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三十五.存在価値

 ゾクゾクする寒気に震えて、ぼんやり目を開けたら、明かりがまぶしかった。思わず目を細める。狭められた視界に映るのは、見慣れない天井。ご飯の炊けるような匂いがする。本当なら、飛び起きたい気分だったが、そんな元気はなかった。まだかなり熱があると、自分で分かる。目だけ動かして、部屋の様子を探ろうとしたが、目の奥が抉られるように痛くて、それもできなかった。
「あちぃっ!」
 突然の声に、驚いて、頭ごと人の気配のする方へ視線を移す。頭がぐらぐらするような感覚に襲われて、思わず顔をしかめた。ゆっくり顔の筋肉を緩めると、意識が途切れる直前に目にした人物が、お盆に土鍋を載せて自分の方に近づいてきた。
「・・・・・・気づいてたのか」
 その顔を見て、ようやく自分が気を失ったことを思い出す。今度こそ、無理にでも身体を起こそうとした。しかし、途中で力尽きて、また身体を横たえた。その軋み具合で、そこがベッドだと知る。
 両手に重いものを抱えていた瓜生が、それを机の上に置き、吐息する。
「無理するな。お前、有り得ないくらい高熱だったんだぞ」
「あの・・・・・・ここは?」
 声が驚くほど枯れている。そういえば、発作も起こした気がする。そうだ、確か階段から落ちて・・・・・・。シャワーでも浴びたらしく、しっとり濡れている茶色の髪を掻き上げながら、瓜生は感情を見せないまま答えた。
「俺の家だ。悪いな、お前の家が分からなかった」
 当然だ。本人は気絶しているし、ほとんどの生徒が下校していたはずだから。
「・・・・・・・・・・・・すみません、俺・・・・・・ひどい迷惑を・・・・・・」
 掛けたはずだ。そもそも、自分が階段を落ちたとき、瓜生を巻き添えにしたのだ。その上こんなふうに世話になっているのだから。そんな斗音を見ながら、黒のTシャツに腰パンジーンズ姿の瓜生は、愛想のかけらもなく、淡々とつぶやく。
「・・・・・・別に。ただ、保健室は閉まってやがるし、安江もいねえし、あいつ以外の教師で俺の話を信じそうな奴がいなくて・・・・・・つか、あんま関わりたくねぇっつーか・・・わりぃ、こうするしか思いつかなかった」
 ぼそぼそと、やや気まずそうに瓜生が話すところによると、運動場でテントを片付けている最中に、ストップウォッチを拾ったので、あとで誰かに渡そうと思ってポケットに突っ込んでおいたらしい。そして、片づけが終わって着替えたときに、初めてその存在を思い出し、帰るついでに、多少は気心の知れた養護教諭の安江にでも届けようと思ったと言う。ところが保健室が開いておらず、仕方なく職員室へ続く階段を上がっていたら、いきなりふらふらと斗音が階段を下りてきて、危ないと思ってその身体を支えようとした。ところがそれより早く斗音がバランスを失ってしまって、一緒に階段を落ちてしまった。更にそのショックで、斗音が発作を起こしてしまったので、以前の見様見真似で薬を使い、何とか発作は抑えたものの、今度はひどく震えだし、かなりの高熱があると知った。その上、自分を見たので声を掛けようとした途端、気絶してしまったのだ。
「で、タクシー呼んでとりあえず病院へと思った。でも、『どこへ?』って訊かれて・・・病院ったって、お前みたいのは掛かり付けの医者がいるだろうし、保険証もないし、下手に薬も使えねーし・・・それで、とにかく休ませるしかねえと思ったんだよ」
 やはりとんでもない迷惑を掛けていたと知り、斗音は悪寒に唇を震わせながら恐縮する。
「・・・ほんとに、すみませんでした・・・・・・。あの・・・落ちた時・・・怪我、しませんでしたか・・・?」
 瓜生は軽く片眉を上げたようだ。長い前髪で、それはあまり見えなかったが。
「別に。それより、お前、変なふうに足ひねってたから、そっちの方がまずいと思うぞ。左足首、痛いだろ」
 別に、というのは、彼の口癖だろうか。少なくとも、いくつかの打撲はあるに違いないのに・・・。そう思いながら、そっと左足に力を入れてみたら、思い通り動かなかったが、強引に動かそうとするとひどい痛みが走った。思わず身体を萎縮させる。
「・・・っ」
「腫れ方からして骨に異常はないと思うけど、まあ捻挫はしてるだろうな。起き上がれるようになったら、医者に行った方がいい。とりあえず、湿布して固定はした。無理には動かすな。あと、特に支障がないようなら、解熱剤くらいは飲んだ方がいいと思ったんだが・・・・・・」
 ちらりと視線を机にやる。
「何か食ってからの方がいいかとも思って。味の保障はしねえが、食えそうか?」
「・・・・・・薬は、大丈夫だと思います。でも・・・・・・」
 かなり躊躇う。食欲がないのは、熱のせいではない。むしろ、熱はそれに輪を掛けているといったところだ。瓜生は少し首をかしげた。
「食欲がないか?でも、薬だけ飲むと、胃が荒れるぞ」
「・・・・・・はい」
「粥でも、食えないか?」
「・・・・・・・・・・・・作って、下さったんですか?」
「まあ。とにかくそのままほっといても、よくはならねえだろ」
 相当躊躇ったが、無理強いするわけでなくても、せっかく自分のために作ってくれたものを食べないわけにもいかない。ゆっくり、必死に身体を起こす。そこで、ベストとネクタイ、ベルトはちゃんと外して、椅子の上に畳んであるのを知る。呼吸が楽なのは、ちゃんとシャツのボタンが上の方だけ外してあるからだ。
「・・・・・・少し、頂けますか・・・?」
 無愛想だった瓜生の表情に、柔らかさが加わる。
「よかった。このままくたばられたら、俺も後味が悪いからな」
 口は悪いが、優しい言葉だった。何だか不思議な気分だ。なかなか自分で起き上がれない斗音の背を支えるようにして、背もたれ用に枕を立ててくれたり、少ししか食べられないと言った斗音のために、小さなお椀にレンゲでお粥を取り分けてくれたりする瓜生は、自分を脅してきた人間とは別人のようだ。
「ありがとうございます・・・・・・頂きます」

