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四十一.狂気の始まり

 誰か、止めてくれ。誰か、誰か、どうか。

   ***

 桜花高校剣道部が新人戦都大会で優勝を決め、準優勝の如月高校とともに関東大会への出場を決めてから、一週間が過ぎた。どちらの高校の剣道部も練習に余念がない。もちろん休日返上である。
「あああああっ!」
「やああああー!」

 威勢のいい掛け声が剣道場内で響く中、慈恩も稽古に励んでいた。近藤のスパルタに比べれば、桜花の剣道部は物足りないくらいだ。でも、もっともっと、と思って頑張る慈恩を見て、部員たちが大いに刺激され、これでもか、これでもかと彼の練習量に喰らいついてくるおかげで、かなり稽古のレベルが上がっていた。まだ慈恩が厳しいと感じるには遠いが、それでも充実感は味わえるようになってきていた。何より、関東大会が都内で開催されるため、斗音たちが来ることになっていることが、慈恩のやる気に拍車を掛けていた。
 
もちろん、関東大会でも優勝する気でいる。斗音の前で、無様な試合はできない。自分はもちろんだが、都大会で近衛の実力もかなり高いことが分かった。あれなら、全国でも通用するかもしれないと思った。三勝するためには、もう少し、鳳か東坊城が力をつけなければならないだろうが。如月も来るだろう。今は全く同等のレベル。自分がいる分桜花が有利だろうが、思った以上に田近の率いる新生如月は力をつけていると感じた。あれなら、当たりが悪くなければ、全国でも一勝くらいはできる。全国も、三年生が引退した分少々レベルはダウンしているはずだ。
「ようし、今から十五分休憩を入れる。十分水分補給をしておくように」
 こちらもかなり熱の入っているコーチの声が響く。同時に、あちー、きっつーなどの声がこぼれた。
「あー、ほんとお前についていこうと思うと、精神力が必要だな」
 面を外しながら和田が苦笑する。もうすぐ十一月、日差しがあっても既に気温は低い。にも関わらず、面を取った頭は、手拭を含め、汗でぐっしょり濡れている。汗を拭いながら、慈恩は苦笑を返した。
「みんな気合が入ってるから、俺もついとばしたくなる」
「よく言うぜ。一番気合入ってんの、お前だろ。今までも強いと思ってたけど、都大会で優勝してからなんか見違えるほどだ」
 なかなか鋭い。慈恩は苦笑を重ねた。怪我も全快し、目的もある。みんなに・・・・・・斗音に会える。力が入らないはずがなかった。
「・・・・・・頑張ろうな。お前がいることが、こんなに心強いなんて思ってなかった」

