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三十八.波乱の新人戦

 秋の陽光は強すぎもせず、風はからりとして、夏に比べると明らかに肌を掠める温度を下げていた。そんな気分爽快、スポーツの秋だ行楽日和だと浮かれたくなるような日曜日。桜花高校の剣道部員たちは、思い詰めた表情を隠し切れなかった。浮かれる気配は微塵もなく、むしろ雰囲気は撃沈状態である。
 事は一週間前、部内で正確なところを知るものはほとんどいないが、詳細は知らずとも半数は起こった異変に気づいた、あの鷹司による慈恩への逆恨み的な暴行事件の翌日に起こった。まだ打たれた身体が麻痺して、本当の痛みに襲われる前の慈恩と、その応急処置をした近衛が、和田に遅れること十数分で剣道場へこっそり戻ったとき、コーチは軽く瞠目した。慈恩の剣道着が何か黒ずんだもので汚れており、何よりその顔の右辺りにガーゼをあてがっているのを見て取ったからだった。しかし、すぐに慈恩はその場から消えてしまったので、あとの人間はほとんど気づかなかった。ほとんど何事もなかったかのように・・・・・・もちろん、慈恩はそのまま近衛家へ向かう羽目になったのだったが・・・・・・、とりあえずその日は過ぎていったのだった。しかし、それでほっとしたのもつかの間、翌日土曜日の午後の練習で、衝撃的な言葉が顧問の口から飛び出したのだった。
「あの、先生!それは一体、どういうことですか!」
 顧問の言葉に色を失い、厳粛な空気を発せずにいられない驚きの声で壊してしまう仲間たちの中、唯一まともな言葉を口にできたのは近衛だけだった。そんな部長に対して、顧問は何の感慨もなさそうに、うむ、と答えた。
「そう思う者もいるだろうが、なに、大したことではない。九条はこの部において一番経験が浅く、新人同様だということだ。だからいつもどおり、今回の新人戦には、この部でずっと頑張ってきたメンバーを優先に出場させることにしたんだよ」
 は?と、相手の言に皮肉を込めた聞き返しをしたかったのは、近衛ばかりではない。その決定に納得する者は、皆無と言ってよかった。そんな中、一人納得顔の顧問は指を折りながら丁寧に繰り返した。
「大将は部長の近衛、副将が副部長の東坊城。これは動かないだろう?そして中堅が鳳、次鋒が和田で先鋒は秋月。妥当なところだ。控えメンバーとして一乗寺、九条が入る。九条が控えにいれば、みんなも心強いだろう。メンバーに選ばれた者は心づもりをして今週の練習に臨むようにしなさい。以上だ」
「でも先生、勝とうと思ったら、九条を控えに置いておくのはもったいなさ過ぎます。九条はインターハイ3位の選手なんですよ?!」
 真っ先に言ったのは・・・・・・和田だった。全員が大きくうなずく。更に近衛が付け足した。
「慈恩を後に控えさせようと言うのなら、彼を大将にすべきです。私は全く大将にこだわる気はありません。なんなら私が控えメンバーに入っても構わない。彼を・・・・・・九条を大将にしてください」
 その発言には、ザワ、と部員がどよめいた。さすがに「それはもったいない」「近衛は出るべきだ」と言う声があちこちでこぼれる。やや小柄で、パワーはないがスピードに長けている秋月が手を挙げた。
「先生、俺、控えでもいいです。やっぱり近衛は戦うメンバーに入るべきだし、九条は入部して日が浅いとかいう問題じゃなくて、絶対出るべきだと思います。九条の強さは、誰もが信じています」
 慈恩や近衛と並ぶ長身の持ち主で、パワーに長けた鳳も口を挟んだ。
「俺もそう思います。九条が入るなら、俺の三倍・・・・・・いや、十倍の戦力になると思います。誰かが抜けなきゃいけないって言うなら、俺、抜けてもいいです。うちの部員としての九条を、試合会場で見られるなら・・・・・・」
 睦田は慌てた。全く予想外の反応だった。しかし、彼は言い出した自分のプライドを生徒のために折ることと、もうひとつ強力に刺された釘を自力で抜くことはできなかった。
「何を言っている。試合に出たくないというのか?今までじゃあ、一体何のためにお前たちは頑張ってきたんだ。三年生が引退して、ようやく自分たちの番になったんだぞ。それを平気で出なくていいというのか」
 鳳と秋月は唇を噛み、眉をひそめたのは近衛と和田だった。
「平気なんかじゃありませんよ」
 思いを声で具現したのは和田の方だ。睦田をぐっと詰まらせる。
「平気なわけないじゃないスか。やっと出られる。そんなの分かってます。だけど、今回は団体戦ですよね。俺たちはずっと、九条が入ったから、今年は上まで行けるって、そう思って、そう自分たちで励まし合ってきたんです。その中で自分が選ばれたら、一緒に上まで行けるって、そう信じて、それに期待してきたんです!」
「しかしだな。お前たちが三年生に対して遠慮していたのと同じことだぞ?九条だって、平等に扱われた方が心苦しくないだろう」
「平等?何がですか?同学年に何の遠慮をしろって言うんです?」
 ちょっと驚いたのは慈恩だった。和田には皮肉なことを言われることも多く、自分に対してそれほど好感をもっているとは思っていなかった。しかし、その発言で顧問の顔が醜く歪んだので、慌てて和田の乗りだし気味の肩に手を置いた。振り返った和田の目に、白いガーゼで右のこめかみと耳を覆った慈恩が映る。部員たちには昨日の帰りに車と接触事故を起こしたのだと、表向きの言い訳をしてあるが、鷹司に呼び出された挙句にいきなりの早退を、部員が不審に思わないわけがない。和田は本当のことをぶちまけてしまいたかったが、やはり鷹司が怖くてできなかった。
「和田、抑えて・・・・・・」
 困ったように言った慈恩に、和田は苦虫を噛み潰した顔になる。
「でも、九条!」
「和田、ちょっと抑えてくれ。少し、聞きたいことがあるんだ」
 実質的に和田を止めたのは近衛だった。そのまま言い訳を許さない厳しい瞳で顧問を捉える。
「先生。それは、先生だけのご意見ですか?それとも」
 眼光が置いた一呼吸で鋭くなった。
「誰かに、そうすべきだと言われたのですか?」
 明らかに睦田に狼狽の色が浮かんだ。部員たちは確信する。昨日、この顧問に釘を刺しに来た人物に、大いに心当たりがあったからだ。
「どうなんです?」
 逃げを許さない近衛の問い詰め方に、睦田は唇をひん曲げた。
「聞かなくても予想はしているんだろう?確かに昨日、鷹司がそう言いに来た。だが、鷹司は元部長として、これまで出られなかった部員に日の目を見させてやって欲しいと言って来たんだ。私もその通りだと思った。お前たちのことを思う鷹司の責任感や、元部長としての部員への思いやりを、お前たちはどう捉えているのか知らないが、それをまるで非難するかのように言うというのは、どういうことだ」
 思いやりだと?近衛は心の中で、音高く舌打ちをした。たかが一高校生の心の内も見抜けないのだろうか、この教師は。いや、表面的には問題のない鷹司の言を、教師側から見たらそう捉えても仕方のないことなのか。だとしても、顧問のくせに、いかにこの部の内情を知らないかということがよく分かる。奴が後輩のことを思いやるなど、考えられないというのに。
「けど、鷹司先輩は九条に」
 思わず口走った和田を抑えたのは、今度こそ慈恩だった。先ほどとはうって変わって迷いのない、そして信じがたいほどの力で腕を引かれた。和田ははっと口をつぐんだが、既にその場にいた全員の視線が彼に集中していた。近衛が、ち、と小さくこぼした。それに和田が身を縮める。
「九条に、何だ?」
 切り替えしてきた睦田に、近衛は少し躊躇ってから答えた。
「あの人は九条に、敵意とは言いませんが、いい感情を持っていません。地区大会で九条に負けているからです。一度私は、あの人が九条に言った言葉を聞いて、それを確信しました」

