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2009年4月

三十二.如月祭 その五 (体育祭・後半)

 体育祭の昼食は、文化祭のときのように喫茶や露店があるわけではないので、普段どおり主に弁当か売店か学食となる。桜花高校とは違って学食はリーズナブルなお値段で利用できた。しかし、それですら毎日となると食費がかさむというので、公立高校に通う一般ピープルらしく利用者はさほど多くない。
 
慈恩がいた頃は、さすがに朝早いのに弁当まで作るのは大変だったので、大概売店で適当なものを買って食べるのが斗音の習慣だった。今は沢村が準備してくれようとする。しかし、えらくご大層な弁当を作りたがるし、いつも一緒に昼食をとる翔一郎、最近では時折嵐も加わっているが、彼らが売店愛好者なので、弁当五割売店利用五割といった感じだった。しかし、弁当だと食べきれないので、いつも一緒に食べる仲間に分けることになる。ちなみに今日は売店で買ったが、午前中の団体競技である女子の棒引き、一・二年男子の棒倒し、三年男子の騎馬戦の結果をまとめるために、本部で作業をしていたため出遅れ、売れ残りのメロンパンと自販機のコーヒー牛乳という質素なものだった。しかし、どうせ食欲もないことだし、それが今更減退したって大差ない。
 
一緒に食べる仲間の中で、瞬だけは毎日母親の作った弁当である。彼は小さい頃本当の母親を亡くしているので、今の母親は父親の再婚相手である。非常に瞬のことを可愛がっているし、かなり過保護らしい。毎日丁寧に作られた弁当がその一面を見せているのだが、瞬はよく平気で人のおにぎりなどと弁当を交換したり、中身をトレードしたりする。母親が彼に寄せる愛情と瞬の母親に対する想いには、大きな差がある。
「俺、ちゃんと賭けに勝ったんだから、翔一郎、そのたらこマヨおにぎりとこのご飯、チェンジだよ」
「げ。お前、鬼だな。俺が好物なの知ってて」
「だーめ!そもそも人を見くびるからそういう羽目になるんだよ。じゃ、もーらいっ」
 そんなあ、と翔一郎は切なそうに、ビニールを剥がしたばかりのおにぎりが、瞬の口に入っていくのを見つめた。
「ん~、おいしいっ!やっぱおにぎりはこれだよね~。あ、ほら、おかずもあげるからそんな未練たらしくしないでよ」
 そもそも賭けになった原因は、一週間ほど前の体育祭練習までさかのぼる。個人種目の練習で、百メートル走の練習をした瞬が、調子のいい翔一郎にちょっとぼやいたのだ。
「百メートルならそんなに運動神経いい人いないと思って選んだのに、一緒に走るの結構速い奴ばっかりなんだよね」
 そこで、苦笑した翔一郎が間髪入れず応答した。
「そんなしょうもない理由で種目選ぶからだろ。大体お前、短距離向きじゃないんだから。ハードルとかにすればせめて二位とか三位、狙えたかもしれないのに。あれなら練習次第でどうにかなるし」
 ほぼ翔一郎限定でわがまま姫になる瞬は、むろんふくれっ面になった。
「悪かったね、運動神経悪くて。いいよ、絶対百メートルで一位になってやる」
 そんなふくれっ面のお姫様の肩をぽんぽんとたたいて、翔一郎は笑った。
「無理すんなって。心配しなくても、走りさえすれば1点は入るんだから」
 そこで瞬が吹っ掛けたのだった。
「無理じゃないっ!絶対一位でゴールしてやるからね!その代わり、俺が一位になったら一週間、翔一郎の昼ご飯は自由にならないと思っててよ!」
「お、やる気になったな。その気なら百メートルでも三位くらいは狙えるかもな」
 軽く流してしまった翔一郎だったが、なんと本番、瞬は見事一位を獲得してしまったというわけだ。
「でも、それなりに速い奴そろってたんだろ?よく勝てたな」
 感心しながら鶏五目のおにぎりを頬張る嵐に、瞬は肩をすくめて小さく舌を出した。
「ごめん、小細工しちゃった」
「え?まさか、靴の中に画鋲とかいうレトロな方法でも?」
 どうやら翔一郎も瞬限定で、ややからかい気味の口調になる癖があるらしい。そんな翔一郎をちらりと見て、瞬はまさか、と肩をすくめる。
「そんな馬鹿なことしないよ。ていうか、思いつきもしないよ。翔一郎じゃあるまいし。フライングしただけ」
「・・・・・・わざと?」
「半分はね。でも、用意って言われてからピストルが鳴るまでちょっと長かったから、気合入れすぎでちょっと身体が前に出ちゃったんだ。そのときふと思ってさ。フライングがあったら、みんな次はスタート慎重になるかなって。で、ついでに一歩」
 その瞬間ピストルが鳴ったので、他の選手も焦って飛び出したらしい。そこでもう一度ピストルが鳴らされ、フライングを取られた。しかし、フライングは二度しなければ失格にはならない。最初からそのつもりで飛び出す覚悟を決めていた瞬は、思い切りよく飛び出し、最高のスタートをした。逆に他の選手たちは一瞬躊躇ったせいで、かなりいまいちのスタートとなった。短距離ゆえ、そのスタートダッシュが最後まで響いたのだ。
「まあ、よく言えば頭脳プレーじゃない?一種の駆け引きみたいなもんだし」
 くすくす笑う斗音に、嵐が肩をすくめて見せた。
「悪く言わなくても、かなりせこいけどな」
 如月高校の体育祭で、花形種目のひとつである長距離を、二年連続で制する実力の持ち主には、瞬の気持ちは理解できないかもしれない。
「まあそう言ってやるなよ、嵐。お前には尋常じゃない運動神経が備わってるから、そう思えるんだよ」
 嵐の言葉に笑いをこぼしつつ、翔一郎が瞬の弁当をつつく。言われた方はシニカルな笑みで応じた。
「何言ってんだ。お前にあんな尋常じゃない跳躍力があったなんて、俺は初めて知ったぜ」
「ん?ああ、うん。あれはまあ、正直自分でもびっくりだった」
 やや決まり悪そうな、照れた笑みが、翔一郎らしい。
「直前に頑張れって聞こえたんだ。独特のハスキーボイスで」
 長い指でつん、と斗音の頬をつつく。きょろ、と斗音が翔一郎を見遣ると、くす、と笑われた。
「調子悪いくせに大声出して叫んでるからさ、応えなきゃと思って探したら、こいつぽけーっとしてるから。なんかおかしくて、妙にリラックスできたっていうか」
 斗音は苦笑した。胸がじんわり温かい。
「聞こえるとは思わなかったんだよ」
「爽やかな顔して結構地獄耳?」
「なんか擦れた感じだったから、逆に他とは違って聞こえたんだ!」
 ムキになって言い返す翔一郎の跳んだ1メートル80センチを、結局今井は越えられなかった。弓削はその後二段階を突破し、体育祭新記録となる1メートル90センチという数字を打ち立てた。よって緑団は三年一位としての12点、記録一位としての15点、体育祭新記録の5点と、個人競技最高の32点を得た。団体競技でも一位の団は60点、二位の団は50点といった配点なので、一人で団体競技の最高得点の半分以上を稼いだことになる。そして翔一郎は、二年一位としての12点、記録二位としての10点、合計22点を赤団に加点した。
「おかげで赤団がトップになっちまったじゃねえか」
 ペットボトルのお茶でおにぎりを流し込んでから、嵐が茶化すように付け足す。赤団の三人がそろって、くるりと嵐に向き直る。

「何がいけないのさ」
「何か問題でも?」
「てか、お前に言われたかねーよ」
「あ、ひでえ。俺だけのけ者?あ~あ、慈恩がいたら一緒に非難できたのに」
「「「しなくていい!」」」
 三人の声がそろった。嵐は首を縮こまらせておどける。
「だってなあ、斗音。俺には頑張れって言ってくれなかったし。俺だって寂しいわけだ」
「よく言うよ。朝会ったときに言っただろ?」
「俺も直前に言って欲しかったなあ。そしたらもっといい記録出したのに」
「「「出さなくていい!」」」
 再びハスキーボイスとやや可愛らしい声と低めの透る声が、和音を奏でた。更にやや可愛らしい声が畳み掛ける。
「大体さあ、8分57秒って何?今までの体育祭記録が9分12秒だよ?8分台なんて反則だよ!」
 更に低めの透る声が追い討ちを掛ける。
「二位の陸上部長距離選手、しかも三年生相手に半周の差をつけてゴールだぜ?それ以上何を望むってんだ」
 ハスキーボイスが立て板に水で点数をはじき出す。
「長距離走男子二年生一位12点、記録一位15点、更に体育祭新記録で5点、計32点。弓削先輩と同じ点数を青団に加点。ちなみに個人種目で入れられる一人の点数は最高で32点。何か不満でも?」
「あー、はいはいすいません、ありませんよ。斗音まで冷てえなんて反則だぜ」
 ちぇっと言わんばかりの表情で、嵐が吐息した途端、
「お前のがよっぽど反則だ!」
「反則なのは嵐だろ」
「嵐に言われたくないでしょ」
 今度は同じ内容を様々な言葉で同時に投げ掛けられて、嵐は手を上げた。
「はいはい、降参です。これ以上俺を苛めないで下さい」
 苦笑ながらも茶目っ気たっぷりの嵐に、やれやれと翔一郎が吐息した。
「黄団の森さん、赤団の近藤さん、紫団の福山さんと、三団の団長もいたんだぜ?それを全く寄せ付けないんだもんな。誰も敵わねえよ」
 嵐に続いてゴールしたのは、三年生の元陸上部長距離選手だった加賀という紫団の生徒、それに赤団の近藤、紫団の藤堂・・・・・・と続いた。そして意外にも速かったのが赤団の瓜生だった。藤堂に遅れること4秒、見事三年生の三位を獲得した。思えば冴えない部代表のボクシング部とは言え、部長を務めた瓜生である。ロードワークはお手の物だったのかもしれない。赤団のみ、女子の分の枠として三年生は四人出場していたが、近藤、瓜生の活躍で赤団には大きな点数が入った。ちなみに女子の方では、やはり陸上部の長距離選手が強く、三年生の元陸上部員紫団の選手がトップを飾り、次に入ったのが三年生の黄団応援団員、更に二年生の陸上部員である赤団の選手が入って、莉紗は四位だった。奇しくも藤堂と同じ結果だったのには、斗音も驚いた。
「後半は応援合戦からかぁ。早く食って団ごとの最後の練習行かないと、近藤さんにどやされるな」
 瞬の弁当を半分ほど平らげた翔一郎が、自分の買ったサンドイッチの袋をぱりぱりと剥がす。
「応援団は大変だよね。あ、ありがと」
 顔を出した、トマトと半熟目玉焼きとレタスの豪華なサンドイッチをひとつ、ひょい、と翔一郎の手から取り上げて、瞬が頬張る。一瞬そのサンドイッチを追いかけようとして置き去りにされた手には、お構いなしである。
「おいしー!ほら、斗音もどう?」
「あ、ありがと」
 控え目な一口を、手を引っ込めた翔一郎は、微苦笑しながら見つめた。
「うまい?」
「うん。どして?」
「じゃあこれやる」
 まだ手をつけていないもうひとつを、斗音の手に持たせる。持たされた方は驚いて目を瞠る。
「え、いいよそんな。翔一郎、好きで選んだんだろ?自分の食べる分、なくなっちゃうよ?」
 そんな斗音の反対の手から、たった今サンドイッチを運んできた手が、ほとんど口をつけていないメロンパンを、ひょい、と取り上げた。
「急にメロンパンが食いたくなった。どうせお前、こんなに食い切れないだろ?」

 言うなりかじり付く。ぱさつくそれをもごもごと咀嚼して、一気にスポーツドリンクで飲み込む。それを横目で見ながら、嵐がこっそり微笑んだ。

 応援合戦は各団が、それこそ団の威信を懸けて心血注ぐ、体育祭最高のパフォーマンスである。審査員一人によって十点満点中何点かの点数がつけられ、それを十人分合わせて百点満点中の点数を競うことになる。最高点を獲得した団が、応援優勝の栄誉に輝く。競技の部での優勝がやはり一番の目標なのだが、応援優勝も団がプライドを懸けて臨んでいる分、生徒たちにとっては大きなものだ。更にその二つの優勝を獲得することで完全優勝となり、それこそが全団の欲する最高の栄誉となる。
「こちらが5組連合青団の今年の象徴、青龍を描いた団旗です。ここに描かれた雄々しい青龍と、青嵐の文字。青団がひとつになって怒濤の旋風を巻き起こします。まさしくそれは青龍の起こす大会の青嵐となるのか」
 全校生徒が団席に着き、最後の応援練習が行われている。ここにきて通し練習はさすがにない。手の内を審査員にばらしてしまえば、インパクトは半減してしまうからだ。審査員は来賓九名と校長の、合わせて十名である。現在彼らは団旗紹介を受け、その審査をしている。団旗も応援の点数に加算されるのだ。応援合戦は斗音の担当で、その中の団旗紹介は莉紗が担当している。各団の団旗制作チーフと団旗スタッフが、大きな団旗を審査員全員にしっかり見えるように広げ、莉紗の紹介に合わせてアピールしている。
「こちらは3組連合赤団の団旗です。赤団の今年の象徴は鳳凰。美しい羽を広げ、それでもその炎に包まれた姿に闘志が表れています。飛翔の文字の如く、最高の栄誉を勝ち取るために高みを目指します」
 雷管とストップウォッチ、そして応援時間の記録用紙を手元に準備しながら、斗音は本部から団席の方を見遣る。活気のある応援。赤団の応援の時のみ、莉紗に任せるが、基本的には一番よく見える場所から他の団の応援を見ることができる。応援合戦には付き物の応援団の立ち回りも、もちろん審査に大きく影響する。よって当然、応援団員は運動能力の優れた者やリーダー性を兼ね備えた人気者が選ばれる。2-3ではクラスの話し合いで真っ先に名前が出されたのが翔一郎だった。翔一郎も気さくなので、新部長もあって大変だった時期にも関わらず、快くその役割を引き受けた。そして、同じように応援団用の長い青色のハチマキをしている嵐だが、彼の場合、クラスで話し合いをする前に、三年生からの熱烈なオファーがあったらしい。「青嵐」という言葉に、実力も容姿もふさわしい嵐に、ぜひやって欲しいと頼み込まれ、あくまでクラスで決まったら、という条件を出し、その場は保留したのだが、もちろんクラスでも名前が挙がらないわけがない。クラスからも三年生からも懇願されて、やや渋りながらも引き受けた嵐だった。学生でありながら職を持つ彼は本当に忙しいのだが、それでも引き受けたからには手を抜かず、青団の期待に応えていた。髪の色ももちろんだが、全てにおいて正直な話、団長より遥かに目立っている。
「こちらは一組連合黄団の団旗です。敢えて黄色の段だら模様に黒一色の大きな『誠』の文字。昨日三年一組の演じた新撰組が黄団の象徴。幕末に生を輝かせた彼らの如く、命がけの絆で優勝旗を取り戻すため戦います」
 それぞれの団席の前に立っている応援団たちは、三年生から団長副団長を含めて四名、二年生と一年生から二名ずつ。もちろん女子がその役割を担っている場合もある。各団の色に合わせた応援団の衣装は、それぞれの団らしい工夫が一杯だった。例えば、たった今団旗紹介された黄団の衣装は、剣道部の練習着の上に団旗と同じ黄色の段だらの羽織である。団長森の背中には誠の文字も描かれている。赤団は鳳凰にちなんで応援内容も古風なので、剣道や弓道の袴に、なんと淡い赤色の直衣である。これがなかなか様になっている。嵐たち青団は、如月高校のではない学ラン、しかも長ランでハチマキ以上に長い青のたすきを締めている。そして団長の背中には昇り行く青龍が、副団長の背中には青嵐の文字が描かれ、元祖応援団といった感じである。

「以上で団旗紹介を終わります。団旗スタッフは各団席へ戻ってください」
 
莉紗がマイクを持って戻ってくる。
「時間通りね。じゃあ斗音くん、お願い」

「はい、ありがとうございます」
 
マイクを受け取りながら斗音は時計を見遣り、朝礼台に上がった。
「各団全員がそろったところから団旗を振って合図をしてください」
 グラウンドを囲むようにした団席のあちこちで、団旗が大きく翻る。
「全団準備ができたようです。それではただ今から応援合戦を始めます。順番は団長による厳正な抽選会によって、白団、緑団、黄団、赤団、紫団、青団と決定しています。それでは白団、準備をお願いします」
 白団がざっと立ち上がり、応援団が脇に控えた。団長宍戸の手が真っ直ぐに挙がる。
「それでは四組連合、白団。用意!」
 真っ直ぐに腕を上げながら耳を塞ぐ。人差し指にぐっと力を込めた。引き金が動く。空に雷管の音が弾けた。
「我ら白団ーっ、勝利の化身白虎となりてーっ、この戦いの場にただ今見参致すっ!」
 白団の象徴は白虎。応援団の衣装はハッピと短パンで、ハッピは虎縞、背には全員白虎の文字。五分間で展開されたのは、やや劣勢の白団が一念発起、気合を込め、勝利の化身である一頭の白虎となり、各団の象徴となっているものを次々に打ち倒していくといったストーリー仕立てのもので、そのストーリーの中に団席一体となって白と黒の虎模様を織り成すパフォーマンスや、手拍子、CMなどで誰もが聞き覚えのあるフレーズを上手に使った応援だった。応援団の振り付けもお祭りっぽいノリで、昔からの伝統的な神事っぽくなっており、その中でも最大の見所は、団旗のスーパーキャッチだった。団席の一番高い四段目の中央から、副団長が力一杯大きな団旗を槍投げの如く飛ばし、それを隊形の最先端にいた団長が振り返りざま掴み取るのである。これも相当練習したらしく、見事なキャッチは団席の虎模様と同じくらいグラウンド中を沸かせた。
 ストップウォッチと応援を交互に見ていた斗音は、白団団長が最後に叫んだ
「これでぇっ、白団の応援を終了させて頂きますっ!ありがとうございましたぁっ!」
という言葉に合わせて、団席全員がきっちりそろえて頭を下げ、ありがとうございましたを繰り返したときにぴったり数字が五分を表示したのに感嘆しながら、再度雷管を鳴らした。グラウンド中から拍手が沸きあがる。
「白団の皆さん、ありがとうございました。ただ今の時間、五分ゼロ秒。減点はありません」
 白団から歓声が起こる。応援時間五分を越えると、五秒ごとに審査員の総合点数から五点ずつ減点されていく。短ければ別に減点対象にはならないが、審査員に物足りなさを感じさせるだろう。
「では次、緑団、準備をお願いします」
 言いながら、燦々と降り注ぐ日差しを浴びているはずの身体が、内から寒気を訴えてくるのを感じていた。頭だけは妙に熱い。きっと熱が上がっているだろう。あまりこの日差しの強い場所に長居するのは得策ではない。倒れでもしたら、元も子もない。観戦は本部テントでも構わないだろう。緑団団長の織田がぴっと手を挙げたのを合図に、火薬を詰め替えた雷管を手にする。
「六組連合、緑団。用意!」
 パン、と小気味よい音が響く。しかし、鳴らす方は耳を押さえていないと、鼓膜に少なからずダメージを受けるほどの衝撃だ。それと同時に緑団は全員が伏せた。おや、と思う。緑団の象徴は武田信玄。団旗の鎧兜の武者に並んで団席中央にいた団長が一人、すっくと立ち上がる。

