« 二十.頂上決戦 | トップページ | 二十二.インターハイ in 名古屋 »

二十一.許し

 気になったのは、ある程度年を経た人や、時間に余裕のある人しか興味を引かないようなその中庭に見た数人の人影が、見覚えのある制服の高校生だったからだった。
(薄いブルーのシャツに、紺地に白と赤のラインのタイ・・・・・・出雲第一だ)
 昨夜と同じルートで中庭に出てみる。昼見ると、思いのほかこざっぱりしている。夜はもっとジャングルのように見えるのだが。その石畳になっている小道を、なるべく足音を立てないように進んでいく。少し進むと、斗音の耳は彼らの声を捉え始めた。
「てめえ、あげんゆーたに、わからんかったかいな」
「お前みてーなあほんだら、見たこともね」
「ほんね、飛馬が何こそゆーても俺らは許さんけんな」
(・・・・・・解りづらいけど、これってなんか、隼に悪口言ってる出雲第一の奴らに違いなくない?)
 斗音は綺麗なラインを描く眉をしかめた。その現場を見てどうしようという気もなかったのだが、そのまま放っておく気にもなれなくて、とにかくどんどん足を進めた。すると、どさっ、という鈍い音がして、聞き覚えのある京都訛りが聞こえた。
「かんにんしてください。俺、どうしても負けられへん理由があったんですわ。それに、飛馬さんもあの性格やさかい、俺が手なんか抜いたら、逆にどやされますわ」
「ほーでも先輩に華持たせるち、あたーまいじょ。てめえはおいちらえ、ね過ぎじょ」
(勝負に華も何もないだろ。何理不尽なこと言ってんだ、この人たち)
 とにかく一言言ってやりたい気分で斗音が大きなヤシの立ち並んでいる向こう側に足を踏み入れた瞬間、その目の前で身体の大きな一人が放った平手によって、隼の頬が音高く打ち鳴らされた。どうやらその前にも何かされていたらしく、ヤシの木にもたれかかるようにして立っていた。隼は殴られたまま抵抗も言い訳もせずに目を伏せていたが、別の一人がポケットに手を突っ込んだまま、そのみぞおちに思い切り蹴りを入れたので、たまらず崩れ落ちた。
「っ・・・・・・」
「思い知れ、このげだめが」
「取り返しつかんしぇたもんしてまわかいたこと、しっかと後悔せやれ」
 ヤシの下にうずくまる隼を、先ほどひっぱたいた図体のでかい男子生徒が更に蹴り上げる。隼はつらそうにうめき声を上げた。
「くっぅ・・・・・・っ、かん、にん・・・し・・・とう・・・せ・・・っ」
「どんだら。何言っちょら、今更」
 また別の一人がその横腹に蹴りを入れた。たまらずに斗音はとび出した。
「あんたら何してんだよ!」
 かばうように隼の前に立ちふさがる。屈強そうな二人を含む六人を、まなじりを上げた綺麗な薄茶の瞳できりりと睨みつけた。
「な・・・・・・んで・・・・・・斗音、お前・・・・・・・・・?」
 うめくように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ隼に、斗音は前を睨みつけたままで答えた。
「ごめん、なんか気になったんだ。出雲第一の制服の集団が見えて」
「何だや、こいちゃ」
「おめえに関係ね。首突っ込むなや」
 坊主に近い短髪の少年と、もはやスキンヘッドといった方が早い坊主頭の立派な体格の少年が不愉快そうに睨み返してくる。でも、斗音は全くひるまない。
「関係あるもないも、こんな暴力沙汰、放っておけるわけないだろ!隼は無抵抗なのに!」
「何言っちょら。大体おめえ二年だら?俺らは三年じょ。礼儀わきまえやれ」
「先輩には勝っちゃいけなくて、それを破ったら殴る蹴るの暴行を加えるのが、礼儀をわきまえた人間のやることなのか?自分たちにできてもいないことを人に求めるな!」
 自分でも驚くほど腹が立っていた。絶対に許せない、という怒りが身体中に満ちている。その厳しい言葉に、出雲第一の三年生たちが逆にひるんだ。
「な、何・・・・・・?こいつ、何者じょ?」
「隼のダチかい。かわいい顔しちょーくせにえらまし気がつええな」
「そんなの関係ない。けど、誰から見たって、あんたら絶対間違ってる!」
 斗音に断定されて、すぐに気を取り直したらしいスキンヘッドが切り返してきた。
「てんめぇ、でごせるなや!こいつは道場の跡取り息子で毎日練習できちょーやち、つえくてあたーまいじょ。そげなもん反則らが」
 しかし斗音は語勢を弱めない。
「何が反則なんだよ!道場を継ぐこと、生まれたときから決められて、物心つかないうちから練習させられて、それでも逃げ出さなかった隼を称えこそすれ、非難する道理がどこにあるんだ!強くて当たり前なんて、そんなのあるわけないだろ!その裏にどれだけの努力があると思ってるんだ!」
 慈恩だってそうだった。人一倍、休日も返上で稽古して、そして強くなった。別格でも当たり前でもない。強い意志で頑張り続けた。その結果が今現れているだけだ。そう思うと、斗音の感情はますます熱をはらんでいく。まるで沸騰していく湯のように、煮えたぎっていく自分自身の怒りに、全身を支配されてしまいそうだ。
「試合のときから一言言ってやりたいと思ってたんだ。嫉妬ばっかりで自分でできないから飛馬って人に自分たちの望みまで上乗せして、みっともない野次飛ばして。情けないと思わないのか、先輩として、全国大会出場校の一員として!」
「あかん、と、斗音・・・・・・っ」
 蹴られたわき腹やみぞおちをかばうようにしながら、隼がよろよろと立ち上がる。
「や、めとき・・・っ、この人らに、そないな道理、通用せえへん。お、前まで、巻き込みたないんや・・・・・・っ」
「隼、何言っちょら、このどんだらが」
 すかさずスキンヘッドに負けず劣らずのガタイのいい少年が、隼の左の大腿部を蹴りつける。その痛みと衝撃にシャープな顔をしかめながら、それでも隼は頭を下げた。
「かんにん、してください。・・・・・・ええんや、斗音。俺が、先輩たちを、不愉快にさせてたんは、ほんまのことやさかい・・・・・・」
「そげそげ。わかっとーだの。そげんことだけん、お前もでごせるなや」
 げらげらと嘲るような笑いが起こった。斗音は怒りのあまり、身体が破裂しそうな気がした。
「蹴られて何がいいんだよ!そんなの絶対おかしいだろ!?お前が引き下がんなきゃいけない理由、どこにあるんだよ!」
 澄んだ瞳がぎらぎらと怒りを湛える。それは綺麗なだけに凄みがあって、またも三年生をひるませた。
「自分より年下の人間に追いつけないのを認めたくないから、あんたら難癖つけてるだけだ!そういうの器が小せえって言うんだよ!」
「やめ、斗音っ」
 慌てて止めに入ろうとした隼はスキンヘッドの太い腕に乱暴に突き飛ばされて、ヤシに背を打ちつけ、そのままバランスを崩して膝をつく。そして、ひるんで動けない四人を尻目に、もう一人の屈強な方が斗音の襟首をつかんだ。

