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2009年3月

二十八.如月祭

「わたくし、現在富山県、立山連峰の上空に来ておりま~す!北アルプスの一角に当たるんですが、見てください!一面に、素晴らしい紅葉が見られます!今年は九月半ばからもう朝晩の冷え込みがはっきりしてきたためか、山頂では例年より早い紅葉が、こうして見られるわけです。当分は日本全国、いいお天気が続くということで、この紅葉、しばらくは楽しめそうです。スタジオの松山さ~ん、どうですか、この景色」
 ぷつっとテレビの映像が途切れ、三神はスタジオの松山さんのコメントを聴きそびれた。天気予報を見るため、出掛ける前にテレビをつけていた斗音である。目的を終えたので、リモコンで電源を切ったのだ。
「よかったですね。しばらくは晴れということですから」
「・・・・・・うん。せっかく頑張ってきたんだから、どうせなら、いい天気の方がいい」
 自分の声に気力が感じられない。一体いつからだろう。こんなに何をするにも気だるくなってしまったのは。三神が心配そうに鋭い印象の目を細める。
「あまり体調がすぐれないようですね。相変わらず食事も進まないし、一度医者に診てもらった方がいいのではありませんか?」
「大丈夫だよ。それに今日から三日間、如月祭なんだから、休んでる暇なんてないよ」
 時間はまだ六時半だ。初日の今日、執行部員は七時に登校して、全ての準備を整えることになっている。学校に行きさえすれば、だるいだの身体が重いだのと言っている暇はなくなる。だから、億劫でも行けば身体は勝手に動くのだ。ソファから身体を起こすと、三神がすっと歩み寄ってきて、自然な仕草で斗音の華奢な腰に手を添えるようにした。
「斗音さん、送ります。少しでも身体を休めた方が・・・・・・」
「いいよ、いつも通りで。電車だって、この時間なら余裕で座れるし。それじゃ、行ってきます」
「・・・・・・無理をなさらずに。お気をつけて」
 三神の添えられた手を置き去りにするようにして、斗音は家を出た。それでもいつもと違う空気に、少しだけ胸が高揚する。昨夜は久しぶりに慈恩と長い時間電話で話した。慈恩がこの家を去ってから、まだ忙しくて一度も顔を合わせていなかった。時折メールや電話で連絡は取り合っているけれど、寂しい思いが強かった。ようやくそれに慣れてきたのだが、如月祭の準備を共にしてきたことを思うと、一緒にこの日を迎えたかったという思いが込み上げてきて、電話口で泣きそうになる自分を必死に抑えていた。そんな自分に、慈恩は気づいていたのかもしれない。最後に、こう言った。
『俺の分まで、最後まで仕事してくれてありがとな。執行部の人たちにも、そう伝えてくれ。それから・・・・・・見られない俺の分までしっかり見て、仕事して、楽しんで、今度ゆっくり会ったときに全部話してくれよ。・・・・・・楽しみにしてるから』
「・・・・・・任せてよ。嫌ってくらい聞かせてやるから」
 電話の向こう側に向かって言った言葉を、そっとつぶやく。その使命感だけで、きっと頑張れる。
 駅までたどり着くと、いつも通り定期を押し付けて改札をパスし、ゆっくり階段を下りる。早いだけあって、まだ空いている。座席も十分に空いており、立っている人は誰もいない。斗音もゆっくりもたれかかるように、その空席のひとつを埋めた。ほっと吐息する。疲れている、と思った。少し眠い。降りる駅は四つ先。そっと目を閉じる。
 最近は眠ることに恐怖がつきまとっていた。
『あなたを・・・・・・愛しています』
 その言葉を耳にしたのは、二週間ほど前だったか。あの時はその言葉に縋りたいという気持ちさえあった。でも、それからだっただろうか。三神が自分にスキンシップを図るようになった。最初はそれほど気にもならなかったのだ。肩を抱かれたり、支えるように背に手を添えられたりという程度だった。気遣ってくれているのだと思った。その指に、吸い付くような違和感を感じるまでは。
 一週間ほど前だっただろうか。いつも通り、寝る前に三神は検温にやってきたのだが、斗音は翌日のテストのために勉強しながら、いつの間にか机の上で伏せて眠ってしまっていた。優しく揺するように起こされたのだが、意識が朦朧としている状態で、立ち上がってもふらふらしていたので、三神は軽々と自分の身体を抱き上げて、ベッドまで運んでくれた。そこまではよかったのだ。でも。
 ベッドに横になった斗音は、意識が離れていくままに目を伏せた。強引なまでに、たちまち深遠に引きずられていく意識が、ふと戻ったのは、身体をしつこいくらい這い回るものを感じたからだ。
(・・・・・・何・・・・・・?)
 起き上がろうとしたら、起き上がることもできなかった。まぶしい照明に目を細めながらゆっくり視界を開くと、自分の上に圧し掛かるようにして三神が大きな手で、大きくはだけた胸をなぞっていた。感触を味わうように緩やかに押し付けられるその指に、斗音はぞくりとした。そして、彼が自分に何を求めているのだろう、と考えれば考えるほど、背筋が凍るような思いになった。
 自分が過労で倒れた次の朝、三神があの日にしようとしたことはなんだった?熱いキス、そして、肌をなぞっていく指、唇。あのまま身を任せていたりしたら、と思うとぞっとする。そして彼は、その続きができるチャンスを常にうかがっているのではないかとうっすら思った。結局その時は、斗音に意識が戻ったことに気づいた三神が、まるで医者が心音を聴いていたかのように自然な動作で離れ、そのまま検温を始めたので、それ以上何かされることはなかったのだが、その時から、眠ることが怖くなった。
(心音を確認するなんて技術、三神はもってないはずだ。絶対あれは尋常じゃない)
 ベストの上からネクタイごと握り締めるのは、確かにそこにある十字架。それに触れると、少し安心する。確かにここに、母の思いと、託されたその思いを受け継いだ慈恩の思いがあると、信じられた。
 無事何とか意識を保ったまま、いつも降りる駅の景色を迎えることができた斗音は、更に徒歩で学校に向かう。そこからはさほど離れていない。身体は相変わらずだるいが、ナイキのシューズで一歩一歩踏みしめるようにアスファルトを進む。
「よ、斗音。今の電車で来たのか」
 ポン、と肩をたたかれて振り返ると、爽やかな笑みを浮かべた如月高校生徒会長と目が合った。

「丁度よかった、一緒に行こう」
 
今井も最近は夏服にベスト、といったいでたちである。薄いニットのベストは、桜花高校でいうカーディガン的役割を、如月高校で果たしているものだ。V字に開いたところから紺色のネクタイがのぞいている。青みがかったグレーのそれは、紺色のネクタイともよく合う。如月の場合は冬になると漆黒に合わせがグレーのラインになっている学生服であるが、夏と秋口にかけての制服はブレザーのそれっぽい。
「遂に来たな。ここまで。最高の如月祭を創ってやる。そして俺たちの代の執行部を、如月高校の歴史に刻んでやる」
 意気込む今井は、やっぱり頼もしかった。斗音は通り抜けた微風のような微笑みを浮かべた。
「な?」
 同意を求めてきた今井と視線が重なる。今井の表情が瞬間的に固まったような気がした。でもすぐに、にっと笑みを見せる。
「写真、いっぱい撮ろうぜ。俺デジカメ持ってきたんだ。CDに焼いて、慈恩に見せてやろうと思って」
 かなり薄型のデジカメをポケットから取り出す。目の前で構えたと思ったら、ピッ、と音がした。
「椎名斗音のアップゲット。見せてやろうか」
 悪戯っぽい口調のくせに、瞳は真剣だ。目をぱちくりさせている斗音に、液晶画面を向けた。思わずのぞき込むと、ひどく顔色が悪い、今にも消え失せそうな翳りのある笑みを載せた自分が、そこにいた。いつも鏡では見ているつもりだったが、そんなに不健康そうな顔を周りに晒しているとは思わなかった。
「や、やだな、消してくださいよ」
 カメラに手を伸ばすと、ひらりとかわされた。
「今井さん、からかわないでください」
 更に追う手首をつかまれた。びっくりして見上げた先に、笑みを消した今井の真面目な表情があった。
「びっくりしたろ。自分の顔色がどれだけ優れないか、もうそろそろ自覚した方がいいと思ってな。慈恩は今のお前のこと、ちゃんと知ってるのか?」
 自分の表情が固まるのが分かった。知らせるわけにはいかない。眠ることもままならず、疲れを溜め込んでいる、こんな病的な自分の姿を見せたりしたら、慈恩が心配する。
 今井は少し、目を細めた。
「この写真も、慈恩に見せよう。お前がどれだけ衰弱してるか、知らずに後悔するのはあいつだろ?」
 ぎょっとしたのは斗音だ。激しく首を振る。
「やめてください!慈恩だって、今一番大変なときなんです!俺がまたあいつに負担を掛けるのは嫌です!」
 つかまれた手を更に伸ばそうとして、引き寄せられ、カメラを持った方の腕で抱き締められた。
「・・・・・・だったら・・・・・・もうちょっと身体に気を遣えよ。お前今、どんな生活してんだ。何でそんな、日に日に弱っていくんだ!」
「・・・・・・っ」
 振りほどこうとしたのに、力一杯やっているつもりなのに、今井の腕はほどけなかった。
(・・・・・・そ・・・・・・んな・・・・・・)
 愕然とする。今井がそんな斗音を閉じ込めた腕の力を緩めた。
「・・・・・・気づいたか?どれだけ今お前が弱ってるか。・・・・・・いいな、この三日、絶対に無茶はするな。当日の仕事なんて、大概俺に任せてくれればいい。これ、お前に預けるから」
 薄っぺらな手の平サイズのカメラを白い手に握らせる。
「慈恩に見せてやりたい写真、たくさん撮っとけ。それがお前の仕事だ」
 呆然と斗音が見上げると、生徒会長命令を突きつけた男は、少し寂しそうに笑った。
「あいつに会うまでにその顔色、どうにかしないとな。そう思えば、少しは自分をいたわれるか?」
「・・・・・・・・・・・・あ・・・・・・はい・・・」
 今井の腕がほどけた。その腕で優しく背を押し出してくれる。
「きついこと言ってごめんな。さあ、行こう」

 歩き出すのに必要だった踏みしめる力が、少しだけ弱くて済んだ。

   ***

 全校生徒が集まった体育館の照明は、既に落とされている。その全ての視線が真っ暗間ステージに注目した。遂に如月祭の開幕である。そしてそれを飾るのは、執行部による寸劇。
「武知、位置についたぞ。莉紗、藤堂、いつでも行けるようにしとけよ」
「オッケーよ」
「行けます」
 舞台の袖で小声の会話がいくつか交わされた。
「よし、時間だ。いくぞ!」
 外に漏れないように小さな赤いペンライトが振られる。それが合図だった。強烈な光が舞台の左に集中して、その場所のみを照らし出す。いきなり会場が笑いに包まれる。
「我はタケーチ魔人!闇から生まれた我を動かすは憎悪の執念!この世は憎悪と悪意に満ちている!よって我はそれを煽り、この表の世界の新創造主となりうるパワーを、今こそゲットするのだ!」
 黒いマントに黒光りするウインドブレーカーを着用し、その中はこれでもかというくらい着込んで、ものすごく着膨れした武知である。頭には黒く塗ったヘルメットにバッファローをイメージした角を取り付け、もとは赤かった節分の鬼の面を黒く塗って装着している。それが腰に手を当てて、全校生徒を指差し、豪快に笑う姿はなかなか様になっているのだが、最初の一言でそれが誰なのか分かるネーミングを発表したから、更に笑いを誘った。
「ウケてますね」
「予定通りだ。よし、莉紗、藤堂!」
 二人の格好は、普通に如月高校の制服だ。まず藤堂がごろごろごろごろ、と袖から転がり出た。スポットライトがそれを照らし出す。そして、更に莉紗がそれを追いかけた。
「うわぁ、先輩、もう勘弁してくださいよぉ~!」
「うっさいわね!ほら、早く仕事しなさいよ!私は今日デートなのよっ!」
 転がる藤堂に蹴りを入れる。更に会場が沸いた。
「い、今井さんとですかっ?」
 藤堂のセリフにヒューヒューと野次が飛ぶ。今ではすっかり公認の二人だ。
「だから何よっ!仕事早く終わんなきゃ帰れないじゃない!ほらほらほらほら!」
「今井さぁん、こんな怖い人のどこがいいんですかぁ~」
「何をぅっ!もう一回言ってみなさいっ!この役立たず!」
 げしげしと莉紗に足蹴にされる藤堂を見ながら、タケーチ魔人が唸る。
「うーむ、何と哀れな。地球人の女というのは誠に恐ろしい」
 そこで、やはり制服姿の今井が右袖から登場する。人気者の今井に野次と声援が同時に飛んだ。それに左手をひらひらさせて答えながら、扉を開く仕草をする。
「莉紗ー、仕事終わったかぁ?」
 今まで蹴りを入れていた莉紗が、くるぅりと向きを変えて、可愛らしく身体を曲げる。
「あ、今終わったところ。最後藤堂くんが閉めてってくれるから、先帰っていいって」
「え、そうなの?悪いね、藤堂。じゃ。ガラガラ、ピシャ」
 ご丁寧にドアの音まで入れて、今井と莉紗が仲よく右袖に帰ってくる。取り残された藤堂は悔しそうに、拳で床をたたきつける。
「もう、何でいつも俺ばっかり・・・・・・っ!」
 タケーチ魔人がぐふふ、と笑った。

「そうだそうだ、憎め!憎むのだ!」
 
ところが藤堂はがっくりと肩を落とした。
「はぁぁ、でも今日は蹴りで済んだし、早いとこやってうちかーえろ」
 タケーチ魔人がこける。一見怖そうな怪物のユニークな仕草が、また会場から笑いを引き出した。
「あほかー!憎めゆーとるだろがー!」
 いきなり関西弁でツッコミを入れる怪人に、更に笑いが重なる。
「もう、見ておれん!」
 足音荒く、タケーチ魔人はとぼとぼ右袖に近づく藤堂に襲い掛かった。
「うわぁっ!」
「お前にばかり仕事を押し付けるあの連中を憎むのだー!」
「えええっ!そんなことしたら殺されるっ!」
「そんなだから押し付けられるんじゃー!」
 タケーチ魔人に蹴りを入れられ、藤堂がすっ飛ぶ。
「つーか、俺よりあっちの方が怖いんかいっ!」
 突っ込まれるわ蹴られるわで散々の藤堂は、タケーチ魔人を改めて見て、目を見開く。
「えええっ?あぁ、よく見たら、あなたはっ!」
「ん?」
「誰ですか?」
 言った途端「いちいち反応がおかしいんじゃ、ボケー」という言葉と共に、また蹴られた。
「ご、ごめんなさいっ!」
 どこまでも情けない藤堂に、タケーチ魔人は業を煮やして片手で首をつかむ。

「この軟弱者め!いいから貴様は私のエネルギーを生み出す道具となるのだ!」
 
そして強引に黒塗りのお面をかぶせられる。
「わあああああああああああああっ!」
 藤堂の絶叫と共に、ステージは暗転した。
 再びステージの右袖に明かりが点く。今井が莉紗の肩に手を掛けながら、意気揚々と歩いている。
「ねえ、何か食べていかない?」
「そろそろ寒いからなあ。あったかいものでも食うか」
「あ、おいしいジェラートの店、行きたいなぁ」
「・・・・・・ジェラート?・・・・・・あ、ああ。いいけど」
 原作は今井だが、どうもあちこちに笑いネタを仕組んでいるようだ。Pleasureを意識しているというより、結構お笑いが好きなのではないだろうか、と斗音は思った。そんな今井たちの前に、黒い影が躍り出る。冬服に面をつけた藤堂だ。上を羽織っただけだから、下は夏用のパンツだが、そんなのは客席からは見えない。
「あはははは、見つけたぞ、先輩たち!よくも俺に仕事を押し付けましたね!」
「だから何で敬語だよ!」
 その後ろに距離を置いて控えていたタケーチ魔人がツッコミを入れる。が、そんなのお構いなしの藤堂は力ずくで莉紗の腕を引っ張り、ヘッドロックをかけた。
「きゃあっ!」
「莉紗に何をする!」
「俺を足蹴にした罰さ!今度は俺が蹴り入れてやる!そしてあんたもデートは台無しだ。ざまぁみろ。あはははは!」
「きゃああ、文弥くん、助けてっ!」
「莉紗ーっ!」
 駆け寄ろうとする今井を、タケーチ魔人が遮った。
「ふっふっふ。邪魔はさせん。あいつは既に我が虜。これまでの憎悪を更に増幅させ、あの女をいたぶるであろう。貴様もあいつを憎むがいい。ふふ、ふはははは!」
「てっめぇ・・・・・・」
 ギリギリと歯軋りをしてみせる。そして、あちこちをきょろきょろと見回してから、タケーチ魔人を睨みつけた。
「こうなったら、奥の手だ!ちょっと待ってろ!」
 舞台右袖近くまで走り寄り、今井はベストで隠していたおもちゃのライダーベルトをおもむろに見せる。誰かの弟の友達の弟くらいから借りたという。子供用だがスリムな今井は肥満の子供よりはウエストが細かったらしい。

「へーん、しんっ!」
 それらしくポーズをとってジャンプした瞬間スポットが消え、次の瞬間にスポットが当たったときは既に控えていた仮面ライダースーツと仮面ライダーのお面を着用済みの弓削が構えて立っていた。その瞬間芸に、会場からオオッとどよめきが起こる。弓削はそのまま走って藤堂に蹴りを入れ、藤堂はあっという間に倒れ伏し、こそっと面を外す。
「あ、藤堂くんが戻った。って、文弥くんいないしっ!」
 莉紗がツッコミを入れている間に弓削は左袖に隠してあったパーツで飾り付けされている自転車に乗って再び登場する。会場中が爆笑に巻き込まれた。しかも弓削が丁寧にチリンチリン、とベルを鳴らすから、尚おかしい。
「何と、おぬし、仮面如月ライダーであったか!厄介な奴に手を出してしまった」
 ぼやくタケーチ魔人とチャリライダーがステージ上で戦いを繰り広げる。弓削の洗練された動きと武知の鍛えられた身体との戦いは、なかなかに見ものである。弓削は自転車を上手に操りながら、武知に襲い掛かっている。そして、自転車ごとぶつかってタケーチ魔人を倒しておき、
「お、おのれっ」
と、ふらふら立ち上がったところを、見事ライダーキックでふっとばした。ハイジャンプの得意な弓削らしく、そのジャンプキックの高さに会場は拍手喝采を送った。遂にタケーチ魔人が倒れる。
「我を生み出しし・・・・・・闇の支配者魔王シーナに栄光あれ・・・・・・」
「斗音、頼んだ」
「行ってきます」
 舞台の左を中心に戦いを繰り広げていた仮面ライダーたちに気をとられていた生徒たちの中に、右袖から出てきた人物に気づくものがパラパラと出てくる。女の子の黄色い歓声がいくつか上がった。そんな中、斗音にスポットが当たる。歓声が膨れ上がる。それを掻き消すように、斗音は自分をくるむようにしていた漆黒のマントをばさりと開いた。中に着ているのは全身黒ずくめだが、武知と違って魔道士というキャラクターが身にまといそうなローブだ。実は古くなった暗幕だが、客席から見ると立派な衣装だ。
「タケーチ魔人・・・・・・憎しみを増大させ、表の世界を闇に引きずり込む役割は、やや荷が重かったでしょうか・・・・・・」
 以前今井が構想を練ったとき、斗音の役割は敵の総大将だったのだが、結局それをやる羽目になった。武知との好対照がインパクトになる、と言うのが今井の理由だったが。
「まあいいでしょう。あの仮面如月ライダーとやら、生かしておけば邪魔になるやもしれません。私が始末しておくとしましょう」
 溜息をつきながら、すっと弓削ライダーに向けて手を伸ばす。ローブから対照的な白い腕が現れて、ぐっと手の平を握る。その瞬間手にしていたおもちゃのレーザーのスイッチを入れる。斗音の手からすっと赤い光が伸びて、弓削ライダーの身体を射る。弓削ライダーは、「うっ」とかもっともらしいうめき声を上げてばたりと倒れた。再び舞台は暗転し、莉紗の悲鳴が響く。
「ふ・・・・・・文弥くん・・・・・・?どうして、どうして文弥くんが倒れてるのよーっ!」
「せ、先輩、お、俺は?」
「あ、そういえばいたわね、藤堂くん。あんたよくも私にヘッドロックかましたわね」
 げしっ。音だけが響いて、生徒たちの笑い声が体育館に満ちた。
 再びスポットを浴びたのは、暗転の間に全て撤収した仲間の代わりにステージ中央に立った今井だった。
「強い・・・・・・あれが闇の支配者、魔王シーナ・・・・・・。でも、なんて悲しそうな・・・・・・」
 情感たっぷりの今井のセリフに、会場の一同は聞き入った。
「あんな悲しい顔をする者がこの世にいて、平和と言えるだろうか。あの悲しみは一体どこから・・・・・・!」
 そこで、右袖にスポットが当たる。再び斗音が腕を組んで登場である。くすくすと笑って見せた。
「私が悲しそう?笑止な。まさか、こんな人間があの超人になっていたとは思いませんでしたが・・・・・・思ったより丈夫なようですね」
「あ、実は別人・・・・・・じゃなくって!」
 何気なく暴露して客席を笑わせておいてから、今井が斗音を振り返って、ぎょっとする。
「お前は・・・・・・魔王シーナ!」
「いかにも。たかが人の分際で、この世にうごめく憎しみの心をなくせると思っているのですか?この世には人の生み出す憎悪の心が満ちている。己のことばかりを考え、相手を蔑み、見下し、各地で争いを起こし、戦いをし、人を傷つけ、殺し合う。故に闇は生まれ、その闇に望まれて私が存在するのです。憎しみに飲み込まれた方がいっそ幸せな人間たちよ。私が望まれるような世である限り、私は人の憎悪を煽り続け、私の世界の拡大を図るでしょう。ほら御覧なさい、この世界の現状を」
 斗音がふわりと後ろを向くと、つい最近起きたテロ事件や殺人事件、戦闘を繰り広げる各国の映像が映し出された。今井が、うっ、とあとずさる。
「さあ、それでもこの私を倒せると思いますか?」
 今井が斗音を睨みつけて、それから会場に手を差し伸べる。
「俺たちの世界は、憎しみや憎悪だけじゃないはずだ!さあみんな、この憎しみが生み出した悲しい闇の支配者に、愛と平和を教えてやろう。今年の如月祭のテーマだ!せーのっ」
 突然の振りにもかかわらず、如月の生徒たちはノリノリで叫んだ。
LOVE&PEACE+Pleasure!」
 彼らの声が起こると同時にスクリーンの前に、すっかり着替え終わった武知と弓削を含め、控えていた執行部のメンバーが横断幕を広げる。弓削の担当した横断幕だったが、デザインは全校から募集し、美術部員が仕上げたものだった。そして一斉にステージ上の照明が全て点き、大きすぎるためなかなかつかない体育館の照明も徐々につき始めた。
「そんな・・・・・・何故こんなにまぶしい世界が・・・・・・!」
 うずくまる斗音を今井が包み込むようにする。女の子たちの歓声を聞きながら、今井は抱き締めるふりをして、肩でマントを固定していた大きな安全ピンを素早く取り外し、斗音はその下に隠れながら簡単に縛っただけのローブをほどいて、下に着ていた如月の制服に素早く変わる。
「人を大事に思う気持ちが、愛ってやつで、その愛があればきっと平和が訪れる。さあ、今日から三日間、みんなでそれを創り出そうぜっ!」
 斗音の手を引いて今井が勢いよく立ち上がる。斗音の衣装が下におちて、如月の制服になって現れたのに大きな拍手が起きる。
「第七十三回、如月祭LOVE&PEACE+Pleasure、ここに開催を宣言します!」

