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二十四.絆だから

 夏の日差しはまだまだ衰えないように見えるが、それでも確実に朝と夕の気温は下がってきていた。八月三十日、世間の学生たちにとっては、なかなかに切ない夏休みの終焉が迫る日である。しかし、椎名兄弟にとっては、切ないどころか、快晴のその空さえどんよりとした曇りに思えるほど、心が塞がれている日だった。
 引越し業者が持ち出したものは、慈恩が所有していた本や衣類、小物やコンポなどの自分専用の電化製品、竹刀や防具くらいだった。ほとんどの物は斗音と共同で使っていたし、九条家には何不自由のない設備がそろえてあり、慈恩が持って行くものなどほとんどなかった。防具を別にすれば、せいぜい段ボール箱にして七~八箱程度である。
 
絢音と雅成も、斗音に挨拶しがてら、手伝いに来てくれていた。絢音が、如月バスケ部のインターハイ最後の試合にいたく感動したらしく、ひたすら斗音にその感動っぷりを身振り手振りで説明しているのを見て、雅成と慈恩はやれやれ、と肩をすくめた。
「もう、お忘れ物はございませんか?」
 九条から高級車で、慈恩の迎えに来ていた執事らしき初老の男性が、丁寧に慈恩に声を掛ける。
「・・・・・・たぶん、いいと思います。もし何かあったら、また取りに来ますから」
 慈恩は自分が十七年の月日を過ごしてきた家を、目に焼き付けるように見つめた。優しかった家族。自分を育んでくれた家。そして、両親の思いを受け、兄を守ることを己の使命としてきた二年間。それを自分は今、全て手放そうとしている。
「何か気づいたら、連絡してよ。俺、準備しとくからさ」
 にこり、と斗音が笑った。それが心からの笑みでないことくらい、よく分かる。それでも慈恩は、この場面で笑顔を作る余裕はなかった。斗音の天使のような微笑みをじっと見つめる。その白い首には、プラチナの鎖がかかっている。
『これ、お前に返さなきゃな』
 昨夜そう言ってかけてやった、母の形見。ずっと肌身離さなかった、十字架。斗音は驚いて、大きな薄茶の瞳で見つめ返してきた。
『どうして。これ、母さんが慈恩に持ってろって渡した形見だろ?』
 胸が潰れそうな思いで、慈恩はそれでも斗音のために微笑した。
『・・・・・・俺だけ、本当の家族じゃなかったからな。・・・・・・母さんが言ったこと、覚えてるか?これが、私たちとあなたをつなぐもの・・・・・・。そう言って俺に渡した』
 斗音の表情が一瞬硬くなる。そんな彼のやわらかい髪をそっと撫でた。
『これが俺と・・・・・・椎名家をつないでいた。だけど、もう俺は椎名を名乗れないから。椎名の家を守っていかなきゃいけないのはお前だから。だから、お前に返す』
 それでも斗音は納得しなかった。慈恩の言った言葉に、その綺麗な瞳を潤ませながら言い返してきた。
『だったら尚更・・・・・・!これは母さんと・・・・・・この椎名の家とお前をつないでる絆だろ?間違いなくつながってるっていう、絆の証なんじゃないのか!』
 絆。そう、絆だった。斗音を最期まで守りたかった母の思い。そして、自分はそれに誓ったのだ。母の思いを引き継いで、斗音を守ると。その思いこそが、母と、そして椎名の家と自分をつなぐ絆。
『絆だから・・・・・・その十字架(クロス)は、ずっと俺が守ろうとしてた気持ちそのものだから』
 斗音の瞳から零れ落ちた、透き通った雫を、そっと指で拭った。
『母さんの思いと、俺の思いの分、ちょっと重いかもしれないけど、お前を守りたい気持ちがここにある』
 零れ落ちる雫が、とても指では拭いきれなくなって、頭を抱え込むようにして抱き寄せた。
『忘れないでくれ。俺たちがずっと、お前を大切に思ってること。・・・・・・だから、自分の身体を大事にするって・・・・・・この十字架に誓って欲しい』
 そっと華奢な肩を押し上げると、ぐっしょり濡れた睫毛を瞬かせて、斗音はしっかりと頷いた。そして微笑んだ。