「・・・・・・なんと言ったんだ?」
「・・・・・・これ以上いい気になれないように、打ちのめしてやる、と」
 しん、と場が静まり返る。部員たちの心の中には、やはり慈恩のあの怪我は・・・と疑惑の雲が湧き上がった。しかし、一瞬深刻そうな表情をした睦田はいきなり噴き出した。
「馬鹿を言うな。あの鷹司が、そんなことを言うとは思えない。近衛、お前こそ鷹司を陥れようとしているんじゃないのか」
「な・・・・・・」
 いい子振りや家柄なら、近衛も鷹司には負けていないはずだ。教師受けも絶対的にいいと言い切れる。それが、いとも簡単に非を被せられて、近衛はやや動揺した。慈恩は凛々しい眉をわずかに寄せた。
「近衛はそんなことしません!鷹司先輩なら、言いかねないですよ。あの人は恐怖政治だったんですから」
 吐き出すように和田が言う。しかし、睦田にはそれ以上受け付ける気がないようだった。
「先輩が少々厳しいのは当然だ。近衛にも、鷹司くらい全てを任せられる部長に成長して欲しいと期待しているんだぞ。とにかく、九条も控えにはちゃんと入っているんだ。いざとなったら出す事だって可能だ。これ以上、このことに関して議論する気はない。これは決定事項だ。いいな」
 それだけをきっぱりと言って、睦田はさっさと道場を後にした。それを、挨拶をするのも忘れて見送ったあと、部員たちは顔を見合わせた。落胆や失望、不安の色を互いに確認する。
「やっぱりか。鷹司先輩が、何の用もなく引退した部活を見に来るなんて、有り得ない」
 秋月が溜息をついた。鳳がうなずく。優しそうな顔が翳っている。
「九条が入って選ばれたのなら・・・・・・俺こんなに嬉しいことなかったのに・・・・・・」
 あまりに暗い空気に、慈恩は苦笑するしかなかった。
「みんなだって頑張ってきたんだ。その力が出し切れたら、それでいいと思うよ。それにほら、俺も昨日事故であちこち打ち身になってるし」
「事故、ね」
 一乗寺が肩をすくめた。和田に次ぐムードメーカーの彼だが、実家が日本舞踊の家元で、なかなか練習に参加できないため、資質はあっても周りと同じだけ力を伸ばせない。それでも周りの人望を集める彼の人柄は、学級代表にクラス全員の本気で推薦されるほどのものだった。家柄としても申し分なかったのだが、何しろ部活に来られないというのが大きなネックとなって、部長、副部長にはなれなかった。いや、ならなかったというべきかもしれない。本人が一切希望しなかったのだから。
「ま、九条がそう言うならそういうことでもいいよ。でも、九条抜きかぁ・・・・・・。予想外の展開だなあ」
「悠大も東坊城も強いよ。鳳には悠大でも苦戦するくらいのパワーがあるし、和田は試合に臨むとき、精神的に常に安定してる」
 一乗寺ですら弱音を吐く中、静かな声が淡々と響いた。全員がそちらに視線を向ける。当てられた白いガーゼの痛々しい慈恩が、静かに微笑んでいた。
「秋月は先鋒として、スピードで相手を撹乱させることができる。悪くないと思うよ」
「・・・・・・慈恩・・・・・・」
 近衛は小さく吐息した。試合に出られない。それが、慈恩にとって屈辱でないはずがない。悔しくないはずもない。それなのに、落胆の色ひとつ見せず、こうして仲間に自信を与えようとする。
(敵わねえよ)
 だったら彼の意向を汲むまでだ。近衛はきりっと顔を上げた。
「慈恩がこう言ってるんだ。だったら、僕たちも精一杯やってみるしかない。本当に、いざとなったら先生に頼み込んで、慈恩を出してもらうこともできるかもしれない。そうするためには、俺たちが本当に全力で戦って、先生自身が俺たちを勝たせたいと思ってくれることが必要だ。・・・・・・だから、できるだけのことを、自分たちの力でやってみよう」
 部員たちはうなずいた。あの顧問が、自分たちを本気で勝たせたいと思ってくれるかどうかは、甚だ疑問だ。むしろ、早く負けてくれれば早く終わるのに、くらい考えている人間だ。それを本気にさせようと思ったら、一体どれくらいの姿を見せたらいいのだろう。想像もつかない。それでも、やるしかないのだ。今は、それしか手がない。到底希望的観測を持つには至らなかったが、それでも諦めたくはない、という気持ちにはなっていた。