「てめえ、やんべしとけや!」
 それでも全く眼の光は失われない。逆につかんだ方を睨み上げた。
「力で何でも押さえつけようとするのも最低だ」
「黙れこのげだめが!」
「やめとうせ、野津さんっ!」
 隼が声を上げたのと、野津と呼ばれた腕っ節の強い少年が、斗音を力任せにヤシの木にたたきつけたのは同時だった。背後から襲った打撲の衝撃と、襟首の部分で激しく押し付けられた衝撃は、斗音の呼吸を一瞬遮った。
「・・・・・・っ」
 片目を眇めて眉根を寄せた斗音は、野津がつかんだ手を力任せに振りほどいた。呼吸が詰まった瞬間に喉に不快感が突き上げてきたのを悟ったからだ。その思わぬ力に野津が驚いて目を見張ると、ぎらりとした光を最後に投げつけて、次の瞬間光を失った瞳は苦しげに伏せられ、斗音は苦しげに咳き込んだ。
(あ・・・・・・ヤバイ感じ・・・・・・)
 嫌な音を立てて咳き込み、気管がその遮蔽物によって極端に狭くなっているため、必死に呼吸しているのにヒューヒューと細い空気の音を漏らす。まるで首を絞められているような苦しさに、全身から冷たい汗が噴き出す。
(薬・・・・・・・・・・・・)
 ポケットを探ろうとして、ぐわんと視界がたわんだ。わけが分からないうちに身体が頼りなく宙に放り出された気がした。

