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四十四.嵐の洞察

 既に十一月。朝はかなり寒い。会場となっている武道場は関東大会ということで、観客席もかなり埋まっている状態だったが、それでもかなり厚手の上着を羽織ったりして寒さを凌いでいる。剣道着の選手たちはベンチコートを羽織ったりして身体を冷やさないようにしながら、学校ごとに準備体操やアップを始めていた。
「おはよう、田近。調子、どうだ?」
 誰とでも気さくに話す翔一郎が自校の選手に声を掛けた。如月剣道部の部長はくるりと振り返って明るい笑顔で応える。
「おはよう。俺はまあまあだよ。今日は慈恩目当て?」
「慈恩と、如月の応援だよ」
「ほんとに?さんきゅ。心強いな、出来過ぎ集団(ぱーふぇくつ)が応援してくれるなんて」
「その呼び方はちょっと微妙だけど、そう言ってもらえると来た甲斐があるな」
 翔一郎は苦笑した。出来過ぎ集団というのは傍から見た生徒たちがつけたグループ名で、本人たちはその名で自分たちが呼ばれていることを認識しつつ、あまり歓迎してはいなかった。しかし、田近はからりと笑う。
「そうか?ありきたりなネーミングだけど、なかなか内容的には的確だぞ。ま、俺たちはここに陣取ってるから、いつでも来なよ。慈恩たちの桜花は一番北側の辺りに席取ってたかな。今はほら、あっちでアップしてる」
 言われて翔一郎と、隣にいた瞬はくるりと示された方角に視線を移す。その視線の先で、桜花高校が二列で竹刀を構えて、威勢のいい掛け声とともに打ち込みを始めた。
「・・・・・・九条、か。なんか、違和感だな」
「頭では分かってんだけどね」
 複雑そうな顔でつぶやく二人に、田近は少し笑みを曇らせながらも、明るい声を出した。
「最初はね。けど、剣道は間違いなく慈恩だよ。全国レベルの、あの慈恩だ」
「うん、楽しみ」
 瞬もにっこりと笑う。この笑顔は女性でなくても可愛いと感じずにはいられないほどの代物だ。思わず田近も心を癒されて微笑み返してしまった。そして、ふと周りへ視線を巡らせる。
「斗音と東雲は?」
 何気ない問いに、可愛らしかった瞬の笑みが掻き消えた。その表情が不安そうに翔一郎を見上げる。翔一郎も少し困ったように瞬と顔を見合わせてから、田近に目を向けた。
「うん。今嵐は斗音と連絡取ってる。場内だと雑音が多いしね」
 竹刀の音や掛け声が響き渡る場内に、肩をすくめて見せる。田近は目を大きくした。
「斗音、どうかしたのか?そういや、今週ほとんど学校にも来てなかったよな」
「うん・・・・・・熱があって、今一緒に住んでる人に止められたんだって。何とか説得するからってメールが来たんだけど、それから音信不通になっちゃってさ」
 心配そうな瞬と翔一郎に、田近も唇を噛んだ。きっと慈恩とも約束しているのだろう。ならば、慈恩は間違いなくそれを楽しみにしているはずだ。もし斗音が来られないとなったら、気落ちしてしまうかもしれない。
「そっか・・・・・・来られるといいなあ・・・・・・」

