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二十五.疲労

 うだるような暑さが和らぎ、朝夕には涼しい風が爽やかに吹き抜けるようになった。如月高校では来る如月祭に向けて大忙しの毎日に、全校生徒が追われていた。中でも執行部の忙しさは格別である。
「応援団は全団決定したな。報道部にコメント取らせて昼の放送で流すように、藤堂連絡しとけよ。それから、応援内容だけど、各団五分だからな。規定はこれまでと変わらず、ただし去年やたら金かけてた応援グッズは各団五千円以内で収めること。個人で出したり徴収したりするのは規定違反だ。それをしっかり強調して規定表作って、各団長に渡しとけ」
「伊佐治、バンドの練習を夜遅くまでやって苦情出してるところがあるらしい。調査して早急に対応してくれ」
「分かった。選ばれたことに誇りを持つようにさせるわ」
「斗音、体育祭のハチマキ、全団そろってるか?」
「応援団用の長いハチマキが不足しているところがあったので、発注しました。それから、毎年応援団の打ち上げが問題になってますから、計画が持ち上がる前にしっかり釘を刺すべきでしょうね」
「あー、アルコール問題ね。煙草もか。やりたい気持ちは分かるけど、仕方ないな。応援団一人一人に誓約書を書かせろ。それがいやなら応援団はやめろってことだ。誓約書の内容もお前に任せる。できたら俺に見せてくれ」
「おーい、弓削。如月祭前の取り組みの方は大丈夫か?」
「中学生みたいだけど、まあ時間厳守でいこうと思ってる。守れなかったら体育祭での減点につながるってことでどうかな。あわただしくても授業時間が守れないようじゃ、有名進学校の名がすたる」
「斗音くん、あなたが作った体育祭の分のプログラム、どのフォルダだっけ?文化祭のと合わせて、両面で全校分印刷するわ。貸してくれる?」
「本番同様に練習したいところがそろそろ出始めるな。練習するための場所の確保はよかったか?」
 放課後ともなると、全員息をつく暇すらない。斗音もひっきりなしに湧いてくる仕事に追い回されて、生徒会室を基点にあちこち飛び回っていた。もちろん、部活にはとても参加している余裕などない。引退した三年生はともかく、藤堂などはサッカー部の部長になっているため、そちらの方もバタバタしていた。バスケ部の場合、翔一郎が部長になったので、斗音は尚更安心して執行部の仕事に打ち込めた。
「まあ、俺以上に部長にふさわしい奴がこの部にはちゃんといると思うんだけど、そいつらが何かと忙しいもんだから、俺に回ってきたらしい。徳本部長がやれって言ってくれたし、あの人の後継ができるとも思わないけど、できるように努力はするから、よろしく。来年もインターハイ、狙おうぜ」
 みんなの前で新部長の挨拶をした翔一郎は、そう言って笑った。気取らない、でも頼もしい新部長で、誰もが納得していた。もちろん、嵐も部長候補ではあったのだが、何しろ仕事を持つ身だし、素行もいまいち謎なので、最初から本人自身が「絶対にやらない」と宣言していた。そして、リーダー性なども考え合わせた上で斗音の名も挙がったが、このままいけば三年生になっても執行部に在籍する身となりそうな感じだったので、心身の負担を考慮した上で、徳本は総合的な能力が高く、部員の信頼度も厚く、誰にも好かれる翔一郎を指名したのだった。副部長が嵐と斗音ということになった。普通は部長がいないときに代理となるべき人物だろうが、二人とも部長よりいないことが多いのと、今年インターハイに出場したということで、来年度の新入生が増えるのが目に見えていることから、部長一人、副部長二人という体制になったのだ。これにも反対する人間は誰もいなかった。
 翔一郎は、徳本よりも更に斗音の仕事に理解があった。とにかく無理だけはするな、というのが部長命令として、一番に斗音に出されたものだ。インターハイの最後の試合でのことを考えると、それも誰もが納得することで、木下も、少しでも体力が持続するような斗音用のメニューを考えてくれた。なかなかそれもできないでいるのだが。