『・・・・・・俺の大事な人たちの思い、ちゃんと忘れないように、今度は俺が、これを肌身離さず持ってる。きっとお前の思いが、俺を守ってくれる』
 そう言った斗音を、思い切り抱きしめた。約束だぞ、と、言葉にする代わりに。
「お荷物は以上ですね。では九条様のお住まいへ移動させて頂きます」
 引越し業者も一流どころなのだろうか。言葉遣いが非常に丁寧である。その言葉が、慈恩を現実に引き戻した。
「斗音さん、三神の運転する車はこちらに置かせて頂きますから、好きな時に使ってくださって構いませんわ。あちらの片づけが終わってから来る家政婦の沢村と、この三神には、よく言ってありますから、何でもお言いつけになってね。ちゃんと間に合う人たちのはずですから」
 手伝いを終えて、自分たちの脇に控えていた三神を突き出すようにした絢音の表情には、申し訳なさが一杯である。自分たちの事情から、この二人を引き離すことになってしまった。だからこそ、自分たちにできることは何でも、精一杯にしたいという思いでいるのだろう。斗音も慈恩も丁重に断ったのだが、沢村と三神の給料はもちろん、彼らが椎名家で使う食料費やガソリン代など、全ては経費として九条家の通帳から落ちることになった。斗音自身が使う分には、今までどおり、父の遺してくれた遺産を、と考えていたのだが、絢音も雅成も、そんなわけにはいかない、と、毎月一定額を椎名家の口座に振り込むことを強引に決めてしまった。
「公の形では、僕たちは慈恩くんだけを引き取ることになるけど、僕たち自身そんなつもりはないから。九条の家に関わるのは慈恩くんだけど、それ以外のことに関しては、斗音くんも慈恩くんも一緒だよ。できる限り私たちの力で彼を養っていきたいんだ。散々わがままを言ってるんだから、これくらいさせてもらわなきゃ、僕たちは気がひけて気がひけて、旧家九条の名を堂々と名乗れない。君たちがどんなに要らないって言っても、それだけはさせてもらうからね」
 雅成は断言した。更に困惑する慈恩と斗音に、苦笑を見せて。
「逆に言えば、そんなことしかできやしないんだ。これもわがままかもしれないけど・・・・・・もうひとつくらい、わがままが増えてもいいだろう?」
 その言い方が雅成の誠意の表れであって、それを断ることが、雅成と絢音の、九条の人間としての、そしてこれから慈恩の親になる人間としての尊厳を傷つけることがよく理解できたから、それ以上二人は何も言えなかった。
「絢音様、雅成様。そろそろ業者が出るようですが」
 静かな三神の声に、絢音ははっとして振り返った。
「いけない、待たせてしまいますわね。それじゃ、慈恩さん、行きましょうか?」
 そう声が掛かるのを、ずっと覚悟していた慈恩は頷いて、斗音の肩にそっと手を置いた。
「何かあったら、いつでもいいから、すぐに連絡しろよ。何してても、最優先にして来る」
 真摯な眼差しを受けて、斗音は微笑んだ。
「そうする。でも、環境が変わって大変なのは慈恩の方なんだから、そっちこそ身体に気をつけて。何か連絡あったら、俺も飛んでくからさ」
 そんな無理をさせるわけにはいかないだろう、と慈恩は頷きながら思わず苦笑した。それを見て斗音がくすっと笑う。
「やっと笑ったね」
「・・・・・・斗音・・・・・・」
「慈恩はしょっちゅう笑うタイプじゃないけど、でも」
 少し迷うようにしてから、斗音は屈託ない笑顔を見せた。
「お前の笑ってる顔、俺、好きだよ」
「・・・・・・」
(そんな笑顔で言われて、どんな顔しろっていうんだ)
 兄と慕って、大切にしてきた人間と分かっていながら、抱きしめてやろうかと思った。そんな気持ちを紛らわすように、そのアッシュの髪をくしゃくしゃに乱してやった。
「肝に銘じておくよ」
 何すんだよ、とサラサラの髪を整える斗音を見つめて、心の底から微笑む。
「じゃ、行ってくる」
 まるで、戻ってくるかのような言い方に、斗音は思わず髪に伸ばしていた手を止めた。
「あ・・・・・・うん」
 雅成と絢音に付き添われて、高級車に乗り込んでいく長身の姿に、斗音は妙な感覚を覚えた。
(・・・・・・慈恩って、品があるなあ)

