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四十二.狂っていく関係

 渡すものか。決して、誰にも。
 もう、待たない。

 まだ間に合う。止めなければ。全てを失う前に。
 ・・・・・・彼を、壊してしまう前に。

 膨れ上がる。飲み込まれる。暴走する。
 手ニ入レタイ。俺ダケノ物ニシタイ。誰ニモ触レサセナイ。俺ダケノ物。綺麗ナ綺麗ナ、俺ダケノ・・・・・・。
 激しく渦巻く中に引きずり込まれてしまえば、もうそれしか見えない。

 心が満たされていく。激しく渇望する。相反する思いに、脳が痺れていく。
 
・・・・・・止メラレナイ・・・・・・。

   ***

 慣れない片手生活の瓜生をできる限り、ギリギリまで手助けして、斗音は帰路についた。
『・・・・・・お前がいてよかった。ほんとに助かった』
 別れ際の珍しく優しいセリフに、嬉しい反面何だか不思議な、違和感のようなものを感じた。
(あんなこと、絶対に言わない人なのに)
 でも、そんなことを言われれば、少しでも助けになりたいと思うのは、斗音だけではあるまい。時間が許す限り、瓜生についていたいと心底思っていた。自分の家の玄関を、開けるまでは。
「お帰りなさい」
 丁寧に頭を下げた三神が顔を上げるのを見て、斗音の胸に訳の分からない不安が胸を突き上げた。
「・・・・・・何・・・・・・その、顔・・・・・・」
 左頬に大きく貼り付けた湿布。それが届かない唇の端は紫色に変色しており、口角は赤黒い。湿布の上からでも、はっきりとその頬が腫れているのが見て取れた。
 薄茶の瞳を驚愕に見開く斗音に、三神は薄く笑みを浮かべた。
「お目汚しでしたか。申し訳ありません」
 言葉に似合わない表情に、ますます斗音は血の気を失っていく顔を強張らせた。
「・・・・・・どうしたんだよ、それ」
 微かに声が震えるのが分かった。嫌な予感が胸を支配する。それを嘲るかのように、三神はゆったりと笑んだ。
「どうしたんだと、思います?」
 まるで楽しんでいるかのように、オウム返しにして、斗音をすっとのぞき込む。斗音は背筋にぞくりとしたものが這い上がったのが分かった。
「・・・・・・喧嘩・・・・・・でも、した?」
「喧嘩だなんて、野蛮ですね」
 くっくっと肩を揺らす。相手が笑えば笑うほど、斗音は全身が硬直していくような気がした。
「ちょっと害虫を見つけまして。これがまた、手癖の悪い虫で」
 斗音の目の前に、大きな湿布を貼り付けた頬を寄せる。
「どうやらボクシングか何かをかじっていたんです。ほら、酷いでしょう?素手で力一杯です」
 びく、と薄茶の瞳が揺れた。不安が的中していたと確信した途端、喉に微かな不快感が生じる。がたがたと激しく震える両手で、自分の口を覆う。
「あなたにつくなんて、分不相応甚だしい虫だ。ですから、二度とあなたに近づかないように言ったんです。ところが、やはり虫は虫、人の言葉が理解できなかったようで、絶対嫌だって言い張るんですよ。さすがに私も嫌気が差しまして」
 うっとりと目を細めて、斗音の涙の幕に覆われた瞳を、その視線で舐める。
「・・・・・・どうしたと、思います?」
 斗音ははっきりと震えながら耳を塞ぎ、小刻みに何度も首を横に振った。
「・・・いや・・・・・・!どうして・・・・・・どうして・・・・・・っ」
 嬉しそうに、三神がうっすらと笑みをその表情に刻む。塞いだ耳元に口を寄せ、わざとゆっくり聞こえるように言った。
「とりあえず、私の顔を腫らしてくれた腕を折っておきましたよ。これに懲りて、二度とあなたに近づかないように」
「・・・・・・嫌・・・・・・!」
 ぎゅっと目を閉じ、耳を塞いだ腕で、頭を抱えるようにしてうつむいた途端、涙が足元で悲しみの華を咲かせた。
 役に立つだなんて、自惚れも甚だしい。それどころか、自分こそが瓜生をあんな目に遭わせた張本人なのだ。
(瓜生さん・・・・・・俺・・・・・・俺は・・・・・・・・・・・・!)
 喉の奥に呼吸を遮ろうとする遮蔽物。濁った咳を数回繰り返して、それでも斗音は、ぐい、と手の甲で唇を拭った。そのままくるりと踵を返し、身体ごとぶつかるようにして玄関の扉を押し開く。
「どちらへ?」
 揶揄を含んだ優しい声音を振り切るように、走り出す。更にわざとらしい明るさをまとった声が投げ掛けられた。
「もう遅いです。お送りしますよ?」
 自分が切る風に、眼から溢れて止まらない雫がさらわれていく。発作が起き始めているのは分かったけれど、それでも止まれなかった。引き裂かれる胸の痛みの方が、ずっとずっとつらかった。
 不気味な三神の言動。突然の暴挙。昨日は久しぶりに、ほんの少しだったけれどまともな会話ができたと思っていた。それが一体、どうして。全然分からなかった。
(瓜生さん、瓜生さん・・・・・・!)

