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2009年1月

十九.出そろうベスト8

 ベスト8をかけた四回戦を先に迎えたのは、慈恩の方だった。相手は予想通り出雲第一で団体戦の先鋒を務めていた林である。
「如月の椎名かい。強敵じょ」
 出雲第一の応援席では、部長であり大将であり、今年の優勝候補でもある飛馬が腕を組んで林に声をかけていた。飛馬は身体的にほぼ近藤と互角のサイズで、自他共に厳しいストイックな男である。
「椎名・・・・・・ええなぁ、俺椎名とやりたかったのに」
 またしてもうっかりぼやいてしまった隼が、飛馬に小突かれる。
「アホ。まあちと周り見てもの言わんかい。毎度毎度みんなの反感買いおって」
「あ、あかん、またやってしもた・・・・・・かんにんですわ」
 申し訳なさそうな隼に、仕方なさそうに吐息する。
「俺に謝ってどげすー。ほんねお前は・・・・・・腕立つくせにおかしげなやっちゃ」
 飛馬は笑ったりしない。いつも厳しい顔をしている。おかげで出雲第一高校剣道部、今年は全体的な雰囲気がぴりぴりしていた。でも隼から見て、飛馬は自分を理解してくれる数少ない一人である。
「もし万が一林が負けたりしたー、またなんぞ言われるぢ。気ぃつけい」
「あはは、ほんまですわ。でも」
 隼の目が鋭くなる。
「林さんに万が一つかわはるんやったら、勝つ場合やと思います」
 言った途端、また小突かれた。
「だけん、お前はストレートにもの言い過ぎじょ言うとーだら。アホ」
 そして、飛馬は独り言のようにつぶやいた。
「林は負けらが、俺が敵取って椎名やらかしたるわ」

 隼は切れ長の目と眉を、少し寄せた。

 出雲第一高校の林と慈恩の勝負は三分と十数秒で終わった。結果は2-0だった。この強豪校の先鋒相手に一本も取らせなかったことで、嵐がふと気づいた。
「慈恩って、インハイ来てから一本も取られてねえんじゃねえか?」
 戻ってきて小手と面を外した慈恩が、それを聞いて微笑した。
「そうだな」
「それって・・・・・・すごくない?」
 瞬が嬉しさを隠しきれないような表情になる。翔一郎も満面の笑みでうなずいた。
「慈恩ならこんなもんだよ。去年もほとんど取られなかった」
 言ったのは田近である。淡々と真顔で、出来過ぎ集団を見る。
「特別なんだ。ほんとに、慈恩は・・・・・・格が違うんだよ」
 それを聞く慈恩の表情に、斗音は寂しげな翳を見つけた。
「・・・・・・かぁっこいいっ!俺、慈恩と友達で嬉しい!」
 感激にうち震えた声を上げたのは、瞬だった。大きな目がきらきらしている。
「俺はバスケも大して上手くないし、ベンキョーも大してできやしないし、何にも特別なんてないけどさ、俺には慈恩っていう友達がいるってことが自慢だよ」
 いや、お前は異常に可愛いだろう、という周りの心の中のツッコミを知ってか知らずか、面食らったような顔をしている慈恩に、防具の上から抱きつく。
「剣道がなくったって慈恩は大好きだけど、剣道入れたらもっともっとかっこいい!」
 漆黒の瞳がストロボのシャッターのごとく瞬きの連打で見え隠れして、そのあとちょっと困ったように微笑んだ時には、それが潤んでいたのを、斗音は見た。そして、微かに胸の奥に宿る、羨む気持ち。瞬のように無邪気にその感情を表現する術を、今の斗音は持たない。同じ思いを、いやそれ以上の想いを胸に抱えたまま、全身がわけの分からない巨大な不安に襲われる。ぐらり、と目の前の映像がかしいだ。
「おわっ?」
 その身体を支えたのは翔一郎だった。力の入らない華奢な身体を前と後ろから抱き止めるようにして、そっと床に座らせる。
「どした?」
 心配そうな声が耳じゃないところから聞こえる気がする。世界の重力がおかしくなったんじゃないかと思う。
「斗音・・・・・・大丈夫か」
 藍染の匂いと低い優しい声。胸にじわりと湧き上がる熱が、目頭を濡らす。
(泣かない・・・・・・今心配かけるわけにはいかないんだ)
 天地が逆転したような感覚の中で、斗音はくらくらする感覚を必死に元に戻そうと、自分を支えてくれる腕にしがみつく。
「・・・・・・だいじょ・・・・・・ぶ・・・。ちょっと・・・・・・眩暈・・・・・・」
 しっかりしない視覚を遮るようにぎゅっと目を閉じて、そっと翔一郎だけに聞こえるように囁いた。
「・・・・・・気持ち悪い・・・・・・」
 うん、と小さな返事が聞こえて、ふわりと身体が持ち上がった。
「ちょっと人気(ひとけ)にあたったかも。外連れてくよ。みんなはここにいて。もうすぐ近藤さんの試合だし」
「でも・・・・・・」
「慈恩は見てなきゃ駄目だろ。斗音は心配させたくないってさ」
「そうだな。ここは翔一郎に任せとけよ」
「それに、斗音もあんまり人にいて欲しくないと思う」
「すぐ戻るよ。近藤さんと隼の試合、始まりそうになったら携帯にかけて」
 自分の頭上で展開される会話を、ぐるぐるする感覚の中で精一杯拾いながら、ただひとつ確かな翔一郎の身体につかまった。
 喧騒の中をくぐり抜けてしばらくして、やわらかなところに身体を横たえられた。ゆっくり瞼を持ち上げると、景色の揺れはほとんどおさまっていた。
「気分どう?吐き気とか、するのか?」
 力なく首を振って、ぼんやりと翔一郎の心配そうな顔を見つめる。
「・・・・・・ありがと。だいぶ、いい」
「そっか。ちょっと今日蒸し暑いし、あの中、つらかったかもな」
 言いながら、手際よく制服のシャツのボタンを二つほど外す。
「ほとんど朝飯も食ってなかったし、調子悪いのか?」
「・・・・・・・・・・・・よく、分からない」
「・・・・・・今日は剣道だけど、明日は俺たちだからな。無理するなよ」
「・・・・・・・・・・・・うん」
 気を遣ってなのか、翔一郎はハンカチを取り出してパタパタあおいでくれる。わずかに空気が動いて、心地いい微風が頬を撫でた。
「だいぶ顔色、戻ったかな?最初倒れた時、えらく青ざめてて、びっくりした」
「・・・・・・心配、させたかな」
 翔一郎が爽やか系の顔に、爽やか系のやや曇った笑顔を浮かべた。
「そりゃ、心配するなって方が無理だろ。みんなお前のこと好きだし、大事に思ってるからさ」
 言って、優しく髪を撫でる。
「でも、お前の気持ちも、みんなは分かってくれてると思うよ。心配かけたくなくて、あの場から連れ出して欲しかったんだろ?」
 自分が情けない反面、周りが自分を思ってくれる気持ちが尚更嬉しい。手の甲を眉間に当てるようにして、涙が湧き上がった目を隠した。
(俺にはこうやって心配してくれる仲間がいてくれる・・・・・・例え慈恩が、いなくなっても)
「斗音・・・・・・」

 ひらひらさせていたハンカチを、翔一郎がさりげなく手の平に握らせて、よしよし、とまた頭を撫でた。

「あ、翔一郎?斗音、どうだ?そっか。今コールされた。始まるぞ。来れそうか?ん、分かった」
 カチリとブラックメタリックの携帯を折りたたんで、嵐が隣の慈恩に灰色がかった瞳を向けた。
「来るって。だいぶ落ち着いたみたいだな」
「・・・・・・そうか」
「よかった」
 瞬もにっこりする。慈恩はずっとわだかまっていた不安を、ようやく軽減することができた。面を装着した近藤が、試合場に向かうところで慈恩に向き直った。
「さてと、一本に抑えて四分戦ってみるか。できたらお前、佐賀南高校の東に勝つ約束をしてもらうからな」
 恐らく高校最後となる近藤の公式試合だろう。慈恩はいつも通り静かに微笑した。
「・・・・・・分かりました。近藤さんの勇姿、期待してます」
「お前に情けねえ試合だけは見せねえよ」
 近藤は目を閉じて天井を仰いだ。それがいつもの、近藤の精神統一方法だった。
 隼と近藤が向かい合い、構えたところで、翔一郎に少し寄りかかるようにして支えられながら、斗音が会場に入ってきた。
「こっちだよ、早く!」
 気づいた瞬が手招きする。
「始め!」
「ぃやああああああっ!」
「やぁああああああ!」
 掛け声の気合で会場全体がびりりっと引き締まった。嵐ですら、思わず息を飲むほどの緊張感だ。おいそれと手出しのできないような緊迫した空気の中で、互いに睨み合う。
 すっと動いたのは、赤の隼の方だった。素早いくせにすべるような滑らかな動き。慎重に構えた近藤の中段の構えに対して、隼は下段の構えである。
(下段なのに、仕掛けるのか?)
 慈恩が凛とした眉目を寄せる。その視線の先で、隼は竹刀の動きもしなやかに、いつでも攻撃にも出られそうな様子なのである。
(探ってるのか・・・・・・それにしても柔軟な動きだ。近藤さんとは正反対だ)
 ゆらりと隼の竹刀が揺れた。そう思った瞬間、隼が間合いを詰めていた。既に竹刀は近藤の面を急襲している。その隙間に近藤がかろうじて竹刀をはさむ。
「は・・・・・・はや・・・・・・」
 斗音がそれだけ言って、言葉を失った。慈恩は詰めていた息をそっと吐き出した。
(いつもながら、竹刀の出所が分からない。あの揺れるような竹刀の動きから、信じられない速さでの切り替え。ますます鋭く俊敏になってる。並の動体視力じゃ、ついていけない)
「翔一郎、今の見えたか?」
「かろうじて。でも俺だったら反応できなかったと思う」
「あんなの、剣道の動きを知り尽くしてる奴でなきゃ、止められねえだろ」
「え、えぇっ?!嵐も翔一郎も、今の見えたの?うそぉ」
 さすが二年生にしてインターハイのスタメンを勝ち取った二人だ。動体視力も並ではないらしい。
「斗音も見えてた?」
 すがるような瞬の目に、斗音は苦笑した。
「ほとんど見えなかった」
「よかった、仲間がいて。どうせ慈恩も見えてるんだ」
「え・・・・・・」
 いきなり振られて、慈恩は思わず言葉に詰まる。
「当ったり前だろ。慈恩を誰だと思ってんだよ。慈恩だぞ」
「田近、それこそ当たり前」
 たった一つの攻防でこんなに盛り上がってしまうのは、瞬がいるからだろう。斗音は苦笑した。
 そのやや緊張感に欠ける会話の間も、力で勝る近藤がつばぜり合いで隼を押し戻し、審判の声が掛かる寸前に撥ね退けた。
(引き技が来る!)
 撥ね退けられたように見えた隼が、左後方に大きく引いた足に素早く右足を引き寄せ、跳ね上げられていたその竹刀で、素早く柔らかく、右小手を狙う。予測していたのか、近藤が大きく一歩退いて、隼の竹刀は空を打った。そのまま竹刀を流すことなく、中段よりやや下に構え直す。近藤も中段に構えを整えた。
「嘘だろ」
 楠が驚きの表情のままつぶやく。慈恩がきりりと整った唇を噛む。
(近藤さんが退いた)
 超攻撃型の近藤は、とにかくどんな攻撃も跳ね飛ばして打って出るタイプだ。いかに慎重に戦っているかがよく分かる。自分の持つ全ての技術を、今この時間に注ぎ込もうとしているのだ。
「取られないようにしてるな」
「ああ」
 橋本と若園の会話を聞いて、慈恩は身が引き締まる思いに駆られた。自分が言った言葉を、近藤は実行しようとしている。最後になる可能性の高いその試合で。改めて、己の影響力を思い知る。
(近藤さん・・・・・・)
 ゆっくりと相手の動きを互いにうかがい合う中、今度は近藤が先に動いた。力強く右足から踏み込み、隼のやや下段の竹刀を、斜め左下に払い落とす。
「いけっ!」
 楠が思わず拳を握り締めるより早く、強引なまでの面に行く。それに対して、隼は左足を斜め右前に出し、その竹刀をすりあげるように応じた。
(返し!)
 だが近藤はすり上げられそうになる竹刀を、力ずくで止めた。ぎし、という音が客席にまで聞こえるほどのパワーだ。再びせり合いになる。
「いろいろ技が出てるみたいだけど、どっちもなかなか決めさせないな」
 嵐の言葉に、慈恩が浅くうなずく。
「隼の素早い技を、近藤さんは強引に抑えてる。だけど、そのパワーですら、隼には上手に利用されてるし、殺されてる」
「そういえば、隼は吹っ飛ばないね。近藤さんの攻撃でも。どうして?」
「近藤さんのパワーが全開で自分にたたきつけられる前に、隼が技を出してる。だから、近藤さんは止めるしかない」
「返し技とか、できないの?」
 瞬の二つ目の質問には、田近が答えた。
「そんな余裕、ないって。あの神技を止めるだけでもすごいことなんだぜ」
 俺なら今の時点で二本目決められて負けてるよ、とぼやく。瞬は目を瞠った。
「マジ?近藤さんって、すごい人だね」
「もちろんだよ。でもそれ以上に、あの隼がすごいよ。先生の言葉じゃないけど、マジあいつ、化け物だ」

(隼・・・・・・)
 優勝して勇気を分けてやるから、自分を見ていろ、と、そう自信に満ちた笑顔をくれた。斗音は拳を握り締める。心中は複雑だ。当然近藤を応援しているのだが、隼の言葉が実現することを望んでいる自分がいた。
 近藤が技を出せば、隼が返そうとし、それを近藤が止める。隼から技を出せば、近藤が食い止める。その攻防がずいぶん続いた。しかし、如何せん、その繰り返しで明らかに攻められる回数が多いのは、近藤である。三分と五秒が経過した時、またしてもつばぜり合いになったところで、近藤が送り足で斜め後方に退き、面を狙った。隼はそれに対して、左足から斜め後方へ退き、近藤の右肘が伸びたところで、中段に構えていた竹刀を信じられない鋭さで操って、瞬間的に近藤の小手を弾いていた。
「小手ええぇえっ!」
 素早く赤旗が一本を告げる。
「小手あり!」
 如月の応援側から、悲鳴に近いざわめきが起きた。選手が男子しかいないせいか、応援に来ているのが男子九十パーセントなので、女の子の悲鳴はほんのわずかである。残りの十パーセントもほとんどが慈恩目当てだったりするのだから、いたしかたのないところだろう。しかし、そこで応援している生徒はみな真剣そのものだった。
「取られたか・・・・・・」
「あの速さは反則だろ。俺でも打ち終わって弾いた竹刀が分かっただけだ」
「うわー、もうあと一分ないよ、厳しいよ」
 出来過ぎ集団も、みんなしてその女の子にもてはやされる顔を歪めた。三年生の剣道部員が、悔しいのと驚きとを交えて囁き合う。
「くそ、やられた」
「なんて速さだよ。近藤のひき面、けっこういい感じで出たのに」
「隼が竹刀を動かして、小手を打ち終わるまでが一瞬の出来事だったな。全然見えなかった」
「こうなったら、近藤はもう、攻撃に出るしか・・・・・・」
「二本目!」
 審判の鋭い声とともに、二人がまた気合の声を掛ける。しかし、そのあとどちらも仕掛けない。様子をうかがって、竹刀を牽制しあっている。
「馬鹿な。時間がないのに、どうして攻めないんだ?」
 楠がぎりぎりと歯噛みをする。近藤らしい攻撃的な試合をしないのが、よほど悔しいのだろう。パワーの楠は近藤をかなり尊敬している。
「・・・・・・うーん、攻めたいのはもちろんだろうけど、おいそれと攻められないんだよ。近藤の攻撃はパワフルだけど、その分隙も多い」
 橋本の応えに、それでも楠は納得いかない。
「それを跳ね飛ばすのが近藤じゃねえか。いくら強いったって、隼もパワーでは劣ってる。押しのけられない敵じゃねえよ」
「・・・・・・近藤さんがパワーを活かし切れない戦い方を、隼は心得てるんだ」
「・・・・・・くそっ」
 壁に拳をたたきつける楠から、橋本は目線を逸らした。
「だけど、諦めてなんかないと思うよ、あいつは」
 彼らの目の前で、主将は慎重に隼の動きを牽制しながら、出方をうかがっている。隼も、全く隙のない動きで、近藤の動きに一つ一つ流れるように合わせている。
「あと・・・・・・三十秒」
 瞬が息を飲む。それでも互いに打ち込まない。
「決まる時は、本当に一瞬で決まる。最後の一秒で決まることもある」
 慈恩の言葉には、そうあって欲しいという祈りが込められていた。ものの十秒が一分にも二分にも感じられる。ゆらり、と動いたのは隼の竹刀だった。その竹刀が瞬間に速度を変えたと思った時、またしても面の直前で近藤のそれと打ち合わされる。そして、近藤は強引に、ねじ伏せるように隼の竹刀をなぎ払い、そのまま身体ごと力任せに、あいた胴へ打ち込みに行った。
「いけぇっ!」
 隼の左足が斜め左前に出て、右足がその左足の右後ろに引き寄せられる。すらりとした長身を左前に開きながら、瞬時に左手を顔の高さまで上げ、竹刀の先を素早く胴を打たんとしていた近藤の竹刀の間にすべりこませて、その左側で応じるや否や、返して近藤の正面を狙った。
(受け流し・・・!)
「うおおおおおおっ!」
 近藤の雄叫びが上がった。軽く右後ろに退き、竹刀を頭上に振りかぶる。
「「めぇええええええんっ!」」
 ほぼ同時に二人の声が上がった。面抜き面を狙った近藤と、それを予測して敢えてワンテンポ遅らせて面を打ち込んだ隼の技は、ほぼ同時だった。ぱしぃんっ!と鋭く厳しい音が会場に響いた。上がった旗は・・・赤。
「面あり、一本!」
 会場中が、おおおおっとざわめいた。慈恩が唇を噛んで、斜め下に視線を落とした。
「それまで!」
 残り時間を示すタイマーの表示は、ゼロが三つ。きっかり四分。結果は、2-0。
「・・・・・・惜・・・しかったな・・・・・・」
「どっちが決まってもおかしくなかったよね、今の・・・・・・」
 翔一郎と瞬が、独り言のようにつぶやく。嵐は小さく吐息した。慈恩は静かに目を伏せた。
(受け流し面を抜かれると読んで、上体をかわしながら一瞬打ち込みを遅らせた・・・・・・すごい攻防だったけど、隼が一枚上手だった)
 斗音はどくどく脈を送り出す心臓をつかむように、制服のシャツをぎゅっとつかんだ。
(・・・すごい・・・・・・)
 見るだけで、剣道の本質が分かるわけではないが、それでも最後の攻防がどれだけ激しく、集中力や鋭さ、読みが要求されたかは、斗音にもよく分かった。そして、それでも実力者の近藤をねじ伏せた隼。
 最後の礼まで堂々とこなして帰ってきた近藤を、如月高校剣道部全員が取り囲んだ。
「惜しかったなぁ!」
「すげえ試合でした!お疲れさまっす!」
 面を外して、ひどく汗をかいていた近藤は、大きく息を吐き出した。
「やっぱ相手にならねえ。あいつ、強すぎる」
 そして、やや外巻きにいる慈恩を、苦笑しながらも輝きを失わない目で捉えた。
「一本に抑えられなかったな」
 慈恩はそっと首を振った。手ぬぐいを取りながら近づいてくる近藤を、微笑で迎える。
「俺は一言も、一本に抑えろとは言ってませんよ」
「何言ってんだ。それくらいの力はあるって・・・・・・」
「そうですね。四分戦い抜く力はある、とは言いました」
 高校での最後の公式戦を終えた男は、一瞬言葉に詰まる。慈恩は苦笑した。
「時間、見てなかったんですか?最後の一本を取られた瞬間に、残り時間がなくなった」
 近藤はニ、三度瞬きをする。そして、気が抜けたように笑った。
「あんな、一瞬も気の抜けない試合で、時間なんか見てる余裕があると思うか」
「そうですね、ないかもしれません。でも、約束は約束です」
 慈恩はあちこちで繰り広げられているレベルの高い戦いに、凛とした目を向けた。
「次の試合、勝ってきます」

