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三十九.準決勝

 襟ぐりのすっきりした柔らかそうな生地のノースリーブカットソーに、薄手のカーディガンというアンサンブル、中が淡いブラウンで上着は白という出で立ちに、上品なピンクとベージュを基調としたマーメイドタイプで裾は贅沢なフレアーが施されているスカート、美しくのぞく白い首にはダイヤモンドをあしらいつつも華美でないネックレス。どこまでも清楚な上品さを湛えた彼女は、慈恩によく似た黒曜の瞳をきらきらと輝かせていた。
「雅成さん、勝ったわ!あの子、怪我してるのにほんとにそれを全く感じないくらい・・・・・・」
 その瞳には感涙すら浮かんでいる。その妻の美しさに心惹かれ、また自分の息子となってくれた、外見も内面も申し分ない少年の圧倒的な強さに心打たれ、父親となってまだ間もないながらその幸福を感じずにはいられない雅成である。しかし、その幸福の裏に抱えた不安も、雅成はその胸に同居させていた。
『交通事故、ですって?』
 突然近衛家から入った連絡に、雅成は驚愕し、絢音は卒倒しそうになった。
『ええ、帰り道に・・・・・・ちょっとした接触事故のようなのですけれど、少し怪我をされて。拙宅の悠大が車で連れて参りましたの。家の掛かり付けの医者を呼んで、手当はさせて頂きました。それで、ちょっと傷の方から発熱がおありで、今悠大の部屋でお休み頂いておりますわ。あの頑固者が今日はそちらのご子息をお泊めすると言って聞かないのですけれど、私も今回はあの子の意見に賛成ですの。今は慈恩さんにゆっくり休んで頂くことが一番の薬かと思いまして。ですから、ご心配は承知の上で、慈恩さんを一晩お預かりさせて頂けないかというご相談なのですけれど』
 丁寧な口調で、近衛夫人が説明をしてくれたのだが、そんなご迷惑をお掛けするわけにはいかない、今すぐ迎えに行く、と告げた。すると、近衛夫人は少し笑ったようだった。
『そうおっしゃると思いましたわ。ですから、慈恩さんご本人から事情をご説明頂こうと思いますの。慈恩さんがそうお望みですから・・・・・・』
 そう言って、慈恩本人に代わった。
『慈恩くん?大丈夫なのか!怪我して熱があるって!』
 急いて答えを求める雅成に、慈恩も少し笑ったようだった。
『大丈夫ですよ。すみません、ご心配をお掛けして』
 そう言って、落ち着いた様子で、彼は丁寧に説明してくれた。車に引きずられたため、少々傷と打撲があること、問答無用で近衛に連れて来られたこと、医者がもしかすると後遺症などもあるかもしれないから、今日はなるべく動かない方がいいと言っていること・・・・・・。もちろん大半は近衛と相談して口裏を合わせた設定だったのだが、それらを聞いて、雅成は少しだけ安心した。そして絢音にも詳しく説明し、その晩は落ち着いた。
 だが、翌日帰ってきた彼の傷を見て、疑念が湧き上がってきたのだ。
(これが、引きずられた傷?これは引きずられたと言うよりむしろ・・・・・・)