 今井の堂々とした開催宣言に、もう一度、盛大な拍手が沸き起こった。

「斗音、開会宣言ばっちり写真撮っといたから!今井さんとのラブシーンも!」
 出来過ぎ集団と歩きながら、瞬の楽しそうな様子に、斗音は苦笑した。
「マント取ってもらってたんだよ」
「でも、あれって一応『愛』の表現だったんだろ?」
「思いやりだってば」
「あの流れ考えたのって、今井さん?」
「そうだよ」
「ああ、やっぱり」
 妙に納得した感のある言い方に、斗音は首を傾ける。
「何がやっぱりなんだよ、嵐」
「いや、何となくね」
 含み笑いだけで、結局校内一の美貌の持ち主はそれを流してしまった。
「これからどうする?」

「さっき1-2の生活用品オーケストラ、チラッと見たけど、なかなか面白かったよな。けど、大道芸の方も前評判高いし、写真撮りに行こうぜ」
 
慈恩に写真を見せてやりたい、と思っていたのは今井や斗音だけではなかった。みんなして今日はデジカメやインスタントカメラ持参である。今日ばかりはカメラが許可されているのだ。カメラつき携帯も今日だけはOKだ。どうしても時間がかぶってしまう有志発表や常時開店の店舗などを担当する生徒たちが、友達同士で別々のところに行って情報を送り合ったりすることで、客の取り合いや他の発表の妨害などをさせないようにするという、今井の提案である。有志の制限といい、今年は去年のような後味の悪い思いをさせたくないという執行部の強い思いがある。ただし、如月の生徒の一員として、マナーモード以外では使わないとか、メールなどを送って迷惑を掛ける相手には、決して送らないという約束があった。ちょっとでも電子音を察知すれば、クラスの取り組みから減点になるし、例えば、慈恩のように他の学校にいる生徒に送れば、授業の邪魔になったり、相手の学校に迷惑を掛けたりすることになるので、それが分かれば停学だ。そんな危険を冒してまで迷惑を掛けるような生徒は、如月では少ないと見た厳しい罰則であった。もともと出来過ぎ集団は、ひたすら写真を撮って、慈恩に会いに行く気満々である。
 上手に時間を駆使しながら出来過ぎ集団はなるべくいろいろな出し物を見に回った。時々嵐が2-5のサスペンス喫茶の演技要員として抜けていったが、そのうち一回に彼らは訪れ、そこでエッグサラダバンズとコーヒー、瞬だけは紅茶の軽食をとり、瞬が犯人役の嵐に人質にとられ、事件が解決するまで見ていく羽目になった。結局だまされて財産を奪われた両親の敵を討つため、悪徳不動産に乗り込んで強盗を働き、追いつめられたためこの喫茶店に逃げ込んで人質を盾にとって、自分の逃げ道を確保しようとしたはずの犯人は、実は悪徳不動産の人間たちをおびき出すため囮となった刑事の一員で、駆けつけてきた刑事たちと悪徳業者を一掃し、瞬とその連れの二人には迷惑を掛けてごめんなさい、というお詫びのしるしに、デザートがサービスされた。
「嵐、わざと俺を狙ったでしょ?デザートくれるために」
 こそっと囁いた瞬に、嵐はにやっと笑っただけでミニパフェを置いていった。中にコーンフレークとバニラアイスを重ね、縦に八つ切りにしたオレンジをグラスに挟み、生クリームを絞っただけの簡単なパフェだったが、周りの羨望の視線を浴び、すごくおいしく感じたのだった。が。
「斗音、ほんとに大丈夫?さっき露店で買ったたこ焼も結局一個しか食べてないし、ハンバーガーだって一口二口じゃん。上手に周りに食べさせてるけど、自分はほとんど食べてないんじゃない?」
 瞬に指摘されて、斗音は笑みが固まりそうになるのを堪えた。
「前もちょっと言っただろ。家政婦さんが来てから、朝食がすごく豪華だから、昼になってもなかなかおなか空かないんだって」
 最近の昼食だって、あまり食べられずにいた。この口実で、一体何度逃げただろう。でも、瞬はそんな斗音の薄茶の目を、大きな瞳でじっとのぞき込んだ。
「でも、ちょっと痩せたよ、斗音。最近元気ないし」
 翔一郎もうんうん、と頷く。
「夏休みくらいからだよな。慈恩が転校してったことがその原因なのは分かるんだけどさ。このパフェだって、きっと少しでも食えって、嵐のメッセージだと思うよ」
「まさか・・・・・・」

 斗音は苦笑したが、その笑みが自分の顔に張り付いているだけのものだということは、よく分かっていた。結局ミニパフェすら完食できず、翔一郎にひとつ半食べさせることになってしまった。

 食事を済ませ、出来過ぎ集団はなるべくいろいろなものを見て歩きながら、存分に如月祭初日を満喫していた。
「フレンドパーク、あれよく作ってあったよな。ちょっとしたゲーセン感覚で楽しめた」
「翔はフリスビーのやつ、十秒ちょっとで三つとも入っちゃったもんね」
「瞬だって、斗音と組んで曲当てのやつ、満点だっただろ」
「だって、いきなり言われた曲名でも、斗音がほとんど正確に弾いてくれるんだもん。あれは誰でも分かるよ」
「そりゃそうだけど、それでも瞬だってなかなかのもんだったぞ」
 翔一郎が言っているのは、ペアの一人が箱の中に用意された紙を引いて、そこに書いてあった曲を楽譜なしでいきなり用意されていたキーボードで弾き、相方がその曲名を当てるというもので、ピアノがバリバリ弾ける斗音は楽譜なしでもある程度主旋律は間違わずに弾けたし、音感には割と自信を持っている瞬も、間違えはするものの、曲が何となく分かるくらいには弾けたので、それを斗音が当てることは比較的容易だった。
「でもさ、いきなり春の海、とか言われたって、普通弾けないって」
「ああ、あの正月によくかかってるやつな。あれ、琴だろ、だって」
「でも、瞬、それなりに分かるように弾いてたよ。俺分かったもん」
「・・・・・・ああ、それは斗音だったからだと思うけどな」
 ボソッと言った嵐に、瞬が可愛らしい顔でふくれる。
「そうだよね。あーよかった、俺嵐と組まなくて」
「あ、瞬、それは傷つくなあ」
 笑いながら言う嵐に、更に瞬がふくれっつらになる。翔一郎が苦笑した。
「まあまあ。ゲームの選択がよかったってことじゃん。俺と嵐がミニバスケのシュートのやつと、フリスビーのやつと、ウォールクラッシュみたいなやつだろ?で、瞬と斗音がその曲当てのやつと、俺らもやったシュートのやつと、相方の投げるお手玉を背中のかごで拾うやつ。全部ダーツの矢がもらえたわけだし」
 ちなみにウォールクラッシュみたいなのとは、某番組でやっているゲームのように、やや助走をつけてトランポリンでジャンプし、あとは垂直跳びの要領で手につけた粉をボードにつけ、点数を競うものである。ジャンプ力に関して言えば、翔一郎も嵐も他を抜きん出ている。二人とも一回でゲームクリアの高さまで到達してしまい、ダーツの矢を二本ゲットした。ちなみに、各ゲームのポイントが目標をクリアするとダーツの矢が一本ずつもらえ、最後に大きな回転ルーレットに挑戦することになる。景品としては高校生らしく、シャープペンシルと消しゴムのセットだとか、ノートだとか、学食の一食ただ券だとか、如月祭の露店(3-6)の一品ただ券だとか、大聖堂喫茶(1-3)の一品ただ券とか、フレンドパーク内のゲーム再チャレンジの権利(ペアで3ゲームチャレンジするのだが、一度挑戦するのに一人三百円取られる)だとか、お決まりのたわしもちゃんとある。初日しかやっていないということもあって、結構人気になっていた。
「一年生にしてはよく考えてあったよね」
 シャーペンと消しゴムをゲットした瞬はそれなりにゴキゲンだった。斗音はそのシュート力を期待されて二本矢を投げたのだが、ノートと露店のただ券をゲットした。翔一郎と嵐はウォールクラッシュもどきで二本の矢をゲットしたので、一人二本ずつ投げ、それぞれノートとたわし、大聖堂喫茶のただ券とたわしを当てた。
「ルーレットのたわしの面積、やたら広かったけどな」
 翔一郎が肩をすくめ、嵐がふっと笑う。出来過ぎ集団は、まさか嵐がたわしをゲットするとは思っていなかったので、かなり笑った。斗音がおかしそうに笑うのを見て、嵐は少しほっとしたのだ。食欲がないのははっきり表に出ているけれど、それ以外にもかなり精神的に参っているように思われることがある。斗音自身は自覚していないようだが、ぼんやりしているようなことも多くなったし、顔色は冴えないし、何より笑い方がひどく薄っぺらになった。愛想笑いのような笑みはいつも浮かべているけれど、すぐ消えてしまう。それを見ているしかできない自分に、ひどくもどかしさを感じていたりした。
 その後はフリーマーケットにも顔を出し、斗音の希望で弓削と武知を探したのだが。
「あのさあ、みんなすっごい凝った変装してるんだけど、反則がいるよな」
「ああ、あのグループな。ありゃ、反則だ」
 3-6の主催する変装フリーマーケットは、売っている側の変装を見破れば、粗品がもらえる。粗品は売り物の中から選べるらしいが、最後まで見破られないグループに賭けて勝つと、配当金の分だけ学食チケットがもらえる、という方にみんな興味が行っている。グループ名はいろいろあるようだが、ムツゴロウグループがダントツ人気だ。
「・・・・・・絶対見破られないって言ってたけど、確かにあれは見破りようがないよ・・・・・・」
 斗音が半分呆れたように、半分感心したようにつぶやいた。翔一郎が両手を小さく上げた。
「あの中にいることは間違いないんだけどな」
 彼らの目線の先にいるのは、着ぐるみのネコ、タヌキ、イヌ、リス、トラ、河童である
「いくらムツゴロウさんでも、河童は飼ってないと思うなあ」
 瞬の言葉に三人が思わず笑みをこぼす。
「あの中で弓削さんと武知さんを限定するのは、至難の業だな」
 嵐も腕を組んで、唸った。
「体型すらわかんないんだもん。強いて判断材料があるとしたら、癖とか仕草だろうけど、そんなの分かるの斗音くらいだし、それがバレないようにわざと可愛らしい振舞い方をしてるしね」
 その中のトラがこちらに気づいたらしく、ぴょんぴょん跳んで、可愛らしく手招きをした。
「おい、呼んでるぜ。斗音、行くって言ってあったんだろ?だから呼んでるんじゃねえか?」
「あ、てことは、あのトラ、武知さんか弓削さん?」
「有り得るけど・・・・・・だけど・・・・・・」
「可愛すぎるよな、あの『おいでおいで』」
「うん、どっちもやってるのが想像できない」
 思わず頭を抱えた斗音であった。
 グループの前まで行くと、可愛い動物たちが四人の手を取り、買って買ってと仕草で甘えて見せた。中に人間が入っているとは分かっていても、やはり可愛い。断り切れず、翔一郎は文庫小説を一冊、斗音はハンドタオルを一枚、嵐は結構値の張っていたビリヤードのキューを購入した。
「何それ。お前、使うの?」
 翔一郎に聞かれ、嵐は唇を曲げるようにして笑った。
「一人やってみたいって言ってた馬鹿がいたから、そいつにやろうと思って」
「え、人にやるために千五百円も出したの?」
「まあ、そうだな。ほら、俺はそれなりに稼いでるから。それにこれ、ユニセフに寄付すんだろ?」

 ごまかすように笑った嵐の意図を理解できたのは、安土の存在を知っている斗音だけだった。
 
動物の可愛らしさにも勝ってしまったのが、瞬だった。
「えー。でも俺が欲しいもの、特にないもん」
 可愛らしい動物たちに、困ったような顔を向けたら、動物たちの方がごめんなさい、とぺこりと頭を下げてしまった。瞬に甘えることに心苦しさを感じてしまったらしい。

 しかし、六匹の中から弓削と武知を見分けることはやはり難しかった。変装を見破るときは、ちゃんとその人物を限定して名前を呼ぶこと。更にそれは一人一回であること、と限定されているので、周りの客はみんなして、全体に向かって名前を呼んで反応を見ようとしているが、そんな作戦には慣れっこのぬいぐるみたち、一切引っかからない。みんなに愛らしい仕草で愛想を振りまくばかりである。
「こりゃちょっと分かんねえかな」
 嵐が諦めがちに吐息する。と、そのとき、ずっとしゃがんで他の品物を見ていた斗音が立ち上がろうとして、立ちくらみを起こした。ぐらりと傾いた華奢な身体は品物が並ぶ上に影を落とす。
「!」
 客の位置からでは、バランスを崩してしまうため支えられなかった。嵐と翔一郎がそれでも手を出そうとしたが、それより前に河童が品物を蹴り飛ばし、その身体の下に滑り込むような形で斗音を支えた。
「おい、あんた大丈夫か?」
 周りの客も騒ぐ中、斗音は顔をしかめ、軽く頭を振った。まだくらくらするらしい。そして、自分を支えてくれた河童を見上げる。
「すみません・・・・・・」
 言ってから、きょとんと薄茶の目を見開く。
「・・・・・・あ、弓削先輩?」
「え?」
「ええ?」
 翔一郎と瞬が顔を見合わせ、同時に河童を直視する。その前で河童は困ったように頭を掻く仕草をして見せ、両手でその頭部を持ち上げて見せた。
「あー、弓削っ!」
 周りの客が一斉に叫ぶ。苦笑を浮かべて、弓削がようやく口を開いた。
「なんで分かった?」
 聞かれた斗音は、綺麗に整った眉を寄せる。
「・・・・・・何となく・・・・・・」
 弓削の顔がしかめ面になる。
「何だ、当てずっぽうだったのか?」
「いえ、そんなわけじゃなかったですけど、何となく、あ、弓削先輩だ、と思って」
 河童の頭を持ったまま、弓削はがっくりと肩を落とした。
「あぁあ、自信あったんだけどなあ・・・・・・。まあ、まだあと五人いるからいいけど。いいかお前ら。目の前で人が倒れても、直接助けるなよ。何か知らないけど、ばれる可能性があるらしい」
 ぬいぐるみたちがうんうん、とうなずく。うなずいている内容はともかく、それがなんだかとっても可愛らしい光景で、客たちは思わず笑みを誘われた。
「ごめんなさい、助けてもらったのに、正体ばらしちゃって」
 ぺこりと頭を下げた斗音に、弓削は涼やかに笑みを見せた。
「いいさ。自由に話せるようになった分、商売はしやすくなったし、これ結構暑くて大変なんだよ」
 アッシュの柔らかな髪を河童の大きな手がくしゃくしゃにした。
「ほら、好きな商品やるよ。何がいい?」
 乱れた髪を気にしながら、斗音はしばらく迷って、未使用の携帯ストラップを指した。
「これにしていいですか?」
 飾りにデザインされた十字架のついた、チェーンのストラップだ。弓削は器用に大きな緑色の手でそれを取り上げた。
「お、なかなか目のつけどころがいいな。これ、某有名アーティストのライブグッズだぜ。結構洒落てるだろ。元値は千八百円なんだけど、持ち主は使う用ととっておく用で二つ買ったらしいんだ。で、結局もったいなくて二つとも使わないまま、やや熱が冷めて今に至ると。だからひとつ、寄付してもらったんだ。売値が五百円だったから、なかなか買い手つかなかったんだけど」
 そっと手に載せられたそれを、斗音はじっと見つめた。自分のかけているクロスと、少しデザインが似ている気がして思わずそれを希望したのだが。
(慈恩に、持っててもらいたいな)
 そんなことを思って、少しだけ心臓がくすぐったい気がした。あまり洒落っ気のない慈恩だが、喜んでくれるだろうか。
「ありがとうございます」
 丁寧にお礼を言って、ついでにみんなで変装見破り記念写真を撮ってもらってから、変装フリーマーケットが行われているワークスペースをあとにした。可愛い動物たちが可愛らしくバイバイをしながら見送ってくれた。
「しまった、河童が弓削さんってことは、トラが武知さんだったんじゃねえか」
 珍しくあとから気づいた嵐が悔しがったが、時間的にもう一度そこへ行くのは厳しく、物欲に乏しい出来過ぎ集団は「ま、いっか」「あれ以上ばらしちゃ気の毒だよね」と、あっさり粗品一品を諦めた。
 
そろそろ体育館のステージ『1年5組 金八先生!?』が終わる頃だ。次は三年二組の『超魔術』である。要は手品だが、結構訓練しているらしく、初日の中ではかなり評判が高い。それも観に行きたかったし、それ以上に出来過ぎ集団の中の2-3に所属する三人は、そのマジックショーの後に控える自分たちのステージの準備をしなければならなかった。

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二十九.如月祭 そのニ

 髪にはヘアピンをクロスにつけられ、衿に白のラインが三本入っているというスタンダードな濃紺のセーラー服、大きなスカーフは赤。
「やっぱ斗音くんは脚が長いなあ。私のスカートでも短めだねえ」
 スカートを貸してくれた、背の高いクラスメイトが感心したように言った。彼女の身長は斗音とそれほど変わらない。
「ねえ、ルーズにしない?斗音くん、絶対可愛いって!」
「いや、昔の不良なんだろ?ルーズとか、まだない頃なんじゃ・・・・・・」
「いいじゃない、どうせスカートだって短いんだしさー。や、でも、ほんっと可愛いよ、斗音くん。ていうか、美人。すごく綺麗だよ」
「あは、そう・・・・・・?・・・・・・複雑だなぁ・・・・・・」
 褒め称えてくれる女の子たちだが、斗音としてはどういった反応を返せばいいのやら、迷うところだ。結局ルーズではちょっと、と斗音が渋ったので、黒のハイソックスということになった。白じゃないのか、と斗音が聞いたら、「不良なんだから黒でいいの!」と言われてしまった。
「これってよく考えたら、全身タイツに近いよね」
 ぼやくように言ったのは瞬であった。身体にぴったりしたノースリーブのシャツに、やはりぴったりしたかなり細身のパンツ。これがどちらもピンクなのだ。それに、赤に近いピンクの『クロス』というコスチュームを貼り付けていく。
「こんなのでほんとに防御できんのかなぁ。絶対嘘だよね」
 原作の漫画にケチをつけても仕方ないのだが、変に飾り立てられたブーツを履かされて、かなりブルーになっている。それでも衣装係の女の子たちは大喜びだ。
 翔一郎は全身黒ずくめで、すらりとした体型がより強調されている。
「いいよね、翔一郎は男らしい役でさ。斗音、あとで翔一郎になんか奢ってもらお」
 可愛らしい顔で恨めしげに視線を送ってくる瞬に、翔一郎は思わず叫んだ。
「何で俺がっ!」
「ずるいからに決まってんじゃん!」
「俺だって好き好んでやってんじゃないぞ!」
「じゃあ代わってあげようか?」
 ぐっと言葉に詰まる翔一郎に、瞬はふう、と溜息をこぼした。
「翔一郎にこれが着られるわけないじゃん。体型違うんだからさあ。あーあ、恥ずかしいなあ」
「お前ね!最初から分かっててそういうこと言わない!」
「まあまあ。これもクラスのためだと思ってさ」
 苦笑しながら斗音が口を挟む。そして、じゃこじゃことヨーヨーをしながら、ちゃきっと顔の前で構えて見せた。
「どう?上手になっただろ?」
 周りからパチパチと拍手が起きる。翔一郎は肩をすくめて笑った。
「バッチリだな。可愛いぞ、斗音」
 斗音の肩ががくっと下がった。
「一言余分だよ」
「全くだよね。ネビュラチェーン、投げてやろうか、翔一郎?」
 こちらは飼い犬をつなぎとめるための鎖であるが、本物の上にかなり長い。
「いや、それは怖いから嫌だ、マジで」
「避ければいいじゃん、ほら、例の身体反ってかわすやつで」
 翔一郎はマトリックスの名場面なので、瞬はそのことを言っているらしい。
「あのね、あれはスローモーションの弾丸限定!大体鎖なんて反って避けたって、落ちてきて当たるじゃないか!」
「ああ、そう言えば」
 2-3の楽屋はこんなお茶目なものだったが、早々に仕上げて超魔術を舞台袖で見ることができたのは、貴重な体験だった。何しろ、横から見ているから、いくつかのマジックの種が見えるのだ。
「あとで嵐にやってやろうよ」
 瞬なんかはかなり嬉しそうだった。
 さて、肝心な2-3の出し物だが、これは一瞬のためにかなり考えてあるもので、観客のウケは非常によかった。

