなかった。ただ、最後の斗音の言葉には、違和感を覚えなかった。

 今もまだ、斗音がなぜそんなことを言ったのかは解らない。斗音の本音も、分からない。ただ、また斗音にあんなことを言わせるまで、自分が追い詰めたのではないかと思うと苦しかった。あれから二度、三度、斗音に連絡を取ろうとした。メールは返って来ない。何度か携帯に掛けて、一度だけつながった。しかし、会おうとの誘いに、斗音は乗らなかった。
『・・・・・・会いたくない・・・・・・今・・・・・・・・・ちょっと体調が、悪いんだ』
 長くは話さなかった。本当に、斗音はつらそうだった。無理にでも押しかけようとも思った。でも、苦しそうにしながらも頑なにそう言う斗音は、本気でそう思っているのだと感じた。その思いが、慈恩を押し止めた。雅成から聞く三神の情報は、時折発作を起こすようになり、学校を休むこともあるとのいうものだった。もともと季節の変わり目は発作を起こしやすい斗音である。情報はさほど不自然ではなかった。
(・・・・・・斗音が何と言おうと、どう思っていようと・・・・・・隼なら、会いたい気持ちひとつで会いに行くだろうな)
 あんなふうに一途に、自分の思いに正直に、なれたらいい。何度もそう思った。でも大人びた理性がかえって邪魔をしていた。
「・・・・・・返さなくて、いいんだ」
 そうつぶやいて、慈恩は携帯のメールを一件送信した。
「件名:雪

 本文:気付いてるか?雪が舞ってる。すごく綺麗だ。見てなかったら、外を見てみろ。お前に、見せたい景色だから。」

   ***

 パチン、と携帯を閉じて、斗音はよろけながらベッドを降りた。ひどい眩暈にたたらを踏み、それでもぐっと堪えて、カーテンに縋りつく。身体がぐらついた拍子に、肩からはだけたパジャマがはらりと落ちる。肩の骨が浮き出す白い肌が顕わになった。
「・・・・・・っ」
 喉から濁った力ない咳がこぼれる。呼吸が荒いくせに擦れて弱々しい。その途中でまたつかえるように、咳が込み上げた。
「・・・・・・はぁ・・・っ・・・・・・・は・・・ぁ・・・・・・」
 呼吸の苦しさに喘ぎながら壁にもたれるようにして、そっとカーテンの隙間を広げた。
「・・・・・・ぁ・・・・・・」
 それほど大きくない雪の破片が空間一面に舞い降りてくる。門灯の光を浴びてほのかにオレンジに染められ、白と薄い灰色にひらひらと瞬間ごとに色を変えながら、静かに天空から降り注いでくるその美しさに、薄茶の瞳が見開かれ、涙に包まれた。白い頬に、透明な雫が伝う。
 小さく震える腕を伸ばして鍵を外し、カラカラと窓を滑らせた。風はないが、凍てつく空気が流れ込んで斗音の身体を包む。唇からこぼれる吐息が白く染まる。よりクリアになった視界に、それでも斗音は見とれた。
「・・・き・・・・・・れ・・・い・・・・・・」
 思わず手を差し伸べる。その細くて白い指先に、小さな結晶が触れた。一瞬形をとどめていたそれは、見る間に透明な液体となり、水滴だけを残して消えた。そして、次の結晶がまた指にとまる。
「・・・・・・見て、るよ・・・・・・慈恩・・・・・・」
 また喉を、力ない咳が遮る。伸ばしていた手で胸を押さえ、苦しげに柳眉を寄せて、しばし呼吸を整えて。
「・・・・・・っ、・・・・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・・・綺・・・麗だ・・・、ほん、とに・・・」

 長い睫毛が涙に濡れながら、新たな雫を瞬きでこぼしていく。
 
最近は、気管を通り越して肺にまで苦しさを感じるようになっていた。熱も三十八度と三十九度の間を行ったり来たりしたまま下がらない。その身体に凍るような冷気は容赦なく襲い掛かる。ベッドの中で絶えず自分の熱に蝕まれながら、それでも激しい体力の消耗を強要されたばかりの身体に、その冷たさは妙に新鮮で気持ちよかった。
「・・・・・・ごめん・・・・・・・・・メール・・・・・・返さない・・・けど・・・・・・」
 ペンダントを絡めた左手で握り締めた携帯も、胸に押し当てる。
「・・・・・・見てる・・・・・・お前と、同じ・・・・・・景色・・・・・・」
 血色の悪い唇からこぼれる呼吸がますます白さを増す。壁に寄りかかったまま、少し身を乗り出すようにして再び手を伸ばした。その手に白い結晶が一つ二つ舞い降りるのを見て、斗音は微笑んだ。まるで可憐な花がそっと開くように、優しくほのかに、そして儚く。
「・・・・・・っ」
 潤んだままの瞳が微かに見開かれ、たちまち微笑みは凍りついた。華奢な身体を絡め取るように背後から抱きすくめたのは、長身の男。
「・・・・・・こんなに身体を冷やして。さっきあれだけ火照らせてあげたのに」
 コロンの香りを漂わせながら、白い頬に頬と唇を摺り寄せる。
「俺が暖めてあげますよ」