 そしてそれから一週間が過ぎた。結局今のところ、睦田に気持ちの変化はなさそうだ。そもそも、この一週間、試合前だというのにほとんど姿を見せはしなかった。絶対に、部員たちと顔を合わせるのが気まずかったからだ、と部員一同信じてやまないところである。全く慈恩を出場させてもらえるという希望が見えてこない現状では、これから試合に臨むというにも関わらずの撃沈状態も、いた仕方ないところだ。
「やるしかないだろう。自分たちの力を信じるんだ」
 力強く言葉にする近衛に、慈恩が静かにうなずく。打撲はだいぶ回復に向かっていた。こめかみと耳の傷も、既に絆創膏で済んでいる。まだ身体には内出血の痕も痣も残っていたが、それはまだ、近衛と和田以外、部員には誰にも知られていなかった。
「あのさ、都大会ってことはさ、如月高校も来るんじゃないのか?」
 首をかしげて口にしたのは東坊城だ。近衛がたちまち知的な眉をひそめる。
「そうか。如月と当たる可能性もあるんだ。如月といえば、やっぱ強いってイメージだけど、九条が抜けてきてるからな。実際のところ、どうなんだろう?」
 秋月が腕を組む。鳳は少し困ったような顔をした。和田はちらりと慈恩に視線を流して、そのままそれをあらぬ方向へ向けた。慈恩は少しだけ、寂しそうに見えた。
「・・・・・・どうかな。でも、部長はいい奴だよ。厳しさも、思いやりも知ってる」
 近衛が、見もしないその人物に微かな嫉妬を感じたのは否めない。慈恩にそんなことを言わせる人物とは、一体どんな奴なのだろう、と。その如月の部長とは、すぐに対面することになった。
「慈恩!久しぶり、元気だったか!」
 駆け寄ってきた彼の、にこやかな笑みの中に、泣きそうなほどの懐かしさを見て取った近衛は、目を逸らさずにはいられなかった。たちまち慈恩は如月のメンバーに取り囲まれてしまい、桜花高校のメンバーはその勢いに呆気にとられた。
「時々近藤さんが来てくれて、それで何とかレベル落とさずに練習してるよ」
 田近は目を潤ませていた。それをごまかすように慈恩の剣道着の胸をげんこつで小突いた途端、慈恩がぴくりと眉をしかめたので、慌てて謝った。
「ごめん、痛かったか?」
「何でもないよ。何か、久しぶりだな、と思って」
 慈恩はすぐににこやかな笑みを返す。如月のメンバーはみんな慈恩を慕っていた。腕を引き、肩をたたき、如月のことを色々話す。
「近藤さんさ、如月祭で大活躍だったんだぜ」
「そうそう、ベルばらでさ、フェルゼンやってた、フェルゼン!似合わねーだろ?」
「でもこれがさ、なかなか色男なんだよ!いやー、剣道やってるのとは別人って感じでさ」
「団長も、かっこよかったんだぜ!お前に見せてやりたかったよ!」
 中の一人が興奮して、思い切り右肩をたたいた。さすがに慈恩の表情が苦痛に歪む。田近を初め、その表情に驚いた如月の生徒たちが目を瞠る中、近衛が割って入った。
「すまない。今、慈恩は怪我をしてるんだ。一週間前に、車と接触事故があって」

