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三十四.煙草

 懐かしかった。何もかもが。そして、苦しかった。斗音の話を聞くうちに、中途半端にしてきたことを、次々に思い出した。あの仲間たちと、いろんなメニューを考えて、嵐の素晴らしい演技を目の前で見て笑わされて、ウエイターの衣装合わせをして。そんな時間が、待っているはずだった。当たり前に訪れるはずの時間だった。沢山のステージを見て、その素晴らしさに感動し、仲間たちと笑い合って。
 どうして自分に、その時間は訪れなかったのだろう。どうして斗音を泣かせてしまうのだろう。一緒に如月祭を支え、創り上げていくはずだった。盛大な応援合戦で、声を張り上げ、割れんばかりの歓声の中、力の限り走ったり跳んだりして、共に競い合う楽しさを、自分は知っている。その結果に一喜一憂して、斗音の表情はきらきら輝く。それをすぐ隣で見ているはずの自分が、なぜ電話越しに結果を聞いているのだろう。斗音の声を震わせているのは自分だ。こんなところにいては、いけなかったのに。
 
斗音のことを、近衛に兄だと告げるのは、心が痛かった。その痛みを堪えながら話す一つ一つは、自分が経験するはずだったことばかりで、頭の中には昨年度の如月祭の様子が繰り広げられていった。その頃からすでに仲のよかった出来過ぎ集団のメンバーと、スケジュールを見ながらあれこれ計画を立てて、できる限りのものを見て回った。元気な斗音を見るのが嬉しかった。病室で、青白い顔で呼吸器をつけられ、力なく微笑む斗音を知っているから。とても楽しかった。何もかもが目新しくて、素晴らしく映って、時間がたちまち過ぎていったあの三日間。それが自分のいないところで始まり、自分に関係なく繰り広げられ、そして、自分は何をしているわけでもないのに、その間に終わってしまったのだ。心が虚無感に襲われた。
 
そんなときに口にしたジンジャーエールが妙に優しい味で、美味しい、と、ふと思った。自分に作れたら、喉を痛めている斗音に飲ませてやれるのに。頭の片隅でそう考えた。気の利く近衛が、レシピを準備してくれると言った。嬉しく思った。でも、心が悲鳴を上げている。そんなの知ったとしても、いつ作ってやるんだ。今喉が痛いと言っている斗音に飲ませてやることなんて、叶いはしない。自分が滑稽に思えて、情けなくて。
 
ふと、近衛が口にした、明日、という言葉だけが、引っ掛かった。そうだ、明日は執行部のメンバーで、如月祭の打ち上げをすると言っていた。彼らの打ち上げが少しでも楽しくなればいいと思い、ふと天気が気になった。何気なくそのことを口に出したら、近衛はテレビをつけて、天気予報の番組を見せてくれた。
 