 三神は狙ったのだ。ボクサーにとって必要不可欠な右腕を。より強いダメージを与えるために・・・・・・自分との関係を断とうとしない瓜生の心を潰すために。何よりも、それが斗音の心を苦しめた。

 主人の姿が見えなくなるまで、三神は薄い笑みのまま、それを追っていた。完全に見えなくなると、その笑みを更に深く刻んだ。
 そうだ、行け。あの害虫に、あなたの決意を突きつけてやるんだ。
「・・・ふっ・・・・・・くくくっ・・・・・・あっはっはっ、あーっははは!」
 星空を振り仰いで、高く笑う。
 そして、あなたは帰ってくる。もうあなたの居場所は、ここしかない。

 狂ったように、一人笑い続ける三神を、冷たい白い月が、静かに照らしていた。

 激しい呼吸音に笛のような音が混じる。それでも斗音は、走った。呼吸が苦しくて、時折意識が飛びそうになりながら、ただただ走る。駅の構内を駆け抜け、駆け込み乗車を禁止するアナウンスも耳に入らず、閉まりかけた扉から一番端の車両に転がり込んだ。うずくまって激しく咳き込みながら、一駅やり過ごし、まだ呼吸も整わないまま電車を飛び降りて、家を飛び出してから半時もしないうちに、再び瓜生の家の前に立っていた。
「瓜生さん・・・・・・!」
 ひどく声が擦れて、十一時近い静まり返った夜の中でも、それはそこの住人に届かなかった。思わず、ドンドン、と拳で玄関の扉を、まるで縋りつくように打ち鳴らした。
 その扉が開くまでに、そう時間は掛からなかった。濡れっぱなしの長い前髪を鬱陶しそうに首を振って流しながら、瓜生が顔を出す。怪訝そうなその表情のまま、慣れない左手でそれを押し開けるなり、尋常ではない様子の斗音に息を飲む。
「・・・・・・・・・・・・椎名・・・・・・、お前、何やって・・・・・・」
「・・・・・・瓜生、さん・・・・・・」
 ひどく聞き取りづらい、ほぼ擦過音だけの声。肩から落ちそうになった、羽織ったフリースを引きずり上げながら、瓜生は思わず眉根を寄せた。
「お前、発作起こしてるのか!」
 気管の奥で何かが絡んだような咳をしながら、斗音は首を横に振る。右腕に触れないように、そっともたれ掛かり、瓜生のノースリーブのシャツに額を押し付けた。
「ごめん、なさい・・・・・・・・・、ごめんなさい・・・・・・っ!」
 ヒューヒューと音を立てながら、荒い呼吸を繰り返す斗音の肩を、瓜生は左手でぐい、とつかんだ。
「何言ってんだ、お前。いいから、中に入れ!」
 それにも激しく首を振って、斗音は拒否の意を示す。声にならない声が悲痛に夜気を裂いた。
「俺の・・・俺のせいで・・・・・・大事な・・・腕を・・・・・・!」
 ぴくりと瓜生の眉が険しくなる。
「俺にっ・・・・・・俺、なんかに・・・・・・関わった・・・・・・せいで・・・・・・」
「・・・っ!」
 ぐらりと崩れる斗音の身体を、瓜生はかろうじて左腕で支えた。
「椎名!」
 げほ、と、力ない咳をこぼして、その腕に抱き締められた斗音は、崩れる身体の重心に引きずられるように、頬をシャツにこすりつける。閉じた瞼を縁取るのは、びっしりと涙の粒を湛えた長い睫毛。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 その場に崩れ落ちる斗音に合わせて、瓜生も玄関に膝をつく。細い指が、ひどく震えながらシャツに縋りついた。そのまま、もう一度胸に額を擦り付ける。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 ひどくハスキーな声で、弱々しく繰り返す斗音を、薄手のジャケットごと、左腕で強く抱き寄せ、その柔らかいアッシュの髪に頬を押し当てるようにして、ぐっと、その小さな頭を引き寄せた。
「何でお前が謝る」
 それでも斗音は、壊れた人形のように、ただただ涙をこぼしながら、謝罪の言葉を繰り返す。
「・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・」
「やめろ」
「・・・・・・ごめん、なさい・・・」
 つらそうに顔を歪めた瓜生が、思わず痛みを吐き出すように怒鳴る。
「やめろ、椎名!」
「・・・ごめんなさ・・・・・・」
 いたたまれずに、頭を押さえつけるようにしていた顎を引くと、押し付けられた顔の下に潜り込ませる。擦れた声を紡ぎ出す唇を強引に探り当て、無理やり自分の唇を押しつけた。柔らかいそれは、小刻みに震えている。それをあやすように、ゆっくり優しく包み込む。触れた頬に流れた雫で、瓜生の頬も濡れた。
「・・・・・・こんな腕より、お前の方がずっと痛々しい」
 互いの吐息が唇に触れ合う近さで、瓜生はそっとつぶやいた。秋深い夜の空気は、かなり冷えている。風呂上りで濡れていた髪は、既に冷たい。斗音の身体に、この温度がいいはずがない。
「・・・・・・・・・・・・中に入れ。身体に障る」
 それでも斗音は力なく首を横に振った。
「・・・・・・これ以上・・・・・・・・・・・・もう、これ以上・・・・・・」
 濁った咳を混ぜながらの、弱々しい涙声。もう、声とは呼べないほどの音が紡ぐ微かな振動が、空気をわずかに震わせる。その言葉が意味するものを察知した途端、瓜生は胸を抉られたような感覚に襲われた。腕を折られたときから懸念していた、一番恐れていた結果。
 何故知ってしまったのか。本気で好かれたいと思うのなら、あの長身の男も自分がやったなんて言わないだろうとタカをくくっていた。しかし、どういういきさつであれ、斗音は事実を知ってしまった。もう、後戻りはできない。彼は自分を責めて責めて、ただでさえ支えを失ってひどく負担を強いられている精神を、更にぼろぼろに傷つけて、そうして癒されることを諦めるのだ。
 それが分かっていても瓜生は、諦めなかった。左腕と頭だけでできる限り深く、華奢な身体を抱き締める。
「・・・・・・俺は、あんなクソ野郎の言いなりになる気なんか、欠片もねえ。いいか、俺はやられることを承知で、あいつに逆らった。俺は俺の意志で、選んだ」
 柔らかい髪に頬を埋め、耳に唇を寄せた。
「お前からぜってぇ手は引かねえって、決めた」
 びくん、と華奢な背に緊張が走る。上げた瞳には、不安が色濃く揺れていた。
「瓜生さん、俺は・・・!」
「これ以上迷惑掛けられない、なんて言うんじゃねえぞ」
 ほとんど擦過音だけの声を遮られ、斗音は血色のよくない唇を噛み締めた。
「俺が腕と引き換えに選んだ思いを、簡単に踏みにじってくれるなよ」

