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2009年2月

二十四.絆だから

 夏の日差しはまだまだ衰えないように見えるが、それでも確実に朝と夕の気温は下がってきていた。八月三十日、世間の学生たちにとっては、なかなかに切ない夏休みの終焉が迫る日である。しかし、椎名兄弟にとっては、切ないどころか、快晴のその空さえどんよりとした曇りに思えるほど、心が塞がれている日だった。
 引越し業者が持ち出したものは、慈恩が所有していた本や衣類、小物やコンポなどの自分専用の電化製品、竹刀や防具くらいだった。ほとんどの物は斗音と共同で使っていたし、九条家には何不自由のない設備がそろえてあり、慈恩が持って行くものなどほとんどなかった。防具を別にすれば、せいぜい段ボール箱にして七~八箱程度である。
 
絢音と雅成も、斗音に挨拶しがてら、手伝いに来てくれていた。絢音が、如月バスケ部のインターハイ最後の試合にいたく感動したらしく、ひたすら斗音にその感動っぷりを身振り手振りで説明しているのを見て、雅成と慈恩はやれやれ、と肩をすくめた。
「もう、お忘れ物はございませんか?」
 九条から高級車で、慈恩の迎えに来ていた執事らしき初老の男性が、丁寧に慈恩に声を掛ける。
「・・・・・・たぶん、いいと思います。もし何かあったら、また取りに来ますから」
 慈恩は自分が十七年の月日を過ごしてきた家を、目に焼き付けるように見つめた。優しかった家族。自分を育んでくれた家。そして、両親の思いを受け、兄を守ることを己の使命としてきた二年間。それを自分は今、全て手放そうとしている。
「何か気づいたら、連絡してよ。俺、準備しとくからさ」
 にこり、と斗音が笑った。それが心からの笑みでないことくらい、よく分かる。それでも慈恩は、この場面で笑顔を作る余裕はなかった。斗音の天使のような微笑みをじっと見つめる。その白い首には、プラチナの鎖がかかっている。
『これ、お前に返さなきゃな』
 昨夜そう言ってかけてやった、母の形見。ずっと肌身離さなかった、十字架。斗音は驚いて、大きな薄茶の瞳で見つめ返してきた。
『どうして。これ、母さんが慈恩に持ってろって渡した形見だろ?』
 胸が潰れそうな思いで、慈恩はそれでも斗音のために微笑した。
『・・・・・・俺だけ、本当の家族じゃなかったからな。・・・・・・母さんが言ったこと、覚えてるか?これが、私たちとあなたをつなぐもの・・・・・・。そう言って俺に渡した』
 斗音の表情が一瞬硬くなる。そんな彼のやわらかい髪をそっと撫でた。
『これが俺と・・・・・・椎名家をつないでいた。だけど、もう俺は椎名を名乗れないから。椎名の家を守っていかなきゃいけないのはお前だから。だから、お前に返す』
 それでも斗音は納得しなかった。慈恩の言った言葉に、その綺麗な瞳を潤ませながら言い返してきた。
『だったら尚更・・・・・・!これは母さんと・・・・・・この椎名の家とお前をつないでる絆だろ?間違いなくつながってるっていう、絆の証なんじゃないのか!』
 絆。そう、絆だった。斗音を最期まで守りたかった母の思い。そして、自分はそれに誓ったのだ。母の思いを引き継いで、斗音を守ると。その思いこそが、母と、そして椎名の家と自分をつなぐ絆。
『絆だから・・・・・・その十字架(クロス)は、ずっと俺が守ろうとしてた気持ちそのものだから』
 斗音の瞳から零れ落ちた、透き通った雫を、そっと指で拭った。
『母さんの思いと、俺の思いの分、ちょっと重いかもしれないけど、お前を守りたい気持ちがここにある』
 零れ落ちる雫が、とても指では拭いきれなくなって、頭を抱え込むようにして抱き寄せた。
『忘れないでくれ。俺たちがずっと、お前を大切に思ってること。・・・・・・だから、自分の身体を大事にするって・・・・・・この十字架に誓って欲しい』
 そっと華奢な肩を押し上げると、ぐっしょり濡れた睫毛を瞬かせて、斗音はしっかりと頷いた。そして微笑んだ。
『・・・・・・俺の大事な人たちの思い、ちゃんと忘れないように、今度は俺が、これを肌身離さず持ってる。きっとお前の思いが、俺を守ってくれる』
 そう言った斗音を、思い切り抱きしめた。約束だぞ、と、言葉にする代わりに。
「お荷物は以上ですね。では九条様のお住まいへ移動させて頂きます」
 引越し業者も一流どころなのだろうか。言葉遣いが非常に丁寧である。その言葉が、慈恩を現実に引き戻した。
「斗音さん、三神の運転する車はこちらに置かせて頂きますから、好きな時に使ってくださって構いませんわ。あちらの片づけが終わってから来る家政婦の沢村と、この三神には、よく言ってありますから、何でもお言いつけになってね。ちゃんと間に合う人たちのはずですから」
 手伝いを終えて、自分たちの脇に控えていた三神を突き出すようにした絢音の表情には、申し訳なさが一杯である。自分たちの事情から、この二人を引き離すことになってしまった。だからこそ、自分たちにできることは何でも、精一杯にしたいという思いでいるのだろう。斗音も慈恩も丁重に断ったのだが、沢村と三神の給料はもちろん、彼らが椎名家で使う食料費やガソリン代など、全ては経費として九条家の通帳から落ちることになった。斗音自身が使う分には、今までどおり、父の遺してくれた遺産を、と考えていたのだが、絢音も雅成も、そんなわけにはいかない、と、毎月一定額を椎名家の口座に振り込むことを強引に決めてしまった。
「公の形では、僕たちは慈恩くんだけを引き取ることになるけど、僕たち自身そんなつもりはないから。九条の家に関わるのは慈恩くんだけど、それ以外のことに関しては、斗音くんも慈恩くんも一緒だよ。できる限り私たちの力で彼を養っていきたいんだ。散々わがままを言ってるんだから、これくらいさせてもらわなきゃ、僕たちは気がひけて気がひけて、旧家九条の名を堂々と名乗れない。君たちがどんなに要らないって言っても、それだけはさせてもらうからね」
 雅成は断言した。更に困惑する慈恩と斗音に、苦笑を見せて。
「逆に言えば、そんなことしかできやしないんだ。これもわがままかもしれないけど・・・・・・もうひとつくらい、わがままが増えてもいいだろう?」
 その言い方が雅成の誠意の表れであって、それを断ることが、雅成と絢音の、九条の人間としての、そしてこれから慈恩の親になる人間としての尊厳を傷つけることがよく理解できたから、それ以上二人は何も言えなかった。
「絢音様、雅成様。そろそろ業者が出るようですが」
 静かな三神の声に、絢音ははっとして振り返った。
「いけない、待たせてしまいますわね。それじゃ、慈恩さん、行きましょうか?」
 そう声が掛かるのを、ずっと覚悟していた慈恩は頷いて、斗音の肩にそっと手を置いた。
「何かあったら、いつでもいいから、すぐに連絡しろよ。何してても、最優先にして来る」
 真摯な眼差しを受けて、斗音は微笑んだ。
「そうする。でも、環境が変わって大変なのは慈恩の方なんだから、そっちこそ身体に気をつけて。何か連絡あったら、俺も飛んでくからさ」
 そんな無理をさせるわけにはいかないだろう、と慈恩は頷きながら思わず苦笑した。それを見て斗音がくすっと笑う。
「やっと笑ったね」
「・・・・・・斗音・・・・・・」
「慈恩はしょっちゅう笑うタイプじゃないけど、でも」
 少し迷うようにしてから、斗音は屈託ない笑顔を見せた。
「お前の笑ってる顔、俺、好きだよ」
「・・・・・・」
(そんな笑顔で言われて、どんな顔しろっていうんだ)
 兄と慕って、大切にしてきた人間と分かっていながら、抱きしめてやろうかと思った。そんな気持ちを紛らわすように、そのアッシュの髪をくしゃくしゃに乱してやった。
「肝に銘じておくよ」
 何すんだよ、とサラサラの髪を整える斗音を見つめて、心の底から微笑む。
「じゃ、行ってくる」
 まるで、戻ってくるかのような言い方に、斗音は思わず髪に伸ばしていた手を止めた。
「あ・・・・・・うん」
 雅成と絢音に付き添われて、高級車に乗り込んでいく長身の姿に、斗音は妙な感覚を覚えた。
(・・・・・・慈恩って、品があるなあ)

 高級車に乗り込む姿の違和感のなさに、やはり九条の血を引いているのだと納得する。思わず昨夜受け取った十字架を、カットソーの上から握り締めた。それには慈恩の気配があるような気がして、自分から遠ざかっていく引越し業者のトラックと、黒いベンツが視界から消えるまで、心が離れずにここにいるのを確かめるように、ずっとそうしていた。そんな斗音を、鋭い切れ長の瞳がやや不審そうに捉えていた。

   ***

 ずっと泊まり込みで椎名家に滞在することになった三神には、父親の使っていた書斎を提供した。三神は非常に丁寧で、礼儀をわきまえている青年だった。
「私の荷物まで置かせて頂いて申し訳ありません」
「そんなこと。俺が九条さんたちにしてもらってること考えたら、これくらいなんてことないよ。父さんの荷物は慈恩の部屋に移したし、一階の方がいろいろ都合いいと思うから」
「ありがとうございます」
 沢村は通いで朝の六時半から朝食を作るために来てくれることになった。そして夕食の片づけを終えて夜の八時には帰宅する。その間、洗濯や掃除などをするのは彼女である。もちろん、彼女にも家庭があるので、ずっと椎名家にいるわけではなく、洗濯や掃除など、終えてしまえば一度家に戻って家の仕事もするらしい。そしてまた買い物をして夕方にこちらに来るのだ。なので、ちゃんとした控え室は必要なかった。どうしても置きたい荷物があったりする場合は、三神の使う部屋を兼用するという謙虚さである。

 とにかくその日は色々なことを確認したりして、あっという間に過ぎていった。斗音としては、慈恩がいないことを思い返しているほどの暇がなくて、かえってありがたかった。
 
沢村の作ってくれた豪華な料理を、三神と二人で食べる。沢村はちゃんと家で食べるらしい。海老のマヨネーズ和えやワンタンスープ、手作りシューマイや中華風の豆腐サラダ、チャーハンなど、中華で統一された数々の品は、どれも中華料理店にひけをとらない出来映えだった。
「すごいね、沢村さん。慈恩も料理上手かったけど、沢村さんはプロって感じだ」
 斗音が言うと、沢村も謙虚ながら嬉しそうだった。
「そうですか?ありがとうございます。私、料理が趣味なんです。ご希望のものがありましたら、お言い付け下さいね。お好きなもの、お作り致します」
「俺、そんなに好き嫌いないけど、喘息の発作を起こしたりすると、慈恩はいつも栄養満点の雑炊っぽいもの、作ってくれたんです。消化しやすいものって。そういう時以外は、何でも大丈夫だと思いますよ」
 何気なく丁寧語を使う斗音に、三神が口を挟んだ。
「斗音様、沢村には丁寧な言葉でなくて結構ですよ。もちろん、私にもです。私たちはあくまで使用人でございますから」
 斗音は思わず、言葉を詰まらせた。三神が続ける。
「お呼びになられるときも、沢村、三神、で結構でございます」
「あ、えっと・・・・・・」
 今日一日は二人とも、何を言われても、ほとんどはい、はいとしか言わなかったので、気にも留めなかったのだが、普通はそうなのかもしれない。斗音はしばし悩んだ。そして悩んでから、苦笑した。
「でも俺、そういうの慣れてないから、年上の人を呼び捨てとか、難しいなあ。それに」
 アッシュの髪をさらりと掻き上げて、照れたように笑う。
「『斗音様』ってのもなしね。なんか、背中がかゆくなっちゃうよ。斗音でいいから」
「・・・・・・・・・・・・」
 三神は一瞬言葉を失った。そして、苦笑する。笑うと堅苦しい雰囲気が和らいで、やや緊張気味だった斗音もほっとする。
「使用人が主人を呼び捨てで、主人が使用人をさん付けでは、あまりにも様になりませんが」
「え、あ、あれ?」
 自分なりに考えたつもりだったが、かなり甘かったらしい。沢村がその慌てぶりの可愛らしさに思わずふふ、と笑みをこぼす。三神もくすっと笑った。
「斗音さん」
「え、なに?」
 どこまでも主人の自覚のない斗音に、三神は笑みを湛えたまま言葉をつないだ。
「そう呼ばせて頂いて、よろしいですか?これでも駄目ですか?」
「あ・・・・・・ううん。それなら大丈夫・・・・・・かな?」
 ややつり気味の切れ長の目が、優しく笑っている。ボディーガードも務めていたというから、かなり怖いのかと思っていたが、そうでもないらしい。そんな斗音の返事を待ってから、静かに頷いた。
「ではその呼び方で失礼させて頂きます。でも、私たちは使用人ですから・・・・・・」
「そんなこと言っても、雇ってくれてるのは九条家だし、俺、二十歳以上年上の人を呼び捨てには、きっとできないよ」
 やや困惑気味の斗音に、沢村は優しいおばさんらしくにっこり頷いた。
「ご無理をなさらなくて結構です。斗音さんのお好きなようにお呼びください」
 斗音がほっと笑う。
「よかった。ありがとう」
 しかし、三神はかなりこだわりがあるようだ。
「私は・・・・・・やはり気持ちの上でもけじめをつけたいのですが・・・・・・」
「三神さんじゃ、駄目?」
「・・・・・・私は常にお仕えする身ですし、その辺はしっかりしておいた方がよろしいかと。それに、斗音さんと二十も三十も離れているわけではございませんから・・・・・・」
「あら、いやだ。自分だってちょうど十歳離れてるくせに。それじゃあまるで私がおばちゃんだって強調してるみたいよ?」
 何気ない沢村のツッコミに、斗音は思わず笑った。そして、まだ戸惑いを浮かべたままで小首をかしげる。
「分かったよ。努力する」
 三神は冷静に頷いた。

「わがままを申し上げてすみません。よろしくお願いします」

 沢村が帰宅の途について、斗音が入れるというのを許さず、三神が風呂を入れた。
「風呂くらい、自分で入れるのに」
 肩をすくめる斗音に、三神は小さく首を振った。
「本来なら沢村の仕事です。しかし、沢村には帰宅時間がありますので、その代わりを私が務めるのは当然でございます」
 あまりにも丁寧な言葉遣いに、斗音は苦笑いを浮かべる。
「そんな最上級の敬語じゃなくていいよ。ここは大金持ちの旧家じゃないんだから。せめて、『です・ます』くらいで」
「斗音さんがそうお望みなら、そうします」
「うん、望む。あんま堅苦しいと、俺家でも息詰まっちゃうからさ」
 屈託ない笑みを見せる斗音に、三神は唇を歪めるようにして笑みを載せた。
「分かりました」
 三神が入れた風呂加減はちょうどいいくらいで、斗音は少し、任せてよかったと思った。どの道泊まり込む三神も風呂に入るのだから、とんでもない熱さの風呂を入れたりしたら大変だ。ちゃぷん、と浴槽に浸かって吐息する。長いような短いような一日だった。慈恩はいないけれど、三神や沢村がいてくれることで、この広いうちにたった一人にならずに済んでありがたいと思った。もし一人だったりしたら、それだけで慈恩のことを思い詰めて、ストレスで発作を起こしかねない。
「馬鹿だな、俺。普通、兄弟ったって、離れるのにここまで思い詰めたりしないよな」
 大きな溜息をつく。今頃彼もこうして、豪華な風呂に入っているだろうか。夕食の支度もしなくていい、身体の弱い兄を気遣って、もう少し読んでいたい本を閉じなくてもいい。気楽というには程遠いだろうが、自分と離れたことで解放されたことも多いはずだ。
(俺だって、三神さんや沢村さんが色々してくれるから、今まで以上に何もしなくていいし)
 これ以上変わった状況をくよくよ悩んだって仕方ない。今の状況を楽しまなければ。そう自分に言い聞かせて、ざぶん、と勢いよく浴槽から上がった。
「三神さん、風呂、熱いうちに入ってきたら?」
 濡れた髪をタオルで拭きながら書斎をのぞき込むと、手にしていた本をパタンと閉じて三神が立ち上がった。慈恩よりかなり背は高いだろう。
「ありがとうございます。斗音さん、三神、で結構です」
「あ、ごめん。湯加減、丁度よかったよ。俺がいれると、熱すぎることがあるからさ。任せてよかった」
 にこりと笑うと、三神もすっと線を引いたような薄い笑みを浮かべた。
「もうお休みになりますか?」
「ううん、もう少しテレビ見てぼーっとしてると思う」
「分かりました。お休みになるときは教えてください。絢音様と雅成様から言いつかっていることがありますから」
 やや意味ありげに、じっとパジャマ姿の斗音を見つめる。首をかしげてから、斗音は頷いた。
「・・・・・・うん、分かった」
 ブルーのワイシャツとスーツのパンツを手にして風呂に向かおうとする三神に、更に首をかしげる。
「パジャマとか、着ないの?」
「あなたがお休みになるまでは私の仕事の時間ですから。着替えるのは寝るときだけです。もう少し、起きているんですよね?」
 大真面目に言う三神に、斗音は大きな目を更に見開く。
「そうなの?なんかそんなこと言われたら、俺寝なきゃいけない気がする・・・・・・」
「いえ、私があなたに合わせるのです。あなたが私に合わせる必要はありません。使用人たる者、主人の前でパジャマを着ているわけにはいきませんから」
「律儀だなぁ・・・・・・俺は別にパジャマでも構わないけど・・・・・・風呂上りにそんな堅苦しい服、やじゃない?」
 三神は苦笑した。
「それはそうかもしれませんが、それが私の仕事です」
「仕事かぁ・・・・・・。仕事って、大変なんだな・・・・・・」
 つぶやくように言って、187㎝の長身を見上げる。
「それが三神さんのプライドなんだろうな。俺がどうこう言うことじゃないかもね」
 言って、慌てて訂正する。

「あ、と、また間違えた。ごめん」
 
そして無邪気に笑った。
「でも、もし三神が気楽な方がいいと思うなら、俺は何着てもらっても構わないからね」
 切れ長の目をやや大きくして、三神は斗音をじっと見つめた。数秒だったのだが、あまりにも見つめられるので、斗音は困ったように首をかしげる。
「俺何か、間違ったこと言った?」
 その言葉に、はっと我に返ったように、三神は首を振った。
「いえ・・・・・・いろいろ、驚いて」
「驚く?」
 三神の鋭い顔に苦笑が宿る。
「使用人としてそんなふうに気を遣って頂いたのは初めてです。それに」
 苦笑が、すっとシャープな笑みに変わった。瞬間、斗音の顔が、ややこわばる。
「初めて三神、と呼んで下さったので」
「あ、うん。間違えたけど」
 斗音の表情が緩んだ。
「努力するって言ったから。あ、でも、まだ間違えるかもしれないから、その時はごめん」
「いえ。ありがとうございます」
 笑みを浮かべたまま歩み去る三神の背を、斗音は不思議な思いで見つめた。
(・・・・・・何、この感じ・・・・・・?)