「我ら最強の武田軍っ、孫子の風林火山にてっ、敵をことごとく打ち倒してみせようっ!いざ、出陣ーっ!」
 団席に紛れていた応援団員がその声を合図に飛び出す。団席はゆっくり顔を上げながら、鬨の声を上げ、彼らが定位置につくのを待った。
「これからーっ、六組連合緑団のーっ、応援を始めますっ!礼っ!」
「お願いしますっ!」
 気合の入った緑団の応援は、最初に団長が宣言した風林火山の戦略をそれぞれにふさわしい応援で綴ったものだった。風ではどんどん速くなる手拍子を見事に打ちそろえ、林では全く無音のまま視覚に訴える滑らかなウェーブを見せ付け、火では怒濤の声を上げる激しい応援を響かせ、山では応援団が扮した各団の象徴を、団席移動で下まで降りていた団員全員の動きで飲み込んでいく様子を見せた。どれも完成度の高い応援だったが、団席移動をした場合は、全員が元の位置に戻るまで、応援時間として換算される。雷管を鳴らしてから、すぐ下の本部テントに入っていた斗音は、ストップウォッチとにらめっこしながら、緑団が団席に戻っていくのを見届ける。恐らくこの時間を考慮しすぎ、団員の結束力を甘く見過ぎたのだろう。まだ二十秒残っていた。ゆっくり朝礼台に登り、終了の挨拶とともに雷管を鳴らす。
「緑団の皆さん、ありがとうございました。ただ今の時間、四分四十四秒。減点はありません」
 安堵の声と、やや微妙な気持ちを表す声が緑団からこぼれた。決して悪くはないのだが、十五秒あったらもうひとパフォーマンス入れることも可能である。斗音は背筋の悪寒から来る不快感に軽く身を震わせて、気を取り直す。
「それでは次、黄団、準備をしてください」
 身体を震わせたら、なんだか背中の筋肉が重いような、硬いような気がした。熱による筋肉のだるさだ、と思ったが、黄団団長の森が準備OKの合図を送ってきたので、雷管を構える。
「一組連合黄団、用意!」
 音とともに手に響く振動にもだいぶ慣れた。火薬の匂いは嫌いじゃない。でも、あまり煙を吸い込むわけには行かなかった。鳴らした次の瞬間にはストップウォッチを作動させる。
「局長ーっ!如月高校のグラウンドで、なにやら不穏な動きがございますっ!」
 いきなり応援団の一人が叫び、団長が団旗を杖のようにして、ドンと地を突く。
「何事!」
「此処より東南東にかけての一帯、反乱の様子あり!不穏分子が五つに分かれて集結しております!」
「なんと!ようし、それでは我ら黄団新撰組、今こそこの絆の強さをもって、それらを殲滅せしめん!いざ!」
 団席の声が一つの塊となる。
「おおおおおおおっ!」
 それを合図に、応援団全員が走り出た。それを見計らって、斗音はそっと本部テントに入る。ぞくぞくする寒気で、鳥肌が立った。少し吐息する。その息が熱っぽいのが分かった。それを自覚すればするほど、立っているのもつらくなってくる。椅子に座って、背もたれに寄りかかった。目の前では新撰組を基にした応援が展開されている。応援団は手作りの刀を持ってのパフォーマンスだし、応援席はそれに合わせて隊形移動を中心にした壮大な応援となった。最初は団席ならではの手の動きで審査席を唸らせ、そこからは一気にグラウンドになだれ込み、渦を描いたり、そこでウェーブを起こしたり、『誠』の人文字を描いたり、ダイナミックに動き回るのを、応援団が先導するといった感じだった。最後の隊形は、団席に戻っての声と手拍子の掛け合いに、複雑な手の動きを取り入れたもので、最後に団席にバタバタ戻る手間を省いたものだった。そこで本部の後ろから、莉紗が声を掛けてきた。
「代わるわ、斗音くん」
 うなずいて、火薬を詰め替えた雷管とストップウォッチを手渡した。本部の後ろから回って、赤団の団席に到着したとき、全員の一糸乱れぬ最後の礼が終わった。朝礼台に立った莉紗が引き金を引いて終了を告げる。
「黄団の皆さん、ありがとうございました。ただ今の時間、四分五十七秒、減点はありません」
 おーっ、と感嘆の声がこぼれた。三秒の誤差は大したものだ。
「よし、赤団、行くぞ!」
 大きくてかなり重いはずの団旗を片手で持った近藤が、低い声で控え目に活を入れる。赤団の団席の後ろに用意された台に、翔一郎と、その脇に二人、三年生の男子が控える。
「赤団、準備をお願いします」
 よく透る莉紗の声に、近藤が真っ直ぐに手を挙げた。準備完了の合図だ。斗音は少し息を詰める。
「それではいきます。三組連合、赤団。用意!」
 パァン!と音が弾けた。いきなり近藤が大きな団旗をぐるんと回す。そしてものすごい声量で叫んだ。
「目覚めよ、鳳凰!」
 団席が揺らめきだす。全員が隣と組んだ腕で列ごとに交互になるように揺れるのだ。その波が徐々に大きくなっていく。身体を揺らすほど大きな波になったとき、近藤が今度は大きく団旗を二回回した。
「鳳凰飛翔!」

 怒鳴ると同時に団旗を真上に力一杯投げ上げる。
 
三年生二人の組んだ手に足を掛けていた翔一郎が、彼らの手の反動と、自分のバネによって団席を一気に飛び越え、宙で一回転する。長いハチマキが大きく翻り、そのままダン、と立て膝状態で着地する。体勢はほとんど崩れなかった。同時に近藤が投げ上げた団旗を見事にキャッチする。大成功だ。赤団以外の人間がほぼ全員大歓声を上げた。
 
最初に観衆の度肝を抜いて印象付ける赤団の作戦は大当たりだった。そこからは、目覚めた鳳凰を味方につけ、羽ばたき、その最強の力で全ての団を焼き尽くし、包み込んでしまうというストーリーで、応援は展開されていく。羽をイメージした動きを取り入れた手拍子、鳳凰を呼ぶための掛け合いは、陰陽師の呪術をイメージした応援団の動きと、団席の掛け声の絶妙なコンビネーションがあり、鳳凰の姿を包み込む炎をイメージした団席の動きを舞によって操る応援団、そして最後は団席が一気にグラウンドへ二つの縦長の隊形で移動して、それを翼に模して大きく広がり、一気に他の団に扮装した団員たちを包み込み、瞬間芸で赤い扮装へと変えた。そして近藤が勝利宣言をしたところで、応援は終了である。
 
一丸となって全員が今の自分にできる最高の姿を見せる中、斗音も手を抜けるはずがなかった。つい喉の痛みも忘れて声を枯らして叫び、その時は身体のだるさも忘れて精一杯練習してきた通りに動いた。全員の気持ちがひとつになった礼が終わったとき、無理をした自分などどこへやら、やりきった満足感で、斗音の胸は一杯だった。雷管が終了の合図を響かせ、莉紗が朝礼台でストップウォッチを見ながら、やや高揚した声で告げた。
「赤団の皆さん、ありがとうございました。ただ今の時間、五分四秒、減点はありません!」
 今度は赤団から喜びの大歓声が上がった。ぎりぎりセーフである。色々盛り込んであった分、練習のときからかなり時間は気にしていたのだ。斗音もほっと胸を撫で下ろしつつ、そっと団席を抜けて本部席へ向かった。
「では紫団の人、準備をお願いします」
 引き続き、莉紗が司会を務める中、紫団の団長、福山が勢いよく手を挙げた。
「それでは、二組連合紫団。用意!」
 雷管が今度は開始の合図を響かせる。
「ペガサスの下で我らは集いーっ、そして絶大なるその神々しき力によりっ、全てを打ち砕くーっ!」
 福山のセリフから、紫団はいきなり掛け合いの応援に入った。一つの応援を終えてから挨拶をする。丁度それくらいで斗音は本部にたどり着いた。
「伊佐治先輩、ありがとうございました」
 応援のために、かなり擦れてしまった声を掛けると、莉紗がきらきらした目でストップウォッチを渡しながら、興奮したように言った。

「赤団すごかったね!最初、すごくかっこよかった!客観的に見て、全体的にも文句なしでよかったと思うわ」
「ありがとうございます。でも、青団には嵐がいるから、絶対何かやるんでしょう?」
 微笑みを浮かべつつ応えると、莉紗はくすっと笑った。
「そうね。近藤くんや羽澄くんに負けないくらい、あの子の人気は上がるでしょうね」
 今現在、既に抜群の人気を誇るというのに、これ以上上がったら、さぞ彼の周りはにぎやかになるだろう。そしてきっと本人は困るのだ。彼にはあまり人に知られてはならない秘密が色々あるようだから。
「じゃあ、あとよろしくね」
 次に応援を控える青団の莉紗が、目立たないように本部を抜け出していく。斗音は軽い会釈で見送った。
 紫団は天空に瞬く星座の数々を、手の動きを巧みに遣った手拍子で表し、そこからペガサスが羽を撒き散らして舞い降りる様子を、団の全員が団席からまばらに飛び降りることで表現し、その計算された美しさでどよめきを掻き立てた。そして、ペガサスを団員の人文字で表し、そのペガサスが動くという高等技術までやってのけた。ギリシャ神話の神のような衣装をまとった応援団たちは、あくまで主役を団席にし、その周りで打ち倒されるその他の団や、ペガサスを崇める役を演じていた。
(すごいなあ。どの団も、ほんとよく考えるよ)
 感心しきりの斗音である。いっそ審査員が気の毒なくらいだ。
 ストップウォッチが五分に近づいて、朝礼台に上がる。紫団の応援も、最後の盛り上がりといったところだ。羽ばたくペガサスに、応援団員たちが勝利を誓う。その瞬間、五分が過ぎる。斗音は雷管の引き金を引いた。炸裂音が無情にも空を裂く。グラウンド中がどよめいた。
「これで、紫団の応援を終了いたしますっ!礼っ!」
「ありがとうございましたっ!」
 団長の礼に続いて、精一杯の声で挨拶をした団員が、「撤収!」の一言でざっと団席に戻る。最後に団長が完了の合図で手を挙げた瞬間、斗音はストップウォッチを止めた。少しばかり息を飲む。
「紫団の皆さん、ありがとうございました。ただ今の時間、五分九秒。規定により、5点の減点になります」
 ざわざわとざわめく団席を、各団の団長が諫めた。
「黙れ!喋るな!」
 他の団の応援を見る態度も、応援審査の項目にある。たちまちグラウンドが静まり返る。
「青団の皆さん、準備をお願いします」
 その静寂の中、斗音のハスキーな声が響き渡った。すかさず立ち上がった団席を見渡して、青団の団長一宮がまっすぐに手を挙げる。それを確認した斗音は耳を塞いで雷管を上げた。
「五組連合青団、用意!」
 雷管の音が静寂を破る。その余韻も冷めやらぬ中、団長が団席の前に飛び出し、砂煙を上げて片膝をつく。何事かと驚く審査員をきりりと見上げて、声を張り上げた。
「ご覧あれ!凪いだ海に嵐の兆し!これすなわち、青龍顕現の前触れなり!」
 団席は全員がハチマキを取って前に突き出し、隣の生徒のハチマキと自分のハチマキの端を握っている。つまり、こぶしが節になっている、真っ直ぐの青い直線が描かれている状態だ。それがゆっくりウェーブを描き始める。所々に潜んでいる応援団員が、小さな白い布をはためかせては沈め、閃かせては引っ込め、遠くから見るとまるで白波が所々で起こっているようだ。波が大きくなり、白波が弾け始める。そのうち波は大波へと変わり、それが左右に分かれ、ぶつかり合って、巨大な波飛沫に見せた小さな白と青のポンポンが散った。
「昇龍だぁっ!」
 今まで見えなかった団旗が、いきなり団席中央から長い尾をひいて飛び出し、前で控えていた団長がそれを受け取る。団旗の先端に長い長いビニール紐を束にしたものを取り付けてあるのだ。それを追うように同じく中央から副団長が飛び出し、所々に潜んでいた応援団員が一斉に団席から飛んだ。
「我ら青団の応援、とくとご覧あれっ!礼っ!」
 団長の、空気を揺るがすような声に、青団が礼でウェーブを作る。どこまでも、テーマは海と龍なのだ。
「お願いしますっ!」
 勢いのいい挨拶が終わるや否や、青団の団席はやはり波を作りながら深々と頭を下げた。その間に、団旗を持った団長がくるりと後ろを向き、嵐が団席の右側に下がった。その五メートル先に二人の団員が互いに組んだ手を下に構え、更に二メートル先に馬跳びの馬の形になった団員が四人、それを台にして上に立つ団員が、やはり同じように組んだ手を下に構えている。

「うねる波を巻き起こし、現れし青龍!今此処で、全てを飲み込み、青に染め上げよ!」
 
うぉおおおおっと青団が声を上げる。嵐が団席の前を走り出す。嵐が通過していくと同時に、大きな青い波が団席に起きる。そしてグラウンドを蹴るようにして、嵐が二人の団員の手に足を掛け、大きくジャンプした。同時に団席の波がその場所で弾け、更に大きな波となってつながる。グラウンド中から歓声が上がる。しかし、それはまだ序の口だった。大きくジャンプした嵐は、更に二メートル先に構える団員の手に片足で着地し、今度はその反動で団席をも越える高さに飛び上がったのだ。
「我らとともに!」
 声を限りに叫んだ団長が、その嵐の前方めがけ、団旗を投げる。うおーともぎゃーともわあーとも表現できない叫び声が運動場全体を飲み込んだ。本部テントに入っていた斗音は身を乗り出し、声を出す代わりに息を飲んだ。なんと、その重い団旗を宙でつかみ取った嵐は、その勢いにつられるようにしながら四メートルほど空中を駆けた。もちろん団席はその速度に合わせ、大波を描き出す。団旗を地面に突き立てるようにして着地した嵐は、今度は団旗を振りかざし、速攻で逆方向に駆け出す。大波が今度は逆向きに大きくうねった。グラウンドは最大級の拍手と轟くような歓声で埋め尽くされた。
(すごい、ていうか・・・・・・マジで?)
 翔一郎の大ジャンプも霞んでしまいそうなほどのこのインパクト。やはり嵐は尋常ではない。
(そりゃ三年生も死に物狂いで勧誘するよ)
 はあ、と大きく溜息をつく。熱っぽい息は、興奮しているからだけではないだろうが、今はそれどころではなかった。
 青団の徹底したダイナミックな応援は、会場中の目を引きつけて、一瞬たりとも離させなかった。時間も四分五十七秒。全く問題ない。そう斗音が全校に告げたとき、溜息と青団の歓声が入り混じった。
「以上で全団の応援全て終了いたしました。審査員の皆様、ありがとうございました。ただ今より五分後に、次の一年生学年種目を開始します。一年生と係になっている人は準備をお願いします」
 それだけ放送してから、斗音は朝礼台を降りた。つらいな、と感じた。絶対に熱がある自信がある。しかも結構高いらしいのが自分でも分かる。午前中に比べて、ひっきりなしに寒気が襲ってくる。
(珍しくちゃんと食べた分、消化して熱が上がってるのかも)
 ちゃんとと言っても、翔一郎がくれたサンドイッチひとつだったけれど。なんだかすごくおいしく思えて、全部食べられた。風邪気味だったから、むしろ食欲はいつもよりないと思ったのに、意外だった。栄養が摂れたのだから、少しくらい良くなってもいいのに、と心の隅で思うが、実際のところ、斗音の身体は本人が思うよりずっと、遥かに衰弱していた。本人がこうしていられるのは、精神力が並外れて強いからだ。一般的なそれの持ち主であれば、とうに動けなくなって久しいに違いない。
(でも、あと出場するのは学年種目くらいだし、何とかなるさ)
 そんなふうに考えるあたり、やはりO型の性質を例外なく有しているらしい。戻ってきた審査員たちの審査票を集め、丁寧に礼を言い、早速集計ができるように準備を整える。賞状も作らなければならない。一つの団につき三クラス分必要だし、手間は手間だ。
「悪い、遅くなった」

「手伝うわ、斗音くん」
 執行部員たちが集まってくる。応援集計は執行部全員、更に顧問の伊藤がついて行われる。表向きは不正がないようにするためだったが、もちろん執行部員がそんなことをしたりはしない。むしろあとから、評価がおかしいなどのバッシングを執行部員が受けないようにすることが、一番の目的だった。
 応援合戦に続くのは、一年生の学年種目「愛は無敵!!」は、二人三脚の障害物リレー、二年生の学年種目「トライ!トライアスロン」は、四人組みで100M四人五脚ダッシュのあと騎馬で猛ダッシュ、最後はクラス全員の馬の波を飛び越えるといった三種の競技を一周に取り入れたもの、三年生の学年種目は「羽ばたけ!未来(ゴール)へ」で、三十三人三十四脚で大縄をしながら一気にゴールまで駆け抜けるというものだった。足を縛る人数が多ければ多いほど、団結力が必要となる。よって、難易度は学年が上がるのに比例している。どの競技もすごい盛り上がりを見せたが、中でもやはり三年生の競技は迫力があった。これだけ足を縛ってあれば、その中にいるのが男子でも女子でも大差ない。それでも今年の赤団は強かった。
「今年の男クラは侮れねーよな。普通むしろでかいガタイが災いするもんなんだけどなあ」
 本部席に戻ってきた武知が溜息混じりにぼやいた。観戦していた斗音が苦笑する。
「怖いくらい息が合ってましたからね」
 その声は、いつもの擦れ具合を五割り増しほどにしたもので、聞いた方は思わずその声の持ち主を凝視した。
「何だお前、発作起こしたのか?」
 その驚き方にむしろ驚いて、斗音は慌てて首を振る。
「いえ、大丈夫です。ちょっと喉を使いすぎたみたいで」
 疑いをありありと浮かべた視線で斗音を見た武知だったが、ふうん、とつぶやいた。
「まあ、応援合戦があったからな。けど、もうほんと、無理すんなよ」
「はい」
 次は最終種目の団選抜リレーだ。選りすぐりの団の精鋭たちで、団の威信をかけて争う最後の競技。盛り上がらないわけがない。執行部からも今井、弓削、莉紗、藤堂が参加している。もちろん、運動神経抜群の嵐、翔一郎も出場メンバーだし、各団団長はアンカーを努めることになっている。各学年四人代表を出し、その内一人は必ず女子でなければならない。もちろん赤団は三年生から女子を出せない分、二年生から一人余分に女子を出す形となり、かなり不利である。が、総合的に見て有利不利は、それで丁度釣り合いが取れるようになっている。
「赤、強いな。羽澄がいるし近藤がいるし、大穴で岡崎がいる。あいつ、スタートダッシュが遅いだけで、滅茶苦茶俊足だぜ。リレーはスタートダッシュがねえからな。相当速いと思うぜ」
 対戦したことがある武知の言葉には、素晴らしく説得力があった。斗音が苦笑する。バスケは瞬発力だ。スタートダッシュが遅いというのはどうだろう。だから彼はスタメンになれなかったのかもしれない。
「さあっっ、ラスト勝負!泣いても笑ってもこれが最後です!あとは自分たちが選んだ選手を信じるのみ!いよいよ運命の懸かったレースが・・・・・・」
 放送部の中継にも熱がこもっている。出発係が雷管を頭上に掲げた。
「位置について!用意!」
 高らかに空を割る音が響き、選手たちが同時に地を蹴って飛び出す。それにかぶさるように、F1レースのB.G.Mとして有名な曲が流れ出す。合わせて中継が再開された。
「スタ―――――ト!どの団も素晴らしいスタートを切りました!」
「いい演出ですね」
 思わず感心した斗音がつぶやく。つぶやくような声は、周りがうるさい上にかなり擦れているせいでひどく聞き取りづらい。それでも武知はうなずいた。
「今ので出場者のかっこよさが倍増したな」
 スタートは一年生男子。一周走ってそれほど差もつかず、ばらばらと一年生女子ランナーにバトンが渡る。
「第二走者、スムーズな走り出しです!今のところほとんど差はありません!さあ、どうなる!」
 スピードは落ちるものの、差がない分激しい順位の競り合いが展開され、再び一年生男子の第三走者につながっていく。この辺りから、やや差がつき始めた。先頭は白団である。やや距離を置いて紫、黄、赤、青と続き、少し緑が離された。
「頑張れ一年!離されんのは早いだろ!」
 武知の喝が入るが、聞こえたかどうかは怪しい。再び本部テント前で、怒濤のバトンタッチラッシュが行われる。一年生最後の第四走者にバトンが渡る。彼らが四分の一周走り終える頃には、青団のすさまじい歓声が沸き起こっていた。
「速ーい!青団が速い!あれは応援団員の氷室くんです!高跳びでも見せてくれた脅威の一年生、ここでも真価発揮ーっ!」
「はえーなあいつ。一年にしとくの惜しいくらいだ」
 感嘆する武知だが、一年にいるからこそ価値があるのではないかと、密かに思う斗音である。そうこうする内に青団の長いハチマキをなびかせながら、長身の氷室という一年生が一人抜き二人抜き、最後にもう一人抜いて、なんと二位まで追い上げてしまった。
「すごい・・・・・・。どこの部活だろ」
「ああ、あいつ?野球部のルーキーらしいぜ。今年野球部がいい線いったの、あいつのおかげなんだと」
「そうなんですか?確かにあの俊足なら、盗塁はお手の物でしょうね」
「それだけじゃねえ。えらく腕の立つピッチャーらしい。一応今年は控えだったけど、それでもほとんどの試合で投げてる」
「足腰がしっかり鍛えられてるってことですね」
 恐らく本部テント以外でも、同じような会話が繰り広げられていたことだろう。それほど彼のインパクトは素晴らしかった。その間に、バトンは二年生男子に渡る。白団の田近が一番にバトンを受け取った。部長になった彼は剣道も比較的強いというが、足も速いらしい。きっと慈恩がいたら、彼も間違いなくこのレースを盛り上げる一人であったに違いない。慈恩の場合滅茶苦茶速いという印象はないが、何せ脚が長いので、大して速く走っているように見えなくても百メートルは確か十二秒をギリギリで切るくらいのタイムだった。インターハイ選手が十一秒前半から十秒台というものだから、一般の高校生としてはかなり速い方だ。翔一郎は十一秒八七、嵐は十一秒一五の自己ベストを持っている。徐々に差は広がったり、逆に縮まり、入れ替わったりして、その度に割れんばかりの歓声が上がった。二年生の二人目にバトンが渡ったときには、順位が白、青、黄、紫、赤、緑となっていた。そこでまたもや青団で陸上部所属の中野が登場し、順位の入れ替えこそなかったものの、白団のすぐ後ろまでつけた。そこで二年生の女子がバトンを受けた。そこでまた一気に流れが変わった。
「おおっと、これはすごい!黄団の応援団員、澤村さん、そして紫団の加賀さんが速い!赤団の矢島さんも速いですねえ。さあ、たちまち順位が入れ替わります!先ほど順位を上げた青団、どうなるか!そして、遂に二年生の最後の走者に渡ります!ここは激戦区!個人種目で恐ろしい結果を残しているメンバーが待ち構えているっ!一番白、二番が黄、三番赤、四番紫と青がほぼ同時!そして緑と続きます!さあ、赤と青の長いハチマキが翻る!そして追いかける紫!青団速い速い速いっ、圧倒的だ!」
 青団、赤団、紫団から魂を懸けたような絶叫が上がった。女子で一気に抜かれた分を、嵐がみるみる追い返していく。抜かれまいとする翔一郎もぐんぐん順位を上げていく。必死に二人に喰らいつくのは藤堂だ。徐々に離されてはいくものの、離れていた黄団を抜き去り、白に迫る。
(すごいすごい!うわぁ、嵐速っ!頑張れ翔一郎!)
 斗音は思わず手の平に爪が食い込みそうなほど、拳を握り締めた。嵐の走りには感動すら覚えるが、ここはやはり同じ団の翔一郎の応援に、自然と熱が入る。

