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四十三.悲鳴

 斗音の意識が現実を捉えたのは、既に周りは薄暗いという表現を通り越し、真っ暗というのがふさわしい頃だった。
「・・・・・・?」
 濃い群青の星空が見える。ぼんやりと視線を逡巡させ、ぼんやりする思考回路の中で、今の自分の状況をめまぐるしく理解しようとしていた。
「・・・・・・気付いたか。寒くないか?」
 ぼそりとつぶやくような声がして、はっと身体を起こす、つもりが、力が入らなくて起き上がれなかった。背を支えてくれる腕に助けられて、ようやく上半身を起こすことに成功する。同時に自分に何かが掛けられていたことを知る。それが肩から落ちたことで、一挙に肌寒さが押し寄せて、思わず自分を抱きしめるようにした。
「・・・さむ・・・・・・」
 言った途端、後ろから抱き締められた。背にぬくもりを感じる。
「悪い。校舎が締められちまったから、とりあえずここに運ぶのが精一杯だった」
「・・・・・・・・・・・・屋・・・・・・上・・・・・・?」
「ああ・・・・・・。一応ここからなら、非常階段に飛び移って降りることもできる。でも、誰にも見つからねえようにお前を校舎の外へ出してやることができなかった」
 起こしてくれればよかったのに、と、斗音は苦笑するが、疲れ切って意識を手放した自分を、瓜生は一分でも一秒でも長く休ませようとしてくれたのだろう。その優しさが、心に染み渡る。そもそも眠っている自分を、片手しか使えない彼が屋上まで運ぶのだって、大変だったはずだ。それに、自分に掛けられていた制服。既に外気はかなり冷えてきているのに。自分に絡みつく左腕と、添えられる右腕にそっと指を掛けた。
「ありがとうございます。・・・・・・おかげで、久しぶりに眠れた」
「・・・・・・寒いんだろ。熱が上がっちまったかもしれねえな・・・・・・」
 まるで自分を責めるように言葉を紡いだ瓜生に、ほんのり微笑む。
「こうしてると、温かい」
「ば・・・・・・っ」
 背に寄り添ってくれていたぬくもりが一瞬で遠のく。馬鹿野郎、と吐き捨てる声が聞こえた。斗音はそっと後ろを振り返る。
「・・・・・・怒りました?」
 不機嫌そうに眉間にしわを寄せる瓜生が映る。
「からかってんじゃねえ」
「まさか」
 心外であるという思いを見開く瞳で表してから、ぎこちなく笑った。
「ほんとのことですよ」
 だが背筋がぞくりとして、次の瞬間には再度自分を抱え込むようにする。つん、と込み上げる思いに、視界が歪んだ。自分でも分からなかった。寂しくて、涙が零れた。
「・・・・・・あったか、かったです」
 明らかに戸惑いを含んだ声が、耳元でぼそっと聞こえた。
「だから・・・・・・なんで、泣くんだよ」
 精神的にかなり弱気になっているんだろう、と、斗音は思った。自分でも分からない。瓜生が離れたのが寂しかったのだ。でも、再びふわりと抱き締められたら、もっと泣けてきて、自分で自分が解らなくなった。
「・・・・・・泣くな・・・」
 温かい吐息が耳朶に触れ、そのすぐ下に温かくて柔らかいものが押し当てられた。それが少し強めに吸い付いたことに驚く。
「瓜生・・・さん・・・?」
「・・・・・・つらかったら呼べよ。いつでもどこへでも行ってやるから。・・・・・・我慢して溜め込むんじゃねえぞ。駄目だと思ったら、思い出せ。俺はいつでも・・・・・・」
 左腕に、ぎゅっと力が込められた。
「・・・・・・こうしてお前を、暖めてやることくらいは、できるから」
 見開いた薄茶の瞳を、斗音は微かに眇め、それからゆっくり瞼を落としてうなずいた。瓜生がそっと残した痕は、約束の証なのだと理解する。今度は嬉しさと切なさで、ハラハラと涙が頬を転がっていく。照れ屋で、そんなこと絶対にしないような人なのだ。それを押して、精一杯に自分を支えようとしてくれる気持ちが、どうしようもなく嬉しかった。
(やっぱり・・・・・・会ってよかった)
 切れる寸前まで削られていた神経が癒されていく。これでまた少し、耐えられる。少しはマシな顔で、慈恩に会うことができる。この支えがあると思うだけでも、きっと強くいられる。

