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三十七.果たせない約束

 約束は未だ実現できずにいた。体育祭の翌日まで続いた熱は、執行部の打ち上げのときには何とかひいていたが、足の捻挫の方は全治二週間と診断された。ちゃんと治してから、と言った慈恩の言葉を誠実に守ろうとしていたわけではない。斗音自身、自分の不健康な姿を慈恩に見せたくなかったのだ。だから、その二週間で何とか少しでも体調を回復させようとしたのだ。その成果は・・・・・・微々たる物でしかなかったが。
 それでも、ようやく顔色の悪さもマシになってきて、これなら大丈夫かな、と思った矢先、新人戦が近づいてしまい、練習のため時間を取れなくなってしまった、と申し訳なさそうに慈恩が連絡してきた。
「そっか・・・・・・大会いつ?・・・・・・じゃあ、今週は部活漬けだね。来週も大会だから駄目ってことだよね。・・・・・・ん?何言ってんの、勝ち上がった方が嬉しいに決まってるだろ。来週はうちも練習試合だから行けないけど、勝ち上がったら応援に行くよ。そしたら会えるだろ?みんなもその方が喜ぶって。・・・・・・うん。じゃあ、決まったら次の大会のこと教えてよ。・・・・・・うん。じゃあ、また」
 携帯を切って、斗音は大きく溜息をついた。がっかりしなかったと言えば、嘘になる。でもどこか、ほっとしている自分がいることも知っていた。
「・・・・・・今の、弟か」
 屋上に続く階段は、少し薄暗くてひんやりしている。はっきりいって薄気味悪い場所である。好んでこの場所に近づく生徒は皆無だが、部活に行けない斗音は、執行部の仕事を終えるとここに来る。ぶっきらぼうで無愛想な声に、斗音はわずかに微笑んだ。
「はい・・・・・・お待たせしました」
「別に。構わねえよ」
 茶髪の長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げると、薄っぺらな鞄を小脇に抱えて瓜生が立ち上がる。さっさと階段を降り始めるそのあとを、斗音は軽く足を庇うようにしながら追った。それをちらりと見た瓜生は、その歩速を緩めた。
 階段から落ちたところを助けられてから、斗音はこの無愛想な不良少年と行動を共にすることが増えた。瓜生の方も、それを迷惑には思っていないようで、特に帰るときは暗黙の了解で、この薄暗い場所が待ち合わせ場所になっていた。なるべく自宅にいたくない斗音は、瓜生の家で宿題をやったりして時間を潰すようにしていた。沢村にも、食欲がないにも関わらず豪勢な夕食を準備されるのが申し訳なくて、夕食を断り、三神の分だけ準備してもらうようにしていた。瓜生は、その食欲のなさも帰りたがらない理由も、詮索しようとしなかったので、一緒にいるのが楽だった。瞬や翔一郎は実家から通っているため、その家族に不審に思われるだろうし、嵐や今井は一人暮らしだが、かえって心配させてしまうだろう。下手をすると慈恩と連絡を取られてしまうのが怖かった。その点でも、瓜生は安心して一緒にいられた。
 瓜生は必ず体育館の裏にある、職員の駐車場の方から帰るようにしていた。そこも一応ちゃんとした西門だったが、専ら車専用で、生徒が利用することはまずなかった。
 こぼれんばかりの金木犀の香りの中、肩にスクールバッグを掛け、学生鞄を持つ斗音は、絶対に瓜生を追い越せない。並ぶこともできない。並ぼうとすると、瓜生が一足先に前に出て、決して並ばせてくれないのだ。結果として歩みが速くなってくると、さすがに斗音は足を引きずりがちになる。すると、瓜生は少しだけ振り返った。振り返る、というよりは一瞥した、と言うほうが近い。
「貸せ」
 言うなりスクールバッグを軽々と取り上げられ、斗音は慌てる。学生鞄は、一応第一鞄とされているので、持って来ているのであって、荷物の大半はスクールバッグの方に入っていた。重いのは当然そちらである。
「あの、自分で持てますから・・・・・・」
 声を掛けると、こちらを見もせずに瓜生が答えた。
「鞄を二つ持ってたらおかしいだろうが」