 最初はジャッキー・チェンの映画から、カンフーアクションだったが、これはヌンチャクを練習していたクラスメイトが、何とジャッキー・チェンの写真を拡大した面をつけて演技し、ヌンチャクにやられる敵たちが見事に黒子達によって宙に舞い上がって倒れていった。
 
そこから、「ジャッキー・チェンの顔と言えば?」のナレーションが入り、有名アーティストのチャゲ&飛鳥のこれまた名曲「YAH YAH YAH」が流れ、彼らに扮したクラスメイトが頑張ってものまねをした。飛鳥の顔はこれまた写真の拡大で、よく見るとジャッキー・チェンとよく似ているため、観客の笑いを引き出した。もちろん、はためくマントは黒子達による演出である。この名曲の途中でまたナレーションが入る。
「チャゲ&飛鳥といえば?」
 いきなり曲が変わる。こちらも誰もが知る名曲「SAY YES」である。そして、おかっぱのかつらをつけたクラスメイトと、ロングヘアの見事な女子がステージに現れる。女子のセリフから始まる。
「もう一人になるのは嫌なの!」
 トラックの描かれたダンボールが走ってくる。その前に、かつらの男子生徒が飛び出した。ダンボールトラックが急停車する。轢かれる直前だ。女子がきゃあ、と悲鳴を上げる。何とか轢かずに済んだトラックから、「馬鹿野郎!」の罵声が飛び、走り去っていく。そしてここで名台詞。
「僕は死にましぇん!僕は、死にましぇん!」
 語尾を強調したセリフは会場に馬鹿ウケだった。そこでナレーションが入る。
「当たらない、と言えば?」
 翔一郎が舞台袖から飛び出していく。そのあとを追いかける、やはり黒ずくめの男たち。追いつかれて、翔一郎が足を止める。黒ずくめの男たちが銃を構えた。銃が発射される。そこからスローモーションが始まる。目に見えるように、やたら拡大された弾丸が回転しながらゆっくり黒子によって運ばれてくる。翔一郎は大きく身体を反らした。その背をやはり黒子が支える。暗くしてあるステージで、黒子はよく見えないため、分かってはいるけれど観客の「おおっ」というどよめきが湧いた。その前で、腕を泳がせるようにしながら、見事に全部の弾丸を避けきった翔一郎に拍手が送られた。
「アクションと言えば?」
 黒い衣装のメンバーが袖に駆け込み、今度飛び出して行ったのは、ピンク地に赤に近いピンクの『クロス』をまとった瞬と、全身金色の『クロス』につつまれた女子である。背の高いその女の子は、斗音に中学時代のスカートを貸してくれた子だったが、頭にはビニール紐で作ったポンポンの長くてボリュームが少ないものをかつらに見立てている。アンドロメダの敵役のアフロディーテは水色の髪の毛だということで、頑張って用意した手作りかつらだ。かなり静電気で身体にまとわり付いているのを、鬱陶しげにばさりと後ろへ掻き上げる。

「あなたが先生を殺した、双魚宮のアフロディーテ!先生、僕がきっと敵をとって見せます!」
 瞬の声はよく透る。手にした二対の鎖を構えた。
「アフロディーテ、覚悟!ネビュラチェーン!」
 やっ、と瞬の投げた鎖は、走る黒子に運ばれて、アフロディーテに襲い掛かる。
「こんなもの、お前の師匠を倒した私に、通用すると思うのか!」
 アフロディーテが造花の薔薇をばら撒き、チェーンが跳ね返される。
「そ、そんな!僕のチェーンが・・・・・・!うわぁっ!」
 薔薇攻撃に跳ね飛ばされ、瞬が倒れる。倒れた瞬間に、簡単に外れる『クロス』は黒子が外してくれた。本来なら、その武装が解けて、普段着に戻るらしいが、そんな瞬間芸は生憎できないので、それで勘弁である。
「本当は、これだけは使いたくなかった・・・・・・。でも兄さん、僕は最後まで男らしく戦うよ!このコスモの流れがストームと化すとき、あなたは死ぬ!」
 瞬の周りで、ピンク色のビニール紐がふわふわ漂う。コスモというオーラを表しているのは、やはり黒子である。アフロディーテが顔をしかめる。
「うぅっ、こ、これは・・・・・・!よかろう、これを受けるがいい!ブラッディ・ローズ!」
 白い薔薇の造花が、アフロディーテの指から離れ、再び黒子に運ばれて、瞬の胸に突き刺さる。
「うっ?」
「ふ、それは君の心臓から血を吸い尽くす。その薔薇が赤く染まったとき、君は死ぬ。君のネビュラストームが私を殺すのが先か、それとも私のブラッディ・ローズで君が死ぬのが先か・・・・・・」
「う・・・おおおおぉおおおおおっ、ネビュラスト―――ム!」
 瞬の渾身のセリフに合わせて、ピンクのビニール紐がびょーんとアフロディーテに襲い掛かった。しばしどっちも苦しみながら、アフロディーテが先に倒れる。瞬がふらふらしながら最後のセリフをつぶやいた。
「にい、さん・・・・・・僕、最後まで・・・男らしく、戦ったよ・・・・・・。これで、少しは・・・・・・平和に、なるかな・・・?」
 言ってばったりと倒れる。なかなかの迫真の演技に、会場が沸いた。
「チェーンといえば?」
 ナレーターの妙にコミカルな言いっぷりで、かなり深刻になっていた雰囲気がどっと笑い崩れる。むくりと起き上がった瞬とアフロディーテが更に笑いを倍増させた。そして彼らが袖に飛び込んでくるのと同時に飛び出して行ったのが、スーツ姿の何人かと学生服の一人。スーツの男たちが学生服の少年をぼこぼこにしている、の図が展開される。そこへ、やや遅れて走りこんできたのが、セーラー服姿の斗音だ。観客席が一気に歓声に包まれる。女子生徒は「キャーッ」男子生徒は「うおおおっ」と、見事な驚きっぷりだった。
「おんしら、待て!いい大人が数人掛りで一人の子供をいじめるなんて、世間が許してもわしが許さんぜよ!」
 どうもこの方言っぷりから行くと、スケバン刑事は二代目辺りのようだ。
「何だこのアマ!」
 スーツの男の一人が凄みを利かせる。斗音はヨーヨーを構えて、ボタンを押した。かちゃっと開いて警察のマークが出てくる。
「この桜の大文字が目に入らんか!」
 会場がどっと笑いに包まれる。水戸黄門風にしたのは、あくまで笑いを取るためであったので、大成功である。本当は、その決め台詞がよく分からなかったから、ごまかしたのだが。
「ま、まさかお前は!」
「スケバン刑事、麻宮サキ!」
 言って、何回かヨーヨーを落としてから、しゅっと敵に向かって投げた。それを黒子が受け取って、するすると鎖が伸びていく。
「うわあああ」
とか何とかわめく男たちを、鎖がくるくる巻いていく。実はその鎖、先ほど瞬が持っていたネビュラチェーンである。黒子がこっそり隠し持っていたのだ。そして、悪者だけをぐるぐる巻きにして、ヨーヨーが戻ってくる。途中から黒子が離したヨーヨーを一度落としてから、シャラシャラと巻き上げ、再び構える。
「なめたらいかんぜよ!」
 ハスキーな声は、考えようでは女の子っぽくも聞こえ、それがとても可愛らしかったので、キャーキャーとかヒューヒューとかいう声が、会場を埋めた。
「セーラー服と言えば?」
 ナレーターの声を合図に、斗音と縛られたサラリーマン風の男に扮したクラスメイトたちは、袖へ駆け込んでいく。次に出て行ったのは、クラスでも数少ない女の子たちによるセーラームーンたちだった。男子生徒の多い如月では、大いにウケた。でも、インパクトの差だろうか。間違いなく、先ほどの斗音が登場したときの歓声の方が大きかった。
「お疲れ、斗音。大丈夫だった?」
 真っ先に声を掛けてくれたのは瞬だった。かなり体調のことを心配しているらしい。黒ずくめのためよく分からなかった翔一郎も、実はすぐ傍にいたらしく、斗音の肩を優しくたたいた。
「お前が出て行ったときの歓声が、一番大きかったな。さすが有名人」
「瞬の演技力には負けるよ。瞬って、ほんと演技上手いよね」
 いきなり言われた瞬は肩をすくめた。
「違うって。あの場面だけ、何か知らないけどやたら長いんだよね。セリフ多いしさ。だからそう見えるだけ」
「でも、演技で拍手が起きたのってあの場面だけだったぞ」
「うん。迫真の演技だったもん。嵐がきっといっぱい写真撮っててくれるから、あとで見てみよ」
 にこり、と斗音は笑った。けれど、本当はとりあえず今日の役目が終ったと思うと、どっと疲れが押し寄せてきて、座り込みたい心境だった。
 白い顔からすうっと笑みが掻き消えていくのを見て、瞬と翔一郎は思わず顔を見合わせた。
「どうする?ここ片付けたら、ダンスものぞくって言ってたけどさ、ちょっと疲れちゃったから、嵐のただ券使って大聖堂のステンドグラス見ながらお茶しない?」
 瞬の提案に、斗音は微笑んでうなずいた。
「うん。でもあとひとつ、初日しかやってないから、藤堂のお化け屋敷も見たいな」
「ふふ、斗音もなかなか欲張りだね。じゃ、ちょっと休んでから、最後に見に行こ」

 こうして、ただ券の持ち主の意向を一切聞かないまま、初日最後の活動計画は立てられたのだった。

 着替える前に散々記念写真を撮られた三人だったが、何とかステージの片づけを済ませ、計画通り嵐のただ券を利用して(といっても、一品のみだったが)みんなでお茶の時間をとった。ここは大聖堂に見立てた窓のステンドグラスと飾りつけが見ものだったのだが、それもさることながら、お茶のこだわりがある喫茶になっていた。というのも、今年の入学生が発足させたお茶同好会の主力メンバーがこの1-3に集結しており、様々な種類のお茶をそろえていたのだ。
「うわーすごい。お茶の有名どころがかなりそろってるね。何にしようかなぁ」
 結構コーヒーよりお茶が好きな瞬が喜んで迷っている。爽やかな笑みで翔一郎も選ぶ。
「ほんとだな。じゃあ俺、ジャスミンティーにしようかな」
「え、ジャスミンティー?中国茶で来たか」
 意外そうにつぶやいてから、ただ券の持ち主が唸った。
「俺はシナモンティーにするかな。斗音、決めたか?」
 O型の斗音は瞬と同じくかなり迷い気味である。
「うーん、オレンジペコーもいいけど、ストロベリーティーも捨てがたいし・・・・・・」
 瞬がやや先に決めた。
「よし、じゃあきーめた。アップルティー!」
「やっぱキャラメルミルクティーかな」
 少しだけ遅れて言った斗音をくるりと振り返って、瞬が目を輝かせる。
「あ、やっぱそれ、目つけてた?俺もそれと迷ったんだけどさ、きっと斗音が頼むと思ったんだよね」
 きょとんとする斗音に、瞬がくすっと天使の笑みを見せる。
「だって、好きでしょ斗音。今年の誕生日の朝、慈恩が作ってくれたって言ってた。一口飲ませて」
「あ、うん。いいよ」
 返事がすごく上の空なのを感じた。反射的に自分の顔の筋肉が動いて、ほのかに笑みを作っているのを他人事のように感心しながら、心はそのまま時を遡っていく。
『ミルクで入れたキャラメルティーだから、美味いと思うんだ。咳込まないように、気をつけて』
 高校受験の前夜、斗音は突然の激しい咳に襲われた。それほどひどい発作ではなかったが、薬を使って抑えた。父はまだ帰っていなくて、留守番電話に明日の受験でリラックスして頑張るようにというメッセージと、そんな大事な夜に帰れなくて済まない、という謝罪のメッセージが残っていた。発作のおかげで何も食べられなかった斗音に、慈恩はそう言ってキャラメルミルクティーを出してくれた。ほんのり甘い、香ばしいミルクティーは。
『・・・・・・こんなおいしいの、初めて飲んだ・・・・・・』
 じわりと暖かくて、身体に染み渡るようで、思わず擦れ過ぎて音にならないような声で、そうつぶやいた。慈恩はいつものように、静かに優しく微笑んでいて、それ以来、キャラメルミルクティーは斗音の好物となった。懐かしい思いが込み上げる。
「斗音、斗音?」
 瞬の声に、ようやく我に返る。
「あ、何?」
 微笑んで見せたが、三人からの視線はもう心配という感情を含んだものになっていて、慌てて三人を見回す。
「え?何?俺なんか、変だった?」
 嵐の形よい眉が歪んだ。
「お前、精神的に相当疲れてるだろ」
「え・・・・・・どうして・・・・・・?」
 瞳を瞬かせた瞬間、睫毛が濡れる。隣に座っていた翔一郎が、そっとハンカチを差し出した。
「ほら、拭きな」
「・・・・・・あ、れ・・・・・・?」
 きょろきょろと瞳を彷徨わせると、瞬が痛みを堪えるように目を細めた。
「・・・・・・斗音、気づいてなかったの?ほんとに、大丈夫?」
 慌ててごまかすように笑った。
「あはは、やだな。何だろ、目にごみでも入ったかな」
 言いながらますますぼやけていく視界を止められず、焦ってしまう。思わずうつむいたら、翔一郎が優しく肩を抱くようにして、差し出したハンカチを手に持たせてくれた。
「よしよし。疲れたよな、ずっと気を張りつめっぱなしでさ。好きなお茶飲んでゆっくり休もうな」

 髪を柔らかく撫でてくれる手の優しい感覚に、目頭がじんと熱くなって、翔一郎が持たせてくれたハンカチで思わず顔を覆った。こくりとうなずく。嬉しくて寂しくて、切なかった。

 出てきたお茶たちは、やはりこだわりがあって、どれも文化祭の出し物とは思えないほどの出来栄えだった。キャラメルミルクティーはキャラメルティーをミルクで割ったものだったから、いつも慈恩が作るものよりあっさりしたものだったが、香りはよく出ていて、なかなかおいしかった。だから、斗音の気持ちもだいぶ落ち着いた。とは言っても、これもやっぱり二口三口程度で限界だった。瞬が結構飲んでくれてはいたが。一品ただで頼んだ杏仁豆腐をみんなでつつき、そこでゆっくりお茶を飲んでから、最後に藤堂属する2-2の『世にも恐ろしい呪われた教室』を観に行った。
「うわぁ・・・・・・凝ってるなぁ・・・・・・」
 翔一郎が思わず教室の扉を見上げた。張りぼてで作られた般若の巨大な顔が迎えてくれていたのだ。
「すごいなあ。立派な作品だろ、これは」
 淡紫色の髪を掻き上げながら、嵐も感嘆の声を上げた。すると、入り口で受付をしていた男子生徒がくるりとこちらに向き直った。
「ようこそ、呪われた我が教室へ・・・・・・」
「わぁああっ!」
 悲鳴を上げた瞬が翔一郎に飛びつく。その男子生徒は頭から血をだらだら流していて、右目が飛び出していたのだ。
「・・・・・・っびっくりしたぁ」
 斗音も思わず心臓を押さえた。どくどくいっている。嵐は思わずその男子生徒の右目をのぞきこんだ。
「すげー、これピン球かぁ。ニス塗って光ってるし、結構グロいなあ。みんなこんなんしてんのか?こりゃ心臓に悪そうだなあ」
「いや、そんな見方をするお前もどうかと思うよ」
 爽やかな顔を引きつらせて、翔一郎がぼやいた。
 中に入ってみると、カーテンで狭い教室が迷路状に遮られていた。あちこちの空き教室から暗幕を借りていた藤堂を思い出し、斗音は思わず納得する。
「よ~う~こ~そ~」
 高い声で弱々しく挨拶しながら、蛍光色の布を頭からかぶったものがふらふらっと出てくる。目の部分と口の部分が縦長のOの字に黒く塗られていて、なかなか愛らしい。
「これは全然怖くないよね。ていうか、カワイイ」
 ややおどおどしながら、瞬が指差す。といっても教室はほぼ真っ暗なので、そのお化けの蛍光色で何となく見える感じだ。
「よ~う~こ~そ~」
「よ~う~こ~そ~」
 ふらふらしたお化けが、たくさん出てきた。五匹、六匹と増えていく。ひょろひょろした声が重なり合って、かなり不気味な様相を呈してきた。
「か~わ~い~い~で~しょ~?」
 別の声が入り混じる。蛍光お化けの向こうに、女の子がいる。ぼさぼさの髪が鬱陶しそうだ。それをぎこちなく掻き上げながら、女生徒がこちらを見た。
「か~わ~い~い~で~しょ~?」
「ぎゃっ!」「ひっ!」
 翔一郎と瞬の悲鳴が重なった。女生徒の口は、耳までの長さで笑みを刻んでいたのだ。
「いや、俺はちょっと肯定の言葉が出てこない」
 妙なツッコミを入れる嵐に斗音が突っ込む。
「口裂け女にはかわいいって言ってあげなきゃ追っかけて来るんだよ?」
「え、マジで?」
「それはやだ」
 ほぼ同時に瞬と翔一郎が反応し、口裂け女生徒に向き直った。
「かわいい!かわいいよ!」
「う~れ~し~い~」
 口の裂けた女生徒がゆっくり近づいてくる。思わず四人で逃げ出した。
「かわいいって言ったら追っかけてこないんじゃないのかよ!」
「追っかけてこなかったら、ちっとも怖くないからじゃない?」
「そりゃ正論だ!」
 突き当りまで逃げてから、『進路』の蛍光看板に従って角を曲がる。すると、いきなり大きなロッカーが順路の真ん中においてあって、白い着物の女生徒が青白い顔で訴えてきた。
「おねがい・・・・・・、これをあけて~・・・・・・」
「あからさまに罠だな」
 嵐がやや笑みを浮かべる。
「無視して行っちゃお」
 やや卑怯な作戦を訴えるのは、瞬である。ところが、言った途端に床からむくむくと骸骨たちが起き上がってきたのだ。
「うわっ、何だ?」
 翔一郎があとずさる。全身黒の衣装の正面に、蛍光のペンキで骸骨が書いてあるのだろう。それが床に腹ばいになっていたから分からなかったのだ。彼らに足首をつかまれて、瞬がぎゃあぎゃあ叫んでいる。再び青白い顔の女生徒が訴える。
「開けてくれないと・・・・・・通さない・・・・・・」
「なかなか考えてあるね」
 足をつかまれながらも、思わず斗音が感心したように声を上げた。そして頼もしい友人を振り返る。
「ということで、嵐。開けるのは任せた」
「何で俺なんだよ」
「今までの行動からして、一番心臓強そうだから」
「いや、お前もなかなかのもんだと思うけど?」
「いいよ、譲るから」
 あっさり言ってにこっと笑った斗音に、嵐は口をへの字に曲げた。
「可愛いってのは、時に大きな武器になるもんだ」
 ぶつぶつ言いながらも、ロッカーの取っ手に手を掛けて、何の躊躇いもなく勢いよく開いた。
「うっ・・・・・・」「げっ!」「ひいいいっ!」「うわ・・・・・・」
 言葉を詰まらせた嵐は思わず手を離して、ニ、三歩後退する。悲鳴に近い声を上げた翔一郎と瞬は足首を解放されたにも関わらず固まった。斗音の顔もやや引きつる。中で首を吊って白目を剥いていたのは、執行部の仲間の一人だった。そのメイクの見事さと来たら、斗音に心臓が強いと言われたばかりの嵐をも絶句させるほどのもので、口の端から鈍い血を垂らし、舌もだらりと出していて、本当に死んでいるのかと思わせるリアルさがあった。
「こっわぁ・・・・・・」
 瞬が翔一郎にしがみついて、思わず一言こぼした。これがまた、下半身は人形と上手くつながっていて、本当にぶら下がっているように見えるのだ。またもや感心したように斗音が溜息混じりに言う。
「こんなとこで出てくるとは思わなかったなぁ・・・・・・藤堂、頑張れよ」