 そして、やはり大変だったのは剣道部だった。夏休みが終わる四日前、慈恩の引越しの前々日、近藤は部長の引継ぎを行った。それまで三年生は全員部活に参加していたのだから、それも相当大変だっただろうが、近藤の言ったことには誰一人文句を言わなかった。全国で戦ったその姿が、そしてそれを目指して積み上げてきた今までの姿がそうさせたのだ。厳しかったが、近藤は名部長に違いなかった。
「今まで俺たち三年生が残ってきたのには、わけがある。新しい部長を育てたかった。でも、この夏の練習を経て、二年生も随分逞しくなった。まだまだ頼りないところもあるけど、今なら部長を任せることができると思う」
 いつもの練習が終わってから、部員全員を集め、近藤はまずそう言った。そして、じっと正座をしている二年生の一人に目を留めた。
「田近」
「は、はい」
 静かな近藤の声に、田近はびくりと背筋を震わせた。何を言われるのかと、身構える。そんな彼に、近藤は有無を言わせない重みのある声音で告げた。
「お前に部長を任せたい。やってくれるだろうか」
「・・・・・・えっ・・・・・・」
 部員全員が呼吸を止めた。一人の凛々しい瞳を持つ、誰もが認めていた実力の持ち主以外は。
 三年生も動じはしたが、声は出さなかった。前もって、何を言っても文句を言うなと言い刺してあった。
「田近、返事は?」
 近藤の迫力に押されて、田近は戸惑う。
「あの・・・・・・なんで俺なんですか・・・・・・?俺は、慈恩だとばっかり」
「その椎名の推薦だ。俺もお前がふさわしいと思う。実力でも二年生の中では文句ないだろう」
「推薦て・・・・・・」
 困惑したように、隣に座っている慈恩に視線を送ると、その視線の先には静かな微笑みがあった。
「お前ならできるよ。近藤さんの部長としてのすごさ、お前分かってたろ?」
 低くて優しい声。それにはもうとうに決断した者の響きがある。
「お前は?何でお前がやらないんだよ」
 その問いかけは、慈恩の静かな微笑みに、ほのかに悲しみを加えた。
「俺にはもう、できないんだ」
 田近が目を瞠る。道場内がざわめいた。それを近藤が制する。
「俺も椎名を、と考えていた。でも、椎名は八月一杯で如月から転校する」
 部長の制止を破るざわめきがあちこちで漏れた。驚きの声、どうして、なぜと、わきあがる声を、「騒ぐな!」と近藤が一喝した。そして、改めて田近に向き直る。
「だから、田近、お前は俺と椎名、二人分の指名を受けているわけだ。・・・・・・自信をもってくれていい。どうだ?やってくれるか?」
 再び視線を向けてきた田近に、慈恩は頷いて見せた。
「俺の分も、頼むよ」
 一瞬何か言いたそうに動いた唇は、それを飲み込むように噛み締められた。そして、近藤に向き直る。
「俺・・・・・・何も考えてなくて、まだ覚悟とかもしっかりできてないかもしれないけど・・・・・・尊敬する二人がそう言ってくれるなら・・・・・・全力を尽くして二人の意志に応えたいと思います」
 近藤はしっかり頷いた。
「よし。よく言ってくれた。じゃあ、俺からの最後の願いだ。全員で田近をしっかり支えて、如月高校の規律正しい剣道部の伝統を、お前たちの手で守って欲しい。頼んだぞ」
 新チームの核となるべき田近を初め、実力としては田近にひけをとらない百瀬やいつも強気な斉木、小柄でも引くことを知らない小林、温和で慈恩を慕ってやまない堂本らが、強くうなずいた。
 しかし、この引継ぎによって、剣道部とその身近な人間の間では、たちまち慈恩の転校の話が広がった。情報の早い嵐は、その引継ぎから半時も経たない内にそれを知り、部活を終えたばかりの慈恩を捕まえて、言葉荒く詰め寄った。
「どういうことだよ!何でそんな大事なことを、俺はお前以外の奴から聞かなきゃならねえんだ!」
 それこそ胸ぐらをつかんで、ものすごい勢いで。転校するという事実ではなく、それを直接言わなかったことに腹を立てるのが嵐らしくて、慈恩は思わず苦笑してしまった。
