« 三十二.如月祭 その五 (体育祭・後半) | トップページ | 三十四.煙草 »

三十三.近衛家

 手作りの如月祭に比べると、桜花祭はとにかく豪華で厳粛で重みがあって、そして慈恩にとっては空々しかった。全てのクラスの出し物は全て見ることができる時間があったし、むしろ必ず見なければならないようなシステムになっていた。だから、慈恩たちのクラスが取り組んだ能のステージも、ちゃんとプログラムに組み込まれていて、その時間は他に何もやっていない。だから、全校がその舞台を見るのだ。急場仕立ての名家跡取りである慈恩は、自分に能なんてとてもできないと言い張って、鼓を打つことになった。衣装もちゃんと、悠大の手配によって和装が準備された。もともと若武者っぽい慈恩には、それが素晴らしく似合っていたので、あの近衛がしみじみと感心するほどだった。
「お前、ほんとに和服似合うなあ。将来、こういう古典芸能をやるところへ弟子入りしたら?その世界で超モテモテかもよ」
「冗談。こんな堅苦しい格好、今日だけで十分だ」
「いや、案外向いてるかもよ。鼓だって、滅茶苦茶覚えるの早かったしさ」
「音楽には・・・・・・少し触れてたから」
 そう言って寂しそうに視線を落とした慈恩の肩を、近衛は励ますように叩く。
「でもそういうのって天性だからな。いつまでたってもリズム感のない奴はできやしねえんだぜ。和田なんて、お前の二倍かかって、お前よりはるかに下手なんだからな」
「部活ができなかった分、お前に教えてもらったりして、こっちに時間を割いてただけだよ」
 慈恩の膝はだいぶ回復していた。まだ無茶はできないが、素振りくらいなら何とかできる。しかし、今無茶をしてしまえば、新人戦に間に合わなくなる可能性が大きいので、近衛からはなかなかお許しが出ない。もちろん、この二週間は完全部活禁止を言い渡されていた。土曜日も私立なので午前中は授業、午後から部活という日程になっている桜花高校では、慈恩が土曜日後半にできることがなかったのだ。それを気遣った近衛は、わざわざ土曜日に鼓の先生を自宅に招き、慈恩にみっちり稽古をつけるよう配慮してくれたのだ。怪我のことをかなり不満がっていた重盛も、鼓の先生について、しかも近衛の家で稽古を受けることには大賛成で、日本の古典にぜひ触れて来い、と二つ返事で慈恩を送り出した。
 九月も下旬に入った土曜日に、学校で食事を終えて、近衛の指示で迎えに来た超高級車に彼の見送りつきで乗せられ、初めて近衛家を訪れた慈恩は、その豪邸っぷりに圧倒された。九条も尋常ではないと思うが、近衛家はそれを越えていた。敷地だけでも九条家のニ割り増しといったところだ。ちなみに、九条家の敷地だって相当なものだから、その二割の部分で、一般家庭の家が何軒も建つくらいだ。その上、家で仕えている者が総出で「悠大様」の大切な「御学友」を出迎え、上品で清楚で、かつ高級そうな和服を身にまとった彼の母が丁寧に挨拶してくれた。
「ようこそおいで下さいました。慈恩さん。お待ちしておりましたわ」
 一応丁寧な挨拶をしなければ、と考えていた慈恩だったが、具体的な言葉を考えていなかったのと、圧倒されまくった庶民派な脳みそのせいで、何を言えばいいのかと真っ白になってしまって、思わず口走ってしまった。
「いえ、こちらこそ・・・・・・悠大に、あ、いえ、悠大さんに格別のご配慮を頂きまして・・・・・・お世話になります」
 それを聞いた近衛の母親は、軽く目を見開いたが、次の瞬間には優しく微笑んだ。
「貴方のことは、悠大さんから聞かせて頂いています。今夜は夕食も準備させておりますから、どうかごゆっくりしていらして下さいね」
「え・・・・・・あ、ありがとうございます・・・・・・」
 そんなこと初耳だったのだが、なんと悠大は家の者を使いに出して、九条家に丁寧に挨拶つきで、そのことも伝えていた。
 練習も本格的で、練習用とは言え、衣装までちゃんと用意され、歩き方から動作まで細かく指導された。もともと剣道で礼儀作法などの基本は身につけていたので、慈恩は物覚えがいい、と、先生を唸らせた。
「さすが、悠大様の御学友となられると、違われますね。私たちは幼い頃から当たり前のように躾けられておりますが、それでもそこまで優雅な動きはなかなかできません」
 純和風のすっきりした目鼻立ちの先生は、先生といっても、そのような古典芸能に携わる家の次男で、家では弟子の身分なのだという。松平光郎太(まつだいらみつろうた)といってまだ大学生だというが、その落ち着きぶりは三十代と言われても納得できてしまいそうなほどだった。
「悠大様の指南役として何度かこちらにうかがわせて頂いたこともありますが、悠大様も本当に利発でいらして、すぐに私がお教えできることがなくなってしまいました。その時に似ております」
 慈恩は思わず苦笑したが、丁寧にお辞儀を返す。
「先生の教え方がいいということでしょう」
「とんでもございません。先生だなんて・・・・・・そんなに歳も離れておりませんから、松平と呼んで下されば結構でございます」
「あのう・・・・・・それは教わる身として、分不相応かと思うのですが・・・・・・」
 慈恩としてはそれが常識だったのだが、松平は静かに首を振った。
「こちらのお家柄の方が、私どもより格上でございますから」
 なんだそりゃ、と慈恩は思うのだが、先生の方は大真面目だった。その身に芯から染み付いた習性なのだろう。国民は皆平等と憲法で謳われてから、一体何年経過していると思っているのか。しかし、彼ら一族からしたら、そのような制度になってからの方が、短いのかもしれない。そこまでたどり着いた慈恩は、静かにうなずいて、微笑した。
「お考えは分かりました。でも、私の方が未熟者であることに変わりありません。ですから、私の意志で先生と呼ばせて頂きます。・・・・・・我がままを言って、すみません」
 松平の白い頬に朱が差した。深く頭を下げる。
「恐れ入ります」
 それから気を取り直したように、はにかむような笑みを見せた。