「何だあいつ、ほんとに高校生か?畜生、緑!しっかりしろ!」
 隣で武知が喚いている。緑は最下位に落ちてから、一度もその順位を変えていない。放送部の実況中継も声が裏返っている。
「なんとーっ!赤団青団、一気に集団を振り切っていくーっ!ここで青が並んだ!並んだ!赤団抜かれまいと必死!その間に紫が上がってくる!白団を抜いた!トップ争いはものすごいデッドヒート!ゾーンには赤団のアントワネット岡崎が待ち構えている!しかし、ああ、ついにっ!青団がトップに立った!なんと東雲くん、たった三百メートルの間に前代未聞の四人抜きーっ!」
 嵐に続いて翔一郎が先輩にバトンを渡す。やや間を置いて、藤堂がバトンタッチを終えた。わずかに距離を置いて、白が三年生走者に変わる。
「順位は総入れ替え!トップは青!続くは赤!そして紫、白、やや遅れて黄、緑となっています!」
「緑だけ入れ替わってねえっつの」
 熱を帯びた放送部の中継に、武知が仏頂面でツッコミを入れる。そんな執行部の仲間を、斗音はなだめるように言った。
「弓削先輩に期待しましょう」
 言いながらも、手は握り締めたまま。熱い。熱いのに、なぜか汗ばんではいなかった。むしろ乾いている。しかし本人はレースに目を奪われていて、そんなこと微塵も気づいてはいない。
「おおっと、赤団、たちまち青団を捉えて・・・・・・今、抜きました!速いです!少しずつ差ができていきます!」
 抜いたばかりの赤団に抜き返されたのを見た嵐は、ゼイゼイいいながら悔しそうだった。同じくゼイゼイと息の荒い翔一郎も、やはり悔しそうだった。こちらは嵐との勝負に負けたことが悔しいらしい。
「さあ、三年生の二番手、女子ランナーとしては最後の走者!赤団は三年生に女子がいないので、二年生の日向さんですが、千五百メートルでは三位入賞を果たしている実力者!今トップで赤にバトンが渡る!続いて青の伊佐治さん、紫はこれも千五百メートルでトップを取った女子陸上のエース桜井さん、黄も長距離で二位になっている応援団員仁科さん、白の葛西さんがほぼ同時!緑の応援団員渋谷さんがやや遅れたか!しかしここも素晴らしい運動神経の持ち主の集まりです!第一コーナーを回るっ!これはやはり陸上部の先輩の意地か!紫の桜井さんがぐんぐん追い上げる!伊佐治さんも懸命に逃げる!赤団日向さん、二年生とは思えない走りで、なかなか抜かせない!そして、黄も追い上げてきた!おおっと、ここで初めて緑が上がってきた!」
「ようし、行け渋谷!せめて弓削が一人でも抜けるようにしてくれ!」
 武知はもはや怒鳴っているに近い。その思いが届いたのか、緑が白に迫る。莉紗は紫団につかまり、抜かれる。それでも懸命に離されないように駆ける。紫、赤、青、黄、白、緑の順でバトンが渡る。
「なんと、初めはトップだった白団、遂に最後尾の緑と並んだ!そして最後のバトンタッチに向けて三年生の男子走者が走ります!紫は加賀くん、二年生の女子ランナー加賀さんのお兄さんです!奇しくも兄弟そろって紫団!長距離では一位でした!赤は元ボクシング部部長瓜生くん!長距離では三年生の三位になっている!ここは紫、やはり速い!青は応援団員小野くん、黄は生徒会長今井くん!白団は元サッカー部部長の木更津くん!そして高跳びで素晴らしい記録を打ち立てた執行部員の弓削くんが緑団のランナーです!」
「ようし、行け弓削!抜けるぞ!」
 最後にバトンを受け取った弓削に、力一杯武知ががなる。弓削はそれに応えるかのようにぐん、とスピードを上げた。しかし斗音の視線は赤団の走者を捉えている。
(瓜生さん・・・・・・すごいな。如月祭であの人がこれだけ活躍することになるなんて。何事にも反発して、協調性には縁遠かった人なのに)
 赤団頑張れ、と叫びたい気持ちを抑えながら、斗音は思った。無駄に携帯を使っていると因縁をつけ、如月の学力について行けずに卑屈になり、力で権威を示そうとしていた彼。最後には仲間全員の分の罪を被った彼。その後一度、遅刻してきてホームルームを保健室でサボるところにも遭遇した。そんなはみ出し軍団のボス的存在だった瓜生に、一体どんな心境の変化があったのだろう。
「緑団弓削くん、遂に白団を捉えた!そして今、抜いたーっ!緑団、初めて順位を上げました!」
「ようし、ついでに今井も抜いてやれ!」
 意気込んでいる声が届かなくても、きっと弓削はそのつもりだったに違いない。しかし今井も負けない。紫がややリードしてバトンを最終ランナーの団長に渡した。ギリギリ二位をキープした瓜生が、近藤にバトンを渡し、青、黄、緑はほぼ同時にバトンタッチした。やや白が遅れながらも、その差はわずか二メートル強。
「先が読めません!如月祭最後を飾るにふさわしいこのレース!最後は団長対決!現在身体ひとつリードでトップは紫福山団長!続く四団はほとんど順位が分からない!赤の近藤団長が身体半分リードか!青団一宮団長、黄団森団長、緑の織田団長、激しい争い!白団宍戸団長も諦めるには早すぎます!まだまだ捉えられる距離だ!」
 グラウンド中の熱気が、声援となって空中に放出されているようだ。そんな膨大な視線と声援を集めた団長たちは、渾身の力を振り絞って駆ける。塊がほどけ、少しずつ順位が見えてきた。近藤が紫に迫っている。追いつけるかどうかギリギリのところだ。青がひとつ抜け、黄と緑が激しい四位争いである。白は必死だが、なかなか距離が縮まらない。
「さあ、最後まで独走はない!紫か、赤か!」
 決勝審判の係が目を凝らす。二色のハチマキがほぼ同時にゴールテープの白と交わった。雷管が先頭のゴールを告げる。本部テント前でのゴールを目の当たりにして、斗音は思わず息を飲んだ。ほんのわずかだが、近藤が先にテープに触れたように見えた。ほとんど間をおかず、青がゴール、黄と緑もほぼ同時のままゴールしたが、こちらははっきりと黄が先にゴールラインを越えた。そして最後に白が、それでも決して速度を緩めないままでゴールした。最後の雷管が高く鳴り響いた。全ての競技終了である。
「決勝審判の判定は・・・・・・?」
 全員が固唾を呑んで見守る。一位の旗の隣で、赤いカードが上がった。そして二位の旗のところで紫。
「赤が勝ったーっ!あの接戦を制したのは赤でした!紫惜しくも二位!しかし、最後までの粘りは感動すら覚えました!三位が青、四位が黄色、五位が緑、六位白という順番でした!なんとも凄まじいレースでした!冷めやらぬ拍手がそれを物語っています!」
 斗音の顔がぱっと輝く。自分が出ていなくても、やはりチームの勝利は嬉しい。自分の大切な友人が走っているのだから、尚更だ。無意識にガタン、と立ち上がった。その瞬間、目の前の活気溢れる風景が、色を無くした。
「おいおいっ!」
 何かにドン、と身体ごとぶつかって、力ずくで重力に逆らわされ、それでも重過ぎて自由にならない身体が三半規管を揺すぶる。何がなんだか分からない。
「しっかりしろ!」
 ぐらぐらする三半規管に響いてくる強い声。

(ヤバイ!)
 
本能的に目の前にあるはずの机に手をつき、重心を掛ける。視界に映るものはまだ混乱している。それでも必死に身体を支えた。今触れられてはまずい。熱があるのがばれてしまう。そう思った。
「大丈夫か、お前」
 武知の声だ。分かる。大丈夫だ。必死に言葉を紡いだ。
「あ・・・・・・はい・・・・・・。ちょっと・・・・・・立ちくらみ・・・」
 背筋を這うような寒気。気が緩んだせいだろうか。一気に押し寄せてきたような気がする。知らず、身震いした。まるでカメラのピントが合うように、すっと視界がクリアになる。何とか戻ったようだ。
「つらいなら休んでろ。何なら閉会式も」

「大丈夫です。すみません、ほんとにただの立ちくらみです」
 そっと笑みを載せる。ゆっくり隣を見上げると、武知のいかつい顔がかなり不審そうで、笑みを苦笑に変える。
「最後の点数が来ますね。これまでの得点は間違いありませんでしたから、集計結果が届き次第確認して、賞状を作りましょう。応援の分と一緒に」
 団選抜のメンバーが退場して、執行部メンバーがそろった。
「よし、じゃあ閉会式だ!」
 今井の一声で、一人一人が持ち場に着いた。弓削の声がグラウンドに響く。
「これで全ての競技が終了しました。これから閉会式を行います。各団、開会式で入場した隊形で集合してください」

 その声を耳にしながら、斗音は応援優勝の賞状に「五組連合青団」、応援準優勝の賞状に「三組連合赤団」と、そして総合準優勝の賞状には「五組連合青団」、そして最後の総合優勝の賞状には、ともすると震えそうになる手をなだめながら、ゆっくり、丁寧に「三組連合赤団」と、筆ペンを走らせた。

 完全に青団と赤団で痛み分けとなった今回の大会は、点数でもかなり僅差で、全員を見事に悔しがらせた。それでも、先日の今井の宣言どおり、「みんな、本当にお疲れ様!」という生徒会長の言葉に、自分たち自身がどれだけ頑張ったかを改めて確信し、拍手喝采を送ったのだった。
「一番おいしいのは赤団だったかな。総合が一番重いからな」
 本部テントの書類を片付けながら、溜息混じりの今井である。黄団は昨年度総合優勝をしていただけに、それを取り返せなかったのは悔しいようだ。
「赤団はあの男クラパワーだよな。ていうか、この如月祭で一番いい思いしたのは3-3だろ」
「ああ、間違いねえ」
 緑団の弓削と武知は肩をすくめている。
「すごいっス!青団、応援優勝おめでとうございます!それに、総合も準優勝で」
「うふっ、ありがと。総合がほんの十五点差で準優勝っていうのは惜しかったけど、悪い気はしないわ」
 負けたくせに笑顔満点の藤堂と、控え目ながらも喜色を抑えきれない莉紗の会話も弾んでいる。
「テント下ろすぞーっ!下にいる奴、早く出ろー」
 本部テントの柱を抱えながら、テント片付けの生徒が声を張り上げている。執行部の面々は、それぞれ記録や資料、ストップウォッチや筆記用具などの細かい道具類を抱え、武知と藤堂が机と椅子を慌てて運び出した。その上に大きな屋根がかぶさり、砂埃を上げる。とっさに斗音はそれらを吸い込まないように腕を上げて庇った。抱えていた小道具類がばらばらとこぼれる。
「あ、悪い!大丈夫だったか?」
 テントを下ろした生徒の一人が、斗音の落とした道具類を素早く拾ってくれた。
「あ、すいません。ありがとうございました」
「いや、こっちこそ、悪かったな」
 
そんなやり取りの間にも、テントはたちまち剥ぎ取られ、パイプの骨組みになっていく。
「武知と藤堂、悪いけどそのままそれ体育館へ運んでくれ。あとは生徒会室に運んで片付けよう」
「りょーかい」
「はい、すぐそっちに合流します」
 手にいっぱい荷物を抱えながら生徒会室に到着した四人は、朝来てそのまま置いてあった荷物から制服を出して着替え(莉紗だけは準備室で着替えたが)、早速自分が持ってきたものを片付け始める。
「この記録は?確か毎年綴じてるファイルがあったよな」
「この電卓、弓削先輩のでしたっけ?」
「そう、こっちは武知の」
 てきぱきと片付けていくので、たちまち抱え込んできた荷物は綺麗にあるべきところへ収まっていった。その頃に武知と藤堂も生徒会室へ到着する。彼らも着替えを済ませ、片づけを手伝い始める。
「月曜の朝には各クラスに賞状届けなきゃな。今日中に書いて、各クラスの担任の先生に渡しておきたい」
「はい、じゃあ今から書きますね」
 筆ペンを執ると、小刻みに震える乾いた手を何度も握ったり開いたりして、斗音は丁寧に丁寧に一枚一枚の賞状を書き上げた。閉会式で渡したのは一枚だけなので、それを教室に飾れるのは三年生だけである。よって、二年生と一年生の分合計八枚を書くのに、十分ほどもかかってしまった。その間に、メンバーはすっかり片づけを終えてしまっていた。そして、斗音が書き終わるのを待っていてくれた。
「よし、完成!じゃあ、それ渡しに行こうか」
 今井が言うのに、斗音は慌てて首を振った。それだけで目の奥がぐらぐらしたが、我慢する。
「ただでさえも待ってもらったのに、これ以上待たせるわけにはいきませんよ。渡すのなんて、職員室行くだけで済むんですから。もうみんな下校してますし、あとは俺がやっておきます」
 みんなが顔を見合わせる。いつも斗音はこの調子なので、つい任せてしまうのだ。
「でもお前、調子悪いだろ」
 武知が太い声で心配そうに顔色をうかがっている。
「ちょっと顔、赤いような気がするけど・・・・・・大丈夫?」
 莉紗も小首をかしげている。しかし、日焼け止めを塗っていたであろう莉紗でさえ、頬はほんのり色づいている。あまりの天気のよさに、みんな多かれ少なかれ日焼けをしているので、斗音はくすっと笑った。
「日差しが強かったですからね。日焼けはしてると思います。心配掛けてしまってすみません。でも大丈夫ですよ」
 ここまで言うのを更に拒んでしまうのは、斗音のプライドを傷つけてしまいそうな気がして、再び執行部の面々は顔を見合わせた。仕方なさそうに今井がうなずく。
「分かったよ。お前の責任感の強さは、俺が見込んだところでもあるからな。任せる。じゃあ、明後日の打ち上げ、遅れるなよ。何時か覚えてるか?」
「二時ですね?」
「よし。じゃ、お疲れのところだけど、藤堂、明日試合頑張れよ。明後日、いい結果待ってるからな」
「あはは、ありがとうございます」
「明後日会おう。今日はこれで解散だ」
 今井の声に、お疲れ、の声が飛び交い、ばらばらと部屋を出て行く。斗音も賞状を手にしてから、ふと自分で持ってきたはずのストップウォッチを片付けた覚えがないことに気づく。
(あれ?どうしたっけ?)
「斗音、鍵掛けるぞ?」
 入り口で今井が声を掛ける。慌てて斗音は応えた。
「あ、俺、職員室に行くとき鍵も一緒に持っていきますから、さしておいてください」
「さんきゅ。じゃあな斗音。お疲れ様」
「はい、お疲れ様でした」
 何とか笑顔で送り出してから、寒気に身を震わせながらストップウォッチをしまうはずの箱を開けてみた。やはりない。確かにテントを出るときには手にしていたと思うのだが。
(あれぇ?何で?おっかしいなあ・・・・・・もしかして、どこかで落としてきた?)
 探しに行くべきだろう、と思った。でも、ものすごく身体が億劫だった。実は歩いていてもなんだか浮遊しているような感じがするくらい、頭も熱でやや朦朧としている。とりあえず、賞状だけでも渡しに行って、そのついでにたどった経路を戻ってみよう、と思った。
 とはいえ、熱に浮かされた身体も思考もかなりおかしくて、とりあえず職員室での責任は果たしたものの、ストップウォッチを探し回る気力はあまり残っていなかった。荷物を肩に掛け、ふらふらと階段を下りる。ニ、三段降りただろうか。ふわふわしていた足が急に行き場を失った。
(あ、れ?)
 ぐら、と身体が傾く。いくら体育祭で持ち物が少なくても、荷物を掛けた肩に重心が掛ってしまう。
(これ、やばくない?)
 でも、手をつくところもなければ、重心を戻すことも最早不可能。落ちる、と確信する。衝撃を覚悟する。
「危ねっ!」
 どこかで聞いたような声がした。しかし、それを確かめる間もなく、鈍い痛みが左足首を襲う。そして全身に激しい衝撃が・・・・・・あった。確かにあった。でも、覚悟したほどは、痛くなかった。その代わり、その衝撃で気管に遮蔽物が発生していた。げほ、と嫌な音を立てて咳が込み上げる。
(あ・・・・・・やな感じ・・・・・・)
「つっ・・・・・・おい、椎名・・・?」
 自分の下で、人が起き上がるのが分かった。誰かを巻き添えにしてしまったのだ。いけない、と、とっさに動こうと思ったが、身体がいうことを聞かない。硬く身体を縮こまらせて、濁った音で咳を繰り返す。呼気が笛のように細い音を出す。まだ呼吸ができる隙間はあるらしい。これなら、じっとしていれば大丈夫なはず。でも苦しい。じっとりと汗がにじむ。苦しい。薬が欲しい。でも、自分で出せる気がしない。身体が動かない。苦しい。苦しい・・・・・・クルシイ・・・・・・
「・・・・・・椎名、しっかりしろ」
 ぐい、と力強く身体を起こされたのが分かった。そして口に当てられたものからよく知った薬の匂いがする。それが気管を通る。数分ほどなのか、十分以上たっているのか、それともそれ以上なのか、全然分からなかった。でも、本当に苦しくてつらいのが、ほんの少しずつ楽になっていくのが分かった。呼吸が戻ってくるに従って、今度は背筋を這い上がる寒気に全身が震えだす。歯がガチガチ鳴る。止められない。
「・・・・・・っ、お前・・・・・・すごい熱じゃねえか・・・・・・!」
 震えながら、ぼやけた視界に映った人影を見て、斗音は、ああ、と思った。この人だったのか。不意に安心感のようなものが駆け抜けて、ぷつんと意識の糸が途切れた。