「・・・悠大」
「申し訳ないが、あまりたたいたり触れたりしないで欲しい・・・・・・あちこちに打撲があるんだ」
 視線を落とした近衛に、如月の剣道部員が驚きの声を上げる。現在副部長として田近を支える百瀬が思わず怒声に近い声を上げた。
「事故!?大丈夫なのか、お前!」
 いつもシニカルな口調が癖になっている斉木も、眉を歪めた。
「お前、思慮深いくせに何でそんなとこでドジなんだよ」
 堂本もうなずく。その脇で、小柄な小林が訴えるように目線を上げる。
「ていうか、そうなら早く言えよ。何ですぐ我慢すんだよ」
 田近がみんなに合わせてうなずきながらも、申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「全くだよ。最初に小突いたとき、痛かったんだろ?ごめん、知らなくて。何か、痛そうだなとは思ったんだけど・・・・・・ごめん、気づいてたら、みんなにもそんなことさせなかったのに・・・・・・」
 少し寂しそうな苦笑が、慈恩に浮かんだ。
「痛かったけど・・・・・・嬉しかった」
「・・・・・・慈恩」
 田近と、そして近衛が同時につぶやいた。
「お前って奴は、ほんと、相変わらずな奴だな」
 感慨深げに、切なさを込めて、田近はそう付け加えた。
「何でもできるくせに、控え目で冷静で落ち着いてて、何より一番に相手のことを考えて。そして」
 にこりと笑う。
「やっぱり誰にでも慕われる」
 近衛は複雑だった。ここには自分の知らない慈恩の知り合いがいる。自分が触れてこなかった時間が、彼らの中に生きている。彼を理解し、本当に理解し、そして慕っている。桜花の中では、間違いなく自分が一番慈恩に近くて、彼の中でも自分が一番大きな存在でいる。でも、ここに来るとそうではなくなる。知り合ってまだ二ヶ月もしない自分とは、埋めようもない差を持つ、かけがえのない仲間たち。自分には分からない話題で盛り上がれる仲間たち。
「ここの部長だよ、田近。悠大って言うんだけど、二重人格のいい奴」
 くす、と笑いを交えた艶やかな声。思わず振り返ると、おかしそうに慈恩が近衛を見ていた。
「二重人格でいい奴?」
 思わず聞き返してくる田近に、楽しそうにうなずく。
「ああ。普段はお坊ちゃまの皮を被ってる。そりゃ見事に。でも中身は、なかなか口の悪い奴で」
「慈恩、お前」
 こんな知りもしないような奴に、なんてことをばらしてくれるんだ、と思いを込めて睨みつける。
「そうなのか?何か、口の聞き方も丁寧だし、本当にちょっと気品があるって言うか」
 俺なんて、気後れしちゃうけど、と田近。
「だろ?でも、根はいい奴。全然気取ってないし」
「そうなんだ。慈恩がそう言うなら、そうなんだな。よろしく。俺、一応如月剣道部の部長やってる田近允(まこと)。本当なら、副部長くらいのはずだったんだけど、慈恩のおかげで部長やってるよ」
 苦笑しながら自己紹介する如月高校剣道部部長に、近衛も笑って見せた。
「僕は近衛悠大。慈恩にはすごく色々助けられているよ。彼一人いるだけで、部全体のレベルが上がる」
 二重人格の表で接する近衛を、慈恩は肘で軽く小突く。
「硬い」
「うるさい。みんながいるんだ」
 じろり、と近衛が慈恩をねめつける。
「いいだろ。鳳たちはもう席を取りに行ったし。如月はもっとフランクなところだ。逆にお前、浮くぞ?」
「別に俺が如月に居座るわけじゃねえよ」
「だから、その方が親しみがあるんだって」
「それは和田だけで充分だっつの」
 慈恩はいつも通りの声で、近衛はなるべく聞かれないようにこそこそと話していたのだが、遂に田近に笑われてしまった。
「ほんとに二重人格だ」
「だろ」
 楽しそうに笑う慈恩を見て、この野郎、と思いながらも嬉しいような悔しいような、妬けるような複雑な気持ちだ。
「にしても、事故ってどういうことだよ」
 突然話題を蒸し返され、慈恩は少し困ったように首をかしげた。
「うん、まあ・・・・・・ほら、荷物をサイドミラーに引っ掛けられたんだ」
 それで右耳とこめかみをかすり、転倒したのだ、と説明する。
「よっぽど派手に転倒したんだな。だって、前も背中も肩も打撲なんて。慈恩からは考えられないな」
「あー、ちょっと引きずられたって言うか。で、体勢立て直そうとして、背中も」
「マジ?それって、打撲で済むか?擦り傷だらけになったんじゃないのか?」
「そんなんで、今日試合は大丈夫なのか?」
 如月の面々は心配そうだ。慈恩が肩をすくめる。
「大丈夫なわけないだろ。だから今日は控えだ」
「ええーっ?慈恩が控え?もってーねー!怪我してても、俺なら絶対使うね」
「怪我してたって、並みの高校生より、絶対強いよな」
「あのな、俺は近藤さんじゃないんだから。そんな頑丈そうに言わないでくれよ」