「それでは実際に鼓を打ってみましょうか」

 夕食は、徹底した和食なのかと思ったらそうでもなく、和洋折衷の豪華なものが準備された。しかも、悠大の部屋にご丁寧に運ばれてきた。いや、部屋というより、離れと言うべきだろうが。
「今風じゃないかもしれないけど、こういうの、悪くないぜ」
 珍しく自分の家を認めるような言い方をした近衛の、高級旅館の一室といった雰囲気の離れは、三十畳ほどの広さに床の間と縁側をあわせ持ち、素晴らしい日本庭園が望めるようになっている。入ってすぐに小さな玄関が設けられており、立派な靴箱も備えられている。上がると広くなっていて、奥に入り口が二つある。ひとつは洗面所兼脱衣室、その奥にちゃんとシャワーを備えた広い桧の香り漂う浴室となっており、もうひとつはやはり広い桧張りの手洗いとなっている。手前は外側が桧の引き戸となっているが、内側は襖である。そこを開けば三十畳の部屋、というわけだ。もちろん、テレビや冷蔵庫や電子レンジ、冷暖房も完備である。庭の手入れでもしていない限り、縁側から部屋の中は見えない。日当たりもよく、個室としては最高だった。
「元は茶室だったんだ。でも、一度うちが大掛かりな茶会を催すことがあって、こんな狭い部屋では立派な茶会ができないってんで、別の茶室を作った。二つも茶室は要らないだろうってことで、ここを改築して、俺の部屋にしたってわけ。ここにいれば家の人間に気遣いする必要もないし、気楽でいいだろ?」
「だから夕食も、ここに運んでくれたのか?」
 尋ねた慈恩に、いつものように左の唇を吊り上げるようにして笑みを見せる。
「お前にこれ以上堅苦しい思いをさせるのは悪いからな」
 おかげで慈恩は久々に気楽に夕食をとり、楽しく近衛と話に興じることができた。
「来週も、来るだろ?ていうか、来週のあとは本番だから、来週で最後だけど」
 桜花祭も前期と後期の境目に行われるのだが、それが十月の第一週となっている。如月祭からは一週間遅れといったところだ。
「俺はありがたいけど・・・・・・迷惑じゃなければ」
「迷惑?まさか」
 近衛は肩をすくめた。
「お前に怪我をさせた負い目のある俺に、それを言うか?そうでなくても俺は・・・・・・楽しかった」
 最後はつぶやくように言った友人に、慈恩は首を横に振る。
「負い目なんて感じなくていい。あれは不用意に身体を冷やした上、上の空だった俺が悪いんだ。それに・・・・・・そうだな」
 優しい微笑を載せた。
「俺も楽しかった。こっちに来て初めて人の家に来た」
 その言葉で、近衛の表情に笑みが戻った。