 土鍋のお粥は、シンプルな塩味に卵を落とし、ネギを散らしたものだったが、保障しないといった割に、とてもおいしく感じた。懐かしく思う。最近ではいろんなバリエーションでお粥を作ってくれていた慈恩だったが、母を亡くしたばかりの頃は、体調を崩すたび、母が作ってくれていたこのシンプルな卵粥を作ってくれたものだ。
 
ところが、そんなお粥ですら、耐え難い嘔吐感が胃を突き上げた。まだほんの二口三口だというのに。
「まずかったら残せよ。遠慮する必要なんて・・・・・・」
 言いかけて顔を上げた瓜生は、続きを言いかけた口を思わずつぐんだ。そして、少し困った顔になる。
「・・・・・・どうした・・・・・・?」
 そんな瓜生の表情は、揺れてぼやけて、しっかり見えなかった。どうしようもない。溢れる涙が止められない。懐かしさとか、寂しさとか、悲しさとか、悔しさとか、申し訳なさとか、情けなさとか、もう数え切れないほどの感情が込み上げてきて、斗音は震える手で口を塞いだ。大声で泣き出してしまいそうだった。
 瓜生は、斗音の手にしていた小さなお椀をそっと机の上に置き、泣き顔を見上げる。
「・・・・・苦しいのか?掛かり付けの医者があるなら、今からでも遅くねえ。連れてってやる」
 その優しい言葉に、今までのつらさが込み上げてきて、もっと泣けてきた。小さく首を振って、更にもう片方の手を自分の口を塞いだ手に添える。震えが止まらない。うつむくとはたはたと雫がシーツを濡らした。堪えきれない嗚咽が漏れる。ひどく困惑していた瓜生が、膝で立つようにして、そっと腕を斗音の背に回した。

「・・・・・・じゃあ、つらいのか」
「・・・・・・っ!」
 言い当てられて、自分の中で、何かが弾けたのが分かった。抑え切れない声が小さく、弱々しく外にこぼれだす。我慢することが叶わなかった。その瞬間、ぎゅっと抱き寄せられた。その拍子に、鍛えられた胸に頬を押し当てる形になる。斗音は、小刻みに震える、力の入らない指で、瓜生のシャツを思わずつかんだ。