 静かな決意のこもった声に、近藤はにやりと笑った。

 如月の関係者が全員近藤に気を向けていた時、斗音は一人だけ、隼が試合場から退場していくのを見ていた。全員に囲まれた近藤に比べて、隼を待つ人間は、誰もいない。勝って当たり前だというのか。だから気にする人間もいないのだろうか。それとも、出雲第一はたくさんの出場者がいるから、みんな他の試合に出払っているのだろうか。どんな理由があるにしろ、あの激戦を見事勝ち抜いた功労者を、誰一人称えもしないその様子にひどく寂しさを感じて、如月の集団から抜け、斗音は思わずそのあとを追った。反対側の出雲第一が陣取る応援席へ戻るため、慣れた手つきで面を外し、一度外側の廊下に抜けた隼に、ようやく追いつく。
「隼っ!」
 その声に振り返った隼が、驚いたように追いかけてきた相手を見る。
「なん・・・・・・斗音?なんや、どないしてん?」
 慌てて頭の手ぬぐいを取る。やや汗に湿った短めの髪が、更にボリュームを少なく見せている。そう言われて改めて斗音は、どうして自分がここにいるのかを考える羽目になった。
「どうってことはないけど・・・・・・今の試合、見てたから・・・・・・」
 隼がにこっと笑った。大人びたシャープな顔が優しくなる。
「相手が近藤さんやったから、如月みんな見てくれはったんやな。近藤さんの応援で」
「そ、れは・・・・・・」
 もちろん、と言おうとして、果たしてどうだったかと己の心を振り返る。しかし、嬉しそうに笑う隼は、特に答えを求めたわけでもなさそうだった。
「こんでようやっとベスト8や。あと三回勝ったら優勝や。見とってくれたら、俺も気合入るし、絶対お前にも元気分けたるさかい、見とってや」
 小手をつけたままの手で、くしゃくしゃと斗音のアッシュの髪を乱す。まるで子猫のように首をすくめて片目を細めた斗音に、隼はますます優しい顔になる。
「ほんま可愛ええな、お前は。髪の毛やらかいし。そんな顔されたら俺、ぎゅうってしたなるやん」
「な、何言ってんだよ」
 昨夜のことを思い出して、思わず頬に朱を走らせる斗音を、笑顔のままのぞき込むようにする。
「おおきに。だあれも来いへんと思てたし、嬉しかったで」
 ほな、と行こうとする隼に、斗音は思わず言った。
「俺、お前に勝って欲しいと思って見てた」
 驚いたように、すっきりした眼を大きく見開く隼に、斗音は痛ましさを抱えながら微笑んだ。
「お前、言ったことは絶対本当にするから。元気、分けてくれるって言ったから、勝ってくれると思ってたし、勝って欲しかった。・・・・・・隼から見て、近藤さんは強かった?」
 隼は微笑してうなずいた。こういう顔をすると、とても大人びて見える。
「力任せの剣道しはるかと思てたけど、それだけやない。かなりのスキル持ってはったし、正直ヤバイと思たことも結構あったで。当たったのがうちの先鋒の林さんくらいやったら、勝てとったんちゃうかな。俺は椎名とやりたかったし、ほんま逆やったらよかってんけど、俺去年三位に入ってもうたし、春の大会で島根(おれら)が上位独占した上に、予選でも飛馬さんに続いて二位で通過しとるから、シードかかってしもたんや」
 名誉なことだと思うが、シードがかかるとかかからないとかいうことは、隼にとってさほど問題ではないのだろう。そして、それは例えトーナメントのどこにいても、勝ち抜く自信があるからに違いない。
「飛馬さんって確か・・・・・・」
「あ、うちの部長や。昨日大将務めてはった人、覚えてるやろ?」
「・・・・・・うん。予選ではその人に、負けてんだ?」
 斗音の何気ない言葉に、隼は笑みを曇らせた。
「実力はそう変わらへん。勝ったり負けたり、五分五分や。けど、うち先輩えらい厳しいさかい、そのせいで負けたとは言わへんけど、先輩に勝ってしもたら、上の人ごてくさ言わはるし、めんどいんや」
 やっぱり、と斗音は形のいい唇を噛んだ。前の試合での出雲第一の態度が、まさしくそうだったのだ。
「せやから、きんのうおうたばっかでも如月のみんなとか、お前が見とってくれると嬉しいわ。今の試合は敵対しとったからちょっと寂しかったんやけど」
 にこっと笑う。
「お前が勝って欲しかったてゆうてくれたさかい、めっちゃ救われてん。おおきにな、斗音」
 心から笑っているのだろうが、その笑顔がなんだかすごく痛く思えて、ずきずき痛む心臓をなだめながら、斗音も微笑んだ。
「とりあえず、ベスト8、おめでと」
 隼の笑顔が、ぱあっと明るくなった。
「おおきに。もし万が一、決勝で当たるのが椎名やのうて飛馬さんやったとしても、俺は絶対勝って見せるさかい。そのための秘策も、準備したるしな」

 斗音は、その明るい笑顔の中に、確信と自信を垣間見た気がした。

 ベスト8が決まって、一度昼食のための休憩時間をはさんでから、再び試合が始まった。それぞれがベスト4をかけた戦いで、かなりレベルの高い選手がそろっていた。全国から集まってきたつわものたちの中でも間違いなくトップクラスのメンバーなのである。そしてそこには見事なまでにシードのかかった面々が勝ち残ってきた。第一シード島根県出雲第一高校・飛馬要、第二シード香川県光徳学園・加納水樹(みずき)、第三シード島根県出雲第一高校・隼刀威、第四シード佐賀県佐賀南高校・東漢人 、第五シード東京都如月高校・椎名慈恩、第六シード山形県新庄商業高校・刈谷知典(とものり)、第七シード熊本県日大付属住吉高校・関博政(ひろまさ)、第八シード群馬県桜フロンティア高校・朝比奈泰臣(やすおみ)の八人である。この中に同じ県の同じ高校が入っていること自体、かなり異常であるが、伝統的に強い県であるため、出場枠が他より多く、春の大会や去年の結果も考慮してシード枠にも入っているのである。対戦は第一シード対第八シード、第二シード対第七シード、というように、なるべく強い候補が勝ち残っていけるように組まれている。
 五回戦は全ての試合が同時に行われた。負けても八位まで決めなければならないので、ベスト4に残らなかった面子も再度組みなおされたトーナメントによって再び順位を争うことになる。
 飛馬と朝比奈の対戦は最初にこれでもかと言う激励の言葉が双方から掛けられた。そんな中、2-0で飛馬の圧倒的勝利となり、ものの二分足らずで終了してしまった。加納と関の対戦はなかなかの接戦ではあったが、関が一歩及ばず、三分強で2-1と加納が勝利を収めた。隼と刈谷の対戦は、三分弱ほどの時間をかけたものの、2-0で隼がまた圧倒的な強さを見せた。しかし、新庄商業の応援以外はほとんど見られなかった。
 隼の勝利を知った如月高校の面々は、ベスト8に残っていた刈谷より近藤の方が隼に時間を費やさせたことに喜んだ。
「ほんとに惜しかったな。トーナメントの組み合わせ次第じゃベスト8になっててもおかしくなかったんだ」
「すごいじゃん、如月って。ベスト8に二人いるところって、出雲第一だけだろ?」
「こうなったら、椎名バリバリ応援して、何が何でも勝ってもらいてえよな」
「今んとこ、第三シードまで順調に勝ち残ってるからな。ここで番狂わせだ!」
 大いに盛り上がり、まだ試合中であった慈恩に当社比一・五倍ほどの期待をかけた視線を送った。剣道では、始まる前や終わりはともかく、試合中にあまり大声で応援する雰囲気ではないからだ。
 既に一本取っていた慈恩は、何とか取り返そうとして猛然と襲い掛かってくる東に、やや苦戦していた。最初の一本は、まだ相手が油断して力任せに攻めようとしたところを、鋭く小さな竹刀さばきで決めた出ばな小手だった。それが一分ちょっとすぎた辺りであったから、それから二分以上、ずっとその猛攻に晒されているわけである。近藤より、パワーも技術もひとまわり優れた相手である。さすがの慈恩も防戦一方で、返し技すら跳ね飛ばされてしまい、わずかでも隙ができれば狙われるといった状態であった。
(慈恩、頑張れ!早く時間進んで!)
 見ていろとは言われたものの、隼と慈恩と同時に試合が始まってしまったので、斗音は当然慈恩の応援をしていた。しかも、目を離せない試合展開なので、隼が勝ったことしか分からなかった。そして今も必死に祈っている。
(何が何でも守り切れ!)
 近藤も厳しい顔をして真剣に見ている。時折力強く睨みつけているようだが、慈恩が今苦しい状態であることは百も承知だった。
「東は近藤より力がある。椎名の練習相手では近藤が最強だったわけだから、かなりつらいところだな」
 篠田もさっきからずっと拳を握り締めたままである。嵐たちバスケ部のメンバーは、独語のようにこっそり応援していた。
「いけるぞ!慎重に守り切れ!」
「頑張れ、頑張れ!あとちょっと!」
 如月陣営にとってはなかなか過ぎない時間でも、世界の標準時間に合わせて刻々と過ぎていき、残り時間数秒となった。これが最後だと、東の攻めもかなり強引になってきた。力任せにつばぜり合いから慈恩を突き飛ばし、体勢が崩れた瞬間にその反動を利用して、そのまま小手を狙ってくる。
「うわ」
 思わず如月応援席で何人かが声を漏らした。かなり苦しい体勢のまま、慈恩は竹刀を振りかぶった。おかげで東の小手は空を打つ。バランスが崩れているため、慈恩は無理やり浅く踏み込んだ。残り時間でこれ以上相手の竹刀が使い切れない距離まで詰め、その勢いで鋭く相手の面を打った。慈恩の一本を示す白旗が素早く上がった。
「面あり!それまで!」
 うおおおおおおっ、と如月の応援席が揺れた。残り二秒、2-0で慈恩がベスト4に進んだ瞬間だった。
「欲張りな奴め、最後相手が絶対打てない距離まで詰めておきながら、おまけで一本取りやがった」
 近藤の声がわずかに震える。斗音は感動のあまり、目頭が熱くなった。
(すごい・・・…すごいよ、慈恩・・・)
「っしゃっ!」
 翔一郎と瞬が踊りだしそうな勢いで、ハイタッチの小気味いい音を響かせる。
「すっげえ。近藤さんより上の相手に、隼より短い時間で、同じ結果出しやがった、あいつ」
 嵐の声も嬉しさや感激が隠し切れない。そこへ戻ってきた慈恩は、たちまち人だかりに埋もれた。あちこちばしばしたたかれて、小手と面を外しながら慈恩は首をすくめた。
「たたっ、イタッ、あ、ありがとう」
 かなり汗をかいている。相当厳しい戦いだったのだろう。それでもたたかれながら嬉しそうに笑った。
「ただいま第五回戦が全て終了しました。第六回戦、準々決勝と、五・六・七・八位決定戦は、十分休憩ののち、行います。五回戦で敗退した選手は、トーナメントを組みますので、本部まで来てください」
 場内アナウンスが流れ、全員がほっと一息つく。そこへ、突然飛び込んできた珍客、再び。
「椎名―――っ!」
 外すのが面倒だったのだろう、胴はつけたまま、軽々と猛ダッシュをかまして、如月の席に飛び込んできたのは、同じようにたった今ベスト4に進出した、出雲第一の二年生である。その勢いのまま、慈恩の首をかき抱く。
「やるやん椎名!あと一回勝ったら、俺ら対戦できるで!」
「隼、ちょっと、無理無理っ」
 胴二つを挟んで無理やり首にしがみつくものだから、首だけさらわれそうになり、慈恩はギブギブ、と目の前の椅子をたたいた。隼が慌てて腕をほどく。
「あ、すまん、かんにん、椎名。ええかいな?」
「よくない。首がどうにかなる」
「あーと、ええかいなっちゅうのは、大丈夫かいなっちゅうこっちゃ」
「だから、大丈夫じゃないって」
 周りからどっと笑いが起きる。隼は照れたように笑った。
「ほんまかんにんな。俺、あんまり嬉して、つい我を忘れてもうたんや」
 そんな隼を、出来すぎ集団がそれぞれぺしぺしたたく。
「ベスト4おめでと」
「お前こそ、すげえじゃねえか、ベスト4なんて」
「近藤さんを負かした分、勝ってもらわなきゃこっちの面目が立たないからな。もちろん決勝まで行くんだろ?」
「そうだよ、隼圧倒的に強いもん。慈恩と試合してる時間がかぶってなかったら、絶対応援に行くからね」
 隼は満面の笑みを浮かべた。
「おおきに。とりあえず、決勝までもう敵対することはないさかいな。そうゆうてもらえると、嬉しいわ」
 慈恩は苦笑する。
「お前は決勝まで行くだろうけどな、俺はかなり厳しいぞ?分かってるか?」
 はっと衝撃を受けて、大人びたすっきり系の目が、滑稽なほど見開かれる。
「嬉しすぎてすっかり忘れとった。もしかして、次飛馬さんか?」
「もしかしなくてもそうだよ」
「う・・・・・・」
 普通にしていれば、かなりかっこいい系のクールな顔なのに、あまりにくるくる変わる表情のせいで、全くそう思えない。今度はここに飛び込んで来た時とは正反対の、がっくりした表情を見せる。
「椎名やったら勝てるて言いたいけど、あの人はほんま強いさかいな・・・・・・俺、気休めはよう言わへん。けど、もし勝ってくれたら、俺、めちゃめちゃ嬉しいし、助かるんやけどな・・・・・・」
 最後の一言に、如月高校の面々は思わず顔を見合わせた。嵐がにやっと笑って、隼の肩をたたいた。
「俺らだって、慈恩が勝てることを望んでるよ。でも、実力者二人が言うんだから、厳しいのは確かみたいだ。だから、もし慈恩が負けたりしたら、俺たち全員全力でお前を応援してやるよ。慈恩の敵取ってやる、くらいのつもりで思いっきりやっちまえ」
 情けない顔をしていた全国大会第三シードの少年は、にっと笑った。
「おおきに。東雲みたいに賢うて妙に説得力ある奴にゆうてもらえると、なんや安心するわ。けど、ほんまの話、俺、真剣勝負、椎名とやりたい。正直飛馬さんには堅苦して厳しいこと以外、あんまり欠点見あたらへん。悪い人ちゃうんや。嫌いやないし、同門として勝って欲しいとも思う。けど、それ以上に俺は、椎名の剣道に魅力感じてんのや。せやから、椎名、俺は椎名応援するさかいな」
 心ん中でやけど、と付け足したため、いつも飛馬にやられるように、如月高校剣道部の部長に小突かれた隼であった。
「てめえは一言余分なんだよ」

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二十.頂上決戦

 準決勝は、飛馬対慈恩、光徳学園の加納対隼が、同時に行われた。
「椎名っ!頑張れっ!」
「慈恩!ここまで来たんだ、あとはぶつかるだけだ!」
「おもしか行け、飛馬っ!」
 始まる前に、試合場の外での激励合戦も派手な戦いが繰り広げられた前者に対して、後者の試合場は、先ほどと同じように片側のみの激励となっていた。
「二年に負けんな!」
「昨日のカリ返せ!」
 にも関わらず、先に決着がついたのは、こちらだった。しかも応援では圧倒的に負けていた方が、開始早々加納の構えた竹刀を払い落として鋭い面を一本決め、焦って取り返しに来た小手を難なくかわし、そのまま小手抜き小手を決めた。試合時間にして一分七秒という短時間だった。準決勝にして見せつけられた圧倒的な展開に、光徳学園サイドは完全に沈黙してしまった。借りを返すどころか、自分たちの大将である人物が昨日よりずっとあっけなく負けてしまったのである。しかも、相手は副将だった少年だ。
「馬鹿な・・・・・・」
 かなりのショックを受ける光徳学園を尻目に、隼はとっとと礼を済ませ、さっさと隣の試合見学に回った。
 こちらは対照的だった。0-0のまま二分が経過し、そのあとも激しい攻防はあるものの、どちらも一本につながる攻撃にはならずにいる。
(強い!攻撃が全部読まれる)
 面の奥で、慈恩の通った鼻筋を汗が伝った。慈恩がよく取る下段の構えは、飛馬相手には無理だった。技が臨機応変に繰り出されるので、いつでも止められるようにしなければならない。かといって、自分の出す技は瞬時に読まれ、返す体制に入られてしまう。ここまでこちらの動きを読めるということは、よほどの試合経験を積んでいる証拠だ。慈恩も相手の技に先んじて抜いたり返したりしているのだが、それでも止められてしまう。自分が全くスタンダードな戦い方をしているとは思わない。しかし、どんなパターンも飛馬の頭の中には入っていて、そのどんなパターンにもすかさず対応できるだけの技量を持っているのだ。何とか互角には持ち込んでいるものの、これほど強い相手と戦ったことは、ここしばらく慈恩の記憶にはなかった。
(どう戦ったら、こんな相手に勝てるんだ)
 打ち込まれた竹刀を食い止めながら、互いに引き技を繰り出す。そして、それを同時に飛びすさって避け、再び構え直す。そこへ一瞬たりとも間をおかず、飛馬が上段から飛びかかって来た。振り下ろされる竹刀を必死に受け止め、流すために二歩、三歩とあとずさると、そのままぐいぐい押され、試合場の隅まで追いやられる。右に逃げて再び引き技にいこうとするが、仕掛けたのは相手が先だった。強引なまでに踏み込んでくる。
「慈恩・・・・・・!」
 しんと静まり返る中、祈りに近いような、ハスキーボイスが微かに聞き取れた。
(そんなに思い詰めたら、ストレスになるだろ、馬鹿)
 ただでさえもひどいストレスを、与えてしまっているというのに。
 心配する気持ちと同時に湧き上がるのは、安心という嬉しさでしかないのだけれど。だから、慈恩としては本当に精一杯にやっているのだが、こればかりはどうしようもない。正直、相手が一枚も二枚も上手だ。斗音情報によると、隼はこの実力者と五分五分の戦いができるらしい。ということは、自分と隼の間には、まだ明らかに差があるということだ。どう見たって、慈恩が押されて、ラインぎりぎりにいる方が多かった。
「三分か。どんなに持ちこたえたって、個人戦に引き分けはない。決めることができなければ、延長に入っても苦しいのは椎名だ」
 篠田が苦い顔をする。篠田とでも互角に戦える慈恩だが、恐らくこの飛馬という少年は、若い分自分より勢いがある。体格も、篠田を上回る。技術で言えば慈恩も勝るとも劣らぬものを持っているのだが、経験とパワーで明らかに劣る。それがこの試合の差だった。
「俺が見た中で、こんなに上手い椎名は初めてだ。俺と戦ってる時の椎名だったら、あいつにここまで取らせずに粘ることなんて、できてないと思う」
 如月高校剣道部部長の言葉は、一縷の望みにすがるものであると同時に、絶望を予感させるものでもあった。その言葉が真実であれば、ベストの戦い方ができているにも関わらず、これだけ攻め込まれているということになるのだから。
(頑張れ、頑張れ、頑張れ!)
 指が白くなるほど強く握り締めた拳が震える。いつも慈恩が負けそうになる時、斗音はこんな状態だが、今回ははるかに複雑で、その分思いが強い。執行部をやっていたせいで、慈恩がどれだけつらい練習に耐えてきたことか。このインターハイに全力で臨むために九条との決着をつけようとして、椎名の家を出るにとどまらず、如月高校まで出なければならないという選択を強いられ、どれだけ苦しかったことか。その上、今まで家族だと思ってきた人たちが、全くのあかの他人だったのだという真実を突きつけられて・・・・・・。それでも、その思いを乗り越えて、こうして今、最強と目される相手と全力で戦う慈恩が、誇らしくて、誇らしくて、それと同じだけつらかった。自分が何かすることで慈恩が勝てるというのなら、何でもできた。しかし、今斗音にできるのは精一杯祈ることだけだった。
(厳しい練習してきたんだ!慈恩ならまだ絶対できる!)
 斗音の思いに同調するかのように、仲間から小声の檄が続く。
「そうだそうだ!考えて行け!たぶん頭脳ではお前が上だ!」
「近藤さんのしごきに耐えてきたんだから、強気でいけ!」
「おいこら、誰がしごいたって?」
 それらの密かな応援のひとつを近藤が咎めるが、発言者は肩をすくめて、淡紫色の髪を揺らした。
「ほんとでしょ?それにほら、そんな小さなことにこだわってる場合でもないし」
「む・・・・・・」
 そんなやり取りの間も、如月陣の視線は慈恩から離れることはない。その祈るような視線の前で、必死に慈恩は応戦していた。隙のない牽制から飛び掛ってくる飛馬を払い、流し、かわし、受けた。
「あと三十秒・・・・・・相手も焦ってるはずだ・・・っ」
 必ず隙が出るはずだと、祈るような若園。その隙を、慈恩なら決して見逃さない。
(でも、その隙がない・・・・・・)
 斗音にも分かる。飛馬も、慈恩を決して過小評価してはいなかった。威厳に満ちた構えにも、パワフルなのに技巧的なその技にも、付け入る隙が全くない。むしろ、延長戦でも何でも来い、と言わんばかりの堂々とした戦いぶりだ。延長戦に入ったとしても、最後まで戦い切れるだけの練習を、彼も積んできているのだ。
「やああああああっ」
「っ・・・」
 勢いよく七段の連続技で面を打ち込まれ、どどどっと白線ぎりぎりまで後退を余儀なくされる。
(足が出るっ)
 踏みとどまって、引き技に移るために相手を押し返そうとするが、ここで勝てない。飛馬の力が、ぎりぎりと竹刀にのしかかり、逆に体勢を崩された。
(なっ・・・・・・)
(あっ!)