今井から、如月祭の一日目が終わった夜に、連絡があった。途中までは関わっていたのだから、一緒に打ち上げをしたい、と。しかし、途中で自分が抜けたことで、どれだけみんなに迷惑を掛けただろう。そう思うと、おめおめと顔なんて出せるわけがなかった。そう言って丁寧に断ったら、今井は心外だと言わんばかりに自分を諭そうとした。
『馬鹿。お前は好きで抜けたわけじゃないだろう。そんなことみんな知ってる。むしろ、斗音の具合が悪かったときなんか、お前が色々フォローしてたじゃないか。お前が頑張って仕事してなかったら、如月祭だってもっと大変だったんだぞ。慈恩が執行部にいたことを忘れてる奴なんて、俺らの中には一人だっていやしない』
 そう言われて泣きたい気分になった。自分のいた証が、如月にはまだあるのだろうか。それでも、色々複雑な思いを抱えて、心から楽しく打ち上げに参加できるとは、到底思えなかった。自分だけが知らない当日の思い出を、彼らは気兼ねしてきっとあまり話そうとしないだろう。逆に、気を遣って色々教えてくれるかもしれない。どちらにしても、自分にとってはつらいことに違いない。どんなにポーカーフェイスを装ったって、今井や弓削にはきっと見抜かれる。そんな自分が、彼らのせっかくの打ち上げを台無しにしてしまうのは、心の底からつらかった。
『・・・・・・ありがとうございます。でもきっと・・・・・・俺自身がつらくて、その場にいられないと思うんです』
 今井にはどんな嘘も通じないと分かっていた。だから、本音を言うしかなかった。本当は、その言葉を言うことも苦しかった。せっかく誘ってくれた今井の気持ちを跳ね返す、卑怯な言葉だ。それを言ってしまえば、今井とて強引に誘えるはずがない。彼の語勢は一気に落ちた。そして、逆に申し訳なさそうな口調で返ってきた。
『・・・・・・そっか・・・・・・そうだよな。途中で抜けるのが一番つらかったの、お前だもんな。ごめん。俺はお前に会って、色々伝えたい思いばっかりで・・・・・・自分の気持ちしか見えてなかった』
 その言葉を聞いた途端、不意に目の前がぼやけて、雫が頬を伝った。こんなふうに自分を大事に思ってくれた人を、自分は今跳ねつけたのだと、唐突に胸に刺さるように実感した。
『・・・・・・すみません・・・・・・。・・・・・・でも、嬉しかったです。本当に・・・・・・』
 震えそうになる声を抑えて、そっとつぶやくように言った。何が、なんて言わなくても、きっと今井には伝わる。確信があった。電波に乗った今井の声が、少し笑いを含んだ。
『そう、言ってくれるなら、誘った甲斐もあったかな。でも、慈恩。お前には本当に近いうちに会いたいよ。会って話したいことが・・・・・・色々ある』
 最後の方は、やや深刻な雰囲気だった。不審に思っていると、続けて訊かれた。
『お前、斗音と連絡は取ってるよな?あいつ、お前に何か言ってるか?』
 一瞬何のことか分からなかった。
『何か・・・・・・?』
『自分のこと、何か話してるか?』
『いや、特には・・・・・・。最近疲れてる、とは、よく言ってますけど・・・・・・』
 そう応えると、少し考えるような間を置いて、思慮深げな今井の声が返ってきた。
『・・・・・・そうか。・・・・・・あいつさ・・・・・・お前がいなくなってから、取り憑かれたように仕事するし・・・・・・その上その疲れを背負ったままでいるっていうか・・・・・・。ちゃんと眠れてるのかなと思って。気をつけて見てるつもりだけど、あいつもなかなか素直に言うタイプじゃないもんだから』
 それを聞いて、少し心配になった。あれほど身体を大事にするよう言い含めてきたのに、無理をしているのではないだろうか。自分が開けた穴のせいだろうか。それを埋めるためなら、斗音はどんな無理だってしでかしそうな気がする。
『・・・・・・そうですか。また、無理はしないように、言っておきます・・・・・・』
『頼む。あいつ、きっとお前の言うことなら、聞くだろうから。じゃあな。また連絡する』
『はい。あの・・・・・・ありがとうございました』
 つらさと気がかりと申し訳なさで胸が塞がりそうだった。でも、斗音のことを心配してくれる人が近くにいてくれることは、心強かった。あの生徒会長なら、本当に斗音がヤバイと思ったら、強制的にでも無茶を止めてくれるだろう。
「・・・・・・慈恩」
 三日前の夜のことを思い、痛む胸をオブラードのように、理性で幾重にもくるむ。そうでもしなければ、脳の神経が焼き切れてしまいそうだった。そんな中で、名前を呼ばれたのを聞いたような気がした。しかし、思考回路も胸も一杯で、あまりそちらに気が回らなかった。
(斗音・・・・・・昨日熱を出したって言ってた。体育祭、きつかったんじゃないのか。疲れてると免疫力も低下する。発作だって起きやすくなるはずだ。しっかり聞いておけばよかった。あの擦れた声、やっぱり発作起こしてたんじゃないのか?もっと強く言っておけばよかった。無理するなって・・・・・・)
「慈恩」
 今度は先ほどより少し、はっきりと聞こえたように思った。悠大の声だ、と、巡り巡っている思考回路の間でぼんやり考えた。次の瞬間、自分の唇に何かが触れた。瞬間、鼻腔をくすぐるのは、少し苦いような、独特の煙の香り。