 その肩をポン、とたたいて、斗音は先を促した。
「ね、そろそろ行かない?通してくれるみたいだし」
 さくさくと歩き出した斗音を見ながら、翔一郎がつぶやく。
「嵐、お前あの首吊り死体、触りたい?」
 嵐が背筋を震わせた。
「まさか。正直、かなり気持ち悪いぜ、あれ」
「斗音って結構、現実派だよね。さっきも口裂け女のとき、追ってこないと怖くないとか言ってたし」
 瞬がちょっと意外そうに、自分は翔一郎の腕にしがみついたままでその背中を見つめる。嵐が微かに片目を眇めた。
「あいつにとって今一番怖いのは・・・・・・現実かもしれねえな」
 その後も藤堂が自慢しただけある凝りに凝った仕掛けの中、上から下がる逆さ生首の髪に怯えたり、「握手してください」と書いてある人形の真似をした人間の手を握ったら手首がもげるのに悲鳴を上げたり、耳なし芳一をやらされそうになったと思ったら、目の前の人間の耳が鎧兜の亡霊に引きちぎられるのを目撃したり、解剖されかけの人間が起き上がってきたりするのから逃げ出したりと、かなり恐ろしい思いをしながら瞬と翔一郎はその迷路から抜け出した。嵐と斗音はむしろその仕掛けに感心しながらときどきびっくりしていた。最後は「お疲れ様でした~」と爽やかに声を掛けてきた男子生徒がぺこりとお辞儀をした途端、その首がごとんと落ちて白目を剥いたのに瞬が卒倒しそうになり、翔一郎がへたり込みそうになり、嵐が飛び退り、斗音が目を瞠った。
「・・・・・・すごい、ほんとの頭はどこ?」
「・・・・・・・・・・・・!?」
 卒倒しそうになり、へたり込みそうになり、飛び退った三人は、まるでマジックを見たかのような反応を返した斗音を、異世界の生物でも見たかのように凝視した。
「・・・・・・お、落ちましたけど」
 しどろもどろに言う男子生徒の声は、制服の中から聞こえてくる。どうやら背の低い生徒が背の高い生徒の制服を頭の上まで着込み、詰襟を生かして頭を載せていたらしい。暗い上に、前髪の長い頭で、最初に白目を剥いているのが見えにくかったらしい。
「ああ、なるほどね。ほんとよく考えてあるなあ。細かいところまで。楽しめたよ。ここまでとは思わなかった。お疲れ様」
 最後には拍手の上、これまでの労苦を労わる言葉まで掛けて、如月高校生徒会副会長は呪われた教室を抜けた。残された客三人と、労わられてしまった首のない男子生徒は、しばらく無言のままその背を見送ってしまった。
「驚かす方を驚かせたぞ、あいつ」
「斗音って、天然だっけ?」
「少なくとも俺は今まで、そんな認識してなかったけどな」
 顔を見合わせていると、出口からひょこりとさらさらのアッシュの髪を揺らして、斗音が顔をのぞかせた。
「どうしたの?早く行こうよ」
 色白の整った顔。訝しげに首をかしげる。翔一郎が、細かく二度、頷いた。
「あ、ああ。うん、行くよ」
 思い出したように歩き出す。瞬が続こうとするのを、嵐がその華奢な腕をつかんで止めた。
「?」
「天然って言ったよな、お前」
 きょとん、と大きな瞳が見開かれる。
「天然だっけ、とは言ったかな」
「真面目に考えたんだけどな」
 嵐の眼光は射抜くように鋭い。瞬の瞳がびくりと揺れるくらいに。
「天然なのはむしろ慈恩の方で、あいつはどっちかと言うと現実派だ。普段の斗音の反応は比較的まともだぜ。今の呪われた教室だって根本的にはそうだった。けど、行き過ぎてるって言うか、今のは何か・・・…人間らしい感情がどこか欠けちまってる感じがしねえか」
「えっ?でもさっきは急に泣き出して、気づきもしな・・・・・・あ・・・・・・」
 息を詰める瞬の前で、嵐の美貌が微かに歪んだ。

「あいつの中で、何かが狂い始めてる気がする」

 長かったな、と思った。生徒会室の椅子のひとつに腰掛けて、斗音は机に頬杖を付いた。如月祭初日は大成功だ。色々あって、あっという間だったはずだったが、全身が鉛のように重い。眠りそうだ、と思った。
 全ての催し物が終わり、今は全員が片付けている最中。執行部は今日の全ての情報をここで集約することになっている。斗音は本部待機係になっていて、ここへ直接誰かが連絡を取ってきたときに対処する、という役割である。が、今のところ誰も来はしない。くらりと意識が揺らぐ。
(いけない、みんなが働いてるのに俺だけ寝てるなんて、有り得ない)

 ぶんぶんっと首を振って、乱れた髪を掻き上げた。ぎゅっと目を閉じて、眠気を振り払う。しかしその先から意識が離れていく。どうしようもない。身体が重い。座っているからいけないんだ、と思った。無理やり立ち上がる。少しだけ意識が戻った気がした。ほっとした。途端、何かが切れたみたいに何も分からなくなった。

「放送部はなかなか頑張ったみたいだな。ほんとの音楽番組みたいに、いろんなリクエスト曲に応えてたし、いろんなメッセージ伝達の役割も果たしたみたいだぜ」
「聞いた聞いた。業務用のメッセージから愛のメッセージまで」
 クスクスと笑いながら弓削が相槌を打つ。ついでに付け加える。
「今井も使えばよかったんじゃないか?」
 一日目のアンケート用紙を確認して歩きながら、生徒会長は鼻で笑った。
「俺らはそんなバカップルじゃねえよ」
「・・・・・・ほう?そうだっけか。ていうか、俺が言いたかったのはそっちじゃ・・・・・・」
 反論しかけて、弓削は今手を掛けようとした生徒会室の扉を凝視する。今井も訝しげな視線を向けた。
「今なんか音しなかったか?」
「窓でも開けてんのか?椅子が倒れたみたいな・・・・・・」
 カラカラと扉を開けた二人の目に飛び込んできたのは、倒れた椅子の傍らに横たわっている生徒の姿だった。
「斗音・・・・・・!」
 アンケートを投げるようにして机に放り出し、今井がその脇にひざまずく。そっと抱えて起こすが、完全に意識がないようだ。弓削がそっとあちこちを見ていたが、軽く息をつく。
「怪我はしてないみたいだ・・・・・・でも、頭部のどこかを打ちつけてる可能性があるな」
 無言のままその身体を抱き上げて、今井は思わず息を飲んだ。
「・・・・・・こいつ、こんなに軽いのか・・・・・・」
 力なく仰け反る首は、白くて細い。もともと肌が白くて、どちらかといえば華奢な身体つきだった。そういうイメージだったから、弓削はそんなに気に留めてはいなかったのだが、今井の言葉に眉根を寄せる。
「・・・・・・そういえば、腕とか首とか、こんなに細かったか?」
 合わせる視線は、どちらも深刻な光を宿していた。
「・・・・・・・・・・・・慈恩、か」
 弓削が吐息とともに言葉を吐き出す。今井は抱き上げた腕に力を込めた。
「無理しすぎなんだよ、この馬鹿」
 荒々しく言葉を吐き出し、ソファに華奢な身体を横たえる。そんな今井を弓削は唇を微かに噛んで、じっと見つめた。
「・・・・・・今井」
「何だ?」
 やや剣呑な表情を含んだ視線を、弓削は冷静に受け止める。
「そんな言い方、お前らしくないぜ」
「らしくって・・・・・・俺はっ・・・・・・!」
 今井の眉が吊り上がる。
「ずっと気づいてたんだ。慈恩と離れることになったときから、こいつが苦しがってることも知ってた!」
 ソファの布を鷲掴みにする。その目は白い顔で横たわる斗音に注がれる。
「俺は何度も言った。無理するなって。今朝だって言ったばかりだ!なのにこんな・・・・・・っ」
「なのに?今井、その怒りは斗音に向けてのものなのか?」
 ゆっくり、わざとらしいくらい静かな口調で言いながら弓削は歩み寄った。
「それとも」
 今井の隣に片膝をついて、陶器のように白い斗音の頬にそっと指を触れた。
「自分の想いが届かないのが悔しいの?」
「ば・・・・・・っ」
 弓削の横顔に向き直って、今井の感情が爆発しようとしたとき、その爽やか系の瞳がすっと自分たちのリーダーを射抜いた。
「馬鹿野郎、とでも言う?それこそお前のセリフにしちゃ俗っぽすぎる。それに俺は、そんなに的外れなことも言ってない」
 今井の中の沸騰しそうだった血が音を立てて冷めていくようだ。たちまち色を失う。
「お前、斗音の」
 更に言葉を連ねようとした弓削が、いきなり視線を反らした。というより、触れていたものに気をとられたのだ。ひやりと冷たいものが自分の指に触れたのを感じた。
「・・・・・・斗音」
 まるで突き放すかのような弓削の口調が、うって変わって優しくなる。触れてきた冷たい指を、もう一つの手も添えてそっと包み込んだ。その声音のまま囁く。
「・・・・・・大丈夫か。どこも、痛くないか?」
 弱々しいとしか表現の仕様がないほど微かにうなずいて、斗音は困惑したように薄茶の瞳をめぐらせる。
「・・・・・・すみません、俺・・・・・・眠くて・・・・・・自分で、覚えてないんですけど・・・・・・」
 声にも驚くほど力がない。おどおどしたように今井と弓削の間で視線を彷徨わせた。
「・・・・・・ごめんなさい、みんなが働いてるときに・・・・・・こんなとこで、寝ちゃうなんて・・・・・・」
「寝てた、だと?あの状態で?」
 今井が思わず聞き返す。弓削もさすがに険しい顔になる。その二人の反応に、ますます自分のしていたことに自信が持てなくなったらしく、斗音はやや身体を縮こまらせた。
「ご、ごめんなさい・・・・・・自分では、覚えてないんですけど・・・・・・しかもあの・・・」
「しかも、何だ」
 今井の声はあまり優しくはない。弓削は、包み込んだ手が微かに動いたのを感じた。

「・・・・・・身体が、なんだか鉛のようで・・・・・・思うように、動かせないんです・・・・・・」
「「えっ」」
 聞いた二人の声がそろった。動揺を見せたのは今井だ。
「倒れたときに、どこか打ちつけて・・・・・・?」
 弓削はまだひやりとしたままの頼りない指を握り締める。
「どこか痛いとこ、あるか?お前分かってないみたいだけどな、気ぃ失って倒れてたんだ。結構派手な音したし、ぶつけてる可能性も十分・・・・・・」
 慌てて首を振ったのは斗音だった。
「いえ、そういうんじゃ・・・・・・そう言われればあちこち痛い気は、しますけど、そんな感じじゃなくて・・・・・・身体が重いっていうか・・・・・・」
「それは疲れが溜まってるってことだ」
 突然割って入った声は、新たに生徒会室に到着したメンバーのものだった。弓削と今井が驚いたように、その声の発生源となった背後を振り返り、やや鈍さを見せながらも斗音がそれに反応した。鍛えられた体躯で肩をすくめながら、武知が付け加えた。
「俺らもめちゃくちゃハードな稽古したあととか、ぴくりとも動けなくなることあるぜ。分かってても動かせねえんだ。肉体的な疲労が限界に来てて、精神的にももう限界、とか、きっとどこかで感じてるんだろうな。半分金縛りみたいなもんだ。あれも身体を動かす指令を出す脳が睡眠状態にあるとなるもんだからな」
 ほらよ、と投げてよこしたのは、椅子の上にかけたままになっていた弓削のウインドブレーカーだった。
「ま、ないよりましだろ。少し休めば動くようになる。しばらく寝てろ」
「あれ、斗音どうしたんすか?うわ、顔色悪っ!発作?」
 更に首吊り死体としての名演技をしていたメンバーがのぞき込む。紅一点の莉紗が、有志の状況報告をまとめた資料を抱えたまま、同じようにのぞき込んで来た。どうやら武知のすぐあとに、二人でやってきたらしい。
「あ、何か飲み物買ってこようか?あったかいものでも」
 微苦笑して、斗音はわずかに首を横に振る。
「いえ・・・・・・大丈夫です。・・・すみません・・・・・・みんな忙しいのに」
 ほう、と大きく息をついて、このメンバーたちのリーダーが腰を上げ、斗音の前髪を乱すようにした。
「これはお前を今までこき使いすぎた俺の責任だ。だから俺がその分の責任は取る。いいか、命令だ。明日以降のためにも、お前は今ここで身体を休めること。そして、明日はもう少し元気に参加すること。以上だ」
 それを合図にみんなが一斉にうなずく。
「そうよ。すごく顔色悪いし、なんだかんだ言ってじっとしてられない人なんだから」
「今くらいはじっとしてなよ」
「そうだ。ていうか、眠いなら寝りゃいいんだよ。気を遣う必要なしだ」
「武知の言うとおりだ。・・・・・・おやすみ、斗音」
 最後に弓削が優しく言って、包んでいた手をそっと薄い胸の上に載せた。
「はい・・・・・・」
 やつれた微笑みのまま、斗音はそっと目を閉じた。急速に意識が遠ざかっていく。吸い込まれていく。もうもたない。最後に一言、これだけは言わなくては。そう、自分を大切に思ってくれた仲間たちに。
「・・・ありがとう・・・・・・ござい・・・ま・・・す・・・・・・」
 最後は蚊の泣く声よりずっと小さかった。その消え入りそうな声を最後まで聞いてから、それぞれ席に着いた斗音を除く執行部の現メンバーは顔を見合わせた。
「・・・・・・慈恩の分まで、って、いつも何かに取り憑かれたみてえに仕事してたからな。あんまり役に立つから俺らもありがたく働いてもらってたけど、やっぱもっと気をつけて見ててやるべきだったな」
 武知が言葉をこぼす。莉紗もやわらかそうな髪を揺らしてうなずいた。
「最近特にひどいよね。すごくつらそうなことが多いの。明日、大丈夫かな・・・・・・」
「来んなっつっても来るだろうし、ここまで頑張ってきて当日来るなっつーのも酷な話だしなあ」
「ぶっ倒れないように気をつけてやらないと、ほんと無茶する奴だから」
 言った弓削をちらりと見てから、今井はぐっと瞳を前に見据えた。
「だからこそ今休ませたんだ。明日もなるべく俺たちでサポートしよう。あいつに今まで任せすぎてた分、取り返すぞ。じゃあ、早速だけど、それぞれ今日挙げられそうな課題点、莉紗から頼む」
 こく、とうなずいた彼女は、早速手に抱えていたままの資料を机でそろえた。
「えっと、まずは有志の方だけど、苦情はないわ。むしろ去年よりずっといいって声の方が多かった。ただ、時間は抽選だったんだけど、お互いに利害関係が一致したら時間を変えてもいいんじゃないかって言う声もあったから、これは来年から当事者同士、プログラムを制作する前に申請すれば受け付けてもいいと思う」
「了解。まあ明日に関してはプログラムも出ちまってるし、変更なしで行こう。藤堂、悪い、斗音の代わりに記録してくれ。来年度への申し送り事項で処理。次、武知。出し物関係だ」
 てきぱきと今井に指示されながら、執行部が機能し始める。
「こっちもなかなか好評なものが多かったぜ。まあ、出し物に関してはクラスそれぞれのもんだからな。けど、評価が激しく両極端に分かれたのがあってな。おい藤堂。呪われた教室、怖すぎて失神者が出たらしいな。しかも二人もだ。それだけ怖いっていうのはおばけ屋敷の評価としては高いんだろうけど、やりすぎじゃねえかって声もあったぜ。ま、今日だけだし、今更苦情言ったって仕方ねえか」
 藤堂は思わず首をすくめた。
「すいません」
「ああ、正直あれは怖すぎたからな。じゃあ、来年の申し送りに。リアルすぎる首吊り死体と取れる手首や頭部は考慮すること、と。じゃあ次、弓削」
「売り物関係は、3-4の露店で生焼けのたこ焼を買わされたって苦情があった。すぐ文句言いに行って、代わりの物もらったらしいけど。衛生面から考えても、調理物は気をつけた方がいいな。喫茶はどっちも苦情なし。フリマも結構盛り上がっててよし。こっちは以上だ」
「なるほど。火を通すものに関しては、忙しいかもしれないけど責任をもって調理すること。これは明日の朝確認するぞ。じゃあ藤堂」
「あ、はい。クラブ発表では、家庭科部で実習に参加せずに出来上がったものだけ食べに来る人がいたそうで、そういうのは遠慮して欲しいそうです。ちゃんと参加料を払ってから、ということで。それから、放送部ですが、リクエストが多すぎて対応しきれないくらい盛況だったとか。明日は先着何人とかで限定するそうです。囲碁将棋は、道場破りがいたそうで・・・・・・特に問題はなかったんですけど、部長、副部長、エースが破られて泣きを見たとか。あとは特に今日のところ、報告ありません」
「ふん。家庭科部は可哀想だな。明日の朝全体に忠告。放送部は自分とこで放送してんだから、そう言えばいいだろう。てか、ほっといても言うだろ。囲碁将棋に関しても、それもいい刺激になるだろうってことで、特になし。俺は一応先生方から問題点がなかったかどうか聞いたけど、水蒸気爆発実験は観客が随分少なくて寂しかったらしいな。明日もやりたいらしいから、宣伝する許可が欲しいって顧問の先生に言われた。一応協議事項だけど、どう思う?」
「ああ・・・・・・まあ外で勝手にやるんだろうし、確かに客は少なかったろうな。昼にでもやってもらえばいいんじゃねえの?」
「諸連絡で付け加えてもらえばいいんじゃない?執行部から言うよりインパクトあると思うし」
「そうだな。先生じゃなんだから、部長にでも言わせるといい」
「俺もそれでいいと思います」
「よし、じゃあ決定。やる時間帯としてはみんなが外に出る昼食時を勧める。最初の諸連絡で科学部の部長が宣伝。じゃあ莉紗、その枠明日取ってやってくれ」
「了解。全校集会の諸連絡で空けるわ。司会で弓削くん、指名してね」
「いいよ。武田だったな」
「じゃあ明日のLove&Peace企画について、最後の打ち合わせと行こうか」
 理想的なリーダーシップで話し合いを引っ張りながら、ちらりと今井はソファに目をやった。綺麗な寝顔。しかし病的なその白さ。ほんの一時の休息なんかでそれがどうにかなるはずはない。そんなことは誰の目にも明らかだった。
(一体どうしたっていうんだ。ただでさえも身体に爆弾を抱えてるようなものなのに・・・・・・慈恩、お前は本当に知らずにいるのか。それでいいはずがないのに・・・・・・)