 如月剣道部部長は、思わず打ち込みをしている慈恩を見遣った。

「畜生、何で取ってくれねえんだよ」
 悔しそうに嵐は木でできている壁を殴りつけた。電車の中からも何度も連絡を取ろうとしたのだが、全く反応がない。メールも瞬の携帯に来たっきりで、それ以降送れど送れど返ってこない。嵐は嫌な予感を拭い去ることができず、武道場に着いてからも一人入り口付近で連絡を取り続けていた。遅くなると心配するかもしれないと、会場内へ翔一郎と瞬だけは行かせたのだが。
「どうしたんだ、何してんだよ。慈恩がここにいるんだぞ」
 何度も掛けた自宅へ、再度チャレンジしてみる。
『はい、椎名です。ただ今留守に・・・・・・』
「くそ、もうそれは聞いたって!」
 留守電の声にぶち切れそうになった瞬間、聞き慣れない低い声が返ってきた。
『・・・・・・はい』
 すぐに椎名家にいる使用人だと理解した嵐は、瞬間的にアドレナリンの分泌量を抑え込んだ。
「如月高校の東雲といいます。確か三神さん・・・でしたよね。斗音は、今どうしてますか」
 三神の名を、斗音が口にしたことは一度だけだった。まだ九月の初め、斗音が彼のことを話すのに、まだ躊躇いを見せなかった頃。最初から名前はあまり出そうとしていなかったようだが、一度だけふと昼食の最中に口にした。それ以外は「九条家から来た人」という表現を使っていたので、覚えている人間は少ないだろう。嵐はそれを覚えていた。如月祭が近くなるにつれ、斗音の元気がなくなって、その口から彼の話が出ることは極端に減っていった。そして、その話に触れそうになると表情に明らかに翳りが見えた。斗音は何も言わなかったけれど、嵐は嫌なものを感じていた。
 もしかしたら、斗音はその男に性的な嫌がらせを受けているかもしれない。
 その思いは、斗音が話したがらないことからの憶測であり、あくまでもそれ以上ではなかった。嵐は忙しかったし、斗音も忙しかったので、それ以上の確信をもてる話もできずにいたし、何よりその話題で斗音を苦しめたくないという思いが、嵐の中にあったことも否めない。せめて学校にいる間くらいはそれから解放させてやりたい、と思っている内に、斗音は瓜生という理解者を見つけた。たぶん瓜生は何もかも知っている。それでも自分たちと違って、知られて気まずい思いをする相手ではない。いろんな意味で斗音より社会のいろいろな面を経験している瓜生は、斗音には頼れる存在だろう。瓜生も斗音を大事にしているようだったので、斗音に逃げる場所ができたことはありがたいと思った。自分に知られたくないと思っている斗音に、嵐自身は何もしてやれなかったのだ。
 しかし、ここに来て四日連続の欠席に、この大事な約束の日の音信不通。嵐の不安は鎌首をもたげ始めていた。自然、相手に対する口調は硬くなる。
「少し熱があって、あなたに引き止められているから遅れていく、とメールが来てそれっきり、連絡が取れない。どうしてですか?」
 相手の声は、やや間を置いてから再び低く耳に届いた。
『・・・・・・そうでしたか。斗音さんは、朝三十九度を越える熱を出されて、その上発作まで起こされて、とても動ける状態ではありませんでした。今も気を失って、医師の治療を受けています』
「な・・・・・・んだって・・・・・・?」
 嵐はそれだけ口にするのが精一杯だった。ならば、あのメールは。その思いを、使用人という男は肯定した。
『恐らくあなた方には慈恩様のところへ行って欲しかったのだと思います。御自分が行けないことは、誰より解っておられたと思いますよ。私がお引き止めするまでもなく』
「・・・・・・どうして・・・・・・」
 冷静というか、妙に落ち着いている相手に、嵐は責めるように問い掛けた。
「どうして発作なんて。今日のことを分かってる斗音が、無理するはずない。今日を最優先にするはずだ。それがどうしてそんなことになってるんですか」
 その問いには、やや皮肉を含んだような声が答えた。
『・・・・・・そもそも、昨日も熱が下がりきっていなかったのに、身体を慣らすからと学校へ行かれたのがまずかったのだと思います。そのくせ帰って来たのは九時近く。しかも、体力を削るような真似をしてきたようですからね。それが原因だと思いますよ』