 そう、思った。

   ***

 充実した気持ちを胸に、桜花高校剣道部が試合前最後の練習を終えた。
「この二週間、ほんと、くったくたに疲れたけど、滅茶苦茶気分いい練習だったよな」
 シャワーを浴び、髪から滴る雫を首に掛けたタオルに吸わせながら、和田が大きく伸びをする。慈恩より唯一背の高い鳳がにこりと微笑んだ。
「解るよ。自分で上手くなってるのが分かるんだ。昨日の自分より今日の自分、そしてきっと明日は今日より強くなれる。そう思うから、つらくてもやりがいがあるって言うか」
「ほんとにな。たった一人の影響で、ここまで変わるとは、実際思ってなかった」

 自分の髪をわしゃわしゃとタオルで拭いながら、和田は慈恩に視線をやる。同じくシャワーを浴びたばかりの近衛に、今日の練習で気付いた竹刀の運び方について指南しているようだ。
 
傍目から見ても、入部して二ヶ月のエースは機嫌が良かった。あまり感情をおおっぴらに表すキャラではないが、それでも笑顔が増えたし、積極的に一人一人の技術の向上を手助けしていた。だからこそ、一人一人がこれだけの充実感を味わえたことは間違いない。
「剣道って、面白いと思ったよ。あの地区大会のとき、如月と対戦して初めて、すごくそう思った」
「ああ。俺もだ」
「近衛もちょっと、変わったよね」
「ああ・・・・・・そうだな」
 二人して思わず笑みをこぼす。何やらしかめ面をしながら、慈恩のやって見せる腕の動きに合わせて、近衛は首をかしげつつうなずいている。全体に話をしたり教室にいたりするときは、相変わらず鉄面皮の彼だが、剣道部の仲間と一対一で話をするときは少し砕けた言葉遣いをするようになったし、表情も豊かになりつつある。それが慈恩の前だと顕著に現れる。
「和田も変わったよ」
「は?俺?」
 突然自分に話の矛先を向けられて、和田が目を見開く。鳳は優しく微笑んでいる。
「うん。時々あの二人に対して刺々しくなってたことがあったし、気がのらないと投げやりになったりするところがあったけど、そういうのがなくなった。今までは、良くも悪くもムードメーカーって感じだったけど、今はいい意味でほんとにムードメーカーだよ」
 ちぇ、と和田は苦笑いした。
「自分がつまんないことにこだわってたことは、分かってるさ。自分でも恥ずかしいと思ってんだから、面と向かって言うなよ」
 くす、と鳳は笑う。鳳は紳士的で上品なところがある。やはり育ちがいいのだ。慈恩から厳しさや必要以上の冷静さを抜いて柔和な優しさを加えると、こんな感じになるかもしれない。東坊城に追いつきそうな勢いで、剣道も上達してきている。それを見ていると、負けていられないという気分になる。もちろん、慈恩に一番近い近衛もどんどん成長している。実力的に行けば、自分が団体戦の五人に入れるかどうかはギリギリのラインだった。強くなりたい、と思って、必死に頑張った二週間だった。
「なあ、近衛。お前ほんとに良かったのかよ。部長なのに副将なんて、今までの桜花にはありえない配置だぜ?」
 今回も控えにすら入れなかった伏原が、ややからかい半分に言う。三年生に兄弟がいたせいか、他の部員より少し、伝統とやらにこだわる一面が見られる。近衛は軽く眉を上げ、それからふっと笑った。
「そんなものにこだわる気はない。大体、部長だから大将、副部長だから副将なんて機械的な配置で、勝とうと思う方が甘い」
 コーチからの助言を、睦田は受け入れざるを得なかった。慈恩を使うな、と、例え鷹司に言われていても、今度それをやったら今いるメンバーと確実に衝突する。慈恩に成果を残させてしまったのは自分であり、その慈恩を非難することは、鷹司にできたとしても自分にはできない。睦田の希望の光はただひとつ。関東大会は強豪ばかりだろうから、きっと勝ち抜けはしまい。その一点だった。
 よって、関東大会のメンバーは先鋒和田、次鋒東坊城、中堅鳳、副将近衛、大将慈恩。東坊城が次峰についたのは、精神的プレッシャーのない中で、自分の実力を発揮して勝つためであった。実力的にはそこそこのものを持っているのだから、次峰でなら活躍できるはずである。というのが、コーチの思いだった。東坊城も、喜んでその配慮を受け入れた。
「遂に明日か。どこまで俺たちが通用するようになったのか、思い切り試してみたいよ」
 ぎゅっと拳を握って、挑戦的な視線を向ける近衛に、慈恩は笑ってうなずいた。
「そうだな。・・・・・・絶対勝とう」
 強気な発言は、慈恩にしては珍しかった。
(勝ちたいんだな・・・・・・あいつ。何かすごくいい顔してやがる)