 どっと笑いが起きる。慈恩もおかしそうに笑っている。近衛は不思議な気持ちでその光景を見つめた。

   ***

 体育館に青いラインで描かれたバスケットボールコートを、選手たちは所狭しと走り回る。その中に目立って色の白い、シュートの上手い選手がいる。しかしその選手は明らかに体力不足で、動きにも機敏さが足りなかった。何度も突き飛ばされ、ベンチに下げられ、その度に監督に叱られていた。
「足が気になるのは分かる。でも、それを恐れていたらお前の武器であるシュートが死んでしまう。もっと突っ込め。当たり負けしすぎだ!」
「はい、すみません」
 肩で息をしながら、斗音は精一杯の声で謝る。ようやくこの一週間で部活にも参加できるようになっていた。しかし、二週間という空白の時間は、一週間では取り戻せなかった。その上、ずっと食欲不振が続く斗音は、体力も夏に比べて更に激減していた。ユニフォームからのぞく肩や腕は、明らかに以前より線が細くなっており、筋力の衰えを感じさせた。
「斗音、大丈夫?」
 今回は三年生が引退し、練習試合ということもあって、瞬も選手としてコートに立っている。瞬ももともとかなりの色白だが、斗音のそれはやや病的だった。瞬は目立って何が得意というわけでもないので、選手を交代させるたびに出たり入ったりしていた。
「何か、声も擦れてるし、息も荒いよ」
「ん・・・・・・大丈夫」
 それだけ言って、力なく笑みを載せた斗音を、瞬は痛々しそうに見つめた。
 同じように斗音を見つめる視線が、二階の見学スペースからも向けられていた。
(最近は夜遅く帰ってきて、自分の部屋にこもって眠るだけ。朝はいつも通り出て行くが、朝食にはほとんど手をつけない。沢村にも昼食はとにかく簡素にするよう、くどいくらい言う。何かを摂取していることがほとんどないように見える。・・・・・・やはり、摂食障害か?)
 三神は切れ長の目を更に鋭く細める。明らかに夏に比べて腕も脚も、身体そのものが細くなっている。触れれば折れてしまいそうだ。今唯一彼に触れることができるのは、朝晩の検温のときだけ。それでも以前に比べて明らかに警戒されているのが分かる。家に寄り付こうとしないのは、自分を避けているからだろうと、この二~三週間ではっきりと感じるようになった。
 まず、自分に何か物を頼もうとしなくなった。触れようとすれば、さりげなく逃げようとする。朝食は共にとるのだが、斗音はほとんど食べないので、たちまちその時間は終わる。そして何より、体育祭の日に帰って来ず、土曜日も姿を見せず、日曜日の午前中に、ようやく帰宅した。それから着替えて、すぐに出掛けていったのだが、帰ってくるのはやはり遅かった。それ以来、金曜日は帰ってこないこともある。一体どこで何をしているのか、聞いても答えは返ってこない。こちらが一体どんな思いで待っているのかを、懇々と訴えてみたが、それでも変わらなかった。しかし、この二~三週間で少しだけ、あの体育祭の辺りに比べれば、顔色はよくなっていた。体育祭の日は、絶対に途中で倒れると思ったほどだったのだが。
 今日の練習試合はやや郊外で行われたため、交通の便が悪く、三神が送ってきた。久しぶりに彼が自分を頼ってきたことに、感動すら覚えた。嬉しくて、舞い上がりそうだった。しかし彼はひどく無口で、車内での会話はほとんどなかった。試合を見ていていいか、という問いにだけ、「好きにしたら」という答えが返って来た。その辺りは、送ってもらう相手への気遣いなのだろう。例え好きではない相手であろうと・・・・・・そう考えるのは、三神にとってひどく心を苛まれることだったが・・・・・・都合のいい人間として使い捨てにすることは決してしない。優しい彼なりの応対。それすら、どうしようもなくいとおしさが込み上げる。
『頼むから、検温自分でやらせてよ』
 今朝、また言われた。気づいているのだ。彼は。華奢な身体に触れようとしている自分に。駄目です、と冷静に答えたものの、心の中にひとつ杭が打ち込まれた気分だった。斗音はそれ以上わがままを言いはしなかったが、検温が終わるとそそくさと襟ぐりをつかみ、部屋から自分を追い出す。だから、三神は彼に触れた手に残る感触を思い出しながら、頭の中で彼の全身をこの手で撫で回す。あの頼りない身体、腕も脚も、華奢で支配することなど容易い。自分に逆らえるだけの力を、彼はもう持たない。抗いがたい誘惑と、三神は常に戦っていた。
 今彼の身体を自分のものにしてしまうことは、簡単だ。でも、離れつつある心は戻ってこない。縋って欲しいのだ。自分の名を呼んで、求めて欲しい。

 あんなふうに自分を避けるようになったのはいつからだろうか。と、三神は思い返す。思い当たる節は十分にあった。

 壊れてしまうかもしれない。そう思って、主人が過労で倒れたときに我慢したことは、間違っていなかったと思う。けれど、募っていく欲望をこらえ切れなかった。どうしても心を手に入れたかったが、心を手に入れる前に気が触れてしまいそうで、そんなときにふと思いついたこと。
(・・・そうだ、起きなければ・・・あの人が、気づきさえしないなら・・・)
 如月祭が始まる一週間前。翌日の夕食に、睡眠薬を混ぜた。斗音がほとんど口にしないのは分かっていたので、飲み物からサラダからおかずから、全ての表面にうっすらと粉薬をふりかけた。全く味も匂いもない薬だった。斗音は少量口にしただけだったが、風呂に入ってすぐ宿題をやろうとして、薬の効き目に耐え切れず机の上で眠りに落ちた。そっと揺すってみると、彼は一瞬意識を取り戻し、夢と現の間で彷徨ったように見えたが、まともにベッドまで歩くこともできず、それを支えた三神の腕の中ですとんと意識を失った。それを抱いてベッドに運んだ。心臓が震えそうなほど、ゾクゾクした。今なら、大丈夫に違いない。薬を飲んでいるのだ。もし途中で何をされているのか気づいたとしても、夢なのか現実なのか、区別ができないだろう。そう考えて、パジャマのボタンを、興奮に震える指先でゆっくり外した。現れた白い肌。はっきりすぎるほど浮き出した鎖骨、薄っぺらな身体。そっと肌に触れれば、きめ細かなそれは驚くほど指先に滑らかで、優しく誘うようだった。
(なんて・・・・・・心地いい・・・・・・)
 ボタンをもう少し外した。傷つけてしまいたいほど綺麗な肌。指先でその感触を味わうように、みぞおちの辺りから胸へ、腰へと手指を這わせた。時間はまだまだあるのだ、ゆっくりやればいい。その柔肌に唇を押し当て、頬を寄せ、華奢な身体の線を丁寧になぞった。
 その時だった。
「・・・・・・な・・・・・・に・・・・・・」
 一瞬心臓が凍りついた。そろりと顔を上げると、眩しそうに目を細めた斗音が、何が何だか分からないといったようにこちらに視線を向けていた。冷たい汗を感じながらも、三神は精一杯の演技でもう一度耳を心臓近くに当て、手をそれに添えた。心臓の音など、聞いているほどの余裕はなかった。そのまますっと顔を上げ、少しうなずいた。
「・・・・・・ご安心を。今のところ心音に異常はありませんよ」
 そう言って、パジャマのボタンを速やかに留める。薬の睡魔に抗いながら、斗音は不信感と怯えをその薄茶の瞳に映していた。
「・・・・・・おやすみなさい・・・・・・」