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三十.如月祭 その三

 翌日もからりと晴れた分、朝は結構冷え込んでいた。しかし、時間が経つにつれて気温は徐々に上がり、如月祭の二日目がスタートする頃には、みんながいい気分でいられるほどのよい気候になった。
 前日の綿密な打ち合わせのおかげで最初の全校集会も滞りなく進み、如月祭の二日目の幕が開いた。前日に出し物を終えてしまった2-3の三人衆は、心置きなく自由に如月祭を楽しむことに決めていた。
「嵐は今日最初からサスペンス喫茶に駆り出されてるから、可哀想だよね」
「あいつがいたときの売り上げが、いなかったときの売り上げの三倍あったんだってさ。だから昨日の最終打ち合わせで急遽出番が増やされたとかなんとか」
「あったりまえじゃん。嵐だよ?嵐目当ての女の子がわんさと来るでしょ。それにあの演技力だもん、参加してて面白くないわけないしね。それだけでもお客増えるし」
「今日も嵐がいるとき狙って、一回行こうよ。昨日もすごく楽しかったから」
「いいねー、行こ行こ!あ、でも混んでるかなぁ?」
 プログラムを片手に、体育館の一角で楽しげに予定を立てている。
「今日は専ら劇がメインだよね。特に最初何もやってないし、如月新喜劇見て、ちょっと早めに抜けてS.S.Sのダンス見て、急いで戻ってリング観る」
「無理だよ。絶対席残ってないって」
「むっ」
 瞬は可愛らしい顔をしかめ面にした。それでもアイドルばりに可愛らしいから、いろんな意味で大したものだ。
「じゃあ翔一郎残って席確保しててよ」
「何で俺が」
「じゃあ斗音に確保させるって言うの?こんな青白い顔してんのに、暗い体育館にずっといろっての?」
「何でお前が残るって選択肢が登場しないんだよ」
「だって行きたいの、俺でしょ?」
「どこのわがまま姫だお前は!見たいのはみんな一緒だ!」
「あ、姫って言ったな!何でそこでキングとかが出てこないんだよ!」
「更にその上行きたいのかよ、お前は!大体キングって柄じゃないだろ。よくてプリンスだ」
「翔一郎が言うとアホっぽく聞こえるから、ビミョーに腹立つよね」
「そのセリフがどうだよ!」
 半分けんか腰にさえ聞こえるこのコント気味の会話に、斗音は思わずけらけらと笑い出す。
「ほんと、息ぴったりだなぁ。どう、お笑い目指したら?」
 冗談半分に言った途端、二人が一斉に斗音に視線を向けた。
「「やだ」」
 そろい過ぎである。更に噴き出しながら、斗音は自分を抱き締めるようにして笑いを抑える。
「どうして?」
 翔一郎が、さもありなんと肩をすくめる。
「苛められるの、俺だぜ?」
 瞬は色素の薄い長めの髪が肩で流れるくらい、首を傾けた。
「俺が悪者に見えるじゃん」
 あ、自覚してるんだ、と口に出すほど斗音は浅はかでもない。ところが同じ思いをしていたのか、翔一郎が口を滑らせた。
「何だお前、分かってたの」
 瞬の可愛らしいはずの瞳が、半眼になる。あ、と翔一郎が口をつぐんだが、遅かった。
「翔一郎、ちゃんといい席確保しといてくれるんだよね?」
「え、そんな・・・・・・っ」
 翔一郎の不利は決定的だった。斗音はまだ肩を揺らしてくすくす笑いながら、瞬の肩をぽんぽんと軽くたたいた。
「いいよ、俺席取っておくから。二人で見てきなよ」
「えぇっ?でもぉ・・・・・・」
 やや不満そうな瞬をなだめるように、更に言葉を紡ぐ。
「会長命令が出てるんだ。絶っっっ対に無理するなって。格技場まで五分のために往復するのも大変だし、リングは最初から見逃さないようにって伊佐治先輩に釘刺されてるし。いい席取ってるから、その代わり写真撮ってきてよ」
 それでも瞬は微かに不服をその可愛らしい顔に浮かべていたが、翔一郎に無言でうなずいて目配せされて納得した。
「了解。ごめんね斗音。俺わがままで」
「瞬はそれでこそ瞬だからいいんだって」
 端から見ると美少年同士の心温まる会話である。一人、背の高い精悍な雰囲気の翔一郎が、思わずぼやいた。
「なに、その対応の違い」
 瞬が見ているものを魅了させるような華やかな微笑みで返した。
「普段の印象の差?」
「ええっ!」
 やっぱり絶妙なコンビだ、と斗音は心の中で確信していたが、それに斗音も含めてトリオだからこそ、かなり絶妙なやり取りが展開されているということには、気づいていなかった。
 その絶妙さに勝るとも劣らない2-6の「吉本ならぬ 如月新喜劇」は、これまたなかなかの出来栄えだった。吉本のお決まりの笑いも取り込みつつ、それ以上に新しい笑いを盛り込んだもので、会場中がずっと笑いっぱなしだった。瞬と翔一郎はもとより、斗音も気が狂いそうなほど笑っていた。しまいには瞬の肩にもたれかかって息も絶え絶えというくらいだったので、瞬は笑いながらも心配したほどだった。
「じゃあ、すぐ戻ってくるから、先にリング楽しんでてね」
 結局最後のオチまで見た瞬は、斗音に手を合わせてウインクしながら慌てて立ち上がった。翔一郎はせかされながらもややゆっくり立ち上がる。
「斗音、俺も残ろうか?一人で三人分の席、確保できるか?」
 気遣いも混じっていただろうが、半分以上本気の言葉に、斗音は肩をすくめた。
「荷物のひとつも置いとけば平気だって。早く行かないとどっちも間に合わないよ。ほら、瞬がもうあんなとこまで行っちゃってる。苛められる前に行ってきなよ」
 それが斗音の本音であることが伝わったのだろう。翔一郎はうなずいて微笑んだ。
「ありがとな、斗音。任せた」
 既にかなり離れている瞬が、こちらを向いて、はーやーくー、と叫んでいるのが分かる。長い脚を動かす速度を上げて、たちまち追いつく。息ひとつ切らさない友人に、瞬は早足で歩きながらちらりと視線を流した。
「ねえ、笑うってのはかなり体力を消費するものだよね」
 突然の振りに、きりりとした涼やかな瞳が不審げにひそめられる。
「斗音のことか?」
「ん。あんな馬鹿笑いして、腹筋が痛くなって、呼吸困難になりそうになっても、仕方ないよね」
 瞬の茶色い瞳は前を見つめたままだ。翔一郎は微かにうなずいた。
「まあ、そういうこともあるかもしれないな」
「まして、斗音みたいにちょっと体力的に弱ってたら、かなり有り得るよね」
「瞬」
 名前を呼ばれて、可愛らしい瞳が振り返った。急いでいた足も止まる。隣を走っていた翔一郎に合わせたのだ。その目の前に、男らしい精悍さを湛えたその顔に不安を載せた表情があった。
「・・・・・・やばかったのか?あいつ」
「ううん。ただ、異常だなって思ったんだ。狂ったみたいに笑ってたから・・・・・・。昨日嵐に言われたこともあったから、余計そう思うのかもしれないけど」
 瞬はゆっくり一呼吸を置いて、自分を納得させるようにうなずいた。
「馬鹿笑いすることだってあるよね。その結果息も絶え絶えになることも、それほど不自然じゃない。大丈夫だよ」
 言いながら、自分より十センチ以上も高い友人を見上げる。
「翔一郎だってそう言っただろ?」
「・・・・・・」
「残ればよかったって、思ってる?」
 言い当てられて、翔一郎は思わず唇を噛んだ。長い睫毛の影がかかるような感じで、かすかに目を伏せた瞬だったが、小さく首を振った。
「俺たちが気を遣うと、斗音は余計疲れちゃう。俺たちといる間は、斗音は絶対弱音も吐かないと思うし、つらくなっても楽しそうなフリすると思うんだ。だから・・・・・・逆にへたばってもいい時間を作った方がいいんじゃないかと思った。だからさ」
 斗音から預かってきた、正確に言えば斗音が今井から託されたカメラを目の高さまで上げて見せる。
「とっとと証拠写真とって、戻って少し様子見よ」
 にこ、と笑みを見せた瞬につられるようにして、翔一郎も苦笑した。
「お前って結構行き当たりばったりで、思いつくことぽんぽん言っちゃうタイプだと思ってたけど、意外に結構考えてるのな」
 瞬の可愛らしい笑顔に小悪魔が宿る。
「そんなことないよ。翔一郎の考えが足りないどころか、甚だしく不足してるから、一般的な俺でさえそう見えちゃうだけだって。さ、早く行こうよ」

 翔一郎の口が一瞬、金魚のようにパクパクした。言いたいことはあったが、小悪魔的な笑みによってそれは喉の奥で封じられてしまっていた。

 心配されまくりの斗音の方は、大きく伸びをして大きく息を吐いた。昨夜は疲れていたはずなのに、やはりゆっくり眠れなかった。何か物音がするたびに、ベッドの中で思わず身を硬くする。うとうとと自分でも夢だと分かる中でも、怯えている。眠ってしまえば何をされるか分からないのに、と、必死に起きようとするけれど身体は動かない。そんな葛藤の繰り返しで、明け方にはぐったりと疲れてしまっている。生徒会室でほんのつかの間の休息は取ったのだが、それも焼け石に水だった。
(それでもないよりよっぽど楽かな?)
 気持ちが少しだけ上向きだ。身体の重さも、ほんの少しだがいつもよりましな気がする。二人がいないので、とりあえず前の方に席を移してハンカチとシャープペンシルを置いてみた。これでも駄目そうなら、靴でも置いてやろうと思っている。席取りは万全だ。そこでパイプ椅子に深く背を預け、脱力した。カクン、と頭が垂れる。少し楽な気分になる。
(しばらくこうしてても・・・・・・気にならないだろ・・・・・・)
 ぴくりとも動かなくなった。その周りでは、慌ただしく人が入れ替わり、ステージ裏での猛スピードの準備が行われ、そして莉紗のクラスのリングの幕が上がった。誰もが知っている心霊写真の恐怖からであるが、斗音の目には映らない。のっけから結構客席から悲鳴も上がるが、それも耳には入らない。
「・・・・・・ちっとも動かないよ?寝てるのかな・・・・・・?」
「もういいだろ。行こう」
 体育館の後方からずっと様子をうかがっていた二人にも、もちろん気づかない。二つの影は真剣に劇に魅入っている視線の邪魔にならないように、片方は早足で、片方は背をかがめるようにしながら大股で、前の方に二つ空いている席を目指して移動した。小声で謝罪の言葉を撒き散らしながらその席に到達した瞬は、置いてあったハンカチを持って、隣の斗音の肩をそっと揺するようにした。
「・・・斗音・・・・・・大丈夫?」
 ほぼ時を同じくして更にその隣の席に静かに腰掛けながら、翔一郎も心配そうに見つめた。その目の前で、斗音はふわりと顔を上げた。
「あ・・・・・・おかえり。早かったね」
「・・・・・・早くないよ。もう始まってるじゃん」
 こそっと囁いて瞬がステージを指す。犠牲者の一人のうちへ、主人公の女性が行った際に、その子供が何かを見つけたように二階を見上げている、というワンシーンだ。斗音は大きな瞳でそれを見つめ、改めて周りを見回した。
「・・・・・・ほんとだ」
「・・・・・・・・・駄目じゃん、見逃しちゃ」
 瞬がふざけたように小突く。つられたように笑って、斗音は肩をすくめた。
「ほんとにね。一瞬目を閉じただけのつもりだったんだけど」

 言いながらステージに集中する。遅れてきた二人は思わず顔を見合わせた。

 時間は午前十一時半を少し過ぎたところ。リングの上演が終わって、みんなが今見たばかりの劇に感嘆の言葉や吐息をこぼしつつ体育館から出てくる。丁度昼時なので、喫茶が混み始める頃だ。そこで、やっと解放された嵐が合流する。昼食時は嵐がいなくたって勝手に人が入るので、むしろ嵐がいると混雑の元になるのである。
「マジで、マジで怖かったぞ、リング!」
「あれ、マジックだったよね。テレビ画面からちゃんと貞子が出てきたんだ」
「伊佐治先輩が、うちの貞子はすごいって言ってたけど、あのことだったんだなあ」
 様々に漏らす感想を聞きながら、嵐がへえ、と相槌を打つ。
「どんな風に出てくんだ?」
 やや興奮気味の瞬が身振り手振りをつけながら説明を始める。
「テレビはね、客席に分かる程度に大きいんだ。まずすごいのが、その画面がちゃんと変わるんだよ。紙芝居みたいな要領なんだけど、正直変えてるのはわかんないんだ。なのに、どんどん井戸から貞子が出てきて、少しずつこっちに近づいてくんの。もちろん、映像でもなんでもないんだよ?雰囲気出すために照明がチラチラしてたから、それが鍵なんだろうけど、見てる方にはぜんっぜん分かんなくて、ほんとに近づいてくるみたいで怖いんだよ」
「そうそう。でな、画面は紙でできてるはずなのに、破ってもいないのに、ぎりぎりまで近づいたと思ったら髪の毛がだらっと画面の外に垂れ下がるんだ。みんながぎゃあって叫んだら、ぬっと髪の毛に包まれた頭が出てきて、白い手が出てきて、白い着物が出てきて、ゆっくり全身外に出てきたんだぜ?」
「会場中、絶叫だったね」
 こちらもやはり興奮気味の翔一郎が大きくうなずく。
「それが目を剥くシーンあるだろ?本物は舞台の男に向かって顔見せるだけなんだけど、同時にそのテレビ画面にめちゃくちゃリアルなあの「目」が出てきてさあ」
「すごい悲鳴だったよ」
 うんうん、とうなずいているのは、怖いもの知らずの斗音である。瞬がじれったそうに両手を震わせる。
「ああ―――っ、もう、説明なんてしきれないよ!嵐もこっそり抜けてこればよかったのにぃ~」
「馬鹿野郎。こっちは慈恩がいなくなった分、客寄せが大変だったんだぞ」
 かなり不満顔の嵐である。俺だって見たかったんだ、とぼやく。
「みんなリング観に来てて、喫茶は確かに大変だろうね」
「別にいいじゃん、ほんとの利益競争じゃないんだから」
 瞬がこそっと言うと、嵐は美しい目をやや細めた。
「悪かったな。一応うちのクラスも賞狙ってんだよ。ユニセフに寄付する金額が大きくなれば、貢献度が高いって評価が加わるだろ」
 滅茶苦茶熱を入れているわけでもないのだろうが、クラスが一致団結するというときに、興味のない態度で輪を乱すような真似もしない。それも嵐のいいところだ。
「さて、そんなこと言ってると、斗音が飯食えなくなっちゃうだろ。喫茶は混むから露店で適当に済ませようぜ。あとで嵐のとこにも行くから、それでいいだろ」
 爽やかに割って入った翔一郎に、嵐がうなずく。
「十二時から執行部の企画だったな。何時に行けばいい?斗音」
「十分前に集合かかってる」
「ほんとに時間ないな。よし、何がいい?俺と翔一郎であの混雑突破してきてやるよ」
「え、俺も?」
 思わず聞き返した翔一郎に、嵐は誰もが見惚れるスマイルを浮かべた。
「こいつらじゃ紛れて動き取れなくなるのがオチだろ。露店だって喫茶ほどじゃないけど混んでるぜ」
「ああ・・・・・・そうだなぁ。じゃ、何にする?」
 すごく納得したのがよく分かるセリフに、やや瞬がプライドを傷つけられたらしく、可愛らしく唇を尖らせた。
「たこ焼とクレープとアイスティーミルクつきと綿飴でいい」
「へ?」
「わざと持ちにくいの選んでねえか、瞬」
「だったら氷も加えようか?」
 きょろんと上目遣いで可愛い瞳を見せる。嵐がやれやれ、と頭を掻いた。
「いいけど、ちゃんと全部食えよ、お前。斗音はどうする?」
「え、ああ・・・・・・そうだな・・・・・・」
 ちょっと困ったような迷い方をする斗音に、すかさず瞬が提案する。
「ね、俺と半分ずつにしない?割り勘で、ね?」
「食いきる自信がないなら、最初からそんなに注文しなきゃいいのに」
 ぼやく翔一郎に、瞬はべ、と舌を出して見せた。
「いろんな種類が食べたかったんだもん。よかったら翔一郎も入れてあげるよ?」
「たこ焼以外興味ないなあ」
「俺も、綿飴とかクレープはいらねえな」
 嵐がいると、翔一郎も一方的に取り残されることがないようだ。時間のない斗音がうなずきながらまとめた。
「じゃあ、クレープと綿飴はひとつずつ。アイスミルクティーもひとつ。たこ焼は俺と瞬でひとつだけど、あと二人で欲しい分足して。それ以外は翔一郎と嵐の分だから、好きに選んでよ」
「了解。よし、いくぞ」
「斗音、ほんとにクレープと綿飴食うの?瞬に遠慮しなくていいんだぞ?」
「せっかくだから、もらうよ」

 にこりと微笑んだ斗音に、翔一郎もそっか、と笑みを見せる。嵐も整った唇を歪めるようにして笑みを載せた。

 執行部の企画は当番制の交代制である。午前中フリマとリングで忙しい弓削と武知と莉紗は後半組、前日に出し物を終えてしまっている斗音と藤堂、そして午後からの出し物になっている今井が前半組みだ。やや遅れている今井に先んじて、二年生二人で準備を始める。
「アンネが見られなくて残念だな」
「うちの演劇部は気合入ってるもんなぁ」
 都の演劇祭で優秀賞を獲得したというものらしい。丁度悲劇の少女アンネというのは今回のテーマにも関わっているということで、満を持しての公演である。クラスの出し物は素人が一生懸命工夫を凝らして作るものだが、演劇部ともなるとかなり本格的なのだ。
「仕方ないよ。誰でも自分の持ち場があるんだし。嵐も喫茶に借り出されてて、リング見れなかったってぼやいてた」
「リング、なあ!すごかったよなあ、あれ!仕掛けもすごかったけど、怖いのなんのって!」
 前日一人の男子生徒を失神させた首吊り死体の言うセリフではない。
「でもさすが三年生って感じだったよ。やっぱ気合の入り方とか、アイデアのレベルが違うって言うか」
「そうそう。ところで伊佐治先輩どこで出てきたか気づいてたか?」
「それが分かんなかったんだよね」
 てきぱきと会場を整えながらの雑談に、遅れてきた生徒会長が割って入った。
「子供時代の貞子」
「え?」「あ?」
「悪い、遅くなった。セットだけはもう運び込んできたんだ」
 理知的で魅力的な笑みを浮かべながら今井は肩をすくめた。
「あ、寄付者に書いてもらう名簿どこだっけ?」
「まだここに。あと署名の方はこっちです」
「え、会長。子供時代の貞子って・・・・・・あの、過去の映像の中で主人公の手首をつかんで痣を残す・・・・・・?」
「お、藤堂、ちゃんと覚えてるじゃないか。そう、あれ。一瞬だったからな」
「そんなあ。俺、伊佐治先輩を信じてたのに」
 はうぅ、と溜息をつく藤堂に、斗音が首をかしげる。
「その発言は微妙な気がするけど?」
「何でだよ、斗音。伊佐治先輩、自分は貞子じゃない、みたいなこと言ってたの忘れたのか?」
「ああ、似たようなこと言ってたな、確かに。でも、貞子じゃない、とは言ってなかったぞ」
「だーまーさーれーたーーー」
「何お前、莉紗のこと神聖視してない?」
「えっ、いやそのっ、あのっ」

 全国でも屈指の有名進学校のリーダーたちの会話とも思えない雑談だったが、気を張らずにいられた斗音にはありがたかった。そのうち自分のクラスに少しでも貢献を、と、次々署名や書き損じ葉書などの寄付希望者がやってきて、それどころではなくなり、二日目前半のアンケート集計なども重なって、忙しさの中に斗音の意識はひっぱり込まれていった。

「さてと、はりきって新撰組観るぞ!」
 解放感に溢れた声を上げるのは嵐だ。午後の一時十分のショーにまた駆り出されたのだ。昼食を終えてちょっとバンドと演劇部を観ただけで。もちろん、瞬と翔一郎は斗音が後半組みと入れ替わる一時きっかりに、署名がてら迎えに来た。まだ後半組みがそろわないから、と躊躇う斗音は、ほとんどさらわれていくような感じで二人に連れ出され、今井と藤堂に笑顔で見送られた。
「お前は楽しんでこればいいんだって」
 今井にそう肩を押され、斗音はうなずくしかなかった。そして、「もうこれっきりだからな!どう考えても俺だけ労働時間多いんだから!俺にも如月祭を見て回る時間をくれ!」とわめいていた嵐のラストショーに参加し、今度はカンフーアクションに巻き込まれた。
「サスペンスじゃなかったの?」
 小首をかしげた瞬に、見事な太極拳をやってのけた嵐は屈託なく笑った。
「ちゃんと正体不明だった恐喝グループをやっつけたろ?あちこちにいる役者がマスターに泣きついてきて、どんな奴にやられたかって情報を渡して推理して、最終的に店の客に紛れ込んでたグループがどこにいるのか当てて見せる。で、最後に犯人捕獲。立派にサスペンスだろ?」
「前回の強盗人質事件に比べると、今回はサスペンスって言うか、推理ショーだった気がするけど」
「今回のメインは俺のアクションだからいいんだよ。あれでも一応やってる奴に習って練習したんだぜ」
「え、すごい!」
「何にしろ、これで俺は晴れて自由の身だ!何の気がかりもなく劇に集中できる」
 感情たっぷりで言った嵐に、斗音は思わず微笑んだ。
「お疲れ様。俺たちよりよっぽど覚えること多かっただろうから、大変だったよね」
 言ってから、彼にだけ聞こえるように声を潜める。
「太極拳って、誰に習ったの?もしかして、斯波さん?」
 ぴく、と嵐の肩が動いた。どうやら当たりらしい。心の底から納得する斗音である。
「あの人なら出来そうな気がする」
「あいつの前でそんなこと言うなよ」
 嵐の声も小声になる。え?と首を傾ける斗音に、柳眉を寄せて見せた。
「つけ上がると手に負えないんだよ、あの馬鹿は」
 馬鹿という言葉とはかけ離れたところにいそうだった俺様青年だったが、なんだか嵐の言葉にはすごく重みがあるような気がして、思わず笑みをこぼす。この嵐が言うのだから、本当なのだろう。そんな斗音をじっと見て、更に嵐が小声で付け加える。
「あいつがお前のこと気にしてた。悩んでることがあるみたいだったし、ストレスはよくないはずだからって。一回あいつにも診てもらったら?いい薬処方してくれるぜ、きっと。腕だけは確かだし」
 ちょっとぎくりとしながら、曖昧にうなずく。心配されているのだと痛感する。でも、あの俺様組長の何でも見通してしまう鋭い瞳を思い出すと、気が引ける。きっと全て見抜かれてしまう。そしてあの豪胆な性格だ。何があろうとも慈恩に知らせないはずがない。それが怖かった。
「なんだかんだ言って、斯波さんのこと随分信頼してるんだね」
 笑って見せた。同時に照明が落ちて新撰組の幕が上がる。片眉を上げてみせる嵐の横顔を見ながら、何とか話題を逸らすのには成功したと思った。劇が始まってしまえば、こんな他愛もない会話はいくら嵐でも覚えていないだろう。そうであって欲しいと願いながら、斗音もステージに目を向けた。
 前評判で一位二位を争っていただけあって、今井の所属する3-1の新撰組は相当見ごたえのあるものになっていた。ストーリーとしては前半の盛り上がりで芹沢鴨の暗殺、最大の山場は池田屋事件、そして山南敬助切腹を終盤の盛り上がりとし、新撰組の盛衰を簡潔に描いたものになっていた。その中でやはり異彩を放っていたのは鬼副長と呼ばれた土方歳三を務める今井だった。普段はどちらかというと比較的温厚な近藤勇の性格に近いのだが、頭脳のキレ具合や芯の強い辺りでははまり役である。これまた演技が上手い。意外性やアイデアではなく、正統派で攻めている劇だった。特に芹沢の暗殺や池田屋事件の殺陣は、相当練習したのであろう、その場面だけで拍手喝采が起きるほどの迫力だった。そんな隊士たちなのに、割とキャラが立っていてコミカルな場面を取り入れてあったりもして、ずっと見ていて飽きなかった。
「さすが、って言うか、三年の貫禄って感じだね」
 観終わって真っ先に瞬がそう嘆息した。翔一郎が大きくうなずく。
「面白かった。なんか、レベルが高かった」
「演劇部も真っ青だな。今井さん、役者になれんじゃねえか?」
「うん。かっこよかったしビミョーに可愛かった」
「沖田の血を吐く場面もすごかったね。あれ、手にスポンジとか持ってたのかな」
「ああ、結構ぼたぼたって落ちてたし、マジで吐いたかと思った」
 それぞれ思い思いの感想を口にする。斗音自身も今見た劇で頭が一杯で、つい一時間ほど前の嵐との会話をすっかりどこかへ置き去りにしていた。
「リングも新撰組も前評判に違わずってとこだよな。残るはラストのベルばらか」
「男クラだからねぇ。怖いよねえ」
「大量の女装を見るわけか」
「・・・・・・でもお金は一番かけてるからね」
 裏事情を何気なくばらしつつ、斗音が軽くフォローを入れる。三人が相槌を打つ。
「斗音は二日目の審査員にもなってるんだよね?」
「全部のクラス劇を観る条件でね」
「今んとこ、リングと新撰組はどっちに軍配が上がってると思う?」
「うーん、どうかなあ。どっちも甲乙つけがたいレベルに達してたからなぁ」
「おっと、幕が上がるぞ」
 照明が徐々に消えていき、会場中のざわめきがおさまる。光に慣れていたせいで、観客の目は真の闇に覆われ、その耳に舞踏会の華やかな音楽が聞こえてきた。するすると幕が上がる。場内から重厚なざわめきが起きた。
「これは・・・・・・ほんとに?」
 着飾った美しいドレス姿の美女たちが優雅に扇などを持ち、上品に会話している。
「・・・・・・マジかよ・・・・・・あれ、佐野先輩だぜ」
「やっぱ?でも、これは別人みたい・・・・・・ていうか、ほんとに、男?」
 実はこの男子クラス、結構男子バスケット部員が所属している。どうやら佐々や門真も美女に加わっている。
「驚いた。・・・・・・化けたもんだなぁ」
 豪奢な金髪のかつらにアクセサリー、扇にドレス。どれも手作りか安く購入したものだとは聞いているが、その凝りようときたら半端じゃない。もちろん、メイクもだ。
「思い出した。美術部と演劇部の部長もこのクラスだ」
 嵐がこっそりつぶやく。三人は思わず深くうなずいた。なるほど、と。

