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三十一.如月祭 その四 (体育祭・前半)

「微熱、ありますね」
 文化祭が終了したその日の夜。淡々とした声に、斗音は心臓が固まる気がした。背にした壁が妙に冷たく感じる。
「どれくらい?」
 斗音のベッドに腰掛けるようにしていた三神は、体温計の数値が見えるように手首を翻した。
「三十七度二分。明日の朝も下がっていなければ、休んだ方がいいですね」
 熱はあるはずなのに、固まった心臓が冷えていく。胸が冷えていく。凍り付いていく。泣きそうだ。
「斗音さん?」
 やや吊り気味の、それでいて切れ長の瞳がすっと近づいてきた。知らず身をすくめる。胸に掛った十字架を、パジャマの上からそっと握り締める。
「休めるわけ、ない。明日までは、絶対に」
 言った途端、両手首をつかまれて、自分の肩の上に貼り付けるように押し付けられた。
「駄目です。あなたが健康を害するのを見逃すわけにはいきません」
 三神の目は真剣だ。手首は動かせる気がしない。力の差がありすぎる。彼が本気になったら、絶対に敵わない。それでも思わず首を横に振った。
「できない。無理してでも這ってでも、明日だけは行かなきゃいけない」
「これ以上その細い身体に負担を掛けるつもりですか。明日は体育祭でしょう?この晴天続きで空気も土も乾ききっている。砂埃もすごいでしょう。日光だって体力の消費につながる。ただでさえも衰弱しているあなたには厳しい条件だ。熱なんかなくたって、本当は行かせたくない」
 口調は淡々としている。でも眼の光はぎらぎらと形容したくなるほどに強い。・・・・・・怖い。
「や・・・・・・めて・・・よ。・・・離して・・・・・・痛い・・・・・・」
 視線を逸らさずにはいられない。今度は別の恐怖で心臓が凍りつきそうだ。
「微熱、だろ。そんなの、大したことない」
 更に三神が近づいたのが分かった。肌が触れそうだ。鳥肌が立つ。
「痛いって言ってるだろ・・・・・・離し・・・・・・っ」
「わがままを言わないで下さい。力尽くであなたを行かせないようにすることなんか、私には簡単にできる。解ってるくせに・・・・・・」
 耳のすぐ下、首筋に熱い息がこぼれるのが分かった。
「・・・・・・どうしてそんなふうに悪あがきするんです。そんな聞き分けのないことを言っていると・・・・・・」
 自分の腰の両脇に膝をつかれる。その重みでベッドが軋む。壁にそのしっかりした体躯で、身体全体を押し付けられていた。熱のせいだけではない。背筋がぞくりと寒気を伝えてくる。
「・・・・・・い・・・やだ・・・・・・嫌・・・・・・、どい・・・て・・・・・・」
「・・・・・・実力行使で、行けなくしますよ?」
 堅くて厚い胸板を擦り付けられて、呼吸が止まりそうになる。怖い。冗談めかして言っているのに、その声音は怖いくらい本気だ。これまで自分が感じていたものが嘘であれば、思い違いであればとどんなに思ったか知れない。でも、間違いなどではないとはっきり見せ付けられているのが分かった。彼の言葉を否定すればするほど、状況はまずくなっていく。気力を総動員して、震える声を自分で叱咤しながら、必死で言葉を紡ぐ。
「っ、三神・・・・・・!分かったから・・・・・・熱が下がれば、いいんだろ?だから、っ・・・ゆっくり・・・・・・休ませて・・・・・・」
 ぎゅっと目を閉じて、呼気が震えるのをはっきりと感じながら、答えを待つ。返ってきた声は、自分の正面からだった。
「・・・・・・そんなに俺が嫌ですか・・・・・・?」
 はっと目を開くと、すぐ目の前に、精悍さを漂わせる顔があった。どこか悲しげに見える。
「・・・・・・何、言って・・・・・・お前が、こんなふうにするから・・・・・・っ」
 それでも声が震えるのは止められなかった。形のよい眉が目の前で寄せられた。
「・・・・・・こんなふう?こんなふうって・・・・・・?」
 手首をつかんでいる大きな手が震えたのが分かった。
「あなたが・・・・・・逃げようとするからでしょう?そんなふうに子猫みたいに怯えて・・・・・・そんな態度をとられたら、無理やりにでも自分の方を向かせたくなる。・・・・・・可愛がって、あげるから」
「な・・・何、やっ、三神・・・・・・っ!」
 無理やり合わされた唇は少し冷たくて、まるで乾ききった砂漠の旅人がようやく水にありついたかのように、夢中で貪りついてきた。貼り付けられた手も、たくましい両脚で動きを封じられた脚も、一寸たりとも動かせる余地がない。検温をしたまま、いつものとおりボタン二つ分はだけた襟から出ている肌にも、首筋にも、キスは容赦なく降り注ぐ。
「やめて・・・・・・っ、ちょっと、何っ・・・・・・何してんだよ、三神・・・・・・っ」
 言葉を紡いだ途端、まるでそれを摘み取るように、再び唇を塞がれる。いやいやをするように首を振るが、そんなことくらいでは唇は引き剥がされない。その執拗さに戦慄が走る。このままでは危険だ、と脳がひっきりなしに信号を発している。怖い。怖い。怖い。怖い。・・・・・・嫌だ!これ以上ないくらい縮こまった身体は、小刻みに震えだす。それに三神も気づいたらしく、熱に浮かされたように貪りついていた唇を浮かせた。
「・・・・・・斗音、さん・・・・・・」
 手首の束縛が緩む。ぎこちなく動いて、その手は無意識にパジャマから見え隠れしているクロスを探って握り締めていた。カタカタ震えながら、両手で堅く包み込むように。
(助けて・・・・・・慈恩、助けて、助けて、助けて・・・・・・!)
「・・・・・・斗音・・・・・・さん・・・・・・」
 うつむいた斗音に、苦しげに歪んだ三神の表情は映らなかった。身を固くする斗音を、三神は包むように優しく抱き寄せた。やわらかいアッシュの髪にキスを埋める。
「・・・・・・あなたが好きです。・・・・・・どうしようもなく好きです。なのにあなたの瞳には・・・・・・そのクロスの彼しか映らない」
 耳元で囁かれた言葉を深く考える余裕など、斗音にはなかった。ひたすらこの恐怖から逃れることしか考えられなかったのだ。
「・・・・・・・・・・・・こんなに愛しているのに・・・・・・!」

