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2009年5月

三十六.鷹司の報復

 近衛の過保護なまでの部活禁止令のおかげで、慈恩の怪我は順調に回復した。もちろん、その間何もせずにいれば、腕はひどく鈍ってしまうので、できる限りの筋トレや素振りは行っていた。剣道の新人戦大会は、十月の末に行われることになっていたので、禁止令の解けた十月の第二週、丁度桜花祭の終わった翌週から、剣道部のみんなと同じ練習に加わることが許された。
 東坊城がほっとしたように言ったものだ。
「よかったぁ、もう、いつも九条とやってるせいで、近衛が強くなっててさ。近衛の相手するの、きつかったんだよ」
 慈恩と手合わせするようになって、まだほんの三週間ほどしか経っていなかったはずだ。それでも、もともと手合わせしていた彼がそう感じるほど、近衛は成長しているということだ。
「やっぱ、相手がいいと上手くなるもんかね」
 和田が、やや皮肉を込めて言った。それに対して、近衛は涼しげに答えたものだ。
「相手につり合うようになりたいと思う気持ちさえあればね」
 そして、久しぶりに東坊城と手合わせした和田は、彼らの副部長もただきついと思いながら近衛の相手をしていたのではなかったのだと思い知ることになった。
「東坊城、なんかキレがよくなってねえ?」
「あはは、そうかな。そんなつもり、自分ではないけど。和田がいつもより遅いだけだよ」
 自分が褒められることに慣れていないのだろう。照れ隠しに自分はたいしたことないと言おうとしたのはいいが、和田の気分を害してしまった。
「悪かったな、遅くなってて」
 むすっと拗ねた和田に、慈恩はくす、と笑った。
「和田はいつも通りだよ・・・・・・少なくとも俺にはそう見える」
 たったその一言で、部員全員が心を和まされた。和田は、だよな、といって、ほら見ろと言わんばかりに東坊城の面を竹刀で小突き、東坊城は自分のよく考えずに言った一言に、我ながら失敗したと落ち込んでいたのを救われた。和田は良くも悪くもムードメーカーだ。彼の機嫌がよければ、部活の時間は楽しく意義あるものになるし、彼が機嫌を損ねると何だか刺々しい雰囲気が漂い、近衛はそれを気遣ったりしないので、周りみんなが気遣う羽目になる。
(本当は、慈恩が一番部長にふさわしいんだろうな)
 物静かで、ここ一番というときに一番必要な一言を、何の気負いもなくその唇に載せる。それでいて、誰もが納得せずにいられない圧倒的な強さを誇る。近衛はそう思わずにいられない。でも、自分の部屋へ彼を招いた折に、かなり本気でそれを口にしたら、やんわりと断られた。
「一度決まったものを軽々しくひっくり返すのはあまり得策じゃないだろ。それに俺は、ここではまだ日が浅い。絶対的な信頼を勝ち得てるお前と違って、とてもみんなをまとめきれるとは思えないよ」
 謙遜甚だしい、と思ったが、慈恩がそう言うのなら自分が務めるべきなのだろう、と考え、結局自分が部長のままで今に至る。新人戦は近い。今回は団体戦のみの大会となる。だが、近衛が出られるし、東坊城も調子がいい。何より慈恩という戦力があるから、本当に都大会上位に入ることだって夢じゃない。そうすれば、全国大会まで駒を進めることができるのだ。みんなの中にもその思いはある。自然、練習にも熱が入っていた。確かに今ここで、部長交代などという雑念は、不必要に違いなかった。
 当日は監督を務めるコーチも、太鼓を鳴らす手にいつも以上に力が入っているのが分かった。そこへ、いつも通りかなり遅れて、顧問の睦田が入ってきた。この睦田は、五十を過ぎた数学教師で、中学の頃一時期剣道をやっていたことがあるという程度で、段も持っていなかった。だから、本当に名ばかりの顧問で、指導の方はコーチに任せっきりだった。そんな彼が遅れて来ようが、いっそ来なかろうが、部員たちは気にしたこともなかった。ただし、ほぼコーチの言う通りにするとはいえ、試合の選手を最終的に決めて申し込むのはこの顧問だったので、おざなりにするわけでもなかった。
「止め!挨拶!」
 近衛の声に、全員がいったん手を止め、顧問に向き直ってきっちり礼をする。顧問も大儀そうにゆっくり礼をした。近衛が面の奥で眉根を寄せたのは、その態度が気に入らなかったからではなかった。顧問に続いて剣道場に姿を現した人物が、薄く笑いを浮かべているのに不快な感情を呼び起こされたからだ。
「先輩、こんにちは」
 顧問への礼のあと、間髪入れず声を上げ、再び頭を深々と下げたのは和田だった。それに後の部員も続いて声を上げ、再び礼をする。
「お久しぶりです・・・・・・鷹司先輩」
 最後にそう言って礼をしたのが近衛だった。眼鏡の奥の瞳を満足げに細めて、元部長はうなずいた。
「顔を上げていいぞ」
 そう言われて初めて、部員たちの頭が上がった。慈恩もそれに習っていたので、特に目立つことはなかったが、顧問よりコーチより、明らかに重んじられている彼の威厳が、不思議だった。この学校の部長とは、それほどの力をもった者なのだろうか。少なくとも、近衛はそうではないようだが。
「頑張っているようだな。新人戦も近い。新部長の下で、俺たちの無念を晴らすべく、精進してくれ。以上だ」
「はいっ!」
 返事も、あの箕浦に対するものよりはるかに立派だった。それだけで、この部長がいかに権力を持っていたのか・・・・・・いや、今も持ち続けているのかがうかがい知れた。
「あの・・・・・・」
 一人彼に近づき、言葉を選んで言い澱んだ近衛に、鷹司は鷹揚に笑みを見せる。
「何だ、近衛」
「いえ、何か御用かと・・・・・・」
「お前に?」
 ふっ、とあからさまに鼻で笑う。
「何怯えた顔してる。先日のことを言ってるなら、別にお前には用はない。そんなことを気にする暇があったら、稽古を続けろ」
「・・・・・・はい」
 では一体何をしに来たというのだろう。何よりそれが不気味だ。しかし、ここで食い下がれるほどの権力を、近衛は持っていない。先日彼を攻撃するような物言いをしたが、普段は絶対にそんなことはないのだ。鷹司はこの桜花高校の中でもかなり格が高い家柄と目され、その上この人格。誰もが一歩引いて対応している人物だった。家柄ではタメをはる近衛でさえ例外ではない。噂では、生徒会長でさえも裏で操られているという。まあ、ここの生徒会長は如月高校のそれよりはるかに活動が制限されており、たいした力も持ち合わせてはいないのだが。
(引退した部活に顔を出すほど暇な人じゃないはずだ。絶対何かあるに違いないのに)
 きり、と唇を噛んだ近衛の肩に、慈恩の手が載る。
「悠大」
「・・・・・・ああ」

 振り返って、静かな漆黒の瞳にうなずく。今自分がすべきことは、中断された稽古を再会することに他ならない。ひどく気を引かれながらも、稽古再会を部員に告げた。
 コーチの檄は飛ぶが、それも怒声や罵声の類ではなく、あくまで紳士的なものだった。久しぶりの打ち込みとは思えない慈恩を相手に、近衛は必死に受ける。しかし、受けながらどうしても鷹司の動きが気になる。少しの隙さえあれば、視線は顧問に二言三言声を掛けながら稽古を眺めている彼を追っていた。打ち込みが終わった瞬間、思いの外厳しい慈恩の声が耳を貫いた。
「復帰したての俺には、手を抜いたくらいが丁度いい、とでも思ってるのか」
 ぎく、と脳にひやりとした電流が流れる。見抜かれていた。静かな瞳の奥に、真剣な思いが宿っている。
「悪い」
 口を突いて出た言葉は、謝罪の言葉だった。見くびっていたわけではない。誰よりも尊敬しているその技術を軽んじるはずがない。しかし、それ以上に鷹司を気にしていたのは確かだ。申し訳ない気持ちが、たちまち全身を満たしていく。
「そんなつもりは、ない」
 付け足したのは、少しでも自分の思いを分かって欲しかったからだ。慈恩にだけは、そんな誤解をされたくなかった。すると、面の奥で漆黒の瞳が悲しげに翳った。
「・・・・・・俺が言えることじゃないけど・・・・・・集中しててくれ。でないと俺は・・・・・・お前に怪我をさせるかもしれない」
 ふいっと視線を逸らしざま、踵を返して自分から離れていく慈恩に、何かしら背筋をぞくりとさせられた。できたのだ、自分を簡単に打ち負かすことが。つり合う力を求めると言いながら、何と言う体たらくだ。復帰したてでさえ、彼とはこんなに差がある。その思いに、改めて打ちのめされる。
「近衛、来い」
 凛とした慈恩の後ろ姿を見つめていた近衛は、背後から掛けられた逆らいがたい強制を含んだ声に、素早く反応した。
「はい」
 これはもう癖だ。先輩に・・・・・・特にこの鷹司には従順であるように、一年半かけて躾けられた。そんな自分に嫌気がさすが、それでもすっと彼に歩み寄り、三歩ほどの距離を置いて軽く頭を垂れる。嘲笑を交えた吐息が上から降ってきた。侮辱されているのは百も承知だ。それでも逆らえない。ぐっと唇を噛んで堪えた。
「顔を上げろ」
 言われて険しい表情を飲み込み、そろそろと頭を上げた。皮肉めいた笑みを薄い唇の端に載せた鷹司。
「酷い言われようじゃないか。お前ほどの人間が、そこまで軽んじられるとはな」
「いえ・・・・・・集中できてなかったのは俺です。言われて当然です」
「当然・・・・・・?馬鹿を言え。部長たるもの、諫言することがあってもされることがあっては信頼が地に落ちる。そんな言い方をいつも許しているのか?」
 胸を嫌な予感が駆け抜ける。思わず激しく首を振る。
「いいえ・・・・・・!彼があんな言い方をしたことは、これまでに一度もありません。それほど俺が気を抜いていたんです」
 すうっと鷹司の笑みが深くなる。その凄絶な表情に、近衛は血の気が引いていくのを感じた。心が警告を発している。まずい、まずい、まずい!
「ほぉ、ということは、敢えて俺の前で桜花剣道部の部長を、あいつは見下して見せたわけか。立派な挑戦状だな」
「違います!あいつはそんな人間じゃない!」
 まさかこんなところを逆手に取られるとは。頼りにならないと分かっていたが、顧問に視線を向けた。
「先生、今のは私の不注意が招いたことです。九条は、一度怪我をしているから、俺にそうならないよう注意を喚起してくれた、それだけです。ずっと見てらっしゃる先生なら、お分かりになりますよね?」
 突然話を振られて、睦田は、ん?と首をかしげた。
「そうだったか?うん、そうだな。しかし、普段仲がいいからといって、部活中に馴れ合うのはどうかと思うな。やはり部活中は礼節をわきまえないと」
 馬鹿野郎と叫んで、舌打ちしたいのを近衛は必死で堪えた。全くとんちんかんなことを言っているのが、こいつには分からないのだろうか。それとも、近衛を完全に否定するのは気が引けるが、鷹司の面目を立てる方が優先だというところから、狙って見当違いの答えを出し、自分が巻き込まれるのを避けたか。
「もういい、近衛。下がれ」
 冷たく言い放たれた言葉。このままではいけない。少しでも慈恩をフォローしなければ。
「先輩・・・」
「下がれと言った」
 しかし、どうにも取り付くしまもない。苛ついたように言った鷹司とは、視線も合わない。もう完全に自分は切り捨てられている。
「近衛、もう休憩はいいだろう。次の稽古に入りなさい」
 顧問まで分かった風な口を挟んでくる。あと少しでも理性が足りなかったら、歯軋りを実行していたに違いない。しかし、みんなを待たせているのも事実だ。自分が食い下がれるのはここまでか。となったら、とっとと始めて鷹司と慈恩を接触させないように・・・・・・
「九条」
 よく透る鷹司の声が、道場の空気を裂いた。全員が振り返る中で、最もゆっくり身体を声のした方へ向けたのが、呼ばれた本人だった。ぞくり、と近衛の背筋を寒気が這いずった。
(しまった・・・・・・先を越された・・・・・・!)
 鷹司の顔には、先ほどの笑みが閃く。
「来い」
 完全に上から下す命令。剣道着の背中が冷たいと感じた。静かに慈恩が命令に従う。
「先輩!俺が稽古をする相手は、九条です!呼ばれたら、俺の相手がいません!」
 苦し紛れは重々承知だったが、それでも言わずにはいられなかった近衛に、鷹司の鋭い視線が突き刺さった。
「しつこい。集中できないのなら、東坊城で十分だろう。俺のやることに口を出すな」
「でも!」
 なお食い下がろうとした近衛の肩に、静かに触れる防具をつけたままの手。思わず振り返ると、漆黒の瞳が自分を見つめていた。視線が合った瞬間、慈恩は目を伏せ、軽く首を振った。いいから、行け、というのが分かった。そんな慈恩を、楽しそうに見据えて、剣道部元部長はうなずいた。
「物分かりがいいようだな。ほら、親友まで戻れと言ってるぞ。さっさと失せろ、近衛」
 顎で去ね、とあしらわれる。己の無力さを噛み締め、近衛は鷹司に対して会釈をし、体の向きを百八十度変える。どこまでも落ち着いて鷹司に向き合う慈恩に、他の誰にも聞こえない声で低く囁いた。
「・・・気をつけろ」
 慈恩の背中が微かに緊張したのが分かった。でも、今近衛にできるのはそれしかなかった。もうどうすることもできない。あとは慈恩が上手く切り抜けてくれることを祈るしかなかった。
「次は掛かり稽古だ!用意しろ!」
 吐き捨てるように言うと、東坊城をつかまえた。
「悪い、相手してくれ」

「あ、うん。仕方ないよ。鷹司先輩、前から言ってたから。九条のこと。でも、あの人にだって体面的なものはあるから、滅多なことはしないよ・・・・・・多分」
 ヒソ、と小声で言う東坊城に、苛々する。そんなこと、自分だってとっくに思っている。敢えて言うなら、絶対と断言するくらいにしやがれ、と舌打ちしたい。
「・・・・・・近衛、あんまりあの人に逆らうのはやめとけよ。見てるこっちがハラハラする」
 視線を合わせずに和田がつぶやいた。巻き込まれたくないのと、これ以上元部長の怒りの矛先を近衛に向けさせたくないのが、分かった。
「・・・・・・心配してるんだよ、和田も。お前がとばっちりを敢えて受けようとしてるんじゃないかって」
 そうだ、敢えて受けようとした。でも、できなかった。悔しい。そして、どうしようもない不安が渦巻く。
「じゃあ始めるぞ!」

 コーチが稽古開始の合図に、太鼓を鳴らした。途端、やああ、という掛け声とパンパンと竹刀を打ち合う音が一斉に混ざり合って剣道場を満たした。どうしようもない思いを打ち消さんと、近衛は力一杯東坊城に打ち掛かっていった。

「防具を外せ」
 係り稽古の派手な音と声にさえ掻き消されない、鷹司の威圧的な声。何故そうする必要があるのか、と、問うだけ無駄だということは理解していた。その場に座すと、素直に小手を外し、面を外してその上に丁寧に置く。胴を外し、紐まできちんと折りたたむようにする。正座のまま視線を上げると、鷹司が上から視線を投げた。
「よし、立て。俺について来い」
 防具の脇に横たえられた竹刀を、しなやかな肢体を優雅に折り曲げて拾う。その拍子に少しずれた縁のない眼鏡を少し指先で上げた。
「借りるぞ」
 桜花の制服はオーダーメイドが多いと聞く。鷹司の制服は一般的なものより、その身体に合わせてスリムに作られているようだ。おかげで、鷹司のスタイルのよさが目立つ。他人が見たら、彼は慈恩より少し細いように見えるだろう。
 連れて行かれたのは、剣道部の部室だった。剣道場の一角に調えられた部屋だが、如月の部室の三倍の広さはある上、上級生の部屋と下級生の部屋に分かれている。上級生の部屋は三年生が引退したときに現二年生が譲り受けている。すぐ隣にはシャワールームもあって、その数や広さも如月とは比べ物にならない。その二年生の方の部室に入ると、鷹司は持っていた慈恩の竹刀で入り口を指した。
「鍵を掛けろ」
「・・・・・・何故です」
 気をつけろ、と近衛は言った。誰もいない部室に連れて来て、中から鍵を掛けろと言われたら、そうでなくても警戒しないわけがない。
「人に聞かれれば、お前がこの先ここで生活しにくくなる」
「・・・・・・どういう意味です?」
 ふ、と鷹司は笑った。
「そういう意味だ。お前の心配をしている」
 言うつもりがないのだということはよく分かった。どうすべきかわずかの間考えたが、何をするつもりにしろ、中から鍵を開けなければ鷹司も出られない。鷹司が中にいる限り、自分一人がどうにかされて閉じ込められるということはないはずだ。
(だったら、何とかなるだろ)
 そう結論付けて、慈恩は引き戸の取っ手についている鍵を下ろした。
「・・・・・・お前、俺が何かすると疑ってるんじゃないのか」
 むしろ疑い深そうな鷹司の声が広い個室となった部屋に響く。声の方向へ振り返り、微かにうなずいた。
「何事もなく返して頂けるとは、思っていませんが」
「じゃあ何故、言われるがままに鍵を掛けたりするんだ?お前、馬鹿か?」
 やれと言っておいて、それはないだろう。と、やや慈恩は理不尽な気分を味わったが、小さく吐息した。
「そうですね。でも、あなたに逆らうのは時間の無駄だと思いました」
 一瞬鷹司は瞠目し、次の瞬間、肩を揺らし、三瞬目で爆笑した。
「あははははっ、ああ、そうか、お前思ったより肝が座ってるな」
 ひとしきり笑ってから、手にした竹刀で床を指す。
「座れ」
 この場合、やはり正座なのだろう。今更板張りの床に正座することは、苦でもない。長い脚を折りたたんでその場に静かに座す。
 鷹司の持つ竹刀が、慈恩の道着の合わせの辺りを小突いてきた。
「はっきり言おう。俺はお前を憎んでいる。最後の試合で惨めに消化試合をさせられてから、お前の名前を忘れたことはない」
 は?と言いたいところだが、慈恩は黙って聞いていた。相手の言わんとするところは理解できる。地区予選で桜花と当たったのは二回戦。剣道は団体戦の勝負がついていても大将戦までこなす。だから、前半で決着がついていても、副将や大将は負けと分かっていて戦うことになる。鷹司は部長だったのだから、間違いなく大将だったはずだ。
「そこへのこのこ現れて、自分が打ち負かした剣道部へ入ろうというお前の神経が理解できない。そこまで馬鹿にされて、俺は黙っているつもりはない。さて、まずはお前の言い分を聞かせてもらおうか。お前をどうするかは、その言い分次第だ」
 馬鹿にしたつもりは全くないが、そんなふうに取られていたとは。内心で、やや驚いた。
「・・・・・・言い分ですか・・・・・・。正直に言えば、きっとあなたの気分を害することになると思います。そうなると、俺はどうなるのかを、先に聞かせてもらっていいですか」
「・・・・・・聞いてどうする」
「正直に言うかどうかを考えます」
 鷹司の品性と知性とを同居させたような顔が、不快そうに歪んだ。
「嘘をつく気か」
「・・・・・・俺の言い分次第で、対応が変わるのでしょう?そう宣告されていれば、当然の選択だと思いますが・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 鷹司にしてみれば、深く考えて言った言葉ではなかったようだ。言葉に詰まったあと、いきなり笑い出した。
「なるほど。じゃあ対応を変えなければ、正直に話すつもりでいるのだな」
「特に嘘をつく理由はなくなりますね」
「正直に話したとしても、相手の気分を害すれば、絶対的に損をするだろう」
「損・・・・・・ですか?でも・・・・・・」
 嘘だと思いたかった。自分と一緒にいたくないと言った、大切な兄の言葉。本音かもしれない。でも、絶対的な本音ではなかったとは、思うのだ。少なくとも斗音は、自分のことを大切に思ってくれていた。だから、嘘だと思いたかった。でも、嘘だったとしたら、その嘘は果てしなく自分を悩ませ、そして今でも苦しめている。本音だったら、はっきりとそう確信できていたら、確かにつらかったかもしれない。でも、諦めることも容易かっただろう。
(そうか、俺は今でも・・・・・・斗音を信じようとしているのか・・・・・・)
「嘘は・・・・・・時に人を惑わせる・・・・・・嘘をつかれたと分かれば、なおつらいでしょう。この場合、明らかに保身のための嘘になる。その方がよっぽど、相手を馬鹿にしていると思います」
 言葉を切って、初めてうつむいた。
「相手を思ってついた嘘でも、つかれた方が苦しむこともある・・・・・・」
「・・・・・・・・・・・・」
 鷹司の表情が不審の色を湛えた。