「そうか。よかった」

 翌週もやはり同じように慈恩は近衛家を訪れた。そしてやはり同じように歓迎された。それがあまりにもご丁寧なので、思わず慈恩は近衛の母親に尋ねた。
「ここは本当に丁寧な歓迎をしてくださるので、かえって申し訳ないくらいです。いつもお客人にはこのようなお出迎えをされるのですか?」
 すると、上品な美しさを備えた顔が、ほころんだ。
「いいえ。悠大さんが貴方に最高のもてなしを、と言ったのですよ。あの子がそんなふうに言うのは初めてでしたし、友人を家に招くことも滅多にないのです。それに・・・・・・」
 優しそうな笑みに、少しだけ嬉しさという成分が見えた気がした。
「あの子のことを名前で・・・・・・しかも貴方は呼び捨てになさったでしょう?わたくし、少し嬉しかったのです。悠大さんは人当たりこそいいけれど、本気で人と触れ合おうとしないようなところがありますから・・・・・・」
 さすがは母親だ。悠大の優等生っぷりが表面的なものだということを、薄々感じているようだ。思わず口走ってしまった自分の言葉を恥じた慈恩だったが、それが嬉しいと言われると、更に気恥ずかしかった。すみません、と口ごもりながら言うと、彼女は上品な微笑みのまま優しく首を振った。
「いいえ。これからも悠大さんと仲良くしてやって下さい」
「それは・・・・・・もちろんですが・・・・・・」
「貴方のように家柄だけでなく、人柄としても素晴らしい方に巡り会えて、きっとあの子は幸せです」
 家柄意識はあるものの、それが最優先というわけでもなさそうな言い方に、近衛の考え方の源はこの母親に発しているのだろうということは、何となく想像できた。
 鼓の稽古は、本当に基礎の基礎だけを教わり、あとは舞台で披露することになる演目での練習になった。
「ここは中心を、そしてここは少し手を下にずらして縁をたたくようにします。音が全く違いますから、それでメリハリをつけるのです」
 打つのはたちまち上手くできるようになった。むしろ慈恩が苦心したのは、合いの手の声だった。能は演じている最中、ずっと合いの手と鼓の音が響いているのだ。
「こう、頭蓋に抜けるような感じで・・・・・・ぃよぉ~っ、というふうです」
「はぁ・・・・・・」
 剣道でも掛け声を張り上げるのが苦手な慈恩である。鼓のリズムは上手く取れても、この独特の声を入れながらというのがなかなか難しかった。苦戦していると、松平が苦笑した。
「九条様の場合、声を一生懸命出そうとすることで集中力が散じてしまいがちになられるようです。まあ、この声があまり大きいと演じ手の声も聞き取りにくくなりますから・・・・・・貴方の声を生かして、低音で優しく入れるのがいいかもしれませんね」
「すみません・・・・・・」
 思わず謝ってしまった慈恩に、松平はニコニコと返す。
「いいえ。能にだって、無限の可能性があります。鼓も二人で打つと思いますが、その二人の声がそろっていない方が魅力的だったりするのです。片方が貴方のような美低音であれば、かえってその方がいいかもしれません」
「そうですか・・・・・・?」
 いまいち自分の声の質が信じられないのだが、そう言われるのだから、今の慈恩には言うとおりにするより他ない。低音での合いの手で練習を始めた。確かにその方が自分でも鼓に集中できた。ほぼ全部を通して練習し終わってから、たった二回とは言え、丁寧に教えてくれた松平に太鼓判をもらった。
「これなら大丈夫でしょう。高校の文化祭でこれだけおできになれば、何も問題ないと思いますよ」
「本当にありがとうございました」
 深く礼で応えた慈恩に、和風のすっきり顔が緩む。
「いいえ、こちらこそ。貴方のように、打てば響くような方と共に鼓の練習ができたこと、至極光栄でした」
 あまりにも丁寧な言い方に、慈恩は苦笑を禁じえない。
「あなたのような先生に教えて頂けて、光栄だったのは私の方です。感謝すべきは私です」
 それが松平には、ものすごく低姿勢に映るらしい。
「もったいないお言葉です」
 深々と下げた頭を上げてから、照れたように笑った。
「貴方のような人がこうして能に触れて下さって、興味をもって下されば、私どもは嬉しゅうございます。もし、少しでもやってみたいと思われましたら、遠慮なくお呼びください。いつでも馳せ参じましょう」
 それは申し訳ないから絶対にできないだろうと思う慈恩だったが、松平はかなり本気だったようだ。
「お前、それスカウトじゃねえの?」
 先週同様、近衛の部屋で豪華な夕食を気楽に頂きながら、松平に言われたことを報告した慈恩は、呆れたような声で応えられた。
「・・・・・・はは、まさか」
「まさかなもんか。やりたかったら呼べって言ったんだろ?そして、飛んで来るって言ってんだろ?そのまま連れて行かれるぜ」
「あ・・・・・・そう」
 よろしくなんて言わなくてよかった、と胸を撫で下ろす。そんな慈恩を、近衛は面白そうに見つめた。
「そんなに鼓の才能があったとはね。飯食ったら、ぜひ練習の成果、見せてくれよ」
「・・・・・・まあ・・・・・・ここまでして習わせてもらったんだから、その成果を見せるのは筋だと思うけど」
「けど?」
 やや困り気味の慈恩の顔を、不思議そうに見る。その視線に気づいた慈恩は、思わず苦笑した。
「俺、褒められるほど上手くは、絶対ないと思うぞ?」
「だったら尚更見たい。俺、お前のいまいちな姿って、見たことないから」
 近衛の唇の左端が、にやっと吊り上がった。やれやれ、と慈恩は肩をすくめる。えらく買い被られたものだ。
「でもあれ、一人でやるのはなかなか照れるっていうか。代わりにお前も、鬼の舞合わせてくれるとやりやすい」
 近衛は知的な造りの顔を破願させた。
「じゃあ、一緒にやってみるか」
 食事を綺麗に片付けてくれた使用人に、近衛は鼓と扇を持ってこさせた。広い三十畳の部屋は、少々暴れても音を立てても、外にはなんら影響はなかった。そこで初めて慈恩は、松平以外の人間に鼓の腕を披露したのだが、近衛も舞をクラスメイトに見せるのは初めてだった。近衛の舞は優雅で、時に激しく足を鳴らし、美しくひらりと跳んで見せた。タイミングもぴたり。逆に慈恩が感心してしまった。
「すごいな悠大。お前も練習してたのか?」
「まさか。この演目の外にも、いくつか習ったことがある。うちのじいさん、能を守る会とかの会員でさ。若者がそういうのに触れていくべきだとか言うもんだから、俺、小学校の時からあの光郎太さんとか、その上の蝶郎太(ちょうろうた)さんに時々習ってた。それをみんな知ってたから、俺に講師のツテ頼んでたんだろうしな」
 知らなくても間違いなく近衛が頼まれていたのだろうが。
「それより、能の鼓って、もっと高い声で合いの手入れるんだと思ってたけど、そういうのも有りなんだな」
 こちらも感心したように言う。言われた方は笑うしかなかった。
「できなかったんだ。やろうとはしたんだけど、あの声を出すのが難しくて、その上気恥ずかしいもんだから、鼓を打つのがおろそかになって。両立できずに悪戦苦闘してたら、先生が低い合いの手も有りかもしれないって助け舟を出してくれた」
「はあ、なるほど。でも、なんかお前がやると、艶やかでいいな」
 くす、と笑いながら、扇で鼓を打つ。和楽器らしい渋い響きを伴って、鼓が鳴る。
「実は俺、あの鼓の高らかな合いの手、あんまり好きじゃなくてな。唄が聞こえなくなるだろ?唄だって、ただでさえ分かりづらい古文なのに、高らかな合いの手がそれを聞き取ろうとするのを邪魔しちまうときがある。でも、お前みたいなのは悪くない」
「そんなもんかな?」
「能を守る会の会員の孫が言ってんだぜ」
 手に持った扇を勢いよく振って開き、それを突きつけるようにする。