「あっ」
 慈恩の心の声と、斗音の小さな心の悲鳴と、篠田のこぼした声は同時だった。
「とぉおおおおおおおっ」
 咄嗟に左後ろに仰け反るようにした慈恩の喉元を、容赦ない勢いで飛馬の竹刀が襲った。
「うわ」
 慈恩の身体が突き崩されて、がくんと膝を折った。ばっと上がったのは、飛馬の赤旗。
「・・・・・・いってぇ・・・・・・」
 翔一郎が顔をしかめた。
「突あり、一本!」
 残り時間は、わずか十数秒程度。それを目の端で捉えながら、慈恩はげほげほと咳き込んだ。
(反らしてなかったら、骨砕かれてるんじゃないか、今の)
 竹刀を持たない左手で防具の上から喉をさする。竹刀が全く間に合わなかった。三分五十二秒の真剣勝負で噴き出した汗の中に、冷たいものが混じる。
(構え様に行くと見せかけてかわさせたところを狙う。それがラストチャンスだ)
 立ち上がって呼吸を整える。自分の技術に、それなりの自信はある。しかし、この相手にはそれがことごとく打ち返された。最後の十秒足らずという短い時間に、己の力量が試される。不思議と、緊張感に包まれた心が高揚した。
「二本目!」
 互いに中段の構えになるや否や、慈恩が鋭く踏み込む。読んでいたように、飛馬は軽く右足を引いて竹刀の切っ先で慈恩の小手狙いの竹刀を流す。そしてやおら竹刀を振り上げて、今度は飛馬が踏み込んだ。小手抜き面だ。慈恩は軽く左足を引いてその竹刀に空を切らせる。そして流されたふりをしていた慈恩の竹刀がそのまま飛馬の胴を狙った。
「うまい!」
 楠が思わず口にする。しかし、その半瞬後、信じられない速さで空を切ったはずの飛馬の竹刀の切っ先が下がり、慈恩の胴を止めた。踏み込みの勢いがなかった慈恩の竹刀は軽々逸らされ、更にぐっと握り直された飛馬の竹刀は、その流れで慈恩の胴を狙う。慈恩も意地でそれを食い止めた。何度目かのつばぜり合いである。そして、この試合中でつばぜり合いを制していたのは飛馬だった。どうしても慈恩がパワー負けして、先に引き技を出されてしまうためである。
(だったら、これでどうだ!)
 がっちり組み合ったつばを、軽く自分の方に引き寄せる。
「!」

 今まで力ずくで押さえ込んできた飛馬が、その勢いで微かに慈恩の方に重心をかしげる。その一瞬のバランスの乱れを利用して、競り合っていた飛馬の竹刀を己の右下に、強引に払い落とす。そして返す竹刀が飛馬の左胴を襲った。
 
ビィイイイイッ!

「やめっ!」
 
ぱしぃんっ!と、小気味よいほどの打撃音が響いたのは、試合終了の合図の直前か直後か、といったところだった。同時に行われていた試合の中で、最も時間をかけたこの準決勝の勝負の行方に、会場中が息を飲んだ。副審が一人、白旗を上げた。しかし、もう一人の副審と主審の旗は上がらなかった。
「勝負あり。1-0で出雲第一高校、飛馬選手」
 審判の旗が飛馬に上がり、会場中がどよめいた。慈恩は丁寧に礼を済ませてから、高い天井を仰いだ。
(間に合わなかったか・・・・・・)
 如月高校の生徒たちはみな言葉を呑んだ。大いに湧き上がる出雲第一高校とはまさに対照的に、完全に沈黙に支配されていた。
(・・・・・・あと、一息だったのに・・・・・・)
 悔しさに唇を噛みしめると、ただでさえも血の気の薄かった斗音のそれは、白くさえ見える。ずっと力を入れっぱなしだった細くて長い指は、こわばってかすかに震えていた。
「すげえな、慈恩は。全国大会の優勝候補とここまでの戦いができるんだから」
 感嘆の溜息をこぼしたのは嵐だった。初めから負け試合となる可能性は高かったけれど、それでも最後の最後まで諦めずに、抵抗して見せた。それだけの力が慈恩にはあるのだ。
「むしろ、そんな椎名に勝っちまうあの飛馬の方が大したもんだ」
 楠が肩をすくめると、うめくように橋本が言葉を漏らす。
「隼はこんなのと五分五分の勝負ができるのか。やっぱ化け物だな」
 ずっと力を入れっぱなしだったのだろう。ふう、と小さな溜息をついたのは、篠田だった。
「彼にはスキルがある。飛馬くんより技術と経験が勝っているから、パワーの差が相殺されるんだろう」
「道場の息子は、それだけ厳しい練習を積んでるってことか」
 嵐がつぶやいた。斗音がうなずく。道場の息子だから強いのではない。道場の跡取りとして稽古を余儀なくされ、強制され、でもそれから逃げなかったから強いのだ。そうしてつけた実力を非難する出雲第一の面々は、己のプライドが先に来てしまって、その事実を見落としているわけだ。いや、年下の彼に己のプライドを傷つけられ、不愉快な思いをするのが許せないのだろう。だから敢えて見ようとしていないのかもしれない。
(如月にだって、そういう奴らはたくさんいた。出雲第一も同じなんだ)
 人というものの悲しさなのだろうか。狭量な人物であればあるほど、そんな思いは強いに違いない。その証拠に、今井や近藤ら如月というある意味エリート高校でリーダーをはれるような人物は、年下であろうがなかろうが、力量のある人間を認めることができる。しかし、瓜生らのような素行の悪い連中・・・・・・特にそのとりまき連中は、それができない。
 自分はどっちだろう、と、思わず斗音は考える。たかがテストの順位ごときで発作を起こすほど、プライドが高い。慈恩の本当の力を認めることができていない証拠かもしれない。慈恩にできて自分にはあまりできないことはとても多い。でもそれだけは自分の方が、とうぬぼれていた。逆に、自分に勝てないことが多い分、その一点に懸けていたのかもしれない。そうだとすれば、なんて狭量なのだろう。なんて小さな人間だろう。
「お疲れ、慈恩。ラストの一本、惜しかったなぁ」
 面を外しながら近づいてきた慈恩に、真っ先に声を掛けたのは、翔一郎だった。続いて瞬が天使のような笑顔で迎える。
「すごいよ、あと一秒あったら、延長戦に突入してたよ!ちょ――かっこよかったぁ!」
 ぐっしょり濡れた手ぬぐいを取って、ぺたりと寝てしまった髪に手ぐしを入れながら、慈恩は苦笑した。
「強かった」
「その優勝候補が、きっと冷や汗かいてるぞ」
 ふっと笑って、近藤が慈恩の肩を勢いよくたたく。
「たっ」
「よくやったな。如月高校初のベスト4進出だ。最後に準決勝で自分の部の仲間が戦うのを目の当たりにできて、俺はほんとついてる。お前のおかげだ」
 近藤に続いて、剣道部の面々がわらわらと慈恩に駆け寄り、目一杯慈恩をはたいた。
「ほんとだ、よくやったよ!お前は強い!」
「お前は如月剣道部の誇りだぞ!」
「あたたっ、痛いですって!」
 たまらず慈恩が声を上げるのに、斗音はこわばっていた表情を和らげ、くすくす笑って、タオルを差し出した。
「お疲れ」
 目の前に差し出されたタオルに気づいて、慈恩が斗音と視線を合わせる。
「・・・・・・ああ」
 柔軟剤のフローラルな香りのする柔らかいそれを受け取って、その笑顔に安堵する。
「サンキュ」
 その言葉に、斗音もふわりと花のように微笑んだ。負けてもこんな顔を見せてくれるのか、と、改めて思う。
「ごめんな。勝てなくて」
 斗音はわずかにかぶりを振った。
「今の試合を見て・・・勇気付けられないわけ、ない」
「・・・・・・そうか」
 自分がこれまで剣道を頑張ってきた、その根本的な理由。
『俺、絶対頑張って勝って、あいつを元気付けてやるんだ』
 まだ幼かった自分の決意。忘れたことなどない。過去も今も、そして・・・・・・きっと、離れてしまったとしても、変わりはしない。
「よかった」

 慈恩の表情に、安堵の微笑と翳りが、同時に浮かんだ。

 あくまで決勝は最後に行うというのが、暗黙の了解であったらしく、慈恩はしばらくの休憩を挟んで三位決定戦で香川県光徳学園の大将である加納水樹と戦うことになった。同時に五位から八位までを決める決定戦も行われた。
 飛馬と堂々と四分間戦い抜いた慈恩は、精神的に高揚した状態でその試合を迎えることになり、片や加納は一学年下の、副将だったはずの少年にあっさり負けたという精神的なマイナスを抱えて試合に臨んだ。その差は埋めようもなく、第五シードが第二シードを打ち負かすという結果は必然のまま実現された。そしてその2-0という結果は、またしても如月高校の応援団が大興奮の渦を作るという結果を招くことになった。彼らの誇りである慈恩が、如月高校剣道部史上初の全国大会3位という事実を圧倒的な強さで打ち立てたということが、否が応にも彼らの心を沸き立たせたのだ。
 そして迎えた決勝戦。広い会場の真ん中の試合場で、会場中の視線を集めて、白の隼と赤の飛馬が向かい合う。
「今年も決勝は出雲第一同士か。ま、去年は三位まで出雲第一が独占してたから、それを思えば今年は結構波乱があったよな」
「なんたって、今まで大して出てこなかった如月の、しかも二年が三位だもんな」
「さて、お前、どっち応援する?」
 会場のあちこちでそんな会話が飛び交っていた。如月の応援陣も例外ではない。
「慈恩が負けてるからなあ。飛馬がやっぱ強いってとこ見せてもらいたい気もするなあ」
「いや、でも隼面白い奴だし、なんか応援してやりたいな」
「そうだよな。どうせ出雲第一は全員で飛馬の応援するんだからなあ」
「ちょっとあそこ、露骨過ぎるよな」
 出来過ぎ集団プラス慈恩は、言われるまでもない。
「隼っ、頑張れよっ!」
「慈恩の敵とってやれっ!」
 ある意味こっちも、十分露骨である。身近にいたし同じ二年生だし、彼には同情の余地も十二分にあった。親しい隼を応援するのは、ごくごく当たり前の選択といえるだろう。
「始め!」
 審判の声も気合のノリが違った。合図と同時に二人が構える。全く同じ、下段の構え。
(あの飛馬さんに下段・・・・・・?)
 互いに戦い方も何もかも、知り尽くした相手だ。そして、どちらも隼の家が営む道場で、隼の父を師に持つ。
「隼、お前、わかっちょーだらな。飛馬はこれが最後じょ」
「お前は来年があるだら」
 出雲第一からひそひそと、それでも聞こえるように発せられる声は、そっち一辺倒である。
「何だあれ。八百長で負けろって言ってんのか?」
 嵐が思わず形のよい眉をしかめた。
「あの言いっぷりじゃあ、まるで飛馬が実力では勝てないような印象を周りに与えかねないよね」
 瞬も花弁のように可愛らしいはずの唇を、感情に任せて突き出している。
「飛馬にしても、むしろ迷惑じゃねえのかな」
「去年の二位が飛馬だったんだろ?その時も、やっぱり三年生から飛馬にあんな野次飛んでたわけ?」
「ううん、今年ほど気にしてなかったけど、こんな言葉掛けられてなかったと思うよ」
 翔一郎の疑問に、昨年のインターハイを見に行っていた斗音が答える。
「でも・・・・・・そういえば、隼と去年優勝した出雲第一の三年生との準決勝はなんかあんまりいい雰囲気じゃなかった」
 これほどひどくはなかった気がするけど、と、さらりとアッシュの髪を揺らして首をかしげた。
「要はターゲットが隼ってことか」
「道場の跡取りだから、上手くて当たり前、練習も人の倍できるってわけか」
「自分たちがずっと通ってた道場だから、余計小さい頃からそういうの、根に持ってたのかもしんないね」
 瞬が小さく溜息をついた。
「可哀想だな。あんなに明るくて天然で面白くて、人好きのする奴なのに、きっと部活では居心地悪いんだろうね」
 斗音は、心臓がズキ、と痛んだ気がした。自分一人がつらいような顔をして、散々隼に大切な時間を割かせた。この大切な試合の前に。それでも隼は自分を力づけてくれたのだ。
(勝って欲しい。俺なんかのためじゃなくて、自分自身のために。出雲第一の野次になんか、負けないで欲しい)
 試合会場の中は、次第にしんと静まり返っていった。出雲第一の面々は全て飛馬の勝利に期待をかけ、その他の観客は、それぞれこのレベルの高い試合を、固唾を呑んで見守っていた。
 試合そのものは、なかなか動きを見せなかった。どちらも相手の出方をうかがっている。よく分かっているからこそ、相手が動いたのを見てその技に先んじようとしているのだろう。それだけで一分強が過ぎてしまった。
 先に動いたのは隼だった。ゆらり、と竹刀が揺れ、同時にその身体もしなやかに揺れる。どこに何が来るのか分からない動きだ。飛馬がやや竹刀を上げる。それを見透かしたかのように、ダン、と隼が踏み込んだ。飛馬の竹刀が来るべき隼の竹刀が描くはずの軌道に合わせて、それを止めようと動く。隼の竹刀はさほど早くもない動きで、彷徨うように飛馬の構えた竹刀の下で揺らいだ。それがするりと飛馬の左小手に吸い寄せられる。待ってましたとばかりに飛馬はそれを開き足で、右足から斜め右後方に退きながら、左拳を外側にひねるようにして竹刀の先を下げて、その左側で応じる形を取った。
(返し小手が来るぞ)
 慈恩の鋭くなった目が厳しくその動きを見極める。その視線の先で、隼が、もう一歩強気で踏み込んだ。そして次の瞬間、飛馬の竹刀が斜め左に跳ね上げられ、跳ね上げたその竹刀が、場内がどよめくよりも早く、飛馬の左小手を厳しい音で弾いた。
(払い・・・・・・小手)
 おぉっ、と会場全体の空気がどよめく。
「は、はやっ!」
「なんか、隼がゆらゆらっとしたような気がしたけど、そのあとダンッ、ダンッって踏み込んだと思ったら、一本決まってんだもん。よく分かんなかった」
「あの飛馬から、あっさり一本取りやがった。ほんとに五分五分なのか?」
 その隼の踏み込みの一瞬の攻防で、どれだけ高度な技が繰り出されていたかということを、はっきり見切れた人物は少なかったに違いない。慈恩は背筋がぞくりとするのを感じた。
(隼は最初からこれを狙っていた。いつもはあのタイミングで本当に小手に行ってるんだ。飛馬さんの防御に迷いがなかった。それを利用して、返し小手が来るように仕向けておいてから、それに応じる払い小手。いざという時のための対飛馬さん用の技を、ずっと前から仕組んでいたんだ)
 この一瞬をつくための技を、同じ学校だからこそ培ってこられた布石で見事成功させた隼は、そこからひたすら防御の体制に入った。その防御も全く隙がない。飛馬は非常に積極的に、前へ前へと出てくる。焦ることもなく、様々な技を繰り出し、どんどん踏み込んでいく。時折返し技を出そうとする隼だが、それも上手に止められている。やはり飛馬とは普段、五分五分の戦いをしているように見える。たちまち残り三十秒となった。
「おい、やばいんじゃねえの?飛馬、一本返せねえよ」
 飛馬応援側の者たちが、徐々にざわつき始める。中でも一番焦りを見せているのは、飛馬本人ではなく、出雲第一高校応援席だった。密やかに、独り言に近い感覚で、彼らは彼らの仲間に向かって声を掛けていた。
「飛馬、頑張れ!」
「勝つのはお前じょ!お前しかおらんだら!」
「隼、先輩に華持たせやれ!」
 それに応えるわけでもなく、飛馬は変わらず積極的に自分のペースで攻める。隼はそれを止めずに、全て流したりかわしたりして、一歩飛馬が隙を見せればいつでも返し技に入れるようにし始めた。飛馬とて、隼相手にそう簡単に連続技を持っていけない。しかしながら、二段三段の技を持ってしないと、この完全な隼の防御体制を破ることはできそうになかった。本人もそれは重々承知だったのだろう。覚悟を決めたように、上段に構えた。
「いけ、飛馬!延長戦に持ち込め!」
「あと十秒ちょっと!」
 飛馬が踏み込んで、勢いよく面を狙う。隼は当然のようにわずかに右へ身体をかわし、次いで両腕を伸ばして竹刀を上げ、面応じ面の体制に入る。しかしその前に飛馬が空を切らされた竹刀で、空いた胴を狙う。隼も素早く竹刀の先を下げ、その竹刀を流し、直ちに面を狙いに行く。ところがその面は繰り出す前にがっちりと竹刀で受けられ、つばぜり合いとなった。こうなると、パワーのある飛馬が強い。無理やり踏み込んで、隼の身体を押し戻す。隼の足が一瞬もつれそうになり、半歩退いた。そこへ力強く飛馬がもう一度打ち込んだ。わざと竹刀を狙って打ち込まれた衝撃に、隼の手の動きが鈍る。次の瞬間、飛馬の竹刀は隼の喉元を急襲していた。
「いけ!」
 隼の身体がゆら、と揺れた。その首をかすめて、飛馬の竹刀が隼の後方に突き抜けた。そこにタイムアップの合図が上がり、審判が両手の旗を同時に上げ、声を張り上げた。
「やめ!」

 試合場の隅まで追いやられていた隼と、竹刀を突き出したままの飛馬は、しばらく互いを見合っていたが、飛馬が竹刀を引いたのをきっかけに、それぞれの開始線に戻った。
 主審の旗が、高く掲げられた。
「勝負あり!1-0で出雲第一高校、隼選手」
 場内が揺れんばかりにどよめいた。
「うおおおおっ、二年がとった!」
「やった、隼優勝だ!」
「すっげえ!勝っちまいやがった!」
 如月陣もかなり盛り上がった。そんな中で、慈恩は大きく息を吸ってから、吐息した。
(最後の攻め、飛馬さんは焦った。先の試合で、俺に突を決めてたから、突に行ってしまった。隼の腕はあの力任せの打撃で、かなりダメージがあったはずだ。狙うのなら、小手にすべきだった。小手だったらあるいは、決まっていたかもしれない)
 斗音も、騒ぐのではなく息を飲んでいた。
(ほんとに・・・・・・優勝しちゃった・・・・・・)
 心臓がバクバク言っている。礼を済ませた隼は、一度出雲第一の監督のところへ行って、何やら頭を下げていたが、丁寧に小手を外し、面を外すと、如月の応援陣を振り返った。そして、一瞬視線を彷徨わせてから、斗音と目が合うとぱぁっと明るい笑みを浮かべる。斗音は思わず、派手に脈動する心臓の辺りを、手で押さえつけた。

 出雲第一陣にはかなり重苦しい雰囲気が漂っていた。誰も口を開こうとする者がいない。開けば間違いなく隼に対する非難にしかならないだろう。そして、それは言っても虚しいばかりだということは、みんなが感じているに違いない。
 
そんな中で、同じように小手と面を外した飛馬が隼につかつかと近づき、出雲第一の面子全員の目の前で自分に勝った後輩の頭をぐしゃぐしゃとかき乱した。
「よーやった。お前、かたから狙っちょったな。そぎゃん普段から狙っちょるとはさすがに読めなんだ。お前の作戦勝ちじょ」
 優しく、少し苦味を込めて笑っている。隼はクールに整った顔をくしゃりと歪めた。
「・・・・・・飛馬さん、かんにんですわ。俺、飛馬さんとこの頂上決戦で自分に後悔せえへん試合しよて決めてましてん。もちろん、絶対勝つつもりでずっとやってきたし・・・・・・それに、落ち込んではる人に、勝つて約束したんですわ。せやから、飛馬さん最後やったけど、俺、手も抜けへんよって・・・・・・」
 そんな隼の頭を、飛馬は軽くはたいた。
「何寝ぼけたこと言っちょー。手やなんか抜いてみ。俺が許さん」
「飛馬さんならきっと、そうゆうてくれはると思いました」

 にっこり笑った隼だが、この重苦しい空気の中では、心からの笑顔というわけにはいかなかった。

 宿泊先に戻ると、如月高校の面々の興奮もまだ冷めやらぬうちに、翌日試合を控えているバスケ部のメンバーは出発の予定を立て始めた。名古屋で夕方から夜にかけて練習できるように、体育館を五時から八時まで押さえてあるのだ。移動は電車で約一時間なので、五時くらいに乗れたら、十分に練習時間がある。
「試合、早めに終わってよかったね」
「まあ、ほぼ予定通りだったな。今四時十分だから、剣道部員の部屋においといてもらった荷物持ってタクシーに乗れば四時半くらいの電車には乗れるかな」
「六時には練習してるはずの徳本さんたちと合流できるな」
「じゃあ、四時半にロビー集合で」
「りょーかい」
 出来過ぎ集団プラス三名のバスケ部員がうなずいて、朝にはチェックアウトしているため、自分の荷物を預けた剣道部員の部屋へ散っていった。
 当然出来過ぎ集団四人の荷物は、慈恩と斗音が使っていた部屋に置いてある。鍵を受け取りに行った慈恩に嵐、翔一郎、瞬の順に続く。最後に斗音が続こうとして、廊下の窓からふと昨夜入り込んだ中庭に目を向けた。
(・・・・・・あれ?・・・・・・人がいる・・・・・・しかも、何人も?)
 