「お前は一つ一つのことをやたら真剣に考えるのだな。まあいい。そう思うなら、正直にその言い分とやらを話すがいい」
 どうするかを言う気は、ないらしい。再び竹刀の先革で胸骨の対になった辺りをぐい、と突いてくる。不快な痛みを感じるが、表情には出さなかった。
「・・・・・・色々複雑な事情があって・・・・・・俺は強制的に如月からここへ転入させられました。如月にいたとき自分には・・・・・・守るものもあったし、すべきことも多くあった。でもここに来た俺に残されたものは、剣道しかなかった。・・・・・・剣道を続けることは、家の者全員の意思でもあったし、俺自身も自分を支えていられるたった一つのことだったから・・・・・・正直、地区大会で戦ったときのことを、それほど真剣に考えはしませんでした。俺が入部することで、これほど人に不快な思いをさせるとは、思いもしなかった・・・・・・」
 当たった剣先が圧力を増した。激痛とまではいかないものの、胸骨が窪みそうな勢いだ。
「深く物事を考える奴なのかと思えば、そんな当たり前のことにも気が回らないのだな。この愚か者が」
 愚か、か。と胸の内に思う。そもそも考え方が根本的に違うのだ。その根付いたものを理解するには、まだ時間がかかるだろう。嵐辺りだったら、そこまで気が回ったかもしれない。もちろん、そこで相手の気持ちを汲んで相手のために自分を犠牲にしたりは、絶対にしないだろうが。客観的に考えた上で自分が正しいと思う方を強引に優先させるに違いない。
「やはりお前は上を敬うという気持ちが欠けている。それが俗な世界にいた者の定めかもしれないが、ここに在籍し、その上本気で桜花剣道部の一員となるつもりがあるのなら、今ここでそういった考えを改めてもらう必要がある」
 俗な世界。その言葉は慈恩の胸を冷たい鋭い刃物となって抉った。
(じゃあ一体、ここはどんな世界だっていうんだ・・・・・・)
 理解したくもない。俗と言われても構わない。少なくとも自分はその俗な世界の方が、ずっとずっと性に合っているし、ずっとずっと好きだ。でも、そこに存在することが許されない。理解したくもない世界に身を置くしかない。この違和感やわだかまりを心に閉じ込めて。
「・・・・・・俺にも事情があります。剣道をやめることも、転校することも、今は考えられません。でも、俺にとってはあなたたちの当たり前が、当たり前だと感じられない・・・・・・。どうすれば、そんな簡単に、考えを改められますか?」
 鷹司の顔が、引きつったような笑みで歪んだ。
「頭で考えて分からないようなら、身体で理解するしかないだろう!」
「っ!」
 今まで突かれていた部分に、衝撃と、今度こそ激痛と呼べるものが走った。結局こうなるわけか。防具なしで竹刀も持たない、無防備な人間に対して竹刀を振るうなど、剣道をたしなむ者とも思えない。
「考えを改めなければ、痛い思いをする。それが分かれば、嫌でも理解しようと思うだろうよ」
 犬を相手にでもしているつもりだろうか。馬鹿馬鹿しいと思った。静かに目を閉じる。無心になれば、痛みもそれほど気にならないかもしれない。身体の奥まで深く呼吸をし、静かにそれを吐き出す。脚の上に置いた拳を、強めに握り締める。
「ほう、覚悟を決めたのか。いい度胸だ!声のひとつも立てなければ、その覚悟、本物と認めてやろう!」
 認めてなど、もらわなくていい。そう思った途端、背中に衝撃が走った。半瞬のちに背中の筋肉や肩甲骨などの骨が厳しい痛みを訴えてきた。
(余計なことを考えるな。心を静めるんだ)
 二度、三度、背を打たれた。初めほどの痛みは感じない。恐ろしいほどの集中力で、慈恩は精神統一を図った。四度、五度、打たれる回数が重なる度、痛みは鈍くなっていく。
「・・・・・・なかなかやるじゃないか。お前がその気なら、何が何でも悲鳴のひとつも上げさせてやろう!」
 そう、鷹司は言ったが、慈恩の耳には入らなかった。だから、それに対して皮肉のひとつも思いつかなかった。しかし、次の瞬間に、少しだけ息が詰まった。衝撃は、今度は前からやってきたのだ。それを意識の片隅で感じる間に、次は腕、肩、素手の手を載せている脚、手の甲が衝撃を感じた。さすがに手の甲には、鋭い痛みが走った。それでも慈恩は更に意識を無に変えていく。
「・・・・・・この・・・・・・生意気な・・・・・・っ!」
 ほとんど眉ひとつも動かさない慈恩に、逆に鷹司は心を乱した。この相手が恐ろしく思えてきた。そして、これくらい大したことないと言われているような被害妄想に取り付かれる。
(こんなに必死にやっているのに・・・・・・!)
 なるべく外に出ないところを狙っていた。あからさまにこの少年が傷を負っていれば、大勢の目撃者がいるのだ。自分が間違いなく疑われる。もちろん、そんな疑いは揉み消してしまえる自信はあったが、表面的に揉み消したとしても、人の心の中にははっきりと自分が犯人だということが刻み込まれる。それは得策ではない。もちろん、こいつが近衛辺りにしゃべれば、近衛は信じるだろう。だが、自分ははるかに近衛より権力も信頼もある。そして、周りは近衛より自分を信じる。この生意気な下級生は、近衛以外に話しはしないだろう。何となく、それは確信がもてた。
「だったら・・・・・・これでどうだ!」
 思い切り振りかぶって、右肩を打ち据える。それでも彼の表情は全く変わらない。静かに目を伏せたままで。
「一度で効かなきゃ、何度でも!」
 二度、三度打っても同じ。
「こ・・・のっ・・・・・・!」
 思い余った鷹司は上段で構え、これまでの中でも最速で竹刀を振り下ろした。が、力一杯やりすぎてコントロールがきかなかった。肩に当たる前に中ゆいが右のこめかみを鋭くかすり、耳を擦り、肩を打ったときには、切れたこめかみと酷く擦れた耳の一部から血が溢れ出していた。
(しまっ・・・・・・た・・・・・・!)
 鷹司は、あれだけ沸騰していた自分の血が、さあああっと音を立てて引いていくのを感じた。こめかみから流れ出した血は、慈恩の整った輪郭をするりとなぞり、剣道着にパタパタと黒ずんだ染みを作った。よく見れば、先ほど間違って打ってしまった左手の甲も、皮膚が裂けて血が滲んでいる。
「・・・・・・おいっ・・・・・・」
 右の耳も、擦れているだけでなく切れているようだ。既にかなりの範囲が赤く染まっている。それなのに、当の本人は目を閉じたまま、動じない。
「どうして・・・・・・お前、気づいてないのか!」
 思わず声を上げた瞬間、ガタガタッと引き戸をこじ開けようとする音がして、次にダンダンと戸がきしむほど打ち鳴らされた。
「慈恩、いるのか!いるんだったら開けろ!」
 近衛の声だ。心臓が縮み上がりそうになりながら、激しく振動する戸を見遣る。鷹司は色を失った唇を噛み締めた。自分が傷つけた少年は、それでも反応しない。血は既に首筋からも流れ、剣道着の衿首も黒ずみ始めていた。
(手当てを・・・・・・しなければ・・・・・・)

 初めてそう思った。部活中は救急箱が剣道場にあるので、部室には手当てのできそうなものは何もない。手拭などはいくつかあるが、あまり衛生的とも思えない。潔癖症の鷹司は、それを傷口に当てるなど、おぞましくてできなかった。思わず外に向かって叫んでいた。
「近衛、救急箱を持って来い!できる限り早くだ!」
「・・・・・・っ、はい!」
 戸の向こう側の相手が、一瞬息を詰めたのが分かった。それでもすぐに足音は消えていった。
(誰も連れてこなければいいが・・・・・・)
 赤い液体は勢いよく流れ出るというより、傷口からじくじくと鈍い色を放って溢れてくる感じだった。初めに比べればその勢いはおさまっているようだ。そこへ、裸足でバタバタと駆けて来る足音がして、再び戸が打ち鳴らされた。
「鷹司先輩、持って来ました!開けて下さい!」
 足音がひとつだったことが、少し意外だった。そんなことはすぐに意識の片隅に追いやって、鷹司は震える指で鍵を上げた。ガチ、と音がして、外れたと分かった瞬間、目の前の戸が超高速で視界から消え去った。
「あのっ・・・・・・!」
 救急箱を差し出しながら、すかさず近衛が室内に視線を巡らす。
「・・・・・・慈・・・恩・・・・・・?」
 近衛の位置からは丁度出血が死角になっている。本能的に鷹司は近衛を中に引っ張り込み、再び戸を締めた。近衛が慌てて振り返る。
「何をするんです・・・?」
「いいから・・・・・・そいつを手当てするんだ」
「え・・・・・・?」
 何気なく慈恩に近づいた途端、近衛は、うわ、と声を上げた。
「どうしたんだよ、これ!慈恩!」
 左の肩をつかんで、激しく揺さぶる。揺さぶられた方は、静かに目を開いた。そして、驚いたように目の前にいた近衛を見つめた。
「悠大・・・・・・何してるんだ?」
「それはこっちのセリフだろ!お前、左手も・・・・・・これって・・・・・・まさか・・・・・・」
 言われて、慈恩はふと左手に目をやり、それからいきなり顔をしかめた。
「っ・・・・・・て・・・・・・」
「気づくのおせえだろ!お前、血がこんなに・・・・・・!」
「ん・・・・・・?ああ・・・・・・ほんとだ。っ、いて・・・・・・」
 鷹司は、背筋を寒気が這い上がっていくのを止められなかった。まさか、本当に気づいていなかったのか?痛みすら意識の外に追いやってしまうほどの、精神統一をやってのけたというのか。
(馬鹿な・・・・・・!有り得ない!)
「馬鹿、触んな!今消毒するから・・・・・・」
「・・・・・・ああ、ありがとう・・・・・・」
 言いながら、ふと視線をこちらに送ってくる。それをまともに受けることは、叶わなかった。
「近衛、あとは任せる。分かっていると思うが、他言は一切無用だ」
「鷹司先輩、これは・・・・・・あなたが!」
 咎めるような近衛の声を、背で聞いた。
「聞きたければそいつの口から聞くがいい。・・・・・・口止めはしていない。だがもしこのことが少しでも広まれば、近衛。貴様の仕業とみなす・・・・・・いいな」
 言い捨てて、鷹司は部室を出た。後ろ手で戸を閉めたが、その手が震えていた。膝も震えている。
(何という奴・・・・・・なんと恐ろしい奴だ・・・・・・九条、あいつは・・・・・・)
 震えを止めようと、両拳を握り締める。それでも、今度は全身が震えてきて、思わず戸に背を預けると、そのままずるずるとへたり込んでしまった。

(本物だ・・・・・・!)

「痛た・・・・・・ごめん、そこも駄目だ」
「やっぱりな。酷く擦れてる。お前なあ・・・・・・こめかみは比較的浅いけど、耳だけで出血箇所が三箇所だぞ?ったく・・・・・・ほら、今度は左手だ」
 器用にガーゼや消毒液で手当てをしていく近衛に、慈恩は感心する。ところが右手をぐいと引かれて、肩の打ち身が痛みを訴え、背中の打ち身が引き攣れ、さすがに小さく悲鳴を上げた。
「いつっ・・・!」
「悪い、何で?他にもやられてんのか?」
「はは・・・・・・、肩を少しと、あと背中かな・・・・・・」
「・・・・・・あの野郎、外から見えないところ狙いやがったな。で、失敗して怖くなって逃げたってわけか」
 左手の甲に消毒液を含ませたガーゼを当て、見た目も美しく包帯を巻く。
「ちょっと大げさだな・・・・・・」
「馬鹿言え。竹刀で殴られたんだぞ?傷だけじゃすまねえよ。あとから腫れ上がって来るぞ。だから湿布代わりだ。・・・・・・よし、見えるところはこれでいいな。じゃあその血だらけの剣道着、脱いでくれるか」
 慈恩は顔をしかめながら、合わせを緩め、袖から抜いた腕をそこから出す。両腕を出すと、よく締まった上半身が露わになり、それを見た近衛は思わず目を背けた。その右肩から背中一面は酷いミミズ腫れになり、その内いくつかは皮膚が裂けて血を滲ませていた。腕や胸にも打撲痕はあったが、そちらの比ではなかった。
「ちょっと背中が痛むかな・・・・・・熱くて、ひりひりする。・・・・・・悠大?」
「・・・・・・待ってろ。とりあえず・・・・・・消毒、を・・・・・・」
 近衛の手が震えて、消毒液を取り落とす。声もひどく震えているのに、慈恩は軽く首をかしげる。
「どうした?」
「・・・・・・・・・・・・どうした、だと?・・・・・・ふざけんじゃねえよ。何でこんな・・・・・・・・・こんな目に、お前が!」
 そっと視線を流すと、近衛がその栗色の瞳に滲ませているものが見えた。困ったように苦笑する。
「嘘をつくべきだったかな・・・・・・気が進まなかったから、本音を言って怒らせた」
 まずは肩の傷にたっぷり消毒液を含ませたガーゼを当て、その上から大きな湿布を貼る。
「あ、いいな、それ。すごく冷たくて気持ちいい」
 手当て上手いな、などと茶化したように言う慈恩の首を、近衛はそっと掻き抱いた。
「ごめん、守れなくて」
「・・・・・・何で悠大が謝るんだ」
 慈恩の低音の声には、笑みが含まれている。実際、さほど痛いとも思っていない。火がついたように熱くて、ところどころが疼くように、あるいはちりちりと焼けるように痛みを訴えてはいるけれど。これくらいで気が済んでくれるのなら、いいだろう、という気さえする。自分がこちらの考え方を理解できないように、彼もまた、自分の考え方が理解できないのだろう。仕方がない。それを暴力で解決しようというのはどうかと思うが、今の自分の精神統一のおかげで気分は落ち着いていた。だから、それほど腹は立たなかったのだ。
「あいつが何かしでかすことは、何となく予想がついてた。それなのに、結局食い止めることもできなくて・・・・・・ほんと、ごめん」
 言葉を詰まらせた近衛の背を、痛みでぎこちない動きになる左腕で、そっとたたいた。

「守ってくれようとしてたじゃないか。・・・・・・嬉しかったよ。ありがとう」

 戸一枚を隔てて、そこには珍しく片足を投げ出して背を預けている鷹司と、三歩の距離を置いて立ち尽くす和田が身動きもしないまま、互いに視線を逸らすことができずにいた。中にいる二人はそのことを知っているのだろうか。微かに会話がこぼれているから、その様子は推して知ることができた。それほど外の空気は静まり返っていたし、何か張り詰めたものがあった。
「・・・・・・何しに来た」
 低い声で沈黙を破ったのは、鷹司の方だった。和田の肩がぴくりと緊張する。やや躊躇ってから答えた。
「・・・・・・近衛が・・・・・・救急箱を・・・・・・こっそり持っていくのが見えたので・・・・・・」
「・・・・・・ふん、それで心配になって見に来たというわけか。お節介な野郎だ」
「・・・すみません・・・・・・」
 静かに溜息をついて、鷹司は自嘲の笑みを浮かべた。彼にはおよそ不似合いな表情だった。
「後輩にあいつ呼ばわりされる俺に比べて、近衛は・・・・・・いや、九条もか。あいつらは部員に大事に思われているということか」
「・・・・・・・・・・・・」
 何も言えずにいる和田の前で、鷹司はふらつく脚を踏みしめるようにして立ち上がった。
「・・・・・・残念だが、そう容易く貴様らにいい思いはさせてやらない。・・・・・・覚えておけ」
 頼りない歩みで立ち去ろうとする鷹司に、思わず和田は不安を掻き立てられる。
「あの、先輩・・・・・・それは、どういう・・・・・・」
 一瞬鷹司の足が止まった。振り返ったその顔には、冷たい笑みがあった。
「・・・・・・すぐに分かる」

 ぞくり、と和田の背中に寒気が這い上がった。それは確信めいた嫌な予感だったが、それを問い詰める勇気が和田にはなかった。絶対的な先輩の姿が完全に見えなくなるまで、動くことすらできはしなかったのだ。

 背中の傷を消毒して化膿止めを丁寧に塗る。直接傷に触れているのだ。痛くないはずがない。時々筋肉が痛みに怯えて固まるのが分かったが、それでも、慈恩は一言も「痛い」と言わなかった。一番酷い傷だったのに。そう言えば、また自分が己を責めるということが分かっているから。それが切なくて、近衛は唇を噛んだ。
 慈恩が一番つらいときに、つらいと打ち明けられる人間でいたかった。なのに、自分がそう言うことを我慢させている。それでは本末転倒だ。悔しいと思う。でも、その慈恩の気遣いが心に染みる。自分を大事に思ってくれているのだと感じられるから、尚更切ない。
「稽古、大丈夫なのか?」
「・・・・・・東坊城に任せてきた。そろそろ休憩時間も終わってる」
「そう。じゃあ、心配ないな」
「・・・・・・そうか?」
「うん。東坊城って、天然なところはあるけど、与えられたことに対しては誠実にこなせる力があると思うから」
「・・・・・・お前はよく見てるな。あいつを褒める人間を、俺は初めて見たよ」
「はは・・・中学校時代とかのことも知らない分、偏見がないだけだろ」
 他愛ない会話ひとつでも、慈恩の人間の深さが分かる。酷く腫れ上がった傷のひとつに、そっと消毒液を含ませたガーゼを押し当てながら、それに頬を寄せたい気分になる。また筋肉が微かに強張った。
「・・・・・・何、その・・・傷・・・・・・」
 喉に張り付いたような声に、近衛はびくりと顔を上げた。その視線の先で、和田が立ちすくんでいた。戸が開いたのにすら、気づかなかった。慈恩が静かに振り向く。
「まだ、休憩時間?」
「いや・・・・・・もう始まってる、と思う」
「そうか」
 別に責める言葉もない。ただ、事実をありのままに受け止める慈恩に、和田は見事に自分の疑問をかわされそうになったことに気づいた。
「今・・・・・・鷹司先輩が、ここに・・・・・・いたけど?」
「・・・・・・いたのか」
 反応したのは近衛の方だった。とっくに行ったと思っていたのに。もしかしたら、自分たちの会話は聞かれていたかもしれない、と自分の迂闊さを悔やむ。慈恩は全く動じない。気づいていたのだろうか。
「なあ・・・・・・九条、それ・・・・・・あの人にやられたのか・・・・・・?」
 率直な質問に、慈恩はただ静かに微笑んで見せた。肯定も否定もしない。それに焦れたように、和田は近衛を見つめた。
「そうなのか、近衛」
 明確な答えを求められて、近衛はやや躊躇した。和田が知ったら、このことは広まるかもしれない。そうなってしまえばいいとも思ったし、そうなれば鷹司は自分を逆恨みするだろうから、理不尽だという気もした。でも、少なくとも和田が求める答えは、確信を得るための肯定でしかない。今更否定したところで、信じはしないだろう。
「・・・・・・僕は口止めされてるからね。和田が自分自身で判断すればいい。でも、これ以上首を突っ込まない方が、身のためかも知れないよ」
 和田は少し困惑したようだった。わずかに眉根を寄せる。
「・・・・・・あのさ、近衛。お前、今の今まで、そんな話し方してなかったよな」
「・・・・・・」
「ずっと思ってた。お前の話し方って、優等生すぎて、誰からも一線引いてるって感じだった。なのに、九条にだけは、普通にしゃべるんだな・・・・・・」
 くす、と笑ったのは慈恩だった。まさか和田にまで聞かれていたとは、と再び自分の迂闊さを呪っていた近衛は、訝しげに傷だらけの背を向けている彼を見遣る。
「こっちの方が、いいと思わない?」
「えっ・・・・・・」
 慈恩の笑みは優しくて、少し悪戯っぽかった。
「優等生で、お坊ちゃまの悠大より、普通に高校生らしい気さくな悠大の方が、魅力的だろ?」
 和田は返答に詰まる。慈恩は構わず続けた。
「そう言ってるんだけど、悠大には悠大の事情があるらしくて、なかなか人前で本性見せたがらないんだ」
「慈恩」
「悠大はさ、みんなが思ってるよりずっと気さくで感情豊かで、人間らしい奴だよ」
 自分がずっと、何年もかけて守り通してきたバリアを、いとも簡単に解除しようとする慈恩に、思わず溜息をついた。
「お前ね。人がこつこつ築き上げてきたものを、なんでそう、いとも簡単に突き崩してくれるかな」
 漆黒の瞳が柔らかく凪いだ。
「本当の仲間には、そんな壁必要ないと思うからだよ」
「・・・・・・仲間?」
 慈恩が軽くうなずいた。そして和田を見上げる。
「稽古を抜けてまで、更に苦手な先輩がいる可能性もあったのに、いなくなった悠大を心配して来てくれたんだ。・・・・・・和田は率直で、思ったことそのまま口に出すから、悠大にとっては気に食わないときもあるかもしれないけど、お前が思ってるよりずっと、お前を慕ってる。俺はずっと、そう思って見てた」
 和田の頬や耳が、瞬間で朱に染まる。
「なっ・・・・・・俺は、そんな・・・・・・!」
 近衛が口を尖らせる。
「否定されたぞ」
 慈恩はくすくす笑った。
「何言ってんだよ。図星で照れてるんだろ」
「九条!」
 今度は顔を真っ赤にした和田が思わず声を上げた。それに、あ、そうだ、と慈恩があくまで低く艶やかな声で、付け足した。
「東坊城も。みんなが思ってる以上に部長のこと、部員のこと大事にしてる。早く行かないと、きっと探しに来るよ・・・・・・。稽古を早めに切り上げて」
 思わず近衛と和田は顔を見合わせた。それは、まずい。この状況を見せれば、新人戦に向けて高まっている部員の気持ちが、一気に萎えてしまうだろう。噂話を聞くのとはわけが違う。この慈恩の傷を見て、動揺しない者はいない。
「和田、先に戻れ。俺たちはすぐに行くから、と伝えてくれ」
 今まで掛けられたことのないような、等身大の近衛の言葉に、和田はうなずいてから、屈託なく笑った。
「ああ。・・・・・・うん、この方が、親しみがあっていい。じゃあ、待ってるからな」
「・・・・・・頼んだ」
 和田が完全に立ち去るのを見届けてから、近衛は慈恩を睨んだ。
「・・・・・・この策士め」
 笑っただけで、慈恩は返事をしなかった。