 ほんの微かな苦笑を含む瞳は、それでも真摯な思いに満ちていた。それを目の当たりにした斗音の瞳はたちまち湧き上がる涙で満たされ、そこからこぼれ落ちる雫は止まることを知らなかった。

 その夜、まるで小さな子猫を抱えるようにして、瓜生は眠った。シングルサイズのベッドは狭かったけれど、それでも大人しく自分の腕に収まってくれた斗音に少しだけ安心して、優しい気持ちに満たされた。慣れない片腕での生活と、その痛みで消耗した精神は癒され、そのまま深い眠りに引きずり込まれた。
 そしてまだ真っ暗な朝の四時。いつものように目を覚ましたとき、隣にいたはずの彼が消えていることに気付いた。反射的に跳ね起き、自分の嫌な予感が当たったことを、その暗い家の中に人の気配がないことではっきりと感じ取る。
「・・・・・・畜生・・・・・・っ!」
 ギプスで固められ、自由を奪われていた右腕が恨めしい。彼を、閉じ込めておけなかった。絶望の檻の中へ、彼が自身の身を投じてしまうのを、止められなかった。己の身の危険よりも、そして瓜生の身を犠牲にした決意よりも、瓜生の身に迫る危険を回避することを選ばせてしまった。
「あの馬鹿!」
 解っている。簡単に踏みにじったわけではない。それだけ自分を大事に思ってくれた結果なのだ。悔しくてやり切れなくて、思わず長い前髪を鷲づかみにして頭を抱えた。

「・・・・・・お前がいてくれればそれで・・・・・・俺は・・・・・・!」

 斗音は腕時計を見た。そろそろ瓜生が新聞配達を始める時刻だ。周りはまだ暗く、街灯もついたままである。こっそり彼の家を出て、ずっと歩いてきた。さすがにこの時間では電車もない。瓜生もバイクが使えないので、追って来られない。
(・・・・・・ごめんなさい)

 ずっと謝ってばかりだった。そうする以外、どうしようもなかった。瓜生が三神の暴力にも屈せず、自分といることを選んでくれたことは、心が打ち震えるほど嬉しかった反面、心が恐怖で縛られた。本気で何かをしでかしそうな、あの不気味な様子の三神が怖かった。
 
自分を包み込むようにして眠る、長めの髪に隠されがちの表情には、苦痛や痛みの色はなく、少しだけほっとした。骨折のこともあり、よほど疲れていたのだろう。深い眠りに心身を委ねている瓜生は、起きる気配を見せなかった。
 
彼の思いを切り捨ててしまうことはつらかった。今一人で帰ってしまえば、瓜生は怒るだろうか。
(絶対に、「馬鹿」だけは確実だろうな)