 照れたのか、目を逸らしながらそう言うと、和田はそのまま仲のいい一乗寺たちの方へ歩み去った。一瞬きょとんと漆黒の瞳を瞬かせた慈恩は、次に静かな笑みを湛えた。

   ***

「来週か。やっと、だな」
 やや冷たい風に汗で濡れた髪を晒しながら、翔一郎が大きく息を吸った。嬉しさに大きく胸が膨らむ。その気持ちは瞬も嵐も同様だった。
「ね。試合終わったらさ、みんなで写真見て一杯話しようよ。慈恩の話も聞きたいし」
「ああ。・・・・・・早いな。もう二ヶ月か」
 さらさらの淡紫色の髪を掻き上げ、風に晒すとそれは何の抵抗もなく翻ってこぼれる。
「電話ではしょっちゅう喋ってるけどさ、まさかこれだけ長く会えないとは思わなかったもんね」
 瞬は、やや癖のある長めの髪をまとめていたゴムを、するりと抜いた。部活の練習のときはよくそうして縛っている。癖はあるものの柔らかい髪が、風に遊ばれる。
「まあ、九月は如月祭で忙しかったからな。期末テストもあったし」
「十月は修学旅行だったしね。ま、こっちは別に土日が潰れたわけでもないけどさ」
 言いながら、瞬は可愛らしい瞳を翳らせる。
「一緒に行きたかったよね。なかなか行けないじゃん、オーストラリアなんてさ」
「もっとそう思ってたのは、あいつらだよ」
 くしゃ、と瞬の髪を乱して嵐が諭すように言った。瞬はうつむく。
「分かってるよ。だいぶ落ち着いてはきたと思うけど、時々斗音、見てられないもん」
「かなり痩せたしな。もともと華奢な印象だったけど・・・・・・首とか指とか、頼りないくらい細くなった気がする」
 溜息に近い吐息は、翔一郎のものだ。今日のバスケット部の練習でも、斗音は倒れた。喘息の発作ではない。紙のように白い顔に、血の気を失った唇。明らかに貧血だった。しばらく休んだら、血の気は戻ったものの、木下はそれ以上の練習を禁止した。諦めたように微笑んだ斗音だったが、それでも最後まで練習を見学していた。
 慈恩の試合を観に行こう、と言い出したのは斗音だった。本当は、十月の第三週の週末にみんなで遊ぼうという話が出ていたのだが、慈恩の試合が近いということで延期になってしまった。その試合とバスケ部の練習試合がかぶっていたので、行けなかったのだが、なんと慈恩の学校と如月がワンツーフィニッシュを決めたということで、ぜひ次の大会の応援がてら、慈恩に会いに行こうと提案してきた。おかげで会うのが三週間ほど遅れ、その間に如月高校の修学旅行も終わってしまったのだが。高校では多いが、如月も二年生で修学旅行に行くことになっている。
「試合観に行くことに決めて、だいぶ元気になってきたけどな」
 帰る方向が一人だけ違う斗音の姿が見えなくなるまで、三人はそこに止まっていた。何度かこちらを振り返って手を振る姿は、何だかこちらも嬉しくなるほどの笑顔で。
「先生に今日はもうやるなって言われても、あんまヘコんでなかったしね」
「・・・・・・にしても、慈恩がいなくなったってだけで、あそこまでダメージがあると思うか?」
 嵐の不思議な色の瞳が瞬と翔一郎を順に捉える。瞬は難しい顔をして考え込み、翔一郎は首をかしげた。
「自己管理ができない奴じゃないしなあ。そもそも、慈恩だけが養子になるって話に、もう少し裏があったとか?」
「有り得るな」
「裏?でも、話の筋は通ってたよ?」
「通したってことも考えられるだろ」
「でも、終わったこといつまでもぐずぐず引きずる斗音でもないと思うんだけど」
 瞬の意見に、翔一郎はうなずいた。嵐も渋面を作る。
「確かに。瓜生さんの支えがあったとしても、全然食べなかったり具合が悪そうだったりするのは変わらない。今でも何か続いている原因がある可能性が高いな」

 もし、練習試合で、三神を見たときの斗音の瞳の翳を見たのが嵐だったら、すぐその原因と結びついたかもしれない。しかし、あいにくそれを見たのは瞬で、瞬は嵐ほど洞察力や記憶力に恵まれていなかった。