 いや、鞄の方を持ってくれと言っているわけではないのだが。と、ツッコミを入れることは可能だが、それは瓜生の優しさだと知っている。いつもそうなのだ。痛めた足のことを思って、必ず重い方の荷物を取り上げる。一歩先を行くのも、問題児と目される自分と斗音が一緒に帰っていると周りに思われないようにするため。あの薄暗い階段で待っているのも、駐車場の方から行くのも、なるべく人目を避けるため。会話をすることもほとんどない。でもそれを、斗音は寂しいと思う。慈恩とあまり変わらない背丈の瓜生を、一歩後ろをついて歩きながら、そっと見上げる。
(瓜生さん・・・・・・)
 一緒に帰っていると知られても、斗音としては全く構わないのだ。もちろん、三神には知られたくない。知られれば、瓜生の家まで迎えに来ないとも限らない。でも、それ以外の人間に知られることをどうとも思わない。自分は瓜生のことを慕っている。だからそれでいいと思うのだが、瓜生はそれを受け入れてはくれなかった。生徒会の副会長たる者が、自分のような人間と付き合いがあると思われるのはよくない、と言い張って聞かないのだ。だから、如月の中で斗音と瓜生が親しいと知っている者は、いないと言っても過言ではない。
 電車は同じ路線だった。瓜生の方が、二駅分学校に近いだけで、その駅で降りても、その駅からもう一度乗っても、自分の定期で事足りた。
 いつものとおり、瓜生のあとについて電車に乗り込むと、時間ギリギリだったのと、丁度別の電車の乗り換えが重なったせいで、車内はかなり混み合っていた。ずっと立っていると捻挫した足がつらいので、斗音はちょっとうんざりしたが、仕方なく扉付近に立って、そこについている手すりにつかまることにした。瓜生は隣にいたが、視線を合わせることはなかった。
 やがて電車が動き出し、瓜生は自分の持つipodのイヤホンをつけ、どこまでも斗音とは関わりのないことを周りに印象付ける。斗音は鞄の中から文庫本を取り出して、続きを読むことにした。
 二駅ほど過ぎたところで、新たに多くの人が乗り込んできたらしく、人と人が密着するほどになった。本が読みにくくなって、斗音はそれを鞄にしまった。そのときに、鞄が後ろの人にぶつかってしまったので、少しだけ振り返って軽く頭を下げ、すみません、と謝った。そして人に鞄がぶつからないように、両手で抱える。相手の顔は見えなかったが、誠意は伝わっただろう。
 電車が再び動き出す。ややして、斗音は不快なものを感じて唇を噛んだ。背後から密着してくる人物の手が、明らかに不審な動きで斗音に触れてくる。
―――――――こいつ!)
 女性でもないのに、斗音がこの手の被害に遭ったことは二度や三度ではない。特に私服を着ているときにそれは多いのだが、今日は明らかに男子用の制服と分かる格好だ。それなのに、と腹が立つ。でも、わざとだろう、ぐいぐいと壁に押し付けられ、鞄を抱えた両手は自由にならない。初めは腰の辺りを撫でられていたのだが、その手がだんだん下へ降りてくる。
(やめろよ、くそっ!)
 身体を捩ろうとするが、それで離れるものでもない。耳の後ろに、興奮気味の息がかかる。それに鳥肌が立った。大腿を撫でられ、全身がぞくりとした寒気に侵された。震えが走る。
(・・・・・・や・・・・・・嫌だ・・・・・・っ!)
 身をすくめた途端、密着していた身体が離れた。名残惜しそうに斗音の腿をさぐっていた手だけが残ろうとしたが、それもすぐ離れた。身動きの取れる空間ができて、思わず斗音は身体ごと振り返った。
「恥ずかしい真似してんじゃねえよ、いい大人が」
 中年のサラリーマンが、ネクタイごと襟首をつかまれ、瓜生の殺気立った視線に射抜かれていた。
「なっ、なっ・・・・・・何を言ってるんだ、君は・・・・・・」
「殺されてえか」
 言い逃れしようとしたサラリーマンは、ひっ、と小さく悲鳴を上げた。斗音の身に起こったことを知らなければ、高校生にいちゃもんをつけられているサラリーマン、といった感じだ。瓜生のセリフを聞いていた人たちは白い目で、そうでなかった人たちは気の毒そうな目でサラリーマンを見た。いたたまれなかったのだろう、彼は瓜生の手を振り払うと、人ごみを押し分けて、無理やり反対側のドアの方へ逃げて行った。
(・・・・・・かっこいい・・・・・・)
 斗音は小刻みに震える指を握り込むようにしながら、感嘆した。この人ごみの中で、体重をもろに押し付けていた大の大人を軽々と引き剥がし、逆らうことを許さないあの凄み。ともに斗音が持ち合わせていないものだ。
