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二十七.三週間

 九条家の起床時間はまちまちだ。一番早いのが慈恩。朝練に参加しているので、七時半には学校についていなければならない。それでも、六時半に起きれば十分だった。これまでも同じように朝練に参加していたが、朝食の支度や洗濯物を干したりする作業があったため、六時には起きていた。ちなみに斗音は家中の草木に水をやっていたので、やはり六時起きだった。
 新しい制服の白い半袖のシャツは短くて、脇に小さくスリットが入っている。胸のポケットには桜花高校の桜をあしらった豪奢な校章が刺繍され、袖と裾が上品なグレーで縁取られている。ネクタイは同じグレーだが、絹の光沢があり、光の加減でシルバーにも見える。やはり上品な薄いブルーに縁取られた桜色の模様が細く斜に入っており、そのブルーの縁取りをよく見ると、気品のあるチェックになっているのが分かる。パンツはグレーを基調にした細やかなチェックと大きなチェックが、上品な薄めのグレーに溶け込んでいる。ぱっと見はあまり分からないのだが、よく見ると模様がある、といった感じだ。小洒落ているといった印象だが、慈恩としては如月の制服の方が、落ち着きがあって自分には合っていたと思う。こんな格好は、むしろ斗音の方が似合うだろう。もちろん、他人から見たら、それはそれですらりとした慈恩にはよく似合っているのだが、あいにく慈恩は、他人の目線で自分を見るなんて器用な技は、持ち合わせていなかった。
 その制服で食堂へ降りていくと、二番目に起きるのが早い重盛と珍しくはち合わせた。二番目とは言うが、この祖父は大概七時ごろにここにやってくる。基本的には夕食は全員そろって、だが、朝はまばらなので、そこに来た人からその人のための食事が運ばれてくる。
「おはようございます」
 丁寧に頭を下げると、重盛は落ち着いた動作で椅子に腰掛けて満足そうに目を細め、その姿を眺めた。
「おはよう。本当にお前は、何を着せても似合う。物腰の丁寧さも、その落ち着いた風貌も、九条家の名にふさわしい。お前のような孫をもって、全くわしは果報者だ」
 慈恩の心はきりきりと痛む。産まれたばかりの自分を疎んで捨てさせた張本人が、よくも言えたものだ。何度反論したくなる自分を押さえつけただろう。睨み付けたい衝動を飲み込んだだろう。明日からはもう少し早く朝食を取ろうと、心に決める。
「まあ座るがいい。たまには朝食を共にするのもよかろう。夕食時は絢音がお前のことばかり話すので、お前の話がなかなか聞けん」
「失礼します」
 勧められた席に座ると、早速慈恩にはパンプキンポタージュとスモークサーモンとモッツァレラチーズのベーグルサンド、ゆで卵とレタスとキャビアのクロワッサンサンドが盛り合わせられた皿が運ばれ、重盛には松茸の香りを漂わせるお吸い物、白いご飯に、紅トロを軽くあぶったといった感じの焼鮭、ふわふわのだし巻き卵、和風ドレッシングの豆腐サラダ、小ナスの浅漬け、牛肉の時雨煮などが盛られた膳が運ばれてきた。
「慈恩、学校で友人はできたか」
 いただきます、と丁寧に手を合わせてから、慈恩は祖父の問いに応える。
「皆よくしてくれます」
 抽象的な答えに、うむ、と重々しく頷きながら、重盛は更に重ねた。
「特に親しくしているのは誰だ」
「剣道部の部長です」
 重盛が何を聞きたいのか分かっていながら、慈恩は敢えてそれを無視した。それくらいの反抗はさせてもらわないと、せっかくの朝食も喉を通らない。重盛は、その答えにもうなずいた。
「あの学校で部長を務めるほどの者ならば、文句はあるまい。その者の名は?」
 やはりそう来るか、と、慈恩は心の中で舌打ちをする。家の名で判断されることを嫌う悠大の名字を、言いたくなかったのだ。しかし、ここまで露骨に聞かれては、答えないわけにもいかない。これ以上は気づかない振りも通じないだろう。気づいていてそれでも答えなければ、彼はこう言うのだ。
『こんな風になるから、俗なところには置いておけないのだ。全く、今までの時間が惜しいわ』
 何よりも、今までの自分の生きてきた時間を否定されることが許せなかった。そもそもの大元凶が自分であるということを、すっかり棚に上げてそう言う図々しさも許せない。そんな言葉を表に出させるのは、何が何でも避けたかった。申し訳なく思いながらも、口を開く。
「近衛悠大といいます。とても気のいい友人です」
「ほう、近衛の家の。大変よくできた品行方正な若者と聞く。なかなかの人選ではないか」
 感心したような重盛の口ぶりに、慈恩は手が震えそうになるのを必死で堪えた。この家のために選んだ友達ではない。近衛家の人間だから選んだのでもない。選んで友達になったのでもない。ただ、彼とは気が合った。それだけのことだ。それを、そんなふうに言われるのはつらかった。
「やはりあの学校にやって正解だった。これまでの俗な友人とは早く離れて、近衛の家の友人を大事にするのだぞ」