 和田は思わず、つられるように笑っていた。

   ***

「お帰りなさい」
 そう言って迎え出た三神は、少し暗い表情だった。
「ずいぶんと、遅かったんですね」
 心臓がひやりとしたが、斗音は軽く吐息して呼吸を整えた。
「四日も休んでたんだ。ずいぶんやることが溜まって、どうにもならなかった。学校出てから生徒会の面子でファミレス会議だよ。でも、ほとんど何も食べてないから」
 靴を脱ぎながら玄関を上がり、三神の脇をすり抜けながら続ける。
「・・・食べられる分は、家で食べようかと思って」
「斗音さん・・・・・・」
 後ろから返ってきた声は、ひどく安堵したような、そして喜びの色を含んだようなものだった。斗音は胸を少し、痛めた。
 沢村の準備してくれたものは、具合が悪い斗音のためのさっぱりした料理だった。たくさんの野菜をたっぷり煮込んだポトフ、薄味の五目御飯、海藻サラダ、アサリの酒蒸し。それぞれ一口二口しか手がつけられず、残すのが心苦しくて三神に押し付けようとしたが、さすがに三神も二人分を片付けるのは無理だった。
 食事が終わった頃には既に九時を回っており、まだ熱がひき切っていない斗音に、三神はすぐ休むよう進言した。本当は四日分の授業の復習など、瞬や翔一郎が取ってくれたノートを見直したい思いはあったが、明日慈恩の試合を観に行くためにも、今日は絶対に無理をしたくなかった。言われるままに風呂に入り、早々にベッドに入った。そこへ、いつも通りノックの音。
「斗音さん、入りますよ」
 ベッドで身を起こすと、静かに三神が入ってきた。反射的に背筋が寒気を訴える。熱のせいばかりでは、ない。それをごまかすように、斗音は三神に手を伸ばした。
「貸して。自分で計る」
「・・・・・・駄目です。明日出掛けられるとなると、あなたの性格だ。少しでも熱を低く見せておきたいと考えるでしょう?」
 冷静に三神が返す。分かっている。何度自分でやると言ったことか。それでも絶対にやらせてはくれない。
「絶対ごまかさないから」
「これは私の仕事です。わがままを言わないで下さい」
 ベッドにギシ、と腰掛けながら、慣れた手つきで体温計をケースから取り出す。こんなふうにベッドに図々しく腰掛けるようになったのも、様子が変わってからのことだった。熱で朦朧としていた四日間の間は、キス以上のことはされなかった。それでも、三神が近づいてくると自然に身体が硬くなる。躊躇わない三神の手が肩に触れ、襟元からこれも慣れた手つきでボタンを外していく。三つ外したところで左肩からパジャマをするりと落とし、体温計を挟む。外に晒された白い肌を、三神の指がゆっくり滑っていく。ぞわりと腕に鳥肌が立った。三神の指は首筋をなぞり、鎖骨をなぞり、肩を撫で、抱き締めるように背に手の平を這わせる。
「・・・・・・三神・・・・・・やめ、て」
 強く拒否すれば、何をされるか分からない。それでも、息が詰まりそうになるほどの恐怖におののきながら、斗音は三神のしっかりした胸板を弱く押し返した。それに応えるように、腕はそのままに軽く身体を離した三神は、微かに震える斗音の唇を、そっと人差し指でなぞった。
「どうしてそんなに・・・・・・震えるんです?」
「そ・・・そんなふうに、触ら、ないで」
「・・・嫌だ、と言ったら?」
「・・・・・・お願い・・・・・・」
「・・・・・・嫌です」
 噛み付くように唇が塞がれた。強く押し付けられる唇に、斗音は眉根を寄せ、ぎゅっと目を閉じる。無意識のままに右手で胸に掛かるクロスを握り締めた。
 三神は強く押し付けながらもゆっくり味わうようにキスを続ける。それはまるで斗音の緊張を解きほぐさんとするかのような行動だったが、斗音の小さな震えはおさまらず、身体も緊張でがちがちに固まっていた。その緊張の時間を、体温計の電子音が打ち破った。それを合図に三神は斗音から離れ、体温計を抜き出す。そっとあとずさるようにしながら、斗音は自分ではだけたパジャマを引き上げる。
