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三十六.鷹司の報復

 近衛の過保護なまでの部活禁止令のおかげで、慈恩の怪我は順調に回復した。もちろん、その間何もせずにいれば、腕はひどく鈍ってしまうので、できる限りの筋トレや素振りは行っていた。剣道の新人戦大会は、十月の末に行われることになっていたので、禁止令の解けた十月の第二週、丁度桜花祭の終わった翌週から、剣道部のみんなと同じ練習に加わることが許された。
 東坊城がほっとしたように言ったものだ。
「よかったぁ、もう、いつも九条とやってるせいで、近衛が強くなっててさ。近衛の相手するの、きつかったんだよ」
 慈恩と手合わせするようになって、まだほんの三週間ほどしか経っていなかったはずだ。それでも、もともと手合わせしていた彼がそう感じるほど、近衛は成長しているということだ。
「やっぱ、相手がいいと上手くなるもんかね」
 和田が、やや皮肉を込めて言った。それに対して、近衛は涼しげに答えたものだ。
「相手につり合うようになりたいと思う気持ちさえあればね」
 そして、久しぶりに東坊城と手合わせした和田は、彼らの副部長もただきついと思いながら近衛の相手をしていたのではなかったのだと思い知ることになった。
「東坊城、なんかキレがよくなってねえ?」
「あはは、そうかな。そんなつもり、自分ではないけど。和田がいつもより遅いだけだよ」
 自分が褒められることに慣れていないのだろう。照れ隠しに自分はたいしたことないと言おうとしたのはいいが、和田の気分を害してしまった。
「悪かったな、遅くなってて」
 むすっと拗ねた和田に、慈恩はくす、と笑った。
「和田はいつも通りだよ・・・・・・少なくとも俺にはそう見える」
 たったその一言で、部員全員が心を和まされた。和田は、だよな、といって、ほら見ろと言わんばかりに東坊城の面を竹刀で小突き、東坊城は自分のよく考えずに言った一言に、我ながら失敗したと落ち込んでいたのを救われた。和田は良くも悪くもムードメーカーだ。彼の機嫌がよければ、部活の時間は楽しく意義あるものになるし、彼が機嫌を損ねると何だか刺々しい雰囲気が漂い、近衛はそれを気遣ったりしないので、周りみんなが気遣う羽目になる。
(本当は、慈恩が一番部長にふさわしいんだろうな)
 物静かで、ここ一番というときに一番必要な一言を、何の気負いもなくその唇に載せる。それでいて、誰もが納得せずにいられない圧倒的な強さを誇る。近衛はそう思わずにいられない。でも、自分の部屋へ彼を招いた折に、かなり本気でそれを口にしたら、やんわりと断られた。
「一度決まったものを軽々しくひっくり返すのはあまり得策じゃないだろ。それに俺は、ここではまだ日が浅い。絶対的な信頼を勝ち得てるお前と違って、とてもみんなをまとめきれるとは思えないよ」
 謙遜甚だしい、と思ったが、慈恩がそう言うのなら自分が務めるべきなのだろう、と考え、結局自分が部長のままで今に至る。新人戦は近い。今回は団体戦のみの大会となる。だが、近衛が出られるし、東坊城も調子がいい。何より慈恩という戦力があるから、本当に都大会上位に入ることだって夢じゃない。そうすれば、全国大会まで駒を進めることができるのだ。みんなの中にもその思いはある。自然、練習にも熱が入っていた。確かに今ここで、部長交代などという雑念は、不必要に違いなかった。
 当日は監督を務めるコーチも、太鼓を鳴らす手にいつも以上に力が入っているのが分かった。そこへ、いつも通りかなり遅れて、顧問の睦田が入ってきた。この睦田は、五十を過ぎた数学教師で、中学の頃一時期剣道をやっていたことがあるという程度で、段も持っていなかった。だから、本当に名ばかりの顧問で、指導の方はコーチに任せっきりだった。そんな彼が遅れて来ようが、いっそ来なかろうが、部員たちは気にしたこともなかった。ただし、ほぼコーチの言う通りにするとはいえ、試合の選手を最終的に決めて申し込むのはこの顧問だったので、おざなりにするわけでもなかった。
「止め!挨拶!」
 近衛の声に、全員がいったん手を止め、顧問に向き直ってきっちり礼をする。顧問も大儀そうにゆっくり礼をした。近衛が面の奥で眉根を寄せたのは、その態度が気に入らなかったからではなかった。顧問に続いて剣道場に姿を現した人物が、薄く笑いを浮かべているのに不快な感情を呼び起こされたからだ。
「先輩、こんにちは」
 顧問への礼のあと、間髪入れず声を上げ、再び頭を深々と下げたのは和田だった。それに後の部員も続いて声を上げ、再び礼をする。
「お久しぶりです・・・・・・鷹司先輩」
 最後にそう言って礼をしたのが近衛だった。眼鏡の奥の瞳を満足げに細めて、元部長はうなずいた。
「顔を上げていいぞ」
