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2009年7月

四十五.祈り

 明るい光に誘われるようにして、斗音はそっと目を開いた。最近いつも目覚めるときの気だるさや、まとわりつく眠気の抵抗を受けることなく、すんなり瞼が持ち上がるのが、不思議だった。うつぶせに眠っていたらしく、枕に頬を埋めたまま、柔らかい綿毛布の優しい肌触りを感じる。
「・・・・・・ん」
 少し身体の向きを変えようとした途端、枕の下に硬いものがあることに気付く。それが何であるかはすぐに気付いた。
 開いたままの携帯電話。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・・・・)
 優しい声で、大好きな慈恩の剣道での活躍を聞きながら、眠りに落ちたのを思い出す。こんなに安らかにこの家で眠りについたのは、どれくらいぶりだろう。さすがの三神も、昨夜は色々思うところがあったらしく、一切手を出そうとはしなかった。
 手に取った携帯電話をそっと閉じて、両手に包み込む。それだけで心の中がほどけていくように幸せな気分になった。
 会いに行く、と言ってくれた慈恩。嬉しかった。少しでも元気になって、慈恩を心配させないようにしよう。そう心に強く思う。
 ふと思い立って、枕の下に手を入れる。細い鎖を指に絡めて、そっと引き出す。ちぎられた十字架のペンダント。残った力の全てを振り絞って手にしたそれを、斗音は気を失っても離さなかったらしい。点滴をされながら意識を取り戻したときも、固く握り締めたままだった。携帯とともにそっと握り込んで、胸に押し当てる。
 昨夜より熱が下がっているのだろう。呼吸もだいぶ楽だ。三神の治療は全て拒んだのだが、気を失っている間に九条家の掛かり付けの医者によって、様々な処置が行われていた。それでも断続的に発作は起きた。三神から受けた暴行は、身体的なダメージはもちろん、ひどく斗音の精神を打ちのめした。それに加え、高熱に連続する発作。意識も途切れがちのその苦しみの中で、更に斗音の精神を苛む激しい自己嫌悪。心身ともに激しいダメージを負った斗音は、その耐え難い苦しさとつらさに、何度もこのまま息絶えてしまいたいと本気で思った。ただ、約束を果たせなかったことを、慈恩に一言謝りたい。それだけが斗音の生きなければならない理由だった。それ以外のことは全て、苦しさに押し潰されてどうでもよくなってしまうほどだったが、慈恩に何も言わずにこの世から消えることはできないという思いだけは、潰れなかった。
 慈恩からの着信には、すぐ気付いた。でも、発作を起こした直後で、話せるまで呼吸を整えるのにしばらくの時間を要した。やっと通話ボタンを押せて、慈恩にごめん、と伝えた瞬間、苦しさに締め付けられていたものがほっと安堵に満たされた。これでもう苦しまなくていい。死ねる、と思った。そう思ったら、急に泣けてきた。死にたいと考える自分が悲しかった。つらくて苦しくて情けなくて惨めで、それで死にたい自分がもっと情けなくて、どうしようもなくて、その激しい精神的なストレスで、まだ前の発作がおさまらないうちに次の発作に襲われた。生への執着の最後の支えがなくなった瞬間、必死に自分を心配する慈恩の声が、鼓膜を激しく揺さぶった。
 心配しないで。心配させたくない。慈恩を困らせたくない。
 嬉しかったのだ。自分のことをこんなに思ってくれている人がこの世にいるのだと、思い知らされた。
 生きてていい?俺に、生きる価値はある?
 潰れた心に芽生えた生への希望。慈恩がいてくれる世界なら、生きられるかもしれない。
 瞬に必死に送ったメールのことも、すぐに理解してくれた。そして、言ってくれた「ありがとな」の言葉。自分のおかげで勝てたよ、と。優しい言葉。自分に価値を与えてくれた。
 慈恩を支えることができた?こんな俺でも。
 行きたい。全国大会に、行きたい。・・・・・・生きたい。死にたく、ない。
『お前の話が、聞きたい』
 与えてくれた役割。もう死ねない。死なない。その為だけに、俺は生きられる。
 そんな小さなことが、例えようもなく嬉しくて、また泣けてきた。生きなければならないという苦しみの束縛から解放されたときの、悲しい安堵とは比べようもない、温かい安心感。
 慈恩のいるこの世界で、俺は生きたい。
 慈恩の優しさに包まれて、いつの間にか発作はおさまっていた。精神的なつらさはもちろん、身体的な苦しさが驚くほど楽になっていった。死にたいという思いで張り詰めていた気持ちが慈恩の声にほどかれ、安らかな気持ちに満たされた。もう枯れたかと思うほど泣いたのに、また涙が、目頭を熱く濡らして溢れていった。生きているのだと実感した。幸福な時間だった。
(・・・・・・会いたい。せめて、心配させないくらいまで回復して・・・・・・たくさん話そう。今までのこと、色々・・・・・・慈恩のことも、聴きたい)
 ちぎれたペンダントに祈りを込めて、唇を触れる。

(俺は、生きる。だから、心が折れませんように。あいつに何をされても・・・・・・生きることだけは諦めない。そのための力を・・・・・・俺にください)

   ***

 瓜生が考えた通り、斗音の崩壊を食い止めた慈恩だったが、もちろん本人はそうとは知らないだろう。会うことはできなかったが、それでも斗音を思う気持ちが彼を救った。それを瓜生が実感したのは、また二日間の欠席を経て斗音が登校してきた水曜日だった。
 もちろん部活ができるはずもない斗音は、いつもの薄暗がりの中で瓜生を見つけて儚い微笑みを見せた。
「見つけた」
 ゆっくりと階段を上がって、踊り場に腰掛ける瓜生の隣に静かに腰を下ろす。
「少し時間が早かったから、いないかと思いました」
 優しい微笑は、やはり儚くて、綺麗だが壊れそうだった。わずかに眉根を寄せて、それから視線を逸らした。
「・・・・・・一昨日から、待ってたからな」
「あ・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 本当に申し訳なさそうに、悲しそうな顔をするので、別に気にしていない、と素っ気無く告げた。
「休むときは、連絡を入れますね」
「別にお前の手間を増やすつもりはねえよ」
 斗音の親切な提案を却下する。自分が斗音の負担になるつもりなど、欠片もない。
「お前が来たくなきゃ、ここに来る必要もない。お前が来たいと思ったときに来ればいい」
「・・・・・・来たいと思ってます。瓜生さんがいてくれるなら」
 斗音に視線を向けると、微かな微笑みが自分を見つめていた。
「・・・・・・好きにすればいい」
「はい」
 冷たい言いようだと思うが、斗音は儚いままの笑みでうなずいた。そして、そっと握った右手を差し出す。
「今日は、お願いがあるんです」
「?」
「これを」
 ゆっくり開かれた手には、斗音がいつも身につけている十字架のペンダントがあった。暗くてよく見えなかったが、留めるところはつながっているのに、鎖が二つに分かれて垂れ下がっていると分かった。
「・・・・・・手が震えて、上手く直せないんです。瓜生さんの左手を、貸して下さい」
「・・・・・・これ、は?」
 斗音が悲しそうに微笑む。
「あなた以外には、見られたくないんです」
 言ってから、軽くかぶりを振る。
「いいえ、本当はあなたにも・・・・・・。だけど、どうしても直したくて。四日間、ベッドの中でやってみたけど、どうしても駄目で」
「四日・・・・・・」
 思わずさかのぼってみる。となると、切れたのは土曜日だろうか。ベッドにいたということは、寝込んでいたということか。ならば、慈恩とは会えなかったということか?
「あは、でも一日はそれどころじゃなかったんですけど」
 苦笑した斗音の手からペンダントを取り上げ、鎖の先を見る。丁度先端の二つの小さな輪が、引き伸ばされた上で口を開き、ひどく変形している。かなり強い力で引っ張らないと、こうはならないだろう。これを直すのは少々厄介だと思ったが、それ以上に引きちぎったようなその跡が気になった。
(・・・・・・まさか、あいつが?)
 嫌な胸騒ぎがして斗音を見遣るが、寂しそうに微笑んでいるだけだ。
「・・・・・・ここでは暗くてできない。明るいところへ行くぞ」
 さっと立ち上がると、少し驚いたように、斗音もやや頼りない動作で立ち上がった。
「どこへ?」
「・・・・・・本当は家へ行きたいけど、目ぇ付けられてるだろうからな。絶対見つからねえ場所だ」
「見つから、ない?」
「五十メートル離れてついて来い」
「え、あのっ?」
 とっとと歩き始める。斗音が動けるのなら、問題ない。帰すことが前提であれば、大丈夫だろう。
 いつもの駅から電車に乗って、斗音が降りる駅を二駅乗り越して降りる。この時点でまず見つかることはない。定期で乗り越しの精算をし、駅周りに立ち並ぶビジネスホテルのひとつへ迷わず入っていく。言われたとおりに離れて歩いていた斗音は、不思議そうにその建物を見上げてからロビーに入ってきた。
「521号室。行くぞ」
「あの、瓜生さん・・・・・・」
「いかがわしいラブホよりいいだろ。工具も借りた」
 呆気に取られている斗音の髪を、くしゃっと乱した。
「ここならゆっくり休める。誰にも気付かれない」
 薄茶の瞳が大きく見開かれる。次に、また泣きそうに眉が下がる。
「ほら、行くぞ」
 右手は全く使えないわけではない。肘から下、そして手の甲まで固められているが、指先だけは自由になっている。工具さえあれば、不器用でもない。直せる自信があった。その間だけでも、休ませてやりたかった。
 部屋に入ると適当に荷物を置き、羽織った学生服を椅子に掛けて早速ペンダントと工具を机に載せた。どうしたものかと立ち尽くす斗音の荷物を取り上げて置き、ベッドに座るよう指示すると、大人しくベッドに腰掛けた。
「ちょっと、見せてみろ」
 だいぶ慣れてきた左手で斗音の制服のボタンを襟元だけ外し、詰襟を広げる。
「あ」
 慌てたように首に伸びてきた細い指をつかんで、乱暴にならないように引き離す。細くて白い首に残る、糸のような一本の線。痛々しい赤紫のそれを見て、瓜生は唇を噛んだ。やはり引きちぎられたのだ。
(どうしてこんなことを。つけたままで引きちぎるなんて・・・・・・)
 襟足の柔らかな髪をそっと持ち上げると、首の後ろまでそのあとは続いている。むしろ首の後ろの傷の方がひどい。そしてふと目に入る、もっとはっきりとした赤黒いものを見つけて、更に髪を掻き上げるようにした。
(・・・・・・これ・・・は・・・・・・!)
 耳朶のすぐ後ろ。金曜日に自分が鬱血の痕を残した場所。暗い中で分かるか分からないかくらいのほのかな痕だったはずだ。それが明らかに肌を破られて傷と化している。しかもその痕跡は。
(歯・・・の痕・・・・・・?!)
「・・・ごめんなさい」
 微かに震える声が聞こえて、はっと我に返る。うつむいた斗音の目から、パタパタと雫がこぼれた。
「ごめんなさい・・・・・・あなたが約束してくれた証だったのに。・・・・・・消されてしまった」
「・・・・・・椎名・・・・・・まさか、お前」
 言うより早く、斗音がトレーナーにしがみついた。
「ごめんなさい・・・・・・でも、それ以上、言わないで・・・」
 弱々しい力。それでも血色の悪い爪が白くなるほど、斗音は懸命だった。思わず瓜生は唇を噛んだ。その言霊にすら怯えるこの姿で、それでも斗音はその命で必死に生きようとしている。
「・・・・・・お願い・・・・・・」

 細い指が、頼りない背が、小刻みに震えている。あんなに怖がっていたのに、眠れないほど恐れていたのに、それが現実となってしまったのだ。それをあの男に許してしまった自分を、瓜生は深く憎んだ。
 
守ってやれなかった。守ってやりたい気持ちは、あの男の狂気に勝てなかったのだ。そう思うと、悔しくてつらくて、そして何より申し訳なかった。どれほどつらかっただろう。どんなに苦しかっただろう。四日間寝込むほど、心身ともにダメージを負ったのだ。この細い身体に、壊れそうな精神に。そして、今現在もその深い傷を抱えながら、それでも立ち上がろうとしている。自分で自分を支えようとしている、そんな気がする。こんなときですら、その強さに惹かれずにはいられない。震える痩せた身体を折れんばかりに抱きすくめた。
「・・・・・・・ごめんな。何もできなくて・・・・・・ごめん」
 華奢な身体が微かに反応した。震えるのではなく、自分の胸に小さな頭をこすり付けるようにして、首を横に振ったのだ。
「・・・俺は、もう・・・大丈夫です。慈恩と、今度こそ、会えるように・・・・・・生きると決めたから」
 小さな声で、それでも迷いなく紡がれた言葉。脳裏が焼きついたような眩暈を覚える。
「・・・・・・・・・・・・死を、考えたのか」
 そっと柔らかい髪を引くようにして顔を上げさせる。まだ涙を湛える瞳で、斗音は壊れそうに微笑した。
「・・・本気で死にたいと思ったのは、初めてでした」
 つ、と涙が白い頬を伝った。震える唇が、震える声を載せる。
「・・・つらくて情けなくて・・・・・・惨めで苦しくて・・・発作も熱も、ひどくて・・・・・・どうしてこんな思いをしてまで、生きてるんだろうって・・・・・・」
 次々と浮き上がる涙があとからあとから頬を濡らしていく。
「・・・・・・楽になりたいと、思ったら・・・・・・死ぬことはひどく魅惑的で・・・・・・」
 親指で涙の道をそっと拭った。そのあとをたちまち新しい雫が通り過ぎていく。

「でも、死ねなかった。慈恩に・・・行けなかったことを、謝るまでは・・・死ねないと思って・・・・・・必死で耐えて・・・・・・」
 何てことだろう。こんなに心身ともに衰弱している斗音に、なんて思いをさせてしまったのだろう。そんなこととは露知らず、そんな思いをしているときに支えてやることもできずに。知らず顔が歪んでいく。それに気付いたのだろう。また新しい涙のひと雫を頬に伝わらせながら、斗音はそっと微笑んだ。
「・・・・・・そんな顔、しないでください。もうそんなこと、思ってませんから」
 頬に添えた瓜生の手に、白い痩せた手がそっと触れる。
「俺が生きていることに、意味があると・・・・・・慈恩が教えてくれた。・・・・・・こんな俺でも、あんな状態でも、俺は慈恩の役に立てたんだと・・・・・・言ってくれたから。・・・・・・会いに行くから、話を聞かせて欲しいって・・・・・・全国大会にも胸を張って行けるって・・・・・・だから、だから俺は」
 新たに湧き上がる透明な涙が、斗音の薄茶の瞳を包み込んで、溢れた。
「生きようと、思った。何があっても・・・・・・もう俺は、死んで逃げようとはしない。そう決めたんです。・・・・・・だけど、その誓いを込めたあのクロスが・・・ちぎれてるのを見るたびに・・・あの、惨めな夜を・・・思い出すから・・・・・・」
 なんとしても直したかったのだと、ハスキーな声がつぶやくように言った。そして額を瓜生の胸に押し当てる。
「・・・・・・俺はまた、あなたを利用してる」
「すればいい」
 即答して、瓜生は華奢な身体を片腕で包み込むように抱き締めた。一番支えが必要なときに、何もできなかった自分。下手をすれば、失っていたかもしれないこのぬくもりを、つなぎとめたのはあの凛々しい黒い瞳の少年だった。強い絆で結ばれているこの兄弟が、何故離れなければならなかったのか、瓜生は詳しく知らない。それでも、感謝した。こうして抱き締められるのは、あの弟の想いが、斗音をつなぎとめてくれたからだ。
(やっぱりあいつが・・・・・・あいつだけが、こいつを救える。あいつ・・・・・・だけが)
「俺にできることくらいは、してやる。俺はお前を守ってもやれねえ。支えてもやれねえ。だから、お前が利用したいならすればいい。それで少しでもお前が楽になるならそれでいい」
 本音を並べ立てながら、心の隅で慈恩に嫉妬している自分がいることを知った。我ながら卑屈だと思い、思わず自嘲的な笑みが浮かんだ。腕の中で、斗音が小さく身じろぎする。無視してぎゅ、と力を込めた。首筋に頬を埋めると、自分の背にふわ、と優しい腕が添えられた。
「・・・・・・どうして?」
 擦れ気味の弱い声。問われる意図が分からなくて、あ?と聞き返す。背に回された腕に少しだけ力が入ったのが分かった。
「・・・俺が・・・・・・どれだけ、あなたに・・・・・・癒されたか・・・・・・。どれだけ・・・・・・支えられているか・・・・・・」
「・・・・・・」
 何を言っているのだろう、と、一瞬そう思った。左腕を緩めて腕の中の斗音に目を遣る。少しこっちをうかがうような三白眼で自分を見つめる斗音と視線が絡んだ。
「あなたがいなかったら、俺はとっくに発狂してる」
 大げさに言っているのでも、媚を売っているのでもない。淡々とそう言った斗音の言葉にも声にも瞳にも、真実しか見えなかった。
「・・・・・・椎・・・名・・・・・・」
 ゆっくりと、色素の薄い綺麗な瞳に引き寄せられるように近づいて、ごく自然に唇を触れ合わせていた。
 ああ、どうかこの柔らかなぬくもりを、失わずにいられるように。このどこまでも優しく、いとおしい人間を、自分の手で少しでも楽にしてやりたい。一度道を踏み外した自分のような人間に、この華奢な手が縋りついてくれるのなら。