 瓜生が相手を気遣うときに、必ず使う言葉。じん、と胸が切なくなった。
 
もう二度と、こうしてここに来ることもない。不器用な優しさで癒してくれた先輩。暖かかったこの場所。けれど、だからこそ、これ以上彼に犠牲を払わせることは、耐えられない。
 
彼を起こさないようにそっとベッドを抜け、そして何度も繰り返した言葉を、もう一度、心の中でつぶやいた。切なくて切なくて、涙が幾度も溢れてきた。
 どれくらい歩いたのだろう。既に周りは馴染みの景色に変わり、やがて自分の家の門が見えた。玄関に明かりがついている。
「・・・・・・え・・・・・・?」
 目を凝らすと、門の影にもう一つ、影が見えた。背中を冷たいものが駆け下りる。門柱にもたれていたその影が、ゆっくり身体を起こし、一歩前に進んだ。玄関の明かりにその表情が照らし出される。目が合った瞬間に、そこにすうっと笑みが表れた。
「おかえりなさい」
 心臓がひやりと脈打つ。肌が粟立った。
「・・・・・・ずっとそこに・・・・・・・・・・・・いたのか?」
 声を絞り出す。三神はゆるりと笑みを載せたままうなずいた。
「必ず帰っていらっしゃると、思っておりました」
 ここが自分を追いつめていく檻の中だと、斗音は悟った。もうどこにも逃げられないことを、本能的に知る。思わず胸に掛かった十字架をコートごとつかむ。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・・・・)
 すい、と近づいた三神は、さりげなく肩を抱く。
「遠かったでしょう。すっかり肩が冷えてしまって・・・・・・」
 そのあまりに迷いのない腕に、斗音は言い知れない恐怖を感じた。びくりと固まる斗音を、三神はぐい、と押し出す。
「顔色もよくありません。さあ、早く中に入って温かくしましょう」
 その表情に刻み込まれた薄笑い。全身の血液が凍り付いていくような感覚に、思わず斗音はよろめきそうになった。胸で揺れたペンダントを感じ、再び、心の奥で知らず知らず、慈恩、とつぶやく。
(・・・・・・・・・・・・俺たちはどこで・・・・・・間違っちゃったんだろう・・・・・・)
 そんな斗音の様子を見つめる三神の目が、一瞬不愉快そうに細められた。

 その日から、三神の態度は明らかに変化した。
 
さすがに発作を起こしておいて直後に激しく動き回った上、睡眠もほとんど取らずに寒い中を一時間半も歩いて帰ってきた代償は大きかったらしく、その日斗音は高熱を出した。今度はごまかせる程度のものではなく、しっかり見せようとしてもふらふらと足元が定まらないほどだった。検温のために部屋にやってきた三神は、そんな斗音を優しく抱き締め、抵抗もままならない華奢な身体をベッドに押し倒すようにして、いきなりキスを迫った。
「やっ・・・」
 顔を逸らし、視界が歪みそうな頭痛に堪えながら、必死に逃れようとあがくと、乱暴にむなぐらをつかまれ、唇で噛み付くように強引にキスされた。恐怖で顔を引きつらせる斗音に、うっすら笑んで見せる。
「どうしたんです?あなたが私の力に、敵うはずがないじゃないですか。今更、その顔はないでしょう」
 くつくつと肩を揺らして笑う三神に、斗音の心臓は凍りついた。
「さあ、これだけ熱いんですから、今日は学校を休んでもらいますよ。とりあえず、熱を測りましょう」
 パジャマのボタンを外すと、胸には十字架のペンダントが掛けられている。それが目に入った途端、三神の表情は硬くなった。不快そうに眉をしかめると、荒々しく肩からパジャマを引き下ろした。脇に体温計を挟ませてからも、それが検温終了の合図を鳴らすまで、晒された肩や背を大きな手が何度もなぞっていった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、固まったまま動けないその三分間が、斗音には気が遠くなるほど長かった。
「三十八度九分。この調子では、まだ上がるでしょうね。沢村には粥でも作らせますから、それを食べたらちゃんと薬を飲んでください」
 パジャマを元に戻しながらそう言った三神に、斗音は思わず自身を抱きしめるようにしながら問うた。
「何か、あった?」
 三神が精悍な眉を軽く上げる。ごくりと唾を飲み込んで、斗音は覚悟を決めたように深く息を吸った。
「・・・・・・土曜日に家を出るとき、話をしただろ?そのときは・・・・・・いつも通り、だった気が、したんだけど」
 おずおずと視線を合わせる。
「・・・・・・何か、違う。表情を、作ってるみたいな・・・・・・。それに・・・・・・瓜生さんの腕を折ったり、今も・・・・・・」
 途中で、三神がくすっと笑った。おかしそうに片眉だけを上げる。
「力尽くでキスをした、と?」
 びく、と怯えたように身をすくめながら、斗音は小さくうなずいた。三神はまた笑った。今度は嘲笑とも憫笑とも取れるものだった。
「待ちくたびれたんです。どんなに想っても、あなたは私を避ける。そして、私以外の人間にその心を奪われていく。それでもあなたを傷つけまい、壊すまいと思って、私は待ち続けた。でもあなたはそんな私に見向きもしない」
 ベッドにぺたんと座り込む斗音の柔らかい髪に、大きな手を差し入れ、くしゃっとつかむように乱す。
「このまま待っていても、あなたは離れていくばかりだ。そうなると、あなたの心を奪っていく人間を排除し、あなた自身が私の元へ帰ってくるようにするしかないでしょう?でもこれで、もうあなたはどこへも逃げられない」
 すい、と顔が近づく。三神の息がかかる近さだ。
「逃げられないのなら、あとは力尽くで私のものにするだけだ。あなたが傷ついて壊れてボロボロになったとしても、私を見て、私を受け入れてくれさえすればいい」
 はっきりと斗音の身体が震えた。その耳元に唇を寄せ、三神は笑いを含んだ声で囁いた。
「大丈夫ですよ。今は、さすがに無茶はさせられません。時間はたっぷりあるんです。急ぎませんから」
 斗音は耳に暖かい息を感じ、次の瞬間耳朶をざらりと濡れたものが這いずるのに、身体を硬直させた。
「心の準備だけ、しておいてくださいね」
 息が止まるかと思った。熱に浮かされて、悪夢を見ているのだと思いたかった。それなのに、感じる呼気の熱さも舌が這う感触も、確かに現実で。
(・・・・・・助けて・・・・・・慈恩・・・・・・・・・瓜生さん・・・・・・っ)