 無意識に、胸のクロスを、パジャマの上から指ですくうようにして包み込む。その感じたものが一体何なのか、斗音には分からなかった。ただなんとなく、仕事に対して律儀な好青年だと感じている相手から受けた『感じ』にしては、おかしな『感じ』のような気がしていた。

 一人でぼんやりテレビを見ていた斗音だが、やはりつまらない。夏休みの宿題を、終わる寸前に慌ててやる習慣を持ち合わせていない斗音は、今のところ特にやらなければならないこともない。まだ九時を少し過ぎたくらいだ。時計もなかなか進まないように思える。三神は斗音のプライバシーを守るため、必要がなければ自分の控え室となっている書斎にいる。もともと静かにじっとしているのが好きなタイプではないため、斗音は一時間もすると嫌気が差してきてしまった。
 書斎のドアをノックすると、襟元のボタンはきっちり留めていないものの、ちゃんと先ほど手にしていた服を身につけている三神がドアを開けた。
「何か御用でしたか?」
 そう聞かれて、一瞬戸惑う。
「あ、別に用とかじゃないんだけど・・・・・・」
 しばし思考を巡らせる。
「もしよかったら、少し話さない?なんか一人でテレビ見てても面白くなくてさ」
 三神が表情を和らげる。
「私でよろしければ、お相手します」
 居間に来ても、脇に控えるように立とうとする三神を、斗音は同じソファに座らせた。三神はやや躊躇いを見せながらも、斗音の勧めに応じた。
「よく考えたら俺、三神さんのこと何も知らないんだよね。三神さんは俺のこと、知ってたの?」
 「三神さん」を連発する斗音に、精悍さを漂わせる表情を崩してやや苦笑する。
「九条の家から、いくらか情報は頂いています。特にあなたのお身体のことに関しては、気をつけるように言いつけられておりますし、普段から気をつけることや対処などは心得ています」
 斗音の表情が少し翳る。ずっと慈恩を縛り付けてきたその身体のことは、斗音にとって心に深く負っている傷でしかない。それを感じたのか、三神が低い声の表情を努めて明るくした。
「あと、インターハイで何本もシュートを決めてらしたのを、見ていました」
「え、見てたの?」
「はい。あなたの心を乱さないようにしたいとのことで、お知らせはしませんでしたが、絢音様と雅成様がどうしてもあなたの試合を見たいとおっしゃいましたので、私もお供させて頂きました」
「そう、だったんだ・・・・・・」
 自分の内に確認するようにつぶやく。あの二人が自分に掛けてくれる愛情に触れた気がした。九条家の事情がなければ、本当は斗音も一緒に引き取りたかったのだと、切に語ってくれていた。本音だったのだと思い知る。少しだけ、嬉しかった。
「三神さんは?何かスポーツやってるの?」
「三神でいいですよ」
 先に制しておいてから、長い指を組む。
「いくつか武道をたしなんでいます」
「空手とか?」
「はい。空手と柔道、あと合気道です」
「へぇ・・・・・・すごいね。ボディーガードもやってたって聞いたけど。強いんだ?」
 緩やかに首をかしげ、三神は肩をすくめるようにした。
「強いかどうか。一応空手と柔道は三段ですが、合気道はまだ二段です」
「・・・・・・十分強そうだね」
 斗音はほのかに苦笑する。慈恩ほど努力をしていて、ようやく剣道ひとつで三段だ。相当な使い手なのだろう。思わず、純粋に興味を持つ。
「柔道って、どんな技が得意なの?」
「・・・・・・そうですね。小内刈りとか大内刈りとか、脚を掛けるようなものは割とやりやすいですよ。なかなか上手くは決まらないですが、背負い投げも決まると気分いいですね。あと、地味に見えるかもしれませんが、寝技も奥が深くて面白いです」
 比較的無口なのかと思った三神が立て続けに話すのを、斗音は少し意外そうに、その楽しげな顔を見つめる。そんな斗音に気づいて、凛々しい表情に戻る。
「・・・・・・何か・・・?」
「ううん、好きなんだなぁ、と思って。空手と柔道はどっちが得意?」
「柔道の方がメジャーですから、関わることが多いのは確かです」
「へえ・・・・・・でも、こんな仕事してたら、練習とかあまりできないんじゃない?」
「今は・・・・・・そうですね。九条にいたときは、早朝に練習したり、昼の暇な時間帯にちょっと休み時間を頂いたりして。ここではあなたが学校へ行かれている間に道場へ行けそうです」
「なるほどね。空手っていうと、蹴りとか、素手で突きとか、そういうのだよね。回し蹴りとか、できる?」
「まあ、基本ですから・・・・・・。上段回し蹴りや袈裟蹴りなんかは空手を知らない人が見ても面白いと思いますよ。それで一本取ると気持ちいいものです」
「一本とか、柔道みたいなポイントなの?」
「三本勝負ですよ。技あり二本で一本なんてのは柔道に近いですけど・・・・・・」
 斗音にとって、三神は初めて知ることの宝庫だった。三神は質問攻めに合い、それでも丁寧に応じてくれた。たちまち時計は十二時を回ってしまった。それをふと気にした三神が、斗音に視線を返す。
「明日のご予定をうかがってもよろしいですか?」
「あぁ、明日は如月祭の打ち合わせがあるから学校かな。九時に集合だから、朝はゆっくりできるかも。特に用事が増えなきゃ四時くらいには帰ってくると思う」
 言ってから、ふわりと微笑む。
「その間は自由にしててもらって構わないから」
 三神はやや鋭い系の目を瞠って、それから唇をやや歪めるようにして笑んだ。
「ありがとうございます。・・・・・・基本的に私は斗音さんのなさることに口出しはしませんが、あなたのお身体を害することになりそうなときだけは、差し出がましいようですが、あなたの意に沿わないことを言わせていただくかもしれません。お許し願います」
 斗音の薄茶の瞳が時計を捉え、あ、と声を上げる。
「夜更かしは駄目です。早く寝ましょう。ってこと?」
「お察しの通りです。私の一番大きな役目ですから」
 まるで悪戯っ子みたいに肩をすくめて、斗音は小さく舌を出した。
「慈恩もよっぽどのことがないと、夜更かしは許してくれなかったから。そうだよね。三神さ・・・三神は、慈恩の代わりに俺のこと気にしてくれるためにいるんだから、慈恩みたいに小うるさく言ってくれなきゃ」
 くすっと笑ってソファから立ち上がる。付き従うように三神も腰を上げた。
「お休みになられる前と、あと朝ご起床の際に、必ずひとつ、習慣にして頂きたいことがあるのですが」
「・・・・・・習慣?何を?」
「とりあえず、お部屋までお供させて頂きます」
「・・・・・・うん・・・・・・?」
 斗音が部屋に入ると、ベッドに入るまでまるでエスコートするように三神は付き添った。そして、横になった斗音に体温計を見せる。
「慈恩さんなら、あなたの顔色ひとつで体調の変調に気づかれるでしょうが、私には恐らくできないと思います。ですから、お休みになられるときと、ご起床時に、必ず私に検温させて頂きたいのです」
 斗音はきょとんと体温計を見つめ、同じ瞳で三神を見つめる。
「ああ・・・・・・そう?別に、検温くらい俺、自分でやるけど?」
 三神のやや鋭い印象を与える顔に、うっすらと笑みが載る。
「疑うわけではありませんが、なるべく人に迷惑を掛けたがらないというあなたのお人柄上、私の目で見届けろと、絢音様と雅成様に言い付かっております。あなたの体調管理だけは、何をおいても確実にしろとの命令ですので。記録も取らせて頂きますが、よろしいですか?」
 斗音は苦笑しながら天井を見上げた。
「いいけど・・・・・・朝から寝るまで、気が抜けないな。ご苦労様」
 三神がパジャマの胸のボタンを二つほど、そっと外して、ふと首にかけられた十字架に目を留める。しかし、特に気に掛ける様子もなく、そのまま体温計を脇に差し入れる。気遣うようにその上から軽い夏用の布団を掛けられた。これくらい自分でできるのに、と思ったけれど、何度も言うのはしつこいように思えて、斗音は何も言わなかった。やがて、ピピピピと電子音が時間の経過を告げる。自分で取ろうとしたら、三神が布団を静かに上げて、鎖骨辺りを優しく押さえるようにして体温計を抜き取った。すっとその数字に目をやって、ナイトテーブルにそのまま置くと、丁寧に外したボタンを掛けた。
「熱、ないでしょ?」
 微笑を湛える斗音に、三神が浅く頷く。
「ええ。今日はお疲れかと思いましたが、大丈夫のようですね。それではおやすみなさい」
 もう一度布団をちゃんと掛けてから、体温計を胸のポケットにしまい、三神は一礼して部屋の電気を消し、静かに出て行った。その背を見つめながら、斗音はナイトテーブルに置かれた電気スタンドのタッチセンサーに触れた。部屋全体が闇に沈む。そっとクロスの上に手を載せた。
「・・・・・・慈恩、おやすみ」

 そのまますんなり意識を手放していく。クロスに載せた手が、本当に優しさを感じる気がして、斗音は寂しさに囚われることなく眠りに落ちていった。

   ***

 書斎に戻った三神は、自分のメモ帳に体温計が示した数値を記録して、それをパタンと閉じた。そして、斗音の肌に触れた右手をじっと眺める。その手には白い肌の、肉付きの薄いすべらかな感触が残っている。本物のそれを鷲掴みにする代わりに、ぎゅっと拳を握り締める。
(まだまだ、これからだ・・・・・・。もっと信用させて、もっと近づいて、心ごと虜にしてやる。何もかも、奪い尽くしてやる。あの、九条の隠し子の一片も、残してやらない)
 うっすらとした笑みが浮かぶ。
(心を奪って、それからあの身体を組み敷いたら、裏切られたと思うだろうか。それとも俺を求めるだろうか)
 三神はぶるっと身体を震わせた。背筋がゾクゾクする。
(あの澄んだ薄茶の瞳を潤ませて、俺を蔑むだろうか?それとも、うっとりと受け入れる?・・・・・・どっちも・・・・・・これ以上なく・・・・・・見ものだろう・・・)
 パチン、と部屋の電気を消す。同時に、唇の両端を吊り上げたおぞましい笑みも、闇にとっぷりと掻き消えた。

