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四十.如月V.S.桜花

 シャワーを浴びた主人は、疲労の色を隠せない。まだかなり濡れた髪のままで、それでも着用したのは出掛けるための私服だった。
「・・・・・・お出かけになるんですか?」
 躊躇いがちに声を掛けると、薄茶の視線がちらりとこちらを見た。
「遅くなるかも。夕飯、要らないから沢村さんに伝えて」
 胸に重い鉛のようなものが沈み込んだ。またこの人は逃げようとしている。
「午前中にあれだけ激しく動いているんです。少しお休みになった方が・・・・・・」
「・・・・・・休むよ。心配しなくても」
 止めようとする言葉も、簡単に流されてしまう。それでも必死に追い縋らずにいられなかった。
「昼食は食べて行かれるでしょう?準備してありますよ」
「・・・・・・ごめん、要らない。動きすぎて、逆に食欲がない」
「いけません。そんなときこそしっかりエネルギーを補給しなければ・・・・・・」
「要らないって言ってるだろ」
 説得しようとした言葉は、強めの語調に阻まれた。突き放すような冷たさを含んだ言葉に、確かに傷ついた。思わず言葉を飲み込むと、一瞬疲れを載せていても惹かれずにいられない綺麗な顔が、泣きそうに歪んだ。
「・・・・・・ごめん。本当に・・・・・・食べられないんだ」
 視線を落としてそうつぶやくと、彼は振り切るように踵を返し、居間を出て行った。
「・・・・・・・・・・・・斗音、さん・・・」
 それから五分もしないうちに二階の部屋から階段を駆け下りていく足音がして、そのまま居間をのぞくこともなく、玄関から出て行く姿が窓越しに映った。振り返りもせず、一刻も早く、自分から離れようとするかのように。
(どうして・・・・・・斗音・・・・・・これでは俺は、何もできない・・・・・・!お前のために尽くして・・・・・・尽くすことができさえすればと思ったのに・・・・・・何もさせないつもりか!)
 ドン、と拳を壁にたたきつける。じんとした痛みが染みた。
「くそっ・・・・・・くそ、くそっ!」
 染みてくる痛みが悔しくて、何度も何度も繰り返した。無意識に、ポケットに忍ばせてある煙草に手を伸ばした。指先が震える。揺れる先に、揺れる炎を近づけた。深く吸い込むと、肺に独特の苦い煙が染み渡る気がする。それを溜息と共に吐き出した。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせる。
(あんな泣きそうな顔をされたら、何も言えない。分かっててやってるのか?)
 最後に主人を見送った窓を開け、風を通す。風は、冷たい。もうすっかり秋も深くなっている。その風で部屋の空気を洗い流す。残してはいけない、痕跡。
(分かってて、じゃない。あの人は自分の魅力にとことん疎いんだ。・・・・・・本当に、泣きたい気分だったんじゃないか。無理に食事を勧めてつらい思いをさせたか?)
 吐き出した白煙が風にさらわれていく。それをぼんやり眺めながら、ふと気づく。
「・・・・・・ごめん・・・・・・と、言ったか・・・・・・」
 申し訳なさそうに、つらそうにうつむいて。誰に対して?
「俺に、か。・・・・・・そうか、俺が傷ついたと気づいたからか」
 思わず唇が吊り上がった。心のおもりがじわりと溶ける。
(俺が傷つくのが、つらかったのか。ふ・・・・・・そうか)
 クックッと、肩を揺らして、込み上げる愛しさと笑いを、喜びと共に噛み締める。
(どこまでも優しい・・・・・・そして、甘い人だ)

 だからこそ、こんなに可愛い。指で軽く煙草を弾くと、先の灰が外の空気に散った。その灰と共に、重苦しい悩みも散って消えていくようだった。

 早足で駅に向かう斗音は、胸の痛みに何度も顔を歪めた。自分に特別な想いを抱く使用人がそんなふうに考えているとは、思ってもいない。ただただ、彼の寄せてくる想いが何か尋常ではないのが分かって、それに伴う行為が怖かった。触れられると、その先更に何かを求めてくるのが感じられて怖かった。だから、近づくのが怖かった。同じ空間にいることが怖かった。彼が嫌いというわけではない。心配してくれているのも、大切にしてくれようとするのも分かるけれど、本能的に恐怖感が先立ってしまう。何だか、それが飾られたもののような気がしてしまう。それで遠ざけようとしてつい言った言葉に、彼がはっきりと傷ついたのが分かった。自分を心配して言ってくれた言葉に対して、酷いことを言ってしまったと悟った。
(人として、最低だ。俺、ほんと最低だ)
 自分で自分を責めて、激しい自己嫌悪に苛まれていた。疲れた身体は重い。それでも何かを振り切りたくて、歩く速度を緩めたくなかった。
 見慣れた駅の入り口の脇に、大きなヘルメットを小脇に抱えて、止めたバイクの隣で自分に視線を向けていた人物が、やや長めの前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。斗音は更に小走りで、彼に駆け寄る。
「すみません、お待たせしました」
 軽く息を弾ませる斗音に、相手はわずかに眉根を寄せて見せた。
「何て顔してやがる」
「え?」
「馬鹿が。また何か抱え込んできやがって」
 ぶっきらぼうで愛想の欠片もない声に、乱暴な言葉。でもその優しい言葉に、傷だらけの心を揺さぶられて、斗音は泣きたくなった。投げてよこされたヘルメットを、両手で器用に受け取る。
「行くぞ。乗れ」
「・・・・・・はい」
 言われるままにヘルメットをかぶって、バイクの後ろにまたがる。
「しっかりつかまってろ」