 自分の見ている現実世界を振り払おうとするかのように、胸の十字架を握り締めるのと同じくらい、ぎゅっと固く、目を閉じた。

 はっきりと宣戦布告された斗音の精神は、己の身体に一睡すら許さなくなった。起きていてすら敵う相手ではない。そんな中で自分が一瞬でも隙を見せれば、悪夢が現実になるだろう。自分の身体が回復するまで無茶はしない、と言った三神の言葉も暗示になっていた。数日間、斗音は三十九度を越える高熱に苛まれ、それでも眠ることも叶わず、体育祭から一ヶ月かけて回復してきつつあった身体はたちまち衰弱していった。
 そんな斗音を唯一支えたのは、携帯を通じて届く、自分を思ってくれる人たちからの声だった。最も頻繁にメールや電話をよこすのが瞬、次に翔一郎。嵐はメールより直接話そうとすることが多かったので、勘の鋭すぎる彼に精神的なダメージを感じさせないように振舞うのは一苦労だったが、それでも彼がついていてくれるというのは、心細い現状において、かなり心強かった。
 九条夫妻からも時折メールが届いた。絢音の方は携帯に、雅成は必ず週に一度パソコンにメールをくれた。絢音は慈恩の様子を教えてくれたし、雅成は斗音を気遣い、様子を知らせてくれるようにといつも添えられていた。慈恩本人からも、調子は良さそうだとメールが来た。本当は電話が掛かってきたのだが、どんなに元気な振りをしても、慈恩にはばれる気がして、通話ボタンを押す勇気が出なかった。
 四日間連続で欠席することになってしまった斗音だったが、四日目の夕方頃にようやく熱が三十八度前半までひいてきた。そしてその日はさすがに心配した人が多かったらしく、いつもの仲間たちに加え、今井や理沙からも電話があった。
「大丈夫なのか?お前が四日も休むなんて、よっぽどひどいんじゃないのか?まあ、今はそんなに忙しくないから、ゆっくり休むには丁度いい。絶対無理するなよ」
「斗音くん、大丈夫?喘息?あ、熱があるの?無理しちゃダメだよ?執行部も、今はそんなに仕事に追われてないし。この際だから、しっかり身体を休めた方がいいわ」
 ほとんど同じ内容で連絡してくる二人は息が合っているというか、さすがだと思ったが、なぜ二人して同じ内容の電話を掛けてくるのか、不思議でもあった。
(お互いちゃんと連絡取り合ってるのかな、この人たち)
 ぼんやりとそんなことを考えていると、更に意外な人物から掛かってきた。一瞬信じられなくて、目を疑ったが、三秒も着メロが流れると正気に返って、慌てて出た。
「はい」
『・・・・・・・・・・・・』
 返事のない相手に首をかしげ、電波の状態が最良であることを確認する。
「あの、もしもし?」
『もしもし、じゃねえ。この、馬鹿』
(あ、やっぱり)
 愛想の欠片もない声で自分の想像通りの言葉を聞いて、おかしいくせに胸を締め付けられるような気がした。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・怒ってます?」
『・・・・・・当たり前だ。無茶しやがって』
「・・・・・・ごめんなさい。でも、俺には、ああすることしか考えられませんでした」
『だから、馬鹿だって言ってんだろうが』
「・・・瓜生さん・・・・・・」
 互いに沈黙が流れる。数秒後にそれを破ったのは、つぶやくような瓜生の声だった。
『・・・・・・・・・・・・調子、悪いのか』
 全て知っている瓜生には、正直に答える。
「あまりいいとは、言えませんね。でも、今日は少し熱が下がりました」
『・・・・・・・・・・・・あいつに、何かされてねえか』
「・・・・・・はい、今の、所は」
『・・・・・・・・・・・・そうか』
 ほっと、小さく吐息したのが分かった。心配してくれていたのだと実感する。無性にあの居心地よい場所が恋しくなった。会いたい、と壮絶に湧き上がる気持ちと、もう絶対瓜生を頼ってはいけないという理性が激しく葛藤する。切羽詰ったところまで来ている精神には、あの癒しがこれ以上なく甘美な誘惑となって、斗音の理性を大きく凌ぎ、膨らんでいく。それでも斗音の強い理性は最後の一線で、自分の決意を守ろうとしていた。
「あなたから掛けてくるなんて・・・・・・珍しいですね」
 弱気になっている自分を叱咤しながら、何気なく会話をつなぐ。ところがそれに、思わぬ強い反応が返ってきた。
『・・・・・・あんなふうに消えといて、そのあと四日も姿が見えなきゃ、誰でも気になる。その上、連絡のひとつもよこさねえで・・・・・・・・・・・・俺が心配しちゃ悪いか』
 やや躊躇って聞こえた低い声は、斗音の理性を打ち砕いた。
『・・・・・・会いたいと思っちゃ・・・・・・悪ぃかよ』
 たちまち溢れた涙が枕と携帯を濡らした。擦れた声が、震える。