 心臓がバクバクいっていた。そっと電気を消して、立ち去って、それから部屋で一晩中、信じてもいない神に祈り続けた。彼が夢だと思ってくれるよう。今あったことを、朝起きたら覚えていないよう。
 
翌日の彼は、少しだけこちらをうかがうような表情をしたものの、笑みを載せて挨拶をした自分に、小さな笑みで応えてくれた。心の底からほっとした。徹夜で・・・・・・といっても、眠れる状態ではとてもなかったのだが、祈り続けた甲斐があったというものだ。と、その時は生まれて初めて、少しだけ神とやらを信じてもいいとすら思った。

だが。それから彼との距離は離れるばかりだ。身体に触れることは徐々に避けられるようになり、彼が自分を見る目は明らかに警戒心を漂わせている。
(焦っていた。ほとんど食べなかったせいで、薬の量も少なかったんだ。・・・・・・しかし、あの時は気づかれずに済んだと思ったが・・・・・・聡い方だ。時が経つにつれて、あれが現だったのではないかと疑い始めたのかもしれない。体育祭前夜のこともある・・・・・・一度そう疑われたら、無垢に信じてはもらえない・・・・・・)

 大きな溜息をついて、三神は体育館を出た。そこで煙草に火を点ける。斗音には見せていないが、一度口にしてしまった煙草は、なかなかやめられなかった。九条家に入るときに、あれほどの思いをして断ち切ったものだったのに、心の中のうやむやをすっきりさせてくれるような気がして、あの体育祭の日の夜から、こっそり続けていた。そして、その本数は日増しに増えていた。吸ったあとはガムを噛んだり消臭剤を使ったりして、徹底的にその匂いを排除した。
 
斗音が煙に弱いことは重々承知だ。さすがに身体を狙われているから辞めさせて欲しい、などと、斗音は九条家に訴えられないだろう。あの家には疎ましい隠し子がいる。奴の印象が自分のために悪くなるのでは、と思うと、きっと言えはしない。しかし、煙草を吸うから困る、辞めさせて欲しいというのなら、体面的には何の問題もないし、斗音としても言いづらいことはないだろう。こんなものを原因にして辞めさせられでもしたら、困るのだ。彼と二人きりの生活をおしまいになど、どうあってもさせはしない。
(時間はあるんだ。必ず、必ず彼を手に入れてやる。俺に触れずにはいられないように、仕込んでやる。長い時間を掛けて、少しずつ、少しずつ。そうだ、焦っていては駄目だ)
 ふうっ、と白い煙を空気に吹き付けるように吐き出し、吸殻を落として足で踏みにじった。・・・・・・煙草を吸うとこんなに気分がすっきりする。いい考えが浮かぶ。三神はにやりと笑った。
(あの優しさがウィークポイントだ。自分のために何かしてくれた人間を、あの人は冷たくあしらうことなどできはしない。恩着せがましくならないように、あの人に尽くそう。そうすれば、嫌でも心を開かざるを得ない。・・・・・・さて、まずは車で送ることか)