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二十五.疲労

 うだるような暑さが和らぎ、朝夕には涼しい風が爽やかに吹き抜けるようになった。如月高校では来る如月祭に向けて大忙しの毎日に、全校生徒が追われていた。中でも執行部の忙しさは格別である。
「応援団は全団決定したな。報道部にコメント取らせて昼の放送で流すように、藤堂連絡しとけよ。それから、応援内容だけど、各団五分だからな。規定はこれまでと変わらず、ただし去年やたら金かけてた応援グッズは各団五千円以内で収めること。個人で出したり徴収したりするのは規定違反だ。それをしっかり強調して規定表作って、各団長に渡しとけ」
「伊佐治、バンドの練習を夜遅くまでやって苦情出してるところがあるらしい。調査して早急に対応してくれ」
「分かった。選ばれたことに誇りを持つようにさせるわ」
「斗音、体育祭のハチマキ、全団そろってるか?」
「応援団用の長いハチマキが不足しているところがあったので、発注しました。それから、毎年応援団の打ち上げが問題になってますから、計画が持ち上がる前にしっかり釘を刺すべきでしょうね」
「あー、アルコール問題ね。煙草もか。やりたい気持ちは分かるけど、仕方ないな。応援団一人一人に誓約書を書かせろ。それがいやなら応援団はやめろってことだ。誓約書の内容もお前に任せる。できたら俺に見せてくれ」
「おーい、弓削。如月祭前の取り組みの方は大丈夫か?」
「中学生みたいだけど、まあ時間厳守でいこうと思ってる。守れなかったら体育祭での減点につながるってことでどうかな。あわただしくても授業時間が守れないようじゃ、有名進学校の名がすたる」
「斗音くん、あなたが作った体育祭の分のプログラム、どのフォルダだっけ?文化祭のと合わせて、両面で全校分印刷するわ。貸してくれる?」
「本番同様に練習したいところがそろそろ出始めるな。練習するための場所の確保はよかったか?」
 放課後ともなると、全員息をつく暇すらない。斗音もひっきりなしに湧いてくる仕事に追い回されて、生徒会室を基点にあちこち飛び回っていた。もちろん、部活にはとても参加している余裕などない。引退した三年生はともかく、藤堂などはサッカー部の部長になっているため、そちらの方もバタバタしていた。バスケ部の場合、翔一郎が部長になったので、斗音は尚更安心して執行部の仕事に打ち込めた。
「まあ、俺以上に部長にふさわしい奴がこの部にはちゃんといると思うんだけど、そいつらが何かと忙しいもんだから、俺に回ってきたらしい。徳本部長がやれって言ってくれたし、あの人の後継ができるとも思わないけど、できるように努力はするから、よろしく。来年もインターハイ、狙おうぜ」
 みんなの前で新部長の挨拶をした翔一郎は、そう言って笑った。気取らない、でも頼もしい新部長で、誰もが納得していた。もちろん、嵐も部長候補ではあったのだが、何しろ仕事を持つ身だし、素行もいまいち謎なので、最初から本人自身が「絶対にやらない」と宣言していた。そして、リーダー性なども考え合わせた上で斗音の名も挙がったが、このままいけば三年生になっても執行部に在籍する身となりそうな感じだったので、心身の負担を考慮した上で、徳本は総合的な能力が高く、部員の信頼度も厚く、誰にも好かれる翔一郎を指名したのだった。副部長が嵐と斗音ということになった。普通は部長がいないときに代理となるべき人物だろうが、二人とも部長よりいないことが多いのと、今年インターハイに出場したということで、来年度の新入生が増えるのが目に見えていることから、部長一人、副部長二人という体制になったのだ。これにも反対する人間は誰もいなかった。
 翔一郎は、徳本よりも更に斗音の仕事に理解があった。とにかく無理だけはするな、というのが部長命令として、一番に斗音に出されたものだ。インターハイの最後の試合でのことを考えると、それも誰もが納得することで、木下も、少しでも体力が持続するような斗音用のメニューを考えてくれた。なかなかそれもできないでいるのだが。
 そして、やはり大変だったのは剣道部だった。夏休みが終わる四日前、慈恩の引越しの前々日、近藤は部長の引継ぎを行った。それまで三年生は全員部活に参加していたのだから、それも相当大変だっただろうが、近藤の言ったことには誰一人文句を言わなかった。全国で戦ったその姿が、そしてそれを目指して積み上げてきた今までの姿がそうさせたのだ。厳しかったが、近藤は名部長に違いなかった。
「今まで俺たち三年生が残ってきたのには、わけがある。新しい部長を育てたかった。でも、この夏の練習を経て、二年生も随分逞しくなった。まだまだ頼りないところもあるけど、今なら部長を任せることができると思う」
 いつもの練習が終わってから、部員全員を集め、近藤はまずそう言った。そして、じっと正座をしている二年生の一人に目を留めた。
「田近」
「は、はい」
 静かな近藤の声に、田近はびくりと背筋を震わせた。何を言われるのかと、身構える。そんな彼に、近藤は有無を言わせない重みのある声音で告げた。
「お前に部長を任せたい。やってくれるだろうか」
「・・・・・・えっ・・・・・・」
 部員全員が呼吸を止めた。一人の凛々しい瞳を持つ、誰もが認めていた実力の持ち主以外は。
 三年生も動じはしたが、声は出さなかった。前もって、何を言っても文句を言うなと言い刺してあった。
「田近、返事は?」
 近藤の迫力に押されて、田近は戸惑う。
「あの・・・・・・なんで俺なんですか・・・・・・?俺は、慈恩だとばっかり」
「その椎名の推薦だ。俺もお前がふさわしいと思う。実力でも二年生の中では文句ないだろう」
「推薦て・・・・・・」
 困惑したように、隣に座っている慈恩に視線を送ると、その視線の先には静かな微笑みがあった。
「お前ならできるよ。近藤さんの部長としてのすごさ、お前分かってたろ?」
 低くて優しい声。それにはもうとうに決断した者の響きがある。
「お前は?何でお前がやらないんだよ」
 その問いかけは、慈恩の静かな微笑みに、ほのかに悲しみを加えた。
「俺にはもう、できないんだ」
 田近が目を瞠る。道場内がざわめいた。それを近藤が制する。
「俺も椎名を、と考えていた。でも、椎名は八月一杯で如月から転校する」
 部長の制止を破るざわめきがあちこちで漏れた。驚きの声、どうして、なぜと、わきあがる声を、「騒ぐな!」と近藤が一喝した。そして、改めて田近に向き直る。
「だから、田近、お前は俺と椎名、二人分の指名を受けているわけだ。・・・・・・自信をもってくれていい。どうだ?やってくれるか?」
 再び視線を向けてきた田近に、慈恩は頷いて見せた。
「俺の分も、頼むよ」
 一瞬何か言いたそうに動いた唇は、それを飲み込むように噛み締められた。そして、近藤に向き直る。
「俺・・・・・・何も考えてなくて、まだ覚悟とかもしっかりできてないかもしれないけど・・・・・・尊敬する二人がそう言ってくれるなら・・・・・・全力を尽くして二人の意志に応えたいと思います」
 近藤はしっかり頷いた。
「よし。よく言ってくれた。じゃあ、俺からの最後の願いだ。全員で田近をしっかり支えて、如月高校の規律正しい剣道部の伝統を、お前たちの手で守って欲しい。頼んだぞ」
 新チームの核となるべき田近を初め、実力としては田近にひけをとらない百瀬やいつも強気な斉木、小柄でも引くことを知らない小林、温和で慈恩を慕ってやまない堂本らが、強くうなずいた。
 しかし、この引継ぎによって、剣道部とその身近な人間の間では、たちまち慈恩の転校の話が広がった。情報の早い嵐は、その引継ぎから半時も経たない内にそれを知り、部活を終えたばかりの慈恩を捕まえて、言葉荒く詰め寄った。
「どういうことだよ!何でそんな大事なことを、俺はお前以外の奴から聞かなきゃならねえんだ!」
 それこそ胸ぐらをつかんで、ものすごい勢いで。転校するという事実ではなく、それを直接言わなかったことに腹を立てるのが嵐らしくて、慈恩は思わず苦笑してしまった。
「ごめん。ほんとは夏休みが終わるまで、誰にも言いたくなかったんだ。でも、引継ぎ上、仕方なくね。剣道部のみんなに知られた以上、お前にも、それから翔一郎たちにも、言うつもりでいたよ。お前の情報収集が早すぎるんだよ」
 自分がないがしろにされたわけではないと分かって、すぐに落ち着きはしたものの、嵐の機嫌は直らなかった。
「斗音もいなくなるのか?」
「いや、斗音は残るよ。いろいろ複雑な事情があってさ・・・・・・」
 洞察力の鋭い嵐に隠し事は無駄だと知っているので、慈恩は洗いざらい九条家とのことを話したのだが、それでも納得してもらえなかった。
「お前、それでいいのか?いい加減、自分が犠牲になってるって思わねえのか?」
「犠牲って・・・・・・。斗音だって、そうすることを望んでるし、俺としては最善をとったつもりだけど」
「最善?馬鹿な。斗音が本気でそんなこと望むわけないだろ。むしろ最悪だと思うぜ」
 かなり厳しい物言いに、慈恩は困り果ててしまった。
「俺だって迷ったし、悩んだよ。でも斗音がそう言う以上、俺はこうするしかない。どんな理由からであれ、俺の傍にいたくないっていう斗音の思いは、本物なんだ」
「じゃあお前の想いはどうなってもいいって言うのか。お前は斗音を守ることを自分の使命にしてたんじゃねえのか」
「今でもその思いは変わらない。でもそう思うことが、そう思って俺のすることが、あいつの負担になるんだ。あいつは俺の足枷になりたくないって言った。俺はそんなふうに感じたことはなかったけど、あいつはそう感じてたんだ、ずっと。俺は結構未練たらしく思ってた。斗音は俺を必要としてくれてるんじゃないかって。でも、結局俺の独りよがりでしかなかったんだ。だったら、俺を切実に必要としてる九条に行くべきだと思った」
「行くべきとか、そんなんじゃねえんだよ。お前はどうしたかったんだよ。それがお前の気持ちじゃねえか。何をするべきかよりも、何がしたいかを選択しなきゃ、後悔するぜ」
 嵐の言いたいことは、慈恩もよく分かった。自分だって、そのことで散々悩んだのだから。そして、最終的にたどり着いた結論を告げた。
「斗音に・・・・・・自分が足枷になってるだなんて、そんなふうに思わせたくないんだよ。そんな負担に、俺はなりたくないんだ。それが俺のたどり着いた答えだった」
 その言葉で、嵐は瞠目したまま凍りついた。そして、次の瞬間、やりきれなさを色濃く表情に表した。
「馬鹿だよ、お前も、斗音も。・・・・・・なんで決めちまう前に言ってくれなかったんだ。勝手に一人で悩んで、勝手に答え出して。そんなに俺は頼りなかったのか?」
「そんなんじゃない。ただ、誰にも・・・・・・言いたくなかったんだ。たぶん、それを言うのが怖かったんだ。言ったらその分現実味が増すから、それから逃げてたんだと思う。結局現実になるんだけどな・・・・・・。ほんと、馬鹿だな、俺」
 自嘲気味に笑ったら、嵐に抱きしめられた。抱きつかれた、といった感じだったが。
「お前がとことん自分のことに対して鈍いのは知ってた。・・・・・・俺はお前が好きだよ。そんなこと、忘れてたろ。お前がいなくなるのが嫌だと思ってるのは、斗音だけじゃねえって」
「・・・・・・嵐・・・・・・」
 自分より少しだけ背の高い嵐の淡紫色の髪が、頬に触れる。この友人が、慈恩も好きだった。誰よりも頼れる、心強い親友。かすかに目頭が熱くなった。
「そんなふうには思わなかったけど、お前と・・・・・・あいつらとも、離れたくなかったよ、俺。こんなにいい仲間、そうそう巡り合えるもんじゃないと思うし。・・・・・・でもさ、離れたからって終わっちまうほど付き合い浅くないと思ったから。それに、斗音のこともきっと見ててくれると思った。だから選べた。・・・・・・自信過剰だったかな、俺は?」
 背中と肩に回された腕に、力がこもった。
「終わらせてたまるかよ。容赦なく呼び出して、つき合わせてやるから、覚悟してろよ。斗音のことだって・・・・・・無茶しないように見ててやるくらいしかできねえけど、なんかあったら速攻連絡するからな」
「・・・・・・そう言ってくれると思ってた」
 込み上げる思いを、そっと目を閉じて抑える。

「ありがとう・・・・・・嵐」

 執行部が慈恩のことを知ったのも、同じ日だった。学校が始まる一週間前から、執行部は如月祭に向けての活動を始めていた。その仕事をするのが最後になるため、いろいろ引継ぎなどもしなければならなかったので、打ち明けることになった。
「えっ・・・・・・マジで?」
「なんで?」
 武知と弓削は、素直に驚いた。藤堂も同じ気持ちだったらしく、唖然として慈恩を見つめた。
「随分急な話なのね・・・・・・」
 莉紗はむしろ呆然としている感じだった。今井は、信じられない、といったふうに軽く首を振った。慈恩より斗音に目をやり、その視線で本当なのかと訴えかけた。斗音がそれを受けて頷くと、何か言いたそうにしたが、それを振り払うようにもう一度頭を振った。そんな、と小さくつぶやいて。
「一番忙しい時期に、こんな中途半端な形で無責任に放り出すことになってしまって、本当に申し訳ありません。俺の手がけていたことは、全部斗音に引き継いであります。でも、二人分の仕事は大変だと思うので・・・・・・どうか、斗音を助けてやってください。お願いします」
 言って深々と頭を下げた慈恩に、斗音も続いた。
「できる限り、俺が慈恩の分を担当します。至らないところもあると思いますけど、よろしくお願いします」
 剣道部のとき同様、それ以上の事情は語らなかった。ただ、慈恩が養子になるのだということと、斗音が椎名家を継ぐのだということで納得させた。
「まあ、分かる気はするよ。子供がない人にとって、こんな条件のいい養子はないもんな。容姿端麗頭脳明晰、文武両道ときたもんだ」
「次男だしな。斗音の場合、家とか財産とか守らなきゃなんねぇけど」
「そんなの、ずっと大人になってからの問題だと思ってたけど、斗音くんと慈恩くんは今までそうやって遺産相続してたんだよね」
「転校先って、慶応大学付属って言ったっけ。結構お坊ちゃま学校だな」
 仕事をしながらも、二人のことを口々に言い合う執行部員たちだったが、今井だけは何も言わずに黙々と仕事をこなしていた。時折何かを考え込んでいるようにしたり、斗音や慈恩に視線をやったりもしていたが、結局その時は、仕事に必要なこと以外は口にしなかった。
 やがて仕事が一段落して、帰り支度を整えた執行部員たちがばらばらと生徒会室を出たとき、初めて今井は慈恩の肩をつかんで引き寄せ、周りをはばかるような小声で言った。
「斗音を一人にするのか?」
 慈恩が凛々しい瞳を見開く。振り返ると、真剣な目の今井が映った。
「あいつがお前にどれだけ依存してるか、お前分かってるのか?」
「・・・・・・依存・・・・・・って・・・・・・?」
 今井の顔がかすかに歪む。
「あいつ、随分前から何か悩んでるみたいだったけど・・・・・・もしかしてこのことだったんじゃないのか?俺では・・・・・・あいつの支えにはなってやれなかった。あいつを苦しませるのもお前かもしれないけど、支えられるのも結局お前しかいないんだと、俺はそのときに思った。なのに・・・・・・」
 今井がそこまで気づいていたとは思わなかったが、その言葉は慈恩の胸に押し込んである傷口を撫でた。
「・・・・・・斗音が望んだことです。・・・・・・どうか、斗音のことをお願いします」
 慈恩のやや苦しそうにも見える表情を見て、今井は整った眉を少しだけ寄せた。
「・・・そうか。・・・・・・無神経なことを言ったな。悪かった」
 切なそうな、やや苦しげな表情に、寂しさが宿る。
「そんな大事なこと、お前が簡単に決めるわけないよな。きっとお前も悩んで迷って・・・・・・そうしてその決断を下したんだろう?俺が、のんきに時間を浪費してた間に・・・」
 苛烈さや激しさといったものはなかったが、そんなに俺は頼りにならなかったのか、と言った嵐の表情に、少し似ていた。
「・・・・・・俺にできるだけのことはしよう。約束する。・・・・・・お前もいろいろ大変だろうけど・・・・・・お前ならきっと大丈夫だ。元気でやれよ」
「はい。・・・・・・ありがとうございました」
 今井に深く礼をする。今までの感謝と、これからのことを依頼する気持ちを込めて。そんな慈恩の肩を押し上げるようにしてから、改めて今井はそのすらりとした背を抱いた。
「・・・・・・部活との両立も、大変だっただろう?無茶ばかり言ってすまなかったな。・・・・・・ありがとう」
 慈恩の胸に熱いものが込み上げる。知っていたのだ、この生徒会長は。自分は大変だなんて一言も言ったことはなかった。大丈夫だと、自分の仕事で他人に迷惑は掛けたくなかったので、気丈に振舞っていたはずだった。何もかもお見通しで、それでも自分の思いを理解して、何も言わずにいてくれたのだ。大切にされていたのだと、唐突に実感する。不意に思いもかけず、瞳からこぼれたものに、自分で驚いた。
(な、なに・・・・・・?)
 離れようとして、今井も気づいたらしい。一瞬動きが止まった。
(見られ・・・・・・)
 どうやってごまかそう、と、一瞬よぎった。人前で泣くなんて、慈恩の中では有り得ないことだった。そんな慈恩の首を掻き抱くようにして、今井は自分より背の高いその頭を、自分の肩にそっと押し付けた。
 他の人がどの角度から見ても見えないように、さりげなく隠してくれたのだと分かった。背後から斗音のハスキーボイスが聞こえたからだ。
「慈恩。俺、ちょっと教室の方にも顔出してくるから、校門で待ってて」
 返事も待たずに駆けて行く足音。それが遠くなるのを待ってから、今井は、漆黒の髪を優しく撫でた。
「ほんとに、ありがとな」
 意図しないままに、ハラハラと零れ落ちる熱い涙をどうすることもできず、慈恩は微かに背を震わせながら頷いた。
「・・・・・・はい」

 心の底から、執行部をやってよかったと、如月にいてよかったと、湧きあがる思いが溢れて、顔を上げることができなかった。そんな後輩の頭を、如月高校生徒会長は優しく撫で続けていた。

   ***

「斗音、ヨーヨー大丈夫か?」
「衣装合わせしてみてよ。たぶん斗音くん細いから着られると思うけど」
 クラスの方でも、出し物が本格的に進んでいた。執行部の仕事をこなす傍ら、こちらでも斗音は引っ張りだこである。
「一回通してみようと思うんだけど、今時間大丈夫か?」
「ちょっと待ってて。クラス企画の審査表、印刷しっぱなしだから、それだけ届けてすぐ来る」
 廊下はほとんどパタパタ走っている状態だ。印刷室で出来上がっている印刷物をそろえて、生徒会室へ運ぶ。
「今井さん、企画審査表できました!ここに置いときますね。それから、体育祭の競技得点案、さっきプリントアウトしておいたので、プリンタに出てきてると思うんですけど」
 てきぱきと済んだ仕事の報告をしてくる副会長の姿を、生徒会長はまじまじと見やった。
「斗音、何だそれ?」
「え?」
 斗音はきょとんと自分が手にしていた印刷物を見る。間違っていない。ちゃんと頼まれていたものだ。
「文化祭の審査表ですけど?」
 今度は今井がきょとんとして、それから苦笑する。
「いや、それは合ってる。ありがとう。じゃなくて、そのカッコだ」
 あ、と斗音が思わず声を上げて、困ったように笑う。
「衣装合わせしてたの、忘れてました。おかしなカッコですみません」
 赤くて長いスカーフのセーラー服。おかしいどころか、かなり似合ってしまっている。すらりと背の高い、綺麗な女の子に見えるから、笑うことも難しい。
「スケバン刑事って、昔の不良だろ?昔の不良って言ったら、スカートはくるぶしまであるんだぞ」
 表情をごまかすための、どうでもいい知識である。が、斗音は膝上のスカートの裾をつまんで律儀に答える。
「そうなんですけどね。今時の女子中高生、長いスカートをはく子って少ないらしくて。古着屋も回ったそうなんですけど結局なくて、中学校がセーラー服だった背の高い女子のを借りたんです。スカーフだけはまた別の子のなんですけど、とにかく有り合わせで」
「そうなのか。まあ、別に何でもいいんだけどな」
 思わず落とした視線の先に、白くてすんなり長い足があって、思わず赤面する。
(馬鹿野郎!これくらいの脚の持ち主、いくらでもいるだろう!本物の女の子のスカートはもっと短いぞ!)
 如月高校の生徒会長に似つかわしくないような、俗な思考回路で自分を押さえ込む。そんな自己暗示で頬に浮かぶ朱を最低限に抑える辺りは、さすがと言うべきだろうか。
 そこへ、乱暴にドアを開けて、手にした資料に目をやりながら武知が入ってきた。
「おい今井。個人競技で合わない人数の点数だけど」
 そこまで言って声をかけていた相手に視線を移そうとして、思わず声を上げる。
「おわ、斗音か!びっくりした。どこの学校の美少女かと思ったぜ」
 そして武知を追いかけてきた弓削も生徒会室に入ってくる。
「おい、玄道!足りないのは赤団だけ・・・・・・」
 視線が同じところへ集まる。弓削も目を大きくした。
「斗音か?お前・・・・・・・・・・・・」
 しばらく言葉を溜めたあと、思い切り感心したように続けた。
「美人だなあ」
 まじまじと見つめられて、斗音が白い頬を染める。
「なっ、何言ってんですか!あんまり見ないでくださいよっ!」
「いやぁ・・・」
「だってなぁ・・・・・・」
 武知と弓削は顔を見合わせて大きく頷いた。
「なかなかいないぜ、これだけの女」
「その脚なんて、犯罪だぞ。電車に乗ったら間違いなく痴漢が寄って来るだろうな」
 言われて斗音は思わずぷくっと頬を膨らませる。
「からかわないでくださいよ」
 白い頬を染めながら、それでも気丈に上目遣いで先輩たちを見上げる姿は、ますます可愛らしい。武知は爆笑した。
「お前、それ人前でやらねえ方がいいぞ。ぜってえ襲われるから」
「武知さんっ!」

 困惑と苦笑を浮かべたまま、武知に勘弁してくれと訴える。弓削はそれを興味深げに見つめ、今井は額に手をやって、勘弁してくれと心の中で叫んでいた。

 そんなハプニングも起こしつつではあったが、この休む暇もないせわしなさは、斗音にとってはありがたかった。自分のことなど考えている余裕すらなくて、息をつきでもしたら心が沈んでいくような思いを忘れていられた。家に帰るのも九時を過ぎることが多くなり、食事をして風呂に入って、次の日の予習や宿題をしたら、あとは倒れるようにベッドに横になる。そして、目を閉じて、次の瞬間目を開けたら朝日が差し込んでいる。そんな感じだった。
 なかなか夕食で温かい物を出せないことに気を使っていたのは沢村、そして、そのハードな生活をかなり心配していたのは三神だった。
「朝食くらいはなるべく温かい物をお出ししますから、お許しくださいね。ただでさえも少食でいらっしゃるから、少しでも食がお進みになるように、一番おいしい状態でお出しできるように心がけますわ」