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三十三.近衛家

 手作りの如月祭に比べると、桜花祭はとにかく豪華で厳粛で重みがあって、そして慈恩にとっては空々しかった。全てのクラスの出し物は全て見ることができる時間があったし、むしろ必ず見なければならないようなシステムになっていた。だから、慈恩たちのクラスが取り組んだ能のステージも、ちゃんとプログラムに組み込まれていて、その時間は他に何もやっていない。だから、全校がその舞台を見るのだ。急場仕立ての名家跡取りである慈恩は、自分に能なんてとてもできないと言い張って、鼓を打つことになった。衣装もちゃんと、悠大の手配によって和装が準備された。もともと若武者っぽい慈恩には、それが素晴らしく似合っていたので、あの近衛がしみじみと感心するほどだった。
「お前、ほんとに和服似合うなあ。将来、こういう古典芸能をやるところへ弟子入りしたら?その世界で超モテモテかもよ」
「冗談。こんな堅苦しい格好、今日だけで十分だ」
「いや、案外向いてるかもよ。鼓だって、滅茶苦茶覚えるの早かったしさ」
「音楽には・・・・・・少し触れてたから」
 そう言って寂しそうに視線を落とした慈恩の肩を、近衛は励ますように叩く。
「でもそういうのって天性だからな。いつまでたってもリズム感のない奴はできやしねえんだぜ。和田なんて、お前の二倍かかって、お前よりはるかに下手なんだからな」
「部活ができなかった分、お前に教えてもらったりして、こっちに時間を割いてただけだよ」
 慈恩の膝はだいぶ回復していた。まだ無茶はできないが、素振りくらいなら何とかできる。しかし、今無茶をしてしまえば、新人戦に間に合わなくなる可能性が大きいので、近衛からはなかなかお許しが出ない。もちろん、この二週間は完全部活禁止を言い渡されていた。土曜日も私立なので午前中は授業、午後から部活という日程になっている桜花高校では、慈恩が土曜日後半にできることがなかったのだ。それを気遣った近衛は、わざわざ土曜日に鼓の先生を自宅に招き、慈恩にみっちり稽古をつけるよう配慮してくれたのだ。怪我のことをかなり不満がっていた重盛も、鼓の先生について、しかも近衛の家で稽古を受けることには大賛成で、日本の古典にぜひ触れて来い、と二つ返事で慈恩を送り出した。
 九月も下旬に入った土曜日に、学校で食事を終えて、近衛の指示で迎えに来た超高級車に彼の見送りつきで乗せられ、初めて近衛家を訪れた慈恩は、その豪邸っぷりに圧倒された。九条も尋常ではないと思うが、近衛家はそれを越えていた。敷地だけでも九条家のニ割り増しといったところだ。ちなみに、九条家の敷地だって相当なものだから、その二割の部分で、一般家庭の家が何軒も建つくらいだ。その上、家で仕えている者が総出で「悠大様」の大切な「御学友」を出迎え、上品で清楚で、かつ高級そうな和服を身にまとった彼の母が丁寧に挨拶してくれた。
「ようこそおいで下さいました。慈恩さん。お待ちしておりましたわ」
 一応丁寧な挨拶をしなければ、と考えていた慈恩だったが、具体的な言葉を考えていなかったのと、圧倒されまくった庶民派な脳みそのせいで、何を言えばいいのかと真っ白になってしまって、思わず口走ってしまった。
「いえ、こちらこそ・・・・・・悠大に、あ、いえ、悠大さんに格別のご配慮を頂きまして・・・・・・お世話になります」
 それを聞いた近衛の母親は、軽く目を見開いたが、次の瞬間には優しく微笑んだ。
「貴方のことは、悠大さんから聞かせて頂いています。今夜は夕食も準備させておりますから、どうかごゆっくりしていらして下さいね」
「え・・・・・・あ、ありがとうございます・・・・・・」
 そんなこと初耳だったのだが、なんと悠大は家の者を使いに出して、九条家に丁寧に挨拶つきで、そのことも伝えていた。
 練習も本格的で、練習用とは言え、衣装までちゃんと用意され、歩き方から動作まで細かく指導された。もともと剣道で礼儀作法などの基本は身につけていたので、慈恩は物覚えがいい、と、先生を唸らせた。
「さすが、悠大様の御学友となられると、違われますね。私たちは幼い頃から当たり前のように躾けられておりますが、それでもそこまで優雅な動きはなかなかできません」
 純和風のすっきりした目鼻立ちの先生は、先生といっても、そのような古典芸能に携わる家の次男で、家では弟子の身分なのだという。松平光郎太(まつだいらみつろうた)といってまだ大学生だというが、その落ち着きぶりは三十代と言われても納得できてしまいそうなほどだった。
「悠大様の指南役として何度かこちらにうかがわせて頂いたこともありますが、悠大様も本当に利発でいらして、すぐに私がお教えできることがなくなってしまいました。その時に似ております」
 慈恩は思わず苦笑したが、丁寧にお辞儀を返す。
「先生の教え方がいいということでしょう」
「とんでもございません。先生だなんて・・・・・・そんなに歳も離れておりませんから、松平と呼んで下されば結構でございます」
「あのう・・・・・・それは教わる身として、分不相応かと思うのですが・・・・・・」
 慈恩としてはそれが常識だったのだが、松平は静かに首を振った。
「こちらのお家柄の方が、私どもより格上でございますから」
 なんだそりゃ、と慈恩は思うのだが、先生の方は大真面目だった。その身に芯から染み付いた習性なのだろう。国民は皆平等と憲法で謳われてから、一体何年経過していると思っているのか。しかし、彼ら一族からしたら、そのような制度になってからの方が、短いのかもしれない。そこまでたどり着いた慈恩は、静かにうなずいて、微笑した。
「お考えは分かりました。でも、私の方が未熟者であることに変わりありません。ですから、私の意志で先生と呼ばせて頂きます。・・・・・・我がままを言って、すみません」
 松平の白い頬に朱が差した。深く頭を下げる。
「恐れ入ります」
 それから気を取り直したように、はにかむような笑みを見せた。

「それでは実際に鼓を打ってみましょうか」

 夕食は、徹底した和食なのかと思ったらそうでもなく、和洋折衷の豪華なものが準備された。しかも、悠大の部屋にご丁寧に運ばれてきた。いや、部屋というより、離れと言うべきだろうが。
「今風じゃないかもしれないけど、こういうの、悪くないぜ」
 珍しく自分の家を認めるような言い方をした近衛の、高級旅館の一室といった雰囲気の離れは、三十畳ほどの広さに床の間と縁側をあわせ持ち、素晴らしい日本庭園が望めるようになっている。入ってすぐに小さな玄関が設けられており、立派な靴箱も備えられている。上がると広くなっていて、奥に入り口が二つある。ひとつは洗面所兼脱衣室、その奥にちゃんとシャワーを備えた広い桧の香り漂う浴室となっており、もうひとつはやはり広い桧張りの手洗いとなっている。手前は外側が桧の引き戸となっているが、内側は襖である。そこを開けば三十畳の部屋、というわけだ。もちろん、テレビや冷蔵庫や電子レンジ、冷暖房も完備である。庭の手入れでもしていない限り、縁側から部屋の中は見えない。日当たりもよく、個室としては最高だった。
「元は茶室だったんだ。でも、一度うちが大掛かりな茶会を催すことがあって、こんな狭い部屋では立派な茶会ができないってんで、別の茶室を作った。二つも茶室は要らないだろうってことで、ここを改築して、俺の部屋にしたってわけ。ここにいれば家の人間に気遣いする必要もないし、気楽でいいだろ?」
「だから夕食も、ここに運んでくれたのか?」
 尋ねた慈恩に、いつものように左の唇を吊り上げるようにして笑みを見せる。
「お前にこれ以上堅苦しい思いをさせるのは悪いからな」
 おかげで慈恩は久々に気楽に夕食をとり、楽しく近衛と話に興じることができた。
「来週も、来るだろ?ていうか、来週のあとは本番だから、来週で最後だけど」
 桜花祭も前期と後期の境目に行われるのだが、それが十月の第一週となっている。如月祭からは一週間遅れといったところだ。
「俺はありがたいけど・・・・・・迷惑じゃなければ」
「迷惑?まさか」
 近衛は肩をすくめた。
「お前に怪我をさせた負い目のある俺に、それを言うか?そうでなくても俺は・・・・・・楽しかった」
 最後はつぶやくように言った友人に、慈恩は首を横に振る。
「負い目なんて感じなくていい。あれは不用意に身体を冷やした上、上の空だった俺が悪いんだ。それに・・・・・・そうだな」
 優しい微笑を載せた。
「俺も楽しかった。こっちに来て初めて人の家に来た」
 その言葉で、近衛の表情に笑みが戻った。

「そうか。よかった」

 翌週もやはり同じように慈恩は近衛家を訪れた。そしてやはり同じように歓迎された。それがあまりにもご丁寧なので、思わず慈恩は近衛の母親に尋ねた。
「ここは本当に丁寧な歓迎をしてくださるので、かえって申し訳ないくらいです。いつもお客人にはこのようなお出迎えをされるのですか?」
 すると、上品な美しさを備えた顔が、ほころんだ。
「いいえ。悠大さんが貴方に最高のもてなしを、と言ったのですよ。あの子がそんなふうに言うのは初めてでしたし、友人を家に招くことも滅多にないのです。それに・・・・・・」
 優しそうな笑みに、少しだけ嬉しさという成分が見えた気がした。
「あの子のことを名前で・・・・・・しかも貴方は呼び捨てになさったでしょう?わたくし、少し嬉しかったのです。悠大さんは人当たりこそいいけれど、本気で人と触れ合おうとしないようなところがありますから・・・・・・」
 さすがは母親だ。悠大の優等生っぷりが表面的なものだということを、薄々感じているようだ。思わず口走ってしまった自分の言葉を恥じた慈恩だったが、それが嬉しいと言われると、更に気恥ずかしかった。すみません、と口ごもりながら言うと、彼女は上品な微笑みのまま優しく首を振った。
「いいえ。これからも悠大さんと仲良くしてやって下さい」
「それは・・・・・・もちろんですが・・・・・・」
「貴方のように家柄だけでなく、人柄としても素晴らしい方に巡り会えて、きっとあの子は幸せです」
 家柄意識はあるものの、それが最優先というわけでもなさそうな言い方に、近衛の考え方の源はこの母親に発しているのだろうということは、何となく想像できた。
 鼓の稽古は、本当に基礎の基礎だけを教わり、あとは舞台で披露することになる演目での練習になった。
「ここは中心を、そしてここは少し手を下にずらして縁をたたくようにします。音が全く違いますから、それでメリハリをつけるのです」
 打つのはたちまち上手くできるようになった。むしろ慈恩が苦心したのは、合いの手の声だった。能は演じている最中、ずっと合いの手と鼓の音が響いているのだ。
「こう、頭蓋に抜けるような感じで・・・・・・ぃよぉ~っ、というふうです」
「はぁ・・・・・・」
 剣道でも掛け声を張り上げるのが苦手な慈恩である。鼓のリズムは上手く取れても、この独特の声を入れながらというのがなかなか難しかった。苦戦していると、松平が苦笑した。
「九条様の場合、声を一生懸命出そうとすることで集中力が散じてしまいがちになられるようです。まあ、この声があまり大きいと演じ手の声も聞き取りにくくなりますから・・・・・・貴方の声を生かして、低音で優しく入れるのがいいかもしれませんね」
「すみません・・・・・・」
 思わず謝ってしまった慈恩に、松平はニコニコと返す。
「いいえ。能にだって、無限の可能性があります。鼓も二人で打つと思いますが、その二人の声がそろっていない方が魅力的だったりするのです。片方が貴方のような美低音であれば、かえってその方がいいかもしれません」
「そうですか・・・・・・?」
 いまいち自分の声の質が信じられないのだが、そう言われるのだから、今の慈恩には言うとおりにするより他ない。低音での合いの手で練習を始めた。確かにその方が自分でも鼓に集中できた。ほぼ全部を通して練習し終わってから、たった二回とは言え、丁寧に教えてくれた松平に太鼓判をもらった。
「これなら大丈夫でしょう。高校の文化祭でこれだけおできになれば、何も問題ないと思いますよ」
「本当にありがとうございました」
 深く礼で応えた慈恩に、和風のすっきり顔が緩む。
「いいえ、こちらこそ。貴方のように、打てば響くような方と共に鼓の練習ができたこと、至極光栄でした」
 あまりにも丁寧な言い方に、慈恩は苦笑を禁じえない。
「あなたのような先生に教えて頂けて、光栄だったのは私の方です。感謝すべきは私です」
 それが松平には、ものすごく低姿勢に映るらしい。
「もったいないお言葉です」
 深々と下げた頭を上げてから、照れたように笑った。
「貴方のような人がこうして能に触れて下さって、興味をもって下されば、私どもは嬉しゅうございます。もし、少しでもやってみたいと思われましたら、遠慮なくお呼びください。いつでも馳せ参じましょう」
 それは申し訳ないから絶対にできないだろうと思う慈恩だったが、松平はかなり本気だったようだ。
「お前、それスカウトじゃねえの?」
 先週同様、近衛の部屋で豪華な夕食を気楽に頂きながら、松平に言われたことを報告した慈恩は、呆れたような声で応えられた。
「・・・・・・はは、まさか」
「まさかなもんか。やりたかったら呼べって言ったんだろ?そして、飛んで来るって言ってんだろ?そのまま連れて行かれるぜ」
「あ・・・・・・そう」
 よろしくなんて言わなくてよかった、と胸を撫で下ろす。そんな慈恩を、近衛は面白そうに見つめた。
「そんなに鼓の才能があったとはね。飯食ったら、ぜひ練習の成果、見せてくれよ」
「・・・・・・まあ・・・・・・ここまでして習わせてもらったんだから、その成果を見せるのは筋だと思うけど」
「けど?」
 やや困り気味の慈恩の顔を、不思議そうに見る。その視線に気づいた慈恩は、思わず苦笑した。
「俺、褒められるほど上手くは、絶対ないと思うぞ?」
「だったら尚更見たい。俺、お前のいまいちな姿って、見たことないから」
 近衛の唇の左端が、にやっと吊り上がった。やれやれ、と慈恩は肩をすくめる。えらく買い被られたものだ。
「でもあれ、一人でやるのはなかなか照れるっていうか。代わりにお前も、鬼の舞合わせてくれるとやりやすい」
 近衛は知的な造りの顔を破願させた。
「じゃあ、一緒にやってみるか」
 食事を綺麗に片付けてくれた使用人に、近衛は鼓と扇を持ってこさせた。広い三十畳の部屋は、少々暴れても音を立てても、外にはなんら影響はなかった。そこで初めて慈恩は、松平以外の人間に鼓の腕を披露したのだが、近衛も舞をクラスメイトに見せるのは初めてだった。近衛の舞は優雅で、時に激しく足を鳴らし、美しくひらりと跳んで見せた。タイミングもぴたり。逆に慈恩が感心してしまった。
「すごいな悠大。お前も練習してたのか?」
「まさか。この演目の外にも、いくつか習ったことがある。うちのじいさん、能を守る会とかの会員でさ。若者がそういうのに触れていくべきだとか言うもんだから、俺、小学校の時からあの光郎太さんとか、その上の蝶郎太(ちょうろうた)さんに時々習ってた。それをみんな知ってたから、俺に講師のツテ頼んでたんだろうしな」
 知らなくても間違いなく近衛が頼まれていたのだろうが。
「それより、能の鼓って、もっと高い声で合いの手入れるんだと思ってたけど、そういうのも有りなんだな」
 こちらも感心したように言う。言われた方は笑うしかなかった。
「できなかったんだ。やろうとはしたんだけど、あの声を出すのが難しくて、その上気恥ずかしいもんだから、鼓を打つのがおろそかになって。両立できずに悪戦苦闘してたら、先生が低い合いの手も有りかもしれないって助け舟を出してくれた」
「はあ、なるほど。でも、なんかお前がやると、艶やかでいいな」
 くす、と笑いながら、扇で鼓を打つ。和楽器らしい渋い響きを伴って、鼓が鳴る。
「実は俺、あの鼓の高らかな合いの手、あんまり好きじゃなくてな。唄が聞こえなくなるだろ?唄だって、ただでさえ分かりづらい古文なのに、高らかな合いの手がそれを聞き取ろうとするのを邪魔しちまうときがある。でも、お前みたいなのは悪くない」
「そんなもんかな?」
「能を守る会の会員の孫が言ってんだぜ」
 手に持った扇を勢いよく振って開き、それを突きつけるようにする。

「信じろよ」
 
栗色の瞳が真っ直ぐ漆黒の瞳を見つめる。漆黒の瞳が凪いだ。
「能を守る会員の方はよく知らないけど、お前が言うなら信じるよ」
 一瞬、栗色の瞳が大きく見開かれ、次に優しく笑みを含んだ。その表情の作り方が、母親に似ていると思った。
「慈恩。今日ここに泊まっていかないか?」
 突然の誘いに、今度は漆黒の瞳が大きくなって、パチパチと瞬きをする。漆黒の長い睫毛が音を立てそうだ。
「何でその展開になるんだ?」
 にやっと近衛らしい笑みが閃いた。
「もう少し、お前と話がしたいと思った。我がままだと思うか?」
 慈恩は少し瞬きする時間を置いてから、微笑した。
「思うよ。でも俺は構わない」
 開いた扇を、近衛は器用に片手でパシン、と閉じた。

