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四十五.祈り

 明るい光に誘われるようにして、斗音はそっと目を開いた。最近いつも目覚めるときの気だるさや、まとわりつく眠気の抵抗を受けることなく、すんなり瞼が持ち上がるのが、不思議だった。うつぶせに眠っていたらしく、枕に頬を埋めたまま、柔らかい綿毛布の優しい肌触りを感じる。
「・・・・・・ん」
 少し身体の向きを変えようとした途端、枕の下に硬いものがあることに気付く。それが何であるかはすぐに気付いた。
 開いたままの携帯電話。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・・・・)
 優しい声で、大好きな慈恩の剣道での活躍を聞きながら、眠りに落ちたのを思い出す。こんなに安らかにこの家で眠りについたのは、どれくらいぶりだろう。さすがの三神も、昨夜は色々思うところがあったらしく、一切手を出そうとはしなかった。
 手に取った携帯電話をそっと閉じて、両手に包み込む。それだけで心の中がほどけていくように幸せな気分になった。
 会いに行く、と言ってくれた慈恩。嬉しかった。少しでも元気になって、慈恩を心配させないようにしよう。そう心に強く思う。
 ふと思い立って、枕の下に手を入れる。細い鎖を指に絡めて、そっと引き出す。ちぎられた十字架のペンダント。残った力の全てを振り絞って手にしたそれを、斗音は気を失っても離さなかったらしい。点滴をされながら意識を取り戻したときも、固く握り締めたままだった。携帯とともにそっと握り込んで、胸に押し当てる。
 昨夜より熱が下がっているのだろう。呼吸もだいぶ楽だ。三神の治療は全て拒んだのだが、気を失っている間に九条家の掛かり付けの医者によって、様々な処置が行われていた。それでも断続的に発作は起きた。三神から受けた暴行は、身体的なダメージはもちろん、ひどく斗音の精神を打ちのめした。それに加え、高熱に連続する発作。意識も途切れがちのその苦しみの中で、更に斗音の精神を苛む激しい自己嫌悪。心身ともに激しいダメージを負った斗音は、その耐え難い苦しさとつらさに、何度もこのまま息絶えてしまいたいと本気で思った。ただ、約束を果たせなかったことを、慈恩に一言謝りたい。それだけが斗音の生きなければならない理由だった。それ以外のことは全て、苦しさに押し潰されてどうでもよくなってしまうほどだったが、慈恩に何も言わずにこの世から消えることはできないという思いだけは、潰れなかった。
 慈恩からの着信には、すぐ気付いた。でも、発作を起こした直後で、話せるまで呼吸を整えるのにしばらくの時間を要した。やっと通話ボタンを押せて、慈恩にごめん、と伝えた瞬間、苦しさに締め付けられていたものがほっと安堵に満たされた。これでもう苦しまなくていい。死ねる、と思った。そう思ったら、急に泣けてきた。死にたいと考える自分が悲しかった。つらくて苦しくて情けなくて惨めで、それで死にたい自分がもっと情けなくて、どうしようもなくて、その激しい精神的なストレスで、まだ前の発作がおさまらないうちに次の発作に襲われた。生への執着の最後の支えがなくなった瞬間、必死に自分を心配する慈恩の声が、鼓膜を激しく揺さぶった。
 心配しないで。心配させたくない。慈恩を困らせたくない。
 嬉しかったのだ。自分のことをこんなに思ってくれている人がこの世にいるのだと、思い知らされた。
 生きてていい?俺に、生きる価値はある?
 潰れた心に芽生えた生への希望。慈恩がいてくれる世界なら、生きられるかもしれない。
 瞬に必死に送ったメールのことも、すぐに理解してくれた。そして、言ってくれた「ありがとな」の言葉。自分のおかげで勝てたよ、と。優しい言葉。自分に価値を与えてくれた。
 慈恩を支えることができた?こんな俺でも。
 行きたい。全国大会に、行きたい。・・・・・・生きたい。死にたく、ない。
『お前の話が、聞きたい』
 与えてくれた役割。もう死ねない。死なない。その為だけに、俺は生きられる。
 そんな小さなことが、例えようもなく嬉しくて、また泣けてきた。生きなければならないという苦しみの束縛から解放されたときの、悲しい安堵とは比べようもない、温かい安心感。
 慈恩のいるこの世界で、俺は生きたい。
 慈恩の優しさに包まれて、いつの間にか発作はおさまっていた。精神的なつらさはもちろん、身体的な苦しさが驚くほど楽になっていった。死にたいという思いで張り詰めていた気持ちが慈恩の声にほどかれ、安らかな気持ちに満たされた。もう枯れたかと思うほど泣いたのに、また涙が、目頭を熱く濡らして溢れていった。生きているのだと実感した。幸福な時間だった。
(・・・・・・会いたい。せめて、心配させないくらいまで回復して・・・・・・たくさん話そう。今までのこと、色々・・・・・・慈恩のことも、聴きたい)
 ちぎれたペンダントに祈りを込めて、唇を触れる。

(俺は、生きる。だから、心が折れませんように。あいつに何をされても・・・・・・生きることだけは諦めない。そのための力を・・・・・・俺にください)