 アスファルトにこすり付けられ、中身を半分以上破れた紙の外に撒き散らした煙草の残骸が、微かな最後の煙を空気に溶かし、それっきり押し黙った。

   ***

 剣道の新人戦大会の会場は、静かな中にも精神的な高揚を含んだ熱気が漂っていた。とりあえず、如月高校も桜花高校も現在のところは勝ち残っている。如月高校は第一シードが掛かっていたため、二回戦からの出場だったが、順当に勝ち進み、ベスト4まで駒を進めた。そして桜花高校は一回戦からの戦いとなり、それを勝ち抜いたあとはこの大会の第五シードと当たったが、中堅戦、副将戦、大将戦で勝ちを収め、前半の二敗を何とか覆し、逆転勝ちをもぎ取った。次の相手は二回戦より容易かった。やや疲れ気味の東坊城が副将戦を落としたものの、それ以外は勝ちを収め、そこで無事ベスト8まで駒を進め、ベスト4を懸けた試合で第三シードと対戦した。先鋒の秋月は1-2で負け、次鋒の和田は0-0の引き分け、中堅の鳳は2-1で勝利、副将の東坊城は0-2で負け、そして大将戦の近衛は2-0で勝利した。
「これって・・・・・・引き分けじゃねえか?」
「無制限一本勝負だ」
 取った本数も、一本勝ちをした数も引き分けなのだ。ややして本数を確認していた審判から両校に対して、決定戦が告げられた。
「代表選手一名による無制限一本勝負を行います。各チームから一名、選手を出してください」
 睦田は唸った。こんなことになるとは思ってもみなかった。いやむしろ、こんなに勝ち進むということを、予想すらしていなかった。桜花高校はそれほど強いチームではない。あの鷹司率いるチームですら地区大会二回戦で負けてしまう程度だったのだ。それがなぜ、ベスト4を懸けて、第二シードといい試合をしてしまったのだろう。
「先生、どうされます?これで勝ったら、桜花高校はベスト4です。ベスト4は今回関東大会に進めます」
「関東大会?これは勝ち進んでいく大会ですか」
 睦田の答えに、コーチはかなり気分を害したようであった。そうですよ、と呆れたように答える。睦田は更に唸った。更に進むことになったら、また自分の休日が犠牲になるではないか。冗談ではない。レギュラーの五人に加え、一乗寺、九条。この中から、勝てない人物を選ばなければならない。相手は大将が敗れているので、副将辺りを出してくるかもしれない。
「先生、どうされます?」
 再度促されたが、睦田は頭が痛くなりそうだった。そもそも、いつもコーチや部長の意見でメンバーを決めているのである。今回は鷹司の意見だったのだが、その鷹司はここにいない。しかし、下手にコーチや近衛にメンバーを決めさせれば、勝ててしまうかもしれない。だが、しかし。睦田は彼らの実力を全く把握していなかったのだ。誰を、と言われても、誰を出せば適当に負けてくれるのか、部員からそれなりに納得させられるかの判断など、できようはずもない。
 苦悩する睦田の横で、近衛がコーチをそっと手招きした。コーチが溜息をつきながらそれに従う。そのコーチの耳元で、近衛は小さく何か囁いたが、自分のために悩む睦田は、そんな些細なこと、全く気づきもしなかった。
「先生、私の見解では、ここはやはり近衛でどうかと思いますが」
 頭を抱える睦田に、見かねてコーチが助言する。
「今いい勝ち方をしましたし、九条に次ぐ実力の持ち主です。九条はまだ本調子ではありませんし、そのことを考えると、疲れていても一番可能性が高いのは近衛でしょう。鳳でも悪くありませんが・・・・・・今の九条よりは絶対的に鳳や近衛の方が活躍できるでしょうから。それ以外は実力的にちょっと部員が納得しないでしょう」
 睦田は顔を上げた。
「九条が本調子ではない?ああ、あの車の接触事故というやつですね。でも、それでもうちの部員たちは、九条をメンバーから外すべきではないとひたむきに訴えていましたよ?」
「あれは事故の翌日でしょう?あの時はこれほど長引くとは思っていなかったんでしょう。実際、背中の傷なんかはかなりひどいですからね。あれでは思い通り筋肉が動かない。先生、ご存じないんですか?それに、剣道は一日やらなければそれを取り返すのに三日掛かるとも一週間掛かるとも、下手をすると一ヶ月掛かるとも言われています。九条はこの一週間、ろくに練習できていないんですよ」
「・・・・・・そうですか・・・・・・」
 出すべきメンバーを考えるふりをしながら、実際睦田は考えていた。部員たちを納得させ、かつ負けてくれる最適な人材を。
「・・・・・・しかし、九条の実力はみんなが一目置いている。何とか彼で勝てませんか?」
 そう言った睦田は、自分にとってベストの選択をしたという自信を胸の奥に秘めつつ、いかにも部員たちの気持ちを重んじての言葉なのだと演じていた。その演技を信じたのか、コーチは難しい顔をする。
「普段の彼なら、喜んで出したいところですが・・・・・・どうでしょう?」
 睦田は内心ほくそえんだ。慈恩に向き直る。
「九条、身体の調子はどうなんだ。お前の実力はみんなが信頼している。出られそうか?」
 慈恩は驚いたような瞬きをした。
「そんな・・・・・・こんな負けられない試合に、この怪我を抱えて臨めということですか?そんな重い責任を、この部の新参者の俺に?」
「新参者というが、お前は部員みんなに慕われている。ここでもしお前が負けても、恨まれたりすることはないだろう。それほどお前はみんなにその実力を認められているんだ」
 睦田は、積極的に慈恩を説得しようとした。
「確かに怪我をしていることはある。でも、相手はインターハイの選手というわけじゃない。お前なら勝てる可能性があると、私は踏んでいるんだが、どうだ。お前に任せてもいいか?」
「でも、それなら大将戦に勝っている近衛でも・・・・・・」
 躊躇う慈恩に畳み掛ける。
「近衛は今やったばかりで疲れている。それにこんなプレッシャーの大きな試合、今の部員は誰も経験したことがない。でも、インターハイに出たお前は別だ。それに、これに勝てたら次からの大会でも、文句なしにお前をメンバーに入れていける。鷹司だって、納得するだろう。桜花を救った立派な桜花剣道部の部員として認めざるを得ない」
 そこまで熱弁をふるう睦田に、近衛もうなずいた。