「信じろよ」
 
栗色の瞳が真っ直ぐ漆黒の瞳を見つめる。漆黒の瞳が凪いだ。
「能を守る会員の方はよく知らないけど、お前が言うなら信じるよ」
 一瞬、栗色の瞳が大きく見開かれ、次に優しく笑みを含んだ。その表情の作り方が、母親に似ていると思った。
「慈恩。今日ここに泊まっていかないか?」
 突然の誘いに、今度は漆黒の瞳が大きくなって、パチパチと瞬きをする。漆黒の長い睫毛が音を立てそうだ。
「何でその展開になるんだ?」
 にやっと近衛らしい笑みが閃いた。
「もう少し、お前と話がしたいと思った。我がままだと思うか?」
 慈恩は少し瞬きする時間を置いてから、微笑した。
「思うよ。でも俺は構わない」
 開いた扇を、近衛は器用に片手でパシン、と閉じた。

「決まりだな」

 近衛の部屋での宿泊は、まさに修学旅行気分だった。もちろん和室なので、使用人が何人か来て丁寧に布団を準備してくれた。
「お前、パジャマ着る派?」
「どちらかと言えば」
「じゃあ、出しとくから、それ着てくれ。タオルとか、好きに使ってくれればいいから」
「ああ。ありがとう」
 桧の浴槽に浸かりながら、改めて贅沢だと感じる。本当にこれは、個室に温泉のついた高級旅館と変わらない。生活用品が整っている辺り、それよりずっと便利なくらいだ。風呂から出ると、全部新品のタオルや衣類、歯ブラシや歯磨き粉までが一式綺麗に準備されていた。
(出しとくって・・・・・・ここまで客用に準備してあるのか?パジャマも新しそうだし)
 やや気後れしながらも、厚意を無にするわけにはいかず、ありがたく使わせてもらった。めちゃくちゃ肌触りのいい高級綿素材のパジャマは、黒で白の縁取りがされていた。自分が普段使っているものにデザインが似ているので、その質感以外はそれほど違和感がない。
「お前、何でも似合うんだな。黒は似合うと思って用意させたけど、たかがパジャマがこんなに似合う奴、初めて見た」
 出てきた慈恩を見るなり、近衛が嘆息した。慈恩としては微妙な気分だ。
「それは褒められてるのか?皮肉られてるのか?」
「褒めてるに決まってるだろ。俺の口調が天邪鬼なだけだ」
 あっさり己の非を認めて、ぽい、と白いものを投げる。反射的に受け取ったものは、包帯だった。
「ちゃんと湿布貼っとけよ。机に出しておいたから」
「ありがとう」
 自分が今出てきたところへ入っていくのを見送ってから、慈恩は慣れた手つきで膝の裏に湿布を当て、器用に包帯を巻いた。途端、携帯が鳴り出して、慌てて取る。表示を見なくても、設定された着メロでそれが誰だか理解している。
「もしもし」
『慈恩?どう?足の怪我、よくなってる?』
 擦れた声が問い掛けてくる。まるで今の行動を見透かされていたようで、思わず苦笑する。
「随分いい。お前こそ、声が擦れてるんじゃないか?発作でも起こした?」
『ううん。少し、疲れてるだけ。なんか、緊張の糸が切れちゃったせいかな』
「・・・・・・そうか。ほんと、お疲れ様。どうだった、如月祭」
『大成功だったよ。慈恩に話したいこと、沢山ある』
 その割には、少し元気がないような気がした。ふと心配になる。
「今日はゆっくり休めたのか?」
 擦れた声が微かに笑った。
『久しぶりにゆっくり眠れた。・・・・・・でも、やっぱりちょっと疲れてるかな。昨日少し、熱があったから』
 心臓がすっと冷える。
「風邪ひいたのか?」
 少し間があいた。斗音が微笑んだのだと分かる。
『どうかな・・・・・・少し喉の痛みもあるし、そうかも。でも、大したことないよ。心配しないで』
「無茶言うなよ。心配に決まってる。明日打ち上げだって言ってたっけ。あんまり具合が悪いようだったら、無理するんじゃないぞ?」
 また斗音が笑った。
『相変わらず過保護。分かってる。無茶はしないよ。それより左足首、ひねったことの方が痛手かな』
「ひねった?体育祭で?」
『ううん、階段踏み外して。一週間くらいはバスケできないかなぁ。慈恩の気持ちがよく分かるよ』
 思わず片手で頭を抱えた。
「馬鹿。そんなとこで気持ち分かってもらっても嬉しくないぞ。どうしたら階段なんか踏み外すんだ」
『どうしてか自分でもよく分からないけど、なんか疲れたなーとか思って、ボケっとしてたら落ちた』
「腫れてないか?ちゃんと医者には行ったのか?」
