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2009年6月

四十一.狂気の始まり

 誰か、止めてくれ。誰か、誰か、どうか。

   ***

 桜花高校剣道部が新人戦都大会で優勝を決め、準優勝の如月高校とともに関東大会への出場を決めてから、一週間が過ぎた。どちらの高校の剣道部も練習に余念がない。もちろん休日返上である。
「あああああっ!」
「やああああー!」

 威勢のいい掛け声が剣道場内で響く中、慈恩も稽古に励んでいた。近藤のスパルタに比べれば、桜花の剣道部は物足りないくらいだ。でも、もっともっと、と思って頑張る慈恩を見て、部員たちが大いに刺激され、これでもか、これでもかと彼の練習量に喰らいついてくるおかげで、かなり稽古のレベルが上がっていた。まだ慈恩が厳しいと感じるには遠いが、それでも充実感は味わえるようになってきていた。何より、関東大会が都内で開催されるため、斗音たちが来ることになっていることが、慈恩のやる気に拍車を掛けていた。
 
もちろん、関東大会でも優勝する気でいる。斗音の前で、無様な試合はできない。自分はもちろんだが、都大会で近衛の実力もかなり高いことが分かった。あれなら、全国でも通用するかもしれないと思った。三勝するためには、もう少し、鳳か東坊城が力をつけなければならないだろうが。如月も来るだろう。今は全く同等のレベル。自分がいる分桜花が有利だろうが、思った以上に田近の率いる新生如月は力をつけていると感じた。あれなら、当たりが悪くなければ、全国でも一勝くらいはできる。全国も、三年生が引退した分少々レベルはダウンしているはずだ。
「ようし、今から十五分休憩を入れる。十分水分補給をしておくように」
 こちらもかなり熱の入っているコーチの声が響く。同時に、あちー、きっつーなどの声がこぼれた。
「あー、ほんとお前についていこうと思うと、精神力が必要だな」
 面を外しながら和田が苦笑する。もうすぐ十一月、日差しがあっても既に気温は低い。にも関わらず、面を取った頭は、手拭を含め、汗でぐっしょり濡れている。汗を拭いながら、慈恩は苦笑を返した。
「みんな気合が入ってるから、俺もついとばしたくなる」
「よく言うぜ。一番気合入ってんの、お前だろ。今までも強いと思ってたけど、都大会で優勝してからなんか見違えるほどだ」
 なかなか鋭い。慈恩は苦笑を重ねた。怪我も全快し、目的もある。みんなに・・・・・・斗音に会える。力が入らないはずがなかった。
「・・・・・・頑張ろうな。お前がいることが、こんなに心強いなんて思ってなかった」

 照れたのか、目を逸らしながらそう言うと、和田はそのまま仲のいい一乗寺たちの方へ歩み去った。一瞬きょとんと漆黒の瞳を瞬かせた慈恩は、次に静かな笑みを湛えた。

   ***

「来週か。やっと、だな」
 やや冷たい風に汗で濡れた髪を晒しながら、翔一郎が大きく息を吸った。嬉しさに大きく胸が膨らむ。その気持ちは瞬も嵐も同様だった。
「ね。試合終わったらさ、みんなで写真見て一杯話しようよ。慈恩の話も聞きたいし」
「ああ。・・・・・・早いな。もう二ヶ月か」
 さらさらの淡紫色の髪を掻き上げ、風に晒すとそれは何の抵抗もなく翻ってこぼれる。
「電話ではしょっちゅう喋ってるけどさ、まさかこれだけ長く会えないとは思わなかったもんね」
 瞬は、やや癖のある長めの髪をまとめていたゴムを、するりと抜いた。部活の練習のときはよくそうして縛っている。癖はあるものの柔らかい髪が、風に遊ばれる。
「まあ、九月は如月祭で忙しかったからな。期末テストもあったし」
「十月は修学旅行だったしね。ま、こっちは別に土日が潰れたわけでもないけどさ」
 言いながら、瞬は可愛らしい瞳を翳らせる。
「一緒に行きたかったよね。なかなか行けないじゃん、オーストラリアなんてさ」
「もっとそう思ってたのは、あいつらだよ」
 くしゃ、と瞬の髪を乱して嵐が諭すように言った。瞬はうつむく。
「分かってるよ。だいぶ落ち着いてはきたと思うけど、時々斗音、見てられないもん」
「かなり痩せたしな。もともと華奢な印象だったけど・・・・・・首とか指とか、頼りないくらい細くなった気がする」
 溜息に近い吐息は、翔一郎のものだ。今日のバスケット部の練習でも、斗音は倒れた。喘息の発作ではない。紙のように白い顔に、血の気を失った唇。明らかに貧血だった。しばらく休んだら、血の気は戻ったものの、木下はそれ以上の練習を禁止した。諦めたように微笑んだ斗音だったが、それでも最後まで練習を見学していた。
 慈恩の試合を観に行こう、と言い出したのは斗音だった。本当は、十月の第三週の週末にみんなで遊ぼうという話が出ていたのだが、慈恩の試合が近いということで延期になってしまった。その試合とバスケ部の練習試合がかぶっていたので、行けなかったのだが、なんと慈恩の学校と如月がワンツーフィニッシュを決めたということで、ぜひ次の大会の応援がてら、慈恩に会いに行こうと提案してきた。おかげで会うのが三週間ほど遅れ、その間に如月高校の修学旅行も終わってしまったのだが。高校では多いが、如月も二年生で修学旅行に行くことになっている。
「試合観に行くことに決めて、だいぶ元気になってきたけどな」
 帰る方向が一人だけ違う斗音の姿が見えなくなるまで、三人はそこに止まっていた。何度かこちらを振り返って手を振る姿は、何だかこちらも嬉しくなるほどの笑顔で。
「先生に今日はもうやるなって言われても、あんまヘコんでなかったしね」
「・・・・・・にしても、慈恩がいなくなったってだけで、あそこまでダメージがあると思うか?」
 嵐の不思議な色の瞳が瞬と翔一郎を順に捉える。瞬は難しい顔をして考え込み、翔一郎は首をかしげた。
「自己管理ができない奴じゃないしなあ。そもそも、慈恩だけが養子になるって話に、もう少し裏があったとか?」
「有り得るな」
「裏?でも、話の筋は通ってたよ?」
「通したってことも考えられるだろ」
「でも、終わったこといつまでもぐずぐず引きずる斗音でもないと思うんだけど」
 瞬の意見に、翔一郎はうなずいた。嵐も渋面を作る。
「確かに。瓜生さんの支えがあったとしても、全然食べなかったり具合が悪そうだったりするのは変わらない。今でも何か続いている原因がある可能性が高いな」

 もし、練習試合で、三神を見たときの斗音の瞳の翳を見たのが嵐だったら、すぐその原因と結びついたかもしれない。しかし、あいにくそれを見たのは瞬で、瞬は嵐ほど洞察力や記憶力に恵まれていなかった。

   ***

 帰ってくるなりシャワーを浴びて、さっさと出かける準備を進めるのは、もう見慣れた光景だった。土曜日は大概部活があるのだが、それから帰ってくるといつもこうだ。下手をすると、今夜は帰ってこないだろう。いや、きっと帰らない。彼に入り浸る場所が確立したのは明確だった。一体どこで何をしているのか、どんなに聞いてもはぐらかされる。
「出かけてくるから。沢村さんに、月曜日の朝食は俺も食べるつもりって伝えておいて。留守の間、頼むよ」
 ほら来た、と三神は精悍な眉をはっきりと寄せた。
「どちらへ?」
「心配しなくても、無茶はしないよ」
「万が一ということがあるでしょう。行き先だけでも教えて・・・・・・」
「一人でいるわけじゃないから平気だ」
 言いたいことも先に悟られて、釘を刺される。自分の顔が醜く歪まないように、必死に表情筋を総動員させる。
「毎週毎週外泊をされるのを、保護者代理としては放っておけませんし」
 言った途端、斗音はくすっと笑った。珍しいと、ふと思う。久しぶりの笑顔。
「保護者、だったんだ?そうだな、慈恩は俺の保護者だったから」
 そして薄茶の目をすい、と流して三神を射止める。
「別に悪いことしてないよ。心配要らない」
 こちらを警戒しているような冷たい態度でもない。身体的にというより、精神的に何だか微弱ながら力を感じる。心の中の力を生み出すのは、嬉しい気持ちや楽しい気持ちだ。それが何なのか、ふと頭をよぎったことを、思わず訊いていた。
「彼女でもできましたか?」
「へ?」
 返ってきたのは、素っ頓狂という色を含んだ声だった。大きな目を何度か瞬かせて、次にくすくすっと肩を揺らす。
「あはは、残念ながら。なんで?」
 やはり明るい、と思った。こんなやり取りをしたのは、本当に久しぶりだった。おかげでやや面食らう。
「い、いえ、何だかわくわくしているようにお見受けしましたので」
 やや苦笑といった微笑みのまま、斗音は首をかしげた。
「そうかな。自分ではそんなに意識してなかったけど。でも確かにわくわくしてるかもしれない」
 つられて思わず笑みが浮かんだ。そして自分がそんな顔をしたのも久しぶりだと実感した。
「何かいいことがあったんですか?」
 こんなに普通の会話をするのさえ。何だか本当にほっとする。いかに今までがお互い緊張状態にあったのかを思い知る。ずっとこのまま、こんな雰囲気でいられたらいい。心の底から、そう思った。そんな三神の目の前で、胸のクロスに手をやった彼の顔に、切なくなるほど綺麗な笑みが咲いた。自然、息を飲むほどの。
「来週、みんなと一緒に剣道の試合を観に行くんだ。慈恩と、如月が勝ち残ってるから。・・・・・・やっと、あいつに会える」
 最後はつぶやくような、その言葉が耳に届いて、脳で理解した瞬間、ふわりとほどけていた心がぎゅっと縛られたような気がした。
「じゃあ、行ってくる」
 そう言って出て行く彼を、会釈で見送った。あんなに頑張っていたはずなのに、いとも簡単に自分の顔が歪んだのが分かった。それを見せまいと、玄関の扉が閉まるまで垂れた頭を上げずにいた。
 ばたん、と重い音がして、外の光が遮られたのを感じてから、ようやく顔を上げる。
「・・・・・・あいつ・・・・・・だと?」
 椎名慈恩。いや、今は九条慈恩だ。あの隠し子が去ってから、まだ一度も会っていなかったとは知らなかった。頻繁に家を空けるのも、実は会っているのではないかと思っていた。しかし、あれだけ弱っていた彼が、ほんの少しずつだが落ち着いてきたのを見てきて、今の彼にはそれも仕方ないと思っていた。そうでなければ、自分のものにする前に、壊れてしまうと思ったからだ。
「・・・・・・じゃあ、誰と会っている?いや、それより・・・・・・何だ、あの・・・・・・幸せそうな顔は・・・・・・!」
 ギリギリと握り締めた拳に、爪が食い込む。頭が混乱しそうだ。
 やっぱり今でもあんなすかした奴のことが大事なのか。あんなに綺麗な笑みを、無防備に自分に見せてしまえるほど。自分を警戒しているはずなのに。あんなにわくわくした顔で。楽しそうにして。むしろ会えない時間が長かったからこそ、想いが肥大したのか。そうなのか?あの人は、あの隠し子を・・・・・・いや、自覚はない。そんなふうに想ってなんてない。ただただ大事な人間。たった一人の、あの人の家族。俺にはなれない家族。血なんて繋がっていなくても。それよりもずっと強い絆の繋がりがある。如月祭の頃に比べて少し安定してきたのは、女のせいじゃなかった。あいつのせいでもなかった。あいつだったら、もっともっとずっと早くにあの人に幸せな思いをさせることができたのだ。じゃあこれまであの人を支えてきたのは?あの人に近づいている人間がいる。あの人の心を癒せる人間、幸せにできてしまう人間。それは俺でなければならなかったのに。何故俺じゃない?つらそうな顔をさせ、いつも逃げられて。望んだ理想と正反対の現実は何故。俺にできないことを、あの人の心を捉えることのできる人間が、二人はいるということだ。放っておけばどんどんその差が広がる。まずい。これ以上はまずい。絶対に・・・・・・!
 ぐるぐるとものすごい速さで思考を駆け巡らせる中、心のどこかで、何かが激しく音を立ててちぎれたのが分かった。
「・・・・・・させるか・・・・・・・・・・・・これ以上、あの人の心を奪われてたまるか・・・・・・!」

 ギッ、と彼の出て行った扉を睨みつける。

 ・・・・・・もう、待てない。

   ***

「はぁっ、はっ・・・す、すみません、ちょっと、待って・・・・・・」
 激しく上下する胸を押さえながら、斗音は一気に速度を落とした。がくがくする両膝を叱咤するように手で押さえる。かなり朝は冷え込んでいるが、それでも全身から汗が滲む。そしてそれを片っ端から気温にさらわれていくようだった。まだかなり暗い中、随分前に行っていた人影がぴたりと足を止め、ややしてから軽い足取りで近づいてくる。
「はぁ、はぁ、ごめん、なさい、足を、引っ張って・・・・・・」
 荒い呼吸に合わせて動く背を、瓜生はそっとさするようにした。
「だから無理するなって言っただろうが」
「すみません・・・・・・」
 ふう、と軽く息をついて、瓜生は肩をすくめる。
「お前が体力を取り戻したい気持ちは分かるけどな。ボクサーのロードをなめてもらっちゃ困る。あとは俺一人で配って回る。お前先に帰ってシャワーでも浴びてろ」
 片腕に抱えた大量の新聞を、改めて小脇に抱え直す。斗音は乱れた呼吸を整えながら、尊敬の思いでそれを見上げた。
(あの滅茶苦茶重い新聞の束を抱えて、あの速度で、休みなしで走るなんて)
 長距離走が速いはずだ。毎日これをやっている瓜生に、これだけ体力の落ちている自分がこれ以上ついていこうとしても、更なる迷惑を掛けることは目に見えていた。大人しくうなずく。
「すみません、半分もついていけなくて」
「最初からついて来られるなんて思ってねえ。まだ時間も早い。とっとと汗流して、ちゃんと休め」
「・・・・・・はい」
 肩を落とした斗音をちらりと見遣って、瓜生は、とっ、と走り出す。
「・・・・・・半分は、とうに過ぎてる」
 ぼそりと低い言葉が耳に届いて、斗音は顔を上げた。瓜生は既に数メートル先にいる。
「あ・・・・・・」
 彼流の不器用な優しさに、思わず微笑む。
「あ・・・はは・・・・・・」
 何だか今日は、いつもは全く感じない食欲を感じた気がした。
(少しでも・・・・・・少しでも元気になって、慈恩に会いたい)
 心の中に湧き上がる不思議な温かい気持ち。首から提げたペンダントをシャツの上からぎゅっと握り締めた。
 もうすぐ会える。次の土曜日が大会だ。やっと会える。やっと。・・・・・・嬉しい。