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三十七.果たせない約束

 約束は未だ実現できずにいた。体育祭の翌日まで続いた熱は、執行部の打ち上げのときには何とかひいていたが、足の捻挫の方は全治二週間と診断された。ちゃんと治してから、と言った慈恩の言葉を誠実に守ろうとしていたわけではない。斗音自身、自分の不健康な姿を慈恩に見せたくなかったのだ。だから、その二週間で何とか少しでも体調を回復させようとしたのだ。その成果は・・・・・・微々たる物でしかなかったが。
 それでも、ようやく顔色の悪さもマシになってきて、これなら大丈夫かな、と思った矢先、新人戦が近づいてしまい、練習のため時間を取れなくなってしまった、と申し訳なさそうに慈恩が連絡してきた。
「そっか・・・・・・大会いつ?・・・・・・じゃあ、今週は部活漬けだね。来週も大会だから駄目ってことだよね。・・・・・・ん?何言ってんの、勝ち上がった方が嬉しいに決まってるだろ。来週はうちも練習試合だから行けないけど、勝ち上がったら応援に行くよ。そしたら会えるだろ?みんなもその方が喜ぶって。・・・・・・うん。じゃあ、決まったら次の大会のこと教えてよ。・・・・・・うん。じゃあ、また」
 携帯を切って、斗音は大きく溜息をついた。がっかりしなかったと言えば、嘘になる。でもどこか、ほっとしている自分がいることも知っていた。
「・・・・・・今の、弟か」
 屋上に続く階段は、少し薄暗くてひんやりしている。はっきりいって薄気味悪い場所である。好んでこの場所に近づく生徒は皆無だが、部活に行けない斗音は、執行部の仕事を終えるとここに来る。ぶっきらぼうで無愛想な声に、斗音はわずかに微笑んだ。
「はい・・・・・・お待たせしました」
「別に。構わねえよ」
 茶髪の長い前髪を鬱陶しそうに掻き上げると、薄っぺらな鞄を小脇に抱えて瓜生が立ち上がる。さっさと階段を降り始めるそのあとを、斗音は軽く足を庇うようにしながら追った。それをちらりと見た瓜生は、その歩速を緩めた。
 階段から落ちたところを助けられてから、斗音はこの無愛想な不良少年と行動を共にすることが増えた。瓜生の方も、それを迷惑には思っていないようで、特に帰るときは暗黙の了解で、この薄暗い場所が待ち合わせ場所になっていた。なるべく自宅にいたくない斗音は、瓜生の家で宿題をやったりして時間を潰すようにしていた。沢村にも、食欲がないにも関わらず豪勢な夕食を準備されるのが申し訳なくて、夕食を断り、三神の分だけ準備してもらうようにしていた。瓜生は、その食欲のなさも帰りたがらない理由も、詮索しようとしなかったので、一緒にいるのが楽だった。瞬や翔一郎は実家から通っているため、その家族に不審に思われるだろうし、嵐や今井は一人暮らしだが、かえって心配させてしまうだろう。下手をすると慈恩と連絡を取られてしまうのが怖かった。その点でも、瓜生は安心して一緒にいられた。
 瓜生は必ず体育館の裏にある、職員の駐車場の方から帰るようにしていた。そこも一応ちゃんとした西門だったが、専ら車専用で、生徒が利用することはまずなかった。
 こぼれんばかりの金木犀の香りの中、肩にスクールバッグを掛け、学生鞄を持つ斗音は、絶対に瓜生を追い越せない。並ぶこともできない。並ぼうとすると、瓜生が一足先に前に出て、決して並ばせてくれないのだ。結果として歩みが速くなってくると、さすがに斗音は足を引きずりがちになる。すると、瓜生は少しだけ振り返った。振り返る、というよりは一瞥した、と言うほうが近い。
「貸せ」
 言うなりスクールバッグを軽々と取り上げられ、斗音は慌てる。学生鞄は、一応第一鞄とされているので、持って来ているのであって、荷物の大半はスクールバッグの方に入っていた。重いのは当然そちらである。
「あの、自分で持てますから・・・・・・」
 声を掛けると、こちらを見もせずに瓜生が答えた。
「鞄を二つ持ってたらおかしいだろうが」
 いや、鞄の方を持ってくれと言っているわけではないのだが。と、ツッコミを入れることは可能だが、それは瓜生の優しさだと知っている。いつもそうなのだ。痛めた足のことを思って、必ず重い方の荷物を取り上げる。一歩先を行くのも、問題児と目される自分と斗音が一緒に帰っていると周りに思われないようにするため。あの薄暗い階段で待っているのも、駐車場の方から行くのも、なるべく人目を避けるため。会話をすることもほとんどない。でもそれを、斗音は寂しいと思う。慈恩とあまり変わらない背丈の瓜生を、一歩後ろをついて歩きながら、そっと見上げる。
(瓜生さん・・・・・・)
 一緒に帰っていると知られても、斗音としては全く構わないのだ。もちろん、三神には知られたくない。知られれば、瓜生の家まで迎えに来ないとも限らない。でも、それ以外の人間に知られることをどうとも思わない。自分は瓜生のことを慕っている。だからそれでいいと思うのだが、瓜生はそれを受け入れてはくれなかった。生徒会の副会長たる者が、自分のような人間と付き合いがあると思われるのはよくない、と言い張って聞かないのだ。だから、如月の中で斗音と瓜生が親しいと知っている者は、いないと言っても過言ではない。
 電車は同じ路線だった。瓜生の方が、二駅分学校に近いだけで、その駅で降りても、その駅からもう一度乗っても、自分の定期で事足りた。
 いつものとおり、瓜生のあとについて電車に乗り込むと、時間ギリギリだったのと、丁度別の電車の乗り換えが重なったせいで、車内はかなり混み合っていた。ずっと立っていると捻挫した足がつらいので、斗音はちょっとうんざりしたが、仕方なく扉付近に立って、そこについている手すりにつかまることにした。瓜生は隣にいたが、視線を合わせることはなかった。
 やがて電車が動き出し、瓜生は自分の持つipodのイヤホンをつけ、どこまでも斗音とは関わりのないことを周りに印象付ける。斗音は鞄の中から文庫本を取り出して、続きを読むことにした。
 二駅ほど過ぎたところで、新たに多くの人が乗り込んできたらしく、人と人が密着するほどになった。本が読みにくくなって、斗音はそれを鞄にしまった。そのときに、鞄が後ろの人にぶつかってしまったので、少しだけ振り返って軽く頭を下げ、すみません、と謝った。そして人に鞄がぶつからないように、両手で抱える。相手の顔は見えなかったが、誠意は伝わっただろう。
 電車が再び動き出す。ややして、斗音は不快なものを感じて唇を噛んだ。背後から密着してくる人物の手が、明らかに不審な動きで斗音に触れてくる。
―――――――こいつ!)
 女性でもないのに、斗音がこの手の被害に遭ったことは二度や三度ではない。特に私服を着ているときにそれは多いのだが、今日は明らかに男子用の制服と分かる格好だ。それなのに、と腹が立つ。でも、わざとだろう、ぐいぐいと壁に押し付けられ、鞄を抱えた両手は自由にならない。初めは腰の辺りを撫でられていたのだが、その手がだんだん下へ降りてくる。
(やめろよ、くそっ!)
 身体を捩ろうとするが、それで離れるものでもない。耳の後ろに、興奮気味の息がかかる。それに鳥肌が立った。大腿を撫でられ、全身がぞくりとした寒気に侵された。震えが走る。
(・・・・・・や・・・・・・嫌だ・・・・・・っ!)
 身をすくめた途端、密着していた身体が離れた。名残惜しそうに斗音の腿をさぐっていた手だけが残ろうとしたが、それもすぐ離れた。身動きの取れる空間ができて、思わず斗音は身体ごと振り返った。
「恥ずかしい真似してんじゃねえよ、いい大人が」
 中年のサラリーマンが、ネクタイごと襟首をつかまれ、瓜生の殺気立った視線に射抜かれていた。
「なっ、なっ・・・・・・何を言ってるんだ、君は・・・・・・」
「殺されてえか」
 言い逃れしようとしたサラリーマンは、ひっ、と小さく悲鳴を上げた。斗音の身に起こったことを知らなければ、高校生にいちゃもんをつけられているサラリーマン、といった感じだ。瓜生のセリフを聞いていた人たちは白い目で、そうでなかった人たちは気の毒そうな目でサラリーマンを見た。いたたまれなかったのだろう、彼は瓜生の手を振り払うと、人ごみを押し分けて、無理やり反対側のドアの方へ逃げて行った。
(・・・・・・かっこいい・・・・・・)
 斗音は小刻みに震える指を握り込むようにしながら、感嘆した。この人ごみの中で、体重をもろに押し付けていた大の大人を軽々と引き剥がし、逆らうことを許さないあの凄み。ともに斗音が持ち合わせていないものだ。
「あ・・・ありがとうございます・・・・・・」
 瓜生を見上げて言うと、むすっとしたまま小さく吐息して、そのまま鞄を持たない方の手で、勢いよく斗音の脇にある手すりをつかんだ。自分を盾にして斗音を人ごみから隔離したのだ。
「あの・・・」
「馬鹿野郎。困ってるんだったらさっさと言え」
「・・・・・・ごめんなさい」
 斗音は身をすくめた。そして、思わずくすっと笑う。瓜生が眉根を寄せた。
「何がおかしい」
「・・・・・・いえ、とても・・・・・・瓜生さんらしかったので」
「・・・・・・は?」
 機嫌の悪そうな返事に、まだ少し怯えたままでぎこちない微笑みを返す。
「・・・嬉しかったです。ありがとうございました」

 目を逸らした瓜生は、ちっと舌打ちした。その仕草にも、つい笑みがこぼれてしまう。家にいるときだったら、同じように目を逸らして、一言「別に」と無愛想につぶやくに違いない。外に出ている間、瓜生はやはり悪ぶっているところがある。それなのに、こんなに優しい。電車を降りるまで、瓜生の手は一度たりとも手すりから離れることはなかったのだ。

 家に着くまで、瓜生はそれでもずっと、斗音の荷物を持って、斗音の一歩先を歩き続けた。そして、少し入り組んだ小路を入ってすぐの家に続く短い階段を上がり、その鍵を慣れた手つきで開けた。中に入って、初めて開いた扉を支えて振り返る。入れ、という意味だ。いつも通りのその仕草。一歩あとについてきていた斗音はぺこりと頭を下げた。
「・・・お邪魔します」
「誰もいねえんだから、いいって言ってるだろ」
 ぶっきらぼうなセリフとは裏腹に、斗音が玄関に入るのを待ってから、扉を閉める。斗音の荷物をいつも通り居間のソファの脇に置いた。斗音は自分の持っていた鞄もそこへ立て掛ける。
「座ってろ。今飲み物でも入れる。冷たいので、いいか?」
「あ、はい・・・・・・ありがとうございます」

 待つことわずか一分、グラスにオレンジジュースとお茶が運ばれてくる。ジュースは斗音のため、もうひとつは瓜生の分だ。瓜生はボクシングを続けたいと考えているらしく、基本的に無駄な摂取を避ける。今は金銭的に、ジムに通ったりするのも難しいということで、ロードワークと、時々シャドーや筋トレなどをするくらいなのだが。斗音にお茶を持ってこないのは、できるだけ栄養分やカロリーのあるものを、と考えているかららしい。
 
礼を言ってグラスを受け取ろうとしたが、まだ完全に緊張が解けていないのだろう。指先がかすかに震え、思わず指を手の平の中に折りたたむようにして、手を引いた。瓜生は少しいぶかしむようにその動きを視線で捉え、テーブルに飲み物を二つ置いた。
「ごめんなさ・・・」
 思わず謝ろうとした斗音の手は、瓜生にぐい、と引っ張られた。あっ、と小さく声を上げた斗音は、ソファから床の絨毯に膝をつき、思わずもう片方の手をじゅうたんについて身体を支えた。
「・・・・・・まだ震えてるのか」
「あ・・・・・・えっと・・・・・・」
 手をつかまれているのだ。どうあってもごまかし切れはしない。長い前髪に見え隠れする黒い瞳は、真剣に斗音を見つめている。諦めて小さく吐息して、絨毯にへたり込んだ。
「・・・・・・怖くて・・・・・・。以前は腹が立つだけだったんです。でも・・・・・・何ていうか・・・・・・ああいう悪意・・・・・・っていうか、自分の満足のために、俺をどうかしようとするのが・・・・・・怖くて・・・・・・」
 大腿に触れてきたあの感触を思い出すだけで、ぞっと背筋に寒気が走る。なぜだか、自分を見つめる三神と重なる。だから、怖いのだ。鳥肌が立って、全身が震えた。三神が自分に何をしようとしたかが、鮮やかに脳裏によみがえる。吸い付いてくる指。キスされて、首筋を唇でなぞられて・・・・・・
「・・・俺・・・あいつが・・・俺を・・・っ」
 無意識に、自分で自分の襟首を鷲掴みにした。微かにだが、呼吸がしづらいと感じた。それが不快だった。
「よせ」
「だからっ・・・・・・嫌・・・・・・!」
「よせって!」
「・・・っ」
 ゴホ、と濁った咳が喉を突いた。気管が急激に狭くなっていく。くら、と眩暈がした。
「・・・・・・椎名!」
 身体ごと引き寄せられた。大きな体躯に、すっぽり包み込まれたようで、何だかほっとした。優しく背を撫でられると、いきなり目頭が熱くなって、また咳をした途端、雫がこぼれた。苦しくて、少し喘ぐようにして、瓜生に身体を預けた。
「・・・・・・・・・・・・苦し・・・・・・」
 ぎゅ、と抱き締められたのが分かった。また涙が湧き上がって、自分の頬を転げていった。瓜生の優しさが心に染みる。傍にいて欲しいと思った。行動が慈恩に似ているからとか、そんなのは二の次で、ただ彼の向けてくれる優しさが嬉しかった。呼吸は苦しかったけれど、気持ちは随分落ち着いていた。だから、発作はそれ以上ひどくなることはなかった。
 呼吸が落ち着くまでの数十分、瓜生はずっと斗音を抱いたまま、その華奢な背をさするように撫でていた。ようやく呼吸音から擦れた音が消え、咳が完全に静まって、発作がおさまったと確信できたとき、瓜生はほっと息をついた。
「・・・・・・つらかっただろ。少し、休め」
 腕の中の華奢な少年は微かにうなずいたが、学生服の前を開き、短めのシャツを出したままの自分の胸に頬を寄せるようにして、その細い指を弱々しくシャツに掛ける。その長い睫毛が濡れているのが、はっきり分かった。
(・・・・・・・・・・・・)
 簡単に折れてしまいそうに細い肢体。それをいっそ折ってしまおうかと思うほど、抱き締めたかった。優しく柔らかな髪を撫でると、青ざめた白い頬が、自分の胸に摺り寄せられる。幼い猫が甘えるような仕草に、心を揺さぶられる。思わず触れていたアッシュの髪を、くしゃ、とつかむ。ぼんやりと見上げてくる薄茶の大きな瞳。
「・・・・・・どうした?」
「・・・・・・安心、できる」
「は?」
 ふわりと、涙の跡も乾かないのに微笑む。
「・・・・・・瓜生さんといるのは・・・・・・心地いい・・・・・・」
 だから、と、瓜生は叫びたい気がした。可愛いのだ。すごく。それをこの鈍感少年はちっとも分かっていない。そんな顔でそんな仕草でそんなふうに言われたら、理性がいくらあっても足りはしないというものだ。えげつない痴漢に襲われているときも、震えながら身をすくめている。力で対抗する術を持たない、弱い人間だ。守ってやらなければと思う。精神的に何か大きな負担を抱えていることもよく分かる。情緒不安定なのでは、と思うこともよくある。それら全てをひっくるめて、恐らく愛しいという言葉が一番似つかわしい。その彼が、自分を慕い、こうして寄り添ってくる。誇らしくもあり、嬉しくもある。でも、何より悩ましいのが、この無防備な可愛さだった。
 斗音は何かに怯えている。共に過ごす時間が多くなり、それが何なのかは、発作的に発する彼の言葉から容易に推測できた。いわゆる、性的暴力に近いものを、彼は受けている。諦め、ではなく、怯えを見せるところから、実際に暴行を受けたわけではないかもしれない。それでも、常に自宅でそれに脅かされているらしいことは、こうして自分などのところに入り浸っているところから理解できた。

(相手がどんな奴なのかはしらねえけど・・・・・・)
 自分ですら、時折押し倒してしまいたい衝動に駆られることがある。今だってそうだ。だから、自分で思っているよりずっと相手をそそらせてしまうのだと、何度かそう言っているのに、そんなときに限ってこの綺麗な少年はものすごく鈍感なのだ。自分のことをちっとも理解していない。謙遜しているとか、そういうレベルではない。本当に分かっていないのだ。すごく聡いくせに。そして、そんなところも瓜生にしてみれば憎らしいほど愛しかった。
「馬鹿。誘ってんのか、お前は」
 自身を抑えつつ、軽く額を指で弾いてやった。性的暴力を恐れる彼に、本来あまり触れたりすべきではないだろうか、などと考えたりはするのだが、こんなふうに抱いていても、斗音は全く拒否反応を起こさない。初めてここに運び込んだとき、高熱で朦朧とする彼にキスをした。思い詰め、弱りきった彼が、とめどなくこぼす涙に心が動いた。救ってやりたい、何とかしてやりたい。わずかでも癒してやれたら、という思いが溢れて、気づいたらそうしていた。その時は、熱も高かったし、心神喪失状態で何をされたかも分かっていなかったかもしれない。それでも、怯えるような素振りは全くなかった。
 その日以来、彼とそんな触れ方をことはなかったが、その時のことを斗音は全く意に介していないようだったし、瓜生も口にすることはなかった。でも、今現在のように、ふとした瞬間に強い衝動が込み上げることは、時折あった。
 デコピンというには優しすぎる攻撃を受けた額を、斗音は細い指でそっとさすった。
「誘うって、何を?」
「・・・・・・この、天然鈍感は、全く・・・・・・!」
 普段の瓜生なら絶対にキレるところだ。こんなだから、きっと知らず知らずの内に相手をその気にさせてしまうのだ。いっそ自分が思い知らせてやろうか、という考えが、突発的に脳裏をよぎる。思わずその細い両手首を捉え、絨毯を敷いた床に押し付けた。抱きかかえていた華奢な身体をいとも簡単に自分の身体の下に組み敷く。大きく見開かれた薄茶の瞳が、何が起こったか分からない、といったように瓜生を見つめてきた。
「俺が今、何をしようとしてるか、分かるか?」
「・・・・・・何、って・・・・・・?」
 この野郎、と思う。本当に分からないのか。焦点が合わないほど、顔を近づけた。あと一センチ近づいたら、唇が触れるだろう。
「お前が、誘ったんだろ。俺を」
「瓜生・・・さん・・・・・・」
 おどおどして、困ったように彷徨う瞳。やっと理解できたのだろうか、と思ったのもつかの間、斗音は少し悲しそうに首をかしげた。
「・・・・・・怒って、ます?」
「・・・・・・・・・・・・」
 色々と込み上げる思いを、瓜生は無理やり飲み下した。少し顔を上げると、溜息と共にがっくり頭を垂れた。
「・・・・・・あのな。今お前が心配しなきゃいけないのは、俺が怒ってるかどうかじゃなくて、自分の身が危険に晒されてるってことだろうが」
「・・・・・・危険・・・?」
「お前、ほんっっっとに分かってねえのか?この体勢に持ち込まれて、それでも分からねえってのか?」
 呆れて思わず語調を強め、シニカルな言葉を吐き出す。そして、その言葉がすっかり音声となって相手に届いた途端、瓜生は自分の言葉を後悔した。
 手首を絨毯に押し付けられたまま、斗音はふい、と横を向いた。くっきりした顎のラインが、耳まで浮き上がる。長い睫毛が、伏せた瞼と共に白い肌に影を落とす。同時に転がり落ちる透明な雫。また、泣かせてしまった。心臓が切なさに締め付けられた。
「・・・・・・ごめんなさい・・・・・・」
 瓜生は身体を起こして、華奢な手首を解放した。
「・・・・・・なんで泣くんだよ・・・・・・」
 解放された片方の手が、小刻みに震えながらぎこちなく動き、白くて薄っぺらな甲で目を覆った。
「・・・・・・椎名」
 華奢な喉が震えている。どうして自分はこんなふうに悲しませてしまうのだろう。自分の愚かさが嫌になる。彼の微笑みが好きだった。自分の罪を全て許して微笑んだ、彼の懐の深さに打ちのめされ、そして惹かれた。それなのに。
「・・・・・・瓜生さんに・・・・・・危険を・・・感じなかったから・・・・・・」
 震える擦れた声。瓜生は微かに息を飲んだ。
「・・・あなたが・・・・・・怒ってることの、方が・・・・・・・・・気に、なった・・・・・・」
 見開いた目を、今度は眇めた。馬鹿野郎、と小さくつぶやく。
「俺、何しただろうって・・・・・・何がまずかったのか分かんなくて・・・・・・でも・・・・・・嫌われたくなくて・・・・・・」
「もういい。・・・・・・泣くな」
「・・・ごめんなさい・・・・・・」
「もういい!この馬鹿!」
 バン、と手の平を斗音の肩の両脇にたたきつけ、自ら作った檻に、彼を閉じ込める。びく、と閉じ込めた身体が縮こまる。
「俺を見ろ」
 それでも白い手は目を覆ったまま離れない。再びその手首をつかみ、優しく引き剥がす。
「いいから、俺を見ろ」
 涙の幕に覆われた薄茶の瞳が、躊躇いながら自分を見た。まるで幼い仔犬でも見ているようだ。
「お前の目に映ってる俺は、お前のことを嫌ってるか?」
 色素の薄い瞳が、一瞬大きく開いた。そして、すぐに涙を浮かべてぎこちなく首を横に振る。
「信じろ。嫌いな人間を俺は容易く家に入れたりしねえ。・・・・・・俺はお前が・・・・・・」
 あっさり言葉にしてしまいそうになって、思わず口をつぐみ、唇を噛んだ。斗音は不思議そうに潤んだ瞳で見つめてくる。軽く頭を振って、雑念を追い払う。
「・・・・・・気に入ってるから・・・・・・少しでも楽に、お前がなれるなら」
 そっと細い肩を抱き起こす。うすっぺらな身体だ、と改めて思う。そっと抱き寄せて耳元でつぶやいた。
「・・・・・・乱暴なことして悪かった。俺はたぶん・・・・・・お前のことを嫌いにはならないから・・・・・・」

 腕の中の小さな頭がこくりとうなずく。自分の誠意は分かってくれているようだ。ほっとした。優しく柔らかい髪を、華奢な背を撫で、斗音のこわばった身体の力が抜けるまで、瓜生は彼を抱いていた。
 
結局言わんとするところが通じたかどうかは分からない。でも、自分のことを無垢なまでに信じてくれていること、頼ってくれていることは実感した。それで充分だった。それ以上、何を求めよう。誰もが憧れ、誰にも愛されるこの生徒会副会長が、落ちこぼれの自分にそんな感情を抱いてくれているということ、それ自体が奇跡のようなものなのだから。

   ***

「あのさ。斗音、最近少しだけ元気になった気がしない?」
 部活が終わって、この時期になると急速に周りの景色が色を失い始める中、疲れているはずの足を勢いよく踏み出しながら、瞬が明るい声を出した。
「ほら・・・・・・どうかな、ここ一、二週間くらい笑うようになったと思わない?」
 軽くうなずいたのは翔一郎だ。
「俺も思った。確かに、まだ感情的に不安定なところはあるんだけど、少し落ち着いたかな、と思う」
「だよね。何か、如月祭に向けて、どんどん思い詰めてくっていうか、元気なくなって、顔色も悪くなって、いつ倒れてもおかしくなさそうな感じだったけど」
「忙しかったのと、慈恩がいなくなったのと、ダブルパンチだったんだろうな」
「ねえ、嵐もそう思わない?」
 突然話を振られた嵐は、それでも慌てはしなかった。聞いていなさそうで聞いていたようだ。うーん、と軽く唸るようにする。
「確かに少し、安定してきたようには、見える」
 その慎重な物言いに、翔一郎は薄暗がりの中ではほぼ分からないくらいだったが、訝しげな表情をした。
「見えるだけ、ってことか?」
 珍しい淡紫色の髪は、薄闇に変じつつある景色の中で、ぼんやりと白っぽく見える。
「そうだな・・・・・・。瓜生さんがいるから、今は心の支えがあるって感じ」
「瓜生さん?」
「瓜生って・・・・・・あのちょっとヤンチャしてる人?」
 二人の意外そうな反応に、嵐は優美に笑みを見せた。
「別に、今は何も悪いことはしてねえよ。如月祭でも活躍してたろ」
「そうだっけ?」
「ああ、長距離で入賞してた。それに、劇にも出てたよな。俺、ちょっとびっくりしたから覚えてる」
 首をかしげた瞬の方を軽く小突いて、嵐はうなずく。
「そう。あの後何かきっかけがあったんだろうけど・・・・・・よく一緒にいるみたいだぜ。今の斗音には、瓜生さんみたいに、近すぎず且つ頼れる人が必要なんだろうな」
 翔一郎の表情が、少し翳る。
「・・・・・・近すぎるか。俺たちでは」
「俺たちは慈恩のことも斗音のことも、よく知ってるからな。・・・・・・思い出さないわけにはいかない」
 自分の頭の上で交わされる会話に、瞬は少し吐息した。
「何かでもそれって、ちょっと寂しいな。俺たちの方がよっぽど斗音のこと心配してるし、何とかしてあげたいって思ってるのに」
 くす、と笑った嵐は、再び瞬を小突いた。
「そうとも限らねえだろ。何でお前ら、斗音と瓜生さんが最近よく一緒にいるって、知らなかった?」
 言われた瞬は綺麗な眉をひそめ、翔一郎は首をかしげた。
「・・・・・・斗音は何も言ってなかったよね」
「大体、一緒にいるとこなんて、見たことない」
 ああ、と嵐がうなずく。
「瓜生さんが、極端に気を遣ってる。自分が斗音と一緒にいるところを見られないように」
「え?なんで?」
 可愛らしい瞳をきょとんとさせる瞬に、にっと笑って見せ、今度は翔一郎に視線を送る。送られた方は唸った。
「周りに、知られたくない?イメージが悪いから?」
「俺も同じ意見だ。たぶん当たらずしも遠からずだろうな。斗音が一般的に決していいイメージを与えていない自分と付き合いがある、ということを周りに知られたくないんだろ。俺も、たまたま仕事で部活を早めに抜けたとき、駐車場の方から帰る二人を見かけなかったら、今でも気づいてなかった」
 翔一郎は黒髪をわしゃわしゃ掻き上げた。
「駐車場から・・・・・・。そっか、斗音のため」
「たぶんな。俺には、そう見えた。斗音のことを、すごく気遣ってたしな」
 やや不満そうに聞いていた瞬だったが、最後の嵐の言葉を聞いて、にこりと可愛らしい笑みを浮かべた。
「嵐がそう見たなら、間違いないね。きっとあの人も、斗音のこと心配して、大事にしてくれてるんだ」
「そういうこと」
 軽く片目をつぶって見せる嵐は、夕闇の中でも魅力的だ。その自信に裏打ちされた魅力。敵わないなあ、と溜息混じりに笑うのは翔一郎だ。
「ほんとお前は、よく見てるよな。でも、それで少しでも斗音が元気になってくれたらいいな」
 その言葉に、嵐の魅力的な笑みはふっと打ち消された。嵐の灰色がかった瞳の色は、今はほとんど判別できない。でも、はっきりとその瞳が翳った。
「ああ・・・・・・。でも・・・・・・根本的には何も・・・・・・解決されてない気がする・・・・・・」