その情景に、何となく疑問を感じて足を止める。
「斗音?どうしたの?」
 振り返った瞬に、やや躊躇ってから小さく微笑んだ。
「ん・・・・・・何でもないけど、先に行ってて。すぐ行くよ」
「?うん、分かった」
 とととっ、と軽やかな足取りで翔一郎たちに追いつく瞬を見送ってから、斗音は昨夜外に出たところへ向かった。

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二十一.許し

 気になったのは、ある程度年を経た人や、時間に余裕のある人しか興味を引かないようなその中庭に見た数人の人影が、見覚えのある制服の高校生だったからだった。
(薄いブルーのシャツに、紺地に白と赤のラインのタイ・・・・・・出雲第一だ)
 昨夜と同じルートで中庭に出てみる。昼見ると、思いのほかこざっぱりしている。夜はもっとジャングルのように見えるのだが。その石畳になっている小道を、なるべく足音を立てないように進んでいく。少し進むと、斗音の耳は彼らの声を捉え始めた。
「てめえ、あげんゆーたに、わからんかったかいな」
「お前みてーなあほんだら、見たこともね」
「ほんね、飛馬が何こそゆーても俺らは許さんけんな」
(・・・・・・解りづらいけど、これってなんか、隼に悪口言ってる出雲第一の奴らに違いなくない?)
 斗音は綺麗なラインを描く眉をしかめた。その現場を見てどうしようという気もなかったのだが、そのまま放っておく気にもなれなくて、とにかくどんどん足を進めた。すると、どさっ、という鈍い音がして、聞き覚えのある京都訛りが聞こえた。
「かんにんしてください。俺、どうしても負けられへん理由があったんですわ。それに、飛馬さんもあの性格やさかい、俺が手なんか抜いたら、逆にどやされますわ」
「ほーでも先輩に華持たせるち、あたーまいじょ。てめえはおいちらえ、ね過ぎじょ」
(勝負に華も何もないだろ。何理不尽なこと言ってんだ、この人たち)
 とにかく一言言ってやりたい気分で斗音が大きなヤシの立ち並んでいる向こう側に足を踏み入れた瞬間、その目の前で身体の大きな一人が放った平手によって、隼の頬が音高く打ち鳴らされた。どうやらその前にも何かされていたらしく、ヤシの木にもたれかかるようにして立っていた。隼は殴られたまま抵抗も言い訳もせずに目を伏せていたが、別の一人がポケットに手を突っ込んだまま、そのみぞおちに思い切り蹴りを入れたので、たまらず崩れ落ちた。
「っ・・・・・・」
「思い知れ、このげだめが」
「取り返しつかんしぇたもんしてまわかいたこと、しっかと後悔せやれ」
 ヤシの下にうずくまる隼を、先ほどひっぱたいた図体のでかい男子生徒が更に蹴り上げる。隼はつらそうにうめき声を上げた。
「くっぅ・・・・・・っ、かん、にん・・・し・・・とう・・・せ・・・っ」
「どんだら。何言っちょら、今更」
 また別の一人がその横腹に蹴りを入れた。たまらずに斗音はとび出した。
「あんたら何してんだよ!」
 かばうように隼の前に立ちふさがる。屈強そうな二人を含む六人を、まなじりを上げた綺麗な薄茶の瞳できりりと睨みつけた。
「な・・・・・・んで・・・・・・斗音、お前・・・・・・・・・?」
 うめくように、途切れ途切れに言葉を紡ぐ隼に、斗音は前を睨みつけたままで答えた。
「ごめん、なんか気になったんだ。出雲第一の制服の集団が見えて」
「何だや、こいちゃ」
「おめえに関係ね。首突っ込むなや」
 坊主に近い短髪の少年と、もはやスキンヘッドといった方が早い坊主頭の立派な体格の少年が不愉快そうに睨み返してくる。でも、斗音は全くひるまない。
「関係あるもないも、こんな暴力沙汰、放っておけるわけないだろ!隼は無抵抗なのに!」
「何言っちょら。大体おめえ二年だら?俺らは三年じょ。礼儀わきまえやれ」
「先輩には勝っちゃいけなくて、それを破ったら殴る蹴るの暴行を加えるのが、礼儀をわきまえた人間のやることなのか?自分たちにできてもいないことを人に求めるな!」
 自分でも驚くほど腹が立っていた。絶対に許せない、という怒りが身体中に満ちている。その厳しい言葉に、出雲第一の三年生たちが逆にひるんだ。
「な、何・・・・・・?こいつ、何者じょ?」
「隼のダチかい。かわいい顔しちょーくせにえらまし気がつええな」
「そんなの関係ない。けど、誰から見たって、あんたら絶対間違ってる!」
 斗音に断定されて、すぐに気を取り直したらしいスキンヘッドが切り返してきた。
「てんめぇ、でごせるなや!こいつは道場の跡取り息子で毎日練習できちょーやち、つえくてあたーまいじょ。そげなもん反則らが」
 しかし斗音は語勢を弱めない。
「何が反則なんだよ!道場を継ぐこと、生まれたときから決められて、物心つかないうちから練習させられて、それでも逃げ出さなかった隼を称えこそすれ、非難する道理がどこにあるんだ!強くて当たり前なんて、そんなのあるわけないだろ!その裏にどれだけの努力があると思ってるんだ!」
 慈恩だってそうだった。人一倍、休日も返上で稽古して、そして強くなった。別格でも当たり前でもない。強い意志で頑張り続けた。その結果が今現れているだけだ。そう思うと、斗音の感情はますます熱をはらんでいく。まるで沸騰していく湯のように、煮えたぎっていく自分自身の怒りに、全身を支配されてしまいそうだ。
「試合のときから一言言ってやりたいと思ってたんだ。嫉妬ばっかりで自分でできないから飛馬って人に自分たちの望みまで上乗せして、みっともない野次飛ばして。情けないと思わないのか、先輩として、全国大会出場校の一員として!」
「あかん、と、斗音・・・・・・っ」
 蹴られたわき腹やみぞおちをかばうようにしながら、隼がよろよろと立ち上がる。
「や、めとき・・・っ、この人らに、そないな道理、通用せえへん。お、前まで、巻き込みたないんや・・・・・・っ」
「隼、何言っちょら、このどんだらが」
 すかさずスキンヘッドに負けず劣らずのガタイのいい少年が、隼の左の大腿部を蹴りつける。その痛みと衝撃にシャープな顔をしかめながら、それでも隼は頭を下げた。
「かんにん、してください。・・・・・・ええんや、斗音。俺が、先輩たちを、不愉快にさせてたんは、ほんまのことやさかい・・・・・・」
「そげそげ。わかっとーだの。そげんことだけん、お前もでごせるなや」
 げらげらと嘲るような笑いが起こった。斗音は怒りのあまり、身体が破裂しそうな気がした。
「蹴られて何がいいんだよ!そんなの絶対おかしいだろ!?お前が引き下がんなきゃいけない理由、どこにあるんだよ!」
 澄んだ瞳がぎらぎらと怒りを湛える。それは綺麗なだけに凄みがあって、またも三年生をひるませた。
「自分より年下の人間に追いつけないのを認めたくないから、あんたら難癖つけてるだけだ!そういうの器が小せえって言うんだよ!」
「やめ、斗音っ」
 慌てて止めに入ろうとした隼はスキンヘッドの太い腕に乱暴に突き飛ばされて、ヤシに背を打ちつけ、そのままバランスを崩して膝をつく。そして、ひるんで動けない四人を尻目に、もう一人の屈強な方が斗音の襟首をつかんだ。

「てめえ、やんべしとけや!」
 それでも全く眼の光は失われない。逆につかんだ方を睨み上げた。
「力で何でも押さえつけようとするのも最低だ」
「黙れこのげだめが!」
「やめとうせ、野津さんっ!」
 隼が声を上げたのと、野津と呼ばれた腕っ節の強い少年が、斗音を力任せにヤシの木にたたきつけたのは同時だった。背後から襲った打撲の衝撃と、襟首の部分で激しく押し付けられた衝撃は、斗音の呼吸を一瞬遮った。
「・・・・・・っ」
 片目を眇めて眉根を寄せた斗音は、野津がつかんだ手を力任せに振りほどいた。呼吸が詰まった瞬間に喉に不快感が突き上げてきたのを悟ったからだ。その思わぬ力に野津が驚いて目を見張ると、ぎらりとした光を最後に投げつけて、次の瞬間光を失った瞳は苦しげに伏せられ、斗音は苦しげに咳き込んだ。
(あ・・・・・・ヤバイ感じ・・・・・・)
 嫌な音を立てて咳き込み、気管がその遮蔽物によって極端に狭くなっているため、必死に呼吸しているのにヒューヒューと細い空気の音を漏らす。まるで首を絞められているような苦しさに、全身から冷たい汗が噴き出す。
(薬・・・・・・・・・・・・)
 ポケットを探ろうとして、ぐわんと視界がたわんだ。わけが分からないうちに身体が頼りなく宙に放り出された気がした。

「斗音!」
 
とっさに身体を支えようと伸ばした手が、なかなか地面につかなくて、さまようように宙を泳いだ。
「斗音、しっかりせえ・・・・・・斗音!」
 耳元で隼の声が聞こえて、ようやく自分が支えられていることに気づく。でも、もう声を出すどころではない。立て続けに、血でも吐くのではないかと思うような濁った咳をする。もう自分の力は思い通りにならなかった。
「な、なんだや、こいつ・・・・・・なんぞあぶねさなが」
 おどおどと、やや小柄な一人が一歩後退する。そして野津を見上げた。
「おい、野津。おめえがこぎゃんほせやち、乱暴ふらぐけん・・・・・・」
「う、うるさい!おーねこいつが・・・・・・」
「そ、そげそげ。そーね隼もえらざーこと言うけん、こぎゃんことに・・・・・・」
 とりあえず、ものすごくやばい雰囲気だということは、出雲第一の三年生たちも感じたようだったが、だからといって彼らにできることは責任を自分以外の誰かに押し付けようとすることくらいだった。
「斗音、斗音、しっかりせえや。俺、どないしたらええ?なあ、斗音っ!」
 今にも泣き出しそうなほど悲痛な声で、隼が必死に声を掛けるが、斗音の顔はどんどん血の気を失って、苦悶に歪められた綺麗な顔には、アッシュの髪が乱れて汗で張り付いた。
「慈・・・・・・恩を・・・ぅぐっ・・・・・・携・・・・・・た・・・・・・」
 必死に絞り出した、蚊の泣くような声は、激しい咳で途切れる。隼に苦し紛れでつかまる指が、激しく震える。何かに締め付けられるような圧迫感を引き剥がさんと、己の喉にもう片方の指を、爪ごと突き立てる。
「あかん、何しよんのや!お前、喉引き裂く気ぃか?!」
 掻きむしろうとした手を、手首をつかんで引き離しながら、隼は華奢な身体を支えている手で斗音のボケッとを探り、地面に転がり出た携帯電話を拾い上げた。自分とは違う機種に戸惑いながらも、記号やマークで何とかメモリダイヤルを探し当て、『慈恩』で登録された携帯電話の番号にかける。ワンコールでつながった。
『斗音か?どうした?』
 低めの聞きよい声が返ってくる。隼は思わず叫んでいた。
「斗音が発作起こしよってん!めっちゃしんどそうやけど、俺どないしたらええかわからへん!椎名、はよ来てぇな!」
 慈恩の声が途端に鋭くなった。
『隼、今どこにいるんだ!』
「ホテルの中庭や。ロビーから宴会会場に向こうてる廊下から出られるよって・・・・・・ほんで俺、どないしたらええ?なんかできること、あらへん?」
『斗音のどこかのポケットに、ハンド・ネブライザーがあるはずだ。携帯用の吸入器。探してみてくれ!』
「携帯用・・・・・・?どれや・・・・・・?」
 探ってみると、携帯が転がり出た逆のポケットに、なにやらそれらしきものが入っているのに気づく。
「あ、あった!何や袋に入ってるけど、これ、どないして使うん?」
『その袋に使用方法書いてあるだろ!』
「あるけど・・・・・・ちょお待ちや。ああっ、斗音っ!そんな石畳引っ掻いたらあかん!指、潰れてしまうよって・・・・・・明日試合なんやろ!?」
 携帯を首に挟んで、片腕で斗音を支えながら片手にハンドなんとやらを持ったまま斗音の手をつかみあげて、もういっぱいいっぱいである。携帯から聞こえる声が緊張感を増す。
『おい、斗音は大丈夫なのか?!』
「大丈夫やないから焦ってるんやんか!ちょお、野津さん、あんさんも責任感じるんやったら手ぇ貸しなはれ!この薬の使い方、見てぇな!」
 言われたスキンヘッドは言い返そうとしたが、初めて自分に頼みごとをしてくる後輩の勢いに呑まれ、言われるままに薬を手にとって、使用方法に目をやる。袋からそれを取り出してみて色々といじってみるが、初めて見るもので、どうしたらいいか皆目見当がつかない。
「な、なんぞむつかして分からん・・・・・・」
「こうしゃえーでねかや?」
「違うんでねえかいや?これをこう・・・・・・」
「んでも、薬出てねがや」
 みんなしてああでもないこうでもないと、焦るばかりで何もできないでいる。隼は苛々しながら敬うべき先輩たちを睨んだ。
「はよしとおせ!斗音、息できてへんのや!」
 その態度に六人全員が眉をしかめて隼を睨み返そうとしたが、その腕の中で完全に血の気を失いながらももだえ苦しむ華奢な少年が目に入り、一斉に青ざめた。
「ちと待ちやれ。今やるけん・・・・・・」
 夏とはいえ、さして暑くもない夕方、その場にいる者で汗を流さない者はいなかった。短い時間なのであろうが、ものすごくじれったく、長く感じる。
 そのとき、建物の方から慌しい足音が数人分、ものすごい勢いで近づいてきた。隼は涙ぐむような思いで顔を上げた。
「椎名ぁーっ!こっちやっ!」
 その声が届くや否やという短時間で、如月高校の制服姿の少年たちが駆け寄って来た。
「薬は!?」
「あかへん、斗音が無茶しよるさかい、俺何にもしてやれへんかってん。薬、その人が持ってはる!」
 視線で差されて、野津はびくっと身体をこわばらせた。

「すまん、これ・・・・・・」
 おずおずと差し出されたそれを、まるでひったくるようにして、慈恩はこともなげにそのロックを外し、斗音の色を失った唇に押し当てる。
「そのまま押さえててくれ」
「まかしとき。なあ、斗音、ええかいな?」
「いつ発作起こした?」
「ついさっきやけど・・・・・・」
「何分くらい前?」
「たぶん時間にしたら五分経ってへんくらいやと思うけど・・・・・・俺ら動転しててん、もっと短いかもしれへんし長いかもしれへん」
「だったら・・・・・・すぐ治まると、思う」
 隼を含めた出雲第一の面々が、張り詰めていた緊張感を緩める。しかし、一緒に駆けつけた嵐の鋭い瞳に射すくめられ、その場にいた三年生は凍りついたように固まってしまった。
「なあ、この状況について、説明してもらえるか」
 言葉はそれほどきつくないが、まるで教師が悪いことをした生徒に言葉を掛けるような語調である。しかもそれが似合いすぎである。
「説明・・・・・・も何も・・・・・・ちとえきじよう突き飛ばしただけじょ」
「そげそげ。ほーで木にぶつかったらいきなり咳がつき始めたでの」
 しどろもどろの弁解を始める出雲第一の集団に、瞬と翔一郎は首をかしげた。
「えきじようって、何だ?」
「液状・・・・・・?」
「いやそれ、意味通じないだろ」
 そんな二人を尻目に、嵐は大きいけれどすっと鋭い、グレーがかった瞳で年上の集団を射抜いた。
「勢いよく突き飛ばしたんじゃなくて、力任せに押し付けた、の間違いじゃねえの?発作が起こるってことは、気管に影響を与えるくらいの衝撃があったはずだぜ?」
 その洞察の的確さに、現場を見ていた全員が息を飲む。そして、翔一郎と瞬も息を飲んだ。
「わお、嵐、理解してるよ」
「会話成り立ってるもんな」
「かんにん・・・・・・俺が巻き込んでしもたんや」
 まだこわばる斗音の手首をつかんでいた隼が、大人びたシャープな顔を、つらそうに歪めた。斗音をのぞく全員がその表情に視線を向ける。つかんでいた手首をそっと地面に下ろし、隼はそれらの視線に応えるように顔を上げた。
「全部俺の責任や。その人らは・・・・・・俺に敵意向けててん。斗音は俺をかばってくれて、そんで巻き込まれてしもたんや。せやから、その人らもわざとやったんやあらへん。元はと言えば、俺が蒔いた種なんや」
「・・・・・・・・・・・・」
 出雲第一の集団は言葉を呑む。瞬は何か言いたそうにしたが、小さく吐息した。嵐は何度か瞬きして、大きく溜息をついた。
「・・・・・・何、お前って、マゾなわけ?」
「よせよ、嵐」
 翔一郎がどちらかと言うと引き締まって細身なその肩を引き寄せるように諫めたが、嵐は柳眉を寄せて隼を軽く睨みつける。
「お前、今までずっとそうやって下手に出て、自分で飲み込んで、不条理な仕打ちに耐えてきたのか?だからこいつら、こんなに付け上がってんじゃねえのか。こういう輩は、おかしいことおかしいって、自分じゃわかんねえんだぜ。言ってやらなきゃ結局お前に返ってくるだけじゃねえか」
「嵐、気持ちは分かるけど、隼が今まで堪えてくるだけの理由はあったはずだよ」
 翔一郎が耳元で囁くが、嵐は軽く目を眇めただけだった。
「けど耐えるやり方は間違ってる。のさばったこいつらもいつかその見返りの制裁を社会で味わうだろうし、隼は耐えるだけ損だろうが」
「俺も、そう思う」
 あちゃー、と、翔一郎は空いている手で顔を覆った。相槌を打ったのは慈恩だった。斗音を抱えて吸入器をあてがいながら、隼に感情を表さないままの漆黒の瞳を向ける。
「俺の先輩は、ずっと俺を認めて、それゆえの厳しさで俺をここまで引っ張り上げてくれた。俺は・・・・・・すごく感謝してる。尊敬もしてる。威厳ある先輩ってのは、そうあるべきだと思う。本当に強いチームなら、そういう関係や絆を作っていくべきだ。出雲第一は、隼一人に対してそういう感情を持ってるみたいだけど、そのひとつで歯車が狂ってくる。実際、ここにいる人たちは全国に出てこられなかった人たちばっかりだろう。そんな歯車が今後も残るようじゃ、隼・・・・・・来年、俺とは対決できないよ」
「・・・・・・・・・・・・!」
 敵意満々の嵐の言い方には、反感を持ちつつもその内容が図星ゆえ、反論できずにいるといった感じの出雲第一の三年生たちが、慈恩の言葉には、沈痛な面持ちで完全にうつむいてしまった。逆に、嵐の言葉には痛々しいほど傷ついた少年のような顔で聞いていた隼は、真剣に慈恩の言葉を聞いて、しばしの間を置いてから、大人びた顔に似合いの苦笑を浮かべた。
「それは嫌や。俺、椎名と対戦できへんのやったら、剣道続ける気力も失せてまう。せやから、気ぃつけるわ。自分の被害最小限に食い止めようとしてるだけではあかへんゆうことやな」
 だいぶ呼吸が楽になったのか、苦しげに寄せられていた眉間のしわがほとんどなくなった斗音の、汗で秀でた額に張り付いた前髪を優しく掻き分けながら、隼は、今度はにっこり微笑んだ。
「おおきに。・・・・・・東雲も椎名も・・・・・・斗音も、みんな俺に、俺が見失ってた大事なこと教えてくれて。ほんま、賢い学校の生徒さんは、言わはることがちごてる」

 最後の一言に、その場にいた全員が苦笑をもらさずにはいられなかった。

   ***

「兄貴はどうだ。落ち着いたのか」
 微風が心地よいベランダの手すりにもたれながら、尊敬する主将が夜空を仰いでいる。慈恩は訪れた部屋に彼しかいなかったことに、やや驚きながらも安堵した。
「はい、もう大丈夫です。・・・・・・今は部屋で眠ってます」
 こっちに来い、と手招きされて、そんなに広くないベランダに出る。
「星が綺麗だ。町外れだからだろうな。本当の田舎はもっともっと綺麗なんだが」
「・・・・・・田舎、ですか?」
「俺は四歳まで富山の小さい町にいた。その頃のことなんかほとんど覚えてないが、東京に引っ越してからその夜空の濁り方にひどく落胆したことだけはよく覚えている」
 小さく笑って、慈恩に目を向けた。
「飯のとき俺に話があるって言ってたろ。俺もお前に話があった。丁度いい。楠は橋本たちとゲーセンに行ってるから、遠慮なく話せ」
「・・・・・・遠慮はありませんけど・・・・・・近藤さんからお願いできませんか」
 真面目な表情を崩さないまま、慈恩は淡々と応えた。近藤は少し、肩をすくめた。
「・・・・・・そうか。俺の話なんて、ひとつしかねえだろ。お前、大体分かってんだろ?」
「・・・・・・部長の件ですか?」
「そうだ。まだ俺は一度もお前から、やるって言葉を聞いてない」
 慈恩は微かに視線を逸らした。答えはもう、決まっている。言いたくもなかったし、言う勇気もなかなか持てずにいた。だから、この全国大会に最善を尽くしてもらうためにも、言わずにいた。でもこれが最後だった。近藤は、こんな答え微塵も思い描いていないだろう。きっと傷つける。しばらく躊躇ってから、口を開いた。
「俺は近藤さんを尊敬しています。あなたが作り上げてきた部を、俺の力でまとめていけと言われたことは、心の底から、光栄に思っています」
 覚悟を決めて近藤に視線を戻すと、既に雄々しい眉を寄せた訝しげな表情が目に入った。心がちりっと痛みを訴えた。
「・・・・・・俺が如月高校に在籍できるのは、八月末日までです。どうしようもない事情があって・・・・・・俺は、ここを離れることになりました」
「な・・・」
 愕然とする近藤を見ていられなくて、手すりの向こうに目をやった。
「このことは、斗音と俺しか知りません。でもあなたにだけは・・・・・・言わなきゃいけないと思ってた」
 目を逸らした慈恩の両肩をガッとつかんで、近藤は強引に自分に視線を戻させた。
「いつ、そうなった。夏休みに・・・・・・入ってから、様子がおかしかったのはそのせいか」
「・・・・・・剣道は心身ともに鍛えるもの。あなたに心の乱れを見抜かれたのは、俺の修行不足です」
「話逸らしてんじゃねえ。そうなんだな?何で・・・・・・何で一人で勝手に悩んで・・・・・・俺には言えないことだったのか、それが」
 慈恩は彫りの深い近藤の顔をじっと見た。少しだけ、目を細める。
「身内の揉め事なんて、話したくもない・・・・・・それに、高校最後の大会、あなたに全力で臨んで欲しかった」
「・・・・・・・・・・・・っ」
 近藤は山ほどの言いたいことを、どうしたら言葉にできるのか一瞬迷うような顔になり、肩をつかんだ両手をいきなり慈恩の背後に回し、そのまま力一杯締め付けるようにして抱きしめた。
「こ、近藤さん?」
 驚いた慈恩の声にかぶせるように、近藤が耳元で、感情を必死に抑えて囁いた。
「俺がそんな軟弱者に見えるか!」
「・・・・・・でも、今取り乱してる」
「馬鹿野郎!取り乱してるのは・・・・・・お前が一番苦しんでたときに力になれなかったことが悔しいからだろうが!」
 ズキンと、心臓にくいが打ち込まれた気がした。
「全部決めちまった後で何言われたって、もう反論の余地はねえだろうが。・・・悩んでる時に相談して欲しかった。俺自身、お前と過ごせる時間はもうほとんどない。何かしてやれるうちに・・・・・・俺はお前を少しでも・・・・・・!」
 近藤の力強い腕が、慈恩を締め付ける。
「・・・・・・っ」
「結果が変わらなかったとしても!楽にしてやりたかった!」
「近、藤さ・・・」
「言っただろう、惚れてるって!」
 相変わらず乱暴なキスだなんて、ふと思いながら慈恩は近藤の想いを受け止めた。温かい温度を唇に感じる。熱くもなく、この優しい温度が近藤の優しい思いを代弁しているような気がした。
 強引に押し付けた唇をゆっくりと浮かせて、近藤は慈恩の漆黒の瞳を見下ろした。
「今日は謝らねえからな」
「・・・・・・でしょうね」
 哀を含んだ微笑みで慈恩が答える。眉根を寄せながらも、近藤はいつもに近い豪胆な笑みを閃かせた。
「今夜はゆっくり話をしよう。せめてお前がどうして行くことになっちまったのか・・・・・・言いたくなくても話してもらう。その義務が、お前にはある」
 哀笑のままで、慈恩は静かにうなずいた。