 切なさに震える声だけが、斗音の鼓膜に焼きついた。

 けたたましい目覚ましの音でふと目を開ける。ぎこちないまでに固まった身体に違和感を覚える。
(・・・・・・?)
 自分が母の形見の十字架を握り締めていたままだということに気づいて、ゆっくり指を剥がした。体温と同化したその温度に、一晩中握り締めていたことをぼんやり感じた。眠ったような気がする。夢を見た。妙に生々しい夢で、彼に触れられる恐怖から逃れたくて、震えている夢。
(無意識のうちに、これに頼ってたのかな)
 そっと手を伸ばして目覚ましを止めた。まだ薄暗い。今朝も七時に執行部は集まらなければならない。背筋に嫌な寒気とだるさを感じて、ドキッとする。
(・・・・・・熱・・・?)
『微熱、ありますね』
 脳裏に聞き覚えのあるセリフがよぎる。
(あれ?何だ今の。どこかで・・・・・・聞いた?)
 考えながらぞくりと肌が粟立った。昨夜寝る前から、微熱があった。あったのだ。いつものように三神が検温をして・・・・・・。
(・・・・・・熱・・・・・・朝もあったら学校休めって言われて・・・・・・)
「あ・・・あ・・・?」
 どこから夢だったのだろう。混乱する。いつものように丁寧に寝かせてくれたような気もする。夢の中では、無理やり壁に押し付けられるようにキスされて・・・・・・何度も何度も追いかけてくる唇に捕まって、怖くて怖くてこのクロスを握り締めていた気がする。どちらが現実だろう。記憶が混乱している。夢があまりにもリアルで、現実との区別が付かない。
 突然鼓膜を、ノックの音が震わせた。今度はぎくりとする。
(やば、熱が・・・・・・)
「起きられましたか、斗音さん。入りますよ?」

 とっさにナイトテーブルに置いてあった花瓶をつかんだ。

 週間天気予報とはいえ、よく当たっていた。如月祭の三日間はこれでもかというくらいの晴天に恵まれたのだ。最後の一日の体育祭も素晴らしい天候の下で始められることとなった。
「我々っ、選手一同はっ、如月高等学校を担う一員としての自覚を持ち、この体育祭にもてる力の全てを懸けて!」
「先日の二日間の如月祭の締めくくりとしてのこの体育祭で、有終の美を飾るために!」
「健全な若き力を正々堂々と戦わせ、如月高校の体育祭として恥じることのないように!」
「この恵まれた晴天の下で、真剣に勝負に参加し、これまでの練習で培ってきた団結力を遺憾なく発揮し!」
「爽やかで充実した一日を全員の手で創り上げ、本日をもって我が校の歴史に刻む一日にし!」
「悔いのない体育祭、そして如月祭を我ら自身が誇れるよう、一人一人が精一杯を尽くすことを誓います!」
「選手代表、一組連合黄団団長、森壮太!」
「同じく二組連合紫団団長、福山寿士(ひさし)!」
「同じく三組連合赤団団長、近藤勇鯉!」
「同じく四組連合白団団長、宍戸由良(ゆら)!」
「同じく五組連合青団団長、一宮春富(はるとみ)!」
「同じく六組連合緑団団長、織田統和(とわ)!」
 各団長によるエール交換は、各団長の気合が大いに込められていて、大きな拍手が起こった。
「続いてエール交換。団長は各団の前についてください。順序は昨年度総合優勝の黄団から・・・・・・」
 今回も開会式の司会を務めている弓削の声をバックに、今井がうーん、と唸った。
「まあ、六人全員が平等に宣誓の言葉を言おうとするから仕方ないんだけど」
「はい?」
 本部テントの下で、突然話し掛けられた斗音が隣を見遣ると、やや小難しそうな顔をした今井の表情が映った。
「選手宣誓、長いよな」
「・・・・・・そうですね」
「全員で、我々、選手一同はスポーツマンシップに則り、正々堂々戦うことを誓います、でいいじゃねえか」
「・・・・・・そこは賢さを売りにしている如月の生徒のプライドが許さないんじゃないですか?」
「でもなんか、分かりにくくねえ?」
「まあ、校長先生と今井さんが言ったことをかっこよく短縮して一気に聞く感じですね」
「・・・・・・どう思う?」
 試すような視線を向けてくる今井に苦笑した。始まったエール交換の気合に消されないように、少し声のボリュームを上げる。
「あれはあれでいいと思いますよ。団長も自分の一言に誇りもってやってますから」
「んー・・・・・・お前がそう言うなら、そうかもな」
 どうやら本気で気にしているわけではなく、何となく思ったことを口にしただけのようだ。
「壮太が舌噛みそうになって昨日練習してたから、ただでさえも大変なのにと思ったんだけど」
 噛むほど難しくも長くもないだろうが、緊張した中で大声でとなると、思ったようには行かないのだろう。

「練習するってことは、それだけやる気があるってことです。今井さんが会長じゃなかったら、あそこで精一杯声を張り上げていたのは今井さんだったと思いますよ」
 
執行部は応援団にはなれない。仕事が多すぎるからだ。本来なら武知あたりも間違いなく団長になるべき存在なのだろうが。
「さあ、どうだかな」

 笑みをこぼす今井の表情は、言葉と裏腹に確信めいていた。つられるように微笑を載せ直しながら、喉が少し痛い、と感じた。
 
やがてエール交換が終わり、開会式が閉会した。本部テントの片隅では、放送部による連絡が始まる。
「百メートル走と走り高跳びの選手は入場門へ集まってください。委員や係の仕事になっている人は準備をお願いします」
「斗音、個人種目何だった?」
 黄色のハチマキを締め直しながら、今井が立ち上がる。
「百十メートルハードルです。今井さん、高跳びでしたよね?」
「ん。まあ」
 今井らしくない曖昧な返事に、斗音はくす、と笑う。
「頑張ってください。応援してますから」
 整った眉の片方を軽く上げて、苦笑を返された。
「今日ばかりはお前も敵だからなあ。応援されても複雑だ」
「え?」
 瞬きをして一瞬考えるようにした斗音に、短く溜息をついて見せた。
「三年男子高跳び、入賞有力候補は赤団副団長の徳本、更に一位候補は緑団の弓削」
 ああ、と思わず納得する。徳本は元バスケ部部長の上、斗音と同じ三組連合で、斗音が最も応援するであろう人物。弓削はハイジャンプのインターハイ出場選手だ。慰めようもないので、フォローすることにした。
「でも、徳本部長はそんなにジャンプ得意じゃないと思うんですけど」
 斗音の言葉に、それでも今井はあまり嬉しそうではない。
「根拠は?」
「ジャンプボール、いつも翔一郎だったので」
「お前らが入部する前は誰がやってた?」
「それは・・・・・・徳本さんでしたけど」
 今井は大きくうなずいた。
「その通り。二年生にしてジャンプボールを任されてた。今の羽澄みたいなもんだ」
「あ、そっか。あ、いえ、それでも翔一郎よりは劣るってことで」
 頑張って更にフォローを試みる。
「その羽澄の個人種目は?」
「・・・・・・高跳びです」
「団は?」
 当然三組連合、赤団である。
「・・・・・・・・・・・・あー、えーと・・・・・・」
 今井が言わんとするところを理解した斗音は、さすがに言葉に詰まってしまった。そんな斗音のさらさらの髪をくしゃっと乱して、黄団に所属する今井はふっと笑って見せた。