「・・・・・・・・・・・・会いたい・・・・・・・・・・・・俺も、会いたい・・・・・・」

   ***

 翌朝、斗音の体温は三十七度台に下がっていた。三神も驚きながら、少しほっとしたようだった。それでも登校の準備を始めた斗音にはかなり慌てた。
「せっかくここまで熱がひいたのに、何をしているんですか。今ここで無理をしたら、また寝込む羽目になりますよ」
 華奢な腕をつかんで、真剣な表情でそう言った三神に、斗音は分かるか分からないかくらいの微笑を見せた。
「俺としては、回復しない方がいいからね」
「・・・・・・斗音、さん・・・・・・」
 三神は息を飲んだ。頸を傾けるようにして、斗音はそんな使用人を見上げる。
「回復したら、無茶させられるんだろ?俺にはそんな覚悟、できないから」
 つかまれた腕を振り解くと、三神の表情が歪んで、斗音はそれから目を背けた。
「明日のためにも、身体を慣らしておかなきゃ」
 カッターシャツの上から学生服を羽織る。それを背後から三神が抱き締めた。ぞくりと背筋に寒気を感じる。
「・・・・・・言ったでしょう?あなたの力で私に敵うはずがない。絶対に・・・・・・行かせるものか」
 きつい腕の拘束は、腕をつかまれたときのように、容易く振り払うことはできなかった。身動きすら取れない。斗音はそっと溜息をつく。
「・・・・・・じゃあ、どうしたらこの腕をほどいてくれる?」
 耳に暖かい息とともに囁きが届く。
「今日は休むと、約束をしてください」
「・・・・・・それ以外では?」
「以外は、ありません」
「・・・どうしても?」
 悲しそうな声に、青い溜息。三神は折れてしまいそうな身体をぎゅっと締め付けた。
「あなたを金曜日に手放すと、帰ってこないかもしれない。また気が遠くなるほど探すんですか?・・・・・・あなたを奪っていく人間を、私は決して許さない。あなたを傷つけると分かっていても。もうそんな思いはしたくない。帰ってこないあなたを待つのは、もう嫌だ」
 首筋にこすりつけられる頬や唇。斗音は息を止めて、自分を閉じ込める腕にそっと手を掛けた。
「・・・・・・・・・帰ってくる。帰って、くるから」
「信じられません。この一ヶ月間、あなたはほとんど帰ってこなかったじゃないですか」
「放してくれるなら・・・・・・絶対帰ってくる」
 三神の想いを逆手にとって、斗音はそう言った。どのみち瓜生の家に行ったりしたら、瓜生が危険だ。それ以外の人の家に、軽々しく泊まり歩く気もない。三神の腕が、これでもかというほど斗音を抱きすくめた。
「・・・・・・話をすり替えるなんて、卑怯です」
「・・・・・・放してくれるの?くれないの?」
「斗音さん!」
「・・・・・・どっち?」
 有無を言わせず選択を迫る。三神はしばらく沈黙した。どちらがより強い願いなのか、斗音は分かっていた。三神が出す答えも。
 ややして、苦しげに三神が声を絞り出した。
「・・・・・・・・・・・・約束を、してくれますか。必ず、帰ってくると」
「・・・・・・するよ」
「だったら・・・・・・約束の証を下さい」
「・・・証・・・・・・?」
 ぐん、と引っ張られて、次の瞬間には三神と向き合っていた。悲痛なほど真剣な黒い瞳が、斗音を捉える。
「あなたが私を裏切らないという、私が信じられる証を」
 少し困って、斗音は首をかしげる。
「どうしたら、信じてくれる?」
「・・・・・・そうですね。例えば」
 三神の真剣だった表情が、突如薄い氷のような笑みに変わった。
「私に、キスでもしてみますか?あなたが怖くて仕方ない私に」
 斗音の柳眉が寄せられる。その前で、三神は片目を眇めるようにしてふっと笑った。
「それができたら、信じますよ。でも、できるはずがない。あなたは」
 妙に饒舌に喋り始めた三神に、斗音は無言で半歩近づいてその肩に手を掛けた。
「・・・・・・!」
 軽く背伸びした足を、ストン、と地に付ける。薄茶の瞳がじっと三神を見つめた。
「・・・・・・行ってくる」
 鞄とスクールバッグを引っ提げ、斗音は足早に部屋をあとにした。
 部屋に残された三神は呆然と目を見開きながら、斗音の唇が押し付けられた頬にそっと手を触れた。そして小さく苦笑した。
「ほっぺにキスなんて、子供じゃあるまいし」