「近藤さんがそう望むのなら。・・・・・・あなたの期待を裏切ることがつらかった。許してもらうための、それ相応の代償は覚悟してます」

   ***

 本来なら名古屋に戻って練習するはずだった。しかし発作を起こした直後に一時間以上の移動はきついだろうということになり、急遽慈恩の部屋でもう一泊することになった。明日の朝早くに発って名古屋会場のメンバーたちと合流する予定である。
(ちぇっ・・・・・・暇だなあ・・・・・・ゆっくり休むしかないけど・・・・・・バスケして体調整えたかった。俺ってほんとに馬鹿。自分で自分がウザイ)
 そう思えば思うほど、ますます憂鬱になってくる。この二日間で、斗音の情緒不安定の症状はひどく進行していた。思いつめる時間が長かったのもあるだろうが、慈恩に学校を転校すると知らされて、自分で思っていたよりもずっと深く精神的にダメージを負っていたことが原因だった。もちろん、斗音自身に自覚は全くない。
(慈恩も今日はいろいろみんなと話したいことあるだろうし。・・・・・・慈恩の方が、きっとよっぽどつらいだろうな・・・・・・。友達も部活も全部一からやり直しなんだ。・・・・・・俺が感情的になってちゃ話にならない。慈恩にそうさせたのは俺なんだし。・・・・・・言わなきゃよかった。九条に行くべきだなんて)
 ベッドで横になって、眠っていた間はよかったのだけれど、気がついてみたら慈恩は部屋にいなかったし、じっとしていたら考えることは嫌なことばかりである。
(でも俺は俺で精一杯考えた結果だったのに。まさか慈恩が如月を出なきゃならなくなるなんて、思いもしなかった。けど、今では慈恩の決意の方が揺るぎないくらいだ。・・・・・・ほんとに慈恩に、会えなくなるんだ・・・・・・)
 大きな溜息をついて寝返りを打つ。
(・・・・・・やだな・・・・・・今までどれだけ慈恩に励まされてきたんだろう。あいつが剣道一生懸命やってるの見て、ほんと誇らしかったっけ。俺も頑張りたい、あんなふうに輝いていたいって思った。・・・・・・慈恩なしで俺、ほんとにやってけるのかな)
 枕に顔を半分うずめて、そのまま枕を抱きしめた。
(・・・・・・・・・・・・つらいよ・・・・・・)
 じわりと目頭が熱くなる。このまま枕に突っ伏して思い切り泣きたい気分だ。でも、そんなのは最近しょっちゅうあることで、そうして一人で泣いて、すごく虚しい思いに襲われることもよく知っている。こんなときこそ慈恩に支えてもらいたいと思うのに、今回はその慈恩の方がつらいと思うから、そんな情けない真似は絶対にできない。昨日は偶然隼が通りかかってくれたから、そういう思いは味わわずにすんだのだが、こうして寝ているのでは、誰と会うこともない。
(駄目だ!じっとしてると考えがネイティブになってくる。ちょっと歩いてこよう)
 がばっと起きて、身体にフィットしているTシャツと細身のジーンズに着替えると、そっと部屋を抜け出した。自動ロックなので、もちろんカードキーも忘れずに持って。
 特に目的があるわけでもない。気を紛らわすために、フロントのある一階に降りて、土産コーナーをうろうろしてみた。夕食は食べられなかったが、食欲は残念ながらまだ回復していないようだ。試食などもいくつかあるようだったが、全く興味が湧かない。金の鯱を模ったキーホルダーやキャラクター土産などをつついてみる。とはいえ、買っていくような相手もいないし、本当に見るだけである。地域限定の八丁味噌味のお菓子があったりして、面白いといえば面白い。八丁味噌なんて、子供は渋りそうだが、そのお菓子は人気商品の地域限定版で、どう考えても子供を対象にした土産である。他にめぼしい名物の味覚はなかったのだろうか。思わずくす、と笑うと、すぐ耳の後ろから茶目っ気たっぷりの声が囁きかけた。
「名古屋ゆうたら八丁味噌やで。土産にそれ、こうていったら、話題性間違いなしやさかい、ある意味めっちゃおいしい菓子やで」
 びっくぅっと肩を跳ね上げて斗音が振り返ると、間近に整った大人びた顔があって、にっと笑っている。
「びっくりしたぁ、隼っ、心臓に悪いから、気配消して近づくのやめろよ」
「別に消しとるつもりあらへんけど。普段の鍛錬で癖になってるだけや。それより斗音、もう身体はええんか?まんだ声が擦れてるみたいやけど」
「平気だよ。発作のあとはいつもこんなもん。それより、ごめん、今日はでしゃばった真似してさ。情けないよね。あれごときで発作起こしたりしてさ」
 笑って見せるけれど、端から見れば疲れたような笑みで、隼は眉を寄せた。
「何ゆうてん。巻き込んでしもて悪かった思てるのはこっちや。お前が発作起こしてばたばたしたけど、そのあと東雲と椎名に説教されて、やっとお前の言おうとしてたこと気づいたわ。ほんま悪かったな。かんにんしてな。あと、おおきにな」
「迷惑掛けたのは覚えてるけど、感謝なんてされる覚えないよ?」
 きょとんとする斗音に、隼は苦笑した。
「あのあとお前、気ぃ失ってしもたさかい。東雲と椎名に、自分が傷つかんように耐えてるだけではあかんてゆわれてん。自分、蹴られて何がええんやてゆうたやろ。ほんま、その通りやわ。それに何より」
 華奢な斗音を包み込むように腕を絡める。
「かばってくれたん、嬉しかったで。おおきに」
 背も高くてすらりとしている割に、かなり鍛え抜かれた身体は頼もしい。慈恩に似てるな、とふと思う。思った途端、いきなり視界がぼやけて、頬に雫が伝ったのが分かった。
(な、何・・・・・・?)
「なな、何で?斗音・・・・・・」
 昨日はもうずっと泣いているところだったからまだ分からなくもなかったが、今回は全く予想外のことで、隼は慌てる以外の反応が思いつかなかった。
「どうしたん?俺なんかあかんことゆうた?」
「そんなことないよ・・・・・・俺、どうしちゃったんだろ・・・・・・?」
 自分でもわけが分からない、といった表情の斗音に、尚慌てる。
「どっか苦しいんか?痛くしたりとか?」
「痛くなんて・・・・・・」
 ない、と言おうとして、重苦しくて仕方ない胸をさすって、シャツをつかむ。痛いのは、ここ。苦しいのは、ここだ。そう気づいたら、昨夜同様、とめどなく涙が溢れてきた。
「・・・・・・・・・・・・斗音・・・・・・」
 涙の幕に覆われた視界の中で、じっと自分を見つめる隼をとらえる。
「・・・・・・心が・・・・・・・・・・・・痛い・・・・・・・・・・・・」
 そんな斗音の華奢な身体を、隼は何も言わずにそっと抱き寄せた。そして、何瞬かおいてから、優しく声を掛けた。

「・・・・・・部屋行こか」

 隼の部屋は二人部屋だったが、こうして宿を取ってもらっているのは三年生の部員と出場メンバーだけなので、当然二年生は隼一人。相部屋になっていた三年生は、隼に出て行けとまでは言わなかったが、荷物すらこの部屋に持ってきてはいなかった。仲のよい別の部員の部屋に転がり込んでいるらしい。
「気楽でええやろ?安心してええよ。誰も来はらへんし」
 土産コーナーで唐突に涙が止まらなくなった斗音だが、まだ夜の八時台、人目もたくさんあって、隼としては気まずくてその場にじっとしているわけにはいかなかったというのが本音だった。
「茶でも飲むか?落ち着くで。お、ここ、気ぃ利いてるやん。金箔入り梅昆布茶やて。そういやさっき土産コーナーにあったわ」
 一人で一生懸命雰囲気を明るくしようと喋りまくる。ぽろぽろと涙をこぼしながら、斗音はこくりとうなずいた。
「飲む」
 ぱっと隼の顔が明るくなる。
「よっしゃ、任しとき。さいこーにうまい梅昆布茶作ったるさかいな。俺昆布茶とか好きでな、昔からよう飲んでてん。親父くさいやろ?けど、昆布の旨味成分がなんとも言えんええ味なんや。チャーハンとかにも使えるし、これひとつでおにぎりなんかプロ級やし、これでお茶漬けもなかなかええで?それにな・・・・・・」
 作る間も、決して沈黙が訪れてしまわないように、関西系の言葉でまくし立てた。
 隼が入れてくれた金箔入り梅昆布茶は、本人が言ったとおり、絶妙のお湯加減で、濃すぎず、薄すぎず、まさしく昆布の旨味がじわりと舌に広がるのが分かった。その中に梅の香りと酸味がまた最高の相性となっている。思わずぐっしょり濡れた長い睫毛を瞬かせ、目を瞠った。
「美味しい・・・・・・」
 隼は満足そうに笑みを浮かべた。
「せやろ?金箔的にはあってもなくても変われへんけど、梅が入ってるのとそうでないのはだいぶ味違うさかい、お湯の分量も微妙に変わるんや。それに」
 一度言葉を止めて、少し哀しげに目を細めた。
「お前あんな発作起こして、なんも食うてへんのやろ。せやから、余計美味く感じるはずや」
 斗音は微笑した。隼の言っていることは当たりだ。けれど、実際はここしばらく、ずっと斗音の食は進んでいなかった。だから、発作を起こそうが起こさなかろうが、斗音にとって何も食べないというのは、それほど特別なことでもなかった。
「お見通しだね」
「まあ、水分くらいは取っとかな、脱水症状起こしてまうで?よかったらもう一杯作ったろか?」
「まだ一口しか飲んでないって」
「気ぃ早かった?はは、おかわりしたかったら遠慮なくゆうてや。何なら土産屋でこうてきたる」
(いや、だから気が早いって)
 心の中でツッコミながら、斗音は思わずくすくす笑った。

「ありがと。とりあえずこの一杯、もらうから」

   ***

「そうか、似てねえとは思ってたけど、そんな裏があったとはな」
 事情を全て聞き終えて近藤が最初に言った一言は、比較的平凡だった。近藤としてはひどく驚いていたので、それを押し隠すのに精一杯で、言葉に構っている余裕なんてなかったのだ。思ってもいなかった返事を返されたときは、嫌な予感に胸騒ぎがしたものだが、まさかこんなことを聞かされるとは。
(部活が終わっちまうことすら寂しいもんだと思ってたのに、もう会うことすらねえかも知れねえのか)
 自分の座ったベッドに、隣に腰掛けてやや哀しげながらも表情を崩そうとしない後輩を見つめた。
「・・・・・・申し訳ありません」
「申し訳ねえって、お前はそれ全部自分の責任として抱え込むつもりか?あの兄貴の望みも、お前の本当の母親の望みも、九条の家の方針も、お前にはどうすることもできなかったことばっかりじゃねえか」
「それでも最終的にそれを選んだのは、俺の意志です」
「選ばざるを得なかったんだろう?」
 近藤は思わず溜息をついた。どこまでもストイックな奴だと思う。だからこそ惚れたのだが。凛々しい横顔をじっと見つめていると、優雅なまでの仕草で視線を流して、わずかに微笑んだ。
「俺の望みは、斗音がただ明るく元気に生きていてくれることです。そのために俺はいた。少なくとも俺はそう思っていたんです」
 黒い半そでのTシャツの上から、いつも肌身離さずつけているクロスをそっと握り締める。
「でも、斗音はそれを・・・・・・本気であれ嘘であれ、否定した。ショックでしたよ、実際。でも、如月を辞めろと言われて初めて、俺の中に、それ以外の望みもあったんだ、なんて思い知りました」
「お前の、望み?」
 微笑が崩れた。まさか、と思った。この大人びた後輩が感情を表情に表したのは、以前双子の兄(だと思っていた斗音)が、瓜生たちのグループに絡まれて発作を起こしたときくらいで、笑うことはあってもこんな苦しげな、つらそうな表情を見せたことはなかった。どんなに厳しい稽古を課しても、試合で負けたときすら、そんな顔をしたりはしなかったのに。
「ええ。・・・・・・如月を卒業したかった」
 苦しげな表情のまま、自嘲する。一瞬、この後輩は泣きたいんじゃないか、と思った。根拠などない。ただ、いつも見せている表情とは全く違う弱さを、自分に見せまいとしているのが分かる。隠そうとしているけれど、二年間、いつも見てきたのだ。それが手に取るように分かる。その上での、いわば第六感だ。
(また一人で抱えるのか、お前は)
 癒してやりたいと思った。いや、ずっとそう思ってきた。慈恩の様子がおかしいと感じ始めたのは、夏休みに入る直前頃だっただろうか。技は鋭い、集中力もある。それなのに迫力が足りなかった。いつもの怖いほどの真剣さが、なんだか薄ぼんやりとした霧に包まれているような、そんな感じだった。インターハイ予選で勝利はするけれども、表情が晴れない。時折、声を掛けても聞いていなかったり、それに気づいてはっとしたりするようなこともあった。
 何か悩みを抱えているのではないかということは、すぐに感じた。それで問い詰めたのだが、うまくかわされて結局聞き出すことができなかった。今これらの複雑な事情を聞いて、あの時点でどうして無理にでも聞き出して、相談に乗ってやることができなかったのかと、ひどく後悔の念が押し寄せてきた。残り少ない時間、少しでもこの後輩と、精神的な部分で近くにいたかった。悩んでいる慈恩を楽にさせてやるだけの力量のある先輩でありたかった。
 ずっと、抱えてきた想い。小学生のとき、初めて対決したことで、強烈に印象に残った少年。自分より身体の小さい相手に初めて負けた。技の精密さと鋭さにレベルの違いを思い知らされた。中学のときも、必ず地区大会で優勝をさらっていたし、全国大会常連の選手として有名だった。高校二年生になってその彼が入部してきたときは驚いた。地元の剣道をやっている人間の中では知らない者のいない椎名慈恩が、さして剣道の名門でもない如月に入ってくるとは思いもしなかったからだ。
 
これまで大概試合は注目して見てきたつもりだったが、その実力の片鱗しか見ていなかったと、彼と練習する中で、またも思い知らされた。基本のレベルがまず段違いだった。何をさせても、慈恩の右に出る者はいない。その圧倒的な強さに、わくわくして心が震えた。いつか追いついてやろうと猛練習をし、進んで人より多くの稽古をこなした。それが認められたらしく、部長を任されることになったが、その頃には何とか慈恩とまともに試合ができるくらいに己が力をつけていた。
 
何より己を高めるために、そして全国大会常連の椎名慈恩を抱え、如月高校初の団体での全国大会上位入賞を狙うために、全てを賭けた。己にそうであるように、部員にも甘えを許さず厳しく接した。その厳しさに耐えられず、辞めていく部員、来なくなる部員がちらほら出てくるようになり、自分のやり方が間違っているかもしれない、と真剣に悩むこともあった。けれど、そんなときでも平然と稽古をこなし、誰にでも公平に厳しく接していた自分に臆することもなく、慈恩は気品を失わない微笑でこう言ったのだ。
「剣道は心身の鍛錬でしょう?己に厳しくなければ強くはなれません。少なくとも俺には、これくらいの厳しさが必要だと思ってますよ」
 
自分が部長としての在り方に悩んでいることを見通しての一言だった。慈恩の本当の強さは、その心の在り方に起因しているのだと知り、自分の強さに驕ることないその姿勢と、他人への心遣いができるその人柄に、強く惹かれた。その時からだ。全ての迷いは吹っ切れた。この後輩を全国で勝ち抜ける選手に育て上げる部に、自分の力でしていこうと思った。惚れぬいた椎名慈恩のために、全力を尽くそうと誓った。
 
もちろん、そんな想いを告げるつもりなど毛頭なかった。しかし、感情と成り行きであの日、慈恩に思わずキスをして、挙句の果てに惚れていると明言してしまった。そうとなればもう開き直るしかない。慈恩が自分の想いを知っていることを前提に、言動を選んできた。自分の全てを賭けて、この後輩のために、自分ができることを精一杯やるつもりだった。
 
それなのに、慈恩のつらいとき、苦しいときに自分が何もできずにいたことが悔しかった。結局自分は何もしてやれないままなのだろうか。もう、この先はないのだ。今しか、もう。
「今更なのは承知で聞く。・・・・・・俺に、何かできることはないのか?俺は・・・・・・お前のためにできることなら、何を言われても喜んでやってやる」
 後輩の漆黒の瞳を捉え、まるで縋ってさえいるような自分が情けないと思いながらも、自分にできることなんて思いつかない自分を恨んだ。
「何でもいいから言え」
 慈恩は微かな驚きをその澄んだ瞳に湛えた。そしてわずか目を細め、微笑んだ。
「だったら・・・・・・許してください。俺を」
 あくまでも静かな声。微かに凛々しい眉根が寄せられている。近藤はその三倍ほどはっきりと眉を寄せた。
「許す、だと?何を?」
「あなたがここまで俺に掛けてくれた期待を裏切ってしまうことを、です」
 がつん、と心臓を殴られたような気がした。そこまで自分の気持ちを尊重してくれていたということに、そして、その大事な人間を失ってしまうということに対する、つらさという激しい衝撃だった。
「・・・・・・そんなこと、気にしてる場合じゃねえだろうが」
 思わず吐き捨てるように言ったら、漆黒の瞳がかすかに揺れた。
「俺にとっては、つらいことです、とても」
 近藤は込み上げる思いを食いしばって、そのまま慈恩を硬く抱きしめた。何かひとつでも気が緩んだら、逆に自分が泣き出してしまいそうだった。だから、そうして、何も言わない後輩をきつくきつく腕の中に閉じ込めてから、その耳元で、ようやく声を絞り出した。
「・・・・・・・・・馬鹿野郎」
 近藤には見えなかったが、その言葉を聞いた慈恩は、近藤の逞しい腕の中でかすかに表情を緩めた。その罵声とも取れる精一杯の一言に、近藤の全ての気持ちが込められていることが、痛いほど心に染みた。そっと閉じた瞳からは、ひとすじの雫が頬を伝った。しばらくこのままにしていてくれれば、きっと見られずに済む。その端正な唇がかすかに微笑を刻んだ。
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ありがとう・・・ございます・・・・・・」
 あくまでも静かに、そっと、そうつぶやいた。