「あ・・・ありがとうございます・・・・・・」
 瓜生を見上げて言うと、むすっとしたまま小さく吐息して、そのまま鞄を持たない方の手で、勢いよく斗音の脇にある手すりをつかんだ。自分を盾にして斗音を人ごみから隔離したのだ。
「あの・・・」
「馬鹿野郎。困ってるんだったらさっさと言え」
「・・・・・・ごめんなさい」
 斗音は身をすくめた。そして、思わずくすっと笑う。瓜生が眉根を寄せた。
「何がおかしい」
「・・・・・・いえ、とても・・・・・・瓜生さんらしかったので」
「・・・・・・は?」
 機嫌の悪そうな返事に、まだ少し怯えたままでぎこちない微笑みを返す。
「・・・嬉しかったです。ありがとうございました」

 目を逸らした瓜生は、ちっと舌打ちした。その仕草にも、つい笑みがこぼれてしまう。家にいるときだったら、同じように目を逸らして、一言「別に」と無愛想につぶやくに違いない。外に出ている間、瓜生はやはり悪ぶっているところがある。それなのに、こんなに優しい。電車を降りるまで、瓜生の手は一度たりとも手すりから離れることはなかったのだ。

 家に着くまで、瓜生はそれでもずっと、斗音の荷物を持って、斗音の一歩先を歩き続けた。そして、少し入り組んだ小路を入ってすぐの家に続く短い階段を上がり、その鍵を慣れた手つきで開けた。中に入って、初めて開いた扉を支えて振り返る。入れ、という意味だ。いつも通りのその仕草。一歩あとについてきていた斗音はぺこりと頭を下げた。
「・・・お邪魔します」
「誰もいねえんだから、いいって言ってるだろ」
 ぶっきらぼうなセリフとは裏腹に、斗音が玄関に入るのを待ってから、扉を閉める。斗音の荷物をいつも通り居間のソファの脇に置いた。斗音は自分の持っていた鞄もそこへ立て掛ける。
「座ってろ。今飲み物でも入れる。冷たいので、いいか?」
「あ、はい・・・・・・ありがとうございます」

 待つことわずか一分、グラスにオレンジジュースとお茶が運ばれてくる。ジュースは斗音のため、もうひとつは瓜生の分だ。瓜生はボクシングを続けたいと考えているらしく、基本的に無駄な摂取を避ける。今は金銭的に、ジムに通ったりするのも難しいということで、ロードワークと、時々シャドーや筋トレなどをするくらいなのだが。斗音にお茶を持ってこないのは、できるだけ栄養分やカロリーのあるものを、と考えているかららしい。
 
礼を言ってグラスを受け取ろうとしたが、まだ完全に緊張が解けていないのだろう。指先がかすかに震え、思わず指を手の平の中に折りたたむようにして、手を引いた。瓜生は少しいぶかしむようにその動きを視線で捉え、テーブルに飲み物を二つ置いた。
「ごめんなさ・・・」
 思わず謝ろうとした斗音の手は、瓜生にぐい、と引っ張られた。あっ、と小さく声を上げた斗音は、ソファから床の絨毯に膝をつき、思わずもう片方の手をじゅうたんについて身体を支えた。
「・・・・・・まだ震えてるのか」
「あ・・・・・・えっと・・・・・・」
 手をつかまれているのだ。どうあってもごまかし切れはしない。長い前髪に見え隠れする黒い瞳は、真剣に斗音を見つめている。諦めて小さく吐息して、絨毯にへたり込んだ。
「・・・・・・怖くて・・・・・・。以前は腹が立つだけだったんです。でも・・・・・・何ていうか・・・・・・ああいう悪意・・・・・・っていうか、自分の満足のために、俺をどうかしようとするのが・・・・・・怖くて・・・・・・」
 大腿に触れてきたあの感触を思い出すだけで、ぞっと背筋に寒気が走る。なぜだか、自分を見つめる三神と重なる。だから、怖いのだ。鳥肌が立って、全身が震えた。三神が自分に何をしようとしたかが、鮮やかに脳裏によみがえる。吸い付いてくる指。キスされて、首筋を唇でなぞられて・・・・・・
「・・・俺・・・あいつが・・・俺を・・・っ」
 無意識に、自分で自分の襟首を鷲掴みにした。微かにだが、呼吸がしづらいと感じた。それが不快だった。
「よせ」
「だからっ・・・・・・嫌・・・・・・!」
「よせって!」
「・・・っ」
 ゴホ、と濁った咳が喉を突いた。気管が急激に狭くなっていく。くら、と眩暈がした。
「・・・・・・椎名!」
 身体ごと引き寄せられた。大きな体躯に、すっぽり包み込まれたようで、何だかほっとした。優しく背を撫でられると、いきなり目頭が熱くなって、また咳をした途端、雫がこぼれた。苦しくて、少し喘ぐようにして、瓜生に身体を預けた。