 傍にいてやりたい。こんな自分の傷に包帯を巻いている場合ではないのに。不器用な斗音はちゃんと綺麗に包帯を巻けるだろうか。熱はちゃんとひいたのだろうか。具合の悪さは、すぐにごまかしたがる斗音のことだ。嘘は言っていないと思うが、心配させないように症状を軽めに言っている可能性はある。
『医者には・・・・・・行ってないけど、ちゃんと手当てはしてもらったから大丈夫。本当。これでも駄目なら、ちゃんと接骨院に行くよ。ねえ、それより、みんなで慈恩に見せたいからって、一杯写真とか撮ったんだ。その内時間見つけて、みんなで集まろうって言ってんだけど』
 珍しい誘いだった。如月祭を控えていた斗音は、いつも申し訳なさそうに、自由になる時間がないと言っていたから、椎名の家を出てからまだ一度も、如月の仲間どころか斗音にも会えずにいたのだ。胸が高鳴る。けれど、そのことで斗音が無茶をするのではないかと、不安も湧き上がる。
「そうだな。でもまず、お前がしっかり風邪と足を治すこと。それが条件だぞ」
『分かった。じゃあ、頑張って治すから。それで如月祭のことだけど、慈恩何が一番聞きたい?全部はとても言い切れないと思うから、とりあえず今日は慈恩が一番聞きたいこと話すよ』
 上手に話を逸らされた気もしなくもないが、話したくて仕方がない様子の斗音が、兄と長い間慕ってきたにも関わらず、無邪気で可愛いと思う。だから、話を合わせた。
「うーん。じゃあ、体育祭。どうだった?どこが優勝した?」
『すごい!俺もそれが一番言いたかった!総合優勝、赤団が取ったんだ!で、応援も準優勝だよ!』
 一気に斗音の声が元気になる。声の擦れ方はやや気になったが、それでも斗音が元気になってくれたので、少し安心する。そして、斗音の団が大活躍したことに、心から嬉しさがこみ上げる。
「すごいじゃないか!それ、ほとんど赤団総なめってことか?」
『それがね。すごい接戦だったんだよ!総合準優勝と応援優勝が青団だったんだ!』
 ズキン、と胸が痛んだ。こみ上げる嬉しさと混ざって、なんだか泣きたいような気分になった。もちろん声にそんな要素は一ミリグラムも含ませなかったが。
「じゃあ青と赤でおいしいとこ全部もってったってことか。きっと嵐が大きく貢献したんだろうな」
『体育祭の中で一番目立ってたよ』
「はは、やっぱり。応援とか、ビデオで見たいな」
『だろ?そう思って、放送部に借りる約束したんだ。ね、俺、気が利くだろ?』
 妙なハイテンションに、少しだけ違和感を感じながらも苦笑する。
「はいはい。で、どんな感じだったんだ?」
『そんなの、言葉で説明しきれないよ・・・・・・。ねえ、慈恩』
 ハイテンションだったハスキーボイスが、つかえて、更に擦れた。心臓をつかまれた気がして、はっとする。
「斗音・・・・・・?」
『慈恩が、いたらさ。俺の団が総合優勝で応援準優勝で、慈恩の団が総合準優勝、応援優勝、だったんだ。すごい、最強の・・・・・・双子、だよね』
 涙を必死で堪えているのが分かる。そんなこと考えて、つらい気持ちになんて、ならなくていいのに。まるで自分の痛みが伝わってしまったかのようで。込み上げる熱い塊を無理やり飲み下して、ゆっくり吐息した。
「・・・・・・そうだな。でも、お前も翔一郎も瞬も嵐も、みんないい思いができてよかった」
『こんなこと、俺に言う資格はないと思うけど・・・・・・この思いを分かち合える中に、慈恩がいたらって思ったら、何か急に・・・・・・ふふ、ごめん。馬鹿みたい。一番つらいのは慈恩なのに。それを慈恩は我慢してるってのにね。やっぱ俺、兄貴失格』
 無理に笑ったりして。震える声に、華奢な身体を震わせて泣き出したいのを我慢している姿が目に浮かぶ。その震えを止めるために、抱き締めてやれたらいいのに。今すぐに、この手を伸ばして。空いている方の手を強く握り締めた。その想いだけでも、伝わるといい。
「俺を見くびるな。お前の感じたこと、これでもかって伝わってくる。もっともっと、話してくれ。沢山知りたい。お前が何を見て、何に感動して、何を思ったのか。俺は絶対に共感できるから」
 数秒、間があいた。次に聞こえた声は、完全に涙声だった。
『任せてよ。携帯の充電切れるまで、しゃべり続けてやるから。だから、充電の残りがほとんどなくなったら、教えてよ。途中で切れんの、ヤだから』