   ***

 瓜生が考えた通り、斗音の崩壊を食い止めた慈恩だったが、もちろん本人はそうとは知らないだろう。会うことはできなかったが、それでも斗音を思う気持ちが彼を救った。それを瓜生が実感したのは、また二日間の欠席を経て斗音が登校してきた水曜日だった。
 もちろん部活ができるはずもない斗音は、いつもの薄暗がりの中で瓜生を見つけて儚い微笑みを見せた。
「見つけた」
 ゆっくりと階段を上がって、踊り場に腰掛ける瓜生の隣に静かに腰を下ろす。
「少し時間が早かったから、いないかと思いました」
 優しい微笑は、やはり儚くて、綺麗だが壊れそうだった。わずかに眉根を寄せて、それから視線を逸らした。
「・・・・・・一昨日から、待ってたからな」
「あ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 本当に申し訳なさそうに、悲しそうな顔をするので、別に気にしていない、と素っ気無く告げた。
「休むときは、連絡を入れますね」
「別にお前の手間を増やすつもりはねえよ」
 斗音の親切な提案を却下する。自分が斗音の負担になるつもりなど、欠片もない。
「お前が来たくなきゃ、ここに来る必要もない。お前が来たいと思ったときに来ればいい」
「・・・・・・来たいと思ってます。瓜生さんがいてくれるなら」
 斗音に視線を向けると、微かな微笑みが自分を見つめていた。
「・・・・・・好きにすればいい」
「はい」
 冷たい言いようだと思うが、斗音は儚いままの笑みでうなずいた。そして、そっと握った右手を差し出す。
「今日は、お願いがあるんです」
「?」
「これを」
 ゆっくり開かれた手には、斗音がいつも身につけている十字架のペンダントがあった。暗くてよく見えなかったが、留めるところはつながっているのに、鎖が二つに分かれて垂れ下がっていると分かった。
「・・・・・・手が震えて、上手く直せないんです。瓜生さんの左手を、貸して下さい」
「・・・・・・これ、は?」
 斗音が悲しそうに微笑む。
「あなた以外には、見られたくないんです」
 言ってから、軽くかぶりを振る。
「いいえ、本当はあなたにも・・・・・・。だけど、どうしても直したくて。四日間、ベッドの中でやってみたけど、どうしても駄目で」
「四日・・・・・・」
 思わずさかのぼってみる。となると、切れたのは土曜日だろうか。ベッドにいたということは、寝込んでいたということか。ならば、慈恩とは会えなかったということか?
「あは、でも一日はそれどころじゃなかったんですけど」
 苦笑した斗音の手からペンダントを取り上げ、鎖の先を見る。丁度先端の二つの小さな輪が、引き伸ばされた上で口を開き、ひどく変形している。かなり強い力で引っ張らないと、こうはならないだろう。これを直すのは少々厄介だと思ったが、それ以上に引きちぎったようなその跡が気になった。
(・・・・・・まさか、あいつが?)
 嫌な胸騒ぎがして斗音を見遣るが、寂しそうに微笑んでいるだけだ。
「・・・・・・ここでは暗くてできない。明るいところへ行くぞ」
 さっと立ち上がると、少し驚いたように、斗音もやや頼りない動作で立ち上がった。
「どこへ?」
「・・・・・・本当は家へ行きたいけど、目ぇ付けられてるだろうからな。絶対見つからねえ場所だ」
「見つから、ない?」
「五十メートル離れてついて来い」
「え、あのっ?」
 とっとと歩き始める。斗音が動けるのなら、問題ない。帰すことが前提であれば、大丈夫だろう。
 いつもの駅から電車に乗って、斗音が降りる駅を二駅乗り越して降りる。この時点でまず見つかることはない。定期で乗り越しの精算をし、駅周りに立ち並ぶビジネスホテルのひとつへ迷わず入っていく。言われたとおりに離れて歩いていた斗音は、不思議そうにその建物を見上げてからロビーに入ってきた。
「521号室。行くぞ」
「あの、瓜生さん・・・・・・」
「いかがわしいラブホよりいいだろ。工具も借りた」
 呆気に取られている斗音の髪を、くしゃっと乱した。
「ここならゆっくり休める。誰にも気付かれない」
 薄茶の瞳が大きく見開かれる。次に、また泣きそうに眉が下がる。
「ほら、行くぞ」
 右手は全く使えないわけではない。肘から下、そして手の甲まで固められているが、指先だけは自由になっている。工具さえあれば、不器用でもない。直せる自信があった。その間だけでも、休ませてやりたかった。
 部屋に入ると適当に荷物を置き、羽織った学生服を椅子に掛けて早速ペンダントと工具を机に載せた。どうしたものかと立ち尽くす斗音の荷物を取り上げて置き、ベッドに座るよう指示すると、大人しくベッドに腰掛けた。
「ちょっと、見せてみろ」
 だいぶ慣れてきた左手で斗音の制服のボタンを襟元だけ外し、詰襟を広げる。
「あ」
 慌てたように首に伸びてきた細い指をつかんで、乱暴にならないように引き離す。細くて白い首に残る、糸のような一本の線。痛々しい赤紫のそれを見て、瓜生は唇を噛んだ。やはり引きちぎられたのだ。
(どうしてこんなことを。つけたままで引きちぎるなんて・・・・・・)
 襟足の柔らかな髪をそっと持ち上げると、首の後ろまでそのあとは続いている。むしろ首の後ろの傷の方がひどい。そしてふと目に入る、もっとはっきりとした赤黒いものを見つけて、更に髪を掻き上げるようにした。
(・・・・・・これ・・・は・・・・・・!)
 耳朶のすぐ後ろ。金曜日に自分が鬱血の痕を残した場所。暗い中で分かるか分からないかくらいのほのかな痕だったはずだ。それが明らかに肌を破られて傷と化している。しかもその痕跡は。
(歯・・・の痕・・・・・・?!)
「・・・ごめんなさい」
 微かに震える声が聞こえて、はっと我に返る。うつむいた斗音の目から、パタパタと雫がこぼれた。
「ごめんなさい・・・・・・あなたが約束してくれた証だったのに。・・・・・・消されてしまった」
「・・・・・・椎名・・・・・・まさか、お前」
 言うより早く、斗音がトレーナーにしがみついた。
「ごめんなさい・・・・・・でも、それ以上、言わないで・・・」
 弱々しい力。それでも血色の悪い爪が白くなるほど、斗音は懸命だった。思わず瓜生は唇を噛んだ。その言霊にすら怯えるこの姿で、それでも斗音はその命で必死に生きようとしている。
「・・・・・・お願い・・・・・・」