(・・・・・・え?)
 自分の目の前に、くゆる淡い煙。その中に、知性を漂わせる端正な顔があった。栗色の瞳が、まるで自分を射るようにじっと見つめている。
「・・・・・・悠大・・・・・・」
 つぶやくと、やや皮肉めいた微笑が、彼の顔に浮かんだ。

「やっと戻ってきたな」
 
そこでようやく、煙の正体に気づく。
「・・・・・・煙草・・・・・・吸うのか・・・・・・」
 質問ではなく、ただ感じたままに出た言葉だったが、近衛はくすっと笑った。
「そうきたか。まあいいや、お前らしくて」
 慈恩には、何がどういいのかよく分からなかったが、相手は乗り出すようにしていた身体を引いて、胡坐のまま煙草を口にした。その仕草は比較的自然で、今初めて吸うのではないと分かる。
「誰も知らない。お前以外は」
「・・・・・・」
「お前だけは特別だ。・・・・・・でも、誤解するなよ。頻繁にやってるわけじゃない。ほんの時々、耐え切れなくなった時だけ」
「・・・・・・耐え切れなく?」
 思わず聞き返す。近衛は少し慈恩から顔を逸らすようにして、煙を吐いた。
「色々な。何せ本性がこれだから。かといって物に当たるのは馬鹿だと思ってるし」
 それで自分を痛めつけることを選んだのか、と思う。剣道をやる上でいいはずがないのに、それでもそうせずにはいられない時があるということか。そして・・・・・・今も?
 そこまで考えて、はっとする。
「悪い、考え事してた」
 反射的に謝っていた。自分が原因だと知った。直感だった。近衛が少し、顔をしかめる。
「何で謝る?」
「・・・・・・ごめん」
「・・・・・・」
 深呼吸するかのごとく、深々と肺に煙を入れた近衛が、それを溜息のように吐き出した。そして、微かに唇の端を吊り上げる。
「吸う?」
 まだ三分の一ほど減っただけの煙草を、すい、と差し出される。少し躊躇った。煙草を吸ったことはない。斗音がいたから、そんなこと考えたこともなかった。もちろん、法で禁じられていることもよく知っているが、慈恩の場合、そんなことは関係なかった。斗音のためにならないのなら、一生吸うこともない。それだけだ。
 近衛の表情をうかがうと、こちらを試しているようなシニカルな微笑。別に断ったって、その笑みのままで上手く流してしまうのだろう。慈恩はそっと身体を傾け、近衛の手にする煙草に口をつけた。ゆっくり吸い込む。途端、軽い眩暈に襲われた。思わず小さく咳込む。
「初めてか。だろうな。大丈夫か?」
 背を優しく撫でられる。うなずくが、肺の中に煙の匂いが残っているのに顔をしかめる。
「馬鹿だな。嫌なら嫌って言えよ。別に強要なんてしやしない」
 呆れたように笑う。けほ、と肺に残った煙を吐き出すように咳をして、慈恩はそっと首を振った。
「別に・・・・・・嫌だったわけじゃない。どんなものかと思って」
 そして、綺麗な空気を吸い込むように、大きく息を吸って吐き出す。
「お前がどんな気分を味わってるのか・・・・・・知りたかった」
「・・・・・・・・・・・・」
 近衛は知的な栗色の瞳で、じっと慈恩を見つめた。
「それがお前の、罪滅ぼしなのか?」
「そんなつもりはない。・・・・・・でも、悪いとは思ってる」
「・・・・・・そうか」
 最後に一口吸ってから、携帯用の灰皿で火のついた先端を押し潰し、吸殻となったそれを中へ押し込む。それをぽい、と机の上に投げ出した。
「じゃあ、こんなことしても許してくれるのか?」
「っ?」
 不意に肩をつかまれて圧し掛かられ、驚く間もなく押し倒される。そのまま栗色の瞳とじっと見つめ合う。そこからは何か強い思いを感じたけれど、それが怒りでないことは分かった。しばしの間、互いに視線を逸らすこともなかった。そのまま静かに近衛の端正な顔が近づいて、ゆっくり唇が重なった。嗅覚に直接、あの独特の煙草の匂いが感じられる。
(・・・・・・あ・・・・・・)
 軽く目を見開く。全く同じ感覚。名前を呼ばれて、あの時感じたものは。
「やっぱり。気づいてなかったな、お前。そんなことだろうと思ってたけど」
 目の前で苦笑が浮かぶ。
「・・・・・・男にキスしたのなんて、初めてだったのに。気づかれてなかったなんて、何か悔しいな」
「・・・・・・どうして、こんな?」
「キスのこと?さあ、どうしてかなんて分かんねえよ。お前の魂がどっかいってたから、呼び戻そうと思った。それだけ」
 ふざけたように、近衛が笑った。
「このままやっちゃってもいいんだけどな」
 思わず瞠目した慈恩に、少しだけ切なそうな表情を見せた。
「嘘だよ。でも、お前が好きだ」
「え・・・・・・?」
 驚きを含む漆黒の瞳を、近衛は少し、栗色の瞳を細めるようにして見つめた。