 幸か不幸か、雅成には小さい頃車に引きずられた経験があった。開けた窓から仲のよかった友達が、手を出していて、別れを惜しんでその手をつかんだ。だが、その子供たちのやり取りに気づかなかった運転手が車を発進させてしまったのだ。よろめいた雅成を気遣って、車の中の友達は焦ってその手を強く握り、立て直そうとしてしまった。本当はその手を離すべきだったのだが、離せば転ぶと分かっている手を離せなかったのだろう。結果、雅成は数メートル引きずられる羽目になってしまったのだ。その時は膝と靴と、慌てて離した左手の皮膚があちこち削がれ、無数の擦り傷や引っ掻き傷ができ、結局友達が手を離したとき勢いよく地面にたたきつけられたので、あちこち石の欠片が刺さったりもした。
 しかし、慈恩のそれは違った。余計な引っ掻き傷などなかったし、皮膚が削がれるという感じではなく、裂けているという感じだった。絢音はあっさり信じていた(そもそも、絢音は慈恩の言うことを疑うことなどない)が、雅成は、昨夜の話は慈恩の優しい嘘なのではないかと感じたのだった。
(あれは、打ち身だ。例えばそう、鞭や・・・・・・)
 思い返して軽く息を飲み、そして、彼らが振るい合って競っている頑丈な竹の武器を見つめる。
(・・・・・・竹刀で何度も殴られたような・・・・・・)
 絢音は顔や手などの傷しか見なかったが、雅成は慈恩の背中の傷も見た。と言うより、二人になったときに見せてくれるよう頼んだのだ。慈恩は苦笑いを浮かべていた。恐らく、雅成が引きずられた傷ではないと感じていることを悟っていた。それでも、躊躇うでもなく、素直に傷を見せてくれた。腫れ上がり、ところどころ血をにじませた、幾本もの打撲痕を。
『慈恩くん、これは・・・・・・』
 言いかけた雅成に、少し部屋の外へ視線を流してから人差し指を立てて、形よい唇に押し当てて見せた。絢音には内緒だと、少し微笑んだ瞳がそう告げていた。
『すみません。ご心配をお掛けしたくなくて、嘘をつきました』
 低く静かに、外に聞こえないようにそう言って、慈恩はすぐにシャツを羽織った。
『でも、大丈夫ですから・・・・・・。事故で通して頂けると助かります』
『でも、これはまさか』
 なおも食い下がろうとした自分を、再び静かな微笑みで制し、慈恩は軽く首を横に振った。
『俺には、悠大という強い味方がついています。だから、大丈夫です』
 それ以上は何も教えてはくれなかった。ただ、その言葉から、学校で何らかのトラブルに巻き込まれたのだろうと、雅成は察した。彼が大丈夫と言うのだから、大丈夫なのだろう、と思う。だが、一体どうして、この人に恨まれようもない人格の彼が、このような目に遭わなければならなかったのかと思うと、不安でたまらなかった。若いだけに、傷の治りも早いものだったが、それでも一週間で完治とはいかなかった。まだ背中のあちこちに内出血の痣が残っている。
(まだ自由に腕も動かないだろうに・・・・・・それでもあの強さ・・・・・・すごい。何という精神力だ)
 自分たちには過ぎた息子だと思う。彼をこんなふうに育ててくれた椎名家の両親、そして斗音の存在の大きさに、改めて雅成は感謝し、その重責を受け継いだことに身を震わせた。同時に不安に思わずにいられない。

(斗音くん・・・・・・君からこんなに素晴らしい人を奪ってしまった・・・・・・。メールで連絡はくれるけれど・・・・・・君は本当に元気でやっているんだろうか?)