 朝食のときにしか顔を見ない沢村は、本当に申し訳なさそうに、斗音にそう言った。斗音の食欲不振の症状は、インターハイの頃からずっと続いたままだったのだ。それで逆に申し訳なく思ってしまった斗音だったが、三神はもっと深刻そうだった。
 
いつもと同じように、気だるさを押しのけて仕事をして、九時を半時も過ぎた頃に帰ってきた斗音に、三神は温めた夕食を整えながら、表情を曇らせた。
「夏休みが明けてから、本当に休む暇すらなさそうですね。お食事もあまり進まれないようですし、お身体に異常はありませんか?」

 斗音は一瞬息を飲む。
 
なくはない。一瞬に感じる睡眠で、身体の疲れはとれた気がしない。少しずつ、手足が重くはなってきている。そのせいなのか、時折不意に睡魔に襲われそうになったり、運動したあとに動くのが億劫になってしまったりもする。でも、動こうと思えば動けたし、何より喘息が出ることはほとんどなかった。出たとしても本当に軽いものだったので、気にもしなかった。だから、努めて明るく答えた。
「大丈夫。これで塾に行ってる奴なんて、きっともっと大変だろうな。行ってなくてよかったよ。・・・・・・でも、そういえば、最近三神ともほとんど話してないな」
「・・・・・・食事の時間くらいですね。検温も、部屋に行ってみたらもうお休みになっていることがあるので・・・・・・」
 斗音は一瞬、細かく瞬きをした。
「あ・・・・・・ごめん。意識飛んじゃって」
 軽く吐息して、三神は続けた。
「いえ、疲れていらっしゃるのはよく分かりますから。でも、触れても起きられないので、時々不安になります。このまま目を覚まさないのではないかと・・・・・・」
「え、そうなの?寝てる時は一瞬に感じるんだけど、ちゃんと熟睡してんだ」
 何気ない斗音の一言に、三神はそっと溜息をついた。
「・・・・・・あまり無理をなさらないでください。思わず揺すって起こしたくなるのを堪えるのも、なかなかつらいものですよ。そんな睡眠で疲れもなかなか取れないでしょう。一日くらい、休んだらどうです?」
 思わず斗音は苦笑した。
「そんなわけにはいかないよ。今一番忙しいし、俺までいなくなったりしたら、執行部はパンクしちゃう」
「その前に、あなたが倒れますよ。そんなことになったら、もっと大変なことになるんじゃないですか?」
 あくまで真剣な三神に、それほどまでに気に掛けてくれているのだと感じて、やや翳りのある微笑みを浮かべた。
「・・・・・・うん。そうだね。ありがとう、心配してくれて。気をつけるからさ・・・・・・」
 三神を見上げる。
「だから、よろしく」
 三神の表情が、かすかに歪んだような気がした。その表情が何を意味するのか、斗音にはつかみきれなかった。ただ、答えは簡潔だった。
「・・・・・・はい」
 その誠実な返事に、三神は行動を伴わせた。いつものように斗音が風呂から上がり、三神に入るよう促してから、重い思考回路と戦いつつ、部屋で宿題を片付けていると、ノックがあって、相変わらずちゃんとした格好の三神が部屋を訪れた。いつもならなるべくプライベートの時間を守ろうとして、検温の時間以外には部屋に来ようとしない彼だが、手には薄手のカーディガンとココアの香りを含んだ湯気を漂わせるマグカップがある。
「失礼します。・・・・・・お口に合うかどうか分かりませんが、どうぞ」
 言って、丁寧にカップを机に置く。そして、そっと首筋に大きな手を触れた。不思議そうに振り返る斗音に、薄く笑みを見せた。
「最近朝晩はかなり気温が下がっていますから。ほら、もうこんなに身体が冷えている」
 優しく肩にカーディガンを羽織らせる。
「あ・・・・・・りがと・・・・・・」
 やや戸惑い気味の斗音に、再び静かな笑みを見せる。今度は優しくアッシュの髪に触れた。
「髪も濡れています。ちゃんと乾かさなくては・・・・・・随分冷たくなっていますよ」
「あ、ごめん・・・夏はすぐに乾いてたから、あんまり丁寧に乾かさなかったんだ」
「気をつけるのでしょう?もっとご自分のお身体を大切にしてください。これからもっと寒くなるのですから」
 両肩をまるで温めるかのようにしばらく手を置いてから、三神はいつものように丁寧に頭を下げた。
「それでは、失礼いたします。お休みになられる前には、できればお声を掛けてください」
「うん。気をつける。・・・ありがとう」
 三神の触れた髪に触れ、斗音は思わずそれをつかんだ。まるで慈恩のような気遣い方。
『ほら、早く髪乾かさないと』
 慈恩の口癖のようなものだった。O型のせいなのか、比較的大雑把な斗音をいつも気遣っていた。大きな優しい手も、慈恩のそれを思い出させた。何かが麻痺したように、思考がくらりと揺れる。
「・・・・・・乾かさなきゃ・・・・・・」
 ふらりと立ち上がって、ドライヤーの置いてある一階へ向かう。一段一段、それを覚えている身体が進むのに任せて、ゆっくり階段を下りる。
(早く、乾かさなきゃ・・・・・・風邪をひくと、いけないから・・・・・・)
 頭の中にはそれしかない。ぼんやり前を見ていたつもりだったが、その視界が、不意に歪んだ。何が起こったか分からなかった。次の瞬間には鈍い衝撃が全身に走っていた。目の前は真っ白から真っ黒になって、頬に冷たいものが触れたのが分かった。そして鈍い痛みに身体中が悲鳴を上げる。
「斗音さん!大丈夫ですか、斗音さん!」
 耳元で必死に呼ぶ声が聞こえる。ああ、三神だ。また心配をかけてしまった。ただでさえも、いろいろ心配させているのに。必死で重い瞼を持ち上げる。狭い視野に、ぼんやりと切れ長の目が映る。
「・・・・・・髪、を・・・・・・かわ・・・か・・・さ・・・・・・な・・・・・・きゃ・・・・・・・・・・・・」

 声がはっきりと擦れた。でも、それ以上の意識は保てなかった。全ての物が自分の周りから消え失せた。

「しっかりして下さい!斗音さん!斗音さんっ!」
 華奢な身体を抱き起こして、三神はその蒼白な頬を軽くたたいた。
「斗音さん・・・・・・・・・・・・」
 全く反応がない。もともと白い肌は、まるで陶器のように生気を失っている。
「駄目か」
 言わないことじゃない。と、小さく溜息をつく。一瞬、脳の神経が焼け付くかと思うような感覚に囚われた自身を、落ち着かせるように。怪我のないことを確かめてから、ぐったりと力の抜けた斗音を軽々と抱き上げる。事実、軽い、と感じた。
(五十キロあるのか?この二週間で、痩せたような気もするな)
 そのまま斗音が下りてきた階段を再び上がる。開けっ放しだったドアを難なくくぐり、片足で乱暴にベッドの掛け布団を跳ね上げると、そこに身体を横たえた。
「・・・・・・斗音さん?」
 耳元で呼びかけてみるが、やはりぴくりとも動かない。頬を手の平で包んでなぞる。肉付きの薄い、すべらかな感触。きめの細かい白い肌は、まるで絹のようだ。指で唇をなぞる。思ったよりも柔らかい。背筋が震え、繊細なその感触に唾を飲む。今まで理性を総動員して押し殺してきた感情が、一気に膨らんでいく。思わず吸い寄せられるようにして、自分の唇を覆いかぶせた。その感触の快さに、思わず喰らいつくように何度も口付けた。何度も何度も想像で自分の感情を抑えてきたが、考えていたよりずっとそれは心地よかった。無意識のうちに、いつも硬く閉ざしている心の中で繰り返し行ってきたように、指が胸元のボタンを外していく。検温のときとは全く違う。止めなければならないというストレスもない。徐々に顕れる白い肌に、全身の細胞が興奮する。首筋からそっと指を滑らせる。くっきりと浮き出した鎖骨は、やはり細い。胸にかかる十字架が照明の光を鈍く反射する。両脇に手を滑らせると、締まった細くて薄い腰。思わず繊細なラインをなぞる。そのまま唇を落とそうとしたとき、斗音の呼気がかすかに声帯を震わせた。
「・・・・・・ぅ・・・」
 びくりと顔を上げ、そっと長い睫毛が影を作っている顔をのぞきこむ。微かに柳眉が寄せられていた。
「・・・・・・斗音・・・・・・さん・・・・・・?」
 おそるおそる名を呼ぶと、閉じたままの瞳からじわりと雫が浮き上がって、見る間に睫毛を濡らした。それでも足りずにこめかみへ滑り落ちる。くしゃりと広がったアッシュの髪をそれが濡らしたと同時に、再びひどく擦れた声がこぼれた。
「・・・慈・・・恩・・・・・・」
 三神がきりっとした男らしい眉根を寄せる。思わず手に触れていたはだけたシャツを、力任せに握り締めた。
(今触れているのは俺なのに・・・!他の奴がいる・・・・・・この人の心の中にいるのは、俺じゃない!あんな・・・あんな隠し子なんかに心の中を一杯にされてたまるか!俺の想いに気づきもしないで・・・っ!)
 猛る感情のままにその身体を奪ってしまいたかった。でも、同じくらい気づかれるのが怖かった。今の段階で気づいたら、今までの我慢は台無しだ。同性に穢されたと知れば、彼は自分に一片の感情も持たないまま、ただ嫌悪し、自分から離れてしまうだろう。心が離れられないようにしてから、それからでなければならない。この狂いそうなほどのねじれた感情を、彼は半狂乱ででもいい、受け入れなければならないのだ。愛という器で。
 
三神は血が滲みそうなほど強く、唇を噛んだ。このねじ曲がった想いが、共に過ごし始めてからの二週間で育っていたのを、痛いほど感じていた。自分に興味津々で、色々知ろうとしてくれたこと。初めはその無邪気さを踏みにじる瞬間に思いを馳せ、欲望を噛み殺していたはずだった。それなのに、学校が始まって、途端に話す機会が激減して、あの時間がいかに愛おしい瞬間だったのかを突きつけられた。だから、ほんのわずかな時間の他愛ない会話すら、嬉しくて幸せでたまらなかった。日を追うごとに、疲れたような、優れない顔色に不安が込み上げてきた。
 不安?何が不安だというのだ。計画は順調だ。思い通りに、ことは進んでいる。
 そう思って、自分の不安を掻き消してきた・・・はずだった。それなのに。
『よろしく』
 自分を頼ってくれた瞬間、震えそうになった。そして、唐突に悟った。自分にできることなら、精一杯のことをしてやりたい。気遣えというなら、どれだけでも気遣ってやる。それで、この主人の思いが自分に向くのなら・・・。
(そうだ・・・俺は・・・)
 
何かを振り払うかのように、必死に、まるで命を削るかのように懸命に生きるこの少年。それでいて、使用人である自分をすら気遣う優しさを持ち合わせ、どんなにつらそうにしていても、健気に笑顔を見せようとする。その姿に、ただならぬほど惹かれ始めている。この華奢な身体はもう、ただの好みの器だけではなくなってしまっていた。
 血色の悪い唇に、三神は深く口づけた。そして、一切の力を失っている身体をきつく抱き締める。
「・・・・・・好きなんだ・・・・・・あなたを愛してる・・・・・・!」

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二十六.新たな人間関係

 ふと目を開けると、光の大洪水が網膜を焼いて、斗音は思わず目を眇めた。腕を上げて目に直接注ぎ込む光量を抑える。何だか久しぶりに、眠ったという感覚だ。しばらくは目を閉じたら翌朝だったのに。
 そこまで考えて、がばっと身体を起こした。慌ててナイトテーブルの時計に目をやる。針が指し示すのは十時を少し過ぎた辺り。
「うわっ・・・・・・マジで?」
 ベッドから飛び降りようとした瞬間、膝に力が入らずに、ベッドから滑り落ちた挙句、床にへたり込んでしまった。
「・・・・・・へ?」
 直後、ものすごい勢いで階段を駆け上がってくる音がして、いつもより五倍増しくらいの強さでノックされる。
「斗音さん!入りますよっ?」
 返事も待たずにガチャッとドアが開く。すかさず膝をついて長身を折り曲げ、切れ長の瞳が斗音の瞳をのぞき込んだ。
「大丈夫ですか?どこか、ぶつけませんでしたか?」
「・・・・・・だ・・・・・・い丈夫・・・・・・だけど・・・」
 言った瞬間、力任せに抱き締められて、唖然とする。そんな斗音の首筋に、三神は唇を摺り寄せ、声を絞り出すように囁いた。
「・・・・・・よかった・・・・・・!」
 首筋がその息を感じて、思わずドキッとした。何が何だか分からない。三神がこんなに取り乱すなんて、珍しいなあ、などと考えた。
「また・・・・・・また倒れたのかと思って、心臓が潰れそうでした・・・・・・」
「・・・・・・倒れた・・・・・・?俺が・・・?」
 不思議に思って首をかしげる。三神が思わず溜息をついた。
「覚えておられないのですね。無理もありません。二週間ずっと無茶を続けてきたのですから」
 背に回された手が緩んで、そっと肩をつかまれる。
「・・・・・・昨夜階段を下りてきたところでいきなり倒れたのです。朝一番で九条家の担当医に診てもらいましたが、極度の過労だそうです。心身ともに、相当疲れていると・・・・・・」
「・・・・・・過労・・・・・・?それって、サラリーマンが長時間掛けてなるような症状じゃ・・・・・・」
 ちょっとショックを受けた斗音だったが、三神は真剣だった。
「そのとおりです。あなたは自分自身が気づいていないだけで、ひどく無理をしているのです。それこそ大人が長時間心身を酷使するのと同等の無理をしているんです。恐らく、私がここに来る以前から。あなたの身体はそれに耐えられるほど強くない。それを自覚してください」
「う~ん、でもなんか、過労って言うか、昨日はちょっとぼんやりしてたって言うか。そんな感じだったよ?」
 全く深刻さを感じていない斗音に、三神の眉間がわずかに寄った。そんな三神に、思い出したように言う。
「そうだ、遅刻っ!もう十時過ぎてるんだ!急いで準備し・・・・・・」
 最後まで言わせてはもらえなかった。今度は、背骨がきしむほどの力で抱き寄せられた。
「学校には連絡を入れました。今日は何と言おうと休んで頂きます」
 斗音が目を見開く。
「そんな・・・・・・如月祭は目の前で、今やらなきゃいけないことはほんとにたくさん・・・!」
「駄目です。如月は優秀な学校だ。いくらでもあなたのフォローができる人材はいるでしょう。あなたは一人しかいないんです。この世に一人しかいないんですよ!」
 思わぬ激しい口調に戸惑いながらも、斗音は困惑する。
「でも俺は慈恩の分もやらなきゃいけないんだ・・・・・・それに、じっとしてる方が・・・・・・」
 言いながら、だんだん表情が曇って、視線が落ちていく。三神が腕の力を和らげて、そんな斗音を見つめる。斗音の額が三神の鍛えられた胸にとすん、と収まった。
「・・・・・・つらい・・・」
「・・・斗音さん・・・・・・」
 確かに寝たとも思えないような眠り方しかできなくて、疲れは溜まっていくばかりだったけれど、それでも夢のひとつも見ずに済んだその睡眠が、斗音にとってはありがたかったのだ。例え自分が倒れることになっても。
 三神の表情が、苦味を含む。何かに耐えるように精悍な顔を歪める。
「・・・・・・慈恩様のことを、想うからですか」
「・・・・・・うん。考えないようにしようと思えば思うほど、切なくなる。納得して、あいつのこと傷つけて・・・・・・突き放したくせにね」
 あっさり認めて、うつむいたまま薄く自嘲する。
「寂しいなんて、言う資格ない。分かってるよ。だけど、当たり前みたいにいた存在がいなくなるって、こういうこと・・・なんだな。だから、ちょっとでも忘れている時間が長くなればいいって・・・・・・」
「・・・・・・駄目ですか?」
 つぶやくような低い声を聞き取れなくて、斗音は視線を上げた。
「・・・・・・え、何?」
 その視線は、真摯な黒の、切れ長の瞳に真っ直ぐに受け止められた。ただただ真剣なその瞳に、魅入られてしまいそうだ。
「私では。駄目ですか、斗音さん」
「・・・・・・駄目って・・・・・・何が?」
「あなたのお側に存在する人間として、私ではご不満ですか」
 少し苦しそうだ、と、斗音は思った。違う、とすぐに首を振る。
「三神はよくやってくれてる。不満なんてない。ただ、慈恩もやっぱり、この世に一人しかいないから、三神を慈恩と思えったって、無理だろ?」
 それでも、その苦しげな表情は変わらず、むしろより曇ったようにすら見えた。
「代わりになろうなんて、考えていません。慈恩様を忘れさせて差し上げたい。それだけです」
「忘れる・・・・・・?そんなこと、できるはず・・・・・・」
「他のことで心が囚われれば、満たされれば、忘れていられるのでしょう?だったら、それを私が」
 三神は言うなり、折れそうな腰を抱き締めて、深く口づけた。薄茶の瞳が大きく見開かれる。