(俺はどんな犠牲を払ってでも、お前を支えてやる)

 ふと気がついた斗音は、見慣れない部屋に一瞬自分の置かれた状況を把握できずに、柳眉を寄せた。
(・・・・・・あれ?ここどこだっけ・・・・・・?)
 少しだけ熱っぽい。無理もない。まだ身体は衰弱したままだ。それに加えてこの五日間はまともに食べ物を口にしていないのだ。それなのに登校したのだから。
 そこまで思って、瓜生と駅前のビジネスホテルに入ったことを思い出す。ぎょっとして腕時計に目をやると、針は八時より少し前を指している。一瞬朝なのか夜なのかも判別できずに、がばっと身を起こした。途端、くらっと視界が揺らいでたちまち崩れ落ちる。そこで、ベッドで眠っていたのだと知る。動悸を抑えながら、眩暈を堪えて再びゆっくり顔を上げる。もう一度落ち着いて時計を見ると、まだ日付は変わっていないし、水曜日のままだ。
(よかった・・・・・・まだ、三神に咎められるほどの時間じゃない・・・・・・)
 心底ほっとしてから、そろそろと起き上がる。学生服だけ隣の椅子にしわにならないように載せてある。
(・・・瓜生さんは?)
 きょろ、と部屋を見回すと、机の上に工具を散らかしたまま、伏せている姿が目に入った。結局瓜生が言うままに、ペンダントの修理を任せてしまった。
『指だけなら右も使える。たぶんお前よりは上手く直せる』
 でも、と躊躇う斗音の目尻に残る涙を、節くれだった親指でぐいと拭って、思わず目を閉じた、その瞼に優しく唇を押し当てて。
『俺の前で無理すんな。少しでも休んでろ』
 そう言ってペンダントを取り上げてしまった。瓜生にキスされるのは初めてではないが、それほど気さくにスキンシップを図るタイプではない彼と、腕の骨折以来、会うたびにこんな触れ方をするようになっている気がする。自分のために傷を負った瓜生に、信頼が深まったことはあるのだろう。瓜生にしても、近しいものを自分に感じてくれているように思う。はっきり言って常識を逸した触れ方だと思うが、それでも瓜生の込めてくれる想いは温かくて、優しくて、それに触れ、包まれるのは心地よかった。同じ行為でも、三神の場合総毛立って身がすくんでしまうほど、恐ろしいのに。
(ていうか、何で俺の相手は男ばっかなわけ?)
 この期に及んで、自分の外見が綺麗だとか可愛いとか、その何気ない表情や仕草に脆く崩れそうなほど精神的な危うさを見せているなどと、思ってもみない斗音であった。
 そっと瓜生をのぞき込んでみる。細かい作業をして疲れたのだろう。全く気づく気配がない。

「瓜生さん・・・」
 
そっと肩を揺すってみるが、それでも反応しない。

「・・・・・・起きて・・・・・・?」
 
少し困って、伏せる姿をじっと見つめた。眠っている瓜生の背中はたくましくて広い。自分のために、必死になってくれる瓜生を、頼りにしている。この背中は、その頼もしさを象徴しているようだ。
(・・・・・・俺は、いつもこの背中を見てる)
 必ず先を歩く瓜生。話しているときでも、普段はそれほど目を合わせようとしてくれない。それでも、この背中は無言で自分を守ると言ってくれている。そんな背中を見るのは、嫌いではなかった。そっと肩に掛けた手をずらして、肩甲骨の辺りに添える。はっきり浮き出すそれと、無駄なくしっかりついた筋肉。自分とは正反対の鍛え上げられた背中だ。無意識のまま額を触れさせ、頬を寄せた。ほんのりと、トレーナーの上からでも彼の熱を感じた。優しい、温度だった。それが例えようもなく心に染みて、知らず、目頭が熱くなるのを感じた。
「・・・・・・俺は、たぶん・・・・・・」
 涙がひとつ、頬と背に挟まれて布に吸い込まれた。

「・・・・・・・・・・・・たぶん・・・あなたのことが・・・・・・」

   ***

 翌々週、広島で剣道の新人戦全国大会が開催された。
「よ、椎名。久しぶりやな」
 からりと明るい関西訛りに、慈恩は会場となっている武道館に入った途端、呼び止められた。その名に即座に反応した自分に、やや苦笑する。
「久しぶり。やっぱり出雲第一も来たか」
「げ、こいつ・・・・・・今年のインターハイで優勝した・・・・・・隼!?」
 隼が慈恩の言葉に反応するより先に反応したのは、和田だった。その目は驚愕をありありと露呈している。
「も、もしかして九条、こいつと知り合い?」
 その驚きっぷりに、慈恩はやや面食らいながらうなずいた。
「知ってるよ。一応小学校の頃から、知ってることは知ってるけど・・・・・・今年の夏にちょっと親しくなる機会があって」
「ちょっとてなんや、冷たいなあ。俺ら永遠のライバルやろ?」
 今度は横から何の躊躇いもなく口を出してくる隼に、慈恩は首をかしげて見せた。
「いつから永遠のライバルになったんだ」
 それを聞いた隼は、愕然と切れ長の瞳を見開いた。
「ガーン。ちょっとそれ、ショックや。俺のたった一人のライバルが、俺なんかライバルちゃうて言わはる」
「ガーンて。そんなこと言ってないだろ。永遠ってところが初耳だったんだよ」
 やや呆れたように返した慈恩に、隼はいつもの人懐こい笑みを浮かべた。
「せやったらええねん。俺がただ一人、ライバルと認めた男やさかいな。見放されたらかなんから」
 呆気に取られたように二人の会話を見ていた鳳が、真剣な表情でつぶやいた。
「こいつが、日本で一番強い高校生?本当に?」
「ていうか、そいつにライバルって言われて平然としてる九条の方が、俺は信じらんねえ」
 それに答えた和田の、その言葉を隼が聞きとがめる。
「なあ、椎名。何でそこの人、お前のこと九条て呼ばはるん?」
 更に、首をかしげる。
「それに・・・・・・如月の、人?」
「・・・・・・!」
 丁度話題には参加せず、受付をしていた近衛が、はっと顔を上げる。和田も気まずそうに慈恩を見遣っている。その視線の先で、慈恩は微かに微笑んだ。
「あれから色々あって、転校したんだ。今は桜花高校にいる。姓も、九条に変わった」
 隼の大人びた顔がひどく驚いた様相を呈した。しばらく切れ長の目をしばたたいていたが、やや置いてから、にぱっと笑った。
「そか」
 慈恩の肩を軽くたたく。
「今日は団体戦やさかい、うちも決勝までいけるとは断言せえへんけど、戦(や)れるとええなあ」
 にこにこと、何のわだかまりもなく接する隼に、近衛は不思議なものを見るような感覚を覚えた。そんな彼に対して
「相変わらず強気なこと言う」
 なんて、苦笑しながら相手を小突く慈恩も、その流し方を決して悪く思っていないのが分かる。この二人にも、自分の知らないつながりがあるのだと実感した。
「お前、大将か?」
「いや、副将」
「なんや、それやったら、当たったかて俺ら対戦でけへんのか。大将、お前より強いん?」
「どうかな。でも、弱かったら全国には出てないだろ」
「せやな。なら、悪ないか。そもそも、お前より強い奴なんか、そうそういてへんし」
「そこまで過信してないって。それより、お前、部の方はどうなったんだ?」
 何気ない会話の中に、自分の分からない話題が出てくると、思わず聞き耳を立ててしまっていることに気付いて、近衛は自身の内で舌打ちした。そんな近衛の目の前で、隼はからりと笑った。
「俺が睨まれてたんは先輩らだけや。今の学年は気楽やで。一応、部長やしな」
「実力は文句なしだろうけど、変なこと言って顰蹙買ったりしてないか?」
「そこも含めて俺の魅力やさかい、誰も気にしはらへんよ」
「あ、そう。心の広い部員たちだな」
「ちゃうて。俺の人徳や」
「そういうことにしとくよ」
 隼は気さくに慈恩の肩に腕を回し、慈恩も気楽にそれを受け入れて、互いにおかしそうに笑い合っている。
「近衛、不満そうだぜ」
 横から突付かれて、はっと我に返る。和田がニヤニヤしている。
「取られたみたいで悔しい?」
「そんなこと、思ってない」
 なるべく負の感情を表に出さないようにして、近衛はくるりと踵を返した。控え席の二階へ向かう近衛の背中を視線で追いながら、和田がぼやいた。

「・・・・・・思ってんじゃん」

 全国大会に出てきたチームは、やはり強かった。近藤や橋本のように、個人でも全国へ出られる実力を持ち合わせている選手と出場したインターハイとは、わけが違う。そんな中でも、隼率いる出雲第一高校は問題なく勝ち進んだ。どの選手も全国レベルなのだ。全員二年生にも関わらず、近衛レベルはざらで、それ以上、下手をすると慈恩にひけをとらないような選手も抱えている。そんな中でも、隼は抜きん出た実力を惜しげもなく披露していた。
「あいつは洒落にならない強さだね」

 出雲第一の試合を観た鳳が思わず溜息をつき、東坊城や秋月が大いにうなずいた。
 
新人戦ということで、まだ育ちきらない選手が勝敗を決めていった。桜花高校は、一回戦を3-2で勝ち抜いたが二回戦で岐阜の八百津高校と当たり、2-3で敗退してしまった。八百津高校の布陣は明らかに前半に強い選手を集めたもので、先鋒、次鋒、中堅で、中堅、副将、大将クラスが出てきていた。先鋒の和田、次鋒の東坊城、中堅の鳳は、さすがに自分より格上の相手には勝てず、和田が0-1、東坊城と鳳が1-2で負けてしまった。その代わり、慈恩が2-0、近衛が1-0で一矢報いた形にはなったが、今回のトーナメント戦に敗者復活戦が組まれていなかったので、そこで桜花の前進は止まってしまった。しかし、それでもこれまでにない快進撃であったことは間違いない。桜花の面々には満足げな表情があった。慈恩にしてみても、このメンバーでここまでくることができたのは、予想以上のできであった。
「八百津って、インハイにも出てたよな」
 記憶を手繰るようにした一乗寺に、慈恩がうなずく。それを確認して、やっぱり強いわけだ、とうなずく桜花の面々。そこへ、ひょこりと珍客が顔を出した。
「相変わらず謙遜ばっかしてんねんなー。慈恩、個人戦で八百津の大将に勝ってたやん」
 驚いて振り返る慈恩に、隼がにこーっと笑って見せる。
「慈恩は圧勝したで。俺、惚れ惚れして見とってん。けど、桜花負けてしもたから、残念やわ~。もう慈恩の戦っとるとこ、今日は見られへんねんなぁ」
 ぎょっとして慈恩が隼を小突いた。
「隼!」
 隼もぎょっとする。
「えっ!俺まずいことゆうてしもた?え?ほんま?うわ、かんにんっスわ」
 ぺこぺこと桜花のメンバーに頭を下げながら、困った顔をする。大人びた顔の癖に、ちっとも大人っぽく見えない。
「俺ほんま、物言いがなってへんて前の部長にもよう言われたんやけど、剣道のことになると、ほんま周り見えへんよって・・・・・・」
 本当に申し訳なさそうな様子に、桜花の面々は互いに顔を見合わせて苦笑するしかなかった。
「別にいいよ。俺たちの力が足りなかったのは事実だし。それでも全国で一勝できるなんてのが、桜花にとっては快挙なんだ」
「この快挙も、ほぼ九条のおかげだしな」
 近衛も、並外れた技術を持つ隼の素顔に、憎めない思いを禁じ得ない。それ以上に、慈恩のことを「椎名」と呼んでいたはずの彼が、さりげなく呼び方を変えていたことに、微かな尊敬の念すら抱いた。
 そんな中で、隼が困惑の表情のまま、こっそり慈恩に耳打ちした。
「なあ、俺、どの辺から間違うた?」
 聞いた瞬間、がっくり肩を落とした慈恩の隣にいた近衛は、その耳打ちした言葉を聞くつもりもなく聞いてしまい、抱いたばかりの尊敬の念が、砂上の楼閣のようにたちまち崩れていくのを感じた。

 近衛の尊敬の念が消えようとも、隼の実力は否定のしようもなかった。出雲第一はほとんど危なげない試合運びで準決勝まで進み、そこまでに隼は一本たりとも相手に許しはしなかった。決勝は光徳学園。インターハイの団体決勝と同じ組み合わせとなった。どちらも控え選手の層が厚いというところでは、ひけをとらなかった夏の大会、その中でもレギュラーだった二年生、そして控えとして活躍していた二年生も沢山いた。隼もその一人である。
 
光徳学園のチームにはどこにも穴がなかった。誰もが平均して強い。だから、どこに強い選手を配置されようと、ほとんど負けることがない。そんなチームだった。そんなチーム相手に、出雲第一はやや苦戦を強いられた。先鋒が0-0、次峰が1-0、中堅が0-0、副将が1-1ときて、大将戦を迎えた。
「大将戦で隼がもし0-2で負けたりすると、優勝は光徳だな」
 秋月が小さくつぶやいた。鳳がうなずき、和田もそうか、と納得する。近衛はうなずく代わりに慈恩を見た。慈恩は微笑んでいただけだった。ただほんのりとやわらかい微笑み。しかしそこには、心配の欠片も見られなかった。
 慈恩にこれだけ勝ちを確信させるのだ。隼の負けは、ないだろう。近衛はそう考えた。そして、その考えは強烈なインパクトある隼の勝利で肯定されたのだった。
 開始早々の鋭い仕掛け。基本的に隼が仕掛けることは少なかったため、光徳の大将は焦りを見せた。そこへ見切るのが困難な速さで打ち込まれた三段技。右小手を狙い、更に踏み込んで正面に二段。五秒経たないうちに一本が決まった。
「・・・・・・これで出雲第一の負けはなくなった」
 一乗寺の言葉に近衛がうなずく。でも、これで隼が終わらせるはずがない。「永遠のライバル」慈恩が見ているのだ。慈恩を惚れ惚れさせるような試合を見せたいと、考えているに違いない。
 光徳の大将は、それでもさすがの自制心で落ち着きを取り戻した。しっかり中段に構え、気合の声を上げる。それに応えるように、隼が珍しく中段に構えた。
「また仕掛けるのか?」
 和田が首をひねる。これまで見てきた隼の試合は、大抵仕掛けられた技を神業の如く返すものだった。隼を見つめていた慈恩が、軽く息を飲んだ。
「?」
 訝しげに近衛が視線を向けると、慈恩は微かにつぶやいた。
「・・・・・・笑っ・・・・・・た・・・・・・」
 その言葉を掻き消すように威勢のいい掛け声が上がり、隼はいきなり二段技で打って出た。相手がそれを受けようとした瞬間、隼の竹刀が大きく振りかぶられた。
(上段?いや、これは、かつぎ技!)
「めぇん!」
 その声と、力強い踏み込みと、そして目で捉えきれないほど鋭い竹刀の軌道が相手の面の上で跳ね返るのとが、ほぼ全て同時だった。
「はっ・・・・・・速ぇ・・・」
 開始二十一秒。2-0で大将戦は決した。
「力技も使えるのか、あいつ・・・・・・」
 近衛が感嘆の溜息に載せた言葉に、慈恩が反応した。
「わざとだ」
「え?」
 振り返る近衛の目の前で、慈恩は会場の一人を凝視したまま微かに唇を震わせた。
「試合で見せたことは、なかった。・・・・・・俺に、見せ付けるための技だ」
「・・・・・・!」
 慈恩の視線を追った近衛は、はっきりとこちらを見上げている出雲第一の大将の姿を捉えた。面の奥の表情までは、はっきりと分からない。だが慈恩は、唇を噛んで、それから珍しく挑戦的に笑みを浮かべた。