「・・・・・・三十八度三分。やはり朝より上がってますね。無理をするからです」
 体温計をケースにしまうと、三神はそっと斗音の首筋から髪の下へ手を差し入れた。
「朝にまだ熱が下がらないようなら、明日の外出は控えていただきます。・・・・・・ゆっくり休んでください」
 髪ごと小さな頭を抱き寄せるようにする。振り払いたい心境を、斗音は必死で堪えた。早く離れろ、と心の中で何度も唱える。ところが、なかなか離れない。
「・・・・・・?」
 ぎこちない三神の吐息を、耳のすぐ傍に感じる。心なしか、その呼気が微かに震えている。
「・・・・・・あの害虫と、会ったんですか?」
 突然鼓膜を震わせた言葉に、斗音の心臓が凍りつく。三神の声が、はっきりと震えていた。
「あの男に、あなたは何をさせたんです?」
「何って・・・・・・お前、何言ってるの?分からない」
 差し入れられた手に、乱暴に髪をつかまれ、痛さに顔をしかめながら、斗音は唇を噛んだ。蛍光灯の光に、首筋が晒される。
「目立たないからごまかされるところだった。・・・・・・どうしたら、こんなところにこんな痕が残るんですか?」
 ぞくりと背に寒気が駆け抜ける。あんなふうにわざわざ脱がせて検温をしようとする理由。触れるだけではない。見られていたのだ。自分の身体に、他の人間が触れていないかどうかを。
「何もなしで、こんなところにキスはしない。・・・・・・何をさせたんです?何を、何を!」
「何もしてない!ほんとに!」
「嘘だ!またあなたは私を裏切る!」
「裏切るも何も・・・・・・ちゃんと帰ってきただろ?本当に何も・・・・・・!」
「嫌だ!もう嫌だ!あなたの言うことは信じられない!」
 髪をつかんだ手で斗音を乱暴に引き寄せ、瓜生のつけた微かな痕に、三神の唇が強く吸い付く。
「や・・・っ」
 思わず三神を突き押すが、その鍛えられた体躯はびくともしない。しかも、その行動が三神の矜持を傷つけた。
「っ・・・痛・・・・・・っ!」
 吸い付かれた部分に鋭い痛みが走る。歯が皮膚をぶつりと突き破る感触。そこからようやく顔を浮かせた三神の、唇には血が鈍く光り、眼には絶対零度の怒りが満ちていた。
「あの男がつけた痕を消されるのが、そんなに嫌ですか」
 怖い、と思った。怖くて、動けなかった。まるで金縛りにでも掛かっているかのように、呼吸すらつらかった。そんな中で、必死で声を絞り出す。
「そんなこと、思ってない・・・・・・思って、ない・・・・・・!」
 その言葉が、三神の心に届かなかったことは、すぐに理解できた。牙をむいた野獣のように、三神は乱暴に斗音をベッドに押し付けていた。
「全部消してやる。あいつの痕跡を、全て塗り替えてやる!」
 まだボタンが外れたままのパジャマを、三神の両手が無理矢理引き裂く。外れていなかった分のボタンがちぎれて飛んだ。
「やめて!何もないから!ほんとに、瓜生さんは何もしてない!」
 手に握り締めた十字架だけが、斗音に抵抗の力を与えていた。しかしその必死の訴えにも、やはり三神は聞く耳持たなかった。布団を引き剥がし、斗音に覆い被さるようにして、まさに肉食獣が獲物に喰らいつくかのようにむしゃぶりつく。
「い・・・やだ・・・・・・っ、放・・・してっ・・・!」
 クロスを握り締める斗音の腕を、鬱陶しそうにつかんで引き剥がそうとする。しかし、思いのほか強い力に阻まれ、三神の表情が醜く歪んだ。
「またそうやって・・・・・・あの隠し子の名を、心の中で呼ぶんですね。あいつはあなたを捨てたんだ。あいつにとって、あなたは他人に任せられる程度の人間なんだ。それなのに、あなたは!」
 ギリ、と歯軋りの音が聞こえた。
「いつもいつも、その十字架を握り締める。それがある限り、あなたは私に抱かれてもあいつを想う。そんなこと、許さない!」
「・・・・・・!」