 疲れていたはずだったけれど、気持ちは軽かった。近道で昨日も泊まった瓜生の家に戻り、早速シャワーを借りることにした。

 丁度その頃。瓜生は全ての家に新聞を配り終え、自宅に向かう近道である小さな公園を横切ろうと、軽やかに敷地の境目を遮っていた柵に手を掛けて、軽くそれを飛び越えた。
 
そのとき。その視界の一部分を不意に、木陰から現れた長身の影が遮った。
(・・・・・・何だ?)
 それを避けて規則正しくランニングを続けようとしたが、長身の影はいちいち瓜生のコースを邪魔する。まだ薄暗かったけれど、近づくにつれて、それがラフにスーツを着こなした、ノーネクタイの男だと分かる。
(でかい奴だな)
 でも、見覚えのない人物だった。邪魔だとは思ったが、関わる気もしなかったので、軽いフットワークで更にそれをかわそうとする。
「・・・・・・お前か?」
「あ?」
 突然声を掛けられて、その不快な響きに思わず棘のある声を返す。黒い吊り気味の眼が、侮蔑の色を浮かべて瓜生を捉える。さすがに神経を逆なでられ、十センチほども高い相手の視線を真っ向から睨み返した。
「何だ、てめえは」
「・・・・・・あの人を返せ」
 冷たくて、低い声。まるで感情が欠落したかのような。言い知れない恐怖が瓜生の背筋を這った。
「・・・・・・あの人、だと・・・・・・?」
 聞き返さなくても、反射的に理解していた。これが、斗音を脅かしている人物だと。
「あの人は・・・・・・俺の、物だ」
「てめえ、頭おかしいんじゃねえか。ロードの邪魔だ。失せろ」
 あくまで何も気付かないふうを装って、その左脇を軽いステップですり抜ける。その瞬間、すり抜けようとした空間を足刀が鋭く切り裂いた。とっさにスウェーでかわす。左の頬骨の皮膚が細い線状に血を吐き出した。背筋を冷たい電流が駆け抜ける。
「・・・・・・何しやがる」
 ギリ、と眼に力を込めて、いきなり攻撃してきた相手を見据えると、長い脚がゆっくりと下りた。
(速ぇ・・・・・・空手の使い手か?靴のまま直線で蹴りくれやがった・・・・・・野郎!)
「関わらないと、誓え」
「はぁ?」
 瓜生は苛立って鋭く語尾を上げた。相手の瞳は暗く、陰惨な空気を湛えている。
「あの人に、二度と関わらないと、誓え」
 明らかにまとう雰囲気が普通ではない。それでも恐怖を振り払って、瓜生は言葉を投げつけた。
「あのなあ。さっきからてめえ、何なんだ。しかも、いきなり初対面の相手に蹴りかよ。俺はそういう精神異常者の方がよっぽど関わりたくねえな」
 言い終わるや否や、トン、と地を蹴って素早く一歩身体を引く。今の今まで瓜生のいた場所では、鋭い後ろ回し蹴りが唸りを上げていた。
(あっぶねえ!)
「・・・・・・シラを切っても無駄だ。やっとみつけた。一晩中探した。・・・・・・あの人の心の中に、これ以上他人を入り込ませるわけにはいかない。斗音は、渡さない!」
 やっぱり、と思うより早く瓜生は更に飛び退る。今度は上段回し蹴りだ。さすがに逃げられそうにない。思わず瓜生も構えた。でも、リーチの分、ボクシングで蹴りに対抗するのは厳しい。
「誰だ、てめえ」
「あの人に、何をした」
「おい、こっちの質問に答えろ」
 答えは左足の前蹴り、連続して上段回し蹴りで返ってきた。
「あの人に・・・・・・何を、した・・・・・・!」
 最初の蹴りをブロックし、次の回し蹴りをヘッドスリップでかわして、瓜生はぐっと踏み込んだ。相手の懐に飛び込んで、一発強烈な右ストレートをぶち込む。相手は落ち着いて前屈立ちで左構えを取り、瞬間一歩前進したかと思ったら右拳を手刀に変えて、内側から外側に渾身の右ストレートを払いのけた。
(何・・・・・・だと・・・・・・!)
 立て続けにワンツーを見舞ったが、同様に軽々と手刀受けでかわされる。
(強い・・・・・・!)
 軽くバックステップで距離を取り、ジャブで突く。相手はガードではない。受けるのならば、同じところに素早く打てば、同じ受けや払いはできないだろう。ジャブとストレートのワンツー、またはスリーまでを織り交ぜながら、相手の受けの弱いところを探る。時々飛んでくる蹴りにはひやひやしたが、それでもその蹴りの一つの直後に、距離を詰めてジャブを二発。しかし難なくかわされる。瓜生は最後の右をぐっと握り締める。
(喰らえ!)
 打ち続けていたストレートを受けるべく、相手が右拳で上段受けの構えを取る。
(来ると思ったぜ!)
 瓜生が放ったのは、フック。ストレートを止めるべく上げられた右拳は、その役割を果たせなかった。右拳に確かな感触。素手で人を殴ったのは、六ヶ月ぶりだった。相手がぐらりと長身を揺るがせる。
 倒れる、と思った。でも、ぐらついた相手は、ぐ、と踏み止まった。瓜生は目を見開く。
(・・・・・・馬鹿な・・・・・・!今のはまともに入ったのに!)
「・・・・・・やってくれる。なかなかいい拳を持ってるじゃないか」
 うっすらと、薄氷のような笑みが浮かんだ。勢いよく赤く染まった唾を吐き捨てる。ダメージは、あったようだ。が、次の瞬間、笑みは消え、鋭い眼には殺気が宿った。
(・・・・・・!)
 長身の男が初めて正式に構える。瓜生も再び構えた。軽くフットワークで相手の様子をうかがおうとした途端、前に出ていた相手の左足がスネを狙ってきた。ボクシングの動きに慣れている瓜生が反応するには、あまりにも素早いローキックである。
「っ!」
 威力としては、それほど強くなかったが、瓜生はバランスを崩した。そこを、ローキックを放った足を軸足にして、右の後ろ回し蹴りで狙われる。長い脚は瓜生の頭の高さまで上がった。思わず拳を上げて防ぐが、回転の勢いのついた蹴りが、ブロックできるはずがない。ブロックした上からこめかみに蹴りが叩き込まれた。ぐわん、と視界が揺れ、瓜生はそのまま膝をつき、更にその姿勢も保てずに、地面に身体をたたきつける。少し湿った土の匂いだけしか分からない。視界は定まらず、思考も働かなかった。
「・・・・・・あの人に、何をした」
 上から強く押さえつけられ、冷たい声が降ってくる。それで微かに、遠のきそうだった意識が引き戻された。
「・・・・・・・・・・・・何の・・・・・・ことだ・・・・・・」
「しらばっくれるな・・・・・・どうやってあの人に取り入った?何をした!?」

 声が近づいた。冷たさに怒りが混じっているのが分かる。
 
さすがに「知らない」はもう通用しないか。この男は、はっきり確信して自分に近づいてきている。
 
ギリ、と歯を食いしばって、瓜生は揺れる視界を定めようと、目を眇めた。
「・・・・・・何も・・・・・・して、ねえよ・・・・・・」
 高い熱に侵されて、それよりもつらい苦しみを心に抱え、涙を流していた斗音。そっと、キスをした。
 守ってやらなければ。全てを許してくれた、あの微笑みを、守らなければ。
「・・・・・・正直に言え」
「・・・・・・言ってんだろうが・・・・・・」
 ようやく自分をのぞきこむようにしている男の顔が、はっきりした。そこに見たのは、嘲笑だった。
「お前はくずだ。あの人の魅力が分からないとは」
 凍ったような視線で、男の目が瓜生を射抜いた。
「そんな奴に、あの人の傍にいる資格はない。あの人に・・・・・・斗音に、二度と関わらないと誓え」
(・・・・・・椎・・・名・・・・・・)
 心が疼くようなその名前。嘘でもそんな誓いを口にしたくはなかった。焦れた相手の声が、冷たい怒りをはらむ。
「あの人に二度と関わらないと、誓え!」
 ふ、と、瓜生は唇を歪めた。
「・・・・・・・・・・・・やな、こった」
 冷たかった相手の表情に、再び殺気が宿る。この空気をまとったとき、この男は一切容赦がなくなる。下手をすれば一撃で死に至るような急所を、何の躊躇いもなく攻撃できるほど。
「次はない。あの人に今後一切関わらないと、誓え!」
 動けない。何をされるかなんて、分かったって動けなければ仕方ない。再び、瓜生は唇を片方だけ吊り上げるようにして笑みを載せた。
「・・・・・・二度も、言わせんな」
 相手の瞳に湧き上がった殺気が煮えたぎるのを見ながら、そっと目を閉じた。
「・・・・・・ぜってぇ、誓わねぇ」
 相手が動くのが、気配で分かった。がっちりとつかまれた右腕に直後、鈍い音と共に激しい衝撃が走った。
(・・・・・・っ!)
 瓜生は歯を食いしばった。腕が灼熱の痛みを訴える。
「これ以上あの人に近づいてみろ。今度は腕では済まない」

 氷のように冷たい声が、振ってきた。その人の気配が、徐々に消えていく。
 
それが完全に消えて、どれくらい経っただろう。周りがぼんやり明るくなってきたのを感じて、脂汗を浮かべながら、瓜生は目を開いた。今度は視界もはっきりしている。身体も、思うとおり力が入るようだ。右腕以外は。
(・・・・・・・・・・・・思いっきり折りやがって・・・・・・畜生)
「・・・・・・椎名・・・・・・」
 無事でいるだろうか。あの時間に自分を待ち伏せていたのなら、斗音は後をつけられてはいないだろう。とりあえず、斗音と一緒にいた自分を叩きのめしたかったというところか。
(わざわざ人気のないところ選びやがって)
 むくりと起き上がる。右腕が上手くついてこなかった。激痛が脳を貫くようだ。
「あーくそ、自力で帰るしかねえのかよ」

 腫れ上がる腕は熱くて重くて、感覚がおかしかった。斗音が見たら、どう思うだろう。それを思うと沈鬱な気分になった。

「お疲れ様でした。今日はずいぶん遅かったんですね・・・・・・」
 帰るなり、休んでいろといったはずの斗音が、わざわざ出迎えてきたのを瓜生は軽く眉を上げて見た。
「少しでも睡眠をとれって、いつも言ってるだろうが」
「シャワーをお借りしたら、眼が冴えちゃって。それより・・・・・・」
 険しい顔をした斗音の、白くて細い指がすい、と伸びて、瓜生の軽く傷ついた頬をそっと払うようにした。
「どうしたんです?この傷・・・・・・土も。汚れて・・・・・・それに、これ・・・・・・」
 どんどん綺麗な顔が曇っていく。
「・・・・・・変な、汗・・・・・・」
 左手で軽く、勘のいい細腕を払った。
「馬鹿。走ってきてんだ。汗かくなって方が無理だろ」
「・・・瓜生さん?」
「いいから、飯ができるまでお前は寝てろ」
 有無を言わせない強い口調で言って、悟られないうちにさっさとバスルームに入る。
(痛ぇ・・・・・・マジで、これヤベエ)
 肘の数センチ下から、ひどく腫れ上がって激しい痛みが走る。それを騙し騙し何とかシャワーを浴び、かなり大きいサイズのトレーナーに、腰ではくこれまたぞろぞろで穴だらけのジーンズ。いつも通りの格好だが、これなら骨折もばれないだろう、と思った。思ったのだが。
「あんまり遅いから、俺、朝食作ってみました」
「・・・・・・え?」
 キッチンに戻るなりそう言われて、テーブルを見ると、インスタントコーヒーにサンドイッチが、結構綺麗に盛り付けられていた。
「これくらいなら、俺にもできますから」
 ただし、カロリー計算はできてませんけど、と言いながら、席を勧める。サンドイッチには、ハムとトマトとゆで卵の輪切りにしたものが入っていて、ちゃんとマーガリンにマスタードもついている。強いて言えば、押さえが甘くて、ともするとばらけそうな欠点はあるものの、味も悪くない。
「・・・・・・美味い」
 斗音は少しだけ嬉しそうに笑ったけれど、何だかつらそうに見えた。
 その斗音も、珍しくサンドイッチを二切れも食べ、何か味が足りない、などと首をかしげていた。
「卵にはマヨネーズと・・・・・・あとレタスがあってもいいかもな。ハムとトマトにも、レタスは合う」
「・・・・・・そっか・・・・・・そういえばそうかな。そう言えば、卵ってマヨネーズと和えますよね」
 うなずきながら、ひとしきり感心して、綺麗に空になった皿とマグカップをさっさと片付け始める。
「おい、椎名?」
 シンクで手馴れた様子で食器を洗いながら、斗音はそっと視線を上げた。
「無理しないで下さい。右手、痛いんでしょう?」
 瓜生は思わず瞠目する。つらそうな顔のくせに、微笑みを見せる斗音を、まじまじと見つめた。
「ごめんなさい、勘繰るとかそんなつもりじゃないんですけど・・・・・・俺、体質上、脂汗みたいなのって、すぐ分かるんです。それに瓜生さん、さっきから右、全然使わないし・・・・・・」
 驚いた。今まで、弱くて守ってやらなければと思っていた。自分のうちということもあるが、斗音には基本的に何もさせずに休ませるようにしていた。だから気付かなかった。あまり上手とはいえなくても、ちゃんと料理も作れる、後片付けも器用にできる。(これは慈恩が料理を作る役割、斗音が片付ける役割だったからだが。)そして、鋭い。
(そう言えばそうだった。こいつは・・・・・・)
 体育祭のあとに彼を助けてから、あまりの弱々しさに忘れかけていた。そうだ、間違いなくここにいる彼は、如月高校生徒会副会長なのだ。
「今日は日曜日だけど、大きな病院なら救急で診てもらえます。・・・・・・少し、見せてください」

 薄茶の澄んだ瞳が、じっと見つめてくる。隠しておくことは時間の無駄だと諦めて、瓜生はそっと吐息した。
 
斗音は濡れた手を拭いて、有無を言わせずソファに座らせた瓜生の右手にそっと触れる。指も動かさないように、ゆっくり袖を上げていくが、ひどく腫れているのに、触れないわけがない。
「っ!」
「・・・・・・これ、は」
 斗音の色白の顔から、血の気が引く。訴えるような瞳で、厳しく詰め寄られた。
「どうしてすぐに言わないんです!これ、折れてる・・・・・・!一体、どうして!」
 目を合わせられなくて、瓜生は視線を逸らす。斗音は柳眉を寄せた。きゅ、と唇を噛むと、決心したように立ち上がる。
「雑誌とか、新聞ありますか?あと、ガムテープ」
 言いながら、瓜生の言葉に従いテキパキと準備を進める。
「すみません、痛いかもしれませんけど、応急処置です」
 折れた右腕をそっと持ち上げ、その下敷きにした雑誌で腕を固定して、ガムテープで止める。それをタオルで首から吊るすようにして、タクシーまで呼んだ。
「・・・・・・慣れてるのか?」
 思わず尋ねると、斗音は小さく首を振った。
「いいえ・・・・・・。昔、入院してたときに、暇な時間に救急救命講習を受けたことがあるんです」
「入院・・・・・・」
「こんな身体ですから」
 小さく苦笑して見せる。
「でも、おかげで今少し、役に立ってるから、人生何が役に立つか分からないもんですね」
 瓜生も思わず苦笑いを浮かべる。
「ああ・・・・・・助かった」

 言うつもりもなかった。言えるはずもなかった。腕が折れた本当の原因など。言えば斗音は、激しく己を責めるだろう。二度と自分のところにも来ない。あの長身の男の言いなりになる気など、瓜生には欠片もなかった。

 瓜生の口は固かった。病院でも斗音や医者が、何度もどうしてこんなことになったのかを訊いたが、いきなりガンつけてきた気に食わない奴と喧嘩をしたのだ、としか言わなかった。
(半年前ならともかく、今の瓜生さんが素手で喧嘩するとは思えないけど・・・・・・)
 斗音は素直に彼の言葉を信じなかった。ボクシングに携わっている彼が、そうそう喧嘩を売ってくる程度のちゃちな人間にやられるとも思えなかったし、ガンをつけられた程度の理由で、本気で鍛えている拳を振るう人間だとも思えなかった。それでも瓜生はそうとしか言わなかったし、彼に言う気がないのだということはよく分かったので、斗音はそれ以上追求しなかった。瓜生が言いたくないのなら、それでいい。もし気が向いたら、話してくれるだろう。瓜生がいつも自分にそうしてくれているように、自分も瓜生にそうしようと考えた。その日の内に事実を知ることになるとは、このときの斗音は思いもしなかった。

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四十二.狂っていく関係

 渡すものか。決して、誰にも。
 もう、待たない。

 まだ間に合う。止めなければ。全てを失う前に。
 ・・・・・・彼を、壊してしまう前に。

 膨れ上がる。飲み込まれる。暴走する。
 手ニ入レタイ。俺ダケノ物ニシタイ。誰ニモ触レサセナイ。俺ダケノ物。綺麗ナ綺麗ナ、俺ダケノ・・・・・・。
 激しく渦巻く中に引きずり込まれてしまえば、もうそれしか見えない。

 心が満たされていく。激しく渇望する。相反する思いに、脳が痺れていく。
 
・・・・・・止メラレナイ・・・・・・。

   ***

 慣れない片手生活の瓜生をできる限り、ギリギリまで手助けして、斗音は帰路についた。
『・・・・・・お前がいてよかった。ほんとに助かった』
 別れ際の珍しく優しいセリフに、嬉しい反面何だか不思議な、違和感のようなものを感じた。
(あんなこと、絶対に言わない人なのに)
 でも、そんなことを言われれば、少しでも助けになりたいと思うのは、斗音だけではあるまい。時間が許す限り、瓜生についていたいと心底思っていた。自分の家の玄関を、開けるまでは。
「お帰りなさい」
 丁寧に頭を下げた三神が顔を上げるのを見て、斗音の胸に訳の分からない不安が胸を突き上げた。
「・・・・・・何・・・・・・その、顔・・・・・・」
 左頬に大きく貼り付けた湿布。それが届かない唇の端は紫色に変色しており、口角は赤黒い。湿布の上からでも、はっきりとその頬が腫れているのが見て取れた。
 薄茶の瞳を驚愕に見開く斗音に、三神は薄く笑みを浮かべた。
「お目汚しでしたか。申し訳ありません」
 言葉に似合わない表情に、ますます斗音は血の気を失っていく顔を強張らせた。
「・・・・・・どうしたんだよ、それ」
 微かに声が震えるのが分かった。嫌な予感が胸を支配する。それを嘲るかのように、三神はゆったりと笑んだ。
「どうしたんだと、思います?」
 まるで楽しんでいるかのように、オウム返しにして、斗音をすっとのぞき込む。斗音は背筋にぞくりとしたものが這い上がったのが分かった。
「・・・・・・喧嘩・・・・・・でも、した?」
「喧嘩だなんて、野蛮ですね」
 くっくっと肩を揺らす。相手が笑えば笑うほど、斗音は全身が硬直していくような気がした。
「ちょっと害虫を見つけまして。これがまた、手癖の悪い虫で」
 斗音の目の前に、大きな湿布を貼り付けた頬を寄せる。
「どうやらボクシングか何かをかじっていたんです。ほら、酷いでしょう?素手で力一杯です」
 びく、と薄茶の瞳が揺れた。不安が的中していたと確信した途端、喉に微かな不快感が生じる。がたがたと激しく震える両手で、自分の口を覆う。
「あなたにつくなんて、分不相応甚だしい虫だ。ですから、二度とあなたに近づかないように言ったんです。ところが、やはり虫は虫、人の言葉が理解できなかったようで、絶対嫌だって言い張るんですよ。さすがに私も嫌気が差しまして」
 うっとりと目を細めて、斗音の涙の幕に覆われた瞳を、その視線で舐める。
「・・・・・・どうしたと、思います?」
 斗音ははっきりと震えながら耳を塞ぎ、小刻みに何度も首を横に振った。
「・・・いや・・・・・・!どうして・・・・・・どうして・・・・・・っ」
 嬉しそうに、三神がうっすらと笑みをその表情に刻む。塞いだ耳元に口を寄せ、わざとゆっくり聞こえるように言った。
「とりあえず、私の顔を腫らしてくれた腕を折っておきましたよ。これに懲りて、二度とあなたに近づかないように」
「・・・・・・嫌・・・・・・!」
 ぎゅっと目を閉じ、耳を塞いだ腕で、頭を抱えるようにしてうつむいた途端、涙が足元で悲しみの華を咲かせた。
 役に立つだなんて、自惚れも甚だしい。それどころか、自分こそが瓜生をあんな目に遭わせた張本人なのだ。
(瓜生さん・・・・・・俺・・・・・・俺は・・・・・・・・・・・・!)
 喉の奥に呼吸を遮ろうとする遮蔽物。濁った咳を数回繰り返して、それでも斗音は、ぐい、と手の甲で唇を拭った。そのままくるりと踵を返し、身体ごとぶつかるようにして玄関の扉を押し開く。
「どちらへ?」
 揶揄を含んだ優しい声音を振り切るように、走り出す。更にわざとらしい明るさをまとった声が投げ掛けられた。
「もう遅いです。お送りしますよ?」
 自分が切る風に、眼から溢れて止まらない雫がさらわれていく。発作が起き始めているのは分かったけれど、それでも止まれなかった。引き裂かれる胸の痛みの方が、ずっとずっとつらかった。
 不気味な三神の言動。突然の暴挙。昨日は久しぶりに、ほんの少しだったけれどまともな会話ができたと思っていた。それが一体、どうして。全然分からなかった。
(瓜生さん、瓜生さん・・・・・・!)