 どれくらい泣いたのか分からない。ようやく溢れきった感情が少しずつおさまって来て、微かにしゃくりあげてくる喉を押さえながら、そっと顔を上げると、抱き締められていた腕の力が緩んだ。瓜生の表情は、微笑みこそなかったが、優しかった。
「・・・・・・少しは、楽になったか?」
 こくり、とうなずくと、少しだけ微笑んだ気がした。
「そうか」
 笑うのを、初めて見た気がした。あんなに肩肘張って、周りに敵意を剥き出しにして、乱暴な言動で周りを威圧していた瓜生が嘘みたいだ。
「なんか・・・お前がみんなに好かれるのは、よく分かる」
 そう言って、髪を優しく撫でられた。何だか仔犬だか仔猫だかになった気分だ。その手で頭を捕まえるようにして、額をこつんと当てられた。斗音は、心臓が握り締められたような気がした。
「・・・・・・まだ熱が高いな。薬、飲むか」
 薬を取ろうとした瓜生が、戸惑ったように、自分のシャツをつかんだまま放さない斗音をうかがう。やんだはずの涙の雨が、再び白い頬を滑り落ち、呼吸を止める。
「椎名・・・・・・?」
「・・・・・・慈恩が・・・・・・」
 擦れた声が、震えた。
「・・・・・・いつも・・・・・・そうしてた・・・・・・」
 瓜生が少しだけ目を細めるような仕草を見せた。そっと手を伸ばして頬に手を添え、親指で透明な跡を優しく拭う。そのまま静かに頬を寄せ、唇を触れ合わせた。
 その行為が、一般的にキスと呼ばれるものだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。でも、それがどうだとか、だからどうだとか、何も思わなかった。少しだけ心が、ジンとした。
 瓜生はすぐに離れて、無愛想に薬と水の入ったコップを差し出した。それを飲みながら、自分が埃まみれのままだということに、ふと不安がよぎる。思わず訊いていた。
「あの・・・・・・シャワーを、借りていいですか・・・・・・?」
「あ?構わねえけど・・・・・・どうする気だ?」
「使わせていただいて、いいですか・・・?」
 瓜生は黒目がちの目を瞠った。
「何言ってんだ。お前、すごい熱あるんだぞ?」
「あの・・・・・・ちょっと、埃っぽくて・・・・・・このままでいると、喘息によくないんです・・・・・・」
 瓜生は困ったように首をかしげた。
「そんなもんか?俺にはちょっとわからねえけど・・・・・・まあいい、好きにしろよ。ただし、無理するな」
「はい・・・・・・ありがとう、ございます」
 立ち上がった瓜生は、タンスの引き出しを引っ掻き回しながら、Tシャツや綿のハーフパンツなどを適当に引っ張り出す。
「ほれ、着替え。多少サイズはでかいが、着られるだろ」
「あ、すみません・・・・・・」
 ゆっくり立ち上がると、まだ浮遊感があって、視界がふわふわ揺れていた。
「ほんとに大丈夫なのかよ」
 さりげなく手を貸してくれた瓜生は、心配そうだ。斗音はうなずいた。
 斗音はかなりの清潔好きである。それは、持病の喘息からきている。空気ももちろんだが、自分が埃っぽかったりすると具合が悪くなることがある。痰が絡んだり、咳込んだり、それが引き金になって発作を起こしてしまったことも、ある。今日は一度発作を起こしているだけに、それが心配だった。
 かなり熱めの湯で全身を流し、頭を洗うと、先ほどかすめた不安は、埃っぽさとともにすっきりした。それでも背筋を寒気が走るし、頭がくらくらするし、足首もずきずきするし、ちょっとでも気を緩めたら倒れてしまいそうだった。身体が冷めないうちに借りた衣類を身につけ、ふと鏡を見る。