 そう独語して、指で目頭を押さえた。

「斗音!もういいの?何かまだ顔色悪いけど・・・・・・?」
 真っ先に瞬が声を掛けてきた。翔一郎も驚き顔だった。
「ほんとだ。顔色も悪いけど、たった四日でげっそりした感じがするぞ」
 バスケット部の朝練、もちろん参加することはできない。見学だけのつもりだったが、嵐には小突かれた。
「昨夜(ゆうべ)まで熱があったんだろうが。そんなときくらい、朝練サボれっての」
 家を早く出てきたかったなどと、言えるはずはない。苦笑してごまかした。
「生徒会の人たちも心配してたよ。どうせ見学するつもりなら、生徒会室に行ってみたら?今は芸術鑑賞会と百十周年記念の企画やってるんだろ?今年の芸術鑑賞会って、何観るの?」
「なんせ公立だから、あんまりお金は掛けられないんだよね。でも、みんなのアンケート結果でマジックショーってのが多かったから、いろんなところ探して交渉してるところ。見つからなかったら、オーケストラとかピアニストとか、音楽関係も当たろうっていう話が出てたけど」
 瞬の質問に答えながら、斗音は立ち上がった。翔一郎がアップにボールをハンドリングしながら爽やかな笑みを見せた。
「生徒会室に行っても、無理すんじゃないぞ」
「うん。ありがと」
 まだ高熱の名残があるのか、足が地に付かないような不安定さを感じていたが、生徒会室では早速それを見破られた。
「お前、明らかにまだ本調子じゃないな」
 今井の第一声は、心配という色に染められていた。既に部活を引退している三年生が集まる中、珍しく後期からの新顔が顔を出していた。
「・・・・・・えらく顔色悪いですよ、副会長」
 一年生ながらに野球部のエースを務める氷室煉(れん)。体育祭でも大活躍した生徒だった。礼儀正しくないわけではないが、どこかクールな印象がある。背も高く、よく日に焼けている。

「珍しいね、氷室。朝練はいいの?」
「昨日放課後ちょっと投げすぎて、今朝は休むように言われたんで」
「そっか。大事な腕だからね」
「はあ、まあ」
 やや目を逸らして、口を尖らせるようにして頬を掻く。照れても笑わないところが、彼らしい。
「とか何とか言って、調子が悪いのごまかそうったってそうはいかないぞ」
 やれやれ、と軽く吐息しながら今井が斗音を笑いながら睨む。
「あ、ばれました?」
「バレバレだ。氷室も、ごまかされんな。こいつ、自分のことになるととことん無頓着になるんだから」
「はあ・・・気をつけます」
「さてと、じゃあこの四日間で進展したことを斗音に教えて、早速手伝ってもらうとしようぜ」
 武知がまとめた資料を斗音に差し出した。
「何せ交渉可能の団体がかなりあるんだからな。そろそろ本決めしねえと」
「そうだな。じゃあ、昨日までに連絡がついて色よい返事が来たところの中で、費用とステージ内容の検討といこうか」
 生徒会室はにわかに活気付いた。