 スプーンを持つ手がはっきりと震えて、スープ皿と硬く澄んだ音を奏でる。絶対に、例え表向きだけだったとしても「はい」と答えることはできなかった。そして、それ以上食事を続けることもできなかった。
 重盛の眉間に深いしわが寄る。
「慈恩。音を立てるのは・・・」
「すみません、今日は部室の鍵当番になっていたのを忘れていました。取り乱してお食事中にご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。もう行かなければならない時間ですので、お先に失礼いたします」
 畳み掛けるように言って、なるべく音を立てないように席を立つ。キッチンを通りすがるときに、朝食を作ってくれる家政婦の野村に、こっそり謝る。
「ごめんなさい、ほとんど食べられなくて。叶うなら取っておいて、明日の朝食にください」
 本音だったが、それが叶わないことくらい承知だった。もし同じメニューを望むなら、新しいものが出てくるだろう。野村は苦笑してお辞儀した。

「お気遣い痛み入ります。行ってらっしゃいませ」

「随分早いじゃないか、慈恩。お前は重役出勤でも、誰も文句言わないぜ?」
 朝夕は少し肌寒くなってきているので、近衛は制服のひとつであるカーディガンを羽織っている。冬服のブレザーは十月半ばからになるので、それまでやや肌寒いときは男女ともかなり明るい紺色のカーディガンを着用していいことになっている。カーディガンとはいっても、比較的薄手で、すごく肌触りがいいので、人気がある。
「ん・・・・・・」
 剣道場の前で石段に腰かけて、ぼんやり鍵の開くのを待っていた慈恩は、緩やかに視線を動かした。桜花高校剣道部に鍵当番なんて存在しない。部長の近衛が、いつも誰よりも早く来て、鍵を開けて準備しているからだ。そんなのは一年生にやらせればいい、と同学年の生徒たちは言うけれど、近衛はいつも上品に笑うのだ。
「少しでも長い時間、稽古をしていたいだけだよ」
 そんな近衛が、秀麗ともいえる眉目を寄せた。
「どうかしたのか?」
 いつもの慈恩なら、本音を込めてはいるが、明らかに冗談だと分かる最初のセリフに対して、きっと苦笑を浮かべるだろう。なのに、いつもの少し控え目な反応や凛々しさが感じられず、まるで美しく整った物憂げな陶器の置物のようだ。
「・・・・・・何でも、ないよ」
 かすかに微笑む。なんだか一片の雪の欠片のような淡さで、それはたちまち消えてしまった。
「・・・・・・何でも、あるだろ。儚げなお前なんて、初めて見る」
「・・・・・・儚げ?」
 その言葉を口先でつぶやいたと思ったら、いきなりくつくつと笑い出す。近衛はますます眉をひそめた。
「おい、慈恩?お前、大丈夫か?」
 肩をぐいっとつかむと、思いの外冷えていた。予想以上に早くから、そこにいたのだと知る。
「馬鹿っ、何身体冷やしてんだお前!こんな無防備な格好で・・・・・・っ」
 激しい口調で怒鳴りつけると、慈恩の笑いが消えた。漆黒の瞳がようやく焦点を結ぶ。
「・・・・・・悠大・・・?」
「・・・・・・やっと俺を見たな」
 まだかすかに怒気をはらんだ吐息で、残った怒りを吐き出すと、近衛は荒い動作で着ていたカーディガンを脱ぎ、冷えた肩に掛けた。
「ちょっとの間だけでも着てろよ。そんな身体で急に動いたりしたら、怪我につながる」
 冷えた指先で、慈恩はカーディガンに触れる。あたたかい。セーターの暖かさだけではない。近衛の体温の残るそれは、慈恩の心をそっと暖めた。慈恩は静かに目を伏せる。
「・・・・・・ありがとう」
 道場の鍵を開けようとしていた近衛は、思わず鍵を取り落とすところだった。石段に腰を下ろしたままの慈恩を振り返る。一瞬、泣いているのかと思ったのだ。すぐにそうではないと分かったが、そうでなくてもやはり壊れそうな危うさをもつ薄い陶器のような、そんな儚さを湛えていた。
(やっぱり儚いじゃねえか)

 小さく溜息をついて、近衛は勢いよく重い扉を開けた。

 しばらくすると二人、三人と部員がやってきて、剣道場がにぎわしくなってくる。きっかり七時半に和太鼓が打ち鳴らされた。稽古開始の合図である。
「打ち込み、始めっ!」
 近衛の鋭い声で、一斉に気合の掛け声と竹刀を打ち鳴らす音が道場に満ち溢れる。慈恩の竹刀を受ける近衛は、面の奥で目を眇めた。相変わらず鋭いし、上手い。技術が違う。全員が均等に練習できるように、二人組みになってやっているが、本来は格上を相手にする練習である。自分では慈恩の相手をするには役者として不足だろう。慈恩が来る前までは、当たり前のように部の誰よりも格上として稽古をつけていた近衛だったが、それでも、新入部員の慈恩に対して嫉妬心などは一切湧かなかった。それくらい、慈恩の強さは圧倒的だったし、それ以前に、近衛は慈恩がどれだけの腕の持ち主なのかをよく知っていた。その慈恩の竹刀はやはり素晴らしい動きをするのだが、いつもの気迫やパワーが感じられない。
(こんなもんじゃないだろ、お前は!)