「それは、嘘じゃない」
 
そうっとついばむように数回、キスされる。そして、ゆっくり上げた彼の顔は、苦しそうだった。
「ごめんな。気持ち悪いよな、こんなの。でも、俺にも分からない。ずっと憧れてたんだ、お前に」
(・・・・・・そうか、だから・・・・・・)
 これまでの大会で、対戦したことはなかったけれど、自分も近衛の名前だけは知っていた。決勝まで残っていれば、自然、みんなに見られることになる。それで近衛は初めから自分のことを知っていたのだ。転校して初めて言葉を交わしたときから、自分にだけは他人と違う接し方をしてくれた。それは、初めから親近感のようなものをもっていてくれたからだ。
「・・・・・・よく分からないけど・・・・・・俺、剣道やってる人には好かれることがあるみたいだ」
 かすかに微笑む。
「ここに来る前にも一人、そう言ってくれた人がいた。・・・・・・尊敬する先輩だった」
 心臓が痛かった。自分に最も期待して、部を任せようとしてくれた近藤の想いの全てを、自分は踏みにじるような真似をしてきた。
「え・・・・・・、好きだって、言われたのか?それ、男?」
 今度は近衛が驚く番だった。それに、静かに、掻き消えそうなくらいわずかな微笑みで答える。
「・・・・・・そうだよ。惚れてるって言われた。キスされたことも、ある」
 栗色の瞳が大きく見開かれた。でも、次の瞬間には、納得済みの苦笑を浮かべる。
「その人の気持ちはよく解る。でもそれなら、もう遠慮しない」
 その瞳には真剣な光が宿った。
「そいつには負けたくない。想いの強さなら、負けない」
「・・・・・・悠大・・・」

 強い意志の輝きを宿した近衛の瞳が、焦点すら合わせることが困難なほど近づいた。まだ煙草の香りの残る呼気を、肌で感じる。圧し掛かられて、少しだけ膝の裏が伸びる。微かに痛みが走った。それでも顔には出さなかった。ゆっくりと優しく、唇が押し当てられる。慈恩は静かに目を伏せた。