 エンジンを吹かす音が自分の声を掻き消したのが分かったので、ぎゅ、としがみつくことで答える。いつものハードロック系のミュージシャンが好みそうなTシャツに黒の革ジャンを羽織った上からでも、その背が筋肉質なのがよく分かる。
 
逃げ込んでいく自分を、何の見返りも求めず受け入れてくれる瓜生の存在。ありがたく思いながらも、斗音は心苦しかった。彼を利用している自分が許せなくて、それでも彼を頼らなければ自身を保っていられない状態だった。だから、際限なく自分に嫌気がさして、その悪循環が斗音の精神的な部分を侵食していた。木下が感じた斗音の覇気のなさは、様々なところに起因していたが、ここにもその源があった。
 
瓜生は斗音と二人で出歩きたがらなかったし、斗音になるべく負担を掛けないようにという気遣いからなのだろう、こうして迎えに来てくれたりはするが、向かう先はいつも、家族の存在しない瓜生の家だった。何をするというわけでもない。瓜生は斗音がいても自分の生活ペースを変えはしなかったし、斗音は宿題をしたり、家で睡眠を取れない分眠ったりして時間を過ごす。食事は大概瓜生が準備してくれるが、瓜生も斗音の食欲のなさを理解しているので、いつもより少し余分に作る程度のようだ。斗音は世話になりっぱなしなのを気に病んで、一度食事の準備を手伝おうとしたのだが、普通の食事ですらお世辞にも上手に作るとは言えないのに、余分なカロリーを摂取しないようにしている瓜生のためにできることは、はっきり言って皆無だった。ぶっきらぼうながらも斗音が傷つかないように、瓜生は(瓜生にしては)丁重に断ったものだった。
「俺は俺が食いたいものを、俺がそのとき一番食いたい味で作れる自信がある。でも、それを上手くお前に伝える自信はない」
 そう言われた斗音は、思わず苦笑してしまったが、それが瓜生の優しさなのだと分かっていたので素直にうなずくしかなかった。
「練習試合だったんだろ。昼は?」
 いつものように瓜生の家の居間でソファに腰掛けると、瓜生からそう問われた。食欲のなさを理解している上で、それなりに食事のことは気にしてくれているらしく、いつも必ず食事をしたかどうかを聞かれた。小さく首を横に振ると、そうか、とだけ言って、明太子の和風スパゲティを作ってくれた。オイルを控え目にする代わりに大根おろしを和えてパスタがぱさつくのを防ぐという、技ありものだった。
「丁度俺も食ってない。食えそうなら少しでも食え」
「ありがとうございます」
 そう言われれば、一口でも食べないわけにはいかないので、斗音はそれを口にする。おいしい、と思う。慈恩ほど洗練されてはいないが、瓜生の作る料理は男らしく大雑把でありながら、絶対はずれはない。それでもフォークに絡めたそれを数回口に運ぶのが限界だった。
「水分補給だけはしとけよ」
 無理に食べさせようとはしない。その代わりに冷えたスポーツドリンクのペットボトルをゴン、と机の上に置いた。練習試合があると知って、買っておいてくれたのだろう。ここで斗音がその金額を返そうとすると睨まれるのを知っているので、礼を言って受け取る。そんなところは、嵐の知り合いの青年に似ている気がする。彼の場合は瓜生とは対照的に饒舌だから、睨まれた上皮肉たっぷりにたしなめられるのだろうが。
「疲れてんだろ。今日はそこでゆっくり休んでろ」
 それだけ言うと、食事を終えた瓜生は食器を持って居間を出て行った。うなずいて見せる間もなかった。いつもこんな調子だが、それこそ斗音が何をしていようと、大して気に留めることもないので、斗音としては非常に気楽だ。ありがたく水分補給をしてから、ソファに横になる。たちまち重い身体から意識が遠のいていく。酷く疲れが溜まっていたのだと、消える意識の片隅で思った。