 もともとそれほど掛け声を出すタイプではないけれど、それにしても今日は全くといっていいほど声を出さない。打ち込みが入れ替わると、近衛は当社比一・五倍の勢いで慈恩に打ってかかった。それを慈恩はいとも簡単に受ける。力が上手に殺されているのが分かる。何度か繰り返したが、結局慈恩のいつもの気迫は戻らなかった。逆に自分の息が上がってしまった。彼の勢いを取り戻したいがためにやや張り切り過ぎたらしい。
「近衛、今日は気合入ってるなあ」
 副部長を務める東坊城美陽早(ひがしぼうじょうよしひさ)が感心したように言う。ご大層な名前のわりに、剣道の腕以外はどちらかというと平凡な少年だ。剣道は小学校低学年からやっているだけあって、二年生の中では近衛に続く二番手だったため、副部長という役割についた。現在では三番手ということになるのだが。
「慈恩が上手いからね。何とか打ち崩してみたいと思ってやってみたんだけど、やっぱり厳しいみたいだ」
 ちらりと視線を送るが、慈恩はどこを見ているふうでもなく、ぼんやりしているように見える。
(ちっ。俺の渾身の打ち込み軽々と受けてるくせに、そんな上の空なのかよ)
 そう思うと、何が何でも慈恩の気持ちをこちらに向けさせたくなった。
「次、掛り稽古!」
 強気でそう言うと、場内の空気がざわっと揺れた。
「えぇっ!朝っぱらから掛り稽古?きっついなぁ」
 如月では、例え心の中でそう思う者がいても、決して口には出さないのだろうが、ここではまだ甘えがあるのだろう。部員の中からそんな声がこぼれる。近衛が表情を引き締めた。
「和田。来年は俺たちもインターハイを狙える可能性があるんだ。慈恩がいるんだからな。だけど、団体戦は一人では出られない。最低でもあと二人は、予選で勝ち残れる人材が必要になる。それだけの力は、一朝一夕に養えるものじゃない」
 クラスでは慈恩の前の席になっている和田が、くるりとした目に、ふてくされた感情を宿らせる。
「また九条か。ほんとお前、最近九条にぞっこんだよな。いいじゃん、九条とお前と東坊城がいるんだから。お前だけなら、今年でもインターハイ狙えたんだし」
 カチンときて、近衛が面の奥で視線を厳しくした。言い返そうとした瞬間。
「そんな。俺はとてもじゃないけど、まだインターハイには届かないから、当てにされても困るよ」
 ややとんちんかんな言葉を挟んだのは東坊城だ。和田が今話題にしているのは近衛だということを、自分の名前が出たことですっかりすっ飛ばしてしまったらしい。和田はうんざりしたように溜息をついた。
「あのなあ。お前は練習してればいいだろ、自信ないなら」
 近衛がふっと笑う。面をかぶっていたがために、それはあからさまには出なかったが、はっきりと嘲笑だった。
「じゃあ、和田は自信があるんだな」
「は?何言ってんの?」
 和田の声が険しくなる。それを全く意に介さず、近衛は続けた。
「自信があるから、きつい練習はしたくないんだろう?」
 和田の竹刀が荒々しく床を打つ。
「誰がそんなこと言ったんだよ。二人強ければいいなら、お前と東坊城でいいって言ったんだろ」
「そうか。じゃあこうやってみんなが朝練に出てくるのは無意味なんだな」
「だからさあ!何でそうなるんだよ!」
 激情を迸らせる和田に対して、近衛は冷静に笑みすら浮かべた。
「団体戦っていうのは部の力を結集して戦い抜いていくものだと、僕はそう理解していたんだけれど。そのための力をみんなでこつこつと高めあって、それで初めて勝って嬉しいという感情も湧く。僕は、勝つためには『最低でも二人』と言ったはずだよ。その『最低』で、和田は満足するのか」
 和田がぐっと言葉を詰めた。いつもの優等生近衛にしては、かなり痛烈な言い方だった。慈恩の前ではこれに加えて口も悪くなったりするのだが、他の部員たちは初めて見る機嫌の悪い近衛にはらはらし、ものすごく気まずくなった雰囲気を何とかしようと、おろおろする。いつも元気のいい秋月が思わず口を挟んだ。
「ほら、近衛。和田も言葉のはずみで言い過ぎただけだから。な、そうだよな、和田」
「そうだよ。近衛の言ってることは最もだって、和田だって分かってるはずだよ」
 東坊城をはじめ、二年生たちが口々に和田をフォローする。近衛は正しい。正論過ぎて、反論の余地もない。だから、やり込められてしまった和田の方に同情が集まったのだ。慈恩だけが、まるで他人事のように一部始終を網膜に映していたが、そっと近衛に歩み寄って、その肩に静かに手を置いた。近衛が振り返ると、月のような静けさを湛えた漆黒の瞳が、少し悲しそうに見えた。
(・・・・・・慈恩)
 視線を戻して、手にした竹刀を、ぎゅっと握り締めた。理性を総動員して自分の感情を押し殺す。
「すまない、言い過ぎた。みんなも、稽古を中断して申し訳ない。・・・・・・掛り稽古からでいいかな」
 機嫌を直してくれた上に、先に謝ってまでくれた近衛の言葉に、逆らう者などいるはずもない。
「もちろんだよ。俺たちだって、強くなりたいもんな。な、和田もやるよな?」
「・・・・・・あ、ああ」
 まだ完全には立ち直れていない和田も、強引に東坊城に促されて頷く。
(これで文句ないだろう!)