「いつでも戦れるってことか」

 関東大会に引き続き慈恩が少し残って別行動をしたい、と申し出たのを、近衛は内心複雑に思いながらも表面的には快諾した。
「隼とのこと、九条に訊きたかったんじゃねえの?」
 新幹線で隣に座った和田に、揶揄を込めた言葉を掛けられて、近衛は軽く舌打ちしながら視線を逸らした。
「うるせえよ」
 そんなのいつでも訊ける。今慈恩の一番近くにいるのは自分なのだから。全国まで行かなければ会えないような友人との会話をも快く思わないような、そんな狭量な人物だなんて、自分でも思いたくなかった。まして慈恩にそう思われるようなことだけはごめんだった。
 和田が諦めたように苦笑した。
「お前が本音で話してくれるようになったのは嬉しいけどさ、本性のお前ってとことん天邪鬼だよな。素直じゃない上に人当たりも悪いし。まあ、上っ面で喋ってるお前よりはよっぽどいいけど」
 そこまで言って、声をひそめる。
「マジで九条に惚れてんの?」
「馬鹿言え」
 即答して、近衛は溜息をついた。隣で和田が、ちぇ、と足を組む。

「言うと思ったよ」

「桜花も悪ないチームや。次鋒、中堅、ええ動きしてはったし、大将、近衛。あいつも悪ない」
 同じように出雲第一と別行動することにした隼である。島根と広島は近いから、慈恩ほど問題はない、というのが隼の主張であるが、部長が別行動というのはどうだろう、と慈恩は少しだけ思った。隼から、少し話を聞かせて欲しいと言われたのは、決勝が終わった直後だった。今日のうちに東京まで帰ろうと思えば、少しでも早く新幹線に乗りたいところだ。閉会式まで残る義理はなかったが、慈恩は是、と答えた。
「けどまんだ荒削りやな。お前が大将やればええのに」
 広島駅のすぐ近くに見つけた喫茶店は、クラッシック調の音楽が流れる静かで落ち着いたところだった。客もそれほど多くなくて、席も個々に離れているので、静かにプライベートな話をするにはうってつけだった。
「桜花高校の剣道部では基本的に部長が大将、副部長が副将っていうのが伝統なんだ」
 それを聞いた隼は、露骨に呆れた顔をした。
「は?なんやそれ。そんなんで勝てるん?」
 自分で疑問を投げ掛けておいて、はっと我に返る。
「ええっ?ならお前、副部長?なんで?お前やったら、性格的にも実力でも部長ちゃうか?」
 どっちの質問に答えるべきなのか、慈恩は少し迷った。苦笑しながらコーヒーを一口含む。
「まあ、布陣に関しては俺も疑問に思ってたよ。でも、新人戦の関東大会から少し変わり始めた。顧問の先生はまだこだわりがあるみたいだけど、部長にも副部長にも全くこだわりがないから。もともと桜花の剣道部は地区大会止まりで終わることが多かった。でも、勝ち抜いていくためにどうしたらいいかってことを、この大会で学んだんじゃないかな。事実、俺は副部長じゃないけど副将を務めた。今まで当たり前に受け止めてきた伝統だったんだ。それが変わってきたってことは、大きな成長だろう?」
 んん?と隼は首をかしげた。説明が長すぎただろうか、と、慈恩はちょっとだけ心配した。コーヒーカップを口元へ運びながら相手の反応を待つ慈恩の前で、隼は自分を落ち着かせるように運ばれてきたばかりの梅昆布茶をすすった。そして、わずかに顔をしかめる。
「ちょーっと湯足りてへんなぁ。濃すぎるとあとで余計喉渇くさかいな~」
 待っていた反応が、自分の返答に全く関わりなかったので、慈恩はやや拍子抜けした。そもそも、喫茶店のメニューに昆布茶が載っていること自体が驚きだったが、常連客のリクエストがあったのかもしれない。と、そのことにはなんとか納得いったのだが、その昆布茶を頼む高校生がいるということの方が、はるかに驚きだった。しかも、かなりこだわりがあるようだ。
「コーヒー、飲むか?」
 一応聞いてみた。隼は、いや、とはっきりかぶりを振った。
「昆布茶飲んでるときにコーヒーなんて、邪道や」
「あ、そう?」
 すっかり話が逸れ気味である。
「じゃ、水でも入れたら?」
 ツッコミ覚悟で一言添えたら、じっと睨まれてしまった。
「お前、味音痴か?ぬるい梅昆布茶なんか、梅昆布茶を名乗る資格あれへんで」
「あ、そう」
 別に昆布茶自身は昆布茶を名乗っているわけではないと思うのだが。翔一郎や嵐だったら、すかさず突っ込み返すだろう。
「ならお前、部長も副部長もやってへんの?」
 逸れた話に完全に思考が偏ってしまっていた慈恩は、いきなり本題に戻されて驚いた。あのとんちんかんな会話の中で、ちゃんと別の思考回路は、隼の中で成立していたらしい。
「転校したのが夏休み明けだったからな。もう、部長も副部長も決まってた」
 別にそんなことにこだわるつもりもない。慈恩は笑った。それを見て、隼はふうん、とまた昆布茶をすすった。
「もったいないなあ。慈恩が部長やったら、ええ部になると思うで」
 ほっと溜息をつく。昆布茶(梅)は隼にとって、かなりリラックス効果があるようだ。苦笑する慈恩に、更に隼が切り出した。
「今日は斗音、来てへんかったな。なんや、夏は景気悪そうやったけど・・・・・・元気にしてはるん?」
 ちくり、と胸に針が刺さったような気がして、それを隠すように慈恩は笑みを載せた。
「ちょっと、体調を崩してるみたいで。微熱が続いてるって言ってたから、無理させたくなくて」
 隼がきりっとした眉根を寄せた。
「そうなん?そらあかんな。養生せんと・・・・・・」
 言いながら、眉間のしわが深くなる。
「せやけど、みたいて、なんや。言ってたて・・・・・・なんでお前そんな、他人事やの?お前の目で、確認したことやろ?冷とう聞こえるで、それ」
 自分の目が無意識に細められたのを、慈恩は感じた。刺さった針が、痛い。載せた笑みが、わずか引きつる。
「・・・・・・引っ越して転校してから・・・・・・あいつには、まだ一度も会ってない」
 大人びた顔が、驚愕を顕わにする。
「電話やメールで、連絡は取ってるけど・・・・・・お互い忙しかったり、斗音の体調が優れなかったりして・・・・・・」
 途端、隼の表情がぎょっと引きつる。
「なん・・・なんで?お前だけ転校したん?なら、斗音は?両親いてへんて、前斗音に聞いててんけど?一人にしたんか?心配やなかったんか?斗音はどないしとん?」
 一気に、息継ぎをする間もないくらいまくしたててから、隼は手にした昆布茶を置いて、短めの髪をがしがしと掻いた。
「あかん、プライベートなことやな。俺、サイテーや。・・・・・・お前が・・・・・・あんだけ心配しよった斗音を、平気で一人にするわけない。かんにんや」
 既に笑みを載せている余裕など、慈恩にはなくなっていたが、隼の申し訳なさそうな目を見て、自然に微笑した。
 斗音に、短い間だったとはいえ少なからず関わり、かなり心配してくれていた隼には話すべきなのだろう、と慈恩は思った。自分たちに起こった事実をあらかた話すことは、今更苦痛もなかったが、それでも自分たちに血のつながりがないことや、自分が九条家の血をついでいることなどの深い部分については、どうしても触れたくなかった。
 慈恩の話を、ただひたすら真剣な面持ちでうなずきながら聞いていた隼は、それが一区切りつくと、あれだけ批判したぬるい梅昆布茶をぐいっと一気に飲んだ。そして難しい顔をする。
「なんや、一回聞いたくらいではよう分からんけど・・・・・・一番分からんのは斗音や。俺には、あいつはめっさ慈恩に頼ってはるように見えたで。お前と離れたいやなんて・・・・・・絶対本音ちゃうと思うで」
 またちくりと胸が痛んだ。どれほどそうであって欲しいと望んだことか。その望みは、ことごとく斗音自身の言葉で否定された。
「お前かて、そう思うてるんちゃう?斗音の気持ちとか、お前の新しい両親の気持ちとか、色々あるみたいやけど、一番大事な人間の根っこの部分、間違うたらアカンで」
 もう一度湯呑みを口まで運んで、中身が空なのに気付き、すっかりぬるくなった慈恩のコーヒーカップに手を伸ばした。
「これ、もう飲まへんのやったら、もろてええ?」
「え?ああ、いいけど・・・・・・」
 それも一息に飲み干す。そして顔を歪めた。
「ブラックか。お前には似合うてるけど、俺、苦手や」
「普通、飲む前に確認しないか?」
「今俺、そないな余裕、あれへんねん」
 確かに、と慈恩は納得した。自分のしたことが邪道だと言い切ったことだとも気付いていないのだから。
「お前の話、ちょっとばかし衝撃的やったさかいな。俺、脳みその許容量少ないねん。今、一杯一杯や」
 更にコーヒーでも足りなかったらしくて、寒いはずなのに冷たい水までごくごくごくと三口で飲み干した。コン、と勢いよくテーブルに戻してから、ぶるっと身体を震わせた。
「さむっ」
 苦笑した慈恩はウエイトレスを呼び止めて、梅昆布茶とコーヒーをもう一杯注文した。
 とてもお手軽な注文だっただけに、その二つはすぐに運ばれてくる。二杯目の梅昆布茶を一口含んで、隼はにっと笑った。
「これは合格や」
「よかったな」
 熱々のコーヒーに、慈恩も口を付けた。やはり熱いコーヒーはおいしい。
 水の一気飲みが効いたのか、隼が熱い湯呑みを大きな両手で包み込む。
「はー、やっぱ落ち着くわぁ。でな、さっきの続きやけど」
 いつの間にやら大人びた顔が引き締まっている。こうしていると、隼はかなり男前だ。
「俺は詳しい事情も分からへんし、偉そうなこと言える立場やないのもよう分かっとるつもりやけどな。けど、お前絶対考えすぎやで。いろんな想いに囚われすぎて、一番おりこうさんな答えを選んでしもた気ぃする。俺やったら、哀れな夫婦に何言われようと、斗音に何言われようと、俺が斗音の傍におりたい思たら、斗音の傍におる」
 ずず、と両手に包んだ梅昆布茶をすする。言っていることも顔も申し分なくかっこいいのだが、その仕草は傍から見るとおばあちゃんがお茶を飲んでいる様に近い。それでも慈恩は、はっきりと胸に杭を打ち込まれた気がした。
「お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな。俺が絶対間違うてへんと思うのは、お前が斗音の傍を離れたことが間違うてるてことや」
 ズキン、と胸が痛んだ。隼の言葉は、とても重くて、重い痛みを伴って慈恩の胸に響いた。
 唇を噛み締めた慈恩を、隼は眉根を寄せて見つめていたが、また一口、梅昆布茶を飲んで、ほっと溜息をついた。
「・・・賢すぎるのも、時には考えもんやなぁ・・・・・・」

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四十六.崩壊していく精神(こころ)

 高い崖を這い上がるのは、並大抵の苦労ではない。その崖が急で険しければなおのこと、その位置にしがみついているだけでも、本人は必死に違いない。
(落ちていくのは、それがどんなにつらいことでも、あっという間のことなのに)
 携帯の通話を切って、斗音はくすっと笑った。翔一郎の寂しそうな声が、頭に焼き付いている。
『無理言ってごめんな』
「ひどいことを言ったのは、俺なのに」
 言いながら携帯をカチンと閉じた。くすくすと剥き出しの肩を揺らして天井を見上げ、声を上げて笑う。左手の中にあるものを握り締めながら、携帯を乱暴に床に放り出す。
「あははは、ははははははっ!」

 その薄茶の瞳は充血していて、長い睫毛は涙に濡れている。目の下には白い肌に黒ずんだ隈が浮かび上がり、睫毛同様に濡れて、その色を濃くしていた。
 
放り出したばかりの携帯が、また音楽を奏で始める。
 
途端、擦れた笑い声は引きつり、斗音は両手で硬く耳を塞いだ。それでも電子音は微かに聴覚を刺激する。
 
斗音の喉が、ひくり、と震えた。そして、擦れた悲鳴が迸った。
「うわあああああああああああっ!」
 斗音の心の中に、悲痛な思いがはちきれんばかりに膨れ上がって、苦しさのあまり、煙草の匂いが残る空気をまるで金魚がそうするかのように、無理矢理肺に押し込もうとする。喘いで、滲んだ視界をカッと見開いた目で見つめ、握り締めた左手に右手をかぶせて、爪が白くなるほど硬く握り締めた。その指からこぼれるのは、細い銀色の鎖。その鎖に、ツツ、と赤い重い雫が絡まった。
「あ・・・・・・ぁ・・・・・・・・・・・・」
 ふ、と瞳が焦点を失う。同時に涙が病的に白い頬を転がり落ち、腕や腰に布を絡ませた痩躯は、はたりとベッドに崩れるように倒れた。
 直後に、何の合図もなしに乱暴にドアが開けられる。
「斗音!斗音さん!」
 素肌にシャツを羽織り、前をはだけたままにしている格好の三神が飛び込んできて、ベッドの脇に片膝をついた。
「斗音さん!聞こえますか!」
 耳元で強く呼びかけ、その痩せた肩を揺するが、斗音には何の反応もない。
「・・・・・・また、か」
 ちっ、と舌打ちして、三神は立ち上がった。ズボンのポケットから煙草とライターを取り出し、慣れた手つきで火を点けて、深々と煙を肺に吸い込む。長い吐息とともに紫煙を吐き出して、眉根をひそめながら倒れた痩躯を見つめ、ぎしっとベッドに腰をかける。
「・・・・・・もう、止められない。俺と一緒にあなたは、堕ちていく」
 優しくアッシュの髪を撫で、痛々しく笑んだ。
「・・・・・・あなたは優しすぎる。もう、俺を拒むこともできない。そうやって、俺の代わりに壊れていく」
 すっと顔を近づけて、頬に唇を触れさせ、左手の平に食い込んだ十字架をじっと見つめる。
「それがなかったら、もっと楽に現実から逃げ出せたのに。馬鹿な人だ」
 切れ長の目が、すっと細められた。

「本当に・・・・・・・・・・・・馬鹿な、人だ」

   ***

 ひと月前、慈恩が身につけていた、母親の形見だという十字架のペンダントを引きちぎり、斗音を無理矢理自分の下に組み敷いたあの日を、三神は激しく後悔した。ますます自分に怯え、警戒し、死ぬことすら己の未来に見出していた斗音に、近づくことすらできなかった。穢された自分の命より、慈恩のペンダントを心配した彼。そこまで自分が受け入れられない存在なのだと突きつけられた瞬間だった。
 それでも、斗音が何とか回復するまでは、必死で、彼を生かしたい一心で、尽くそうとした。斗音は三神と目を合わせようともしなかったが、自責の念でそのつらさは乗り越えられた。彼が自力で起き上がれるようになり、自分から「甘酒が飲みたい」とつぶやいたときは、涙すらこぼれたのだ。
 
しかし、斗音がだいぶ回復して、再び無理を押して学校へ行くようになって、最初に彼がしたことは、ペンダントを直すことだった。少し遅くに帰ってきた斗音は、少し寂しそうに、それでも殊のほか大事そうに、そのペンダントを握り締めて放さなかった。ほとんど口もきいてくれない斗音だったが、沢村に酒の粕で甘酒を作らせて出すと、少しだけ嬉しそうにした。三神への言葉は、期待などしていなかったが、やはりなかった。
「今まで甘酒なんて、言われたことありませんでしたが、お好きだったんですか?」
 何の話題も切り出せなくて、苦しくて、勇気を振り絞って言った一言だった。斗音は細い両の指でマグカップを包みながら、ほんのりと微笑んだ。久しぶりに見せたその微かな笑みは、強く三神の心をつかんだ。つかんだのだ。目頭が熱くなるくらいに。だが。
「・・・・・・瓜生さんが、作ってくれたのが、美味しかったんだ」

 本当に久しぶりに見たその微笑みすら、自分に向けられたものではなく、それどころか彼が喜ぶからと用意していたものは、他人との思い出の品で。
 
それからは苦しくて苦しくて、与えられた自室で取り付かれたように煙草を吸い、それでも今度ばかりは満たされなくて、浴びるほどのアルコールを摂取した。日に日にそれは過剰になっていき、たちまち自分の仕事に支障を来たすまでになった。
 