「体力を、削る・・・・・・?」
『・・・・・・東雲さんとおっしゃいましたね。あなたは聡い方のようです。それだけで何となくお分かりになっておられるのではありませんか?』
 嵐は美しい形の眉をきり、と寄せた。
「・・・・・・誰かとやってきたとでも言うのか」
 相手は笑ったようだった。
『さあ、私にもはっきりとは分かりません。ただ、そのようにお見受けできましたので』
「斗音がそんなことするか。大体そんな見方、普通しないだろ。あんたがいつも、斗音に対してそんなふうに考えてるから、そういうふうに見えたんじゃないのか」
 抑制していたはずのアドレナリンがふつふつと湧き上がって、嵐の怒りを増幅させていた。斗音を侮辱するような言い方も気に食わなかったし、何よりそういう考え方をすることに、自分の嫌な予感が的中していることを証明されているような気がしていた。嵐の言葉は真実を突いていたが、しかし、そんな嵐をかわすように、相手はさらりと流した。
『昨夜の斗音さんをあなたが知っていらっしゃるわけではありませんから、これ以上は水掛け論になるだけでしょう。・・・・・・本来なら私がこの電話を取ることもありません。しかし、今朝から何度も電話が掛かってきていて、それが何故なのか知っていた上で、斗音さんが出られないことを考慮して私が取らせて頂いたまでです。あなた方に、今日斗音さんが行けないということ、そしてその事情をお伝えすることが必要だと私が判断した。それ以上のことを話すのは、越権行為だと思います。・・・・・・ご理解頂ければ幸いです』
「てめえ」
 会ったこともない相手に、嵐は乱暴な二人称を用いた。
「逃げる気だな」
『・・・・・・』
「俺の言ったことは、はずれじゃないんだろう?」
 切られたら終わりだった。それでも、嵐は相手の喉元に切り札を突きつけた。確信に近かったが、あくまでカマを掛けている部分が大きい。これで引っ掛かってくるかどうかは賭けだった。
『・・・・・・と、おっしゃいますと?』
 とぼけてくるか。俺がどこまで気付いているか、試す気か。
(なめんなよ)
「お前が斗音に対して抱く感情は、主人に対する忠誠じゃない。欲情だ」
『・・・・・・』
 反応はない。こちらをうかがっている。
(・・・・・・はずれじゃねえな)
 だったら、もっと・・・・・・こいつが斗音を疑うようなシチュエーションがあるとしたら。嵐の脳がめまぐるしく働いて、推測をたたき出す。
「だから他人があいつに触れていないかどうか、異常に気になる。例えば、帰りが遅ければ、誰かとどこかでいちゃついてんじゃねえか、どこかに赤い痕のひとつでもついてたりしたら、キスマークじゃねえか、やったんじゃねえのか、なんて妄想を広げる。昨夜てめえは、そんなふうに考えたんじゃねえのか?」
 その憶測を並べ立てながら、嵐は嫌な考えに心を絡めとられ始めた。
(そんなふうに考えたとしたら?斗音自身は絶対に昨日無茶をしたりしないはずだ。帰りが遅かったのは、瓜生さんといたからだとしても・・・・・・あの人が斗音に何か無理強いをするなんて考えられない。でも、それを変に勘ぐって、斗音が他人に取られたとこいつが思い込んだとしたら?だとしたら、発作を起こして、ひどい熱を出してるのは・・・・・・、まさ、か・・・・・・まさか・・・・・・)
 心臓がきりきり痛い。違うと思いたかった。でも痛みが嫌な予感をひっきりなしに伝えてくる。これは、当たっていると。考えを打ち消したくても、否定できる材料が何もない。嵐はギリ、と携帯を握り締めた。相手の反応が、あるいは自分の考えを打ち消せるものであれば。可能性の低さをひしひしと感じながら、それでも嵐は珍しく、自分の推測が外れることを強く願った。
 携帯からはしばしの沈黙のあと、敵意を含む声が低く鼓膜を震わせた。
『・・・・・・お前は、どこまで知ってる』
(・・・・・・・・・・・・斗音・・・・・・!)
 震える拳を握り締め、強く額に押し当てた。嵐にとって、その言葉は、自分の考えを肯定するものに他ならなかった。怒りに満ちた声も震える。
「お前・・・・・・あいつを、レイプしたな。弱ってるあいつを・・・・・・てめえが!」
『・・・・・・何、者だ、貴様』
 明らかに狼狽した声。それが嵐の胸を抉る。