「斗音!」
 
とっさに身体を支えようと伸ばした手が、なかなか地面につかなくて、さまようように宙を泳いだ。
「斗音、しっかりせえ・・・・・・斗音!」
 耳元で隼の声が聞こえて、ようやく自分が支えられていることに気づく。でも、もう声を出すどころではない。立て続けに、血でも吐くのではないかと思うような濁った咳をする。もう自分の力は思い通りにならなかった。
「な、なんだや、こいつ・・・・・・なんぞあぶねさなが」
 おどおどと、やや小柄な一人が一歩後退する。そして野津を見上げた。
「おい、野津。おめえがこぎゃんほせやち、乱暴ふらぐけん・・・・・・」
「う、うるさい!おーねこいつが・・・・・・」
「そ、そげそげ。そーね隼もえらざーこと言うけん、こぎゃんことに・・・・・・」
 とりあえず、ものすごくやばい雰囲気だということは、出雲第一の三年生たちも感じたようだったが、だからといって彼らにできることは責任を自分以外の誰かに押し付けようとすることくらいだった。
「斗音、斗音、しっかりせえや。俺、どないしたらええ?なあ、斗音っ!」
 今にも泣き出しそうなほど悲痛な声で、隼が必死に声を掛けるが、斗音の顔はどんどん血の気を失って、苦悶に歪められた綺麗な顔には、アッシュの髪が乱れて汗で張り付いた。
「慈・・・・・・恩を・・・ぅぐっ・・・・・・携・・・・・・た・・・・・・」
 必死に絞り出した、蚊の泣くような声は、激しい咳で途切れる。隼に苦し紛れでつかまる指が、激しく震える。何かに締め付けられるような圧迫感を引き剥がさんと、己の喉にもう片方の指を、爪ごと突き立てる。
「あかん、何しよんのや!お前、喉引き裂く気ぃか?!」
 掻きむしろうとした手を、手首をつかんで引き離しながら、隼は華奢な身体を支えている手で斗音のボケッとを探り、地面に転がり出た携帯電話を拾い上げた。自分とは違う機種に戸惑いながらも、記号やマークで何とかメモリダイヤルを探し当て、『慈恩』で登録された携帯電話の番号にかける。ワンコールでつながった。
『斗音か?どうした?』
 低めの聞きよい声が返ってくる。隼は思わず叫んでいた。
「斗音が発作起こしよってん!めっちゃしんどそうやけど、俺どないしたらええかわからへん!椎名、はよ来てぇな!」
 慈恩の声が途端に鋭くなった。
『隼、今どこにいるんだ!』
「ホテルの中庭や。ロビーから宴会会場に向こうてる廊下から出られるよって・・・・・・ほんで俺、どないしたらええ?なんかできること、あらへん?」
『斗音のどこかのポケットに、ハンド・ネブライザーがあるはずだ。携帯用の吸入器。探してみてくれ!』
「携帯用・・・・・・?どれや・・・・・・?」
 探ってみると、携帯が転がり出た逆のポケットに、なにやらそれらしきものが入っているのに気づく。
「あ、あった!何や袋に入ってるけど、これ、どないして使うん?」
『その袋に使用方法書いてあるだろ!』
「あるけど・・・・・・ちょお待ちや。ああっ、斗音っ!そんな石畳引っ掻いたらあかん!指、潰れてしまうよって・・・・・・明日試合なんやろ!?」
 携帯を首に挟んで、片腕で斗音を支えながら片手にハンドなんとやらを持ったまま斗音の手をつかみあげて、もういっぱいいっぱいである。携帯から聞こえる声が緊張感を増す。
『おい、斗音は大丈夫なのか?!』
「大丈夫やないから焦ってるんやんか!ちょお、野津さん、あんさんも責任感じるんやったら手ぇ貸しなはれ!この薬の使い方、見てぇな!」
 言われたスキンヘッドは言い返そうとしたが、初めて自分に頼みごとをしてくる後輩の勢いに呑まれ、言われるままに薬を手にとって、使用方法に目をやる。袋からそれを取り出してみて色々といじってみるが、初めて見るもので、どうしたらいいか皆目見当がつかない。
「な、なんぞむつかして分からん・・・・・・」
「こうしゃえーでねかや?」
「違うんでねえかいや?これをこう・・・・・・」
「んでも、薬出てねがや」
 みんなしてああでもないこうでもないと、焦るばかりで何もできないでいる。隼は苛々しながら敬うべき先輩たちを睨んだ。
「はよしとおせ!斗音、息できてへんのや!」
 その態度に六人全員が眉をしかめて隼を睨み返そうとしたが、その腕の中で完全に血の気を失いながらももだえ苦しむ華奢な少年が目に入り、一斉に青ざめた。
「ちと待ちやれ。今やるけん・・・・・・」
 夏とはいえ、さして暑くもない夕方、その場にいる者で汗を流さない者はいなかった。短い時間なのであろうが、ものすごくじれったく、長く感じる。
 そのとき、建物の方から慌しい足音が数人分、ものすごい勢いで近づいてきた。隼は涙ぐむような思いで顔を上げた。
「椎名ぁーっ!こっちやっ!」
 その声が届くや否やという短時間で、如月高校の制服姿の少年たちが駆け寄って来た。
「薬は!?」
「あかへん、斗音が無茶しよるさかい、俺何にもしてやれへんかってん。薬、その人が持ってはる!」
 視線で差されて、野津はびくっと身体をこわばらせた。