(・・・・・・でか・・・・・・)
 Tシャツが肩からずり落ちそうだし、ウエストは随分ゆるくて、嫌でも腰まで下がってくる。
(・・・・・・あの人、腰パン系だからな・・・・・・)
 斗音はそれがやや気になる派だったが、せっかく借りたものに文句をつける気もない。そして、如月祭初日に今井に言われた言葉も気になった。
(確かに・・・・・・ひどい顔色して・・・・・・)
 よく見ようとして、剥き出しになった鎖骨の下や肩口の辺りに、ほの赤い箇所を見つけて、不審に思う。引っ掻いたりしただろうか?鏡の中の自分を、じっと見つめて、次の瞬間、全身をぞくりとした冷たい触手が撫でていくような感覚に陥った。
「・・・・・・い・・・・・・やだ・・・・・・・・・・・・」
 思わず胸の十字架と一緒に、Tシャツの襟ぐりをつかんだ。
(夢じゃ・・・・・・ない・・・・・・!)

 自分の血が、さあっと音を立てて引いていくのを感じた。同時に目の前が真っ暗になって、そのまま何も分からなくなった。

 斗音がその部屋で再び目を覚ましたのは、寒気でも電気の光でもなかった。柔らかな朝の日差し。
(・・・・・・あれ・・・・・・ここは・・・・・・?)
 思い出すのに、数瞬必要とした。そして、がばっと起き上がる。
――――――――っぅ・・・っ」
 頭がぐわん、と揺れた。
(いって・・・・・・ひどい頭痛だ・・・・・・)
 半分涙目になって、顔をしかめる。そうだ、思い出した。ここは瓜生の家。ひどい熱でぶっ倒れた自分を、彼が運んで休ませてくれたのだ。そんな彼に、散々泣いて迷惑を掛けた気がする。
(うぅ・・・・・・なんか、ぼんやりだけど、瓜生さんがすごく優しかったのだけは覚えてる。あの人、実はすごくいい人なんじゃ・・・・・・)
 ずきんずきんと痛みで脈打つ頭を抱えながら、斗音はそっと辺りを見回した。誰もいない。気配もない。
(・・・・・・あれ?瓜生さん、どこ行ったんだろう・・・・・・?それに、ここ一戸建てだと思うけど、家族は・・・?)
 首を傾げたら、またズキンと頭痛が襲ってきたので、そのままぐったりとベッドに身体を横たえた。まだ起きることができるほど、回復してはいないらしい。しばらく頭の痛みに耐えていると、玄関が開く音がした。やはり瓜生はどこかに出かけていたようだ。そのまま真っ直ぐこの部屋に近づいてきた足音は、部屋の前で止まり、ドアノブは静かに回された。
「・・・・・・椎名?」
「あ、はい・・・・・・」
「何だ、起きてるのか」
 そっとのぞいた瓜生が、がちゃ、と勢いよくドアを開けて入ってくる。昨夜とは違う、背中に白い髑髏の描かれた黒いTシャツに、白い三本のラインが入った黒のジャージといった格好だ。長い茶色の前髪が鬱陶しいが、それ以外は比較的好青年といっても過言ではない。
「どうだ、具合は」
 すたすたと歩み寄ってきて、髪を掻き上げると、ぴたりと額を合わせる。何の狙いもなく、これが彼の熱の計り方なのだろう。昨夜それで、思わず熱いものが込み上げたのを覚えている。慈恩と同じ仕草だ。そう思うとやはり胸が熱くなる。その額は少し汗ばんでいて、ひやりとした。
「・・・・・・少しまだ熱いな。でも、だいぶひいてる」
 また表情が優しくなる。微笑みに近い表情だ。
「よかった。二度もぶっ倒れて、どうなるかと思ったからな」
「すみません・・・・・・。あの・・・・・・どこか、出掛けてたんですか?」
 何気なく質問すると、さらりと答えが返ってきた。
「新聞配達だ。ロードワーク代わりにやってる」
「えっ・・・・・・」
 思わず驚きの声を上げた斗音に、ちらりと視線を投げる。
「別に珍しくもないだろう。金が要るんだよ。・・・・・・飯、食えそうか?」
 斗音は小さく首を横に振る。瓜生は軽くうなずいた。
「分かった。ちょっとシャワー浴びてくる。ゆっくり寝てろ」
 分かった、と言ったくせに、シャワーを浴びてきた瓜生は、コーンポタージュをスープカップに入れて現れた。今度はグレーのTシャツにやはり腰パンジーンズ。お洒落に金が掛っている、というわけでもなさそうだ。むしろ格好は適当な気がする。
「悪いな、即席だけど。飲める分だけでいい、即席だから」
「あ・・・はい・・・・・・」
 頭痛に気をつけながらそっと起き上がって、カップを受け取る。温かい。即席ではあるが、生クリームを少量加えて、味を調えてある。美味しいと思った。しかし、それもやはり数口で限界だった。
「あ、そうだ。お前の携帯、昨日随分長い間鳴ってたけど、うるさかったから切ったぞ」
 斗音の手が止まったのを見て、まるでそれを見越していたかのように話を逸らしながら、そのカップをひょいと取り上げる。代わりにその手に一錠の薬を乗せ、水を入れたグラスを差し出した。おずおずと手を出し、それを受け取って薬を飲む。さらに、ほれ、とストラップをつまむようにして差し出された携帯を手に取った。電源を入れてみると、最後の着信は三神からになっていた。背筋を寒いものがぞくりと走る。
「切っちゃまずい電話だったか?家にも連絡してねえから、それかとも思ったんだけど・・・・・・」
 人の携帯に出るのは、さすがにな、と、気まずそうに口ごもる。斗音は手にした携帯をぎゅ、と握った。