   ***

 帰ってくるなりシャワーを浴びて、さっさと出かける準備を進めるのは、もう見慣れた光景だった。土曜日は大概部活があるのだが、それから帰ってくるといつもこうだ。下手をすると、今夜は帰ってこないだろう。いや、きっと帰らない。彼に入り浸る場所が確立したのは明確だった。一体どこで何をしているのか、どんなに聞いてもはぐらかされる。
「出かけてくるから。沢村さんに、月曜日の朝食は俺も食べるつもりって伝えておいて。留守の間、頼むよ」
 ほら来た、と三神は精悍な眉をはっきりと寄せた。
「どちらへ?」
「心配しなくても、無茶はしないよ」
「万が一ということがあるでしょう。行き先だけでも教えて・・・・・・」
「一人でいるわけじゃないから平気だ」
 言いたいことも先に悟られて、釘を刺される。自分の顔が醜く歪まないように、必死に表情筋を総動員させる。
「毎週毎週外泊をされるのを、保護者代理としては放っておけませんし」
 言った途端、斗音はくすっと笑った。珍しいと、ふと思う。久しぶりの笑顔。
「保護者、だったんだ?そうだな、慈恩は俺の保護者だったから」
 そして薄茶の目をすい、と流して三神を射止める。
「別に悪いことしてないよ。心配要らない」
 こちらを警戒しているような冷たい態度でもない。身体的にというより、精神的に何だか微弱ながら力を感じる。心の中の力を生み出すのは、嬉しい気持ちや楽しい気持ちだ。それが何なのか、ふと頭をよぎったことを、思わず訊いていた。
「彼女でもできましたか?」
「へ?」
 返ってきたのは、素っ頓狂という色を含んだ声だった。大きな目を何度か瞬かせて、次にくすくすっと肩を揺らす。
「あはは、残念ながら。なんで?」
 やはり明るい、と思った。こんなやり取りをしたのは、本当に久しぶりだった。おかげでやや面食らう。
「い、いえ、何だかわくわくしているようにお見受けしましたので」
 やや苦笑といった微笑みのまま、斗音は首をかしげた。
「そうかな。自分ではそんなに意識してなかったけど。でも確かにわくわくしてるかもしれない」
 つられて思わず笑みが浮かんだ。そして自分がそんな顔をしたのも久しぶりだと実感した。
「何かいいことがあったんですか?」
 こんなに普通の会話をするのさえ。何だか本当にほっとする。いかに今までがお互い緊張状態にあったのかを思い知る。ずっとこのまま、こんな雰囲気でいられたらいい。心の底から、そう思った。そんな三神の目の前で、胸のクロスに手をやった彼の顔に、切なくなるほど綺麗な笑みが咲いた。自然、息を飲むほどの。
「来週、みんなと一緒に剣道の試合を観に行くんだ。慈恩と、如月が勝ち残ってるから。・・・・・・やっと、あいつに会える」
 最後はつぶやくような、その言葉が耳に届いて、脳で理解した瞬間、ふわりとほどけていた心がぎゅっと縛られたような気がした。
「じゃあ、行ってくる」
 そう言って出て行く彼を、会釈で見送った。あんなに頑張っていたはずなのに、いとも簡単に自分の顔が歪んだのが分かった。それを見せまいと、玄関の扉が閉まるまで垂れた頭を上げずにいた。
 ばたん、と重い音がして、外の光が遮られたのを感じてから、ようやく顔を上げる。
「・・・・・・あいつ・・・・・・だと?」
 椎名慈恩。いや、今は九条慈恩だ。あの隠し子が去ってから、まだ一度も会っていなかったとは知らなかった。頻繁に家を空けるのも、実は会っているのではないかと思っていた。しかし、あれだけ弱っていた彼が、ほんの少しずつだが落ち着いてきたのを見てきて、今の彼にはそれも仕方ないと思っていた。そうでなければ、自分のものにする前に、壊れてしまうと思ったからだ。
「・・・・・・じゃあ、誰と会っている?いや、それより・・・・・・何だ、あの・・・・・・幸せそうな顔は・・・・・・!」
 ギリギリと握り締めた拳に、爪が食い込む。頭が混乱しそうだ。
 やっぱり今でもあんなすかした奴のことが大事なのか。あんなに綺麗な笑みを、無防備に自分に見せてしまえるほど。自分を警戒しているはずなのに。あんなにわくわくした顔で。楽しそうにして。むしろ会えない時間が長かったからこそ、想いが肥大したのか。そうなのか?あの人は、あの隠し子を・・・・・・いや、自覚はない。そんなふうに想ってなんてない。ただただ大事な人間。たった一人の、あの人の家族。俺にはなれない家族。血なんて繋がっていなくても。それよりもずっと強い絆の繋がりがある。如月祭の頃に比べて少し安定してきたのは、女のせいじゃなかった。あいつのせいでもなかった。あいつだったら、もっともっとずっと早くにあの人に幸せな思いをさせることができたのだ。じゃあこれまであの人を支えてきたのは?あの人に近づいている人間がいる。あの人の心を癒せる人間、幸せにできてしまう人間。それは俺でなければならなかったのに。何故俺じゃない?つらそうな顔をさせ、いつも逃げられて。望んだ理想と正反対の現実は何故。俺にできないことを、あの人の心を捉えることのできる人間が、二人はいるということだ。放っておけばどんどんその差が広がる。まずい。これ以上はまずい。絶対に・・・・・・!
 ぐるぐるとものすごい速さで思考を駆け巡らせる中、心のどこかで、何かが激しく音を立ててちぎれたのが分かった。
「・・・・・・させるか・・・・・・・・・・・・これ以上、あの人の心を奪われてたまるか・・・・・・!」