一週間ほど飲み続けて、ついに酔いつぶれて起きられなかった自分を、沢村は見てみぬ振りをした。彼女は仕事に対してはどこまでも積極的で忠実だが、決して人のきな臭い部分に深く関わろうとすることはなかったのだ。それを、彼女はこの仕事をする上での信条としていた。それはそれでありがたかった。斗音はもともと自分を避けている節があったから、彼の前に現れなかったらそれはそれで好機と捉えていたに違いなかった。そう思うとつらくて、一人で何日も部屋にこもっているうち、アルコールですら耐え切れなくなった。苦しさから逃げることしか考えられなかった。ついには、違法の薬を手にしていた。
 
朝斗音を起こさなくなって二週間、薬に手を出し始めてから二日ほどたったとき、斗音が何ヶ月ぶりかに三神の部屋を訪れた。
 
躊躇いがちのノックに、もっと躊躇うハスキーボイスが続いた。
「・・・・・・三神?・・・・・・いるのか?」
 いますよ、と、答えたつもりだったが、はっきりと発音できなかった。ウイスキーで泥酔した上、ソファーに身体を預けながら薬を吸ったばかりだったのだ。
「・・・・・・どうか、した?ろれつが回ってないけど・・・・・・大丈夫なのか?」
「・・・大丈夫?大丈夫なもんか・・・・・・」
 そう独りごちて、笑ったが、それもはっきりとした言葉にはならなかった。
「入るよ?」
「どぅぞぉ・・・・・・」
 煙草の痕跡を消さなくては、などという正常な感覚は、もう働くのをやめて久しかった。何の躊躇いもなくそう返事をしていた。
 ドアを開けた瞬間の斗音の顔は、今でも忘れられない。驚愕に見開かれた薄茶の瞳。久しぶりに相対したのに、慌てて細い手指で形よい口や鼻を覆ってしまったので、ぼんやりと残念に感じた。
 ああ、そうだった。この人に煙草は禁物だったか・・・・・・。
 思い出しても今更で、思わず自嘲の笑みが浮かんだ。解雇されるかもしれない。その正当な理由を与えてしまった。そう思うと、胸が一杯になって、今までの苦しみやつらさや悲しみが全て溢れてきて、笑いながら涙がこぼれた。
「俺の・・・・・・首、切られちゃいますねぇ・・・・・・」
 そう言ったのだが、斗音は柳眉をぎゅっと寄せた。
「何言ってんの?分かんない。お前、何してるんだよ。ひどい煙草の匂い・・・・・・お酒も。一体何やってんだよ!」
「何ってことも・・・・・・ないですけど、ね・・・・・・」
 自分でも発音が明瞭でないことは分かっていた。でも、どうすることもできない。悲しすぎておかしくなって、ひゃははは、と間の抜けた笑い声を立てたのを聞いた。まるで自分の声ではないかのようで、更に泣きながら笑い続けた。
「三神!しっかりしろ!お前がここにいる理由は何だよ!」
 分かりきったことを訊く。斗音を手に入れるためだ。斗音に尽くして、斗音の心を奪って、そうして自分のものにしてやるのだ。彼の全てを。そう、全てを。
「・・・はず、だったのに・・・・・・」
「え?」
「・・・・・・もう、叶わない・・・・・・」
 悲しさが込み上げてくる。愛してしまったがために、全てが狂ってしまった。斗音が自分を愛さなければならなかったのに、彼の愛は自分には向かなかった。そして、自分が心奪われてしまったのだ。
「あなたを愛したばかりに・・・全てが、狂ってしまった・・・・・・」
「はっきり言えないのか?全然聞き取れない!」
 苛立つように言葉をたたきつけてから、斗音は机にこぼれた白い粉にはっと目を留め、息を飲んだ。
「・・・・・・まさか・・・・・・これ、アルコールのせいだけじゃ・・・・・・」
 さすがに聡い。見たこともない粉を見て、これが麻薬だと察知するとは。
「へへっ・・・・・・ヘロイン、っすねぇ・・・」
 もともと白い上によくない顔色が、それでもさっと青ざめたのが分かった。瞬間、頬に衝撃が走って、鈍くなっていた感覚の中に、じわりと痺れと熱さが湧いた。
「この大馬鹿っ!」
 言うや否や走り去る斗音の背中を見て、もう二度と戻ってきてくれはしないだろう、と感じた。
「ははっ・・・・・・ふ、はははは・・・・・・」
 笑い声なのか泣き声なのか、自分でも判別がつかなかった。何て愚かなのだろう。何て無様なのだろう。もう九条にすら戻ることもできまい。これで全て終わりだ。
「あーっはっはっはっは、わははっはははははっ・・・・・・」
 自暴自棄になって高笑いをした瞬間。
 ばっしゃあ!
 冷たさに襲われると同時に派手な水音がした。全身にたたきつけられたバケツの水が、頭から指からパタパタと滴り落ち、ひやりと服を身体に張り付かせた。
「目を覚ませ、この馬鹿っ!」
 擦れた声で怒鳴られて、思わず凛々しい斗音を見上げた。綺麗な眉とまなじりが吊りあがっていて、本気で怒っているのが分かった。一瞬で正気が全身を支配する。
「あんなに自分の仕事にプライドもってた奴が、仕事放り出して、俺の喘息をあんなに気遣ってくれてた奴が平気で煙草吸って、酒飲んで薬にまで手を出して!自分のやらかしたことに責任も持てずに、現実逃避なんかしてんじゃない!」
 ・・・・・・その言葉は、俺に向けてのものなのか。
「お前はその程度の人間なのか!」
 俺を・・・・・・見捨てずにいてくれるのか。俺のために、言ってくれるのか。
(何て人だ・・・・・・あなたは・・・・・・)
 滴り落ち続ける雫に、涙が溶け込んでともに頬を伝った。
「・・・・・・あ・・・なたなんて・・・・・・愛するんじゃなかった・・・・・・」
 斗音が瞠目する。
「・・・・・・えっ・・・・・・?」
「こんなに・・・・・・こんなに苦しい思いをするくらいなら・・・・・・もう、あなたを愛したくなんか、ない」
 斗音の手にしていたバケツが転がって、わずかに残っていた水をじわじわと絨毯に吸わせた。
「・・・・・・そう、思うのに・・・・・・あなたが・・・・・・いとおしくて、たまらない」
 床を踏みしめて立つと、足がよろめいた。身体が傾いたその勢いのまま、斗音を力任せに抱き締めた。
「・・・・・・っ・・・・・・俺、の・・・・・・せい・・・・・・?」
 ハスキーな声が、耳元で震えた。
 ああ、何て優しい人だろう。俺の過ちを、自分が関わったせいだと、そう捉えてしまうのか。俺があなたに抱いてしまった感情を責めることなく。
「あなたを・・・・・・愛してる。・・・・・・気が、狂いそうなくらい、愛してる」
 その優しさは間違いなく、あなた自身を苦しめるだろうけれど。

(いとおしい人・・・・・・もう、離さない・・・・・・!)

 斗音が差し伸べてくれた手を、三神はつかんだ。つかんで、自分が這い上がる代わりに斗音を引きずりおろし、踏み台にした。

 水をぶっ掛けられて正気は取り戻した。しかし、急激に身体に染み込ませてしまったニコチン、アルコール、そして麻薬の禁断症状は耐え難いものがあった。一日絶っただけで、苛々する、身体がだるい、重い。いっそ発狂してしまいたいほどの訳の分からない嫌悪感。飲めたら、吸えたら、すっとするのが分かっている。その快感の記憶が激しく三神を誘惑した。それを感じたらしい斗音は、常に三神を監視していた。自分が冷たく接したことでこうなってしまったのだという、責任感からだったのだろう。
 
あのときに首を切ってしまえばよかったのに、と、三神は憫笑する。
 でも斗音はそれをしなかった。そして、誘惑に逆らい切れなかった三神は、斗音の前であるにも関わらず、震える手で手放せなかった最後の薬に手を伸ばそうとした。
「駄目だ!そんなものに負けるな!」
 そう言って、斗音は震える手から薬を叩き落した。舞い上がり、絨毯に散らかった誘惑の粉を、三神は焦って受け止めようとした。これがなくなってしまえば、この肉体的なつらさから逃れられない。そう思った。
「やめろってば!」
「あ、ああ・・・・・・少しで、いいから・・・・・・」
 わなわなと手が震える。床に這いつくばって絨毯に顔を寄せようとしたが、華奢な腕が必死で自分の肩を押し上げ、それを妨害してきた。
「煙草とかアルコールはともかく、それだけは絶対駄目だ!」
「いま、今だけですから」
「今我慢できなかったら、もっとつらくなる!」
「あなたにこのつらさが、わ、分かるものか・・・・・・は、離して下さい・・・」
「分からないよ!だけど、今ここで許しちゃいけないことは分かる!」
 懸命に自分を止めようとする愛しいはずの主人に、激しい苛立ちを覚えた。
「知ったような、口を・・・・・・きくな・・・ッ!」
 華奢な肩を乱暴につかんだ。薬で病みかけた身体の奥底からくる震えに全身をわななかせ、その細い喉笛を喰いちぎってやりたい衝動に駆られる。知らず殺気を込めた目を、斗音はそれでも真っ直ぐに見返してきた。
「三神、逃げたってつらさからは解放されない!」
「そんな正当論が、何の解決になる・・・・・・そんなもので、こ、この身体の・・・つらさが、す、救われるとでも・・・言うんですか・・・っ!」

 それでも逃げない綺麗な瞳。それを見た瞬間、ふと気が触れそうなつらさが遠のいた。
 
ああ、そうか。今この人は、俺だけを見ている。俺だけを。
 
瞬時に胸を支配する高揚感。
「・・・そうだ、あなたが・・・・・・俺を、救えば、いい」
 目の前で微かに浮かぶ、訝しげな表情。
「・・・・・・俺だけを、見て・・・・・・俺の、ものに、なればいい」
「な、に・・・」
 彼の言葉を奪うように、唇で噛み付く。大きく見開かれた瞳。
 俺の、ものだ。
 込み上げる喜び。身体のつらさを忘れるほどに、心が至福で満たされる。
 力任せに抱き締めると、耳元で擦れた声が訴えた。
 やめて、と。悲しそうに。
「・・・・・・薬なら、やめますから・・・・・・俺に、抱かれて」
「・・・・・・三、神・・・」
「あ、あなたに、触れていると・・・・・・つらさが、遠ざかるから」
 斗音が息を飲んだのが分かった。そんな、と微かにこぼれた声を無視して、絨毯の上にいとも容易く押し倒した。愕然と見開かれた瞳は、それでも綺麗で、優しい気持ちと込み上げる欲情が入り混じった。
「俺を、拒まないで」
 大好きな綺麗な顔が、今にも泣きそうに歪んで。
「・・・・・・三神、お願い」
「・・・・・・薬をやれば、このく、苦痛から、逃れられる。そう、すれば、あなたを、解放してあげられる。斗音・・・・・・あなたは、お、俺に、どちらを、望むの?」
 綺麗な綺麗な薄茶の瞳が涙の膜でたちまち覆われた。
 分かっていた。斗音がどちらも選べないことは。だから、答えを出すことなど、できはしないと。
(あなたは、優しすぎる)
「・・・・・・・・・・・・っ・・・・・・」

 拒む言葉さえ封じられ、抵抗することすらできずに、斗音は三神に抱かれた。封じられた言葉の代わりに、涙だけが斗音の瞳を、睫毛を、頬を濡らし続けた。そんな彼が、たまらなくいとおしかった。

 それから二週間が過ぎた。麻薬の禁断症状にかこつけて、三神はことあるごとに斗音を求めた。朝の検温時、入浴の直後、発作を起こして倒れたとき、就寝前。斗音に無理を強いて、彼に発作を起ここさせてしまうことも頻繁にあった。それでも、少しでも抵抗しようものなら、斗音の意識があるうちは薬を与えなかった。苦しめて苦しめて、その身体に恐怖を刻み付けるためだった。自分に逆らうことができないように。
 
そうするうちに、斗音の瞳は意志の光を失った。時々虚ろになる瞳は何も映さず、全ての感情を自分の中に押し込め、殺そうとするようになった。
 
反面、その生気を奪い取るようにして、三神は薬の症状を克服した。煙草とアルコールは、もう少し時間がかかるだろうが、それでもあの地獄の二週間に比べれば摂取は十分の一に減っていた。
 
だがその見返りとして求められた負担は、斗音の中で蓄積され、顕著に外見に現れていった。ただでさえも華奢な身体は痩せて、ちょっとでも無理な力を加えようものなら折れてしまいそうだった。もう、学校に行くことなど叶わなかった。今斗音にできることは、慈恩や友人からの電話に冷たく応対をすることと、自分の命を投げ出してしまうことがないように、十字架のペンダントを握り締めることくらいだった。
「・・・・・・あなたを心配してくれる人たちに冷たくするのは、これ以上心配させないためですか。そうやって突き放せば、内情を知られずに済むからですか。・・・・・・本当は、助けを求めたいくせに」
 ずっとずっと負担を掛けてきた斗音の心は、ここに来て一気にバランスを失い始めていた。大切な慈恩に、瓜生に、バスケの仲間たちに、執行部の仲間たちに、冷たい言葉を浴びせるたび、斗音の虚ろな瞳は涙に濡れ、そうして斗音は泣きながら笑った。自嘲なのか、嘲笑なのか。ぽろぽろ涙をこぼしながら狂ったように笑い、時折狂気じみた悲鳴を上げる。その重さに押し潰され、こうして気を失うこともたびたびあった。
(あの時の俺と、同じだ。でも、あなたは煙草も吸えない。酒にも薬にも逃げないで、そのクロスのペンダントのために死ぬことすらできず、簡単に狂ってしまうこともできないで)
「つらいだろうに。大嫌いな俺に抱かれ続けて、拒むこともできずにいる。あなたをこんな酷い目に遭わせている男なんだ。突き落とせばいいのに、それもできない。それならば大切なものなど捨てて、忘れてしまえばいいのに、その鎖で心をがんじがらめにして、そうやって苦しみ続ける。本当に・・・・・・馬鹿な人だ」
 そっと病的に白い頬に唇を当てる。
「俺に目をつけられたばかりにこんな姿になって」
 三神は切れ長の瞳をすっと細め、憐憫の笑みを浮かべた。