「すまん、これ・・・・・・」
 おずおずと差し出されたそれを、まるでひったくるようにして、慈恩はこともなげにそのロックを外し、斗音の色を失った唇に押し当てる。
「そのまま押さえててくれ」
「まかしとき。なあ、斗音、ええかいな?」
「いつ発作起こした?」
「ついさっきやけど・・・・・・」
「何分くらい前?」
「たぶん時間にしたら五分経ってへんくらいやと思うけど・・・・・・俺ら動転しててん、もっと短いかもしれへんし長いかもしれへん」
「だったら・・・・・・すぐ治まると、思う」
 隼を含めた出雲第一の面々が、張り詰めていた緊張感を緩める。しかし、一緒に駆けつけた嵐の鋭い瞳に射すくめられ、その場にいた三年生は凍りついたように固まってしまった。
「なあ、この状況について、説明してもらえるか」
 言葉はそれほどきつくないが、まるで教師が悪いことをした生徒に言葉を掛けるような語調である。しかもそれが似合いすぎである。
「説明・・・・・・も何も・・・・・・ちとえきじよう突き飛ばしただけじょ」
「そげそげ。ほーで木にぶつかったらいきなり咳がつき始めたでの」
 しどろもどろの弁解を始める出雲第一の集団に、瞬と翔一郎は首をかしげた。
「えきじようって、何だ?」
「液状・・・・・・?」
「いやそれ、意味通じないだろ」
 そんな二人を尻目に、嵐は大きいけれどすっと鋭い、グレーがかった瞳で年上の集団を射抜いた。
「勢いよく突き飛ばしたんじゃなくて、力任せに押し付けた、の間違いじゃねえの?発作が起こるってことは、気管に影響を与えるくらいの衝撃があったはずだぜ?」
 その洞察の的確さに、現場を見ていた全員が息を飲む。そして、翔一郎と瞬も息を飲んだ。
「わお、嵐、理解してるよ」
「会話成り立ってるもんな」
「かんにん・・・・・・俺が巻き込んでしもたんや」
 まだこわばる斗音の手首をつかんでいた隼が、大人びたシャープな顔を、つらそうに歪めた。斗音をのぞく全員がその表情に視線を向ける。つかんでいた手首をそっと地面に下ろし、隼はそれらの視線に応えるように顔を上げた。
「全部俺の責任や。その人らは・・・・・・俺に敵意向けててん。斗音は俺をかばってくれて、そんで巻き込まれてしもたんや。せやから、その人らもわざとやったんやあらへん。元はと言えば、俺が蒔いた種なんや」
「・・・・・・・・・・・・」
 出雲第一の集団は言葉を呑む。瞬は何か言いたそうにしたが、小さく吐息した。嵐は何度か瞬きして、大きく溜息をついた。
「・・・・・・何、お前って、マゾなわけ?」
「よせよ、嵐」
 翔一郎がどちらかと言うと引き締まって細身なその肩を引き寄せるように諫めたが、嵐は柳眉を寄せて隼を軽く睨みつける。
「お前、今までずっとそうやって下手に出て、自分で飲み込んで、不条理な仕打ちに耐えてきたのか?だからこいつら、こんなに付け上がってんじゃねえのか。こういう輩は、おかしいことおかしいって、自分じゃわかんねえんだぜ。言ってやらなきゃ結局お前に返ってくるだけじゃねえか」
「嵐、気持ちは分かるけど、隼が今まで堪えてくるだけの理由はあったはずだよ」
 翔一郎が耳元で囁くが、嵐は軽く目を眇めただけだった。
「けど耐えるやり方は間違ってる。のさばったこいつらもいつかその見返りの制裁を社会で味わうだろうし、隼は耐えるだけ損だろうが」
「俺も、そう思う」
 あちゃー、と、翔一郎は空いている手で顔を覆った。相槌を打ったのは慈恩だった。斗音を抱えて吸入器をあてがいながら、隼に感情を表さないままの漆黒の瞳を向ける。
「俺の先輩は、ずっと俺を認めて、それゆえの厳しさで俺をここまで引っ張り上げてくれた。俺は・・・・・・すごく感謝してる。尊敬もしてる。威厳ある先輩ってのは、そうあるべきだと思う。本当に強いチームなら、そういう関係や絆を作っていくべきだ。出雲第一は、隼一人に対してそういう感情を持ってるみたいだけど、そのひとつで歯車が狂ってくる。実際、ここにいる人たちは全国に出てこられなかった人たちばっかりだろう。そんな歯車が今後も残るようじゃ、隼・・・・・・来年、俺とは対決できないよ」
「・・・・・・・・・・・・!」
 敵意満々の嵐の言い方には、反感を持ちつつもその内容が図星ゆえ、反論できずにいるといった感じの出雲第一の三年生たちが、慈恩の言葉には、沈痛な面持ちで完全にうつむいてしまった。逆に、嵐の言葉には痛々しいほど傷ついた少年のような顔で聞いていた隼は、真剣に慈恩の言葉を聞いて、しばしの間を置いてから、大人びた顔に似合いの苦笑を浮かべた。
「それは嫌や。俺、椎名と対戦できへんのやったら、剣道続ける気力も失せてまう。せやから、気ぃつけるわ。自分の被害最小限に食い止めようとしてるだけではあかへんゆうことやな」
 だいぶ呼吸が楽になったのか、苦しげに寄せられていた眉間のしわがほとんどなくなった斗音の、汗で秀でた額に張り付いた前髪を優しく掻き分けながら、隼は、今度はにっこり微笑んだ。