「ごめん。ほんとは夏休みが終わるまで、誰にも言いたくなかったんだ。でも、引継ぎ上、仕方なくね。剣道部のみんなに知られた以上、お前にも、それから翔一郎たちにも、言うつもりでいたよ。お前の情報収集が早すぎるんだよ」
 自分がないがしろにされたわけではないと分かって、すぐに落ち着きはしたものの、嵐の機嫌は直らなかった。
「斗音もいなくなるのか?」
「いや、斗音は残るよ。いろいろ複雑な事情があってさ・・・・・・」
 洞察力の鋭い嵐に隠し事は無駄だと知っているので、慈恩は洗いざらい九条家とのことを話したのだが、それでも納得してもらえなかった。
「お前、それでいいのか?いい加減、自分が犠牲になってるって思わねえのか?」
「犠牲って・・・・・・。斗音だって、そうすることを望んでるし、俺としては最善をとったつもりだけど」
「最善?馬鹿な。斗音が本気でそんなこと望むわけないだろ。むしろ最悪だと思うぜ」
 かなり厳しい物言いに、慈恩は困り果ててしまった。
「俺だって迷ったし、悩んだよ。でも斗音がそう言う以上、俺はこうするしかない。どんな理由からであれ、俺の傍にいたくないっていう斗音の思いは、本物なんだ」
「じゃあお前の想いはどうなってもいいって言うのか。お前は斗音を守ることを自分の使命にしてたんじゃねえのか」
「今でもその思いは変わらない。でもそう思うことが、そう思って俺のすることが、あいつの負担になるんだ。あいつは俺の足枷になりたくないって言った。俺はそんなふうに感じたことはなかったけど、あいつはそう感じてたんだ、ずっと。俺は結構未練たらしく思ってた。斗音は俺を必要としてくれてるんじゃないかって。でも、結局俺の独りよがりでしかなかったんだ。だったら、俺を切実に必要としてる九条に行くべきだと思った」
「行くべきとか、そんなんじゃねえんだよ。お前はどうしたかったんだよ。それがお前の気持ちじゃねえか。何をするべきかよりも、何がしたいかを選択しなきゃ、後悔するぜ」
 嵐の言いたいことは、慈恩もよく分かった。自分だって、そのことで散々悩んだのだから。そして、最終的にたどり着いた結論を告げた。
「斗音に・・・・・・自分が足枷になってるだなんて、そんなふうに思わせたくないんだよ。そんな負担に、俺はなりたくないんだ。それが俺のたどり着いた答えだった」
 その言葉で、嵐は瞠目したまま凍りついた。そして、次の瞬間、やりきれなさを色濃く表情に表した。
「馬鹿だよ、お前も、斗音も。・・・・・・なんで決めちまう前に言ってくれなかったんだ。勝手に一人で悩んで、勝手に答え出して。そんなに俺は頼りなかったのか?」
「そんなんじゃない。ただ、誰にも・・・・・・言いたくなかったんだ。たぶん、それを言うのが怖かったんだ。言ったらその分現実味が増すから、それから逃げてたんだと思う。結局現実になるんだけどな・・・・・・。ほんと、馬鹿だな、俺」
 自嘲気味に笑ったら、嵐に抱きしめられた。抱きつかれた、といった感じだったが。
「お前がとことん自分のことに対して鈍いのは知ってた。・・・・・・俺はお前が好きだよ。そんなこと、忘れてたろ。お前がいなくなるのが嫌だと思ってるのは、斗音だけじゃねえって」
「・・・・・・嵐・・・・・・」
 自分より少しだけ背の高い嵐の淡紫色の髪が、頬に触れる。この友人が、慈恩も好きだった。誰よりも頼れる、心強い親友。かすかに目頭が熱くなった。
「そんなふうには思わなかったけど、お前と・・・・・・あいつらとも、離れたくなかったよ、俺。こんなにいい仲間、そうそう巡り合えるもんじゃないと思うし。・・・・・・でもさ、離れたからって終わっちまうほど付き合い浅くないと思ったから。それに、斗音のこともきっと見ててくれると思った。だから選べた。・・・・・・自信過剰だったかな、俺は?」
 背中と肩に回された腕に、力がこもった。
「終わらせてたまるかよ。容赦なく呼び出して、つき合わせてやるから、覚悟してろよ。斗音のことだって・・・・・・無茶しないように見ててやるくらいしかできねえけど、なんかあったら速攻連絡するからな」
「・・・・・・そう言ってくれると思ってた」
 込み上げる思いを、そっと目を閉じて抑える。