(畜生。畜生、畜生!どうしてこんなことになる前に何とかしてやれなかった!)
 
できなかったはずはない。気付いていたのだから。気付かれたくないと思っている斗音の気持ちを大事にしてやりたくて、結局酷い目に遭わせてしまった。自分が何とかしていれば・・・・・・斗音にそんなつらさを味わわせずに済んだのに!
「嵐!」
 観客席となっている二階の階段から、翔一郎が駆け下りてくる。嵐は、はっと顔を上げて振り返った。
「まだ連絡取れないのか?試合、始まるぞ」
「あ、ああ、分かった。すぐ行くからいい場所確保しといてくれ」
 階段の途中で足を止めた翔一郎は、一瞬不思議そうな顔をしたが、真剣な面持ちでうなずいた。
「分かった。・・・・・・任せとけ」
 駆け上がって行く翔一郎の後ろ姿を見送りながら、嵐は深く息を吸い込んだ。翔一郎は自分を理解している。ここに来させたくなかったことを、分かっている。ありがたかった。
「許さねえ。やられる方がどれだけつらい思いをするか、てめえ考えたことあるか。・・・・・・まして今の斗音にそんなことをすればどうなるのか、てめえは知ってたんじゃねえのか!」
 激する声を抑えながらも、言葉の荒さは抑え切れない。激するあまり震えがちになる呼吸をなだめながら相手の出方を待つ。またもやしばしの沈黙が流れ、次に聞こえた声は、うろたえながらも嵐の弱みを的確に突いてくるものだった。
『・・・・・・あの人は、貴様らに知られることを望んではいない。あの人を苦しめたくないのなら・・・・・・精神的に追いつめたくないのなら、あの人を無理矢理問い詰めないことだ。それから、忠告しておく。このことをあの人が一番知られたくないと思っているのは・・・・・・九条慈恩だ。それだけ言えば、お前はどうすべきなのか理解できるはずだ。・・・・・・忠告はしたからな』
 ぶつ、と、繋がっていた空間が途切れた。パチン、と携帯を閉じた嵐は、悔しさを拳で壁に力一杯ぶつけた。
「くそっ!」
 言えるはずがない。これから試合をしようという慈恩の気持ちを乱すような真似はできない。それが終わったとしても、この事実を慈恩に告げることは、彼のみならず、斗音をも苦しめることになる。
(俺なら・・・・・・大事な人の苦しみを知らなかったなんて思ったら、自分で自分が許せない。それでも・・・・・・斗音、お前は・・・・・・・・・・・・慈恩がそれを知ったとき、どれほど苦しむだろう。これほどの屈辱を大切な人間に知られることに耐えられるだろうか。だけど・・・・・・だけど斗音、お前は俺ほど強くない)
 精神的に斗音を追いつめることがどれだけ危険なことなのか、嵐は嫌というほど知っている。安易に動くことは思わぬ結果を招きかねない。だからといって今のままで放っておくことも危険だ。
(どうしたらいい、俺は・・・・・・!)