   ***

 じゃあな、とあちこちで声が飛び交い、少年たちが散っていく。自転車に飛び乗る者、呼んでいたタクシーで駅に向かう者、家からの迎えの車に乗る者、そして唯一黒のウィンドブレーカーでフルフェイスのヘルメットを被ってバイクに乗る者。
「東雲、お前またバイクで来たな?危ないから止めろって言ってるじゃないか」
 溜息混じりで、さっきまで斗音を叱りつけていた顧問が大きな身体を揺らして石段を降りてくる。
「だって、キノさん、俺これ以外交通手段なかったんだぜ。タクシーとか、金掛かるし」
「そのバイク買って維持する方がよっぽど金掛かるだろうが。大体バイクは校則違反だ」
「あ、知ってるけどさ。ほんとは免許取るのも禁止ってことも知ってるけど、その辺は校長に許可もらってるから突っ込まないでくれよ。じゃ」
 バルルル、とエンジンを吹かし、勢いよく滑り出した結構立派な中型のバイクが大きく斜めに傾いた。道路に出たそれは慣れた様子でカーブをこなし、たちまち街中に消えていった。
「全く・・・・・・おい羽澄、あいつに言っといてくれ。お前がもし怪我でもして出られなくなったら困るって」
 言われた翔一郎は進みかけた自転車を長い足で止めて、肩をすくめた。
「でも実際、あいつんち遠いですし。午後から仕事あるらしくて、ソッコー帰らなきゃって言ってましたから。今回は見逃してやってください。一応言っておきますよ」
 最後に出てきた美少年二人組みはそんな翔一郎に軽く手を振る。
「バイバイ、翔」
「また明日。翔一郎、気をつけて」
「おう、じゃあな」
 部長が去るのを見届けてから、木下は軽く吐息した。
「樋口、さっきは厳しいことも言ったけど、初めてレギュラーとしてコートに入った割には結構動けてたな。それだけは確かだ。パスが正確だから、お前はガード向きだと思う。スタメン狙えよ」
 大きな目をぱちくりさせてから、瞬はにこりと笑った。
「翔一郎と嵐は、俺がどんなパス出しても取ってくれるだけですよ。でも、せっかく試合にも出られるようになったから、頑張りますね」
 やや苦笑を交えながら、木下はうなずき、その視線を今度は斗音に向けた。
「椎名、お前は今回不調の中で自分の思うとおりに動けずにいた。ちょっとその痩せ方も気になるし、もう少し健康管理に気をつけろ。そればかりは自分でやるしかない。試合のとき体調が悪かったから動けませんでした、それでチームが負けました、では話にならない。お前のシュート力はいまやうちに欠かせない戦力だ。だからしっかり食べてしっかり休むこと。いいな?」
 斗音は翔一郎に向けていた笑みを、少しつらそうに歪めた。
「・・・・・・はい」
 その覇気のなさに、瞬も木下も困惑したように首をかしげて顔を見合わせる。
「なあ、椎名。何か悩みがあるなら言えよ?お前の健康は管理してやれないけど、悩み相談くらいならしてやれるぞ?」
「・・・・・・はい」
 小さな返事には、やはり悲しげな微笑。ここ最近、こんな表情をしていることが多い。木下は気がかりなのだが、本人がそれについて一切話そうとしない。いつもこんな返事で流してしまって、それっきりだ。以前は喘息が出ようとも、ひたむきで一生懸命で明るくて、チームのムードメーカーの一人だったのに。
「今回お前には特に色々言ったけど、お前にそんな顔して欲しいから言ったんじゃないぞ。お前に元気がないと、うちのチームがパワーダウンするからな。だからお前に元気でいて欲しくて」
「斗音さん」
 一生懸命フォローしようとしている真っ最中に邪魔をされて、木下は驚きと不快を顕わにして、声の主に目をやった。斗音の目が苦しそうに細められた。それを瞬が不安そうに見遣る。
「お待ちしていました。どうぞ、お乗りください」
 木下と斗音の視線の前で、優雅に一礼をした長身の男は、ノーネクタイにスーツの出で立ちで、切れ長の目にすっと笑みを刻む。ネクタイは堅苦しいからしなくていい、と斗音は言ってある。こんなところにネクタイとスーツで出て来られたら、一体何者だろうと思われるからだ。本当なら言葉遣いももっと普通に、と言ってあるのだが、三神は敢えてそれを崩そうとはしない。