「ありがとう・・・・・・嵐」

 執行部が慈恩のことを知ったのも、同じ日だった。学校が始まる一週間前から、執行部は如月祭に向けての活動を始めていた。その仕事をするのが最後になるため、いろいろ引継ぎなどもしなければならなかったので、打ち明けることになった。
「えっ・・・・・・マジで?」
「なんで?」
 武知と弓削は、素直に驚いた。藤堂も同じ気持ちだったらしく、唖然として慈恩を見つめた。
「随分急な話なのね・・・・・・」
 莉紗はむしろ呆然としている感じだった。今井は、信じられない、といったふうに軽く首を振った。慈恩より斗音に目をやり、その視線で本当なのかと訴えかけた。斗音がそれを受けて頷くと、何か言いたそうにしたが、それを振り払うようにもう一度頭を振った。そんな、と小さくつぶやいて。
「一番忙しい時期に、こんな中途半端な形で無責任に放り出すことになってしまって、本当に申し訳ありません。俺の手がけていたことは、全部斗音に引き継いであります。でも、二人分の仕事は大変だと思うので・・・・・・どうか、斗音を助けてやってください。お願いします」
 言って深々と頭を下げた慈恩に、斗音も続いた。
「できる限り、俺が慈恩の分を担当します。至らないところもあると思いますけど、よろしくお願いします」
 剣道部のとき同様、それ以上の事情は語らなかった。ただ、慈恩が養子になるのだということと、斗音が椎名家を継ぐのだということで納得させた。
「まあ、分かる気はするよ。子供がない人にとって、こんな条件のいい養子はないもんな。容姿端麗頭脳明晰、文武両道ときたもんだ」
「次男だしな。斗音の場合、家とか財産とか守らなきゃなんねぇけど」
「そんなの、ずっと大人になってからの問題だと思ってたけど、斗音くんと慈恩くんは今までそうやって遺産相続してたんだよね」
「転校先って、慶応大学付属って言ったっけ。結構お坊ちゃま学校だな」
 仕事をしながらも、二人のことを口々に言い合う執行部員たちだったが、今井だけは何も言わずに黙々と仕事をこなしていた。時折何かを考え込んでいるようにしたり、斗音や慈恩に視線をやったりもしていたが、結局その時は、仕事に必要なこと以外は口にしなかった。
 やがて仕事が一段落して、帰り支度を整えた執行部員たちがばらばらと生徒会室を出たとき、初めて今井は慈恩の肩をつかんで引き寄せ、周りをはばかるような小声で言った。
「斗音を一人にするのか?」
 慈恩が凛々しい瞳を見開く。振り返ると、真剣な目の今井が映った。
「あいつがお前にどれだけ依存してるか、お前分かってるのか?」
「・・・・・・依存・・・・・・って・・・・・・?」
 今井の顔がかすかに歪む。
「あいつ、随分前から何か悩んでるみたいだったけど・・・・・・もしかしてこのことだったんじゃないのか?俺では・・・・・・あいつの支えにはなってやれなかった。あいつを苦しませるのもお前かもしれないけど、支えられるのも結局お前しかいないんだと、俺はそのときに思った。なのに・・・・・・」
 今井がそこまで気づいていたとは思わなかったが、その言葉は慈恩の胸に押し込んである傷口を撫でた。
「・・・・・・斗音が望んだことです。・・・・・・どうか、斗音のことをお願いします」
 慈恩のやや苦しそうにも見える表情を見て、今井は整った眉を少しだけ寄せた。
「・・・そうか。・・・・・・無神経なことを言ったな。悪かった」
 切なそうな、やや苦しげな表情に、寂しさが宿る。
「そんな大事なこと、お前が簡単に決めるわけないよな。きっとお前も悩んで迷って・・・・・・そうしてその決断を下したんだろう?俺が、のんきに時間を浪費してた間に・・・」
 苛烈さや激しさといったものはなかったが、そんなに俺は頼りにならなかったのか、と言った嵐の表情に、少し似ていた。
「・・・・・・俺にできるだけのことはしよう。約束する。・・・・・・お前もいろいろ大変だろうけど・・・・・・お前ならきっと大丈夫だ。元気でやれよ」
「はい。・・・・・・ありがとうございました」
 今井に深く礼をする。今までの感謝と、これからのことを依頼する気持ちを込めて。そんな慈恩の肩を押し上げるようにしてから、改めて今井はそのすらりとした背を抱いた。
「・・・・・・部活との両立も、大変だっただろう?無茶ばかり言ってすまなかったな。・・・・・・ありがとう」
 慈恩の胸に熱いものが込み上げる。知っていたのだ、この生徒会長は。自分は大変だなんて一言も言ったことはなかった。大丈夫だと、自分の仕事で他人に迷惑は掛けたくなかったので、気丈に振舞っていたはずだった。何もかもお見通しで、それでも自分の思いを理解して、何も言わずにいてくれたのだ。大切にされていたのだと、唐突に実感する。不意に思いもかけず、瞳からこぼれたものに、自分で驚いた。
(な、なに・・・・・・?)
 離れようとして、今井も気づいたらしい。一瞬動きが止まった。
(見られ・・・・・・)
 どうやってごまかそう、と、一瞬よぎった。人前で泣くなんて、慈恩の中では有り得ないことだった。そんな慈恩の首を掻き抱くようにして、今井は自分より背の高いその頭を、自分の肩にそっと押し付けた。
 他の人がどの角度から見ても見えないように、さりげなく隠してくれたのだと分かった。背後から斗音のハスキーボイスが聞こえたからだ。
「慈恩。俺、ちょっと教室の方にも顔出してくるから、校門で待ってて」
 返事も待たずに駆けて行く足音。それが遠くなるのを待ってから、今井は、漆黒の髪を優しく撫でた。
「ほんとに、ありがとな」
 意図しないままに、ハラハラと零れ落ちる熱い涙をどうすることもできず、慈恩は微かに背を震わせながら頷いた。
「・・・・・・はい」