「おおきに。・・・・・・東雲も椎名も・・・・・・斗音も、みんな俺に、俺が見失ってた大事なこと教えてくれて。ほんま、賢い学校の生徒さんは、言わはることがちごてる」

 最後の一言に、その場にいた全員が苦笑をもらさずにはいられなかった。

   ***

「兄貴はどうだ。落ち着いたのか」
 微風が心地よいベランダの手すりにもたれながら、尊敬する主将が夜空を仰いでいる。慈恩は訪れた部屋に彼しかいなかったことに、やや驚きながらも安堵した。
「はい、もう大丈夫です。・・・・・・今は部屋で眠ってます」
 こっちに来い、と手招きされて、そんなに広くないベランダに出る。
「星が綺麗だ。町外れだからだろうな。本当の田舎はもっともっと綺麗なんだが」
「・・・・・・田舎、ですか?」
「俺は四歳まで富山の小さい町にいた。その頃のことなんかほとんど覚えてないが、東京に引っ越してからその夜空の濁り方にひどく落胆したことだけはよく覚えている」
 小さく笑って、慈恩に目を向けた。
「飯のとき俺に話があるって言ってたろ。俺もお前に話があった。丁度いい。楠は橋本たちとゲーセンに行ってるから、遠慮なく話せ」
「・・・・・・遠慮はありませんけど・・・・・・近藤さんからお願いできませんか」
 真面目な表情を崩さないまま、慈恩は淡々と応えた。近藤は少し、肩をすくめた。
「・・・・・・そうか。俺の話なんて、ひとつしかねえだろ。お前、大体分かってんだろ?」
「・・・・・・部長の件ですか?」
「そうだ。まだ俺は一度もお前から、やるって言葉を聞いてない」
 慈恩は微かに視線を逸らした。答えはもう、決まっている。言いたくもなかったし、言う勇気もなかなか持てずにいた。だから、この全国大会に最善を尽くしてもらうためにも、言わずにいた。でもこれが最後だった。近藤は、こんな答え微塵も思い描いていないだろう。きっと傷つける。しばらく躊躇ってから、口を開いた。
「俺は近藤さんを尊敬しています。あなたが作り上げてきた部を、俺の力でまとめていけと言われたことは、心の底から、光栄に思っています」
 覚悟を決めて近藤に視線を戻すと、既に雄々しい眉を寄せた訝しげな表情が目に入った。心がちりっと痛みを訴えた。
「・・・・・・俺が如月高校に在籍できるのは、八月末日までです。どうしようもない事情があって・・・・・・俺は、ここを離れることになりました」
「な・・・」
 愕然とする近藤を見ていられなくて、手すりの向こうに目をやった。
「このことは、斗音と俺しか知りません。でもあなたにだけは・・・・・・言わなきゃいけないと思ってた」
 目を逸らした慈恩の両肩をガッとつかんで、近藤は強引に自分に視線を戻させた。
「いつ、そうなった。夏休みに・・・・・・入ってから、様子がおかしかったのはそのせいか」
「・・・・・・剣道は心身ともに鍛えるもの。あなたに心の乱れを見抜かれたのは、俺の修行不足です」
「話逸らしてんじゃねえ。そうなんだな?何で・・・・・・何で一人で勝手に悩んで・・・・・・俺には言えないことだったのか、それが」
 慈恩は彫りの深い近藤の顔をじっと見た。少しだけ、目を細める。
「身内の揉め事なんて、話したくもない・・・・・・それに、高校最後の大会、あなたに全力で臨んで欲しかった」
「・・・・・・・・・・・・っ」
 近藤は山ほどの言いたいことを、どうしたら言葉にできるのか一瞬迷うような顔になり、肩をつかんだ両手をいきなり慈恩の背後に回し、そのまま力一杯締め付けるようにして抱きしめた。
「こ、近藤さん?」
 驚いた慈恩の声にかぶせるように、近藤が耳元で、感情を必死に抑えて囁いた。
「俺がそんな軟弱者に見えるか!」
「・・・・・・でも、今取り乱してる」
「馬鹿野郎!取り乱してるのは・・・・・・お前が一番苦しんでたときに力になれなかったことが悔しいからだろうが!」
 ズキンと、心臓にくいが打ち込まれた気がした。
「全部決めちまった後で何言われたって、もう反論の余地はねえだろうが。・・・悩んでる時に相談して欲しかった。俺自身、お前と過ごせる時間はもうほとんどない。何かしてやれるうちに・・・・・・俺はお前を少しでも・・・・・・!」
 近藤の力強い腕が、慈恩を締め付ける。
「・・・・・・っ」
「結果が変わらなかったとしても!楽にしてやりたかった!」
「近、藤さ・・・」
「言っただろう、惚れてるって!」
 相変わらず乱暴なキスだなんて、ふと思いながら慈恩は近藤の想いを受け止めた。温かい温度を唇に感じる。熱くもなく、この優しい温度が近藤の優しい思いを代弁しているような気がした。
 強引に押し付けた唇をゆっくりと浮かせて、近藤は慈恩の漆黒の瞳を見下ろした。
「今日は謝らねえからな」
「・・・・・・でしょうね」
 哀を含んだ微笑みで慈恩が答える。眉根を寄せながらも、近藤はいつもに近い豪胆な笑みを閃かせた。
「今夜はゆっくり話をしよう。せめてお前がどうして行くことになっちまったのか・・・・・・言いたくなくても話してもらう。その義務が、お前にはある」
 哀笑のままで、慈恩は静かにうなずいた。