「・・・・・・・・・・・・苦し・・・・・・」
 ぎゅ、と抱き締められたのが分かった。また涙が湧き上がって、自分の頬を転げていった。瓜生の優しさが心に染みる。傍にいて欲しいと思った。行動が慈恩に似ているからとか、そんなのは二の次で、ただ彼の向けてくれる優しさが嬉しかった。呼吸は苦しかったけれど、気持ちは随分落ち着いていた。だから、発作はそれ以上ひどくなることはなかった。
 呼吸が落ち着くまでの数十分、瓜生はずっと斗音を抱いたまま、その華奢な背をさするように撫でていた。ようやく呼吸音から擦れた音が消え、咳が完全に静まって、発作がおさまったと確信できたとき、瓜生はほっと息をついた。
「・・・・・・つらかっただろ。少し、休め」
 腕の中の華奢な少年は微かにうなずいたが、学生服の前を開き、短めのシャツを出したままの自分の胸に頬を寄せるようにして、その細い指を弱々しくシャツに掛ける。その長い睫毛が濡れているのが、はっきり分かった。
(・・・・・・・・・・・・)
 簡単に折れてしまいそうに細い肢体。それをいっそ折ってしまおうかと思うほど、抱き締めたかった。優しく柔らかな髪を撫でると、青ざめた白い頬が、自分の胸に摺り寄せられる。幼い猫が甘えるような仕草に、心を揺さぶられる。思わず触れていたアッシュの髪を、くしゃ、とつかむ。ぼんやりと見上げてくる薄茶の大きな瞳。
「・・・・・・どうした?」
「・・・・・・安心、できる」
「は?」
 ふわりと、涙の跡も乾かないのに微笑む。
「・・・・・・瓜生さんといるのは・・・・・・心地いい・・・・・・」
 だから、と、瓜生は叫びたい気がした。可愛いのだ。すごく。それをこの鈍感少年はちっとも分かっていない。そんな顔でそんな仕草でそんなふうに言われたら、理性がいくらあっても足りはしないというものだ。えげつない痴漢に襲われているときも、震えながら身をすくめている。力で対抗する術を持たない、弱い人間だ。守ってやらなければと思う。精神的に何か大きな負担を抱えていることもよく分かる。情緒不安定なのでは、と思うこともよくある。それら全てをひっくるめて、恐らく愛しいという言葉が一番似つかわしい。その彼が、自分を慕い、こうして寄り添ってくる。誇らしくもあり、嬉しくもある。でも、何より悩ましいのが、この無防備な可愛さだった。
 斗音は何かに怯えている。共に過ごす時間が多くなり、それが何なのかは、発作的に発する彼の言葉から容易に推測できた。いわゆる、性的暴力に近いものを、彼は受けている。諦め、ではなく、怯えを見せるところから、実際に暴行を受けたわけではないかもしれない。それでも、常に自宅でそれに脅かされているらしいことは、こうして自分などのところに入り浸っているところから理解できた。

(相手がどんな奴なのかはしらねえけど・・・・・・)
 自分ですら、時折押し倒してしまいたい衝動に駆られることがある。今だってそうだ。だから、自分で思っているよりずっと相手をそそらせてしまうのだと、何度かそう言っているのに、そんなときに限ってこの綺麗な少年はものすごく鈍感なのだ。自分のことをちっとも理解していない。謙遜しているとか、そういうレベルではない。本当に分かっていないのだ。すごく聡いくせに。そして、そんなところも瓜生にしてみれば憎らしいほど愛しかった。
「馬鹿。誘ってんのか、お前は」
 自身を抑えつつ、軽く額を指で弾いてやった。性的暴力を恐れる彼に、本来あまり触れたりすべきではないだろうか、などと考えたりはするのだが、こんなふうに抱いていても、斗音は全く拒否反応を起こさない。初めてここに運び込んだとき、高熱で朦朧とする彼にキスをした。思い詰め、弱りきった彼が、とめどなくこぼす涙に心が動いた。救ってやりたい、何とかしてやりたい。わずかでも癒してやれたら、という思いが溢れて、気づいたらそうしていた。その時は、熱も高かったし、心神喪失状態で何をされたかも分かっていなかったかもしれない。それでも、怯えるような素振りは全くなかった。
 その日以来、彼とそんな触れ方をことはなかったが、その時のことを斗音は全く意に介していないようだったし、瓜生も口にすることはなかった。でも、今現在のように、ふとした瞬間に強い衝動が込み上げることは、時折あった。