 心の底から、執行部をやってよかったと、如月にいてよかったと、湧きあがる思いが溢れて、顔を上げることができなかった。そんな後輩の頭を、如月高校生徒会長は優しく撫で続けていた。

   ***

「斗音、ヨーヨー大丈夫か?」
「衣装合わせしてみてよ。たぶん斗音くん細いから着られると思うけど」
 クラスの方でも、出し物が本格的に進んでいた。執行部の仕事をこなす傍ら、こちらでも斗音は引っ張りだこである。
「一回通してみようと思うんだけど、今時間大丈夫か?」
「ちょっと待ってて。クラス企画の審査表、印刷しっぱなしだから、それだけ届けてすぐ来る」
 廊下はほとんどパタパタ走っている状態だ。印刷室で出来上がっている印刷物をそろえて、生徒会室へ運ぶ。
「今井さん、企画審査表できました!ここに置いときますね。それから、体育祭の競技得点案、さっきプリントアウトしておいたので、プリンタに出てきてると思うんですけど」
 てきぱきと済んだ仕事の報告をしてくる副会長の姿を、生徒会長はまじまじと見やった。
「斗音、何だそれ?」
「え?」
 斗音はきょとんと自分が手にしていた印刷物を見る。間違っていない。ちゃんと頼まれていたものだ。
「文化祭の審査表ですけど?」
 今度は今井がきょとんとして、それから苦笑する。
「いや、それは合ってる。ありがとう。じゃなくて、そのカッコだ」
 あ、と斗音が思わず声を上げて、困ったように笑う。
「衣装合わせしてたの、忘れてました。おかしなカッコですみません」
 赤くて長いスカーフのセーラー服。おかしいどころか、かなり似合ってしまっている。すらりと背の高い、綺麗な女の子に見えるから、笑うことも難しい。
「スケバン刑事って、昔の不良だろ?昔の不良って言ったら、スカートはくるぶしまであるんだぞ」
 表情をごまかすための、どうでもいい知識である。が、斗音は膝上のスカートの裾をつまんで律儀に答える。
「そうなんですけどね。今時の女子中高生、長いスカートをはく子って少ないらしくて。古着屋も回ったそうなんですけど結局なくて、中学校がセーラー服だった背の高い女子のを借りたんです。スカーフだけはまた別の子のなんですけど、とにかく有り合わせで」
「そうなのか。まあ、別に何でもいいんだけどな」
 思わず落とした視線の先に、白くてすんなり長い足があって、思わず赤面する。
(馬鹿野郎!これくらいの脚の持ち主、いくらでもいるだろう!本物の女の子のスカートはもっと短いぞ!)
 如月高校の生徒会長に似つかわしくないような、俗な思考回路で自分を押さえ込む。そんな自己暗示で頬に浮かぶ朱を最低限に抑える辺りは、さすがと言うべきだろうか。
 そこへ、乱暴にドアを開けて、手にした資料に目をやりながら武知が入ってきた。
「おい今井。個人競技で合わない人数の点数だけど」
 そこまで言って声をかけていた相手に視線を移そうとして、思わず声を上げる。
「おわ、斗音か!びっくりした。どこの学校の美少女かと思ったぜ」
 そして武知を追いかけてきた弓削も生徒会室に入ってくる。
「おい、玄道!足りないのは赤団だけ・・・・・・」
 視線が同じところへ集まる。弓削も目を大きくした。
「斗音か?お前・・・・・・・・・・・・」
 しばらく言葉を溜めたあと、思い切り感心したように続けた。
「美人だなあ」
 まじまじと見つめられて、斗音が白い頬を染める。
「なっ、何言ってんですか!あんまり見ないでくださいよっ!」
「いやぁ・・・」
「だってなぁ・・・・・・」
 武知と弓削は顔を見合わせて大きく頷いた。
「なかなかいないぜ、これだけの女」
「その脚なんて、犯罪だぞ。電車に乗ったら間違いなく痴漢が寄って来るだろうな」
 言われて斗音は思わずぷくっと頬を膨らませる。
「からかわないでくださいよ」
 白い頬を染めながら、それでも気丈に上目遣いで先輩たちを見上げる姿は、ますます可愛らしい。武知は爆笑した。
「お前、それ人前でやらねえ方がいいぞ。ぜってえ襲われるから」
「武知さんっ!」