 食器を片付け終えて戻ってきた瓜生は、既に深い眠りに落ちた斗音を、片目を眇めるようにしてじっと見つめてから、薄い毛布でその華奢な身体をそっと覆った。

   ***

 先鋒から大将までが並んで坐礼をする。近衛は大将の位置で非の打ち所のない礼をほどこしつつ、内心まだ複雑さを抑え切れずにいた。対戦相手は如月高校。彼らの特徴と、それに対してどう対応すべきかを丁寧に語った慈恩が、いかに如月高校の部長にふさわしかったのか、その一人一人の資質を見抜いていたことで容易に分かった。そして、彼を失った如月高校が、どれだけの痛手をこうむったのかも。
 先鋒として出場した秋月は、アドバイスを無駄にしてはならないという気負いがあったのだろうか、いつもの元気さに欠け、最初ひどく動きが硬かった。対する斉木という少年は、強引なまでに攻める強気な剣道だった。
「斉木には退いちゃいけない。どっちかっていうとあいつの場合必ず勝ちを取るための先鋒だ。かなり攻撃的だから、退いた瞬間打たれる」
 慈恩からのアドバイスだった。それもかなり的確だったが、そのアドバイスをもらいながら防戦一方の秋月にやや苛立ちを覚える。
(退くなって言われただろうが!何やってんだ!一息で三本くらい打ち込みやがれ!)
 さすがに決勝、会場中が注目している。声を上げるのは試合をしている本人たちだけで、観客すら息を飲んで見守っている。そんな中でチームの一人である自分がそんな言葉を口に載せることは許されるはずもないので、理性で腹の内に収めている。
(せっかく慈恩が教えてくれたことなんだぞ!分かってんのか!)
 苛つく近衛の隣で、副将の慈恩は静かな空気をその身にまとっていた。漆黒の瞳には、かつての仲間と現在の仲間の真剣勝負が真摯に映し出されている。そのあまりに静かな、オーラに似たものを感じて、近衛はそっと隣を見遣った。ほとんどその表情は読めない。でも、その膝の上で握り締められた拳には、はっきりと力が込められているのが分かった。
 どんな思いで見ているのだろう。どちらを、心の中で応援しているのだろう。そう思うと何か胸が塞がれるような気がした。
「らあああああっ!」
 「やあ!」というのが一般的な掛け声だと思うが、斉木の場合は「うらぁ!」と聞こえる。いや、間違いなくそう言っているだろう。性格も攻撃的に違いない。その掛け声と共に、竹刀の打ち合わされる激しい音が会場内に響き渡る。一息で、一度踏み込んだら必ずと言っていいほど二段以上の攻撃を仕掛けてくる相手だ。体力はかなりあるらしい。秋月も速さではひけをとっていない。ただ、それを生かし切れていないのがもったいない。

 そんな近衛の焦れる思いをよそに、防戦一方だった秋月は、しかしながら一本も取られなかった。残念ながら、自分も一本も取れなかったのだが、絶対に消極的に退いたりはしなかったからだ。0-0の先鋒戦に、会場中の張り詰めていた空気が溜息のようなもので緩む。
 
秋月の退場に従って、和田が前に出る。その視線が自分に降りかかる。
「信じてるからな」
 明らかに自分と慈恩に向けられた声だった。和田には自分の不利が嫌というほど分かっているのだろう。和田にない粘り強さを持つ堂本。それでも、あっさり負けるわけにはいかない。仲間を信じることで精一杯やるしかない。それが和田の覚悟だった。近衛は無言でうなずく。慈恩が和田を見て、小さく首を縦に振ったのが分かった。
(桜花剣道部の一員として、慈恩は頑張ろうとしている。どっちの応援をしていようと・・・・・・慈恩自身はここの剣道部員として精一杯やってくれる)
 近衛の心の中に、何かわだかまっていたものがふっと軽くなった。和田にできていたことが、自分にできていなかったのだと理解し、自分を恥じた。
(慈恩に仲間の情報を売らせたくない、だなんて・・・・・・。そうじゃない。このチームの一員として、仲間を信じて、自分の精一杯を尽くす。それがこのチームの一員としてすべきことだ。慈恩の気持ちを考えた気になって、如月を応援したいんじゃないかなんて疑って。俺のすべきことは、チームの一員として慈恩を、仲間を信じること。それだけだ!)
「堂本は粘り強いよ。スタミナもある。技の鋭さはそれほどでもないけど、四分間ずっと足を動かし続けて相手の技を封じたり自分の技を打ち込む機会を作ることができる。大振りは禁物」
 冷静に分析していた慈恩だが、果たして和田がそのアドバイスをどれだけ生かせるか。確かに相手の選手は技術も速さもそれほど抜きん出てはいない。しかし、開始の合図から小刻みな脚の動きは、四分間動き続けられるその持久力に対する自信をうかがわせた。和田に気負いはなかったが、明らかに動きに差があった。動けるということは、技を出せる機会も増える。和田が堂本に詰め寄ろうとすると、すっとかわし、逆に一気に間合いを詰めてくる。慈恩の助言を受けているおかげで、和田は大振りをせず、懸命に相手を牽制し続けた。しかし、それを実行するのが限界だった。それをかわされて、すかさず仕掛け技を二段三段で打たれて、攻めの種類も豊富な堂本には対応できなかった。三分十三秒の時点で見事な小手面の二段技を決められ、小手は防いだもののまともに左面を喰らってしまった。それでももう一本取られずにいたのは、和田の精神力が最後まで途切れることがなかったためだろう。一切油断せず、諦めもせず、守りにも徹することなく、堂々と相手校の次鋒と渡り合った。
「・・・・・・悪い。負けちまった」
 低い声でそれだけ言った和田の肩を、近衛はそっとたたいた。中堅の鳳が試合場に入る。
「いい試合だった。おかげで気合が入った」
 そう静かに告げて、試合場の向こうに同じように控える相手を見つめる。言葉に嘘はなかった。和田のおかげで、色々と吹っ切れた。今は目の前の試合に集中する。ただそれだけだ。
 鳳は182cmの長身の持ち主だ。現桜花剣道部一の身長は、小柄な小林に対しては大きな武器になるに違いない。リーチが全く違うのだから。