 ギッ、と彼の出て行った扉を睨みつける。

 ・・・・・・もう、待てない。

   ***

「はぁっ、はっ・・・す、すみません、ちょっと、待って・・・・・・」
 激しく上下する胸を押さえながら、斗音は一気に速度を落とした。がくがくする両膝を叱咤するように手で押さえる。かなり朝は冷え込んでいるが、それでも全身から汗が滲む。そしてそれを片っ端から気温にさらわれていくようだった。まだかなり暗い中、随分前に行っていた人影がぴたりと足を止め、ややしてから軽い足取りで近づいてくる。
「はぁ、はぁ、ごめん、なさい、足を、引っ張って・・・・・・」
 荒い呼吸に合わせて動く背を、瓜生はそっとさするようにした。
「だから無理するなって言っただろうが」
「すみません・・・・・・」
 ふう、と軽く息をついて、瓜生は肩をすくめる。
「お前が体力を取り戻したい気持ちは分かるけどな。ボクサーのロードをなめてもらっちゃ困る。あとは俺一人で配って回る。お前先に帰ってシャワーでも浴びてろ」
 片腕に抱えた大量の新聞を、改めて小脇に抱え直す。斗音は乱れた呼吸を整えながら、尊敬の思いでそれを見上げた。
(あの滅茶苦茶重い新聞の束を抱えて、あの速度で、休みなしで走るなんて)
 長距離走が速いはずだ。毎日これをやっている瓜生に、これだけ体力の落ちている自分がこれ以上ついていこうとしても、更なる迷惑を掛けることは目に見えていた。大人しくうなずく。
「すみません、半分もついていけなくて」
「最初からついて来られるなんて思ってねえ。まだ時間も早い。とっとと汗流して、ちゃんと休め」
「・・・・・・はい」
 肩を落とした斗音をちらりと見遣って、瓜生は、とっ、と走り出す。
「・・・・・・半分は、とうに過ぎてる」
 ぼそりと低い言葉が耳に届いて、斗音は顔を上げた。瓜生は既に数メートル先にいる。
「あ・・・・・・」
 彼流の不器用な優しさに、思わず微笑む。
「あ・・・はは・・・・・・」
 何だか今日は、いつもは全く感じない食欲を感じた気がした。
(少しでも・・・・・・少しでも元気になって、慈恩に会いたい)
 心の中に湧き上がる不思議な温かい気持ち。首から提げたペンダントをシャツの上からぎゅっと握り締めた。
 もうすぐ会える。次の土曜日が大会だ。やっと会える。やっと。・・・・・・嬉しい。