 くるりと振り返ると、こちらを見ていたらしい慈恩が、すっと視線を逸らすようにうつむいた。その仕草の意味はよく分からなかった。近衛は密かに溜息をついてもやもやした気分を押し出した。そして、キッと顔を上げる。
「掛り稽古、始め!」
 これも二人一組になっているが、格上の方は引き立て稽古となる。やはり近衛と慈恩で組んでいるが、当然近衛が掛り、慈恩が引き立てである。打ち込みとは違って、思うままに技を仕掛けられる。客観的に見た近衛の実力は、近藤のパワーを六割にして、技術をニ十%プラスにした感じだ。総合的に判断すれば、近藤の方が強いだろう。ちなみに近衛から見た慈恩は、自分の技術を八十%上乗せした感じだ。
 そんな相手に、容赦など必要ない。その上、上の空の慈恩を本気にさせてやりたい思いや、先ほど押し殺した不快な感情もあって、近衛は気合の掛け声ごと、思い切り打って出た。ところが、すんなりと攻撃を受け流すか、かわすかするはずの慈恩の反応が遅れた。かろうじて受け止めるのには間に合った竹刀だったが、受けるので精一杯だった。更に踏み込んで小手面の二段攻撃を仕掛けた近衛をかわそうとして、半歩引きが遅れる。

(危なっ・・・・・・!)
 踏み込んで勢いのついた近衛は、身体ごと懐に飛び込んでいたので、引こうとしていた慈恩に竹刀ごと体当たりをするような形になった。それでも慈恩はその間に竹刀を挟んで、その攻撃を受け止めたのだが、近衛の全力での勢いまで食い止めることができず、派手な音を立ててもつれるように床に身体をたたきつける。
「悪い、大丈夫か!」
 上に圧し掛かる形になった近衛は素早い身のこなしで飛びのき、慈恩の肩を支えて起こす。
「っ!」
 慈恩が喉の奥で呻き声を堪える。自分のことはあまり表に出そうとしない慈恩の、その整った顔が一瞬苦痛に歪んだのを、近衛は見た。
「痛めたのか。どこだ?」
 周りも稽古を再び中断し、心配そうに寄ってくる。その視線を意識したのか、慈恩は軽く首を横に振った。
「大丈夫だよ。大したことない」
「でも随分派手な音したよな。少なくともあちこちぶつけてると思うけど」
「保健室に行ったほうがいいんじゃないか?」
 慈恩の言葉に納得しない周りが、口々に言う。近衛は小手を外し、手早く自分の面を外した。
「行こう、慈恩。みんなの言う通りだ。大したことなくても、放っておいて大事になる場合もある。防具、外せるか?」
 言いながら、自分の防具を手早く外していく。そして、知性をうかがわせる瞳で東坊城を見上げた。
「東坊城、あとを任せていいかな」
 桜花高校剣道部の副部長は、面の奥でにっこり頷いた。
「うん、いいよ。掛り稽古の続き、やっておくから」
 なかなか理知的な笑みを浮かべて、近衛も頷き返す。そして、動こうとしない慈恩の防具をてきぱきと外す。
「ほら、立てるか?」
「ああ。ごめん、せっかく早く来たのにほとんど練習できなかったな」
 やはり元気がない。手拭を取り、ぎこちなく立ち上がる。片手で竹刀、片手で面を抱えるようにして、部室に向かって歩き出すが、やはり歩き方に少し違和感があった。
 あれだけ繰り返し打ち込んだにも関わらず、慈恩はそれほど汗をかいておらず、すんなり着替えることができた。近衛の方は結構汗ばんでいる。
(やっぱり上の空だったんだな、こいつ)
 制汗剤などでほてった肌を押さえながら、近衛は小さく吐息する。剣道に関しては、それなりに自信を持っていたのだが、慈恩を前にすると、その自信は微塵に砕けてしまう。
「・・・・・・今日はちょっと、寒いな」
 つぶやくように言った慈恩に、思わず眉をしかめてしまった。
「俺は暑い」
「・・・・・・?そうか?」
「ちょっと動いたもんでね」
 いつもの鋭さはどこへやら、鈍すぎる慈恩に思わず皮肉を交える。いつもの慈恩なら、気づいて苦笑のひとつも返してくるだろう、と思ったのだ。確かに、慈恩はそれが皮肉だと気づいた。しかし、反応は予想外だった。視線を床に落として、小さくつぶやいたのだ。
「・・・・・・・・・・・・ごめん」
 あんまりそれが切なくて、近衛は皮肉を交えた自分を後悔した。それを紛らわすように、練習前に貸したカーディガンを突き出す。
「・・・・・・?」
「寒いんだろ。今俺には必要ない」
「・・・・・・あ・・・りがとう・・・・・・・・・」