 そう言われて初めて、部員たちの頭が上がった。慈恩もそれに習っていたので、特に目立つことはなかったが、顧問よりコーチより、明らかに重んじられている彼の威厳が、不思議だった。この学校の部長とは、それほどの力をもった者なのだろうか。少なくとも、近衛はそうではないようだが。
「頑張っているようだな。新人戦も近い。新部長の下で、俺たちの無念を晴らすべく、精進してくれ。以上だ」
「はいっ!」
 返事も、あの箕浦に対するものよりはるかに立派だった。それだけで、この部長がいかに権力を持っていたのか・・・・・・いや、今も持ち続けているのかがうかがい知れた。
「あの・・・・・・」
 一人彼に近づき、言葉を選んで言い澱んだ近衛に、鷹司は鷹揚に笑みを見せる。
「何だ、近衛」
「いえ、何か御用かと・・・・・・」
「お前に?」
 ふっ、とあからさまに鼻で笑う。
「何怯えた顔してる。先日のことを言ってるなら、別にお前には用はない。そんなことを気にする暇があったら、稽古を続けろ」
「・・・・・・はい」
 では一体何をしに来たというのだろう。何よりそれが不気味だ。しかし、ここで食い下がれるほどの権力を、近衛は持っていない。先日彼を攻撃するような物言いをしたが、普段は絶対にそんなことはないのだ。鷹司はこの桜花高校の中でもかなり格が高い家柄と目され、その上この人格。誰もが一歩引いて対応している人物だった。家柄ではタメをはる近衛でさえ例外ではない。噂では、生徒会長でさえも裏で操られているという。まあ、ここの生徒会長は如月高校のそれよりはるかに活動が制限されており、たいした力も持ち合わせてはいないのだが。
(引退した部活に顔を出すほど暇な人じゃないはずだ。絶対何かあるに違いないのに)
 きり、と唇を噛んだ近衛の肩に、慈恩の手が載る。
「悠大」
「・・・・・・ああ」

 振り返って、静かな漆黒の瞳にうなずく。今自分がすべきことは、中断された稽古を再会することに他ならない。ひどく気を引かれながらも、稽古再会を部員に告げた。
 コーチの檄は飛ぶが、それも怒声や罵声の類ではなく、あくまで紳士的なものだった。久しぶりの打ち込みとは思えない慈恩を相手に、近衛は必死に受ける。しかし、受けながらどうしても鷹司の動きが気になる。少しの隙さえあれば、視線は顧問に二言三言声を掛けながら稽古を眺めている彼を追っていた。打ち込みが終わった瞬間、思いの外厳しい慈恩の声が耳を貫いた。
「復帰したての俺には、手を抜いたくらいが丁度いい、とでも思ってるのか」
 ぎく、と脳にひやりとした電流が流れる。見抜かれていた。静かな瞳の奥に、真剣な思いが宿っている。
「悪い」
 口を突いて出た言葉は、謝罪の言葉だった。見くびっていたわけではない。誰よりも尊敬しているその技術を軽んじるはずがない。しかし、それ以上に鷹司を気にしていたのは確かだ。申し訳ない気持ちが、たちまち全身を満たしていく。
「そんなつもりは、ない」
 付け足したのは、少しでも自分の思いを分かって欲しかったからだ。慈恩にだけは、そんな誤解をされたくなかった。すると、面の奥で漆黒の瞳が悲しげに翳った。
「・・・・・・俺が言えることじゃないけど・・・・・・集中しててくれ。でないと俺は・・・・・・お前に怪我をさせるかもしれない」
 ふいっと視線を逸らしざま、踵を返して自分から離れていく慈恩に、何かしら背筋をぞくりとさせられた。できたのだ、自分を簡単に打ち負かすことが。つり合う力を求めると言いながら、何と言う体たらくだ。復帰したてでさえ、彼とはこんなに差がある。その思いに、改めて打ちのめされる。
「近衛、来い」
 凛とした慈恩の後ろ姿を見つめていた近衛は、背後から掛けられた逆らいがたい強制を含んだ声に、素早く反応した。
「はい」
 これはもう癖だ。先輩に・・・・・・特にこの鷹司には従順であるように、一年半かけて躾けられた。そんな自分に嫌気がさすが、それでもすっと彼に歩み寄り、三歩ほどの距離を置いて軽く頭を垂れる。嘲笑を交えた吐息が上から降ってきた。侮辱されているのは百も承知だ。それでも逆らえない。ぐっと唇を噛んで堪えた。
「顔を上げろ」
 言われて険しい表情を飲み込み、そろそろと頭を上げた。皮肉めいた笑みを薄い唇の端に載せた鷹司。
「酷い言われようじゃないか。お前ほどの人間が、そこまで軽んじられるとはな」
「いえ・・・・・・集中できてなかったのは俺です。言われて当然です」
「当然・・・・・・?馬鹿を言え。部長たるもの、諫言することがあってもされることがあっては信頼が地に落ちる。そんな言い方をいつも許しているのか?」
 胸を嫌な予感が駆け抜ける。思わず激しく首を振る。
「いいえ・・・・・・!彼があんな言い方をしたことは、これまでに一度もありません。それほど俺が気を抜いていたんです」
 すうっと鷹司の笑みが深くなる。その凄絶な表情に、近衛は血の気が引いていくのを感じた。心が警告を発している。まずい、まずい、まずい!