「ああ・・・・・・分かった。ちゃんと教えるから、安心して好きなだけ話せよ」

 当たり前のことで別に深い感慨もないのだが、近衛は桧の香りを肺一杯に吸い込んだ。これを慈恩と共有できるなら悪くないと思う。自分が初めて興味をもった人間である彼となら。
 
彼を初めて知ったのは、小学生のときだった。剣道は小学校一年生から始めていた。礼節を身につけるためだとか、厳しさを身をもって知るためだとか、心身ともに鍛えるためだとか、様々な理由はあった。でも、別にやりたかったわけではない。別に逆らうほど嫌でもなかったから、とりあえずやっていたくらいだった。体面的なこともあったし、勝てばそれなりに嬉しいし、逆に負けるのは癪だったから、稽古をサボりはしなかった。三年間はずっと、そんな気持ちでやっていた。持ち前の器用さで、同級生の中では一、二を争っていたが、特に実力が抜きん出ているわけでもなかった。
 
四年生になったばかりの春。小学生の団体戦が行われた。各学校から三チームまで出場できる都大会で、かなり大規模なものだった。もちろん、六年生や五年生の上位の子供たちがチームの構成員となっていたのだが、そのうちの一人が突然盲腸で入院してしまった。一人でも足りなければ、団体戦は成り立たない。かといって、あまり技術の不足する者でも、団体戦は足を引っ張るだけだ。そんなわけで、頭脳プレーのできる近衛がその抜けた穴を補うことになった。今思えば、それも近衛の家名が響いていたのかもしれない。
 
その会場で、異彩を放つ少年がいた。鋭くキレのある技。磨き抜かれたそれを一目見て、目を奪われた。なんてすごい小学生がいるのだろうと思った。背の高い少年だったから、六年生か、良くて五年生だろうと思った。そうしたら、四年生だということで、みんなが騒ぎ出したのだ。
「嘘だろ?あれが四年生?馬鹿な!」
 少年団のコーチが本音を思わず吐き出したのを、今でも忘れない。堂々としていて、六年生とでも全然気後れせずに対等に打ち合い、それどころか勝利を収めるのだ。団体戦で彼はAチームの副将を務めていた。
(・・・・・・すごい。なんて奴だろう)
 たかがCチームの先鋒だ。彼と対戦することは、百パーセントない。そうは思ったけれど、胸の高揚感は抑え切れなかった。

(かっこいい!)
 
あんなふうになりたい。あんな奴と、対等に戦えたら。そう思った。同じだけしか生きていない人間同士、自分にできないはずがない。もともと一般的な子供の能力に比べたら、近衛のそれは優れている方だった。大して頑張らなくても、同級生たちより一歩リードできるような少年だった。それが、圧倒的な差を見せ付けられたのだ。初めて。剣道が上手くなりたい。頑張りたい、と、そう思った。その時は、「椎名」という名字しか分からなかったが、しばらくして個人戦にも出場していた彼の名が、トーナメントを駆け上がっていくのを見て、フルネームが「椎名慈恩」というのだと知った。確かその大会では、四年生ながら全国にまで行ったと記憶している。

 それから稽古に力が入り、もともと素材としてはかなりの質を持っていた近衛は、どんどん力を伸ばしていった。いつもその目が追いかけていたのは、あの日の慈恩の姿だった。今でもあの姿は、自分の中に焼きついている。
 