 白くなるほど唇を噛み締めて、目の前に広がる景色を睨みつける。もう一度無力な自分を痛めつけるかのように拳をたたきつけてから、その全ての怒りの感情を鋭い吐息で吐き出し、嵐は階段を駆け上がった。

   ***

 試合開始前に、嵐を見つけた。目立つ髪の色だから、すぐに分かった。その隣に翔一郎、更にその隣には瞬を見つけた。元気に手を振ってくれた瞬に微笑んで見せたが、斗音がいないのが気になった。あちこちに視線を巡らせて、会場内全てをくまなく探した。でも、華奢な兄の姿を見つけることはできなかった。
 ひとつ試合を終えて勝ち進み、待ち時間ができたとき、彼らが桜花の応援席まで来てくれた。久しぶりで、瞬はとても嬉しそうだったし、翔一郎も感慨深そうにしていた。嵐はいつも通り魅力的な笑みで励ましてくれた。その中で、瞬に斗音からメールがきていることを聞いた。
(三神さんに止められたのか。斗音の健康だけは何よりも優先するようにって言ってあるはずだから、説得できるかどうか。無理しなきゃいいけど・・・・・・)
 嵐はそのことについてはただ一言、来られるといいな、と言った。いつもなら、きっと来る、だとか、ちょっと来られないかも、なんて断定的な予想をする嵐にしては、珍しい言い方なのが少し気に留まった。でも、嵐がそう言うなら、来るかもしれない、と思った。
 いつかもこんなことがあったな、と慈恩は思う。第二試合が始まる前、終わったとき、第三試合が始まる前、それが終わったあと、準決勝が始まる前、終わってから、そして決勝で再び如月陣と対面したとき、そして再び彼らに勝利したあと、ずっと会場内を探し続けた。でも最後まで、その姿を捉えることはできなかった。
「やっぱり強いね、慈恩。それに、桜花も強いね。近衛って人と、あと鳳って人が強かった。東何とかって言う人も強いし。安定してるなって感じがしたから、安心して見てたよ」
「如月も強かったんだけどな。決勝は見応えあったなあ。特に副将戦の、田近対近衛。結局1-1だったけど、いい勝負だったな」
 口々に感想をくれる瞬や翔一郎に、慈恩は微笑で応える。決勝は二勝一敗二引き分けで桜花が取った。先鋒で和田が負けたが、次峰に位置した東坊城が一勝し、中堅と副将が引き分け、結局大将戦で決着がついた。今の如月に慈恩に勝てる選手はまだいなかった。東坊城はこれで自信を回復できるだろう。
「あれが如月の友達か。類友なんて、よく言ったもんだよな。あの三人、どこから見てもひと際目立つぜ。背は高いわイケメンだわ。一人例外がいるけど、それはそれでなんか女顔負けに可愛いし。特にあの変わった色の頭の奴、お前ですら霞んじまいそうな存在感だな」
 そう言って溜息をついたのは近衛だった。敵わねえなあ、と苦笑して、会場からの別行動を快く許してくれた。それで三人と近くのネットカフェにやって来たのだった。
「結局斗音、来られなかったね。さっきまたメールが来たよ。あれから軽い発作が起きちゃって、絶対行っちゃ駄目って怒られたって。で、熱が下がったら行ってもいいってとこまで説得して解熱剤飲んだんだけど、なかなか下がらなくて今は下がってきてるけど、今度はもう遅くなるからってダメ出し食らったらしいよ。ついてないね、斗音も」
 ほら、と自分の携帯に来たメールをみんなに見せる。そこには、たった今瞬が簡単に省略した内容のことが記されていた。最後に、「慈恩には直接あとで連絡するけど、よろしく伝えて」とあった。
「そっか・・・・・・今週に入って、ちょっと調子悪かったみたいだからなあ。仕方ないよ。でも、関東で優勝したんだから、次全国大会があるんじゃないのか?」
 翔一郎の質問に、慈恩は軽くうなずいた。
「うん。でも全国大会は広島とかだった気がするな・・・・・・」
「広島かあ・・・・・・ちょっと、遠いかな」
 顔をしかめる翔一郎に、瞬はにっこり笑った。
「でも斗音だったら、行くんじゃない?今日の分も、きっと慈恩に会いたいと思ってるだろうし」
 ね、と嵐に振ると、嵐は少しだけぼんやりした感じだったが、相槌を打って笑った。
「体調が、回復すればな。広島まで行くとなったら、下手すりゃ泊まりがけだろうし。でも、きっと今日はあいつ、後悔で一杯だろうから、お前慰めてやれよ」
 グラスを手にしたままで慈恩を指差す。そんなさりげない仕草ですら、すごく絵になってしまうほど魅力的な嵐だが、言い方に少し遠まわしな部分があるような気がした。下手に期待しないようにしているのだろうか、と慈恩は思った。期待してしまえば、会えなかったときにがっかりするだろうから。
(斗音、自分を責めていないだろうか。あの時みたいに・・・・・・)
 擦れた声で、ごめんと泣きながらしがみついてきた。まだ斗音が入院していた頃。そんな思いをしなくて済むように声を掛けてやりたい。本当は、会いに行きたい。だが、調子が悪いところを無理させるわけにはいかない。だから、せめて声だけでも。
 久しぶりに嵐たちと過ごした時間は、とても楽しかった。如月祭のことも修学旅行のことも、楽しかったことを自慢するのではなく、どれだけ素晴らしかったか、慈恩がそれをいかに感じられるかに重点を置いて話してくれる三人は、やはり最高の友人だと感じた。その場にいて、慈恩は悔しいとか寂しいとかいう感情をもたなかった。DVDやCDに焼いた写真やビデオを、広めの個室に備えられているパソコンで見ながら彼らの話を聞いていると、まるで自分がそこにいたかのように感じた。その雰囲気が理解できる話し方を、彼らがしてくれたおかげだった。
「ねえ、相変わらず慈恩は忙しいの?」
 ふと瞬が口にした言葉に、慈恩は目を瞬かせた。如月にいた頃は剣道だけでなく執行部の仕事もあったし、家事の大半をやっていたので確かに忙しかった。が、それを忙しいと感じたことはあまりなかった。そして現在は執行部や家事は一切ない。剣道に打ち込むことができる環境になったとはいえ、以前以上に剣道に割く時間を増やしているわけでもない。となれば、答えは必然である。
「忙しく、ないと思う」
「思うって何だよ」
 思わずツッコミを入れてきた翔一郎に、苦笑する。
「いや、考えたことなかったな、と思って。如月にいたときも執行部以外はそんなに忙しいと思ってなかったし・・・・・・でも、今は自由になる時間が如月にいたときよりずっと多いはずだよ」
「だから、はずって何だよ」
 更につっこまれて苦笑を重ねるしかない。
「時間があるって、実感したことないなあ、と思って」
 それだけ普段、気を遣って気疲れしているのだろう。そんな慈恩を瞬がおかしそうに見る。
「何だかなあ。慈恩って、そういうとこぼんやりしてるよね。何ていうか、ほんと、自分に対して鈍感って言うか」
「ど・・・・・・」
 鈍感?と聞き返そうとした瞬間、嵐がクックッと肩を揺らした。