 疲れていたはずだったけれど、気持ちは軽かった。近道で昨日も泊まった瓜生の家に戻り、早速シャワーを借りることにした。

 丁度その頃。瓜生は全ての家に新聞を配り終え、自宅に向かう近道である小さな公園を横切ろうと、軽やかに敷地の境目を遮っていた柵に手を掛けて、軽くそれを飛び越えた。
 
そのとき。その視界の一部分を不意に、木陰から現れた長身の影が遮った。
(・・・・・・何だ?)
 それを避けて規則正しくランニングを続けようとしたが、長身の影はいちいち瓜生のコースを邪魔する。まだ薄暗かったけれど、近づくにつれて、それがラフにスーツを着こなした、ノーネクタイの男だと分かる。
(でかい奴だな)
 でも、見覚えのない人物だった。邪魔だとは思ったが、関わる気もしなかったので、軽いフットワークで更にそれをかわそうとする。
「・・・・・・お前か?」
「あ?」
 突然声を掛けられて、その不快な響きに思わず棘のある声を返す。黒い吊り気味の眼が、侮蔑の色を浮かべて瓜生を捉える。さすがに神経を逆なでられ、十センチほども高い相手の視線を真っ向から睨み返した。
「何だ、てめえは」
「・・・・・・あの人を返せ」
 冷たくて、低い声。まるで感情が欠落したかのような。言い知れない恐怖が瓜生の背筋を這った。
「・・・・・・あの人、だと・・・・・・?」
 聞き返さなくても、反射的に理解していた。これが、斗音を脅かしている人物だと。
「あの人は・・・・・・俺の、物だ」
「てめえ、頭おかしいんじゃねえか。ロードの邪魔だ。失せろ」
 あくまで何も気付かないふうを装って、その左脇を軽いステップですり抜ける。その瞬間、すり抜けようとした空間を足刀が鋭く切り裂いた。とっさにスウェーでかわす。左の頬骨の皮膚が細い線状に血を吐き出した。背筋を冷たい電流が駆け抜ける。
「・・・・・・何しやがる」
 ギリ、と眼に力を込めて、いきなり攻撃してきた相手を見据えると、長い脚がゆっくりと下りた。
(速ぇ・・・・・・空手の使い手か?靴のまま直線で蹴りくれやがった・・・・・・野郎!)
「関わらないと、誓え」
「はぁ?」
 瓜生は苛立って鋭く語尾を上げた。相手の瞳は暗く、陰惨な空気を湛えている。
「あの人に、二度と関わらないと、誓え」
 明らかにまとう雰囲気が普通ではない。それでも恐怖を振り払って、瓜生は言葉を投げつけた。
「あのなあ。さっきからてめえ、何なんだ。しかも、いきなり初対面の相手に蹴りかよ。俺はそういう精神異常者の方がよっぽど関わりたくねえな」
 言い終わるや否や、トン、と地を蹴って素早く一歩身体を引く。今の今まで瓜生のいた場所では、鋭い後ろ回し蹴りが唸りを上げていた。
(あっぶねえ!)
「・・・・・・シラを切っても無駄だ。やっとみつけた。一晩中探した。・・・・・・あの人の心の中に、これ以上他人を入り込ませるわけにはいかない。斗音は、渡さない!」
 やっぱり、と思うより早く瓜生は更に飛び退る。今度は上段回し蹴りだ。さすがに逃げられそうにない。思わず瓜生も構えた。でも、リーチの分、ボクシングで蹴りに対抗するのは厳しい。
「誰だ、てめえ」
「あの人に、何をした」
「おい、こっちの質問に答えろ」
 答えは左足の前蹴り、連続して上段回し蹴りで返ってきた。
「あの人に・・・・・・何を、した・・・・・・!」
 最初の蹴りをブロックし、次の回し蹴りをヘッドスリップでかわして、瓜生はぐっと踏み込んだ。相手の懐に飛び込んで、一発強烈な右ストレートをぶち込む。相手は落ち着いて前屈立ちで左構えを取り、瞬間一歩前進したかと思ったら右拳を手刀に変えて、内側から外側に渾身の右ストレートを払いのけた。
(何・・・・・・だと・・・・・・!)
 立て続けにワンツーを見舞ったが、同様に軽々と手刀受けでかわされる。
(強い・・・・・・!)
 軽くバックステップで距離を取り、ジャブで突く。相手はガードではない。受けるのならば、同じところに素早く打てば、同じ受けや払いはできないだろう。ジャブとストレートのワンツー、またはスリーまでを織り交ぜながら、相手の受けの弱いところを探る。時々飛んでくる蹴りにはひやひやしたが、それでもその蹴りの一つの直後に、距離を詰めてジャブを二発。しかし難なくかわされる。瓜生は最後の右をぐっと握り締める。
(喰らえ!)
 打ち続けていたストレートを受けるべく、相手が右拳で上段受けの構えを取る。
(来ると思ったぜ!)
 瓜生が放ったのは、フック。ストレートを止めるべく上げられた右拳は、その役割を果たせなかった。右拳に確かな感触。素手で人を殴ったのは、六ヶ月ぶりだった。相手がぐらりと長身を揺るがせる。
 倒れる、と思った。でも、ぐらついた相手は、ぐ、と踏み止まった。瓜生は目を見開く。
(・・・・・・馬鹿な・・・・・・!今のはまともに入ったのに!)
「・・・・・・やってくれる。なかなかいい拳を持ってるじゃないか」
 うっすらと、薄氷のような笑みが浮かんだ。勢いよく赤く染まった唾を吐き捨てる。ダメージは、あったようだ。が、次の瞬間、笑みは消え、鋭い眼には殺気が宿った。
(・・・・・・!)
 長身の男が初めて正式に構える。瓜生も再び構えた。軽くフットワークで相手の様子をうかがおうとした途端、前に出ていた相手の左足がスネを狙ってきた。ボクシングの動きに慣れている瓜生が反応するには、あまりにも素早いローキックである。
「っ!」
 威力としては、それほど強くなかったが、瓜生はバランスを崩した。そこを、ローキックを放った足を軸足にして、右の後ろ回し蹴りで狙われる。長い脚は瓜生の頭の高さまで上がった。思わず拳を上げて防ぐが、回転の勢いのついた蹴りが、ブロックできるはずがない。ブロックした上からこめかみに蹴りが叩き込まれた。ぐわん、と視界が揺れ、瓜生はそのまま膝をつき、更にその姿勢も保てずに、地面に身体をたたきつける。少し湿った土の匂いだけしか分からない。視界は定まらず、思考も働かなかった。
「・・・・・・あの人に、何をした」
 上から強く押さえつけられ、冷たい声が降ってくる。それで微かに、遠のきそうだった意識が引き戻された。
「・・・・・・・・・・・・何の・・・・・・ことだ・・・・・・」
「しらばっくれるな・・・・・・どうやってあの人に取り入った?何をした!?」