 デコピンというには優しすぎる攻撃を受けた額を、斗音は細い指でそっとさすった。
「誘うって、何を?」
「・・・・・・この、天然鈍感は、全く・・・・・・!」
 普段の瓜生なら絶対にキレるところだ。こんなだから、きっと知らず知らずの内に相手をその気にさせてしまうのだ。いっそ自分が思い知らせてやろうか、という考えが、突発的に脳裏をよぎる。思わずその細い両手首を捉え、絨毯を敷いた床に押し付けた。抱きかかえていた華奢な身体をいとも簡単に自分の身体の下に組み敷く。大きく見開かれた薄茶の瞳が、何が起こったか分からない、といったように瓜生を見つめてきた。
「俺が今、何をしようとしてるか、分かるか?」
「・・・・・・何、って・・・・・・?」
 この野郎、と思う。本当に分からないのか。焦点が合わないほど、顔を近づけた。あと一センチ近づいたら、唇が触れるだろう。
「お前が、誘ったんだろ。俺を」
「瓜生・・・さん・・・・・・」
 おどおどして、困ったように彷徨う瞳。やっと理解できたのだろうか、と思ったのもつかの間、斗音は少し悲しそうに首をかしげた。
「・・・・・・怒って、ます?」
「・・・・・・・・・・・・」
 色々と込み上げる思いを、瓜生は無理やり飲み下した。少し顔を上げると、溜息と共にがっくり頭を垂れた。
「・・・・・・あのな。今お前が心配しなきゃいけないのは、俺が怒ってるかどうかじゃなくて、自分の身が危険に晒されてるってことだろうが」
「・・・・・・危険・・・?」
「お前、ほんっっっとに分かってねえのか?この体勢に持ち込まれて、それでも分からねえってのか?」
 呆れて思わず語調を強め、シニカルな言葉を吐き出す。そして、その言葉がすっかり音声となって相手に届いた途端、瓜生は自分の言葉を後悔した。
 手首を絨毯に押し付けられたまま、斗音はふい、と横を向いた。くっきりした顎のラインが、耳まで浮き上がる。長い睫毛が、伏せた瞼と共に白い肌に影を落とす。同時に転がり落ちる透明な雫。また、泣かせてしまった。心臓が切なさに締め付けられた。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 瓜生は身体を起こして、華奢な手首を解放した。
「・・・・・・なんで泣くんだよ・・・・・・」
 解放された片方の手が、小刻みに震えながらぎこちなく動き、白くて薄っぺらな甲で目を覆った。
「・・・・・・椎名」
 華奢な喉が震えている。どうして自分はこんなふうに悲しませてしまうのだろう。自分の愚かさが嫌になる。彼の微笑みが好きだった。自分の罪を全て許して微笑んだ、彼の懐の深さに打ちのめされ、そして惹かれた。それなのに。
「・・・・・・瓜生さんに・・・・・・危険を・・・感じなかったから・・・・・・」
 震える擦れた声。瓜生は微かに息を飲んだ。
「・・・あなたが・・・・・・怒ってることの、方が・・・・・・・・・気に、なった・・・・・・」
 見開いた目を、今度は眇めた。馬鹿野郎、と小さくつぶやく。
「俺、何しただろうって・・・・・・何がまずかったのか分かんなくて・・・・・・でも・・・・・・嫌われたくなくて・・・・・・」
「もういい。・・・・・・泣くな」
「・・・ごめんなさい・・・・・・」
「もういい!この馬鹿!」
 バン、と手の平を斗音の肩の両脇にたたきつけ、自ら作った檻に、彼を閉じ込める。びく、と閉じ込めた身体が縮こまる。
「俺を見ろ」
 それでも白い手は目を覆ったまま離れない。再びその手首をつかみ、優しく引き剥がす。
「いいから、俺を見ろ」
 涙の幕に覆われた薄茶の瞳が、躊躇いながら自分を見た。まるで幼い仔犬でも見ているようだ。
「お前の目に映ってる俺は、お前のことを嫌ってるか?」
 色素の薄い瞳が、一瞬大きく開いた。そして、すぐに涙を浮かべてぎこちなく首を横に振る。
「信じろ。嫌いな人間を俺は容易く家に入れたりしねえ。・・・・・・俺はお前が・・・・・・」
 あっさり言葉にしてしまいそうになって、思わず口をつぐみ、唇を噛んだ。斗音は不思議そうに潤んだ瞳で見つめてくる。軽く頭を振って、雑念を追い払う。
「・・・・・・気に入ってるから・・・・・・少しでも楽に、お前がなれるなら」