「ま、俺も少しでも黄団に貢献できるように張り切ってくるよ。今日は赤団の男クラにリベンジするんだからな」
 生徒会長の手が額に来なかったことに、斗音は内心ほっとしつつ、笑みを返した。
「聞き捨てなりませんね。昨日の色男、今日は本性発揮してますから。うちは強いですよ」
「フェルゼン伯が今日は団長か。ギャップが激しいことで」
 からからと笑いながら軽く手を上げて、今井は本部のテントを出て行った。その数十秒後。
「あれ、今井、もう行った?」
 司会をしていた弓削が本部に戻ってくる。赤いハチマキを揺らして斗音はうなずいた。
「弓削先輩と競わなきゃならないことを憂いながら、つい今しがた」
 逃げられたか、とつぶやくと、弓削は切れ長の目に笑みを載せた。
「いくら今井でも、これだけは俺に勝てないよ。もちろん、徳本でもね。ああ、記録でも、赤団にはトップは譲らない。ぶっちぎってやるから」
「あはは、怖いなぁ。頑張ってくださいね」
 百メートル走、ニ百メートル走、百メートルハードルの短距離レースは、学年別で一位には6点、二位には5点、といった得点になっており、最下位でも1点入る。要は、サボりさえしなければ、1点でも団に貢献できるのだ。女子の千五百メートル走や男子の三千メートル走などの長距離走は、三学年が一斉に走る。各クラス二人出てくるので、女子は三年の男子クラスを抜いた三十四人が、男子はその男子クラスの分二枠増えて三十八人が、一斉に走るわけである。その中で学年別に順位をつけるのだが、短距離レースとは違って一位には倍の12点、二位には11点(三年生のみ、出場枠数が変わるので、配点もそれに従う)という配点になり、最下位はやはり1点となる。走り幅跳びと走り高跳びは、やはり同じく各クラスから二人ずつ出てくるので、長距離走と同じ配点になる。更に、どの種目も、学年の壁を取り払った記録上での上位三名には、一位が15点、二位が10点、三位が5点、加点される。その記録が体育祭新記録だと、更に5点が追加される。よって、位置的に目立たない走り幅跳びはともかく、走り高跳びと長距離走に運動能力の優れた者が集まったし、個人競技では花形の種目と言えた。
「あ、斗音。伊佐治先輩見なかったか?」
 体育委員会の用具係の指示に行っていた藤堂が戻ってくる。二組連合の彼は、短い髪の生え際にきっちりと紫のハチマキを締めていて、当社比一・五倍で凛々しく見える。
「団旗紹介の段取りを来賓に説明しに行ったよ。どうして?」
「あ、いや、確かあの人も長距離だったと思ったから、同士で励まし合おうかと」
 斗音は思わず笑った。
「ああ、そうか。文化祭といい体育祭といい、微妙な共通点があるなあ」
「微妙・・・・・・そか、微妙・・・・・・そうだよな、微妙だよな・・・・・・」
 なんだか急に勢いがなくなってしまった藤堂であるが、気を取り直したようにぐいと顔を上げる。
「でも、お互いにトップを取ったりしたら、微妙じゃないよな。うん。伊佐治先輩も有力一位候補だし。これで行こう!」
 何で行こうとしているのか、よく解らない。とりあえず斗音は軽く微笑んだ。
「三千メートルのトップ取るのは、ちょっと大変だよ?」
 しかし、執行部一の前向き男、藤堂はいやいやと首を振る。
「サッカー部部長のこの俺が、引退した三年生に負けると思うか?悪いけど、足の速さと持久力には自信あるぜ」
 笑顔の爽やかな藤堂に、斗音は笑みを載せつつ困ったような顔をせざるを得なかった。
「んー・・・・・・確かに、赤団団長の近藤さんは期待の星だけど、引退してるよねえ・・・・・・しかも走るのが十八番のサッカー部に比べたら、剣道部なんて、ねえ・・・・・・でも、さ、走るのが十八番のバスケ部スーパーエースも長距離なんだよね・・・・・・」
「バスケ部?誰?徳本先輩?」
「ううん、三年生じゃないんだけど」
「あー、部長になった羽澄?」
「翔一郎は今から高跳び」
「あ、そう。あとバスケ部って言ったら・・・・・・」
 記憶を手繰り寄せていたらしい藤堂の顔が、みるみる青ざめていく。
「・・・・・・まさか・・・・・・東雲・・・・・・?」
「うん。たぶん、三年生ぶっちぎってトップ取ると思うけど・・・・・・去年一年生でも一位ゴールだったからね」
 何だか気の毒になってきた斗音である。明らかにがっくりうなだれてしまった藤堂を、またもやフォローする。
「大丈夫だよ、ほら、嵐についていけたら、間違いなく上位記録者に入れるし、最後の最後でもしかしたら嵐を抜いてゴールなんてことも・・・・・・」
 しかし、うなだれた藤堂の頭は上がらなかった。
「無理だ・・・・・・。俺去年も長距離に出たけど、あいつの速さは人間業じゃねえよ。付いて走るのだってたぶん厳しい・・・・・・。それに、東雲って慈恩と同じクラスだったよな。それってつまり・・・・・・」
「あ・・・・・・青団・・・・・・」
「ああっ、もう駄目だ!もし抜いたとしてもむしろ恨まれる運命なんだ!」
「あら、藤堂くん。誰かに恨まれるようなことでもしたの?」
 いきなり会話に参加してきた優しい女声に、藤堂が面白いくらいに反応した。
「あわ、いえ、あのっ」
 まさかとは思っていたが、もしかしたら、昨日武知が言っていたのは図星かもしれない。その反応を楽しむように見ていた莉紗が、くす、と笑って明るめのブルーのハチマキをした髪を揺らした。
「藤堂くん、長距離だったよね。お互い、頑張ろうね」
 一瞬目を見開いて、動きの止まった藤堂が、次の瞬間、嬉しそうに照れながら笑った。
「はい、頑張りましょう!」
 ほほえましい光景を、やはりほほえましく感じた斗音だったが、やや心中は複雑でもあった。

(・・・・・・うーん、この恋は報われるのかなあ・・・・・・?)