   ***

 翌週は月曜日から桜花祭が始まった。初日、二日目は見るばかりで、ようやく三日目に二年生の出し物を披露することになった。和服が似合うと絶賛された慈恩だったが、その舞台でも素晴らしい舞を披露した近衛と共に、観客の目を釘付けにした。近衛はもともと家柄と共に人気があったようだが、全校の中でまだ慈恩の知名度は低かったのだ。むしろ、完璧な転校生が来たという噂だけが先立って、男子生徒には特に悪評が先回りしていたというべきだ。
 しかし、それはその日の放課後から一転した。
「今日の2-1の舞台、あれ、鼓打ってたの、例の転校生らしいよ!」
「すごく品のある奴だったよな。鼓も上手かったし」
「あの声がまた素敵でしたわ。艶っぽくて」
「近衛はさすがって感じだったけど、どうしてどうして。鼓だけであそこまで存在感のある奴、なかなかいないよ」
 話題はそれで持ちきりだった。慈恩と近衛が通れば、その周りの視線が一斉に集中するし、あれだ、あいつだとあちこちからつぶやきがこぼれた。
「・・・・・・落ち着かないな」
 困惑したように、視線で近衛に助けを求める。ほぼ同じ高さの視線で、近衛はにやっと笑った。
「当然だ。今までみんながお前を知らなさすぎたんだから。気付くの遅すぎなんだよ」
「そんなの知らなくていいよ」
 心の底からの本音に、友人は苦笑する。
「お前らしくていいけど、ほんと、欲がないんだな」
「何の欲だよ」
「何言ってんだ。好印象の方が、自分の将来とお家のためにはいいに決まってんだろ。色々便利だぜ。お前がそういうの好きじゃないことは知ってるけどさ」
 慈恩は肩をすくめた。
「そこまで考えられない」
「まあ、そこがお前のいいところだよ」
 そこへ一人の男子生徒が近づいてきた。近衛の表情がすっと硬くなる。前に来るより先に、礼儀正しく頭を下げる。
「ご無沙汰してます、鷹司(たかつかさ)先輩」
「久しぶり。どうだ、剣道部の方は」
 爽やかな笑みを見せた男子生徒は、それほど短くもないが上品な整えられ方をしている髪を軽く掻き上げて、縁なしの眼鏡の奥から、涼やかに近衛を射た。
「みんなしっかり稽古に励んでいます」
 丁寧に応える近衛に、ふ、とうなずく。
「そうだろうな。お前が部長なんだから。それに、隣の彼も入部したそうだな」
 視線が慈恩に移る。切れ長の瞳は、やや他を制圧するような鋭さがあった。近衛に習って、軽く礼をする。
「初めまして・・・・・・」
 鷹司は、髪を掻き上げていた手をすっと伸ばして、長い指を慈恩の顎に添えた。礼でうつむいた顔を、威圧で上げさせる。目線はほぼ平行だ。身長は180近くあるだろう。
「覚えてるよ。如月高校副将、椎名。うちの副将は、お前に十三秒で伸された」
 カツ、と一歩近づく。至近距離でその視線を受け、慈恩は圧迫感すら覚えた。
(確か、次鋒だけやたら強くて、楠さんが負けた試合だ)
 覚えている。なぜ彼が大将でないのかと思った。勝つために、順番を変えてきたのかとも思った。
「インターハイで立派な成績を残したお前にとっては、都大会のたかが二回戦。覚える価値のないチームだったかもしれないが」
「部長!」
 思わず近衛が声を上げた。それを鷹司は鼻で笑う。
「部長はお前だろう?しっかりしろよ」
「あ・・・・・・はい、すみません。あの、彼はもう・・・・・・」
「解ってる。今は九条だったな。何の理由があってここに来たのかは知らないが、ふん。なるほど、いい男だな。今日はお前の噂で学校中が浮ついているようだ。分からなくもないが」
 指が顎から離れ、その人差し指が、今度は左鎖骨の下を突く。
「うちの剣道部に入ったからには、礼儀として現役を引退した俺たちに、一言あってもいいんじゃないか?お前は俺たちの最後の夏の希望を、二年生の分際で断ち切った」
 馬鹿な、と思う。一年生だろうが二年生だろうが、実力のある者が勝ち上がる。それが試合という世界の公平さであり、厳しさだ。近衛も慈恩と同じことを考えてはいたが、鷹司の考え方がどんなものかも知っていた。
「鷹司先輩。でも、彼が入ってくれたことで、うちの部は戦力的にも稽古のレベル的にも恩恵をこうむっています。今では心強い味方の一人です」
「それで?」
 鷹司は嘲笑した。
「俺たちはやり直すことが叶うのか?近衛。お前が今年インターハイ予選の都大会に出場しなかった理由は何だ?」
 近衛の唇が引き結ばれる。やや躊躇ってから、答える。
「三年間頑張ってこられた先輩に、最後の大会で花を咲かせて頂くため、です」
「そうだ。実力で言えば、お前は俺を凌駕している。それでも三年生でチームは編成された。それをお前は納得している。そうだろう?」
「・・・・・・はい」
「その厳しさを知らないこいつには、桜花高校剣道部の重い伝統と歴史を背負えない。上を敬う気持ち、縦社会の厳しさを覚えるべきだろう?」
 近衛は何かを言いかけて、それでも口をつぐんだ。鷹司から視線を逸らす。ふっ、と鷹司に笑みが浮かんだ。
「来い、九条。今から三年生部員一人一人に会わせてやる」
 ぐい、と腕を引かれて、膝の裏の筋が引っ張られ、痛みに思わずよろめいた慈恩の肩が、鷹司の肩にぶつかる。その瞬間、笑みを含んだ声が耳元で囁いた。
「これ以上いい気になれないように、打ちのめしてやるよ」