   ***

 ゆっくりと身体を起こして、慈恩はふらつく頭を支えるように、額に手を当てた。身動きひとつであちこち走る痛みに、凛々しい眉をしかめる。
 やはり熱がでてしまったか、と胸を塞がれるような気分になる。ズキン、ズキンと右の耳やこめかみが、脈打つたびに痛んで、思わず溜息をついた。
(・・・・・・今度こそ、会えると思ったのに)
 もう如月祭からは二週間も経っていた。斗音の体調もだいぶ回復したし、足のほうも、バスケはともかく普通に歩いたりする分にはほとんど影響がない、というところまで治ってきているという話だったから、この土日どちらかにみんなで会おうかと話していた。その矢先に、まさか自分がそれを断ることになってしまうとは。
「・・・・・・情けないな・・・・・・」
 そう口にしたら、じん、と目頭が熱くなって、視界がぼうっと揺れた。光がきらきらと乱反射する。それをぼんやり眺めた。
「慈恩、痛み止めだけど・・・・・・」
 襖が勢いよく開いて、近衛がお盆に水の入ったグラスと白い錠剤を載せて入ってきた。二歩入ったところで、言葉と同時に足を止める。
「・・・・・・慈恩・・・・・・」
 つぶやくように言ってから、慌てて布団の中で起き上がっている怪我人に駆け寄り、その脇にお盆を置いた。
「寝てなきゃ駄目だって・・・・・・!言われたろ、医者に、今日明日は安静にしなきゃいけないって!」
 そっと左肩に手を触れる。右肩は腫れ上がって、どんなにそっとでも触れることはできない。長い指を持つ大きな手がつらそうに額に添えられているのを、のぞき込もうとして、近衛は軽く息を飲んだ。漆黒の瞳が濡れて黒耀の輝きを放っている。瞬きひとつで雫がこぼれそうだ。
「・・・・・・痛むのか?ほら、薬・・・・・・少しは楽になる・・・・・・」
「・・・・・・ああ」
 ありがとう、と小さな声が、微かに空気を振動させる。近衛はぐっと息を飲んだ。慈恩の声はいつも静かで落ち着いている。でも、こんなに弱々しい声は聞いたことがない。鷹司に打たれた直後でも、落ち着いた対応をしていたのに。漆黒の長い睫毛が頬に影を落とし、手の影からふた粒の感情の欠片がこぼれ落ちた。
 本当なら、すらりと美しい背を撫でてやりたい。でも、手を添えることも躊躇われる。触れている左肩が、熱い。身体中あちこちが酷い打撲に腫れ上がり、そのために平熱を越えた。それだけ身体が悲鳴を上げているのだ。それでも慈恩は、手当ての時以来、苦痛の言葉は一切口にしなかった。あまりに酷い傷に、近衛は責任を感じ、慈恩を家に帰すことはできなかった。車を呼び、医者を呼び、自分の部屋で手当てをさせた。慈恩は大人しくされるままになっていたから、強引に自分の家に泊めることを決めた。慈恩も家の人間に心配をさせたくなかったらしい。言われるままに家に連絡を入れ、もうひとつ、離れている双子の兄にも連絡を入れた。「来週大会だから、練習が忙しくて抜けられない」と。それは申し訳なさそうに、どこまでも優しい声で。
「顔と耳の傷は一週間もすれば完治するでしょう。でも、背中と肩の打撲はしばらく痣になるでしょうね。内出血も起こしているし、二日ほどは動くのもつらいと思いますよ。絶対安静にしてください。二週間もすれば、痛みは引くと思いますが・・・・・・」
 そう言った医者に、礼儀正しく丁寧に感謝の言葉を述べた。そんな慈恩の姿を見た医者は、溜息をついたものだ。
「傷自体は表面的なもので、骨などに異常はありませんが、これだけ酷く殴られれば気絶してもおかしくない。よくもこれだけ冷静でいられるものですな」
 慈恩は微かに笑っただけだった。でも、あまりにも儚いその笑みに、以前祖父に対して見せた激情を思い出す。つらいのだ、と感じた。身体の痛みなのか、精神的な苦痛なのか。相当なものを胸の内に抱え込んでいるときに、慈恩はこんな表情をする。そんな気がする。だからきっと今も、本当は溢れんばかりの感情を押さえ込んでいるのだ。
 近衛に従って大人しく薬を飲んだ慈恩は、それでも横になれという指示には従わなかった。
「・・・少し、こうしていたい」
 消え入りそうな声には、静かながらも常に相手を従わせてしまうような重みが感じられない。それが近衛にとってはつらかった。
「でも、熱もあるのに、身体を起こしてるのはきついだろ?」
「・・・・・・そうでもない」
 そう言われてしまえば、もう自分にしてやれることは何もない。でもこの重苦しい雰囲気を何とかしたい。何か話題を、と考えて、思いついたものの憂鬱さに溜息が出そうになったが、この際何でもいいから話していたかった。それで思い切って口を開く。
「・・・・・・あいつ・・・・・・鷹司の奴、父親が有力な閣僚の後ろ盾についてるんだ。金銭面でそいつの面倒を全部見てるから、大臣一人を簡単に操れる。総理大臣に意見することだって、そいつを通せば容易いことだ。だから・・・・・・生徒にも教師にも一目置かれてる。もちろん、でかいグループの会長の御曹司なわけだし、下手をすれば、あいつの一言で企業の一つや二つ簡単に潰されかねない。・・・・・・だからあいつには、みんな逆らおうとしない」
 慈恩は特に返事をしなかったが、近衛もそれを求めはしなかった。ただ、少しでも気休めになればと思う。
「あいつの考え方は、旧家の典型だ。お家意識、権力者の天下は当たり前。自分が気に入らなかったら潰す。あいつ自身がそうやって生きてきたんだ。俺たちも、大して人のことは言えやしねえんだけどさ」
 軽く自嘲した。そして、そっと慈恩に視線を流した。
「だからさ、どんなに殴っても表情ひとつ変えないお前は、初めて出会う恐怖だったと思うぜ。自分の権力に屈しない人間。そんなの今まで、見たことなかっただろうから」
 慰めに・・・・・・ならないかもしれない。言葉を尽くしても、慈恩のつらそうな表情は変わらない。
「・・・・・・今の俺が言っても、全然説得力ねえだろうけど・・・・・・お前のこと、守るから。もう好きになんて、絶対させないから。この気持ちは、間違いなく本物だから」
 言いながら自分でも情けないと思う。今日のことだって、気持ちだけは精一杯だったのだ。でも、やはり自分は権力に屈してしまった。守り切れなかったのだ。
「・・・・・・だから、鷹司のこと・・・・・・あまり気に病まなくていいからな」
 静かにうなずいてくれたのは分かった。音にならない、空気を揺るがすだけの「ありがとう」が鼓膜を震わせた。また一粒、透明な雫が慈恩の頬を伝った。
(・・・・・・鷹司のことじゃ・・・・・・ない?)
 近衛は眉をひそめた。苦痛としては、精神的なものだと思われる。だから、鷹司に逆恨みされたことが負担なのだと思った。でも、違う。慈恩のつらそうな表情は変わらない。どうせ守れやしない、と自分を信用していないからではない。信じてくれている。だから、答えてくれた。ありがとう、と。
(・・・・・・やっぱりまだ、俺は話すに足る相手じゃないのか)
 一体何がつらいのか。身体のあちこちを腫らして、痛まないわけはない。だから弱気になるのも分かる。でも、何に対してそんなに弱気になっているのだろう。それを分かってやれもせず、話させて楽にしてやることもできず、どこまでも役立たずの自分に腹が立つ。
「・・・・・・慈恩。何かすごくつらそうだ。・・・・・・せめて、身体だけでも休ませてやらないと、参っちまうぞ」
 一週間後は新人戦大会なのだ。無理はさせたくない。何より、慈恩だからつらい思いをさせたくない。そう思う。彼がつらい思いをして苦しんでいるのは、見るに耐えない。なのに、小さくうなずいた慈恩はそれでも、横になろうとはしなかった。
 だが、彼らにとっての試練は、これだけでは済まなかったのである。

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三十八.波乱の新人戦

 秋の陽光は強すぎもせず、風はからりとして、夏に比べると明らかに肌を掠める温度を下げていた。そんな気分爽快、スポーツの秋だ行楽日和だと浮かれたくなるような日曜日。桜花高校の剣道部員たちは、思い詰めた表情を隠し切れなかった。浮かれる気配は微塵もなく、むしろ雰囲気は撃沈状態である。
 事は一週間前、部内で正確なところを知るものはほとんどいないが、詳細は知らずとも半数は起こった異変に気づいた、あの鷹司による慈恩への逆恨み的な暴行事件の翌日に起こった。まだ打たれた身体が麻痺して、本当の痛みに襲われる前の慈恩と、その応急処置をした近衛が、和田に遅れること十数分で剣道場へこっそり戻ったとき、コーチは軽く瞠目した。慈恩の剣道着が何か黒ずんだもので汚れており、何よりその顔の右辺りにガーゼをあてがっているのを見て取ったからだった。しかし、すぐに慈恩はその場から消えてしまったので、あとの人間はほとんど気づかなかった。ほとんど何事もなかったかのように・・・・・・もちろん、慈恩はそのまま近衛家へ向かう羽目になったのだったが・・・・・・、とりあえずその日は過ぎていったのだった。しかし、それでほっとしたのもつかの間、翌日土曜日の午後の練習で、衝撃的な言葉が顧問の口から飛び出したのだった。
「あの、先生!それは一体、どういうことですか!」
 顧問の言葉に色を失い、厳粛な空気を発せずにいられない驚きの声で壊してしまう仲間たちの中、唯一まともな言葉を口にできたのは近衛だけだった。そんな部長に対して、顧問は何の感慨もなさそうに、うむ、と答えた。
「そう思う者もいるだろうが、なに、大したことではない。九条はこの部において一番経験が浅く、新人同様だということだ。だからいつもどおり、今回の新人戦には、この部でずっと頑張ってきたメンバーを優先に出場させることにしたんだよ」
 は?と、相手の言に皮肉を込めた聞き返しをしたかったのは、近衛ばかりではない。その決定に納得する者は、皆無と言ってよかった。そんな中、一人納得顔の顧問は指を折りながら丁寧に繰り返した。
「大将は部長の近衛、副将が副部長の東坊城。これは動かないだろう?そして中堅が鳳、次鋒が和田で先鋒は秋月。妥当なところだ。控えメンバーとして一乗寺、九条が入る。九条が控えにいれば、みんなも心強いだろう。メンバーに選ばれた者は心づもりをして今週の練習に臨むようにしなさい。以上だ」
「でも先生、勝とうと思ったら、九条を控えに置いておくのはもったいなさ過ぎます。九条はインターハイ3位の選手なんですよ?!」
 真っ先に言ったのは・・・・・・和田だった。全員が大きくうなずく。更に近衛が付け足した。
「慈恩を後に控えさせようと言うのなら、彼を大将にすべきです。私は全く大将にこだわる気はありません。なんなら私が控えメンバーに入っても構わない。彼を・・・・・・九条を大将にしてください」
 その発言には、ザワ、と部員がどよめいた。さすがに「それはもったいない」「近衛は出るべきだ」と言う声があちこちでこぼれる。やや小柄で、パワーはないがスピードに長けている秋月が手を挙げた。
「先生、俺、控えでもいいです。やっぱり近衛は戦うメンバーに入るべきだし、九条は入部して日が浅いとかいう問題じゃなくて、絶対出るべきだと思います。九条の強さは、誰もが信じています」
 慈恩や近衛と並ぶ長身の持ち主で、パワーに長けた鳳も口を挟んだ。
「俺もそう思います。九条が入るなら、俺の三倍・・・・・・いや、十倍の戦力になると思います。誰かが抜けなきゃいけないって言うなら、俺、抜けてもいいです。うちの部員としての九条を、試合会場で見られるなら・・・・・・」
 睦田は慌てた。全く予想外の反応だった。しかし、彼は言い出した自分のプライドを生徒のために折ることと、もうひとつ強力に刺された釘を自力で抜くことはできなかった。
「何を言っている。試合に出たくないというのか?今までじゃあ、一体何のためにお前たちは頑張ってきたんだ。三年生が引退して、ようやく自分たちの番になったんだぞ。それを平気で出なくていいというのか」
 鳳と秋月は唇を噛み、眉をひそめたのは近衛と和田だった。
「平気なんかじゃありませんよ」
 思いを声で具現したのは和田の方だ。睦田をぐっと詰まらせる。
「平気なわけないじゃないスか。やっと出られる。そんなの分かってます。だけど、今回は団体戦ですよね。俺たちはずっと、九条が入ったから、今年は上まで行けるって、そう思って、そう自分たちで励まし合ってきたんです。その中で自分が選ばれたら、一緒に上まで行けるって、そう信じて、それに期待してきたんです!」
「しかしだな。お前たちが三年生に対して遠慮していたのと同じことだぞ?九条だって、平等に扱われた方が心苦しくないだろう」
「平等?何がですか?同学年に何の遠慮をしろって言うんです?」
 ちょっと驚いたのは慈恩だった。和田には皮肉なことを言われることも多く、自分に対してそれほど好感をもっているとは思っていなかった。しかし、その発言で顧問の顔が醜く歪んだので、慌てて和田の乗りだし気味の肩に手を置いた。振り返った和田の目に、白いガーゼで右のこめかみと耳を覆った慈恩が映る。部員たちには昨日の帰りに車と接触事故を起こしたのだと、表向きの言い訳をしてあるが、鷹司に呼び出された挙句にいきなりの早退を、部員が不審に思わないわけがない。和田は本当のことをぶちまけてしまいたかったが、やはり鷹司が怖くてできなかった。
「和田、抑えて・・・・・・」
 困ったように言った慈恩に、和田は苦虫を噛み潰した顔になる。
「でも、九条!」
「和田、ちょっと抑えてくれ。少し、聞きたいことがあるんだ」
 実質的に和田を止めたのは近衛だった。そのまま言い訳を許さない厳しい瞳で顧問を捉える。
「先生。それは、先生だけのご意見ですか?それとも」
 眼光が置いた一呼吸で鋭くなった。
「誰かに、そうすべきだと言われたのですか?」
 明らかに睦田に狼狽の色が浮かんだ。部員たちは確信する。昨日、この顧問に釘を刺しに来た人物に、大いに心当たりがあったからだ。
「どうなんです?」
 逃げを許さない近衛の問い詰め方に、睦田は唇をひん曲げた。
「聞かなくても予想はしているんだろう?確かに昨日、鷹司がそう言いに来た。だが、鷹司は元部長として、これまで出られなかった部員に日の目を見させてやって欲しいと言って来たんだ。私もその通りだと思った。お前たちのことを思う鷹司の責任感や、元部長としての部員への思いやりを、お前たちはどう捉えているのか知らないが、それをまるで非難するかのように言うというのは、どういうことだ」
 思いやりだと?近衛は心の中で、音高く舌打ちをした。たかが一高校生の心の内も見抜けないのだろうか、この教師は。いや、表面的には問題のない鷹司の言を、教師側から見たらそう捉えても仕方のないことなのか。だとしても、顧問のくせに、いかにこの部の内情を知らないかということがよく分かる。奴が後輩のことを思いやるなど、考えられないというのに。
「けど、鷹司先輩は九条に」
 思わず口走った和田を抑えたのは、今度こそ慈恩だった。先ほどとはうって変わって迷いのない、そして信じがたいほどの力で腕を引かれた。和田ははっと口をつぐんだが、既にその場にいた全員の視線が彼に集中していた。近衛が、ち、と小さくこぼした。それに和田が身を縮める。
「九条に、何だ?」
 切り替えしてきた睦田に、近衛は少し躊躇ってから答えた。
「あの人は九条に、敵意とは言いませんが、いい感情を持っていません。地区大会で九条に負けているからです。一度私は、あの人が九条に言った言葉を聞いて、それを確信しました」

「・・・・・・なんと言ったんだ?」
「・・・・・・これ以上いい気になれないように、打ちのめしてやる、と」
 しん、と場が静まり返る。部員たちの心の中には、やはり慈恩のあの怪我は・・・と疑惑の雲が湧き上がった。しかし、一瞬深刻そうな表情をした睦田はいきなり噴き出した。
「馬鹿を言うな。あの鷹司が、そんなことを言うとは思えない。近衛、お前こそ鷹司を陥れようとしているんじゃないのか」
「な・・・・・・」
 いい子振りや家柄なら、近衛も鷹司には負けていないはずだ。教師受けも絶対的にいいと言い切れる。それが、いとも簡単に非を被せられて、近衛はやや動揺した。慈恩は凛々しい眉をわずかに寄せた。
「近衛はそんなことしません!鷹司先輩なら、言いかねないですよ。あの人は恐怖政治だったんですから」
 吐き出すように和田が言う。しかし、睦田にはそれ以上受け付ける気がないようだった。
「先輩が少々厳しいのは当然だ。近衛にも、鷹司くらい全てを任せられる部長に成長して欲しいと期待しているんだぞ。とにかく、九条も控えにはちゃんと入っているんだ。いざとなったら出す事だって可能だ。これ以上、このことに関して議論する気はない。これは決定事項だ。いいな」
 それだけをきっぱりと言って、睦田はさっさと道場を後にした。それを、挨拶をするのも忘れて見送ったあと、部員たちは顔を見合わせた。落胆や失望、不安の色を互いに確認する。
「やっぱりか。鷹司先輩が、何の用もなく引退した部活を見に来るなんて、有り得ない」
 秋月が溜息をついた。鳳がうなずく。優しそうな顔が翳っている。
「九条が入って選ばれたのなら・・・・・・俺こんなに嬉しいことなかったのに・・・・・・」
 あまりに暗い空気に、慈恩は苦笑するしかなかった。
「みんなだって頑張ってきたんだ。その力が出し切れたら、それでいいと思うよ。それにほら、俺も昨日事故であちこち打ち身になってるし」
「事故、ね」
 一乗寺が肩をすくめた。和田に次ぐムードメーカーの彼だが、実家が日本舞踊の家元で、なかなか練習に参加できないため、資質はあっても周りと同じだけ力を伸ばせない。それでも周りの人望を集める彼の人柄は、学級代表にクラス全員の本気で推薦されるほどのものだった。家柄としても申し分なかったのだが、何しろ部活に来られないというのが大きなネックとなって、部長、副部長にはなれなかった。いや、ならなかったというべきかもしれない。本人が一切希望しなかったのだから。
「ま、九条がそう言うならそういうことでもいいよ。でも、九条抜きかぁ・・・・・・。予想外の展開だなあ」
「悠大も東坊城も強いよ。鳳には悠大でも苦戦するくらいのパワーがあるし、和田は試合に臨むとき、精神的に常に安定してる」
 一乗寺ですら弱音を吐く中、静かな声が淡々と響いた。全員がそちらに視線を向ける。当てられた白いガーゼの痛々しい慈恩が、静かに微笑んでいた。
「秋月は先鋒として、スピードで相手を撹乱させることができる。悪くないと思うよ」
「・・・・・・慈恩・・・・・・」
 近衛は小さく吐息した。試合に出られない。それが、慈恩にとって屈辱でないはずがない。悔しくないはずもない。それなのに、落胆の色ひとつ見せず、こうして仲間に自信を与えようとする。
(敵わねえよ)
 だったら彼の意向を汲むまでだ。近衛はきりっと顔を上げた。
「慈恩がこう言ってるんだ。だったら、僕たちも精一杯やってみるしかない。本当に、いざとなったら先生に頼み込んで、慈恩を出してもらうこともできるかもしれない。そうするためには、俺たちが本当に全力で戦って、先生自身が俺たちを勝たせたいと思ってくれることが必要だ。・・・・・・だから、できるだけのことを、自分たちの力でやってみよう」
 部員たちはうなずいた。あの顧問が、自分たちを本気で勝たせたいと思ってくれるかどうかは、甚だ疑問だ。むしろ、早く負けてくれれば早く終わるのに、くらい考えている人間だ。それを本気にさせようと思ったら、一体どれくらいの姿を見せたらいいのだろう。想像もつかない。それでも、やるしかないのだ。今は、それしか手がない。到底希望的観測を持つには至らなかったが、それでも諦めたくはない、という気持ちにはなっていた。

 そしてそれから一週間が過ぎた。結局今のところ、睦田に気持ちの変化はなさそうだ。そもそも、この一週間、試合前だというのにほとんど姿を見せはしなかった。絶対に、部員たちと顔を合わせるのが気まずかったからだ、と部員一同信じてやまないところである。全く慈恩を出場させてもらえるという希望が見えてこない現状では、これから試合に臨むというにも関わらずの撃沈状態も、いた仕方ないところだ。
「やるしかないだろう。自分たちの力を信じるんだ」
 力強く言葉にする近衛に、慈恩が静かにうなずく。打撲はだいぶ回復に向かっていた。こめかみと耳の傷も、既に絆創膏で済んでいる。まだ身体には内出血の痕も痣も残っていたが、それはまだ、近衛と和田以外、部員には誰にも知られていなかった。
「あのさ、都大会ってことはさ、如月高校も来るんじゃないのか?」
 首をかしげて口にしたのは東坊城だ。近衛がたちまち知的な眉をひそめる。
「そうか。如月と当たる可能性もあるんだ。如月といえば、やっぱ強いってイメージだけど、九条が抜けてきてるからな。実際のところ、どうなんだろう?」
 秋月が腕を組む。鳳は少し困ったような顔をした。和田はちらりと慈恩に視線を流して、そのままそれをあらぬ方向へ向けた。慈恩は少しだけ、寂しそうに見えた。
「・・・・・・どうかな。でも、部長はいい奴だよ。厳しさも、思いやりも知ってる」
 近衛が、見もしないその人物に微かな嫉妬を感じたのは否めない。慈恩にそんなことを言わせる人物とは、一体どんな奴なのだろう、と。その如月の部長とは、すぐに対面することになった。
「慈恩!久しぶり、元気だったか!」
 駆け寄ってきた彼の、にこやかな笑みの中に、泣きそうなほどの懐かしさを見て取った近衛は、目を逸らさずにはいられなかった。たちまち慈恩は如月のメンバーに取り囲まれてしまい、桜花高校のメンバーはその勢いに呆気にとられた。
「時々近藤さんが来てくれて、それで何とかレベル落とさずに練習してるよ」
 田近は目を潤ませていた。それをごまかすように慈恩の剣道着の胸をげんこつで小突いた途端、慈恩がぴくりと眉をしかめたので、慌てて謝った。
「ごめん、痛かったか?」
「何でもないよ。何か、久しぶりだな、と思って」
 慈恩はすぐににこやかな笑みを返す。如月のメンバーはみんな慈恩を慕っていた。腕を引き、肩をたたき、如月のことを色々話す。
「近藤さんさ、如月祭で大活躍だったんだぜ」
「そうそう、ベルばらでさ、フェルゼンやってた、フェルゼン!似合わねーだろ?」
「でもこれがさ、なかなか色男なんだよ!いやー、剣道やってるのとは別人って感じでさ」
「団長も、かっこよかったんだぜ!お前に見せてやりたかったよ!」
 中の一人が興奮して、思い切り右肩をたたいた。さすがに慈恩の表情が苦痛に歪む。田近を初め、その表情に驚いた如月の生徒たちが目を瞠る中、近衛が割って入った。
「すまない。今、慈恩は怪我をしてるんだ。一週間前に、車と接触事故があって」