 三神は狙ったのだ。ボクサーにとって必要不可欠な右腕を。より強いダメージを与えるために・・・・・・自分との関係を断とうとしない瓜生の心を潰すために。何よりも、それが斗音の心を苦しめた。

 主人の姿が見えなくなるまで、三神は薄い笑みのまま、それを追っていた。完全に見えなくなると、その笑みを更に深く刻んだ。
 そうだ、行け。あの害虫に、あなたの決意を突きつけてやるんだ。
「・・・ふっ・・・・・・くくくっ・・・・・・あっはっはっ、あーっははは!」
 星空を振り仰いで、高く笑う。
 そして、あなたは帰ってくる。もうあなたの居場所は、ここしかない。

 狂ったように、一人笑い続ける三神を、冷たい白い月が、静かに照らしていた。

 激しい呼吸音に笛のような音が混じる。それでも斗音は、走った。呼吸が苦しくて、時折意識が飛びそうになりながら、ただただ走る。駅の構内を駆け抜け、駆け込み乗車を禁止するアナウンスも耳に入らず、閉まりかけた扉から一番端の車両に転がり込んだ。うずくまって激しく咳き込みながら、一駅やり過ごし、まだ呼吸も整わないまま電車を飛び降りて、家を飛び出してから半時もしないうちに、再び瓜生の家の前に立っていた。
「瓜生さん・・・・・・!」
 ひどく声が擦れて、十一時近い静まり返った夜の中でも、それはそこの住人に届かなかった。思わず、ドンドン、と拳で玄関の扉を、まるで縋りつくように打ち鳴らした。
 その扉が開くまでに、そう時間は掛からなかった。濡れっぱなしの長い前髪を鬱陶しそうに首を振って流しながら、瓜生が顔を出す。怪訝そうなその表情のまま、慣れない左手でそれを押し開けるなり、尋常ではない様子の斗音に息を飲む。
「・・・・・・・・・・・・椎名・・・・・・、お前、何やって・・・・・・」
「・・・・・・瓜生、さん・・・・・・」
 ひどく聞き取りづらい、ほぼ擦過音だけの声。肩から落ちそうになった、羽織ったフリースを引きずり上げながら、瓜生は思わず眉根を寄せた。
「お前、発作起こしてるのか!」
 気管の奥で何かが絡んだような咳をしながら、斗音は首を横に振る。右腕に触れないように、そっともたれ掛かり、瓜生のノースリーブのシャツに額を押し付けた。
「ごめん、なさい・・・・・・・・・、ごめんなさい・・・・・・っ!」
 ヒューヒューと音を立てながら、荒い呼吸を繰り返す斗音の肩を、瓜生は左手でぐい、とつかんだ。
「何言ってんだ、お前。いいから、中に入れ!」
 それにも激しく首を振って、斗音は拒否の意を示す。声にならない声が悲痛に夜気を裂いた。
「俺の・・・俺のせいで・・・・・・大事な・・・腕を・・・・・・!」
 ぴくりと瓜生の眉が険しくなる。
「俺にっ・・・・・・俺、なんかに・・・・・・関わった・・・・・・せいで・・・・・・」
「・・・っ!」
 ぐらりと崩れる斗音の身体を、瓜生はかろうじて左腕で支えた。
「椎名!」
 げほ、と、力ない咳をこぼして、その腕に抱き締められた斗音は、崩れる身体の重心に引きずられるように、頬をシャツにこすりつける。閉じた瞼を縁取るのは、びっしりと涙の粒を湛えた長い睫毛。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 その場に崩れ落ちる斗音に合わせて、瓜生も玄関に膝をつく。細い指が、ひどく震えながらシャツに縋りついた。そのまま、もう一度胸に額を擦り付ける。
「ごめんなさい・・・・・・ごめんなさい・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 ひどくハスキーな声で、弱々しく繰り返す斗音を、薄手のジャケットごと、左腕で強く抱き寄せ、その柔らかいアッシュの髪に頬を押し当てるようにして、ぐっと、その小さな頭を引き寄せた。
「何でお前が謝る」
 それでも斗音は、壊れた人形のように、ただただ涙をこぼしながら、謝罪の言葉を繰り返す。
「・・・・・・・・・・・・ごめんなさい・・・・・」
「やめろ」
「・・・・・・ごめん、なさい・・・」
 つらそうに顔を歪めた瓜生が、思わず痛みを吐き出すように怒鳴る。
「やめろ、椎名!」
「・・・ごめんなさ・・・・・・」
 いたたまれずに、頭を押さえつけるようにしていた顎を引くと、押し付けられた顔の下に潜り込ませる。擦れた声を紡ぎ出す唇を強引に探り当て、無理やり自分の唇を押しつけた。柔らかいそれは、小刻みに震えている。それをあやすように、ゆっくり優しく包み込む。触れた頬に流れた雫で、瓜生の頬も濡れた。
「・・・・・・こんな腕より、お前の方がずっと痛々しい」
 互いの吐息が唇に触れ合う近さで、瓜生はそっとつぶやいた。秋深い夜の空気は、かなり冷えている。風呂上りで濡れていた髪は、既に冷たい。斗音の身体に、この温度がいいはずがない。
「・・・・・・・・・・・・中に入れ。身体に障る」
 それでも斗音は力なく首を横に振った。
「・・・・・・これ以上・・・・・・・・・・・・もう、これ以上・・・・・・」
 濁った咳を混ぜながらの、弱々しい涙声。もう、声とは呼べないほどの音が紡ぐ微かな振動が、空気をわずかに震わせる。その言葉が意味するものを察知した途端、瓜生は胸を抉られたような感覚に襲われた。腕を折られたときから懸念していた、一番恐れていた結果。
 何故知ってしまったのか。本気で好かれたいと思うのなら、あの長身の男も自分がやったなんて言わないだろうとタカをくくっていた。しかし、どういういきさつであれ、斗音は事実を知ってしまった。もう、後戻りはできない。彼は自分を責めて責めて、ただでさえ支えを失ってひどく負担を強いられている精神を、更にぼろぼろに傷つけて、そうして癒されることを諦めるのだ。
 それが分かっていても瓜生は、諦めなかった。左腕と頭だけでできる限り深く、華奢な身体を抱き締める。
「・・・・・・俺は、あんなクソ野郎の言いなりになる気なんか、欠片もねえ。いいか、俺はやられることを承知で、あいつに逆らった。俺は俺の意志で、選んだ」
 柔らかい髪に頬を埋め、耳に唇を寄せた。
「お前からぜってぇ手は引かねえって、決めた」
 びくん、と華奢な背に緊張が走る。上げた瞳には、不安が色濃く揺れていた。
「瓜生さん、俺は・・・!」
「これ以上迷惑掛けられない、なんて言うんじゃねえぞ」
 ほとんど擦過音だけの声を遮られ、斗音は血色のよくない唇を噛み締めた。
「俺が腕と引き換えに選んだ思いを、簡単に踏みにじってくれるなよ」

 ほんの微かな苦笑を含む瞳は、それでも真摯な思いに満ちていた。それを目の当たりにした斗音の瞳はたちまち湧き上がる涙で満たされ、そこからこぼれ落ちる雫は止まることを知らなかった。

 その夜、まるで小さな子猫を抱えるようにして、瓜生は眠った。シングルサイズのベッドは狭かったけれど、それでも大人しく自分の腕に収まってくれた斗音に少しだけ安心して、優しい気持ちに満たされた。慣れない片腕での生活と、その痛みで消耗した精神は癒され、そのまま深い眠りに引きずり込まれた。
 そしてまだ真っ暗な朝の四時。いつものように目を覚ましたとき、隣にいたはずの彼が消えていることに気付いた。反射的に跳ね起き、自分の嫌な予感が当たったことを、その暗い家の中に人の気配がないことではっきりと感じ取る。
「・・・・・・畜生・・・・・・っ!」
 ギプスで固められ、自由を奪われていた右腕が恨めしい。彼を、閉じ込めておけなかった。絶望の檻の中へ、彼が自身の身を投じてしまうのを、止められなかった。己の身の危険よりも、そして瓜生の身を犠牲にした決意よりも、瓜生の身に迫る危険を回避することを選ばせてしまった。
「あの馬鹿!」
 解っている。簡単に踏みにじったわけではない。それだけ自分を大事に思ってくれた結果なのだ。悔しくてやり切れなくて、思わず長い前髪を鷲づかみにして頭を抱えた。

「・・・・・・お前がいてくれればそれで・・・・・・俺は・・・・・・!」

 斗音は腕時計を見た。そろそろ瓜生が新聞配達を始める時刻だ。周りはまだ暗く、街灯もついたままである。こっそり彼の家を出て、ずっと歩いてきた。さすがにこの時間では電車もない。瓜生もバイクが使えないので、追って来られない。
(・・・・・・ごめんなさい)

 ずっと謝ってばかりだった。そうする以外、どうしようもなかった。瓜生が三神の暴力にも屈せず、自分といることを選んでくれたことは、心が打ち震えるほど嬉しかった反面、心が恐怖で縛られた。本気で何かをしでかしそうな、あの不気味な様子の三神が怖かった。
 
自分を包み込むようにして眠る、長めの髪に隠されがちの表情には、苦痛や痛みの色はなく、少しだけほっとした。骨折のこともあり、よほど疲れていたのだろう。深い眠りに心身を委ねている瓜生は、起きる気配を見せなかった。
 
彼の思いを切り捨ててしまうことはつらかった。今一人で帰ってしまえば、瓜生は怒るだろうか。
(絶対に、「馬鹿」だけは確実だろうな)

 瓜生が相手を気遣うときに、必ず使う言葉。じん、と胸が切なくなった。
 
もう二度と、こうしてここに来ることもない。不器用な優しさで癒してくれた先輩。暖かかったこの場所。けれど、だからこそ、これ以上彼に犠牲を払わせることは、耐えられない。
 
彼を起こさないようにそっとベッドを抜け、そして何度も繰り返した言葉を、もう一度、心の中でつぶやいた。切なくて切なくて、涙が幾度も溢れてきた。
 どれくらい歩いたのだろう。既に周りは馴染みの景色に変わり、やがて自分の家の門が見えた。玄関に明かりがついている。
「・・・・・・え・・・・・・?」
 目を凝らすと、門の影にもう一つ、影が見えた。背中を冷たいものが駆け下りる。門柱にもたれていたその影が、ゆっくり身体を起こし、一歩前に進んだ。玄関の明かりにその表情が照らし出される。目が合った瞬間に、そこにすうっと笑みが表れた。
「おかえりなさい」
 心臓がひやりと脈打つ。肌が粟立った。
「・・・・・・ずっとそこに・・・・・・・・・・・・いたのか?」
 声を絞り出す。三神はゆるりと笑みを載せたままうなずいた。
「必ず帰っていらっしゃると、思っておりました」
 ここが自分を追いつめていく檻の中だと、斗音は悟った。もうどこにも逃げられないことを、本能的に知る。思わず胸に掛かった十字架をコートごとつかむ。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・・・・)
 すい、と近づいた三神は、さりげなく肩を抱く。
「遠かったでしょう。すっかり肩が冷えてしまって・・・・・・」
 そのあまりに迷いのない腕に、斗音は言い知れない恐怖を感じた。びくりと固まる斗音を、三神はぐい、と押し出す。
「顔色もよくありません。さあ、早く中に入って温かくしましょう」
 その表情に刻み込まれた薄笑い。全身の血液が凍り付いていくような感覚に、思わず斗音はよろめきそうになった。胸で揺れたペンダントを感じ、再び、心の奥で知らず知らず、慈恩、とつぶやく。
(・・・・・・・・・・・・俺たちはどこで・・・・・・間違っちゃったんだろう・・・・・・)
 そんな斗音の様子を見つめる三神の目が、一瞬不愉快そうに細められた。

 その日から、三神の態度は明らかに変化した。
 
さすがに発作を起こしておいて直後に激しく動き回った上、睡眠もほとんど取らずに寒い中を一時間半も歩いて帰ってきた代償は大きかったらしく、その日斗音は高熱を出した。今度はごまかせる程度のものではなく、しっかり見せようとしてもふらふらと足元が定まらないほどだった。検温のために部屋にやってきた三神は、そんな斗音を優しく抱き締め、抵抗もままならない華奢な身体をベッドに押し倒すようにして、いきなりキスを迫った。
「やっ・・・」
 顔を逸らし、視界が歪みそうな頭痛に堪えながら、必死に逃れようとあがくと、乱暴にむなぐらをつかまれ、唇で噛み付くように強引にキスされた。恐怖で顔を引きつらせる斗音に、うっすら笑んで見せる。
「どうしたんです?あなたが私の力に、敵うはずがないじゃないですか。今更、その顔はないでしょう」
 くつくつと肩を揺らして笑う三神に、斗音の心臓は凍りついた。
「さあ、これだけ熱いんですから、今日は学校を休んでもらいますよ。とりあえず、熱を測りましょう」
 パジャマのボタンを外すと、胸には十字架のペンダントが掛けられている。それが目に入った途端、三神の表情は硬くなった。不快そうに眉をしかめると、荒々しく肩からパジャマを引き下ろした。脇に体温計を挟ませてからも、それが検温終了の合図を鳴らすまで、晒された肩や背を大きな手が何度もなぞっていった。まるで蛇に睨まれた蛙のように、固まったまま動けないその三分間が、斗音には気が遠くなるほど長かった。
「三十八度九分。この調子では、まだ上がるでしょうね。沢村には粥でも作らせますから、それを食べたらちゃんと薬を飲んでください」
 パジャマを元に戻しながらそう言った三神に、斗音は思わず自身を抱きしめるようにしながら問うた。
「何か、あった?」
 三神が精悍な眉を軽く上げる。ごくりと唾を飲み込んで、斗音は覚悟を決めたように深く息を吸った。
「・・・・・・土曜日に家を出るとき、話をしただろ?そのときは・・・・・・いつも通り、だった気が、したんだけど」
 おずおずと視線を合わせる。
「・・・・・・何か、違う。表情を、作ってるみたいな・・・・・・。それに・・・・・・瓜生さんの腕を折ったり、今も・・・・・・」
 途中で、三神がくすっと笑った。おかしそうに片眉だけを上げる。
「力尽くでキスをした、と?」
 びく、と怯えたように身をすくめながら、斗音は小さくうなずいた。三神はまた笑った。今度は嘲笑とも憫笑とも取れるものだった。
「待ちくたびれたんです。どんなに想っても、あなたは私を避ける。そして、私以外の人間にその心を奪われていく。それでもあなたを傷つけまい、壊すまいと思って、私は待ち続けた。でもあなたはそんな私に見向きもしない」
 ベッドにぺたんと座り込む斗音の柔らかい髪に、大きな手を差し入れ、くしゃっとつかむように乱す。
「このまま待っていても、あなたは離れていくばかりだ。そうなると、あなたの心を奪っていく人間を排除し、あなた自身が私の元へ帰ってくるようにするしかないでしょう?でもこれで、もうあなたはどこへも逃げられない」
 すい、と顔が近づく。三神の息がかかる近さだ。
「逃げられないのなら、あとは力尽くで私のものにするだけだ。あなたが傷ついて壊れてボロボロになったとしても、私を見て、私を受け入れてくれさえすればいい」
 はっきりと斗音の身体が震えた。その耳元に唇を寄せ、三神は笑いを含んだ声で囁いた。
「大丈夫ですよ。今は、さすがに無茶はさせられません。時間はたっぷりあるんです。急ぎませんから」
 斗音は耳に暖かい息を感じ、次の瞬間耳朶をざらりと濡れたものが這いずるのに、身体を硬直させた。
「心の準備だけ、しておいてくださいね」
 息が止まるかと思った。熱に浮かされて、悪夢を見ているのだと思いたかった。それなのに、感じる呼気の熱さも舌が這う感触も、確かに現実で。
(・・・・・・助けて・・・・・・慈恩・・・・・・・・・瓜生さん・・・・・・っ)