「・・・っ」
 慈恩の表情が一瞬固まる。その時だ。重なった肩の間に、近衛の手が割り込んだ。
「何だ、近衛」
 不快そうに鷹司が眉根を寄せる。小さく息を飲んだ近衛は、それでも静かに、きっぱりと告げた。
「みっともないですよ。そういうの」
 瞬間、鷹司の身体が離れる。鋭い視線が近衛に標的を変える。
「何だと?」
 しかめた眉が、威圧感を更に強大にする。それでも近衛はうろたえなかった。強い眼光を真っ直ぐに、栗色の瞳で受け止める。
「終わったことを今更蒸し返すのが、みっともないと言っているんです」
 それでも鷹司は背筋を伸ばして、近衛を見下すようにする。
「かろうじて村上がつなぎとめた希望を、こいつが叩き切った。あの時は仕方がない。敵だったんだからな。でも今は事情が違う。そのときのことを棚に上げて、桜花の剣道部を名乗らせるわけにはいかない」
「負けたうちの実力を、棚に上げてですか?」
 近衛は退かない。鷹司は涼しげだった目元を吊り上げた。
「いいのか、近衛。俺にそんな口を利いて」
 握り締めた拳が、怒りで小刻みに震えている。
「鷹司の家を、敵にまわす気か?お前の家が関わっている会社で、鷹司がどれだけバックについているか、分からないわけじゃないだろう」
「そんなこと、関係ありません。子供の、そんなつまらない意地に付き合う家なんて、それこそたかが知れているでしょう。それに私は、人間関係の上で家の駒になるつもりはありません」
 言い切った近衛の瞳には、強い意志の力があった。
「彼を侮辱するのは、誰であろうと許さない」
「近衛、貴様!」
 怒りのあまり青ざめる鷹司に、近衛は畳み掛けた。
「村上先輩が勝ったのは、それだけの実力の持ち主であったにも関わらず、部長や副部長をやっていなかったことが原因で、次鋒にしかエントリーされなかったからです。あの先輩は、スポーツ特待生であって、家名としては一般的なものでしたからね。副将は副部長、大将は部長。それは決まっていたし、その位置につけるのはある程度の実力を備え、且つ家の影響力を持つ人間。私も人のことは言えません。でも、そんな伝統や歴史が重いとは、私には思えません」
 自分と鷹司の間に割って入って、先ほど便利だ、と言ったばかりの家同士の人間関係を投げ打って、自分を守ろうとしてくれている近衛を、慈恩は胸が熱くなる思いで見つめた。
 上品な群青のダブルになっているブレザーの襟を、鷹司が激情に任せてつかみ上げる。
「貴様、いつからそんなに偉くなった!この俺に意見するだと?ふざけるのも・・・」
「鷹司さん、でしたね」
 静かに慈恩が言葉で遮る。
「悠大を離してやって頂けませんか。周りの目もあります」
 眼鏡の奥の瞳が鋭く慈恩を射たが、すぐに周りに視線を巡らせ、鷹司は突き放すように近衛のブレザーを離した。軽く手をはたいて、怒気のこもった息をつく。
「このままで済むと思うなよ、近衛。それに、九条。きっと今日のことを、後悔させてやるからな」
 交互に睨みすえてから、何事もなかったかのように、慈恩の脇をすり抜けていく。その足音が遠ざかるのを待ってから、近衛はほっと吐息した。そして苦笑する。
「守るつもりが、守られたな」
 少し歩を早めて歩き出す近衛に、慈恩は静かな微笑を浮かべて続いた。
「・・・・・・ありがとう。嬉しかったよ」
 途端、珍しく近衛の頬に朱が走る。
「連れて行かれてたまるか。あんな奴に。何されるか分かったもんじゃない」
 すたすたすた、と勢いよく進めていた足を、ふと止めた。訝しそうに見つめてくる漆黒の瞳に、真剣な眼差しを向ける。
「渡さねえよ、絶対に」
「・・・・・・悠大」
 少し瞬きをしてから、慈恩はくす、と笑う。
「まるで彼女に言うセリフだな、それ」
 ほんのり赤みがかっていた近衛の顔が、一気にその濃さを増す。
「うるせえよ。馬鹿」
(え・・・・・・地雷?)
 茶化してしまった自分のセリフに、しまったと思うが、今更どうしようもない。
(そりゃ確かに、キスはされたけど)