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二十二.インターハイ in 名古屋

「椎名は昨日の発作のことがあるから、長くは出せない。だから最初に出てもらって得点で突き放す。その意味でのこのスタメンだ。各自、自分の役割をきっちり果たしてくれ」
 バスケット部の顧問は、「木下康司(きのしたこうじ)」という比較的平凡な名前だが、大概「クマさん」、特に女生徒からは「プーさん」と呼ばれ、親しまれる、身長177cm体重98kgの気のいい大男だった。バスケットの監督としては審判のライセンスも持っており、厳しすぎず、楽しく教えることのできる貴重な指導者である。その木下の言葉に逆らう者は、如月高校バスケット部内には存在しない。全員が威勢のいい返事で応えた。
 朝一番の電車で駆けつけた斗音を待っていたのは、朝早くから練習の準備を整えていた仲間の、温かい言葉だった。
「電車の中で飯は食ってきたんだよな。じゃあ、軽く身体慣らそうぜ」
「今日もスリーポイント、頼むぜ。俺ら引きつけて、どんどん回すからよ」
 ほっと胸を撫で下ろして、斗音は微笑んだ。ここには居場所がある。必要とされている。そして、同じように待っていてくれた徳本から、木下の作戦を伝えられたのだった。
「お前、今日スタメンだからな。俺、門真、羽澄、東雲、お前で、最初に点を取りまくる。お前は走ることよりも、マークから外れてスリーの態勢を作ることに専念しろ」
「・・・・・・はい、分かりました」
 昨日練習ができていないこととか、体力のこととか、そんなことを弁解よろしく言いはしなかった。ただ、この仲間の、そして先生の期待に、自分のできる限りの力で精一杯応える。今自分にできることは、それしかなかった。
 軽い練習を終え、身体を温めてから、最高の状態で如月高校は二回戦の試合を迎えることになった。
「今先生が言ったこと、忘れんなよ。最初は椎名からマークを外すために、東雲がガンガン突っ込め。お前いろんな意味で目立つから、すぐマークが集まんだろ。そこからが勝負だ。いかに椎名に集めてると思わせずに集めるかだからな。頼んだぜ」
「はいっ」
 威勢のいいスタメンの返事の中で、嵐が一人ぼやいた。
「いろんな意味って・・・・・・」
「ルックスいいってことじゃん。頑張って、嵐。斗音も、頑張れ!公式試合での斗音のスリーポイントの確率、七割あるんだから、自信持っていきなよ」
 ベンチで記録の準備をしていた瞬が、声を掛けてくれた。一生懸命頑張っても、体格的にも能力的にも恵まれておらず、レギュラーの取れない瞬は、試合のときに大抵記録を引き受けている。マネージャーがいないので、誰かがやるしかない。だったら自分で記録を取って、そのデータで少しでも仲間の役に立てれば、と思っているらしい。
「ありがと。とりあえず俺にできること、やってくるよ」
 瞬に微笑み返してから、試合開始を間近に控えて騒然となる場内の一角に目をやった。如月の応援席の一番後ろで、控え目にたたずんでいる制服姿の慈恩が、少し笑みを見せた。すらりとしたその身体には、真っ白のシャツと紺のネクタイが本当によく似合う。その右隣には、如月生徒会長バッジを胸ポケットの校章の隣に付けている今井、立派な体躯の剣道部部長近藤が、肩を並べてなにやら話しているようだ。まさか近藤が来るとは思わなくて驚いたが、近くまで来ていたよしみなのだろうか。でも、もっと意外な人物が慈恩の左隣を陣取っていた。
「頑張れぇ~斗音っ!東雲も、羽澄も、かっこええで~!」
 慈恩にひけをとらない長身の剣道少年の声に、翔一郎が肩をすくめた。
「今の台詞、どう聞いても、俺ら付け足しだったよな」
「かっこよかったら強いわけじゃねえのになあ」
 くすくす笑うのは嵐である。彼のひと際大きな声援と存在のおかげで、如月のスタメンは精神的にかなりリラックスできていた。その逆になってしまったのが、如月の相手校である山口代表の宮野高校だった。力のある学校で、前評判は如月よりも高いくらいである。如月はバスケットで全国大会に出場したことが過去に一度あるだけだが、その宮野高校は三年に一度の割合で全国大会に出場してきている。
「何だあの応援」
「かっこいいからって強いわけじゃねえっての」
「大体あの髪の毛の色、なんなんだ」
 かなり目を吊り上げている状態だ。徳本はやれやれ、と溜息をついた。
「ま、俺たちも外見で売ってここまで来たんじゃねえってことを、見せてやるしかねえんじゃねえか」
 スタメンの五人は互いにうなずきあった。
「見せてやろうじゃん」
 副部長の門真がにやりと笑った。その自信に溢れる笑みが更に五人を精神的な部分で支えた。
「よしっ、行くぜぇ!」
 右の拳をパシン、と左の手の平にぶつけ、徳本が自分の位置へ向かう。
「っしゃぁ!」
 それを合図に残る四人もそれぞれの位置を確保した。
 如月はそれほど高さのあるチームではない。一番高いのは185cmの翔一郎である。宮野高校はどちらかというと高さがあるだろう。大体が翔一郎並み、そしてジャンプボールに出てきたのは軽く190を越えていると分かる長身のプレイヤーだった。
「なんやぁ?あいつ、めっさ背ぇ高いなぁ。あんで羽澄、勝てるんか?」
「俺に聞かれても・・・・・・」
 苦笑した慈恩だったが、それを優しく和らげる。
「でも、俺が知ってる限りでは、翔一郎のジャンプ力に勝てる奴も、そうそういないと思う」

 曲がりなりにも全国大会に出て一勝しているチームである。長身のチームに対抗できるだけの能力を、如月はちゃんと備えていた。大きい分運動能力に劣った宮野高校のジャンパーの上を、翔一郎は軽々と越え、ジャンプボールをものにした。幸先のよい始まりだったが、相手も全国大会常連に数えられるチームである。そうやすやすと如月の思うようにはいかなかった。
 
作戦通り最初は嵐が攻めまくった。しかし、ワンマンで崩せるほど相手のディフェンスも甘くはない。嵐はもらったボールをパスせざるを得ないことが多く、なかなか自分から突っ込ませてもらえなかった。それでも嵐にボールが集中しているらしいことは、すぐに宮野も気づき、嵐は即座に集中マークされる羽目になった。それでも如月の面々は何とか嵐にボールを集めようという素振りを見せながら、あまり斗音を見ないようにして斗音にパスをまわした。正直動きで目立つ斗音ではない。パスはすんなり通った。スリーの位置、そして斗音自身も更に嵐に視線を向けたことで、敵は一斉に嵐のマークを強化した。その隙を狙って、斗音はフリーでスリーポイントを放った。斗音の綺麗なシュートフォームとボールの軌跡が、その成功を見る者全てに確信させた。嵐が叩き込んでいた6点に、斗音の3点が加わった。しかし、あまりにも正確なそのシュートは、たちまち宮野に警戒されてしまった。マークが嵐に二人、斗音に一人。あとの二人がゾーン周辺で臨機応変に守っている形になった。そこをついて攻めたのは三年生の門真と翔一郎、そして部長の徳本だった。徳本はセンターなのだが、それほど体格的に優れているわけでもない。むしろ攻め込めるセンターといったところだ。ディフェンス力はあまり高いとはいえないが、オフェンス力はかなり高い。
「いい感じやん。敵さんも結構点入れてはるけど、如月高校の攻めに、対応しきれてへん気ぃするわ」

 ただの剣道馬鹿でもないらしい隼が、つぶやく。実際その通りで、前半は得点を取ると決めた如月はディフェンス3、オフェンス7くらいの割合で攻めまくっていた。よって、相手に点を入れられることも多いが、それ以上に如月の手によってボールはネットをくぐっていた。そして、マークされながらも、フェイクや徳本の身体を盾にしたスイッチでフリーになって斗音が放ったスリーポイントは、最初の一本を含めて計5本。その内4本は見事に決まった。一人で12得点入れた時点で、斗音はベンチに下がった。第2クォーターの終了が間近に迫っている時だった。如月陣が斗音にボールを集めた結果だった。この時点で如月が48点、宮野が32点。油断できる点差ではなかったが、宮野高校にしてみれば16点差が重かった。
「ちっ・・・・・・あのスリーポイントが余計だ。ベンチに下がってくれたみたいだが・・・・・・これをまずどうにかしねえと厳しいな」
「目立たねえのに、あの生っちろい奴、スリー上手すぎ。スリーポイントシューターか?」
「かも。あの紫頭も滅茶苦茶うめえ」
「チームワークもいいけど個々の能力がたけぇ」
 そんな会話が飛び交っていた宮野高校陣だったが、第2クォーターを終えた時点で、斗音の体力は限界にきていた。試合というプレッシャーを伴う中での戦いは、普段よりはるかに体力を削る。荒い息に微かに摩擦音が混じるのに、誰もが不安を感じていた。
「大丈夫か?もう少し早く下げるべきだったか。お前のスリーで点差が開くのについ欲張りになっちまった」
 木下が心配そうに斗音を覗き込む。斗音は乱れた呼吸をなだめるようにしながら、微かに笑みを浮かべた。
「これくらい、日常茶飯事ですよ。ヤバイと本気で思ったら、自分で動くの、やめます」
 門真がほっとしたように表情を和らげた。嵐は斗音の汗に濡れた髪にタオルをかぶせ、くしゃくしゃにした。
「お疲れ。いい仕事してくれたおかげで、後半かなり楽だぜ」
 顔を上げた斗音を、翔一郎も優しく笑って迎えた。
「さんきゅ。お前がいてよかった」
 呼吸がつらいのか、すぐにうつむいてしまった斗音の表情は、タオルに遮られて見えなくなった。第3クォーター開始の笛が鳴る。
「うっしゃ、行くぞ!」
 斗音の代わりにバランスの取れたシューティングガードの佐々が入り、徳本の声で座っていた四人が立ち上がる。
「っしゃぁっ!」
 コートに出ながら、嵐が翔一郎に小声で囁く。
「試合っていう場に出場してる間、あいつがヤバイと思って走るのやめると思うか?」
「倒れるまでやめない」
 考える間をおかず、翔一郎が断言する。嵐は小さく頷いた。そして美声を低める。
「ぜってぇ勝つぞ」
 翔一郎も強い意志を瞳に宿した。
「あぁ」
(・・・・・・泣いてるのか、斗音)
 翔一郎のジャンプ力に歓声が上がる中、慈恩はただじっと、ベンチでタオルをかぶってうつむく斗音を見つめていた。先生や仲間たちに色々声を掛けられていたのは分かった。もちろん内容までは聞き取れなかったが。
「よっぽどしんどいんやろか?斗音、ずっと下向いてるで?」
「・・・・・・そうだな」
 応えるというよりはつぶやくようにして、電光掲示板を見る。斗音が稼いだ点数分の差は大きい。これを埋めようと思ったら、相手は普通に考えて6回余分にシュートを入れなくてはならない。後半は嵐と翔一郎の二人で攻めてディフェンスを強化するであろう如月から、それを実行するのはかなりつらいはずだ。嵐と翔一郎のコンビは個々の能力においても飛び抜けているし、連携も見事だ。それに、スティールされたら俊足でディフェンスに帰るので、なかなか攻めきれない。
(・・・・・・あの二人がきっと何か言ってくれた。つらいんじゃない。・・・・・・斗音、嬉しいんだろう?)
 斗音が全国という場でこれほどの力を見せられるとは。こんなに必要とされる存在になるとは。スポーツを禁止されていた小学校時代からは考えられなかった。いや、それが制限されていた中学校時代でも。走るのを止められるから、ずっとシュート練習をしていた一年生の頃。少し走れるようになって、そのシュートが生きるようになってきた。だから、尚更それを正確にするため、人一倍シュートの練習をし続けた。それが、今ここに来て、制限されながらも見事に花開いたのだ。そして、今ここには、それを必要としてくれる仲間がいる。
(やっぱり、斗音を如月から引き離すことなんて、できない)
 本人がまず、如月を辞めるとは言わないだろうというのは、最初に考えた。でも、斗音から目を離すことが不安で不安で、強引にでも自分と同じ学校へ転入させることも、何度も考えた。一人で早退させて斗音に酷いダメージを負わせてしまったときから、その不安は倍増していた。そして、まだ今でも、迷いは、ある。というより、もしかしたら斗音がついてきてくれるのではないかという、微かな期待だ。しかし、その思いを切り捨てなければならない、と、慈恩は痛切に感じた。
 どこに喘息持ちと分かっていて、こうして温かく見守り、発作のときのために常時その対処を心がけ、その能力を最大限に使おうとしてくれるチームがあるだろう。普通は他に優秀な選手がいれば、そちらを取るだろう。この素敵な仲間の中にいた方が、斗音は幸せに違いない。
「なんや、椎名?お前、ぼんやりして!今の見てたん?」
 急に名前を呼ばれて、慌てて隼に目を向ける。
「え、何を?」
「何をて。今の東雲の攻撃や。会場沸いてるの、気ぃついてへんのか?」
 途端、異世界だった現実が、波のように慈恩の五感に流れ込んできた。興奮しきった会場内の熱気と歓声に包まれる。
「すげぇよ、あの二年生コンビは!最初から動きが違ったもんな」
 隣で今井が熱のこもった口調で褒め称えている。ちょっとやそっとでは人を賞賛したりしない近藤も頷いて感心している。
「会場中の度肝抜きやがった」
 どうやら奇抜なプレーをやってのけたらしい。いかに自分が自分の感情に支配されていたかが分かる。聞くまでもなく、見ていなかったらしいことを察した隼が説明してくれた。
「俺知ってるで、あの技。アリウープゆうんやろ?漫画で読んだことあるで。羽澄があっちでパスもろて、なんかくるくる敵かわしながらドリブルしてってな、その途中で『嵐!』て一言だけゆうてな、そしたら東雲が瞬間移動くらい信じられんスピードでゴール下詰めてん。敵さんがびびって止めにいかはったら、信じられへんくらい高くにパスしよるさかい、一瞬パスミスかと思ててん。したら、ゴール下で東雲めっちゃ跳んでな、あの高いパス、キャッチした思たら、そのままガツンとゴールや。っかー、しびれたで!」
(・・・・・・・・・・・・やる)
 嵐と翔一郎ならできるだろう、と思ったが、見逃したことをちょっと後悔した慈恩であった。
「もういっぺんやってくれへんかなぁ。しかし、東雲、あの身長であれは反則やろ。凄すぎや」
 もう一回やってくれないかな、と思ったのは慈恩も同じだったが、斗音が頑張った分を絶対に無駄にしたくないという嵐と翔一郎の思いが表れたプレイだったとはいえ、そんな大技がそう出せるわけがない。いくつかスーパープレイと思えるようなものはあったけれど、残念ながらそれ以上アリウープはなかった。そして、攻撃は二年生コンビにほぼお任せで守りを固めた如月の最終的な点数は69点、宮野高校の点数は58点。やや追い上げられはしたものの、その差が十点を下回ることはなかった。その数字は、木下の作戦通り、斗音が開けた点数を守り抜いた形になった。
 挨拶を終えてベンチに駆け戻ってきた選手たちが一斉にとりまいたのは、アリウープを決めた嵐ではなく、作戦を立てた監督でもなく、首にタオルを掛けたまま仲間の試合を観戦していた前半の功労者だった。
「やった、斗音!お前のスリーで俺たち、勝ったんだぜ!」
 驚いたように彼らを見上げる斗音の腕を、嵐がぐいっと引っ張った。
「え、な、何言ってんの?みんながずっとその点差キープするために・・・・・・」
「キープするための点差がなきゃ、どうにもなんないだろ?」
 よろけるように立ち上がった斗音に、図ったように全員が群がる。
「お、胴上げ始まる。胴上げされんの、斗音やで。みんな、分かってはるんやな」
 シャープな顔に満面の笑み。慈恩も思わず微笑んだ。如月高校バスケ部は、誰もが斗音の喘息でのつらさや苦しみを知っている。そして翔一郎と嵐は、斗音が感じている仲間たちに対する負い目まで理解している。その斗音がかなり無理をしてでもチームのために貢献しようと頑張ったことが勝利につながったのを、心の底から喜んでくれているのだ。
「・・・・・・ああ」
 かなり慌てた様子で軽々と宙に上げられている斗音を、少し目を細めて見つめた。隼が納得したように頷く。
「あの監督は重すぎて上がらへんもんな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・は?」

 慈恩と今井と近藤の、一瞬疑うような視線と、やや呆れた視線と、完全に馬鹿にした視線が、一斉に剣道で全国制覇を成し遂げた少年に集まった。

   ***

 インターハイに出場することもかなりの快挙だった如月高校が、まさか二回戦まで突破してしまうとは、如月の生徒ですらほとんど予想していなかった。そのため、急遽ホテルの滞在を延長して、その翌々日の三回戦まで名古屋に留まることになった斗音たちである。帰るのを一日遅らせて試合の観戦に来ていた近藤や、あちこち飛び回っていて一度帰ると決めた今井は、徳本たちを激励して岐路についた。
「俺、今日まで剣道以外のスポーツ、ほとんど知らへんかったけど、バスケもええなあ。羽澄と東雲のスーパープレイとか、斗音のきれーなシュートとか、もう滅茶苦茶感動したわ。三回戦も見たいけど、俺帰らなあかへん」
 整った大人びている顔が、いつも湛えている無邪気さを消し去って。
「俺も、如月に入れたらええのになぁ」
 帰り際にそうつぶやいた隼が、印象的だった。道場の跡取り息子。毎日の修業が待っている身に、決してそれが叶うことはない。
「また、全国大会で」
 そう言って差し出した慈恩の手を握り、少しだけ微笑んだ。翔一郎と瞬がその肩と背中を、元気付けるように叩いて、口々に言った。
「ちょっと遠いけど、よかったら東京にも遊びに来いよ」
「そうだよ!隼なら大歓迎!多分来たら、椎名家が泊めてくれるよ。ここんち、すごく広いんだ」
 勝手に名前を出された斗音と慈恩は、一瞬こわばりかけた顔を表に出す前に無理やり解きほぐした。
「そないなことゆうと、俺本気にしてまうで?」
 苦笑した隼に対して、斗音は優しく微笑みかけた。
「いいよ。待ってる」
 慈恩は何も言えなかった。その時にはもう、椎名家にいないだろう。
 冗談と受け止めたのか、隼はいつもの無邪気そうな笑みを浮かべた。
「おおきにな。お前らといてた時間、俺ほんま楽しかった。けど、勘違いせんといてな。俺、確かに剣道部の中では先輩らに邪魔者扱いされてるけど、クラスとかでは別に友達に不自由してへん。ただ、部活に割いてる時間が大きい分、ちょこっと息苦しいだけや。それに、もう先輩らこれで引退やさかい。次におうた時は、俺もう少し元気やと思うで」
 せやから、俺としては喘息の斗音の方がよっぽど心配やで、と斗音のやわらかい髪をくしゃくしゃなでた。
「なんか、慈恩がもう一人増えたみたいだな」

 くすくす笑いながら翔一郎が言った。その場にいたみんなが思わず笑う。一人だけは苦笑を浮かべ、次の瞬間には淡いそれを消してしまっていたけれど。

   ***

 翌日の練習は比較的軽いものだった。当然付き添いの慈恩も雑用を引き受けていた。本当なら如月高校ではそろそろ剣道部の引継ぎが行われるはずだったのだが、慈恩がいなければどうにもならない。もちろん、近藤にはその理由と共に部長になることをはっきりと断ったのだが、その理由をまだ部員たちに話したくない慈恩である。この大会が終わったら、学校側にも言わなければならないのだが、それすら躊躇っていた。口にしてしまえば、現実味を帯びてくる。それが怖くて、それから少しでも逃げていたかった。それを察した近藤は、例外的に夏休みの終わりまで三年生の引退を遅らせることを決めた。最後の最後まで、仲間には言わないでおきたいと思っていた慈恩にとって、やはり近藤は頼れる先輩だった。
『部長を引き受けるわけにはいかなかったから・・・・・・近藤さんにだけは話した』
 昨日の夜、そう話したとき、斗音は思ったより冷静に見えた。
『・・・・・・うん。話長くなりそうだってお前から連絡入ったとき、多分話してるだろうと思った』
 剣道の大会が終わったあと、近藤に呼び出された慈恩は、途中一人部屋に残してきた斗音を心配して携帯に連絡を入れたのだ。発作を起こしたので無理をしないようにと休ませていたはずの斗音は、隼の部屋にいっていたようだが、きっと一人で煮え詰まりそうになっていたのだと、すぐ理解した。
『・・・・・・いよいよ、現実的になってきたね』
 微かな笑みを含ませたような表情でつぶやく斗音に、本当にいいのか、と、何度も確認しようと思った。けれど、そうやって斗音に言わせたいのは自分なのだと思うと、自分の浅ましい考えにうんざりした。それでも斗音の表情に翳りを見つけようとしている自分がいた。そんな慈恩の前で、想いを知ってか知らずか、斗音はそっと微笑んだ。
『そんな心配そうな顔しないでよ。俺は大丈夫だから』
 励ますような言葉にそぐわない、なんだか儚い微笑みに、思わず不安を掻き立てられた。本当においていっていいのだろうか、と。前も感じたことがある。そう思った途端、背筋に寒気が走った。
『な、何・・・・・・?』
 驚くというよりは戸惑うような斗音の声音を耳の後ろで聴いた。自分の中の不安を掻き消したくて、力一杯抱きしめた華奢な身体。自分が本気で折ろうと思ったら、簡単に折れるんじゃないかと思った。
(どうしてついていなかったんだろう)
 斗音に不幸の電話を取らせてしまった時、そう激しく後悔した。一人にするんじゃなかった、無理をさせるんじゃなかった。そう激しく自分を責めた。そして、その時に突き落とされた闇が甦る。自分の傍にいたくないと言われた時の、あの激しい痛み。色々と入り混じって、わけが分からなくて、言葉にできなくて・・・・・・だから、ただひたすら。わずかな距離すら拒否するように、ぎゅうっと腕の中の斗音を抱きしめていた。
 そんな昨夜のことを、まるで何事もなかったかのようにふるまう斗音に、寂しさを覚える。
「パス、こっちだ斗音!」
「椎名、オッケー!」
 パスをするかに見えた斗音のすらりとした白い腕から、ボールが宙に放たれた。
「うぁ、やられた!」
 たった今、マークする相手を決めたばかりの門真がうめくように叫んだ。みんなが見守る中、美しく描いた弧の先が、リングをするりとくぐった。
「単純なフェイクじゃねえか、馬鹿野郎」
 徳本が溜息混じりに言う。シュートに見とれていた門真が、我に返って苦笑いした。
「んな、いきなりシュートするとは思わなかったんだもんよ」
「椎名のシュートエリアじゃねえか」
「そうだけど」
「散々見てる仲間ですらだませるんだから、当然敵に対してだって有効ってことでいいじゃないすか」