「小林は小柄だけど、その分動きが速い。さっきの高天ほどではないけど、本当に身軽だから、いつどこから攻めてくるか常に予測しておいた方がいい。引き技が得意だから、踏み込んできたと思ったら慌ててそれに応じないこと。それを狙ってる可能性が高い」
 というのが慈恩からの助言だった。鳳はいい状態で中堅戦を迎えていた。鳳は近衛に近いくらい慈恩を信頼している。慈恩が後に控えていることが、彼の精神状態を安定させているのだろう。パワーが持ち味の鳳だったが、それに任せた大振りや返しを控え、相手が引くときには踏み込んで技を出せない距離まで詰めるなど、積極的に慈恩の助言を生かそうとしていた。だから、近衛も比較的平静でいられた。が。
(強い・・・・・・技が全てかわされる。ずっと小刻みにすり足ができているから、鳳が大振りしなくてもその技に応じられる体制ができるんだ。引き技を封じてなければ、完全に鳳が負けている)
 鳳は慎重に試合を運んだ。小林があまり自分から仕掛けてくるタイプではないので、鳳が仕掛け技を繰り出すのだが、確実に応じ、引き技を出そうとしてくるので、更にそれを潰す形になる。鳳の技もそれほど鋭いわけではないので、どちらも技を繰り出しながら、それを受け、ぶつかり、返し、応じ、見応えのある試合であるにも関わらず、無情にも四分間はたちまち過ぎていった。
「やめ!」
 審判の両手の旗が上がり、その旗が交差した。
「引き分け!」
 どよっと会場がどよめく。中堅戦も0-0。近衛は自分の胸に鋭く緊張が走るのを感じた。ここまで一敗ニ引き分け。慈恩は勝つだろう。となれば大将戦で、勝負がつく。自分に全てが、掛かってくる。
 衣擦れの音以外は立てずに、す、と慈恩が試合場へ進む。既に面の奥の表情に笑みはない。見据えるのは、相手の副将。全国大会で慈恩を副将にしたように、副将で確実に一勝を取るという、篠田の策は健在だった。
「田近はオールマイティーな選手だ。力は百瀬ほどじゃないけど、近藤さんに鍛えられてかなりパワーアップしてる。技術、スピードはかなりレベルが高い。応じ技も仕掛け技も、相手によって使い分けができる。何より精神面の強さが、今の田近にはある。間違いなく、今の如月ナンバーワンだ」
 怪我をしている身体で、歩き方もまだややぎこちない。でも慈恩には、恐ろしいほどの精神統一が可能だ。事実、先の試合でも、睦田に見せたぎこちない様子は嘘ではない。試合場の中で、恐らく彼は試合に不必要な全ての感情を捨て去ることができるのだ。だから試合ではその影響を微塵も感じさせない。もちろん、痛みはあるだろう。でもそれ以上の精神的な強さで、自分の身体に躊躇いを許さない。痛みを通り越して、いつもに近い動きを自分にさせるのだ。
 もちろん、痛みは人間の防衛本能であり、それを通り越した動きなんて身体にはいいはずがない。きっと傷には障っている。それを通り越せるその精神力に、近衛は恐れを感じながらも、同じ剣道をたしなむ者として惹かれずにはいられない。
 開始線につき、互いに礼。蹲踞から、田近は中段の構え。慈恩は下段の構え。どちらも粛々とした空気をまとっている。
 比較的静かな始まりだった。田近は慈恩の戦い方を熟知している。憧れて、見続けてきた相手だ。出された技に応じてくるのが慈恩の定石。となれば、簡単には技を出してこない。中段のままで牽制している。慈恩は冷静に下段のまま、中段の牽制に対応している。牽制の中のどれかひとつがいきなり打ちに来ても、応じられる対応だ。どちらも細かく常に足が動いている。全く踵は床に着かない。
「やぁっ!」
 短い掛け声で、田近が軽く踏み込んだ。打つと見せかけて間合いを詰め、それに丁寧に応じる動きを見せた慈恩の竹刀を打突部で押さえつける。
(なるほど、あれでは自分の技も出しにくいけど、下段の構えはもっとそれに応じにくくなる)
 つかず離れず、田近は慎重だ。慈恩は竹刀をやや封じられた形だが、全く動揺してはいない。会場中に、これでもかという緊迫感が張り詰めた。すい、と慈恩が動いた。まるで流れる水のように自然な動き。