「そうみたいですけど・・・・・・構いません」
 
こんなにゆっくり休めたのはいつ以来だろう。三神がここを探し当てていたりしたら、と、思うと、熱がなくてもぞっとする。きっと心配はしただろう。でも、今は彼を思いやるほどの心のゆとりがなかった。自分の家の方が、今はよほど疲れるのだと思い知る。
 
そのときふと、この家に誰もいないことが思い返されて、何気なく口にした。
「あの、家族の方は・・・・・・?」
 すると、一瞬で、意外なほど瓜生の表情が荒んだ。無愛想と言うより、もっと暗く、投げやりで苛立っているような。
「別に。お前に関係ねぇだろ」
 突き放すようなその一言に、頭ではなく、胸が痛んだ。自分が何か、触れてはいけないことに触れたと知る。
「・・・・・・すみません」
 瓜生は優しいと思う。本当は、すごく優しい人間だと、今でははっきりとそう思える。それを、一瞬にしてここまで変えてしまうほどの何かがあるのだ。そっと胸のクロスを握り締める。
「・・・・・・俺、何も知らなくて・・・・・・ごめんなさい」
 うつむいた斗音を、瓜生は眉根を寄せて見つめた。そして、大きく溜息をつく。
「悪い。お前に当たるなんて、どうかしてる。そんな顔するな」
 そっと髪を撫でるようにしてから、もう一度吐息した。
「親父は女作って二年前から帰ってこなくなった。おふくろもそんな親父と俺に愛想つかして、出てった。何か用でもねえ限り、帰ってこねえよ」
「・・・・・・そんな・・・・・・」
 斗音にも両親はいない。この世のどこにもいない。そんな寂しさはあるが、最期まで二人とも、自分を愛してくれた。命が尽きる瞬間まで、自分たちの将来を憂い、気遣って、愛してくれていた。親が子供を見捨てるということがどんなことなのか、斗音には計り知れない。でも、筆舌に尽くしがたい苦しみを子供に与えるに違いないことだけは、解る。
(その傷に触れられたくないから、この人は周りを威圧して、自分に近づけようとしないんだ。苦しいのを紛らわすために、自分を貶めて、追いつめて・・・・・・)
 ようやく分かった気がした。優しいと感じた瓜生の荒んだ気持ち。自分の両親を恨み、憎み、蔑んで。それはどんなに冷たい気持ちだろう。
「だから、何でお前が泣くんだよ・・・・・・」
 溜息混じりに、弱りきった瓜生の声。斗音自身にも分からない。それが情緒不安定の症状であることや、自身が色々なつらさや苦しみを抱え込んでいるがために、他人のそれにも共感しやすくなっていることなど、分かるはずもない。
 ごめんなさい、と小さく擦れた声で謝る斗音の肩を、強く抱き寄せた。
「別にかまわねぇよ。親なんて、いなきゃいねえで過ぎてくもんだし。泣くな」
 もう片方の手で、何度も髪を撫でる。
「・・・・・・お前はもっと気丈だと思ってた。人の痛みに、こんなに敏感だなんて・・・・・・知らなかった」
 更に力を込めて、瓜生は斗音を抱き締めた。そして、つぶやく。
「お前・・・・・・随分痩せたな」
 はっとする。瓜生には、一度後ろから羽交い絞めにされたことがある。普段から接している仲間にしてみれば、少し痩せた、くらいにしか映らないのだが、瓜生とは、五ヶ月ほどまともに相対することもなかった。まして触れられるのは、あの五月の事件以来だ。彼にはあの時との違いが、はっきり分かるに違いない。
「・・・・・・俺、あんま詳しい事情は知らねえけど・・・・・・お前らは俺の中の甘さを打ち砕いた奴らだから・・・・・・」
 面と向かって言うのはやはり気が引けるのだろう。声のトーンが落ちた。
「・・・・・・なんつーか・・・・・・やっぱ、堂々としてて欲しい・・・・・・つーか・・・・・・」
「・・・・・・打ち砕いた・・・・・・?」