 細い指が、頼りない背が、小刻みに震えている。あんなに怖がっていたのに、眠れないほど恐れていたのに、それが現実となってしまったのだ。それをあの男に許してしまった自分を、瓜生は深く憎んだ。
 
守ってやれなかった。守ってやりたい気持ちは、あの男の狂気に勝てなかったのだ。そう思うと、悔しくてつらくて、そして何より申し訳なかった。どれほどつらかっただろう。どんなに苦しかっただろう。四日間寝込むほど、心身ともにダメージを負ったのだ。この細い身体に、壊れそうな精神に。そして、今現在もその深い傷を抱えながら、それでも立ち上がろうとしている。自分で自分を支えようとしている、そんな気がする。こんなときですら、その強さに惹かれずにはいられない。震える痩せた身体を折れんばかりに抱きすくめた。
「・・・・・・・ごめんな。何もできなくて・・・・・・ごめん」
 華奢な身体が微かに反応した。震えるのではなく、自分の胸に小さな頭をこすり付けるようにして、首を横に振ったのだ。
「・・・俺は、もう・・・大丈夫です。慈恩と、今度こそ、会えるように・・・・・・生きると決めたから」
 小さな声で、それでも迷いなく紡がれた言葉。脳裏が焼きついたような眩暈を覚える。
「・・・・・・・・・・・・死を、考えたのか」
 そっと柔らかい髪を引くようにして顔を上げさせる。まだ涙を湛える瞳で、斗音は壊れそうに微笑した。
「・・・本気で死にたいと思ったのは、初めてでした」
 つ、と涙が白い頬を伝った。震える唇が、震える声を載せる。
「・・・つらくて情けなくて・・・・・・惨めで苦しくて・・・発作も熱も、ひどくて・・・・・・どうしてこんな思いをしてまで、生きてるんだろうって・・・・・・」
 次々と浮き上がる涙があとからあとから頬を濡らしていく。
「・・・・・・楽になりたいと、思ったら・・・・・・死ぬことはひどく魅惑的で・・・・・・」
 親指で涙の道をそっと拭った。そのあとをたちまち新しい雫が通り過ぎていく。

「でも、死ねなかった。慈恩に・・・行けなかったことを、謝るまでは・・・死ねないと思って・・・・・・必死で耐えて・・・・・・」
 何てことだろう。こんなに心身ともに衰弱している斗音に、なんて思いをさせてしまったのだろう。そんなこととは露知らず、そんな思いをしているときに支えてやることもできずに。知らず顔が歪んでいく。それに気付いたのだろう。また新しい涙のひと雫を頬に伝わらせながら、斗音はそっと微笑んだ。
「・・・・・・そんな顔、しないでください。もうそんなこと、思ってませんから」
 頬に添えた瓜生の手に、白い痩せた手がそっと触れる。
「俺が生きていることに、意味があると・・・・・・慈恩が教えてくれた。・・・・・・こんな俺でも、あんな状態でも、俺は慈恩の役に立てたんだと・・・・・・言ってくれたから。・・・・・・会いに行くから、話を聞かせて欲しいって・・・・・・全国大会にも胸を張って行けるって・・・・・・だから、だから俺は」
 新たに湧き上がる透明な涙が、斗音の薄茶の瞳を包み込んで、溢れた。
「生きようと、思った。何があっても・・・・・・もう俺は、死んで逃げようとはしない。そう決めたんです。・・・・・・だけど、その誓いを込めたあのクロスが・・・ちぎれてるのを見るたびに・・・あの、惨めな夜を・・・思い出すから・・・・・・」
 なんとしても直したかったのだと、ハスキーな声がつぶやくように言った。そして額を瓜生の胸に押し当てる。
「・・・・・・俺はまた、あなたを利用してる」
「すればいい」
 即答して、瓜生は華奢な身体を片腕で包み込むように抱き締めた。一番支えが必要なときに、何もできなかった自分。下手をすれば、失っていたかもしれないこのぬくもりを、つなぎとめたのはあの凛々しい黒い瞳の少年だった。強い絆で結ばれているこの兄弟が、何故離れなければならなかったのか、瓜生は詳しく知らない。それでも、感謝した。こうして抱き締められるのは、あの弟の想いが、斗音をつなぎとめてくれたからだ。
(やっぱりあいつが・・・・・・あいつだけが、こいつを救える。あいつ・・・・・・だけが)
「俺にできることくらいは、してやる。俺はお前を守ってもやれねえ。支えてもやれねえ。だから、お前が利用したいならすればいい。それで少しでもお前が楽になるならそれでいい」
 本音を並べ立てながら、心の隅で慈恩に嫉妬している自分がいることを知った。我ながら卑屈だと思い、思わず自嘲的な笑みが浮かんだ。腕の中で、斗音が小さく身じろぎする。無視してぎゅ、と力を込めた。首筋に頬を埋めると、自分の背にふわ、と優しい腕が添えられた。
「・・・・・・どうして?」
 擦れ気味の弱い声。問われる意図が分からなくて、あ?と聞き返す。背に回された腕に少しだけ力が入ったのが分かった。
「・・・俺が・・・・・・どれだけ、あなたに・・・・・・癒されたか・・・・・・。どれだけ・・・・・・支えられているか・・・・・・」
「・・・・・・」
 何を言っているのだろう、と、一瞬そう思った。左腕を緩めて腕の中の斗音に目を遣る。少しこっちをうかがうような三白眼で自分を見つめる斗音と視線が絡んだ。
「あなたがいなかったら、俺はとっくに発狂してる」
 大げさに言っているのでも、媚を売っているのでもない。淡々とそう言った斗音の言葉にも声にも瞳にも、真実しか見えなかった。
「・・・・・・椎・・・名・・・・・・」
 ゆっくりと、色素の薄い綺麗な瞳に引き寄せられるように近づいて、ごく自然に唇を触れ合わせていた。
 ああ、どうかこの柔らかなぬくもりを、失わずにいられるように。このどこまでも優しく、いとおしい人間を、自分の手で少しでも楽にしてやりたい。一度道を踏み外した自分のような人間に、この華奢な手が縋りついてくれるのなら。