(なっ・・・)
 押さえつけられていたはずの竹刀が、一瞬のうちに自由になっていた。牽制し、押さえつけていたはずの田近の竹刀は、慈恩が右足から踏み込んだ時点で何の抵抗もなく払い上げられていた。その間に慈恩の竹刀が見事に無駄のない動きで田近の面に迫っていた。
(速い・・・・・・!)
「やあぁあっ!」
 払い上げられた竹刀を、その位置から田近が素早く手首を翻して、面前に一直線に持ち上げた。ぱしいっ、と竹の打ち合わされる厳しい音。
(ふ、防いだだとっ?)
 慈恩の面を受け、そのまま強引に相手の竹刀を弾き返す。そして田近が踏み込んだ。右面狙いだ。すっと右足を引いてそれを難なくかわし、慈恩が勢いよく打って出た。大きく振りかぶって力強い踏み込みと共に正面を打ち込む。素早い反応で、田近はそれをかわした。続いて左面が、左小手が、更に右小手が、田近を襲う。だが、根気強く田近は受け、流し、かろうじて一本を防いだ。更に右面、翻した竹刀で左胴。打つと見せかけながら、右や左を集中攻撃しておいて、逆の部位を狙う。防戦一方の田近だ。それでも、その六段攻撃を全てしのぎ切った。と、思ったとき。
「とぉっ!」
 一瞬攻撃を終えたかと思った慈恩の竹刀が、一拍リズムを崩して田近の咽頭部を襲った。一斉に上がる赤旗が三本。
「突あり!」
 会場からおおおおっとどよめきが沸き起こった。近衛は胸に熱いものが込み上げるのを、必死で飲み込んだ。
(一息で・・・・・・七段・・・・・・!)
 六段までを防ぎきった田近にも感動すら覚える。あの左右の集中攻撃を読むのは至難の業だ。しかし、それすら越えて、わざと攻撃がひと段落したと思わせる一瞬を置いての突き。
(何て奴・・・・・・!)
「二本目!」
 再び静寂が訪れるが、その空気には会場内の興奮が熱となって漂っていた。
(あんな連続技見せられたら、応じでは間に合わない。かといって、慈恩は応じ技が得手。田近は迂闊に手が出せない。・・・・・・さあ、どうする?)
 それでも田近は冷静に構えていた。焦って攻めるでもなく、どうすることもできず慈恩が動くのを待つでもなく、自分の間合いを計りながら丁寧に牽制している。いつでも自分が打って出られるように、あらゆる角度から、あらゆる隙をうかがっている。
(・・・・・・オールマイティーか。なるほどな)
 その何瞬かのうちの一瞬を選んで、田近は下段で構えている慈恩に打ちかかり、それに応じようとした慈恩の竹刀を、右足から踏み込みながら斜め左に払い落とし、その次の瞬間でダン、と身体全体で踏み込んだ。払い面打ちは、流れるような動作でかわした慈恩のために、空を打つ。しかし空を打たされたその竹刀で、一度軽く踏み込むと見せかけてから再び力強く踏み込んで左面を狙う。その打ち終わる瞬間、慈恩は右後ろに退き、更に田近の竹刀に空を打たせ、その肘が伸びたところに右足から踏み込み、面を狙う。目にも留まらない鋭い面だったが、空を打たされた瞬間そう来ると悟ったのだろう、田近は低く踏み込んで左胴を狙ってきた。
「やぁああっ!」
 その面をかわすための低い姿勢のため、慈恩の竹刀は空を打たされた。しかし、打ち込んでも慈恩の踵は床に着かない。打ち込んだその足で機敏に右に身体をかわし、空を打った次の瞬間には田近の竹刀を自分の左斜め前下に打ち落とし、その勢いのまま踏み込んで正面を狙った。田近は体当たりに近い格好で自分の面を慈恩の腕の下までもぐりこませ、掲げた竹刀で面を止める。そのまま慈恩の後ろへ回りこむ田近に、回りこまれた慈恩も素早く体勢を整え、正面で対峙する。
 静と動のメリハリが大きな試合に、観客も息を飲んでいる。一通り動が終わって静が訪れると、会場そのものがほっと息を吐き出したようになる。
(ハイレベルな攻防だ。端から見るよりずっと体力は消耗してるに違いない。精神的なところで、どれだけ違うか・・・・・・)
 三分が経過する。残り一分。慈恩にこれだけ長い間試合をさせるというのは、大したものだ。当たったのが自分だったら負けていたかもしれない、と近衛は背中に冷たい汗を感じた。