「・・・悠大」
「申し訳ないが、あまりたたいたり触れたりしないで欲しい・・・・・・あちこちに打撲があるんだ」
 視線を落とした近衛に、如月の剣道部員が驚きの声を上げる。現在副部長として田近を支える百瀬が思わず怒声に近い声を上げた。
「事故!?大丈夫なのか、お前!」
 いつもシニカルな口調が癖になっている斉木も、眉を歪めた。
「お前、思慮深いくせに何でそんなとこでドジなんだよ」
 堂本もうなずく。その脇で、小柄な小林が訴えるように目線を上げる。
「ていうか、そうなら早く言えよ。何ですぐ我慢すんだよ」
 田近がみんなに合わせてうなずきながらも、申し訳なさそうに眉を八の字にした。
「全くだよ。最初に小突いたとき、痛かったんだろ?ごめん、知らなくて。何か、痛そうだなとは思ったんだけど・・・・・・ごめん、気づいてたら、みんなにもそんなことさせなかったのに・・・・・・」
 少し寂しそうな苦笑が、慈恩に浮かんだ。
「痛かったけど・・・・・・嬉しかった」
「・・・・・・慈恩」
 田近と、そして近衛が同時につぶやいた。
「お前って奴は、ほんと、相変わらずな奴だな」
 感慨深げに、切なさを込めて、田近はそう付け加えた。
「何でもできるくせに、控え目で冷静で落ち着いてて、何より一番に相手のことを考えて。そして」
 にこりと笑う。
「やっぱり誰にでも慕われる」
 近衛は複雑だった。ここには自分の知らない慈恩の知り合いがいる。自分が触れてこなかった時間が、彼らの中に生きている。彼を理解し、本当に理解し、そして慕っている。桜花の中では、間違いなく自分が一番慈恩に近くて、彼の中でも自分が一番大きな存在でいる。でも、ここに来るとそうではなくなる。知り合ってまだ二ヶ月もしない自分とは、埋めようもない差を持つ、かけがえのない仲間たち。自分には分からない話題で盛り上がれる仲間たち。
「ここの部長だよ、田近。悠大って言うんだけど、二重人格のいい奴」
 くす、と笑いを交えた艶やかな声。思わず振り返ると、おかしそうに慈恩が近衛を見ていた。
「二重人格でいい奴?」
 思わず聞き返してくる田近に、楽しそうにうなずく。
「ああ。普段はお坊ちゃまの皮を被ってる。そりゃ見事に。でも中身は、なかなか口の悪い奴で」
「慈恩、お前」
 こんな知りもしないような奴に、なんてことをばらしてくれるんだ、と思いを込めて睨みつける。
「そうなのか?何か、口の聞き方も丁寧だし、本当にちょっと気品があるって言うか」
 俺なんて、気後れしちゃうけど、と田近。
「だろ?でも、根はいい奴。全然気取ってないし」
「そうなんだ。慈恩がそう言うなら、そうなんだな。よろしく。俺、一応如月剣道部の部長やってる田近允(まこと)。本当なら、副部長くらいのはずだったんだけど、慈恩のおかげで部長やってるよ」
 苦笑しながら自己紹介する如月高校剣道部部長に、近衛も笑って見せた。
「僕は近衛悠大。慈恩にはすごく色々助けられているよ。彼一人いるだけで、部全体のレベルが上がる」
 二重人格の表で接する近衛を、慈恩は肘で軽く小突く。
「硬い」
「うるさい。みんながいるんだ」
 じろり、と近衛が慈恩をねめつける。
「いいだろ。鳳たちはもう席を取りに行ったし。如月はもっとフランクなところだ。逆にお前、浮くぞ?」
「別に俺が如月に居座るわけじゃねえよ」
「だから、その方が親しみがあるんだって」
「それは和田だけで充分だっつの」
 慈恩はいつも通りの声で、近衛はなるべく聞かれないようにこそこそと話していたのだが、遂に田近に笑われてしまった。
「ほんとに二重人格だ」
「だろ」
 楽しそうに笑う慈恩を見て、この野郎、と思いながらも嬉しいような悔しいような、妬けるような複雑な気持ちだ。
「にしても、事故ってどういうことだよ」
 突然話題を蒸し返され、慈恩は少し困ったように首をかしげた。
「うん、まあ・・・・・・ほら、荷物をサイドミラーに引っ掛けられたんだ」
 それで右耳とこめかみをかすり、転倒したのだ、と説明する。
「よっぽど派手に転倒したんだな。だって、前も背中も肩も打撲なんて。慈恩からは考えられないな」
「あー、ちょっと引きずられたって言うか。で、体勢立て直そうとして、背中も」
「マジ?それって、打撲で済むか?擦り傷だらけになったんじゃないのか?」
「そんなんで、今日試合は大丈夫なのか?」
 如月の面々は心配そうだ。慈恩が肩をすくめる。
「大丈夫なわけないだろ。だから今日は控えだ」
「ええーっ?慈恩が控え?もってーねー!怪我してても、俺なら絶対使うね」
「怪我してたって、並みの高校生より、絶対強いよな」
「あのな、俺は近藤さんじゃないんだから。そんな頑丈そうに言わないでくれよ」

 どっと笑いが起きる。慈恩もおかしそうに笑っている。近衛は不思議な気持ちでその光景を見つめた。

   ***

 体育館に青いラインで描かれたバスケットボールコートを、選手たちは所狭しと走り回る。その中に目立って色の白い、シュートの上手い選手がいる。しかしその選手は明らかに体力不足で、動きにも機敏さが足りなかった。何度も突き飛ばされ、ベンチに下げられ、その度に監督に叱られていた。
「足が気になるのは分かる。でも、それを恐れていたらお前の武器であるシュートが死んでしまう。もっと突っ込め。当たり負けしすぎだ!」
「はい、すみません」
 肩で息をしながら、斗音は精一杯の声で謝る。ようやくこの一週間で部活にも参加できるようになっていた。しかし、二週間という空白の時間は、一週間では取り戻せなかった。その上、ずっと食欲不振が続く斗音は、体力も夏に比べて更に激減していた。ユニフォームからのぞく肩や腕は、明らかに以前より線が細くなっており、筋力の衰えを感じさせた。
「斗音、大丈夫?」
 今回は三年生が引退し、練習試合ということもあって、瞬も選手としてコートに立っている。瞬ももともとかなりの色白だが、斗音のそれはやや病的だった。瞬は目立って何が得意というわけでもないので、選手を交代させるたびに出たり入ったりしていた。
「何か、声も擦れてるし、息も荒いよ」
「ん・・・・・・大丈夫」
 それだけ言って、力なく笑みを載せた斗音を、瞬は痛々しそうに見つめた。
 同じように斗音を見つめる視線が、二階の見学スペースからも向けられていた。
(最近は夜遅く帰ってきて、自分の部屋にこもって眠るだけ。朝はいつも通り出て行くが、朝食にはほとんど手をつけない。沢村にも昼食はとにかく簡素にするよう、くどいくらい言う。何かを摂取していることがほとんどないように見える。・・・・・・やはり、摂食障害か?)
 三神は切れ長の目を更に鋭く細める。明らかに夏に比べて腕も脚も、身体そのものが細くなっている。触れれば折れてしまいそうだ。今唯一彼に触れることができるのは、朝晩の検温のときだけ。それでも以前に比べて明らかに警戒されているのが分かる。家に寄り付こうとしないのは、自分を避けているからだろうと、この二~三週間ではっきりと感じるようになった。
 まず、自分に何か物を頼もうとしなくなった。触れようとすれば、さりげなく逃げようとする。朝食は共にとるのだが、斗音はほとんど食べないので、たちまちその時間は終わる。そして何より、体育祭の日に帰って来ず、土曜日も姿を見せず、日曜日の午前中に、ようやく帰宅した。それから着替えて、すぐに出掛けていったのだが、帰ってくるのはやはり遅かった。それ以来、金曜日は帰ってこないこともある。一体どこで何をしているのか、聞いても答えは返ってこない。こちらが一体どんな思いで待っているのかを、懇々と訴えてみたが、それでも変わらなかった。しかし、この二~三週間で少しだけ、あの体育祭の辺りに比べれば、顔色はよくなっていた。体育祭の日は、絶対に途中で倒れると思ったほどだったのだが。
 今日の練習試合はやや郊外で行われたため、交通の便が悪く、三神が送ってきた。久しぶりに彼が自分を頼ってきたことに、感動すら覚えた。嬉しくて、舞い上がりそうだった。しかし彼はひどく無口で、車内での会話はほとんどなかった。試合を見ていていいか、という問いにだけ、「好きにしたら」という答えが返って来た。その辺りは、送ってもらう相手への気遣いなのだろう。例え好きではない相手であろうと・・・・・・そう考えるのは、三神にとってひどく心を苛まれることだったが・・・・・・都合のいい人間として使い捨てにすることは決してしない。優しい彼なりの応対。それすら、どうしようもなくいとおしさが込み上げる。
『頼むから、検温自分でやらせてよ』
 今朝、また言われた。気づいているのだ。彼は。華奢な身体に触れようとしている自分に。駄目です、と冷静に答えたものの、心の中にひとつ杭が打ち込まれた気分だった。斗音はそれ以上わがままを言いはしなかったが、検温が終わるとそそくさと襟ぐりをつかみ、部屋から自分を追い出す。だから、三神は彼に触れた手に残る感触を思い出しながら、頭の中で彼の全身をこの手で撫で回す。あの頼りない身体、腕も脚も、華奢で支配することなど容易い。自分に逆らえるだけの力を、彼はもう持たない。抗いがたい誘惑と、三神は常に戦っていた。
 今彼の身体を自分のものにしてしまうことは、簡単だ。でも、離れつつある心は戻ってこない。縋って欲しいのだ。自分の名を呼んで、求めて欲しい。

 あんなふうに自分を避けるようになったのはいつからだろうか。と、三神は思い返す。思い当たる節は十分にあった。

 壊れてしまうかもしれない。そう思って、主人が過労で倒れたときに我慢したことは、間違っていなかったと思う。けれど、募っていく欲望をこらえ切れなかった。どうしても心を手に入れたかったが、心を手に入れる前に気が触れてしまいそうで、そんなときにふと思いついたこと。
(・・・そうだ、起きなければ・・・あの人が、気づきさえしないなら・・・)
 如月祭が始まる一週間前。翌日の夕食に、睡眠薬を混ぜた。斗音がほとんど口にしないのは分かっていたので、飲み物からサラダからおかずから、全ての表面にうっすらと粉薬をふりかけた。全く味も匂いもない薬だった。斗音は少量口にしただけだったが、風呂に入ってすぐ宿題をやろうとして、薬の効き目に耐え切れず机の上で眠りに落ちた。そっと揺すってみると、彼は一瞬意識を取り戻し、夢と現の間で彷徨ったように見えたが、まともにベッドまで歩くこともできず、それを支えた三神の腕の中ですとんと意識を失った。それを抱いてベッドに運んだ。心臓が震えそうなほど、ゾクゾクした。今なら、大丈夫に違いない。薬を飲んでいるのだ。もし途中で何をされているのか気づいたとしても、夢なのか現実なのか、区別ができないだろう。そう考えて、パジャマのボタンを、興奮に震える指先でゆっくり外した。現れた白い肌。はっきりすぎるほど浮き出した鎖骨、薄っぺらな身体。そっと肌に触れれば、きめ細かなそれは驚くほど指先に滑らかで、優しく誘うようだった。
(なんて・・・・・・心地いい・・・・・・)
 ボタンをもう少し外した。傷つけてしまいたいほど綺麗な肌。指先でその感触を味わうように、みぞおちの辺りから胸へ、腰へと手指を這わせた。時間はまだまだあるのだ、ゆっくりやればいい。その柔肌に唇を押し当て、頬を寄せ、華奢な身体の線を丁寧になぞった。
 その時だった。
「・・・・・・な・・・・・・に・・・・・・」
 一瞬心臓が凍りついた。そろりと顔を上げると、眩しそうに目を細めた斗音が、何が何だか分からないといったようにこちらに視線を向けていた。冷たい汗を感じながらも、三神は精一杯の演技でもう一度耳を心臓近くに当て、手をそれに添えた。心臓の音など、聞いているほどの余裕はなかった。そのまますっと顔を上げ、少しうなずいた。
「・・・・・・ご安心を。今のところ心音に異常はありませんよ」
 そう言って、パジャマのボタンを速やかに留める。薬の睡魔に抗いながら、斗音は不信感と怯えをその薄茶の瞳に映していた。
「・・・・・・おやすみなさい・・・・・・」

 心臓がバクバクいっていた。そっと電気を消して、立ち去って、それから部屋で一晩中、信じてもいない神に祈り続けた。彼が夢だと思ってくれるよう。今あったことを、朝起きたら覚えていないよう。
 
翌日の彼は、少しだけこちらをうかがうような表情をしたものの、笑みを載せて挨拶をした自分に、小さな笑みで応えてくれた。心の底からほっとした。徹夜で・・・・・・といっても、眠れる状態ではとてもなかったのだが、祈り続けた甲斐があったというものだ。と、その時は生まれて初めて、少しだけ神とやらを信じてもいいとすら思った。

だが。それから彼との距離は離れるばかりだ。身体に触れることは徐々に避けられるようになり、彼が自分を見る目は明らかに警戒心を漂わせている。
(焦っていた。ほとんど食べなかったせいで、薬の量も少なかったんだ。・・・・・・しかし、あの時は気づかれずに済んだと思ったが・・・・・・聡い方だ。時が経つにつれて、あれが現だったのではないかと疑い始めたのかもしれない。体育祭前夜のこともある・・・・・・一度そう疑われたら、無垢に信じてはもらえない・・・・・・)

 大きな溜息をついて、三神は体育館を出た。そこで煙草に火を点ける。斗音には見せていないが、一度口にしてしまった煙草は、なかなかやめられなかった。九条家に入るときに、あれほどの思いをして断ち切ったものだったのに、心の中のうやむやをすっきりさせてくれるような気がして、あの体育祭の日の夜から、こっそり続けていた。そして、その本数は日増しに増えていた。吸ったあとはガムを噛んだり消臭剤を使ったりして、徹底的にその匂いを排除した。
 
斗音が煙に弱いことは重々承知だ。さすがに身体を狙われているから辞めさせて欲しい、などと、斗音は九条家に訴えられないだろう。あの家には疎ましい隠し子がいる。奴の印象が自分のために悪くなるのでは、と思うと、きっと言えはしない。しかし、煙草を吸うから困る、辞めさせて欲しいというのなら、体面的には何の問題もないし、斗音としても言いづらいことはないだろう。こんなものを原因にして辞めさせられでもしたら、困るのだ。彼と二人きりの生活をおしまいになど、どうあってもさせはしない。
(時間はあるんだ。必ず、必ず彼を手に入れてやる。俺に触れずにはいられないように、仕込んでやる。長い時間を掛けて、少しずつ、少しずつ。そうだ、焦っていては駄目だ)
 ふうっ、と白い煙を空気に吹き付けるように吐き出し、吸殻を落として足で踏みにじった。・・・・・・煙草を吸うとこんなに気分がすっきりする。いい考えが浮かぶ。三神はにやりと笑った。
(あの優しさがウィークポイントだ。自分のために何かしてくれた人間を、あの人は冷たくあしらうことなどできはしない。恩着せがましくならないように、あの人に尽くそう。そうすれば、嫌でも心を開かざるを得ない。・・・・・・さて、まずは車で送ることか)

 アスファルトにこすり付けられ、中身を半分以上破れた紙の外に撒き散らした煙草の残骸が、微かな最後の煙を空気に溶かし、それっきり押し黙った。

   ***

 剣道の新人戦大会の会場は、静かな中にも精神的な高揚を含んだ熱気が漂っていた。とりあえず、如月高校も桜花高校も現在のところは勝ち残っている。如月高校は第一シードが掛かっていたため、二回戦からの出場だったが、順当に勝ち進み、ベスト4まで駒を進めた。そして桜花高校は一回戦からの戦いとなり、それを勝ち抜いたあとはこの大会の第五シードと当たったが、中堅戦、副将戦、大将戦で勝ちを収め、前半の二敗を何とか覆し、逆転勝ちをもぎ取った。次の相手は二回戦より容易かった。やや疲れ気味の東坊城が副将戦を落としたものの、それ以外は勝ちを収め、そこで無事ベスト8まで駒を進め、ベスト4を懸けた試合で第三シードと対戦した。先鋒の秋月は1-2で負け、次鋒の和田は0-0の引き分け、中堅の鳳は2-1で勝利、副将の東坊城は0-2で負け、そして大将戦の近衛は2-0で勝利した。
「これって・・・・・・引き分けじゃねえか?」
「無制限一本勝負だ」
 取った本数も、一本勝ちをした数も引き分けなのだ。ややして本数を確認していた審判から両校に対して、決定戦が告げられた。
「代表選手一名による無制限一本勝負を行います。各チームから一名、選手を出してください」
 睦田は唸った。こんなことになるとは思ってもみなかった。いやむしろ、こんなに勝ち進むということを、予想すらしていなかった。桜花高校はそれほど強いチームではない。あの鷹司率いるチームですら地区大会二回戦で負けてしまう程度だったのだ。それがなぜ、ベスト4を懸けて、第二シードといい試合をしてしまったのだろう。
「先生、どうされます?これで勝ったら、桜花高校はベスト4です。ベスト4は今回関東大会に進めます」
「関東大会?これは勝ち進んでいく大会ですか」
 睦田の答えに、コーチはかなり気分を害したようであった。そうですよ、と呆れたように答える。睦田は更に唸った。更に進むことになったら、また自分の休日が犠牲になるではないか。冗談ではない。レギュラーの五人に加え、一乗寺、九条。この中から、勝てない人物を選ばなければならない。相手は大将が敗れているので、副将辺りを出してくるかもしれない。
「先生、どうされます?」
 再度促されたが、睦田は頭が痛くなりそうだった。そもそも、いつもコーチや部長の意見でメンバーを決めているのである。今回は鷹司の意見だったのだが、その鷹司はここにいない。しかし、下手にコーチや近衛にメンバーを決めさせれば、勝ててしまうかもしれない。だが、しかし。睦田は彼らの実力を全く把握していなかったのだ。誰を、と言われても、誰を出せば適当に負けてくれるのか、部員からそれなりに納得させられるかの判断など、できようはずもない。
 苦悩する睦田の横で、近衛がコーチをそっと手招きした。コーチが溜息をつきながらそれに従う。そのコーチの耳元で、近衛は小さく何か囁いたが、自分のために悩む睦田は、そんな些細なこと、全く気づきもしなかった。
「先生、私の見解では、ここはやはり近衛でどうかと思いますが」
 頭を抱える睦田に、見かねてコーチが助言する。
「今いい勝ち方をしましたし、九条に次ぐ実力の持ち主です。九条はまだ本調子ではありませんし、そのことを考えると、疲れていても一番可能性が高いのは近衛でしょう。鳳でも悪くありませんが・・・・・・今の九条よりは絶対的に鳳や近衛の方が活躍できるでしょうから。それ以外は実力的にちょっと部員が納得しないでしょう」
 睦田は顔を上げた。
「九条が本調子ではない?ああ、あの車の接触事故というやつですね。でも、それでもうちの部員たちは、九条をメンバーから外すべきではないとひたむきに訴えていましたよ?」
「あれは事故の翌日でしょう?あの時はこれほど長引くとは思っていなかったんでしょう。実際、背中の傷なんかはかなりひどいですからね。あれでは思い通り筋肉が動かない。先生、ご存じないんですか?それに、剣道は一日やらなければそれを取り返すのに三日掛かるとも一週間掛かるとも、下手をすると一ヶ月掛かるとも言われています。九条はこの一週間、ろくに練習できていないんですよ」
「・・・・・・そうですか・・・・・・」
 出すべきメンバーを考えるふりをしながら、実際睦田は考えていた。部員たちを納得させ、かつ負けてくれる最適な人材を。
「・・・・・・しかし、九条の実力はみんなが一目置いている。何とか彼で勝てませんか?」
 そう言った睦田は、自分にとってベストの選択をしたという自信を胸の奥に秘めつつ、いかにも部員たちの気持ちを重んじての言葉なのだと演じていた。その演技を信じたのか、コーチは難しい顔をする。
「普段の彼なら、喜んで出したいところですが・・・・・・どうでしょう?」
 睦田は内心ほくそえんだ。慈恩に向き直る。
「九条、身体の調子はどうなんだ。お前の実力はみんなが信頼している。出られそうか?」
 慈恩は驚いたような瞬きをした。
「そんな・・・・・・こんな負けられない試合に、この怪我を抱えて臨めということですか?そんな重い責任を、この部の新参者の俺に?」
「新参者というが、お前は部員みんなに慕われている。ここでもしお前が負けても、恨まれたりすることはないだろう。それほどお前はみんなにその実力を認められているんだ」
 睦田は、積極的に慈恩を説得しようとした。
「確かに怪我をしていることはある。でも、相手はインターハイの選手というわけじゃない。お前なら勝てる可能性があると、私は踏んでいるんだが、どうだ。お前に任せてもいいか?」
「でも、それなら大将戦に勝っている近衛でも・・・・・・」
 躊躇う慈恩に畳み掛ける。
「近衛は今やったばかりで疲れている。それにこんなプレッシャーの大きな試合、今の部員は誰も経験したことがない。でも、インターハイに出たお前は別だ。それに、これに勝てたら次からの大会でも、文句なしにお前をメンバーに入れていける。鷹司だって、納得するだろう。桜花を救った立派な桜花剣道部の部員として認めざるを得ない」
 そこまで熱弁をふるう睦田に、近衛もうなずいた。

「そうだよ慈恩。君なら、例え負けたってみんな仕方ないって諦められる。君で敵わない相手なら、うちの部員だって諦めがつくよ。ここまで勝ってきたことだけで、僕たちには十分な成果なんだから」
「だけど、悠大。お前たちがここまでやってきたことを、俺が無にするわけには・・・・・・」
 しぶとく消極的な慈恩に、コーチが溜息をつきながらもうなずいて見せた。
「先生がここまで言われるんだ。やってみたらどうだ。本来の実力の半分でも出せれば、勝てるかもしれない」
「ほら、コーチまでこう言われるんだ。もうお前しかいないだろう」
 最後の一押しは、睦田がやってのけた。戸惑いながらも、漆黒の瞳の彼はついにうなずいた。
「・・・・・・分かりました。できるだけのことは、やってみます」
 睦田は心の中でガッツポーズをし、次の自分の休日を確保することに成功したことを確信した。どことなくぎこちない動作で試合場へ向かう慈恩の様子が、それを確信させてくれたのだった。
 しかし、その確信が蜃気楼の楼閣の如く脆く儚く消え去ったのは、その確信を得てからほんの一分後の出来事だった。怪我をしているはずの慈恩は、圧倒的に・・・・・・それこそ相手が何かをする余裕すら与えず、ものの数十秒で二本取って勝ちを決めてしまったのだった。
 あんぐりと口を開けて、儚かった自分の休日へ思いを馳せる睦田の横で、近衛たちは大喜びだった。
「怪我してても、やっぱお前は一流選手だな!」
「相手の副将なんて、敵じゃないよなあ!」
 苦笑している慈恩に近衛はニヤニヤと笑って見せた。
「先生の判断は間違ってなかったってことだよ。君ならできるって、自信を持って言われたからね」
 あくまでみんなの前では優等生なセリフを通している近衛だが、これは皮肉に他ならない。そもそもが近衛の策略だったのだから。睦田が誰を出すかで悩んでいたときに、近衛は即座に、彼が何で悩んでいるのかを見抜いていた。そして、彼が部員の力量を全く把握していないことも知っていた。そこで、コーチに慈恩が怪我で使えないことをアピールしてもらったのだ。
「さすが先生、よく見てらっしゃいますよね」
 相手にはヨイショに聞こえる皮肉を、近衛は並べた。近衛の策略に乗ったのは、コーチばかりではない。実は慈恩もその一人だった。慈恩の場合、ただ一言「躊躇え」と言われただけだったが。
「うむ、全く・・・・・・ここまで強いとは、さすがに、予想していなかったが」
 近衛に合わせてうなずいて見せた睦田だが、先ほどの勢いはどこかへ消え去ってしまっていた。コーチもやや苦笑いを浮かべる。
「いやはや・・・・・・相手が副将クラスだったというのもありますが、怪我を抱えてここまでやるとは。予想以上の選手ですね」
 もちろんコーチは、最初から慈恩を推すつもりだった。近衛に言われたとおりにして、結果的に自分の望む結果が得られたのだから、満足ではあるのだが、睦田に対する失望感や、人を騙す片棒を担いだことは、やはり苦笑するしかない、といったところだった。そして、バッチリ付け足した。
「これなら、九条は十分使えますね。次は準決勝です。彼を副将にしましょう。東坊城は今負けたことでやや自信を失くしている。これで足を引っ張ったら、もっと厄介です。もともとそれほど精神的に強い選手じゃありませんからね。大将が近衛、中堅鳳、次鋒和田、先鋒は秋月。せっかく都大会に進めるんですから、その練習と思ってやった方がいいでしょう?」
「あ、ああ・・・・・・そ、そうですね・・・・・・」
 睦田の頭の中は燃え尽きて真っ白なので、考える余力はほとんどない。それを見て取った近衛がうなずいた。
「東坊城は副将のプレッシャーを抱えて臨んできました。彼にとってはかなりきつかったと思います。ここで関東大会に向けて休ませてやるのも一つの手です。先生も、そう思われませんか?」
「うむ・・・・・・そうだな・・・・・・」
 当の本人、東坊城も、ほっとした顔でうなずいた。
「じゃあそれでオーダー変更をお願いしますね」
「ああ・・・・・・そうだな・・・・・・」
 よっしゃ、と部員たちがガッツポーズする。控えに回った東坊城も一緒に喜んでいる。正直この先の戦いは、精神面でまだ成長途中の彼には荷が重かった。ただでさえも団体戦のニ連敗はこたえる。近衛もそのことはよく分かっていたのだ。
「準決は・・・・・・鷹羽か。強敵だな」
 つぶやいた近衛に、慈恩が相槌を打つ。
「第二シードだからな。インターハイにも個人で一人出てた。地区予選で橋本先輩に並んで三位になってた高天ってのが。たぶん、大将に出てくると思うけど」
「げっ。お前がやれよ、それと」
「怪我人に何てこと言うんだ」
「ほぉー、第三シード校の副将相手に一分経たず勝ちを収めるような人間に、同情しろって?」
「そんなこと言わない。でも、お前ならきっといい勝負ができると思う」
 微笑した慈恩に、近衛はぐっと言葉に詰まった。微笑みを静かに載せたまま、慈恩は付け加えた。
「だから逃げるなよ、大将」
 ちぇ、と近衛は吐息した。慈恩には敵わない。
「分かってるよ。お前が入ったことで、うちもランクアップしたわけだからな。お前は確実に勝つから、あと二勝すればいいってことだ。できるだけのことは、やってみるさ」
 慈恩の微笑に苦笑が含まれた。
「本調子じゃないのは確かなんだから、あまり過信しないでくれ」