 擦れた声で聞き返すと、自分の頭の上で、彼がうなずいたのが分かった。そこから、照れているのか、小さな声でぼそぼそと話し始めた。
「・・・・・・お前に絡んで発作を起こさせたとき・・・・・・俺は本気で・・・・・・お前が死ぬんじゃないかと、思った。怖くて・・・・・・自分がやったことを、ひどく後悔した。あんなに自分のことを・・・・・・激しくなじったことは、なかった。弟の方に睨みつけられたときも・・・・・・苦しくて・・・・・・情けなくて・・・・・・心底自分たちを恥じた。当然の報いだと思った。殺されても、俺は・・・・・・文句を言う気はなかった・・・・・・」
 低い途切れ途切れの声に耳を傾けながら、斗音はそっと目を伏せた。瓜生の心臓の鼓動が聞こえた。静かな生を感じる音だった。頭痛もだいぶ治まってきて、少し心地よかった。
 瓜生は中学のとき、かなりいいと言っても過言ではない成績だったし、リーダーとしても活躍していたと言う。そして、ずっと憧れていた如月高校に受かった。最初は部活も中学のときからやっていた柔道で、学校のモットーでもある文武両道を目指していた。しかし、一月もしないうちに、今まで上位だった自分の成績が、ここでは中の下、下手をすると下の上くらいであることを痛感した。今まで勉強ができることが当たり前だった彼にとって、プライドを引き裂かれるような思いだった。だから、頑張ろうとしたのだ。部活も辞め、勉強一筋に打ち込もうとした。しかし、自分がどれだけやっても理解できないことを、周りは難なくクリアしていく。能力の差というものを、嫌というほど感じずにはいられなかった。必死にやればやるほどつらくて、そのうち、期待されることが重荷になり、ストレスが爆発して、些細なことから他校の学生と派手にやり合ってしまった。相手が怪我を負ったことから警察沙汰になり、停学を喰らった。

 そこから一気に世界が変わった。教師の目は冷たく、周りの視線は自分を遠巻きにして眺め、両親は自分を見て溜息をつくようになった。そんな彼らには、反抗心しか湧いてこなかった。家では喧嘩が絶えず、遂に両親は、外へ癒しを求めるようになり、家へ戻らなくなった。溜まり溜まった物を晴らすために、ボクシング部に入部して、殴り方を覚えた。ボクシングをたしなむ者としてのマナーなど、どうでもよかった。もともと運動神経のよかった瓜生は、みるみる上達していった。勉強も、どうでもよくなっていった。腕に覚えができると、自分にも自信がついた。髪も染め、ピアスを開け、外見でもなめられないようにした。
 