しかし、なかなか彼とは対戦できなかった。中学でも高校でも、先輩優先の部の方針は貫かれており、私立ということで公式戦への出場機会も少なかったのだ。それでも近衛の中で、慈恩への憧れは衰えることがなかった。どんなに強い先輩たちを見て、淡い尊敬の念を抱いたとしても、時折大会で慈恩を見かけると、やはり自分が追い求めているのは彼の姿なのだと、自分自身が思い知らされた。インターハイ予選で彼を副将にした如月高校に桜花高校が惨敗したときも、そのレベルの高い剣道に見惚れていた。もちろん、そんな心の内を誰かに見せるような真似は、一切しなかったが。
 そんな彼が、九条と名乗って自分のクラスで淡々と挨拶をしたとき、自分の感覚全てを疑った。いつもただ一人、目標にしていた人物が、手の届く位置に現れたのだ。身体を駆け巡る歓喜の思いが、自分の思考を麻痺させてしまうかと思った。震える身体を抑えるのに、自分の理性を総動員しなければならなかった。なのに、それなのに。
(何だかなあ・・・・・・滅茶苦茶大人っぽいくせに、どこか天然っぽくて、かと思えば何か危うくてほっとけねえし。そのくせすごく冷静だったりして。精神的に鍛えられてる分、色々とカバーしてるんだよな)
 知れば知るほど、それら全てに魅力を感じずにいられなかった。新しく彼のことを知るたび、惹かれていった。自分の考え方に近いものを持っていて、それも気に入った。初めから何の気負いもなく自分を出せた。だから、傍にいたいと思った。ずっと自分を抑えてばかりで、誰にも心の内を知られないようにしてきた今までの人生が、いかに色あせたものだったかを知った。もはや彼の存在しない生活は、考えられなかった。
(あいつは未だに、何で俺が入れ込むのか、理解できてないみたいだけどな)
 思わずその鈍さが思い出されて、笑いが込み上げる。すごく頭がいいくせに、自分の魅力や価値を、全く意識していないのだ。それもまた、彼の魅力のひとつに違いない。その慈恩を一晩独占できるのだと思うと、何か身体の奥から震えが来そうなほどだ。
(あいつの素顔、もっともっと見てみたい。どうしたらあんな人間ができあがるのか、知りたい)
 こんなにワクワクしたことが、これまでの人生にあっただろうか。慈恩に出会わなければ味わえなかった、この豊かな感情。色彩豊かな世界。
(さてと・・・・・・。風呂上りに何か飲み物でも用意させるかな・・・・・・)
 ジンジャーエールがいいか、レモネードがいいか、それとも冷たいハーブティーにしようか。色々考えながら戸を開けると、慈恩の声が聞こえた。携帯で誰かと話しているのだと、すぐ分かった。そのままにして、ドライヤーで髪を乾かし始める。
「そうか、近藤さんも頑張ってるんだな。え?文化祭?・・・・・・ああ、そうだったな。うん。・・・・・・へえ、それは楽しみ。・・・・・・はは、そうなのか?・・・・・・うん、そろそろヤバイかな。・・・・・・ああ。じゃあ、とにかく身体には十分気をつけろよ。執行部のみんなによろしく伝えてくれ。・・・・・・おやすみ」
 彼の声が聞こえなくなるまで、何となくドライヤーの音を立てていた。電話中に出て行くと、気まずい思いをするかもしれないと思ったからだ。慈恩には、この部屋で気を遣ってほしくなかった。
 会話が終わってからドライヤーを片付けて、部屋に戻る。
「何か飲み物を持ってこさせようと思うけど、リクエストは?」
 近衛の第一声に、用意された布団の上で足を投げ出していた慈恩がふっと振り返って、少しぼんやりした表情を浮かべていたが、それから静かに、彼らしい微笑を浮かべた。
「任せるよ」