 声が近づいた。冷たさに怒りが混じっているのが分かる。
 
さすがに「知らない」はもう通用しないか。この男は、はっきり確信して自分に近づいてきている。
 
ギリ、と歯を食いしばって、瓜生は揺れる視界を定めようと、目を眇めた。
「・・・・・・何も・・・・・・して、ねえよ・・・・・・」
 高い熱に侵されて、それよりもつらい苦しみを心に抱え、涙を流していた斗音。そっと、キスをした。
 守ってやらなければ。全てを許してくれた、あの微笑みを、守らなければ。
「・・・・・・正直に言え」
「・・・・・・言ってんだろうが・・・・・・」
 ようやく自分をのぞきこむようにしている男の顔が、はっきりした。そこに見たのは、嘲笑だった。
「お前はくずだ。あの人の魅力が分からないとは」
 凍ったような視線で、男の目が瓜生を射抜いた。
「そんな奴に、あの人の傍にいる資格はない。あの人に・・・・・・斗音に、二度と関わらないと誓え」
(・・・・・・椎・・・名・・・・・・)
 心が疼くようなその名前。嘘でもそんな誓いを口にしたくはなかった。焦れた相手の声が、冷たい怒りをはらむ。
「あの人に二度と関わらないと、誓え!」
 ふ、と、瓜生は唇を歪めた。
「・・・・・・・・・・・・やな、こった」
 冷たかった相手の表情に、再び殺気が宿る。この空気をまとったとき、この男は一切容赦がなくなる。下手をすれば一撃で死に至るような急所を、何の躊躇いもなく攻撃できるほど。
「次はない。あの人に今後一切関わらないと、誓え!」
 動けない。何をされるかなんて、分かったって動けなければ仕方ない。再び、瓜生は唇を片方だけ吊り上げるようにして笑みを載せた。
「・・・・・・二度も、言わせんな」
 相手の瞳に湧き上がった殺気が煮えたぎるのを見ながら、そっと目を閉じた。
「・・・・・・ぜってぇ、誓わねぇ」
 相手が動くのが、気配で分かった。がっちりとつかまれた右腕に直後、鈍い音と共に激しい衝撃が走った。
(・・・・・・っ!)
 瓜生は歯を食いしばった。腕が灼熱の痛みを訴える。
「これ以上あの人に近づいてみろ。今度は腕では済まない」