 何をする暇もなかった。無理やり手を開かされて奪われた十字架を、斗音は追いかけようとした。でも、その前に首に鋭い痛みが走って、取り上げられた十字架は手の届かないところまで掲げられていた。
 
ちぎれてぶらりと垂れ下がる鎖が、斗音の網膜に焼きついた。
「私からあなたを奪うものは、すべて排除する。・・・・・・いい加減、理解してください。あいつはここには来ない。あなたを助けには、来ないんです。あいつはあなたを、見放したんですから」
 ゆっくりと言い含められる言葉に、違う、とぼんやり思った。
「こんなもの、あなたには必要ない」
 投げ捨てられたペンダントが、床でカシャ、と音を立てた。
(・・・・・・あ・・・・・・)
 大切な、母の思い。慈恩の、思い。引きちぎられ、投げ捨てられてしまった、最後の砦。
(・・・・・・拾わなきゃ・・・・・・)
 手を伸ばしてみた。届かない。起き上がりたくても、三神が圧し掛かっていて、動けない。
(慈恩・・・・・・慈恩・・・・・・傍に、いてよ)
 ぼんやりと十字架が歪んだ。視界から溢れ出す雫が、幾度もこめかみを伝っていった。身体のあちこちに無理強いされる負荷が掛かる。獣に余すところなくしゃぶりつくされている獲物のようだ、と、我が身をまるで他人のもののように感じた。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・届かないよ・・・・・・・・・・・・・)
 ベッドが軋んで、視界が揺さぶられた。何度も何度も揺さぶられながら、斗音は手を伸ばし続けた。どうしても、諦められなかった。届かないと解っていても、この手に触れていたかった。唯一つのその想いすら、いつしか身体に与えられる衝撃で途切れ始める。
(・・・・・・九条を選ばせたのは・・・・・・・・・俺だ・・・・・・慈恩が・・・・・・捨てたんじゃない)
 意識が保てないことを、頭の片隅で悟った。同時にその意識の片隅で、携帯から流れる電子音を捉えていた。でも、もうそれも気に留めることはできなかった。ただただ、涙で滲んでぼやける母の形見に向かって伸ばす腕に、最後の力を込めた。
(・・・・・・そうだろ・・・・・・慈恩・・・・・・!)

 縋るような叫びを心に残して、斗音の視界は完全に途切れた。

   ***

 何度目かのメールチェックを終えて、慈恩は小さく溜息をついた。最後に斗音から来たメールは、少し体調が悪かったけれど、よくなってきたから土曜日の試合には絶対に行く、というもので、自分への激励も添えられていた。二日前のものだった。この一週間、携帯に掛けても携帯を手放していたのか、いつも何時間か経ってからメールで返事が来ていた。きっと忙しいのだろう、と思って、こちらからもメールを送っていた。ところが、今日はメールの返事も来ない。
(もう寝てるのか?)
 携帯の時刻表示は二十三時を過ぎたところだ。遅いといえば遅い。体調が悪いと言っていたのだから、明日に備えて早めに眠ってしまったのかもしれない。自分もそろそろ眠ろうと思っていたところだったから、きっとそうなのだろう、と考えた。
 自分が送った、ありきたりの内容。それでも、届いていればいい、と思った。
(やっとだ・・・・・・やっと会える。二ヶ月・・・・・・長かった)
 大きな手に携帯を包み込むようにして、その甲に額を押し付けた。
「件名:体調は?