 宝塚仕様、とはいっても、さすがにあの派手さは無理のようで、時折ミュージカルっぽく歌を取り入れながらのストーリー展開になっており、その歌を聞くと声が野太い男子生徒だと分かり、その度に笑いが起きる。そのギャップも狙いに違いない。しかし、出来過ぎ集団にとってはキャストのインパクトの方で圧倒されまくりだった。
 美しく無邪気なマリー・アントワネットは元バスケ部のシューター岡崎、オスカルが最終的に愛することになるアンドレがバスケ部元部長徳本、オスカルに想いを寄せるロザリーが元剣道部先鋒若園、更に極めつけはアントワネットを虜にしてフランス中を揺るがせることになる美男子貴族フェルゼンが、元剣道部主将近藤と来たものだ。彼らにとってかなり身近な人たちが主要キャストを務めているだけで、もう興味津々である。
「近藤さんがフェルゼンか。並の男より背は高いし、整った顔だよな、あの人も」
「つーか・・・・・・近藤さんって・・・・・・こう見ると美男子なんだって確信するよ」
「性格とのギャップが激しすぎる・・・・・・」
 残念ながら男装の麗人オスカル・フランソワは、瀬川という元演劇部部長で、四人にとってはあまり面識のない細面の生徒だったが、この演技が絶品だった。観客全員、彼は本当に男装をしている美女なのではないかと思わされるほどだった。
 ストーリーは色々省略してあるのだが、アントワネットとフェルゼンの恋から破滅していく王家とフランス革命が起こるまでの過程が分かりやすくつながっており、なかなかよくできたステージだった。中でも斗音が驚いたのは、あの瓜生が出演していたことだ。それほど目立つ役ではなかったが、オスカルに惚れ、その最期を看取るアランという青年の役である。
(あの人がクラスの企画にちゃんと参加するなんて・・・・・・しかも割と上手いし)
 若さゆえ、オスカルに横柄な態度を見せ、無鉄砲なことをし、それでもオスカルの素晴らしさを認め、最後には惚れ込むというところが、瓜生の性格にも合っていると思った。
 ステージの素晴らしさは前評判を裏切らないものだったが、観客の度肝を度々抜いてくれたのが、いわゆるラブシーンであった。抱き合うだけならまだしも。
「あれ、ほんとにキスしてるよね・・・・・・?」
 ひく、と唇の端を引きつらせた瞬だったが、アントワネットとフェルゼン、オスカルとアンドレ、オスカルとアラン、三度にわたって男子生徒同士(には見えなかったが)の勢いに任せたキスシーンは会場中がこれでもかというほど湧き上がった。
 もちろん、そんな俗っぽいウケも交えつつ、シリアスなストーリーは結末まで目の離せないもので、最後、アントワネットがギロチンで斬首されるシーンで、ギロチンが落ちるとともに暗転し、最後のナレーションが静かに響き渡ったあとは盛大な拍手で体育館が割れんばかりだった。
「これは・・・・・・大トリにふさわしい劇だったな・・・・・・」
 思わず嵐さえも溜息をつく。斗音は知らず頭を抱えていた。
「無理だよ、このうちどれかを選ぶなんて・・・・・・」
 翔一郎がそんな斗音の背中を優しくたたく。
「さすがだなあ。俺たちも来年あんなのできるのかなあ。まあ、俺としては最後に見たインパクトもあるだろうけど、やっぱ今のベルばらがすごかったと思うぞ。凝り方が半端じゃなかったからな」
「そうだねえ。でも、工夫ってとこではリングも負けてないって」
「ベルばらはテーマもハマってるよな。何よりこれをラストにもって来た執行部に脱帽だ。でもあの殺陣の迫力では新撰組もいい線行くぜ」
 翔一郎の意見に三人がそれぞれ己の意見を戦わせ、斗音を更に悩ませる結果となった。が、そこで斗音ははっと顔を上げる。
「ヤバイ、ぼっとしてる場合じゃなかった!ごめん、俺行くよ」
 大慌てで席を立つ斗音を追いかけるように、校内に莉紗の声で一斉放送が流れ始めた。

「ただいまより二十分後に閉会式を行います。開会式同様、体育館にクラスごとに着席して閉会式を迎えられるようにしてください。繰り返しお伝えします・・・・・・」

 如月祭三日間のうち二日間にわたる文化祭の部は、大成功と言ってよかった。閉会式では、校長からこれまでの如月祭文化の部の中でここまでレベルの高いのは初めてだと絶賛され、明日の体育祭も含めて大成功は間違いないだろうと太鼓判を押された。
 LOVE&PEACE+Pleasureのテーマの下、ユニセフへの寄付金が九万六千八百二十二円を記録した3-6の変装フリーマーケットは企画優良賞を獲得し、寄付金額は材料費を差し引いたために及ばず六万三千八百円だったにも関わらず、発想の素晴らしさと毎回違うストーリーで客を楽しませたとして、2-5のサスペンス喫茶が企画優秀賞を勝ち取った。嵐の労働も無駄ではなかったようである。ちなみに企画特別賞は賛否両論あったものの、恐ろしさのレベルが非常に高かったということで、2-2の世にも恐ろしい呪われた教室が受賞した。
 また、しのぎを削り合ったバンドのひとつ、陽炎というグループが、その演奏レベルの高さと見物客動員数が桁違いに多かったということで、今年から導入された有志特別賞を取った。部活での出し物は、部活部門賞として表彰されたが、優秀賞が演劇部の「悲劇の少女アンネ」、特別賞は二日間絶やさず楽しい放送で盛り上げたとして、放送部がゲットした。
 一番注目されたステージ発表部門の結果は、技能賞が3-2の超魔術、アイデア賞が2-3の「2年3組流名(?)場面集」、努力賞が2-1「如月祭かくし芸大会」だった。そして、実質三位となる優良賞を獲得したのが3-5「リング」、実質二位の優秀賞が3-1「新撰組」、大トリを務めた3-3男子クラスの「三年三組男で作る宝塚仕様 ベルサイユのばら」が、見事最優秀賞を勝ち取ったのだった。アンケート結果もちゃんと公表されたが、実はリングと新撰組は同率で、恐怖映画を扱ったリングと、自身が信じる心に殉じた新撰組ということで、テーマを考慮の上校長の特別枠1ポイントが追加された上での受賞だった。ベルサイユのばらもその二つと相当競ったのだが、やはり大トリでのあのインパクトは強く、頭ひとつ分抜け出したといった感だった。
「個人的には優秀賞で悔しかったんだけど」
で始まって笑いをとった生徒会長の言葉は、どこまでも如月祭を創り上げた全員に対するものだった。
「けど、男クラのベルサイユのばらを見て、これは負けたと思った。練習してるときは自分たちが一番だと思ってやってたけど、上には上がいるもんだって思い知らされた。でも、最優秀賞を取ったときの3-3の盛り上がり方がやっぱり半端じゃなくて、これまでどれだけ力を入れてきたのかがみんなに分かったと思う。それこそが、この文化祭の魅力だ。その外にも、目立たなかったかもしれないけど、賞は獲得しなくてもみんなで力を合わせて、欠くことのできない食糧を提供してくれた露店や喫茶、アイデア一杯の企画やステージ、散々笑わせてくれた出し物も、有志含めてたくさんあった。今年は有志も制限したけど、去年みたいな混乱はなかったし、何よりみんなが楽しむことのできる文化祭だったと思う。ほんとは全部の企画や発表に賞を出したいくらいだ。本当にお疲れ様、と言いたい。でもまだ最後、明日の体育祭がある。今度は全員で一致団結して本気で勝ち負け競って、盛り上がって楽しんで、そしてこの如月高校の歴史に史上最高の如月祭って刻み込んでやろうぜ。そして明日の閉会式で、本当にお疲れって言わせてくれ」
 今井の言葉には相変わらず丁寧さというものはないが、親しみを感じるタメ口の生徒会長の言葉は、大きな拍手を受けるにふさわしいものだった。
「校長先生も絶賛の出し物が目白押しで、それを創り上げるまでの皆さんの努力こそが、この文化の部の成果そのものだったと思います。それではこれをもちまして、如月祭文化祭の部の全ての行程を終了します」
 破天荒な今井に比べれば丁寧で礼儀正しい斗音の文化祭終了宣言が終わり、司会の弓削の指示によって、全員が文化祭の後片付けへと向かった。
「あーやられたー、畜生。男同士のラブシーンはむしろマイナスかと思ったんだけどなあ。あそこまで潔くやられると、もう何も言えねえよ」
 本当に悔しかったらしく、今井は生徒会室に戻ってもぼやいていた。弓削と武知が肩をすくめる。
「確かにインパクトは絶大だったけど、演技の方でもミュージカル形式って工夫点でも、やっぱベルばらは上行ってたと思うよ。あの豪華さもほとんど手作りだろ。それだけでも評価できる」
「男があれだけ綺麗になるとはなぁ。それに瀬川の演技力はやっぱ大したもんだぜ。それよりも企画賞で二年に負けた俺らだって、相当悔しかったぞ。まあ、テレビのパクり企画と、オリジナルアイデア企画の違いが大きく出たってことだったけど。変装も弓削のせいで俺らのチーム全員は残れなかったしなあ」
「す、すみません」
 思わず斗音がぺこりと頭を下げると、弓削はくすっと笑った。
「仕方ない。着ぐるみを見破るお前が鋭かったってことだ」
 体育祭のプログラムを再確認していた莉紗が、紙面から目も逸らさずにつぶやく。
「悔しかったって言葉は3-5にこそふさわしいと思うんだけど」
 その場にいた執行部メンバーは思わず絶句した。藤堂が何度もうなずく。
「本当なら同率二位でしたもんね。あの仕掛けはほんと怖かったし、派手さはなかったけど最優秀狙えましたよ」
 その言葉に、莉紗は小さく溜息をついて、諦めたように笑った。
「さすがにあの男クラの団結力には敵わなかったな。あれだけのドレス、軍服、そろえるのがどれだけ大変だったかくらい、私にだって解るわ。新撰組の立ち回りだって迫力あったし、評価は間違ってないと思う。いいのよ、今回のレベルがいかに高かったかってことだから。ありがとね、藤堂くん」
 微笑みかけられた藤堂は、爽やかな笑顔を閃かせた。
「いいえ、恐怖物を扱った同士ということで」
 微妙に莉紗の笑顔が引きつる。
「・・・・・・そんなとこで同士にされたくないけど」
「はい?」
「ううん、何でもないわ」
 笑ってごまかした莉紗だったが、藤堂以外のメンバーは笑いを堪えるのに必死だった。武知はニヤニヤするのを止められないまま藤堂を冷やかした。
「何だ、藤堂、お前伊佐治に惚れてんの?」
「ななっ、何言ってんスか!」
 莉紗がくるりと藤堂を正面から見る。
「え、そうなの?藤堂くん」
 藤堂が慌てふためく。
「い、伊佐治先輩までっ!そそそ、そんな命知らずなことっ!」
「え?別に命なんて関係ないだろ」
 涼やかな声で弓削がとぼける。
「いくら今井だって、横恋慕くらいで命取ったりしないよな」
 話を振られた今井は、さあ?と両手を挙げて見せた。
「莉紗次第だろ?」
「だから、何言ってんすか、会長っ!」
 どっとメンバーが笑い出す。その中で一緒に笑いながら、一瞬莉紗の瞳が翳ったのを、斗音は見た気がした。

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三十一.如月祭 その四 (体育祭・前半)

「微熱、ありますね」
 文化祭が終了したその日の夜。淡々とした声に、斗音は心臓が固まる気がした。背にした壁が妙に冷たく感じる。
「どれくらい?」
 斗音のベッドに腰掛けるようにしていた三神は、体温計の数値が見えるように手首を翻した。
「三十七度二分。明日の朝も下がっていなければ、休んだ方がいいですね」
 熱はあるはずなのに、固まった心臓が冷えていく。胸が冷えていく。凍り付いていく。泣きそうだ。
「斗音さん?」
 やや吊り気味の、それでいて切れ長の瞳がすっと近づいてきた。知らず身をすくめる。胸に掛った十字架を、パジャマの上からそっと握り締める。
「休めるわけ、ない。明日までは、絶対に」
 言った途端、両手首をつかまれて、自分の肩の上に貼り付けるように押し付けられた。
「駄目です。あなたが健康を害するのを見逃すわけにはいきません」
 三神の目は真剣だ。手首は動かせる気がしない。力の差がありすぎる。彼が本気になったら、絶対に敵わない。それでも思わず首を横に振った。
「できない。無理してでも這ってでも、明日だけは行かなきゃいけない」
「これ以上その細い身体に負担を掛けるつもりですか。明日は体育祭でしょう?この晴天続きで空気も土も乾ききっている。砂埃もすごいでしょう。日光だって体力の消費につながる。ただでさえも衰弱しているあなたには厳しい条件だ。熱なんかなくたって、本当は行かせたくない」
 口調は淡々としている。でも眼の光はぎらぎらと形容したくなるほどに強い。・・・・・・怖い。
「や・・・・・・めて・・・よ。・・・離して・・・・・・痛い・・・・・・」
 視線を逸らさずにはいられない。今度は別の恐怖で心臓が凍りつきそうだ。
「微熱、だろ。そんなの、大したことない」
 更に三神が近づいたのが分かった。肌が触れそうだ。鳥肌が立つ。
「痛いって言ってるだろ・・・・・・離し・・・・・・っ」
「わがままを言わないで下さい。力尽くであなたを行かせないようにすることなんか、私には簡単にできる。解ってるくせに・・・・・・」
 耳のすぐ下、首筋に熱い息がこぼれるのが分かった。
「・・・・・・どうしてそんなふうに悪あがきするんです。そんな聞き分けのないことを言っていると・・・・・・」
 自分の腰の両脇に膝をつかれる。その重みでベッドが軋む。壁にそのしっかりした体躯で、身体全体を押し付けられていた。熱のせいだけではない。背筋がぞくりと寒気を伝えてくる。
「・・・・・・い・・・やだ・・・・・・嫌・・・・・・、どい・・・て・・・・・・」
「・・・・・・実力行使で、行けなくしますよ?」
 堅くて厚い胸板を擦り付けられて、呼吸が止まりそうになる。怖い。冗談めかして言っているのに、その声音は怖いくらい本気だ。これまで自分が感じていたものが嘘であれば、思い違いであればとどんなに思ったか知れない。でも、間違いなどではないとはっきり見せ付けられているのが分かった。彼の言葉を否定すればするほど、状況はまずくなっていく。気力を総動員して、震える声を自分で叱咤しながら、必死で言葉を紡ぐ。
「っ、三神・・・・・・!分かったから・・・・・・熱が下がれば、いいんだろ?だから、っ・・・ゆっくり・・・・・・休ませて・・・・・・」
 ぎゅっと目を閉じて、呼気が震えるのをはっきりと感じながら、答えを待つ。返ってきた声は、自分の正面からだった。
「・・・・・・そんなに俺が嫌ですか・・・・・・?」
 はっと目を開くと、すぐ目の前に、精悍さを漂わせる顔があった。どこか悲しげに見える。
「・・・・・・何、言って・・・・・・お前が、こんなふうにするから・・・・・・っ」
 それでも声が震えるのは止められなかった。形のよい眉が目の前で寄せられた。
「・・・・・・こんなふう?こんなふうって・・・・・・?」
 手首をつかんでいる大きな手が震えたのが分かった。
「あなたが・・・・・・逃げようとするからでしょう?そんなふうに子猫みたいに怯えて・・・・・・そんな態度をとられたら、無理やりにでも自分の方を向かせたくなる。・・・・・・可愛がって、あげるから」
「な・・・何、やっ、三神・・・・・・っ!」
 無理やり合わされた唇は少し冷たくて、まるで乾ききった砂漠の旅人がようやく水にありついたかのように、夢中で貪りついてきた。貼り付けられた手も、たくましい両脚で動きを封じられた脚も、一寸たりとも動かせる余地がない。検温をしたまま、いつものとおりボタン二つ分はだけた襟から出ている肌にも、首筋にも、キスは容赦なく降り注ぐ。
「やめて・・・・・・っ、ちょっと、何っ・・・・・・何してんだよ、三神・・・・・・っ」
 言葉を紡いだ途端、まるでそれを摘み取るように、再び唇を塞がれる。いやいやをするように首を振るが、そんなことくらいでは唇は引き剥がされない。その執拗さに戦慄が走る。このままでは危険だ、と脳がひっきりなしに信号を発している。怖い。怖い。怖い。怖い。・・・・・・嫌だ!これ以上ないくらい縮こまった身体は、小刻みに震えだす。それに三神も気づいたらしく、熱に浮かされたように貪りついていた唇を浮かせた。
「・・・・・・斗音、さん・・・・・・」
 手首の束縛が緩む。ぎこちなく動いて、その手は無意識にパジャマから見え隠れしているクロスを探って握り締めていた。カタカタ震えながら、両手で堅く包み込むように。
(助けて・・・・・・慈恩、助けて、助けて、助けて・・・・・・!)
「・・・・・・斗音・・・・・・さん・・・・・・」
 うつむいた斗音に、苦しげに歪んだ三神の表情は映らなかった。身を固くする斗音を、三神は包むように優しく抱き寄せた。やわらかいアッシュの髪にキスを埋める。
「・・・・・・あなたが好きです。・・・・・・どうしようもなく好きです。なのにあなたの瞳には・・・・・・そのクロスの彼しか映らない」
 耳元で囁かれた言葉を深く考える余裕など、斗音にはなかった。ひたすらこの恐怖から逃れることしか考えられなかったのだ。
「・・・・・・・・・・・・こんなに愛しているのに・・・・・・!」

 切なさに震える声だけが、斗音の鼓膜に焼きついた。

 けたたましい目覚ましの音でふと目を開ける。ぎこちないまでに固まった身体に違和感を覚える。
(・・・・・・?)
 自分が母の形見の十字架を握り締めていたままだということに気づいて、ゆっくり指を剥がした。体温と同化したその温度に、一晩中握り締めていたことをぼんやり感じた。眠ったような気がする。夢を見た。妙に生々しい夢で、彼に触れられる恐怖から逃れたくて、震えている夢。
(無意識のうちに、これに頼ってたのかな)
 そっと手を伸ばして目覚ましを止めた。まだ薄暗い。今朝も七時に執行部は集まらなければならない。背筋に嫌な寒気とだるさを感じて、ドキッとする。
(・・・・・・熱・・・?)
『微熱、ありますね』
 脳裏に聞き覚えのあるセリフがよぎる。
(あれ?何だ今の。どこかで・・・・・・聞いた?)
 考えながらぞくりと肌が粟立った。昨夜寝る前から、微熱があった。あったのだ。いつものように三神が検温をして・・・・・・。
(・・・・・・熱・・・・・・朝もあったら学校休めって言われて・・・・・・)
「あ・・・あ・・・?」
 どこから夢だったのだろう。混乱する。いつものように丁寧に寝かせてくれたような気もする。夢の中では、無理やり壁に押し付けられるようにキスされて・・・・・・何度も何度も追いかけてくる唇に捕まって、怖くて怖くてこのクロスを握り締めていた気がする。どちらが現実だろう。記憶が混乱している。夢があまりにもリアルで、現実との区別が付かない。
 突然鼓膜を、ノックの音が震わせた。今度はぎくりとする。
(やば、熱が・・・・・・)
「起きられましたか、斗音さん。入りますよ?」