 もう九月も下旬にさしかかり、珍しく本当に肌寒い朝だった。だからこそ、近衛だって羽織ってきたのだ。それを慈恩が着るのを待って、自分の荷物と慈恩の荷物を持つ。
「いいよ、悠大。自分で持てる」
 伸ばして来た慈恩の手を押し戻す。
「足のどこか、痛めてるだろ。負担掛けてどうする」
「でも・・・・・・」
「俺だって責任を感じなきゃならない心当たりがある。いいから、持たせろよ」
「・・・・・・?」
 首をかしげる慈恩に、近衛は理知的な顔に苦笑を湛えた。
「苛立ってたのを無理やり飲み込んだからな。お前に八つ当たりしたんだ。悪かった」
 苦笑につられたのか、端正な顔が少し和らぐ。
「・・・・・・無理やり飲み込ませたのは、俺だ。八つ当たりされても文句は言えないよ。それに・・・・・・いい攻めだった」
 近衛の栗色の瞳が、かすかに見開かれる。胸にじわりと湧き上がる想い。それは、自分の尊敬している相手にプライドをくすぐられる嬉しさだった。照れくさいのを隠すように、目を眇めて、唇の左端を歪めるように笑った。

「ありがとよ」

 桜花高校の校医はまだ三十台前半の男性だった。
「膝の裏の筋を伸ばしたようですね。ずっと足を伸ばしたまま片足の踵に体重を掛けっぱなしにしたとか、膝を伸ばした状態で瞬間的に上から負荷を掛けたりとか、しませんでしたか?」
 親しげだった如月の養護教諭とは違い、きっちりと一歩ひいた態度で接してくる。本当の医者のようだ。眼鏡を片手でずらすようにしてレンズの角度を変えながら、右膝まで慈恩の制服をたくし上げ、その裏を指で軽く押さえる。その瞬間慈恩の凛々しい眉がぎゅっと寄せられた。その表情の変化をうかがいながら、その辺りをあちこち押して、うーん、と唸る。
「思ったよりよくないですね。かなり熱も持ってるし、相当痛むでしょう。普通ならもっと大騒ぎするところです。ギプスをするほどではないですが、その直前まではいってますよ。まず一週間は絶対安静です。歩く以上の運動は避けてください。必要なら、松葉杖もお貸ししますよ」
 ぎょっとしたのは近衛である。確かに慈恩は、痛くても表に出すような人間ではないと思っていたけれど、そこまで酷いとは。しかも利き足である。慈恩の表情をそっとうかがうと、やや青ざめた顔色で唇を噛み締めていた。ズキ、と胸が痛む。
「とりあえずこまめに湿布を取り替えて、今は熱を取ることです。あと、あまり使わないように、伸びない包帯で固定しておきますから。湿布は一袋お渡します。三時間おきくらいに交換してください」
 かなり頑丈に包帯を巻かれた足で、先ほどの動きに輪をかけてぎこちなく立ち上がると、慈恩は力なくだったが丁寧に礼を言った。
「ありがとうございました」
 校医は眼鏡の奥の目を少し細めて、慈恩を見つめた。そして、ほっと息をつく。
「無理しなくていいですよ。顔色が悪いし、少しここで休んでいった方がいいでしょう。今ベッドの方を用意しますから。先生たちには私から連絡をしておきます」
 慈恩が漆黒の瞳を大きくした。
「そんな・・・・・・大丈夫です。授業は座ってるだけだし・・・・・・」
 そんな慈恩の目の前で、校医はベッドに毛布と掛け布団を載せる。

「転校してきて三週間ですか」
 
そして、少し笑った。
「人の精神にはどうも三という数字が節目になっているところがあるらしいですよ。三日坊主という言葉があるでしょう。三日目というのは精神的に一番負担が掛る時期なのです。逆に三日目を乗り越えることができたら、ある程度安定すると言われています。他にも問題児が何か問題を起こすとする。次に大きなことをしでかすのは、三日後の可能性が高い。それを乗り越えた場合は三週間後、更に乗り越えた場合は三ヵ月後が要注意と言われています。・・・・・・何かと溜め込んでいるものがあるかもしれませんよ。近衛くんに聞いてもらうといいでしょう。そういう意味で、彼は適任ですから」
 優しくそう言って、近衛に視線を移す。
「聞いてあげてくれますか。私よりあなたの方が、彼のことを知っているでしょうから。私は席を外しましょう」
 近衛は反射的に、優等生的な真摯さを目に浮かべた。
「分かりました。僕でよろしければ、ここに残ります」
「あなたならそう言ってくれると思っていました。それでは、お願いします」