 高級車に乗り込む姿の違和感のなさに、やはり九条の血を引いているのだと納得する。思わず昨夜受け取った十字架を、カットソーの上から握り締めた。それには慈恩の気配があるような気がして、自分から遠ざかっていく引越し業者のトラックと、黒いベンツが視界から消えるまで、心が離れずにここにいるのを確かめるように、ずっとそうしていた。そんな斗音を、鋭い切れ長の瞳がやや不審そうに捉えていた。

   ***

 ずっと泊まり込みで椎名家に滞在することになった三神には、父親の使っていた書斎を提供した。三神は非常に丁寧で、礼儀をわきまえている青年だった。
「私の荷物まで置かせて頂いて申し訳ありません」
「そんなこと。俺が九条さんたちにしてもらってること考えたら、これくらいなんてことないよ。父さんの荷物は慈恩の部屋に移したし、一階の方がいろいろ都合いいと思うから」
「ありがとうございます」
 沢村は通いで朝の六時半から朝食を作るために来てくれることになった。そして夕食の片づけを終えて夜の八時には帰宅する。その間、洗濯や掃除などをするのは彼女である。もちろん、彼女にも家庭があるので、ずっと椎名家にいるわけではなく、洗濯や掃除など、終えてしまえば一度家に戻って家の仕事もするらしい。そしてまた買い物をして夕方にこちらに来るのだ。なので、ちゃんとした控え室は必要なかった。どうしても置きたい荷物があったりする場合は、三神の使う部屋を兼用するという謙虚さである。