「ほぉ、ということは、敢えて俺の前で桜花剣道部の部長を、あいつは見下して見せたわけか。立派な挑戦状だな」
「違います!あいつはそんな人間じゃない!」
 まさかこんなところを逆手に取られるとは。頼りにならないと分かっていたが、顧問に視線を向けた。
「先生、今のは私の不注意が招いたことです。九条は、一度怪我をしているから、俺にそうならないよう注意を喚起してくれた、それだけです。ずっと見てらっしゃる先生なら、お分かりになりますよね?」
 突然話を振られて、睦田は、ん?と首をかしげた。
「そうだったか?うん、そうだな。しかし、普段仲がいいからといって、部活中に馴れ合うのはどうかと思うな。やはり部活中は礼節をわきまえないと」
 馬鹿野郎と叫んで、舌打ちしたいのを近衛は必死で堪えた。全くとんちんかんなことを言っているのが、こいつには分からないのだろうか。それとも、近衛を完全に否定するのは気が引けるが、鷹司の面目を立てる方が優先だというところから、狙って見当違いの答えを出し、自分が巻き込まれるのを避けたか。
「もういい、近衛。下がれ」
 冷たく言い放たれた言葉。このままではいけない。少しでも慈恩をフォローしなければ。
「先輩・・・」
「下がれと言った」
 しかし、どうにも取り付くしまもない。苛ついたように言った鷹司とは、視線も合わない。もう完全に自分は切り捨てられている。
「近衛、もう休憩はいいだろう。次の稽古に入りなさい」
 顧問まで分かった風な口を挟んでくる。あと少しでも理性が足りなかったら、歯軋りを実行していたに違いない。しかし、みんなを待たせているのも事実だ。自分が食い下がれるのはここまでか。となったら、とっとと始めて鷹司と慈恩を接触させないように・・・・・・
「九条」
 よく透る鷹司の声が、道場の空気を裂いた。全員が振り返る中で、最もゆっくり身体を声のした方へ向けたのが、呼ばれた本人だった。ぞくり、と近衛の背筋を寒気が這いずった。
(しまった・・・・・・先を越された・・・・・・!)
 鷹司の顔には、先ほどの笑みが閃く。
「来い」
 完全に上から下す命令。剣道着の背中が冷たいと感じた。静かに慈恩が命令に従う。
「先輩!俺が稽古をする相手は、九条です!呼ばれたら、俺の相手がいません!」
 苦し紛れは重々承知だったが、それでも言わずにはいられなかった近衛に、鷹司の鋭い視線が突き刺さった。
「しつこい。集中できないのなら、東坊城で十分だろう。俺のやることに口を出すな」
「でも!」
 なお食い下がろうとした近衛の肩に、静かに触れる防具をつけたままの手。思わず振り返ると、漆黒の瞳が自分を見つめていた。視線が合った瞬間、慈恩は目を伏せ、軽く首を振った。いいから、行け、というのが分かった。そんな慈恩を、楽しそうに見据えて、剣道部元部長はうなずいた。
「物分かりがいいようだな。ほら、親友まで戻れと言ってるぞ。さっさと失せろ、近衛」
 顎で去ね、とあしらわれる。己の無力さを噛み締め、近衛は鷹司に対して会釈をし、体の向きを百八十度変える。どこまでも落ち着いて鷹司に向き合う慈恩に、他の誰にも聞こえない声で低く囁いた。
「・・・気をつけろ」
 慈恩の背中が微かに緊張したのが分かった。でも、今近衛にできるのはそれしかなかった。もうどうすることもできない。あとは慈恩が上手く切り抜けてくれることを祈るしかなかった。
「次は掛かり稽古だ!用意しろ!」
 吐き捨てるように言うと、東坊城をつかまえた。
「悪い、相手してくれ」

「あ、うん。仕方ないよ。鷹司先輩、前から言ってたから。九条のこと。でも、あの人にだって体面的なものはあるから、滅多なことはしないよ・・・・・・多分」
 ヒソ、と小声で言う東坊城に、苛々する。そんなこと、自分だってとっくに思っている。敢えて言うなら、絶対と断言するくらいにしやがれ、と舌打ちしたい。
「・・・・・・近衛、あんまりあの人に逆らうのはやめとけよ。見てるこっちがハラハラする」
 視線を合わせずに和田がつぶやいた。巻き込まれたくないのと、これ以上元部長の怒りの矛先を近衛に向けさせたくないのが、分かった。
「・・・・・・心配してるんだよ、和田も。お前がとばっちりを敢えて受けようとしてるんじゃないかって」
 そうだ、敢えて受けようとした。でも、できなかった。悔しい。そして、どうしようもない不安が渦巻く。
「じゃあ始めるぞ!」

 コーチが稽古開始の合図に、太鼓を鳴らした。途端、やああ、という掛け声とパンパンと竹刀を打ち合う音が一斉に混ざり合って剣道場を満たした。どうしようもない思いを打ち消さんと、近衛は力一杯東坊城に打ち掛かっていった。

「防具を外せ」
 係り稽古の派手な音と声にさえ掻き消されない、鷹司の威圧的な声。何故そうする必要があるのか、と、問うだけ無駄だということは理解していた。その場に座すと、素直に小手を外し、面を外してその上に丁寧に置く。胴を外し、紐まできちんと折りたたむようにする。正座のまま視線を上げると、鷹司が上から視線を投げた。
「よし、立て。俺について来い」
 防具の脇に横たえられた竹刀を、しなやかな肢体を優雅に折り曲げて拾う。その拍子に少しずれた縁のない眼鏡を少し指先で上げた。
「借りるぞ」
 桜花の制服はオーダーメイドが多いと聞く。鷹司の制服は一般的なものより、その身体に合わせてスリムに作られているようだ。おかげで、鷹司のスタイルのよさが目立つ。他人が見たら、彼は慈恩より少し細いように見えるだろう。