 氷のように冷たい声が、振ってきた。その人の気配が、徐々に消えていく。
 
それが完全に消えて、どれくらい経っただろう。周りがぼんやり明るくなってきたのを感じて、脂汗を浮かべながら、瓜生は目を開いた。今度は視界もはっきりしている。身体も、思うとおり力が入るようだ。右腕以外は。
(・・・・・・・・・・・・思いっきり折りやがって・・・・・・畜生)
「・・・・・・椎名・・・・・・」
 無事でいるだろうか。あの時間に自分を待ち伏せていたのなら、斗音は後をつけられてはいないだろう。とりあえず、斗音と一緒にいた自分を叩きのめしたかったというところか。
(わざわざ人気のないところ選びやがって)
 むくりと起き上がる。右腕が上手くついてこなかった。激痛が脳を貫くようだ。
「あーくそ、自力で帰るしかねえのかよ」

 腫れ上がる腕は熱くて重くて、感覚がおかしかった。斗音が見たら、どう思うだろう。それを思うと沈鬱な気分になった。

「お疲れ様でした。今日はずいぶん遅かったんですね・・・・・・」
 帰るなり、休んでいろといったはずの斗音が、わざわざ出迎えてきたのを瓜生は軽く眉を上げて見た。
「少しでも睡眠をとれって、いつも言ってるだろうが」
「シャワーをお借りしたら、眼が冴えちゃって。それより・・・・・・」
 険しい顔をした斗音の、白くて細い指がすい、と伸びて、瓜生の軽く傷ついた頬をそっと払うようにした。
「どうしたんです?この傷・・・・・・土も。汚れて・・・・・・それに、これ・・・・・・」
 どんどん綺麗な顔が曇っていく。
「・・・・・・変な、汗・・・・・・」
 左手で軽く、勘のいい細腕を払った。
「馬鹿。走ってきてんだ。汗かくなって方が無理だろ」
「・・・瓜生さん?」
「いいから、飯ができるまでお前は寝てろ」
 有無を言わせない強い口調で言って、悟られないうちにさっさとバスルームに入る。
(痛ぇ・・・・・・マジで、これヤベエ)
 肘の数センチ下から、ひどく腫れ上がって激しい痛みが走る。それを騙し騙し何とかシャワーを浴び、かなり大きいサイズのトレーナーに、腰ではくこれまたぞろぞろで穴だらけのジーンズ。いつも通りの格好だが、これなら骨折もばれないだろう、と思った。思ったのだが。
「あんまり遅いから、俺、朝食作ってみました」
「・・・・・・え?」
 キッチンに戻るなりそう言われて、テーブルを見ると、インスタントコーヒーにサンドイッチが、結構綺麗に盛り付けられていた。
「これくらいなら、俺にもできますから」
 ただし、カロリー計算はできてませんけど、と言いながら、席を勧める。サンドイッチには、ハムとトマトとゆで卵の輪切りにしたものが入っていて、ちゃんとマーガリンにマスタードもついている。強いて言えば、押さえが甘くて、ともするとばらけそうな欠点はあるものの、味も悪くない。
「・・・・・・美味い」
 斗音は少しだけ嬉しそうに笑ったけれど、何だかつらそうに見えた。
 その斗音も、珍しくサンドイッチを二切れも食べ、何か味が足りない、などと首をかしげていた。
「卵にはマヨネーズと・・・・・・あとレタスがあってもいいかもな。ハムとトマトにも、レタスは合う」
「・・・・・・そっか・・・・・・そういえばそうかな。そう言えば、卵ってマヨネーズと和えますよね」
 うなずきながら、ひとしきり感心して、綺麗に空になった皿とマグカップをさっさと片付け始める。
「おい、椎名?」
 シンクで手馴れた様子で食器を洗いながら、斗音はそっと視線を上げた。
「無理しないで下さい。右手、痛いんでしょう?」
 瓜生は思わず瞠目する。つらそうな顔のくせに、微笑みを見せる斗音を、まじまじと見つめた。
「ごめんなさい、勘繰るとかそんなつもりじゃないんですけど・・・・・・俺、体質上、脂汗みたいなのって、すぐ分かるんです。それに瓜生さん、さっきから右、全然使わないし・・・・・・」
 驚いた。今まで、弱くて守ってやらなければと思っていた。自分のうちということもあるが、斗音には基本的に何もさせずに休ませるようにしていた。だから気付かなかった。あまり上手とはいえなくても、ちゃんと料理も作れる、後片付けも器用にできる。(これは慈恩が料理を作る役割、斗音が片付ける役割だったからだが。)そして、鋭い。
(そう言えばそうだった。こいつは・・・・・・)
 体育祭のあとに彼を助けてから、あまりの弱々しさに忘れかけていた。そうだ、間違いなくここにいる彼は、如月高校生徒会副会長なのだ。
「今日は日曜日だけど、大きな病院なら救急で診てもらえます。・・・・・・少し、見せてください」