 とにかくその日は色々なことを確認したりして、あっという間に過ぎていった。斗音としては、慈恩がいないことを思い返しているほどの暇がなくて、かえってありがたかった。
 
沢村の作ってくれた豪華な料理を、三神と二人で食べる。沢村はちゃんと家で食べるらしい。海老のマヨネーズ和えやワンタンスープ、手作りシューマイや中華風の豆腐サラダ、チャーハンなど、中華で統一された数々の品は、どれも中華料理店にひけをとらない出来映えだった。
「すごいね、沢村さん。慈恩も料理上手かったけど、沢村さんはプロって感じだ」
 斗音が言うと、沢村も謙虚ながら嬉しそうだった。
「そうですか?ありがとうございます。私、料理が趣味なんです。ご希望のものがありましたら、お言い付け下さいね。お好きなもの、お作り致します」
「俺、そんなに好き嫌いないけど、喘息の発作を起こしたりすると、慈恩はいつも栄養満点の雑炊っぽいもの、作ってくれたんです。消化しやすいものって。そういう時以外は、何でも大丈夫だと思いますよ」
 何気なく丁寧語を使う斗音に、三神が口を挟んだ。
「斗音様、沢村には丁寧な言葉でなくて結構ですよ。もちろん、私にもです。私たちはあくまで使用人でございますから」
 斗音は思わず、言葉を詰まらせた。三神が続ける。
「お呼びになられるときも、沢村、三神、で結構でございます」
「あ、えっと・・・・・・」
 今日一日は二人とも、何を言われても、ほとんどはい、はいとしか言わなかったので、気にも留めなかったのだが、普通はそうなのかもしれない。斗音はしばし悩んだ。そして悩んでから、苦笑した。
「でも俺、そういうの慣れてないから、年上の人を呼び捨てとか、難しいなあ。それに」
 アッシュの髪をさらりと掻き上げて、照れたように笑う。
「『斗音様』ってのもなしね。なんか、背中がかゆくなっちゃうよ。斗音でいいから」
「・・・・・・・・・・・・」
 三神は一瞬言葉を失った。そして、苦笑する。笑うと堅苦しい雰囲気が和らいで、やや緊張気味だった斗音もほっとする。
「使用人が主人を呼び捨てで、主人が使用人をさん付けでは、あまりにも様になりませんが」
「え、あ、あれ?」
 自分なりに考えたつもりだったが、かなり甘かったらしい。沢村がその慌てぶりの可愛らしさに思わずふふ、と笑みをこぼす。三神もくすっと笑った。
「斗音さん」
「え、なに?」
 どこまでも主人の自覚のない斗音に、三神は笑みを湛えたまま言葉をつないだ。
「そう呼ばせて頂いて、よろしいですか?これでも駄目ですか?」
「あ・・・・・・ううん。それなら大丈夫・・・・・・かな?」
 ややつり気味の切れ長の目が、優しく笑っている。ボディーガードも務めていたというから、かなり怖いのかと思っていたが、そうでもないらしい。そんな斗音の返事を待ってから、静かに頷いた。
「ではその呼び方で失礼させて頂きます。でも、私たちは使用人ですから・・・・・・」
「そんなこと言っても、雇ってくれてるのは九条家だし、俺、二十歳以上年上の人を呼び捨てには、きっとできないよ」
 やや困惑気味の斗音に、沢村は優しいおばさんらしくにっこり頷いた。
「ご無理をなさらなくて結構です。斗音さんのお好きなようにお呼びください」
 斗音がほっと笑う。
「よかった。ありがとう」
 しかし、三神はかなりこだわりがあるようだ。
「私は・・・・・・やはり気持ちの上でもけじめをつけたいのですが・・・・・・」
「三神さんじゃ、駄目?」
「・・・・・・私は常にお仕えする身ですし、その辺はしっかりしておいた方がよろしいかと。それに、斗音さんと二十も三十も離れているわけではございませんから・・・・・・」
「あら、いやだ。自分だってちょうど十歳離れてるくせに。それじゃあまるで私がおばちゃんだって強調してるみたいよ?」
 何気ない沢村のツッコミに、斗音は思わず笑った。そして、まだ戸惑いを浮かべたままで小首をかしげる。
「分かったよ。努力する」
 三神は冷静に頷いた。