「近藤さんがそう望むのなら。・・・・・・あなたの期待を裏切ることがつらかった。許してもらうための、それ相応の代償は覚悟してます」

   ***

 本来なら名古屋に戻って練習するはずだった。しかし発作を起こした直後に一時間以上の移動はきついだろうということになり、急遽慈恩の部屋でもう一泊することになった。明日の朝早くに発って名古屋会場のメンバーたちと合流する予定である。
(ちぇっ・・・・・・暇だなあ・・・・・・ゆっくり休むしかないけど・・・・・・バスケして体調整えたかった。俺ってほんとに馬鹿。自分で自分がウザイ)
 そう思えば思うほど、ますます憂鬱になってくる。この二日間で、斗音の情緒不安定の症状はひどく進行していた。思いつめる時間が長かったのもあるだろうが、慈恩に学校を転校すると知らされて、自分で思っていたよりもずっと深く精神的にダメージを負っていたことが原因だった。もちろん、斗音自身に自覚は全くない。
(慈恩も今日はいろいろみんなと話したいことあるだろうし。・・・・・・慈恩の方が、きっとよっぽどつらいだろうな・・・・・・。友達も部活も全部一からやり直しなんだ。・・・・・・俺が感情的になってちゃ話にならない。慈恩にそうさせたのは俺なんだし。・・・・・・言わなきゃよかった。九条に行くべきだなんて)
 ベッドで横になって、眠っていた間はよかったのだけれど、気がついてみたら慈恩は部屋にいなかったし、じっとしていたら考えることは嫌なことばかりである。
(でも俺は俺で精一杯考えた結果だったのに。まさか慈恩が如月を出なきゃならなくなるなんて、思いもしなかった。けど、今では慈恩の決意の方が揺るぎないくらいだ。・・・・・・ほんとに慈恩に、会えなくなるんだ・・・・・・)
 大きな溜息をついて寝返りを打つ。
(・・・・・・やだな・・・・・・今までどれだけ慈恩に励まされてきたんだろう。あいつが剣道一生懸命やってるの見て、ほんと誇らしかったっけ。俺も頑張りたい、あんなふうに輝いていたいって思った。・・・・・・慈恩なしで俺、ほんとにやってけるのかな)
 枕に顔を半分うずめて、そのまま枕を抱きしめた。
(・・・・・・・・・・・・つらいよ・・・・・・)
 じわりと目頭が熱くなる。このまま枕に突っ伏して思い切り泣きたい気分だ。でも、そんなのは最近しょっちゅうあることで、そうして一人で泣いて、すごく虚しい思いに襲われることもよく知っている。こんなときこそ慈恩に支えてもらいたいと思うのに、今回はその慈恩の方がつらいと思うから、そんな情けない真似は絶対にできない。昨日は偶然隼が通りかかってくれたから、そういう思いは味わわずにすんだのだが、こうして寝ているのでは、誰と会うこともない。
(駄目だ!じっとしてると考えがネイティブになってくる。ちょっと歩いてこよう)
 がばっと起きて、身体にフィットしているTシャツと細身のジーンズに着替えると、そっと部屋を抜け出した。自動ロックなので、もちろんカードキーも忘れずに持って。
 特に目的があるわけでもない。気を紛らわすために、フロントのある一階に降りて、土産コーナーをうろうろしてみた。夕食は食べられなかったが、食欲は残念ながらまだ回復していないようだ。試食などもいくつかあるようだったが、全く興味が湧かない。金の鯱を模ったキーホルダーやキャラクター土産などをつついてみる。とはいえ、買っていくような相手もいないし、本当に見るだけである。地域限定の八丁味噌味のお菓子があったりして、面白いといえば面白い。八丁味噌なんて、子供は渋りそうだが、そのお菓子は人気商品の地域限定版で、どう考えても子供を対象にした土産である。他にめぼしい名物の味覚はなかったのだろうか。思わずくす、と笑うと、すぐ耳の後ろから茶目っ気たっぷりの声が囁きかけた。
「名古屋ゆうたら八丁味噌やで。土産にそれ、こうていったら、話題性間違いなしやさかい、ある意味めっちゃおいしい菓子やで」
 びっくぅっと肩を跳ね上げて斗音が振り返ると、間近に整った大人びた顔があって、にっと笑っている。
「びっくりしたぁ、隼っ、心臓に悪いから、気配消して近づくのやめろよ」
「別に消しとるつもりあらへんけど。普段の鍛錬で癖になってるだけや。それより斗音、もう身体はええんか?まんだ声が擦れてるみたいやけど」
「平気だよ。発作のあとはいつもこんなもん。それより、ごめん、今日はでしゃばった真似してさ。情けないよね。あれごときで発作起こしたりしてさ」
 笑って見せるけれど、端から見れば疲れたような笑みで、隼は眉を寄せた。
「何ゆうてん。巻き込んでしもて悪かった思てるのはこっちや。お前が発作起こしてばたばたしたけど、そのあと東雲と椎名に説教されて、やっとお前の言おうとしてたこと気づいたわ。ほんま悪かったな。かんにんしてな。あと、おおきにな」
「迷惑掛けたのは覚えてるけど、感謝なんてされる覚えないよ?」
 きょとんとする斗音に、隼は苦笑した。
「あのあとお前、気ぃ失ってしもたさかい。東雲と椎名に、自分が傷つかんように耐えてるだけではあかんてゆわれてん。自分、蹴られて何がええんやてゆうたやろ。ほんま、その通りやわ。それに何より」
 華奢な斗音を包み込むように腕を絡める。
「かばってくれたん、嬉しかったで。おおきに」
 背も高くてすらりとしている割に、かなり鍛え抜かれた身体は頼もしい。慈恩に似てるな、とふと思う。思った途端、いきなり視界がぼやけて、頬に雫が伝ったのが分かった。
(な、何・・・・・・?)
「なな、何で?斗音・・・・・・」
 昨日はもうずっと泣いているところだったからまだ分からなくもなかったが、今回は全く予想外のことで、隼は慌てる以外の反応が思いつかなかった。
「どうしたん?俺なんかあかんことゆうた?」
「そんなことないよ・・・・・・俺、どうしちゃったんだろ・・・・・・?」
 自分でもわけが分からない、といった表情の斗音に、尚慌てる。
「どっか苦しいんか?痛くしたりとか?」
「痛くなんて・・・・・・」
 ない、と言おうとして、重苦しくて仕方ない胸をさすって、シャツをつかむ。痛いのは、ここ。苦しいのは、ここだ。そう気づいたら、昨夜同様、とめどなく涙が溢れてきた。
「・・・・・・・・・・・・斗音・・・・・・」
 涙の幕に覆われた視界の中で、じっと自分を見つめる隼をとらえる。
「・・・・・・心が・・・・・・・・・・・・痛い・・・・・・・・・・・・」
 そんな斗音の華奢な身体を、隼は何も言わずにそっと抱き寄せた。そして、何瞬かおいてから、優しく声を掛けた。

「・・・・・・部屋行こか」

 隼の部屋は二人部屋だったが、こうして宿を取ってもらっているのは三年生の部員と出場メンバーだけなので、当然二年生は隼一人。相部屋になっていた三年生は、隼に出て行けとまでは言わなかったが、荷物すらこの部屋に持ってきてはいなかった。仲のよい別の部員の部屋に転がり込んでいるらしい。
「気楽でええやろ?安心してええよ。誰も来はらへんし」
 土産コーナーで唐突に涙が止まらなくなった斗音だが、まだ夜の八時台、人目もたくさんあって、隼としては気まずくてその場にじっとしているわけにはいかなかったというのが本音だった。
「茶でも飲むか?落ち着くで。お、ここ、気ぃ利いてるやん。金箔入り梅昆布茶やて。そういやさっき土産コーナーにあったわ」
 一人で一生懸命雰囲気を明るくしようと喋りまくる。ぽろぽろと涙をこぼしながら、斗音はこくりとうなずいた。
「飲む」
 ぱっと隼の顔が明るくなる。
「よっしゃ、任しとき。さいこーにうまい梅昆布茶作ったるさかいな。俺昆布茶とか好きでな、昔からよう飲んでてん。親父くさいやろ?けど、昆布の旨味成分がなんとも言えんええ味なんや。チャーハンとかにも使えるし、これひとつでおにぎりなんかプロ級やし、これでお茶漬けもなかなかええで?それにな・・・・・・」
 作る間も、決して沈黙が訪れてしまわないように、関西系の言葉でまくし立てた。
 隼が入れてくれた金箔入り梅昆布茶は、本人が言ったとおり、絶妙のお湯加減で、濃すぎず、薄すぎず、まさしく昆布の旨味がじわりと舌に広がるのが分かった。その中に梅の香りと酸味がまた最高の相性となっている。思わずぐっしょり濡れた長い睫毛を瞬かせ、目を瞠った。
「美味しい・・・・・・」
 隼は満足そうに笑みを浮かべた。
「せやろ?金箔的にはあってもなくても変われへんけど、梅が入ってるのとそうでないのはだいぶ味違うさかい、お湯の分量も微妙に変わるんや。それに」
 一度言葉を止めて、少し哀しげに目を細めた。
「お前あんな発作起こして、なんも食うてへんのやろ。せやから、余計美味く感じるはずや」
 斗音は微笑した。隼の言っていることは当たりだ。けれど、実際はここしばらく、ずっと斗音の食は進んでいなかった。だから、発作を起こそうが起こさなかろうが、斗音にとって何も食べないというのは、それほど特別なことでもなかった。
「お見通しだね」
「まあ、水分くらいは取っとかな、脱水症状起こしてまうで?よかったらもう一杯作ったろか?」
「まだ一口しか飲んでないって」
「気ぃ早かった?はは、おかわりしたかったら遠慮なくゆうてや。何なら土産屋でこうてきたる」
(いや、だから気が早いって)
 心の中でツッコミながら、斗音は思わずくすくす笑った。