   ***

 薄暗い階段。部活に出られるようになってからは、あまり来なくなっていた。帰りは専ら駅の近くのCDショップで待ち合わせるようになっていたのだが。
「・・・・・・やっぱり、ここでしたね」
 薄暗い中で、人影が動いた。右腕を白い布で吊って肩から制服を羽織った姿が、近づくにつれ、次第にはっきりしてくる。
「外で見られちゃ、まずいだろ」
「・・・・・・・・・・・・あいつにだけは、まずいです」
 大きな左手がひんやりと頬に触れる。
「・・・・・・お前・・・・・・」
 言うなり瓜生の顔が近づいて、心地よい涼感を伴って額が合わされる。瞬間斗音は、目を閉じた。
「・・・熱い。まだ熱があるだろう」
「朝は、微熱程度まで下がってたんです」
 苦笑を浮かべた斗音を、片手でそっと抱き寄せた。
「・・・・・・自分を犠牲にしやがって」
「・・・・・・・・・・・・」
 犠牲。それを最初に選んだのは、瓜生だった。そのために、こうしてまだ右腕の自由を奪われている。医者の診断では、完治に一ヶ月ほど掛かるのではないかということだった。
「・・・・・・また・・・・・・・・・痩せた」
「ちょっと熱が、続いただけです。あと・・・・・・眠れなかったから・・・・・・」
 瓜生の片腕が、更に華奢な身体を絡め寄せる。右腕の代わりに首を伸ばして頬を押し付けるように、小さな頭を抱き寄せた。
「・・・・・・馬鹿。・・・・・・無理ばっか、してんじゃねえよ」
 斗音は胸の内に溢れんばかりの切なさを感じて、思わず持っていた荷物をどさりと落とし、その腕を瓜生の背に回した。鍛えられた身体に、力が入らない腕でしがみつく。
「・・・・・・どうしても、会いたかったんです。でなきゃ俺、おかしくなりそうだった」
 精神の限界。瓜生の癒しが欲しかった。不器用な優しさに、触れたかった。そのために、多少の熱を押して学校に来ることなど、何の苦痛でもない。
「わがままだなんて、百も承知です。あなたの腕を振り切るような真似をしておいて・・・・・・それなのに・・・・・・」
「ここで会うのに、何の問題がある?ここなら奴には見つからない」
「だけど、俺は・・・・・・」
 言いかけた斗音の髪を、頬を擦り付けるように撫でる。
「いいから黙ってろ。・・・・・・・・・・・・何も考えなくていい」
 じわりと斗音の目頭が熱くなって、いともたやすくこぼれた雫が瓜生の制服を濡らした。
「・・・・・・下校時間まで、まだある。少し、休め」
 低く静かにつぶやくや否や、抱き締めた華奢な身体から一切の力が抜けた。膝が折れ、背に回されていた腕がゆっくり滑り落ちる。まるで人形のように腕がぶらりと下がり、頭がカクンと仰向けになる。溢れたばかりの涙がこめかみを伝ってアッシュの髪に吸い込まれた。
「・・・・・・椎名・・・・・・?」
 そっと呼んでも、全く反応はない。完全に気を失っているのが分かった。片手で支えるのは、さほどきつくなかった。ぎゅっと抱き締めてから、そっと壁にもたれさせるように、その身体を下ろした。薄暗い中で、顔色は尚悪く見える。ギリギリの精神力で、ここまで耐えてきたのだろう。高熱にうなされながら、それでも眠らずに、自分を脅かす脅威に神経を尖らせて。それがどれだけ心身に負担を掛けていたことか。
(こんな細ぇ身体で・・・・・・飯もろくに食えねえくせに・・・・・・・・・・・・)
 自分の薄っぺらな鞄を枕代わりに、身体を横たえてやる。自分の学生服を脱いで斗音に掛け、左手で乱れた柔らかい前髪をそっと撫でた。血色の悪い顔を見つめながら、ふと思う。
(・・・・・・右腕が使えたら・・・・・・このまま連れていけるのに・・・・・・)
 もちろん、自分の家は危険なのだろう。あの危ない男はきっと帰らない斗音を探しに来る。だったら多少金を使ってでも、あの男に見つからないホテルやネットカフェなどに逃げ込むのが得策かもしれない。まだ人の金で遊ぶことを愚かだと思えずにいた頃、何度も夜に遊び歩く女子高生や女子大生を引っ掛けて、一夜限りの関係で気を晴らしていた。当然、その関係を引きずる気は一切なかったので、彼女らを家に招くようなことはしなかった。それゆえ、足がつかず、かつ一晩を凌ぐための手段や場所について、瓜生は困らないだけの引き出しを持っていた。褒められた引き出しではないだろうが、そんなものにすら、縋りたい気分だった。
 
しかし、そうしたところで何の解決にもならないことも、瓜生は嫌というほど分かっていた。あの男の異常な執念が牙を向けるのは、最終的に自分ではない。この、ギリギリのところで耐えている、華奢な少年なのだ。
(どうしたらいい・・・・・・?お前を・・・・・・・・・・・・救ってやりたい・・・・・・)
 このままでは壊れてしまう。その崩壊を食い止められるのは。
(・・・・・・望みがあるとしたら・・・・・・あの、弟か。・・・・・・明日無事に・・・・・・会えるといい)
 複雑な思いではあった。それでも今の瓜生に、斗音が救われること以上の望みはなかった。

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