 連れて行かれたのは、剣道部の部室だった。剣道場の一角に調えられた部屋だが、如月の部室の三倍の広さはある上、上級生の部屋と下級生の部屋に分かれている。上級生の部屋は三年生が引退したときに現二年生が譲り受けている。すぐ隣にはシャワールームもあって、その数や広さも如月とは比べ物にならない。その二年生の方の部室に入ると、鷹司は持っていた慈恩の竹刀で入り口を指した。
「鍵を掛けろ」
「・・・・・・何故です」
 気をつけろ、と近衛は言った。誰もいない部室に連れて来て、中から鍵を掛けろと言われたら、そうでなくても警戒しないわけがない。
「人に聞かれれば、お前がこの先ここで生活しにくくなる」
「・・・・・・どういう意味です?」
 ふ、と鷹司は笑った。
「そういう意味だ。お前の心配をしている」
 言うつもりがないのだということはよく分かった。どうすべきかわずかの間考えたが、何をするつもりにしろ、中から鍵を開けなければ鷹司も出られない。鷹司が中にいる限り、自分一人がどうにかされて閉じ込められるということはないはずだ。
(だったら、何とかなるだろ)
 そう結論付けて、慈恩は引き戸の取っ手についている鍵を下ろした。
「・・・・・・お前、俺が何かすると疑ってるんじゃないのか」
 むしろ疑い深そうな鷹司の声が広い個室となった部屋に響く。声の方向へ振り返り、微かにうなずいた。
「何事もなく返して頂けるとは、思っていませんが」
「じゃあ何故、言われるがままに鍵を掛けたりするんだ?お前、馬鹿か?」
 やれと言っておいて、それはないだろう。と、やや慈恩は理不尽な気分を味わったが、小さく吐息した。
「そうですね。でも、あなたに逆らうのは時間の無駄だと思いました」
 一瞬鷹司は瞠目し、次の瞬間、肩を揺らし、三瞬目で爆笑した。
「あははははっ、ああ、そうか、お前思ったより肝が座ってるな」
 ひとしきり笑ってから、手にした竹刀で床を指す。
「座れ」
 この場合、やはり正座なのだろう。今更板張りの床に正座することは、苦でもない。長い脚を折りたたんでその場に静かに座す。
 鷹司の持つ竹刀が、慈恩の道着の合わせの辺りを小突いてきた。
「はっきり言おう。俺はお前を憎んでいる。最後の試合で惨めに消化試合をさせられてから、お前の名前を忘れたことはない」
 は?と言いたいところだが、慈恩は黙って聞いていた。相手の言わんとするところは理解できる。地区予選で桜花と当たったのは二回戦。剣道は団体戦の勝負がついていても大将戦までこなす。だから、前半で決着がついていても、副将や大将は負けと分かっていて戦うことになる。鷹司は部長だったのだから、間違いなく大将だったはずだ。
「そこへのこのこ現れて、自分が打ち負かした剣道部へ入ろうというお前の神経が理解できない。そこまで馬鹿にされて、俺は黙っているつもりはない。さて、まずはお前の言い分を聞かせてもらおうか。お前をどうするかは、その言い分次第だ」
 馬鹿にしたつもりは全くないが、そんなふうに取られていたとは。内心で、やや驚いた。
「・・・・・・言い分ですか・・・・・・。正直に言えば、きっとあなたの気分を害することになると思います。そうなると、俺はどうなるのかを、先に聞かせてもらっていいですか」
「・・・・・・聞いてどうする」
「正直に言うかどうかを考えます」
 鷹司の品性と知性とを同居させたような顔が、不快そうに歪んだ。
「嘘をつく気か」
「・・・・・・俺の言い分次第で、対応が変わるのでしょう?そう宣告されていれば、当然の選択だと思いますが・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 鷹司にしてみれば、深く考えて言った言葉ではなかったようだ。言葉に詰まったあと、いきなり笑い出した。
「なるほど。じゃあ対応を変えなければ、正直に話すつもりでいるのだな」
「特に嘘をつく理由はなくなりますね」
「正直に話したとしても、相手の気分を害すれば、絶対的に損をするだろう」
「損・・・・・・ですか?でも・・・・・・」
 嘘だと思いたかった。自分と一緒にいたくないと言った、大切な兄の言葉。本音かもしれない。でも、絶対的な本音ではなかったとは、思うのだ。少なくとも斗音は、自分のことを大切に思ってくれていた。だから、嘘だと思いたかった。でも、嘘だったとしたら、その嘘は果てしなく自分を悩ませ、そして今でも苦しめている。本音だったら、はっきりとそう確信できていたら、確かにつらかったかもしれない。でも、諦めることも容易かっただろう。
(そうか、俺は今でも・・・・・・斗音を信じようとしているのか・・・・・・)
「嘘は・・・・・・時に人を惑わせる・・・・・・嘘をつかれたと分かれば、なおつらいでしょう。この場合、明らかに保身のための嘘になる。その方がよっぽど、相手を馬鹿にしていると思います」
 言葉を切って、初めてうつむいた。
「相手を思ってついた嘘でも、つかれた方が苦しむこともある・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 鷹司の表情が不審の色を湛えた。

「お前は一つ一つのことをやたら真剣に考えるのだな。まあいい。そう思うなら、正直にその言い分とやらを話すがいい」
 どうするかを言う気は、ないらしい。再び竹刀の先革で胸骨の対になった辺りをぐい、と突いてくる。不快な痛みを感じるが、表情には出さなかった。