 本文:もう大丈夫か?忙しいかもしれないけど、自分の身体を最優先にしろよ。こっちも調子はいいみたいだから、明日はいい試合ができそうだ。会えるのを楽しみにしてる。」

   ***

 トゥルルルルルルルル、と電車の到着を告げる合図が鳴った。その音と同時に駆け寄ってきた瞬は、はあはあ、と息を荒くして翔一郎の袖をつかみ、顔を上げた。
「駄目、こっちも。いないよ」
「この電車に間違いないよな?俺たち、時間間違ってないよな?」
「間違ってない。俺何度も確認したもん。斗音にもメール送ったのに、返ってこないし」
 土曜日だからなのか、それほど朝でも駅は混み合っていない。焦っている彼らは周りから見て、外見以上にかなり目立っていた。
 瞬が走ってきた方向とは別の方向から、嵐が階段を駆け下りてくる。
「こっちはいない。翔、連絡は?」
 翔一郎は手の中の携帯を握り締めた。
「とれない。何度掛けても、出ないんだ。家の方にも掛けてみたんだけど・・・・・・留守電になってる」
「留守電?」
 嵐は少し柳眉を寄せる。
「あの家、泊まりこみの使用人がいるんだろ?電話に出ないなんてあるのか?」
「分からない。でも、俺携帯にしか普段掛けないし。プライベートに関わることもあるから、断ってれば電話に出ないこともあるかも」
「・・・・・・留守電ってことは、もう出掛けてるってことか?」
「だと、いいけど」
 不安げに翔一郎の瞳が揺れる。嵐はぎゅっと唇を噛んだ。
「俺、迎えに行ってくる」
 言うなり、バイクを止めてある駐輪場に向かおうと踵を返す。瞬間、瞬の携帯がメールの着信を告げる。
「あ、待って!斗音からだ!」
 ぱちんと開いて慣れた指でメールを表示させる。途端、瞬の大きな瞳が軽く見開かれる。
「少し熱があって、出掛けるのを止められたんだって。何とか説得して行くから、先に、行ってて欲しいって・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 嵐と翔一郎が顔を見合わせる。アナウンスが発車を告げる。
「とりあえず乗ろう。中でだって、話はできるだろ?」
 翔一郎の言葉に、瞬が即座にうなずき、嵐はやや躊躇ってからうなずいた。
「・・・そうだな」