 そっと細い肩を抱き起こす。うすっぺらな身体だ、と改めて思う。そっと抱き寄せて耳元でつぶやいた。
「・・・・・・乱暴なことして悪かった。俺はたぶん・・・・・・お前のことを嫌いにはならないから・・・・・・」

 腕の中の小さな頭がこくりとうなずく。自分の誠意は分かってくれているようだ。ほっとした。優しく柔らかい髪を、華奢な背を撫で、斗音のこわばった身体の力が抜けるまで、瓜生は彼を抱いていた。
 
結局言わんとするところが通じたかどうかは分からない。でも、自分のことを無垢なまでに信じてくれていること、頼ってくれていることは実感した。それで充分だった。それ以上、何を求めよう。誰もが憧れ、誰にも愛されるこの生徒会副会長が、落ちこぼれの自分にそんな感情を抱いてくれているということ、それ自体が奇跡のようなものなのだから。

   ***

「あのさ。斗音、最近少しだけ元気になった気がしない?」
 部活が終わって、この時期になると急速に周りの景色が色を失い始める中、疲れているはずの足を勢いよく踏み出しながら、瞬が明るい声を出した。
「ほら・・・・・・どうかな、ここ一、二週間くらい笑うようになったと思わない?」
 軽くうなずいたのは翔一郎だ。
「俺も思った。確かに、まだ感情的に不安定なところはあるんだけど、少し落ち着いたかな、と思う」
「だよね。何か、如月祭に向けて、どんどん思い詰めてくっていうか、元気なくなって、顔色も悪くなって、いつ倒れてもおかしくなさそうな感じだったけど」
「忙しかったのと、慈恩がいなくなったのと、ダブルパンチだったんだろうな」
「ねえ、嵐もそう思わない?」
 突然話を振られた嵐は、それでも慌てはしなかった。聞いていなさそうで聞いていたようだ。うーん、と軽く唸るようにする。
「確かに少し、安定してきたようには、見える」
 その慎重な物言いに、翔一郎は薄暗がりの中ではほぼ分からないくらいだったが、訝しげな表情をした。
「見えるだけ、ってことか?」
 珍しい淡紫色の髪は、薄闇に変じつつある景色の中で、ぼんやりと白っぽく見える。
「そうだな・・・・・・。瓜生さんがいるから、今は心の支えがあるって感じ」
「瓜生さん?」
「瓜生って・・・・・・あのちょっとヤンチャしてる人?」
 二人の意外そうな反応に、嵐は優美に笑みを見せた。
「別に、今は何も悪いことはしてねえよ。如月祭でも活躍してたろ」
「そうだっけ?」
「ああ、長距離で入賞してた。それに、劇にも出てたよな。俺、ちょっとびっくりしたから覚えてる」
 首をかしげた瞬の方を軽く小突いて、嵐はうなずく。
「そう。あの後何かきっかけがあったんだろうけど・・・・・・よく一緒にいるみたいだぜ。今の斗音には、瓜生さんみたいに、近すぎず且つ頼れる人が必要なんだろうな」
 翔一郎の表情が、少し翳る。
「・・・・・・近すぎるか。俺たちでは」
「俺たちは慈恩のことも斗音のことも、よく知ってるからな。・・・・・・思い出さないわけにはいかない」
 自分の頭の上で交わされる会話に、瞬は少し吐息した。
「何かでもそれって、ちょっと寂しいな。俺たちの方がよっぽど斗音のこと心配してるし、何とかしてあげたいって思ってるのに」
 くす、と笑った嵐は、再び瞬を小突いた。
「そうとも限らねえだろ。何でお前ら、斗音と瓜生さんが最近よく一緒にいるって、知らなかった?」
 言われた瞬は綺麗な眉をひそめ、翔一郎は首をかしげた。
「・・・・・・斗音は何も言ってなかったよね」
「大体、一緒にいるとこなんて、見たことない」
 ああ、と嵐がうなずく。
「瓜生さんが、極端に気を遣ってる。自分が斗音と一緒にいるところを見られないように」
「え?なんで?」
 可愛らしい瞳をきょとんとさせる瞬に、にっと笑って見せ、今度は翔一郎に視線を送る。送られた方は唸った。
「周りに、知られたくない?イメージが悪いから?」
「俺も同じ意見だ。たぶん当たらずしも遠からずだろうな。斗音が一般的に決していいイメージを与えていない自分と付き合いがある、ということを周りに知られたくないんだろ。俺も、たまたま仕事で部活を早めに抜けたとき、駐車場の方から帰る二人を見かけなかったら、今でも気づいてなかった」
 翔一郎は黒髪をわしゃわしゃ掻き上げた。
「駐車場から・・・・・・。そっか、斗音のため」
「たぶんな。俺には、そう見えた。斗音のことを、すごく気遣ってたしな」