「・・・・・・色々複雑な事情があって・・・・・・俺は強制的に如月からここへ転入させられました。如月にいたとき自分には・・・・・・守るものもあったし、すべきことも多くあった。でもここに来た俺に残されたものは、剣道しかなかった。・・・・・・剣道を続けることは、家の者全員の意思でもあったし、俺自身も自分を支えていられるたった一つのことだったから・・・・・・正直、地区大会で戦ったときのことを、それほど真剣に考えはしませんでした。俺が入部することで、これほど人に不快な思いをさせるとは、思いもしなかった・・・・・・」
 当たった剣先が圧力を増した。激痛とまではいかないものの、胸骨が窪みそうな勢いだ。
「深く物事を考える奴なのかと思えば、そんな当たり前のことにも気が回らないのだな。この愚か者が」
 愚か、か。と胸の内に思う。そもそも考え方が根本的に違うのだ。その根付いたものを理解するには、まだ時間がかかるだろう。嵐辺りだったら、そこまで気が回ったかもしれない。もちろん、そこで相手の気持ちを汲んで相手のために自分を犠牲にしたりは、絶対にしないだろうが。客観的に考えた上で自分が正しいと思う方を強引に優先させるに違いない。
「やはりお前は上を敬うという気持ちが欠けている。それが俗な世界にいた者の定めかもしれないが、ここに在籍し、その上本気で桜花剣道部の一員となるつもりがあるのなら、今ここでそういった考えを改めてもらう必要がある」
 俗な世界。その言葉は慈恩の胸を冷たい鋭い刃物となって抉った。
(じゃあ一体、ここはどんな世界だっていうんだ・・・・・・)
 理解したくもない。俗と言われても構わない。少なくとも自分はその俗な世界の方が、ずっとずっと性に合っているし、ずっとずっと好きだ。でも、そこに存在することが許されない。理解したくもない世界に身を置くしかない。この違和感やわだかまりを心に閉じ込めて。
「・・・・・・俺にも事情があります。剣道をやめることも、転校することも、今は考えられません。でも、俺にとってはあなたたちの当たり前が、当たり前だと感じられない・・・・・・。どうすれば、そんな簡単に、考えを改められますか?」
 鷹司の顔が、引きつったような笑みで歪んだ。
「頭で考えて分からないようなら、身体で理解するしかないだろう!」
「っ!」
 今まで突かれていた部分に、衝撃と、今度こそ激痛と呼べるものが走った。結局こうなるわけか。防具なしで竹刀も持たない、無防備な人間に対して竹刀を振るうなど、剣道をたしなむ者とも思えない。
「考えを改めなければ、痛い思いをする。それが分かれば、嫌でも理解しようと思うだろうよ」
 犬を相手にでもしているつもりだろうか。馬鹿馬鹿しいと思った。静かに目を閉じる。無心になれば、痛みもそれほど気にならないかもしれない。身体の奥まで深く呼吸をし、静かにそれを吐き出す。脚の上に置いた拳を、強めに握り締める。
「ほう、覚悟を決めたのか。いい度胸だ!声のひとつも立てなければ、その覚悟、本物と認めてやろう!」
 認めてなど、もらわなくていい。そう思った途端、背中に衝撃が走った。半瞬のちに背中の筋肉や肩甲骨などの骨が厳しい痛みを訴えてきた。
(余計なことを考えるな。心を静めるんだ)
 二度、三度、背を打たれた。初めほどの痛みは感じない。恐ろしいほどの集中力で、慈恩は精神統一を図った。四度、五度、打たれる回数が重なる度、痛みは鈍くなっていく。
「・・・・・・なかなかやるじゃないか。お前がその気なら、何が何でも悲鳴のひとつも上げさせてやろう!」
 そう、鷹司は言ったが、慈恩の耳には入らなかった。だから、それに対して皮肉のひとつも思いつかなかった。しかし、次の瞬間に、少しだけ息が詰まった。衝撃は、今度は前からやってきたのだ。それを意識の片隅で感じる間に、次は腕、肩、素手の手を載せている脚、手の甲が衝撃を感じた。さすがに手の甲には、鋭い痛みが走った。それでも慈恩は更に意識を無に変えていく。
「・・・・・・この・・・・・・生意気な・・・・・・っ!」
 ほとんど眉ひとつも動かさない慈恩に、逆に鷹司は心を乱した。この相手が恐ろしく思えてきた。そして、これくらい大したことないと言われているような被害妄想に取り付かれる。
(こんなに必死にやっているのに・・・・・・!)
 なるべく外に出ないところを狙っていた。あからさまにこの少年が傷を負っていれば、大勢の目撃者がいるのだ。自分が間違いなく疑われる。もちろん、そんな疑いは揉み消してしまえる自信はあったが、表面的に揉み消したとしても、人の心の中にははっきりと自分が犯人だということが刻み込まれる。それは得策ではない。もちろん、こいつが近衛辺りにしゃべれば、近衛は信じるだろう。だが、自分ははるかに近衛より権力も信頼もある。そして、周りは近衛より自分を信じる。この生意気な下級生は、近衛以外に話しはしないだろう。何となく、それは確信がもてた。
「だったら・・・・・・これでどうだ!」
 思い切り振りかぶって、右肩を打ち据える。それでも彼の表情は全く変わらない。静かに目を伏せたままで。
「一度で効かなきゃ、何度でも!」
 二度、三度打っても同じ。
「こ・・・のっ・・・・・・!」
 思い余った鷹司は上段で構え、これまでの中でも最速で竹刀を振り下ろした。が、力一杯やりすぎてコントロールがきかなかった。肩に当たる前に中ゆいが右のこめかみを鋭くかすり、耳を擦り、肩を打ったときには、切れたこめかみと酷く擦れた耳の一部から血が溢れ出していた。
(しまっ・・・・・・た・・・・・・!)