 基本的に、殊自分のこととなると、どこまでも鈍感な慈恩だった。

   ***

(何してる。何で帰って来ないんだ!)
 慈恩が近衛の家に泊まることになった、ちょうどその一日前になる。三神は自分の控え室として与えられている書斎を、何度も何度も往復していた。もう夜の九時。それなのに、この家の主人はまだ戻っていなかった。沢村の用意した夕食は、とうに冷めきっている。携帯にも何度か掛けてみた。しかし、最初の一回はコールしたものの、誰も出なかった。近くにいないのかと諦め、しばらくしてからもう一度掛けてみた。そうしたら、腹の立つ『ただ今、電源を切っているか、電波の届かない場所に・・・・・・』というアナウンスが流れた。それ以来、何度掛けても同じアナウンスを耳にするばかりで、ちっともつながらなかった。何の連絡もなく、彼が遅くなることは今までなかっただけに、様々な原因が頭の中を駆け巡る。
(やはり、昨晩のことを覚えていた?いや、でも今朝の様子でそんなに変わったことはなかったし・・・・・・まさか、途中で思い出して警戒しているとか?有り得ない話じゃない。くそっ、どうしてだ!どうして思い通りに行かない!)
 自分がこの家に入り込んだのは、彼を自分のものにするためだった。最初はそれだけでよかった。彼がどんなことを思おうと、力で無理強いできる自信はあった。しかし、想いは変わる。成長していく。双子だと思っていた兄弟を失い、寂しさに打ちのめされながらも一生懸命生きる彼に、惹かれた。愛した。本気で愛しいと思った。だから、本気で心が欲しくなった。彼に、愛されたいと思った。そうしたら、どんなに幸せだろうか。
(駄目だ、こんなところにじっとしてたら気が狂う!探しに行かなければ!)
 車のキーを手に取り、すぐさま家を飛び出す。
(最初は上手くいっていた・・・・・・俺の話に興味も示した。俺に縋ろうともしていた。俺の腕の中で泣いていたときは、少なくとも俺に心を許していたはずだった!それが、一体どうして・・・・・・)
 あの時は、掛けた優しげな言葉に涙をこぼしていた。口付けても、反射的な嫌悪を示したりはしなかった。
(いっそあのときにやってしまえばよかったか・・・・・・いや、それでは駄目だ。ただでさえも、あの人にとっては普通じゃない行為だ。まして、あの隠し子への思いを少しでも見せつけられたら、俺は絶対にキレる。滅茶苦茶にしちまう。そんなことをしたら・・・・・・二度と縋り付いてなんてくれない)
 あの時の、か弱い力が忘れられなかった。愛おしさで、気が触れそうだった。あれを自分のものにできるのなら、何を捨てても構わない。だからこそ抑えた。昨夜だって、必死で自分の衝動を抑えた。無理やり唇を奪って、あちこちにキスをして、その勢いでそのまま押し倒してしまうことだってできた。いや、本気でそうしてやろうと思った。なのに、彼は怯えて、震えて、そしてあの隠し子の持っていた十字架を握り締めた。助けてと、まるで魂を振り絞るかのように強く。それを見て、初めて自分が泣きたくなっているのに気づいた。好きだと、愛していると伝える言葉は彼の耳に届かなかった。彼が助けを求めていたのは、あの、漆黒の瞳の少年だった。