「・・・・・・失礼します。じゃあ、また明日。瞬」
 一つ目の挨拶は木下に向けて、二つ目の挨拶は隣の友人に向けて。微かな笑顔は、三神に向けられた瞬間から掻き消えていた。
「・・・・・・樋口、あれは誰だ?」
 やや戸惑いつつ、木下が儚い後ろ姿を見送りながらつぶやいた。それに瞬が首をかしげる。
「・・・・・・たぶん、あの人が・・・・・・九条家から斗音のうちに来た人だ・・・・・・」
 瞬も初めて見たのだ。見た感じルックスは背が高くて、いわゆるイケメンで、物腰も柔らか。悪い印象ではない。斗音は、あまり彼のことについて話したがらないが、時折見せる表情や言葉には、彼に対する棘のようなものが見え、それは斗音にしては比較的珍しいことだったので、瞬は違和感を覚えたのだ。そして、確かにあの青年を見たときの斗音の瞳は、翳っていた。
「九条って、弟が引き取られた家か?」
「そうです。あ、えーと、俺もよくは知らないんですけど、運転手兼使用人みたいな・・・・・・斗音の身の回りのことをしてくれる人みたいですけど」
「・・・・・・ふうん。よく分からんが、なんか不躾な奴だったなあ。人が話をしてるのに」
 腕を組んで溜息をついた木下に、首をひねりながら瞬は真剣な可愛い顔で答えた。
「なんか・・・・・・よく分かんないけど、斗音はあの人のこと、嫌いなのかな・・・・・・。あ、でも、あの人が割って入ってきたのは、先生の話が長かったからじゃないですか?」
「・・・・・・樋口?何か言ったか?」
 じろーっと恨めしそうな視線を受けて、瞬ははっと我に返った。
「あ、あれ?俺なんか言いましたっけ。あ、迎えが来ちゃった。じゃあ先生、さよなら!」
「樋口、お前なあ」
 たたたたっと軽い足取りで、瞬は駐車場に入ってきた乗用車に駆け寄り、礼の一言も言わずに後部座席のドアを開け、中に滑り込んだ。そしてにっこり愛らしい微笑みで木下に手を振って見せた。
「全く・・・・・・どいつもこいつも」

 大きな体躯ががっくりと肩を落とす。しかし、最後に気遣わしげにその視線が向かったのは、斗音を乗せた黒い高級車が走り去った方角だった。

   ***

 羽澄部長率いる新生如月高校男子バスケットボール部の練習試合が終わって一時間も経過した頃、全く別の場所で、田近部長率いる新生如月高校剣道部が初の公式戦で決勝進出を決めていた。主力が引退、または転校したとはいえ、彼らと共に力を高め合ってきていたメンバーは、やはり強かった。
「田近・・・・・・腕上げたな。技が随分鋭くなった」
 自分の尊敬してやまない慈恩にそう評され、新生如月高校剣道部部長は少し照れを含みながらも屈託なく笑った。
「そりゃ、インハイで団体全国ベスト8の剣道部の部長になったんだぜ。手ぇ抜けないっしょ」
 自慢げにそう言ったあと、顔をくしゃっと崩す。
「ていうか、引退したはずの近藤先輩と橋本先輩と楠先輩が、しょっちゅう俺らをいびりに来るんだよ。レベルがちょっとでも落ちたら許さんーみたいな感じでさ」
「若園先輩は?」
「あの人は時々来るだけ。結構難易度高い大学狙うらしくて、塾と家庭教師に追われてんだって」
「あー。あの人、学年で十番に入るような人だからなあ」
 懐かしい仲間と一時の雑談に耽る慈恩を、近衛は遠慮がちに呼んだ。
「そろそろ準備するぞ」
「分かった、すぐ行く」
 明朗な答えを返して立ち上がろうとする慈恩に、田近が誇らしげに笑いかけた。
「桜花もさすがにさっきの試合を見て、おまえを控えにしとくのがもったいないって気づいたのか?」
 そんな彼に苦笑を見せつつ、慈恩は首をかしげた。
「さあ、どうだか。うちの部長が何か画策してたみたいだけど」
「二重人格の近衛くん?」
「そう、二重人格の悠大」
「二重人格ゆーな!」