「ありがと。とりあえずこの一杯、もらうから」

   ***

「そうか、似てねえとは思ってたけど、そんな裏があったとはな」
 事情を全て聞き終えて近藤が最初に言った一言は、比較的平凡だった。近藤としてはひどく驚いていたので、それを押し隠すのに精一杯で、言葉に構っている余裕なんてなかったのだ。思ってもいなかった返事を返されたときは、嫌な予感に胸騒ぎがしたものだが、まさかこんなことを聞かされるとは。
(部活が終わっちまうことすら寂しいもんだと思ってたのに、もう会うことすらねえかも知れねえのか)
 自分の座ったベッドに、隣に腰掛けてやや哀しげながらも表情を崩そうとしない後輩を見つめた。
「・・・・・・申し訳ありません」
「申し訳ねえって、お前はそれ全部自分の責任として抱え込むつもりか?あの兄貴の望みも、お前の本当の母親の望みも、九条の家の方針も、お前にはどうすることもできなかったことばっかりじゃねえか」
「それでも最終的にそれを選んだのは、俺の意志です」
「選ばざるを得なかったんだろう?」
 近藤は思わず溜息をついた。どこまでもストイックな奴だと思う。だからこそ惚れたのだが。凛々しい横顔をじっと見つめていると、優雅なまでの仕草で視線を流して、わずかに微笑んだ。
「俺の望みは、斗音がただ明るく元気に生きていてくれることです。そのために俺はいた。少なくとも俺はそう思っていたんです」
 黒い半そでのTシャツの上から、いつも肌身離さずつけているクロスをそっと握り締める。
「でも、斗音はそれを・・・・・・本気であれ嘘であれ、否定した。ショックでしたよ、実際。でも、如月を辞めろと言われて初めて、俺の中に、それ以外の望みもあったんだ、なんて思い知りました」
「お前の、望み?」
 微笑が崩れた。まさか、と思った。この大人びた後輩が感情を表情に表したのは、以前双子の兄(だと思っていた斗音)が、瓜生たちのグループに絡まれて発作を起こしたときくらいで、笑うことはあってもこんな苦しげな、つらそうな表情を見せたことはなかった。どんなに厳しい稽古を課しても、試合で負けたときすら、そんな顔をしたりはしなかったのに。
「ええ。・・・・・・如月を卒業したかった」
 苦しげな表情のまま、自嘲する。一瞬、この後輩は泣きたいんじゃないか、と思った。根拠などない。ただ、いつも見せている表情とは全く違う弱さを、自分に見せまいとしているのが分かる。隠そうとしているけれど、二年間、いつも見てきたのだ。それが手に取るように分かる。その上での、いわば第六感だ。
(また一人で抱えるのか、お前は)
 癒してやりたいと思った。いや、ずっとそう思ってきた。慈恩の様子がおかしいと感じ始めたのは、夏休みに入る直前頃だっただろうか。技は鋭い、集中力もある。それなのに迫力が足りなかった。いつもの怖いほどの真剣さが、なんだか薄ぼんやりとした霧に包まれているような、そんな感じだった。インターハイ予選で勝利はするけれども、表情が晴れない。時折、声を掛けても聞いていなかったり、それに気づいてはっとしたりするようなこともあった。
 何か悩みを抱えているのではないかということは、すぐに感じた。それで問い詰めたのだが、うまくかわされて結局聞き出すことができなかった。今これらの複雑な事情を聞いて、あの時点でどうして無理にでも聞き出して、相談に乗ってやることができなかったのかと、ひどく後悔の念が押し寄せてきた。残り少ない時間、少しでもこの後輩と、精神的な部分で近くにいたかった。悩んでいる慈恩を楽にさせてやるだけの力量のある先輩でありたかった。
 ずっと、抱えてきた想い。小学生のとき、初めて対決したことで、強烈に印象に残った少年。自分より身体の小さい相手に初めて負けた。技の精密さと鋭さにレベルの違いを思い知らされた。中学のときも、必ず地区大会で優勝をさらっていたし、全国大会常連の選手として有名だった。高校二年生になってその彼が入部してきたときは驚いた。地元の剣道をやっている人間の中では知らない者のいない椎名慈恩が、さして剣道の名門でもない如月に入ってくるとは思いもしなかったからだ。
 