「決まりだな」

 近衛の部屋での宿泊は、まさに修学旅行気分だった。もちろん和室なので、使用人が何人か来て丁寧に布団を準備してくれた。
「お前、パジャマ着る派?」
「どちらかと言えば」
「じゃあ、出しとくから、それ着てくれ。タオルとか、好きに使ってくれればいいから」
「ああ。ありがとう」
 桧の浴槽に浸かりながら、改めて贅沢だと感じる。本当にこれは、個室に温泉のついた高級旅館と変わらない。生活用品が整っている辺り、それよりずっと便利なくらいだ。風呂から出ると、全部新品のタオルや衣類、歯ブラシや歯磨き粉までが一式綺麗に準備されていた。
(出しとくって・・・・・・ここまで客用に準備してあるのか?パジャマも新しそうだし)
 やや気後れしながらも、厚意を無にするわけにはいかず、ありがたく使わせてもらった。めちゃくちゃ肌触りのいい高級綿素材のパジャマは、黒で白の縁取りがされていた。自分が普段使っているものにデザインが似ているので、その質感以外はそれほど違和感がない。
「お前、何でも似合うんだな。黒は似合うと思って用意させたけど、たかがパジャマがこんなに似合う奴、初めて見た」
 出てきた慈恩を見るなり、近衛が嘆息した。慈恩としては微妙な気分だ。
「それは褒められてるのか?皮肉られてるのか?」
「褒めてるに決まってるだろ。俺の口調が天邪鬼なだけだ」
 あっさり己の非を認めて、ぽい、と白いものを投げる。反射的に受け取ったものは、包帯だった。
「ちゃんと湿布貼っとけよ。机に出しておいたから」
「ありがとう」
 自分が今出てきたところへ入っていくのを見送ってから、慈恩は慣れた手つきで膝の裏に湿布を当て、器用に包帯を巻いた。途端、携帯が鳴り出して、慌てて取る。表示を見なくても、設定された着メロでそれが誰だか理解している。
「もしもし」
『慈恩?どう?足の怪我、よくなってる?』
 擦れた声が問い掛けてくる。まるで今の行動を見透かされていたようで、思わず苦笑する。
「随分いい。お前こそ、声が擦れてるんじゃないか?発作でも起こした?」
『ううん。少し、疲れてるだけ。なんか、緊張の糸が切れちゃったせいかな』
「・・・・・・そうか。ほんと、お疲れ様。どうだった、如月祭」
『大成功だったよ。慈恩に話したいこと、沢山ある』
 その割には、少し元気がないような気がした。ふと心配になる。
「今日はゆっくり休めたのか?」
 擦れた声が微かに笑った。
『久しぶりにゆっくり眠れた。・・・・・・でも、やっぱりちょっと疲れてるかな。昨日少し、熱があったから』
 心臓がすっと冷える。
「風邪ひいたのか?」
 少し間があいた。斗音が微笑んだのだと分かる。
『どうかな・・・・・・少し喉の痛みもあるし、そうかも。でも、大したことないよ。心配しないで』
「無茶言うなよ。心配に決まってる。明日打ち上げだって言ってたっけ。あんまり具合が悪いようだったら、無理するんじゃないぞ?」
 また斗音が笑った。
『相変わらず過保護。分かってる。無茶はしないよ。それより左足首、ひねったことの方が痛手かな』
「ひねった?体育祭で?」
『ううん、階段踏み外して。一週間くらいはバスケできないかなぁ。慈恩の気持ちがよく分かるよ』
 思わず片手で頭を抱えた。
「馬鹿。そんなとこで気持ち分かってもらっても嬉しくないぞ。どうしたら階段なんか踏み外すんだ」
『どうしてか自分でもよく分からないけど、なんか疲れたなーとか思って、ボケっとしてたら落ちた』
「腫れてないか?ちゃんと医者には行ったのか?」
 傍にいてやりたい。こんな自分の傷に包帯を巻いている場合ではないのに。不器用な斗音はちゃんと綺麗に包帯を巻けるだろうか。熱はちゃんとひいたのだろうか。具合の悪さは、すぐにごまかしたがる斗音のことだ。嘘は言っていないと思うが、心配させないように症状を軽めに言っている可能性はある。
『医者には・・・・・・行ってないけど、ちゃんと手当てはしてもらったから大丈夫。本当。これでも駄目なら、ちゃんと接骨院に行くよ。ねえ、それより、みんなで慈恩に見せたいからって、一杯写真とか撮ったんだ。その内時間見つけて、みんなで集まろうって言ってんだけど』
 珍しい誘いだった。如月祭を控えていた斗音は、いつも申し訳なさそうに、自由になる時間がないと言っていたから、椎名の家を出てからまだ一度も、如月の仲間どころか斗音にも会えずにいたのだ。胸が高鳴る。けれど、そのことで斗音が無茶をするのではないかと、不安も湧き上がる。
「そうだな。でもまず、お前がしっかり風邪と足を治すこと。それが条件だぞ」
『分かった。じゃあ、頑張って治すから。それで如月祭のことだけど、慈恩何が一番聞きたい?全部はとても言い切れないと思うから、とりあえず今日は慈恩が一番聞きたいこと話すよ』
 上手に話を逸らされた気もしなくもないが、話したくて仕方がない様子の斗音が、兄と長い間慕ってきたにも関わらず、無邪気で可愛いと思う。だから、話を合わせた。
「うーん。じゃあ、体育祭。どうだった?どこが優勝した?」
『すごい!俺もそれが一番言いたかった!総合優勝、赤団が取ったんだ!で、応援も準優勝だよ!』
 一気に斗音の声が元気になる。声の擦れ方はやや気になったが、それでも斗音が元気になってくれたので、少し安心する。そして、斗音の団が大活躍したことに、心から嬉しさがこみ上げる。
「すごいじゃないか!それ、ほとんど赤団総なめってことか?」
『それがね。すごい接戦だったんだよ!総合準優勝と応援優勝が青団だったんだ!』
 ズキン、と胸が痛んだ。こみ上げる嬉しさと混ざって、なんだか泣きたいような気分になった。もちろん声にそんな要素は一ミリグラムも含ませなかったが。
「じゃあ青と赤でおいしいとこ全部もってったってことか。きっと嵐が大きく貢献したんだろうな」
『体育祭の中で一番目立ってたよ』
「はは、やっぱり。応援とか、ビデオで見たいな」
『だろ?そう思って、放送部に借りる約束したんだ。ね、俺、気が利くだろ?』
 妙なハイテンションに、少しだけ違和感を感じながらも苦笑する。
「はいはい。で、どんな感じだったんだ?」
『そんなの、言葉で説明しきれないよ・・・・・・。ねえ、慈恩』
 ハイテンションだったハスキーボイスが、つかえて、更に擦れた。心臓をつかまれた気がして、はっとする。
「斗音・・・・・・?」
『慈恩が、いたらさ。俺の団が総合優勝で応援準優勝で、慈恩の団が総合準優勝、応援優勝、だったんだ。すごい、最強の・・・・・・双子、だよね』
 涙を必死で堪えているのが分かる。そんなこと考えて、つらい気持ちになんて、ならなくていいのに。まるで自分の痛みが伝わってしまったかのようで。込み上げる熱い塊を無理やり飲み下して、ゆっくり吐息した。
「・・・・・・そうだな。でも、お前も翔一郎も瞬も嵐も、みんないい思いができてよかった」
『こんなこと、俺に言う資格はないと思うけど・・・・・・この思いを分かち合える中に、慈恩がいたらって思ったら、何か急に・・・・・・ふふ、ごめん。馬鹿みたい。一番つらいのは慈恩なのに。それを慈恩は我慢してるってのにね。やっぱ俺、兄貴失格』
 無理に笑ったりして。震える声に、華奢な身体を震わせて泣き出したいのを我慢している姿が目に浮かぶ。その震えを止めるために、抱き締めてやれたらいいのに。今すぐに、この手を伸ばして。空いている方の手を強く握り締めた。その想いだけでも、伝わるといい。
「俺を見くびるな。お前の感じたこと、これでもかって伝わってくる。もっともっと、話してくれ。沢山知りたい。お前が何を見て、何に感動して、何を思ったのか。俺は絶対に共感できるから」
 数秒、間があいた。次に聞こえた声は、完全に涙声だった。
『任せてよ。携帯の充電切れるまで、しゃべり続けてやるから。だから、充電の残りがほとんどなくなったら、教えてよ。途中で切れんの、ヤだから』

「ああ・・・・・・分かった。ちゃんと教えるから、安心して好きなだけ話せよ」

 当たり前のことで別に深い感慨もないのだが、近衛は桧の香りを肺一杯に吸い込んだ。これを慈恩と共有できるなら悪くないと思う。自分が初めて興味をもった人間である彼となら。
 
彼を初めて知ったのは、小学生のときだった。剣道は小学校一年生から始めていた。礼節を身につけるためだとか、厳しさを身をもって知るためだとか、心身ともに鍛えるためだとか、様々な理由はあった。でも、別にやりたかったわけではない。別に逆らうほど嫌でもなかったから、とりあえずやっていたくらいだった。体面的なこともあったし、勝てばそれなりに嬉しいし、逆に負けるのは癪だったから、稽古をサボりはしなかった。三年間はずっと、そんな気持ちでやっていた。持ち前の器用さで、同級生の中では一、二を争っていたが、特に実力が抜きん出ているわけでもなかった。
 
四年生になったばかりの春。小学生の団体戦が行われた。各学校から三チームまで出場できる都大会で、かなり大規模なものだった。もちろん、六年生や五年生の上位の子供たちがチームの構成員となっていたのだが、そのうちの一人が突然盲腸で入院してしまった。一人でも足りなければ、団体戦は成り立たない。かといって、あまり技術の不足する者でも、団体戦は足を引っ張るだけだ。そんなわけで、頭脳プレーのできる近衛がその抜けた穴を補うことになった。今思えば、それも近衛の家名が響いていたのかもしれない。
 
その会場で、異彩を放つ少年がいた。鋭くキレのある技。磨き抜かれたそれを一目見て、目を奪われた。なんてすごい小学生がいるのだろうと思った。背の高い少年だったから、六年生か、良くて五年生だろうと思った。そうしたら、四年生だということで、みんなが騒ぎ出したのだ。
「嘘だろ?あれが四年生?馬鹿な!」
 少年団のコーチが本音を思わず吐き出したのを、今でも忘れない。堂々としていて、六年生とでも全然気後れせずに対等に打ち合い、それどころか勝利を収めるのだ。団体戦で彼はAチームの副将を務めていた。
(・・・・・・すごい。なんて奴だろう)
 たかがCチームの先鋒だ。彼と対戦することは、百パーセントない。そうは思ったけれど、胸の高揚感は抑え切れなかった。

(かっこいい!)
 
あんなふうになりたい。あんな奴と、対等に戦えたら。そう思った。同じだけしか生きていない人間同士、自分にできないはずがない。もともと一般的な子供の能力に比べたら、近衛のそれは優れている方だった。大して頑張らなくても、同級生たちより一歩リードできるような少年だった。それが、圧倒的な差を見せ付けられたのだ。初めて。剣道が上手くなりたい。頑張りたい、と、そう思った。その時は、「椎名」という名字しか分からなかったが、しばらくして個人戦にも出場していた彼の名が、トーナメントを駆け上がっていくのを見て、フルネームが「椎名慈恩」というのだと知った。確かその大会では、四年生ながら全国にまで行ったと記憶している。

 それから稽古に力が入り、もともと素材としてはかなりの質を持っていた近衛は、どんどん力を伸ばしていった。いつもその目が追いかけていたのは、あの日の慈恩の姿だった。今でもあの姿は、自分の中に焼きついている。
 
しかし、なかなか彼とは対戦できなかった。中学でも高校でも、先輩優先の部の方針は貫かれており、私立ということで公式戦への出場機会も少なかったのだ。それでも近衛の中で、慈恩への憧れは衰えることがなかった。どんなに強い先輩たちを見て、淡い尊敬の念を抱いたとしても、時折大会で慈恩を見かけると、やはり自分が追い求めているのは彼の姿なのだと、自分自身が思い知らされた。インターハイ予選で彼を副将にした如月高校に桜花高校が惨敗したときも、そのレベルの高い剣道に見惚れていた。もちろん、そんな心の内を誰かに見せるような真似は、一切しなかったが。
 そんな彼が、九条と名乗って自分のクラスで淡々と挨拶をしたとき、自分の感覚全てを疑った。いつもただ一人、目標にしていた人物が、手の届く位置に現れたのだ。身体を駆け巡る歓喜の思いが、自分の思考を麻痺させてしまうかと思った。震える身体を抑えるのに、自分の理性を総動員しなければならなかった。なのに、それなのに。
(何だかなあ・・・・・・滅茶苦茶大人っぽいくせに、どこか天然っぽくて、かと思えば何か危うくてほっとけねえし。そのくせすごく冷静だったりして。精神的に鍛えられてる分、色々とカバーしてるんだよな)
 知れば知るほど、それら全てに魅力を感じずにいられなかった。新しく彼のことを知るたび、惹かれていった。自分の考え方に近いものを持っていて、それも気に入った。初めから何の気負いもなく自分を出せた。だから、傍にいたいと思った。ずっと自分を抑えてばかりで、誰にも心の内を知られないようにしてきた今までの人生が、いかに色あせたものだったかを知った。もはや彼の存在しない生活は、考えられなかった。
(あいつは未だに、何で俺が入れ込むのか、理解できてないみたいだけどな)
 思わずその鈍さが思い出されて、笑いが込み上げる。すごく頭がいいくせに、自分の魅力や価値を、全く意識していないのだ。それもまた、彼の魅力のひとつに違いない。その慈恩を一晩独占できるのだと思うと、何か身体の奥から震えが来そうなほどだ。
(あいつの素顔、もっともっと見てみたい。どうしたらあんな人間ができあがるのか、知りたい)
 こんなにワクワクしたことが、これまでの人生にあっただろうか。慈恩に出会わなければ味わえなかった、この豊かな感情。色彩豊かな世界。
(さてと・・・・・・。風呂上りに何か飲み物でも用意させるかな・・・・・・)
 ジンジャーエールがいいか、レモネードがいいか、それとも冷たいハーブティーにしようか。色々考えながら戸を開けると、慈恩の声が聞こえた。携帯で誰かと話しているのだと、すぐ分かった。そのままにして、ドライヤーで髪を乾かし始める。
「そうか、近藤さんも頑張ってるんだな。え?文化祭?・・・・・・ああ、そうだったな。うん。・・・・・・へえ、それは楽しみ。・・・・・・はは、そうなのか?・・・・・・うん、そろそろヤバイかな。・・・・・・ああ。じゃあ、とにかく身体には十分気をつけろよ。執行部のみんなによろしく伝えてくれ。・・・・・・おやすみ」
 彼の声が聞こえなくなるまで、何となくドライヤーの音を立てていた。電話中に出て行くと、気まずい思いをするかもしれないと思ったからだ。慈恩には、この部屋で気を遣ってほしくなかった。
 会話が終わってからドライヤーを片付けて、部屋に戻る。
「何か飲み物を持ってこさせようと思うけど、リクエストは?」
 近衛の第一声に、用意された布団の上で足を投げ出していた慈恩がふっと振り返って、少しぼんやりした表情を浮かべていたが、それから静かに、彼らしい微笑を浮かべた。
「任せるよ」

 言うと思った。と、軽く吐息して笑みを載せる。そこで勝手に、冷たくても身体は冷やさないジンジャーエールにしようと決めた。もちろん、近衛の家で市販のそれが出てくることはない。電話の内線で使用人にそれを告げる。これでしばらくすれば、ジンジャーエールが届くはずだ。
「・・・・・・さっきの、如月の友達?」
 慈恩が何だか妙にぼんやりしていて、これといった話題もなかったので、そう聞いてみた。慈恩の漆黒の瞳が、近衛に焦点を合わせる。微かな笑み。何だか少し、悲しそうに見えた。
「・・・・・・いや・・・・・・友達じゃない。・・・・・・兄貴」
「そっか。よく連絡取るのか?」
「・・・・・・そうだな。まあ、週に一度くらいは。・・・・・・今週は・・・・・・如月祭が、あったから」
「へえ。どこでも同じくらいにやるもんだな。やっぱり文化祭と体育祭があったりするんだろ?」
 あまり前の学校のことを思い出させるつもりはなかったが、少しだけ、聞いてみたかった。目を伏せるようにして静かにうなずいた慈恩は、ぽつぽつと、如月祭の概要を話してくれた。全て自分たちの手で創り上げていくその内容に、何だか羨ましさを感じた。楽しそうだと思った。途中までそれを根本で動かしていながら、一人離れなければならなかった慈恩のことを思い、悲しそうに見えるのも無理はないと思った。
 やがて、使用人の女性が一人、丁寧に二人分のジンジャーエールを届けてくれた。ひとつを慈恩に勧め、自分も口にする。
「・・・・・・これ、手作りだな・・・・・・。すごく美味い・・・・・・どうやって作るんだろう」
 一口飲んで独り言のように言ったのは、近衛がそれを知らないと分かっていたからだろう。
「レシピ、聞いてやろうか?」
 ストローでかき混ぜると、氷の涼しげな音がする。美味いと言ってくれたことが嬉しかった。微笑んだ慈恩がうなずいたので、再び内線で、明日の朝までに準備するよう伝えた。その言葉を聞いていた慈恩は、これまた心ここにあらずの状態で、つぶやく。
「明日・・・・・・晴れるのかな・・・・・・」
「明日?何かあるのか?」
 問い返すと、静かな微笑でかぶりを振る。なんでもない、と、整った唇が、形だけ笑みを作る。少し悔しかった。何に心を囚われているのかは、よく解らない。でも、あの電話からずっとこの調子だ。それでも知りたいのなら、とテレビをつける。番組表から天気予報をやっているチャンネルに合わせる。
「今夜も晴れるので、放射冷却が予想されます。明日の朝はやや冷え込むでしょう。しかし、日中は日差しもあり、暖かく感じそうです。東京では二十度を越えるところもあるでしょう・・・」
「晴れだってよ」
 言ったのが聞こえているのかどうかも怪しい。手にグラスを持ったまま、じっとテレビ画面を見つめている。心の中がちりちりとストレスを感じた。如月のことを詳しく思い出させたのは自分だし、そのことで慈恩がそちらに心を馳せているのだろうということはよく解る。解っていても、自分がそれに代わる存在になれないことが寂しかったし、今現在、目の前にいるはずの自分が、その漆黒の瞳に映らないことがやり切れなかった。
 近衛はパソコン机にグラスを載せ、その引き出しを開けた。これまで、吐き出すことができなくて、自分の中にどうしてももやもやが溜まった時に、時折吸っていた煙草の箱がのぞく。吸い始めたのは中学で部活を引退してから。もちろん、そんなものを頻繁に愛用していれば、心肺機能が弱まってしまうことは重々承知していたから、吸うのは本当にむしゃくしゃした時や、何かに逃避したい時だけだったのだが、今は無性にその味が恋しかった。
 ちらりと慈恩に視線を向けたが、変わらず放心状態に近い様子で、とっくに天気予報の終わったテレビ画面を、瞳に映している。気づいて欲しかった。それに、こんなものを吸っていると知ったら、彼はどんな反応を示すのだろう、という興味もあった。一本取り出し、ライターを使ってそこそこ慣れた手つきで火を点けた。一瞬紙の焦げる、香ばしいような香りが漂い、それを吸い込んで吐き出すと、薄い白煙が空気を染め、ゆっくり散じて消えていく。おおっぴらに吸うことはできなかったから、あるのは携帯用の灰皿だけだ。それを手にして、慈恩の近くで胡坐をかいた。それでも慈恩の瞳は動かない。煙草の匂いが部屋に広がる。気づかないはずはないのに、反応は特にない。
(何だよ。そんなに俺はどうでもいいのか?)
 変わらない表情は、いつかの陶器の人形のようで、どうにかしてそれを変えてやりたかった。
「・・・・・・慈恩」
 そっと呼びかけてみるが、喉の奥で小さく、ん、と応えるだけで、瞬きすら忘れてしまったようだ。
(その目は何を見てる?聞こえてるくせに、聞いてないし。こっち見ろよ)
 深く煙を吸い込んだ。ゆっくり吐き出すと、漂う白いもやが慈恩の周りに漂う。
「慈恩」
 今度はすぐ耳元で囁く。間近に見る肌は、どちらかというと白くて、漆黒の瞳や髪を際立たせている。整った顔立ちだ、と改めて思う。だが、慈恩の反応は全く同じだった。煙草を持っていない左手を布団について、そっと伸び上がるようにする。近づいた端正な顔。それでもまだぼんやりしたままのその瞳。動かない唇。
(俺を、見ろよ)
 閉じたままの唇に、自分のそれを軽く押し当てる。映すものが曖昧だった漆黒の瞳が、ゆっくりと焦点を結んだ。

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三十四.煙草

 懐かしかった。何もかもが。そして、苦しかった。斗音の話を聞くうちに、中途半端にしてきたことを、次々に思い出した。あの仲間たちと、いろんなメニューを考えて、嵐の素晴らしい演技を目の前で見て笑わされて、ウエイターの衣装合わせをして。そんな時間が、待っているはずだった。当たり前に訪れるはずの時間だった。沢山のステージを見て、その素晴らしさに感動し、仲間たちと笑い合って。
 どうして自分に、その時間は訪れなかったのだろう。どうして斗音を泣かせてしまうのだろう。一緒に如月祭を支え、創り上げていくはずだった。盛大な応援合戦で、声を張り上げ、割れんばかりの歓声の中、力の限り走ったり跳んだりして、共に競い合う楽しさを、自分は知っている。その結果に一喜一憂して、斗音の表情はきらきら輝く。それをすぐ隣で見ているはずの自分が、なぜ電話越しに結果を聞いているのだろう。斗音の声を震わせているのは自分だ。こんなところにいては、いけなかったのに。
 
斗音のことを、近衛に兄だと告げるのは、心が痛かった。その痛みを堪えながら話す一つ一つは、自分が経験するはずだったことばかりで、頭の中には昨年度の如月祭の様子が繰り広げられていった。その頃からすでに仲のよかった出来過ぎ集団のメンバーと、スケジュールを見ながらあれこれ計画を立てて、できる限りのものを見て回った。元気な斗音を見るのが嬉しかった。病室で、青白い顔で呼吸器をつけられ、力なく微笑む斗音を知っているから。とても楽しかった。何もかもが目新しくて、素晴らしく映って、時間がたちまち過ぎていったあの三日間。それが自分のいないところで始まり、自分に関係なく繰り広げられ、そして、自分は何をしているわけでもないのに、その間に終わってしまったのだ。心が虚無感に襲われた。
 
そんなときに口にしたジンジャーエールが妙に優しい味で、美味しい、と、ふと思った。自分に作れたら、喉を痛めている斗音に飲ませてやれるのに。頭の片隅でそう考えた。気の利く近衛が、レシピを準備してくれると言った。嬉しく思った。でも、心が悲鳴を上げている。そんなの知ったとしても、いつ作ってやるんだ。今喉が痛いと言っている斗音に飲ませてやることなんて、叶いはしない。自分が滑稽に思えて、情けなくて。
 