(!・・・・・・三神・・・・・・っ?)
 押し付け、押し上げ、押し開くように熱く求めてくるその唇に、圧倒される。それだけで気がふれてしまいそうな想いの強さに、斗音は呆然とされるがままだった。ようやくその想いの塊が離れたとき、斗音は放心状態になっていた。そんな焦点の合わない斗音の瞳をじっと見つめ、三神は訴えかけるように、低く静かに言葉を紡いだ。
「あなたを・・・・・・愛しています」
「・・・・・・な・・・・・・に言って・・・・・・」
「冗談でこんなことは言いません。今までどんな人間にも、こんなに強い想いを感じたことはない。女性とか男性とか、そんなものを越えて、私はどうしようもなくあなたに惹かれているのです」
 力強い腕に抱き締められて、頭がくらくらする。どうしたらいいのか、全く分からない。かすかに首を横に振った。
「・・・・・・そんなこと・・・・・・急に、言われても・・・・・・」
「どうして欲しい、なんて、あなたに望みはしません。私があなたを癒してみせる」
 大きな手が髪を乱すようにしながら、自分の頭をその肩口に押し付けてくる。息苦しいくらいだ。一瞬掻き乱される思考の中で、ふと、心身ともに、この頼もしい青年に全て預けてしまえたら、楽かもしれない、と思った。きっとこの強い想いで、何もかも分からなくなるくらい、どうにかしてしまってくれる。あれもしなきゃ、これもしなきゃなんて追い回されなくても、自分が手放せない慈恩の影を思い出さずに済むかもしれない。さっきみたいに、キスされて、こんなふうに抱き締められて。それから・・・・・・それから?
(そんな・・・・・・そんな逃げ方で慈恩のことを忘れていくのか?そんなの・・・・・・)
「必ず・・・・・・癒してみせるから・・・・・・」
 首筋に唇が押し当てられる。温かくて柔らかい感触に添って、呼気が肌をなぞっていく。くすぐったくて、身体がぴくりと動く。パジャマの胸がはだけて、その感触がゆっくりゆっくり肌を滑り降りていく。長めの前髪がまた肌をくすぐる。訳の分からない心地よさと、背筋を駆け上がる悪寒に、無意識に身体が震えた。三神の長い指が胸のクロスに触れる。その瞬間、麻痺した斗音の脳が警告を発した。
(嫌だ・・・・・・っ!)
「やめて、三神っ」
 身をすくめて、大きく開かれた襟元をぎゅっとつかむ。三神は驚いたように切れ長の目を見開いた。
「・・・・・・斗音、さん?」
 戸惑ったような声音に、思わずその表情を見やると、驚きの中にはっきりと傷ついた痛みが見える。ズキン、と胸が痛む。お前はそれでいいのか、と慈恩が訊いてきたときに、その意図を知りながら自分は平気だと答えた。そのときに慈恩が見せた表情によく似ている。いつの間にか、自分の呼吸が荒いことに気づいた。
「あ・・・・・・俺・・・・・・あの・・・・・・ご、めん」
 襟元をつかんだ手に、もう一つの手を重ねる。かすかに震えているのが分かる。視界がぼんやりと揺れた。
「・・・・・・ありがと・・・・・・でも、ごめん・・・・・・俺、ほんとに・・・・・・分からない・・・・・・ごめん・・・・・・」
 薄茶の瞳から透明な雫がこぼれ落ち、一つ、二つと頬を伝って、重ねた手を濡らす。それを見つめる三神の目が眇められた。使用人の青年はしばらく苦しそうに唇をかんで、それからやっと言葉をこぼした。
「・・・・・・無粋なことをいたしました。・・・・・・申し訳、ありませんでした・・・・・・」
 ゆっくり手を引くと、静かに深く、頭を垂れる。使用人として、完全に一線を画した態度だった。まるで、二度と触れはしないと言わんばかりの言動に、斗音は一抹の寂しさを覚える。一瞬でもつらさから開放してくれるかもしれないと思った存在を、たちまち失ってしまったような。
 すっと立ち上がった三神を追うように、斗音も慌てて立ち上がろうとした。途端、すぅっと血の気が引いていくような感覚とともに、目の焦点がぶれて、膝が折れる。
「っ!」
 倒れるかと思った瞬間、強い力にそれを阻まれた。そして、微かな吐息を耳にする。
「・・・・・・お分かりでしょう?どれだけ身体が参っているのか。大人しくベッドでお休みください」
 抱き止めてくれた力強い腕。肩。胸。まるで慈恩のような。まだ思考がはっきりしないままにそう思ったら、急に不安と寂しさと、そしてわけの分からない焦燥感や喪失感が膨れ上がって、斗音の精神を圧迫した。
「・・・・・・斗音さん・・・・・・?え、と、斗音さ・・・・・・」
「ごめん。ごめん三神。俺やっぱり、駄目かもしれない」
 正気の保てないような精神状態を抑えんとばかりにしがみついて、溢れて止まらない涙ごと、顔を淡い黄色のカッターシャツにうずめる。
「駄目・・・・・・って・・・・・・何がです?」
「心の中がぐちゃぐちゃで、もうどうしていいか分からない。だから、ごめん、勝手でごめん、でも」
 力の入らない斗音の膝に合わせるようにして、三神がゆっくり膝をついて、そっとバランスの崩れた華奢な身体を支えた。その腕に、斗音は崩れた。

「今だけ傍にいてよ・・・・・・」

 結局自分の心身の疲れを自覚せざるを得なかった斗音は、その日一日休むしかなかった。情緒不安定なのも、進行しているのを無理に理性で押し殺していたのが、遂に爆発してしまったのだ。そこまではさすがに三神も把握していなかったが、それでも取り乱して泣き崩れてしまった斗音に付き添っていた。
「昨夜も結局飲まれませんでしたからね。落ち着きますし、糖分も摂れますよ。熱いですから、お気をつけて」
 温めたミルクココアを勧めながら、切れ長の黒の瞳を和ませて、静かに笑みを浮かべる。そんな落ち着きがまた、凛々しい弟を思い出させ、目頭が熱くなってしまう。
「すみません、熱すぎましたか?」
 涙ぐんだ斗音に気づいて、慌てて三神が気遣う。斗音はベッドの上で小さく首を横に振った。
「何でもないよ。美味しそう。いただきます」
 そっと口をつけると、やわらかな甘さがふわりと広がった。美味しかった。ほんの四、五口飲んだら、もう満腹中枢が限界信号を発信する。大きなマグカップの一割、飲んだか飲まないかだ。あまり申し訳なくて、もう一口、と口をつけた瞬間、不快なものが胃を押し上げてきた。これ以上口に入れたら、嘔吐するに違いない。なるべく不快感を表に出さないように、そっとカップをナイトテーブルに置いた。
「もう少し、冷まそう、かな?」
 そんな斗音を見つめて、三神はそっとほっそりした背を撫でた。
「・・・・・・無理を、なさらなくていいんですよ。あなたの食の細さは、正直尋常ではありません。食事でもおやつでも、摂れるときに少しずつでいいんです」
 優しい言葉に、いとも簡単にほろほろと涙がこぼれる。シーツがいくつもの雫で濡れるのを、三神は少し、目を細めて見つめた。
(これは・・・・・・相当きてるな。・・・・・・もう少し、様子を見るか)
「・・・・・・ごめん。本当なら自由にしていられる時間なのに、束縛するような真似して。その上こんな・・・・・・意味不明に泣いてばっかりで。自分でもよく分かんないしさ」
 涙に濡れた睫毛が窓から差し込む光できらきら光る。そんな顔のままで笑ってみせる。三神は思わず息をのんだ。本気で心臓を鷲掴みにされた気がしたのだ。
「何を・・・おっしゃるんです。これが私の、務めです。何よりも第一にあなたをお守りすることが、私の仕事なんですよ」
 ベッドの脇に膝をついて、斗音に目線を合わせる。
「それに・・・・・・申し上げたはずです。私は、あなたを愛していますと。・・・・・・冗談では、ないと」
「三神・・・・・・」
 かすかに戸惑う瞳に、三神は薄く微笑んだ。
「申し訳ありません。私はただの使用人です。そんな者の言葉に、あなたが心を乱す必要はありません。たわ言だと聞き流して下さっていいのです。・・・・・・ただ、その私が、あなたといられる時間が長いことを喜びこそすれ、不快に思うことなど有り得ないということだけ、覚えていて下されば、それで」
 斗音の美しい瞳がふるふるっと揺れた。またしても涙の幕が浮き上がって、そしてたちまち転がり落ちていく。見ているだけで切なくなるほどの、綺麗な泣き顔。思わず三神は優しく引き寄せ、その額を自分の胸に押し当てた。
「・・・・・・許していただけるのなら・・・・・・心の荷が少しでも軽くなるまで、ずっとお傍におります」

 抱き寄せた華奢な肩が、はっきりと震えた。しばらくすると、微かに嗚咽がこぼれ始めた。

   ***

 二週間をさかのぼった、慶應義塾大学付属桜花高等学校。九月一日。
「なあっ。お前さぁ、剣道で今年のインターハイに出たよな。俺らの学校は出てないけど、同じ地区だったじゃん。地区予選で俺らが負けた学校だったからさ、注目してたんだ」
 初めて見る顔だらけの学級で、新しい制服に身を包み、名前と一言「よろしく」の挨拶だけで淡々と自己紹介を済ませ、好奇心のこもった視線を一斉に浴びながら、それでも言われた席に静かに座った慈恩は、くるりと後ろを振り返ってきた好奇心旺盛そうな少年に、いきなりそう声を掛けられた。
「個人で全国三位だってな。それに、団体でもベスト4に入ったんだろ?如月って、結構スポーツに力入れてんだな」
 それなりにお行儀のいい学校のようで、私語というものがほとんどない中でのセリフだっただけに、それほど大きな声ではなかったにも関わらず、教室中に響いた。直後、ざわめきが起こる。
「静かに。確かに和田が言ったように、九条は剣道で、この夏のインターハイで全国三位の成績を収めている。うちの学校でも素晴らしい活躍をしてくれることを期待している。その話は、休み時間にでもゆっくり聞け。九条はうちの編入試験も素晴らしい成績で合格している。ライバルが一人増えたということで、気を引き締めるように」
 担任の櫻木という教師は、淡々とそこまで告げた。かなり厳格そうな中年の男だ。そこでショートホームルーム終了のチャイムが鳴る。慈恩の隣に座っていた少年が起立の号令を掛けた。どうやら彼が学級代表らしい。身長は慈恩くらいある。かなり鍛えられているらしいしっかりした身体だ。
「礼」
 黙礼がしっかりと行われ、その後の「解散」の言葉で、教室内は一気にざわめいた。慈恩の周りにどっと人が集まる。
「インハイ3位?本当に?すごいのね、かっこいい!」
「それで学力もハイレベルとはね。さすが如月」
「どうしてここに来たの?親の転勤?にしても、そんな離れてる学校でもないから、通えないことないか」

「ていうかさ、インターハイのときの名前、違ったよな。九条じゃなかった。確か、椎名」
 
前の席の和田が首を傾けて見せる。
「だろ?」
「え、なになに、じゃあ、ご両親の離婚?」
「てか、九条って言ったらすごく高貴なお家柄じゃないか。どっちかって言うと、再婚?」
 和田の肯定を求める問い掛けに答える間もなく、周りの生徒たちが好き勝手に質問してくる。正直、気が滅入りそうだったが、いきなり無視して印象を悪くするのもどうかと思って、微かに笑みを載せる。
「一言で説明するのは、ちょっと難しいかな」
 その困惑気味の微笑が、整った凛々しい表情を和らげ、女生徒たちの間にささやかな声がいくつも上がる。そんなことで、ああ、女子がちゃんと半分いるんだ、と納得する。男子生徒たちからは、やや失望の溜息がこぼれた。
「何だよー、もう女子のハートを射止めちゃってるのか?勘弁して欲しいなぁ」
「何にしても今は九条なんでしょ?九条家に子供がいるなんて聞いてなかったから、もしかして跡取り?」
「うっわ、お前ほんと最強じゃん。剣道できる、顔はいい、背は高い、頭もよくて人当たりもいい、それで九条家の跡取り?近衛と同レベルか、それ以上じゃねえか。きっついな~」
「なあ、俺と仲良くしようぜ。俺水無瀬誠呉(せいご)って言うんだ。水無瀬だっていい家だぜ。仲良くしといて損はないって」
「あ、わたくし山縣聡美(さとみ)。一応清和天皇から系譜がつながっているのよ」
「そんなこというなら、うちだって・・・・・・」
 たちまち自己紹介大会が始まる。慈恩はやや面食らった。家柄なんて今まで気にしたこともなかったのだ。自分がそういう意味でも「ターゲット」になったことを思い知る。それにしても、一度にそんな家柄自慢をされても、興味もないのに覚えられる訳がない。なのに、口を挟む隙もない。うんざりするのと困り果てるので、微笑すら保つ余裕がなくなったそのとき、隣から明朗な声が響いた。
「おい、チャイムが鳴るぞ。次、日本史なのに、準備してないだろ、君たち」
 一斉にみんなの目が自分の腕にした高級時計に向く。
「あ、本当だ!まずい、夏休み明け早々、あの人に叱られるのはごめんだ」
 蜘蛛の子を散らすように一斉に自分の席へ戻っていく。思わず、ふぅ、と息をつくと、隣の少年がくすっと笑った。かっちりとした号令のときとはだいぶ印象の違う、屈託ない笑いだ。うつむき加減で栗色のやや長めの前髪を軽く掻き上げて、理知的な唇の左端を吊り上げて見せる。
「日本史の箕浦さんは厳しいので有名なんだ。授業の準備ができてないと、いきなり十分以上の説教喰らうぜ。これからの休み時間もきっとあんな感じだろうから、気をつけな」
 からっとした口調に、好感を覚える。慈恩も思わず笑みをこぼした。
「ありがとう。えーと・・・」
 名前が呼べずに言葉を詰まらせると、少年はにっと笑った。
「悠大(ゆうだい)。悠長に大きくなれって書いて悠大だ。面白い名前だろ?」
「・・・・・・そういう捉え方も、なくはないけど・・・・・・?」

 悠久の「悠」に大きいという字を合わせて、そんなへんてこりんな願いを込める親もいないだろう。いろんな意味で大きな人間になることを望まれたに違いない。のだが。
 
悠大と名乗った少年はまたおかしそうに笑った。
「そんな返事も初めてだ。お前、面白い奴だな」
 物がいいのか、ほとんど音のしない教室の入り口が開かれ、かなり年配の女性教諭がカツカツとヒールの音にも緊張感を漂わせながら、入ってきた。細い銀縁のメガネを軽く指で押し上げながら、ちらりと慈恩の隣の少年に視線を送る。
「近衛!」
「はい。起立!」
 凛とした声が教室に響く。生徒が一斉に立ち上がる。先ほどよりも反応がいいようだ
「礼」
 先ほどより、黙礼も深い。
「着席」
 ほとんど音を立てず、速やかに生徒たちが座る。その礼儀正しさに、慈恩はこの女性教諭の恐れられぶりを実感した。そして、それよりも興味を引かれた隣の少年に、視線を向ける。近衛、と、そう呼ばれたこの少年。慈恩にも、その名字が有名な旧公家のひとつだと分かる。それなのに。
(それに、その名前は・・・・・・)
 授業中の近衛は、本当に立派な模範生だった。当てられれば教師の求める答えを過不足なく、明瞭な発音で返し、黒板に書かれなくても大切だと思われる教師の言葉はノートに記録している。そのノートも美しく整った字で、きっちりとまとめられている。教師の発問に誰一人答えられなかったりすると、高校生としては比較的珍しいが、挙手で答えられなかった生徒や、それで授業が滞りそうになって困ったりイライラしたりする教師に助け舟を出す。教師陣も、彼には相当信頼を置いているらしく、何かあればすぐに「近衛」と呼んだ。

 午前中の四時限はあっという間に終わり、昼食の時間になる。慈恩は自己主張の激しいクラスメイトたちに声を掛けられるより先に、隣の少年に声を掛けた。
「近衛、昼飯・・・・・・じゃなくて、昼食ってみんなどうするんだ?」
 九条に入ってから、祖父の重盛からくどいほど言われて、俗な言葉を矯正中の慈恩である。そんなセリフに近衛はまた笑った。
「俺には昼飯でいい。同年代の子供同士の会話だぜ。全く、いいお家柄ってのは厄介だよな」
 俺もしょっちゅう家で言われる、なんてぼやいて見せる。慈恩も笑みを返したが、この完璧な優等生が家でそんな失態をするとも思えなかった。その近衛は、周りの生徒たちが慈恩に集まる前に立ち上がった。