 とっさにナイトテーブルに置いてあった花瓶をつかんだ。

 週間天気予報とはいえ、よく当たっていた。如月祭の三日間はこれでもかというくらいの晴天に恵まれたのだ。最後の一日の体育祭も素晴らしい天候の下で始められることとなった。
「我々っ、選手一同はっ、如月高等学校を担う一員としての自覚を持ち、この体育祭にもてる力の全てを懸けて!」
「先日の二日間の如月祭の締めくくりとしてのこの体育祭で、有終の美を飾るために!」
「健全な若き力を正々堂々と戦わせ、如月高校の体育祭として恥じることのないように!」
「この恵まれた晴天の下で、真剣に勝負に参加し、これまでの練習で培ってきた団結力を遺憾なく発揮し!」
「爽やかで充実した一日を全員の手で創り上げ、本日をもって我が校の歴史に刻む一日にし!」
「悔いのない体育祭、そして如月祭を我ら自身が誇れるよう、一人一人が精一杯を尽くすことを誓います!」
「選手代表、一組連合黄団団長、森壮太!」
「同じく二組連合紫団団長、福山寿士(ひさし)!」
「同じく三組連合赤団団長、近藤勇鯉!」
「同じく四組連合白団団長、宍戸由良(ゆら)!」
「同じく五組連合青団団長、一宮春富(はるとみ)!」
「同じく六組連合緑団団長、織田統和(とわ)!」
 各団長によるエール交換は、各団長の気合が大いに込められていて、大きな拍手が起こった。
「続いてエール交換。団長は各団の前についてください。順序は昨年度総合優勝の黄団から・・・・・・」
 今回も開会式の司会を務めている弓削の声をバックに、今井がうーん、と唸った。
「まあ、六人全員が平等に宣誓の言葉を言おうとするから仕方ないんだけど」
「はい?」
 本部テントの下で、突然話し掛けられた斗音が隣を見遣ると、やや小難しそうな顔をした今井の表情が映った。
「選手宣誓、長いよな」
「・・・・・・そうですね」
「全員で、我々、選手一同はスポーツマンシップに則り、正々堂々戦うことを誓います、でいいじゃねえか」
「・・・・・・そこは賢さを売りにしている如月の生徒のプライドが許さないんじゃないですか?」
「でもなんか、分かりにくくねえ?」
「まあ、校長先生と今井さんが言ったことをかっこよく短縮して一気に聞く感じですね」
「・・・・・・どう思う?」
 試すような視線を向けてくる今井に苦笑した。始まったエール交換の気合に消されないように、少し声のボリュームを上げる。
「あれはあれでいいと思いますよ。団長も自分の一言に誇りもってやってますから」
「んー・・・・・・お前がそう言うなら、そうかもな」
 どうやら本気で気にしているわけではなく、何となく思ったことを口にしただけのようだ。
「壮太が舌噛みそうになって昨日練習してたから、ただでさえも大変なのにと思ったんだけど」
 噛むほど難しくも長くもないだろうが、緊張した中で大声でとなると、思ったようには行かないのだろう。

「練習するってことは、それだけやる気があるってことです。今井さんが会長じゃなかったら、あそこで精一杯声を張り上げていたのは今井さんだったと思いますよ」
 
執行部は応援団にはなれない。仕事が多すぎるからだ。本来なら武知あたりも間違いなく団長になるべき存在なのだろうが。
「さあ、どうだかな」

 笑みをこぼす今井の表情は、言葉と裏腹に確信めいていた。つられるように微笑を載せ直しながら、喉が少し痛い、と感じた。
 
やがてエール交換が終わり、開会式が閉会した。本部テントの片隅では、放送部による連絡が始まる。
「百メートル走と走り高跳びの選手は入場門へ集まってください。委員や係の仕事になっている人は準備をお願いします」
「斗音、個人種目何だった?」
 黄色のハチマキを締め直しながら、今井が立ち上がる。
「百十メートルハードルです。今井さん、高跳びでしたよね?」
「ん。まあ」
 今井らしくない曖昧な返事に、斗音はくす、と笑う。
「頑張ってください。応援してますから」
 整った眉の片方を軽く上げて、苦笑を返された。
「今日ばかりはお前も敵だからなあ。応援されても複雑だ」
「え?」
 瞬きをして一瞬考えるようにした斗音に、短く溜息をついて見せた。
「三年男子高跳び、入賞有力候補は赤団副団長の徳本、更に一位候補は緑団の弓削」
 ああ、と思わず納得する。徳本は元バスケ部部長の上、斗音と同じ三組連合で、斗音が最も応援するであろう人物。弓削はハイジャンプのインターハイ出場選手だ。慰めようもないので、フォローすることにした。
「でも、徳本部長はそんなにジャンプ得意じゃないと思うんですけど」
 斗音の言葉に、それでも今井はあまり嬉しそうではない。
「根拠は?」
「ジャンプボール、いつも翔一郎だったので」
「お前らが入部する前は誰がやってた?」
「それは・・・・・・徳本さんでしたけど」
 今井は大きくうなずいた。
「その通り。二年生にしてジャンプボールを任されてた。今の羽澄みたいなもんだ」
「あ、そっか。あ、いえ、それでも翔一郎よりは劣るってことで」
 頑張って更にフォローを試みる。
「その羽澄の個人種目は?」
「・・・・・・高跳びです」
「団は?」
 当然三組連合、赤団である。
「・・・・・・・・・・・・あー、えーと・・・・・・」
 今井が言わんとするところを理解した斗音は、さすがに言葉に詰まってしまった。そんな斗音のさらさらの髪をくしゃっと乱して、黄団に所属する今井はふっと笑って見せた。

「ま、俺も少しでも黄団に貢献できるように張り切ってくるよ。今日は赤団の男クラにリベンジするんだからな」
 生徒会長の手が額に来なかったことに、斗音は内心ほっとしつつ、笑みを返した。
「聞き捨てなりませんね。昨日の色男、今日は本性発揮してますから。うちは強いですよ」
「フェルゼン伯が今日は団長か。ギャップが激しいことで」
 からからと笑いながら軽く手を上げて、今井は本部のテントを出て行った。その数十秒後。
「あれ、今井、もう行った?」
 司会をしていた弓削が本部に戻ってくる。赤いハチマキを揺らして斗音はうなずいた。
「弓削先輩と競わなきゃならないことを憂いながら、つい今しがた」
 逃げられたか、とつぶやくと、弓削は切れ長の目に笑みを載せた。
「いくら今井でも、これだけは俺に勝てないよ。もちろん、徳本でもね。ああ、記録でも、赤団にはトップは譲らない。ぶっちぎってやるから」
「あはは、怖いなぁ。頑張ってくださいね」
 百メートル走、ニ百メートル走、百メートルハードルの短距離レースは、学年別で一位には6点、二位には5点、といった得点になっており、最下位でも1点入る。要は、サボりさえしなければ、1点でも団に貢献できるのだ。女子の千五百メートル走や男子の三千メートル走などの長距離走は、三学年が一斉に走る。各クラス二人出てくるので、女子は三年の男子クラスを抜いた三十四人が、男子はその男子クラスの分二枠増えて三十八人が、一斉に走るわけである。その中で学年別に順位をつけるのだが、短距離レースとは違って一位には倍の12点、二位には11点(三年生のみ、出場枠数が変わるので、配点もそれに従う)という配点になり、最下位はやはり1点となる。走り幅跳びと走り高跳びは、やはり同じく各クラスから二人ずつ出てくるので、長距離走と同じ配点になる。更に、どの種目も、学年の壁を取り払った記録上での上位三名には、一位が15点、二位が10点、三位が5点、加点される。その記録が体育祭新記録だと、更に5点が追加される。よって、位置的に目立たない走り幅跳びはともかく、走り高跳びと長距離走に運動能力の優れた者が集まったし、個人競技では花形の種目と言えた。
「あ、斗音。伊佐治先輩見なかったか?」
 体育委員会の用具係の指示に行っていた藤堂が戻ってくる。二組連合の彼は、短い髪の生え際にきっちりと紫のハチマキを締めていて、当社比一・五倍で凛々しく見える。
「団旗紹介の段取りを来賓に説明しに行ったよ。どうして?」
「あ、いや、確かあの人も長距離だったと思ったから、同士で励まし合おうかと」
 斗音は思わず笑った。
「ああ、そうか。文化祭といい体育祭といい、微妙な共通点があるなあ」
「微妙・・・・・・そか、微妙・・・・・・そうだよな、微妙だよな・・・・・・」
 なんだか急に勢いがなくなってしまった藤堂であるが、気を取り直したようにぐいと顔を上げる。
「でも、お互いにトップを取ったりしたら、微妙じゃないよな。うん。伊佐治先輩も有力一位候補だし。これで行こう!」
 何で行こうとしているのか、よく解らない。とりあえず斗音は軽く微笑んだ。
「三千メートルのトップ取るのは、ちょっと大変だよ?」
 しかし、執行部一の前向き男、藤堂はいやいやと首を振る。
「サッカー部部長のこの俺が、引退した三年生に負けると思うか?悪いけど、足の速さと持久力には自信あるぜ」
 笑顔の爽やかな藤堂に、斗音は笑みを載せつつ困ったような顔をせざるを得なかった。
「んー・・・・・・確かに、赤団団長の近藤さんは期待の星だけど、引退してるよねえ・・・・・・しかも走るのが十八番のサッカー部に比べたら、剣道部なんて、ねえ・・・・・・でも、さ、走るのが十八番のバスケ部スーパーエースも長距離なんだよね・・・・・・」
「バスケ部?誰?徳本先輩?」
「ううん、三年生じゃないんだけど」
「あー、部長になった羽澄?」
「翔一郎は今から高跳び」
「あ、そう。あとバスケ部って言ったら・・・・・・」
 記憶を手繰り寄せていたらしい藤堂の顔が、みるみる青ざめていく。
「・・・・・・まさか・・・・・・東雲・・・・・・?」
「うん。たぶん、三年生ぶっちぎってトップ取ると思うけど・・・・・・去年一年生でも一位ゴールだったからね」
 何だか気の毒になってきた斗音である。明らかにがっくりうなだれてしまった藤堂を、またもやフォローする。
「大丈夫だよ、ほら、嵐についていけたら、間違いなく上位記録者に入れるし、最後の最後でもしかしたら嵐を抜いてゴールなんてことも・・・・・・」
 しかし、うなだれた藤堂の頭は上がらなかった。
「無理だ・・・・・・。俺去年も長距離に出たけど、あいつの速さは人間業じゃねえよ。付いて走るのだってたぶん厳しい・・・・・・。それに、東雲って慈恩と同じクラスだったよな。それってつまり・・・・・・」
「あ・・・・・・青団・・・・・・」
「ああっ、もう駄目だ!もし抜いたとしてもむしろ恨まれる運命なんだ!」
「あら、藤堂くん。誰かに恨まれるようなことでもしたの?」
 いきなり会話に参加してきた優しい女声に、藤堂が面白いくらいに反応した。
「あわ、いえ、あのっ」
 まさかとは思っていたが、もしかしたら、昨日武知が言っていたのは図星かもしれない。その反応を楽しむように見ていた莉紗が、くす、と笑って明るめのブルーのハチマキをした髪を揺らした。
「藤堂くん、長距離だったよね。お互い、頑張ろうね」
 一瞬目を見開いて、動きの止まった藤堂が、次の瞬間、嬉しそうに照れながら笑った。
「はい、頑張りましょう!」
 ほほえましい光景を、やはりほほえましく感じた斗音だったが、やや心中は複雑でもあった。

(・・・・・・うーん、この恋は報われるのかなあ・・・・・・?)

 近年流行った有名アーティストの曲を運動会アレンジにしたものが、広い運動場で次々と鳴り響いている。
「さあ、いよいよニ百メートル走最後の走者になりました!4レーンは白団団長宍戸くんが走ります!そして6レーンは執行部の強面、武知くんです!おおっと、両者手を振って団の声援に応えています!さあ、このレースは見ものだ!」
 放送部の実況中継もなかなか堂に入っている。個人競技が始まってからもう何度目かの雷管が派手な音を立てた。短距離走最後の走者が一斉に地を蹴る。
「さすが、二百メートルのトリを務めるメンバーだ、速ーいっ!あっという間にコーナーにさしかかるっ!これは激しいデッドヒート!緑団武知くんが速いか、いや、白団団長の長いハチマキもそのすぐ後ろではためいているぞ!んんっ?これはっ、赤団だ!赤団追い上げてきた!直線に差し掛かって一気に加速っ!あれは、昨日のアントワネットだっ!なんと凛々しいアントワネット、身軽だ、速い、速いっ!うわあ、三人ほぼ同時にゴール!決勝審判の結果はどうだっ?」
 どおおっと歓声が上がる。思わず次の出場を控えて待つハードルの選手たちが、身を乗り出して決勝審判の結果を待っている。その中で斗音は、感心したように嘆息した。放送部が文化祭の方で特別賞を取ったのが分かる気がする。実況のセンスがある。喋るのが上手いのだ。下手なアナウンサーの実況中継より、よほど面白い。
「おっと、結果が出ました!一番はなんと、赤団だ!マリー・アントワネット、昨日に引き続き大健闘ー!そして二位が白団団長ぉー!そして緑団武知くんは三位!しかし、短距離走のトリにふさわしい素晴らしいレースでした!」
「じゃあハードル入場します、立って下さい」
 入退場係を務めている整美委員がピッと笛を鳴らす。時間短縮のため、前の競技の退場に合わせて次の競技の選手が入場するのだ。曲が変わって、入退場係の笛の合図で選手たちが動き出す。
「さて、ではその間にグラウンド中央で行われている走り高跳びの様子をお伝えします。女子の方では今1メートル30センチに挑戦中です。ここまで来ると、もうほとんどクリアしている選手は残っていません。二年生黄団の応援団員澤沼さん、紫団の加賀さん、それから三年生では紫団応援団員の篠原さん、白団の葛西さん、緑団応援団員の渋谷さんの五人ですね。やはり体育大会の応援団となると運動神経のいい人がそろっているようです。そして注目の男子、現在バーの高さは1メートル70センチ。既に自分の身長に近い選手がほとんどですが、今残っているのは、脅威の一年生、青団応援団員の氷室くん。二年生は赤団応援団員羽澄くん、青団中野くん。ああ、彼は陸上部ですね。さすがです。そして中でも更に注目の三年生は、生徒会長の黄団今井くん、赤団副団長徳本くん、そして大本命のインターハイ選手、執行部員でもある緑団弓削くんが残っています。さあ、本領発揮なるか!続いて幅跳びの様子も今入ってきました・・・・・・」
 走り幅跳びは男子のみの競技である。そもそも女子は少ないので、ニ百メートル走や、斗音の出場するハードルなどの競技も男子のみの出場である。女子は百メートル走と長距離走と高跳びのみとなっている。それでもクラスで平均して七~八人ほどしか女子はいないので、十分なのだ。
「では一年生の第一レースの人、コースのスタートラインについてください」
 次は出発係の風紀委員会が声を掛けてくる。観察係の一年級長会、決勝審判の二年級長会、計時係の三年級長会が準備できたことを見事な連携で確認して、雷管を空に向けた右腕で右耳を塞ぎ、左手では直接左耳のふたをした。
「位置について、用意!」

 火薬の弾ける音が、空気をつんざく。同時に第一レースがスタートした。さすがに近い。砂埃が巻き上がるのを、無意識に腕で防ぐ。火薬の焼けた匂いがふわりと漂ってきた。風はほとんどない。それは大きな救いだった。
 
うわぁっと歓声が上がる。一人がハードルに脚を引っ掛けて思い切り転んだのだ。ズザァッと砂埃を立てた生徒は、気丈にもすぐさま立ち上がって何事もなかったかのように走り出す。残念ながら百十メートルという短距離で、最下位から追い返すことはできなかったが、すりむいた膝から血を滲ませながら、砂まみれになった青団の生徒は喝采を浴びた。思わず待っている選手も拍手を送る。しかし、斗音の手は冷たい汗を握り締めていた。
(あんな転び方したら、大変なことになる・・・・・・)

 ただでさえ落ちている体力。軽くて、朝晩の定期的な薬以外の物を使うほどではないけれど、発作の回数は最近著しく増えている。あんな埃をまともに気管に入れてしまったら、と思うとぞっとする。おまけに、ずっと治まらない微かな悪寒。確かに感じる喉の痛み。
 
レースが進む。自分の前に並んだ選手層がどんどん薄くなっていく。それに比例して、気分がどんどん滅入っていった。
「跳んだぁーっ!」
 突如空気を、興奮しすぎて割れたマイク音が震わせた。同時に黄団団席からものすごい歓声。
「今井生徒会長、気迫のジャンプ!1メートル70センチ、昨年度の自己記録更新だぁっ!」
 思わずグラウンド中央に目を向けると、今井がマットの上で起き上がるところだった。起き上がるなりガッツポーズで歓声に応える。
(あ・・・)
 はっきりと、視線が交わる。たった今自己新記録を打ち立てた彼が、にっと笑った。手の甲をこちらに向けて、もう一度小さくガッツポーズをして見せる。明らかに斗音を意識したものだった。思わず笑みがこぼれる。
「用意!」
 パァンッ、と乾いた破裂音。自分のひとつ前のレースがスタートした。ところが、放送席はハードルそっちのけである。
「さあっ、次は紛れもなく一位候補の緑団、弓削くんが、助走に入った!」
 大半の生徒が走り高跳びに注目している。斗音も例外ではなかった。その大量の視線の束の前で、弓削はやや流線型の軌跡を描く滑らかな助走で一気に速度を上げ、最後の一歩で力強く地面を蹴りつけた。しなやかに反った背は、優雅な曲線を描き、十分な高さを伴ってバーの上を通過した。うおおおおっと声が上がる。
「余裕のクリアーっ!素人の我々から見ても、なんとも美しいフォームで、弓削選手、見事1メートル70センチクリアです!ちなみに走り高跳びの体育祭記録は、1メートル85センチ。あと三段階上がったらタイ記録、四段階上がったら、新記録!弓削選手、やはり期待が持てます!緑団は踊りだしそうな勢いで大喜びだ!」

 冷めやらぬ歓声の中、ゆっくり身体を起こした弓削は、軽くTシャツタイプの体操服をはたいて付いた砂を払う。すい、と上げた視線は寄り道なしで斗音を射止めていた。彼らしいシャープな笑みを浮かべ、少しうなずく。頑張れ、と。斗音の前に、もう選手はいなかった。
「次のレースの人、コースに入ってください」

 指定された3コースに入る。一緒に走るメンバーは、普段なら何とか逃げ切れそうだが、如何せん体調は絶不調。赤団に自分の手で六点を追加するのは難しいだろう。
「斗音、頑張れよ」
 太い声が耳に入って、スタートラインに近い本部テントを振り返る。武知がひらひら手を振っていた。
「だいぶマシな顔になったぜ。待ってるときの顔のひどさと来たらなかったけどな」
 にやっと笑う。思わず苦笑した。確かに、あの執行部高跳びコンビの頑張りと励ましを目にするまでは、かなり気分が滅入っていたはずだ。
「高跳びはバーを更に上げます。さあ、その間に百十メートルハードルのレースに注目です!次に走るのは、我らが如月高校副会長、赤団椎名くん!」
 いきなり放送で名前を呼ばれ、びっくりして顔を上げる。赤団と女子の声援が沸き起こる。
「さすが、生徒会のアイドル的存在、女子の黄色い声が飛んでいます。女子からの支持率は、今井会長でも勝てません!」