ふと、近衛が口にした、明日、という言葉だけが、引っ掛かった。そうだ、明日は執行部のメンバーで、如月祭の打ち上げをすると言っていた。彼らの打ち上げが少しでも楽しくなればいいと思い、ふと天気が気になった。何気なくそのことを口に出したら、近衛はテレビをつけて、天気予報の番組を見せてくれた。
 
今井から、如月祭の一日目が終わった夜に、連絡があった。途中までは関わっていたのだから、一緒に打ち上げをしたい、と。しかし、途中で自分が抜けたことで、どれだけみんなに迷惑を掛けただろう。そう思うと、おめおめと顔なんて出せるわけがなかった。そう言って丁寧に断ったら、今井は心外だと言わんばかりに自分を諭そうとした。
『馬鹿。お前は好きで抜けたわけじゃないだろう。そんなことみんな知ってる。むしろ、斗音の具合が悪かったときなんか、お前が色々フォローしてたじゃないか。お前が頑張って仕事してなかったら、如月祭だってもっと大変だったんだぞ。慈恩が執行部にいたことを忘れてる奴なんて、俺らの中には一人だっていやしない』
 そう言われて泣きたい気分になった。自分のいた証が、如月にはまだあるのだろうか。それでも、色々複雑な思いを抱えて、心から楽しく打ち上げに参加できるとは、到底思えなかった。自分だけが知らない当日の思い出を、彼らは気兼ねしてきっとあまり話そうとしないだろう。逆に、気を遣って色々教えてくれるかもしれない。どちらにしても、自分にとってはつらいことに違いない。どんなにポーカーフェイスを装ったって、今井や弓削にはきっと見抜かれる。そんな自分が、彼らのせっかくの打ち上げを台無しにしてしまうのは、心の底からつらかった。
『・・・・・・ありがとうございます。でもきっと・・・・・・俺自身がつらくて、その場にいられないと思うんです』
 今井にはどんな嘘も通じないと分かっていた。だから、本音を言うしかなかった。本当は、その言葉を言うことも苦しかった。せっかく誘ってくれた今井の気持ちを跳ね返す、卑怯な言葉だ。それを言ってしまえば、今井とて強引に誘えるはずがない。彼の語勢は一気に落ちた。そして、逆に申し訳なさそうな口調で返ってきた。
『・・・・・・そっか・・・・・・そうだよな。途中で抜けるのが一番つらかったの、お前だもんな。ごめん。俺はお前に会って、色々伝えたい思いばっかりで・・・・・・自分の気持ちしか見えてなかった』
 その言葉を聞いた途端、不意に目の前がぼやけて、雫が頬を伝った。こんなふうに自分を大事に思ってくれた人を、自分は今跳ねつけたのだと、唐突に胸に刺さるように実感した。
『・・・・・・すみません・・・・・・。・・・・・・でも、嬉しかったです。本当に・・・・・・』
 震えそうになる声を抑えて、そっとつぶやくように言った。何が、なんて言わなくても、きっと今井には伝わる。確信があった。電波に乗った今井の声が、少し笑いを含んだ。
『そう、言ってくれるなら、誘った甲斐もあったかな。でも、慈恩。お前には本当に近いうちに会いたいよ。会って話したいことが・・・・・・色々ある』
 最後の方は、やや深刻な雰囲気だった。不審に思っていると、続けて訊かれた。
『お前、斗音と連絡は取ってるよな?あいつ、お前に何か言ってるか?』
 一瞬何のことか分からなかった。
『何か・・・・・・?』
『自分のこと、何か話してるか?』
『いや、特には・・・・・・。最近疲れてる、とは、よく言ってますけど・・・・・・』
 そう応えると、少し考えるような間を置いて、思慮深げな今井の声が返ってきた。
『・・・・・・そうか。・・・・・・あいつさ・・・・・・お前がいなくなってから、取り憑かれたように仕事するし・・・・・・その上その疲れを背負ったままでいるっていうか・・・・・・。ちゃんと眠れてるのかなと思って。気をつけて見てるつもりだけど、あいつもなかなか素直に言うタイプじゃないもんだから』
 それを聞いて、少し心配になった。あれほど身体を大事にするよう言い含めてきたのに、無理をしているのではないだろうか。自分が開けた穴のせいだろうか。それを埋めるためなら、斗音はどんな無理だってしでかしそうな気がする。
『・・・・・・そうですか。また、無理はしないように、言っておきます・・・・・・』
『頼む。あいつ、きっとお前の言うことなら、聞くだろうから。じゃあな。また連絡する』
『はい。あの・・・・・・ありがとうございました』
 つらさと気がかりと申し訳なさで胸が塞がりそうだった。でも、斗音のことを心配してくれる人が近くにいてくれることは、心強かった。あの生徒会長なら、本当に斗音がヤバイと思ったら、強制的にでも無茶を止めてくれるだろう。
「・・・・・・慈恩」
 三日前の夜のことを思い、痛む胸をオブラードのように、理性で幾重にもくるむ。そうでもしなければ、脳の神経が焼き切れてしまいそうだった。そんな中で、名前を呼ばれたのを聞いたような気がした。しかし、思考回路も胸も一杯で、あまりそちらに気が回らなかった。
(斗音・・・・・・昨日熱を出したって言ってた。体育祭、きつかったんじゃないのか。疲れてると免疫力も低下する。発作だって起きやすくなるはずだ。しっかり聞いておけばよかった。あの擦れた声、やっぱり発作起こしてたんじゃないのか?もっと強く言っておけばよかった。無理するなって・・・・・・)
「慈恩」
 今度は先ほどより少し、はっきりと聞こえたように思った。悠大の声だ、と、巡り巡っている思考回路の間でぼんやり考えた。次の瞬間、自分の唇に何かが触れた。瞬間、鼻腔をくすぐるのは、少し苦いような、独特の煙の香り。

(・・・・・・え?)
 自分の目の前に、くゆる淡い煙。その中に、知性を漂わせる端正な顔があった。栗色の瞳が、まるで自分を射るようにじっと見つめている。
「・・・・・・悠大・・・・・・」
 つぶやくと、やや皮肉めいた微笑が、彼の顔に浮かんだ。

「やっと戻ってきたな」
 
そこでようやく、煙の正体に気づく。
「・・・・・・煙草・・・・・・吸うのか・・・・・・」
 質問ではなく、ただ感じたままに出た言葉だったが、近衛はくすっと笑った。
「そうきたか。まあいいや、お前らしくて」
 慈恩には、何がどういいのかよく分からなかったが、相手は乗り出すようにしていた身体を引いて、胡坐のまま煙草を口にした。その仕草は比較的自然で、今初めて吸うのではないと分かる。
「誰も知らない。お前以外は」
「・・・・・・」
「お前だけは特別だ。・・・・・・でも、誤解するなよ。頻繁にやってるわけじゃない。ほんの時々、耐え切れなくなった時だけ」
「・・・・・・耐え切れなく?」
 思わず聞き返す。近衛は少し慈恩から顔を逸らすようにして、煙を吐いた。
「色々な。何せ本性がこれだから。かといって物に当たるのは馬鹿だと思ってるし」
 それで自分を痛めつけることを選んだのか、と思う。剣道をやる上でいいはずがないのに、それでもそうせずにはいられない時があるということか。そして・・・・・・今も?
 そこまで考えて、はっとする。
「悪い、考え事してた」
 反射的に謝っていた。自分が原因だと知った。直感だった。近衛が少し、顔をしかめる。
「何で謝る?」
「・・・・・・ごめん」
「・・・・・・」
 深呼吸するかのごとく、深々と肺に煙を入れた近衛が、それを溜息のように吐き出した。そして、微かに唇の端を吊り上げる。
「吸う?」
 まだ三分の一ほど減っただけの煙草を、すい、と差し出される。少し躊躇った。煙草を吸ったことはない。斗音がいたから、そんなこと考えたこともなかった。もちろん、法で禁じられていることもよく知っているが、慈恩の場合、そんなことは関係なかった。斗音のためにならないのなら、一生吸うこともない。それだけだ。
 近衛の表情をうかがうと、こちらを試しているようなシニカルな微笑。別に断ったって、その笑みのままで上手く流してしまうのだろう。慈恩はそっと身体を傾け、近衛の手にする煙草に口をつけた。ゆっくり吸い込む。途端、軽い眩暈に襲われた。思わず小さく咳込む。
「初めてか。だろうな。大丈夫か?」
 背を優しく撫でられる。うなずくが、肺の中に煙の匂いが残っているのに顔をしかめる。
「馬鹿だな。嫌なら嫌って言えよ。別に強要なんてしやしない」
 呆れたように笑う。けほ、と肺に残った煙を吐き出すように咳をして、慈恩はそっと首を振った。
「別に・・・・・・嫌だったわけじゃない。どんなものかと思って」
 そして、綺麗な空気を吸い込むように、大きく息を吸って吐き出す。
「お前がどんな気分を味わってるのか・・・・・・知りたかった」
「・・・・・・・・・・・・」
 近衛は知的な栗色の瞳で、じっと慈恩を見つめた。
「それがお前の、罪滅ぼしなのか?」
「そんなつもりはない。・・・・・・でも、悪いとは思ってる」
「・・・・・・そうか」
 最後に一口吸ってから、携帯用の灰皿で火のついた先端を押し潰し、吸殻となったそれを中へ押し込む。それをぽい、と机の上に投げ出した。
「じゃあ、こんなことしても許してくれるのか?」
「っ?」
 不意に肩をつかまれて圧し掛かられ、驚く間もなく押し倒される。そのまま栗色の瞳とじっと見つめ合う。そこからは何か強い思いを感じたけれど、それが怒りでないことは分かった。しばしの間、互いに視線を逸らすこともなかった。そのまま静かに近衛の端正な顔が近づいて、ゆっくり唇が重なった。嗅覚に直接、あの独特の煙草の匂いが感じられる。
(・・・・・・あ・・・・・・)
 軽く目を見開く。全く同じ感覚。名前を呼ばれて、あの時感じたものは。
「やっぱり。気づいてなかったな、お前。そんなことだろうと思ってたけど」
 目の前で苦笑が浮かぶ。
「・・・・・・男にキスしたのなんて、初めてだったのに。気づかれてなかったなんて、何か悔しいな」
「・・・・・・どうして、こんな?」
「キスのこと?さあ、どうしてかなんて分かんねえよ。お前の魂がどっかいってたから、呼び戻そうと思った。それだけ」
 ふざけたように、近衛が笑った。
「このままやっちゃってもいいんだけどな」
 思わず瞠目した慈恩に、少しだけ切なそうな表情を見せた。
「嘘だよ。でも、お前が好きだ」
「え・・・・・・?」
 驚きを含む漆黒の瞳を、近衛は少し、栗色の瞳を細めるようにして見つめた。

「それは、嘘じゃない」
 
そうっとついばむように数回、キスされる。そして、ゆっくり上げた彼の顔は、苦しそうだった。
「ごめんな。気持ち悪いよな、こんなの。でも、俺にも分からない。ずっと憧れてたんだ、お前に」
(・・・・・・そうか、だから・・・・・・)
 これまでの大会で、対戦したことはなかったけれど、自分も近衛の名前だけは知っていた。決勝まで残っていれば、自然、みんなに見られることになる。それで近衛は初めから自分のことを知っていたのだ。転校して初めて言葉を交わしたときから、自分にだけは他人と違う接し方をしてくれた。それは、初めから親近感のようなものをもっていてくれたからだ。
「・・・・・・よく分からないけど・・・・・・俺、剣道やってる人には好かれることがあるみたいだ」
 かすかに微笑む。
「ここに来る前にも一人、そう言ってくれた人がいた。・・・・・・尊敬する先輩だった」
 心臓が痛かった。自分に最も期待して、部を任せようとしてくれた近藤の想いの全てを、自分は踏みにじるような真似をしてきた。
「え・・・・・・、好きだって、言われたのか?それ、男?」
 今度は近衛が驚く番だった。それに、静かに、掻き消えそうなくらいわずかな微笑みで答える。
「・・・・・・そうだよ。惚れてるって言われた。キスされたことも、ある」
 栗色の瞳が大きく見開かれた。でも、次の瞬間には、納得済みの苦笑を浮かべる。
「その人の気持ちはよく解る。でもそれなら、もう遠慮しない」
 その瞳には真剣な光が宿った。
「そいつには負けたくない。想いの強さなら、負けない」
「・・・・・・悠大・・・」

 強い意志の輝きを宿した近衛の瞳が、焦点すら合わせることが困難なほど近づいた。まだ煙草の香りの残る呼気を、肌で感じる。圧し掛かられて、少しだけ膝の裏が伸びる。微かに痛みが走った。それでも顔には出さなかった。ゆっくりと優しく、唇が押し当てられる。慈恩は静かに目を伏せた。

   ***

 翌週は月曜日から桜花祭が始まった。初日、二日目は見るばかりで、ようやく三日目に二年生の出し物を披露することになった。和服が似合うと絶賛された慈恩だったが、その舞台でも素晴らしい舞を披露した近衛と共に、観客の目を釘付けにした。近衛はもともと家柄と共に人気があったようだが、全校の中でまだ慈恩の知名度は低かったのだ。むしろ、完璧な転校生が来たという噂だけが先立って、男子生徒には特に悪評が先回りしていたというべきだ。
 しかし、それはその日の放課後から一転した。
「今日の2-1の舞台、あれ、鼓打ってたの、例の転校生らしいよ!」
「すごく品のある奴だったよな。鼓も上手かったし」
「あの声がまた素敵でしたわ。艶っぽくて」
「近衛はさすがって感じだったけど、どうしてどうして。鼓だけであそこまで存在感のある奴、なかなかいないよ」
 話題はそれで持ちきりだった。慈恩と近衛が通れば、その周りの視線が一斉に集中するし、あれだ、あいつだとあちこちからつぶやきがこぼれた。
「・・・・・・落ち着かないな」
 困惑したように、視線で近衛に助けを求める。ほぼ同じ高さの視線で、近衛はにやっと笑った。
「当然だ。今までみんながお前を知らなさすぎたんだから。気付くの遅すぎなんだよ」
「そんなの知らなくていいよ」
 心の底からの本音に、友人は苦笑する。
「お前らしくていいけど、ほんと、欲がないんだな」
「何の欲だよ」
「何言ってんだ。好印象の方が、自分の将来とお家のためにはいいに決まってんだろ。色々便利だぜ。お前がそういうの好きじゃないことは知ってるけどさ」
 慈恩は肩をすくめた。
「そこまで考えられない」
「まあ、そこがお前のいいところだよ」
 そこへ一人の男子生徒が近づいてきた。近衛の表情がすっと硬くなる。前に来るより先に、礼儀正しく頭を下げる。
「ご無沙汰してます、鷹司(たかつかさ)先輩」
「久しぶり。どうだ、剣道部の方は」
 爽やかな笑みを見せた男子生徒は、それほど短くもないが上品な整えられ方をしている髪を軽く掻き上げて、縁なしの眼鏡の奥から、涼やかに近衛を射た。
「みんなしっかり稽古に励んでいます」
 丁寧に応える近衛に、ふ、とうなずく。
「そうだろうな。お前が部長なんだから。それに、隣の彼も入部したそうだな」
 視線が慈恩に移る。切れ長の瞳は、やや他を制圧するような鋭さがあった。近衛に習って、軽く礼をする。
「初めまして・・・・・・」
 鷹司は、髪を掻き上げていた手をすっと伸ばして、長い指を慈恩の顎に添えた。礼でうつむいた顔を、威圧で上げさせる。目線はほぼ平行だ。身長は180近くあるだろう。
「覚えてるよ。如月高校副将、椎名。うちの副将は、お前に十三秒で伸された」
 カツ、と一歩近づく。至近距離でその視線を受け、慈恩は圧迫感すら覚えた。
(確か、次鋒だけやたら強くて、楠さんが負けた試合だ)
 覚えている。なぜ彼が大将でないのかと思った。勝つために、順番を変えてきたのかとも思った。
「インターハイで立派な成績を残したお前にとっては、都大会のたかが二回戦。覚える価値のないチームだったかもしれないが」
「部長!」
 思わず近衛が声を上げた。それを鷹司は鼻で笑う。
「部長はお前だろう?しっかりしろよ」
「あ・・・・・・はい、すみません。あの、彼はもう・・・・・・」
「解ってる。今は九条だったな。何の理由があってここに来たのかは知らないが、ふん。なるほど、いい男だな。今日はお前の噂で学校中が浮ついているようだ。分からなくもないが」
 指が顎から離れ、その人差し指が、今度は左鎖骨の下を突く。
「うちの剣道部に入ったからには、礼儀として現役を引退した俺たちに、一言あってもいいんじゃないか?お前は俺たちの最後の夏の希望を、二年生の分際で断ち切った」
 馬鹿な、と思う。一年生だろうが二年生だろうが、実力のある者が勝ち上がる。それが試合という世界の公平さであり、厳しさだ。近衛も慈恩と同じことを考えてはいたが、鷹司の考え方がどんなものかも知っていた。
「鷹司先輩。でも、彼が入ってくれたことで、うちの部は戦力的にも稽古のレベル的にも恩恵をこうむっています。今では心強い味方の一人です」
「それで?」
 鷹司は嘲笑した。
「俺たちはやり直すことが叶うのか?近衛。お前が今年インターハイ予選の都大会に出場しなかった理由は何だ?」
 近衛の唇が引き結ばれる。やや躊躇ってから、答える。
「三年間頑張ってこられた先輩に、最後の大会で花を咲かせて頂くため、です」
「そうだ。実力で言えば、お前は俺を凌駕している。それでも三年生でチームは編成された。それをお前は納得している。そうだろう?」
「・・・・・・はい」
「その厳しさを知らないこいつには、桜花高校剣道部の重い伝統と歴史を背負えない。上を敬う気持ち、縦社会の厳しさを覚えるべきだろう?」
 近衛は何かを言いかけて、それでも口をつぐんだ。鷹司から視線を逸らす。ふっ、と鷹司に笑みが浮かんだ。
「来い、九条。今から三年生部員一人一人に会わせてやる」
 ぐい、と腕を引かれて、膝の裏の筋が引っ張られ、痛みに思わずよろめいた慈恩の肩が、鷹司の肩にぶつかる。その瞬間、笑みを含んだ声が耳元で囁いた。
「これ以上いい気になれないように、打ちのめしてやるよ」