 発車のベルが鳴り、駆け込み乗車を禁じるアナウンスが流れた。それを思い切り無視して、三人は目の前の扉から列車に飛び乗った。

   ***

 意識を取り戻した瞬間から、喉にものが絡まっている濁った咳が、止まらなかった。苦しさに涙ぐみながら、それでも薬を手にすることなく、斗音はベッドにうずくまっていた。
 
待ち合わせの時間が過ぎると、頻繁に携帯が鳴って、仲間たちが心配していることがよく分かった。苦しさで時折飛びそうになる意識に霞む視界と思考の狭間で、いつもの十倍以上もの時間を掛けて、やっとのことで一つのメールを返すことに成功した。彼らだけでも、慈恩の元へ行って欲しかった。そして、たったそれだけで、精根尽き果ててしまう己の全てが恨めしくて、情けなくて、悔しさに涙が溢れた。自力で起きることもできるかどうか怪しいというのに、会場まで行くことなど、とても考えられる状態ではなかった。
「苦しいでしょう・・・・・・せめて錠剤の薬だけでもお飲みなさい」
 ベッドの脇に置いてあるナイトテーブルに、三神がそっとグラスに入れた水と薬を置く。ネクタイはしなくても、着こなしを崩すことのない三神だが、今はベルトもせず、上半身は素肌にカッターシャツを羽織っただけの格好でいる。
「・・・・・・出て・・・って・・・・・・」
 擦れすぎて音にならない声で、微かにつぶやく。それ以上の声を出す気力さえない。直後に咳込むが、その力さえ弱々しい。呼吸も途切れがちだ。それが呼吸の度に鳴る笛のような音で分かる。
「・・・・・・・・・・・・死ぬ気ですか」
 反応はない。苦さを噛み締めるように、三神は精悍な顔を歪めた。発作を起こしているだけではない。熱も三十九度を超えていた。それなのに、一切の看病を、斗音は拒んだ。口移しで無理矢理薬だけでも飲ませようかと考えたが、発作を起こしているだけに危険だった。むせ返らせでもしてこれ以上ひどい発作になれば、呼吸さえできなくなる。そうなっても今の斗音は、絶対に薬を受け付けようとしないだろう。
 身体中を絶え間なく襲う寒気と節々の痛みと、そして思うままにならない呼吸。つらくて苦しくて、意識を保っていることすら危うかったが、それ以上に斗音が苛まれていたのは精神的な苦痛だった。
 死ぬ気か、と言われて、それを望んでいる自分がいることを否定できなかった。この全ての苦しみから逃れられるのなら、それでも構わないと本気で思った。こんな自分の生に、何の意味があるのだろう、と真剣に疑い、自身を激しく嫌悪し、憎み、呪った。
『ごめ・・・行けなく・・・て・・・・・・ごめん・・・・・・』
 はっきりと覚えている。まだ小学生で、入院していたとき。慈恩の試合を観に行くのだと、苦い薬も束縛された生活も、必死で耐えて体調を整えていた。外に出るのもダメ、動き回るのもダメ、一時間以上本を読むのもテレビを見るのもダメ、おやつも飲み物も、決められたもの以外口にするのはダメ。あれもダメ、これもダメ、何も許されず、それでも文句ひとつ言わずに医者の言うとおりに大人しくしていた。
 身体のためには必要な処置だったのだろう。だが、幼い子供にはそれがどれほどつらいものだったことか。結局そのストレスから、試合当日の朝にひどい発作を起こしてしまった。
 なぜ今日でなければならなかったのだろう。一日発作が遅れたらよかった。慈恩がきっと待っているのに。その慈恩の希望を叶えられない自分が悔しくて、行くと言った自分の言葉すら実現させられないことが悲しくて、慈恩の勇姿を見たいという強い願いを断ち切られてしまったことがつらくて、散々泣いた。泣いて泣いて、母を困らせ、医者を困らせ、それでも泣き続けて体力を使い果たして気を失ってしまった。
 気がついたとき、慈恩がすぐ傍にいた。嬉しさと申し訳なさで、胸が一杯になった。そんな自分を一切責めることなく、それどころか今日の試合はまだ見せられるものじゃなかったから、もっと強くなってきっと次はかっこ悪くない姿を見せてやる、と言ってくれた慈恩。そんな慈恩の期待を裏切ってしまったことが苦しくて、出ない声を絞り出して謝った。この次は必ず行くから、という思いを込めて。
 あの時と同じことをしている自分が情けなくてたまらなかった。二ヶ月も慈恩に会わなかったのは、自分の人生の中で初めてのことだった。だからこそ、今日は絶対に行かなければならなかったのに。自分がそう言い出したことだったのに。
(慈恩・・・・・・ごめん・・・・・・・・・・・・ほんとに、ごめん・・・・・・)
 苦しい呼吸の下で、声を出すこともままならず、ひたすら慈恩に謝り続けた。届くはずがなくても、そうせずにはいられなかった。
「・・・・・・出ていきますから、薬だけは飲んでください」
 苦しげな声が、背後から聞こえた。そしてドアが閉まるのを音で知る。
(・・・・・・ああ、やっと・・・・・・・・・動ける・・・・・・)
 重い身体を起こすことは叶わなかった。シーツを必死につかんで、這いずるように身体を動かす。
「・・・はぁ、っ・・・・・・はっ・・・・・・」
 ほんの少し動いただけで、息が上がる。ただでさえ苦しい呼吸が間に合わず、意識が朦朧とする。その度にくらっとそれを手放しそうになるのを、必死でとどめた。
(・・・・・・届け・・・・・・)
 ずず、と動いた瞬間、身体の重心がぐらりと傾く。自力で降りることもつらい斗音は、そのまま傾いた重心に身を任せた。布団やシーツもろともベッドから転がり落ち、次の瞬間に襲う衝撃に、一瞬呼吸が止まる。それでも布団ごと落ちたのと覚悟していた分、ダメージは少なかった。絡みつくシーツが邪魔だったが、それを振りほどく力はなかった。薄らぎそうな意識を必死に手繰り寄せ、渾身の力で前進を試みる。ほんの数十センチの距離をやっとの思いで移動したとき、ようやく伸ばした手に触れた物を、斗音は震える手で引き寄せ、握り締めた。
(・・・・・・届・・・いた・・・・・・)