「あ、そうそう、飯ね。弁当があれば弁当。でもその口調からすると弁当はないな」
 
軽く顎で教室の入り口を指し示す。
「となれば学食か購買。俺は学食派だけど、お前はどっちがいい?」
「何も分からないからな。近衛に合わせる」
「じゃあ行こうぜ。ああ、それから」
 慈恩の素早い行動にやや慌てている数人を、長い脚で颯爽と置き去りにすべく、優美に整った早めの歩調で歩き始めた。早く来い、と賢そうな顔で促す。
「悠大って呼んでくれ。名字は好かねえけど、これでも名前はわりと気に入ってんだ。何でも悠長に構えるってのが、俺の信条なもんだから」
 慈恩は凛々しい眉を軽く上げる。
「やたら名字を強調する人が多いみたいだけど、悠大はそういうの気にしないのか?」
 大仰に肩をすくめて、近衛は舌を出した。
「俺は俺さ。俺は近衛の家じゃねえよ。近衛って名前出しただけで目の色が変わる奴を見るのがウザイだけさ」
「そんな人もいるんだな。ちょっとほっとした」
 凛々しい表情を崩して、くす、と笑う。そして、賢明そうな男前の顔をうかがった。
「ところで、悠大。もしかして、剣道やってないか?」
 目鼻立ちのはっきりしたその顔が、一瞬驚きを浮かべ、次にふっと笑みを湛える。
「やってるよ。ちなみに剣道部部長」
「え、部長?」
「まあな。でも、何で剣道やってるって分かった?」
「ん・・・・・・大会とかで、時々見かける名前だったから。今年の地区大会では見なかったけど・・・・・・」
 ヒュ、と小さく口笛を鳴らして、近衛は一度瞬かせた目を大きくした。
「よく覚えてるな。うちは小等部から先輩が多くて、基本的に学年別の大会でなければ、先輩が優先で選手に選ばれるんだ。それに私立だから、俺は小六と中三のとき以外は、公式大会なんてほとんど出てないぜ」
「そうか。道理で・・・・・・でも、出ると結構残ってる」
「お前ほどじゃない」
 即座に返って来た答えに、苦笑する。でも、記憶が確かならば、中三のときの中体連は、関東大会辺りまでその名前が残っていたような気がするのだが。
「もちろん、剣道部に来るんだろ?」
 結構な距離を歩いてようやく食堂にたどり着くと、なんとウェイトレスが丁寧にお辞儀して席まで案内してくれた。
「・・・・・・これほんとに学食?」
「紛れもなく学食だ。金持ちっぽくて嫌味だろ」
「いや、そんなつもりで言ったんじゃないけど・・・・・・びっくりした」
「まあ、ちょっとしたレストランみたいなものだと思えばいいさ」
 これまた丁寧に渡されたメニューを慣れた手つきで開く。
「ん~、和定が食べたい気分だけど・・・・・・ウニ丼定食と秋刀魚づくし定食と松茸ご飯定食か。強いて言えばウニ丼かな。ウニ丼ひとつ」
「かしこまりました」
「九条は?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・中華の蟹レタスチャーハンセット」
「かしこまりました。以上でよろしかったですか?」
 本当にレストランそのものの対応である。丁寧にメニューまで下げていった。
 近衛が首をかしげる。
「九条、お前O型?」
「いや、A型」
「あ、そう」
「・・・・・・・・・・・・優柔不断に見えた?」
 知性を漂わせる風貌が破願する。
「いや、随分迷ってたみたいだったから」
 慈恩は首を振った。
「昼から豪華すぎなんだよ。全部定食かセットだし。女の子なんて食べ切れないだろ」
「食べ切れなきゃ、残すだけだろ」
 あっさり言った近衛に、慈恩は一瞬言葉が出てこなかった。
「・・・・・・そりゃそうかもしれないけど。それにしても、今まで昼なんておにぎりとかパンだったから、ギャップが激しくて」
「・・・・・・購買にならあるぞ。本格的なコシヒカリで北海道直送の帆立が具だったりするけど。パンならオープンサンドセットなんかなら・・・・・・」
「ヤキソバパンとかは?」
「・・・・・・見かけないな」
「あ、やっぱり」
 二人で顔を見合わせて苦笑する。気を取り直したように、近衛が知的な瞳を食堂全体に向けた。
「ま、この異常な高校生の食卓に慣れるしかないな。ところで九条」
 視線が慈恩を捉える。
「まだ、入部の返事を聞いてないけど」
 賢明そうな視線の先で、漆黒の瞳が凪いだ。
「今の俺から剣道を取ったら何も残らないよ。だからよろしく、部長。それと」
 淡い微笑みとも取れるその表情は、なんだか少し、悲しそうにも見えた。
「九条、は慣れてないんだ。できたら名前で呼んで欲しい」
 髪に近い栗色の瞳が、微かに細められた。でも、近衛は何も聞かず、ただ頷いた。

「慈恩、だったな。いい名前だ。ぜひそうさせてもらうよ」

 転校初日から結構ウマがあった近衛とは、すぐ親しくなった。何せクラスは同じ、席は隣、部活も同じで実力もそこそこ、お家意識が低い辺りは考え方も近かった。ただ、近衛と付き合うにつれ、彼が完全に己とは別の人格を演じているのを、はっきりと感じ始めた。
 近衛があの屈託ない笑いを見せるのは、慈恩の前だけだ。あとは表面的な微笑みだとか、知性的でお堅い優等生的な笑みで、いつもの彼から見ると、周りに対して表面を取り繕っているように見える。それに、言葉遣いも慈恩以外の人間には徹底して、一線を引いたやや上品なものを選んで使い分ける。
「九条さあ、近衛と一緒にいて、疲れないか?あいつ、いつでもどこでも優等生だから」
 一週間ほども経った頃だろうか。クラスメイトの一人からそう言われて、不思議に思った。
「そうか・・・・・・?あんまりそんな感じ、しないけどなぁ」
 そんなふうに答えて、逆に不思議がられた。
「お前も優等生だから、あまり感じないのかもしれないな。決して悪い奴だとは思わないけど、ちょっと近づき難いところがあるのも、確かだよ」
 そんなクラスメイトの言葉が、二週間もすると納得できるようになった。近衛の優等生面は鉄壁だった。
「あのさ、近衛。桜花祭の伝統芸能のことだけど、能を教えてくれる講師とか、呼べるかな」
「能か。知り合いに詳しい人がいるから当たってみよう。講師料はクラスで徴収だけど、いいかな」
「ねえ、近衛くん。今度の基礎解析のテストだけど、この問題がどうしても解らなくて・・・・・・」
「ああ、これは応用だから、一年で習ったベクトルを活用するんだ」
 近寄り難くはあるが、近衛に相談すれば大概のことを確実に解決してくれるという信頼はあるらしい。近衛に寄ってくる人間は教師も含め、かなり多かったが、そのどの相談にも懇切丁寧に応対するのだ。その時の表情は、真剣な眼差しか優しい微笑みであり、決して負の感情を表に出したりはしなかった。
「慈恩、俺学代の仕事あるんだけど、手伝ってくれないか?」
 そんなある日の放課後、部活に行こうとした慈恩を呼び止めて、近衛が少し苦々しい顔をした。
「何が悲しくて俺だけ残ってやんなきゃならねえのかって思うと、やりきれねえよ。俺が行くまで、どうせお前の相手できる奴いないだろ。だから、手伝ってくれ」
 慈恩は漆黒の瞳を何度か瞬かせた。
「・・・・・・構わないけど。部の方はいいのか?」
 ふん、と鼻で笑って、近衛は嘲笑気味の口調になる。

「形だけでも副部長はいるし、顧問もいるし、コーチしに来る道場の先生もいるだろ。俺一人くらいいなくたってどうにでもなる」
 
この学校や周りの人間に好感をもっていないような言い方だ。普段は非常に積極的に活動や授業に参加しているだけに、慈恩にはその変わりようが不思議だった。けれど、人がいる前ではそんな言動を見せない近衛であるだけに、その辺りを聞いてみたいという好奇心もあって、慈恩は快く引き受けた。
 
仕事というのは、こちらでも近々あるらしい文化祭と体育祭をまとめた桜花祭の出し物に関わるものだった。
「うちのクラスは能をやるんだ。出し物は決まってて、一年が和の食材を扱う。和菓子とか皇室の食卓の再現とか、あと、茶の手もみ体験なんかもある。で、二年が伝統芸能で、毎年狂言、歌舞伎、華道、茶道、和楽器の演奏みたいなのをやる。三年は必ず日本の古典で演劇。平家物語とか、御伽草子とか、毎年なんかテーマが決まってて、学年で分担してやるんだ。初日は前夜祭で、有志の部活とかクラブとかの出し物がある。二日目が一年生の出し物。三日目が二年生の出し物。四日目が三年生の出し物。五日目に体育祭。六日目は半日で表彰式とか、そういうのをまとめてやって、夕方から後夜祭。みんなでパーティーってヤツ。だから、一週間丸まる桜花祭なわけだ。その出し物が、うちのクラスは能ってことで、俺がやらなきゃいけないのは、明日から始まる練習での役割分担と講師の振り分け。おかしいと思わねえか。能をやりたいって言った奴に限って、言いっぱなしで何もしやしない。結局俺に全部回しやがって。講師を頼んだのも俺、講師料集めたのも俺、払うのも俺、誰が誰に教わるのかのスケジュールを作るのも俺。やりたい物語とか役とか、自分たちに興味のあることだけやって満足してるんだ。なあ、どう思う?」
 何も解らない慈恩に丁寧に説明しながらも、彼の手はパソコンのキーを休む暇なく打っている。ここではパソコンが二人にひとつくらいの割合でそろっている。その半分はノートパソコンで、いつでも貸し出しが自由となっている。
 如月祭とはだいぶ違うな、と思いながら聞いていた慈恩だが、最後の問い掛けには少し考えて、感じたままに答えた。
「だって、悠大は嫌な顔ひとつしないで、いつも相談に乗るし、引き受けるだろ?だから、みんなは悠大に頼ればいいと思ってるし、それ以外の苦労をしなきゃいけないなんて、考えてないんじゃないか?」
 パソコンを打つ長い指がぱたりと止まる。知的な瞳が慈恩を捉えた。かなり不満そうだ。
「考えるだろ、普通」
「・・・・・・それが当たり前、に、ここの生徒たちは慣れ過ぎてるよ。例えば食堂のメニュー。和洋中で毎日違うものが三種類ずつ用意されているのが当たり前。誰がそのメニューを考えて、そのためにどれだけのシェフが用意されて、どれだけの費用が費やされていて、どれだけの食材が必要で、それを手に入れるためにどんなルートを使わなきゃいけないのか、なんて、悠大は考える?」
 近衛の栗色の瞳が、訝しげにしかめられる。
「だって、それは俺たちの手でしなきゃならないことじゃない」
 ふ、と慈恩の瞳が優しくなる。
「そう、自分の食べるものを作るのは自分の仕事じゃないと、思ってるからね」
「・・・・・・・・・・・・」
「俺はずっと自分の食事は自分で準備してたから、ここの食堂のメニューは贅沢すぎるって感じる。やったことのある人間は、気づくんだ。でも、多くの生徒は平気でその贅沢なメニューを残す。それが自分のもとに運ばれてくるまでの苦労を知らないからだ。一度でもその過程の苦労を体験していれば、それでは済まないんだって、解るはずだよ」
 近衛の賢そうな瞳が、更に知性的な輝きに満ちる。
「すごいな、お前は。俺は今お前を尊敬した。さすが、俺の見込んだ男だ」
 一体いつの間に見込まれていたのか。慈恩は凛々しい眉根を寄せて首をかしげた。そんな慈恩の肩を力強くたたいて、近衛は頷く。
「そうか、いつも俺は、自分がやるのが一番てっとり早くて効率がいいと思ってた。他人に回すと遅ぇしサボるし思ったのができねえし、気に食わなかったからな。でもそうやって自分が忙しくなるのは、自分が周りを育てることに手を抜いたツケが回ってくるからだったんだな。リーダー失格だなぁ、俺は」
 たかが高校生のクラス長が、周りを育てる、なんて考える辺り、大したリーダーだ。思わず慈恩はくすくす笑った。たちまち知的な男前の顔が不審そうに歪む。
「・・・・・・何がおかしいんだよ」
「いや、きっと悠大は、将来名前の通り器の大きなリーダーになるだろうと思って。それに」
 優しい笑みで不審気な視線を受け止めて、慈恩は続けた。
「くるくる表情の変わる悠大も、優等生なだけの悠大より魅力的だと思うけどね」
 栗色の瞳が大きく見開かれてから、すっと形よく描かれた唇の左が、少し吊り上った。
「家で優等生を保とうと思ったら、ある程度普段から作っておかないとボロが出るんだ。だから、学校はその予行演習さ。それに、俺の本性に同調できる奴は少ないんでね。残念ながら、俺の本当の魅力は今のところ、お前にしか見せられない」
 なぜ自分だけなのか、かすかに疑問が残ったが、その辺りが「見込まれた」ということになるのだろう。慈恩は大きく息を吸い込んで、パソコンの画面に視線を移した。
「残念なのは俺じゃなくて、たぶんお前とお前に関わる人たちだと思うけどね。じゃ、とりあえず目の前のことだけ片付けて、部活に行くとしようか。部長」
 桜花高等学校剣道部の部長は、屈託ない笑みで頷いた。

「おう。任せとけ。あと十分で終わらせる」

   ***

 震える指を握りこむ。三神は、己の理性の強さに感謝と安堵を覚えた。
『やめて、三神っ!』
 拒否された瞬間、激しく傷ついた。と同時に、まだ早かったか、と後悔が押し寄せた。弱っているところに自分の想いを告げ、自分を意識させたかった。あの隠し子の存在を打ち消し、あの心に己の存在を刻み付けて、心も身体も手に入れる。そう考えて行動に出たのだが、思った以上の芯の強さだった。流されてはくれなかった。そのまま無理矢理にでも想いを遂げることは、できたかもしれない。でも、昂ぶる細胞の興奮を、三神は理性を総動員して押さえ込んだ。失敗して全てを失うのは、やはり怖かった。しかし、不幸中の幸いというのだろうか。押さえ込んだおかげで、すり減らされて弱った主人の心は、離れずにすんだ。離れるどころか、傍にいて欲しい、とさえ言ってくれた。その身体を抱き締めながら、三神は幸せな気持ちに包まれた。
 けれど、それで欲望が満たされたわけではなかった。触れるたび、惹かれるたび、突き上げてくる激しい欲情。その度に、こうして震える指を押さえるのも一苦労だった。あの唇をもっと激しく奪いたい。あの白い肌に、自分の痕を残してやりたい。あの華奢な身体を想いのままに貫いてしまいたい。それができたら、どんなに満たされるだろう。どれほどの快感が味わえるだろう。この想いを抱えて、一体どれだけ耐えなければならないのかと思うと、気が遠くなりそうだった。
 その時、ふと三神の脳裏を、一つの考えがよぎった。
「・・・・・・そうだ・・・・・・。起きなければ・・・」
 拳を更に強く握り締める。やや鋭い目に、真剣な光が宿る。
(それなら、心が離れてしまうことも・・・・・・)

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二十七.三週間

 九条家の起床時間はまちまちだ。一番早いのが慈恩。朝練に参加しているので、七時半には学校についていなければならない。それでも、六時半に起きれば十分だった。これまでも同じように朝練に参加していたが、朝食の支度や洗濯物を干したりする作業があったため、六時には起きていた。ちなみに斗音は家中の草木に水をやっていたので、やはり六時起きだった。
 新しい制服の白い半袖のシャツは短くて、脇に小さくスリットが入っている。胸のポケットには桜花高校の桜をあしらった豪奢な校章が刺繍され、袖と裾が上品なグレーで縁取られている。ネクタイは同じグレーだが、絹の光沢があり、光の加減でシルバーにも見える。やはり上品な薄いブルーに縁取られた桜色の模様が細く斜に入っており、そのブルーの縁取りをよく見ると、気品のあるチェックになっているのが分かる。パンツはグレーを基調にした細やかなチェックと大きなチェックが、上品な薄めのグレーに溶け込んでいる。ぱっと見はあまり分からないのだが、よく見ると模様がある、といった感じだ。小洒落ているといった印象だが、慈恩としては如月の制服の方が、落ち着きがあって自分には合っていたと思う。こんな格好は、むしろ斗音の方が似合うだろう。もちろん、他人から見たら、それはそれですらりとした慈恩にはよく似合っているのだが、あいにく慈恩は、他人の目線で自分を見るなんて器用な技は、持ち合わせていなかった。
 その制服で食堂へ降りていくと、二番目に起きるのが早い重盛と珍しくはち合わせた。二番目とは言うが、この祖父は大概七時ごろにここにやってくる。基本的には夕食は全員そろって、だが、朝はまばらなので、そこに来た人からその人のための食事が運ばれてくる。
「おはようございます」
 丁寧に頭を下げると、重盛は落ち着いた動作で椅子に腰掛けて満足そうに目を細め、その姿を眺めた。
「おはよう。本当にお前は、何を着せても似合う。物腰の丁寧さも、その落ち着いた風貌も、九条家の名にふさわしい。お前のような孫をもって、全くわしは果報者だ」
 慈恩の心はきりきりと痛む。産まれたばかりの自分を疎んで捨てさせた張本人が、よくも言えたものだ。何度反論したくなる自分を押さえつけただろう。睨み付けたい衝動を飲み込んだだろう。明日からはもう少し早く朝食を取ろうと、心に決める。
「まあ座るがいい。たまには朝食を共にするのもよかろう。夕食時は絢音がお前のことばかり話すので、お前の話がなかなか聞けん」
「失礼します」
 勧められた席に座ると、早速慈恩にはパンプキンポタージュとスモークサーモンとモッツァレラチーズのベーグルサンド、ゆで卵とレタスとキャビアのクロワッサンサンドが盛り合わせられた皿が運ばれ、重盛には松茸の香りを漂わせるお吸い物、白いご飯に、紅トロを軽くあぶったといった感じの焼鮭、ふわふわのだし巻き卵、和風ドレッシングの豆腐サラダ、小ナスの浅漬け、牛肉の時雨煮などが盛られた膳が運ばれてきた。
「慈恩、学校で友人はできたか」
 いただきます、と丁寧に手を合わせてから、慈恩は祖父の問いに応える。
「皆よくしてくれます」
 抽象的な答えに、うむ、と重々しく頷きながら、重盛は更に重ねた。
「特に親しくしているのは誰だ」
「剣道部の部長です」
 重盛が何を聞きたいのか分かっていながら、慈恩は敢えてそれを無視した。それくらいの反抗はさせてもらわないと、せっかくの朝食も喉を通らない。重盛は、その答えにもうなずいた。
「あの学校で部長を務めるほどの者ならば、文句はあるまい。その者の名は?」
 やはりそう来るか、と、慈恩は心の中で舌打ちをする。家の名で判断されることを嫌う悠大の名字を、言いたくなかったのだ。しかし、ここまで露骨に聞かれては、答えないわけにもいかない。これ以上は気づかない振りも通じないだろう。気づいていてそれでも答えなければ、彼はこう言うのだ。
『こんな風になるから、俗なところには置いておけないのだ。全く、今までの時間が惜しいわ』
 何よりも、今までの自分の生きてきた時間を否定されることが許せなかった。そもそもの大元凶が自分であるということを、すっかり棚に上げてそう言う図々しさも許せない。そんな言葉を表に出させるのは、何が何でも避けたかった。申し訳なく思いながらも、口を開く。
「近衛悠大といいます。とても気のいい友人です」
「ほう、近衛の家の。大変よくできた品行方正な若者と聞く。なかなかの人選ではないか」
 感心したような重盛の口ぶりに、慈恩は手が震えそうになるのを必死で堪えた。この家のために選んだ友達ではない。近衛家の人間だから選んだのでもない。選んで友達になったのでもない。ただ、彼とは気が合った。それだけのことだ。それを、そんなふうに言われるのはつらかった。
「やはりあの学校にやって正解だった。これまでの俗な友人とは早く離れて、近衛の家の友人を大事にするのだぞ」
 スプーンを持つ手がはっきりと震えて、スープ皿と硬く澄んだ音を奏でる。絶対に、例え表向きだけだったとしても「はい」と答えることはできなかった。そして、それ以上食事を続けることもできなかった。
 重盛の眉間に深いしわが寄る。
「慈恩。音を立てるのは・・・」
「すみません、今日は部室の鍵当番になっていたのを忘れていました。取り乱してお食事中にご不快な思いをさせてしまい、申し訳ありません。もう行かなければならない時間ですので、お先に失礼いたします」
 畳み掛けるように言って、なるべく音を立てないように席を立つ。キッチンを通りすがるときに、朝食を作ってくれる家政婦の野村に、こっそり謝る。
「ごめんなさい、ほとんど食べられなくて。叶うなら取っておいて、明日の朝食にください」
 本音だったが、それが叶わないことくらい承知だった。もし同じメニューを望むなら、新しいものが出てくるだろう。野村は苦笑してお辞儀した。