 鷹司は、あれだけ沸騰していた自分の血が、さあああっと音を立てて引いていくのを感じた。こめかみから流れ出した血は、慈恩の整った輪郭をするりとなぞり、剣道着にパタパタと黒ずんだ染みを作った。よく見れば、先ほど間違って打ってしまった左手の甲も、皮膚が裂けて血が滲んでいる。
「・・・・・・おいっ・・・・・・」
 右の耳も、擦れているだけでなく切れているようだ。既にかなりの範囲が赤く染まっている。それなのに、当の本人は目を閉じたまま、動じない。
「どうして・・・・・・お前、気づいてないのか!」
 思わず声を上げた瞬間、ガタガタッと引き戸をこじ開けようとする音がして、次にダンダンと戸がきしむほど打ち鳴らされた。
「慈恩、いるのか!いるんだったら開けろ!」
 近衛の声だ。心臓が縮み上がりそうになりながら、激しく振動する戸を見遣る。鷹司は色を失った唇を噛み締めた。自分が傷つけた少年は、それでも反応しない。血は既に首筋からも流れ、剣道着の衿首も黒ずみ始めていた。
(手当てを・・・・・・しなければ・・・・・・)

 初めてそう思った。部活中は救急箱が剣道場にあるので、部室には手当てのできそうなものは何もない。手拭などはいくつかあるが、あまり衛生的とも思えない。潔癖症の鷹司は、それを傷口に当てるなど、おぞましくてできなかった。思わず外に向かって叫んでいた。
「近衛、救急箱を持って来い!できる限り早くだ!」
「・・・・・・っ、はい!」
 戸の向こう側の相手が、一瞬息を詰めたのが分かった。それでもすぐに足音は消えていった。
(誰も連れてこなければいいが・・・・・・)
 赤い液体は勢いよく流れ出るというより、傷口からじくじくと鈍い色を放って溢れてくる感じだった。初めに比べればその勢いはおさまっているようだ。そこへ、裸足でバタバタと駆けて来る足音がして、再び戸が打ち鳴らされた。
「鷹司先輩、持って来ました!開けて下さい!」
 足音がひとつだったことが、少し意外だった。そんなことはすぐに意識の片隅に追いやって、鷹司は震える指で鍵を上げた。ガチ、と音がして、外れたと分かった瞬間、目の前の戸が超高速で視界から消え去った。
「あのっ・・・・・・!」
 救急箱を差し出しながら、すかさず近衛が室内に視線を巡らす。
「・・・・・・慈・・・恩・・・・・・?」
 近衛の位置からは丁度出血が死角になっている。本能的に鷹司は近衛を中に引っ張り込み、再び戸を締めた。近衛が慌てて振り返る。
「何をするんです・・・?」
「いいから・・・・・・そいつを手当てするんだ」
「え・・・・・・?」
 何気なく慈恩に近づいた途端、近衛は、うわ、と声を上げた。
「どうしたんだよ、これ!慈恩!」
 左の肩をつかんで、激しく揺さぶる。揺さぶられた方は、静かに目を開いた。そして、驚いたように目の前にいた近衛を見つめた。
「悠大・・・・・・何してるんだ?」
「それはこっちのセリフだろ!お前、左手も・・・・・・これって・・・・・・まさか・・・・・・」
 言われて、慈恩はふと左手に目をやり、それからいきなり顔をしかめた。
「っ・・・・・・て・・・・・・」
「気づくのおせえだろ!お前、血がこんなに・・・・・・!」
「ん・・・・・・?ああ・・・・・・ほんとだ。っ、いて・・・・・・」
 鷹司は、背筋を寒気が這い上がっていくのを止められなかった。まさか、本当に気づいていなかったのか?痛みすら意識の外に追いやってしまうほどの、精神統一をやってのけたというのか。
(馬鹿な・・・・・・!有り得ない!)
「馬鹿、触んな!今消毒するから・・・・・・」
「・・・・・・ああ、ありがとう・・・・・・」
 言いながら、ふと視線をこちらに送ってくる。それをまともに受けることは、叶わなかった。
「近衛、あとは任せる。分かっていると思うが、他言は一切無用だ」
「鷹司先輩、これは・・・・・・あなたが!」
 咎めるような近衛の声を、背で聞いた。
「聞きたければそいつの口から聞くがいい。・・・・・・口止めはしていない。だがもしこのことが少しでも広まれば、近衛。貴様の仕業とみなす・・・・・・いいな」
 言い捨てて、鷹司は部室を出た。後ろ手で戸を閉めたが、その手が震えていた。膝も震えている。
(何という奴・・・・・・なんと恐ろしい奴だ・・・・・・九条、あいつは・・・・・・)
 震えを止めようと、両拳を握り締める。それでも、今度は全身が震えてきて、思わず戸に背を預けると、そのままずるずるとへたり込んでしまった。

(本物だ・・・・・・!)