 軽くお辞儀をして、校医は着ていた白衣を椅子に掛けると、すらりとした濃いグレーのジーンズに黒の長袖タートルシャツという一般人に成り代わって、保健室を出て行った。
「あの人、先生って感じじゃないな」
 思ったより明るい声が聞こえて、近衛は思わず慈恩を見やる。端正な顔には笑みが載っていた。
「うちの学校は、本物の医者が来てるんだ。あの人は養護教諭ってヤツじゃない。もちろん、そういう保健室の先生ってのもいるけど、その人は忙しいから、大概別館の第二保健室にいる。そこにこもって仕事してることが多いよ。あそこならあまり怪我人が来ないからな」
 言いながら、強引に慈恩の右腕を肩に掛けるようにして立ち上がらせる。
「ほら、せっかく用意してもらったんだ。横になるといい。そんなふうに、何でもないふりするなよ。つらいくせに」
 慈恩が自分を見つめているのが分かったが、それに気づいていないふりで、右足の負担を極限まで減らすように肩を貸しながら、ベッドまで歩いた。そのまま有無を言わせずベッドに寝るよう促す。
「そんな大げさなものじゃないのに・・・・・・」
 右足を庇いながら枕を背もたれにして、慈恩は少し吐息した。どうやら寝る気はないらしい。その身体に綿毛布と布団を掛けた近衛を、漆黒の瞳で捉える。近衛は慈恩の五倍ほど大げさに吐息して見せた。
「医者の言うことは信用するもんだぜ。それに明鏡(めいきょう)先生は心理学もやってて、カウンセラーとしても頼りにされてる人なんだ。その人にお前を任されたからには、俺も引けねえからな」
「そんな、悠大までつき合わせるわけにはいかないよ。授業遅れるし・・・・・・」
 本気でつき合わせる気はなかったらしい。近衛は心底がっかりした。精神の落胆度はMAXに近い。
「あのなあ、俺が授業とお前を比較したときに、授業を取るほどの甲斐性無しだと思うのか?」
 思わず言葉を荒げる。そんな近衛を見つめていた瞳が、微かに細められた。そして、ポツリと慈恩がつぶやく。
「・・・・・・・・・・・・俺、そんなに参ってるように見えるか?」
「な・・・・・・」
 何を今更、と言いそうになって、無理に言葉を飲み込んだ。漆黒の瞳が、何か溢れ出さんばかりの思いを映すように揺らめいていた。
「・・・・・・いつも通りでいられる自信は、あったんだけどな」
 ふっと浮かんだ笑みは、自嘲だった。見ている者が苦しくなるほどの。息が詰まりそうになって、近衛は思わず大きく息を吸って吐き出す。そして、改めて慈恩の弱々しい表情を見つめた。
「何があったんだよ。話す相手として俺に不足がないなら、聞かせて欲しい」
 慈恩の前でのいつもの近衛に比べれば、かなりの低姿勢だった。でも近衛にとっては、それが最大限の本音の表現だった。今度は本気の真摯な栗色の瞳に、慈恩は軽く首を振った。
「俺が今の生活の中で一番信頼してるのはお前だよ。お前に話せなかったら、俺は誰にも話せない」
 小さく笑って、視線を落とす。
「・・・・・・お前に謝らなきゃいけない。お前を名字で判断すると分かっている人間に、俺は友人としてお前の名前を言ってしまった。お前がそれを嫌がると分かっていて、それでも自分が嫌な思いをしないためだけに俺は祖父にそれを告げた。・・・・・・ほんとに、ごめん」
「・・・・・・お前、だから・・・・・・」
 今朝は、何度も目を逸らされた。それはこの気持ちの表れだったようだ。何を言われるかと構えていた近衛は、知らず苦笑した。
「確かに名字で判断されるのは嫌いだ。だけど、そんなの慣れてる。お前が嫌な思いするくらいなら、いくらでもそんな名前出してやればいい。むしろ俺は」
 苦笑が微笑みに変わる。
「お前に友人だと言ってもらえて嬉しいくらいだ」
 慈恩は一瞬綺麗な黒の瞳を大きくして、それから小さく笑んだ。

「・・・・・・ありがとう。でも、もし家に来る機会があったら、祖父とは顔を合わせない方がいい。あの人の感覚は俺にはついていけない。悠大にもきっと嫌な思いをさせるから」
 珍しい、と近衛は思った。自分はしょっちゅう言うけれど、慈恩が人のことを悪く言うことは滅多にない。というより、今まで聞いたことがない。それは慈恩が周りの人間に恵まれているからだと思っていた。でもそうではない。それが慈恩の人柄なのだ。自分の感情をあまり表に出そうとしないだけなのだ。改めてそう感じる。しかし、その慈恩がそこまで言うということは、その人物に対して、よほど何か抱えているのだろう、と容易に想像がついた。