 自分の見ている現実世界を振り払おうとするかのように、胸の十字架を握り締めるのと同じくらい、ぎゅっと固く、目を閉じた。

 はっきりと宣戦布告された斗音の精神は、己の身体に一睡すら許さなくなった。起きていてすら敵う相手ではない。そんな中で自分が一瞬でも隙を見せれば、悪夢が現実になるだろう。自分の身体が回復するまで無茶はしない、と言った三神の言葉も暗示になっていた。数日間、斗音は三十九度を越える高熱に苛まれ、それでも眠ることも叶わず、体育祭から一ヶ月かけて回復してきつつあった身体はたちまち衰弱していった。
 そんな斗音を唯一支えたのは、携帯を通じて届く、自分を思ってくれる人たちからの声だった。最も頻繁にメールや電話をよこすのが瞬、次に翔一郎。嵐はメールより直接話そうとすることが多かったので、勘の鋭すぎる彼に精神的なダメージを感じさせないように振舞うのは一苦労だったが、それでも彼がついていてくれるというのは、心細い現状において、かなり心強かった。
 九条夫妻からも時折メールが届いた。絢音の方は携帯に、雅成は必ず週に一度パソコンにメールをくれた。絢音は慈恩の様子を教えてくれたし、雅成は斗音を気遣い、様子を知らせてくれるようにといつも添えられていた。慈恩本人からも、調子は良さそうだとメールが来た。本当は電話が掛かってきたのだが、どんなに元気な振りをしても、慈恩にはばれる気がして、通話ボタンを押す勇気が出なかった。
 四日間連続で欠席することになってしまった斗音だったが、四日目の夕方頃にようやく熱が三十八度前半までひいてきた。そしてその日はさすがに心配した人が多かったらしく、いつもの仲間たちに加え、今井や理沙からも電話があった。
「大丈夫なのか?お前が四日も休むなんて、よっぽどひどいんじゃないのか?まあ、今はそんなに忙しくないから、ゆっくり休むには丁度いい。絶対無理するなよ」
「斗音くん、大丈夫?喘息?あ、熱があるの?無理しちゃダメだよ?執行部も、今はそんなに仕事に追われてないし。この際だから、しっかり身体を休めた方がいいわ」
 ほとんど同じ内容で連絡してくる二人は息が合っているというか、さすがだと思ったが、なぜ二人して同じ内容の電話を掛けてくるのか、不思議でもあった。
(お互いちゃんと連絡取り合ってるのかな、この人たち)
 ぼんやりとそんなことを考えていると、更に意外な人物から掛かってきた。一瞬信じられなくて、目を疑ったが、三秒も着メロが流れると正気に返って、慌てて出た。
「はい」
『・・・・・・・・・・・・』
 返事のない相手に首をかしげ、電波の状態が最良であることを確認する。
「あの、もしもし?」
『もしもし、じゃねえ。この、馬鹿』
(あ、やっぱり)
 愛想の欠片もない声で自分の想像通りの言葉を聞いて、おかしいくせに胸を締め付けられるような気がした。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・怒ってます?」
『・・・・・・当たり前だ。無茶しやがって』
「・・・・・・ごめんなさい。でも、俺には、ああすることしか考えられませんでした」
『だから、馬鹿だって言ってんだろうが』
「・・・瓜生さん・・・・・・」
 互いに沈黙が流れる。数秒後にそれを破ったのは、つぶやくような瓜生の声だった。
『・・・・・・・・・・・・調子、悪いのか』
 全て知っている瓜生には、正直に答える。
「あまりいいとは、言えませんね。でも、今日は少し熱が下がりました」
『・・・・・・・・・・・・あいつに、何かされてねえか』
「・・・・・・はい、今の、所は」
『・・・・・・・・・・・・そうか』
 ほっと、小さく吐息したのが分かった。心配してくれていたのだと実感する。無性にあの居心地よい場所が恋しくなった。会いたい、と壮絶に湧き上がる気持ちと、もう絶対瓜生を頼ってはいけないという理性が激しく葛藤する。切羽詰ったところまで来ている精神には、あの癒しがこれ以上なく甘美な誘惑となって、斗音の理性を大きく凌ぎ、膨らんでいく。それでも斗音の強い理性は最後の一線で、自分の決意を守ろうとしていた。
「あなたから掛けてくるなんて・・・・・・珍しいですね」
 弱気になっている自分を叱咤しながら、何気なく会話をつなぐ。ところがそれに、思わぬ強い反応が返ってきた。
『・・・・・・あんなふうに消えといて、そのあと四日も姿が見えなきゃ、誰でも気になる。その上、連絡のひとつもよこさねえで・・・・・・・・・・・・俺が心配しちゃ悪いか』
 やや躊躇って聞こえた低い声は、斗音の理性を打ち砕いた。
『・・・・・・会いたいと思っちゃ・・・・・・悪ぃかよ』
 たちまち溢れた涙が枕と携帯を濡らした。擦れた声が、震える。

「・・・・・・・・・・・・会いたい・・・・・・・・・・・・俺も、会いたい・・・・・・」

   ***

 翌朝、斗音の体温は三十七度台に下がっていた。三神も驚きながら、少しほっとしたようだった。それでも登校の準備を始めた斗音にはかなり慌てた。
「せっかくここまで熱がひいたのに、何をしているんですか。今ここで無理をしたら、また寝込む羽目になりますよ」
 華奢な腕をつかんで、真剣な表情でそう言った三神に、斗音は分かるか分からないかくらいの微笑を見せた。
「俺としては、回復しない方がいいからね」
「・・・・・・斗音、さん・・・・・・」
 三神は息を飲んだ。頸を傾けるようにして、斗音はそんな使用人を見上げる。
「回復したら、無茶させられるんだろ?俺にはそんな覚悟、できないから」
 つかまれた腕を振り解くと、三神の表情が歪んで、斗音はそれから目を背けた。
「明日のためにも、身体を慣らしておかなきゃ」
 カッターシャツの上から学生服を羽織る。それを背後から三神が抱き締めた。ぞくりと背筋に寒気を感じる。
「・・・・・・言ったでしょう?あなたの力で私に敵うはずがない。絶対に・・・・・・行かせるものか」
 きつい腕の拘束は、腕をつかまれたときのように、容易く振り払うことはできなかった。身動きすら取れない。斗音はそっと溜息をつく。
「・・・・・・じゃあ、どうしたらこの腕をほどいてくれる?」
 耳に暖かい息とともに囁きが届く。
「今日は休むと、約束をしてください」
「・・・・・・それ以外では?」
「以外は、ありません」
「・・・どうしても?」
 悲しそうな声に、青い溜息。三神は折れてしまいそうな身体をぎゅっと締め付けた。
「あなたを金曜日に手放すと、帰ってこないかもしれない。また気が遠くなるほど探すんですか?・・・・・・あなたを奪っていく人間を、私は決して許さない。あなたを傷つけると分かっていても。もうそんな思いはしたくない。帰ってこないあなたを待つのは、もう嫌だ」
 首筋にこすりつけられる頬や唇。斗音は息を止めて、自分を閉じ込める腕にそっと手を掛けた。
「・・・・・・・・・帰ってくる。帰って、くるから」
「信じられません。この一ヶ月間、あなたはほとんど帰ってこなかったじゃないですか」
「放してくれるなら・・・・・・絶対帰ってくる」
 三神の想いを逆手にとって、斗音はそう言った。どのみち瓜生の家に行ったりしたら、瓜生が危険だ。それ以外の人の家に、軽々しく泊まり歩く気もない。三神の腕が、これでもかというほど斗音を抱きすくめた。
「・・・・・・話をすり替えるなんて、卑怯です」
「・・・・・・放してくれるの?くれないの?」
「斗音さん!」
「・・・・・・どっち?」
 有無を言わせず選択を迫る。三神はしばらく沈黙した。どちらがより強い願いなのか、斗音は分かっていた。三神が出す答えも。
 ややして、苦しげに三神が声を絞り出した。
「・・・・・・・・・・・・約束を、してくれますか。必ず、帰ってくると」
「・・・・・・するよ」
「だったら・・・・・・約束の証を下さい」
「・・・証・・・・・・?」
 ぐん、と引っ張られて、次の瞬間には三神と向き合っていた。悲痛なほど真剣な黒い瞳が、斗音を捉える。
「あなたが私を裏切らないという、私が信じられる証を」
 少し困って、斗音は首をかしげる。
「どうしたら、信じてくれる?」
「・・・・・・そうですね。例えば」
 三神の真剣だった表情が、突如薄い氷のような笑みに変わった。
「私に、キスでもしてみますか?あなたが怖くて仕方ない私に」
 斗音の柳眉が寄せられる。その前で、三神は片目を眇めるようにしてふっと笑った。
「それができたら、信じますよ。でも、できるはずがない。あなたは」
 妙に饒舌に喋り始めた三神に、斗音は無言で半歩近づいてその肩に手を掛けた。
「・・・・・・!」
 軽く背伸びした足を、ストン、と地に付ける。薄茶の瞳がじっと三神を見つめた。
「・・・・・・行ってくる」
 鞄とスクールバッグを引っ提げ、斗音は足早に部屋をあとにした。
 部屋に残された三神は呆然と目を見開きながら、斗音の唇が押し付けられた頬にそっと手を触れた。そして小さく苦笑した。
「ほっぺにキスなんて、子供じゃあるまいし」

 そう独語して、指で目頭を押さえた。

「斗音!もういいの?何かまだ顔色悪いけど・・・・・・?」
 真っ先に瞬が声を掛けてきた。翔一郎も驚き顔だった。
「ほんとだ。顔色も悪いけど、たった四日でげっそりした感じがするぞ」
 バスケット部の朝練、もちろん参加することはできない。見学だけのつもりだったが、嵐には小突かれた。
「昨夜(ゆうべ)まで熱があったんだろうが。そんなときくらい、朝練サボれっての」
 家を早く出てきたかったなどと、言えるはずはない。苦笑してごまかした。
「生徒会の人たちも心配してたよ。どうせ見学するつもりなら、生徒会室に行ってみたら?今は芸術鑑賞会と百十周年記念の企画やってるんだろ?今年の芸術鑑賞会って、何観るの?」
「なんせ公立だから、あんまりお金は掛けられないんだよね。でも、みんなのアンケート結果でマジックショーってのが多かったから、いろんなところ探して交渉してるところ。見つからなかったら、オーケストラとかピアニストとか、音楽関係も当たろうっていう話が出てたけど」
 瞬の質問に答えながら、斗音は立ち上がった。翔一郎がアップにボールをハンドリングしながら爽やかな笑みを見せた。
「生徒会室に行っても、無理すんじゃないぞ」
「うん。ありがと」
 まだ高熱の名残があるのか、足が地に付かないような不安定さを感じていたが、生徒会室では早速それを見破られた。
「お前、明らかにまだ本調子じゃないな」
 今井の第一声は、心配という色に染められていた。既に部活を引退している三年生が集まる中、珍しく後期からの新顔が顔を出していた。
「・・・・・・えらく顔色悪いですよ、副会長」
 一年生ながらに野球部のエースを務める氷室煉(れん)。体育祭でも大活躍した生徒だった。礼儀正しくないわけではないが、どこかクールな印象がある。背も高く、よく日に焼けている。

「珍しいね、氷室。朝練はいいの?」
「昨日放課後ちょっと投げすぎて、今朝は休むように言われたんで」
「そっか。大事な腕だからね」
「はあ、まあ」
 やや目を逸らして、口を尖らせるようにして頬を掻く。照れても笑わないところが、彼らしい。
「とか何とか言って、調子が悪いのごまかそうったってそうはいかないぞ」
 やれやれ、と軽く吐息しながら今井が斗音を笑いながら睨む。
「あ、ばれました?」
「バレバレだ。氷室も、ごまかされんな。こいつ、自分のことになるととことん無頓着になるんだから」
「はあ・・・気をつけます」
「さてと、じゃあこの四日間で進展したことを斗音に教えて、早速手伝ってもらうとしようぜ」
 武知がまとめた資料を斗音に差し出した。
「何せ交渉可能の団体がかなりあるんだからな。そろそろ本決めしねえと」
「そうだな。じゃあ、昨日までに連絡がついて色よい返事が来たところの中で、費用とステージ内容の検討といこうか」
 生徒会室はにわかに活気付いた。

   ***

 薄暗い階段。部活に出られるようになってからは、あまり来なくなっていた。帰りは専ら駅の近くのCDショップで待ち合わせるようになっていたのだが。
「・・・・・・やっぱり、ここでしたね」
 薄暗い中で、人影が動いた。右腕を白い布で吊って肩から制服を羽織った姿が、近づくにつれ、次第にはっきりしてくる。
「外で見られちゃ、まずいだろ」
「・・・・・・・・・・・・あいつにだけは、まずいです」
 大きな左手がひんやりと頬に触れる。
「・・・・・・お前・・・・・・」
 言うなり瓜生の顔が近づいて、心地よい涼感を伴って額が合わされる。瞬間斗音は、目を閉じた。
「・・・熱い。まだ熱があるだろう」
「朝は、微熱程度まで下がってたんです」
 苦笑を浮かべた斗音を、片手でそっと抱き寄せた。
「・・・・・・自分を犠牲にしやがって」
「・・・・・・・・・・・・」
 犠牲。それを最初に選んだのは、瓜生だった。そのために、こうしてまだ右腕の自由を奪われている。医者の診断では、完治に一ヶ月ほど掛かるのではないかということだった。
「・・・・・・また・・・・・・・・・痩せた」
「ちょっと熱が、続いただけです。あと・・・・・・眠れなかったから・・・・・・」
 瓜生の片腕が、更に華奢な身体を絡め寄せる。右腕の代わりに首を伸ばして頬を押し付けるように、小さな頭を抱き寄せた。
「・・・・・・馬鹿。・・・・・・無理ばっか、してんじゃねえよ」
 斗音は胸の内に溢れんばかりの切なさを感じて、思わず持っていた荷物をどさりと落とし、その腕を瓜生の背に回した。鍛えられた身体に、力が入らない腕でしがみつく。
「・・・・・・どうしても、会いたかったんです。でなきゃ俺、おかしくなりそうだった」
 精神の限界。瓜生の癒しが欲しかった。不器用な優しさに、触れたかった。そのために、多少の熱を押して学校に来ることなど、何の苦痛でもない。
「わがままだなんて、百も承知です。あなたの腕を振り切るような真似をしておいて・・・・・・それなのに・・・・・・」
「ここで会うのに、何の問題がある?ここなら奴には見つからない」
「だけど、俺は・・・・・・」
 言いかけた斗音の髪を、頬を擦り付けるように撫でる。
「いいから黙ってろ。・・・・・・・・・・・・何も考えなくていい」
 じわりと斗音の目頭が熱くなって、いともたやすくこぼれた雫が瓜生の制服を濡らした。
「・・・・・・下校時間まで、まだある。少し、休め」
 低く静かにつぶやくや否や、抱き締めた華奢な身体から一切の力が抜けた。膝が折れ、背に回されていた腕がゆっくり滑り落ちる。まるで人形のように腕がぶらりと下がり、頭がカクンと仰向けになる。溢れたばかりの涙がこめかみを伝ってアッシュの髪に吸い込まれた。
「・・・・・・椎名・・・・・・?」
 そっと呼んでも、全く反応はない。完全に気を失っているのが分かった。片手で支えるのは、さほどきつくなかった。ぎゅっと抱き締めてから、そっと壁にもたれさせるように、その身体を下ろした。薄暗い中で、顔色は尚悪く見える。ギリギリの精神力で、ここまで耐えてきたのだろう。高熱にうなされながら、それでも眠らずに、自分を脅かす脅威に神経を尖らせて。それがどれだけ心身に負担を掛けていたことか。
(こんな細ぇ身体で・・・・・・飯もろくに食えねえくせに・・・・・・・・・・・・)
 自分の薄っぺらな鞄を枕代わりに、身体を横たえてやる。自分の学生服を脱いで斗音に掛け、左手で乱れた柔らかい前髪をそっと撫でた。血色の悪い顔を見つめながら、ふと思う。
(・・・・・・右腕が使えたら・・・・・・このまま連れていけるのに・・・・・・)
 もちろん、自分の家は危険なのだろう。あの危ない男はきっと帰らない斗音を探しに来る。だったら多少金を使ってでも、あの男に見つからないホテルやネットカフェなどに逃げ込むのが得策かもしれない。まだ人の金で遊ぶことを愚かだと思えずにいた頃、何度も夜に遊び歩く女子高生や女子大生を引っ掛けて、一夜限りの関係で気を晴らしていた。当然、その関係を引きずる気は一切なかったので、彼女らを家に招くようなことはしなかった。それゆえ、足がつかず、かつ一晩を凌ぐための手段や場所について、瓜生は困らないだけの引き出しを持っていた。褒められた引き出しではないだろうが、そんなものにすら、縋りたい気分だった。
 