喧嘩が強くなると、周りに集まってくる輩が増えた。それでもよかった。誰にも見向きもされないまま、自分の存在価値を疑いながら生きていくより、ずっとよかった。喧嘩相手に怯えられ、恐れられ、憎まれ、恨まれ、自分の名が悪名となって広がっていくのは、いっそ気分がよかった。世の中なんてこんなふうにしても生きていけるのだ。金なんて、持ってる奴から奪えばいい。あるところにはあるのだ。上品に塾に通うお坊ちゃまたち、ゲーセンで湯水のように金を使う大学生たち。家には金なんてほとんど残っていなかった。そうやってカツアゲして、食うに困らなければいい。無理をしていた自分が馬鹿みたいに思えた。世の中を嘲り、せせら笑っていた。一生懸命になるなんて、つらいばかりでちっともいいことなんてない。自分についてくる馬鹿がいる。言ったとおりに動く手下のような仲間たち。そんな奴らでも、自分を祀り上げてくれれば気分が悪いはずもない。これでいい。自分の人生なんて、こんなものだ。
「・・・・・・そう、言い聞かせてた。自分が惨めに、ならないように・・・・・・。腕っ節の強さが人の強さだと勘違いしてた。・・・・・・そう、お前たちと、あんなことになるまでは」
 薬のせいだろうか。少し頭の芯が痺れるような眠気を、斗音は感じていた。瓜生の腕の中は心地よくて、響いてくる声も優しかった。彼の言葉は、耳にすんなり流れ込んでくる。
「・・・・・・お前を思うあいつの強さ・・・・・・こんなふうになってから、初めて怖いと思った。あの激情も・・・・・・眼光の強さも、俺にはない精神的な強さで・・・・・・。その上、その弟を必死に止めようとするお前の意志の強さとか・・・・・・そういうのを見て、力一杯頭を殴られたような、ショックを受けた。・・・・・・俺はなんてちっぽけで、みっともない人間なのかって。・・・・・・それで、心底悔やんで謝った俺に、お前は・・・・・・微笑んで見せた。俺は初めて・・・・・・許されたと知った・・・・・・」
 すぐ耳元で、瓜生の吐息混じりの囁きを聞いた。
「・・・・・・打ちのめされた。・・・・・・・・・・・・自分がどんなに薄っぺらな虚勢で生きていたのか、思い知った。・・・・・・てめえの金くらいてめえで稼げなくてどうする。・・・・・・授業についていけないと放棄して、何を得る?クラスの奴らを馬鹿にして、クラスを離れて・・・・・・馬鹿にされていたのはどっちだ。・・・・・・暴力で得られるのは、虚しさだけだ。・・・・・・沢山考えた。考えて・・・・・・考えて、俺は本当に俺が・・・・・・すべきだと思うことを・・・・・・することにした・・・・・・」
 ボクシング部最後の夏が近づいていた。ロードワークも兼ねて、新聞配達のバイトを始めた。朝早く起きてやっても、汗を流し、準備するのに手間取って、なかなか朝のホームルームには間に合わなかった。今までのこともあり、ホームルームはあまり出たくなかった。だから、保健室でサボることがほとんどだった。でも、授業には出た。分からなくても、構わなかった。理解する努力はした。それが大切なのだと、思った。それでも初めは、クラスに居場所なんてなくて、肩身が狭かった。自業自得だと分かってはいたけれど、やり切れないときもあった。それでも、今逃げ出すのは嫌だ、と思ったから、逃げなかった。
 そのうち、インターハイ予選も終わり、男子クラスだったこともあってか、いつの間にか如月祭を計画していく中に、引っ張り込まれていた。運動能力を認められ、長距離走に推薦された。無愛想でぶっきらぼうで横柄な言葉を遣うけれど、決してそれが本音ではないことを、クラスの仲間は知っていた。その外見で判断する人間は、3-3の中にはいなかった。いや、最初はいたのだ。瓜生が劇で役に推薦されたときに、そいつに任せて大丈夫なのか、と心配する人間はいた。だが、近藤が言ったのだ。こいつはそんな小さい器の人間ではない、と。
「・・・・・・嬉しかったよ。・・・・・・あんなしっかりした奴に、そんなふうに思われてたってことが。・・・・・・あとで聞いた。・・・・・・あのとき、全員のしでかした分全てを被って俺が謝ったから、そう思ったんだと。・・・・・・だから俺は、俺のできる限りで・・・・・・精一杯、最後の如月祭に尽くそうと思った。・・・・・・みんなが認めてくれた、期待してくれた、その気持ちに・・・・・・応えたくて・・・・・・」
 全て納得していた。瓜生が変わったわけ。こんなに優しい表情ができるようになったわけ。そのきっかけが自分だというのなら、嬉しいと思う。
(慈恩・・・・・・俺たち・・・・・・・・・・・・ここに二人でいた価値が、あったんだ。人一人が、こんなに・・・・・・喜びを感じられるようになったんだから・・・・・・)
 そっと首から下がるクロスを、右手で包み込む。
「・・・・・・椎名・・・・・・?」
「・・・・・・あなたが・・・・・・そう、思えて・・・・・・よかっ・・・・・・た・・・・・・」
 慈恩と如月にいてよかった。つらくても苦しくても、最高の如月祭にしようと頑張ってきた。それが報われたと思った。睡魔にさらわれて行くままに、意識を手放す。心地よいこの腕の中で、疲れを溜め込んだ身体を休めたかった。
「・・・・・・椎・・・名・・・」
 瓜生はそうつぶやいてから、完全に力の抜けてしまった華奢な身体を、そっと包み込んだ。