 困惑と苦笑を浮かべたまま、武知に勘弁してくれと訴える。弓削はそれを興味深げに見つめ、今井は額に手をやって、勘弁してくれと心の中で叫んでいた。

 そんなハプニングも起こしつつではあったが、この休む暇もないせわしなさは、斗音にとってはありがたかった。自分のことなど考えている余裕すらなくて、息をつきでもしたら心が沈んでいくような思いを忘れていられた。家に帰るのも九時を過ぎることが多くなり、食事をして風呂に入って、次の日の予習や宿題をしたら、あとは倒れるようにベッドに横になる。そして、目を閉じて、次の瞬間目を開けたら朝日が差し込んでいる。そんな感じだった。
 なかなか夕食で温かい物を出せないことに気を使っていたのは沢村、そして、そのハードな生活をかなり心配していたのは三神だった。
「朝食くらいはなるべく温かい物をお出ししますから、お許しくださいね。ただでさえも少食でいらっしゃるから、少しでも食がお進みになるように、一番おいしい状態でお出しできるように心がけますわ」

 朝食のときにしか顔を見ない沢村は、本当に申し訳なさそうに、斗音にそう言った。斗音の食欲不振の症状は、インターハイの頃からずっと続いたままだったのだ。それで逆に申し訳なく思ってしまった斗音だったが、三神はもっと深刻そうだった。
 
いつもと同じように、気だるさを押しのけて仕事をして、九時を半時も過ぎた頃に帰ってきた斗音に、三神は温めた夕食を整えながら、表情を曇らせた。
「夏休みが明けてから、本当に休む暇すらなさそうですね。お食事もあまり進まれないようですし、お身体に異常はありませんか?」