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三十九.準決勝

 襟ぐりのすっきりした柔らかそうな生地のノースリーブカットソーに、薄手のカーディガンというアンサンブル、中が淡いブラウンで上着は白という出で立ちに、上品なピンクとベージュを基調としたマーメイドタイプで裾は贅沢なフレアーが施されているスカート、美しくのぞく白い首にはダイヤモンドをあしらいつつも華美でないネックレス。どこまでも清楚な上品さを湛えた彼女は、慈恩によく似た黒曜の瞳をきらきらと輝かせていた。
「雅成さん、勝ったわ!あの子、怪我してるのにほんとにそれを全く感じないくらい・・・・・・」
 その瞳には感涙すら浮かんでいる。その妻の美しさに心惹かれ、また自分の息子となってくれた、外見も内面も申し分ない少年の圧倒的な強さに心打たれ、父親となってまだ間もないながらその幸福を感じずにはいられない雅成である。しかし、その幸福の裏に抱えた不安も、雅成はその胸に同居させていた。
『交通事故、ですって?』
 突然近衛家から入った連絡に、雅成は驚愕し、絢音は卒倒しそうになった。
『ええ、帰り道に・・・・・・ちょっとした接触事故のようなのですけれど、少し怪我をされて。拙宅の悠大が車で連れて参りましたの。家の掛かり付けの医者を呼んで、手当はさせて頂きました。それで、ちょっと傷の方から発熱がおありで、今悠大の部屋でお休み頂いておりますわ。あの頑固者が今日はそちらのご子息をお泊めすると言って聞かないのですけれど、私も今回はあの子の意見に賛成ですの。今は慈恩さんにゆっくり休んで頂くことが一番の薬かと思いまして。ですから、ご心配は承知の上で、慈恩さんを一晩お預かりさせて頂けないかというご相談なのですけれど』
 丁寧な口調で、近衛夫人が説明をしてくれたのだが、そんなご迷惑をお掛けするわけにはいかない、今すぐ迎えに行く、と告げた。すると、近衛夫人は少し笑ったようだった。
『そうおっしゃると思いましたわ。ですから、慈恩さんご本人から事情をご説明頂こうと思いますの。慈恩さんがそうお望みですから・・・・・・』
 そう言って、慈恩本人に代わった。
『慈恩くん?大丈夫なのか!怪我して熱があるって!』
 急いて答えを求める雅成に、慈恩も少し笑ったようだった。
『大丈夫ですよ。すみません、ご心配をお掛けして』
 そう言って、落ち着いた様子で、彼は丁寧に説明してくれた。車に引きずられたため、少々傷と打撲があること、問答無用で近衛に連れて来られたこと、医者がもしかすると後遺症などもあるかもしれないから、今日はなるべく動かない方がいいと言っていること・・・・・・。もちろん大半は近衛と相談して口裏を合わせた設定だったのだが、それらを聞いて、雅成は少しだけ安心した。そして絢音にも詳しく説明し、その晩は落ち着いた。
 だが、翌日帰ってきた彼の傷を見て、疑念が湧き上がってきたのだ。
(これが、引きずられた傷?これは引きずられたと言うよりむしろ・・・・・・)
 幸か不幸か、雅成には小さい頃車に引きずられた経験があった。開けた窓から仲のよかった友達が、手を出していて、別れを惜しんでその手をつかんだ。だが、その子供たちのやり取りに気づかなかった運転手が車を発進させてしまったのだ。よろめいた雅成を気遣って、車の中の友達は焦ってその手を強く握り、立て直そうとしてしまった。本当はその手を離すべきだったのだが、離せば転ぶと分かっている手を離せなかったのだろう。結果、雅成は数メートル引きずられる羽目になってしまったのだ。その時は膝と靴と、慌てて離した左手の皮膚があちこち削がれ、無数の擦り傷や引っ掻き傷ができ、結局友達が手を離したとき勢いよく地面にたたきつけられたので、あちこち石の欠片が刺さったりもした。
 しかし、慈恩のそれは違った。余計な引っ掻き傷などなかったし、皮膚が削がれるという感じではなく、裂けているという感じだった。絢音はあっさり信じていた(そもそも、絢音は慈恩の言うことを疑うことなどない)が、雅成は、昨夜の話は慈恩の優しい嘘なのではないかと感じたのだった。
(あれは、打ち身だ。例えばそう、鞭や・・・・・・)
 思い返して軽く息を飲み、そして、彼らが振るい合って競っている頑丈な竹の武器を見つめる。
(・・・・・・竹刀で何度も殴られたような・・・・・・)
 絢音は顔や手などの傷しか見なかったが、雅成は慈恩の背中の傷も見た。と言うより、二人になったときに見せてくれるよう頼んだのだ。慈恩は苦笑いを浮かべていた。恐らく、雅成が引きずられた傷ではないと感じていることを悟っていた。それでも、躊躇うでもなく、素直に傷を見せてくれた。腫れ上がり、ところどころ血をにじませた、幾本もの打撲痕を。
『慈恩くん、これは・・・・・・』
 言いかけた雅成に、少し部屋の外へ視線を流してから人差し指を立てて、形よい唇に押し当てて見せた。絢音には内緒だと、少し微笑んだ瞳がそう告げていた。
『すみません。ご心配をお掛けしたくなくて、嘘をつきました』
 低く静かに、外に聞こえないようにそう言って、慈恩はすぐにシャツを羽織った。
『でも、大丈夫ですから・・・・・・。事故で通して頂けると助かります』
『でも、これはまさか』
 なおも食い下がろうとした自分を、再び静かな微笑みで制し、慈恩は軽く首を横に振った。
『俺には、悠大という強い味方がついています。だから、大丈夫です』
 それ以上は何も教えてはくれなかった。ただ、その言葉から、学校で何らかのトラブルに巻き込まれたのだろうと、雅成は察した。彼が大丈夫と言うのだから、大丈夫なのだろう、と思う。だが、一体どうして、この人に恨まれようもない人格の彼が、このような目に遭わなければならなかったのかと思うと、不安でたまらなかった。若いだけに、傷の治りも早いものだったが、それでも一週間で完治とはいかなかった。まだ背中のあちこちに内出血の痣が残っている。
(まだ自由に腕も動かないだろうに・・・・・・それでもあの強さ・・・・・・すごい。何という精神力だ)
 自分たちには過ぎた息子だと思う。彼をこんなふうに育ててくれた椎名家の両親、そして斗音の存在の大きさに、改めて雅成は感謝し、その重責を受け継いだことに身を震わせた。同時に不安に思わずにいられない。

(斗音くん・・・・・・君からこんなに素晴らしい人を奪ってしまった・・・・・・。メールで連絡はくれるけれど・・・・・・君は本当に元気でやっているんだろうか?)

   ***

 じゃあな、とあちこちで声が飛び交い、少年たちが散っていく。自転車に飛び乗る者、呼んでいたタクシーで駅に向かう者、家からの迎えの車に乗る者、そして唯一黒のウィンドブレーカーでフルフェイスのヘルメットを被ってバイクに乗る者。
「東雲、お前またバイクで来たな?危ないから止めろって言ってるじゃないか」
 溜息混じりで、さっきまで斗音を叱りつけていた顧問が大きな身体を揺らして石段を降りてくる。
「だって、キノさん、俺これ以外交通手段なかったんだぜ。タクシーとか、金掛かるし」
「そのバイク買って維持する方がよっぽど金掛かるだろうが。大体バイクは校則違反だ」
「あ、知ってるけどさ。ほんとは免許取るのも禁止ってことも知ってるけど、その辺は校長に許可もらってるから突っ込まないでくれよ。じゃ」
 バルルル、とエンジンを吹かし、勢いよく滑り出した結構立派な中型のバイクが大きく斜めに傾いた。道路に出たそれは慣れた様子でカーブをこなし、たちまち街中に消えていった。
「全く・・・・・・おい羽澄、あいつに言っといてくれ。お前がもし怪我でもして出られなくなったら困るって」
 言われた翔一郎は進みかけた自転車を長い足で止めて、肩をすくめた。
「でも実際、あいつんち遠いですし。午後から仕事あるらしくて、ソッコー帰らなきゃって言ってましたから。今回は見逃してやってください。一応言っておきますよ」
 最後に出てきた美少年二人組みはそんな翔一郎に軽く手を振る。
「バイバイ、翔」
「また明日。翔一郎、気をつけて」
「おう、じゃあな」
 部長が去るのを見届けてから、木下は軽く吐息した。
「樋口、さっきは厳しいことも言ったけど、初めてレギュラーとしてコートに入った割には結構動けてたな。それだけは確かだ。パスが正確だから、お前はガード向きだと思う。スタメン狙えよ」
 大きな目をぱちくりさせてから、瞬はにこりと笑った。
「翔一郎と嵐は、俺がどんなパス出しても取ってくれるだけですよ。でも、せっかく試合にも出られるようになったから、頑張りますね」
 やや苦笑を交えながら、木下はうなずき、その視線を今度は斗音に向けた。
「椎名、お前は今回不調の中で自分の思うとおりに動けずにいた。ちょっとその痩せ方も気になるし、もう少し健康管理に気をつけろ。そればかりは自分でやるしかない。試合のとき体調が悪かったから動けませんでした、それでチームが負けました、では話にならない。お前のシュート力はいまやうちに欠かせない戦力だ。だからしっかり食べてしっかり休むこと。いいな?」
 斗音は翔一郎に向けていた笑みを、少しつらそうに歪めた。
「・・・・・・はい」
 その覇気のなさに、瞬も木下も困惑したように首をかしげて顔を見合わせる。
「なあ、椎名。何か悩みがあるなら言えよ?お前の健康は管理してやれないけど、悩み相談くらいならしてやれるぞ?」
「・・・・・・はい」
 小さな返事には、やはり悲しげな微笑。ここ最近、こんな表情をしていることが多い。木下は気がかりなのだが、本人がそれについて一切話そうとしない。いつもこんな返事で流してしまって、それっきりだ。以前は喘息が出ようとも、ひたむきで一生懸命で明るくて、チームのムードメーカーの一人だったのに。
「今回お前には特に色々言ったけど、お前にそんな顔して欲しいから言ったんじゃないぞ。お前に元気がないと、うちのチームがパワーダウンするからな。だからお前に元気でいて欲しくて」
「斗音さん」
 一生懸命フォローしようとしている真っ最中に邪魔をされて、木下は驚きと不快を顕わにして、声の主に目をやった。斗音の目が苦しそうに細められた。それを瞬が不安そうに見遣る。
「お待ちしていました。どうぞ、お乗りください」
 木下と斗音の視線の前で、優雅に一礼をした長身の男は、ノーネクタイにスーツの出で立ちで、切れ長の目にすっと笑みを刻む。ネクタイは堅苦しいからしなくていい、と斗音は言ってある。こんなところにネクタイとスーツで出て来られたら、一体何者だろうと思われるからだ。本当なら言葉遣いももっと普通に、と言ってあるのだが、三神は敢えてそれを崩そうとはしない。
「・・・・・・失礼します。じゃあ、また明日。瞬」
 一つ目の挨拶は木下に向けて、二つ目の挨拶は隣の友人に向けて。微かな笑顔は、三神に向けられた瞬間から掻き消えていた。
「・・・・・・樋口、あれは誰だ?」
 やや戸惑いつつ、木下が儚い後ろ姿を見送りながらつぶやいた。それに瞬が首をかしげる。
「・・・・・・たぶん、あの人が・・・・・・九条家から斗音のうちに来た人だ・・・・・・」
 瞬も初めて見たのだ。見た感じルックスは背が高くて、いわゆるイケメンで、物腰も柔らか。悪い印象ではない。斗音は、あまり彼のことについて話したがらないが、時折見せる表情や言葉には、彼に対する棘のようなものが見え、それは斗音にしては比較的珍しいことだったので、瞬は違和感を覚えたのだ。そして、確かにあの青年を見たときの斗音の瞳は、翳っていた。
「九条って、弟が引き取られた家か?」
「そうです。あ、えーと、俺もよくは知らないんですけど、運転手兼使用人みたいな・・・・・・斗音の身の回りのことをしてくれる人みたいですけど」
「・・・・・・ふうん。よく分からんが、なんか不躾な奴だったなあ。人が話をしてるのに」
 腕を組んで溜息をついた木下に、首をひねりながら瞬は真剣な可愛い顔で答えた。
「なんか・・・・・・よく分かんないけど、斗音はあの人のこと、嫌いなのかな・・・・・・。あ、でも、あの人が割って入ってきたのは、先生の話が長かったからじゃないですか?」
「・・・・・・樋口?何か言ったか?」
 じろーっと恨めしそうな視線を受けて、瞬ははっと我に返った。
「あ、あれ?俺なんか言いましたっけ。あ、迎えが来ちゃった。じゃあ先生、さよなら!」
「樋口、お前なあ」
 たたたたっと軽い足取りで、瞬は駐車場に入ってきた乗用車に駆け寄り、礼の一言も言わずに後部座席のドアを開け、中に滑り込んだ。そしてにっこり愛らしい微笑みで木下に手を振って見せた。
「全く・・・・・・どいつもこいつも」

 大きな体躯ががっくりと肩を落とす。しかし、最後に気遣わしげにその視線が向かったのは、斗音を乗せた黒い高級車が走り去った方角だった。

   ***

 羽澄部長率いる新生如月高校男子バスケットボール部の練習試合が終わって一時間も経過した頃、全く別の場所で、田近部長率いる新生如月高校剣道部が初の公式戦で決勝進出を決めていた。主力が引退、または転校したとはいえ、彼らと共に力を高め合ってきていたメンバーは、やはり強かった。
「田近・・・・・・腕上げたな。技が随分鋭くなった」
 自分の尊敬してやまない慈恩にそう評され、新生如月高校剣道部部長は少し照れを含みながらも屈託なく笑った。
「そりゃ、インハイで団体全国ベスト8の剣道部の部長になったんだぜ。手ぇ抜けないっしょ」
 自慢げにそう言ったあと、顔をくしゃっと崩す。
「ていうか、引退したはずの近藤先輩と橋本先輩と楠先輩が、しょっちゅう俺らをいびりに来るんだよ。レベルがちょっとでも落ちたら許さんーみたいな感じでさ」
「若園先輩は?」
「あの人は時々来るだけ。結構難易度高い大学狙うらしくて、塾と家庭教師に追われてんだって」
「あー。あの人、学年で十番に入るような人だからなあ」
 懐かしい仲間と一時の雑談に耽る慈恩を、近衛は遠慮がちに呼んだ。
「そろそろ準備するぞ」
「分かった、すぐ行く」
 明朗な答えを返して立ち上がろうとする慈恩に、田近が誇らしげに笑いかけた。
「桜花もさすがにさっきの試合を見て、おまえを控えにしとくのがもったいないって気づいたのか?」
 そんな彼に苦笑を見せつつ、慈恩は首をかしげた。
「さあ、どうだか。うちの部長が何か画策してたみたいだけど」
「二重人格の近衛くん?」
「そう、二重人格の悠大」
「二重人格ゆーな!」
 鋭くツッコミを入れてきたのは、二重人格にされた本人である。
「全くお前は、人を異常者みたいに」
 桜花高校の生徒の前ではほとんどパーフェクトに隠し切る本性を、近衛は隠すのを諦めたらしい。諦めるとまた見事なまでに竹を割ったような性格になっている。
「田近って言ったっけ。俺、名字で呼ばれんの好きじゃねえんだ。慈恩みたいに、悠大って呼んでくれ。あと、俺は二重人格者じゃなくて、お利口さんを演じてるだけだ。間違えないでくれ」
「あ、そうなんだ?分かった、二重人格者を演じてる悠大、だな」
 田近も順応性の高い人間だ。桜花高校の人間なら、打ち解けるのにかなり時間のかかる・・・・・・いやそれどころか、未だ打ち解けていない人間も多い近衛相手に、あっさり打ち解けている。図々しいほど軽々と自分の本性を知った彼に、近衛は栗色の瞳を不愉快そうに向けた。
「演じてんのはお利口さんだっつってんだろ。二重人格者を演じたら、明らかにおかしな人間だと思われるじゃないか。大体それに何の利益があるんだよ」
「お、いいね、ボケに対するツッコミがなかなか鋭くて」
 パチパチ、と田近が面白そうに拍手する。近衛は思わず目を瞠る。
「わざとボケたのか?」
「ちょっと面白おかしくしようとは思った」
「俺相手に?」
 その質問には、田近がきょとんと笑顔のまま目を瞬かせた。
「そうだけど?何か問題あった?」
「・・・・・・いや、別にない」
 妙にしんみりした近衛の最後の締めに、慈恩はくすくす笑った。
「悠大、お前って、俺といるときと田近相手にしてるときでは、またキャラが違うんだな」
 笑みのままで田近が眉を上げる。
「あれ、そうなんだ?俺的には、面白い奴だなーくらいだったんだけど」
「違うな。俺といるときは、もう少し真面目だ」
「真面目・・・・・・」
 近衛にしてみれば、田近との会話も真面目なものだったのだが、そう聞こえなかったのだろうか。
「さて、鷹羽学園か。悠大、随分リラックスできてよかったな」
 おかしそうな笑みをまだ残しつつ、慈恩が今度こそ立ち上がる。もともと立っていた近衛は賢そうな顔にやや疑わしげな表情を載せたが、とりあえず納得したのだろう。うなずいた。
「田近のせいで、緊張感の欠片も残っちゃいないけどな」
 田近はおどけたように、軽く両肩を上げた。
「そういうのは、俺のおかげって言うんだよ」
 そしてその瞳に真剣な光を宿した。
「決勝で待ってる」
 慈恩は静かにうなずいた。近衛も、ああ、と低く返した。
 田近との会話は楽しかった。慈恩が間に入ったから、ああも簡単に打ち解けられたのだ。田近は無条件に慈恩を慕っている。その慈恩が自分と親しげにしているから、田近は何の躊躇いもなく、自分に親しく話し掛けてくるのだ。そんなに慕われている仲間と、これから慈恩は敵対しようとしている。田近にしても、強い相手に当たらなければいい、という消極的な剣道ではない。成長した自分を見て欲しい、と、剣を合わせてみたい、と、本気で望んでいる二人。そうすることで、語るよりずっと多くのものを、互いに知ることができる。そんな如月の剣道部の絆を見せ付けられた気分だった。
(決勝に、行かせてやりたい)
 不意に胸に、そんな思いが込み上げた。如月の仲間たちと、真剣勝負をさせてやりたい。意に反して別れを余儀なくされた、彼にとってかけがえのない仲間たちと。ただただ慈恩を信頼する、あの田近と。