 その頬が、新たにこぼれた雫に濡れた。窓際からあっけなく引き剥がされ、そのままもつれて崩れるようにフローリングの床に力なく組み敷かれる。左手から傷だらけの携帯が転がり落ちた。薄茶の瞳から光が失せ、瞼がゆっくりと落ちた。まるで意志のない人形のようなその肢体に、190近い体躯が覆い被さる。一方的に嬲られるだけの行為に耐えるために、斗音は左手に絡めた十字架をそっと握り締めた。

   ***

「あら・・・雪。今年は早いですね」
 少し嬉しそうに窓から空を見上げた母親に、近衛は片眉を軽く上げた。

「夕方には降っていましたよ」
 
話がある、と居間に呼び止めておいて、いきなり世間話はないだろう。そんな近衛をちら、と見遣って母親ははんなりと笑った。
「そうでしたか。そういえば今日はお客様がいらして忙しかったから、全く外を見る余裕がありませんでした」
「客人、ですか」
「ええ。西園寺グループの会長婦人が、ご相談にいらしていたのです」

「西園寺・・・・・・」
 西園寺グループといえば、近衛家が司る大グループの傘下である大企業をいくつも任せている、近衛家の右腕である。それくらいは、近衛家の嫡男として幼い頃から認識している。
「ええ。あなたの許婚、果葡璃(かほり)さまのお母様です。さすがのあなたも、西園寺の名は覚えているようですね」
「そんな理由で覚えているわけではありません」
 いきなり予想外のところから話を振られ、眉根を寄せたいのを理性で抑えて近衛が答えると、母は上品に笑みを浮かべた。
「あら、あなたはあまり近衛の財閥関係には興味がなさそうだと思っていましたから」
「・・・そんなつもりはありませんが」
 やや詰まった辺りで、母親には見抜かれているだろう。それが図星であるどころか興味の欠片ももってはいないということを。父親を影で見事に支えているこの母親は、花山院という名家の出身である。女性は男性を立て、決して前には出ないという昔ながらの女性を演じているが、そんなものに収まる人ではない。明晰な頭脳は、父親というよりむしろこの母譲りの近衛である。
 その母が、左手の指を添えるようにしてくすくすと笑った。
「それで?果葡璃さまとはちゃんと連絡を取っていらっしゃいますか?西園寺婦人から少しばかり、恨み言を聞かされてしまいましたよ」
 ぐ、と言葉に詰まってしまった。そもそも自分に許婚がいることなど、ほとんど意識していない近衛である。家同士の付き合いだからと、仕方なく時々会ってはいるが、年に数回がせいぜいだ。
「あなたはともかく、果葡璃さまは悠大さんのことをとても慕っていらっしゃるのですから、女性の気持ちをあまり無碍になさるものではありませんよ」
「・・・・・・果葡璃は大学受験を控えている身です。あまり邪魔をするわけにもいかないでしょう」
 食後に出された紅茶に、上品な仕草で口をつける。これも幼い頃から徹底的に叩き込まれたマナーである。
「そうですね。でも、その理性あるはずの受験生相手に、一体どんなことをなさったら、母親にわざわざ恨み言を言わせるほど想いを募らせることになるのでしょうね?」
 ぐぐ、と、完全に近衛の口は内側から封じられてしまった。かろうじて紅茶を噴き出すなどという最悪のマナー違反だけは免れた近衛だったが、頭の中では瞬時に過去をさかのぼる。数ヶ月前に会ったきりだが、その時は確か・・・・・・。
(ストレス溜まってたから、ベッドに連れ込みました、なんて言えるかよ!)
「・・・そ、そんなことを言いにいらしたわけじゃ、ありませんよね」
 だいぶ平静を装ったつもりだったが、動揺は確実に露見していた。なんだか楽しむような様子の母親だが、ええ、とうなずいた。
「もちろん、それは事のついでに。ちょっと困ったことがあって、いらしたのです」
「困ったこと、ですか?」
 話を逸らすためにも、近衛は鸚鵡返しの質問をするしかなかったのだが、母親は息子をからかうのをやめたらしい。柔らかな表情のままではあったが、笑みは消した。
「伏原傘下の企業が、提携をやめると言い出したそうです。伏原は西園寺の最強のバックアップをしてきましたからね。伏原自身も大打撃を受けると思いますが、西園寺を相打ちに持ち込むことができるはずです」
「なぜ、そんなリスクを顧みずに?」
「悠大さんなら、どう考えますか?」
 問い返されて、近衛は丁寧にカップをソーサーに戻し、長い脚を組んだ。
「伏原に援助を申し出たところがある・・・・・・むしろ、そちらに利益を見出すほどの援助を」
 上品な和服の母親は、笑みを表情に戻した。
「それだけですか?」
「・・・・・・また、お試しになるのですね」