しかし、そうしたところで何の解決にもならないことも、瓜生は嫌というほど分かっていた。あの男の異常な執念が牙を向けるのは、最終的に自分ではない。この、ギリギリのところで耐えている、華奢な少年なのだ。
(どうしたらいい・・・・・・?お前を・・・・・・・・・・・・救ってやりたい・・・・・・)
 このままでは壊れてしまう。その崩壊を食い止められるのは。
(・・・・・・望みがあるとしたら・・・・・・あの、弟か。・・・・・・明日無事に・・・・・・会えるといい)
 複雑な思いではあった。それでも今の瓜生に、斗音が救われること以上の望みはなかった。

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四十三.悲鳴

 斗音の意識が現実を捉えたのは、既に周りは薄暗いという表現を通り越し、真っ暗というのがふさわしい頃だった。
「・・・・・・?」
 濃い群青の星空が見える。ぼんやりと視線を逡巡させ、ぼんやりする思考回路の中で、今の自分の状況をめまぐるしく理解しようとしていた。
「・・・・・・気付いたか。寒くないか?」
 ぼそりとつぶやくような声がして、はっと身体を起こす、つもりが、力が入らなくて起き上がれなかった。背を支えてくれる腕に助けられて、ようやく上半身を起こすことに成功する。同時に自分に何かが掛けられていたことを知る。それが肩から落ちたことで、一挙に肌寒さが押し寄せて、思わず自分を抱きしめるようにした。
「・・・さむ・・・・・・」
 言った途端、後ろから抱き締められた。背にぬくもりを感じる。
「悪い。校舎が締められちまったから、とりあえずここに運ぶのが精一杯だった」
「・・・・・・・・・・・・屋・・・・・・上・・・・・・?」
「ああ・・・・・・。一応ここからなら、非常階段に飛び移って降りることもできる。でも、誰にも見つからねえようにお前を校舎の外へ出してやることができなかった」
 起こしてくれればよかったのに、と、斗音は苦笑するが、疲れ切って意識を手放した自分を、瓜生は一分でも一秒でも長く休ませようとしてくれたのだろう。その優しさが、心に染み渡る。そもそも眠っている自分を、片手しか使えない彼が屋上まで運ぶのだって、大変だったはずだ。それに、自分に掛けられていた制服。既に外気はかなり冷えてきているのに。自分に絡みつく左腕と、添えられる右腕にそっと指を掛けた。
「ありがとうございます。・・・・・・おかげで、久しぶりに眠れた」
「・・・・・・寒いんだろ。熱が上がっちまったかもしれねえな・・・・・・」
 まるで自分を責めるように言葉を紡いだ瓜生に、ほんのり微笑む。
「こうしてると、温かい」
「ば・・・・・・っ」
 背に寄り添ってくれていたぬくもりが一瞬で遠のく。馬鹿野郎、と吐き捨てる声が聞こえた。斗音はそっと後ろを振り返る。
「・・・・・・怒りました?」
 不機嫌そうに眉間にしわを寄せる瓜生が映る。
「からかってんじゃねえ」
「まさか」
 心外であるという思いを見開く瞳で表してから、ぎこちなく笑った。
「ほんとのことですよ」
 だが背筋がぞくりとして、次の瞬間には再度自分を抱え込むようにする。つん、と込み上げる思いに、視界が歪んだ。自分でも分からなかった。寂しくて、涙が零れた。
「・・・・・・あったか、かったです」
 明らかに戸惑いを含んだ声が、耳元でぼそっと聞こえた。
「だから・・・・・・なんで、泣くんだよ」
 精神的にかなり弱気になっているんだろう、と、斗音は思った。自分でも分からない。瓜生が離れたのが寂しかったのだ。でも、再びふわりと抱き締められたら、もっと泣けてきて、自分で自分が解らなくなった。
「・・・・・・泣くな・・・」
 温かい吐息が耳朶に触れ、そのすぐ下に温かくて柔らかいものが押し当てられた。それが少し強めに吸い付いたことに驚く。
「瓜生・・・さん・・・?」
「・・・・・・つらかったら呼べよ。いつでもどこへでも行ってやるから。・・・・・・我慢して溜め込むんじゃねえぞ。駄目だと思ったら、思い出せ。俺はいつでも・・・・・・」
 左腕に、ぎゅっと力が込められた。
「・・・・・・こうしてお前を、暖めてやることくらいは、できるから」
 見開いた薄茶の瞳を、斗音は微かに眇め、それからゆっくり瞼を落としてうなずいた。瓜生がそっと残した痕は、約束の証なのだと理解する。今度は嬉しさと切なさで、ハラハラと涙が頬を転がっていく。照れ屋で、そんなこと絶対にしないような人なのだ。それを押して、精一杯に自分を支えようとしてくれる気持ちが、どうしようもなく嬉しかった。
(やっぱり・・・・・・会ってよかった)
 切れる寸前まで削られていた神経が癒されていく。これでまた少し、耐えられる。少しはマシな顔で、慈恩に会うことができる。この支えがあると思うだけでも、きっと強くいられる。

 そう、思った。

   ***

 充実した気持ちを胸に、桜花高校剣道部が試合前最後の練習を終えた。
「この二週間、ほんと、くったくたに疲れたけど、滅茶苦茶気分いい練習だったよな」
 シャワーを浴び、髪から滴る雫を首に掛けたタオルに吸わせながら、和田が大きく伸びをする。慈恩より唯一背の高い鳳がにこりと微笑んだ。
「解るよ。自分で上手くなってるのが分かるんだ。昨日の自分より今日の自分、そしてきっと明日は今日より強くなれる。そう思うから、つらくてもやりがいがあるって言うか」
「ほんとにな。たった一人の影響で、ここまで変わるとは、実際思ってなかった」

 自分の髪をわしゃわしゃとタオルで拭いながら、和田は慈恩に視線をやる。同じくシャワーを浴びたばかりの近衛に、今日の練習で気付いた竹刀の運び方について指南しているようだ。
 
傍目から見ても、入部して二ヶ月のエースは機嫌が良かった。あまり感情をおおっぴらに表すキャラではないが、それでも笑顔が増えたし、積極的に一人一人の技術の向上を手助けしていた。だからこそ、一人一人がこれだけの充実感を味わえたことは間違いない。
「剣道って、面白いと思ったよ。あの地区大会のとき、如月と対戦して初めて、すごくそう思った」
「ああ。俺もだ」
「近衛もちょっと、変わったよね」
「ああ・・・・・・そうだな」
 二人して思わず笑みをこぼす。何やらしかめ面をしながら、慈恩のやって見せる腕の動きに合わせて、近衛は首をかしげつつうなずいている。全体に話をしたり教室にいたりするときは、相変わらず鉄面皮の彼だが、剣道部の仲間と一対一で話をするときは少し砕けた言葉遣いをするようになったし、表情も豊かになりつつある。それが慈恩の前だと顕著に現れる。
「和田も変わったよ」
「は?俺?」
 突然自分に話の矛先を向けられて、和田が目を見開く。鳳は優しく微笑んでいる。
「うん。時々あの二人に対して刺々しくなってたことがあったし、気がのらないと投げやりになったりするところがあったけど、そういうのがなくなった。今までは、良くも悪くもムードメーカーって感じだったけど、今はいい意味でほんとにムードメーカーだよ」
 ちぇ、と和田は苦笑いした。
「自分がつまんないことにこだわってたことは、分かってるさ。自分でも恥ずかしいと思ってんだから、面と向かって言うなよ」
 くす、と鳳は笑う。鳳は紳士的で上品なところがある。やはり育ちがいいのだ。慈恩から厳しさや必要以上の冷静さを抜いて柔和な優しさを加えると、こんな感じになるかもしれない。東坊城に追いつきそうな勢いで、剣道も上達してきている。それを見ていると、負けていられないという気分になる。もちろん、慈恩に一番近い近衛もどんどん成長している。実力的に行けば、自分が団体戦の五人に入れるかどうかはギリギリのラインだった。強くなりたい、と思って、必死に頑張った二週間だった。
「なあ、近衛。お前ほんとに良かったのかよ。部長なのに副将なんて、今までの桜花にはありえない配置だぜ?」
 今回も控えにすら入れなかった伏原が、ややからかい半分に言う。三年生に兄弟がいたせいか、他の部員より少し、伝統とやらにこだわる一面が見られる。近衛は軽く眉を上げ、それからふっと笑った。
「そんなものにこだわる気はない。大体、部長だから大将、副部長だから副将なんて機械的な配置で、勝とうと思う方が甘い」
 コーチからの助言を、睦田は受け入れざるを得なかった。慈恩を使うな、と、例え鷹司に言われていても、今度それをやったら今いるメンバーと確実に衝突する。慈恩に成果を残させてしまったのは自分であり、その慈恩を非難することは、鷹司にできたとしても自分にはできない。睦田の希望の光はただひとつ。関東大会は強豪ばかりだろうから、きっと勝ち抜けはしまい。その一点だった。
 よって、関東大会のメンバーは先鋒和田、次鋒東坊城、中堅鳳、副将近衛、大将慈恩。東坊城が次峰についたのは、精神的プレッシャーのない中で、自分の実力を発揮して勝つためであった。実力的にはそこそこのものを持っているのだから、次峰でなら活躍できるはずである。というのが、コーチの思いだった。東坊城も、喜んでその配慮を受け入れた。
「遂に明日か。どこまで俺たちが通用するようになったのか、思い切り試してみたいよ」
 ぎゅっと拳を握って、挑戦的な視線を向ける近衛に、慈恩は笑ってうなずいた。
「そうだな。・・・・・・絶対勝とう」
 強気な発言は、慈恩にしては珍しかった。
(勝ちたいんだな・・・・・・あいつ。何かすごくいい顔してやがる)

 和田は思わず、つられるように笑っていた。

   ***

「お帰りなさい」
 そう言って迎え出た三神は、少し暗い表情だった。
「ずいぶんと、遅かったんですね」
 心臓がひやりとしたが、斗音は軽く吐息して呼吸を整えた。
「四日も休んでたんだ。ずいぶんやることが溜まって、どうにもならなかった。学校出てから生徒会の面子でファミレス会議だよ。でも、ほとんど何も食べてないから」
 靴を脱ぎながら玄関を上がり、三神の脇をすり抜けながら続ける。
「・・・食べられる分は、家で食べようかと思って」
「斗音さん・・・・・・」
 後ろから返ってきた声は、ひどく安堵したような、そして喜びの色を含んだようなものだった。斗音は胸を少し、痛めた。
 沢村の準備してくれたものは、具合が悪い斗音のためのさっぱりした料理だった。たくさんの野菜をたっぷり煮込んだポトフ、薄味の五目御飯、海藻サラダ、アサリの酒蒸し。それぞれ一口二口しか手がつけられず、残すのが心苦しくて三神に押し付けようとしたが、さすがに三神も二人分を片付けるのは無理だった。
 食事が終わった頃には既に九時を回っており、まだ熱がひき切っていない斗音に、三神はすぐ休むよう進言した。本当は四日分の授業の復習など、瞬や翔一郎が取ってくれたノートを見直したい思いはあったが、明日慈恩の試合を観に行くためにも、今日は絶対に無理をしたくなかった。言われるままに風呂に入り、早々にベッドに入った。そこへ、いつも通りノックの音。
「斗音さん、入りますよ」
 ベッドで身を起こすと、静かに三神が入ってきた。反射的に背筋が寒気を訴える。熱のせいばかりでは、ない。それをごまかすように、斗音は三神に手を伸ばした。
「貸して。自分で計る」
「・・・・・・駄目です。明日出掛けられるとなると、あなたの性格だ。少しでも熱を低く見せておきたいと考えるでしょう?」
 冷静に三神が返す。分かっている。何度自分でやると言ったことか。それでも絶対にやらせてはくれない。
「絶対ごまかさないから」
「これは私の仕事です。わがままを言わないで下さい」
 ベッドにギシ、と腰掛けながら、慣れた手つきで体温計をケースから取り出す。こんなふうにベッドに図々しく腰掛けるようになったのも、様子が変わってからのことだった。熱で朦朧としていた四日間の間は、キス以上のことはされなかった。それでも、三神が近づいてくると自然に身体が硬くなる。躊躇わない三神の手が肩に触れ、襟元からこれも慣れた手つきでボタンを外していく。三つ外したところで左肩からパジャマをするりと落とし、体温計を挟む。外に晒された白い肌を、三神の指がゆっくり滑っていく。ぞわりと腕に鳥肌が立った。三神の指は首筋をなぞり、鎖骨をなぞり、肩を撫で、抱き締めるように背に手の平を這わせる。
「・・・・・・三神・・・・・・やめ、て」
 強く拒否すれば、何をされるか分からない。それでも、息が詰まりそうになるほどの恐怖におののきながら、斗音は三神のしっかりした胸板を弱く押し返した。それに応えるように、腕はそのままに軽く身体を離した三神は、微かに震える斗音の唇を、そっと人差し指でなぞった。
「どうしてそんなに・・・・・・震えるんです?」
「そ・・・そんなふうに、触ら、ないで」
「・・・嫌だ、と言ったら?」
「・・・・・・お願い・・・・・・」
「・・・・・・嫌です」
 噛み付くように唇が塞がれた。強く押し付けられる唇に、斗音は眉根を寄せ、ぎゅっと目を閉じる。無意識のままに右手で胸に掛かるクロスを握り締めた。
 三神は強く押し付けながらもゆっくり味わうようにキスを続ける。それはまるで斗音の緊張を解きほぐさんとするかのような行動だったが、斗音の小さな震えはおさまらず、身体も緊張でがちがちに固まっていた。その緊張の時間を、体温計の電子音が打ち破った。それを合図に三神は斗音から離れ、体温計を抜き出す。そっとあとずさるようにしながら、斗音は自分ではだけたパジャマを引き上げる。
「・・・・・・三十八度三分。やはり朝より上がってますね。無理をするからです」
 体温計をケースにしまうと、三神はそっと斗音の首筋から髪の下へ手を差し入れた。
「朝にまだ熱が下がらないようなら、明日の外出は控えていただきます。・・・・・・ゆっくり休んでください」
 髪ごと小さな頭を抱き寄せるようにする。振り払いたい心境を、斗音は必死で堪えた。早く離れろ、と心の中で何度も唱える。ところが、なかなか離れない。
「・・・・・・?」
 ぎこちない三神の吐息を、耳のすぐ傍に感じる。心なしか、その呼気が微かに震えている。
「・・・・・・あの害虫と、会ったんですか?」
 突然鼓膜を震わせた言葉に、斗音の心臓が凍りつく。三神の声が、はっきりと震えていた。
「あの男に、あなたは何をさせたんです?」
「何って・・・・・・お前、何言ってるの?分からない」
 差し入れられた手に、乱暴に髪をつかまれ、痛さに顔をしかめながら、斗音は唇を噛んだ。蛍光灯の光に、首筋が晒される。
「目立たないからごまかされるところだった。・・・・・・どうしたら、こんなところにこんな痕が残るんですか?」
 ぞくりと背に寒気が駆け抜ける。あんなふうにわざわざ脱がせて検温をしようとする理由。触れるだけではない。見られていたのだ。自分の身体に、他の人間が触れていないかどうかを。
「何もなしで、こんなところにキスはしない。・・・・・・何をさせたんです?何を、何を!」
「何もしてない!ほんとに!」
「嘘だ!またあなたは私を裏切る!」
「裏切るも何も・・・・・・ちゃんと帰ってきただろ?本当に何も・・・・・・!」
「嫌だ!もう嫌だ!あなたの言うことは信じられない!」
 髪をつかんだ手で斗音を乱暴に引き寄せ、瓜生のつけた微かな痕に、三神の唇が強く吸い付く。
「や・・・っ」
 思わず三神を突き押すが、その鍛えられた体躯はびくともしない。しかも、その行動が三神の矜持を傷つけた。
「っ・・・痛・・・・・・っ!」
 吸い付かれた部分に鋭い痛みが走る。歯が皮膚をぶつりと突き破る感触。そこからようやく顔を浮かせた三神の、唇には血が鈍く光り、眼には絶対零度の怒りが満ちていた。
「あの男がつけた痕を消されるのが、そんなに嫌ですか」
 怖い、と思った。怖くて、動けなかった。まるで金縛りにでも掛かっているかのように、呼吸すらつらかった。そんな中で、必死で声を絞り出す。
「そんなこと、思ってない・・・・・・思って、ない・・・・・・!」
 その言葉が、三神の心に届かなかったことは、すぐに理解できた。牙をむいた野獣のように、三神は乱暴に斗音をベッドに押し付けていた。
「全部消してやる。あいつの痕跡を、全て塗り替えてやる!」
 まだボタンが外れたままのパジャマを、三神の両手が無理矢理引き裂く。外れていなかった分のボタンがちぎれて飛んだ。
「やめて!何もないから!ほんとに、瓜生さんは何もしてない!」
 手に握り締めた十字架だけが、斗音に抵抗の力を与えていた。しかしその必死の訴えにも、やはり三神は聞く耳持たなかった。布団を引き剥がし、斗音に覆い被さるようにして、まさに肉食獣が獲物に喰らいつくかのようにむしゃぶりつく。
「い・・・やだ・・・・・・っ、放・・・してっ・・・!」
 クロスを握り締める斗音の腕を、鬱陶しそうにつかんで引き剥がそうとする。しかし、思いのほか強い力に阻まれ、三神の表情が醜く歪んだ。
「またそうやって・・・・・・あの隠し子の名を、心の中で呼ぶんですね。あいつはあなたを捨てたんだ。あいつにとって、あなたは他人に任せられる程度の人間なんだ。それなのに、あなたは!」
 ギリ、と歯軋りの音が聞こえた。
「いつもいつも、その十字架を握り締める。それがある限り、あなたは私に抱かれてもあいつを想う。そんなこと、許さない!」
「・・・・・・!」