 試合場に並んだ鷹羽学園、大将は予想通り高天という少年だった。インターハイの地区予選では、個人戦で近藤に負け、惜しくも三位だったが、機敏に動き、技も正確で鋭い選手だった。この代では、間違いなく全国大会に出て行く一人だろう。
 鷹羽学園との対戦は、やはり苦戦を強いられた。先鋒秋月は三分五十二秒まで粘ったけれど、ラスト十秒で一本決められて2-1で惜敗、次鋒の和田はどちらかと言うと攻める機会が多かったものの、なかなか決めさせてもらえず、結局1-1で引き分けた。中堅鳳はあと数秒で四分というところでギリギリ一本決めて、1-0で何とか勝利、全く五分五分の戦いの中、副将戦だけは一方的な試合となった。開始二分二十二秒という偶然のぞろ目タイムで、慈恩は二本決めてきた。もちろん、相手に決めさせることはなかった。そこで掛かった時間も、もし慈恩が本調子なら半分で済んだに違いない。大将戦が引き分け以上で桜花の勝ち、2-0で負けると、また代表戦になってしまう。そうなると、相手に高天がいる以上、慈恩が不調である分、桜花が不利だ。
 近衛は目を閉じて、静かに深く深く、息を吸った。それをゆっくりゆっくり吐く。その中で、自分の目の前の重い扉がふっと開くような感覚で目を開いた。近衛にとって、それが自身の精神統一のイメージだった。
(大丈夫、調子はいい。俺は、俺の手で・・・・・・慈恩を決勝に連れて行く)
 心の奥で静かな闘志が心地よく湧き上がる。気持ちのいい高揚感。最高の状態だ。互いに礼をし、ゆっくり構える。中段の構えの自分に対して、相手は上段に構えた。やや鋭い感のある目が、落ち着き払ってじっと自分を見ている。
(強気だな。振り遅れを恐れてない、自分の技の速さに自信があるってことか)
 足運びもスムーズで、隙がない。近衛も慎重に剣先で相手を牽制する。と、その無限にも思えそうな何瞬かのうちの一瞬に、相手が一気に懐まで飛び込んできた。既に竹刀は面前にあった。
(速い!)
 そう思うより速く、近衛の身体は反応している。左に避けながら、竹刀ごと相手の竹刀が打ち下ろせないくらい間合いを詰める。そして、互いに一歩飛び退ることで自分の間合いを確保した。
(強い・・・・・・油断は、できない。でも)
「やぁああああ!」
 間髪入れずに相手が踏み込んでくる。同時に襲い掛かってくる面。
――――――――――分かる、読める!)
 パシイ、と竹が打ち鳴らされる音が場内に響いた。勢いある面を、近衛は正確に竹刀で受けていた。同時に押し上げるようにして、その力を流す。そのまま踏み込んで、面を狙った。
「めぇええええん!」
 ほぼ同時に相手も再び流された竹刀を戻して面を打ってきていたが、一瞬近衛が速かった。
「面あり!」
 近衛が付けている白のたすきと同じ色の旗が三箇所で揚がる。
(・・・・・・取れた。分かる、慈恩に比べたら、こいつは遅い。技も率直だ。慎重にいけば・・・・・・)
 そう感じたのもつかの間、やはり相手はインターハイ選手だった。一本取られたのをきっかけに、猛攻に出てきた。技術はそのままで勢いを増してきた、といった感じだった。まるで別人だ。
(こいつ・・・・・・こいつの目、普通じゃねえ・・・・・・!)
 面の奥に光る目が、明らかに先ほどまでの落ち着いたものではなくなっていた。ぎらぎらと攻撃的で、勢いはあるのに、動きは驚くほど身軽だ。技を繰り出され、それを防いだと思ったらもうそこには姿がないほどのスピード。
(何だ、これ・・・・・・っ・・・・・・人間の速さなのか・・・・・・?)
 目の前の相手を見失うなど、近衛には初めての経験だった。秋月だってかなり速いと思うが、これは桁違いだ。それに、踏み込みのスピードは目にも留まらないほどなのに、それに見合わない足音の軽さ。踏み込んで打ったその足で、彼は別の方向へ飛び退っているのだ。
「・・・・・・何だ、あの動き・・・・・・。あの防具、チタンとか、滅茶苦茶軽い物でできてんじゃないのか?普通、何も着けてなくても、あんな身軽な動き、人間にはできないだろ・・・・・・」
 一乗寺が呆然とつぶやく。彼にとって、足音を立てない動きは慣れっこだが、それゆえこの激しい動きでそれをやってのける相手が尋常でないことを嫌というほど感じていた。その思いは慈恩も同様だった。
(さっきと全然違う。近藤さんと戦ったときとも全然違う。近藤さんにはパワーで押されて、二本立て続けに取られたけど・・・・・・これはよっぽど先読みしないとやられる!)
 端から見ている慈恩たちとはわけが違う近衛は、見えなくなった相手が次にどこに来るのか、それを予測して敵の攻撃をかわすのが精一杯だった。下手をすると、後方から面が襲ってくるのだ。当然、見えない相手に技の繰り出しようもない。
(くそ・・・・・・慈恩ならともかく、俺の技術では攻撃すらできないっ!)
 必死に防いだものの、三分と数秒経過したところで、信じられないくらいの早業で面を決められてしまった。これで1-1だ。2-0の負けはないので桜花は勝つだろうが、自分が負けるのは悔しかった。しかし、速さでは完全に負けている。どうすることもできない、と思ったのだが。
 審判の声に従って、再び向かい合った相手の目が、初めと同じ落ち着きを取り戻していることに気づいた。獣じみたぎらぎらしたものは薄れている。構えて慎重に踏み出したが、相手も同様に慎重にこちらをうかがい、牽制している。
(・・・・・・何だ・・・・・・?元に戻った・・・・・・?)
 残り一分弱、あくまで慎重に試合を進めた近衛は、結局それ以上一本を取ることはできなかった。しかし相手も、人間離れしたあのスピードを見せることはなかった。
「引き分け・・・・・・か・・・・・・」
 和田がほっとしたようにつぶやいた。これで勝ちは決定である。決勝進出だ。
 小手と面を外し、頭の手拭を取った近衛が息を弾ませながら戻ってきた。
「ほんとは勝って、如月と対戦したかったんだけどな。何か、翻弄されて何もできなかった」
「うん・・・・・・いろんな意味で、驚いた」
 凛々しい瞳が、一点を捉えているのを見て、近衛は慈恩が向けた視線の先を追いかけた。
「え・・・・・・金髪・・・・・・?」
 日本伝統の、礼に始まり礼に終わる剣道に、あまりにも似つかわしくないその姿に、近衛は目を瞠る。手拭を取った相手は、かなり白っぽくなるまで派手に脱色した髪を不ぞろいに伸ばしていた。その後ろ髪は背の中ほどまであって、その耳には、目立ちはしないが小さな白いピアスがついている。
「あれが、高天・・・・・・」
 これまでに、その姿が目に留まらなかったはずはない。でも、特に目立つことはなかったのだから、そんな外見ではなかったか、この会場にはいなかったと考えるのが、妥当だろう。ピアスはともかく、この会場であんな髪形をしていて、目立たないなど有り得ないからだ。
「何か、動きが尋常じゃなかった。よく分からないけど、途中で目つきが変わった。それから異常に身軽になって・・・・・・一本取られてからは、最初の動きに近くなったんだ。目つきのぎらぎらしたのがまた落ち着き始めてさ。ほんと不思議だった」

 何かに化かされでもしたかのような不思議な感覚は、それだけにおさまらなかった。それから、会場内でその金髪の彼を見かけることは、なかったのだ。鷹羽学園は三位になったため、全員残っていたはずだが、それでも最後までその金髪を見ることはなかった。

 無事決勝まで駒を進めた桜花と如月が対戦することになり、コーチを含めて作戦会議が行われた。そこで、まずみんなが望んだのは、慈恩から如月の情報を得ることだった。
「ああ、確かにそれがあれば、よりいい戦いができるんじゃないのか?」
 そう言ったコーチに、近衛は微かに眉を寄せた。
「でも・・・・・・フェアじゃない気がします」
 コーチは腕を組んで軽く首をかしげた。
「しかし、如月は格上だ。九条のアドバイスがあったら、もしかしたら三勝できるかもしれない」
「そうだよ、せっかくだから、いい勝負がしたい。ここまで来たら、優勝してみたいじゃん」
 和田もコーチに合わせる。慈恩も少し不思議そうにしていた。
「確かに、これまでの如月を見てるとちょっと格上かもしれない。もし俺に的確なアドバイスができれば、いい勝負ができると思うよ」
 この鈍感!と言ってやりたいのを、近衛はぐっと抑えた。大事な仲間たちの弱点をばらすような真似をさせたくないのだ。でも慈恩はほのかに笑みすら浮かべている。
「如月の試合も見てたけど、確かに強い。だから、何ていうか・・・・・・小細工なしでやりたいっていうか」
 そうかなあ、と苦笑混じりで首をかしげる慈恩に、秋月も元気な笑みでうなずいた。
「九条はよく知ってるメンバーなんだし、やっぱり精一杯やるためにもどう攻めるべきか、聞いときたいよな」
「・・・・・・」
 思わず詰まった近衛に、一乗寺が笑ってうなずいた。
「九条はもう、桜花の一員だ。如月だって九条のことは知ってるんだし、フェアじゃないこともないだろ」
「いや、知ってるだろうけど、どうしようもないだろう?この場合」
「いや、そんなこともないと思うけど」
 更に苦笑を浮かべた慈恩だが、近衛は思わず小さく溜息をついた。
「どっちにしろ一人分の情報と五人分の情報じゃ、やっぱ公平とは言えないだろ?」
 しぶとく言ってみたのだが、慈恩は微笑するばかりで、チームに賛同者を増やすことは叶わなかった。
「頼むよ九条。あの人は全く役に立たないしさ」
 ちらりと和田が視線をやったのは、ボケッと口を開けて、顧問でありながら作戦会議にすら呼ばれないことにも気づかない間抜けな睦田の顔だった。コーチは思わず苦笑いする。
「まあそれはともかく、みんながそこまで言うのなら、勝ちを狙いにいくつもりで、作戦を立てよう。九条、如月の情報を教えてくれるか?」
 慈恩はうなずいた。確かに、元の仲間の情報を売るようなことはしたくなかったが、今の自分がここで役に立てるのなら、それはそれで嬉しいと思う。それに、今のままでは如月には勝てない。最初の三戦で勝負はついてしまうだろう。先鋒は秋月と斉木。斉木は気性も剣道も近藤に似ている。秋月では圧倒されてしまうに違いない。次鋒は和田と堂本。和田は精神的な強さがあるけれど、堂本はそれに加え、粘り強さも持ち合わせている。その時点で後半は和田が不利だ。中堅の鳳と小林。身長差では鳳が有利だが、小林は自分より大きい相手と戦い慣れている。懐に飛び込まれたら、技術的には小林が上。鳳は自由が利かなくなる。自分が副将で出る以上、田近と対戦することになるが、決着のついてしまった場面での戦いと、ギリギリのものを背負う戦いでは、出せる実力が全く違う。確かに如月にいるとき、田近は慈恩から一本も取ったことがなかったが。
(でも、あの時とは違う。田近には誇りがある。如月の部長という誇りが、田近を成長させた。ギリギリの場面でなら、怪我をした俺と・・・・・・あいつは迷いなく全力で試合をしてくれる。きっといい試合ができる)
 身震いしそうな高揚感が、慈恩の心を強く揺さぶる。そんな試合をしたい。そう、心の底から思った。大将の百瀬も、パワー派で、近衛のような技術派を跳ね飛ばしかねない。しかし、近衛とは実力的にいい勝負だろう。如月の選手はみんな二年生だが、決して地区大会で消えるようなメンバーではない。三年生に一枚上手がいたからこそ、これまで控えに甘んじていた部員ばかりだ。百瀬や田近なら、成長次第で全国を狙えるかもしれない。桜花でも今のところ全国に通用しそうなメンバーは自分と近衛だけだから、前半の三戦で互角の戦いができたら、残り二戦もきっといい勝負ができるだろう。
(あいつらの力を最大限まで引き出して、真っ向勝負がしたい。篠田先生・・・・・・いいでしょう?)
 如月陣で選手たちをうなずかせている懐かしい顧問の、笑みを湛えた横顔を、慈恩は食い入るように見つめた。

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四十.如月V.S.桜花

 シャワーを浴びた主人は、疲労の色を隠せない。まだかなり濡れた髪のままで、それでも着用したのは出掛けるための私服だった。
「・・・・・・お出かけになるんですか?」
 躊躇いがちに声を掛けると、薄茶の視線がちらりとこちらを見た。
「遅くなるかも。夕飯、要らないから沢村さんに伝えて」
 胸に重い鉛のようなものが沈み込んだ。またこの人は逃げようとしている。
「午前中にあれだけ激しく動いているんです。少しお休みになった方が・・・・・・」
「・・・・・・休むよ。心配しなくても」
 止めようとする言葉も、簡単に流されてしまう。それでも必死に追い縋らずにいられなかった。
「昼食は食べて行かれるでしょう?準備してありますよ」
「・・・・・・ごめん、要らない。動きすぎて、逆に食欲がない」
「いけません。そんなときこそしっかりエネルギーを補給しなければ・・・・・・」
「要らないって言ってるだろ」
 説得しようとした言葉は、強めの語調に阻まれた。突き放すような冷たさを含んだ言葉に、確かに傷ついた。思わず言葉を飲み込むと、一瞬疲れを載せていても惹かれずにいられない綺麗な顔が、泣きそうに歪んだ。
「・・・・・・ごめん。本当に・・・・・・食べられないんだ」
 視線を落としてそうつぶやくと、彼は振り切るように踵を返し、居間を出て行った。
「・・・・・・・・・・・・斗音、さん・・・」
 それから五分もしないうちに二階の部屋から階段を駆け下りていく足音がして、そのまま居間をのぞくこともなく、玄関から出て行く姿が窓越しに映った。振り返りもせず、一刻も早く、自分から離れようとするかのように。
(どうして・・・・・・斗音・・・・・・これでは俺は、何もできない・・・・・・!お前のために尽くして・・・・・・尽くすことができさえすればと思ったのに・・・・・・何もさせないつもりか!)
 ドン、と拳を壁にたたきつける。じんとした痛みが染みた。
「くそっ・・・・・・くそ、くそっ!」
 染みてくる痛みが悔しくて、何度も何度も繰り返した。無意識に、ポケットに忍ばせてある煙草に手を伸ばした。指先が震える。揺れる先に、揺れる炎を近づけた。深く吸い込むと、肺に独特の苦い煙が染み渡る気がする。それを溜息と共に吐き出した。落ち着け落ち着け、と自分に言い聞かせる。
(あんな泣きそうな顔をされたら、何も言えない。分かっててやってるのか?)
 最後に主人を見送った窓を開け、風を通す。風は、冷たい。もうすっかり秋も深くなっている。その風で部屋の空気を洗い流す。残してはいけない、痕跡。
(分かってて、じゃない。あの人は自分の魅力にとことん疎いんだ。・・・・・・本当に、泣きたい気分だったんじゃないか。無理に食事を勧めてつらい思いをさせたか?)
 吐き出した白煙が風にさらわれていく。それをぼんやり眺めながら、ふと気づく。
「・・・・・・ごめん・・・・・・と、言ったか・・・・・・」
 申し訳なさそうに、つらそうにうつむいて。誰に対して?
「俺に、か。・・・・・・そうか、俺が傷ついたと気づいたからか」
 思わず唇が吊り上がった。心のおもりがじわりと溶ける。
(俺が傷つくのが、つらかったのか。ふ・・・・・・そうか)
 クックッと、肩を揺らして、込み上げる愛しさと笑いを、喜びと共に噛み締める。
(どこまでも優しい・・・・・・そして、甘い人だ)

 だからこそ、こんなに可愛い。指で軽く煙草を弾くと、先の灰が外の空気に散った。その灰と共に、重苦しい悩みも散って消えていくようだった。

 早足で駅に向かう斗音は、胸の痛みに何度も顔を歪めた。自分に特別な想いを抱く使用人がそんなふうに考えているとは、思ってもいない。ただただ、彼の寄せてくる想いが何か尋常ではないのが分かって、それに伴う行為が怖かった。触れられると、その先更に何かを求めてくるのが感じられて怖かった。だから、近づくのが怖かった。同じ空間にいることが怖かった。彼が嫌いというわけではない。心配してくれているのも、大切にしてくれようとするのも分かるけれど、本能的に恐怖感が先立ってしまう。何だか、それが飾られたもののような気がしてしまう。それで遠ざけようとしてつい言った言葉に、彼がはっきりと傷ついたのが分かった。自分を心配して言ってくれた言葉に対して、酷いことを言ってしまったと悟った。
(人として、最低だ。俺、ほんと最低だ)
 自分で自分を責めて、激しい自己嫌悪に苛まれていた。疲れた身体は重い。それでも何かを振り切りたくて、歩く速度を緩めたくなかった。
 見慣れた駅の入り口の脇に、大きなヘルメットを小脇に抱えて、止めたバイクの隣で自分に視線を向けていた人物が、やや長めの前髪を鬱陶しそうに掻き上げた。斗音は更に小走りで、彼に駆け寄る。
「すみません、お待たせしました」
 軽く息を弾ませる斗音に、相手はわずかに眉根を寄せて見せた。
「何て顔してやがる」
「え?」
「馬鹿が。また何か抱え込んできやがって」
 ぶっきらぼうで愛想の欠片もない声に、乱暴な言葉。でもその優しい言葉に、傷だらけの心を揺さぶられて、斗音は泣きたくなった。投げてよこされたヘルメットを、両手で器用に受け取る。
「行くぞ。乗れ」
「・・・・・・はい」
 言われるままにヘルメットをかぶって、バイクの後ろにまたがる。
「しっかりつかまってろ」

 エンジンを吹かす音が自分の声を掻き消したのが分かったので、ぎゅ、としがみつくことで答える。いつものハードロック系のミュージシャンが好みそうなTシャツに黒の革ジャンを羽織った上からでも、その背が筋肉質なのがよく分かる。
 
逃げ込んでいく自分を、何の見返りも求めず受け入れてくれる瓜生の存在。ありがたく思いながらも、斗音は心苦しかった。彼を利用している自分が許せなくて、それでも彼を頼らなければ自身を保っていられない状態だった。だから、際限なく自分に嫌気がさして、その悪循環が斗音の精神的な部分を侵食していた。木下が感じた斗音の覇気のなさは、様々なところに起因していたが、ここにもその源があった。
 
瓜生は斗音と二人で出歩きたがらなかったし、斗音になるべく負担を掛けないようにという気遣いからなのだろう、こうして迎えに来てくれたりはするが、向かう先はいつも、家族の存在しない瓜生の家だった。何をするというわけでもない。瓜生は斗音がいても自分の生活ペースを変えはしなかったし、斗音は宿題をしたり、家で睡眠を取れない分眠ったりして時間を過ごす。食事は大概瓜生が準備してくれるが、瓜生も斗音の食欲のなさを理解しているので、いつもより少し余分に作る程度のようだ。斗音は世話になりっぱなしなのを気に病んで、一度食事の準備を手伝おうとしたのだが、普通の食事ですらお世辞にも上手に作るとは言えないのに、余分なカロリーを摂取しないようにしている瓜生のためにできることは、はっきり言って皆無だった。ぶっきらぼうながらも斗音が傷つかないように、瓜生は(瓜生にしては)丁重に断ったものだった。
「俺は俺が食いたいものを、俺がそのとき一番食いたい味で作れる自信がある。でも、それを上手くお前に伝える自信はない」
 そう言われた斗音は、思わず苦笑してしまったが、それが瓜生の優しさなのだと分かっていたので素直にうなずくしかなかった。
「練習試合だったんだろ。昼は?」
 いつものように瓜生の家の居間でソファに腰掛けると、瓜生からそう問われた。食欲のなさを理解している上で、それなりに食事のことは気にしてくれているらしく、いつも必ず食事をしたかどうかを聞かれた。小さく首を横に振ると、そうか、とだけ言って、明太子の和風スパゲティを作ってくれた。オイルを控え目にする代わりに大根おろしを和えてパスタがぱさつくのを防ぐという、技ありものだった。
「丁度俺も食ってない。食えそうなら少しでも食え」
「ありがとうございます」
 そう言われれば、一口でも食べないわけにはいかないので、斗音はそれを口にする。おいしい、と思う。慈恩ほど洗練されてはいないが、瓜生の作る料理は男らしく大雑把でありながら、絶対はずれはない。それでもフォークに絡めたそれを数回口に運ぶのが限界だった。
「水分補給だけはしとけよ」
 無理に食べさせようとはしない。その代わりに冷えたスポーツドリンクのペットボトルをゴン、と机の上に置いた。練習試合があると知って、買っておいてくれたのだろう。ここで斗音がその金額を返そうとすると睨まれるのを知っているので、礼を言って受け取る。そんなところは、嵐の知り合いの青年に似ている気がする。彼の場合は瓜生とは対照的に饒舌だから、睨まれた上皮肉たっぷりにたしなめられるのだろうが。
「疲れてんだろ。今日はそこでゆっくり休んでろ」
 それだけ言うと、食事を終えた瓜生は食器を持って居間を出て行った。うなずいて見せる間もなかった。いつもこんな調子だが、それこそ斗音が何をしていようと、大して気に留めることもないので、斗音としては非常に気楽だ。ありがたく水分補給をしてから、ソファに横になる。たちまち重い身体から意識が遠のいていく。酷く疲れが溜まっていたのだと、消える意識の片隅で思った。

 食器を片付け終えて戻ってきた瓜生は、既に深い眠りに落ちた斗音を、片目を眇めるようにしてじっと見つめてから、薄い毛布でその華奢な身体をそっと覆った。

   ***

 先鋒から大将までが並んで坐礼をする。近衛は大将の位置で非の打ち所のない礼をほどこしつつ、内心まだ複雑さを抑え切れずにいた。対戦相手は如月高校。彼らの特徴と、それに対してどう対応すべきかを丁寧に語った慈恩が、いかに如月高校の部長にふさわしかったのか、その一人一人の資質を見抜いていたことで容易に分かった。そして、彼を失った如月高校が、どれだけの痛手をこうむったのかも。
 先鋒として出場した秋月は、アドバイスを無駄にしてはならないという気負いがあったのだろうか、いつもの元気さに欠け、最初ひどく動きが硬かった。対する斉木という少年は、強引なまでに攻める強気な剣道だった。
「斉木には退いちゃいけない。どっちかっていうとあいつの場合必ず勝ちを取るための先鋒だ。かなり攻撃的だから、退いた瞬間打たれる」
 慈恩からのアドバイスだった。それもかなり的確だったが、そのアドバイスをもらいながら防戦一方の秋月にやや苛立ちを覚える。
(退くなって言われただろうが!何やってんだ!一息で三本くらい打ち込みやがれ!)
 さすがに決勝、会場中が注目している。声を上げるのは試合をしている本人たちだけで、観客すら息を飲んで見守っている。そんな中でチームの一人である自分がそんな言葉を口に載せることは許されるはずもないので、理性で腹の内に収めている。
(せっかく慈恩が教えてくれたことなんだぞ!分かってんのか!)
 苛つく近衛の隣で、副将の慈恩は静かな空気をその身にまとっていた。漆黒の瞳には、かつての仲間と現在の仲間の真剣勝負が真摯に映し出されている。そのあまりに静かな、オーラに似たものを感じて、近衛はそっと隣を見遣った。ほとんどその表情は読めない。でも、その膝の上で握り締められた拳には、はっきりと力が込められているのが分かった。
 どんな思いで見ているのだろう。どちらを、心の中で応援しているのだろう。そう思うと何か胸が塞がれるような気がした。
「らあああああっ!」
 「やあ!」というのが一般的な掛け声だと思うが、斉木の場合は「うらぁ!」と聞こえる。いや、間違いなくそう言っているだろう。性格も攻撃的に違いない。その掛け声と共に、竹刀の打ち合わされる激しい音が会場内に響き渡る。一息で、一度踏み込んだら必ずと言っていいほど二段以上の攻撃を仕掛けてくる相手だ。体力はかなりあるらしい。秋月も速さではひけをとっていない。ただ、それを生かし切れていないのがもったいない。

 そんな近衛の焦れる思いをよそに、防戦一方だった秋月は、しかしながら一本も取られなかった。残念ながら、自分も一本も取れなかったのだが、絶対に消極的に退いたりはしなかったからだ。0-0の先鋒戦に、会場中の張り詰めていた空気が溜息のようなもので緩む。
 
秋月の退場に従って、和田が前に出る。その視線が自分に降りかかる。
「信じてるからな」
 明らかに自分と慈恩に向けられた声だった。和田には自分の不利が嫌というほど分かっているのだろう。和田にない粘り強さを持つ堂本。それでも、あっさり負けるわけにはいかない。仲間を信じることで精一杯やるしかない。それが和田の覚悟だった。近衛は無言でうなずく。慈恩が和田を見て、小さく首を縦に振ったのが分かった。
(桜花剣道部の一員として、慈恩は頑張ろうとしている。どっちの応援をしていようと・・・・・・慈恩自身はここの剣道部員として精一杯やってくれる)
 近衛の心の中に、何かわだかまっていたものがふっと軽くなった。和田にできていたことが、自分にできていなかったのだと理解し、自分を恥じた。
(慈恩に仲間の情報を売らせたくない、だなんて・・・・・・。そうじゃない。このチームの一員として、仲間を信じて、自分の精一杯を尽くす。それがこのチームの一員としてすべきことだ。慈恩の気持ちを考えた気になって、如月を応援したいんじゃないかなんて疑って。俺のすべきことは、チームの一員として慈恩を、仲間を信じること。それだけだ!)
「堂本は粘り強いよ。スタミナもある。技の鋭さはそれほどでもないけど、四分間ずっと足を動かし続けて相手の技を封じたり自分の技を打ち込む機会を作ることができる。大振りは禁物」
 冷静に分析していた慈恩だが、果たして和田がそのアドバイスをどれだけ生かせるか。確かに相手の選手は技術も速さもそれほど抜きん出てはいない。しかし、開始の合図から小刻みな脚の動きは、四分間動き続けられるその持久力に対する自信をうかがわせた。和田に気負いはなかったが、明らかに動きに差があった。動けるということは、技を出せる機会も増える。和田が堂本に詰め寄ろうとすると、すっとかわし、逆に一気に間合いを詰めてくる。慈恩の助言を受けているおかげで、和田は大振りをせず、懸命に相手を牽制し続けた。しかし、それを実行するのが限界だった。それをかわされて、すかさず仕掛け技を二段三段で打たれて、攻めの種類も豊富な堂本には対応できなかった。三分十三秒の時点で見事な小手面の二段技を決められ、小手は防いだもののまともに左面を喰らってしまった。それでももう一本取られずにいたのは、和田の精神力が最後まで途切れることがなかったためだろう。一切油断せず、諦めもせず、守りにも徹することなく、堂々と相手校の次鋒と渡り合った。
「・・・・・・悪い。負けちまった」
 低い声でそれだけ言った和田の肩を、近衛はそっとたたいた。中堅の鳳が試合場に入る。
「いい試合だった。おかげで気合が入った」
 そう静かに告げて、試合場の向こうに同じように控える相手を見つめる。言葉に嘘はなかった。和田のおかげで、色々と吹っ切れた。今は目の前の試合に集中する。ただそれだけだ。
 鳳は182cmの長身の持ち主だ。現桜花剣道部一の身長は、小柄な小林に対しては大きな武器になるに違いない。リーチが全く違うのだから。