「そのじいさんと、今朝何かあったのか?」
 九条の一番の権力者を「じいさん」呼ばわりしたのは、近衛が初めてだろう。慈恩はくす、と小さく笑った。でもすぐにその笑みは消える。それが問われたことを肯定していると、近衛はすぐに理解した。
「お前、何でも自分の中に閉じ込めておけば何とかなると思ってるから、精神的に負担が掛かるとか言われんだぜ。心の中で重いと思うことがあるなら、たまには吐き出すことも大事だ」
 促すような言葉に、凛々しい瞳が翳った。微かに頷く。
「・・・・・・・・・・・・俺は、如月の仲間が好きだった。できればみんなと一緒に如月を卒業したかった。でも、九条家に入ることになって、祖父にここに転校することを要求された。理由は、九条につりあう家柄の仲間と付き合いを深めなければならないからだった」
 慈恩が転校してきた理由は、近衛も知らなかった。桜花高校だって、名門大学の付属高校で、私立高校の中でも名の通った上級の学校だ。そこに入れと言われても、そう悪い気はしないと思っていたが、慈恩が望まざる転校を余儀なくされていたのだと知って、少し複雑な思いになる。
「でも、いろいろな事情があって、俺さえ我慢すれば全てがうまくいく状況で、どうすることもできなかった。俺は自分を押し殺して、仲間と・・・・・・そして兄との別れを決意した。そのことは家の人間ならよく知ってる」
「兄・・・・・・?兄貴がいるのか。てことは、お前一人が九条になったってことか・・・・・・」
 意外な思いのままにつぶやくと、慈恩は寂しそうに微笑した。
「うん。しっかりしてるくせにどこか不器用で・・・・・・先天的な喘息を患ってた。両親が亡くなって、俺が守らなきゃと思ってた。それから、自分は何もかも人間離れしてるくせにこんな俺を親友だって言ってくれた、本当に信頼してた友達、クラスも部活も違うのにそんなのお構いなしに楽しく付き合えた友達もいた。そして、後輩の俺を認めて引っ張ってくれた剣道部の先輩、信頼してくれた仲間。一緒に仕事してきた執行部の人たち。・・・・・・そんな仲間を全部、俺は諦めるしかなかった」
 低くて静かな声がわずかに震えた。近衛は初めて聞く慈恩の今までの生活に心惹かれ、それ故最後の言葉の重みを感じずにはいられなかった。あいにく今の自分にはそんな風に言える友人はいない。言えるとしたら、この慈恩くらいだろうが、まだ三週間足らずの付き合いである。きっと慈恩には心底信頼できる友達はたくさんいただろう。様々な能力も外見も持ち合わせながら控え目で、それでもその意志は強くて、それなのに人当たりもいい。深い考え方はいつも的を射ており、感心させられる。誰もが惹かれずにはいられないような人間なのだから。その関係を全て、一から作り直せといわれたのだ。家のために。それはどれだけつらいことだろう。もし自分が今、近衛の家のために慈恩とは付き合うなと言われたって、絶対に実行しない。体面を繕い続けている親に逆らってでも。
「だけど、離れたから、会えないからって切れてしまうほど絆は浅くないと信じたから、俺は我慢できた。夜になればみんなしてこれでもかってくらい如月の様子を知らせてくれたり、俺を気遣うメールを入れてくれたりする。だから俺は、そんな仲間が今でも大事だし、これからもずっと大切にしたいと思ってる。もちろんこうやって付き合ってくれるお前も、同じように。だけど、祖父は友人としてお前の名前を出したら、こう言った。近衛の家の若者か。なかなかの人選だ、と」
 ちょっとカチンときた。慈恩のセリフにではなく、慈恩の口から語られた祖父とやらのセリフにだ。慈恩が家柄で人を選びはしないということは、初日からよく分かっている。そんなことを考えているのであれば、もっとふさわしい相手がいくらでもいたはずだ。自分もそれは、時折経験する。どこの家の子と仲良くしなさい、どこの家の子とは揉め事を起こしてはいけません、どこの家の子とは・・・・・・。子供は名門の家柄の駒でしかないのか。いつも馬鹿馬鹿しいと思いながら、適当に良い子の返事だけして聞き流していた。