(俺はどんな犠牲を払ってでも、お前を支えてやる)

 ふと気がついた斗音は、見慣れない部屋に一瞬自分の置かれた状況を把握できずに、柳眉を寄せた。
(・・・・・・あれ?ここどこだっけ・・・・・・?)
 少しだけ熱っぽい。無理もない。まだ身体は衰弱したままだ。それに加えてこの五日間はまともに食べ物を口にしていないのだ。それなのに登校したのだから。
 そこまで思って、瓜生と駅前のビジネスホテルに入ったことを思い出す。ぎょっとして腕時計に目をやると、針は八時より少し前を指している。一瞬朝なのか夜なのかも判別できずに、がばっと身を起こした。途端、くらっと視界が揺らいでたちまち崩れ落ちる。そこで、ベッドで眠っていたのだと知る。動悸を抑えながら、眩暈を堪えて再びゆっくり顔を上げる。もう一度落ち着いて時計を見ると、まだ日付は変わっていないし、水曜日のままだ。
(よかった・・・・・・まだ、三神に咎められるほどの時間じゃない・・・・・・)
 心底ほっとしてから、そろそろと起き上がる。学生服だけ隣の椅子にしわにならないように載せてある。
(・・・瓜生さんは?)
 きょろ、と部屋を見回すと、机の上に工具を散らかしたまま、伏せている姿が目に入った。結局瓜生が言うままに、ペンダントの修理を任せてしまった。
『指だけなら右も使える。たぶんお前よりは上手く直せる』
 でも、と躊躇う斗音の目尻に残る涙を、節くれだった親指でぐいと拭って、思わず目を閉じた、その瞼に優しく唇を押し当てて。
『俺の前で無理すんな。少しでも休んでろ』
 そう言ってペンダントを取り上げてしまった。瓜生にキスされるのは初めてではないが、それほど気さくにスキンシップを図るタイプではない彼と、腕の骨折以来、会うたびにこんな触れ方をするようになっている気がする。自分のために傷を負った瓜生に、信頼が深まったことはあるのだろう。瓜生にしても、近しいものを自分に感じてくれているように思う。はっきり言って常識を逸した触れ方だと思うが、それでも瓜生の込めてくれる想いは温かくて、優しくて、それに触れ、包まれるのは心地よかった。同じ行為でも、三神の場合総毛立って身がすくんでしまうほど、恐ろしいのに。
(ていうか、何で俺の相手は男ばっかなわけ?)
 この期に及んで、自分の外見が綺麗だとか可愛いとか、その何気ない表情や仕草に脆く崩れそうなほど精神的な危うさを見せているなどと、思ってもみない斗音であった。
 そっと瓜生をのぞき込んでみる。細かい作業をして疲れたのだろう。全く気づく気配がない。

「瓜生さん・・・」
 
そっと肩を揺すってみるが、それでも反応しない。

「・・・・・・起きて・・・・・・?」
 
少し困って、伏せる姿をじっと見つめた。眠っている瓜生の背中はたくましくて広い。自分のために、必死になってくれる瓜生を、頼りにしている。この背中は、その頼もしさを象徴しているようだ。
(・・・・・・俺は、いつもこの背中を見てる)
 必ず先を歩く瓜生。話しているときでも、普段はそれほど目を合わせようとしてくれない。それでも、この背中は無言で自分を守ると言ってくれている。そんな背中を見るのは、嫌いではなかった。そっと肩に掛けた手をずらして、肩甲骨の辺りに添える。はっきり浮き出すそれと、無駄なくしっかりついた筋肉。自分とは正反対の鍛え上げられた背中だ。無意識のまま額を触れさせ、頬を寄せた。ほんのりと、トレーナーの上からでも彼の熱を感じた。優しい、温度だった。それが例えようもなく心に染みて、知らず、目頭が熱くなるのを感じた。
「・・・・・・俺は、たぶん・・・・・・」
 涙がひとつ、頬と背に挟まれて布に吸い込まれた。