 鋭くツッコミを入れてきたのは、二重人格にされた本人である。
「全くお前は、人を異常者みたいに」
 桜花高校の生徒の前ではほとんどパーフェクトに隠し切る本性を、近衛は隠すのを諦めたらしい。諦めるとまた見事なまでに竹を割ったような性格になっている。
「田近って言ったっけ。俺、名字で呼ばれんの好きじゃねえんだ。慈恩みたいに、悠大って呼んでくれ。あと、俺は二重人格者じゃなくて、お利口さんを演じてるだけだ。間違えないでくれ」
「あ、そうなんだ?分かった、二重人格者を演じてる悠大、だな」
 田近も順応性の高い人間だ。桜花高校の人間なら、打ち解けるのにかなり時間のかかる・・・・・・いやそれどころか、未だ打ち解けていない人間も多い近衛相手に、あっさり打ち解けている。図々しいほど軽々と自分の本性を知った彼に、近衛は栗色の瞳を不愉快そうに向けた。
「演じてんのはお利口さんだっつってんだろ。二重人格者を演じたら、明らかにおかしな人間だと思われるじゃないか。大体それに何の利益があるんだよ」
「お、いいね、ボケに対するツッコミがなかなか鋭くて」
 パチパチ、と田近が面白そうに拍手する。近衛は思わず目を瞠る。
「わざとボケたのか?」
「ちょっと面白おかしくしようとは思った」
「俺相手に?」
 その質問には、田近がきょとんと笑顔のまま目を瞬かせた。
「そうだけど?何か問題あった?」
「・・・・・・いや、別にない」
 妙にしんみりした近衛の最後の締めに、慈恩はくすくす笑った。
「悠大、お前って、俺といるときと田近相手にしてるときでは、またキャラが違うんだな」
 笑みのままで田近が眉を上げる。
「あれ、そうなんだ?俺的には、面白い奴だなーくらいだったんだけど」
「違うな。俺といるときは、もう少し真面目だ」
「真面目・・・・・・」
 近衛にしてみれば、田近との会話も真面目なものだったのだが、そう聞こえなかったのだろうか。
「さて、鷹羽学園か。悠大、随分リラックスできてよかったな」
 おかしそうな笑みをまだ残しつつ、慈恩が今度こそ立ち上がる。もともと立っていた近衛は賢そうな顔にやや疑わしげな表情を載せたが、とりあえず納得したのだろう。うなずいた。
「田近のせいで、緊張感の欠片も残っちゃいないけどな」
 田近はおどけたように、軽く両肩を上げた。
「そういうのは、俺のおかげって言うんだよ」
 そしてその瞳に真剣な光を宿した。
「決勝で待ってる」
 慈恩は静かにうなずいた。近衛も、ああ、と低く返した。
 田近との会話は楽しかった。慈恩が間に入ったから、ああも簡単に打ち解けられたのだ。田近は無条件に慈恩を慕っている。その慈恩が自分と親しげにしているから、田近は何の躊躇いもなく、自分に親しく話し掛けてくるのだ。そんなに慕われている仲間と、これから慈恩は敵対しようとしている。田近にしても、強い相手に当たらなければいい、という消極的な剣道ではない。成長した自分を見て欲しい、と、剣を合わせてみたい、と、本気で望んでいる二人。そうすることで、語るよりずっと多くのものを、互いに知ることができる。そんな如月の剣道部の絆を見せ付けられた気分だった。
(決勝に、行かせてやりたい)
 不意に胸に、そんな思いが込み上げた。如月の仲間たちと、真剣勝負をさせてやりたい。意に反して別れを余儀なくされた、彼にとってかけがえのない仲間たちと。ただただ慈恩を信頼する、あの田近と。

 試合場に並んだ鷹羽学園、大将は予想通り高天という少年だった。インターハイの地区予選では、個人戦で近藤に負け、惜しくも三位だったが、機敏に動き、技も正確で鋭い選手だった。この代では、間違いなく全国大会に出て行く一人だろう。