「そうだよ慈恩。君なら、例え負けたってみんな仕方ないって諦められる。君で敵わない相手なら、うちの部員だって諦めがつくよ。ここまで勝ってきたことだけで、僕たちには十分な成果なんだから」
「だけど、悠大。お前たちがここまでやってきたことを、俺が無にするわけには・・・・・・」
 しぶとく消極的な慈恩に、コーチが溜息をつきながらもうなずいて見せた。
「先生がここまで言われるんだ。やってみたらどうだ。本来の実力の半分でも出せれば、勝てるかもしれない」
「ほら、コーチまでこう言われるんだ。もうお前しかいないだろう」
 最後の一押しは、睦田がやってのけた。戸惑いながらも、漆黒の瞳の彼はついにうなずいた。
「・・・・・・分かりました。できるだけのことは、やってみます」
 睦田は心の中でガッツポーズをし、次の自分の休日を確保することに成功したことを確信した。どことなくぎこちない動作で試合場へ向かう慈恩の様子が、それを確信させてくれたのだった。
 しかし、その確信が蜃気楼の楼閣の如く脆く儚く消え去ったのは、その確信を得てからほんの一分後の出来事だった。怪我をしているはずの慈恩は、圧倒的に・・・・・・それこそ相手が何かをする余裕すら与えず、ものの数十秒で二本取って勝ちを決めてしまったのだった。
 あんぐりと口を開けて、儚かった自分の休日へ思いを馳せる睦田の横で、近衛たちは大喜びだった。
「怪我してても、やっぱお前は一流選手だな!」
「相手の副将なんて、敵じゃないよなあ!」
 苦笑している慈恩に近衛はニヤニヤと笑って見せた。
「先生の判断は間違ってなかったってことだよ。君ならできるって、自信を持って言われたからね」
 あくまでみんなの前では優等生なセリフを通している近衛だが、これは皮肉に他ならない。そもそもが近衛の策略だったのだから。睦田が誰を出すかで悩んでいたときに、近衛は即座に、彼が何で悩んでいるのかを見抜いていた。そして、彼が部員の力量を全く把握していないことも知っていた。そこで、コーチに慈恩が怪我で使えないことをアピールしてもらったのだ。
「さすが先生、よく見てらっしゃいますよね」
 相手にはヨイショに聞こえる皮肉を、近衛は並べた。近衛の策略に乗ったのは、コーチばかりではない。実は慈恩もその一人だった。慈恩の場合、ただ一言「躊躇え」と言われただけだったが。
「うむ、全く・・・・・・ここまで強いとは、さすがに、予想していなかったが」
 近衛に合わせてうなずいて見せた睦田だが、先ほどの勢いはどこかへ消え去ってしまっていた。コーチもやや苦笑いを浮かべる。
「いやはや・・・・・・相手が副将クラスだったというのもありますが、怪我を抱えてここまでやるとは。予想以上の選手ですね」
 もちろんコーチは、最初から慈恩を推すつもりだった。近衛に言われたとおりにして、結果的に自分の望む結果が得られたのだから、満足ではあるのだが、睦田に対する失望感や、人を騙す片棒を担いだことは、やはり苦笑するしかない、といったところだった。そして、バッチリ付け足した。
「これなら、九条は十分使えますね。次は準決勝です。彼を副将にしましょう。東坊城は今負けたことでやや自信を失くしている。これで足を引っ張ったら、もっと厄介です。もともとそれほど精神的に強い選手じゃありませんからね。大将が近衛、中堅鳳、次鋒和田、先鋒は秋月。せっかく都大会に進めるんですから、その練習と思ってやった方がいいでしょう?」
「あ、ああ・・・・・・そ、そうですね・・・・・・」
 睦田の頭の中は燃え尽きて真っ白なので、考える余力はほとんどない。それを見て取った近衛がうなずいた。
「東坊城は副将のプレッシャーを抱えて臨んできました。彼にとってはかなりきつかったと思います。ここで関東大会に向けて休ませてやるのも一つの手です。先生も、そう思われませんか?」
「うむ・・・・・・そうだな・・・・・・」
 当の本人、東坊城も、ほっとした顔でうなずいた。
「じゃあそれでオーダー変更をお願いしますね」
「ああ・・・・・・そうだな・・・・・・」
 よっしゃ、と部員たちがガッツポーズする。控えに回った東坊城も一緒に喜んでいる。正直この先の戦いは、精神面でまだ成長途中の彼には荷が重かった。ただでさえも団体戦のニ連敗はこたえる。近衛もそのことはよく分かっていたのだ。
「準決は・・・・・・鷹羽か。強敵だな」
 つぶやいた近衛に、慈恩が相槌を打つ。
「第二シードだからな。インターハイにも個人で一人出てた。地区予選で橋本先輩に並んで三位になってた高天ってのが。たぶん、大将に出てくると思うけど」
「げっ。お前がやれよ、それと」
「怪我人に何てこと言うんだ」
「ほぉー、第三シード校の副将相手に一分経たず勝ちを収めるような人間に、同情しろって?」
「そんなこと言わない。でも、お前ならきっといい勝負ができると思う」
 微笑した慈恩に、近衛はぐっと言葉に詰まった。微笑みを静かに載せたまま、慈恩は付け加えた。
「だから逃げるなよ、大将」
 ちぇ、と近衛は吐息した。慈恩には敵わない。
「分かってるよ。お前が入ったことで、うちもランクアップしたわけだからな。お前は確実に勝つから、あと二勝すればいいってことだ。できるだけのことは、やってみるさ」
 慈恩の微笑に苦笑が含まれた。
「本調子じゃないのは確かなんだから、あまり過信しないでくれ」

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