「悔しかった。いっそお前が普通の家の人間だったらって、そう思った。俺は家柄で友達なんて選ばない。友達なんて、選ぶもんじゃない。そう言いたかったけど、あの家で祖父に逆らうことはできない。逆らえば、父と母がきっと嫌なことを言われる。それ以上に、俺が屈辱的な言葉を浴びせられる。それが耐えられないから、結局黙っているしかなかった。そうしたら、更にこう畳み掛けられたんだ。早く俗な友人と離れて、近衛の家の友人を大事にしろと」
 慈恩の長い指が、クシャ、と布団のシーツを握り締めた。その指が小刻みに震えている。近衛ははっと顔を上げて、視線を落としたままの慈恩を見つめた。その横顔には見たこともないような激情が満ちていた。
「俺がどんな思いで如月を出たか知っていて!それでもあの仲間たちを俗だと言い、だから離れろと!近衛の家だから大事にしろと!何故!どうして俺がそんなことを言われなきゃならない!」
 驚いた。慈恩がこんな激情を見せたことに。そして、その激情を押さえ込んでいたことに。家柄での人付き合いに共感をもてない近衛である。今までの話のこともあって、慈恩の気持ちは痛いほど分かった。そんな近衛の目の前で、更に慈恩が深くうつむく。その瞬間握り締められたシーツにはたはたと雫が落ちた。
(慈・・・恩・・・・・・)
「そんな高貴な家にふさわしくないといって捨てておいて、今更!」
 抑えた声が擦れる。その切なさに思わず身を乗り出して震える肩を抱き締めながら、慈恩の言葉を脳裏に巡らす。胸に大きな疑問の渦が湧き上がる。
(なん・・・・・・だって・・・・・・?)
 触れてはいけないことだと、すぐに解った。慈恩の呼気が震えている。感情を必死に抑えているようだ。腕をすんなり美しい背まで伸ばして、その身体を抱き寄せる。大丈夫だと言う代わりに、腕に力を込める。そうすることしか、思いつかなかった。
 数分も経っただろうか。慈恩の呼吸が徐々に落ち着いてきて、ふと背中に手が触れたのを感じ、腕に込めた力を緩めた。耳元で低くて優しい声が鼓膜をくすぐる。
「・・・・・・取り乱して、ごめん。もう、大丈夫だ」
 そっと身体を起こすと、かすかに潤んだ漆黒の瞳がわずかながらも笑みを浮かべて自分を見つめていた。
 どうして笑おうとするのだろう、と、近衛の胸が痛む。つらいはずだ。それなのに。なんて強い精神の持ち主だろう。そんな思いが顔に出たらしく、慈恩の笑みが少し困ったようなものになった。
「剣道やってるくせに、精神鍛錬が足りないよな」
 まるで自分を茶化すような言い方に、唇を噛む。そして、かぶりを振った。
「逆だよ。お前は・・・・・・すごい奴だよ。今までそんなつらさの片鱗も見せなかった」
 寂しさや不安を混ぜながら、近衛は続けた。
「・・・・・・ここに来たこと・・・・・・後悔してるのか?」
 凛々しい瞳がわずかに揺れて、翳を含む。それでも慈恩は首を縦には振らなかった。
「・・・・・・自分の意志で決めたことだ。それに、悠大がいる」
 名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。見つめた漆黒の瞳が、優しく微笑みながら小さく自分を映していた。
「悠大がいるのなら、ここも悪くない」
「・・・・・・俺だって、お前の如月の仲間に自分が及ばないことくらい分かる。そのたくさんの仲間と引き換えが俺一人じゃ、割に合わねえじゃん」
 ふてくされたように言い捨てて、もう一度慈恩を抱き締める。その表情を見なくても驚いているのが分かった。
「だけどそう言ってくれるんなら・・・・・・俺は少しでもお前を支えられる存在になれるように努力する」
「今でも十分俺は支えられてるよ」
 声の調子から、苦笑を交えているのが分かる。だから、ぎゅうっと腕に力を込めた。
「馬鹿。お前がつらいときに、隠さずにつらいって言える相手に、俺はなるから」
 溢れそうな想いを無理やり抑えるように、耳元で囁いた。
「・・・・・・これ以上、つらいのに笑うなよ」
 しばらく間を置いてから、自分の肩口で慈恩の頭が縦にわずかに揺れた。
「・・・・・・ん。・・・・・・ありがとう」
 その声がかすかに震えたように思ったのは、気のせいではないだろう。この腕の中のぬくもりを大切にしたい想いが湧き上がり、込み上げる。近衛は自身の口にした言葉を違えまいと、強く心に誓った。

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