「ほんとに、慈恩も斗音もそういうとこはそっくりだな。他のことには結構鋭いと思うんだけど、自分のことに疎すぎる」
 
翔一郎も瞬も一斉に吹き出した。

「分かる分かる。二人とも、例えば自分がモテてるって気づかずに、慈恩はモテるなあ、斗音はモテるなあ、って、お互いに思ってんだよ」
 以前雅成と絢音の前で、そっくりそのままのことをやらかしたことがある。そんなに分かりやすく鈍感なのだろうか。苦笑だらけの慈恩の肩を、瞬がぺしぺしとたたいた。
「ね、時間あるならさ。週末とか遊ばない?もっと気軽に会えるでしょ?」
「そうだな。まあ、九月十月は行事も目白押しだったし、試験はあるわ試合はあるわで、なかなか休日ってなかったけど、十一月ならそんなに俺らは忙しくないからなあ。慈恩はどうなんだよ」
 相槌を打つ翔一郎に小首をかしげて慈恩は少し考えた。
「・・・・・・そうだな・・・・・・全国大会まではちょっと余裕ないけど・・・・・・それが終われば、たぶん」
「全国大会、いつ?」
「二週間後」
「如月もいけるの?」
「いや・・・・・・全国へいけるのは、都道府県で優勝したところだけ。関東は各都道府県で三位に入ったところが出られるんだけど」
「へえ・・・・・・変わったシステムだね。全部の都道府県から全国へ出られる人がいる代わりに、関東大会でいい成績残してても、都道府県で優勝してないと駄目なんだ」
「じゃあ、何のための関東大会?」
「そりゃ、各都道府県の上位層が報われるためだろ。確か、柔道とかもそうだった・・・・・・中学のときに、聞いたことがある」
 嵐の何気ない一言に、三人の視線が集中する。
「中学・・・・・・嵐にも、中学時代があったんだな」
 しんみりとつぶやく翔一郎に、嵐が美しい形の眉を歪める。
「当たり前だろ。俺の知り合いに・・・・・・剣道やってる奴と柔道やってる奴がいた。別の中学の奴だったけど」
 瞬が面白そうに目を光らせる。
「何か、当たり前なんだけど、嵐って高校生のときから高校生ばなれしてたから、中学生の時代があったっていうのがにわかには信じがたいよね。しかも嵐の中学時代の話って、あんまり聞いたことない」
 当の嵐はつまらなそうに肩をすくめる。
「別に、話そうとしなかったわけじゃない」
「剣道やってた奴って・・・・・・強かった?」
 慈恩が思わず尋ねる。この地区の人間なら、大会に何度か出てさえいれば、名前くらいは分かるだろう。そう思ったのだ。片頬で少し皮肉気に、嵐は笑んだ。
「弱くはないと思うぜ。あの気性だし、本気出したら慈恩の目でも追えねえかもな。高天っていうんだけど」
「高天?」
 思わず慈恩は聞き返す。目の裏に、一瞬で焼きついた長い金髪が甦る。その意外な反応に、嵐はきょとんとした。
「あれ、知ってるのか?まあ、知ってるかもしれないな。大会で上位に入ってれば、名前も覚えるし。でも、なんで?」
「・・・・・・いや、何か・・・・・・不思議な感じだったから」
 先日の都大会でのことを話すと、嵐は納得したようにくすくすと笑った。
「まあ・・・・・・何ていうか、ちょっと変わった奴だから。俺と同類だよ」
「同類?」
「うーん・・・・・・俺より特殊かも。大会には、髪も黒くして行ってるはずだけど、マジになる試合でもしたかな」
「???」
 ますます訳の分からない顔をする慈恩に、瞬がにっこりと笑った。
「ねえ、それって和史のことでしょ?」
「えっ?」
 今度は瞬以外の三人が目をぱちくりさせた。
「お前、知ってるのか?」
 珍しく驚いたふうの嵐が訊くと、ますます笑顔の瞬が、可愛らしく首を傾けた。
「中学のときの、親友だもん」
「ええっ!」
 驚いたのは慈恩だけでなく、むしろ嵐の方が意外なほどのリアクションだった。
「あの、悪ガキが親友だったのか?横着で単純馬鹿なあいつの?」
「ひっどい言われようだね」
 やや呆れたように瞬が肩をすくめる。慈恩も不思議そうにする。
「そんな奴?いや、知らないけどさ。剣道は結構しっかりしてるぞ?」
 嵐は小さく舌を出して見せた。
「そんなんじゃ足りねえよ。全く、ほんとにどうしようもない馬鹿なガキだと思ってる」
 嵐にしては相当珍しいお茶目な仕草に、翔一郎と慈恩は不覚にも目を奪われたが、瞬はふくれっつらになる。
「確かに単純だけど、和史は優しいよ。中二の夏にいきなり不良化したんだけど、それでも俺には優しかった。それに、あんなふうになる前は、すっごく可愛かったんだから」
「うわー意外。あいつが可愛いなんて、想像できねー」
 あからさまに茶化す嵐に、食ってかかる。
「ほんとだよっ!一年のときから仲良かったんだけど、いつも周りから可愛いコンビだって言われてたもん」
「まあ・・・・・・瞬は可愛かったろうな・・・・・・」
「間違いなくな・・・・・・」
 どちらかというと大人びた反応の慈恩と翔一郎に、キラーン、と瞬の視線が突き刺さる。
「馬鹿にしてるねっ?」
「いや、してない」
「全然してない」
 ちゃんと二人して否定したのに、瞬の隣に座っていた翔一郎は肩を力一杯どつかれた。
「嘘ばっかり!」
「ちょっと待て、何で俺だけ?」
 しかも、嘘ではなかったのに、と、かなり心外そうな翔一郎だったが、瞬に一蹴された。
「翔一郎の言い方が馬鹿にしてた」
「ほとんど違わなかったじゃないか!」
 つっこむ翔一郎に、瞬はつんと横を向いた。
「じゃあ普段の行いの差だね。慈恩の方が誠実な感じがするもん」
「補聴器買ってやろうか」
「どういう意味さ」
「はいはい、夫婦漫才はそこまで」
「「夫婦じゃないっ!」」
 二人同時に嵐に向きなおる当たり、ちっとも変わらない。慈恩はおかしくて笑いながらも、込み上げる懐かしさや切なさを抑えるのに必死だった。
 結局その後、全国大会が終わったら斗音も交えてまた一緒に遊ぼう、ということで散々盛り上がって、楽しく食事をして、大切な仲間たちと別れたのだった。
「なあ、お前時間があるなら、たまには斗音の家へ帰れよ。あいつ・・・・・・正直言って、食欲ないままだし、元気とは言えない。あんまお前に知られたくないと思ってるだろうけど、お前は知らないままじゃいたくないだろうから」
 最後に、二人には聞こえないように小声でそう言った嵐に、慈恩はうなずいた。斗音ならきっと、そう思うだろう。自分に調子の悪いことを知られたくないと考えるに違いない。
(そもそも、どうして今まで行こうと思わなかったんだろう。休みが合わなかったってのはあるけど・・・・・・)
 もしかしたら、心の中に何かしらのわだかまりがあったのかもしれない。自分は斗音に必要とされていないのに、しゃしゃり出ていっていいのだろうか、などとつまらない考えが心の底に巣食っているのは確かだった。