 近年流行った有名アーティストの曲を運動会アレンジにしたものが、広い運動場で次々と鳴り響いている。
「さあ、いよいよニ百メートル走最後の走者になりました!4レーンは白団団長宍戸くんが走ります!そして6レーンは執行部の強面、武知くんです!おおっと、両者手を振って団の声援に応えています!さあ、このレースは見ものだ!」
 放送部の実況中継もなかなか堂に入っている。個人競技が始まってからもう何度目かの雷管が派手な音を立てた。短距離走最後の走者が一斉に地を蹴る。
「さすが、二百メートルのトリを務めるメンバーだ、速ーいっ!あっという間にコーナーにさしかかるっ!これは激しいデッドヒート!緑団武知くんが速いか、いや、白団団長の長いハチマキもそのすぐ後ろではためいているぞ!んんっ?これはっ、赤団だ!赤団追い上げてきた!直線に差し掛かって一気に加速っ!あれは、昨日のアントワネットだっ!なんと凛々しいアントワネット、身軽だ、速い、速いっ!うわあ、三人ほぼ同時にゴール!決勝審判の結果はどうだっ?」
 どおおっと歓声が上がる。思わず次の出場を控えて待つハードルの選手たちが、身を乗り出して決勝審判の結果を待っている。その中で斗音は、感心したように嘆息した。放送部が文化祭の方で特別賞を取ったのが分かる気がする。実況のセンスがある。喋るのが上手いのだ。下手なアナウンサーの実況中継より、よほど面白い。
「おっと、結果が出ました!一番はなんと、赤団だ!マリー・アントワネット、昨日に引き続き大健闘ー!そして二位が白団団長ぉー!そして緑団武知くんは三位!しかし、短距離走のトリにふさわしい素晴らしいレースでした!」
「じゃあハードル入場します、立って下さい」
 入退場係を務めている整美委員がピッと笛を鳴らす。時間短縮のため、前の競技の退場に合わせて次の競技の選手が入場するのだ。曲が変わって、入退場係の笛の合図で選手たちが動き出す。
「さて、ではその間にグラウンド中央で行われている走り高跳びの様子をお伝えします。女子の方では今1メートル30センチに挑戦中です。ここまで来ると、もうほとんどクリアしている選手は残っていません。二年生黄団の応援団員澤沼さん、紫団の加賀さん、それから三年生では紫団応援団員の篠原さん、白団の葛西さん、緑団応援団員の渋谷さんの五人ですね。やはり体育大会の応援団となると運動神経のいい人がそろっているようです。そして注目の男子、現在バーの高さは1メートル70センチ。既に自分の身長に近い選手がほとんどですが、今残っているのは、脅威の一年生、青団応援団員の氷室くん。二年生は赤団応援団員羽澄くん、青団中野くん。ああ、彼は陸上部ですね。さすがです。そして中でも更に注目の三年生は、生徒会長の黄団今井くん、赤団副団長徳本くん、そして大本命のインターハイ選手、執行部員でもある緑団弓削くんが残っています。さあ、本領発揮なるか!続いて幅跳びの様子も今入ってきました・・・・・・」
 走り幅跳びは男子のみの競技である。そもそも女子は少ないので、ニ百メートル走や、斗音の出場するハードルなどの競技も男子のみの出場である。女子は百メートル走と長距離走と高跳びのみとなっている。それでもクラスで平均して七~八人ほどしか女子はいないので、十分なのだ。
「では一年生の第一レースの人、コースのスタートラインについてください」
 次は出発係の風紀委員会が声を掛けてくる。観察係の一年級長会、決勝審判の二年級長会、計時係の三年級長会が準備できたことを見事な連携で確認して、雷管を空に向けた右腕で右耳を塞ぎ、左手では直接左耳のふたをした。
「位置について、用意!」

 火薬の弾ける音が、空気をつんざく。同時に第一レースがスタートした。さすがに近い。砂埃が巻き上がるのを、無意識に腕で防ぐ。火薬の焼けた匂いがふわりと漂ってきた。風はほとんどない。それは大きな救いだった。
 
うわぁっと歓声が上がる。一人がハードルに脚を引っ掛けて思い切り転んだのだ。ズザァッと砂埃を立てた生徒は、気丈にもすぐさま立ち上がって何事もなかったかのように走り出す。残念ながら百十メートルという短距離で、最下位から追い返すことはできなかったが、すりむいた膝から血を滲ませながら、砂まみれになった青団の生徒は喝采を浴びた。思わず待っている選手も拍手を送る。しかし、斗音の手は冷たい汗を握り締めていた。
(あんな転び方したら、大変なことになる・・・・・・)

 ただでさえ落ちている体力。軽くて、朝晩の定期的な薬以外の物を使うほどではないけれど、発作の回数は最近著しく増えている。あんな埃をまともに気管に入れてしまったら、と思うとぞっとする。おまけに、ずっと治まらない微かな悪寒。確かに感じる喉の痛み。
 
レースが進む。自分の前に並んだ選手層がどんどん薄くなっていく。それに比例して、気分がどんどん滅入っていった。
「跳んだぁーっ!」
 突如空気を、興奮しすぎて割れたマイク音が震わせた。同時に黄団団席からものすごい歓声。
「今井生徒会長、気迫のジャンプ!1メートル70センチ、昨年度の自己記録更新だぁっ!」
 思わずグラウンド中央に目を向けると、今井がマットの上で起き上がるところだった。起き上がるなりガッツポーズで歓声に応える。
(あ・・・)
 はっきりと、視線が交わる。たった今自己新記録を打ち立てた彼が、にっと笑った。手の甲をこちらに向けて、もう一度小さくガッツポーズをして見せる。明らかに斗音を意識したものだった。思わず笑みがこぼれる。
「用意!」
 パァンッ、と乾いた破裂音。自分のひとつ前のレースがスタートした。ところが、放送席はハードルそっちのけである。
「さあっ、次は紛れもなく一位候補の緑団、弓削くんが、助走に入った!」
 大半の生徒が走り高跳びに注目している。斗音も例外ではなかった。その大量の視線の束の前で、弓削はやや流線型の軌跡を描く滑らかな助走で一気に速度を上げ、最後の一歩で力強く地面を蹴りつけた。しなやかに反った背は、優雅な曲線を描き、十分な高さを伴ってバーの上を通過した。うおおおおっと声が上がる。
「余裕のクリアーっ!素人の我々から見ても、なんとも美しいフォームで、弓削選手、見事1メートル70センチクリアです!ちなみに走り高跳びの体育祭記録は、1メートル85センチ。あと三段階上がったらタイ記録、四段階上がったら、新記録!弓削選手、やはり期待が持てます!緑団は踊りだしそうな勢いで大喜びだ!」