「やああああ!」
 ひと際気合の入った声が、田近から迸る。そこから田近の猛攻が始まった。素早く慈恩が応じの形を取る。
(左小手、正面、右面、左面、左小手!こいつもこの場面で五段・・・!)
 連続技は息を止めての攻撃だ。体力、持久力、肺活量、筋力、そして何より苦しい中で自分とも戦う精神力が要る。如月の選手は鍛え方が違う。己に甘さを許していれば、この局面でこの苦しい攻撃を仕掛けることは不可能だ。しかも、その攻撃のどれをとっても一級品なのである。それを軽々とかわす慈恩の方が普通ではない。
 最後の左小手を受け流された田近と、受け流した慈恩の竹刀が、ここで初めて接近した二人の間でつばぜり合いとなる。互いに力で押すタイプではない。そのつばぜり合いも一瞬だった。半歩前に出て押すと見せかけたその足で、慈恩は斜め後方に退きながら、面を繰り出す。最初のフェイントで田近はやや遅れたが、かろうじて振りかぶった竹刀を、手首を上げて面の前に一文字に構え、受け止めた。慈恩はその瞬間、強く踏み込んでその竹刀を敢えて強打する。無理な体勢の田近の手首には、相当の負担が掛かったに違いない。その上で、慈恩は再び開き足で後方に引くと同時に、がら空きの左胴を打ち抜いた。
「胴っ!」
 試合終了九秒前、試合場の三箇所で再び赤い旗が上がった。
「胴あり!勝負あり!」
 大きなどよめきが会場から湧きあがった。レベルの高い試合を褒め称える拍手もあちこちから飛ぶ。
「お疲れ。やっぱりお前は、すごい」
 礼をして試合場をあとにしてきた慈恩に、すれ違いざま声を掛ける。慈恩は面の奥で静かに微笑んだ。
「あとは任せた、大将」
「・・・・・・おう」
 思わず笑みを返す。無駄な力が、肩から抜けた。和田が教えてくれたこと、慈恩に任されたこと。全て、今の自分が全力を出して初めて、まっとうできる。だったら、やるだけだ。今の自分の、精一杯で。
「百瀬にはパワーがある。上手さもある。如月の近藤さんを知ってるか?あの人をひとまわり小柄にした感じ。体格の面で、あの人には多少力の面で劣るかもしれないけど、技術的には近いと思うよ。成長次第で全国を狙える素質がある。強引にいっても、力では負かされるかもしれない」
 慈恩の言を信じるなら、応じ技の方がいいだろう。しかし近衛は応じるより仕掛けるほうが得意だ。本来の実力で言えば、ナンバー2同士、対等と思っていいだろう。だったら、仕掛けておいて応じ技を予測して二段三段で更に仕掛ける。隙を作らないように積極的に攻めよう、と作戦を立てる。
 開始線につくと、身長ではやや自分より下だが、体格的には自分を上回る相手も同じように開始線につく。互いに礼をして顔を上げると、相手の表情が面越しに見えた。
(・・・・・・え?)
 微かに微笑みかけられた。田近に自分のことを聞いたのだろうか。その友好的な雰囲気に、如月の一面を見た気がした。いい試合をしよう。そう言われているのが分かった。緊張感はなくならなかったが、自然と再び笑みがこぼれた。
「始め!」
(慈恩と共に一年半高め合ってきた相手だ。その腕、見せてもらおう。俺は俺の精一杯で必ず優勝をつかむ!)
 互いに蹲踞からの構えが終わる。ふっと空気が張り詰める。緊張感が心地いい。
 百瀬の竹刀が上がった。
(いきなりか!)
 中段の構えから、あらゆる可能性を模索する。その竹刀を、いきなり右足の踏み込みと同時に右上に払い上げられる。
(まずい、受身になっちまう!)
 積極的に攻めようというのは互いの作戦のようだ。払い上げられると同時に身体ごと突っ込んでくる。
(右小手!)
 身体に叩き込まれた反射的な反応だった。開き足の左足から斜め左後方に瞬間的に退き、右拳を外側にひねるようにして竹刀の先で応じる。素早く返せば踏み込んで正面を叩き込めるはずだった。しかし、相手の打ってくる力が強い。返すのに一瞬遅れる。踏み込むことができない。
(強い・・・力だけなら慈恩と互角!)
 返された百瀬は、更に退かずに至近距離で面を打ち込んでくる。退く瞬間を作らないつもりだ。
(近藤・・・だったか、如月の元大将。強かった。こんな感じで滅茶苦茶強気で攻めてくる。受け継いでるのか!だったら俺も退かない!)
 真正面で竹刀が大きな音を立てる。激しいつばぜり合い。しかし力は相手が上だ。押される。隙が生じる。
(だったらこれでどうだ!)
 踏みとどまって、力一杯体当たりする。それでようやく押し返した。互いにバランスが崩れる。
「やあぁっ!」
「ああぁあっ!」
 一瞬にして互いに押し合いの反動から出したひき面。激しい衝撃が頭部を襲う。同時に自分の竹刀にもはっきりと手ごたえを感じた。ばっと主審の旗が上がる。上がったのは、白。百瀬のつけているたすきの色。さすがにひやりとする。同時にざわっと会場がどよめく。不審に思って自分の脇に視線を遣ると、赤の旗が上がっていた。
(あと、ひとつは?)
 主審の反対側の審判は、旗が上がっていなかった。代わりに下で素早く打ち消しの合図。