 今度はどっと笑いが起きた。斗音は困惑気味の笑みを浮かべ、大きくぺこりとお辞儀をした。ガッツポーズをして見せるほど、自分に自信はなかった。ところがそれがウケたらしく、女の子の歓声が一層ボリュームを増す。
「位置について、用意!」
 鼓動が高鳴り、息を詰める。気持ちが引き締まる。怖くない、大丈夫!
 虚空に微かな煙が舞い、雷管の音が響き渡る。同時にグラウンドを蹴る。ワアッという声が各団席から膨れ上がった。
 スタートは悪くなかった。しかし横一線、ほとんど差はない。一つ目のハードル。歩幅はぴったりだった。ほとんど速度を落とすことなくクリアする。頭の中に、見たばかりの華麗な背面跳びがよぎる。あの滑らかさを再現できないだろうか。二つ目のハードルも、ぴったり三歩でたどりつく。最初に力強く、そして空では滑るように。そう、割とこんな感じだった。もう少し跳んで余裕のある方がスムーズに行きそうだ。高く、ではなくて前へ。大きく三歩。高さは変わらなくていい。強く前へ、最後の一歩で自分の身体を押し出すように。いい感じだ。無理をしなくても軽く跳び越せる。これでいってみよう。
 耳にはひっきりなしに自分を応援する声が届く。不思議と力は入らない。むしろそれが頼りなかった自分の力を補って、後押ししてくれているようだ。弓削の姿をヒントにした滑らかなフォームが、思いのほか楽に走れる。いい跳び方を見つけた。でもハードルはこれが最後。気持ちよく跳び越せた。あとは一直線に走るだけ。もうあとは何の心配もない。もう少しあの跳び方を試したかったような気さえする。力の限り駆け抜ける。ゴールテープが身体に絡みついてきた。反射的に力を抜く。詰めていた息を吐き出し、勢いよく酸素を補う。微かに気管が笛のような音を立てたのを聞いた。そこで初めて、最後の一直線が無呼吸だったのを知る。
「斗音、こっち」
 決勝審判の二年級長会メンバーが腕を引っ張った。はっと見ると、その視線に気づいたのか、田近が笑みを載せた。
「一位はここに並んで」
 軽くうなずいて、田近に指示された場所に並ぶ。そこで初めて、派手に盛り上がる歓声に気づいた。
「陸上部顔負けの素晴らしい走りでした!バスケ部とはいえ、こちらもやはりインターハイ出場選手、運動神経は並みじゃない!赤団、そして女子の大歓声がそれを証明しています!」
 はぁ、はぁと呼吸が荒いのも知った。やはり気管の奥では、ヒューヒューという微かな音が呼吸に合わせて聞こえている。思った以上に無理をしたらしい。発作が起きなければいいが、と思いながら、無意識でグラウンド中央を振り返る。目が合った途端、今井は破願して両手で小さくガッツポーズを作って見せた。すぐ傍にいた弓削は涼やかな笑みを浮かべ、数回拍手をした。更に、翔一郎が満面の笑顔で、勢いよく拳を突き上げている。知らず笑顔がこぼれた。
「やるじゃん」
 囁くようにこっそりと田近が言う。田近の所属する2-4は白団である。そこで級長を務めている彼としては、負けた自分のクラスの生徒がいる前で、おおっぴらには喜べないといった感じであった。
「ありがと」
 微笑み返したが、声帯から振動が伝わってきて、耐え難い衝動に軽く咳込む。乾いたものだったが、五、六回連続した咳に、田近は心配そうにのぞき込んできた。
「大丈夫か?」
 コクコクとうなずいて一位の旗の最後尾で座り込んだ。軽い発作だった。これ以上人目について心配されるのは、本意ではなかった。これなら、じっとしてさえいればすぐにおさまるはずだ。大体、たかが百十メートル走ったくらいで咳込んでいたら、部活もできはしない。砂埃が呼吸の最中に紛れないよう、膝を抱え、そこに顔を埋めるようにした。気管が狭まっている。粘膜が腫れ上がってきているらしい。ゆっくりゆっくり、丁寧に呼吸する。大丈夫大丈夫、静まれ。一度呼吸が遮られると、何度か咳が続く。それを繰り返しながら、じっとうずくまっていた。放送部の実況中継で、ハードルと高跳びの進み具合が分かる。

「さあ、男子高跳び。最後の一年生氷室くんが残念ながら脱落です。しかし、一年生では一位、青団に12点を見事加えました。既にバーは1メートル75センチ、これだけ跳べたらいっそ陸上部に入ってインターハイを目指せますね。さあ、次は二年生の羽澄くんと中野くん。羽澄くんからです。軽く肩を揺らして、助走に入った!応援団の長いハチマキが舞う!そして、軽やかな跳躍!これは・・・・・・いった、いった―――っ!微かに足がバーに触れましたが、揺れただけでバーは残りました!恐るべし、男子バスケ部新部長ーっ!」
 沸き起こる歓声の渦。思わず斗音も顔を上げ、振り返る。
「っしゃあ!」
 
握り締めた両手を震わせるようにして、翔一郎が叫ぶ。思わず拍手を送る。
(すごい!翔一郎、まだ残ってる!)
「バーが高くても、身長がありますからね。彼にとっては有利かもしれません。逆に、陸上部ではありますが、長身とは言えません、中野くん!陸上部のプライドを守れるか!さあ、助走開始だ!」
 青色の短いハチマキをギリ、と締め直して中野が大きく息を吸う。トン、と軽く利き足で地を蹴って、すい、と走り出す。軽やかに足を合わせ、ふわりと跳ぶ。
「軽ーい!しかし、ああっ!」
 明らかに高さが足りない。背面跳びの途中、肩甲骨がバーに当たる。バーとともにマットに転がった。
「これまでに比べてちょっと高さが足りなかったか!バーの高さは思い切りにもつながると言います。さすがにこの高さは無理か?しかし、もう一度だけチャレンジすることができます。さて、ここでハードルに戻りましょう!」
 その間に、百十メートルハードルは三年生がスタートする。放送はそのことを伝えてから、再び全校の注目をグラウンド中央に向けた。
「中野くん、軽く身体をほぐして、今、再びスタート!」
 多くの視線が見守る中、翔一郎よりひとまわり小さな身体が宙を舞った。肩甲骨はクリアしたが、次の腰の部分でバーを引っ掛ける。あぁ~っ、と語尾の下がる声があちこちから上がって消えていく。
「失敗だーっ、残念!しかし、これで二年生の決着がつきました!一位は赤団羽澄くん、二位が青団中野くん、三位は紫団の高村くんです!あとは羽澄くんの記録が気になるところですが、次は三年男子の挑戦が始まります!」
 ハードルの選手が次々とゴールしていく。放送部は応援団リーダーや全校的に名の知られた選手のレースのみ、実況をしながら、あくまで重点を走り高跳びに置いていた。既に残り少ない上、高得点の入る競技で、応援団に会長にインターハイ選手がそろっているのだ。これほどおいしい場面はない。
 まずは首を軽く回しながら声援に応える赤団副団長、徳本である。後輩の翔一郎がクリアしている分、何とかクリアしたいに違いない。真剣にバーを見つめてから、軽くステップを踏むようにして、ほぼ直線でバーに向かう。最後の一歩でくん、と向きを変えると同時に地を蹴った。翔一郎には劣るものの、バーより高い身長を誇る徳本である。勢いのある跳躍は、見事身体をバーの上まで運んだ。しかし。
「うわぁっ、最後の足が引っ掛かってしまったぁっ!無情にもバーはその身体とともに落下!あぁ~、悔しそうです。しかし、身体はほぼ通過してましたからね。二度目の跳躍に期待したいところです。三年生はまだ二人残っていますので、二度目のチャレンジはそのあとになりますね。さあ、次は自己新記録を更新してきた今井生徒会長です。黄団のみならず、全校中から声援が上がる!リーダーシップは全校一!さあ、この高跳びではどこまで残れるのか!助走に入った!」

 ものすごいボリュームの声援の中、今井はゆっくり大きな歩幅での助走をスタートさせる。徐々にスピードが上がり、歩幅はバーの位置に合わせてやや小刻みになる。そして最後の一歩で力強く身体を宙に投げ出す。専門家ではないが、こちらもテニス部元部長、インターハイ選手である。運動能力は抜群だ。宙で見事に身体をうねらせるようにして、バーの上にくる身体の部分を反らせ、しならせるように跳び越える。バーはギリギリでその身体に触れず、マットに落ちたのは今井の身体だけだった。声援が歓声に変わる。
「うわぁあ、クリアだーっ!生徒会長今井くん、またまた自己記録更新ーっ!黄団から大歓声!本人も力強く拳を握り締めています!」
「お前、陸上部にいたら全国で記録もできたんじゃないのか?」
 呆れたように弓削が声を掛ける。ふっと笑った生徒会長は、通りすがりに弓削の肩をたたいた。
「意地。張り切ってくるって言ったからな」
「誰に?」
「一番元気になって欲しい奴」
「・・・・・・ああ、そう」
 問い返すこともなくそう返して、弓削は少し挑戦的な笑みを向けた。
「それなら俺も意地でぶっちぎりの記録出さなきゃな。これだけはお前に譲らない。・・・・・・あと、ひとつだけ、忠告だけど」
 ん?と瞬きをした今井に、笑みを消した弓削がつぶやくような小声で言った。
「伊佐治、最近時々寂しそうな顔してるの、気づいてるか?お前が誰に気を取られてるか、あいつは気づいてるぞ」
 ぴくりと今井の表情が固まる。今度はその肩を弓削が軽く叩いて、その脇を抜けた。
「じゃ、ちょっと跳んでくるよ」
 無駄のない歩みで助走スタート位置に向かう弓削の整った背中を見つめ、今井は詰めていた息をほっと吐き出す。
「死に物狂いで跳んだ高さだぜ。畜生」
 弓削の落ち着いた助走には一糸の乱れもなく、慣れた流麗な跳躍は何の不安要素もなかった。
「楽勝ーぉっ!全く危なげなく、弓削くん1メートル75センチクリアだーっ!緑団から大歓声っ!」

 軽く手を挙げて緑団に応える弓削は余裕綽々といった様子で、頼もしい限りだ。
 
何かひとつ、自分に絶対の自信を持てるものがあるというのが、斗音には羨ましかった。まだ気管の笛音は治まらない。時折込み上げる咳も然り。そして背筋のだるさや悪寒が、徐々に戻りつつあった。まだ体育祭は始まったばかり。これで今日一日身体がもつかどうか、正直自信がなかった。きっと慈恩ならこんな様子の自分を放ってはおかない。熱なんて計らなくたって、どんなに普通に振舞っていたって、慈恩は斗音の不調を見抜いた。もちろん、そうなると保健室へ強制連行か、そうでなくても競技は全て棄権、本部テントの片隅の保健コーナーで、保健委員に囲まれている羽目になるのだろうが。でもなんだか今は、そんな生真面目さが懐かしい。シャツの下のクロスにそっと手を当てる。声だけの電話なら、何とかごまかせる。どんなに疲れていても、調子が悪くても、慈恩と話している時だけは明るく元気な声で応対していた。慈恩が安心してくれることを願って。会って姿を見られてしまえば、すぐにばれるだろうが。
 
その点、三神だったら多少の見た目の変化は分からない。
『起きられましたか、斗音さん。入りますよ?』
 昨夜のことが夢か現実かなんて、考えている暇はなかった。何が何でも熱があることをごまかさなければならない。三神が部屋のドアを開ける間に、斗音は花瓶の水で指を濡らした。自分ではさせてもらえない検温だが、体温計を脇に挟んで数秒後、わざとナイトテーブルに載せてあった携帯を見るふりをして、体温計をずらした。三神の目の前で、堂々と体温計を挟み直すふりをして、濡れた指先でその先端を触ったのだ。濡れていると体温計はその水が蒸発していくときに感知すべき熱を奪われ、実際よりも低い数値を示すはず。狙い通り、体温計は三十六度五分と、ほぼ平熱と変わらない数値を示してくれた。
『熱は・・・・・・大丈夫そうですね。少し肌が熱いような気はしたのですが・・・・・・』
 一瞬ぎくりとした。検温のときに鎖骨の辺りや腕の付け根、胸の辺りには直接触れられていた。その触れる部分が、日に日に面積を広げていくのも、斗音にとって不快で空恐ろしいことだった。
『今日も早く行かなきゃいけないから、もういいだろ』
 わざとてきぱきと準備を進め、調子の悪さを悟られないように振舞った。三神はしばらくそれをじっと見ていたが、小さく息をつくとそのまま部屋を出て行った。ごまかされてくれたことを知って、斗音は大きく息をついた。
(慈恩だったら有無を言わせず額合わせだよな)
 ほっとしつつ、寂しさも禁じえなかった。もちろん、三神にそんなことされたら全身鳥肌が立つだろうが。
「あああ~っ、なんと、失敗だーっ!赤団徳本くん、先ほどのジャンプで固くなってしまったか、明らかに高さが足りなかった!あぁ~悔しそうに空を仰いで大きな溜息!しかし、見事三年生の三位を獲得!副団長としての責務はきっちり果たしたと言えるでしょう!これで男子走り高跳び、残るは二年生赤団羽澄くん、三年生黄団今井生徒会長、緑団弓削くんの三人になりました!」
 放送席のアナウンスに、斗音は現実を認識する。
(うわー、徳本さん、悔しいだろうなあ。さっきほとんど跳べてたのに。しかも後輩の翔一郎は跳んでるし)
 とは言え、ジャンプ力も身長も翔一郎が上だったからこそ、ジャンプボールは彼に任されていたのだ。その実力の差は仕方がないかもしれない。
「そして、百十メートルハードル走は最後のレースになります。障害物競走ではありますが、短距離のレースはこれが最後。さあ、どの団が来るか、見ものです!」
 バーの高さが五センチ上げられる。その間に、ハードルの最後のレースが行われた。しかし、五分後そのレースの着順を覚えていられるのは、走った本人たちくらいだろう。それくらい、最後に残った高跳びの三人に注目が集まっていた。女子の方は既に決着がついていたので、尚更である。
「さあ、この三人が追加点を獲得しますが、追加点は差が大きい!緑団、黄団、赤団、奇遇にもこの信号色、果たして十五点を獲得するのはどこだ!」
 そこでハードルの選手が退場になり、同時に長距離の選手たちが入場してくる。まずは女子の千五百メートル走だ。斗音は退場した足で本部に戻る。
「よう。やるじゃねえか。相当調子悪そうに見えたのに」
 武知が磊落な笑みを浮かべ、本部席に座った斗音の髪をくしゃくしゃと乱した。
「わわ、あ、ありがとうございます」
 とっさに乱された頭を抱えるようにしながら、微かに咳をこぼす。武知が笑みを消していぶかしむようにのぞき込む。
「おい、大丈夫か?」
「はい、急に運動をしたからちょっと気管がびっくりしてるだけです」
「ふうん?ならいいけど、あんま無理すんなよ?」
「・・・・・・分かってます」
 やや深刻になりかけた斗音のアッシュの髪を、武知は更に大きな片手で掻き混ぜた。
「うわっ、ちょっと武知先輩!」
 片手でガードしながら、もう片方の手はまた込み上げた咳をこぼす唇に添えた。ふむ、と、髪を乱した犯人は腕を組む。
「今休め、とは言わないが、しばらく動くんじゃねえぞ。大声での声援も禁止だ。ここでじっと大人しく高跳びと長距離の見学してろ」
「あ・・・・・・はい」
 あっけに取られてぽかんとする斗音に、武知は表情を緩めて見せた。

「ここまで頑張ってきて、参加するなとは言わねえよ。ただ、お前がレースを待ってるときの顔が本当にひどくて、今ここに来てその咳だから、一応こう見えても心配してんだ」
 心がジン、となる。花が開くように、斗音は微笑んだ。
「いよいよもう一つの花形競技、長距離走が始まります!女子の千五百メートル走。三十四人が一斉にスタートします。もちろん、三年三組は女子がいない分男子で二人余分に枠が設けられています。ピストルが今・・・・・・鳴りました!一斉にスタートです!このグラウンドを五周、トップには15点も加点されます。楽しみですね!」
 長距離にも関わらず、ペースは決して遅くない。たちまち集団は、大きく三つくらいの団子状に分かれる。
「お、伊佐治先頭グループ。あいつも運動神経いいからなあ。この執行部、みんな運動神経良過ぎだろ」
 自分がニ百メートル走で三位だったのが気になるらしい。同類を探したいようだ。
「さあ、その間に、遂にバーは1メートル80センチ!この時点で三人も残るというのは、前代未聞かもしれません!既に体育祭記録は目前です!まずは二年生の赤団、羽澄くんから。さあ、跳べるか!」
 はっきり言って、翔一郎はいつも嵐や斗音らの目立つ存在と一緒にいるため目立たなく思えるだけで、実はかなり人気がある。それは男女問わずの人気である。彼の人柄の為せる業だ。特に二年生から、激励の声が寄せられていた。
「あいつ、背は高いし顔もいいし、モテるだろうなあ」
 ぼやくように隣で独りごちる武知に、斗音はうなずく。
「しょっちゅう女の子から手紙とかもらってますからね」
「うわぁ、マジか。彼女は?」
「さあ、今のところ、いるとは聞いてませんけど・・・・・・?」
「へえ。そういう奴がいるから、男があぶれるんだぞ。一人に決めてくれりゃ、あとは諦めもつくだろうに」
 思わず苦笑する斗音である。そんな噂の的になっている翔一郎は、やや緊張した面持ちだった。斗音の脈も速くなる。友達としても、同じ団員としても、頑張って欲しいと思う。そんな斗音の視線の先で、翔一郎はステップを踏むように助走のスタートを切り、ぐんとスピードを上げると、力強くグラウンドを蹴った。
「あっ」
 思わず小さな悲鳴を上げたのは、斗音だった。反らせているはずの背の中程で、バーに触れたのだ。そのままバーはずれ、マットで一回転した翔一郎とともに落下した。立ち上がった翔一郎は苦笑している。さすがに自分でも厳しいのが分かっているようだ。
「赤団羽澄くん、苦戦です!本来なら二年生は一人しかいないので、ここでもう一度跳ぶところですが、既に上位三名になっていますので、続いて三年生の跳躍になります。さあ、我らが如月高等学校生徒会会長の肩書きを背負う男の登場です!」
「うわー、そんなこと言われたらつれえなあ」
 言いながらも武知はかなり楽しそうである。斗音は思わず両手を握り締めた。大きな声援にまんべんなく応えながら、最後に本部テントに視線を送ってきた今井と、目が合ったのだ。硬かった今井の表情が和んだ。しかしその顔に浮かんだのは苦笑に近かった。
(ちょっと無理っぽい?)
 全校が見守る中、今井の跳躍が始まる。少ない歩数でバーまで距離を詰め、全身をバネのようにして身体を跳ね上げる。かなり強引な跳躍だった。無理やり身体をバーの上に持ち上げているような感じだ。しかし、それでクリアできるほどたやすい高さではない。翔一郎以外は自分の身長よりも上なのだ。バーが腰の位置に来たとき、失速してそのままバーと一緒にマットに身体を沈めるような形になった。グラウンド中から失意の声がこぼれる。仕方がない。明らかに能力の限界だった。
「あー、ありゃ無理だなあ」
 誰にとも言わずつぶやいた隣の執行部員の言葉に、斗音もうなずく。頑張るといったところで、人には限界がある。例えばそれは、斗音に百メートルを十秒で走ることが叶わないのと同じだ。
「今井生徒会長、厳しいか?しかし、まだチャンスはあります!そして次は緑団、弓削くん!体育祭での自己ベストは、昨年の1メートル80センチ。まさにこれから挑戦しようという高さです!一年間の成長を見せるのか、はたまた引退したブランクが圧し掛かってくるのか!助走に入ります!」
 弓削の顔に硬さはない。丁度よい緊張感を保ちつつ、自然体でいるような状態だ。とんとん、と片足で土の感触を確かめるようにしてから、軽いフットワークですんなりバーまで近づき、まるで美しい鳥が一瞬にして水面から舞い上がるかのように、無理のない華麗な曲線をバーの上に描く。
「完璧だな」
 嘆息とともに武知が独語する。うなずく斗音も全く同感だった。むしろ、まだ全然いけるという印象だ。
「自分の背より高いバーを跳ぶなんて・・・・・・」
 
くるんと一回転して、身体をマットに沈める。無意識であろう、バーが載っているのを確認して、涼やかな弓削らしい笑みを浮かべた。
「軽いーっ!なんとも滑らかなジャンプ!これで緑団は圧倒的に有利になった!緑団は狂喜乱舞ーっ!」
 そんな歓声の中、女子の長距離が次々とグラウンドを駆け抜けていく。既にトップは三周目に入っている。
「女子精鋭の集まる長距離も、今折り返し地点といったところ!現在トップは紫団ですね。しかし、後続がほとんど差をおかずついて走っています。赤団、青団、黄団の三名が追いかけている状態!紫団は三年生の元陸上部員梅津さん、赤団は二年生陸上部の大曽根さん、青団は三年生執行部員、元バレー部部長の伊佐治さん、黄団はやはり三年生、応援団員の東さん!この四人がトップグループと見ていいでしょう!全くスピードは落ちません。あと二周半です!」
 そんな実況の中再挑戦の翔一郎がくるりと頭を回してバーを見つめた。軽く肩を上げ下げする。
「頑張れ、翔一郎!」
 大きな声は禁止されていたはずだが、つい叫んでいた。それでも届くか届かないかの団席の盛り上がりである。一瞬翔一郎の動きが止まった気がした。何か首をかしげている。それで何かを探すように視線を彷徨わせたが、くるりと振り返った。こちらに向かって爽やかに微笑む。
「・・・・・・聞こえたのか?」
「え・・・・・・そう、かも・・・・・・」
 前でぎゅっと拳を握って見せる。翔一郎の笑みが満面に咲いた。こちらも軽く拳を挙げる。斗音もふわりと微笑んだ。
「うん、頑張れ」
 今度はつぶやいただけだったが、彼はうんうん、というように軽くうなずいた。
「・・・・・・いい奴だな。あいつ」
 武知の淡々とした言葉は、むしろ様々な感情が込められているようだった。斗音は頭を垂れるようにしてうなずいた。
「・・・・・・はい」
 はた、と机に透明な雫が落ちる。どうして翔一郎が、あの大歓声の中、自分を探してくれたのか。どれだけ自分のことを気にしてくれているのか。唐突に、痛烈に思い知った。頭に重いものが乗っかってきて、さっきと同じように自分の髪を軽く乱した。
「大きく翻った赤団の長いハチマキ!いった!羽澄くんクリアーっ!」
 放送席の興奮しまくった実況で、翔一郎が難関を跳び越えたことを知る。
「結構綺麗に跳んでたぜ。すげえな。ハイジャンでインハイ狙えるぞ、あいつ」
 さりげなく頭の上の手の主が、目の代わりをしてくれる。その手が、ぐいと肩を抱き寄せるようにして、今度は耳元で武知の声がした。
「・・・・・・こっち見て笑ってるぞ」
 ゆっくり顔を上げると、睫毛に絡まった雫が光を乱反射させ、ひどくまぶしかった。その中でたった今、昨年の陸上部エースが打ち立てた記録に並んだ友人が、嬉しそうに笑みを載せて、サムズアップした指を横に倒した状態で突き出して見せた。応えるように、うん、とうなずく。もう一度深くうなずいて、こぼれる涙をそっと拭った。再び顔を上げたとき、そこには心からの微笑みがあった。

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