「お気遣い痛み入ります。行ってらっしゃいませ」

「随分早いじゃないか、慈恩。お前は重役出勤でも、誰も文句言わないぜ?」
 朝夕は少し肌寒くなってきているので、近衛は制服のひとつであるカーディガンを羽織っている。冬服のブレザーは十月半ばからになるので、それまでやや肌寒いときは男女ともかなり明るい紺色のカーディガンを着用していいことになっている。カーディガンとはいっても、比較的薄手で、すごく肌触りがいいので、人気がある。
「ん・・・・・・」
 剣道場の前で石段に腰かけて、ぼんやり鍵の開くのを待っていた慈恩は、緩やかに視線を動かした。桜花高校剣道部に鍵当番なんて存在しない。部長の近衛が、いつも誰よりも早く来て、鍵を開けて準備しているからだ。そんなのは一年生にやらせればいい、と同学年の生徒たちは言うけれど、近衛はいつも上品に笑うのだ。
「少しでも長い時間、稽古をしていたいだけだよ」
 そんな近衛が、秀麗ともいえる眉目を寄せた。
「どうかしたのか?」
 いつもの慈恩なら、本音を込めてはいるが、明らかに冗談だと分かる最初のセリフに対して、きっと苦笑を浮かべるだろう。なのに、いつもの少し控え目な反応や凛々しさが感じられず、まるで美しく整った物憂げな陶器の置物のようだ。
「・・・・・・何でも、ないよ」
 かすかに微笑む。なんだか一片の雪の欠片のような淡さで、それはたちまち消えてしまった。
「・・・・・・何でも、あるだろ。儚げなお前なんて、初めて見る」
「・・・・・・儚げ?」
 その言葉を口先でつぶやいたと思ったら、いきなりくつくつと笑い出す。近衛はますます眉をひそめた。
「おい、慈恩?お前、大丈夫か?」
 肩をぐいっとつかむと、思いの外冷えていた。予想以上に早くから、そこにいたのだと知る。
「馬鹿っ、何身体冷やしてんだお前!こんな無防備な格好で・・・・・・っ」
 激しい口調で怒鳴りつけると、慈恩の笑いが消えた。漆黒の瞳がようやく焦点を結ぶ。
「・・・・・・悠大・・・?」
「・・・・・・やっと俺を見たな」
 まだかすかに怒気をはらんだ吐息で、残った怒りを吐き出すと、近衛は荒い動作で着ていたカーディガンを脱ぎ、冷えた肩に掛けた。
「ちょっとの間だけでも着てろよ。そんな身体で急に動いたりしたら、怪我につながる」
 冷えた指先で、慈恩はカーディガンに触れる。あたたかい。セーターの暖かさだけではない。近衛の体温の残るそれは、慈恩の心をそっと暖めた。慈恩は静かに目を伏せる。
「・・・・・・ありがとう」
 道場の鍵を開けようとしていた近衛は、思わず鍵を取り落とすところだった。石段に腰を下ろしたままの慈恩を振り返る。一瞬、泣いているのかと思ったのだ。すぐにそうではないと分かったが、そうでなくてもやはり壊れそうな危うさをもつ薄い陶器のような、そんな儚さを湛えていた。
(やっぱり儚いじゃねえか)

 小さく溜息をついて、近衛は勢いよく重い扉を開けた。

 しばらくすると二人、三人と部員がやってきて、剣道場がにぎわしくなってくる。きっかり七時半に和太鼓が打ち鳴らされた。稽古開始の合図である。
「打ち込み、始めっ!」
 近衛の鋭い声で、一斉に気合の掛け声と竹刀を打ち鳴らす音が道場に満ち溢れる。慈恩の竹刀を受ける近衛は、面の奥で目を眇めた。相変わらず鋭いし、上手い。技術が違う。全員が均等に練習できるように、二人組みになってやっているが、本来は格上を相手にする練習である。自分では慈恩の相手をするには役者として不足だろう。慈恩が来る前までは、当たり前のように部の誰よりも格上として稽古をつけていた近衛だったが、それでも、新入部員の慈恩に対して嫉妬心などは一切湧かなかった。それくらい、慈恩の強さは圧倒的だったし、それ以前に、近衛は慈恩がどれだけの腕の持ち主なのかをよく知っていた。その慈恩の竹刀はやはり素晴らしい動きをするのだが、いつもの気迫やパワーが感じられない。
(こんなもんじゃないだろ、お前は!)
 もともとそれほど掛け声を出すタイプではないけれど、それにしても今日は全くといっていいほど声を出さない。打ち込みが入れ替わると、近衛は当社比一・五倍の勢いで慈恩に打ってかかった。それを慈恩はいとも簡単に受ける。力が上手に殺されているのが分かる。何度か繰り返したが、結局慈恩のいつもの気迫は戻らなかった。逆に自分の息が上がってしまった。彼の勢いを取り戻したいがためにやや張り切り過ぎたらしい。
「近衛、今日は気合入ってるなあ」
 副部長を務める東坊城美陽早(ひがしぼうじょうよしひさ)が感心したように言う。ご大層な名前のわりに、剣道の腕以外はどちらかというと平凡な少年だ。剣道は小学校低学年からやっているだけあって、二年生の中では近衛に続く二番手だったため、副部長という役割についた。現在では三番手ということになるのだが。
「慈恩が上手いからね。何とか打ち崩してみたいと思ってやってみたんだけど、やっぱり厳しいみたいだ」
 ちらりと視線を送るが、慈恩はどこを見ているふうでもなく、ぼんやりしているように見える。
(ちっ。俺の渾身の打ち込み軽々と受けてるくせに、そんな上の空なのかよ)
 そう思うと、何が何でも慈恩の気持ちをこちらに向けさせたくなった。
「次、掛り稽古!」
 強気でそう言うと、場内の空気がざわっと揺れた。
「えぇっ!朝っぱらから掛り稽古?きっついなぁ」
 如月では、例え心の中でそう思う者がいても、決して口には出さないのだろうが、ここではまだ甘えがあるのだろう。部員の中からそんな声がこぼれる。近衛が表情を引き締めた。
「和田。来年は俺たちもインターハイを狙える可能性があるんだ。慈恩がいるんだからな。だけど、団体戦は一人では出られない。最低でもあと二人は、予選で勝ち残れる人材が必要になる。それだけの力は、一朝一夕に養えるものじゃない」
 クラスでは慈恩の前の席になっている和田が、くるりとした目に、ふてくされた感情を宿らせる。
「また九条か。ほんとお前、最近九条にぞっこんだよな。いいじゃん、九条とお前と東坊城がいるんだから。お前だけなら、今年でもインターハイ狙えたんだし」
 カチンときて、近衛が面の奥で視線を厳しくした。言い返そうとした瞬間。
「そんな。俺はとてもじゃないけど、まだインターハイには届かないから、当てにされても困るよ」
 ややとんちんかんな言葉を挟んだのは東坊城だ。和田が今話題にしているのは近衛だということを、自分の名前が出たことですっかりすっ飛ばしてしまったらしい。和田はうんざりしたように溜息をついた。
「あのなあ。お前は練習してればいいだろ、自信ないなら」
 近衛がふっと笑う。面をかぶっていたがために、それはあからさまには出なかったが、はっきりと嘲笑だった。
「じゃあ、和田は自信があるんだな」
「は?何言ってんの?」
 和田の声が険しくなる。それを全く意に介さず、近衛は続けた。
「自信があるから、きつい練習はしたくないんだろう?」
 和田の竹刀が荒々しく床を打つ。
「誰がそんなこと言ったんだよ。二人強ければいいなら、お前と東坊城でいいって言ったんだろ」
「そうか。じゃあこうやってみんなが朝練に出てくるのは無意味なんだな」
「だからさあ!何でそうなるんだよ!」
 激情を迸らせる和田に対して、近衛は冷静に笑みすら浮かべた。
「団体戦っていうのは部の力を結集して戦い抜いていくものだと、僕はそう理解していたんだけれど。そのための力をみんなでこつこつと高めあって、それで初めて勝って嬉しいという感情も湧く。僕は、勝つためには『最低でも二人』と言ったはずだよ。その『最低』で、和田は満足するのか」
 和田がぐっと言葉を詰めた。いつもの優等生近衛にしては、かなり痛烈な言い方だった。慈恩の前ではこれに加えて口も悪くなったりするのだが、他の部員たちは初めて見る機嫌の悪い近衛にはらはらし、ものすごく気まずくなった雰囲気を何とかしようと、おろおろする。いつも元気のいい秋月が思わず口を挟んだ。
「ほら、近衛。和田も言葉のはずみで言い過ぎただけだから。な、そうだよな、和田」
「そうだよ。近衛の言ってることは最もだって、和田だって分かってるはずだよ」
 東坊城をはじめ、二年生たちが口々に和田をフォローする。近衛は正しい。正論過ぎて、反論の余地もない。だから、やり込められてしまった和田の方に同情が集まったのだ。慈恩だけが、まるで他人事のように一部始終を網膜に映していたが、そっと近衛に歩み寄って、その肩に静かに手を置いた。近衛が振り返ると、月のような静けさを湛えた漆黒の瞳が、少し悲しそうに見えた。
(・・・・・・慈恩)
 視線を戻して、手にした竹刀を、ぎゅっと握り締めた。理性を総動員して自分の感情を押し殺す。
「すまない、言い過ぎた。みんなも、稽古を中断して申し訳ない。・・・・・・掛り稽古からでいいかな」
 機嫌を直してくれた上に、先に謝ってまでくれた近衛の言葉に、逆らう者などいるはずもない。
「もちろんだよ。俺たちだって、強くなりたいもんな。な、和田もやるよな?」
「・・・・・・あ、ああ」
 まだ完全には立ち直れていない和田も、強引に東坊城に促されて頷く。
(これで文句ないだろう!)
 くるりと振り返ると、こちらを見ていたらしい慈恩が、すっと視線を逸らすようにうつむいた。その仕草の意味はよく分からなかった。近衛は密かに溜息をついてもやもやした気分を押し出した。そして、キッと顔を上げる。
「掛り稽古、始め!」
 これも二人一組になっているが、格上の方は引き立て稽古となる。やはり近衛と慈恩で組んでいるが、当然近衛が掛り、慈恩が引き立てである。打ち込みとは違って、思うままに技を仕掛けられる。客観的に見た近衛の実力は、近藤のパワーを六割にして、技術をニ十%プラスにした感じだ。総合的に判断すれば、近藤の方が強いだろう。ちなみに近衛から見た慈恩は、自分の技術を八十%上乗せした感じだ。
 そんな相手に、容赦など必要ない。その上、上の空の慈恩を本気にさせてやりたい思いや、先ほど押し殺した不快な感情もあって、近衛は気合の掛け声ごと、思い切り打って出た。ところが、すんなりと攻撃を受け流すか、かわすかするはずの慈恩の反応が遅れた。かろうじて受け止めるのには間に合った竹刀だったが、受けるので精一杯だった。更に踏み込んで小手面の二段攻撃を仕掛けた近衛をかわそうとして、半歩引きが遅れる。

(危なっ・・・・・・!)
 踏み込んで勢いのついた近衛は、身体ごと懐に飛び込んでいたので、引こうとしていた慈恩に竹刀ごと体当たりをするような形になった。それでも慈恩はその間に竹刀を挟んで、その攻撃を受け止めたのだが、近衛の全力での勢いまで食い止めることができず、派手な音を立ててもつれるように床に身体をたたきつける。
「悪い、大丈夫か!」
 上に圧し掛かる形になった近衛は素早い身のこなしで飛びのき、慈恩の肩を支えて起こす。
「っ!」
 慈恩が喉の奥で呻き声を堪える。自分のことはあまり表に出そうとしない慈恩の、その整った顔が一瞬苦痛に歪んだのを、近衛は見た。
「痛めたのか。どこだ?」
 周りも稽古を再び中断し、心配そうに寄ってくる。その視線を意識したのか、慈恩は軽く首を横に振った。
「大丈夫だよ。大したことない」
「でも随分派手な音したよな。少なくともあちこちぶつけてると思うけど」
「保健室に行ったほうがいいんじゃないか?」
 慈恩の言葉に納得しない周りが、口々に言う。近衛は小手を外し、手早く自分の面を外した。
「行こう、慈恩。みんなの言う通りだ。大したことなくても、放っておいて大事になる場合もある。防具、外せるか?」
 言いながら、自分の防具を手早く外していく。そして、知性をうかがわせる瞳で東坊城を見上げた。
「東坊城、あとを任せていいかな」
 桜花高校剣道部の副部長は、面の奥でにっこり頷いた。
「うん、いいよ。掛り稽古の続き、やっておくから」
 なかなか理知的な笑みを浮かべて、近衛も頷き返す。そして、動こうとしない慈恩の防具をてきぱきと外す。
「ほら、立てるか?」
「ああ。ごめん、せっかく早く来たのにほとんど練習できなかったな」
 やはり元気がない。手拭を取り、ぎこちなく立ち上がる。片手で竹刀、片手で面を抱えるようにして、部室に向かって歩き出すが、やはり歩き方に少し違和感があった。
 あれだけ繰り返し打ち込んだにも関わらず、慈恩はそれほど汗をかいておらず、すんなり着替えることができた。近衛の方は結構汗ばんでいる。
(やっぱり上の空だったんだな、こいつ)
 制汗剤などでほてった肌を押さえながら、近衛は小さく吐息する。剣道に関しては、それなりに自信を持っていたのだが、慈恩を前にすると、その自信は微塵に砕けてしまう。
「・・・・・・今日はちょっと、寒いな」
 つぶやくように言った慈恩に、思わず眉をしかめてしまった。
「俺は暑い」
「・・・・・・?そうか?」
「ちょっと動いたもんでね」
 いつもの鋭さはどこへやら、鈍すぎる慈恩に思わず皮肉を交える。いつもの慈恩なら、気づいて苦笑のひとつも返してくるだろう、と思ったのだ。確かに、慈恩はそれが皮肉だと気づいた。しかし、反応は予想外だった。視線を床に落として、小さくつぶやいたのだ。
「・・・・・・・・・・・・ごめん」
 あんまりそれが切なくて、近衛は皮肉を交えた自分を後悔した。それを紛らわすように、練習前に貸したカーディガンを突き出す。
「・・・・・・?」
「寒いんだろ。今俺には必要ない」
「・・・・・・あ・・・りがとう・・・・・・・・・」
 もう九月も下旬にさしかかり、珍しく本当に肌寒い朝だった。だからこそ、近衛だって羽織ってきたのだ。それを慈恩が着るのを待って、自分の荷物と慈恩の荷物を持つ。
「いいよ、悠大。自分で持てる」
 伸ばして来た慈恩の手を押し戻す。
「足のどこか、痛めてるだろ。負担掛けてどうする」
「でも・・・・・・」
「俺だって責任を感じなきゃならない心当たりがある。いいから、持たせろよ」
「・・・・・・?」
 首をかしげる慈恩に、近衛は理知的な顔に苦笑を湛えた。
「苛立ってたのを無理やり飲み込んだからな。お前に八つ当たりしたんだ。悪かった」
 苦笑につられたのか、端正な顔が少し和らぐ。
「・・・・・・無理やり飲み込ませたのは、俺だ。八つ当たりされても文句は言えないよ。それに・・・・・・いい攻めだった」
 近衛の栗色の瞳が、かすかに見開かれる。胸にじわりと湧き上がる想い。それは、自分の尊敬している相手にプライドをくすぐられる嬉しさだった。照れくさいのを隠すように、目を眇めて、唇の左端を歪めるように笑った。