「・・・・・・・・・・・・たぶん・・・あなたのことが・・・・・・」

   ***

 翌々週、広島で剣道の新人戦全国大会が開催された。
「よ、椎名。久しぶりやな」
 からりと明るい関西訛りに、慈恩は会場となっている武道館に入った途端、呼び止められた。その名に即座に反応した自分に、やや苦笑する。
「久しぶり。やっぱり出雲第一も来たか」
「げ、こいつ・・・・・・今年のインターハイで優勝した・・・・・・隼!?」
 隼が慈恩の言葉に反応するより先に反応したのは、和田だった。その目は驚愕をありありと露呈している。
「も、もしかして九条、こいつと知り合い?」
 その驚きっぷりに、慈恩はやや面食らいながらうなずいた。
「知ってるよ。一応小学校の頃から、知ってることは知ってるけど・・・・・・今年の夏にちょっと親しくなる機会があって」
「ちょっとてなんや、冷たいなあ。俺ら永遠のライバルやろ?」
 今度は横から何の躊躇いもなく口を出してくる隼に、慈恩は首をかしげて見せた。
「いつから永遠のライバルになったんだ」
 それを聞いた隼は、愕然と切れ長の瞳を見開いた。
「ガーン。ちょっとそれ、ショックや。俺のたった一人のライバルが、俺なんかライバルちゃうて言わはる」
「ガーンて。そんなこと言ってないだろ。永遠ってところが初耳だったんだよ」
 やや呆れたように返した慈恩に、隼はいつもの人懐こい笑みを浮かべた。
「せやったらええねん。俺がただ一人、ライバルと認めた男やさかいな。見放されたらかなんから」
 呆気に取られたように二人の会話を見ていた鳳が、真剣な表情でつぶやいた。
「こいつが、日本で一番強い高校生?本当に?」
「ていうか、そいつにライバルって言われて平然としてる九条の方が、俺は信じらんねえ」
 それに答えた和田の、その言葉を隼が聞きとがめる。
「なあ、椎名。何でそこの人、お前のこと九条て呼ばはるん?」
 更に、首をかしげる。
「それに・・・・・・如月の、人?」
「・・・・・・!」
 丁度話題には参加せず、受付をしていた近衛が、はっと顔を上げる。和田も気まずそうに慈恩を見遣っている。その視線の先で、慈恩は微かに微笑んだ。
「あれから色々あって、転校したんだ。今は桜花高校にいる。姓も、九条に変わった」
 隼の大人びた顔がひどく驚いた様相を呈した。しばらく切れ長の目をしばたたいていたが、やや置いてから、にぱっと笑った。
「そか」
 慈恩の肩を軽くたたく。
「今日は団体戦やさかい、うちも決勝までいけるとは断言せえへんけど、戦(や)れるとええなあ」
 にこにこと、何のわだかまりもなく接する隼に、近衛は不思議なものを見るような感覚を覚えた。そんな彼に対して
「相変わらず強気なこと言う」
 なんて、苦笑しながら相手を小突く慈恩も、その流し方を決して悪く思っていないのが分かる。この二人にも、自分の知らないつながりがあるのだと実感した。
「お前、大将か?」
「いや、副将」
「なんや、それやったら、当たったかて俺ら対戦でけへんのか。大将、お前より強いん?」
「どうかな。でも、弱かったら全国には出てないだろ」
「せやな。なら、悪ないか。そもそも、お前より強い奴なんか、そうそういてへんし」
「そこまで過信してないって。それより、お前、部の方はどうなったんだ?」
 何気ない会話の中に、自分の分からない話題が出てくると、思わず聞き耳を立ててしまっていることに気付いて、近衛は自身の内で舌打ちした。そんな近衛の目の前で、隼はからりと笑った。
「俺が睨まれてたんは先輩らだけや。今の学年は気楽やで。一応、部長やしな」
「実力は文句なしだろうけど、変なこと言って顰蹙買ったりしてないか?」
「そこも含めて俺の魅力やさかい、誰も気にしはらへんよ」
「あ、そう。心の広い部員たちだな」
「ちゃうて。俺の人徳や」
「そういうことにしとくよ」
 隼は気さくに慈恩の肩に腕を回し、慈恩も気楽にそれを受け入れて、互いにおかしそうに笑い合っている。
「近衛、不満そうだぜ」
 横から突付かれて、はっと我に返る。和田がニヤニヤしている。
「取られたみたいで悔しい?」
「そんなこと、思ってない」
 なるべく負の感情を表に出さないようにして、近衛はくるりと踵を返した。控え席の二階へ向かう近衛の背中を視線で追いながら、和田がぼやいた。

「・・・・・・思ってんじゃん」

 全国大会に出てきたチームは、やはり強かった。近藤や橋本のように、個人でも全国へ出られる実力を持ち合わせている選手と出場したインターハイとは、わけが違う。そんな中でも、隼率いる出雲第一高校は問題なく勝ち進んだ。どの選手も全国レベルなのだ。全員二年生にも関わらず、近衛レベルはざらで、それ以上、下手をすると慈恩にひけをとらないような選手も抱えている。そんな中でも、隼は抜きん出た実力を惜しげもなく披露していた。
「あいつは洒落にならない強さだね」