「可哀想な、人」

   ***

「なあ、斗音。お前が授業も執行部の仕事も、何もかも放り出せるような人間じゃないってこと、誰でも知ってるよ。だからさ、・・・・・・俺にはその言葉が、信じられないんだ」
 あくまで優しく、携帯に語り掛けるようにしているのは翔一郎だ。それを少し離れて見つめるのは、瞬と嵐。十二月に入り、一気に冬の寒さが襲ってきた。部活が終わるのも早いのだが、それでも辺りは真っ暗で、そろそろ街中ではクリスマスの飾りやイルミネーションが目立ち始めていた。華やかなそれらに照らし出される三人に、時折通りすがる女の子たちが振り返り、小さく騒ぎながら去っていく。
『事実放り出してるじゃん。ふふっ、過信されたもんだよね』
 携帯から聞こえる声はひどく擦れて、微かに震えているように思える。何だか痛々しくて、翔一郎は眉根を寄せた。
「今日金曜だからさ、そっちに行こうかと思ってるんだ。お前の分取ってるノートもたまって来たし。嵐と瞬と一緒にさ。なあ、何か食いたいものとか、ないか?持ってくよ」
『・・・・・・何もないし、来て欲しくもない。ノートを取ってなんて、頼んでないし』
「頼まれなくたって、いや、やめろって言われたって、俺は続けるよ。お前が本気でそれを嫌だって思ってるとは思えないから」
 翔一郎は少し微笑んだ。最初の躊躇いが、何よりの斗音の本音だろう。
『・・・・・・馬鹿だね、翔一郎』
「ああ。そうかもな」
 固唾を飲んで見守る瞬の横で、嵐は思い詰めた表情だった。三人は頻繁に斗音に連絡を取ろうと試みていた。瞬は前回斗音と喧嘩になってしまった。いや、斗音は常に冷徹な言葉を投げ掛けてくるだけだから、瞬がその挑発に乗ってしまったといった感じだった。それで気まずくて、メールで謝罪の言葉を送ってみたが、返ってくることはなかった。嵐は斗音の身に起きたことを知っていて、そして今の状況も薄々理解していたから、それを知らないふうを装って、結局空々しい会話で終わってしまうことが多かった。知っているからこそ身動きがとれない自分に嫌気が差していた。それ以上に、嵐自身も尽きない悩みを山ほど抱えていた。自分の世界をもつ嵐は実際こちらの仲間にばかりかまけていられなかったのだ。それでも何とかしてやりたいという痛切な気持ちがあるからこそ、彼らとともに行動していた。
「今からそっちに向かうけど、いいか?」
『勝手なこと言わないでよ。こっちにはこっちの都合があるんだ。今来てもらうのは、本当に迷惑だから』
「いつもそう言うだろ?じゃあ、いつならいい?」
『・・・・・・永遠に、来ないで欲しい』
「斗音・・・・・・」
 思わず言葉を失った翔一郎に、嵐はつらそうに目を細めた。大体何を言われているのかは想像がついた。そして、そう言わざるを得ない斗音の心情も、嵐には理解できた。お互いにつらいだけの会話なのに、それでもここで斗音を見捨てることだけはできなくて、無益な会話を繰り返す。それでも、自分たちの思いが届けばいいと。それがきっと、斗音の心の支えになる。ここに斗音を受け入れる世界があることを、忘れないでいてくれれば、いつかこの問題が解決したときに、帰って来ることができるから。
「分かった。今行くと、お前が困るんだよな。無理言ってごめんな。でも、また連絡するから。・・・・・・声が聞けてよかった。じゃあな」
 通話を切った翔一郎に、瞬が駆け寄る。そのあとに、嵐が重い足取りで続いた。
「ねえ、斗音なんて?俺のこと、何か言ってた?」
 ふう、と白い溜息をついて、翔一郎が携帯をポケットに突っ込んだ。
「いや、何も。ただ、来て欲しくないって」
 マフラーに口まで埋めるようにして、嵐に視線を送る。
「強引に押しかけちゃ、駄目なのか?」
 マフラーのせいでこもった声に、嵐は首を振った。
「あいつにはあいつの、人に言えない事情があるんだろ。俺たちを遠ざけようとするのも、本当に関わって欲しくないからだ」
 翔一郎はうつむき加減の上目遣いで嵐を見つめる。
「お前、それ知ってんじゃないのか?」
 その視線を受け止めてから、嵐は長い睫毛を伏せた。
「知っていようがいまいが、俺が今それを言わないってのが事実だ」
「・・・・・・そう」
 諦めたように翔一郎はくるりと踵を返した。慌てて瞬が追う。
「どういうこと?ねえ、斗音に何があったの?」
「分かんねえよ」
 素っ気無く答えてから足を止め、再び嵐をその視線で捉えた。
「俺はお前のやることが正しいと信じてる。けど、お前の中で、お前はいつも正しいのか?」
 嵐はふっと笑った。滅多にない、自嘲の笑み。
「なわけないだろ」
「・・・・・・そっか。・・・・・・ごめん」
 視線を落とした翔一郎に、嵐はすたすたと近づいて、通りすがる瞬間その肩をたたいた。
「でも諦めねえよ。俺は、絶対に」
 はっと顔を上げて、翔一郎はその背中を目で追う。
「ああ・・・・・・そう、だよな」

 瞬が大きくうなずいて、少し苦しそうに笑った。

   ***

 互いにつらい思いを味わっていたのは、もちろん出来過ぎ集団だけではない。
「授業中にあなたがここに来るのは、久しぶりね」
 苦笑した安江は慣れた仕草で、保健室を訪れた者が大概最初に座る長椅子を勧めた。来室者がふてくされたように視線を逸らすのに、更に苦笑を重ねる。
「くたびれた・・・って顔をしてるわね。少し休んでいく?」
「・・・・・・ああ」
 先生相手にぶっきらぼうに返事をして、瓜生は迷わずベッドに重い身体を横たえた。そのベッドを囲うようにカーテンを引きながら、安江は訝しげにその隙間からのぞき込む。
「何かあったの?」
「・・・・・・んでもねえよ」
「え?」
「何でもねえ。放っといてくれ」
 自分の言葉を聞き取ってくれなかった相手への苛立ちを溜息に載せる。それでもさすがプロというべきか、安江は軽く眉を上げただけでかわした。
「苛ついてるのね。放っといてあげてもいいけど、ここで休む理由を聞かせてくれないと、先生がサボりの共犯にされちゃうわ。それだけはごめんなの」
「・・・・・・・・・・・・」
 ちっと舌打ちした瓜生だったが、観念したように目を閉じた。
「・・・・・・集中できねえんだよ。できれば一人になりたかった」
 安江が何度か瞬きして、ほんのりと笑みを浮かべた。
「それでも帰ってしまうことを選ばなくなったのね。ここにいれば、誰かに咎められて邪魔をされることもないし。いいわ、片棒担いであげる。ついでに」
 シャッとカーテンの隙間を埋めて、安江は瓜生の空間を閉じた。
「先生職員室に用があるから、一人にしてあげる。成長したあなたへのご褒美よ」
 そのまま書類をさらうようにして部屋を出て行く足音と、鍵を掛ける音が静かな部屋に響いた。
「・・・・・・鍵まで・・・・・・ご丁寧に」
 思わずつぶやきながらも、安江の思いやりに感謝した瓜生である。
「・・・成長した、か。どうだかな」
 大きく溜息をつく。斗音が学校に全く来なくなってから早二週間。その原因は、分かっていた。斗音の状況を現段階で一番正確に把握していたのは、嵐と瓜生だった。
 斗音がぽつぽつと学校を休むようになったのは、十一月の三週目辺りからだっただろうか。その前までは、全国大会に行って慈恩の応援がしたい、と前向きだったのだ。しかしそれもまた、叶わなかったらしい。叶わなかったことがつらかったのか、それ以上のことがあったのか。斗音は話そうとしなかった。瓜生の直したペンダントを、いつも手に握っているか、そうでなくてもポケットに入れて、常に触れているのが印象的だった。首にかけなくなったのは、あの忌まわしい夜からだった。
 斗音が自分に癒しを求めていると知ってから、自分の存在意義をそこに見出すことができた。斗音にとって自分がそうであれるように務めたいと思った。薄暗い、あの階段で待てば、斗音は必ずそこに来たから。
『発作で起きられそうにありません。ごめんなさい』
 そんなメールを受信するようになったのは、斗音が学校を休み始めた頃だ。以前階段で待っている自分を気遣い、休むときは連絡すると言っていたことを思い出し、がっかりしながらも心をくすぐられるような気持ちになった。自分のことを斗音が考えてくれていることが、嬉しかった。
 
ただ、それからというもの、学校に出てくるたびにやつれていく斗音は痛ましかった。彼は何も話そうとせず、時間の許す限り瓜生の隣にいた。細い身体を抱き締めると、時折その腕の中で涙ぐんでいるのが分かった。
 メールは十一月が終わる頃に来なくなった。どれだけ階段で待っても、斗音は現れなかった。休むという連絡すらできないほど参っているのだろうかと、不安になった。それでも瓜生は、一週間待ち続けた。今日は来るかもしれない、明日は来るかもしれない、と思いながら。ただただ、斗音を想いながら。
 彼が学校に来なくなって二週間目に入ったとき、たまらず瓜生は斗音の携帯を鳴らした。不安は瓜生の耐えられる限界を超えていた。
 放課後、暗くなった階段で、瓜生は散々躊躇ってから登録された番号を選び、通話ボタンを押した。何度も繰り返されるコールに、出て欲しい気持ちと出たらなんと声をかけようかと激しく迷う気持ちが入り混じって、呼吸すら苦しく感じた。
 あまりに長いコールに、瓜生が諦めて携帯を切ろうとしたとき、「呼び出し中」が「通話中」に変わった。
『・・・・・・もしもし』
 驚くほど擦れた、力ない声が鼓膜を震わせた。色々考えていたこと全てが、頭の中から吹き飛んだ。
「お前・・・・・・どうした、その声・・・・・・」
 胸にわだかまり続けていた不安が心臓を破裂させんばかりに締め付けた、そのとき。
『・・・あなたには、関係、ない』
「な・・・?」
 思わぬ言葉に我が耳を疑った。弱々しい声は、何もかも諦めたように、まるで全てを放棄するかのように続けた。
『・・・・・・もう・・・・・・俺に、構わないでください・・・・・・』
 冷たい針が心臓に突き刺さったようだった。暗い声が不吉なものを瓜生に感じさせていた。
「お前・・・・・・あいつに・・・・・・?また、何かされたのか?」
 脳裏をよぎる不吉な考えを、口にせざるを得なかった。問い質す気などなかったけれど、何とかしてやらなければ、と強く思った。しかし、暗かった声は、不意に笑ったのだ。
『ふふっ・・・・・・今更そんなの・・・どうでもいい』
 激しい違和感。何がどう、とは言えない。全てが自分の知る斗音のものに当てはまらなかった。
『・・・・・・ねえ、瓜生さん。・・・・・・まだ、あの階段にいるんですか?』
 笑いを含んだ声だった。それが微かに震えているように思えた。思い過ごし、だっただろうか。
『もう・・・・・・そこにいる必要、ありませんよ』
 くすくす、と。擦れた笑い。冷たいものに心臓をつかまれながら、かろうじて返した。
「・・・・・・どういうことだ」
 返ってきたのは、信じ難い言葉だった。
『俺・・・・・・もう、二度とそこへは行きませんから』
 握り潰された心臓から、冷たい血が全身に駆け巡った。そんなことを言うはずがない。斗音がそんなことを言うはずがない。心がそう叫んだ。でも、その声を認識した冷徹な脳が己を嘲笑った。馬鹿な男だ。華奢でか弱い外見に騙されて、いいように利用されて、こうして裏切られたのだ。現実を見ろ、と。
 そうじゃない。きっと斗音はあの得体の知れない男に酷いことをされたのだ。救ってやらなければ。心の訴える声を、瓜生は押し殺した。
「・・・・・・分かった」
 冷たい声は、冷たく静かな空間の空気を揺らした。そのまま強くボタンを押して通話を切った。とにかくそれ以上、斗音に喋らせたくなかった。それが斗音の本音であろうがなかろうが、あの斗音がその言葉を口にすることで、自身を傷つけないはずがなかった。
 とはいえ、その時の自分の言葉を、瓜生は何度後悔したことか。斗音にあの冷たい言葉を浴びせ、どんな思いをさせてしまっただろう。自分に心を開き、ただ痛みを堪えながら頼ってくれた斗音を、突き放した。そう思うと、己に嫌気が差して仕方なかった。
 ギプスが外れ、自由になった右手で、ポケットから携帯を取り出して強く握る。もう一度、斗音と連絡を取りたいと思った。でも、あの時の彼の言葉をもう一度浴びる勇気がなかった。何度も思い立っては何度も思い直し、結局躊躇って今に至る。あれだけ頑張ろうと決めた勉強にも身が入らなかったし、授業に出ていても何も頭に入って来なかった。そうしてまた保健室に逃げ込んできたのだ。
「何も変わってねえじゃねえか。俺は、逃げてばかりだ」
 会いたいと思った。そして、もう何の枷もないこの両腕で、力一杯抱き締めたい。そうすれば、きっと解る。彼が平気であんな言葉を言ったのではないということが。
(でも、あの男がどう出るか。・・・・・・それに・・・・・・きっとあいつを・・・苦しめる・・・・・・)
 それは確信に近かった。斗音は本当に構って欲しくないのだ。先ほど自分が、一人になりたかったように。いや、それ以上に強くそう望んでいる。
(・・・・・・椎名・・・・・・!)
 ドン、と鈍い音が保健室の空気を揺らし、瞬間的に加わった衝撃に、ベッドの足が抗議するように軋んだ。

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四十七.雪

 その日、昼過ぎには、鉛色のどんよりと重い空から、静かに雪が舞い降り始めた。
 暗くなると、木々に囲まれた広い庭に灯されたいくつかの明かりに、小さな影をちらちらと落としながら降り注いでくる雪は、幻想的な光景を演出していた。
 豪奢で広い部屋は暖かく、外の張り詰めた寒さが伝わってくることはなかった。それでも、じっと、心持ちカーテンの隙間を広げるようにして、外の光景を見つめている部屋の主の心は、凍りついたように冷たく、鉛色の空よりも重かった。
「・・・・・・ねえ、雅成さん。あの子・・・・・・このところ、ずっとあの調子だわ・・・」
 自室にこもったままの慈恩を気遣うのは、もちろん彼の両親となったことを誇りに思っている二人である。
 襟ぐりが上品な程度に開いて、白いファーに包まれている清楚なオフホワイトのカットソーに、何段か切り返しになっているスウェードのフレアスカートの濃くくすんだワイン色が、美しい絢音によく合っている。しかし、雅成は愛する妻の美しい姿に見とれるより、食事の間中憂いを含んだ表情が消えなかった息子が気になっていた。
「剣道でも勉強の方でも、三者懇談では特に何も言われなかったけど・・・・・・学校では何もないふうを装ってるんだろうか。いや、私たちの前でも、あの子はきっと心配させないように振舞っている」
 絢音が微かに長い睫毛を伏せた。漆黒の瞳が悲しげに翳る。
「お食事のとき以外、部屋から降りてこないし・・・・・・自分から出かけることも最近ないわ。話しかけても上の空だったり、いつも沈んだ顔をしてるの」
「ここ・・・二週間、いや、三週間くらいかな。口数が減った。絢音、お前はいつから気になってる?」
 食後に運ばれてきた紅茶にも手をつけず、二人はしばし考え込む。
「・・・・・・十一月の全国大会・・・・・・、少し、元気がなかったわ」
「斗音くんが来られなかったんだったね。でもそれは、関東大会でもそうだった」
「ええ、そのときも気にしてるふうだったけど・・・・・・必ず大会の日前後に斗音くんの体調が優れなかったりして。でも、それはそれで仕方がないって納得していたと思うわ」
 ソファに腰掛けてその膝の上に肘を立て、両手を組んだ雅成が、微かに眉根を寄せた。
「・・・・・・僕はずっと思ってたことがあるんだけど」
 言ってから、顔を上げて絢音の瞳を正面から捉える。
「僕らは斗音くんから、慈恩を取り上げてしまった。慈恩を知れば知るほど、あの子がどれだけ素晴らしい人間なのかを思い知ってきた。斗音くんもしっかりした子だ。まして高校生だし、よっぽど大丈夫だろうと思っていたんだけど・・・・・・これだけ頻繁に体調を崩してるってことに、もっと不安を感じるべきだったかもしれない」
 絢音の瞳が瞬間的に潤む。慈恩を自分たちの養子に迎えるに当たって、自分たちがこの兄弟にどれだけつらい選択を強いたのか、嫌というほど解っているのだ。もちろん、それは雅成も同じである。
「これまで・・・慈恩が斗音くんの元にいた頃も、これだけ体調を崩すほど身体の弱い子だったとしたら、僕たちは彼から大きな支えを奪ってしまったことになる」
 形のいい唇をぎゅっと噛んで、それでも絢音は首を振った。
「いいえ、だってもしそうだったら、慈恩は絶対に養子の件を承諾しなかったはずだわ」
 雅成の眉間のしわが深くなった。
「だとしたら、もっと憂うべき状況だよ。あの子がいなくなったことで斗音くんが体調を崩すようになったのだとしたら、それはそれで彼にいかに慈恩が必要だったかということになるだろう?そうでなければ、三神の対応が悪いかだ。最近斗音くんからのメールも途切れることがあるし・・・・・・慈恩と一緒に食事でもと誘っても、必ず断られてしまうんだ。忙しかったり、体調が悪かったり、都合が悪かったり・・・・・・理由は様々なんだけど・・・・・・僕はそれを、やはり気まずさのようなものがあるからだと捉えていた。だけど・・・・・・」
 絢音の表情と膝に置いた手が硬くなる。
「それ以上の理由が、あるとおっしゃるの?」
 一瞬躊躇ってから、雅成は視線を妻から逸らした。
「僕たちに気まずさを感じるのは仕方がない。でも・・・・・・慈恩は?もしかして、あの子にも会ってないんじゃないのか?大会にも、食事にも出てこない・・・・・・もう三ヵ月半になる。もし慈恩にも会っていないのだとしたら・・・・・・僕たちはとんでもない楔を、あの子達の間に打ち込んでしまったんじゃないだろうか」
「そんな、まさか・・・・・・」
 色白の美しい顔が青ざめる。雅成は首を振った。
「分からない。三神からの報告では、体調がよくないときがある以外は、特に変わったことはないとある。丁度全国大会の頃だったかな。三神からの報告が一週間ほど遅れたことがあったけど、斗音くんが体調を崩して付きっ切りだったと言っていたから・・・・・・もしかしたら、本当に体調が悪いだけなのかもしれない。いや、でも体調が悪いこと自体が心配なんだ・・・・・・。三神は学校での疲れが溜まっているようだと言っているが、会いに行きたいと言っても、今は休ませた方がいいとか、部活の試合だとかでこっちも会う段取りができないし・・・・・・」
 言っているうちに自分が何を言いたいのかが分からなくなってきて、雅成は溜息をついた。
「慈恩に元気がないのは、間違いなく斗音くんのことが気がかりだからだろう。・・・・・・あの子なら、きっと本人と連絡を取り合ってるはずだけど・・・・・・」