 やや不満そうに聞いていた瞬だったが、最後の嵐の言葉を聞いて、にこりと可愛らしい笑みを浮かべた。
「嵐がそう見たなら、間違いないね。きっとあの人も、斗音のこと心配して、大事にしてくれてるんだ」
「そういうこと」
 軽く片目をつぶって見せる嵐は、夕闇の中でも魅力的だ。その自信に裏打ちされた魅力。敵わないなあ、と溜息混じりに笑うのは翔一郎だ。
「ほんとお前は、よく見てるよな。でも、それで少しでも斗音が元気になってくれたらいいな」
 その言葉に、嵐の魅力的な笑みはふっと打ち消された。嵐の灰色がかった瞳の色は、今はほとんど判別できない。でも、はっきりとその瞳が翳った。
「ああ・・・・・・。でも・・・・・・根本的には何も・・・・・・解決されてない気がする・・・・・・」

   ***

 ゆっくりと身体を起こして、慈恩はふらつく頭を支えるように、額に手を当てた。身動きひとつであちこち走る痛みに、凛々しい眉をしかめる。
 やはり熱がでてしまったか、と胸を塞がれるような気分になる。ズキン、ズキンと右の耳やこめかみが、脈打つたびに痛んで、思わず溜息をついた。
(・・・・・・今度こそ、会えると思ったのに)
 もう如月祭からは二週間も経っていた。斗音の体調もだいぶ回復したし、足のほうも、バスケはともかく普通に歩いたりする分にはほとんど影響がない、というところまで治ってきているという話だったから、この土日どちらかにみんなで会おうかと話していた。その矢先に、まさか自分がそれを断ることになってしまうとは。
「・・・・・・情けないな・・・・・・」
 そう口にしたら、じん、と目頭が熱くなって、視界がぼうっと揺れた。光がきらきらと乱反射する。それをぼんやり眺めた。
「慈恩、痛み止めだけど・・・・・・」
 襖が勢いよく開いて、近衛がお盆に水の入ったグラスと白い錠剤を載せて入ってきた。二歩入ったところで、言葉と同時に足を止める。
「・・・・・・慈恩・・・・・・」
 つぶやくように言ってから、慌てて布団の中で起き上がっている怪我人に駆け寄り、その脇にお盆を置いた。
「寝てなきゃ駄目だって・・・・・・!言われたろ、医者に、今日明日は安静にしなきゃいけないって!」
 そっと左肩に手を触れる。右肩は腫れ上がって、どんなにそっとでも触れることはできない。長い指を持つ大きな手がつらそうに額に添えられているのを、のぞき込もうとして、近衛は軽く息を飲んだ。漆黒の瞳が濡れて黒耀の輝きを放っている。瞬きひとつで雫がこぼれそうだ。
「・・・・・・痛むのか?ほら、薬・・・・・・少しは楽になる・・・・・・」
「・・・・・・ああ」
 ありがとう、と小さな声が、微かに空気を振動させる。近衛はぐっと息を飲んだ。慈恩の声はいつも静かで落ち着いている。でも、こんなに弱々しい声は聞いたことがない。鷹司に打たれた直後でも、落ち着いた対応をしていたのに。漆黒の長い睫毛が頬に影を落とし、手の影からふた粒の感情の欠片がこぼれ落ちた。
 本当なら、すらりと美しい背を撫でてやりたい。でも、手を添えることも躊躇われる。触れている左肩が、熱い。身体中あちこちが酷い打撲に腫れ上がり、そのために平熱を越えた。それだけ身体が悲鳴を上げているのだ。それでも慈恩は、手当ての時以来、苦痛の言葉は一切口にしなかった。あまりに酷い傷に、近衛は責任を感じ、慈恩を家に帰すことはできなかった。車を呼び、医者を呼び、自分の部屋で手当てをさせた。慈恩は大人しくされるままになっていたから、強引に自分の家に泊めることを決めた。慈恩も家の人間に心配をさせたくなかったらしい。言われるままに家に連絡を入れ、もうひとつ、離れている双子の兄にも連絡を入れた。「来週大会だから、練習が忙しくて抜けられない」と。それは申し訳なさそうに、どこまでも優しい声で。
「顔と耳の傷は一週間もすれば完治するでしょう。でも、背中と肩の打撲はしばらく痣になるでしょうね。内出血も起こしているし、二日ほどは動くのもつらいと思いますよ。絶対安静にしてください。二週間もすれば、痛みは引くと思いますが・・・・・・」
 そう言った医者に、礼儀正しく丁寧に感謝の言葉を述べた。そんな慈恩の姿を見た医者は、溜息をついたものだ。
「傷自体は表面的なもので、骨などに異常はありませんが、これだけ酷く殴られれば気絶してもおかしくない。よくもこれだけ冷静でいられるものですな」