「わがままを申し上げてすみません。よろしくお願いします」

 沢村が帰宅の途について、斗音が入れるというのを許さず、三神が風呂を入れた。
「風呂くらい、自分で入れるのに」
 肩をすくめる斗音に、三神は小さく首を振った。
「本来なら沢村の仕事です。しかし、沢村には帰宅時間がありますので、その代わりを私が務めるのは当然でございます」
 あまりにも丁寧な言葉遣いに、斗音は苦笑いを浮かべる。
「そんな最上級の敬語じゃなくていいよ。ここは大金持ちの旧家じゃないんだから。せめて、『です・ます』くらいで」
「斗音さんがそうお望みなら、そうします」
「うん、望む。あんま堅苦しいと、俺家でも息詰まっちゃうからさ」
 屈託ない笑みを見せる斗音に、三神は唇を歪めるようにして笑みを載せた。
「分かりました」
 三神が入れた風呂加減はちょうどいいくらいで、斗音は少し、任せてよかったと思った。どの道泊まり込む三神も風呂に入るのだから、とんでもない熱さの風呂を入れたりしたら大変だ。ちゃぷん、と浴槽に浸かって吐息する。長いような短いような一日だった。慈恩はいないけれど、三神や沢村がいてくれることで、この広いうちにたった一人にならずに済んでありがたいと思った。もし一人だったりしたら、それだけで慈恩のことを思い詰めて、ストレスで発作を起こしかねない。
「馬鹿だな、俺。普通、兄弟ったって、離れるのにここまで思い詰めたりしないよな」
 大きな溜息をつく。今頃彼もこうして、豪華な風呂に入っているだろうか。夕食の支度もしなくていい、身体の弱い兄を気遣って、もう少し読んでいたい本を閉じなくてもいい。気楽というには程遠いだろうが、自分と離れたことで解放されたことも多いはずだ。
(俺だって、三神さんや沢村さんが色々してくれるから、今まで以上に何もしなくていいし)
 これ以上変わった状況をくよくよ悩んだって仕方ない。今の状況を楽しまなければ。そう自分に言い聞かせて、ざぶん、と勢いよく浴槽から上がった。
「三神さん、風呂、熱いうちに入ってきたら?」
 濡れた髪をタオルで拭きながら書斎をのぞき込むと、手にしていた本をパタンと閉じて三神が立ち上がった。慈恩よりかなり背は高いだろう。
「ありがとうございます。斗音さん、三神、で結構です」
「あ、ごめん。湯加減、丁度よかったよ。俺がいれると、熱すぎることがあるからさ。任せてよかった」
 にこりと笑うと、三神もすっと線を引いたような薄い笑みを浮かべた。
「もうお休みになりますか?」
「ううん、もう少しテレビ見てぼーっとしてると思う」
「分かりました。お休みになるときは教えてください。絢音様と雅成様から言いつかっていることがありますから」
 やや意味ありげに、じっとパジャマ姿の斗音を見つめる。首をかしげてから、斗音は頷いた。
「・・・・・・うん、分かった」
 ブルーのワイシャツとスーツのパンツを手にして風呂に向かおうとする三神に、更に首をかしげる。
「パジャマとか、着ないの?」
「あなたがお休みになるまでは私の仕事の時間ですから。着替えるのは寝るときだけです。もう少し、起きているんですよね?」
 大真面目に言う三神に、斗音は大きな目を更に見開く。
「そうなの?なんかそんなこと言われたら、俺寝なきゃいけない気がする・・・・・・」
「いえ、私があなたに合わせるのです。あなたが私に合わせる必要はありません。使用人たる者、主人の前でパジャマを着ているわけにはいきませんから」
「律儀だなぁ・・・・・・俺は別にパジャマでも構わないけど・・・・・・風呂上りにそんな堅苦しい服、やじゃない?」
 三神は苦笑した。
「それはそうかもしれませんが、それが私の仕事です」
「仕事かぁ・・・・・・。仕事って、大変なんだな・・・・・・」
 つぶやくように言って、187㎝の長身を見上げる。
「それが三神さんのプライドなんだろうな。俺がどうこう言うことじゃないかもね」
 言って、慌てて訂正する。

「あ、と、また間違えた。ごめん」
 
そして無邪気に笑った。
「でも、もし三神が気楽な方がいいと思うなら、俺は何着てもらっても構わないからね」
 切れ長の目をやや大きくして、三神は斗音をじっと見つめた。数秒だったのだが、あまりにも見つめられるので、斗音は困ったように首をかしげる。
「俺何か、間違ったこと言った?」
 その言葉に、はっと我に返ったように、三神は首を振った。
「いえ・・・・・・いろいろ、驚いて」
「驚く?」
 三神の鋭い顔に苦笑が宿る。
「使用人としてそんなふうに気を遣って頂いたのは初めてです。それに」
 苦笑が、すっとシャープな笑みに変わった。瞬間、斗音の顔が、ややこわばる。
「初めて三神、と呼んで下さったので」
「あ、うん。間違えたけど」
 斗音の表情が緩んだ。
「努力するって言ったから。あ、でも、まだ間違えるかもしれないから、その時はごめん」
「いえ。ありがとうございます」
 笑みを浮かべたまま歩み去る三神の背を、斗音は不思議な思いで見つめた。
(・・・・・・何、この感じ・・・・・・?)