 冷めやらぬ歓声の中、ゆっくり身体を起こした弓削は、軽くTシャツタイプの体操服をはたいて付いた砂を払う。すい、と上げた視線は寄り道なしで斗音を射止めていた。彼らしいシャープな笑みを浮かべ、少しうなずく。頑張れ、と。斗音の前に、もう選手はいなかった。
「次のレースの人、コースに入ってください」

 指定された3コースに入る。一緒に走るメンバーは、普段なら何とか逃げ切れそうだが、如何せん体調は絶不調。赤団に自分の手で六点を追加するのは難しいだろう。
「斗音、頑張れよ」
 太い声が耳に入って、スタートラインに近い本部テントを振り返る。武知がひらひら手を振っていた。
「だいぶマシな顔になったぜ。待ってるときの顔のひどさと来たらなかったけどな」
 にやっと笑う。思わず苦笑した。確かに、あの執行部高跳びコンビの頑張りと励ましを目にするまでは、かなり気分が滅入っていたはずだ。
「高跳びはバーを更に上げます。さあ、その間に百十メートルハードルのレースに注目です!次に走るのは、我らが如月高校副会長、赤団椎名くん!」
 いきなり放送で名前を呼ばれ、びっくりして顔を上げる。赤団と女子の声援が沸き起こる。
「さすが、生徒会のアイドル的存在、女子の黄色い声が飛んでいます。女子からの支持率は、今井会長でも勝てません!」

 今度はどっと笑いが起きた。斗音は困惑気味の笑みを浮かべ、大きくぺこりとお辞儀をした。ガッツポーズをして見せるほど、自分に自信はなかった。ところがそれがウケたらしく、女の子の歓声が一層ボリュームを増す。
「位置について、用意!」
 鼓動が高鳴り、息を詰める。気持ちが引き締まる。怖くない、大丈夫!
 虚空に微かな煙が舞い、雷管の音が響き渡る。同時にグラウンドを蹴る。ワアッという声が各団席から膨れ上がった。
 スタートは悪くなかった。しかし横一線、ほとんど差はない。一つ目のハードル。歩幅はぴったりだった。ほとんど速度を落とすことなくクリアする。頭の中に、見たばかりの華麗な背面跳びがよぎる。あの滑らかさを再現できないだろうか。二つ目のハードルも、ぴったり三歩でたどりつく。最初に力強く、そして空では滑るように。そう、割とこんな感じだった。もう少し跳んで余裕のある方がスムーズに行きそうだ。高く、ではなくて前へ。大きく三歩。高さは変わらなくていい。強く前へ、最後の一歩で自分の身体を押し出すように。いい感じだ。無理をしなくても軽く跳び越せる。これでいってみよう。
 耳にはひっきりなしに自分を応援する声が届く。不思議と力は入らない。むしろそれが頼りなかった自分の力を補って、後押ししてくれているようだ。弓削の姿をヒントにした滑らかなフォームが、思いのほか楽に走れる。いい跳び方を見つけた。でもハードルはこれが最後。気持ちよく跳び越せた。あとは一直線に走るだけ。もうあとは何の心配もない。もう少しあの跳び方を試したかったような気さえする。力の限り駆け抜ける。ゴールテープが身体に絡みついてきた。反射的に力を抜く。詰めていた息を吐き出し、勢いよく酸素を補う。微かに気管が笛のような音を立てたのを聞いた。そこで初めて、最後の一直線が無呼吸だったのを知る。
「斗音、こっち」
 決勝審判の二年級長会メンバーが腕を引っ張った。はっと見ると、その視線に気づいたのか、田近が笑みを載せた。
「一位はここに並んで」
 軽くうなずいて、田近に指示された場所に並ぶ。そこで初めて、派手に盛り上がる歓声に気づいた。
「陸上部顔負けの素晴らしい走りでした!バスケ部とはいえ、こちらもやはりインターハイ出場選手、運動神経は並みじゃない!赤団、そして女子の大歓声がそれを証明しています!」
 はぁ、はぁと呼吸が荒いのも知った。やはり気管の奥では、ヒューヒューという微かな音が呼吸に合わせて聞こえている。思った以上に無理をしたらしい。発作が起きなければいいが、と思いながら、無意識でグラウンド中央を振り返る。目が合った途端、今井は破願して両手で小さくガッツポーズを作って見せた。すぐ傍にいた弓削は涼やかな笑みを浮かべ、数回拍手をした。更に、翔一郎が満面の笑顔で、勢いよく拳を突き上げている。知らず笑顔がこぼれた。
「やるじゃん」
 囁くようにこっそりと田近が言う。田近の所属する2-4は白団である。そこで級長を務めている彼としては、負けた自分のクラスの生徒がいる前で、おおっぴらには喜べないといった感じであった。
「ありがと」
 微笑み返したが、声帯から振動が伝わってきて、耐え難い衝動に軽く咳込む。乾いたものだったが、五、六回連続した咳に、田近は心配そうにのぞき込んできた。
「大丈夫か?」
 コクコクとうなずいて一位の旗の最後尾で座り込んだ。軽い発作だった。これ以上人目について心配されるのは、本意ではなかった。これなら、じっとしてさえいればすぐにおさまるはずだ。大体、たかが百十メートル走ったくらいで咳込んでいたら、部活もできはしない。砂埃が呼吸の最中に紛れないよう、膝を抱え、そこに顔を埋めるようにした。気管が狭まっている。粘膜が腫れ上がってきているらしい。ゆっくりゆっくり、丁寧に呼吸する。大丈夫大丈夫、静まれ。一度呼吸が遮られると、何度か咳が続く。それを繰り返しながら、じっとうずくまっていた。放送部の実況中継で、ハードルと高跳びの進み具合が分かる。