 何をする暇もなかった。無理やり手を開かされて奪われた十字架を、斗音は追いかけようとした。でも、その前に首に鋭い痛みが走って、取り上げられた十字架は手の届かないところまで掲げられていた。
 
ちぎれてぶらりと垂れ下がる鎖が、斗音の網膜に焼きついた。
「私からあなたを奪うものは、すべて排除する。・・・・・・いい加減、理解してください。あいつはここには来ない。あなたを助けには、来ないんです。あいつはあなたを、見放したんですから」
 ゆっくりと言い含められる言葉に、違う、とぼんやり思った。
「こんなもの、あなたには必要ない」
 投げ捨てられたペンダントが、床でカシャ、と音を立てた。
(・・・・・・あ・・・・・・)
 大切な、母の思い。慈恩の、思い。引きちぎられ、投げ捨てられてしまった、最後の砦。
(・・・・・・拾わなきゃ・・・・・・)
 手を伸ばしてみた。届かない。起き上がりたくても、三神が圧し掛かっていて、動けない。
(慈恩・・・・・・慈恩・・・・・・傍に、いてよ)
 ぼんやりと十字架が歪んだ。視界から溢れ出す雫が、幾度もこめかみを伝っていった。身体のあちこちに無理強いされる負荷が掛かる。獣に余すところなくしゃぶりつくされている獲物のようだ、と、我が身をまるで他人のもののように感じた。
(・・・・・・慈恩・・・・・・・・・届かないよ・・・・・・・・・・・・・)
 ベッドが軋んで、視界が揺さぶられた。何度も何度も揺さぶられながら、斗音は手を伸ばし続けた。どうしても、諦められなかった。届かないと解っていても、この手に触れていたかった。唯一つのその想いすら、いつしか身体に与えられる衝撃で途切れ始める。
(・・・・・・九条を選ばせたのは・・・・・・・・・俺だ・・・・・・慈恩が・・・・・・捨てたんじゃない)
 意識が保てないことを、頭の片隅で悟った。同時にその意識の片隅で、携帯から流れる電子音を捉えていた。でも、もうそれも気に留めることはできなかった。ただただ、涙で滲んでぼやける母の形見に向かって伸ばす腕に、最後の力を込めた。
(・・・・・・そうだろ・・・・・・慈恩・・・・・・!)

 縋るような叫びを心に残して、斗音の視界は完全に途切れた。

   ***

 何度目かのメールチェックを終えて、慈恩は小さく溜息をついた。最後に斗音から来たメールは、少し体調が悪かったけれど、よくなってきたから土曜日の試合には絶対に行く、というもので、自分への激励も添えられていた。二日前のものだった。この一週間、携帯に掛けても携帯を手放していたのか、いつも何時間か経ってからメールで返事が来ていた。きっと忙しいのだろう、と思って、こちらからもメールを送っていた。ところが、今日はメールの返事も来ない。
(もう寝てるのか?)
 携帯の時刻表示は二十三時を過ぎたところだ。遅いといえば遅い。体調が悪いと言っていたのだから、明日に備えて早めに眠ってしまったのかもしれない。自分もそろそろ眠ろうと思っていたところだったから、きっとそうなのだろう、と考えた。
 自分が送った、ありきたりの内容。それでも、届いていればいい、と思った。
(やっとだ・・・・・・やっと会える。二ヶ月・・・・・・長かった)
 大きな手に携帯を包み込むようにして、その甲に額を押し付けた。
「件名:体調は?

 本文:もう大丈夫か?忙しいかもしれないけど、自分の身体を最優先にしろよ。こっちも調子はいいみたいだから、明日はいい試合ができそうだ。会えるのを楽しみにしてる。」

   ***

 トゥルルルルルルルル、と電車の到着を告げる合図が鳴った。その音と同時に駆け寄ってきた瞬は、はあはあ、と息を荒くして翔一郎の袖をつかみ、顔を上げた。
「駄目、こっちも。いないよ」
「この電車に間違いないよな?俺たち、時間間違ってないよな?」
「間違ってない。俺何度も確認したもん。斗音にもメール送ったのに、返ってこないし」
 土曜日だからなのか、それほど朝でも駅は混み合っていない。焦っている彼らは周りから見て、外見以上にかなり目立っていた。
 瞬が走ってきた方向とは別の方向から、嵐が階段を駆け下りてくる。
「こっちはいない。翔、連絡は?」
 翔一郎は手の中の携帯を握り締めた。
「とれない。何度掛けても、出ないんだ。家の方にも掛けてみたんだけど・・・・・・留守電になってる」
「留守電?」
 嵐は少し柳眉を寄せる。
「あの家、泊まりこみの使用人がいるんだろ?電話に出ないなんてあるのか?」
「分からない。でも、俺携帯にしか普段掛けないし。プライベートに関わることもあるから、断ってれば電話に出ないこともあるかも」
「・・・・・・留守電ってことは、もう出掛けてるってことか?」
「だと、いいけど」
 不安げに翔一郎の瞳が揺れる。嵐はぎゅっと唇を噛んだ。
「俺、迎えに行ってくる」
 言うなり、バイクを止めてある駐輪場に向かおうと踵を返す。瞬間、瞬の携帯がメールの着信を告げる。
「あ、待って!斗音からだ!」
 ぱちんと開いて慣れた指でメールを表示させる。途端、瞬の大きな瞳が軽く見開かれる。
「少し熱があって、出掛けるのを止められたんだって。何とか説得して行くから、先に、行ってて欲しいって・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
 嵐と翔一郎が顔を見合わせる。アナウンスが発車を告げる。
「とりあえず乗ろう。中でだって、話はできるだろ?」
 翔一郎の言葉に、瞬が即座にうなずき、嵐はやや躊躇ってからうなずいた。
「・・・そうだな」

 発車のベルが鳴り、駆け込み乗車を禁じるアナウンスが流れた。それを思い切り無視して、三人は目の前の扉から列車に飛び乗った。

   ***

 意識を取り戻した瞬間から、喉にものが絡まっている濁った咳が、止まらなかった。苦しさに涙ぐみながら、それでも薬を手にすることなく、斗音はベッドにうずくまっていた。
 
待ち合わせの時間が過ぎると、頻繁に携帯が鳴って、仲間たちが心配していることがよく分かった。苦しさで時折飛びそうになる意識に霞む視界と思考の狭間で、いつもの十倍以上もの時間を掛けて、やっとのことで一つのメールを返すことに成功した。彼らだけでも、慈恩の元へ行って欲しかった。そして、たったそれだけで、精根尽き果ててしまう己の全てが恨めしくて、情けなくて、悔しさに涙が溢れた。自力で起きることもできるかどうか怪しいというのに、会場まで行くことなど、とても考えられる状態ではなかった。
「苦しいでしょう・・・・・・せめて錠剤の薬だけでもお飲みなさい」
 ベッドの脇に置いてあるナイトテーブルに、三神がそっとグラスに入れた水と薬を置く。ネクタイはしなくても、着こなしを崩すことのない三神だが、今はベルトもせず、上半身は素肌にカッターシャツを羽織っただけの格好でいる。
「・・・・・・出て・・・って・・・・・・」
 擦れすぎて音にならない声で、微かにつぶやく。それ以上の声を出す気力さえない。直後に咳込むが、その力さえ弱々しい。呼吸も途切れがちだ。それが呼吸の度に鳴る笛のような音で分かる。
「・・・・・・・・・・・・死ぬ気ですか」
 反応はない。苦さを噛み締めるように、三神は精悍な顔を歪めた。発作を起こしているだけではない。熱も三十九度を超えていた。それなのに、一切の看病を、斗音は拒んだ。口移しで無理矢理薬だけでも飲ませようかと考えたが、発作を起こしているだけに危険だった。むせ返らせでもしてこれ以上ひどい発作になれば、呼吸さえできなくなる。そうなっても今の斗音は、絶対に薬を受け付けようとしないだろう。
 身体中を絶え間なく襲う寒気と節々の痛みと、そして思うままにならない呼吸。つらくて苦しくて、意識を保っていることすら危うかったが、それ以上に斗音が苛まれていたのは精神的な苦痛だった。
 死ぬ気か、と言われて、それを望んでいる自分がいることを否定できなかった。この全ての苦しみから逃れられるのなら、それでも構わないと本気で思った。こんな自分の生に、何の意味があるのだろう、と真剣に疑い、自身を激しく嫌悪し、憎み、呪った。
『ごめ・・・行けなく・・・て・・・・・・ごめん・・・・・・』
 はっきりと覚えている。まだ小学生で、入院していたとき。慈恩の試合を観に行くのだと、苦い薬も束縛された生活も、必死で耐えて体調を整えていた。外に出るのもダメ、動き回るのもダメ、一時間以上本を読むのもテレビを見るのもダメ、おやつも飲み物も、決められたもの以外口にするのはダメ。あれもダメ、これもダメ、何も許されず、それでも文句ひとつ言わずに医者の言うとおりに大人しくしていた。
 身体のためには必要な処置だったのだろう。だが、幼い子供にはそれがどれほどつらいものだったことか。結局そのストレスから、試合当日の朝にひどい発作を起こしてしまった。
 なぜ今日でなければならなかったのだろう。一日発作が遅れたらよかった。慈恩がきっと待っているのに。その慈恩の希望を叶えられない自分が悔しくて、行くと言った自分の言葉すら実現させられないことが悲しくて、慈恩の勇姿を見たいという強い願いを断ち切られてしまったことがつらくて、散々泣いた。泣いて泣いて、母を困らせ、医者を困らせ、それでも泣き続けて体力を使い果たして気を失ってしまった。
 気がついたとき、慈恩がすぐ傍にいた。嬉しさと申し訳なさで、胸が一杯になった。そんな自分を一切責めることなく、それどころか今日の試合はまだ見せられるものじゃなかったから、もっと強くなってきっと次はかっこ悪くない姿を見せてやる、と言ってくれた慈恩。そんな慈恩の期待を裏切ってしまったことが苦しくて、出ない声を絞り出して謝った。この次は必ず行くから、という思いを込めて。
 あの時と同じことをしている自分が情けなくてたまらなかった。二ヶ月も慈恩に会わなかったのは、自分の人生の中で初めてのことだった。だからこそ、今日は絶対に行かなければならなかったのに。自分がそう言い出したことだったのに。
(慈恩・・・・・・ごめん・・・・・・・・・・・・ほんとに、ごめん・・・・・・)
 苦しい呼吸の下で、声を出すこともままならず、ひたすら慈恩に謝り続けた。届くはずがなくても、そうせずにはいられなかった。
「・・・・・・出ていきますから、薬だけは飲んでください」
 苦しげな声が、背後から聞こえた。そしてドアが閉まるのを音で知る。
(・・・・・・ああ、やっと・・・・・・・・・動ける・・・・・・)
 重い身体を起こすことは叶わなかった。シーツを必死につかんで、這いずるように身体を動かす。
「・・・はぁ、っ・・・・・・はっ・・・・・・」
 ほんの少し動いただけで、息が上がる。ただでさえ苦しい呼吸が間に合わず、意識が朦朧とする。その度にくらっとそれを手放しそうになるのを、必死でとどめた。
(・・・・・・届け・・・・・・)
 ずず、と動いた瞬間、身体の重心がぐらりと傾く。自力で降りることもつらい斗音は、そのまま傾いた重心に身を任せた。布団やシーツもろともベッドから転がり落ち、次の瞬間に襲う衝撃に、一瞬呼吸が止まる。それでも布団ごと落ちたのと覚悟していた分、ダメージは少なかった。絡みつくシーツが邪魔だったが、それを振りほどく力はなかった。薄らぎそうな意識を必死に手繰り寄せ、渾身の力で前進を試みる。ほんの数十センチの距離をやっとの思いで移動したとき、ようやく伸ばした手に触れた物を、斗音は震える手で引き寄せ、握り締めた。
(・・・・・・届・・・いた・・・・・・)

 ほっとした途端、涙が込み上げてきて、同時に耐え難い喉の不快感に咳き込む。それが最後、気管がほぼ塞がれて酸素の供給がほとんど得られなくなった脳は、本人の意識を奪うことで自己防衛を図ったのだった。

 ドン、と鈍い音が二階から響いた。
「!?」
 はっと天井を見上げて、三神は着替えていた手を止めた。人が床に飛び降りたような音だ。もちろん、今の斗音にそれができるはずはない。
(何をしている!?)
 思うより早く、三神は自分に与えられている書斎を飛び出した。階段を駆け上がり、部屋を激しくノックする。
「斗音さん!斗音さん!?」
 部屋の中からは、何の音もない。もちろん、返事も返ってこない。
「斗音さん!どうしたんですか!」
 入ることは、少し躊躇われた。あれだけのダメージを抱えて、苦しげな呼吸の下でやっと発した言葉は、自分に向けてのただ一言。出ていけ、と。それが彼の望みなら、と部屋を出たのだ。再び入ることを拒否されるのを、心のどこかで恐れていた。
「斗音さん!・・・・・・入って、いいですか」
 それでも不安が先立って、訊かずにはいられなかった。しかし、勇気を出して投げ掛けた問いにも、応えは返らない。ますます不安が膨れ上がる。
「入りますよ!いいですね!?」
 確認するように言ってから、勢いよくドアを開けた。目に入ったのは、床で横たわる華奢な肢体。ベッドから掛け布団とシーツを引きずりおろし、衣類をほとんど剥ぎ取られたままのその身体にシーツを絡みつかせ、大事そうに何かを握り締めて・・・・・・斗音は気を失っていた。
「っ・・・・・・何をして・・・・・・」
 言いかけて、三神は言葉を飲み込んだ。斗音の指からこぼれる細いチェーンが目に留まった。その先はちぎれている。無惨なそのペンダントを握り締めて、白い頬を摺り寄せるようにしている斗音の睫毛は、涙の粒をびっしりと湛えたままだった。それでもその表情は、苦しげというより、どこか安堵に近いような安らぎを感じさせた。途端、心臓に氷の刃が突き刺さる。
「・・・・・・あなたは・・・・・・これを、拾いたかったんですか?私が引きちぎった、あの瞬間から・・・・・・ずっと・・・・・・?」
 斗音の傍らに、そっと膝をつく。白い手に触れると、思いのほか硬く握り締められているのに驚いた。
「・・・・・・ずっと・・・・・・彼を、想って・・・・・・?」
 強く拳を握り締めた。悔しさより、切なさが大きかった。どんな形であれ、昨夜の行為は自分の想いのたけを全てぶつけた結果だったのだ。それが。
(・・・・・・あなたには・・・・・・届いていなかった・・・・・・)
 思わず抱き上げて、力の失われたその身体を、絡まったシーツごと力一杯抱き締めた。
「・・・・・・どうして・・・・・・!どうして俺では駄目なんだ!どうして、どうして、どうして!」
 悲痛な声が、空気を裂いた。

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四十四.嵐の洞察

 既に十一月。朝はかなり寒い。会場となっている武道場は関東大会ということで、観客席もかなり埋まっている状態だったが、それでもかなり厚手の上着を羽織ったりして寒さを凌いでいる。剣道着の選手たちはベンチコートを羽織ったりして身体を冷やさないようにしながら、学校ごとに準備体操やアップを始めていた。
「おはよう、田近。調子、どうだ?」
 誰とでも気さくに話す翔一郎が自校の選手に声を掛けた。如月剣道部の部長はくるりと振り返って明るい笑顔で応える。
「おはよう。俺はまあまあだよ。今日は慈恩目当て?」
「慈恩と、如月の応援だよ」
「ほんとに?さんきゅ。心強いな、出来過ぎ集団(ぱーふぇくつ)が応援してくれるなんて」
「その呼び方はちょっと微妙だけど、そう言ってもらえると来た甲斐があるな」
 翔一郎は苦笑した。出来過ぎ集団というのは傍から見た生徒たちがつけたグループ名で、本人たちはその名で自分たちが呼ばれていることを認識しつつ、あまり歓迎してはいなかった。しかし、田近はからりと笑う。
「そうか?ありきたりなネーミングだけど、なかなか内容的には的確だぞ。ま、俺たちはここに陣取ってるから、いつでも来なよ。慈恩たちの桜花は一番北側の辺りに席取ってたかな。今はほら、あっちでアップしてる」
 言われて翔一郎と、隣にいた瞬はくるりと示された方角に視線を移す。その視線の先で、桜花高校が二列で竹刀を構えて、威勢のいい掛け声とともに打ち込みを始めた。
「・・・・・・九条、か。なんか、違和感だな」
「頭では分かってんだけどね」
 複雑そうな顔でつぶやく二人に、田近は少し笑みを曇らせながらも、明るい声を出した。
「最初はね。けど、剣道は間違いなく慈恩だよ。全国レベルの、あの慈恩だ」
「うん、楽しみ」
 瞬もにっこりと笑う。この笑顔は女性でなくても可愛いと感じずにはいられないほどの代物だ。思わず田近も心を癒されて微笑み返してしまった。そして、ふと周りへ視線を巡らせる。
「斗音と東雲は?」
 何気ない問いに、可愛らしかった瞬の笑みが掻き消えた。その表情が不安そうに翔一郎を見上げる。翔一郎も少し困ったように瞬と顔を見合わせてから、田近に目を向けた。
「うん。今嵐は斗音と連絡取ってる。場内だと雑音が多いしね」
 竹刀の音や掛け声が響き渡る場内に、肩をすくめて見せる。田近は目を大きくした。
「斗音、どうかしたのか?そういや、今週ほとんど学校にも来てなかったよな」
「うん・・・・・・熱があって、今一緒に住んでる人に止められたんだって。何とか説得するからってメールが来たんだけど、それから音信不通になっちゃってさ」
 心配そうな瞬と翔一郎に、田近も唇を噛んだ。きっと慈恩とも約束しているのだろう。ならば、慈恩は間違いなくそれを楽しみにしているはずだ。もし斗音が来られないとなったら、気落ちしてしまうかもしれない。
「そっか・・・・・・来られるといいなあ・・・・・・」