 慈恩は微かに笑っただけだった。でも、あまりにも儚いその笑みに、以前祖父に対して見せた激情を思い出す。つらいのだ、と感じた。身体の痛みなのか、精神的な苦痛なのか。相当なものを胸の内に抱え込んでいるときに、慈恩はこんな表情をする。そんな気がする。だからきっと今も、本当は溢れんばかりの感情を押さえ込んでいるのだ。
 近衛に従って大人しく薬を飲んだ慈恩は、それでも横になれという指示には従わなかった。
「・・・少し、こうしていたい」
 消え入りそうな声には、静かながらも常に相手を従わせてしまうような重みが感じられない。それが近衛にとってはつらかった。
「でも、熱もあるのに、身体を起こしてるのはきついだろ?」
「・・・・・・そうでもない」
 そう言われてしまえば、もう自分にしてやれることは何もない。でもこの重苦しい雰囲気を何とかしたい。何か話題を、と考えて、思いついたものの憂鬱さに溜息が出そうになったが、この際何でもいいから話していたかった。それで思い切って口を開く。
「・・・・・・あいつ・・・・・・鷹司の奴、父親が有力な閣僚の後ろ盾についてるんだ。金銭面でそいつの面倒を全部見てるから、大臣一人を簡単に操れる。総理大臣に意見することだって、そいつを通せば容易いことだ。だから・・・・・・生徒にも教師にも一目置かれてる。もちろん、でかいグループの会長の御曹司なわけだし、下手をすれば、あいつの一言で企業の一つや二つ簡単に潰されかねない。・・・・・・だからあいつには、みんな逆らおうとしない」
 慈恩は特に返事をしなかったが、近衛もそれを求めはしなかった。ただ、少しでも気休めになればと思う。
「あいつの考え方は、旧家の典型だ。お家意識、権力者の天下は当たり前。自分が気に入らなかったら潰す。あいつ自身がそうやって生きてきたんだ。俺たちも、大して人のことは言えやしねえんだけどさ」
 軽く自嘲した。そして、そっと慈恩に視線を流した。
「だからさ、どんなに殴っても表情ひとつ変えないお前は、初めて出会う恐怖だったと思うぜ。自分の権力に屈しない人間。そんなの今まで、見たことなかっただろうから」
 慰めに・・・・・・ならないかもしれない。言葉を尽くしても、慈恩のつらそうな表情は変わらない。
「・・・・・・今の俺が言っても、全然説得力ねえだろうけど・・・・・・お前のこと、守るから。もう好きになんて、絶対させないから。この気持ちは、間違いなく本物だから」
 言いながら自分でも情けないと思う。今日のことだって、気持ちだけは精一杯だったのだ。でも、やはり自分は権力に屈してしまった。守り切れなかったのだ。
「・・・・・・だから、鷹司のこと・・・・・・あまり気に病まなくていいからな」
 静かにうなずいてくれたのは分かった。音にならない、空気を揺るがすだけの「ありがとう」が鼓膜を震わせた。また一粒、透明な雫が慈恩の頬を伝った。
(・・・・・・鷹司のことじゃ・・・・・・ない?)
 近衛は眉をひそめた。苦痛としては、精神的なものだと思われる。だから、鷹司に逆恨みされたことが負担なのだと思った。でも、違う。慈恩のつらそうな表情は変わらない。どうせ守れやしない、と自分を信用していないからではない。信じてくれている。だから、答えてくれた。ありがとう、と。
(・・・・・・やっぱりまだ、俺は話すに足る相手じゃないのか)
 一体何がつらいのか。身体のあちこちを腫らして、痛まないわけはない。だから弱気になるのも分かる。でも、何に対してそんなに弱気になっているのだろう。それを分かってやれもせず、話させて楽にしてやることもできず、どこまでも役立たずの自分に腹が立つ。
「・・・・・・慈恩。何かすごくつらそうだ。・・・・・・せめて、身体だけでも休ませてやらないと、参っちまうぞ」
 一週間後は新人戦大会なのだ。無理はさせたくない。何より、慈恩だからつらい思いをさせたくない。そう思う。彼がつらい思いをして苦しんでいるのは、見るに耐えない。なのに、小さくうなずいた慈恩はそれでも、横になろうとはしなかった。
 だが、彼らにとっての試練は、これだけでは済まなかったのである。

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