 ほっとした途端、涙が込み上げてきて、同時に耐え難い喉の不快感に咳き込む。それが最後、気管がほぼ塞がれて酸素の供給がほとんど得られなくなった脳は、本人の意識を奪うことで自己防衛を図ったのだった。

 ドン、と鈍い音が二階から響いた。
「!?」
 はっと天井を見上げて、三神は着替えていた手を止めた。人が床に飛び降りたような音だ。もちろん、今の斗音にそれができるはずはない。
(何をしている!?)
 思うより早く、三神は自分に与えられている書斎を飛び出した。階段を駆け上がり、部屋を激しくノックする。
「斗音さん!斗音さん!?」
 部屋の中からは、何の音もない。もちろん、返事も返ってこない。
「斗音さん!どうしたんですか!」
 入ることは、少し躊躇われた。あれだけのダメージを抱えて、苦しげな呼吸の下でやっと発した言葉は、自分に向けてのただ一言。出ていけ、と。それが彼の望みなら、と部屋を出たのだ。再び入ることを拒否されるのを、心のどこかで恐れていた。
「斗音さん!・・・・・・入って、いいですか」
 それでも不安が先立って、訊かずにはいられなかった。しかし、勇気を出して投げ掛けた問いにも、応えは返らない。ますます不安が膨れ上がる。
「入りますよ!いいですね!?」
 確認するように言ってから、勢いよくドアを開けた。目に入ったのは、床で横たわる華奢な肢体。ベッドから掛け布団とシーツを引きずりおろし、衣類をほとんど剥ぎ取られたままのその身体にシーツを絡みつかせ、大事そうに何かを握り締めて・・・・・・斗音は気を失っていた。
「っ・・・・・・何をして・・・・・・」
 言いかけて、三神は言葉を飲み込んだ。斗音の指からこぼれる細いチェーンが目に留まった。その先はちぎれている。無惨なそのペンダントを握り締めて、白い頬を摺り寄せるようにしている斗音の睫毛は、涙の粒をびっしりと湛えたままだった。それでもその表情は、苦しげというより、どこか安堵に近いような安らぎを感じさせた。途端、心臓に氷の刃が突き刺さる。
「・・・・・・あなたは・・・・・・これを、拾いたかったんですか?私が引きちぎった、あの瞬間から・・・・・・ずっと・・・・・・?」
 斗音の傍らに、そっと膝をつく。白い手に触れると、思いのほか硬く握り締められているのに驚いた。
「・・・・・・ずっと・・・・・・彼を、想って・・・・・・?」
 強く拳を握り締めた。悔しさより、切なさが大きかった。どんな形であれ、昨夜の行為は自分の想いのたけを全てぶつけた結果だったのだ。それが。
(・・・・・・あなたには・・・・・・届いていなかった・・・・・・)
 思わず抱き上げて、力の失われたその身体を、絡まったシーツごと力一杯抱き締めた。
「・・・・・・どうして・・・・・・!どうして俺では駄目なんだ!どうして、どうして、どうして!」
 悲痛な声が、空気を裂いた。

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