「さあ、男子高跳び。最後の一年生氷室くんが残念ながら脱落です。しかし、一年生では一位、青団に12点を見事加えました。既にバーは1メートル75センチ、これだけ跳べたらいっそ陸上部に入ってインターハイを目指せますね。さあ、次は二年生の羽澄くんと中野くん。羽澄くんからです。軽く肩を揺らして、助走に入った!応援団の長いハチマキが舞う!そして、軽やかな跳躍!これは・・・・・・いった、いった―――っ!微かに足がバーに触れましたが、揺れただけでバーは残りました!恐るべし、男子バスケ部新部長ーっ!」
 沸き起こる歓声の渦。思わず斗音も顔を上げ、振り返る。
「っしゃあ!」
 
握り締めた両手を震わせるようにして、翔一郎が叫ぶ。思わず拍手を送る。
(すごい!翔一郎、まだ残ってる!)
「バーが高くても、身長がありますからね。彼にとっては有利かもしれません。逆に、陸上部ではありますが、長身とは言えません、中野くん!陸上部のプライドを守れるか!さあ、助走開始だ!」
 青色の短いハチマキをギリ、と締め直して中野が大きく息を吸う。トン、と軽く利き足で地を蹴って、すい、と走り出す。軽やかに足を合わせ、ふわりと跳ぶ。
「軽ーい!しかし、ああっ!」
 明らかに高さが足りない。背面跳びの途中、肩甲骨がバーに当たる。バーとともにマットに転がった。
「これまでに比べてちょっと高さが足りなかったか!バーの高さは思い切りにもつながると言います。さすがにこの高さは無理か?しかし、もう一度だけチャレンジすることができます。さて、ここでハードルに戻りましょう!」
 その間に、百十メートルハードルは三年生がスタートする。放送はそのことを伝えてから、再び全校の注目をグラウンド中央に向けた。
「中野くん、軽く身体をほぐして、今、再びスタート!」
 多くの視線が見守る中、翔一郎よりひとまわり小さな身体が宙を舞った。肩甲骨はクリアしたが、次の腰の部分でバーを引っ掛ける。あぁ~っ、と語尾の下がる声があちこちから上がって消えていく。
「失敗だーっ、残念!しかし、これで二年生の決着がつきました!一位は赤団羽澄くん、二位が青団中野くん、三位は紫団の高村くんです!あとは羽澄くんの記録が気になるところですが、次は三年男子の挑戦が始まります!」
 ハードルの選手が次々とゴールしていく。放送部は応援団リーダーや全校的に名の知られた選手のレースのみ、実況をしながら、あくまで重点を走り高跳びに置いていた。既に残り少ない上、高得点の入る競技で、応援団に会長にインターハイ選手がそろっているのだ。これほどおいしい場面はない。
 まずは首を軽く回しながら声援に応える赤団副団長、徳本である。後輩の翔一郎がクリアしている分、何とかクリアしたいに違いない。真剣にバーを見つめてから、軽くステップを踏むようにして、ほぼ直線でバーに向かう。最後の一歩でくん、と向きを変えると同時に地を蹴った。翔一郎には劣るものの、バーより高い身長を誇る徳本である。勢いのある跳躍は、見事身体をバーの上まで運んだ。しかし。
「うわぁっ、最後の足が引っ掛かってしまったぁっ!無情にもバーはその身体とともに落下!あぁ~、悔しそうです。しかし、身体はほぼ通過してましたからね。二度目の跳躍に期待したいところです。三年生はまだ二人残っていますので、二度目のチャレンジはそのあとになりますね。さあ、次は自己新記録を更新してきた今井生徒会長です。黄団のみならず、全校中から声援が上がる!リーダーシップは全校一!さあ、この高跳びではどこまで残れるのか!助走に入った!」

 ものすごいボリュームの声援の中、今井はゆっくり大きな歩幅での助走をスタートさせる。徐々にスピードが上がり、歩幅はバーの位置に合わせてやや小刻みになる。そして最後の一歩で力強く身体を宙に投げ出す。専門家ではないが、こちらもテニス部元部長、インターハイ選手である。運動能力は抜群だ。宙で見事に身体をうねらせるようにして、バーの上にくる身体の部分を反らせ、しならせるように跳び越える。バーはギリギリでその身体に触れず、マットに落ちたのは今井の身体だけだった。声援が歓声に変わる。
「うわぁあ、クリアだーっ!生徒会長今井くん、またまた自己記録更新ーっ!黄団から大歓声!本人も力強く拳を握り締めています!」
「お前、陸上部にいたら全国で記録もできたんじゃないのか?」
 呆れたように弓削が声を掛ける。ふっと笑った生徒会長は、通りすがりに弓削の肩をたたいた。
「意地。張り切ってくるって言ったからな」
「誰に?」
「一番元気になって欲しい奴」
「・・・・・・ああ、そう」
 問い返すこともなくそう返して、弓削は少し挑戦的な笑みを向けた。
「それなら俺も意地でぶっちぎりの記録出さなきゃな。これだけはお前に譲らない。・・・・・・あと、ひとつだけ、忠告だけど」
 ん?と瞬きをした今井に、笑みを消した弓削がつぶやくような小声で言った。
「伊佐治、最近時々寂しそうな顔してるの、気づいてるか?お前が誰に気を取られてるか、あいつは気づいてるぞ」
 ぴくりと今井の表情が固まる。今度はその肩を弓削が軽く叩いて、その脇を抜けた。
「じゃ、ちょっと跳んでくるよ」
 無駄のない歩みで助走スタート位置に向かう弓削の整った背中を見つめ、今井は詰めていた息をほっと吐き出す。
「死に物狂いで跳んだ高さだぜ。畜生」
 弓削の落ち着いた助走には一糸の乱れもなく、慣れた流麗な跳躍は何の不安要素もなかった。
「楽勝ーぉっ!全く危なげなく、弓削くん1メートル75センチクリアだーっ!緑団から大歓声っ!」

 軽く手を挙げて緑団に応える弓削は余裕綽々といった様子で、頼もしい限りだ。
 
何かひとつ、自分に絶対の自信を持てるものがあるというのが、斗音には羨ましかった。まだ気管の笛音は治まらない。時折込み上げる咳も然り。そして背筋のだるさや悪寒が、徐々に戻りつつあった。まだ体育祭は始まったばかり。これで今日一日身体がもつかどうか、正直自信がなかった。きっと慈恩ならこんな様子の自分を放ってはおかない。熱なんて計らなくたって、どんなに普通に振舞っていたって、慈恩は斗音の不調を見抜いた。もちろん、そうなると保健室へ強制連行か、そうでなくても競技は全て棄権、本部テントの片隅の保健コーナーで、保健委員に囲まれている羽目になるのだろうが。でもなんだか今は、そんな生真面目さが懐かしい。シャツの下のクロスにそっと手を当てる。声だけの電話なら、何とかごまかせる。どんなに疲れていても、調子が悪くても、慈恩と話している時だけは明るく元気な声で応対していた。慈恩が安心してくれることを願って。会って姿を見られてしまえば、すぐにばれるだろうが。
 