 斗音は一瞬息を飲む。
 
なくはない。一瞬に感じる睡眠で、身体の疲れはとれた気がしない。少しずつ、手足が重くはなってきている。そのせいなのか、時折不意に睡魔に襲われそうになったり、運動したあとに動くのが億劫になってしまったりもする。でも、動こうと思えば動けたし、何より喘息が出ることはほとんどなかった。出たとしても本当に軽いものだったので、気にもしなかった。だから、努めて明るく答えた。
「大丈夫。これで塾に行ってる奴なんて、きっともっと大変だろうな。行ってなくてよかったよ。・・・・・・でも、そういえば、最近三神ともほとんど話してないな」
「・・・・・・食事の時間くらいですね。検温も、部屋に行ってみたらもうお休みになっていることがあるので・・・・・・」
 斗音は一瞬、細かく瞬きをした。
「あ・・・・・・ごめん。意識飛んじゃって」
 軽く吐息して、三神は続けた。
「いえ、疲れていらっしゃるのはよく分かりますから。でも、触れても起きられないので、時々不安になります。このまま目を覚まさないのではないかと・・・・・・」
「え、そうなの?寝てる時は一瞬に感じるんだけど、ちゃんと熟睡してんだ」
 何気ない斗音の一言に、三神はそっと溜息をついた。
「・・・・・・あまり無理をなさらないでください。思わず揺すって起こしたくなるのを堪えるのも、なかなかつらいものですよ。そんな睡眠で疲れもなかなか取れないでしょう。一日くらい、休んだらどうです?」
 思わず斗音は苦笑した。
「そんなわけにはいかないよ。今一番忙しいし、俺までいなくなったりしたら、執行部はパンクしちゃう」
「その前に、あなたが倒れますよ。そんなことになったら、もっと大変なことになるんじゃないですか?」
 あくまで真剣な三神に、それほどまでに気に掛けてくれているのだと感じて、やや翳りのある微笑みを浮かべた。
「・・・・・・うん。そうだね。ありがとう、心配してくれて。気をつけるからさ・・・・・・」
 三神を見上げる。
「だから、よろしく」
 三神の表情が、かすかに歪んだような気がした。その表情が何を意味するのか、斗音にはつかみきれなかった。ただ、答えは簡潔だった。
「・・・・・・はい」
 その誠実な返事に、三神は行動を伴わせた。いつものように斗音が風呂から上がり、三神に入るよう促してから、重い思考回路と戦いつつ、部屋で宿題を片付けていると、ノックがあって、相変わらずちゃんとした格好の三神が部屋を訪れた。いつもならなるべくプライベートの時間を守ろうとして、検温の時間以外には部屋に来ようとしない彼だが、手には薄手のカーディガンとココアの香りを含んだ湯気を漂わせるマグカップがある。
「失礼します。・・・・・・お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞ」
 言って、丁寧にカップを机に置く。そして、そっと首筋に大きな手を触れた。不思議そうに振り返る斗音に、薄く笑みを見せた。
「最近朝晩はかなり気温が下がっていますから。ほら、もうこんなに身体が冷えている」
 優しく肩にカーディガンを羽織らせる。
「あ・・・・・・りがと・・・・・・」
 やや戸惑い気味の斗音に、再び静かな笑みを見せる。今度は優しくアッシュの髪に触れた。
「髪も濡れています。ちゃんと乾かさなくては・・・・・・随分冷たくなっていますよ」
「あ、ごめん・・・夏はすぐに乾いてたから、あんまり丁寧に乾かさなかったんだ」
「気をつけるのでしょう?もっとご自分のお身体を大切にしてください。これからもっと寒くなるのですから」
 両肩をまるで温めるかのようにしばらく手を置いてから、三神はいつものように丁寧に頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。お休みになられる前には、できればお声を掛けてください」
「うん。気をつける。・・・ありがとう」
 三神の触れた髪に触れ、斗音は思わずそれをつかんだ。まるで慈恩のような気遣い方。
『ほら、早く髪乾かさないと』
 慈恩の口癖のようなものだった。O型のせいなのか、比較的大雑把な斗音をいつも気遣っていた。大きな優しい手も、慈恩のそれを思い出させた。何かが麻痺したように、思考がくらりと揺れる。
「・・・・・・乾かさなきゃ・・・・・・」
 ふらりと立ち上がって、ドライヤーの置いてある一階へ向かう。一段一段、それを覚えている身体が進むのに任せて、ゆっくり階段を下りる。
(早く、乾かさなきゃ・・・・・・風邪をひくと、いけないから・・・・・・)
 頭の中にはそれしかない。ぼんやり前を見ていたつもりだったが、その視界が、不意に歪んだ。何が起こったか分からなかった。次の瞬間には鈍い衝撃が全身に走っていた。目の前は真っ白から真っ黒になって、頬に冷たいものが触れたのが分かった。そして鈍い痛みに身体中が悲鳴を上げる。
「斗音さん!大丈夫ですか、斗音さん!」
 耳元で必死に呼ぶ声が聞こえる。ああ、三神だ。また心配をかけてしまった。ただでさえも、いろいろ心配させているのに。必死で重い瞼を持ち上げる。狭い視野に、ぼんやりと切れ長の目が映る。
「・・・・・・髪、を・・・・・・かわ・・・か・・・さ・・・・・・な・・・・・・きゃ・・・・・・・・・・・・」