 如月剣道部部長は、思わず打ち込みをしている慈恩を見遣った。

「畜生、何で取ってくれねえんだよ」
 悔しそうに嵐は木でできている壁を殴りつけた。電車の中からも何度も連絡を取ろうとしたのだが、全く反応がない。メールも瞬の携帯に来たっきりで、それ以降送れど送れど返ってこない。嵐は嫌な予感を拭い去ることができず、武道場に着いてからも一人入り口付近で連絡を取り続けていた。遅くなると心配するかもしれないと、会場内へ翔一郎と瞬だけは行かせたのだが。
「どうしたんだ、何してんだよ。慈恩がここにいるんだぞ」
 何度も掛けた自宅へ、再度チャレンジしてみる。
『はい、椎名です。ただ今留守に・・・・・・』
「くそ、もうそれは聞いたって!」
 留守電の声にぶち切れそうになった瞬間、聞き慣れない低い声が返ってきた。
『・・・・・・はい』
 すぐに椎名家にいる使用人だと理解した嵐は、瞬間的にアドレナリンの分泌量を抑え込んだ。
「如月高校の東雲といいます。確か三神さん・・・でしたよね。斗音は、今どうしてますか」
 三神の名を、斗音が口にしたことは一度だけだった。まだ九月の初め、斗音が彼のことを話すのに、まだ躊躇いを見せなかった頃。最初から名前はあまり出そうとしていなかったようだが、一度だけふと昼食の最中に口にした。それ以外は「九条家から来た人」という表現を使っていたので、覚えている人間は少ないだろう。嵐はそれを覚えていた。如月祭が近くなるにつれ、斗音の元気がなくなって、その口から彼の話が出ることは極端に減っていった。そして、その話に触れそうになると表情に明らかに翳りが見えた。斗音は何も言わなかったけれど、嵐は嫌なものを感じていた。
 もしかしたら、斗音はその男に性的な嫌がらせを受けているかもしれない。
 その思いは、斗音が話したがらないことからの憶測であり、あくまでもそれ以上ではなかった。嵐は忙しかったし、斗音も忙しかったので、それ以上の確信をもてる話もできずにいたし、何よりその話題で斗音を苦しめたくないという思いが、嵐の中にあったことも否めない。せめて学校にいる間くらいはそれから解放させてやりたい、と思っている内に、斗音は瓜生という理解者を見つけた。たぶん瓜生は何もかも知っている。それでも自分たちと違って、知られて気まずい思いをする相手ではない。いろんな意味で斗音より社会のいろいろな面を経験している瓜生は、斗音には頼れる存在だろう。瓜生も斗音を大事にしているようだったので、斗音に逃げる場所ができたことはありがたいと思った。自分に知られたくないと思っている斗音に、嵐自身は何もしてやれなかったのだ。
 しかし、ここに来て四日連続の欠席に、この大事な約束の日の音信不通。嵐の不安は鎌首をもたげ始めていた。自然、相手に対する口調は硬くなる。
「少し熱があって、あなたに引き止められているから遅れていく、とメールが来てそれっきり、連絡が取れない。どうしてですか?」
 相手の声は、やや間を置いてから再び低く耳に届いた。
『・・・・・・そうでしたか。斗音さんは、朝三十九度を越える熱を出されて、その上発作まで起こされて、とても動ける状態ではありませんでした。今も気を失って、医師の治療を受けています』
「な・・・・・・んだって・・・・・・?」
 嵐はそれだけ口にするのが精一杯だった。ならば、あのメールは。その思いを、使用人という男は肯定した。
『恐らくあなた方には慈恩様のところへ行って欲しかったのだと思います。御自分が行けないことは、誰より解っておられたと思いますよ。私がお引き止めするまでもなく』
「・・・・・・どうして・・・・・・」
 冷静というか、妙に落ち着いている相手に、嵐は責めるように問い掛けた。
「どうして発作なんて。今日のことを分かってる斗音が、無理するはずない。今日を最優先にするはずだ。それがどうしてそんなことになってるんですか」
 その問いには、やや皮肉を含んだような声が答えた。
『・・・・・・そもそも、昨日も熱が下がりきっていなかったのに、身体を慣らすからと学校へ行かれたのがまずかったのだと思います。そのくせ帰って来たのは九時近く。しかも、体力を削るような真似をしてきたようですからね。それが原因だと思いますよ』
「体力を、削る・・・・・・?」
『・・・・・・東雲さんとおっしゃいましたね。あなたは聡い方のようです。それだけで何となくお分かりになっておられるのではありませんか?』
 嵐は美しい形の眉をきり、と寄せた。
「・・・・・・誰かとやってきたとでも言うのか」
 相手は笑ったようだった。
『さあ、私にもはっきりとは分かりません。ただ、そのようにお見受けできましたので』
「斗音がそんなことするか。大体そんな見方、普通しないだろ。あんたがいつも、斗音に対してそんなふうに考えてるから、そういうふうに見えたんじゃないのか」
 抑制していたはずのアドレナリンがふつふつと湧き上がって、嵐の怒りを増幅させていた。斗音を侮辱するような言い方も気に食わなかったし、何よりそういう考え方をすることに、自分の嫌な予感が的中していることを証明されているような気がしていた。嵐の言葉は真実を突いていたが、しかし、そんな嵐をかわすように、相手はさらりと流した。
『昨夜の斗音さんをあなたが知っていらっしゃるわけではありませんから、これ以上は水掛け論になるだけでしょう。・・・・・・本来なら私がこの電話を取ることもありません。しかし、今朝から何度も電話が掛かってきていて、それが何故なのか知っていた上で、斗音さんが出られないことを考慮して私が取らせて頂いたまでです。あなた方に、今日斗音さんが行けないということ、そしてその事情をお伝えすることが必要だと私が判断した。それ以上のことを話すのは、越権行為だと思います。・・・・・・ご理解頂ければ幸いです』
「てめえ」
 会ったこともない相手に、嵐は乱暴な二人称を用いた。
「逃げる気だな」
『・・・・・・』
「俺の言ったことは、はずれじゃないんだろう?」
 切られたら終わりだった。それでも、嵐は相手の喉元に切り札を突きつけた。確信に近かったが、あくまでカマを掛けている部分が大きい。これで引っ掛かってくるかどうかは賭けだった。
『・・・・・・と、おっしゃいますと?』
 とぼけてくるか。俺がどこまで気付いているか、試す気か。
(なめんなよ)
「お前が斗音に対して抱く感情は、主人に対する忠誠じゃない。欲情だ」
『・・・・・・』
 反応はない。こちらをうかがっている。
(・・・・・・はずれじゃねえな)
 だったら、もっと・・・・・・こいつが斗音を疑うようなシチュエーションがあるとしたら。嵐の脳がめまぐるしく働いて、推測をたたき出す。
「だから他人があいつに触れていないかどうか、異常に気になる。例えば、帰りが遅ければ、誰かとどこかでいちゃついてんじゃねえか、どこかに赤い痕のひとつでもついてたりしたら、キスマークじゃねえか、やったんじゃねえのか、なんて妄想を広げる。昨夜てめえは、そんなふうに考えたんじゃねえのか?」
 その憶測を並べ立てながら、嵐は嫌な考えに心を絡めとられ始めた。
(そんなふうに考えたとしたら?斗音自身は絶対に昨日無茶をしたりしないはずだ。帰りが遅かったのは、瓜生さんといたからだとしても・・・・・・あの人が斗音に何か無理強いをするなんて考えられない。でも、それを変に勘ぐって、斗音が他人に取られたとこいつが思い込んだとしたら?だとしたら、発作を起こして、ひどい熱を出してるのは・・・・・・、まさ、か・・・・・・まさか・・・・・・)
 心臓がきりきり痛い。違うと思いたかった。でも痛みが嫌な予感をひっきりなしに伝えてくる。これは、当たっていると。考えを打ち消したくても、否定できる材料が何もない。嵐はギリ、と携帯を握り締めた。相手の反応が、あるいは自分の考えを打ち消せるものであれば。可能性の低さをひしひしと感じながら、それでも嵐は珍しく、自分の推測が外れることを強く願った。
 携帯からはしばしの沈黙のあと、敵意を含む声が低く鼓膜を震わせた。
『・・・・・・お前は、どこまで知ってる』
(・・・・・・・・・・・・斗音・・・・・・!)
 震える拳を握り締め、強く額に押し当てた。嵐にとって、その言葉は、自分の考えを肯定するものに他ならなかった。怒りに満ちた声も震える。
「お前・・・・・・あいつを、レイプしたな。弱ってるあいつを・・・・・・てめえが!」
『・・・・・・何、者だ、貴様』
 明らかに狼狽した声。それが嵐の胸を抉る。

(畜生。畜生、畜生!どうしてこんなことになる前に何とかしてやれなかった!)
 
できなかったはずはない。気付いていたのだから。気付かれたくないと思っている斗音の気持ちを大事にしてやりたくて、結局酷い目に遭わせてしまった。自分が何とかしていれば・・・・・・斗音にそんなつらさを味わわせずに済んだのに!
「嵐!」
 観客席となっている二階の階段から、翔一郎が駆け下りてくる。嵐は、はっと顔を上げて振り返った。
「まだ連絡取れないのか?試合、始まるぞ」
「あ、ああ、分かった。すぐ行くからいい場所確保しといてくれ」
 階段の途中で足を止めた翔一郎は、一瞬不思議そうな顔をしたが、真剣な面持ちでうなずいた。
「分かった。・・・・・・任せとけ」
 駆け上がって行く翔一郎の後ろ姿を見送りながら、嵐は深く息を吸い込んだ。翔一郎は自分を理解している。ここに来させたくなかったことを、分かっている。ありがたかった。
「許さねえ。やられる方がどれだけつらい思いをするか、てめえ考えたことあるか。・・・・・・まして今の斗音にそんなことをすればどうなるのか、てめえは知ってたんじゃねえのか!」
 激する声を抑えながらも、言葉の荒さは抑え切れない。激するあまり震えがちになる呼吸をなだめながら相手の出方を待つ。またもやしばしの沈黙が流れ、次に聞こえた声は、うろたえながらも嵐の弱みを的確に突いてくるものだった。
『・・・・・・あの人は、貴様らに知られることを望んではいない。あの人を苦しめたくないのなら・・・・・・精神的に追いつめたくないのなら、あの人を無理矢理問い詰めないことだ。それから、忠告しておく。このことをあの人が一番知られたくないと思っているのは・・・・・・九条慈恩だ。それだけ言えば、お前はどうすべきなのか理解できるはずだ。・・・・・・忠告はしたからな』
 ぶつ、と、繋がっていた空間が途切れた。パチン、と携帯を閉じた嵐は、悔しさを拳で壁に力一杯ぶつけた。
「くそっ!」
 言えるはずがない。これから試合をしようという慈恩の気持ちを乱すような真似はできない。それが終わったとしても、この事実を慈恩に告げることは、彼のみならず、斗音をも苦しめることになる。
(俺なら・・・・・・大事な人の苦しみを知らなかったなんて思ったら、自分で自分が許せない。それでも・・・・・・斗音、お前は・・・・・・・・・・・・慈恩がそれを知ったとき、どれほど苦しむだろう。これほどの屈辱を大切な人間に知られることに耐えられるだろうか。だけど・・・・・・だけど斗音、お前は俺ほど強くない)
 精神的に斗音を追いつめることがどれだけ危険なことなのか、嵐は嫌というほど知っている。安易に動くことは思わぬ結果を招きかねない。だからといって今のままで放っておくことも危険だ。
(どうしたらいい、俺は・・・・・・!)

 白くなるほど唇を噛み締めて、目の前に広がる景色を睨みつける。もう一度無力な自分を痛めつけるかのように拳をたたきつけてから、その全ての怒りの感情を鋭い吐息で吐き出し、嵐は階段を駆け上がった。

   ***

 試合開始前に、嵐を見つけた。目立つ髪の色だから、すぐに分かった。その隣に翔一郎、更にその隣には瞬を見つけた。元気に手を振ってくれた瞬に微笑んで見せたが、斗音がいないのが気になった。あちこちに視線を巡らせて、会場内全てをくまなく探した。でも、華奢な兄の姿を見つけることはできなかった。
 ひとつ試合を終えて勝ち進み、待ち時間ができたとき、彼らが桜花の応援席まで来てくれた。久しぶりで、瞬はとても嬉しそうだったし、翔一郎も感慨深そうにしていた。嵐はいつも通り魅力的な笑みで励ましてくれた。その中で、瞬に斗音からメールがきていることを聞いた。
(三神さんに止められたのか。斗音の健康だけは何よりも優先するようにって言ってあるはずだから、説得できるかどうか。無理しなきゃいいけど・・・・・・)
 嵐はそのことについてはただ一言、来られるといいな、と言った。いつもなら、きっと来る、だとか、ちょっと来られないかも、なんて断定的な予想をする嵐にしては、珍しい言い方なのが少し気に留まった。でも、嵐がそう言うなら、来るかもしれない、と思った。
 いつかもこんなことがあったな、と慈恩は思う。第二試合が始まる前、終わったとき、第三試合が始まる前、それが終わったあと、準決勝が始まる前、終わってから、そして決勝で再び如月陣と対面したとき、そして再び彼らに勝利したあと、ずっと会場内を探し続けた。でも最後まで、その姿を捉えることはできなかった。
「やっぱり強いね、慈恩。それに、桜花も強いね。近衛って人と、あと鳳って人が強かった。東何とかって言う人も強いし。安定してるなって感じがしたから、安心して見てたよ」
「如月も強かったんだけどな。決勝は見応えあったなあ。特に副将戦の、田近対近衛。結局1-1だったけど、いい勝負だったな」
 口々に感想をくれる瞬や翔一郎に、慈恩は微笑で応える。決勝は二勝一敗二引き分けで桜花が取った。先鋒で和田が負けたが、次峰に位置した東坊城が一勝し、中堅と副将が引き分け、結局大将戦で決着がついた。今の如月に慈恩に勝てる選手はまだいなかった。東坊城はこれで自信を回復できるだろう。
「あれが如月の友達か。類友なんて、よく言ったもんだよな。あの三人、どこから見てもひと際目立つぜ。背は高いわイケメンだわ。一人例外がいるけど、それはそれでなんか女顔負けに可愛いし。特にあの変わった色の頭の奴、お前ですら霞んじまいそうな存在感だな」
 そう言って溜息をついたのは近衛だった。敵わねえなあ、と苦笑して、会場からの別行動を快く許してくれた。それで三人と近くのネットカフェにやって来たのだった。
「結局斗音、来られなかったね。さっきまたメールが来たよ。あれから軽い発作が起きちゃって、絶対行っちゃ駄目って怒られたって。で、熱が下がったら行ってもいいってとこまで説得して解熱剤飲んだんだけど、なかなか下がらなくて今は下がってきてるけど、今度はもう遅くなるからってダメ出し食らったらしいよ。ついてないね、斗音も」
 ほら、と自分の携帯に来たメールをみんなに見せる。そこには、たった今瞬が簡単に省略した内容のことが記されていた。最後に、「慈恩には直接あとで連絡するけど、よろしく伝えて」とあった。
「そっか・・・・・・今週に入って、ちょっと調子悪かったみたいだからなあ。仕方ないよ。でも、関東で優勝したんだから、次全国大会があるんじゃないのか?」
 翔一郎の質問に、慈恩は軽くうなずいた。
「うん。でも全国大会は広島とかだった気がするな・・・・・・」
「広島かあ・・・・・・ちょっと、遠いかな」
 顔をしかめる翔一郎に、瞬はにっこり笑った。
「でも斗音だったら、行くんじゃない?今日の分も、きっと慈恩に会いたいと思ってるだろうし」
 ね、と嵐に振ると、嵐は少しだけぼんやりした感じだったが、相槌を打って笑った。
「体調が、回復すればな。広島まで行くとなったら、下手すりゃ泊まりがけだろうし。でも、きっと今日はあいつ、後悔で一杯だろうから、お前慰めてやれよ」
 グラスを手にしたままで慈恩を指差す。そんなさりげない仕草ですら、すごく絵になってしまうほど魅力的な嵐だが、言い方に少し遠まわしな部分があるような気がした。下手に期待しないようにしているのだろうか、と慈恩は思った。期待してしまえば、会えなかったときにがっかりするだろうから。
(斗音、自分を責めていないだろうか。あの時みたいに・・・・・・)
 擦れた声で、ごめんと泣きながらしがみついてきた。まだ斗音が入院していた頃。そんな思いをしなくて済むように声を掛けてやりたい。本当は、会いに行きたい。だが、調子が悪いところを無理させるわけにはいかない。だから、せめて声だけでも。
 久しぶりに嵐たちと過ごした時間は、とても楽しかった。如月祭のことも修学旅行のことも、楽しかったことを自慢するのではなく、どれだけ素晴らしかったか、慈恩がそれをいかに感じられるかに重点を置いて話してくれる三人は、やはり最高の友人だと感じた。その場にいて、慈恩は悔しいとか寂しいとかいう感情をもたなかった。DVDやCDに焼いた写真やビデオを、広めの個室に備えられているパソコンで見ながら彼らの話を聞いていると、まるで自分がそこにいたかのように感じた。その雰囲気が理解できる話し方を、彼らがしてくれたおかげだった。
「ねえ、相変わらず慈恩は忙しいの?」
 ふと瞬が口にした言葉に、慈恩は目を瞬かせた。如月にいた頃は剣道だけでなく執行部の仕事もあったし、家事の大半をやっていたので確かに忙しかった。が、それを忙しいと感じたことはあまりなかった。そして現在は執行部や家事は一切ない。剣道に打ち込むことができる環境になったとはいえ、以前以上に剣道に割く時間を増やしているわけでもない。となれば、答えは必然である。
「忙しく、ないと思う」
「思うって何だよ」
 思わずツッコミを入れてきた翔一郎に、苦笑する。
「いや、考えたことなかったな、と思って。如月にいたときも執行部以外はそんなに忙しいと思ってなかったし・・・・・・でも、今は自由になる時間が如月にいたときよりずっと多いはずだよ」
「だから、はずって何だよ」
 更につっこまれて苦笑を重ねるしかない。
「時間があるって、実感したことないなあ、と思って」
 それだけ普段、気を遣って気疲れしているのだろう。そんな慈恩を瞬がおかしそうに見る。
「何だかなあ。慈恩って、そういうとこぼんやりしてるよね。何ていうか、ほんと、自分に対して鈍感って言うか」
「ど・・・・・・」
 鈍感?と聞き返そうとした瞬間、嵐がクックッと肩を揺らした。