 無意識に、胸のクロスを、パジャマの上から指ですくうようにして包み込む。その感じたものが一体何なのか、斗音には分からなかった。ただなんとなく、仕事に対して律儀な好青年だと感じている相手から受けた『感じ』にしては、おかしな『感じ』のような気がしていた。

 一人でぼんやりテレビを見ていた斗音だが、やはりつまらない。夏休みの宿題を、終わる寸前に慌ててやる習慣を持ち合わせていない斗音は、今のところ特にやらなければならないこともない。まだ九時を少し過ぎたくらいだ。時計もなかなか進まないように思える。三神は斗音のプライバシーを守るため、必要がなければ自分の控え室となっている書斎にいる。もともと静かにじっとしているのが好きなタイプではないため、斗音は一時間もすると嫌気が差してきてしまった。
 書斎のドアをノックすると、襟元のボタンはきっちり留めていないものの、ちゃんと先ほど手にしていた服を身につけている三神がドアを開けた。
「何か御用でしたか?」
 そう聞かれて、一瞬戸惑う。
「あ、別に用とかじゃないんだけど・・・・・・」
 しばし思考を巡らせる。
「もしよかったら、少し話さない?なんか一人でテレビ見てても面白くなくてさ」
 三神が表情を和らげる。
「私でよろしければ、お相手します」
 居間に来ても、脇に控えるように立とうとする三神を、斗音は同じソファに座らせた。三神はやや躊躇いを見せながらも、斗音の勧めに応じた。
「よく考えたら俺、三神さんのこと何も知らないんだよね。三神さんは俺のこと、知ってたの?」
 「三神さん」を連発する斗音に、精悍さを漂わせる表情を崩してやや苦笑する。
「九条の家から、いくらか情報は頂いています。特にあなたのお身体のことに関しては、気をつけるように言いつけられておりますし、普段から気をつけることや対処などは心得ています」
 斗音の表情が少し翳る。ずっと慈恩を縛り付けてきたその身体のことは、斗音にとって心に深く負っている傷でしかない。それを感じたのか、三神が低い声の表情を努めて明るくした。
「あと、インターハイで何本もシュートを決めてらしたのを、見ていました」
「え、見てたの?」
「はい。あなたの心を乱さないようにしたいとのことで、お知らせはしませんでしたが、絢音様と雅成様がどうしてもあなたの試合を見たいとおっしゃいましたので、私もお供させて頂きました」
「そう、だったんだ・・・・・・」
 自分の内に確認するようにつぶやく。あの二人が自分に掛けてくれる愛情に触れた気がした。九条家の事情がなければ、本当は斗音も一緒に引き取りたかったのだと、切に語ってくれていた。本音だったのだと思い知る。少しだけ、嬉しかった。
「三神さんは?何かスポーツやってるの?」
「三神でいいですよ」
 先に制しておいてから、長い指を組む。
「いくつか武道をたしなんでいます」
「空手とか?」
「はい。空手と柔道、あと合気道です」
「へぇ・・・・・・すごいね。ボディーガードもやってたって聞いたけど。強いんだ?」
 緩やかに首をかしげ、三神は肩をすくめるようにした。
「強いかどうか。一応空手と柔道は三段ですが、合気道はまだ二段です」
「・・・・・・十分強そうだね」
 斗音はほのかに苦笑する。慈恩ほど努力をしていて、ようやく剣道ひとつで三段だ。相当な使い手なのだろう。思わず、純粋に興味を持つ。
「柔道って、どんな技が得意なの?」
「・・・・・・そうですね。小内刈りとか大内刈りとか、脚を掛けるようなものは割とやりやすいですよ。なかなか上手くは決まらないですが、背負い投げも決まると気分いいですね。あと、地味に見えるかもしれませんが、寝技も奥が深くて面白いです」
 比較的無口なのかと思った三神が立て続けに話すのを、斗音は少し意外そうに、その楽しげな顔を見つめる。そんな斗音に気づいて、凛々しい表情に戻る。
「・・・・・・何か・・・?」
「ううん、好きなんだなぁ、と思って。空手と柔道はどっちが得意?」
「柔道の方がメジャーですから、関わることが多いのは確かです」
「へえ・・・・・・でも、こんな仕事してたら、練習とかあまりできないんじゃない?」
「今は・・・・・・そうですね。九条にいたときは、早朝に練習したり、昼の暇な時間帯にちょっと休み時間を頂いたりして。ここではあなたが学校へ行かれている間に道場へ行けそうです」