 最後は言葉を濁すようにして、雅成は上の階を見上げるようにした。そこに閉じこもっているはずの自分の息子を思って。

   ***

 素晴らしく美しい景色だった。一応、慈恩の目には、そう映っていた。
(斗音・・・・・・お前は今、何を見てる?・・・・・・雪が降ってる・・・・・・綺麗だ。これにお前は、気付いているか?)
 そうメールを送ったところで、返ってはこないだろう。そう思うだけで、胸が締め付けられる。電話を掛けたところで、果たして出てくれるかどうか。
 全国大会の前日。斗音からメールが来た。ここのところ微熱がひかないのだと。応援に行ったら、逆に迷惑をかけてしまうかもしれないから、行けないと。正直、寂しかった。でも、体調が最優先だと言ったのは自分だったから、仕方がないと自分に言い聞かせた。
 でも、全国大会のあとに隼に言われたことは、慈恩の心を揺さぶった。
『お前は斗音の近くにおりすぎて、逆に斗音の本音が見えにくうなってしもたんやろな。俺が絶対間違うてへんと思うのは、お前が斗音の傍を離れたことが間違うてるてことや』
 斗音の本音はどこにあったのだろう。病院に担ぎ込まれて、自分の傍にいることが苦痛だと言ったあの言葉を、慈恩は斗音の本音だと捉えた。だから、九条家の養子の件でも、行くべきだと断言したのだと。もちろん、絢音が本当の母親だということもあったのだろうが、『根っこの部分』は自分と離れたいというところにあるのだと。
(おりこうさんの答えか・・・・・・それを選んだのは俺・・・・・・。だったら、斗音は?あれが斗音の本音じゃないのなら・・・・・・)
 考えようとして、ズキンと心臓が痛んだ。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』

 あの言葉は?本音じゃないと思う。でも、そう思いたいだけなんじゃないかとも思う。斗音がそんなことを言うのが信じられなかった。でも、そう信じたくないだけなんじゃないかという疑いも、心の隅に卑屈に巣食う。斗音にそう言わせてしまうほど、自分は彼を放っておいてしまったのではないだろうか。

 全国大会が終わった日、斗音とは連絡が取れなかった。その日の結果や隼に会ったことなどをメールで送ったけれど、返信はなかった。それが二日、三日と続いて、さすがに心配になった。電話を掛けても出ないので、再びメールを送った。約束どおり、そちらに行くと。
『今週末は予定が入ってるから、また都合を教えてくれる?』
 それが、久しぶりに来たメールだった。都合も何も、部活だろうが友人の誘いだろうが、全ては斗音の予定に合わせるつもりだったから、特にこちらは予定がない、と返した。だが、肝心の斗音の予定を知らせるメールが、また途絶えてしまったのだ。
 忙しいのかもしれない、と思って斗音からの連絡を待った。予定が入っているという週末が過ぎても、何の連絡もなかった。不審に思って携帯に何度か掛けてみたが、やはりつながらない。業を煮やして、慈恩は学校の帰りに三ヶ月ぶりに自分の元の家に寄った。

 母の大事にしていた庭は、自分がここを出たときよりも綺麗に整えられていた。
 
それに逆に違和感を覚えた慈恩を、玄関で出迎えたのは、三神だった。
「お久しぶりです、慈恩様。お元気そうで何よりでございます」
 丁寧に頭を下げる三神は、三ヶ月前に比べ、少し痩せたように感じた。そして、ふと微かに香るコロンに気付いた。とても清々しい、優しい香りだったのだが、この男はそんな香りを漂わせていただろうか。
「・・・・・・あの、斗音は・・・・・・?」
 挨拶も忘れて、思わず口にしていた。少し首をかしげるようにした三神は、すっとシャープな笑みを浮かべた。
「まだお帰りになっておられません。最近お忙しいようですから・・・・・・八時や九時を過ぎることも珍しくありませんので・・・・・・」
「そんなに遅く?一体、どうして?」
「詳しくは存じませんが、執行部の仕事が忙しいと、うかがっております」
「執行部・・・・・・?でも、そんな時間、もう学校も閉まってると思うけど・・・・・・」
 凍りつきそうな寒さに、思わずマフラーをつかんで顔を埋める。三神は苦笑した。
「私はあくまで斗音様のおっしゃられたことをお伝えしているだけでございます。それをどう捉えるかは、慈恩様次第ではございませんか?」
「・・・・・・え?」
 暗い中でもはっきりと、慈恩は漆黒の瞳を見開いた。三神の切れ長の瞳は、それに対してやや細められる。
「最近親密な方がいらっしゃるようですし。学校帰りにデートなんて、最近の若い方ならよくあることでしょう」
「・・・・・・そう、ですか」
「いえ、あくまでこれは私の想像です。実際に見たり聞いたりしたわけではございませんから」
「・・・・・・」
 そんなことは考えたことがなかった。斗音に彼女ができていたとしたら、休日に都合がつかないのも道理かもしれない。メールなども、自分より彼女を優先させるかもしれない。ただ、斗音ならそのことを自分に言ってくれそうな気がした。これまでも、互いにそういう存在がいれば、当たり前のように知っていたから。
「今日こちらへいらっしゃることは、斗音様はご存知でしたか?」
 訊かれて首を横に振ると、そうですか、と三神はうなずいた。
「私もいつお帰りになられるかは申し上げかねます。九条様の方では、御夕食はご家族そろってでございましたね。お待ちになられるとなると、お断りの連絡をされた方がよろしいかもしれません」
「・・・・・・いえ、今日は・・・・・・帰ります。ただ、最近斗音と連絡が取れないことが多くて。今日も、行くことを何度か伝えようと思ったんですけど・・・・・・」
 慈恩が視線を落とすと、三神はゆっくりうなずいた。
「それだけお忙しいのでしょう。斗音様のお身体の具合だけは、常に雅成様に連絡させていただいておりますので、ご安心ください」
 自分が連絡すら取れない以上、彼に任せるしかなかった。
「・・・・・・斗音を、お願いします」
 頭を下げたのに対し、三神は更に深く低頭した。
「はい。必ず」
 顔を上げて、懐かしい我が家を見つめた。よく使う部屋には煌々と明かりが灯され、ここは自分たちが帰るまで明かりがつかなかった家ではなくなっているのだと感じた。斗音の部屋にも、既に明かりがついている。そうして、主が帰るのを待っているのだろうか。
 踵を返すと、後ろから低い声が呼び止めた。
「慈恩様」
「はい?」
 振り返ると、顔を上げた三神が笑みを浮かべていた。
「・・・・・・素敵なコートですね。学校指定のものですか?」
 意外な質問に、慈恩は目を瞬かせた。そして、上品なグレーのロングコートに目をやる。
「あ・・・はい、そうですけど」
 三神の笑みが、すっと線を引いたようにシャープになった。
「お似合いですよ」
「・・・・・・どうも・・・・・・」
 躊躇いがちに会釈をしてから、慈恩は改めて帰路に足を向けた。そこで再び斗音の携帯を鳴らしてみたが、長いコールのあと、いつも通り伝言を促すメッセージが流れ始めた。
「・・・・・・斗音。今、家へ行ったんだ。三神さんに、まだ帰ってないって言われたけど・・・・・・。・・・お前、今どこにいるんだ?・・・・・・お前の口から、お前のこと聞かせて欲しい。斗音の話が聞きたい。・・・・・・また、連絡するよ・・・・・・」
 携帯に向かって、一人でそう話して、通話を切る。慈恩がそうやってメッセージを残すことは珍しかった。メールなら自分の伝えたいことを、一番適切な言葉を選んで送ることができるからだ。でも、今回は文字ではなく、自分の声を伝えたかった。そんな気分だった。
「・・・・・・・・・・・・?」
 何かの音が耳に届いた気がして、ふと振り返った。目に映ったのは、少し離れた懐かしい家の、斗音の部屋。
(まさか、あの距離で何かが聞こえるはずがない)
 慈恩が苦笑交じりに視線を戻した直後、部屋の中で微かに影が動いた。だが、視力に関しては何の問題も抱えていない慈恩でも、さすがに気づくことはなかった。
 そして、慈恩が去るのを見送る三神が、薄笑いを浮かべてつぶやいたのも。

「お前には金持ちのお坊ちゃまが似合いだ」

 その夜、慈恩の携帯に斗音からの着信があった。正直驚いたが、ほっとした。急いで通話ボタンを押すと、通常よりかなり擦れ気味の声が聞こえた。
『もしもし』
 三神の様子では、今特に斗音が弱っているという感じを受けていなかったので、少し不安になった。
「斗音・・・・・・声が、擦れてる」
『そう?・・・・・・最近、こんな感じだよ』
 最近、という言葉を聞いて、自分がいかに斗音の声を聞いていなかったかを痛切に感じた。今思えば、全国大会の少し前辺りから、直接会話をすることがなくなっていた。三週間近くが経っていた。
「発作が、あるのか?」
『そうだね。まあ、そこそこ。軽いことが多いから、気にしなくていいよ』
 妙に軽いというか、思慮深くて相手を思いやる斗音らしさが感じられなくて、微かに違和感を覚えた。
『今日、来たんだね。・・・・・・どうだった、久しぶりの家は?』
「どうもこうも・・・・・・お前に会いに行ったんだ。家には入ってもない」
『どうして?・・・・・・もう、自分の家じゃないから?』
 チリ、と胸の奥が痛んだ。あの家は、自分にとってかけがえのない家だ。今の家より、よほど自分にしっくり来る。そんな思いは、斗音には分からないだろうか。
「そんなんじゃなくて・・・・・・三神さんに、お前はまだ帰ってないって言われたし・・・・・・」
『そう・・・・・・あいつ、そんなこと言ったんだ。まあ、似たようなもんだけど』
「・・・どういうこと?」
 思わず問う。少し間をおいて、少し吐息交じりの声が聞こえた。
『・・・何でもないよ。慈恩には、関係ない』
「・・・・・・斗・・・・・・音・・・・・・?」
 はっきりと感じる冷たさ。突き放されたことを感じた。どうして?と目まぐるしいくらいに思いが駆け巡る。
『・・・・・・留守電、聞いたよ。慈恩の声、久しぶりに聞いた』
「・・・・・・俺もだ」
『・・・・・・俺の話が聞きたいんだっけ?』
「・・・・・ああ」
『・・・・・・何の、話をしたらいい?』
 誰と話しているのだろう、と慈恩は思った。斗音とは思えなかった。
「怒ってるのか?」
 何の確信もなかった。でも、斗音の様子がおかしいことだけはよく分かった。それでそう訊いてみたのだが、しばらくの沈黙ののち、微かに笑うような擦れた吐息が聞こえた。
『・・・・・・別に、怒ってなんかないよ。ただ、慈恩は何が聞きたいのかと思って』
「・・・・・・ずっと、話してなかったから・・・・・・お前のこと、聞きたかった。それに、如月祭のことも」
 正直、何を話していいのか分からなかった。斗音の気持ちも、分からなかった。頭の中はかなり混乱に近い状態だった。それだけ言えただけでも、上出来である。そんな慈恩に対して斗音が返した言葉は、慈恩にはとても信じられるものではなかった。
『俺のことなんて、何も話すことない。それに・・・・・・』
 しばし躊躇うような間。小さく喉で震える声がした。笑っているようで、泣いているような。そして、ひどく擦れた声がつぶやいた。
『・・・・・・そんな前のこと、もう覚えてないよ』
 馬鹿な、と。瞬間脳裏に浮かんだ言葉はそれだった。むしろ、斗音はその話をすることを望んでいると思っていた。涙に言葉を詰まらせながら、そう約束をしたのだ。
「・・・・・・斗音・・・・・・」
『・・・・・・ほかに、聞きたいことは?』
「斗音!」
 何かを思うより先に、叫んでいた。向こう側で、微かに斗音が息を飲むのが分かった。知らず、拳を握り締めて、とにかくこの空々しい会話を何とかしたくて口を開いた。
「こんな話をしたいんじゃない!・・・・・・会って話そう。お前に会いたい。こんなに会わなくなるなんて思わなかった。今のお前を、この目で見て、ちゃんと面と向かって話がしたい!」
 電話の向こうで呼吸が震えているのが、微かな空気の振動で伝わってきた。返ってきた声も、微かに震えていた。
『・・・・・・・・・・・・もう、来ないで。・・・・・・・・・・・・俺・・・・・・お前に、・・・・・・・・・・・・・・・会いたく・・・・・・ないよ』

 最後の否定は消え入りそうだった。迷って躊躇って、それでも萎える気持ちを必死に奮い立たせて、言った言葉なのだと解った。瞬時に、心に突き刺さって未だ融けない氷の刃が再び胸を貫く。
 
・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・
(・・・・・・どうして・・・・・・!)
 同時に頭の芯が、心臓が焼け付くような痛みを感じた。
『・・・・・・ごめん、もう、切るね』

 何も言えなかった。ただ、最後の斗音の言葉には、違和感を覚えなかった。

 今もまだ、斗音がなぜそんなことを言ったのかは解らない。斗音の本音も、分からない。ただ、また斗音にあんなことを言わせるまで、自分が追い詰めたのではないかと思うと苦しかった。あれから二度、三度、斗音に連絡を取ろうとした。メールは返って来ない。何度か携帯に掛けて、一度だけつながった。しかし、会おうとの誘いに、斗音は乗らなかった。
『・・・・・・会いたくない・・・・・・今・・・・・・・・・ちょっと体調が、悪いんだ』
 長くは話さなかった。本当に、斗音はつらそうだった。無理にでも押しかけようとも思った。でも、苦しそうにしながらも頑なにそう言う斗音は、本気でそう思っているのだと感じた。その思いが、慈恩を押し止めた。雅成から聞く三神の情報は、時折発作を起こすようになり、学校を休むこともあるとのいうものだった。もともと季節の変わり目は発作を起こしやすい斗音である。情報はさほど不自然ではなかった。
(・・・・・・斗音が何と言おうと、どう思っていようと・・・・・・隼なら、会いたい気持ちひとつで会いに行くだろうな)
 あんなふうに一途に、自分の思いに正直に、なれたらいい。何度もそう思った。でも大人びた理性がかえって邪魔をしていた。
「・・・・・・返さなくて、いいんだ」
 そうつぶやいて、慈恩は携帯のメールを一件送信した。
「件名:雪

 本文:気付いてるか?雪が舞ってる。すごく綺麗だ。見てなかったら、外を見てみろ。お前に、見せたい景色だから。」

   ***

 パチン、と携帯を閉じて、斗音はよろけながらベッドを降りた。ひどい眩暈にたたらを踏み、それでもぐっと堪えて、カーテンに縋りつく。身体がぐらついた拍子に、肩からはだけたパジャマがはらりと落ちる。肩の骨が浮き出す白い肌が顕わになった。
「・・・・・・っ」
 喉から濁った力ない咳がこぼれる。呼吸が荒いくせに擦れて弱々しい。その途中でまたつかえるように、咳が込み上げた。
「・・・・・・はぁ・・・っ・・・・・・・は・・・ぁ・・・・・・」
 呼吸の苦しさに喘ぎながら壁にもたれるようにして、そっとカーテンの隙間を広げた。
「・・・・・・ぁ・・・・・・」
 それほど大きくない雪の破片が空間一面に舞い降りてくる。門灯の光を浴びてほのかにオレンジに染められ、白と薄い灰色にひらひらと瞬間ごとに色を変えながら、静かに天空から降り注いでくるその美しさに、薄茶の瞳が見開かれ、涙に包まれた。白い頬に、透明な雫が伝う。
 小さく震える腕を伸ばして鍵を外し、カラカラと窓を滑らせた。風はないが、凍てつく空気が流れ込んで斗音の身体を包む。唇からこぼれる吐息が白く染まる。よりクリアになった視界に、それでも斗音は見とれた。
「・・・き・・・・・・れ・・・い・・・・・・」
 思わず手を差し伸べる。その細くて白い指先に、小さな結晶が触れた。一瞬形をとどめていたそれは、見る間に透明な液体となり、水滴だけを残して消えた。そして、次の結晶がまた指にとまる。
「・・・・・・見て、るよ・・・・・・慈恩・・・・・・」
 また喉を、力ない咳が遮る。伸ばしていた手で胸を押さえ、苦しげに柳眉を寄せて、しばし呼吸を整えて。
「・・・・・・っ、・・・・・・・・・はぁ・・・・・・・・・・・・綺・・・麗だ・・・、ほん、とに・・・」