 出雲第一の試合を観た鳳が思わず溜息をつき、東坊城や秋月が大いにうなずいた。
 
新人戦ということで、まだ育ちきらない選手が勝敗を決めていった。桜花高校は、一回戦を3-2で勝ち抜いたが二回戦で岐阜の八百津高校と当たり、2-3で敗退してしまった。八百津高校の布陣は明らかに前半に強い選手を集めたもので、先鋒、次鋒、中堅で、中堅、副将、大将クラスが出てきていた。先鋒の和田、次鋒の東坊城、中堅の鳳は、さすがに自分より格上の相手には勝てず、和田が0-1、東坊城と鳳が1-2で負けてしまった。その代わり、慈恩が2-0、近衛が1-0で一矢報いた形にはなったが、今回のトーナメント戦に敗者復活戦が組まれていなかったので、そこで桜花の前進は止まってしまった。しかし、それでもこれまでにない快進撃であったことは間違いない。桜花の面々には満足げな表情があった。慈恩にしてみても、このメンバーでここまでくることができたのは、予想以上のできであった。
「八百津って、インハイにも出てたよな」
 記憶を手繰るようにした一乗寺に、慈恩がうなずく。それを確認して、やっぱり強いわけだ、とうなずく桜花の面々。そこへ、ひょこりと珍客が顔を出した。
「相変わらず謙遜ばっかしてんねんなー。慈恩、個人戦で八百津の大将に勝ってたやん」
 驚いて振り返る慈恩に、隼がにこーっと笑って見せる。
「慈恩は圧勝したで。俺、惚れ惚れして見とってん。けど、桜花負けてしもたから、残念やわ~。もう慈恩の戦っとるとこ、今日は見られへんねんなぁ」
 ぎょっとして慈恩が隼を小突いた。
「隼!」
 隼もぎょっとする。
「えっ!俺まずいことゆうてしもた?え?ほんま?うわ、かんにんっスわ」
 ぺこぺこと桜花のメンバーに頭を下げながら、困った顔をする。大人びた顔の癖に、ちっとも大人っぽく見えない。
「俺ほんま、物言いがなってへんて前の部長にもよう言われたんやけど、剣道のことになると、ほんま周り見えへんよって・・・・・・」
 本当に申し訳なさそうな様子に、桜花の面々は互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「別にいいよ。俺たちの力が足りなかったのは事実だし。それでも全国で一勝できるなんてのが、桜花にとっては快挙なんだ」
「この快挙も、ほぼ九条のおかげだしな」
 近衛も、並外れた技術を持つ隼の素顔に、憎めない思いを禁じ得ない。それ以上に、慈恩のことを「椎名」と呼んでいたはずの彼が、さりげなく呼び方を変えていたことに、微かな尊敬の念すら抱いた。
 そんな中で、隼が困惑の表情のまま、こっそり慈恩に耳打ちした。
「なあ、俺、どの辺から間違うた?」
 聞いた瞬間、がっくり肩を落とした慈恩の隣にいた近衛は、その耳打ちした言葉を聞くつもりもなく聞いてしまい、抱いたばかりの尊敬の念が、砂上の楼閣のようにたちまち崩れていくのを感じた。

 近衛の尊敬の念が消えようとも、隼の実力は否定のしようもなかった。出雲第一はほとんど危なげない試合運びで準決勝まで進み、そこまでに隼は一本たりとも相手に許しはしなかった。決勝は光徳学園。インターハイの団体決勝と同じ組み合わせとなった。どちらも控え選手の層が厚いというところでは、ひけをとらなかった夏の大会、その中でもレギュラーだった二年生、そして控えとして活躍していた二年生も沢山いた。隼もその一人である。
 
光徳学園のチームにはどこにも穴がなかった。誰もが平均して強い。だから、どこに強い選手を配置されようと、ほとんど負けることがない。そんなチームだった。そんなチーム相手に、出雲第一はやや苦戦を強いられた。先鋒が0-0、次峰が1-0、中堅が0-0、副将が1-1ときて、大将戦を迎えた。
「大将戦で隼がもし0-2で負けたりすると、優勝は光徳だな」
 秋月が小さくつぶやいた。鳳がうなずき、和田もそうか、と納得する。近衛はうなずく代わりに慈恩を見た。慈恩は微笑んでいただけだった。ただほんのりとやわらかい微笑み。しかしそこには、心配の欠片も見られなかった。
 慈恩にこれだけ勝ちを確信させるのだ。隼の負けは、ないだろう。近衛はそう考えた。そして、その考えは強烈なインパクトある隼の勝利で肯定されたのだった。
 開始早々の鋭い仕掛け。基本的に隼が仕掛けることは少なかったため、光徳の大将は焦りを見せた。そこへ見切るのが困難な速さで打ち込まれた三段技。右小手を狙い、更に踏み込んで正面に二段。五秒経たないうちに一本が決まった。
「・・・・・・これで出雲第一の負けはなくなった」
 一乗寺の言葉に近衛がうなずく。でも、これで隼が終わらせるはずがない。「永遠のライバル」慈恩が見ているのだ。慈恩を惚れ惚れさせるような試合を見せたいと、考えているに違いない。
 光徳の大将は、それでもさすがの自制心で落ち着きを取り戻した。しっかり中段に構え、気合の声を上げる。それに応えるように、隼が珍しく中段に構えた。
「また仕掛けるのか?」
 和田が首をひねる。これまで見てきた隼の試合は、大抵仕掛けられた技を神業の如く返すものだった。隼を見つめていた慈恩が、軽く息を飲んだ。
「?」
 訝しげに近衛が視線を向けると、慈恩は微かにつぶやいた。
「・・・・・・笑っ・・・・・・た・・・・・・」
 その言葉を掻き消すように威勢のいい掛け声が上がり、隼はいきなり二段技で打って出た。相手がそれを受けようとした瞬間、隼の竹刀が大きく振りかぶられた。
(上段?いや、これは、かつぎ技!)
「めぇん!」
 その声と、力強い踏み込みと、そして目で捉えきれないほど鋭い竹刀の軌道が相手の面の上で跳ね返るのとが、ほぼ全て同時だった。
「はっ・・・・・・速ぇ・・・」
 開始二十一秒。2-0で大将戦は決した。
「力技も使えるのか、あいつ・・・・・・」
 近衛が感嘆の溜息に載せた言葉に、慈恩が反応した。
「わざとだ」
「え?」
 振り返る近衛の目の前で、慈恩は会場の一人を凝視したまま微かに唇を震わせた。
「試合で見せたことは、なかった。・・・・・・俺に、見せ付けるための技だ」
「・・・・・・!」
 慈恩の視線を追った近衛は、はっきりとこちらを見上げている出雲第一の大将の姿を捉えた。面の奥の表情までは、はっきりと分からない。だが慈恩は、唇を噛んで、それから珍しく挑戦的に笑みを浮かべた。