(・・・・・・棄権?無判定!)
 
本当に同時だったのだ。自分でも分からなかった。互いに素早く構えを取る。宣告はない。続行だ。

(強い、強いぞ。確かに強引にいくばかりじゃ駄目だ。応じて力を殺さないと!)
 ある程度自分の力には自信があった。だから相手がどの程度のものかを測るため強引にいってみたのだが、やはりパワーは相手が上。ここから慈恩のアドバイスが、どれだけ生かせるか。
 互いに間合いを取って、今度は慎重に構える。百瀬は上段構えだ。あくまで攻撃主体で来る。近衛は中段で構え、その切っ先で相手を牽制しながら常に足を動かし続ける。上段に対しては退けない。退いた瞬間に攻められる。
(上等だ。まずは攻めさせる!)
「やぁああっ!」
 相手の咽頭部めがけて突を繰り出しながら踏み込む。瞬時に間合いが詰まる。竹刀を跳ね上げ、右小手を狙う。それをかわして百瀬が同時に右小手を狙って打ち込んでくる。
(来た!)
 左足を斜め後ろに退くと同時に身体をかわし、相手の竹刀の正中線を竹刀で受ける。その力を流すように右上に百瀬の竹刀をすり上げ、ダン、と踏み込んだ。相手の正面を強襲する。
「めぇん!」
 今度は同時に三つの旗が上がる。全て、赤。
「面あり!」
 慈恩の言ったとおりだ。力でいかないほうがいいらしい。開始線に戻り、「二本目!」の合図で再び中段に構え、相手を牽制する。百瀬はそれでも上段だ。
「あああぁっ!」
 構えざま踏み込んでくる。
(くっ)
 重い打突。眼前で受け止めたのもつかの間、次の瞬間には竹刀が翻って右小手を狙われる。先ほどと同様にやや退きながら応じる。が、応じ技を出すより速く、三段目の面が襲ってくる。応じようとした竹刀を無理やり斜めに押し出すようにして受け止めた。どれも手首に響く力強い技だ。
(くそ、もう少し俺が鋭く技を出せたら!)
 つばぜり合いから引き胴を打とうとしたが、素早い足の動きで身体ごと避けられ、空を打たされた竹刀を打ち落とされた。そのまま威勢のいい掛け声と共に踏み込んでくる。