その点、三神だったら多少の見た目の変化は分からない。
『起きられましたか、斗音さん。入りますよ?』
 昨夜のことが夢か現実かなんて、考えている暇はなかった。何が何でも熱があることをごまかさなければならない。三神が部屋のドアを開ける間に、斗音は花瓶の水で指を濡らした。自分ではさせてもらえない検温だが、体温計を脇に挟んで数秒後、わざとナイトテーブルに載せてあった携帯を見るふりをして、体温計をずらした。三神の目の前で、堂々と体温計を挟み直すふりをして、濡れた指先でその先端を触ったのだ。濡れていると体温計はその水が蒸発していくときに感知すべき熱を奪われ、実際よりも低い数値を示すはず。狙い通り、体温計は三十六度五分と、ほぼ平熱と変わらない数値を示してくれた。
『熱は・・・・・・大丈夫そうですね。少し肌が熱いような気はしたのですが・・・・・・』
 一瞬ぎくりとした。検温のときに鎖骨の辺りや腕の付け根、胸の辺りには直接触れられていた。その触れる部分が、日に日に面積を広げていくのも、斗音にとって不快で空恐ろしいことだった。
『今日も早く行かなきゃいけないから、もういいだろ』
 わざとてきぱきと準備を進め、調子の悪さを悟られないように振舞った。三神はしばらくそれをじっと見ていたが、小さく息をつくとそのまま部屋を出て行った。ごまかされてくれたことを知って、斗音は大きく息をついた。
(慈恩だったら有無を言わせず額合わせだよな)
 ほっとしつつ、寂しさも禁じえなかった。もちろん、三神にそんなことされたら全身鳥肌が立つだろうが。
「あああ~っ、なんと、失敗だーっ!赤団徳本くん、先ほどのジャンプで固くなってしまったか、明らかに高さが足りなかった!あぁ~悔しそうに空を仰いで大きな溜息!しかし、見事三年生の三位を獲得!副団長としての責務はきっちり果たしたと言えるでしょう!これで男子走り高跳び、残るは二年生赤団羽澄くん、三年生黄団今井生徒会長、緑団弓削くんの三人になりました!」
 放送席のアナウンスに、斗音は現実を認識する。
(うわー、徳本さん、悔しいだろうなあ。さっきほとんど跳べてたのに。しかも後輩の翔一郎は跳んでるし)
 とは言え、ジャンプ力も身長も翔一郎が上だったからこそ、ジャンプボールは彼に任されていたのだ。その実力の差は仕方がないかもしれない。
「そして、百十メートルハードル走は最後のレースになります。障害物競走ではありますが、短距離のレースはこれが最後。さあ、どの団が来るか、見ものです!」
 バーの高さが五センチ上げられる。その間に、ハードルの最後のレースが行われた。しかし、五分後そのレースの着順を覚えていられるのは、走った本人たちくらいだろう。それくらい、最後に残った高跳びの三人に注目が集まっていた。女子の方は既に決着がついていたので、尚更である。
「さあ、この三人が追加点を獲得しますが、追加点は差が大きい!緑団、黄団、赤団、奇遇にもこの信号色、果たして十五点を獲得するのはどこだ!」
 そこでハードルの選手が退場になり、同時に長距離の選手たちが入場してくる。まずは女子の千五百メートル走だ。斗音は退場した足で本部に戻る。
「よう。やるじゃねえか。相当調子悪そうに見えたのに」
 武知が磊落な笑みを浮かべ、本部席に座った斗音の髪をくしゃくしゃと乱した。
「わわ、あ、ありがとうございます」
 とっさに乱された頭を抱えるようにしながら、微かに咳をこぼす。武知が笑みを消していぶかしむようにのぞき込む。
「おい、大丈夫か?」
「はい、急に運動をしたからちょっと気管がびっくりしてるだけです」
「ふうん?ならいいけど、あんま無理すんなよ?」
「・・・・・・分かってます」
 やや深刻になりかけた斗音のアッシュの髪を、武知は更に大きな片手で掻き混ぜた。
「うわっ、ちょっと武知先輩!」
 片手でガードしながら、もう片方の手はまた込み上げた咳をこぼす唇に添えた。ふむ、と、髪を乱した犯人は腕を組む。
「今休め、とは言わないが、しばらく動くんじゃねえぞ。大声での声援も禁止だ。ここでじっと大人しく高跳びと長距離の見学してろ」
「あ・・・・・・はい」
 あっけに取られてぽかんとする斗音に、武知は表情を緩めて見せた。