 斗音のチームだった嵐が楽しそうに言うのを、慈恩は複雑な思いで見ていた。

   ***

 如月高校の三回戦の相手は熊本県代表の東海学園付属高校だった。この時点でともに全国ベスト16である。そして今回の対戦相手は、やはり全国常連校であり、熊本は基本的に部活動のレベルも高いとかで、どのスポーツでも結構上位に食い込んでいる中のひとつである。剣道も、出雲第一が圧倒的な強さを見せているが、少し前までは熊本もかなり上位を占めていた。
「去年の準優勝校だとさ。どこまで通用するかってとこだな」
 ご苦労様なことに、今日もまた来ていた今井が、フロアで軽く身体を慣らしている如月高校のメンバーに目を向けながら言った。
「大体、前回の相手もそうだったけど、みんなでかいよな。あれ、平均で190くらいあるんじゃないか?フロアが狭く見えるぜ」
「・・・・・・そうですね。ここまで来ると、結構集められた選手を抱えてる学校が多いみたいですから」
 冷静に答える慈恩に、今井が視線を戻す。その視線がふとその後ろに逸れる。同時に背後の気配を感じて、慈恩は振り返った。視線が合った途端に、軽く会釈する二人と、その後ろに付き従う男が一人。
「先日はどうも」
 顔を上げて品のよい笑みを浮かべたのは男性の方で、隣の女性は瞳をきらきらさせながら満面の笑みを浮かべた。
「あ・・・・・・」
 思わず今井の反応をうかがうと、こちらはちょっと小首をかしげるようにして同じように慈恩をうかがっていた。
「知り合いか?」
「・・・・・・あ、はい。あの・・・・・・ちょっと失礼します」
 そっとフロアに視線をやる。斗音はこちらには気づいていないようだ。
「すみません、こちらへ・・・・・・」
 軽く促して、フロアからは死角になるところまで速やかに移動する。斗音には絶対に見せたくなかった。もし彼らを目にすれば、間違いなく動揺する。それは九条夫妻も理解したのか、すぐに慈恩に従って移動した。後ろで控えていた三神は、もともとフロアからは死角の位置だったせいか、ほとんど身体を動かさなかった。
 今井からも死角になるくらいの位置まで来てから、ようやく慈恩は足を止めて振り返った。
「あの、ごめんなさいね。急に押しかけてしまって。本当は連絡をと思ったんですけれど・・・・・・」
 絢音が申し訳なさそうにうつむく。
「わたくしたち、昨日インターネットでインターハイの様子を見ていたんですの。あなたの剣道での活躍を見たかったんですけど、二日とも雅成さんのお仕事の都合がどうしてもつかなくて、せめて結果だけでもと思って・・・・・・そうしたら、バスケットボールでまだ如月高校が残っていると分かって、いてもたってもいられなくなって・・・・・・」
 雅成も苦笑いと申し訳なさを微妙に入り混じらせた表情でいる。絢音に拝み倒されて、断り切れなかったのだろう。
「本当に断りもなく来たこと、申し訳なく思ってるよ。私たちのことであの子が傷ついたことも十分分かってるつもりだし、あの子の気持ちを乱すような真似をするつもりもない。ただ・・・・・・私たちの中では、斗音くんも大事な養い子の一人にしていくつもりだから、あの子のことをよく知っておきたいっていうのもあったんだ。君が大切にしてきた、かけがえのないお兄さんだからね」
 慈恩は何度か瞬きをしてから、苦笑した。一途な絢音はともかく、雅成の言葉には、彼の真摯な受け止め方だとか思いだとかが溢れていて、責める気などは失せてしまう。斗音のことを本当に自分の子のように言うのが、むしろ嬉しかった。
「あの子に見えないところから、こっそり見せてもらうよ。絶対に迷惑は掛けないから」
「貴方に挨拶だけはしておきたかったんですの。・・・・・・お会いできて嬉しかったですわ。それじゃ、わたくしたちはもっとあちらの方で見せていただきますわ。貴方はあの生徒会長さんとご観覧になるのでしょう?」
 どうやら写真で見覚えがあったらしい。慈恩がうなずくと、二人は笑みでうなずき返し、慈恩の背後に控える形になっていた三神を視線で促した。
「あの」
 思わず呼び止めてしまってから、それに応えた二人の視線を浴びて戸惑う。まだしっかり自分の言いたいことがまとまっていなかったのだが、少し口ごもってから、凛と整った表情で二人を見た。
「・・・・・・斗音のこと・・・・・・大事に思ってくださって、ありがとうございます」
 雅成は瞬きをする一瞬だけ慈恩を見つめたが、照れたように微笑んだ。自分のことを言っていると分かったのだろう。絢音も満面の笑みで応えた。こちらは慈恩が嬉しいと感じてくれたということが嬉しかったに違いない。そんなふうに、自分の感情ひとつで一喜一憂するこの夫妻が、どれだけ自分を必要としているかを改めて実感する。
「三神」
「はい」
 名前を呼ばれただけで自分が何をすべきかを理解している運転手兼護衛役の男が、慈恩の脇を通りすがりざま、軽く会釈をする。そのまま九条夫妻に付き従って歩み去っていくのを何気なく見ながら、ふと違和感を感じる。付き従いながら、その目が追っているのはあくまでフロアで練習している高校生たち。
(始まるのを気にしてるのか?)

 思わずつられるようにフロアに目をやった慈恩の網膜が、斗音の綺麗なシュートを捉えた。スパッと音がしそうなほどのシュートに、周りから思わず拍手がこぼれる。何だか誇らしくなりつつも、ふと視線を上げると、フロアに目をやっていた運転手兼護衛役が唇に笑みを載せているのが見えた。妙に楽しそうなのをこらえているようなその表情に、慈恩は再びよく分からない違和感を覚えた。そこに、練習終了の合図が鳴る。たった今感じた違和感を頭の片隅に追いやって、慈恩は今井が待っている如月の応援陣の一番後ろへ踵を返した。

   ***

 東海学園付属高校、昨年度のインターハイ準優勝校。当時のスタメンは五人中三人が二年、一人が一年、キャプテン一人が三年生という異色メンバーだった。それで準優勝である。更に腕を磨いてきたそのスタメンの彼らは、今年もほとんどがスタメンであった。
「今年はスタメン、三人が三年生、二人二年生だそうだ。三年生の三人は去年スタメンに出てた二年生のままだから、滅茶苦茶強いだろうな」
 開き直っているのか、笑みさえ浮かべている徳本である。木下が資料を捲りながら淡々と伝える。
「そうだな、強いて言えば・・・・・・身長を10㎝プラスした東雲が三年生になって三人いる感じかな。二年生の二人が今の東雲くらい」
「何で俺が基準なんスか」
「お前は俺たちの中じゃ別格だろ?その別格が五人いるってこった」
「あー。それ説得力あるな」
 徳本の言葉にみんなして頷き合う。嵐だけ肩をすくめた。
「俺みたいのが五人もいたんじゃ、まとまるもんもまとまらねぇよ」
「あぁ、それも滅茶苦茶説得力あるな」
 どっと笑う。最初から実力の差は分かっている。ならば気負いなど感じる必要はない。自分たちの全力がどこまで通用するかだ。通用するなら、きっとどこかに勝つための可能性が見つけられる。今までやってきたことをとことんぶつけてやろう。全員がそんな気持ちだった。
 控え室でのそんな会話は、慈恩も今井も知らない。だが、フロアで軽く身体をほぐしながら監督の指示を聞いている選手たちの顔に、プレッシャーというものは感じられなかった。
「さて、どんな試合になるかな」
「相当強いらしいですけど・・・・・・」
「斗音が活躍できるといいな」
 さらりと出てきた今井のセリフに、慈恩は心を見透かされたような気がして、思わず顔を上げた。今井が自分を見ていると思ったのだ。しかしそんなことはなく、今井はただ自分が応援するメンバーたちを見つめているばかりだった。
「・・・・・・はい」
 短く答えて、慈恩も今井の目線を追った。その先で、まさに今、試合が始まろうとしていた。審判がコートの中心でまっすぐにボールを投げ上げる。翔一郎より背の高い選手が、翔一郎の伸びきった指の更に上で、手首を翻した。弾かれたボールが如月のブルーのユニフォーム陣を軽々と越えて、山吹と赤の情熱的なユニフォームの選手に渡った。渡る寸前から、その選手は床を蹴っていた。ジャンプボールの行方を予測していた嵐が食いついたが、その瞬間の差で追いつけず、ひらりとかわされる。
「な・・・・・・」
 かわされたと分かっても尚、持ち前のダッシュで詰め寄った嵐の目の前には、既にボールを持たないで薄く笑う選手がいた。反射的に振り返って目にしたゴールには、ノーマークで放り込まれたレイアップシュートが滑り込むところだった。
「・・・・・・は・・・やい・・・・・・!」
 今井が思わず言葉をこぼす。慈恩も息を飲んだ。あの翔一郎がジャンプで届かなかった。あの嵐が追いつけなかった。上から見ているからまだ動きが見えたが、コートの中でプレイしている彼らには、もっと電光石火の出来事だったに違いない。
「俺にだって分かる。今までとはレベルが違うぜ、ここは」
 生徒会長の言葉が聞こえているはずもないが、コート上の如月のプレイヤーは、全く同じことを痛感していた。
「おい、あの綺麗な髪の毛の奴、上手か。俺がパスするの遅れとったら、ヤバかった」
「ヒガシクモ?あれ?」
「お前、読めとらんたい。あれはシノノメゆうけん。古文で習ったけえ。覚えとけ」
「ジャンプボールに出てきたハネズミも運動能力高いけん、要注意たい」
 たったワンプレイでも、戻るまでの間にそんな会話を交わす敵陣である。名字の読み方は散々だが、格下の相手に手を抜く気は全くないらしい。
「おい、ハネズミ」

 嵐が鋭い視線を翔一郎に送る。
「なんだよ、シノノメ」
 ふざけるつもりは全くない翔一郎が返す。
「俺たち二人で突っ込んで引きつける。あいつらには通用しないかもしれねぇけど、斗音にやらせよう。本番前にシュートフォーム見せちまってるから、シューターってことはばれてると思うけど、たぶん」
「少なくとも一回はいけるかな」
 ゾーンから少し離れて攻撃に備え、腰を落とす。
「・・・・・・昨日、なんか壊れちまいそうだった。自信つけさせてやりたい。いいよな、ハネズミ」
「りょーかい、シノノメ」
 言ってから、翔一郎はぼやいた。
「なんか、ネズミっぽくて気にくわないなぁ、その名前」
 などとのんきなことを言っても、思い通りにはなかなかいかせてもらえなかった。嵐と翔一郎はガンガン攻めていったが、それを止めるのは嵐級が二人とスーパー嵐級が三人である。一人相手でも難しいのに、絶対に手を抜かない東海学園付属高校は必ず二人三人で止めに来るのだ。かといって、他がフリーになるわけではない。その二人三人が食い止めるために、絶対にパスの出せない位置には誰も行かず、少しでもパスの可能性のある位置にいれば誰かがつくという方法だった。しかも、そのディフェンスの位置が絶妙で、パスの出せる位置が極端に狭くなる。後ろに目でもついていない限り、パスを出すのは困難な状況に追い込まれていた。
「・・・・・・攻めあぐねてるな。あの東雲が」
「隙を見せれば速攻で攻められるし、こっちの主力が通用しない。パスも出せない」
 電光掲示板には28対16という数字。如月側は既に12点離されている。ここで第1クォーター終了の合図が響き渡った。それぞれのチームが控え席に帰っていく。どっしりと構えた木下が、にこりと笑った。
「さて、とりあえずファーストインプレッションはシノノメとハネズミでしっかり押さえてきたな。次は」
 徳本、嵐、門真、翔一郎、斗音の順でゆっくり視線を合わせる。
「本物のお前らで行くぞ。徳本と門真で切り崩せ。東雲と羽澄で両サイドから攻める。敢えて第1クォーターはほとんど動かなかった椎名は常に徳本か門真にくっついて影になれ。ちょっと激しい動きになるけど、できるだけやってくれ。目立つ奴等から上手くボールを受けてフェイク掛けて自分からいけ」
「はい!」
 第2クォーター開始の合図が鳴り響く。やはりジャンプボールは、相手が一枚上手だった。ち、と翔一郎が舌打ちする。今年度の公式試合では、まだほとんど負けたことがなかったのだから、仕方がない。ダッシュでゾーンに戻ろうとする。その目に映ったのは、なんと、斗音のスティールだった。観客がどよっとざわめく。
「行け、二年コンビ!」
 徳本が怒鳴って、同時に中央を突破せんと走り出す。門真は敢えて斗音の前につき、ボールを取りに来る情熱的ユニフォームから斗音のボールの位置を分かりづらくする。たちまち囲まれるが、門真を盾に斗音が後ろから擦り抜けた。
 実は斗音も取れるとは思っていなかったので、かなり驚いた。相手チームの身長はかなり高くて、コートの中で斗音は実は一番小さかった。おまけに第1クォーターでかなり地味だったので、見事なファーストインプレッション効果、誰も気に留めていなかったのである。たまたま叩き落されたボールを受け取ったプレイヤーの、すぐ斜め後ろにいて、速攻で攻めに行こうとした瞬間、まるでスローモーションのようにボールの下ががら空きになっているのが見えたのだ。反射的にそこに手を伸ばして弾いたら、いとも簡単にボールが跳ね上がり、目を見開いた山吹と赤の似合う選手が、スタートしかけた身体を戻すまでの一瞬に、これまた身に染み付いた動作でボールを捕まえた。その選手の後ろを、身体を低くしてするりと擦り抜けたとき、徳本の声が嵐に飛んでいた。
 作戦通り、徳本が中央を切り崩して、信じがたい速さで戻ってきた相手チームのゾーン内に入り込む。そしてそのサイドを翔一郎と嵐が陣取った。その三人にすかさずマークがつき、バックパスの可能性を考えて、門真にもマークがつく。そして長身のくせに全身バネですばしっこい敵のシューティングガードが斗音の前に滑り込む。斗音がドリブルしたままきゅっとブレーキをかけ、ガードが邪魔にならない位置にいる嵐に視線を投げた。それを敵は見逃さなかった。すかさずその視線を遮るように、キュッと床を鳴らしてパスコースを遮った。その瞬間、ガードが歯を食いしばる。しまった、といったその表情の前で、斗音はくるりと背でかわしてガードを抜き去った。そして、今度こそ嵐にバウンドパスをせんと、ボールを片手に乗せる。しかし、そこはさすがの優勝候補校のガードである。必死の形相でそのパスコースを両手で再度塞いだ。同時に、その未完成のディフェンスをカバーしようと、ゾーン内の緊張が高まる。
「かかった・・・!」
 思わず慈恩が両手を握り締める。彼を含め、会場全体が見守る中、斗音は慈恩と如月バスケットボール部員以外の全てを裏切った。スッとシュートフォームを整え、全く無駄のない動きでそのまま高くシュートを放ったのだ。
「なに・・・・・・!」
 審判の指が三本掲げられる。ボールがネットをくぐった瞬間、その指が振り下ろされた。鋭い笛の音が響く。
「スリーポイントっ!」
 会場がわあっと歓声を上げた。嵐が斗音の後ろからぐいっと首を抱え込む。
「いきなり最大の武器出しやがって!お前最高!」
 わしゃわしゃとさらさらのアッシュの髪をかき乱す。
「うゎ、嵐っ!」
 それに翔一郎が加わる。
「見事に出し抜いたな!痛快だったぜぇ!」
 門真が華奢な背中を軽くはたく。
「よし、もう出し惜しみするなよ。このクォーターでできるだけ点を取ってやれ!」
 そして、ゾーンディフェンスにつく直前、徳本がポン、と頭を小突いた。
「これからが勝負だ。もうファーストインプレッションは通用しないぞ。俺たちがお前をフォローする。シュートに行け!」
 斗音が珍しく力強い笑みを浮かべた。
「はい!」
 嬉しそうな斗音は、遠目にもよく分かった。複雑な思いのまま、慈恩は心の底から湧きあがってくる喜びを押さえるのに必死だった。そして、唐突に理解する。斗音が嬉しいことが自分の喜びだった。今までも、今も、そしてきっとこれからも。
(・・・・・・頑張れ、斗音)
 この笑顔を守りたいと思った。無理に環境を変えることなく、このままの状況に斗音を置いておくことで。それがきっと、ベストだ。斗音にとっても、自分にとっても。
 そんな思いを決意に変えつつあった慈恩と同じ会場内で、慈恩と同じように心の底から湧きあがってくる高揚感に身を震わせた人間がいた。
(・・・・・・周りからあんなに愛されて・・・・・・それを俺が独占できたら・・・・・・俺以外見えないようにしてやろう・・・・・・ああ、早く手に入れたい。俺しか見えなくなったら・・・・・・存分に愛してやるから)
 歪んだ思考というフィルターを通して、まるで獲物を眺めるようにじっと見つめ、舌なめずりをこらえる。ここまで培ってきた九条家の信頼を、一ミリグラムたりとも削るわけにはいかなかった。彼を手に入れるためには。声を上げないようにはしゃぐ主人とその夫を前にして、三神はごくりと唾を飲み込むに止まった。

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二十三.決着

 東海学園付属高校サイドは、速攻には出なかった。ゆっくりボールをスローインする。
「俺ら、油断しとったたい。あいつ、めちゃ上手いシューターやけぇ、気合入れ直せ!」
「ほんなこつ言っても、初めがだご目立たんかったたい。ばってん、もうだまされん」
「おっしゃ!」
 ゆっくり丁寧に攻めてくる。全員の強固なゾーンディフェンスで、如月チームは応戦する。見事なまでのパスの応酬に、危うく振り回されそうになるが、なんとかゾーンを保っていた。
 第2クォーターは木下監督の読みどおり、如月のプレイヤー全員にマークをつけざるを得なくなり、東海学園付属高校の一人に対するディフェンスが甘くなった。甘くならざるを得なかった、というべきだが。それをうまく使って、徳本らがガンガン突っ込んでディフェンスを撹乱し、斗音はフェイクと見せかけて逆にいきなりシュートを打ったり、第1クォーターとは勢いが逆転した。それに加えて嵐と翔一郎が本物の自分で攻撃を仕掛けた。
「行け、羽澄!」
「東雲、そっち回り込め!」
 メンバーもわざと彼らを見ずに指示を出すものだから、一度ならず、東海学園サイドは混乱した。彼らにとっては「ハネズミ」と「シノノメ」であったはずなのだ。本人たちもそう呼び合っていたではないか。もちろん、すぐに間違いに気づいたのだが、それまでに如月が稼いだ得点も少なくはなかった。第2クォーターが終了した時点で電光掲示板の数字は38対32。かなりの追い上げを見せた如月高校だった。
「よしよし、よくやった!俺の予想以上だ!勢いは今うちにある!」
 敵を撹乱するためにコート中を走り回った翔一郎がハァハァと荒い息をなだめるように、瞬から受け取ったスポーツドリンクを少しずつ口に含む。滝のような汗が全身から噴き出している。ほぼ同じくらい動いているけれど、門真と徳本はさすが三年生というべきだろうか、まだ余裕がある。別格の嵐も然りだ。
「斗音、大丈夫?」
 瞬が心配そうにタオルで肩を抱いたのを、ひやりと背筋が冷める思いでメンバーが振り返る。斗音はこくりと頷いた。アッシュの髪がぐっしょり濡れて、まるで今夕立の中に立っていたかのようだ。呼吸もかなり乱れている。誰の目にも、次のクォーターで続けさせるのは危険だというのが明らかだった。
「攻めは変えない。だけど、椎名と羽澄を休ませる。羽澄の代わりにサイドで暴れて来い、佐々」
「はい!」
「それから、シューターとしてはうちで二番手だ。岡崎、椎名のポジションに入れ」
「は・・・はい!」
「徳本、門真、お前ら二人で岡崎をサポート。フェイクでシュートを打ちまくれ。岡崎はあまり使えないと思わせる。リバウンドは東雲と佐々に任せる。どさくさに紛れて岡崎に渡せ。あの強烈なメンバーの前で通用するかどうかは賭けだけどな」
 メンバーは暗黙のうちに視線を合わせる。次の瞬間、声をそろえた。
「はいっ!」
 五人がコートに出て行くのを見送って、翔一郎はどかっとベンチに腰を下ろした。
「っ、はっ、・・・っくしょう、張り切りすぎた・・・」
「・・・・・・ん・・・・・・」
 斗音もがくんと膝を折るようにして、ベンチに身体を預ける。もう少しいけると思った。今のところ、身体に異変はない。それだけに、悔しかった。今のこの調子を保つには、恐らくベストメンバーであるべきだった。確かに最近食が進まないこともあり、体力的にはかなりきつかったのだが、それでも。呼吸の音と破裂しそうな心臓の音とで、聴覚の容量が一杯になった気分だ。次から次へと汗が伝って、顎から滴り落ちる。
(もうこの試合は、出してもらえないかもしれない)
 そう思うと、体力のない喘息持ちの身体が恨めしかった。
 そして、斗音の考えたとおり、第3クォーターは厳しい戦いになった。第2クォーターの戦いで如月の作戦に慣れてきた東海学園付属高校と、加わったばかりで、動きに慣れている三人に比べ、やや動きのぎこちない二人を抱える如月とでは、かなり分が悪かった。体格差に物を言わせて、まずリバウンドを遮ってくる。相手ボールになる時間が長ければ、そのレベルの高い攻撃を阻止しなければならない上、自分たちの攻撃の機会を作ることすら難しい。徐々にその不利が目立ち始めた。
「ここで踏み止まれよ、徳本!」
 木下が檄を飛ばすが、踏み止まるには相手の流れが強すぎる。相手を休ませるチャンスを作りたくはなかったが、タイムアウトを取らざるを得なかった。
「門真、羽澄と代わって休め。羽澄はいけるだろうな?」
「はい、もちろん!」
 既に呼吸を正常に戻していた翔一郎が勢いよく返事をする。代わりに門真が荒い息の下で悔しそうに頭を振った。そんな門真に、木下が言葉を投げ掛ける。