(どうして怯える・・・・・・何がいけない?)
 心を得るために、親切に、優しく、丁寧に接してきた。その中で、時折あの身体に触れるのが、せめてもの、そして最大の慰めだった。細い肩、細い腰。小さな顔。白くて美しい肌。細くて長い指。薄い華奢な身体。触れるたびに、荒れ狂う胸の内を押さえるのは大変だったが、触れた指は歓喜に酔っていた。もっと触れたい、もっともっと。
 三神は運転しながら、ぞくりと震える身体を片手で抑える。抱き締めたい。昨夜以上に熱烈なキスで酔わせてしまいたい。うっとりした表情は、どんなに色っぽいだろう。ハスキーなあの魅力的な声で、喘ぐ様を見てみたい。熱い吐息で、涙さえ浮かべて、そしてしがみ付いて来たりしたら・・・・・・。ごくり、と唾を飲み込んだ。心臓が痺れそうだ。
(離すものか。帰ってくる場所は、ここしかないはずなんだ・・・・・・!)
 どうにも耐えられなくなって、道路脇に車を止めた。とうに閉ざされた個人商店の前に、夜でも煌々と明るい自動販売機があった。懐かしい銘柄が幾つか並んでいる。
(大学以来か・・・・・・九条では許されなかったからな・・・・・・)
 椎名家でも自粛していた。使用人として吸うべきではないと思っていたし、喘息によくないと思っていたからだ。
(・・・・・・外でくらいなら、いいだろう。少し、落ち着こう)
 コインをいくつか入れて、最も親しみのある銘柄のボタンを押す。出てきた箱を手に取ると、馴染み深い感触だった。車に戻って、一本取り出し、火を点ける。懐かしい味だった。それだけで気持ちが静まる気がした。
(・・・・・・家で待とう。今の俺がすべきことは、それしかない。あの人がいつ帰ってきてもいいように、明かりをつけて、待っていよう。もしかしたら、今日で如月祭が終わりなのだから、打ち上げをしているのかもしれない。疲れて帰ってきた彼を・・・・・・丁寧に癒してやろう)
 ゆっくり、しっかり味わってから、煙草を地面に落とし、踏みにじる。灰皿とはいえ、車の中に煙草の痕跡を残したりするわけにはいかなかった。
(もし、もしそれでも俺を拒否するのなら・・・・・・徐々に慣らしてやろう。躊躇いを取り払って、一度でも知れば、あんなに怯えることもなくなる。そのうち、俺なしではいられないようになってくる。そう改造してやろう。そのうち心も・・・・・・ついてくるようになる)
 そこまで考えると、急に目の前が明るくなってきたような気がした。イライラしたものが、一気に解決されたような気になる。煙草のおかげで、何かすっきりしたようだ。ふ、と笑って、手にした煙草の箱を見つめた。
(しばらくはこれで、我慢することにしよう)

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