(帰ったら、あいつより先にこっちから掛けてやろう)

「おかえり、慈恩くん。試合はどうだった?」
 帰るといつもより遅かったこともあって、雅成が出迎えてくれた。夕食はいつも家のものがそろって、というのが基本なのだが、あらかじめ今日のように断ってあれば、外で友達と食事を済ませることもできる。決して彼らにとって居心地がいいとはいえないそこから早々に戻ってきたのが雅成だったようだ。
「はい、何とか優勝です」
 ほう、と感嘆の溜息をつく雅成である。
「すごいね、ほんと。今日は接待で行けなかったけど、全国へは、応援に行ってもいいかい?」
「ご都合がよろしければ、俺は構いません」
 うん、とうなずく雅成は、少しだけ複雑な思いを抱く。
(本当の親子なら、こんな敬語だらけの会話なんてしないだろうに。それに、嬉しい、とはまだ言ってくれないんだね)
「絢音が見に行きたがっていたよ。一人で行って来たらって言ったら、今日はお友達が来るそうだから一人じゃまた迷惑を掛けてしまうかも、だって。でも、君の活躍が気になって仕方がないんだ」
「・・・・・・はい」
 困ったように微笑んで見せる慈恩は、大人だと思う。紙面上では息子となっているが、自分よりずっと大人びていると思うことすらある。
「そういえば、今日は斗音くんに会えたのかい?」
 途端、慈恩の表情は翳る。それだけで、すぐに分かる。
「そうか・・・・・・あまり調子がよくないって聞いてはいたけど。でも、いつでも会えるんだから、そんなに気を落とさないで・・・・・・」
「・・・はい、ありがとうございます」
 慈恩だって、これが親子の会話だとは思っていない。でも、軽々しい口をきくと重盛がうるさいし、そこまで打ち解けているとも思わない。一生椎名の両親とのようには口をきけないだろう。どうしても気を遣ってしまう。それはそれで仕方ないかもしれない。
 部屋へ戻るとベッドにどさりと腰掛けて、早速斗音の携帯に掛けた。コールが三度、四度、五度。続く六度目でやっとつながる。それに、一瞬驚いた。一度でつながるなんて、思わなかったのだ。
『もしもし』
 ひどく擦れた声に、驚いた。弱々しくて、消えてしまいそうな。
「斗音・・・・・・大丈夫か」
 思わずそう訊いていた。しばらく間を置いてから、聞こえてきたのは切なくなるような涙声。
『・・・・・・・・・・・・ごめん・・・・・・俺・・・ほんとに・・・・・・ごめん・・・・・・』
「斗音、具合は?熱は下がったのか?」
 自分の試合に来られなかったことなんか、どうでもよかった。それより何より、消え入りそうな声の斗音が心配だった。
『・・・・・・ん・・・・・・だいぶ・・・・・・下が・・・っ』
 続くのは濁った咳。むせ返るように激しい咳ではなく、もう咳をすることにすら疲れてしまったような。知っている。ひどい発作を起こしたあとや、何度も発作を起こしたあとに、斗音はこんな咳をする。
「斗音・・・・・・!お前、ひどい発作だったんじゃ・・・・・・」
『・・・・・・っ、・・・だ・・・いじょうぶ・・・・・・』
 一生懸命呼吸を整えているのが分かる。慈恩は左で拳を強く握り締めた。
「何言ってんだ、大丈夫じゃないだろ!薬は?ちゃんと飲んでるのか?」
『・・・飲ん、でるよ・・・・・・心配・・・しないで』
 無茶なことを言う。心配しないはずがない。
「医者には?熱もあったんだろ?」
『・・・・・・九条家の・・・掛かり付けの・・・・・・医者に、診て、もら・・・ったよ』
 擦れて途切れる声。聞き取れないほど弱々しくて、嫌でも七年前のあの日を思い出す。行けなくてごめん、擦れた途切れ途切れの、弱々しい声で。
「・・・・・・そっか。今日、そんなんで来ようとしたのか?」
『・・・行きたかっ・・・た・・・・・・けど・・・・・・』