 鷹羽学園との対戦は、やはり苦戦を強いられた。先鋒秋月は三分五十二秒まで粘ったけれど、ラスト十秒で一本決められて2-1で惜敗、次鋒の和田はどちらかと言うと攻める機会が多かったものの、なかなか決めさせてもらえず、結局1-1で引き分けた。中堅鳳はあと数秒で四分というところでギリギリ一本決めて、1-0で何とか勝利、全く五分五分の戦いの中、副将戦だけは一方的な試合となった。開始二分二十二秒という偶然のぞろ目タイムで、慈恩は二本決めてきた。もちろん、相手に決めさせることはなかった。そこで掛かった時間も、もし慈恩が本調子なら半分で済んだに違いない。大将戦が引き分け以上で桜花の勝ち、2-0で負けると、また代表戦になってしまう。そうなると、相手に高天がいる以上、慈恩が不調である分、桜花が不利だ。
 近衛は目を閉じて、静かに深く深く、息を吸った。それをゆっくりゆっくり吐く。その中で、自分の目の前の重い扉がふっと開くような感覚で目を開いた。近衛にとって、それが自身の精神統一のイメージだった。
(大丈夫、調子はいい。俺は、俺の手で・・・・・・慈恩を決勝に連れて行く)
 心の奥で静かな闘志が心地よく湧き上がる。気持ちのいい高揚感。最高の状態だ。互いに礼をし、ゆっくり構える。中段の構えの自分に対して、相手は上段に構えた。やや鋭い感のある目が、落ち着き払ってじっと自分を見ている。
(強気だな。振り遅れを恐れてない、自分の技の速さに自信があるってことか)
 足運びもスムーズで、隙がない。近衛も慎重に剣先で相手を牽制する。と、その無限にも思えそうな何瞬かのうちの一瞬に、相手が一気に懐まで飛び込んできた。既に竹刀は面前にあった。
(速い!)
 そう思うより速く、近衛の身体は反応している。左に避けながら、竹刀ごと相手の竹刀が打ち下ろせないくらい間合いを詰める。そして、互いに一歩飛び退ることで自分の間合いを確保した。
(強い・・・・・・油断は、できない。でも)
「やぁああああ!」
 間髪入れずに相手が踏み込んでくる。同時に襲い掛かってくる面。
――――――――――分かる、読める!)
 パシイ、と竹が打ち鳴らされる音が場内に響いた。勢いある面を、近衛は正確に竹刀で受けていた。同時に押し上げるようにして、その力を流す。そのまま踏み込んで、面を狙った。
「めぇええええん!」
 ほぼ同時に相手も再び流された竹刀を戻して面を打ってきていたが、一瞬近衛が速かった。
「面あり!」
 近衛が付けている白のたすきと同じ色の旗が三箇所で揚がる。
(・・・・・・取れた。分かる、慈恩に比べたら、こいつは遅い。技も率直だ。慎重にいけば・・・・・・)
 そう感じたのもつかの間、やはり相手はインターハイ選手だった。一本取られたのをきっかけに、猛攻に出てきた。技術はそのままで勢いを増してきた、といった感じだった。まるで別人だ。
(こいつ・・・・・・こいつの目、普通じゃねえ・・・・・・!)
 面の奥に光る目が、明らかに先ほどまでの落ち着いたものではなくなっていた。ぎらぎらと攻撃的で、勢いはあるのに、動きは驚くほど身軽だ。技を繰り出され、それを防いだと思ったらもうそこには姿がないほどのスピード。
(何だ、これ・・・・・・っ・・・・・・人間の速さなのか・・・・・・?)
 目の前の相手を見失うなど、近衛には初めての経験だった。秋月だってかなり速いと思うが、これは桁違いだ。それに、踏み込みのスピードは目にも留まらないほどなのに、それに見合わない足音の軽さ。踏み込んで打ったその足で、彼は別の方向へ飛び退っているのだ。
「・・・・・・何だ、あの動き・・・・・・。あの防具、チタンとか、滅茶苦茶軽い物でできてんじゃないのか?普通、何も着けてなくても、あんな身軽な動き、人間にはできないだろ・・・・・・」
 一乗寺が呆然とつぶやく。彼にとって、足音を立てない動きは慣れっこだが、それゆえこの激しい動きでそれをやってのける相手が尋常でないことを嫌というほど感じていた。その思いは慈恩も同様だった。
(さっきと全然違う。近藤さんと戦ったときとも全然違う。近藤さんにはパワーで押されて、二本立て続けに取られたけど・・・・・・これはよっぽど先読みしないとやられる!)