「あなたは、近衛家を背負わなければなりませんからね」
 ふう、と軽く溜息をついて、近衛は組んだ膝に肘をつき、指を額に当てた。
「それだけの援助を申し出られるとなると、並大抵のところではないはずです。援助する側も相当の出費を覚悟しなければならない。それでも提携を破らせる・・・・・・そうだ、援助を申し出たところが、伏原に提携を破らせた。伏原が組するのは・・・・・・冷泉?冷泉と醍醐は・・・確か・・・・・・鷹司グループの、両翼」
 はっと顔を上げる。その目が捉えたのは、品のある微笑み。
「よくできました。そういうことです」
「まさか、鷹司が・・・・・・?」
「わたくしは、そう見ますけれど。悠大さんはどうですか?」
 近衛は唇を噛んだ。心当たりが大有りだ。
(マジか、あのクソ部長!つーか、ガキの面子のやり合いに、本気で動くってのか!)
 思わず舌打ちをする。その瞬間、母親が肩をすくめた。
「あら、悠大さん。お行儀がよろしくありませんよ。何か、思い当たることがあるのだとしても」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか」
「悠長に大きくなれ、はあなたの座右の銘ではないのですか?」
「そうですけど・・・・・・って、なぜそれをご存知なのです」
 さすがにそれを、自分に名を与えてくれた親に言うほど、近衛は馬鹿ではない。母親は軽やかに笑った。
「あなたのご親友から、聞きださせていただきましたよ。本当に飾らない、素敵なお友達でしたから」
(慈恩、あの・・・・・・馬鹿・・・・・・)
 がっくり肩を落とす。百戦錬磨の母にかかれば、この世界に擦れていない慈恩から色々自分のことを聞き出すのは、いとも容易いことだろう。
「なかなか面白い解釈ですね。私はあなたらしくていいと思います。それより、九条さまは最近あまり来てくださいませんね。あんなにいい方、そうそういらっしゃいませんよ。大切になさいませ」
「・・・・・・分かっています。しかし、今は・・・」
 優しい声で、母は優雅に笑った。
「鷹司のことは、わたくしにお任せなさい。今のあなたよりは、よほどいい手が打てます。だてにこんな大きな相談事を持ち込まれたり、ご婦人方とお付き合いをしていたりするわけではありませんから」
 そう言って、流れるような仕草で立ち上がる。
「人付き合いとは、損得ではありません。人を大切に思う気持ちこそが、思わぬときに自分を救ってくれるものです。表面的なお付き合いはどれだけ親密そうに見せていても、相手には伝わっていますから。九条さまに対する気持ちも果葡璃さまやお友達に対する気持ちも、本心から相手を大切に思い、本音で接している相手であれば、決して裏切られることはないのですよ」
 立ち上がった母を視線で追うと、百合の花が揺れるように清楚で上品な笑みがそこにあった。
「あなたが本当に大切に思う人は、どんなことがあっても助けて差し上げたいと、思いますでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「そういうことです」
 さすがだ、と近衛は心の中で両手を上げた。この母には敵わない。
「では・・・失礼いたします」
 丁寧にお辞儀をして、近衛は広い居間をあとにした。
「・・・・・・大切に思う人、か」

 離れに行くための通路にはちゃんと屋根を取り付けてあるが、それでも凛と冷たい空気は避けようがない。それは近衛の気持ちを引き締める。
 
ふと目を遣ると、巨大な和風庭園にハラハラと舞い落ちる雪が、とても美しい。
(慈恩・・・・・・お前はこの景色、見てるかな)
 自分が一番慕い、大切に思う友人が、ここのところずっと塞ぎ込んでいるのを知っている。詳しい理由は知らない。塞ぎ込んでいても、やはり剣道は強かったし、テストでもトップクラスは譲らなかった。それでも近衛にはよく解った。時折見せるつらそうな横顔や、儚げにさえ見える物憂げな表情。それは慈恩がいつか見せた表情によく似ていて、そのとき慈恩は心にものすごく重い負担を抱えていた。
(きっと今も、何かを抱えてる。・・・・・・話くらい、聞いてやれたらいいのに)
 慈恩が言おうとしないのも解っていた。話を聞いてやれるだけの存在に、自分はまだなれていないのだと思う。それは悔しかったが、それ以上につらそうな慈恩を見ているのがつらかった。
(来週はみんなで・・・・・・少しくらい羽目を外せるといいかもな)

 街中が華やかに浮かれ始めるクリスマスが近づいていた。

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