「いつでも戦れるってことか」

 関東大会に引き続き慈恩が少し残って別行動をしたい、と申し出たのを、近衛は内心複雑に思いながらも表面的には快諾した。
「隼とのこと、九条に訊きたかったんじゃねえの?」
 新幹線で隣に座った和田に、揶揄を込めた言葉を掛けられて、近衛は軽く舌打ちしながら視線を逸らした。
「うるせえよ」
 そんなのいつでも訊ける。今慈恩の一番近くにいるのは自分なのだから。全国まで行かなければ会えないような友人との会話をも快く思わないような、そんな狭量な人物だなんて、自分でも思いたくなかった。まして慈恩にそう思われるようなことだけはごめんだった。
 和田が諦めたように苦笑した。
「お前が本音で話してくれるようになったのは嬉しいけどさ、本性のお前ってとことん天邪鬼だよな。素直じゃない上に人当たりも悪いし。まあ、上っ面で喋ってるお前よりはよっぽどいいけど」
 そこまで言って、声をひそめる。
「マジで九条に惚れてんの?」
「馬鹿言え」
 即答して、近衛は溜息をついた。隣で和田が、ちぇ、と足を組む。

「言うと思ったよ」

「桜花も悪ないチームや。次鋒、中堅、ええ動きしてはったし、大将、近衛。あいつも悪ない」
 同じように出雲第一と別行動することにした隼である。島根と広島は近いから、慈恩ほど問題はない、というのが隼の主張であるが、部長が別行動というのはどうだろう、と慈恩は少しだけ思った。隼から、少し話を聞かせて欲しいと言われたのは、決勝が終わった直後だった。今日のうちに東京まで帰ろうと思えば、少しでも早く新幹線に乗りたいところだ。閉会式まで残る義理はなかったが、慈恩は是、と答えた。
「けどまんだ荒削りやな。お前が大将やればええのに」
 広島駅のすぐ近くに見つけた喫茶店は、クラッシック調の音楽が流れる静かで落ち着いたところだった。客もそれほど多くなくて、席も個々に離れているので、静かにプライベートな話をするにはうってつけだった。
「桜花高校の剣道部では基本的に部長が大将、副部長が副将っていうのが伝統なんだ」
 それを聞いた隼は、露骨に呆れた顔をした。
「は?なんやそれ。そんなんで勝てるん?」
 自分で疑問を投げ掛けておいて、はっと我に返る。
「ええっ?ならお前、副部長?なんで?お前やったら、性格的にも実力でも部長ちゃうか?」
 どっちの質問に答えるべきなのか、慈恩は少し迷った。苦笑しながらコーヒーを一口含む。
「まあ、布陣に関しては俺も疑問に思ってたよ。でも、新人戦の関東大会から少し変わり始めた。顧問の先生はまだこだわりがあるみたいだけど、部長にも副部長にも全くこだわりがないから。もともと桜花の剣道部は地区大会止まりで終わることが多かった。でも、勝ち抜いていくためにどうしたらいいかってことを、この大会で学んだんじゃないかな。事実、俺は副部長じゃないけど副将を務めた。今まで当たり前に受け止めてきた伝統だったんだ。それが変わってきたってことは、大きな成長だろう?」
 んん?と隼は首をかしげた。説明が長すぎただろうか、と、慈恩はちょっとだけ心配した。コーヒーカップを口元へ運びながら相手の反応を待つ慈恩の前で、隼は自分を落ち着かせるように運ばれてきたばかりの梅昆布茶をすすった。そして、わずかに顔をしかめる。
「ちょーっと湯足りてへんなぁ。濃すぎるとあとで余計喉渇くさかいな~」
 待っていた反応が、自分の返答に全く関わりなかったので、慈恩はやや拍子抜けした。そもそも、喫茶店のメニューに昆布茶が載っていること自体が驚きだったが、常連客のリクエストがあったのかもしれない。と、そのことにはなんとか納得いったのだが、その昆布茶を頼む高校生がいるということの方が、はるかに驚きだった。しかも、かなりこだわりがあるようだ。
「コーヒー、飲むか?」
 一応聞いてみた。隼は、いや、とはっきりかぶりを振った。
「昆布茶飲んでるときにコーヒーなんて、邪道や」
「あ、そう?」
 すっかり話が逸れ気味である。
「じゃ、水でも入れたら?」
 ツッコミ覚悟で一言添えたら、じっと睨まれてしまった。
「お前、味音痴か?ぬるい梅昆布茶なんか、梅昆布茶を名乗る資格あれへんで」
「あ、そう」
 別に昆布茶自身は昆布茶を名乗っているわけではないと思うのだが。翔一郎や嵐だったら、すかさず突っ込み返すだろう。
「ならお前、部長も副部長もやってへんの?」
 逸れた話に完全に思考が偏ってしまっていた慈恩は、いきなり本題に戻されて驚いた。あのとんちんかんな会話の中で、ちゃんと別の思考回路は、隼の中で成立していたらしい。
「転校したのが夏休み明けだったからな。もう、部長も副部長も決まってた」
 別にそんなことにこだわるつもりもない。慈恩は笑った。それを見て、隼はふうん、とまた昆布茶をすすった。
「もったいないなあ。慈恩が部長やったら、ええ部になると思うで」
 ほっと溜息をつく。昆布茶(梅)は隼にとって、かなりリラックス効果があるようだ。苦笑する慈恩に、更に隼が切り出した。
「今日は斗音、来てへんかったな。なんや、夏は景気悪そうやったけど・・・・・・元気にしてはるん?」
 ちくり、と胸に針が刺さったような気がして、それを隠すように慈恩は笑みを載せた。
「ちょっと、体調を崩してるみたいで。微熱が続いてるって言ってたから、無理させたくなくて」