「・・・・・・来られないって、分かってたんだな。だから、瞬にあんなメール送って?」
『・・・・・・ん』
「そっか・・・・・・ありがとな」
 よしよし、なんてさらさらの髪を撫でてやりたい。弱ってぐったりしている斗音を、少しでも元気付けてやりたい。抱き締めてやりたい。
「そうやって、あいつらを応援に来られるようにしてくれたんだな」
 ひどい発作を起こしたりしたら、メールどころではないはずだ。それでもたぶん、必死でメールを送ったのだ。自分を落胆させないように。
「・・・・・・お前には会えなかったけど・・・・・・あいつらが来てくれたから、それだけでも嬉しかった。おかげで優勝できた。ぎりぎりだったけど、田近たちに勝ったよ。再来週、全国に、行く」
『・・・・・・・・・うん』
「胸張って、行ける。関東で二強を誇る東京都の代表だ。・・・・・・お前のおかげだよ」
 少しだけ、笑ったようだった。
「全国は広島だ。・・・・・・簡単に来てくれとは言えないけど・・・・・・きっとほら、隼も来るだろうから、もし斗音が来たりしたらあいつ喜ぶかも。お前のこと、すごく気に入ってるからな、あいつ。ああ、でもそれだと敵に塩をおくりかねないか?いや、だから来るなってことじゃないんだけど」
 来てくれ、と言えなくて、遠回しに言おうとして慈恩は失敗したらしい。見えもしないのに手をぶんぶん振って言ったことを取り消そうとしてしまった。
「ああ、何言ってんだ俺。そうじゃなくてその・・・・・・俺のことより・・・・・・自分優先だからな。それだけは約束してくれよ」
『・・・・・・うん。・・・・・・でも、行き、たい・・・・・・な・・・・・・』
 少しだけ、声が明るくなった。弱々しいままで、擦れたままで、それでも涙声ではなくなった。その分だけ、ほっとする。
「・・・・・・全国が終わったら・・・・・・余裕ができるから、そっちへ行くよ。斗音・・・今日は嵐たちから色々聞いたけど、まだお前から聞いてないから」
『・・・・・・うん』
「お前の話が、聞きたい」
『・・・・・・・・・・・・うん』
 再び涙声になった斗音の声。泣かないで欲しい。でも、これが悲しみの涙でないのなら・・・・・・嬉しいと思う。大切な大切な、たった一人の、家族という絆でつながれた兄。本当に心の底からそう思えるのは斗音しかいない。母の形見を託してきた、たった一人の兄。その思いを込めた形見が、それまでは斗音を守ってくれますようにと願う。

「・・・・・・あまり長く話してると、身体に障るかな。今日は温かくして、早く休むんだぞ」
『・・・もう、ベッドに・・・入っ・・・てるよ・・・・・・。でも、もう少し・・・・・・慈恩の、声を・・・聞いて・・・・・・いたい・・・』
 最後は消えてしまいそうなほど儚い声だったけれど、慈恩はうなずいた。
「分かった。じゃあ、返事しなくていいからな。俺が勝手に今日の試合のこと喋るから。聞いてろ」
『・・・・・・ん』
 まだ入院していた頃、斗音は剣道の話を聞くのが好きだった。力なくぐったりしているときでも、慈恩が話し始めると、その目はきらきらと輝いて嬉しそうで。
(今でもそうやって、聞いてくれてるだろうか)
 優しい口調で話し出す。気配だけで、聴いてくれているのが分かった。徐々に囁くような声に変えながら、どれくらい話しただろう。向こうから、弱いながらも安らかな寝息が聞こえ始めた。それを耳に捉えたとき、懐かしい思いが胸に溢れた。
「・・・・・・おやすみ・・・・・・斗音・・・・・・」

 しばらくその静かな呼吸を確認してからそっとつぶやき、名残惜しい気持ちを理性で押さえ込んで、そっと通話を切った。

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