「痛た・・・・・・ごめん、そこも駄目だ」
「やっぱりな。酷く擦れてる。お前なあ・・・・・・こめかみは比較的浅いけど、耳だけで出血箇所が三箇所だぞ?ったく・・・・・・ほら、今度は左手だ」
 器用にガーゼや消毒液で手当てをしていく近衛に、慈恩は感心する。ところが右手をぐいと引かれて、肩の打ち身が痛みを訴え、背中の打ち身が引き攣れ、さすがに小さく悲鳴を上げた。
「いつっ・・・!」
「悪い、何で?他にもやられてんのか?」
「はは・・・・・・、肩を少しと、あと背中かな・・・・・・」
「・・・・・・あの野郎、外から見えないところ狙いやがったな。で、失敗して怖くなって逃げたってわけか」
 左手の甲に消毒液を含ませたガーゼを当て、見た目も美しく包帯を巻く。
「ちょっと大げさだな・・・・・・」
「馬鹿言え。竹刀で殴られたんだぞ?傷だけじゃすまねえよ。あとから腫れ上がって来るぞ。だから湿布代わりだ。・・・・・・よし、見えるところはこれでいいな。じゃあその血だらけの剣道着、脱いでくれるか」
 慈恩は顔をしかめながら、合わせを緩め、袖から抜いた腕をそこから出す。両腕を出すと、よく締まった上半身が露わになり、それを見た近衛は思わず目を背けた。その右肩から背中一面は酷いミミズ腫れになり、その内いくつかは皮膚が裂けて血を滲ませていた。腕や胸にも打撲痕はあったが、そちらの比ではなかった。
「ちょっと背中が痛むかな・・・・・・熱くて、ひりひりする。・・・・・・悠大?」
「・・・・・・待ってろ。とりあえず・・・・・・消毒、を・・・・・・」
 近衛の手が震えて、消毒液を取り落とす。声もひどく震えているのに、慈恩は軽く首をかしげる。
「どうした?」
「・・・・・・・・・・・・どうした、だと?・・・・・・ふざけんじゃねえよ。何でこんな・・・・・・・・・こんな目に、お前が!」
 そっと視線を流すと、近衛がその栗色の瞳に滲ませているものが見えた。困ったように苦笑する。
「嘘をつくべきだったかな・・・・・・気が進まなかったから、本音を言って怒らせた」
 まずは肩の傷にたっぷり消毒液を含ませたガーゼを当て、その上から大きな湿布を貼る。
「あ、いいな、それ。すごく冷たくて気持ちいい」
 手当て上手いな、などと茶化したように言う慈恩の首を、近衛はそっと掻き抱いた。
「ごめん、守れなくて」
「・・・・・・何で悠大が謝るんだ」
 慈恩の低音の声には、笑みが含まれている。実際、さほど痛いとも思っていない。火がついたように熱くて、ところどころが疼くように、あるいはちりちりと焼けるように痛みを訴えてはいるけれど。これくらいで気が済んでくれるのなら、いいだろう、という気さえする。自分がこちらの考え方を理解できないように、彼もまた、自分の考え方が理解できないのだろう。仕方がない。それを暴力で解決しようというのはどうかと思うが、今の自分の精神統一のおかげで気分は落ち着いていた。だから、それほど腹は立たなかったのだ。
「あいつが何かしでかすことは、何となく予想がついてた。それなのに、結局食い止めることもできなくて・・・・・・ほんと、ごめん」
 言葉を詰まらせた近衛の背を、痛みでぎこちない動きになる左腕で、そっとたたいた。

「守ってくれようとしてたじゃないか。・・・・・・嬉しかったよ。ありがとう」

 戸一枚を隔てて、そこには珍しく片足を投げ出して背を預けている鷹司と、三歩の距離を置いて立ち尽くす和田が身動きもしないまま、互いに視線を逸らすことができずにいた。中にいる二人はそのことを知っているのだろうか。微かに会話がこぼれているから、その様子は推して知ることができた。それほど外の空気は静まり返っていたし、何か張り詰めたものがあった。
「・・・・・・何しに来た」
 低い声で沈黙を破ったのは、鷹司の方だった。和田の肩がぴくりと緊張する。やや躊躇ってから答えた。
「・・・・・・近衛が・・・・・・救急箱を・・・・・・こっそり持っていくのが見えたので・・・・・・」
「・・・・・・ふん、それで心配になって見に来たというわけか。お節介な野郎だ」
「・・・すみません・・・・・・」
 静かに溜息をついて、鷹司は自嘲の笑みを浮かべた。彼にはおよそ不似合いな表情だった。
「後輩にあいつ呼ばわりされる俺に比べて、近衛は・・・・・・いや、九条もか。あいつらは部員に大事に思われているということか」
「・・・・・・・・・・・・」
 何も言えずにいる和田の前で、鷹司はふらつく脚を踏みしめるようにして立ち上がった。
「・・・・・・残念だが、そう容易く貴様らにいい思いはさせてやらない。・・・・・・覚えておけ」
 頼りない歩みで立ち去ろうとする鷹司に、思わず和田は不安を掻き立てられる。
「あの、先輩・・・・・・それは、どういう・・・・・・」
 一瞬鷹司の足が止まった。振り返ったその顔には、冷たい笑みがあった。
「・・・・・・すぐに分かる」

 ぞくり、と和田の背中に寒気が這い上がった。それは確信めいた嫌な予感だったが、それを問い詰める勇気が和田にはなかった。絶対的な先輩の姿が完全に見えなくなるまで、動くことすらできはしなかったのだ。

 背中の傷を消毒して化膿止めを丁寧に塗る。直接傷に触れているのだ。痛くないはずがない。時々筋肉が痛みに怯えて固まるのが分かったが、それでも、慈恩は一言も「痛い」と言わなかった。一番酷い傷だったのに。そう言えば、また自分が己を責めるということが分かっているから。それが切なくて、近衛は唇を噛んだ。
 慈恩が一番つらいときに、つらいと打ち明けられる人間でいたかった。なのに、自分がそう言うことを我慢させている。それでは本末転倒だ。悔しいと思う。でも、その慈恩の気遣いが心に染みる。自分を大事に思ってくれているのだと感じられるから、尚更切ない。