(させるか!)
 近衛も踏み込む。間合いが詰まりすぎて、百瀬は面を打てなかった。強引に互いの間に竹刀を割り込ませ、何度目かのつばぜり合い。
「あああああっ!」
 ぐん、と踏み込まれた。強い。足が間に合わない。バランスが崩れる。竹刀を力ずくで跳ね返され、よろめいたところを胴が襲ってくる。必死で腕を上げ、手首をひねり、宙に上がってしまった竹刀の先を相手の竹刀と胴の間に滑り込ませる。バシイっと激しい竹の音が響く。手首の腱が悲鳴を上げたくなるほどの打突だったが、かろうじて止める。更に百瀬が踏み込む。腕を折りたたむようにして眼前に竹刀を構えた。激しい衝撃に手首が痺れる。更にその勢いのいい、体当たりに近い打ち込みに、よろめいた足は耐えられなかった。全身が床にたたきつけられる。
 主審の旗が二本とも突き上げられ、試合が中断する。一本の宣告はない。
(何てパワーだ・・・・・・!)
 どっと汗が流れ落ちる。立ち上がると、百瀬が軽く頭を下げ、手を差し伸べる。礼儀正しい。やはり全国レベルの学校は、マナーも一流だ。
 残り時間は既に数十秒だろう。主審が勢いよく旗を下ろす。
「あああああーっ!」
「やぁああああっ!」
 同時に踏み込む。狙ったのは互いに面。それと分かって互いに竹刀をやや斜めにして受ける。百瀬がそれを強引にすり上げてきた。させてたまるかと押し止める。互いに踏み込み、ギリギリと竹刀が音を立てる。
(押し合いは不利だ)
 押すと見せかけて素早く退いた近衛だったが、読まれていた。百瀬が踏み込んでくる。退いた分、受けるしかない。右面、右小手、左小手と三段で技が繰り出される。全てにかろうじて応じる。更にもう一本面が襲ってくる。
(この局面に来て、何て体力だよ!)
 防戦一方だ。でも意地がある。絶対に一本取らせたくない。防御ばかりでは隙が生じる。最後に打ち込まれた左胴を、素早く引いた足で身体をひねってかわし、手首を上げて竹刀の先で受け流す。そのまま竹刀を振りかぶって踏み込んだ。百瀬が真正面で面を受け止める。更に踏み込んで小手を狙うが、かわされる。それでも諦めず、決死の思いで面を打ち込んだ。しかしそれも百瀬の竹刀に阻まれた。それ以上は息が続かなかった。三段が限界だ。百瀬は五段を打ち込んできたというのに。その瞬間を、今度は百瀬が狙ってくる。腕が重い。それでも諦めるつもりは全くなかった。慈恩との係り稽古なら、これくらいの腕の重さは経験がある。耐えられないはずがない。百瀬は強く踏み込んで、面を打ち下ろしてくる。とっさに頭を避けるが、その竹刀がまだ宙にあるのを見てひやりとする。
(フェイント!)
 その位置から再び面が打ち下ろされた。これは本物だ。避けた頭上から襲ってくる。避けられない。
「やああああああ!」
 近衛は構えた竹刀ごと強引に踏み込んだ。間合いが詰まりすぎて百瀬の面は空を打った。面には柄と百瀬の小手が当たる。ぎりぎりだ。もう一瞬でも遅かったら、面に当たっていたのは間違いなく竹刀の打突部だった。
「やめ!」
 突如、主審の旗が上がった。はっと顔を上げると、百瀬が悔しそうに歯を食いしばっていた。計時係の旗が上がり、四分が経過していた。会場に溜息とも吐息ともつかないものが満ちる。
「勝負あり!」
(・・・・・・勝っ・・・・・・た・・・・・・・・・・・・?)
 再びどっと汗が噴き出す。主審の指示で蹲踞から竹刀を納め、互いに礼をする。膝が急にがくがくと小刻みに震えだす。それを心の中で叱咤しながら、仲間の元へ戻る。みんなが力強くうなずいた。そこで初めて、自分が勝ったのだと実感した。
「・・・・・・慈恩」
 そっと呼んだ相手は、静かに微笑した。わずかにうなずいてくれた。
 拍手とともにわああああっと会場が沸く。桜花高校の初優勝が決定した瞬間だった。
 最後の挨拶まで礼儀正しく振舞った田近だったが、それが終わった瞬間、試合場の外に飛び出して小手を外し、その上に焦れながら外した面を置いて、慈恩に駆け寄ってきた。同様に面まで外した慈恩に、飛びつかんばかりの勢いで握手を求める。
「慈恩と残り十秒を切るまで戦えた!滅茶苦茶楽しかった!」
 本当はつかんだ手をぶんぶん振りたい気分だろうが、田近は涙を浮かべながらも抑えてそれをせず、ぎゅっとつかんだ手に力を込める。
「ありがとう・・・・・・チームは負けたけど・・・・・・お前とこんなふうに真剣勝負ができて、俺っ・・・・・・今滅茶苦茶悔しいけど、滅茶苦茶幸せだ・・・・・・っ」
 込み上げる思いに言葉をつかえさせながら吐き出すように言うと、どちらかというとあどけなく見えるその表情をくしゃっと歪めた。その瞳からは次々と涙が溢れ出す。
「お前、強いな。やられた。さすが、慈恩に鍛えられてるだけあるな」
 田近に目を奪われていた近衛の前に、にゅっと手が突き出される。がっしりとした体格の百瀬が、にこやかに握手を求めていた。外したばかりの面を小手の上に置き、近衛は握手に応える。
「あんたこそ・・・・・・。俺は押されっぱなしだった」
「何言ってんだよ。押し切らせてくれなかったくせに」
 肩をすくめた百瀬だったが、握手した右手を力強く握り返してきた。
「いい試合だった。ありがとう」
 ジン、と心に何かが染みて、広がるような気がした。試合をしてこんな気持ちになったのは、初めてだった。小さくうなずいて、その手を握り返す。
「ああ・・・・・・ありがとう」
 近衛の隣で、涙の止まらない、自分より少し背の低い田近を、慈恩は漆黒の瞳をわずかに細めて見つめていた。
「俺・・・・・・っ、お前の怪我のこととか、分かってたけどっ・・・・・・でも全力でやりたかったから・・・・・・っ」
 
気遣えなくてごめん、とうつむくその肩を優しく抱いて、ううん、と首を振る。
「・・・・・・嬉しかった、全力で戦ってくれて。お前との試合・・・・・・楽しかった」
 漆黒の瞳が潤む。肩に額を押し付けるようにして泣く田近の背を、ぎこちない動きでそっとあやすようにたたいて、慈恩は微笑んだ。
「・・・・・・本当に、強くなった」
 その言葉を皮切りに、人目もはばからず田近が号泣するのを、近衛は胸の詰まる思いで見つめていた。会場からいつしか起こった拍手は、しばらく止むことはなかった。

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