「・・・・・・ありがとな」

   ***

 結局一睡もしなかった。白々と夜が明けていくのを、ただ一人悶々としながら見ているしかなかった。
「おはようございます。あら、昨日の夕食。召し上がらなかったの?」
 土曜日なので、いつもより少し遅い七時少し前に沢村がやってきて、開口一番、そう聞いた。
「ああ、申し訳ない。斗音様が帰られなかった」
 三神の声音は硬い。苛々しているのは誰の目にも明らかだったが、ややぽっちゃりした身体に、やや大きめのエプロンをつけて、沢村は袖をまくりながら軽く流した。
「あらそうなの?珍しいわねえ。まあでも、高校生の男の子だから、これくらいあって当たり前かもしれないわね」
 くるりと踵を返し、一度三神を振り返った。
「あなたも食べなかったの?せっかく作ったのに、もったいないわね。今からでも温めましょうか?」
「・・・・・・いや、いい。朝帰ってくるかもしれないし、そのときに俺が食事を済ませていたら、気分が悪いだろう」
 
眉間にしわを寄せながら、溜息をつく。沢村は首をかしげた。
「そうかしらねえ?あの方、そんなに心の狭い方じゃないと思うけど?まあ、あなたがそう言うのなら無理にとは言わないわ。この夕食の分、もったいないから、うちへ持って帰っていいかしら。うちの今晩の夕食にしたいんだけど」
「構わない。代わりに、いつ帰って来られてもいいように、朝食の準備をしておいてくれないか」
 お許しが出たせいか、沢村は満面の笑みになる。
「分かったわ。まあ、今日はご馳走ね。こんな食事、なかなか家では食べられないもの・・・・・・」
 うきうきとキッチンへ向かう。そんな沢村が憎らしくさえ思えた。なんてのんきな主婦だろう。いや、主婦なんてのはそんなものかもしれない。単純で、自分さえよければ幸せで。所詮女の考えることなど、理解できはしない。だから好きになれないのだ。
(何をしてるんだ・・・・・・具合が悪くなって、病院にでも担ぎ込まれたのか?それならそれで、連絡があってもよさそうなものだし・・・・・・女の家にでも上がり込んだとか?有り得ない話でもないが・・・・・・それよりは男友達の方が可能性はありそうだな。男友達か・・・・・・あの人の場合、それでも十分危険だ。あの魅力は、男にでも通用する)
 三神の考える可能性は、どれも想像の範疇でしかなかったが、当たらずしも遠からずであった。
「三神さん、ちょっと荷物、置かせてもらうわよ。あら、何これ?」
 書斎の方から、声が聞こえてくる。三神ははっと顔を上げた。
「悪い、ちょっと昔の癖で。片付けておいてくれるとありがたい・・・・・・」
「そうね、斗音さんが見たら、びっくりされてしまうわね」
 何も気に留めなかったように、沢村の声が返ってきた。ほっとしながらも、三神は残り少なくなった煙草の箱を、ポケットの上からくしゃっとつかんだ。
(後で消臭剤も買ってこさせなければ・・・・・・)

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