 隼がきりっとした眉根を寄せた。
「そうなん?そらあかんな。養生せんと・・・・・・」
 言いながら、眉間のしわが深くなる。
「せやけど、みたいて、なんや。言ってたて・・・・・・なんでお前そんな、他人事やの?お前の目で、確認したことやろ?冷とう聞こえるで、それ」
 自分の目が無意識に細められたのを、慈恩は感じた。刺さった針が、痛い。載せた笑みが、わずか引きつる。
「・・・・・・引っ越して転校してから・・・・・・あいつには、まだ一度も会ってない」
 大人びた顔が、驚愕を顕わにする。
「電話やメールで、連絡は取ってるけど・・・・・・お互い忙しかったり、斗音の体調が優れなかったりして・・・・・・」
 途端、隼の表情がぎょっと引きつる。
「なん・・・なんで?お前だけ転校したん?なら、斗音は?両親いてへんて、前斗音に聞いててんけど?一人にしたんか?心配やなかったんか?斗音はどないしとん?」
 一気に、息継ぎをする間もないくらいまくしたててから、隼は手にした昆布茶を置いて、短めの髪をがしがしと掻いた。
「あかん、プライベートなことやな。俺、サイテーや。・・・・・・お前が・・・・・・あんだけ心配しよった斗音を、平気で一人にするわけない。かんにんや」
 既に笑みを載せている余裕など、慈恩にはなくなっていたが、隼の申し訳なさそうな目を見て、自然に微笑した。
 斗音に、短い間だったとはいえ少なからず関わり、かなり心配してくれていた隼には話すべきなのだろう、と慈恩は思った。自分たちに起こった事実をあらかた話すことは、今更苦痛もなかったが、それでも自分たちに血のつながりがないことや、自分が九条家の血をついでいることなどの深い部分については、どうしても触れたくなかった。
 慈恩の話を、ただひたすら真剣な面持ちでうなずきながら聞いていた隼は、それが一区切りつくと、あれだけ批判したぬるい梅昆布茶をぐいっと一気に飲んだ。そして難しい顔をする。
「なんや、一回聞いたくらいではよう分からんけど・・・・・・一番分からんのは斗音や。俺には、あいつはめっさ慈恩に頼ってはるように見えたで。お前と離れたいやなんて・・・・・・絶対本音ちゃうと思うで」
 またちくりと胸が痛んだ。どれほどそうであって欲しいと望んだことか。その望みは、ことごとく斗音自身の言葉で否定された。
「お前かて、そう思うてるんちゃう?斗音の気持ちとか、お前の新しい両親の気持ちとか、色々あるみたいやけど、一番大事な人間の根っこの部分、間違うたらアカンで」
 もう一度湯呑みを口まで運んで、中身が空なのに気付き、すっかりぬるくなった慈恩のコーヒーカップに手を伸ばした。
「これ、もう飲まへんのやったら、もろてええ?」
「え?ああ、いいけど・・・・・・」
 それも一息に飲み干す。そして顔を歪めた。
「ブラックか。お前には似合うてるけど、俺、苦手や」
「普通、飲む前に確認しないか?」
「今俺、そないな余裕、あれへんねん」
 確かに、と慈恩は納得した。自分のしたことが邪道だと言い切ったことだとも気付いていないのだから。
「お前の話、ちょっとばかし衝撃的やったさかいな。俺、脳みその許容量少ないねん。今、一杯一杯や」
 更にコーヒーでも足りなかったらしくて、寒いはずなのに冷たい水までごくごくごくと三口で飲み干した。コン、と勢いよくテーブルに戻してから、ぶるっと身体を震わせた。
「さむっ」
 苦笑した慈恩はウエイトレスを呼び止めて、梅昆布茶とコーヒーをもう一杯注文した。
 とてもお手軽な注文だっただけに、その二つはすぐに運ばれてくる。二杯目の梅昆布茶を一口含んで、隼はにっと笑った。
「これは合格や」
「よかったな」
 熱々のコーヒーに、慈恩も口を付けた。やはり熱いコーヒーはおいしい。
 水の一気飲みが効いたのか、隼が熱い湯呑みを大きな両手で包み込む。
「はー、やっぱ落ち着くわぁ。でな、さっきの続きやけど」
 いつの間にやら大人びた顔が引き締まっている。こうしていると、隼はかなり男前だ。
「俺は詳しい事情も分からへんし、偉そうなこと言える立場やないのもよう分かっとるつもりやけどな。けど、お前絶対考えすぎやで。いろんな想いに囚われすぎて、一番おりこうさんな答えを選んでしもた気ぃする。俺やったら、哀れな夫婦に何言われようと、斗音に何言われようと、俺が斗音の傍におりたい思たら、斗音の傍におる」
 ずず、と両手に包んだ梅昆布茶をすする。言っていることも顔も申し分なくかっこいいのだが、その仕草は傍から見るとおばあちゃんがお茶を飲んでいる様に近い。それでも慈恩は、はっきりと胸に杭を打ち込まれた気がした。
「お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな。俺が絶対間違うてへんと思うのは、お前が斗音の傍を離れたことが間違うてるてことや」
 ズキン、と胸が痛んだ。隼の言葉は、とても重くて、重い痛みを伴って慈恩の胸に響いた。
 唇を噛み締めた慈恩を、隼は眉根を寄せて見つめていたが、また一口、梅昆布茶を飲んで、ほっと溜息をついた。
「・・・賢すぎるのも、時には考えもんやなぁ・・・・・・」

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