「ここまで頑張ってきて、参加するなとは言わねえよ。ただ、お前がレースを待ってるときの顔が本当にひどくて、今ここに来てその咳だから、一応こう見えても心配してんだ」
 心がジン、となる。花が開くように、斗音は微笑んだ。
「いよいよもう一つの花形競技、長距離走が始まります!女子の千五百メートル走。三十四人が一斉にスタートします。もちろん、三年三組は女子がいない分男子で二人余分に枠が設けられています。ピストルが今・・・・・・鳴りました!一斉にスタートです!このグラウンドを五周、トップには15点も加点されます。楽しみですね!」
 長距離にも関わらず、ペースは決して遅くない。たちまち集団は、大きく三つくらいの団子状に分かれる。
「お、伊佐治先頭グループ。あいつも運動神経いいからなあ。この執行部、みんな運動神経良過ぎだろ」
 自分がニ百メートル走で三位だったのが気になるらしい。同類を探したいようだ。
「さあ、その間に、遂にバーは1メートル80センチ!この時点で三人も残るというのは、前代未聞かもしれません!既に体育祭記録は目前です!まずは二年生の赤団、羽澄くんから。さあ、跳べるか!」
 はっきり言って、翔一郎はいつも嵐や斗音らの目立つ存在と一緒にいるため目立たなく思えるだけで、実はかなり人気がある。それは男女問わずの人気である。彼の人柄の為せる業だ。特に二年生から、激励の声が寄せられていた。
「あいつ、背は高いし顔もいいし、モテるだろうなあ」
 ぼやくように隣で独りごちる武知に、斗音はうなずく。
「しょっちゅう女の子から手紙とかもらってますからね」
「うわぁ、マジか。彼女は?」
「さあ、今のところ、いるとは聞いてませんけど・・・・・・?」
「へえ。そういう奴がいるから、男があぶれるんだぞ。一人に決めてくれりゃ、あとは諦めもつくだろうに」
 思わず苦笑する斗音である。そんな噂の的になっている翔一郎は、やや緊張した面持ちだった。斗音の脈も速くなる。友達としても、同じ団員としても、頑張って欲しいと思う。そんな斗音の視線の先で、翔一郎はステップを踏むように助走のスタートを切り、ぐんとスピードを上げると、力強くグラウンドを蹴った。
「あっ」
 思わず小さな悲鳴を上げたのは、斗音だった。反らせているはずの背の中程で、バーに触れたのだ。そのままバーはずれ、マットで一回転した翔一郎とともに落下した。立ち上がった翔一郎は苦笑している。さすがに自分でも厳しいのが分かっているようだ。
「赤団羽澄くん、苦戦です!本来なら二年生は一人しかいないので、ここでもう一度跳ぶところですが、既に上位三名になっていますので、続いて三年生の跳躍になります。さあ、我らが如月高等学校生徒会会長の肩書きを背負う男の登場です!」
「うわー、そんなこと言われたらつれえなあ」
 言いながらも武知はかなり楽しそうである。斗音は思わず両手を握り締めた。大きな声援にまんべんなく応えながら、最後に本部テントに視線を送ってきた今井と、目が合ったのだ。硬かった今井の表情が和んだ。しかしその顔に浮かんだのは苦笑に近かった。
(ちょっと無理っぽい?)
 全校が見守る中、今井の跳躍が始まる。少ない歩数でバーまで距離を詰め、全身をバネのようにして身体を跳ね上げる。かなり強引な跳躍だった。無理やり身体をバーの上に持ち上げているような感じだ。しかし、それでクリアできるほどたやすい高さではない。翔一郎以外は自分の身長よりも上なのだ。バーが腰の位置に来たとき、失速してそのままバーと一緒にマットに身体を沈めるような形になった。グラウンド中から失意の声がこぼれる。仕方がない。明らかに能力の限界だった。
「あー、ありゃ無理だなあ」
 誰にとも言わずつぶやいた隣の執行部員の言葉に、斗音もうなずく。頑張るといったところで、人には限界がある。例えばそれは、斗音に百メートルを十秒で走ることが叶わないのと同じだ。
「今井生徒会長、厳しいか?しかし、まだチャンスはあります!そして次は緑団、弓削くん!体育祭での自己ベストは、昨年の1メートル80センチ。まさにこれから挑戦しようという高さです!一年間の成長を見せるのか、はたまた引退したブランクが圧し掛かってくるのか!助走に入ります!」
 弓削の顔に硬さはない。丁度よい緊張感を保ちつつ、自然体でいるような状態だ。とんとん、と片足で土の感触を確かめるようにしてから、軽いフットワークですんなりバーまで近づき、まるで美しい鳥が一瞬にして水面から舞い上がるかのように、無理のない華麗な曲線をバーの上に描く。
「完璧だな」
 嘆息とともに武知が独語する。うなずく斗音も全く同感だった。むしろ、まだ全然いけるという印象だ。
「自分の背より高いバーを跳ぶなんて・・・・・・」
 
くるんと一回転して、身体をマットに沈める。無意識であろう、バーが載っているのを確認して、涼やかな弓削らしい笑みを浮かべた。
「軽いーっ!なんとも滑らかなジャンプ!これで緑団は圧倒的に有利になった!緑団は狂喜乱舞ーっ!」
 そんな歓声の中、女子の長距離が次々とグラウンドを駆け抜けていく。既にトップは三周目に入っている。
「女子精鋭の集まる長距離も、今折り返し地点といったところ!現在トップは紫団ですね。しかし、後続がほとんど差をおかずついて走っています。赤団、青団、黄団の三名が追いかけている状態!紫団は三年生の元陸上部員梅津さん、赤団は二年生陸上部の大曽根さん、青団は三年生執行部員、元バレー部部長の伊佐治さん、黄団はやはり三年生、応援団員の東さん!この四人がトップグループと見ていいでしょう!全くスピードは落ちません。あと二周半です!」
 そんな実況の中再挑戦の翔一郎がくるりと頭を回してバーを見つめた。軽く肩を上げ下げする。
「頑張れ、翔一郎!」
 大きな声は禁止されていたはずだが、つい叫んでいた。それでも届くか届かないかの団席の盛り上がりである。一瞬翔一郎の動きが止まった気がした。何か首をかしげている。それで何かを探すように視線を彷徨わせたが、くるりと振り返った。こちらに向かって爽やかに微笑む。
「・・・・・・聞こえたのか?」
「え・・・・・・そう、かも・・・・・・」
 前でぎゅっと拳を握って見せる。翔一郎の笑みが満面に咲いた。こちらも軽く拳を挙げる。斗音もふわりと微笑んだ。
「うん、頑張れ」
 今度はつぶやいただけだったが、彼はうんうん、というように軽くうなずいた。
「・・・・・・いい奴だな。あいつ」
 武知の淡々とした言葉は、むしろ様々な感情が込められているようだった。斗音は頭を垂れるようにしてうなずいた。
「・・・・・・はい」
 はた、と机に透明な雫が落ちる。どうして翔一郎が、あの大歓声の中、自分を探してくれたのか。どれだけ自分のことを気にしてくれているのか。唐突に、痛烈に思い知った。頭に重いものが乗っかってきて、さっきと同じように自分の髪を軽く乱した。
「大きく翻った赤団の長いハチマキ!いった!羽澄くんクリアーっ!」
 放送席の興奮しまくった実況で、翔一郎が難関を跳び越えたことを知る。
「結構綺麗に跳んでたぜ。すげえな。ハイジャンでインハイ狙えるぞ、あいつ」
 さりげなく頭の上の手の主が、目の代わりをしてくれる。その手が、ぐいと肩を抱き寄せるようにして、今度は耳元で武知の声がした。
「・・・・・・こっち見て笑ってるぞ」
 ゆっくり顔を上げると、睫毛に絡まった雫が光を乱反射させ、ひどくまぶしかった。その中でたった今、昨年の陸上部エースが打ち立てた記録に並んだ友人が、嬉しそうに笑みを載せて、サムズアップした指を横に倒した状態で突き出して見せた。応えるように、うん、とうなずく。もう一度深くうなずいて、こぼれる涙をそっと拭った。再び顔を上げたとき、そこには心からの微笑みがあった。

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