 薄茶の澄んだ瞳が、じっと見つめてくる。隠しておくことは時間の無駄だと諦めて、瓜生はそっと吐息した。
 
斗音は濡れた手を拭いて、有無を言わせずソファに座らせた瓜生の右手にそっと触れる。指も動かさないように、ゆっくり袖を上げていくが、ひどく腫れているのに、触れないわけがない。
「っ!」
「・・・・・・これ、は」
 斗音の色白の顔から、血の気が引く。訴えるような瞳で、厳しく詰め寄られた。
「どうしてすぐに言わないんです!これ、折れてる・・・・・・!一体、どうして!」
 目を合わせられなくて、瓜生は視線を逸らす。斗音は柳眉を寄せた。きゅ、と唇を噛むと、決心したように立ち上がる。
「雑誌とか、新聞ありますか?あと、ガムテープ」
 言いながら、瓜生の言葉に従いテキパキと準備を進める。
「すみません、痛いかもしれませんけど、応急処置です」
 折れた右腕をそっと持ち上げ、その下敷きにした雑誌で腕を固定して、ガムテープで止める。それをタオルで首から吊るすようにして、タクシーまで呼んだ。
「・・・・・・慣れてるのか?」
 思わず尋ねると、斗音は小さく首を振った。
「いいえ・・・・・・。昔、入院してたときに、暇な時間に救急救命講習を受けたことがあるんです」
「入院・・・・・・」
「こんな身体ですから」
 小さく苦笑して見せる。
「でも、おかげで今少し、役に立ってるから、人生何が役に立つか分からないもんですね」
 瓜生も思わず苦笑いを浮かべる。
「ああ・・・・・・助かった」

 言うつもりもなかった。言えるはずもなかった。腕が折れた本当の原因など。言えば斗音は、激しく己を責めるだろう。二度と自分のところにも来ない。あの長身の男の言いなりになる気など、瓜生には欠片もなかった。

 瓜生の口は固かった。病院でも斗音や医者が、何度もどうしてこんなことになったのかを訊いたが、いきなりガンつけてきた気に食わない奴と喧嘩をしたのだ、としか言わなかった。
(半年前ならともかく、今の瓜生さんが素手で喧嘩するとは思えないけど・・・・・・)
 斗音は素直に彼の言葉を信じなかった。ボクシングに携わっている彼が、そうそう喧嘩を売ってくる程度のちゃちな人間にやられるとも思えなかったし、ガンをつけられた程度の理由で、本気で鍛えている拳を振るう人間だとも思えなかった。それでも瓜生はそうとしか言わなかったし、彼に言う気がないのだということはよく分かったので、斗音はそれ以上追求しなかった。瓜生が言いたくないのなら、それでいい。もし気が向いたら、話してくれるだろう。瓜生がいつも自分にそうしてくれているように、自分も瓜生にそうしようと考えた。その日の内に事実を知ることになるとは、このときの斗音は思いもしなかった。

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