「小林は小柄だけど、その分動きが速い。さっきの高天ほどではないけど、本当に身軽だから、いつどこから攻めてくるか常に予測しておいた方がいい。引き技が得意だから、踏み込んできたと思ったら慌ててそれに応じないこと。それを狙ってる可能性が高い」
 というのが慈恩からの助言だった。鳳はいい状態で中堅戦を迎えていた。鳳は近衛に近いくらい慈恩を信頼している。慈恩が後に控えていることが、彼の精神状態を安定させているのだろう。パワーが持ち味の鳳だったが、それに任せた大振りや返しを控え、相手が引くときには踏み込んで技を出せない距離まで詰めるなど、積極的に慈恩の助言を生かそうとしていた。だから、近衛も比較的平静でいられた。が。
(強い・・・・・・技が全てかわされる。ずっと小刻みにすり足ができているから、鳳が大振りしなくてもその技に応じられる体制ができるんだ。引き技を封じてなければ、完全に鳳が負けている)
 鳳は慎重に試合を運んだ。小林があまり自分から仕掛けてくるタイプではないので、鳳が仕掛け技を繰り出すのだが、確実に応じ、引き技を出そうとしてくるので、更にそれを潰す形になる。鳳の技もそれほど鋭いわけではないので、どちらも技を繰り出しながら、それを受け、ぶつかり、返し、応じ、見応えのある試合であるにも関わらず、無情にも四分間はたちまち過ぎていった。
「やめ!」
 審判の両手の旗が上がり、その旗が交差した。
「引き分け!」
 どよっと会場がどよめく。中堅戦も0-0。近衛は自分の胸に鋭く緊張が走るのを感じた。ここまで一敗ニ引き分け。慈恩は勝つだろう。となれば大将戦で、勝負がつく。自分に全てが、掛かってくる。
 衣擦れの音以外は立てずに、す、と慈恩が試合場へ進む。既に面の奥の表情に笑みはない。見据えるのは、相手の副将。全国大会で慈恩を副将にしたように、副将で確実に一勝を取るという、篠田の策は健在だった。
「田近はオールマイティーな選手だ。力は百瀬ほどじゃないけど、近藤さんに鍛えられてかなりパワーアップしてる。技術、スピードはかなりレベルが高い。応じ技も仕掛け技も、相手によって使い分けができる。何より精神面の強さが、今の田近にはある。間違いなく、今の如月ナンバーワンだ」
 怪我をしている身体で、歩き方もまだややぎこちない。でも慈恩には、恐ろしいほどの精神統一が可能だ。事実、先の試合でも、睦田に見せたぎこちない様子は嘘ではない。試合場の中で、恐らく彼は試合に不必要な全ての感情を捨て去ることができるのだ。だから試合ではその影響を微塵も感じさせない。もちろん、痛みはあるだろう。でもそれ以上の精神的な強さで、自分の身体に躊躇いを許さない。痛みを通り越して、いつもに近い動きを自分にさせるのだ。
 もちろん、痛みは人間の防衛本能であり、それを通り越した動きなんて身体にはいいはずがない。きっと傷には障っている。それを通り越せるその精神力に、近衛は恐れを感じながらも、同じ剣道をたしなむ者として惹かれずにはいられない。
 開始線につき、互いに礼。蹲踞から、田近は中段の構え。慈恩は下段の構え。どちらも粛々とした空気をまとっている。
 比較的静かな始まりだった。田近は慈恩の戦い方を熟知している。憧れて、見続けてきた相手だ。出された技に応じてくるのが慈恩の定石。となれば、簡単には技を出してこない。中段のままで牽制している。慈恩は冷静に下段のまま、中段の牽制に対応している。牽制の中のどれかひとつがいきなり打ちに来ても、応じられる対応だ。どちらも細かく常に足が動いている。全く踵は床に着かない。
「やぁっ!」
 短い掛け声で、田近が軽く踏み込んだ。打つと見せかけて間合いを詰め、それに丁寧に応じる動きを見せた慈恩の竹刀を打突部で押さえつける。
(なるほど、あれでは自分の技も出しにくいけど、下段の構えはもっとそれに応じにくくなる)
 つかず離れず、田近は慎重だ。慈恩は竹刀をやや封じられた形だが、全く動揺してはいない。会場中に、これでもかという緊迫感が張り詰めた。すい、と慈恩が動いた。まるで流れる水のように自然な動き。
(なっ・・・)
 押さえつけられていたはずの竹刀が、一瞬のうちに自由になっていた。牽制し、押さえつけていたはずの田近の竹刀は、慈恩が右足から踏み込んだ時点で何の抵抗もなく払い上げられていた。その間に慈恩の竹刀が見事に無駄のない動きで田近の面に迫っていた。
(速い・・・・・・!)
「やあぁあっ!」
 払い上げられた竹刀を、その位置から田近が素早く手首を翻して、面前に一直線に持ち上げた。ぱしいっ、と竹の打ち合わされる厳しい音。
(ふ、防いだだとっ?)
 慈恩の面を受け、そのまま強引に相手の竹刀を弾き返す。そして田近が踏み込んだ。右面狙いだ。すっと右足を引いてそれを難なくかわし、慈恩が勢いよく打って出た。大きく振りかぶって力強い踏み込みと共に正面を打ち込む。素早い反応で、田近はそれをかわした。続いて左面が、左小手が、更に右小手が、田近を襲う。だが、根気強く田近は受け、流し、かろうじて一本を防いだ。更に右面、翻した竹刀で左胴。打つと見せかけながら、右や左を集中攻撃しておいて、逆の部位を狙う。防戦一方の田近だ。それでも、その六段攻撃を全てしのぎ切った。と、思ったとき。
「とぉっ!」
 一瞬攻撃を終えたかと思った慈恩の竹刀が、一拍リズムを崩して田近の咽頭部を襲った。一斉に上がる赤旗が三本。
「突あり!」
 会場からおおおおっとどよめきが沸き起こった。近衛は胸に熱いものが込み上げるのを、必死で飲み込んだ。
(一息で・・・・・・七段・・・・・・!)
 六段までを防ぎきった田近にも感動すら覚える。あの左右の集中攻撃を読むのは至難の業だ。しかし、それすら越えて、わざと攻撃がひと段落したと思わせる一瞬を置いての突き。
(何て奴・・・・・・!)
「二本目!」
 再び静寂が訪れるが、その空気には会場内の興奮が熱となって漂っていた。
(あんな連続技見せられたら、応じでは間に合わない。かといって、慈恩は応じ技が得手。田近は迂闊に手が出せない。・・・・・・さあ、どうする?)
 それでも田近は冷静に構えていた。焦って攻めるでもなく、どうすることもできず慈恩が動くのを待つでもなく、自分の間合いを計りながら丁寧に牽制している。いつでも自分が打って出られるように、あらゆる角度から、あらゆる隙をうかがっている。
(・・・・・・オールマイティーか。なるほどな)
 その何瞬かのうちの一瞬を選んで、田近は下段で構えている慈恩に打ちかかり、それに応じようとした慈恩の竹刀を、右足から踏み込みながら斜め左に払い落とし、その次の瞬間でダン、と身体全体で踏み込んだ。払い面打ちは、流れるような動作でかわした慈恩のために、空を打つ。しかし空を打たされたその竹刀で、一度軽く踏み込むと見せかけてから再び力強く踏み込んで左面を狙う。その打ち終わる瞬間、慈恩は右後ろに退き、更に田近の竹刀に空を打たせ、その肘が伸びたところに右足から踏み込み、面を狙う。目にも留まらない鋭い面だったが、空を打たされた瞬間そう来ると悟ったのだろう、田近は低く踏み込んで左胴を狙ってきた。
「やぁああっ!」
 その面をかわすための低い姿勢のため、慈恩の竹刀は空を打たされた。しかし、打ち込んでも慈恩の踵は床に着かない。打ち込んだその足で機敏に右に身体をかわし、空を打った次の瞬間には田近の竹刀を自分の左斜め前下に打ち落とし、その勢いのまま踏み込んで正面を狙った。田近は体当たりに近い格好で自分の面を慈恩の腕の下までもぐりこませ、掲げた竹刀で面を止める。そのまま慈恩の後ろへ回りこむ田近に、回りこまれた慈恩も素早く体勢を整え、正面で対峙する。
 静と動のメリハリが大きな試合に、観客も息を飲んでいる。一通り動が終わって静が訪れると、会場そのものがほっと息を吐き出したようになる。
(ハイレベルな攻防だ。端から見るよりずっと体力は消耗してるに違いない。精神的なところで、どれだけ違うか・・・・・・)
 三分が経過する。残り一分。慈恩にこれだけ長い間試合をさせるというのは、大したものだ。当たったのが自分だったら負けていたかもしれない、と近衛は背中に冷たい汗を感じた。

「やああああ!」
 ひと際気合の入った声が、田近から迸る。そこから田近の猛攻が始まった。素早く慈恩が応じの形を取る。
(左小手、正面、右面、左面、左小手!こいつもこの場面で五段・・・!)
 連続技は息を止めての攻撃だ。体力、持久力、肺活量、筋力、そして何より苦しい中で自分とも戦う精神力が要る。如月の選手は鍛え方が違う。己に甘さを許していれば、この局面でこの苦しい攻撃を仕掛けることは不可能だ。しかも、その攻撃のどれをとっても一級品なのである。それを軽々とかわす慈恩の方が普通ではない。
 最後の左小手を受け流された田近と、受け流した慈恩の竹刀が、ここで初めて接近した二人の間でつばぜり合いとなる。互いに力で押すタイプではない。そのつばぜり合いも一瞬だった。半歩前に出て押すと見せかけたその足で、慈恩は斜め後方に退きながら、面を繰り出す。最初のフェイントで田近はやや遅れたが、かろうじて振りかぶった竹刀を、手首を上げて面の前に一文字に構え、受け止めた。慈恩はその瞬間、強く踏み込んでその竹刀を敢えて強打する。無理な体勢の田近の手首には、相当の負担が掛かったに違いない。その上で、慈恩は再び開き足で後方に引くと同時に、がら空きの左胴を打ち抜いた。
「胴っ!」
 試合終了九秒前、試合場の三箇所で再び赤い旗が上がった。
「胴あり!勝負あり!」
 大きなどよめきが会場から湧きあがった。レベルの高い試合を褒め称える拍手もあちこちから飛ぶ。
「お疲れ。やっぱりお前は、すごい」
 礼をして試合場をあとにしてきた慈恩に、すれ違いざま声を掛ける。慈恩は面の奥で静かに微笑んだ。
「あとは任せた、大将」
「・・・・・・おう」
 思わず笑みを返す。無駄な力が、肩から抜けた。和田が教えてくれたこと、慈恩に任されたこと。全て、今の自分が全力を出して初めて、まっとうできる。だったら、やるだけだ。今の自分の、精一杯で。
「百瀬にはパワーがある。上手さもある。如月の近藤さんを知ってるか?あの人をひとまわり小柄にした感じ。体格の面で、あの人には多少力の面で劣るかもしれないけど、技術的には近いと思うよ。成長次第で全国を狙える素質がある。強引にいっても、力では負かされるかもしれない」
 慈恩の言を信じるなら、応じ技の方がいいだろう。しかし近衛は応じるより仕掛けるほうが得意だ。本来の実力で言えば、ナンバー2同士、対等と思っていいだろう。だったら、仕掛けておいて応じ技を予測して二段三段で更に仕掛ける。隙を作らないように積極的に攻めよう、と作戦を立てる。
 開始線につくと、身長ではやや自分より下だが、体格的には自分を上回る相手も同じように開始線につく。互いに礼をして顔を上げると、相手の表情が面越しに見えた。
(・・・・・・え?)
 微かに微笑みかけられた。田近に自分のことを聞いたのだろうか。その友好的な雰囲気に、如月の一面を見た気がした。いい試合をしよう。そう言われているのが分かった。緊張感はなくならなかったが、自然と再び笑みがこぼれた。
「始め!」
(慈恩と共に一年半高め合ってきた相手だ。その腕、見せてもらおう。俺は俺の精一杯で必ず優勝をつかむ!)
 互いに蹲踞からの構えが終わる。ふっと空気が張り詰める。緊張感が心地いい。
 百瀬の竹刀が上がった。
(いきなりか!)
 中段の構えから、あらゆる可能性を模索する。その竹刀を、いきなり右足の踏み込みと同時に右上に払い上げられる。
(まずい、受身になっちまう!)
 積極的に攻めようというのは互いの作戦のようだ。払い上げられると同時に身体ごと突っ込んでくる。
(右小手!)
 身体に叩き込まれた反射的な反応だった。開き足の左足から斜め左後方に瞬間的に退き、右拳を外側にひねるようにして竹刀の先で応じる。素早く返せば踏み込んで正面を叩き込めるはずだった。しかし、相手の打ってくる力が強い。返すのに一瞬遅れる。踏み込むことができない。
(強い・・・力だけなら慈恩と互角!)
 返された百瀬は、更に退かずに至近距離で面を打ち込んでくる。退く瞬間を作らないつもりだ。
(近藤・・・だったか、如月の元大将。強かった。こんな感じで滅茶苦茶強気で攻めてくる。受け継いでるのか!だったら俺も退かない!)
 真正面で竹刀が大きな音を立てる。激しいつばぜり合い。しかし力は相手が上だ。押される。隙が生じる。
(だったらこれでどうだ!)
 踏みとどまって、力一杯体当たりする。それでようやく押し返した。互いにバランスが崩れる。
「やあぁっ!」
「ああぁあっ!」
 一瞬にして互いに押し合いの反動から出したひき面。激しい衝撃が頭部を襲う。同時に自分の竹刀にもはっきりと手ごたえを感じた。ばっと主審の旗が上がる。上がったのは、白。百瀬のつけているたすきの色。さすがにひやりとする。同時にざわっと会場がどよめく。不審に思って自分の脇に視線を遣ると、赤の旗が上がっていた。
(あと、ひとつは?)
 主審の反対側の審判は、旗が上がっていなかった。代わりに下で素早く打ち消しの合図。

(・・・・・・棄権?無判定!)
 
本当に同時だったのだ。自分でも分からなかった。互いに素早く構えを取る。宣告はない。続行だ。

(強い、強いぞ。確かに強引にいくばかりじゃ駄目だ。応じて力を殺さないと!)
 ある程度自分の力には自信があった。だから相手がどの程度のものかを測るため強引にいってみたのだが、やはりパワーは相手が上。ここから慈恩のアドバイスが、どれだけ生かせるか。
 互いに間合いを取って、今度は慎重に構える。百瀬は上段構えだ。あくまで攻撃主体で来る。近衛は中段で構え、その切っ先で相手を牽制しながら常に足を動かし続ける。上段に対しては退けない。退いた瞬間に攻められる。
(上等だ。まずは攻めさせる!)
「やぁああっ!」
 相手の咽頭部めがけて突を繰り出しながら踏み込む。瞬時に間合いが詰まる。竹刀を跳ね上げ、右小手を狙う。それをかわして百瀬が同時に右小手を狙って打ち込んでくる。
(来た!)
 左足を斜め後ろに退くと同時に身体をかわし、相手の竹刀の正中線を竹刀で受ける。その力を流すように右上に百瀬の竹刀をすり上げ、ダン、と踏み込んだ。相手の正面を強襲する。
「めぇん!」
 今度は同時に三つの旗が上がる。全て、赤。
「面あり!」
 慈恩の言ったとおりだ。力でいかないほうがいいらしい。開始線に戻り、「二本目!」の合図で再び中段に構え、相手を牽制する。百瀬はそれでも上段だ。
「あああぁっ!」
 構えざま踏み込んでくる。
(くっ)
 重い打突。眼前で受け止めたのもつかの間、次の瞬間には竹刀が翻って右小手を狙われる。先ほどと同様にやや退きながら応じる。が、応じ技を出すより速く、三段目の面が襲ってくる。応じようとした竹刀を無理やり斜めに押し出すようにして受け止めた。どれも手首に響く力強い技だ。
(くそ、もう少し俺が鋭く技を出せたら!)
 つばぜり合いから引き胴を打とうとしたが、素早い足の動きで身体ごと避けられ、空を打たされた竹刀を打ち落とされた。そのまま威勢のいい掛け声と共に踏み込んでくる。

(させるか!)
 近衛も踏み込む。間合いが詰まりすぎて、百瀬は面を打てなかった。強引に互いの間に竹刀を割り込ませ、何度目かのつばぜり合い。
「あああああっ!」
 ぐん、と踏み込まれた。強い。足が間に合わない。バランスが崩れる。竹刀を力ずくで跳ね返され、よろめいたところを胴が襲ってくる。必死で腕を上げ、手首をひねり、宙に上がってしまった竹刀の先を相手の竹刀と胴の間に滑り込ませる。バシイっと激しい竹の音が響く。手首の腱が悲鳴を上げたくなるほどの打突だったが、かろうじて止める。更に百瀬が踏み込む。腕を折りたたむようにして眼前に竹刀を構えた。激しい衝撃に手首が痺れる。更にその勢いのいい、体当たりに近い打ち込みに、よろめいた足は耐えられなかった。全身が床にたたきつけられる。
 主審の旗が二本とも突き上げられ、試合が中断する。一本の宣告はない。
(何てパワーだ・・・・・・!)
 どっと汗が流れ落ちる。立ち上がると、百瀬が軽く頭を下げ、手を差し伸べる。礼儀正しい。やはり全国レベルの学校は、マナーも一流だ。
 残り時間は既に数十秒だろう。主審が勢いよく旗を下ろす。
「あああああーっ!」
「やぁああああっ!」
 同時に踏み込む。狙ったのは互いに面。それと分かって互いに竹刀をやや斜めにして受ける。百瀬がそれを強引にすり上げてきた。させてたまるかと押し止める。互いに踏み込み、ギリギリと竹刀が音を立てる。
(押し合いは不利だ)
 押すと見せかけて素早く退いた近衛だったが、読まれていた。百瀬が踏み込んでくる。退いた分、受けるしかない。右面、右小手、左小手と三段で技が繰り出される。全てにかろうじて応じる。更にもう一本面が襲ってくる。
(この局面に来て、何て体力だよ!)
 防戦一方だ。でも意地がある。絶対に一本取らせたくない。防御ばかりでは隙が生じる。最後に打ち込まれた左胴を、素早く引いた足で身体をひねってかわし、手首を上げて竹刀の先で受け流す。そのまま竹刀を振りかぶって踏み込んだ。百瀬が真正面で面を受け止める。更に踏み込んで小手を狙うが、かわされる。それでも諦めず、決死の思いで面を打ち込んだ。しかしそれも百瀬の竹刀に阻まれた。それ以上は息が続かなかった。三段が限界だ。百瀬は五段を打ち込んできたというのに。その瞬間を、今度は百瀬が狙ってくる。腕が重い。それでも諦めるつもりは全くなかった。慈恩との係り稽古なら、これくらいの腕の重さは経験がある。耐えられないはずがない。百瀬は強く踏み込んで、面を打ち下ろしてくる。とっさに頭を避けるが、その竹刀がまだ宙にあるのを見てひやりとする。
(フェイント!)
 その位置から再び面が打ち下ろされた。これは本物だ。避けた頭上から襲ってくる。避けられない。
「やああああああ!」
 近衛は構えた竹刀ごと強引に踏み込んだ。間合いが詰まりすぎて百瀬の面は空を打った。面には柄と百瀬の小手が当たる。ぎりぎりだ。もう一瞬でも遅かったら、面に当たっていたのは間違いなく竹刀の打突部だった。
「やめ!」
 突如、主審の旗が上がった。はっと顔を上げると、百瀬が悔しそうに歯を食いしばっていた。計時係の旗が上がり、四分が経過していた。会場に溜息とも吐息ともつかないものが満ちる。
「勝負あり!」
(・・・・・・勝っ・・・・・・た・・・・・・・・・・・・?)
 再びどっと汗が噴き出す。主審の指示で蹲踞から竹刀を納め、互いに礼をする。膝が急にがくがくと小刻みに震えだす。それを心の中で叱咤しながら、仲間の元へ戻る。みんなが力強くうなずいた。そこで初めて、自分が勝ったのだと実感した。
「・・・・・・慈恩」
 そっと呼んだ相手は、静かに微笑した。わずかにうなずいてくれた。
 拍手とともにわああああっと会場が沸く。桜花高校の初優勝が決定した瞬間だった。
 最後の挨拶まで礼儀正しく振舞った田近だったが、それが終わった瞬間、試合場の外に飛び出して小手を外し、その上に焦れながら外した面を置いて、慈恩に駆け寄ってきた。同様に面まで外した慈恩に、飛びつかんばかりの勢いで握手を求める。
「慈恩と残り十秒を切るまで戦えた!滅茶苦茶楽しかった!」
 本当はつかんだ手をぶんぶん振りたい気分だろうが、田近は涙を浮かべながらも抑えてそれをせず、ぎゅっとつかんだ手に力を込める。
「ありがとう・・・・・・チームは負けたけど・・・・・・お前とこんなふうに真剣勝負ができて、俺っ・・・・・・今滅茶苦茶悔しいけど、滅茶苦茶幸せだ・・・・・・っ」
 込み上げる思いに言葉をつかえさせながら吐き出すように言うと、どちらかというとあどけなく見えるその表情をくしゃっと歪めた。その瞳からは次々と涙が溢れ出す。
「お前、強いな。やられた。さすが、慈恩に鍛えられてるだけあるな」
 田近に目を奪われていた近衛の前に、にゅっと手が突き出される。がっしりとした体格の百瀬が、にこやかに握手を求めていた。外したばかりの面を小手の上に置き、近衛は握手に応える。
「あんたこそ・・・・・・。俺は押されっぱなしだった」
「何言ってんだよ。押し切らせてくれなかったくせに」
 肩をすくめた百瀬だったが、握手した右手を力強く握り返してきた。
「いい試合だった。ありがとう」
 ジン、と心に何かが染みて、広がるような気がした。試合をしてこんな気持ちになったのは、初めてだった。小さくうなずいて、その手を握り返す。
「ああ・・・・・・ありがとう」
 近衛の隣で、涙の止まらない、自分より少し背の低い田近を、慈恩は漆黒の瞳をわずかに細めて見つめていた。
「俺・・・・・・っ、お前の怪我のこととか、分かってたけどっ・・・・・・でも全力でやりたかったから・・・・・・っ」
 
気遣えなくてごめん、とうつむくその肩を優しく抱いて、ううん、と首を振る。
「・・・・・・嬉しかった、全力で戦ってくれて。お前との試合・・・・・・楽しかった」
 漆黒の瞳が潤む。肩に額を押し付けるようにして泣く田近の背を、ぎこちない動きでそっとあやすようにたたいて、慈恩は微笑んだ。
「・・・・・・本当に、強くなった」
 その言葉を皮切りに、人目もはばからず田近が号泣するのを、近衛は胸の詰まる思いで見つめていた。会場からいつしか起こった拍手は、しばらく止むことはなかった。

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