 端から見ている慈恩たちとはわけが違う近衛は、見えなくなった相手が次にどこに来るのか、それを予測して敵の攻撃をかわすのが精一杯だった。下手をすると、後方から面が襲ってくるのだ。当然、見えない相手に技の繰り出しようもない。
(くそ・・・・・・慈恩ならともかく、俺の技術では攻撃すらできないっ!)
 必死に防いだものの、三分と数秒経過したところで、信じられないくらいの早業で面を決められてしまった。これで1-1だ。2-0の負けはないので桜花は勝つだろうが、自分が負けるのは悔しかった。しかし、速さでは完全に負けている。どうすることもできない、と思ったのだが。
 審判の声に従って、再び向かい合った相手の目が、初めと同じ落ち着きを取り戻していることに気づいた。獣じみたぎらぎらしたものは薄れている。構えて慎重に踏み出したが、相手も同様に慎重にこちらをうかがい、牽制している。
(・・・・・・何だ・・・・・・?元に戻った・・・・・・?)
 残り一分弱、あくまで慎重に試合を進めた近衛は、結局それ以上一本を取ることはできなかった。しかし相手も、人間離れしたあのスピードを見せることはなかった。
「引き分け・・・・・・か・・・・・・」
 和田がほっとしたようにつぶやいた。これで勝ちは決定である。決勝進出だ。
 小手と面を外し、頭の手拭を取った近衛が息を弾ませながら戻ってきた。
「ほんとは勝って、如月と対戦したかったんだけどな。何か、翻弄されて何もできなかった」
「うん・・・・・・いろんな意味で、驚いた」
 凛々しい瞳が、一点を捉えているのを見て、近衛は慈恩が向けた視線の先を追いかけた。
「え・・・・・・金髪・・・・・・?」
 日本伝統の、礼に始まり礼に終わる剣道に、あまりにも似つかわしくないその姿に、近衛は目を瞠る。手拭を取った相手は、かなり白っぽくなるまで派手に脱色した髪を不ぞろいに伸ばしていた。その後ろ髪は背の中ほどまであって、その耳には、目立ちはしないが小さな白いピアスがついている。
「あれが、高天・・・・・・」
 これまでに、その姿が目に留まらなかったはずはない。でも、特に目立つことはなかったのだから、そんな外見ではなかったか、この会場にはいなかったと考えるのが、妥当だろう。ピアスはともかく、この会場であんな髪形をしていて、目立たないなど有り得ないからだ。
「何か、動きが尋常じゃなかった。よく分からないけど、途中で目つきが変わった。それから異常に身軽になって・・・・・・一本取られてからは、最初の動きに近くなったんだ。目つきのぎらぎらしたのがまた落ち着き始めてさ。ほんと不思議だった」

 何かに化かされでもしたかのような不思議な感覚は、それだけにおさまらなかった。それから、会場内でその金髪の彼を見かけることは、なかったのだ。鷹羽学園は三位になったため、全員残っていたはずだが、それでも最後までその金髪を見ることはなかった。

 無事決勝まで駒を進めた桜花と如月が対戦することになり、コーチを含めて作戦会議が行われた。そこで、まずみんなが望んだのは、慈恩から如月の情報を得ることだった。
「ああ、確かにそれがあれば、よりいい戦いができるんじゃないのか?」
 そう言ったコーチに、近衛は微かに眉を寄せた。
「でも・・・・・・フェアじゃない気がします」
 コーチは腕を組んで軽く首をかしげた。
「しかし、如月は格上だ。九条のアドバイスがあったら、もしかしたら三勝できるかもしれない」
「そうだよ、せっかくだから、いい勝負がしたい。ここまで来たら、優勝してみたいじゃん」
 和田もコーチに合わせる。慈恩も少し不思議そうにしていた。
「確かに、これまでの如月を見てるとちょっと格上かもしれない。もし俺に的確なアドバイスができれば、いい勝負ができると思うよ」