「・・・っ」
 慈恩の表情が一瞬固まる。その時だ。重なった肩の間に、近衛の手が割り込んだ。
「何だ、近衛」
 不快そうに鷹司が眉根を寄せる。小さく息を飲んだ近衛は、それでも静かに、きっぱりと告げた。
「みっともないですよ。そういうの」
 瞬間、鷹司の身体が離れる。鋭い視線が近衛に標的を変える。
「何だと?」
 しかめた眉が、威圧感を更に強大にする。それでも近衛はうろたえなかった。強い眼光を真っ直ぐに、栗色の瞳で受け止める。
「終わったことを今更蒸し返すのが、みっともないと言っているんです」
 それでも鷹司は背筋を伸ばして、近衛を見下すようにする。
「かろうじて村上がつなぎとめた希望を、こいつが叩き切った。あの時は仕方がない。敵だったんだからな。でも今は事情が違う。そのときのことを棚に上げて、桜花の剣道部を名乗らせるわけにはいかない」
「負けたうちの実力を、棚に上げてですか?」
 近衛は退かない。鷹司は涼しげだった目元を吊り上げた。
「いいのか、近衛。俺にそんな口を利いて」
 握り締めた拳が、怒りで小刻みに震えている。
「鷹司の家を、敵にまわす気か?お前の家が関わっている会社で、鷹司がどれだけバックについているか、分からないわけじゃないだろう」
「そんなこと、関係ありません。子供の、そんなつまらない意地に付き合う家なんて、それこそたかが知れているでしょう。それに私は、人間関係の上で家の駒になるつもりはありません」
 言い切った近衛の瞳には、強い意志の力があった。
「彼を侮辱するのは、誰であろうと許さない」
「近衛、貴様!」
 怒りのあまり青ざめる鷹司に、近衛は畳み掛けた。
「村上先輩が勝ったのは、それだけの実力の持ち主であったにも関わらず、部長や副部長をやっていなかったことが原因で、次鋒にしかエントリーされなかったからです。あの先輩は、スポーツ特待生であって、家名としては一般的なものでしたからね。副将は副部長、大将は部長。それは決まっていたし、その位置につけるのはある程度の実力を備え、且つ家の影響力を持つ人間。私も人のことは言えません。でも、そんな伝統や歴史が重いとは、私には思えません」
 自分と鷹司の間に割って入って、先ほど便利だ、と言ったばかりの家同士の人間関係を投げ打って、自分を守ろうとしてくれている近衛を、慈恩は胸が熱くなる思いで見つめた。
 上品な群青のダブルになっているブレザーの襟を、鷹司が激情に任せてつかみ上げる。
「貴様、いつからそんなに偉くなった!この俺に意見するだと?ふざけるのも・・・」
「鷹司さん、でしたね」
 静かに慈恩が言葉で遮る。
「悠大を離してやって頂けませんか。周りの目もあります」
 眼鏡の奥の瞳が鋭く慈恩を射たが、すぐに周りに視線を巡らせ、鷹司は突き放すように近衛のブレザーを離した。軽く手をはたいて、怒気のこもった息をつく。
「このままで済むと思うなよ、近衛。それに、九条。きっと今日のことを、後悔させてやるからな」
 交互に睨みすえてから、何事もなかったかのように、慈恩の脇をすり抜けていく。その足音が遠ざかるのを待ってから、近衛はほっと吐息した。そして苦笑する。
「守るつもりが、守られたな」
 少し歩を早めて歩き出す近衛に、慈恩は静かな微笑を浮かべて続いた。
「・・・・・・ありがとう。嬉しかったよ」
 途端、珍しく近衛の頬に朱が走る。
「連れて行かれてたまるか。あんな奴に。何されるか分かったもんじゃない」
 すたすたすた、と勢いよく進めていた足を、ふと止めた。訝しそうに見つめてくる漆黒の瞳に、真剣な眼差しを向ける。
「渡さねえよ、絶対に」
「・・・・・・悠大」
 少し瞬きをしてから、慈恩はくす、と笑う。
「まるで彼女に言うセリフだな、それ」
 ほんのり赤みがかっていた近衛の顔が、一気にその濃さを増す。
「うるせえよ。馬鹿」
(え・・・・・・地雷?)
 茶化してしまった自分のセリフに、しまったと思うが、今更どうしようもない。
(そりゃ確かに、キスはされたけど)

 基本的に、殊自分のこととなると、どこまでも鈍感な慈恩だった。

   ***

(何してる。何で帰って来ないんだ!)
 慈恩が近衛の家に泊まることになった、ちょうどその一日前になる。三神は自分の控え室として与えられている書斎を、何度も何度も往復していた。もう夜の九時。それなのに、この家の主人はまだ戻っていなかった。沢村の用意した夕食は、とうに冷めきっている。携帯にも何度か掛けてみた。しかし、最初の一回はコールしたものの、誰も出なかった。近くにいないのかと諦め、しばらくしてからもう一度掛けてみた。そうしたら、腹の立つ『ただ今、電源を切っているか、電波の届かない場所に・・・・・・』というアナウンスが流れた。それ以来、何度掛けても同じアナウンスを耳にするばかりで、ちっともつながらなかった。何の連絡もなく、彼が遅くなることは今までなかっただけに、様々な原因が頭の中を駆け巡る。
(やはり、昨晩のことを覚えていた?いや、でも今朝の様子でそんなに変わったことはなかったし・・・・・・まさか、途中で思い出して警戒しているとか?有り得ない話じゃない。くそっ、どうしてだ!どうして思い通りに行かない!)
 自分がこの家に入り込んだのは、彼を自分のものにするためだった。最初はそれだけでよかった。彼がどんなことを思おうと、力で無理強いできる自信はあった。しかし、想いは変わる。成長していく。双子だと思っていた兄弟を失い、寂しさに打ちのめされながらも一生懸命生きる彼に、惹かれた。愛した。本気で愛しいと思った。だから、本気で心が欲しくなった。彼に、愛されたいと思った。そうしたら、どんなに幸せだろうか。
(駄目だ、こんなところにじっとしてたら気が狂う!探しに行かなければ!)
 車のキーを手に取り、すぐさま家を飛び出す。
(最初は上手くいっていた・・・・・・俺の話に興味も示した。俺に縋ろうともしていた。俺の腕の中で泣いていたときは、少なくとも俺に心を許していたはずだった!それが、一体どうして・・・・・・)
 あの時は、掛けた優しげな言葉に涙をこぼしていた。口付けても、反射的な嫌悪を示したりはしなかった。
(いっそあのときにやってしまえばよかったか・・・・・・いや、それでは駄目だ。ただでさえも、あの人にとっては普通じゃない行為だ。まして、あの隠し子への思いを少しでも見せつけられたら、俺は絶対にキレる。滅茶苦茶にしちまう。そんなことをしたら・・・・・・二度と縋り付いてなんてくれない)
 あの時の、か弱い力が忘れられなかった。愛おしさで、気が触れそうだった。あれを自分のものにできるのなら、何を捨てても構わない。だからこそ抑えた。昨夜だって、必死で自分の衝動を抑えた。無理やり唇を奪って、あちこちにキスをして、その勢いでそのまま押し倒してしまうことだってできた。いや、本気でそうしてやろうと思った。なのに、彼は怯えて、震えて、そしてあの隠し子の持っていた十字架を握り締めた。助けてと、まるで魂を振り絞るかのように強く。それを見て、初めて自分が泣きたくなっているのに気づいた。好きだと、愛していると伝える言葉は彼の耳に届かなかった。彼が助けを求めていたのは、あの、漆黒の瞳の少年だった。
(どうして怯える・・・・・・何がいけない?)
 心を得るために、親切に、優しく、丁寧に接してきた。その中で、時折あの身体に触れるのが、せめてもの、そして最大の慰めだった。細い肩、細い腰。小さな顔。白くて美しい肌。細くて長い指。薄い華奢な身体。触れるたびに、荒れ狂う胸の内を押さえるのは大変だったが、触れた指は歓喜に酔っていた。もっと触れたい、もっともっと。
 三神は運転しながら、ぞくりと震える身体を片手で抑える。抱き締めたい。昨夜以上に熱烈なキスで酔わせてしまいたい。うっとりした表情は、どんなに色っぽいだろう。ハスキーなあの魅力的な声で、喘ぐ様を見てみたい。熱い吐息で、涙さえ浮かべて、そしてしがみ付いて来たりしたら・・・・・・。ごくり、と唾を飲み込んだ。心臓が痺れそうだ。
(離すものか。帰ってくる場所は、ここしかないはずなんだ・・・・・・!)
 どうにも耐えられなくなって、道路脇に車を止めた。とうに閉ざされた個人商店の前に、夜でも煌々と明るい自動販売機があった。懐かしい銘柄が幾つか並んでいる。
(大学以来か・・・・・・九条では許されなかったからな・・・・・・)
 椎名家でも自粛していた。使用人として吸うべきではないと思っていたし、喘息によくないと思っていたからだ。
(・・・・・・外でくらいなら、いいだろう。少し、落ち着こう)
 コインをいくつか入れて、最も親しみのある銘柄のボタンを押す。出てきた箱を手に取ると、馴染み深い感触だった。車に戻って、一本取り出し、火を点ける。懐かしい味だった。それだけで気持ちが静まる気がした。
(・・・・・・家で待とう。今の俺がすべきことは、それしかない。あの人がいつ帰ってきてもいいように、明かりをつけて、待っていよう。もしかしたら、今日で如月祭が終わりなのだから、打ち上げをしているのかもしれない。疲れて帰ってきた彼を・・・・・・丁寧に癒してやろう)
 ゆっくり、しっかり味わってから、煙草を地面に落とし、踏みにじる。灰皿とはいえ、車の中に煙草の痕跡を残したりするわけにはいかなかった。
(もし、もしそれでも俺を拒否するのなら・・・・・・徐々に慣らしてやろう。躊躇いを取り払って、一度でも知れば、あんなに怯えることもなくなる。そのうち、俺なしではいられないようになってくる。そう改造してやろう。そのうち心も・・・・・・ついてくるようになる)
 そこまで考えると、急に目の前が明るくなってきたような気がした。イライラしたものが、一気に解決されたような気になる。煙草のおかげで、何かすっきりしたようだ。ふ、と笑って、手にした煙草の箱を見つめた。
(しばらくはこれで、我慢することにしよう)

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三十五.存在価値

 ゾクゾクする寒気に震えて、ぼんやり目を開けたら、明かりがまぶしかった。思わず目を細める。狭められた視界に映るのは、見慣れない天井。ご飯の炊けるような匂いがする。本当なら、飛び起きたい気分だったが、そんな元気はなかった。まだかなり熱があると、自分で分かる。目だけ動かして、部屋の様子を探ろうとしたが、目の奥が抉られるように痛くて、それもできなかった。
「あちぃっ!」
 突然の声に、驚いて、頭ごと人の気配のする方へ視線を移す。頭がぐらぐらするような感覚に襲われて、思わず顔をしかめた。ゆっくり顔の筋肉を緩めると、意識が途切れる直前に目にした人物が、お盆に土鍋を載せて自分の方に近づいてきた。
「・・・・・・気づいてたのか」
 その顔を見て、ようやく自分が気を失ったことを思い出す。今度こそ、無理にでも身体を起こそうとした。しかし、途中で力尽きて、また身体を横たえた。その軋み具合で、そこがベッドだと知る。
 両手に重いものを抱えていた瓜生が、それを机の上に置き、吐息する。
「無理するな。お前、有り得ないくらい高熱だったんだぞ」
「あの・・・・・・ここは?」
 声が驚くほど枯れている。そういえば、発作も起こした気がする。そうだ、確か階段から落ちて・・・・・・。シャワーでも浴びたらしく、しっとり濡れている茶色の髪を掻き上げながら、瓜生は感情を見せないまま答えた。
「俺の家だ。悪いな、お前の家が分からなかった」
 当然だ。本人は気絶しているし、ほとんどの生徒が下校していたはずだから。
「・・・・・・・・・・・・すみません、俺・・・・・・ひどい迷惑を・・・・・・」
 掛けたはずだ。そもそも、自分が階段を落ちたとき、瓜生を巻き添えにしたのだ。その上こんなふうに世話になっているのだから。そんな斗音を見ながら、黒のTシャツに腰パンジーンズ姿の瓜生は、愛想のかけらもなく、淡々とつぶやく。
「・・・・・・別に。ただ、保健室は閉まってやがるし、安江もいねえし、あいつ以外の教師で俺の話を信じそうな奴がいなくて・・・・・・つか、あんま関わりたくねぇっつーか・・・わりぃ、こうするしか思いつかなかった」
 ぼそぼそと、やや気まずそうに瓜生が話すところによると、運動場でテントを片付けている最中に、ストップウォッチを拾ったので、あとで誰かに渡そうと思ってポケットに突っ込んでおいたらしい。そして、片づけが終わって着替えたときに、初めてその存在を思い出し、帰るついでに、多少は気心の知れた養護教諭の安江にでも届けようと思ったと言う。ところが保健室が開いておらず、仕方なく職員室へ続く階段を上がっていたら、いきなりふらふらと斗音が階段を下りてきて、危ないと思ってその身体を支えようとした。ところがそれより早く斗音がバランスを失ってしまって、一緒に階段を落ちてしまった。更にそのショックで、斗音が発作を起こしてしまったので、以前の見様見真似で薬を使い、何とか発作は抑えたものの、今度はひどく震えだし、かなりの高熱があると知った。その上、自分を見たので声を掛けようとした途端、気絶してしまったのだ。
「で、タクシー呼んでとりあえず病院へと思った。でも、『どこへ?』って訊かれて・・・病院ったって、お前みたいのは掛かり付けの医者がいるだろうし、保険証もないし、下手に薬も使えねーし・・・それで、とにかく休ませるしかねえと思ったんだよ」
 やはりとんでもない迷惑を掛けていたと知り、斗音は悪寒に唇を震わせながら恐縮する。
「・・・ほんとに、すみませんでした・・・・・・。あの・・・落ちた時・・・怪我、しませんでしたか・・・?」
 瓜生は軽く片眉を上げたようだ。長い前髪で、それはあまり見えなかったが。
「別に。それより、お前、変なふうに足ひねってたから、そっちの方がまずいと思うぞ。左足首、痛いだろ」
 別に、というのは、彼の口癖だろうか。少なくとも、いくつかの打撲はあるに違いないのに・・・。そう思いながら、そっと左足に力を入れてみたら、思い通り動かなかったが、強引に動かそうとするとひどい痛みが走った。思わず身体を萎縮させる。
「・・・っ」
「腫れ方からして骨に異常はないと思うけど、まあ捻挫はしてるだろうな。起き上がれるようになったら、医者に行った方がいい。とりあえず、湿布して固定はした。無理には動かすな。あと、特に支障がないようなら、解熱剤くらいは飲んだ方がいいと思ったんだが・・・・・・」
 ちらりと視線を机にやる。
「何か食ってからの方がいいかとも思って。味の保障はしねえが、食えそうか?」
「・・・・・・薬は、大丈夫だと思います。でも・・・・・・」
 かなり躊躇う。食欲がないのは、熱のせいではない。むしろ、熱はそれに輪を掛けているといったところだ。瓜生は少し首をかしげた。
「食欲がないか?でも、薬だけ飲むと、胃が荒れるぞ」
「・・・・・・はい」
「粥でも、食えないか?」
「・・・・・・・・・・・・作って、下さったんですか?」
「まあ。とにかくそのままほっといても、よくはならねえだろ」
 相当躊躇ったが、無理強いするわけでなくても、せっかく自分のために作ってくれたものを食べないわけにもいかない。ゆっくり、必死に身体を起こす。そこで、ベストとネクタイ、ベルトはちゃんと外して、椅子の上に畳んであるのを知る。呼吸が楽なのは、ちゃんとシャツのボタンが上の方だけ外してあるからだ。
「・・・・・・少し、頂けますか・・・?」
 無愛想だった瓜生の表情に、柔らかさが加わる。
「よかった。このままくたばられたら、俺も後味が悪いからな」
 口は悪いが、優しい言葉だった。何だか不思議な気分だ。なかなか自分で起き上がれない斗音の背を支えるようにして、背もたれ用に枕を立ててくれたり、少ししか食べられないと言った斗音のために、小さなお椀にレンゲでお粥を取り分けてくれたりする瓜生は、自分を脅してきた人間とは別人のようだ。
「ありがとうございます・・・・・・頂きます」

 土鍋のお粥は、シンプルな塩味に卵を落とし、ネギを散らしたものだったが、保障しないといった割に、とてもおいしく感じた。懐かしく思う。最近ではいろんなバリエーションでお粥を作ってくれていた慈恩だったが、母を亡くしたばかりの頃は、体調を崩すたび、母が作ってくれていたこのシンプルな卵粥を作ってくれたものだ。
 
ところが、そんなお粥ですら、耐え難い嘔吐感が胃を突き上げた。まだほんの二口三口だというのに。
「まずかったら残せよ。遠慮する必要なんて・・・・・・」
 言いかけて顔を上げた瓜生は、続きを言いかけた口を思わずつぐんだ。そして、少し困った顔になる。
「・・・・・・どうした・・・・・・?」
 そんな瓜生の表情は、揺れてぼやけて、しっかり見えなかった。どうしようもない。溢れる涙が止められない。懐かしさとか、寂しさとか、悲しさとか、悔しさとか、申し訳なさとか、情けなさとか、もう数え切れないほどの感情が込み上げてきて、斗音は震える手で口を塞いだ。大声で泣き出してしまいそうだった。
 瓜生は、斗音の手にしていた小さなお椀をそっと机の上に置き、泣き顔を見上げる。
「・・・・・苦しいのか?掛かり付けの医者があるなら、今からでも遅くねえ。連れてってやる」
 その優しい言葉に、今までのつらさが込み上げてきて、もっと泣けてきた。小さく首を振って、更にもう片方の手を自分の口を塞いだ手に添える。震えが止まらない。うつむくとはたはたと雫がシーツを濡らした。堪えきれない嗚咽が漏れる。ひどく困惑していた瓜生が、膝で立つようにして、そっと腕を斗音の背に回した。

「・・・・・・じゃあ、つらいのか」
「・・・・・・っ!」
 言い当てられて、自分の中で、何かが弾けたのが分かった。抑え切れない声が小さく、弱々しく外にこぼれだす。我慢することが叶わなかった。その瞬間、ぎゅっと抱き寄せられた。その拍子に、鍛えられた胸に頬を押し当てる形になる。斗音は、小刻みに震える、力の入らない指で、瓜生のシャツを思わずつかんだ。

 どれくらい泣いたのか分からない。ようやく溢れきった感情が少しずつおさまって来て、微かにしゃくりあげてくる喉を押さえながら、そっと顔を上げると、抱き締められていた腕の力が緩んだ。瓜生の表情は、微笑みこそなかったが、優しかった。
「・・・・・・少しは、楽になったか?」
 こくり、とうなずくと、少しだけ微笑んだ気がした。
「そうか」
 笑うのを、初めて見た気がした。あんなに肩肘張って、周りに敵意を剥き出しにして、乱暴な言動で周りを威圧していた瓜生が嘘みたいだ。
「なんか・・・お前がみんなに好かれるのは、よく分かる」
 そう言って、髪を優しく撫でられた。何だか仔犬だか仔猫だかになった気分だ。その手で頭を捕まえるようにして、額をこつんと当てられた。斗音は、心臓が握り締められたような気がした。
「・・・・・・まだ熱が高いな。薬、飲むか」
 薬を取ろうとした瓜生が、戸惑ったように、自分のシャツをつかんだまま放さない斗音をうかがう。やんだはずの涙の雨が、再び白い頬を滑り落ち、呼吸を止める。
「椎名・・・・・・?」
「・・・・・・慈恩が・・・・・・」
 擦れた声が、震えた。
「・・・・・・いつも・・・・・・そうしてた・・・・・・」
 瓜生が少しだけ目を細めるような仕草を見せた。そっと手を伸ばして頬に手を添え、親指で透明な跡を優しく拭う。そのまま静かに頬を寄せ、唇を触れ合わせた。
 その行為が、一般的にキスと呼ばれるものだと気づくのに、さほど時間はかからなかった。でも、それがどうだとか、だからどうだとか、何も思わなかった。少しだけ心が、ジンとした。
 瓜生はすぐに離れて、無愛想に薬と水の入ったコップを差し出した。それを飲みながら、自分が埃まみれのままだということに、ふと不安がよぎる。思わず訊いていた。
「あの・・・・・・シャワーを、借りていいですか・・・・・・?」
「あ?構わねえけど・・・・・・どうする気だ?」
「使わせていただいて、いいですか・・・?」
 瓜生は黒目がちの目を瞠った。
「何言ってんだ。お前、すごい熱あるんだぞ?」
「あの・・・・・・ちょっと、埃っぽくて・・・・・・このままでいると、喘息によくないんです・・・・・・」
 瓜生は困ったように首をかしげた。
「そんなもんか?俺にはちょっとわからねえけど・・・・・・まあいい、好きにしろよ。ただし、無理するな」
「はい・・・・・・ありがとう、ございます」
 立ち上がった瓜生は、タンスの引き出しを引っ掻き回しながら、Tシャツや綿のハーフパンツなどを適当に引っ張り出す。
「ほれ、着替え。多少サイズはでかいが、着られるだろ」
「あ、すみません・・・・・・」
 ゆっくり立ち上がると、まだ浮遊感があって、視界がふわふわ揺れていた。
「ほんとに大丈夫なのかよ」
 さりげなく手を貸してくれた瓜生は、心配そうだ。斗音はうなずいた。
 斗音はかなりの清潔好きである。それは、持病の喘息からきている。空気ももちろんだが、自分が埃っぽかったりすると具合が悪くなることがある。痰が絡んだり、咳込んだり、それが引き金になって発作を起こしてしまったことも、ある。今日は一度発作を起こしているだけに、それが心配だった。
 かなり熱めの湯で全身を流し、頭を洗うと、先ほどかすめた不安は、埃っぽさとともにすっきりした。それでも背筋を寒気が走るし、頭がくらくらするし、足首もずきずきするし、ちょっとでも気を緩めたら倒れてしまいそうだった。身体が冷めないうちに借りた衣類を身につけ、ふと鏡を見る。

(・・・・・・でか・・・・・・)
 Tシャツが肩からずり落ちそうだし、ウエストは随分ゆるくて、嫌でも腰まで下がってくる。
(・・・・・・あの人、腰パン系だからな・・・・・・)
 斗音はそれがやや気になる派だったが、せっかく借りたものに文句をつける気もない。そして、如月祭初日に今井に言われた言葉も気になった。
(確かに・・・・・・ひどい顔色して・・・・・・)
 よく見ようとして、剥き出しになった鎖骨の下や肩口の辺りに、ほの赤い箇所を見つけて、不審に思う。引っ掻いたりしただろうか?鏡の中の自分を、じっと見つめて、次の瞬間、全身をぞくりとした冷たい触手が撫でていくような感覚に陥った。
「・・・・・・い・・・・・・やだ・・・・・・・・・・・・」
 思わず胸の十字架と一緒に、Tシャツの襟ぐりをつかんだ。
(夢じゃ・・・・・・ない・・・・・・!)