 声がはっきりと擦れた。でも、それ以上の意識は保てなかった。全ての物が自分の周りから消え失せた。

「しっかりして下さい!斗音さん!斗音さんっ!」
 華奢な身体を抱き起こして、三神はその蒼白な頬を軽くたたいた。
「斗音さん・・・・・・・・・・・・」
 全く反応がない。もともと白い肌は、まるで陶器のように生気を失っている。
「駄目か」
 言わないことじゃない。と、小さく溜息をつく。一瞬、脳の神経が焼け付くかと思うような感覚に囚われた自身を、落ち着かせるように。怪我のないことを確かめてから、ぐったりと力の抜けた斗音を軽々と抱き上げる。事実、軽い、と感じた。
(五十キロあるのか?この二週間で、痩せたような気もするな)
 そのまま斗音が下りてきた階段を再び上がる。開けっ放しだったドアを難なくくぐり、片足で乱暴にベッドの掛け布団を跳ね上げると、そこに身体を横たえた。
「・・・・・・斗音さん?」
 耳元で呼びかけてみるが、やはりぴくりとも動かない。頬を手の平で包んでなぞる。肉付きの薄い、すべらかな感触。きめの細かい白い肌は、まるで絹のようだ。指で唇をなぞる。思ったよりも柔らかい。背筋が震え、繊細なその感触に唾を飲む。今まで理性を総動員して押し殺してきた感情が、一気に膨らんでいく。思わず吸い寄せられるようにして、自分の唇を覆いかぶせた。その感触の快さに、思わず喰らいつくように何度も口付けた。何度も何度も想像で自分の感情を抑えてきたが、考えていたよりずっとそれは心地よかった。無意識のうちに、いつも硬く閉ざしている心の中で繰り返し行ってきたように、指が胸元のボタンを外していく。検温のときとは全く違う。止めなければならないというストレスもない。徐々に顕れる白い肌に、全身の細胞が興奮する。首筋からそっと指を滑らせる。くっきりと浮き出した鎖骨は、やはり細い。胸にかかる十字架が照明の光を鈍く反射する。両脇に手を滑らせると、締まった細くて薄い腰。思わず繊細なラインをなぞる。そのまま唇を落とそうとしたとき、斗音の呼気がかすかに声帯を震わせた。
「・・・・・・ぅ・・・」
 びくりと顔を上げ、そっと長い睫毛が影を作っている顔をのぞきこむ。微かに柳眉が寄せられていた。
「・・・・・・斗音・・・・・・さん・・・・・・?」
 おそるおそる名を呼ぶと、閉じたままの瞳からじわりと雫が浮き上がって、見る間に睫毛を濡らした。それでも足りずにこめかみへ滑り落ちる。くしゃりと広がったアッシュの髪をそれが濡らしたと同時に、再びひどく擦れた声がこぼれた。
「・・・慈・・・恩・・・・・・」
 三神がきりっとした男らしい眉根を寄せる。思わず手に触れていたはだけたシャツを、力任せに握り締めた。
(今触れているのは俺なのに・・・!他の奴がいる・・・・・・この人の心の中にいるのは、俺じゃない!あんな・・・あんな隠し子なんかに心の中を一杯にされてたまるか!俺の想いに気づきもしないで・・・っ!)
 猛る感情のままにその身体を奪ってしまいたかった。でも、同じくらい気づかれるのが怖かった。今の段階で気づいたら、今までの我慢は台無しだ。同性に穢されたと知れば、彼は自分に一片の感情も持たないまま、ただ嫌悪し、自分から離れてしまうだろう。心が離れられないようにしてから、それからでなければならない。この狂いそうなほどのねじれた感情を、彼は半狂乱ででもいい、受け入れなければならないのだ。愛という器で。
 
三神は血が滲みそうなほど強く、唇を噛んだ。このねじ曲がった想いが、共に過ごし始めてからの二週間で育っていたのを、痛いほど感じていた。自分に興味津々で、色々知ろうとしてくれたこと。初めはその無邪気さを踏みにじる瞬間に思いを馳せ、欲望を噛み殺していたはずだった。それなのに、学校が始まって、途端に話す機会が激減して、あの時間がいかに愛おしい瞬間だったのかを突きつけられた。だから、ほんのわずかな時間の他愛ない会話すら、嬉しくて幸せでたまらなかった。日を追うごとに、疲れたような、優れない顔色に不安が込み上げてきた。
 不安?何が不安だというのだ。計画は順調だ。思い通りに、ことは進んでいる。
 そう思って、自分の不安を掻き消してきた・・・はずだった。それなのに。
『よろしく』
 自分を頼ってくれた瞬間、震えそうになった。そして、唐突に悟った。自分にできることなら、精一杯のことをしてやりたい。気遣えというなら、どれだけでも気遣ってやる。それで、この主人の思いが自分に向くのなら・・・。
(そうだ・・・俺は・・・)
 
何かを振り払うかのように、必死に、まるで命を削るかのように懸命に生きるこの少年。それでいて、使用人である自分をすら気遣う優しさを持ち合わせ、どんなにつらそうにしていても、健気に笑顔を見せようとする。その姿に、ただならぬほど惹かれ始めている。この華奢な身体はもう、ただの好みの器だけではなくなってしまっていた。
 血色の悪い唇に、三神は深く口づけた。そして、一切の力を失っている身体をきつく抱き締める。
「・・・・・・好きなんだ・・・・・・あなたを愛してる・・・・・・!」

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