 この鈍感!と言ってやりたいのを、近衛はぐっと抑えた。大事な仲間たちの弱点をばらすような真似をさせたくないのだ。でも慈恩はほのかに笑みすら浮かべている。
「如月の試合も見てたけど、確かに強い。だから、何ていうか・・・・・・小細工なしでやりたいっていうか」
 そうかなあ、と苦笑混じりで首をかしげる慈恩に、秋月も元気な笑みでうなずいた。
「九条はよく知ってるメンバーなんだし、やっぱり精一杯やるためにもどう攻めるべきか、聞いときたいよな」
「・・・・・・」
 思わず詰まった近衛に、一乗寺が笑ってうなずいた。
「九条はもう、桜花の一員だ。如月だって九条のことは知ってるんだし、フェアじゃないこともないだろ」
「いや、知ってるだろうけど、どうしようもないだろう?この場合」
「いや、そんなこともないと思うけど」
 更に苦笑を浮かべた慈恩だが、近衛は思わず小さく溜息をついた。
「どっちにしろ一人分の情報と五人分の情報じゃ、やっぱ公平とは言えないだろ?」
 しぶとく言ってみたのだが、慈恩は微笑するばかりで、チームに賛同者を増やすことは叶わなかった。
「頼むよ九条。あの人は全く役に立たないしさ」
 ちらりと和田が視線をやったのは、ボケッと口を開けて、顧問でありながら作戦会議にすら呼ばれないことにも気づかない間抜けな睦田の顔だった。コーチは思わず苦笑いする。
「まあそれはともかく、みんながそこまで言うのなら、勝ちを狙いにいくつもりで、作戦を立てよう。九条、如月の情報を教えてくれるか?」
 慈恩はうなずいた。確かに、元の仲間の情報を売るようなことはしたくなかったが、今の自分がここで役に立てるのなら、それはそれで嬉しいと思う。それに、今のままでは如月には勝てない。最初の三戦で勝負はついてしまうだろう。先鋒は秋月と斉木。斉木は気性も剣道も近藤に似ている。秋月では圧倒されてしまうに違いない。次鋒は和田と堂本。和田は精神的な強さがあるけれど、堂本はそれに加え、粘り強さも持ち合わせている。その時点で後半は和田が不利だ。中堅の鳳と小林。身長差では鳳が有利だが、小林は自分より大きい相手と戦い慣れている。懐に飛び込まれたら、技術的には小林が上。鳳は自由が利かなくなる。自分が副将で出る以上、田近と対戦することになるが、決着のついてしまった場面での戦いと、ギリギリのものを背負う戦いでは、出せる実力が全く違う。確かに如月にいるとき、田近は慈恩から一本も取ったことがなかったが。
(でも、あの時とは違う。田近には誇りがある。如月の部長という誇りが、田近を成長させた。ギリギリの場面でなら、怪我をした俺と・・・・・・あいつは迷いなく全力で試合をしてくれる。きっといい試合ができる)
 身震いしそうな高揚感が、慈恩の心を強く揺さぶる。そんな試合をしたい。そう、心の底から思った。大将の百瀬も、パワー派で、近衛のような技術派を跳ね飛ばしかねない。しかし、近衛とは実力的にいい勝負だろう。如月の選手はみんな二年生だが、決して地区大会で消えるようなメンバーではない。三年生に一枚上手がいたからこそ、これまで控えに甘んじていた部員ばかりだ。百瀬や田近なら、成長次第で全国を狙えるかもしれない。桜花でも今のところ全国に通用しそうなメンバーは自分と近衛だけだから、前半の三戦で互角の戦いができたら、残り二戦もきっといい勝負ができるだろう。
(あいつらの力を最大限まで引き出して、真っ向勝負がしたい。篠田先生・・・・・・いいでしょう?)
 如月陣で選手たちをうなずかせている懐かしい顧問の、笑みを湛えた横顔を、慈恩は食い入るように見つめた。

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