「ほんとに、慈恩も斗音もそういうとこはそっくりだな。他のことには結構鋭いと思うんだけど、自分のことに疎すぎる」
 
翔一郎も瞬も一斉に吹き出した。

「分かる分かる。二人とも、例えば自分がモテてるって気づかずに、慈恩はモテるなあ、斗音はモテるなあ、って、お互いに思ってんだよ」
 以前雅成と絢音の前で、そっくりそのままのことをやらかしたことがある。そんなに分かりやすく鈍感なのだろうか。苦笑だらけの慈恩の肩を、瞬がぺしぺしとたたいた。
「ね、時間あるならさ。週末とか遊ばない?もっと気軽に会えるでしょ?」
「そうだな。まあ、九月十月は行事も目白押しだったし、試験はあるわ試合はあるわで、なかなか休日ってなかったけど、十一月ならそんなに俺らは忙しくないからなあ。慈恩はどうなんだよ」
 相槌を打つ翔一郎に小首をかしげて慈恩は少し考えた。
「・・・・・・そうだな・・・・・・全国大会まではちょっと余裕ないけど・・・・・・それが終われば、たぶん」
「全国大会、いつ?」
「二週間後」
「如月もいけるの?」
「いや・・・・・・全国へいけるのは、都道府県で優勝したところだけ。関東は各都道府県で三位に入ったところが出られるんだけど」
「へえ・・・・・・変わったシステムだね。全部の都道府県から全国へ出られる人がいる代わりに、関東大会でいい成績残してても、都道府県で優勝してないと駄目なんだ」
「じゃあ、何のための関東大会?」
「そりゃ、各都道府県の上位層が報われるためだろ。確か、柔道とかもそうだった・・・・・・中学のときに、聞いたことがある」
 嵐の何気ない一言に、三人の視線が集中する。
「中学・・・・・・嵐にも、中学時代があったんだな」
 しんみりとつぶやく翔一郎に、嵐が美しい形の眉を歪める。
「当たり前だろ。俺の知り合いに・・・・・・剣道やってる奴と柔道やってる奴がいた。別の中学の奴だったけど」
 瞬が面白そうに目を光らせる。
「何か、当たり前なんだけど、嵐って高校生のときから高校生ばなれしてたから、中学生の時代があったっていうのがにわかには信じがたいよね。しかも嵐の中学時代の話って、あんまり聞いたことない」
 当の嵐はつまらなそうに肩をすくめる。
「別に、話そうとしなかったわけじゃない」
「剣道やってた奴って・・・・・・強かった?」
 慈恩が思わず尋ねる。この地区の人間なら、大会に何度か出てさえいれば、名前くらいは分かるだろう。そう思ったのだ。片頬で少し皮肉気に、嵐は笑んだ。
「弱くはないと思うぜ。あの気性だし、本気出したら慈恩の目でも追えねえかもな。高天っていうんだけど」
「高天?」
 思わず慈恩は聞き返す。目の裏に、一瞬で焼きついた長い金髪が甦る。その意外な反応に、嵐はきょとんとした。
「あれ、知ってるのか?まあ、知ってるかもしれないな。大会で上位に入ってれば、名前も覚えるし。でも、なんで?」
「・・・・・・いや、何か・・・・・・不思議な感じだったから」
 先日の都大会でのことを話すと、嵐は納得したようにくすくすと笑った。
「まあ・・・・・・何ていうか、ちょっと変わった奴だから。俺と同類だよ」
「同類?」
「うーん・・・・・・俺より特殊かも。大会には、髪も黒くして行ってるはずだけど、マジになる試合でもしたかな」
「???」
 ますます訳の分からない顔をする慈恩に、瞬がにっこりと笑った。
「ねえ、それって和史のことでしょ?」
「えっ?」
 今度は瞬以外の三人が目をぱちくりさせた。
「お前、知ってるのか?」
 珍しく驚いたふうの嵐が訊くと、ますます笑顔の瞬が、可愛らしく首を傾けた。
「中学のときの、親友だもん」
「ええっ!」
 驚いたのは慈恩だけでなく、むしろ嵐の方が意外なほどのリアクションだった。
「あの、悪ガキが親友だったのか?横着で単純馬鹿なあいつの?」
「ひっどい言われようだね」
 やや呆れたように瞬が肩をすくめる。慈恩も不思議そうにする。
「そんな奴?いや、知らないけどさ。剣道は結構しっかりしてるぞ?」
 嵐は小さく舌を出して見せた。
「そんなんじゃ足りねえよ。全く、ほんとにどうしようもない馬鹿なガキだと思ってる」
 嵐にしては相当珍しいお茶目な仕草に、翔一郎と慈恩は不覚にも目を奪われたが、瞬はふくれっつらになる。
「確かに単純だけど、和史は優しいよ。中二の夏にいきなり不良化したんだけど、それでも俺には優しかった。それに、あんなふうになる前は、すっごく可愛かったんだから」
「うわー意外。あいつが可愛いなんて、想像できねー」
 あからさまに茶化す嵐に、食ってかかる。
「ほんとだよっ!一年のときから仲良かったんだけど、いつも周りから可愛いコンビだって言われてたもん」
「まあ・・・・・・瞬は可愛かったろうな・・・・・・」
「間違いなくな・・・・・・」
 どちらかというと大人びた反応の慈恩と翔一郎に、キラーン、と瞬の視線が突き刺さる。
「馬鹿にしてるねっ?」
「いや、してない」
「全然してない」
 ちゃんと二人して否定したのに、瞬の隣に座っていた翔一郎は肩を力一杯どつかれた。
「嘘ばっかり!」
「ちょっと待て、何で俺だけ?」
 しかも、嘘ではなかったのに、と、かなり心外そうな翔一郎だったが、瞬に一蹴された。
「翔一郎の言い方が馬鹿にしてた」
「ほとんど違わなかったじゃないか!」
 つっこむ翔一郎に、瞬はつんと横を向いた。
「じゃあ普段の行いの差だね。慈恩の方が誠実な感じがするもん」
「補聴器買ってやろうか」
「どういう意味さ」
「はいはい、夫婦漫才はそこまで」
「「夫婦じゃないっ!」」
 二人同時に嵐に向きなおる当たり、ちっとも変わらない。慈恩はおかしくて笑いながらも、込み上げる懐かしさや切なさを抑えるのに必死だった。
 結局その後、全国大会が終わったら斗音も交えてまた一緒に遊ぼう、ということで散々盛り上がって、楽しく食事をして、大切な仲間たちと別れたのだった。
「なあ、お前時間があるなら、たまには斗音の家へ帰れよ。あいつ・・・・・・正直言って、食欲ないままだし、元気とは言えない。あんまお前に知られたくないと思ってるだろうけど、お前は知らないままじゃいたくないだろうから」
 最後に、二人には聞こえないように小声でそう言った嵐に、慈恩はうなずいた。斗音ならきっと、そう思うだろう。自分に調子の悪いことを知られたくないと考えるに違いない。
(そもそも、どうして今まで行こうと思わなかったんだろう。休みが合わなかったってのはあるけど・・・・・・)
 もしかしたら、心の中に何かしらのわだかまりがあったのかもしれない。自分は斗音に必要とされていないのに、しゃしゃり出ていっていいのだろうか、などとつまらない考えが心の底に巣食っているのは確かだった。

(帰ったら、あいつより先にこっちから掛けてやろう)

「おかえり、慈恩くん。試合はどうだった?」
 帰るといつもより遅かったこともあって、雅成が出迎えてくれた。夕食はいつも家のものがそろって、というのが基本なのだが、あらかじめ今日のように断ってあれば、外で友達と食事を済ませることもできる。決して彼らにとって居心地がいいとはいえないそこから早々に戻ってきたのが雅成だったようだ。
「はい、何とか優勝です」
 ほう、と感嘆の溜息をつく雅成である。
「すごいね、ほんと。今日は接待で行けなかったけど、全国へは、応援に行ってもいいかい?」
「ご都合がよろしければ、俺は構いません」
 うん、とうなずく雅成は、少しだけ複雑な思いを抱く。
(本当の親子なら、こんな敬語だらけの会話なんてしないだろうに。それに、嬉しい、とはまだ言ってくれないんだね)
「絢音が見に行きたがっていたよ。一人で行って来たらって言ったら、今日はお友達が来るそうだから一人じゃまた迷惑を掛けてしまうかも、だって。でも、君の活躍が気になって仕方がないんだ」
「・・・・・・はい」
 困ったように微笑んで見せる慈恩は、大人だと思う。紙面上では息子となっているが、自分よりずっと大人びていると思うことすらある。
「そういえば、今日は斗音くんに会えたのかい?」
 途端、慈恩の表情は翳る。それだけで、すぐに分かる。
「そうか・・・・・・あまり調子がよくないって聞いてはいたけど。でも、いつでも会えるんだから、そんなに気を落とさないで・・・・・・」
「・・・はい、ありがとうございます」
 慈恩だって、これが親子の会話だとは思っていない。でも、軽々しい口をきくと重盛がうるさいし、そこまで打ち解けているとも思わない。一生椎名の両親とのようには口をきけないだろう。どうしても気を遣ってしまう。それはそれで仕方ないかもしれない。
 部屋へ戻るとベッドにどさりと腰掛けて、早速斗音の携帯に掛けた。コールが三度、四度、五度。続く六度目でやっとつながる。それに、一瞬驚いた。一度でつながるなんて、思わなかったのだ。
『もしもし』
 ひどく擦れた声に、驚いた。弱々しくて、消えてしまいそうな。
「斗音・・・・・・大丈夫か」
 思わずそう訊いていた。しばらく間を置いてから、聞こえてきたのは切なくなるような涙声。
『・・・・・・・・・・・・ごめん・・・・・・俺・・・ほんとに・・・・・・ごめん・・・・・・』
「斗音、具合は?熱は下がったのか?」
 自分の試合に来られなかったことなんか、どうでもよかった。それより何より、消え入りそうな声の斗音が心配だった。
『・・・・・・ん・・・・・・だいぶ・・・・・・下が・・・っ』
 続くのは濁った咳。むせ返るように激しい咳ではなく、もう咳をすることにすら疲れてしまったような。知っている。ひどい発作を起こしたあとや、何度も発作を起こしたあとに、斗音はこんな咳をする。
「斗音・・・・・・!お前、ひどい発作だったんじゃ・・・・・・」
『・・・・・・っ、・・・だ・・・いじょうぶ・・・・・・』
 一生懸命呼吸を整えているのが分かる。慈恩は左で拳を強く握り締めた。
「何言ってんだ、大丈夫じゃないだろ!薬は?ちゃんと飲んでるのか?」
『・・・飲ん、でるよ・・・・・・心配・・・しないで』
 無茶なことを言う。心配しないはずがない。
「医者には?熱もあったんだろ?」
『・・・・・・九条家の・・・掛かり付けの・・・・・・医者に、診て、もら・・・ったよ』
 擦れて途切れる声。聞き取れないほど弱々しくて、嫌でも七年前のあの日を思い出す。行けなくてごめん、擦れた途切れ途切れの、弱々しい声で。
「・・・・・・そっか。今日、そんなんで来ようとしたのか?」
『・・・行きたかっ・・・た・・・・・・けど・・・・・・』
「・・・・・・来られないって、分かってたんだな。だから、瞬にあんなメール送って?」
『・・・・・・ん』
「そっか・・・・・・ありがとな」
 よしよし、なんてさらさらの髪を撫でてやりたい。弱ってぐったりしている斗音を、少しでも元気付けてやりたい。抱き締めてやりたい。
「そうやって、あいつらを応援に来られるようにしてくれたんだな」
 ひどい発作を起こしたりしたら、メールどころではないはずだ。それでもたぶん、必死でメールを送ったのだ。自分を落胆させないように。
「・・・・・・お前には会えなかったけど・・・・・・あいつらが来てくれたから、それだけでも嬉しかった。おかげで優勝できた。ぎりぎりだったけど、田近たちに勝ったよ。再来週、全国に、行く」
『・・・・・・・・・うん』
「胸張って、行ける。関東で二強を誇る東京都の代表だ。・・・・・・お前のおかげだよ」
 少しだけ、笑ったようだった。
「全国は広島だ。・・・・・・簡単に来てくれとは言えないけど・・・・・・きっとほら、隼も来るだろうから、もし斗音が来たりしたらあいつ喜ぶかも。お前のこと、すごく気に入ってるからな、あいつ。ああ、でもそれだと敵に塩をおくりかねないか?いや、だから来るなってことじゃないんだけど」
 来てくれ、と言えなくて、遠回しに言おうとして慈恩は失敗したらしい。見えもしないのに手をぶんぶん振って言ったことを取り消そうとしてしまった。
「ああ、何言ってんだ俺。そうじゃなくてその・・・・・・俺のことより・・・・・・自分優先だからな。それだけは約束してくれよ」
『・・・・・・うん。・・・・・・でも、行き、たい・・・・・・な・・・・・・』
 少しだけ、声が明るくなった。弱々しいままで、擦れたままで、それでも涙声ではなくなった。その分だけ、ほっとする。
「・・・・・・全国が終わったら・・・・・・余裕ができるから、そっちへ行くよ。斗音・・・今日は嵐たちから色々聞いたけど、まだお前から聞いてないから」
『・・・・・・うん』
「お前の話が、聞きたい」
『・・・・・・・・・・・・うん』
 再び涙声になった斗音の声。泣かないで欲しい。でも、これが悲しみの涙でないのなら・・・・・・嬉しいと思う。大切な大切な、たった一人の、家族という絆でつながれた兄。本当に心の底からそう思えるのは斗音しかいない。母の形見を託してきた、たった一人の兄。その思いを込めた形見が、それまでは斗音を守ってくれますようにと願う。

「・・・・・・あまり長く話してると、身体に障るかな。今日は温かくして、早く休むんだぞ」
『・・・もう、ベッドに・・・入っ・・・てるよ・・・・・・。でも、もう少し・・・・・・慈恩の、声を・・・聞いて・・・・・・いたい・・・』
 最後は消えてしまいそうなほど儚い声だったけれど、慈恩はうなずいた。
「分かった。じゃあ、返事しなくていいからな。俺が勝手に今日の試合のこと喋るから。聞いてろ」
『・・・・・・ん』
 まだ入院していた頃、斗音は剣道の話を聞くのが好きだった。力なくぐったりしているときでも、慈恩が話し始めると、その目はきらきらと輝いて嬉しそうで。
(今でもそうやって、聞いてくれてるだろうか)
 優しい口調で話し出す。気配だけで、聴いてくれているのが分かった。徐々に囁くような声に変えながら、どれくらい話しただろう。向こうから、弱いながらも安らかな寝息が聞こえ始めた。それを耳に捉えたとき、懐かしい思いが胸に溢れた。
「・・・・・・おやすみ・・・・・・斗音・・・・・・」

 しばらくその静かな呼吸を確認してからそっとつぶやき、名残惜しい気持ちを理性で押さえ込んで、そっと通話を切った。

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