「なるほどね。空手っていうと、蹴りとか、素手で突きとか、そういうのだよね。回し蹴りとか、できる?」
「まあ、基本ですから・・・・・・。上段回し蹴りや袈裟蹴りなんかは空手を知らない人が見ても面白いと思いますよ。それで一本取ると気持ちいいものです」
「一本とか、柔道みたいなポイントなの?」
「三本勝負ですよ。技あり二本で一本なんてのは柔道に近いですけど・・・・・・」
 斗音にとって、三神は初めて知ることの宝庫だった。三神は質問攻めに合い、それでも丁寧に応じてくれた。たちまち時計は十二時を回ってしまった。それをふと気にした三神が、斗音に視線を返す。
「明日のご予定をうかがってもよろしいですか?」
「あぁ、明日は如月祭の打ち合わせがあるから学校かな。九時に集合だから、朝はゆっくりできるかも。特に用事が増えなきゃ四時くらいには帰ってくると思う」
 言ってから、ふわりと微笑む。
「その間は自由にしててもらって構わないから」
 三神はやや鋭い系の目を瞠って、それから唇をやや歪めるようにして笑んだ。
「ありがとうございます。・・・・・・基本的に私は斗音さんのなさることに口出しはしませんが、あなたのお身体を害することになりそうなときだけは、差し出がましいようですが、あなたの意に沿わないことを言わせていただくかもしれません。お許し願います」
 斗音の薄茶の瞳が時計を捉え、あ、と声を上げる。
「夜更かしは駄目です。早く寝ましょう。ってこと?」
「お察しの通りです。私の一番大きな役目ですから」
 まるで悪戯っ子みたいに肩をすくめて、斗音は小さく舌を出した。
「慈恩もよっぽどのことがないと、夜更かしは許してくれなかったから。そうだよね。三神さ・・・三神は、慈恩の代わりに俺のこと気にしてくれるためにいるんだから、慈恩みたいに小うるさく言ってくれなきゃ」
 くすっと笑ってソファから立ち上がる。付き従うように三神も腰を上げた。
「お休みになられる前と、あと朝ご起床の際に、必ずひとつ、習慣にして頂きたいことがあるのですが」
「・・・・・・習慣?何を?」
「とりあえず、お部屋までお供させて頂きます」
「・・・・・・うん・・・・・・?」
 斗音が部屋に入ると、ベッドに入るまでまるでエスコートするように三神は付き添った。そして、横になった斗音に体温計を見せる。
「慈恩さんなら、あなたの顔色ひとつで体調の変調に気づかれるでしょうが、私には恐らくできないと思います。ですから、お休みになられるときと、ご起床時に、必ず私に検温させて頂きたいのです」
 斗音はきょとんと体温計を見つめ、同じ瞳で三神を見つめる。
「ああ・・・・・・そう?別に、検温くらい俺、自分でやるけど?」
 三神のやや鋭い印象を与える顔に、うっすらと笑みが載る。
「疑うわけではありませんが、なるべく人に迷惑を掛けたがらないというあなたのお人柄上、私の目で見届けろと、絢音様と雅成様に言い付かっております。あなたの体調管理だけは、何をおいても確実にしろとの命令ですので。記録も取らせて頂きますが、よろしいですか?」
 斗音は苦笑しながら天井を見上げた。
「いいけど・・・・・・朝から寝るまで、気が抜けないな。ご苦労様」
 三神がパジャマの胸のボタンを二つほど、そっと外して、ふと首にかけられた十字架に目を留める。しかし、特に気に掛ける様子もなく、そのまま体温計を脇に差し入れる。気遣うようにその上から軽い夏用の布団を掛けられた。これくらい自分でできるのに、と思ったけれど、何度も言うのはしつこいように思えて、斗音は何も言わなかった。やがて、ピピピピと電子音が時間の経過を告げる。自分で取ろうとしたら、三神が布団を静かに上げて、鎖骨辺りを優しく押さえるようにして体温計を抜き取った。すっとその数字に目をやって、ナイトテーブルにそのまま置くと、丁寧に外したボタンを掛けた。
「熱、ないでしょ?」
 微笑を湛える斗音に、三神が浅く頷く。
「ええ。今日はお疲れかと思いましたが、大丈夫のようですね。それではおやすみなさい」
 もう一度布団をちゃんと掛けてから、体温計を胸のポケットにしまい、三神は一礼して部屋の電気を消し、静かに出て行った。その背を見つめながら、斗音はナイトテーブルに置かれた電気スタンドのタッチセンサーに触れた。部屋全体が闇に沈む。そっとクロスの上に手を載せた。
「・・・・・・慈恩、おやすみ」