「稽古、大丈夫なのか?」
「・・・・・・東坊城に任せてきた。そろそろ休憩時間も終わってる」
「そう。じゃあ、心配ないな」
「・・・・・・そうか?」
「うん。東坊城って、天然なところはあるけど、与えられたことに対しては誠実にこなせる力があると思うから」
「・・・・・・お前はよく見てるな。あいつを褒める人間を、俺は初めて見たよ」
「はは・・・中学校時代とかのことも知らない分、偏見がないだけだろ」
 他愛ない会話ひとつでも、慈恩の人間の深さが分かる。酷く腫れ上がった傷のひとつに、そっと消毒液を含ませたガーゼを押し当てながら、それに頬を寄せたい気分になる。また筋肉が微かに強張った。
「・・・・・・何、その・・・傷・・・・・・」
 喉に張り付いたような声に、近衛はびくりと顔を上げた。その視線の先で、和田が立ちすくんでいた。戸が開いたのにすら、気づかなかった。慈恩が静かに振り向く。
「まだ、休憩時間?」
「いや・・・・・・もう始まってる、と思う」
「そうか」
 別に責める言葉もない。ただ、事実をありのままに受け止める慈恩に、和田は見事に自分の疑問をかわされそうになったことに気づいた。
「今・・・・・・鷹司先輩が、ここに・・・・・・いたけど?」
「・・・・・・いたのか」
 反応したのは近衛の方だった。とっくに行ったと思っていたのに。もしかしたら、自分たちの会話は聞かれていたかもしれない、と自分の迂闊さを悔やむ。慈恩は全く動じない。気づいていたのだろうか。
「なあ・・・・・・九条、それ・・・・・・あの人にやられたのか・・・・・・?」
 率直な質問に、慈恩はただ静かに微笑んで見せた。肯定も否定もしない。それに焦れたように、和田は近衛を見つめた。
「そうなのか、近衛」
 明確な答えを求められて、近衛はやや躊躇した。和田が知ったら、このことは広まるかもしれない。そうなってしまえばいいとも思ったし、そうなれば鷹司は自分を逆恨みするだろうから、理不尽だという気もした。でも、少なくとも和田が求める答えは、確信を得るための肯定でしかない。今更否定したところで、信じはしないだろう。
「・・・・・・僕は口止めされてるからね。和田が自分自身で判断すればいい。でも、これ以上首を突っ込まない方が、身のためかも知れないよ」
 和田は少し困惑したようだった。わずかに眉根を寄せる。
「・・・・・・あのさ、近衛。お前、今の今まで、そんな話し方してなかったよな」
「・・・・・・」
「ずっと思ってた。お前の話し方って、優等生すぎて、誰からも一線引いてるって感じだった。なのに、九条にだけは、普通にしゃべるんだな・・・・・・」
 くす、と笑ったのは慈恩だった。まさか和田にまで聞かれていたとは、と再び自分の迂闊さを呪っていた近衛は、訝しげに傷だらけの背を向けている彼を見遣る。
「こっちの方が、いいと思わない?」
「えっ・・・・・・」
 慈恩の笑みは優しくて、少し悪戯っぽかった。
「優等生で、お坊ちゃまの悠大より、普通に高校生らしい気さくな悠大の方が、魅力的だろ?」
 和田は返答に詰まる。慈恩は構わず続けた。
「そう言ってるんだけど、悠大には悠大の事情があるらしくて、なかなか人前で本性見せたがらないんだ」
「慈恩」
「悠大はさ、みんなが思ってるよりずっと気さくで感情豊かで、人間らしい奴だよ」
 自分がずっと、何年もかけて守り通してきたバリアを、いとも簡単に解除しようとする慈恩に、思わず溜息をついた。
「お前ね。人がこつこつ築き上げてきたものを、なんでそう、いとも簡単に突き崩してくれるかな」
 漆黒の瞳が柔らかく凪いだ。
「本当の仲間には、そんな壁必要ないと思うからだよ」
「・・・・・・仲間?」
 慈恩が軽くうなずいた。そして和田を見上げる。
「稽古を抜けてまで、更に苦手な先輩がいる可能性もあったのに、いなくなった悠大を心配して来てくれたんだ。・・・・・・和田は率直で、思ったことそのまま口に出すから、悠大にとっては気に食わないときもあるかもしれないけど、お前が思ってるよりずっと、お前を慕ってる。俺はずっと、そう思って見てた」
 和田の頬や耳が、瞬間で朱に染まる。
「なっ・・・・・・俺は、そんな・・・・・・!」
 近衛が口を尖らせる。
「否定されたぞ」
 慈恩はくすくす笑った。
「何言ってんだよ。図星で照れてるんだろ」
「九条!」
 今度は顔を真っ赤にした和田が思わず声を上げた。それに、あ、そうだ、と慈恩があくまで低く艶やかな声で、付け足した。
「東坊城も。みんなが思ってる以上に部長のこと、部員のこと大事にしてる。早く行かないと、きっと探しに来るよ・・・・・・。稽古を早めに切り上げて」
 思わず近衛と和田は顔を見合わせた。それは、まずい。この状況を見せれば、新人戦に向けて高まっている部員の気持ちが、一気に萎えてしまうだろう。噂話を聞くのとはわけが違う。この慈恩の傷を見て、動揺しない者はいない。
「和田、先に戻れ。俺たちはすぐに行くから、と伝えてくれ」
 今まで掛けられたことのないような、等身大の近衛の言葉に、和田はうなずいてから、屈託なく笑った。
「ああ。・・・・・・うん、この方が、親しみがあっていい。じゃあ、待ってるからな」
「・・・・・・頼んだ」
 和田が完全に立ち去るのを見届けてから、近衛は慈恩を睨んだ。
「・・・・・・この策士め」
 笑っただけで、慈恩は返事をしなかった。

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