 自分の血が、さあっと音を立てて引いていくのを感じた。同時に目の前が真っ暗になって、そのまま何も分からなくなった。

 斗音がその部屋で再び目を覚ましたのは、寒気でも電気の光でもなかった。柔らかな朝の日差し。
(・・・・・・あれ・・・・・・ここは・・・・・・?)
 思い出すのに、数瞬必要とした。そして、がばっと起き上がる。
――――――――っぅ・・・っ」
 頭がぐわん、と揺れた。
(いって・・・・・・ひどい頭痛だ・・・・・・)
 半分涙目になって、顔をしかめる。そうだ、思い出した。ここは瓜生の家。ひどい熱でぶっ倒れた自分を、彼が運んで休ませてくれたのだ。そんな彼に、散々泣いて迷惑を掛けた気がする。
(うぅ・・・・・・なんか、ぼんやりだけど、瓜生さんがすごく優しかったのだけは覚えてる。あの人、実はすごくいい人なんじゃ・・・・・・)
 ずきんずきんと痛みで脈打つ頭を抱えながら、斗音はそっと辺りを見回した。誰もいない。気配もない。
(・・・・・・あれ?瓜生さん、どこ行ったんだろう・・・・・・?それに、ここ一戸建てだと思うけど、家族は・・・?)
 首を傾げたら、またズキンと頭痛が襲ってきたので、そのままぐったりとベッドに身体を横たえた。まだ起きることができるほど、回復してはいないらしい。しばらく頭の痛みに耐えていると、玄関が開く音がした。やはり瓜生はどこかに出かけていたようだ。そのまま真っ直ぐこの部屋に近づいてきた足音は、部屋の前で止まり、ドアノブは静かに回された。
「・・・・・・椎名?」
「あ、はい・・・・・・」
「何だ、起きてるのか」
 そっとのぞいた瓜生が、がちゃ、と勢いよくドアを開けて入ってくる。昨夜とは違う、背中に白い髑髏の描かれた黒いTシャツに、白い三本のラインが入った黒のジャージといった格好だ。長い茶色の前髪が鬱陶しいが、それ以外は比較的好青年といっても過言ではない。
「どうだ、具合は」
 すたすたと歩み寄ってきて、髪を掻き上げると、ぴたりと額を合わせる。何の狙いもなく、これが彼の熱の計り方なのだろう。昨夜それで、思わず熱いものが込み上げたのを覚えている。慈恩と同じ仕草だ。そう思うとやはり胸が熱くなる。その額は少し汗ばんでいて、ひやりとした。
「・・・・・・少しまだ熱いな。でも、だいぶひいてる」
 また表情が優しくなる。微笑みに近い表情だ。
「よかった。二度もぶっ倒れて、どうなるかと思ったからな」
「すみません・・・・・・。あの・・・・・・どこか、出掛けてたんですか?」
 何気なく質問すると、さらりと答えが返ってきた。
「新聞配達だ。ロードワーク代わりにやってる」
「えっ・・・・・・」
 思わず驚きの声を上げた斗音に、ちらりと視線を投げる。
「別に珍しくもないだろう。金が要るんだよ。・・・・・・飯、食えそうか?」
 斗音は小さく首を横に振る。瓜生は軽くうなずいた。
「分かった。ちょっとシャワー浴びてくる。ゆっくり寝てろ」
 分かった、と言ったくせに、シャワーを浴びてきた瓜生は、コーンポタージュをスープカップに入れて現れた。今度はグレーのTシャツにやはり腰パンジーンズ。お洒落に金が掛っている、というわけでもなさそうだ。むしろ格好は適当な気がする。
「悪いな、即席だけど。飲める分だけでいい、即席だから」
「あ・・・はい・・・・・・」
 頭痛に気をつけながらそっと起き上がって、カップを受け取る。温かい。即席ではあるが、生クリームを少量加えて、味を調えてある。美味しいと思った。しかし、それもやはり数口で限界だった。
「あ、そうだ。お前の携帯、昨日随分長い間鳴ってたけど、うるさかったから切ったぞ」
 斗音の手が止まったのを見て、まるでそれを見越していたかのように話を逸らしながら、そのカップをひょいと取り上げる。代わりにその手に一錠の薬を乗せ、水を入れたグラスを差し出した。おずおずと手を出し、それを受け取って薬を飲む。さらに、ほれ、とストラップをつまむようにして差し出された携帯を手に取った。電源を入れてみると、最後の着信は三神からになっていた。背筋を寒いものがぞくりと走る。
「切っちゃまずい電話だったか?家にも連絡してねえから、それかとも思ったんだけど・・・・・・」
 人の携帯に出るのは、さすがにな、と、気まずそうに口ごもる。斗音は手にした携帯をぎゅ、と握った。

「そうみたいですけど・・・・・・構いません」
 
こんなにゆっくり休めたのはいつ以来だろう。三神がここを探し当てていたりしたら、と、思うと、熱がなくてもぞっとする。きっと心配はしただろう。でも、今は彼を思いやるほどの心のゆとりがなかった。自分の家の方が、今はよほど疲れるのだと思い知る。
 
そのときふと、この家に誰もいないことが思い返されて、何気なく口にした。
「あの、家族の方は・・・・・・?」
 すると、一瞬で、意外なほど瓜生の表情が荒んだ。無愛想と言うより、もっと暗く、投げやりで苛立っているような。
「別に。お前に関係ねぇだろ」
 突き放すようなその一言に、頭ではなく、胸が痛んだ。自分が何か、触れてはいけないことに触れたと知る。
「・・・・・・すみません」
 瓜生は優しいと思う。本当は、すごく優しい人間だと、今でははっきりとそう思える。それを、一瞬にしてここまで変えてしまうほどの何かがあるのだ。そっと胸のクロスを握り締める。
「・・・・・・俺、何も知らなくて・・・・・・ごめんなさい」
 うつむいた斗音を、瓜生は眉根を寄せて見つめた。そして、大きく溜息をつく。
「悪い。お前に当たるなんて、どうかしてる。そんな顔するな」
 そっと髪を撫でるようにしてから、もう一度吐息した。
「親父は女作って二年前から帰ってこなくなった。おふくろもそんな親父と俺に愛想つかして、出てった。何か用でもねえ限り、帰ってこねえよ」
「・・・・・・そんな・・・・・・」
 斗音にも両親はいない。この世のどこにもいない。そんな寂しさはあるが、最期まで二人とも、自分を愛してくれた。命が尽きる瞬間まで、自分たちの将来を憂い、気遣って、愛してくれていた。親が子供を見捨てるということがどんなことなのか、斗音には計り知れない。でも、筆舌に尽くしがたい苦しみを子供に与えるに違いないことだけは、解る。
(その傷に触れられたくないから、この人は周りを威圧して、自分に近づけようとしないんだ。苦しいのを紛らわすために、自分を貶めて、追いつめて・・・・・・)
 ようやく分かった気がした。優しいと感じた瓜生の荒んだ気持ち。自分の両親を恨み、憎み、蔑んで。それはどんなに冷たい気持ちだろう。
「だから、何でお前が泣くんだよ・・・・・・」
 溜息混じりに、弱りきった瓜生の声。斗音自身にも分からない。それが情緒不安定の症状であることや、自身が色々なつらさや苦しみを抱え込んでいるがために、他人のそれにも共感しやすくなっていることなど、分かるはずもない。
 ごめんなさい、と小さく擦れた声で謝る斗音の肩を、強く抱き寄せた。
「別にかまわねぇよ。親なんて、いなきゃいねえで過ぎてくもんだし。泣くな」
 もう片方の手で、何度も髪を撫でる。
「・・・・・・お前はもっと気丈だと思ってた。人の痛みに、こんなに敏感だなんて・・・・・・知らなかった」
 更に力を込めて、瓜生は斗音を抱き締めた。そして、つぶやく。
「お前・・・・・・随分痩せたな」
 はっとする。瓜生には、一度後ろから羽交い絞めにされたことがある。普段から接している仲間にしてみれば、少し痩せた、くらいにしか映らないのだが、瓜生とは、五ヶ月ほどまともに相対することもなかった。まして触れられるのは、あの五月の事件以来だ。彼にはあの時との違いが、はっきり分かるに違いない。
「・・・・・・俺、あんま詳しい事情は知らねえけど・・・・・・お前らは俺の中の甘さを打ち砕いた奴らだから・・・・・・」
 面と向かって言うのはやはり気が引けるのだろう。声のトーンが落ちた。
「・・・・・・なんつーか・・・・・・やっぱ、堂々としてて欲しい・・・・・・つーか・・・・・・」
「・・・・・・打ち砕いた・・・・・・?」

 擦れた声で聞き返すと、自分の頭の上で、彼がうなずいたのが分かった。そこから、照れているのか、小さな声でぼそぼそと話し始めた。
「・・・・・・お前に絡んで発作を起こさせたとき・・・・・・俺は本気で・・・・・・お前が死ぬんじゃないかと、思った。怖くて・・・・・・自分がやったことを、ひどく後悔した。あんなに自分のことを・・・・・・激しくなじったことは、なかった。弟の方に睨みつけられたときも・・・・・・苦しくて・・・・・・情けなくて・・・・・・心底自分たちを恥じた。当然の報いだと思った。殺されても、俺は・・・・・・文句を言う気はなかった・・・・・・」
 低い途切れ途切れの声に耳を傾けながら、斗音はそっと目を伏せた。瓜生の心臓の鼓動が聞こえた。静かな生を感じる音だった。頭痛もだいぶ治まってきて、少し心地よかった。
 瓜生は中学のとき、かなりいいと言っても過言ではない成績だったし、リーダーとしても活躍していたと言う。そして、ずっと憧れていた如月高校に受かった。最初は部活も中学のときからやっていた柔道で、学校のモットーでもある文武両道を目指していた。しかし、一月もしないうちに、今まで上位だった自分の成績が、ここでは中の下、下手をすると下の上くらいであることを痛感した。今まで勉強ができることが当たり前だった彼にとって、プライドを引き裂かれるような思いだった。だから、頑張ろうとしたのだ。部活も辞め、勉強一筋に打ち込もうとした。しかし、自分がどれだけやっても理解できないことを、周りは難なくクリアしていく。能力の差というものを、嫌というほど感じずにはいられなかった。必死にやればやるほどつらくて、そのうち、期待されることが重荷になり、ストレスが爆発して、些細なことから他校の学生と派手にやり合ってしまった。相手が怪我を負ったことから警察沙汰になり、停学を喰らった。

 そこから一気に世界が変わった。教師の目は冷たく、周りの視線は自分を遠巻きにして眺め、両親は自分を見て溜息をつくようになった。そんな彼らには、反抗心しか湧いてこなかった。家では喧嘩が絶えず、遂に両親は、外へ癒しを求めるようになり、家へ戻らなくなった。溜まり溜まった物を晴らすために、ボクシング部に入部して、殴り方を覚えた。ボクシングをたしなむ者としてのマナーなど、どうでもよかった。もともと運動神経のよかった瓜生は、みるみる上達していった。勉強も、どうでもよくなっていった。腕に覚えができると、自分にも自信がついた。髪も染め、ピアスを開け、外見でもなめられないようにした。
 
喧嘩が強くなると、周りに集まってくる輩が増えた。それでもよかった。誰にも見向きもされないまま、自分の存在価値を疑いながら生きていくより、ずっとよかった。喧嘩相手に怯えられ、恐れられ、憎まれ、恨まれ、自分の名が悪名となって広がっていくのは、いっそ気分がよかった。世の中なんてこんなふうにしても生きていけるのだ。金なんて、持ってる奴から奪えばいい。あるところにはあるのだ。上品に塾に通うお坊ちゃまたち、ゲーセンで湯水のように金を使う大学生たち。家には金なんてほとんど残っていなかった。そうやってカツアゲして、食うに困らなければいい。無理をしていた自分が馬鹿みたいに思えた。世の中を嘲り、せせら笑っていた。一生懸命になるなんて、つらいばかりでちっともいいことなんてない。自分についてくる馬鹿がいる。言ったとおりに動く手下のような仲間たち。そんな奴らでも、自分を祀り上げてくれれば気分が悪いはずもない。これでいい。自分の人生なんて、こんなものだ。
「・・・・・・そう、言い聞かせてた。自分が惨めに、ならないように・・・・・・。腕っ節の強さが人の強さだと勘違いしてた。・・・・・・そう、お前たちと、あんなことになるまでは」
 薬のせいだろうか。少し頭の芯が痺れるような眠気を、斗音は感じていた。瓜生の腕の中は心地よくて、響いてくる声も優しかった。彼の言葉は、耳にすんなり流れ込んでくる。
「・・・・・・お前を思うあいつの強さ・・・・・・こんなふうになってから、初めて怖いと思った。あの激情も・・・・・・眼光の強さも、俺にはない精神的な強さで・・・・・・。その上、その弟を必死に止めようとするお前の意志の強さとか・・・・・・そういうのを見て、力一杯頭を殴られたような、ショックを受けた。・・・・・・俺はなんてちっぽけで、みっともない人間なのかって。・・・・・・それで、心底悔やんで謝った俺に、お前は・・・・・・微笑んで見せた。俺は初めて・・・・・・許されたと知った・・・・・・」
 すぐ耳元で、瓜生の吐息混じりの囁きを聞いた。
「・・・・・・打ちのめされた。・・・・・・・・・・・・自分がどんなに薄っぺらな虚勢で生きていたのか、思い知った。・・・・・・てめえの金くらいてめえで稼げなくてどうする。・・・・・・授業についていけないと放棄して、何を得る?クラスの奴らを馬鹿にして、クラスを離れて・・・・・・馬鹿にされていたのはどっちだ。・・・・・・暴力で得られるのは、虚しさだけだ。・・・・・・沢山考えた。考えて・・・・・・考えて、俺は本当に俺が・・・・・・すべきだと思うことを・・・・・・することにした・・・・・・」
 ボクシング部最後の夏が近づいていた。ロードワークも兼ねて、新聞配達のバイトを始めた。朝早く起きてやっても、汗を流し、準備するのに手間取って、なかなか朝のホームルームには間に合わなかった。今までのこともあり、ホームルームはあまり出たくなかった。だから、保健室でサボることがほとんどだった。でも、授業には出た。分からなくても、構わなかった。理解する努力はした。それが大切なのだと、思った。それでも初めは、クラスに居場所なんてなくて、肩身が狭かった。自業自得だと分かってはいたけれど、やり切れないときもあった。それでも、今逃げ出すのは嫌だ、と思ったから、逃げなかった。
 そのうち、インターハイ予選も終わり、男子クラスだったこともあってか、いつの間にか如月祭を計画していく中に、引っ張り込まれていた。運動能力を認められ、長距離走に推薦された。無愛想でぶっきらぼうで横柄な言葉を遣うけれど、決してそれが本音ではないことを、クラスの仲間は知っていた。その外見で判断する人間は、3-3の中にはいなかった。いや、最初はいたのだ。瓜生が劇で役に推薦されたときに、そいつに任せて大丈夫なのか、と心配する人間はいた。だが、近藤が言ったのだ。こいつはそんな小さい器の人間ではない、と。
「・・・・・・嬉しかったよ。・・・・・・あんなしっかりした奴に、そんなふうに思われてたってことが。・・・・・・あとで聞いた。・・・・・・あのとき、全員のしでかした分全てを被って俺が謝ったから、そう思ったんだと。・・・・・・だから俺は、俺のできる限りで・・・・・・精一杯、最後の如月祭に尽くそうと思った。・・・・・・みんなが認めてくれた、期待してくれた、その気持ちに・・・・・・応えたくて・・・・・・」
 全て納得していた。瓜生が変わったわけ。こんなに優しい表情ができるようになったわけ。そのきっかけが自分だというのなら、嬉しいと思う。
(慈恩・・・・・・俺たち・・・・・・・・・・・・ここに二人でいた価値が、あったんだ。人一人が、こんなに・・・・・・喜びを感じられるようになったんだから・・・・・・)
 そっと首から下がるクロスを、右手で包み込む。
「・・・・・・椎名・・・・・・?」
「・・・・・・あなたが・・・・・・そう、思えて・・・・・・よかっ・・・・・・た・・・・・・」
 慈恩と如月にいてよかった。つらくても苦しくても、最高の如月祭にしようと頑張ってきた。それが報われたと思った。睡魔にさらわれて行くままに、意識を手放す。心地よいこの腕の中で、疲れを溜め込んだ身体を休めたかった。
「・・・・・・椎・・・名・・・」
 瓜生はそうつぶやいてから、完全に力の抜けてしまった華奢な身体を、そっと包み込んだ。

「・・・・・・ありがとな」

   ***

 結局一睡もしなかった。白々と夜が明けていくのを、ただ一人悶々としながら見ているしかなかった。
「おはようございます。あら、昨日の夕食。召し上がらなかったの?」
 土曜日なので、いつもより少し遅い七時少し前に沢村がやってきて、開口一番、そう聞いた。
「ああ、申し訳ない。斗音様が帰られなかった」
 三神の声音は硬い。苛々しているのは誰の目にも明らかだったが、ややぽっちゃりした身体に、やや大きめのエプロンをつけて、沢村は袖をまくりながら軽く流した。
「あらそうなの?珍しいわねえ。まあでも、高校生の男の子だから、これくらいあって当たり前かもしれないわね」
 くるりと踵を返し、一度三神を振り返った。
「あなたも食べなかったの?せっかく作ったのに、もったいないわね。今からでも温めましょうか?」
「・・・・・・いや、いい。朝帰ってくるかもしれないし、そのときに俺が食事を済ませていたら、気分が悪いだろう」
 
眉間にしわを寄せながら、溜息をつく。沢村は首をかしげた。
「そうかしらねえ?あの方、そんなに心の狭い方じゃないと思うけど?まあ、あなたがそう言うのなら無理にとは言わないわ。この夕食の分、もったいないから、うちへ持って帰っていいかしら。うちの今晩の夕食にしたいんだけど」
「構わない。代わりに、いつ帰って来られてもいいように、朝食の準備をしておいてくれないか」
 お許しが出たせいか、沢村は満面の笑みになる。
「分かったわ。まあ、今日はご馳走ね。こんな食事、なかなか家では食べられないもの・・・・・・」
 うきうきとキッチンへ向かう。そんな沢村が憎らしくさえ思えた。なんてのんきな主婦だろう。いや、主婦なんてのはそんなものかもしれない。単純で、自分さえよければ幸せで。所詮女の考えることなど、理解できはしない。だから好きになれないのだ。
(何をしてるんだ・・・・・・具合が悪くなって、病院にでも担ぎ込まれたのか?それならそれで、連絡があってもよさそうなものだし・・・・・・女の家にでも上がり込んだとか?有り得ない話でもないが・・・・・・それよりは男友達の方が可能性はありそうだな。男友達か・・・・・・あの人の場合、それでも十分危険だ。あの魅力は、男にでも通用する)
 三神の考える可能性は、どれも想像の範疇でしかなかったが、当たらずしも遠からずであった。
「三神さん、ちょっと荷物、置かせてもらうわよ。あら、何これ?」
 書斎の方から、声が聞こえてくる。三神ははっと顔を上げた。
「悪い、ちょっと昔の癖で。片付けておいてくれるとありがたい・・・・・・」
「そうね、斗音さんが見たら、びっくりされてしまうわね」
 何も気に留めなかったように、沢村の声が返ってきた。ほっとしながらも、三神は残り少なくなった煙草の箱を、ポケットの上からくしゃっとつかんだ。
(後で消臭剤も買ってこさせなければ・・・・・・)

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