これまで大概試合は注目して見てきたつもりだったが、その実力の片鱗しか見ていなかったと、彼と練習する中で、またも思い知らされた。基本のレベルがまず段違いだった。何をさせても、慈恩の右に出る者はいない。その圧倒的な強さに、わくわくして心が震えた。いつか追いついてやろうと猛練習をし、進んで人より多くの稽古をこなした。それが認められたらしく、部長を任されることになったが、その頃には何とか慈恩とまともに試合ができるくらいに己が力をつけていた。
 
何より己を高めるために、そして全国大会常連の椎名慈恩を抱え、如月高校初の団体での全国大会上位入賞を狙うために、全てを賭けた。己にそうであるように、部員にも甘えを許さず厳しく接した。その厳しさに耐えられず、辞めていく部員、来なくなる部員がちらほら出てくるようになり、自分のやり方が間違っているかもしれない、と真剣に悩むこともあった。けれど、そんなときでも平然と稽古をこなし、誰にでも公平に厳しく接していた自分に臆することもなく、慈恩は気品を失わない微笑でこう言ったのだ。
「剣道は心身の鍛錬でしょう?己に厳しくなければ強くはなれません。少なくとも俺には、これくらいの厳しさが必要だと思ってますよ」
 
自分が部長としての在り方に悩んでいることを見通しての一言だった。慈恩の本当の強さは、その心の在り方に起因しているのだと知り、自分の強さに驕ることないその姿勢と、他人への心遣いができるその人柄に、強く惹かれた。その時からだ。全ての迷いは吹っ切れた。この後輩を全国で勝ち抜ける選手に育て上げる部に、自分の力でしていこうと思った。惚れぬいた椎名慈恩のために、全力を尽くそうと誓った。
 
もちろん、そんな想いを告げるつもりなど毛頭なかった。しかし、感情と成り行きであの日、慈恩に思わずキスをして、挙句の果てに惚れていると明言してしまった。そうとなればもう開き直るしかない。慈恩が自分の想いを知っていることを前提に、言動を選んできた。自分の全てを賭けて、この後輩のために、自分ができることを精一杯やるつもりだった。
 
それなのに、慈恩のつらいとき、苦しいときに自分が何もできずにいたことが悔しかった。結局自分は何もしてやれないままなのだろうか。もう、この先はないのだ。今しか、もう。
「今更なのは承知で聞く。・・・・・・俺に、何かできることはないのか?俺は・・・・・・お前のためにできることなら、何を言われても喜んでやってやる」
 後輩の漆黒の瞳を捉え、まるで縋ってさえいるような自分が情けないと思いながらも、自分にできることなんて思いつかない自分を恨んだ。
「何でもいいから言え」
 慈恩は微かな驚きをその澄んだ瞳に湛えた。そしてわずか目を細め、微笑んだ。
「だったら・・・・・・許してください。俺を」
 あくまでも静かな声。微かに凛々しい眉根が寄せられている。近藤はその三倍ほどはっきりと眉を寄せた。
「許す、だと?何を?」
「あなたがここまで俺に掛けてくれた期待を裏切ってしまうことを、です」
 がつん、と心臓を殴られたような気がした。そこまで自分の気持ちを尊重してくれていたということに、そして、その大事な人間を失ってしまうということに対する、つらさという激しい衝撃だった。
「・・・・・・そんなこと、気にしてる場合じゃねえだろうが」
 思わず吐き捨てるように言ったら、漆黒の瞳がかすかに揺れた。
「俺にとっては、つらいことです、とても」
 近藤は込み上げる思いを食いしばって、そのまま慈恩を硬く抱きしめた。何かひとつでも気が緩んだら、逆に自分が泣き出してしまいそうだった。だから、そうして、何も言わない後輩をきつくきつく腕の中に閉じ込めてから、その耳元で、ようやく声を絞り出した。
「・・・・・・・・・馬鹿野郎」
 近藤には見えなかったが、その言葉を聞いた慈恩は、近藤の逞しい腕の中でかすかに表情を緩めた。その罵声とも取れる精一杯の一言に、近藤の全ての気持ちが込められていることが、痛いほど心に染みた。そっと閉じた瞳からは、ひとすじの雫が頬を伝った。しばらくこのままにしていてくれれば、きっと見られずに済む。その端正な唇がかすかに微笑を刻んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう・・・ございます・・・・・・」
 あくまでも静かに、そっと、そうつぶやいた。

|

« 二十.頂上決戦 | トップページ | 二十二.インターハイ in 名古屋 »

十字架の絆」カテゴリの記事

コメント

お疲れ様です。前回までの剣道の試合シーンでは携帯を睨みながら右足が出たり下がったり…。(>_<)今回は胸苦しい中にもにやける頬を引き締めて…。読むのが辛くて楽しいです。(*^m^*)


Dear エルマさん
きゃわわわゎ、全部が最高の褒め言葉ですっ(><)!!!ありがとうございますっ!!!ちょっと旅行に行ってたので、こちらのコメントは携帯で拝見したのですが、あまりにも嬉しくて、何度も何度も読み返してしまいました。そんな思いで読んで頂けるなんて、自分も登場人物たちもなんて幸せなんでしょう♪出かける前に何とか、と思って、真夜中に更新した甲斐がありました。「コメディ」ってタグにあるんですけど、コミカルなところもあるよっていう程度で、むしろ本筋はかなりシリアスになってきてます(^-^;。が、それでも「読みたい」って思って頂けるように頑張ります!!この先も彼らの物語にお付き合い頂ければ幸いです!!!
☆蒼 紫月☆

投稿: エルマ | 2009年1月17日 (土) 21時54分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1084546/27061245

この記事へのトラックバック一覧です: 二十一.許し:

« 二十.頂上決戦 | トップページ | 二十二.インターハイ in 名古屋 »