 そのまますんなり意識を手放していく。クロスに載せた手が、本当に優しさを感じる気がして、斗音は寂しさに囚われることなく眠りに落ちていった。

   ***

 書斎に戻った三神は、自分のメモ帳に体温計が示した数値を記録して、それをパタンと閉じた。そして、斗音の肌に触れた右手をじっと眺める。その手には白い肌の、肉付きの薄いすべらかな感触が残っている。本物のそれを鷲掴みにする代わりに、ぎゅっと拳を握り締める。
(まだまだ、これからだ・・・・・・。もっと信用させて、もっと近づいて、心ごと虜にしてやる。何もかも、奪い尽くしてやる。あの、九条の隠し子の一片も、残してやらない)
 うっすらとした笑みが浮かぶ。
(心を奪って、それからあの身体を組み敷いたら、裏切られたと思うだろうか。それとも俺を求めるだろうか)
 三神はぶるっと身体を震わせた。背筋がゾクゾクする。
(あの澄んだ薄茶の瞳を潤ませて、俺を蔑むだろうか?それとも、うっとりと受け入れる?・・・・・・どっちも・・・・・・これ以上なく・・・・・・見ものだろう・・・)
 パチン、と部屋の電気を消す。同時に、唇の両端を吊り上げたおぞましい笑みも、闇にとっぷりと掻き消えた。

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コメント

こんにちは(^O^)。第二章という感じでしょうか?思い悩む間にも時は止まらず容赦なく刻む。期待は高まるばかりです。全てを書き記すのは不可能としてもエピソードの数々が私を導いてくれる様です。この伏線はどんな風に…?!と胸をざわめかせながらの週末です。(*'ー'*)


Dear エルマさん
こんにちは…!!いつも、本当に励みになるお言葉、ありがとうございます(><)!!おっしゃるとおり、ここから新たな展開になっていく予定です。エピソードは、物語の本筋に関わるものもあれば、彼らの日常の大半を占めている学校生活ならではのものもあります。その中で、変化していくものも、たくさんあると思います。…そんなだから、なかなか進まないのですがっ(><;。あゎわ、そんなふうに待っていただけているなんて!!頑張らなくちゃ!エルマさんは涙腺のツボを何故こんなにご存知なのでしょう…。
☆蒼 紫月☆

投稿: エルマ | 2009年2月11日 (水) 11時59分

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