 長い睫毛が涙に濡れながら、新たな雫を瞬きでこぼしていく。
 
最近は、気管を通り越して肺にまで苦しさを感じるようになっていた。熱も三十八度と三十九度の間を行ったり来たりしたまま下がらない。その身体に凍るような冷気は容赦なく襲い掛かる。ベッドの中で絶えず自分の熱に蝕まれながら、それでも激しい体力の消耗を強要されたばかりの身体に、その冷たさは妙に新鮮で気持ちよかった。
「・・・・・・ごめん・・・・・・・・・メール・・・・・・返さない・・・けど・・・・・・」
 ペンダントを絡めた左手で握り締めた携帯も、胸に押し当てる。
「・・・・・・見てる・・・・・・お前と、同じ・・・・・・景色・・・・・・」
 血色の悪い唇からこぼれる呼吸がますます白さを増す。壁に寄りかかったまま、少し身を乗り出すようにして再び手を伸ばした。その手に白い結晶が一つ二つ舞い降りるのを見て、斗音は微笑んだ。まるで可憐な花がそっと開くように、優しくほのかに、そして儚く。
「・・・・・・っ」
 潤んだままの瞳が微かに見開かれ、たちまち微笑みは凍りついた。華奢な身体を絡め取るように背後から抱きすくめたのは、長身の男。
「・・・・・・こんなに身体を冷やして。さっきあれだけ火照らせてあげたのに」
 コロンの香りを漂わせながら、白い頬に頬と唇を摺り寄せる。
「俺が暖めてあげますよ」

 その頬が、新たにこぼれた雫に濡れた。窓際からあっけなく引き剥がされ、そのままもつれて崩れるようにフローリングの床に力なく組み敷かれる。左手から傷だらけの携帯が転がり落ちた。薄茶の瞳から光が失せ、瞼がゆっくりと落ちた。まるで意志のない人形のようなその肢体に、190近い体躯が覆い被さる。一方的に嬲られるだけの行為に耐えるために、斗音は左手に絡めた十字架をそっと握り締めた。

   ***

「あら・・・雪。今年は早いですね」
 少し嬉しそうに窓から空を見上げた母親に、近衛は片眉を軽く上げた。

「夕方には降っていましたよ」
 
話がある、と居間に呼び止めておいて、いきなり世間話はないだろう。そんな近衛をちら、と見遣って母親ははんなりと笑った。
「そうでしたか。そういえば今日はお客様がいらして忙しかったから、全く外を見る余裕がありませんでした」
「客人、ですか」
「ええ。西園寺グループの会長婦人が、ご相談にいらしていたのです」

「西園寺・・・・・・」
 西園寺グループといえば、近衛家が司る大グループの傘下である大企業をいくつも任せている、近衛家の右腕である。それくらいは、近衛家の嫡男として幼い頃から認識している。
「ええ。あなたの許婚、果葡璃(かほり)さまのお母様です。さすがのあなたも、西園寺の名は覚えているようですね」
「そんな理由で覚えているわけではありません」
 いきなり予想外のところから話を振られ、眉根を寄せたいのを理性で抑えて近衛が答えると、母は上品に笑みを浮かべた。
「あら、あなたはあまり近衛の財閥関係には興味がなさそうだと思っていましたから」
「・・・そんなつもりはありませんが」
 やや詰まった辺りで、母親には見抜かれているだろう。それが図星であるどころか興味の欠片ももってはいないということを。父親を影で見事に支えているこの母親は、花山院という名家の出身である。女性は男性を立て、決して前には出ないという昔ながらの女性を演じているが、そんなものに収まる人ではない。明晰な頭脳は、父親というよりむしろこの母譲りの近衛である。
 その母が、左手の指を添えるようにしてくすくすと笑った。
「それで?果葡璃さまとはちゃんと連絡を取っていらっしゃいますか?西園寺婦人から少しばかり、恨み言を聞かされてしまいましたよ」
 ぐ、と言葉に詰まってしまった。そもそも自分に許婚がいることなど、ほとんど意識していない近衛である。家同士の付き合いだからと、仕方なく時々会ってはいるが、年に数回がせいぜいだ。
「あなたはともかく、果葡璃さまは悠大さんのことをとても慕っていらっしゃるのですから、女性の気持ちをあまり無碍になさるものではありませんよ」
「・・・・・・果葡璃は大学受験を控えている身です。あまり邪魔をするわけにもいかないでしょう」
 食後に出された紅茶に、上品な仕草で口をつける。これも幼い頃から徹底的に叩き込まれたマナーである。
「そうですね。でも、その理性あるはずの受験生相手に、一体どんなことをなさったら、母親にわざわざ恨み言を言わせるほど想いを募らせることになるのでしょうね?」
 ぐぐ、と、完全に近衛の口は内側から封じられてしまった。かろうじて紅茶を噴き出すなどという最悪のマナー違反だけは免れた近衛だったが、頭の中では瞬時に過去をさかのぼる。数ヶ月前に会ったきりだが、その時は確か・・・・・・。
(ストレス溜まってたから、ベッドに連れ込みました、なんて言えるかよ!)
「・・・そ、そんなことを言いにいらしたわけじゃ、ありませんよね」
 だいぶ平静を装ったつもりだったが、動揺は確実に露見していた。なんだか楽しむような様子の母親だが、ええ、とうなずいた。
「もちろん、それは事のついでに。ちょっと困ったことがあって、いらしたのです」
「困ったこと、ですか?」
 話を逸らすためにも、近衛は鸚鵡返しの質問をするしかなかったのだが、母親は息子をからかうのをやめたらしい。柔らかな表情のままではあったが、笑みは消した。
「伏原傘下の企業が、提携をやめると言い出したそうです。伏原は西園寺の最強のバックアップをしてきましたからね。伏原自身も大打撃を受けると思いますが、西園寺を相打ちに持ち込むことができるはずです」
「なぜ、そんなリスクを顧みずに?」
「悠大さんなら、どう考えますか?」
 問い返されて、近衛は丁寧にカップをソーサーに戻し、長い脚を組んだ。
「伏原に援助を申し出たところがある・・・・・・むしろ、そちらに利益を見出すほどの援助を」
 上品な和服の母親は、笑みを表情に戻した。
「それだけですか?」
「・・・・・・また、お試しになるのですね」
「あなたは、近衛家を背負わなければなりませんからね」
 ふう、と軽く溜息をついて、近衛は組んだ膝に肘をつき、指を額に当てた。
「それだけの援助を申し出られるとなると、並大抵のところではないはずです。援助する側も相当の出費を覚悟しなければならない。それでも提携を破らせる・・・・・・そうだ、援助を申し出たところが、伏原に提携を破らせた。伏原が組するのは・・・・・・冷泉?冷泉と醍醐は・・・確か・・・・・・鷹司グループの、両翼」
 はっと顔を上げる。その目が捉えたのは、品のある微笑み。
「よくできました。そういうことです」
「まさか、鷹司が・・・・・・?」
「わたくしは、そう見ますけれど。悠大さんはどうですか?」
 近衛は唇を噛んだ。心当たりが大有りだ。
(マジか、あのクソ部長!つーか、ガキの面子のやり合いに、本気で動くってのか!)
 思わず舌打ちをする。その瞬間、母親が肩をすくめた。
「あら、悠大さん。お行儀がよろしくありませんよ。何か、思い当たることがあるのだとしても」
「そんな悠長なことを言っている場合ですか」
「悠長に大きくなれ、はあなたの座右の銘ではないのですか?」
「そうですけど・・・・・・って、なぜそれをご存知なのです」
 さすがにそれを、自分に名を与えてくれた親に言うほど、近衛は馬鹿ではない。母親は軽やかに笑った。
「あなたのご親友から、聞きださせていただきましたよ。本当に飾らない、素敵なお友達でしたから」
(慈恩、あの・・・・・・馬鹿・・・・・・)
 がっくり肩を落とす。百戦錬磨の母にかかれば、この世界に擦れていない慈恩から色々自分のことを聞き出すのは、いとも容易いことだろう。
「なかなか面白い解釈ですね。私はあなたらしくていいと思います。それより、九条さまは最近あまり来てくださいませんね。あんなにいい方、そうそういらっしゃいませんよ。大切になさいませ」
「・・・・・・分かっています。しかし、今は・・・」
 優しい声で、母は優雅に笑った。
「鷹司のことは、わたくしにお任せなさい。今のあなたよりは、よほどいい手が打てます。だてにこんな大きな相談事を持ち込まれたり、ご婦人方とお付き合いをしていたりするわけではありませんから」
 そう言って、流れるような仕草で立ち上がる。
「人付き合いとは、損得ではありません。人を大切に思う気持ちこそが、思わぬときに自分を救ってくれるものです。表面的なお付き合いはどれだけ親密そうに見せていても、相手には伝わっていますから。九条さまに対する気持ちも果葡璃さまやお友達に対する気持ちも、本心から相手を大切に思い、本音で接している相手であれば、決して裏切られることはないのですよ」
 立ち上がった母を視線で追うと、百合の花が揺れるように清楚で上品な笑みがそこにあった。
「あなたが本当に大切に思う人は、どんなことがあっても助けて差し上げたいと、思いますでしょう?」
「・・・・・・・・・・・・はい」
「そういうことです」
 さすがだ、と近衛は心の中で両手を上げた。この母には敵わない。
「では・・・失礼いたします」
 丁寧にお辞儀をして、近衛は広い居間をあとにした。
「・・・・・・大切に思う人、か」

 離れに行くための通路にはちゃんと屋根を取り付けてあるが、それでも凛と冷たい空気は避けようがない。それは近衛の気持ちを引き締める。
 
ふと目を遣ると、巨大な和風庭園にハラハラと舞い落ちる雪が、とても美しい。
(慈恩・・・・・・お前はこの景色、見てるかな)
 自分が一番慕い、大切に思う友人が、ここのところずっと塞ぎ込んでいるのを知っている。詳しい理由は知らない。塞ぎ込んでいても、やはり剣道は強かったし、テストでもトップクラスは譲らなかった。それでも近衛にはよく解った。時折見せるつらそうな横顔や、儚げにさえ見える物憂げな表情。それは慈恩がいつか見せた表情によく似ていて、そのとき慈恩は心にものすごく重い負担を抱えていた。
(きっと今も、何かを抱えてる。・・・・・・話くらい、聞いてやれたらいいのに)
 慈恩が言おうとしないのも解っていた。話を聞いてやれるだけの存在に、自分はまだなれていないのだと思う。それは悔しかったが、それ以上につらそうな慈恩を見ているのがつらかった。
(来週はみんなで・・・・・・少しくらい羽目を外せるといいかもな)

 街中が華やかに浮かれ始めるクリスマスが近づいていた。

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四十八.イブの計画

「プレゼント交換とか、ちょっと庶民的でいいだろ」
 和田がにやっと笑う。鳳が少し首をかしげた。
「難しいな。誰に当たるか分からないものなんだろ?基本的にもらった人が喜んでくれるような物でないと、せっかく選んでも価値が下がる気がするし」
「そうだよね。みんな自分の欲しいものなんて簡単に手に入れることができる人ばっかりだし、何をプレゼントに選んだらいいか、迷うところだよね」
 東坊城もしんみりうなずいた。和田が軽く唇の端を引きつらせる。
「テンション低いんだよ、お前らは。祭りみたいなもんだから、そう悩まなくてもいいんだよ」
 和田は努めて明るく振舞っている。彼らの部を引っ張ってくれる仲間が、今とても元気がないのをよく分かっていて、それを何とかしたいと考えているからだ。
「ああ、庶民的ってところで追加条件だけど、プレゼントは一万円以内の物にすること。上限がないと見境なく家の力を見せたくなる人間も出てくるだろうからな」
 唇の端を吊り上げて見せたのは近衛である。近衛も和田と同じように、場の雰囲気を少しでも盛り上げようとしていた。それを感じているのかいないのか、東坊城が素っ頓狂な声を上げる。
「一万?たった一万で一体何が買えるんだよ!無理無理。せめて十万にしようよ」
「馬鹿言わないでくれ。庶民がたかが高校生のクリスマスプレゼントに十万もかけると思うのか」
 最近はかなり剣道部の仲間に対して砕けてきた近衛である。それでも口調は慈恩と二人のときより丁寧である。
「これは提案者の僕に決定権があるだろう。僕が一万と言ったら一万だ。それを越えた物を持って来たら罰ゲームってことで」
 ええっ、とどよめく仲間たちの中、慈恩は表面的な微笑を浮かべながら、庶民の高校生のクリスマスプレゼントには一万だって高すぎだろう、などとどうでもいいことをぼんやり思っていた。
(パーティーでの交換用プレゼントなんて、ウケ狙いなら面白グッズ、せいぜい千円以内。女の子用なら適度な大きさのぬいぐるみとかアクセサリー。これもよくて二千円までだろ)
「難しいよ、一万で誰もが喜んでくれるものって。せめて渡す相手がはっきりしてればなあ」
「それじゃ、プレゼント交換の醍醐味がねえだろ」
 すかさず秋月に和田がツッコミを入れた。その会話の言葉に、慈恩の脳は何気なく反応する。
(相手がはっきりしてるなら・・・・・・さりげなく相手を喜ばせてあげられるもの・・・・・・斗音だったら、あいつの好きな料理を沢山作って、一緒にツリーを飾り付けして・・・・・・バスケで使えそうなリストバンドとか、喜んでくれたっけ・・・・・・)
 無意識にそこまで考えて、自分ですうっと温度が下がるような感覚に襲われた。自然、表面に浮かんでいた笑みは儚く消え入る。それを目撃していた近衛は、軽く唇を噛んだ。
 クリスマス・イブまであと一週間を切り、近衛は少しでも慈恩を元気付けたくて、剣道部でクリスマスパーティーをしようと提案した。あくまで自分たちだけで、大人は交えずに楽しもう、と。部活が終わってから、その話でみんなが盛り上がり、慈恩も心からというわけではないが笑みを見せているようだったから、提案してよかったと思ったのもつかの間、ともするとこんなふうに壊れてしまいそうな顔をする。
(どうしたら、支えてやれるんだろう。何でもいいんだ。慈恩の支えになるなら、何を言われたって、俺はやるだろうに)
 母に言われたことを痛感する近衛である。でも慈恩は何も言わない。訊いても微かに微笑むだけだし、むしろその笑みが痛くてつらそうで、それ以上訊くことを躊躇わずにいられなかった。だからせめて、今慈恩が心を許せる仲間たちと一緒に馬鹿騒ぎでもできれば、と思ったのだが。
「パーティーか。うちも家で毎年何か企画してる気がするけど、高校生活で弾けてられるのも今年が最後だしな。俺もこっちに参加するぜ」
「近衛の家に行くのも初めてだしな。一度お前の家、見てみたかったんだよ。一体どんなところで育ったらそんなふうに完璧になれるのか、興味あるし」
「期待しないでくれよ。料理くらいは出すけど、あくまで大人は抜きだからな。両親はもちろん、家の人間には絶対に出てこないように言っておくし、みんなも部活が終わって直行するんだからな」
「それじゃあパーティーって言うより、クリスマス会って感じだな。普通の高校生っぽくていいよ」
 仲間たちの話はいよいよ盛り上がっていく。それでも慈恩は一切会話に参加しなかったし、最後まで上辺の笑みすら、その凛々しい顔に戻ることはなかった。
 仲間たちの別れの言葉にすら薄い反応を示すだけで、ぼんやりと去っていく慈恩の背中を見つめながら、近衛は小さく溜息をついた。そして、同じように心配そうな視線を送っている部員たちの注目を、軽く指で招いた。
「ちょっとみんなに、相談があるんだ」