「ありがとよ」

 桜花高校の校医はまだ三十台前半の男性だった。
「膝の裏の筋を伸ばしたようですね。ずっと足を伸ばしたまま片足の踵に体重を掛けっぱなしにしたとか、膝を伸ばした状態で瞬間的に上から負荷を掛けたりとか、しませんでしたか?」
 親しげだった如月の養護教諭とは違い、きっちりと一歩ひいた態度で接してくる。本当の医者のようだ。眼鏡を片手でずらすようにしてレンズの角度を変えながら、右膝まで慈恩の制服をたくし上げ、その裏を指で軽く押さえる。その瞬間慈恩の凛々しい眉がぎゅっと寄せられた。その表情の変化をうかがいながら、その辺りをあちこち押して、うーん、と唸る。
「思ったよりよくないですね。かなり熱も持ってるし、相当痛むでしょう。普通ならもっと大騒ぎするところです。ギプスをするほどではないですが、その直前まではいってますよ。まず一週間は絶対安静です。歩く以上の運動は避けてください。必要なら、松葉杖もお貸ししますよ」
 ぎょっとしたのは近衛である。確かに慈恩は、痛くても表に出すような人間ではないと思っていたけれど、そこまで酷いとは。しかも利き足である。慈恩の表情をそっとうかがうと、やや青ざめた顔色で唇を噛み締めていた。ズキ、と胸が痛む。
「とりあえずこまめに湿布を取り替えて、今は熱を取ることです。あと、あまり使わないように、伸びない包帯で固定しておきますから。湿布は一袋お渡します。三時間おきくらいに交換してください」
 かなり頑丈に包帯を巻かれた足で、先ほどの動きに輪をかけてぎこちなく立ち上がると、慈恩は力なくだったが丁寧に礼を言った。
「ありがとうございました」
 校医は眼鏡の奥の目を少し細めて、慈恩を見つめた。そして、ほっと息をつく。
「無理しなくていいですよ。顔色が悪いし、少しここで休んでいった方がいいでしょう。今ベッドの方を用意しますから。先生たちには私から連絡をしておきます」
 慈恩が漆黒の瞳を大きくした。
「そんな・・・・・・大丈夫です。授業は座ってるだけだし・・・・・・」
 そんな慈恩の目の前で、校医はベッドに毛布と掛け布団を載せる。

「転校してきて三週間ですか」
 
そして、少し笑った。
「人の精神にはどうも三という数字が節目になっているところがあるらしいですよ。三日坊主という言葉があるでしょう。三日目というのは精神的に一番負担が掛る時期なのです。逆に三日目を乗り越えることができたら、ある程度安定すると言われています。他にも問題児が何か問題を起こすとする。次に大きなことをしでかすのは、三日後の可能性が高い。それを乗り越えた場合は三週間後、更に乗り越えた場合は三ヵ月後が要注意と言われています。・・・・・・何かと溜め込んでいるものがあるかもしれませんよ。近衛くんに聞いてもらうといいでしょう。そういう意味で、彼は適任ですから」
 優しくそう言って、近衛に視線を移す。
「聞いてあげてくれますか。私よりあなたの方が、彼のことを知っているでしょうから。私は席を外しましょう」
 近衛は反射的に、優等生的な真摯さを目に浮かべた。
「分かりました。僕でよろしければ、ここに残ります」
「あなたならそう言ってくれると思っていました。それでは、お願いします」
 軽くお辞儀をして、校医は着ていた白衣を椅子に掛けると、すらりとした濃いグレーのジーンズに黒の長袖タートルシャツという一般人に成り代わって、保健室を出て行った。
「あの人、先生って感じじゃないな」
 思ったより明るい声が聞こえて、近衛は思わず慈恩を見やる。端正な顔には笑みが載っていた。
「うちの学校は、本物の医者が来てるんだ。あの人は養護教諭ってヤツじゃない。もちろん、そういう保健室の先生ってのもいるけど、その人は忙しいから、大概別館の第二保健室にいる。そこにこもって仕事してることが多いよ。あそこならあまり怪我人が来ないからな」
 言いながら、強引に慈恩の右腕を肩に掛けるようにして立ち上がらせる。
「ほら、せっかく用意してもらったんだ。横になるといい。そんなふうに、何でもないふりするなよ。つらいくせに」
 慈恩が自分を見つめているのが分かったが、それに気づいていないふりで、右足の負担を極限まで減らすように肩を貸しながら、ベッドまで歩いた。そのまま有無を言わせずベッドに寝るよう促す。
「そんな大げさなものじゃないのに・・・・・・」
 右足を庇いながら枕を背もたれにして、慈恩は少し吐息した。どうやら寝る気はないらしい。その身体に綿毛布と布団を掛けた近衛を、漆黒の瞳で捉える。近衛は慈恩の五倍ほど大げさに吐息して見せた。
「医者の言うことは信用するもんだぜ。それに明鏡(めいきょう)先生は心理学もやってて、カウンセラーとしても頼りにされてる人なんだ。その人にお前を任されたからには、俺も引けねえからな」
「そんな、悠大までつき合わせるわけにはいかないよ。授業遅れるし・・・・・・」
 本気でつき合わせる気はなかったらしい。近衛は心底がっかりした。精神の落胆度はMAXに近い。
「あのなあ、俺が授業とお前を比較したときに、授業を取るほどの甲斐性無しだと思うのか?」
 思わず言葉を荒げる。そんな近衛を見つめていた瞳が、微かに細められた。そして、ポツリと慈恩がつぶやく。
「・・・・・・・・・・・・俺、そんなに参ってるように見えるか?」
「な・・・・・・」
 何を今更、と言いそうになって、無理に言葉を飲み込んだ。漆黒の瞳が、何か溢れ出さんばかりの思いを映すように揺らめいていた。
「・・・・・・いつも通りでいられる自信は、あったんだけどな」
 ふっと浮かんだ笑みは、自嘲だった。見ている者が苦しくなるほどの。息が詰まりそうになって、近衛は思わず大きく息を吸って吐き出す。そして、改めて慈恩の弱々しい表情を見つめた。
「何があったんだよ。話す相手として俺に不足がないなら、聞かせて欲しい」
 慈恩の前でのいつもの近衛に比べれば、かなりの低姿勢だった。でも近衛にとっては、それが最大限の本音の表現だった。今度は本気の真摯な栗色の瞳に、慈恩は軽く首を振った。
「俺が今の生活の中で一番信頼してるのはお前だよ。お前に話せなかったら、俺は誰にも話せない」
 小さく笑って、視線を落とす。
「・・・・・・お前に謝らなきゃいけない。お前を名字で判断すると分かっている人間に、俺は友人としてお前の名前を言ってしまった。お前がそれを嫌がると分かっていて、それでも自分が嫌な思いをしないためだけに俺は祖父にそれを告げた。・・・・・・ほんとに、ごめん」
「・・・・・・お前、だから・・・・・・」
 今朝は、何度も目を逸らされた。それはこの気持ちの表れだったようだ。何を言われるかと構えていた近衛は、知らず苦笑した。
「確かに名字で判断されるのは嫌いだ。だけど、そんなの慣れてる。お前が嫌な思いするくらいなら、いくらでもそんな名前出してやればいい。むしろ俺は」
 苦笑が微笑みに変わる。
「お前に友人だと言ってもらえて嬉しいくらいだ」
 慈恩は一瞬綺麗な黒の瞳を大きくして、それから小さく笑んだ。

「・・・・・・ありがとう。でも、もし家に来る機会があったら、祖父とは顔を合わせない方がいい。あの人の感覚は俺にはついていけない。悠大にもきっと嫌な思いをさせるから」
 珍しい、と近衛は思った。自分はしょっちゅう言うけれど、慈恩が人のことを悪く言うことは滅多にない。というより、今まで聞いたことがない。それは慈恩が周りの人間に恵まれているからだと思っていた。でもそうではない。それが慈恩の人柄なのだ。自分の感情をあまり表に出そうとしないだけなのだ。改めてそう感じる。しかし、その慈恩がそこまで言うということは、その人物に対して、よほど何か抱えているのだろう、と容易に想像がついた。
「そのじいさんと、今朝何かあったのか?」
 九条の一番の権力者を「じいさん」呼ばわりしたのは、近衛が初めてだろう。慈恩はくす、と小さく笑った。でもすぐにその笑みは消える。それが問われたことを肯定していると、近衛はすぐに理解した。
「お前、何でも自分の中に閉じ込めておけば何とかなると思ってるから、精神的に負担が掛かるとか言われんだぜ。心の中で重いと思うことがあるなら、たまには吐き出すことも大事だ」
 促すような言葉に、凛々しい瞳が翳った。微かに頷く。
「・・・・・・・・・・・・俺は、如月の仲間が好きだった。できればみんなと一緒に如月を卒業したかった。でも、九条家に入ることになって、祖父にここに転校することを要求された。理由は、九条につりあう家柄の仲間と付き合いを深めなければならないからだった」
 慈恩が転校してきた理由は、近衛も知らなかった。桜花高校だって、名門大学の付属高校で、私立高校の中でも名の通った上級の学校だ。そこに入れと言われても、そう悪い気はしないと思っていたが、慈恩が望まざる転校を余儀なくされていたのだと知って、少し複雑な思いになる。
「でも、いろいろな事情があって、俺さえ我慢すれば全てがうまくいく状況で、どうすることもできなかった。俺は自分を押し殺して、仲間と・・・・・・そして兄との別れを決意した。そのことは家の人間ならよく知ってる」
「兄・・・・・・?兄貴がいるのか。てことは、お前一人が九条になったってことか・・・・・・」
 意外な思いのままにつぶやくと、慈恩は寂しそうに微笑した。
「うん。しっかりしてるくせにどこか不器用で・・・・・・先天的な喘息を患ってた。両親が亡くなって、俺が守らなきゃと思ってた。それから、自分は何もかも人間離れしてるくせにこんな俺を親友だって言ってくれた、本当に信頼してた友達、クラスも部活も違うのにそんなのお構いなしに楽しく付き合えた友達もいた。そして、後輩の俺を認めて引っ張ってくれた剣道部の先輩、信頼してくれた仲間。一緒に仕事してきた執行部の人たち。・・・・・・そんな仲間を全部、俺は諦めるしかなかった」
 低くて静かな声がわずかに震えた。近衛は初めて聞く慈恩の今までの生活に心惹かれ、それ故最後の言葉の重みを感じずにはいられなかった。あいにく今の自分にはそんな風に言える友人はいない。言えるとしたら、この慈恩くらいだろうが、まだ三週間足らずの付き合いである。きっと慈恩には心底信頼できる友達はたくさんいただろう。様々な能力も外見も持ち合わせながら控え目で、それでもその意志は強くて、それなのに人当たりもいい。深い考え方はいつも的を射ており、感心させられる。誰もが惹かれずにはいられないような人間なのだから。その関係を全て、一から作り直せといわれたのだ。家のために。それはどれだけつらいことだろう。もし自分が今、近衛の家のために慈恩とは付き合うなと言われたって、絶対に実行しない。体面を繕い続けている親に逆らってでも。
「だけど、離れたから、会えないからって切れてしまうほど絆は浅くないと信じたから、俺は我慢できた。夜になればみんなしてこれでもかってくらい如月の様子を知らせてくれたり、俺を気遣うメールを入れてくれたりする。だから俺は、そんな仲間が今でも大事だし、これからもずっと大切にしたいと思ってる。もちろんこうやって付き合ってくれるお前も、同じように。だけど、祖父は友人としてお前の名前を出したら、こう言った。近衛の家の若者か。なかなかの人選だ、と」
 ちょっとカチンときた。慈恩のセリフにではなく、慈恩の口から語られた祖父とやらのセリフにだ。慈恩が家柄で人を選びはしないということは、初日からよく分かっている。そんなことを考えているのであれば、もっとふさわしい相手がいくらでもいたはずだ。自分もそれは、時折経験する。どこの家の子と仲良くしなさい、どこの家の子とは揉め事を起こしてはいけません、どこの家の子とは・・・・・・。子供は名門の家柄の駒でしかないのか。いつも馬鹿馬鹿しいと思いながら、適当に良い子の返事だけして聞き流していた。
「悔しかった。いっそお前が普通の家の人間だったらって、そう思った。俺は家柄で友達なんて選ばない。友達なんて、選ぶもんじゃない。そう言いたかったけど、あの家で祖父に逆らうことはできない。逆らえば、父と母がきっと嫌なことを言われる。それ以上に、俺が屈辱的な言葉を浴びせられる。それが耐えられないから、結局黙っているしかなかった。そうしたら、更にこう畳み掛けられたんだ。早く俗な友人と離れて、近衛の家の友人を大事にしろと」
 慈恩の長い指が、クシャ、と布団のシーツを握り締めた。その指が小刻みに震えている。近衛ははっと顔を上げて、視線を落としたままの慈恩を見つめた。その横顔には見たこともないような激情が満ちていた。
「俺がどんな思いで如月を出たか知っていて!それでもあの仲間たちを俗だと言い、だから離れろと!近衛の家だから大事にしろと!何故!どうして俺がそんなことを言われなきゃならない!」
 驚いた。慈恩がこんな激情を見せたことに。そして、その激情を押さえ込んでいたことに。家柄での人付き合いに共感をもてない近衛である。今までの話のこともあって、慈恩の気持ちは痛いほど分かった。そんな近衛の目の前で、更に慈恩が深くうつむく。その瞬間握り締められたシーツにはたはたと雫が落ちた。
(慈・・・恩・・・・・・)
「そんな高貴な家にふさわしくないといって捨てておいて、今更!」
 抑えた声が擦れる。その切なさに思わず身を乗り出して震える肩を抱き締めながら、慈恩の言葉を脳裏に巡らす。胸に大きな疑問の渦が湧き上がる。
(なん・・・・・・だって・・・・・・?)
 触れてはいけないことだと、すぐに解った。慈恩の呼気が震えている。感情を必死に抑えているようだ。腕をすんなり美しい背まで伸ばして、その身体を抱き寄せる。大丈夫だと言う代わりに、腕に力を込める。そうすることしか、思いつかなかった。
 数分も経っただろうか。慈恩の呼吸が徐々に落ち着いてきて、ふと背中に手が触れたのを感じ、腕に込めた力を緩めた。耳元で低くて優しい声が鼓膜をくすぐる。
「・・・・・・取り乱して、ごめん。もう、大丈夫だ」
 そっと身体を起こすと、かすかに潤んだ漆黒の瞳がわずかながらも笑みを浮かべて自分を見つめていた。
 どうして笑おうとするのだろう、と、近衛の胸が痛む。つらいはずだ。それなのに。なんて強い精神の持ち主だろう。そんな思いが顔に出たらしく、慈恩の笑みが少し困ったようなものになった。
「剣道やってるくせに、精神鍛錬が足りないよな」
 まるで自分を茶化すような言い方に、唇を噛む。そして、かぶりを振った。
「逆だよ。お前は・・・・・・すごい奴だよ。今までそんなつらさの片鱗も見せなかった」
 寂しさや不安を混ぜながら、近衛は続けた。
「・・・・・・ここに来たこと・・・・・・後悔してるのか?」
 凛々しい瞳がわずかに揺れて、翳を含む。それでも慈恩は首を縦には振らなかった。
「・・・・・・自分の意志で決めたことだ。それに、悠大がいる」
 名前を呼ばれて、心臓が跳ね上がる。見つめた漆黒の瞳が、優しく微笑みながら小さく自分を映していた。
「悠大がいるのなら、ここも悪くない」
「・・・・・・俺だって、お前の如月の仲間に自分が及ばないことくらい分かる。そのたくさんの仲間と引き換えが俺一人じゃ、割に合わねえじゃん」
 ふてくされたように言い捨てて、もう一度慈恩を抱き締める。その表情を見なくても驚いているのが分かった。
「だけどそう言ってくれるんなら・・・・・・俺は少しでもお前を支えられる存在になれるように努力する」
「今でも十分俺は支えられてるよ」
 声の調子から、苦笑を交えているのが分かる。だから、ぎゅうっと腕に力を込めた。
「馬鹿。お前がつらいときに、隠さずにつらいって言える相手に、俺はなるから」
 溢れそうな想いを無理やり抑えるように、耳元で囁いた。
「・・・・・・これ以上、つらいのに笑うなよ」
 しばらく間を置いてから、自分の肩口で慈恩の頭が縦にわずかに揺れた。
「・・・・・・ん。・・・・・・ありがとう」
 その声がかすかに震えたように思ったのは、気のせいではないだろう。この腕の中のぬくもりを大切にしたい想いが湧き上がり、込み上げる。近衛は自身の口にした言葉を違えまいと、強く心に誓った。

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