 言うと思った。と、軽く吐息して笑みを載せる。そこで勝手に、冷たくても身体は冷やさないジンジャーエールにしようと決めた。もちろん、近衛の家で市販のそれが出てくることはない。電話の内線で使用人にそれを告げる。これでしばらくすれば、ジンジャーエールが届くはずだ。
「・・・・・・さっきの、如月の友達?」
 慈恩が何だか妙にぼんやりしていて、これといった話題もなかったので、そう聞いてみた。慈恩の漆黒の瞳が、近衛に焦点を合わせる。微かな笑み。何だか少し、悲しそうに見えた。
「・・・・・・いや・・・・・・友達じゃない。・・・・・・兄貴」
「そっか。よく連絡取るのか?」
「・・・・・・そうだな。まあ、週に一度くらいは。・・・・・・今週は・・・・・・如月祭が、あったから」
「へえ。どこでも同じくらいにやるもんだな。やっぱり文化祭と体育祭があったりするんだろ?」
 あまり前の学校のことを思い出させるつもりはなかったが、少しだけ、聞いてみたかった。目を伏せるようにして静かにうなずいた慈恩は、ぽつぽつと、如月祭の概要を話してくれた。全て自分たちの手で創り上げていくその内容に、何だか羨ましさを感じた。楽しそうだと思った。途中までそれを根本で動かしていながら、一人離れなければならなかった慈恩のことを思い、悲しそうに見えるのも無理はないと思った。
 やがて、使用人の女性が一人、丁寧に二人分のジンジャーエールを届けてくれた。ひとつを慈恩に勧め、自分も口にする。
「・・・・・・これ、手作りだな・・・・・・。すごく美味い・・・・・・どうやって作るんだろう」
 一口飲んで独り言のように言ったのは、近衛がそれを知らないと分かっていたからだろう。
「レシピ、聞いてやろうか?」
 ストローでかき混ぜると、氷の涼しげな音がする。美味いと言ってくれたことが嬉しかった。微笑んだ慈恩がうなずいたので、再び内線で、明日の朝までに準備するよう伝えた。その言葉を聞いていた慈恩は、これまた心ここにあらずの状態で、つぶやく。
「明日・・・・・・晴れるのかな・・・・・・」
「明日?何かあるのか?」
 問い返すと、静かな微笑でかぶりを振る。なんでもない、と、整った唇が、形だけ笑みを作る。少し悔しかった。何に心を囚われているのかは、よく解らない。でも、あの電話からずっとこの調子だ。それでも知りたいのなら、とテレビをつける。番組表から天気予報をやっているチャンネルに合わせる。
「今夜も晴れるので、放射冷却が予想されます。明日の朝はやや冷え込むでしょう。しかし、日中は日差しもあり、暖かく感じそうです。東京では二十度を越えるところもあるでしょう・・・」
「晴れだってよ」
 言ったのが聞こえているのかどうかも怪しい。手にグラスを持ったまま、じっとテレビ画面を見つめている。心の中がちりちりとストレスを感じた。如月のことを詳しく思い出させたのは自分だし、そのことで慈恩がそちらに心を馳せているのだろうということはよく解る。解っていても、自分がそれに代わる存在になれないことが寂しかったし、今現在、目の前にいるはずの自分が、その漆黒の瞳に映らないことがやり切れなかった。
 近衛はパソコン机にグラスを載せ、その引き出しを開けた。これまで、吐き出すことができなくて、自分の中にどうしてももやもやが溜まった時に、時折吸っていた煙草の箱がのぞく。吸い始めたのは中学で部活を引退してから。もちろん、そんなものを頻繁に愛用していれば、心肺機能が弱まってしまうことは重々承知していたから、吸うのは本当にむしゃくしゃした時や、何かに逃避したい時だけだったのだが、今は無性にその味が恋しかった。
 ちらりと慈恩に視線を向けたが、変わらず放心状態に近い様子で、とっくに天気予報の終わったテレビ画面を、瞳に映している。気づいて欲しかった。それに、こんなものを吸っていると知ったら、彼はどんな反応を示すのだろう、という興味もあった。一本取り出し、ライターを使ってそこそこ慣れた手つきで火を点けた。一瞬紙の焦げる、香ばしいような香りが漂い、それを吸い込んで吐き出すと、薄い白煙が空気を染め、ゆっくり散じて消えていく。おおっぴらに吸うことはできなかったから、あるのは携帯用の灰皿だけだ。それを手にして、慈恩の近くで胡坐をかいた。それでも慈恩の瞳は動かない。煙草の匂いが部屋に広がる。気づかないはずはないのに、反応は特にない。
(何だよ。そんなに俺はどうでもいいのか?)
 変わらない表情は、いつかの陶器の人形のようで、どうにかしてそれを変えてやりたかった。
「・・・・・・慈恩」
 そっと呼びかけてみるが、喉の奥で小さく、ん、と応えるだけで、瞬きすら忘れてしまったようだ。
(その目は何を見てる?聞こえてるくせに、聞いてないし。こっち見ろよ)
 深く煙を吸い込んだ。ゆっくり吐き出すと、漂う白いもやが慈恩の周りに漂う。
「慈恩」
 今度はすぐ耳元で囁く。間近に見る肌は、どちらかというと白くて、漆黒の瞳や髪を際立たせている。整った顔立ちだ、と改めて思う。だが、慈恩の反応は全く同じだった。煙草を持っていない左手を布団について、そっと伸び上がるようにする。近づいた端正な顔。それでもまだぼんやりしたままのその瞳。動かない唇。
(俺を、見ろよ)
 閉じたままの唇に、自分のそれを軽く押し当てる。映すものが曖昧だった漆黒の瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。

|

« 三十二.如月祭 その五 (体育祭・後半) | トップページ | 三十四.煙草 »

十字架の絆」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1084546/29066337

この記事へのトラックバック一覧です: 三十三.近衛家:

« 三十二.如月祭 その五 (体育祭・後半) | トップページ | 三十四.煙草 »