 近衛の表情に笑みはなく、真剣そのものだった。部員たちもつられて真顔になった。

   ***

 和風の大きな額に書き込まれたのは「仁義心」。かなり堂々とした、立派な書体だ。
「あれさあ、お前の信条と一致してるわけ?」
 ソファの背もたれに片腕をかけ、もう片方の手でさらさらの淡紫色の髪を掻き上げる美貌の少年に、暴力団の二代目組長は深々と煙草の煙を吸い込み、ゆっくりと吐き出した。デスクの椅子はゆったりと深く、それに長身をゆったり預ける姿は、実に様になっている。ただただ、顔が若いだけで。
「外れちゃいない。つーか、親父から一応受け継いでる心だし、無碍にしちゃまずいだろ」
 にやりと浮かべる不敵な笑みが、本当によく似合う安土である。
「心、ねえ。仁義、の中に、心は入ってんじゃねえの?ていうか、仁義ってのは、心の有り方のひとつだろ」
 嵐のものの言い方は、実に愛想がない。普段ならもう少し、この二代目組長に対して心ある応対をするのだが、嵐の胸の内は悩み事が多すぎて、自分に想いを寄せるこの相手に気を遣ってやれるほどの余裕がない。安土もそれは重々理解している。安土にとって嵐は想いを寄せる相手だが、嵐にとって安土は誰よりも自分を理解してくれる親友の一人でもある。だから、誰にも相談できないことでも、安土にだけは話していた。
「いいか、あれは漢文だ。仁義と心の間に小さい片仮名のノが入るんだ。だから正確には、仁義の心、と読むのが正しい」
「それ、今とってつけただろ」
「いいや、親父はどう思っていたか知らんが、俺はそのつもりで書いたんだから俺が正しい」
「・・・・・・」
 しばし瞬きをした嵐は、それからグレーにも見える瞳を軽く見開いた。
「あれ、お前の字?」
「知らなかったのか。なかなかのもんだろ?確か中学二年くらいのとき、親父がこの組を立ち上げた記念に書いてやった」
「・・・・・・」
 再び絶句した嵐は、それから苦笑した。
「お前って、ほんとはすごい奴なんだな」
 安土は鷹揚な笑みで返す。
「助詞が間違ってる。そこは形容動詞で本当に、だ」
「あー、はいはい、間違えましたとも」
 いつもなら更に皮肉を込めて返すところで、嵐は諦めたように投げやりに返した。それを見て安土は溜息をついた。
「やる気のないお前の相手をするのは、張り合いがなくてつまらん」
 これには嵐がむっとしたように柳眉を寄せた。
「相手してんの、俺だろ。それに、やる気ないってどういうこと・・・」
「あんのか?じゃあやるか?俺はいつでも構わんぞ」
 被せるように言って椅子から少し身体を持ち上げ、シャツのボタンをひとつ外しながら挑戦的な漆黒の瞳を向ける。対する嵐は少し困った表情を浮かべた。
「そういうこと、言うなよ」
「そら見ろ、やる気ねえだろうが」
 ふん、と鼻で笑って、再びすらりとした肢体を椅子に深く預けた。
「まあいいさ。今のうちにお前の気が変わるように仕向けてやるから」
「気なんか、変わらない」
 凛とした瞳に意志の固い表情。それを少し物憂げに見つめてから、憐れむように安土は笑んだ。
「ほとんど連絡もよこさねえ相手との遠距離恋愛は、つらいだろう?やっぱり慰めてやろうか?」
「いらねえよ。お前一回三途の川渡ってこいよ」
「何回か渡りかけてるから、それでいいか」
「ちゃんと渡れ」
「ちゃんと渡ったら、二度とお前に会えなくなる。それだけは勘弁だな」
 ククッと肩を揺らして笑い、紫煙をくゆらせながらしなやかな動作で立ち上がった。
「そう思えば、ドイツだってこの世だ。会おうと思えばいつでも会える世界なんだから全然マシだ」
 優雅な動作でソファに近づき、きゅっと唇を噛む嵐の隣に腰を下ろす。
「俺の前でそんな顔するな。やりたくなんだろ」
「・・・っ」
 口付けられた唇を手の甲で拭う嵐を、安土は軽く小突いた。
「今日はここまでにしといてやるよ。クリスマスにはプレゼントやるから、家に来い」
「・・・・・・でも、その日は翔一郎たちと斗音を誘ってみようと思ってるから・・・・・・」
 躊躇いがちに言葉を紡ぐ嵐に、安土の笑みが消えた。
「ああ・・・あいつか。まだ駄目なのか」
 やや思案して、安土は凛々しい眉を寄せた。
「もしお前の考えが取り越し苦労でないなら・・・・・・まあ、絶対当たってるだろうが、これ以上放っとくのはまずいと思うぞ。ああいうタイプは芯が強いだけに、な。精神的な強さに身体が比例していない。休みが続くようになってからどれくらいだ?」
 嵐はつらそうに息を詰めた。
「一ヶ月・・・・・・近く」
「・・・・・・そんなに」
 ピリッと安土の表情が険しくなる。思っていたより時間が経っていたのだ。
「連絡は?」
「メールに返事はない。携帯に掛けても最近はもう絶対に出ない。でも、あいつが最後に言ったのが・・・・・・」
 嵐の両拳が難く握り締められる。
「・・・・・・今は気にされることが何より苦痛だって・・・・・・いっそみんなが自分を忘れてくれたらいいのに、って言葉だったんだ」
「・・・・・・不器用な奴だな」
 重い溜息を吐き出して、安土はつぶやいた。さらりと髪を揺らして嵐が安土の表情をのぞき込む。
「でも、あれは本音に聞こえた」
「本音だから、不器用だっつーの」
 漆黒の張りのある髪を掻き上げて、もう一度小さく溜息をつく。長い睫毛の影を落として、嵐はうつむいた。学校の仲間の前では、決して見せない表情だった。
「俺たちが連絡を入れようとするたび、あいつはきっと苦しんでる。そう思うと、俺、それ以上何もできなくて。いっそ押しかけてやろうかって何度も思ったけど、あいつを支えてる理性とかプライドとか、そういうもん全部潰しちまう気がして・・・・・・それがなくなったら、あいつ・・・・・・。・・・・・・そう思うと、俺は、怖くて」
 秀麗な額を現役暴力団組長の胸に押し付ける。
「・・・・・・何も、してやれない・・・・・・」
 くわえていた煙草を手馴れた長い指で灰皿へ運び、火種を押し潰す。その手を、安土は迷いなく嵐の背へ回して、自分よりひと回り小さい身体を抱き寄せた。
「・・・・・・いっぱい抱え込んで、散々苦しんだのはお前も同じだ。・・・・・・まあ、どんなに遅くなっても構わねえから」
 慈しむような優しい笑みで、淡紫色の柔らかい髪を撫でるように引き寄せる。
「イブの夜は、必ず来い。お前のためだけの、最高のもてなしをしてやる」

 躊躇ったあと、安土の腕の中で淡紫色の頭が小さくうなずいた。

   ***

 闇の中の微かな明かりを受ける白い息は、呼吸のたび強い風にさらわれていく。
(・・・・・・寒い・・・・・・)
 受験も間近に迫っているというのに、勉強には相変わらず身が入らなくて、街のにぎやかなクリスマスのイルミネーションも目障りで、港までバイクで飛ばしてきた。ただただ、静かなところで寒風にさらされていたかった。そうすれば、少しはこの胸の痛みが紛れるような気がしたのだ。
 三年生になったばかりの辺りまでは、完全に自分の進路など見失っていた。どうにでもなると思っていた。けれど今は違う。体育系の大学へ行ってボクシングを続けたい。高校の最後のインターハイまでに、無為に過ごしてしまった時間が悔いとなって残っていた。だから今度は、悔いを残さないようにやりきりたい。それで満足できればいいし、もっと上を目指したい気持ちが芽生えたら、本気でどこかのジムに通おうと思った。何もかも中途半端にしてきてしまった分、何かひとつでもいい、自分がとことんまでやったと思えるものを、自分の中に築き上げたかった。少しでも、自分に自信が持てるように。
(少しでも、あいつに見合う人間に、なりたい)
 瓜生は黒い革ジャンの上から、拳を心臓に押し付ける。そこに重くて鈍い痛みが走る。このままではいけないと、そう思えば思うほど自分を追い詰めてしまう。
(・・・・・・・・・・・・会いてぇな・・・・・・)
 溜息が白く色づき、その先から風に吹き飛ばされていく。
 もう、あの階段には行かない、と言われて、自分の存在意義が薄れた気がした。けれど、それ以上に斗音のことが心配だった。完全に拒絶されたことで、斗音に連絡を取ることもできなくなった。だから、精神的な負担だけが積み重ねられていた。・・・あの言葉を聞いてから、二週間が経とうとしていた。
(今、何してるだろう。あの変態野郎に・・・・・・抱かれてるのか)
 そう思うと、心臓が焼け付きそうだった。守ってやると言ったのに、こうして何もできずにいる。
「・・・・・・っくしょう・・・・・・!」
 ガン、と手すりをたたきつける。どんどん元気がなくなっていった斗音。あの階段で、自分の傍らで静かに時を過ごしていた姿が今でも脳裏を離れない。何を話すわけでもなく、寄り添っていた華奢な身体。伏せがちの瞳には、濃い翳りがあって、長い睫毛は、よく涙で濡れていた。柔らかい髪をそっと撫でると、本当に仔猫のように、小さな頭を摺り寄せてきた。腕に伝わってきたぬくもりも、擦れ気味の声も、時々抑えきれずに触れた唇の熱っぽさと柔らかさも、何もかもがいとおしい。その斗音があのストーカーじみた狂気を漂わせていた危険な男に襲われている。いとも簡単に自分の腕を折って見せた、あの男に。そう考えるだけで、気が狂いそうだった。
『俺・・・・・・もう、二度とそこへは行きませんから』
『分かった』
 ・・・・・・なぜあんなことを言ってしまったのだろう。斗音に言われた言葉に、動揺した。混乱した。何を一番言うべきなのか、どんな言葉を言ってやればよかったのか、今でも分からない。
「・・・・・・それでも・・・・・・俺は・・・・・・待つ、とでも言えばよかったのか。それとも・・・・・・ふざけるな、と怒鳴りつければよかったのか」
 何度あの言葉への答えを考えただろう。もう帰ることのないあの瞬間に、尽きることのない後悔を寄せて。
 もともとクリスマスという行事にいい感情などはない。幼い頃家族でそろって過ごした思い出は、両親の戻らなくなったあの家では重いだけで、高校に入ってからは現実から逃げてばかりいる仲間たちと何もかもにケチをつけて歩き、クリスマスの夜くらいは異性と過ごしたいと考える軽いノリの女子高生あたりをナンパして、互いに性欲を満たし合うだけの虚しい一夜を過ごすくらいだった。それも、普段と大差ない過ごし方で、今思えば吐き気がする。
 けれど、こんなにつらい思いをするクリスマスは初めてだった。心臓が潰れそうなほどのこの苦しさは、斗音に出会わなければ、味わうこともなかったのだろう。
 ひと際冷たい風が瓜生を襲った。氷の冷たさを感じるその風に、さすがの瓜生も身体を震わせる。
(・・・・・・明日は、雪が降るかもな・・・)
 最近はめっきりホワイトクリスマスなんていうものから遠ざかっているのだが、今年は秋から冷えるのが早く、冷え込みの厳しい冬になることは天気予報でも頻繁に伝えられていた。既に何度か、積もるほどではないものの、雪が観測されている。
「・・・・・・クリスマス、か。・・・明日くらい・・・・・・あいつが笑顔になれたら・・・・・・」
 思わずつぶやいてから、はっ、と苦笑する。それが分かっているのならとっくにやっている。そう考えて、ふと笑みを消した。

「・・・・・・そうだ・・・・・・・・・あいつ・・・なら・・・・・・」

   ***

「え?うち?うちは明日までや。どこでもそうちゃうんか。え?明後日も?ほんまか、けったいやなぁ、クリスマスに学校やなんて」
 隼はカラカラと開けっぴろげに笑った。携帯の電波の調子を気にしながら、窓際の棚にもたれかかる。
「何ゆうてはるん。うち、純和風やさかい、クリスマスなんか関係あれへんよ。え?ああ、俺的には有りなんや。けど、道場的にはゆう話や。稽古は年中無休やさかいなぁ。ま、稽古のあとにケーキ出てくんのが、昔は楽しみやったかなあ。何気に昆布茶に合うてな。え?うまいねんて、ほんまや。紅茶とか、せやからうちは純和風てゆうてるやん。え?ああ、ケーキくらい、小さい子なんやし、食わしたったらええやん。それまで取り上げたら鬼や」
 どうやらクリスマスにまつわる思い出を話しているらしい。なかなかハイテンションである。笑い方も豪快だった。そこへすらりと襖が開いて、隼に少し似た、目鼻立ちのすっきりした美人系の女性が顔を出す。美人系だが、残念ながらかなりのしかめ面である。
「ちょっと刀威、うるさいよ。今ドラマええとこやのに、あんたの馬鹿笑いで感動シーンがわやんなってしもたわ」
 言うだけ言って、たんっ、と勢いよく襖が閉まる。隼は肩をすくめた。
「あー、文句言われてしもた。聞こえたんちゃう?あはは、やっぱ?姉ちゃんやけど。怖いでー。顔とか、あれや、般若の面が生きてたら絶対あんな顔やで。あんた、兄弟はいてはるんか?あ、そう?いやいや、いてへん方が幸せや思うで?ドラマの鬼やし」
 けたけたと笑った瞬間、今度はスターンっと襖が五割増の勢いで開いて、切れ長の目をきらりと光らせた「綺麗なお姉さん」が、剣の達人の弟を睨みつけた。
「刀威!ええ加減にしなさい!そんな笑いたいんやったら外でしゃべったらええやん!」
「あ、ごめん、姉ちゃん、かんにんな。ほな、外行くわ」
 片手で手を合わせるジェスチャーをしながら、片目を閉じる。そそくさと廊下を歩いていく弟を見て、なかなかに美しい女性は、軽くカラーリングしてゆるくパーマを掛けた綺麗な髪を、ふわりと後ろへ流した。
「あの子、黙って剣道やってたらええ男やのに。アホは誰の遺伝やろ」
 アホ呼ばわりされたとは露知らず、隼は庭に出てブルッと身体を震わせた。
「うわ、寒っ。雪降ってるやん!こらアカン、中入ろかな。けど思い切りしゃべりたいと思たら、こっちの方がええしなあ。あー、姉ちゃんも黙ってたらそれなりにええ女やと思うねんけどなぁ。ああ怒りっぽいんは誰の遺伝やろな」
 ぶつぶつ言いながら、相手の声に少し耳を傾けて、軽く目を瞠った。
「え?そっち降ってへん?そうなんや。ま、そっちも明日には降るんちゃうか?ホワイトクリスマスや。ええやん、ロマンチックで。彼女でも誘わはったら、ええムードんなるで?」
 自分の身体を腕で包むようにしながら、大きな松の根元にしゃがみ込む。
「んー?俺はいてへんよ。残念ながら片想い中やさかい。せっかくホワイトクリスマスでもいつも通り稽古やって終いや。部の連中?そんなん、みんな彼女いてはるし、デートに決まってるやん。俺だけロンリークリスマスやわ」
 全く寂しそうにもせずに屈託なく笑う。
「そうなん?ええなあ。けどみんな彼女とかいてはらへんの?・・・へ?え?ほんまか、それ。ちょっと世界違うてんねんな。・・・・・・・・・・・・え、ええ?」
 隼の切れ長の瞳が、大きく見開かれた。
「・・・・・・けど・・・・・・明日学校あるさかい・・・・・・ほら午前中で終わりやけど・・・・・・」
 あれほど饒舌だったのが、どんどん言葉に詰まり始める。
「・・・・・・いや、そういうわけには・・・・・・まあ・・・・・・稽古くらいは・・・・・・何とでもなるやろけど・・・・・・」
 最後には短めの髪をがしがしと掻き上げながら、そのまま頭を抱えてしまった。
「う~~~~ん・・・・・・どないしよ・・・・・・そら・・・・・・嬉しい、けど・・・・・・・・・・・・なんで、また?」
 がたがたと震え始める身体を叱咤するようにぎゅっと抱き締めながら、相手の声に耳を傾ける。時折、うん、うんと相槌を入れながら、真剣な眼差しを、土に触れては消えていく雪に固定した。その視線を上げたとき、大人びた顔は男らしく凛々しかった。
「分かった。そうゆうことやったら、俺、遠慮せえへん。ご厚意に甘えさせてもろてええか?・・・・・・ええよ、師匠には話つけるよって。あ?まあ、血のつながり的には親父やけど。・・・・・・うん。うん、分かった。ほなら、楽しみにしとるさかい」
 じゃあ、と携帯を切って、隼は白い呼気を舞い落ちてくる雪に吹きかけるようにして空を仰いだ。
「・・・・・・せやから、俺、ゆうたのに」
 切れ長の目を少し細めて、空をつかむように腕を伸ばして。珍しく憂いを含んだ表情は、ひどく切なそうだった。

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