「門真も、第3クォーターの残り時間だけだ。第4は出てもらうぞ。それから、相手はここに来て全員動きが滅茶苦茶いい。特に6番、鈴来(すずき)。周りをよく見てるし、パスさばきが芸術的なまでに上手い。彼がいるおかげで、相手はのびのびと動いてプレイできる。だから、6番を東雲、止めろ。ガードとして動くことで、お前もパスをさばけ。徳本はゴール下。センターとしてプライド持って、絶対に譲るな。リバウンド勝負だ。佐々がスモールフォワード、羽澄がパワーフォワードだ。東雲と佐々、ちょっとポジションが変わるが、後3分ちょっと。何とか踏ん張れ!いいな!」
はい!」
 返事の勢いはよかったが、その声に第2クォーター終了時にはなかった疲労の色が混じった。勢いに乗っているときには感じなかった身体的な苦しさが、状況がつらくなるにつれて選手たちに圧し掛かってきていた。
 それでも如月のメンバーは信頼する木下の作戦通り、嵐はガードとしてコートを駆け回り、彼を中心としてパスが行きかったし、徳本はリバウンドで格上の相手と互角に戦った。しかしそれでも、東海学園のメンバーは総合的に能力が違った。ガードの嵐がどんなに上手にパスをさばいても、それを受ける側が上手に受け取らせてもらえない。リバウンドを取ろうとしても、相手のシュートがなかなか落ちない。何をしても歯が立たないという絶望にも似た雰囲気が漂い始めていた。
 第3クォーター終了の合図が鳴ったとき、電光掲示板の数字は東海学園サイドが64、如月サイドが48。この試合最大の14点差となっていた。
 木下は頭を抱えた。こんなにレベルの高いチームと、これだけ互角に近い戦いをしてきたのだ。全力を挙げれば、もしかしたら、もしかするかもしれない。こちらのスタメンを全員投入できたら。徳本は体力に問題はない。この男は鍛え方が違う。門真もほんの数分とはいえ、休ませてある分、次の動きは期待できる。嵐は体力があろうとなかろうと、使わざるを得ない。倒れはしない。翔一郎も使えるはずだ。だが、木下の頭を抱えさせた最大の難関は斗音だった。1クォーター、しっかり休ませた。だが、この体力的にも精神的にも激しい消耗戦となる試合で、もつだろうか。しかし、斗音以外のシューターでは、東海学園には太刀打ちできない。最後まで諦めない戦いをするためには、どうしても斗音が必要だった。
 観客席の目立たない一角で、自分の主人が夫の手を握り締め、神にだか仏にだか、祈りを捧げているらしい姿をちらりと見やって、三神が、ややつり気味の目に笑いを含ませる。
(素人の俺が見ても、ここは椎名斗音を出すしかないだろう。どこまでもつか・・・・・・ふふ、楽しみだな)
 己のためになら努力を惜しまない人間であった。もうすぐ望みどおりに自分の主人となる少年の病状は、しっかり頭に叩き込んである。
(あの性格だ。出たらきっと全力でやる。そしてきっと、耐えられない。蒼白な顔で悶える姿は・・・・・・さぞかし見ものだろう・・・・・・)
 背筋にぞくぞくしたものを感じながら、湧き上がってきた液体で喉を鳴らした。
「・・・・・・斗音が出るしかないよな、ここは」
 今井の呟きとも取れる唐突な言葉に、慈恩ははっと顔を上げる。そんな後輩に生徒会長は逆に不意を突かれたような顔をした。
「だろ?」
「え・・・・・・ああ・・・・・・」
 曖昧な返事をして、曖昧に頷く。もちろん、そんなことは慈恩にだって分かっている。でも、あの疲労具合から言って、斗音が出るのは自殺行為だった。あの状態で全力のプレーをしようものなら、いつ発作が起きてもおかしくない。木下がそこまで危機感をもっているかどうかは分からないが、慈恩が監督の立場だったら、絶対に出さない。斗音が全力でやらないわけがないからだ。木下も、きっと悩んでいるに違いなかった。
 木下の周りに集まってきていたメンバーたちも、勝利の可能性を一パーセントでも残そうと思ったら、斗音が出るしかないということは痛感していた。それでも木下は唇を噛んで細い目を更に眇めた。
「・・・・・・ここまでよくやってきた。優勝候補の一角と、ここまで互角に戦ったんだ。お前ら、ほんとに大した奴らだよ。最後のメンバーだが、スタメンの徳本、門真、東雲、羽澄はそのまま出て、全力を尽くせ。・・・・・・あと一人は・・・・・・あと、一人は・・・・・・」
 決断し切れないのだろう。悔しそうな表情がよく分かる。あと一息のところまで来て、それでも選手を危険な目に遭わせることはできないという教師としての責任感と、持てる力を全部出し切って、最後までこの強豪と戦いきりたいという監督としての情熱の間で、揺れているのだ。それでも、勢いよく吐息して顔を上げた。その視線を送られた岡崎がぎくりと身体をこわばらせる。彼とて、自分が呼ばれれば、この試合に勝ち目がないことくらい重々承知だ。
「・・・・・・ここは」
「俺にやらせてください」
 木下の言葉を遮って、凛とした声が響いた。すっと立ち上がった斗音だった。薄茶の意志の固い瞳で木下を見つめる。
「俺の力じゃ不足かもしれません。下手するともっと迷惑を掛けることになるかもしれません。でも、ここまで来て何もできずに見てるだけだったら、俺はきっと一生自分を悔やみ続ける。今俺にできることがあるのなら、お願いします。俺を使ってください!」
「・・・・・・・・・・・・」
 迷いのない強い眼差しは、木下の心をぐらりと動かした。細めた目には、不安と期待が渾然としている。
「・・・・・・無茶をしないと、約束できるか」
「・・・・・・はい」
 木下の顔が、監督の顔に変わる。
「よし、第4クォーターはベストメンバーでいく。羽澄と東雲、鈴来の逆サイドから椎名をサポートしろ。とにかく14点差を何とかしなきゃ話にならないからな。門真と徳本でゴール下死守。これがうちのできる最後の仕事だ。さあ、全力でいこう!」
「おーっし!」
 疲れを忘れたかのような如月メンバーの声だった。これが最後。斗音を加えたベストメンバーで、否が応でも士気が上がる。
(・・・・・・斗音)
 慈恩は唇を噛んだ。いつも今を精一杯生きようとする斗音。ここで引き下がるわけがなかった。発作覚悟なのだ。そんな決意の彼を、一体誰が止められるというのだろう。
「・・・・・・馬鹿」
 そんな兄だったから、危なっかしくて、放っておけなかった。でも、そんな兄だからこそ、誇りだった。大切だった。
「今井さん」
 呼ばれた好青年は頷いた。
「ぶっ倒れたとき、お前がそばにいたほうがいいだろうからな」
「・・・・・・すみません、失礼します」

 慈恩はフロアへ向かう階段を駆け下りていった。

 如月は東海学園付属高校相手に果敢に立ち向かっていた。相手も既に斗音のシュート率の高さは承知だ。やすやすと持たせてはくれない。両サイドに嵐と翔一郎が陣取り、先ほどまでガードとして動いていた嵐が、相手の鈴来の動きを読んで、翔一郎と二人して鈴来を避ける。そして、なるべくゴール近くまで持っていって斗音に渡すのだ。単純なパスは読まれるので、ほとんどがスイッチか、戻したと見せかけてのパスなど、相手の不意をつくものばかりだった。さすがに進学校で名高い如月の頭脳プレーであった。
 受け取った斗音も、すぐにディフェンスに囲まれてしまうし、必ず何人かが斗音についているので、簡単にはシュートさせてもらえなかった。それをドリブルと見せかけたり、フェイクをワンプレーの中にいくつも織り交ぜたりして、見事にかわすのだが、それでもシュート率はなかなか上がらなかった。徐々に斗音の疲労の色が濃くなってくる。
 とはいえ、64-48の点数は徐々に変化していく。8分経過したところで、71-62の9点差まで迫っていた。このクォーターで入った14点のうち、斗音のスリーが3点、ミドルレンジのシュートが4点分ある。間違いなく斗音の功績である。しかし、残り時間は刻々と短くなっていく。焦ったのか、スティールを狙った翔一郎の手が相手の手を弾いてしまい、鋭く笛が鳴った。
「このままだと厳しいな。くそっ、もっと斗音にスリー打たせたいな」
 手を挙げた翔一郎が小声で嵐に囁く。嵐も頷くが、滝のように流れる汗をリストバンドで拭いながら舌打ちした。
「スリーはことのほか警戒されてるからな。こうなったら俺らが直接ゴール狙って、斗音に的を絞れなくした方がいいと思うんだけど・・・」
 ちらりと木下のほうを見る。すると、木下がOKサインを出している。同じように顧問に目をやっていた翔一郎が首をかしげた。
「聞こえたのか?」
「なわけねえだろ。いつも見てるだけに、俺たちの考えることはお見通しってことさ。たぶんな」
 嵐は大きく腕をぐるんと回した。
「よし、相手にぜってえ取られねえパス、ゴールの上に出せ。ぶちこむぞ」
「え、まじ?跳べるか?」
「やってやるさ。最終的にあいつが打てるようにしなきゃ、俺たちもどうにもできねえんだ」
「おっけー。まかしとけ」
 相手のスローインから試合が再開される。相手のパスさばきは大したものだ。しかし、鈴来にぴったりマークしていた嵐には、再三カットのチャンスが訪れる。それを嵐が何度も見逃すはずがない。相手が止まると見せかけてドリブルの速度を変えようとした直前のボールを、相手の手に届く前に奪い取った。
「ちっ!」
「翔!」
 振り向きざま逆サイドをゴールに向かって走っていた翔一郎に投げると見せかけて、相手チームの全員がそちらに気を取られた瞬間、すぐ後ろにいた門真へ送る。しまった、といった顔の彼らの視線が、一斉に門真に集中したその後ろで、翔一郎が軽く手を挙げた。門真は躊躇うことなく翔一郎へパスを出す。二度も不意を突かれた東海学園側は、みすみすそのパスを通してしまった。その翔一郎は軽くドリブルで前に進んだ。たちまち追いつかれ、足を止めたまま腰をかがめてドドドドっと短いドリブルで敵を足止めしたあと、やおら立ち上がってすごい高さにボールをあげる。まさに、ゴールの上。しかし、勢いがありすぎる。
「そんなシュート、入らんばい!」
 叫んだ鈴来は、次の瞬間息をのんだ。その目の前にひらりと淡紫色が舞う。
(馬鹿な・・・・・・っ!)
「高ぇっ!」
「おらぁっ!」
 ガコォッ、とゴールに衝撃が加わり、リングにぶら下がった嵐がふわりとフロアに下りた。同時にボールがとーん、とゴールの真下で高く弾んだ。
(・・・・・・・・・・・・人間業じゃないぞ、あれは)
 初めて彼らのアリウープを目の当たりにした慈恩は、思わず身震いした。前回見逃しただけに、フロアでそれを見た衝撃は大きい。歓声が会場を揺るがさんばかりだ。
「よっしゃ!成功!」
「ナイスパス、翔一郎。調子いいぜ、俺。斗音、次から俺も点取りに行くからな」
「オッケー。にしても、相変わらず、すごいジャンプ力だなぁ」
 やや擦れた声の斗音の、ぐっしょり濡れた背を、優しくなでるようにしながら、嵐はおおらかな笑顔を見せる。
「なんのなんの。まだあと二十回は飛べるぜ?」
 冗談半分に言いながら、電光掲示板に目をやる。71-64。この試合の中でその差はかなり縮まっている。
(あと7点・・・・・・)
 スリーが二本でも追いつかない。相手も点を入れてくるのは間違いないから、とにかく攻めるしかない。
「あいつらがびびってるうちにちょっとでも取らせてもらわねえとな」
 東海学園側からのスローイン。ゾーンをがっちり固める。相手はじっくり時間を使って攻めてくる。センターラインを越えたところで、相手が一気にペースを上げた。めまぐるしいパスにドリブルで、たちまち攻め寄ってくる。そして強引に中に入ってくるのを、門真と翔一郎で食い止める。強引に入ってきた選手が、ふとドリブルしていたボールを両手に持った。そして軽く膝を浮かせる。
(シュートか?!)
 門真がブロックしようとジャンプしたが、相手は腰を落としたままである。
(フェイク!)
 翔一郎は読んでいた。びたりと張り付いている。相手が再び膝と肘を上げた。翔一郎が跳ぶのと、相手が跳ぶのは同時だった。翔一郎の腕がシュートコースを塞ぐ。しかし。
(なっ!?)
 相手の腕は上がってこなかった。そのまま下で待ち受けていた鈴来にボールがわたる。
「あっ」
 慈恩が小さく声を上げた。その目の前に斗音がいた。ボールを持った瞬間、勢いよく一歩踏み込んできた鈴来に斗音の身体が突き飛ばされる。ピピィーっと笛が鳴った。
「オフェンス!プッシング!」
「俺!?マジっスか!」
 鈴来が声を裏返す。しかし、如月のメンバーはそんなことに気を取られる暇はなかった。
「斗音!」「椎名!」
 同時に一人の名前を二通りで呼んで、四人が駆け寄る。
「大丈夫か?」
 翔一郎に抱き起こされながら、斗音は微かに眉根を寄せた。とっさに庇ったものの、気管の辺りに直接外部刺激が加わったのだ。微かに不快感がある。だが、発作につながるほどでもなさそうだ。
「・・・大丈夫です」
 徳本がほっと胸を撫で下ろす。嵐が片目を細めるような仕草をした。呼吸音がいつもより擦れている気がしたのだ。翔一郎に支えられながら、斗音が立ち上がる。そっとぶつかられたところをさするのを見て、嵐は斗音を覗き込んだ。
「本当に大丈夫か?無茶しないって約束だぞ」
 薄茶の瞳を細かい瞬きでニ、三度隠してから、斗音は微笑んだ。
「まだできるよ」
(・・・・・・まだ、か)
 嵐は小さく頷いてその華奢な肩を抱いた。
「お前はスリーの位置に行ってろ。そこまでは俺たちで運ぶ。無茶するなよ」
「・・・ん、ありがと」
 如月からのスローイン。絶対にカットされないように、慎重に運ぶ。そして、翔一郎と嵐が再び二人で強引に攻めに行く。たちまち二人がディフェンスに囲まれる。
 もちろん斗音もフリーにはしてもらえない。むしろ、フリーになったのは徳本だった。それを見逃さず、翔一郎が隙を狙ってワンバウンドでパスを送る。それが横から伸びてきた手に、いい音を立てて弾かれた。ボールが誰もいないスペースに転がる。すかさずそれを奪い取った徳本が、更に強行突破せんと突っ込んでいく。相手がゾーンを固めた瞬間、徳本から素早く斗音にパスが渡った。
「打たすなっ!」
 東海学園サイドが声を上げる。その声より早く、斗音の跳躍は頂点に達し、そこから放たれたシュートは美しい軌跡を描いて真っ直ぐにリングを通った。慈恩が拳を握り締めると同時に、わぁあああっと歓声が上がる。
「スリーポイントだぁっ!」
 電光掲示板の如月側に3点が加わって、71-67となる。残り時間はあと3分。
「こっちのリードは変わらんばい」
 落ち着きのある東海学園の背番号4は、キャプテンの緒方である。二年生トリオの活躍に浮き足立ちかけていたチームが、すっと表情を引き締める。
「あのスコアラー、背番号11のハーフっぽい奴、あいつ止めて俺らが点取り行くばい」
 東海学園の次の速攻は目覚ましかった。鈴来にさばかれたパスでいっきに如月メンバーが抜き去られる。ゾーンを固めたと思ったら、その間をまるで手品師のようにすり抜けて、ジャンプした嵐をあっさりとかわして、緒方の見事なダブルクラッチを入れたシュートが決まった。
「くそっ、なんて奴だ。空中で二度もフェイク入れやがった」
 何もできなかった門真が悔しそうに舌打ちする。ぴたりとつかれて身動きが取らせてもらえなかった斗音と翔一郎も、そのスピードに唖然とする。鋭い反応でシュートコースを塞いだ嵐ですら、たやすく抜かれてしまったのだ。73-67。再び開いた差が重く圧し掛かる。

「今は攻めるしかねえよ、キャプテン。そうだろ?」
 相手より7点分余分に入れなければ、勝ちはない。残り時間2分とちょっとの間に。いつもはそれなりに敬語で応対してくる嵐の勝気な言葉に、徳本は頷いた。
「ああ、ここまで来たらやるしかねえな」
 如月のスローインで攻撃に入る。決して取られてはならないという意気込みが、全員の顔にみなぎる。しかし、敵もさるもの、この疲れ切った最終場面で、如月の気力を折れさせるようなオールコートのマンツーマンディフェンスに切り替えてきた。
(こっの、化け物軍団!)
 ボールを持ったはいいが、動かせてもらえない。嵐は何度もドリブルで抜こうと試みたが、抜いたと思っても追いつかれる相手の動きの素早さに、どうすることもできずに翔一郎にパスをする。辛うじてそれを取った翔一郎も、動かせてもらえない。そこへ回り込んでいた斗音が自分のマークを振り切るようにして翔一郎からボールをもらい受ける。
「スイッチ!」
 身軽にコートの隙間を縫って一気にスリーの位置までボールを運ぶが、そこで三人に囲まれて身動きが取れなくなる。フェイクを入れても、低い姿勢から切り抜けようとしても、まるで隙がない。必死でボールを取られまいと動き回りながら、斗音の動きが一瞬固まる。
(・・・・・・まずい・・・・・・頼む、もう少しもってくれ!)
 その一瞬の隙に、三人がボールに群がってくる。
「後ろだ!」
 聞き慣れた声に瞬時に反応して、斗音は後ろを見ずに、一瞬前に踏み出すようなフェイクを入れてディフェンスを半歩遠ざけると、そのまま後ろへパスを送った。
「ナイスパス!」
 斗音の耳元で声が横切っていった。如月チームのキャプテンが、斗音の前の三人を素早く抜いて、がら空きになっている相手チームのゾーンに突っ込んでいった。
「させん!」
 ディフェンスが襲い掛かってくる。その瞬間、徳本はやや強引にジャンプシュートの体勢に入った。その身体を、ディフェンスの一人が勢いで突き押す形になり、徳本は声を上げてバランスを崩した。そのままドン、と床にしりもちをつく。ピイーっと笛が鳴った。
「ツースロー!」
「よっしゃあぁ!徳本ナイス!」
 門真が飛びつく。鈴来がちっと舌打ちする。
「あいつ、狙っとったたい」
 フリースローの確率が、徳本は決して高いとはいえない。せいぜい五割か六割である。しかし、この土壇場での彼の集中力は、彼が如月のキャプテンに如何にふさわしいかを物語った。一本目は文句なく綺麗に決まった。そして、二本目のボールを渡されたとき、徳本は嵐と斗音に素早く目配せをした。そしてシュートする。
 ボールが手を離れた瞬間、嵐が飛び出していた。それに続いて何人かが押し寄せ、ゴール下は戦場と化す。中でも一番早く跳んでいた嵐は、信じられない高さでボールをキャッチすると、なんとそこから無理やり身体を捻じ曲げて、戦場の外へボールを放り出したのだ。ボールが向かった場所は、スリーポイントのラインの外。そして、斗音が逆に行くと見せかけたフェイクを二度入れた上で、必死にマークを外してそこへ滑り込み、ボールをキャッチする。そのまま軽く自分の前の床を蹴るようにして斗音が跳んだ。
「フェイダウェイ!?」
「くそぅっ!」
 軽く後方に傾いた斗音の体から、すっとボールが放たれる、その寸前、鈴来が斗音の傾斜と同じ角度で斗音に突っ込んだ。鈴来の指が軽くボールに触れ、その勢いのまま斗音の喉元を指で突く。直後、斗音の手からボールが放たれた。二人の身体が勢いよく床に、もんどりうって倒れ込む。ボールは、斗音のシュートとしては珍しく、ボードにぶつかった。その勢いで、リングの上を一周、二周転がってから、すとん、とネットをくぐった。空気を引き裂くような笛の音とともに、審判が三本立てた指を振り下ろした。
「カウント!ワンスロー!」
 どぉおっと会場が割れんばかりに沸いた。73-68だった電光掲示板が73-71となる。
「ワンゴール差だぁっ!」
「斗音!!」
 慈恩が叫んだ。大騒ぎの場内でも聞こえるくらい、その声は響き渡った。如月チームのメンバーも、声と同時に、再び不安要素を抱えていた少年を取り囲む。
「てて、痛ちゃ・・・・・・悪ぃ、平気かや?」
 ぶつけたらしい額を押さえながら、鈴来が起き上がる。しかし、自分が下敷きにしてしまった方は、起き上がるどころかうずくまって激しく震えている。なにやらヒューヒューという細い隙間風のような音も聞こえる。
「まずい、発作だ!」
 翔一郎が抱き起こすと、その蒼白な顔は苦しげに歪み、何か言いたそうに唇が動くが、途端気道に異物が絡んだ嫌な咳を立て続けにする。
「え・・・・・・なん・・・・・・そぎゃんひどかこつ、俺、しよったか?」
 不安そうに東海学園付属のエースが周りを見回す。全身がこわばって、動けない斗音を、翔一郎が抱き上げてベンチに向かう。それを追いながら、徳本が振り返った。
「お前のせいじゃねえよ。・・・・・・分かっててわざとやってたんだったら、ぶっ飛ばしてたけどな」
 ベンチではあわただしく介抱体制が整えられていた。運んできた翔一郎が、華奢な身体を慈恩に預ける。慈恩は慣れた手つきでその身体を支えるようにして、バスケ部が常備している携帯の吸入器で薬を投与する。そのシャツを、斗音がこわばったままの指でぎこちなく引っ張る。
「どうした?」
 あくまで慈恩の声音は優しい。余計なストレスを与えないためだ。斗音の薄茶の瞳が、苦しそうに潤んだまま訴えかけてくる。唇がかすかに動いた。
 あ・・・と・・・す・・・こ・・・し
「・・・・・・!」
 審判も心配そうにこちらをうかがう。
「大丈夫ですか?喘息ですか?」
 木下が沈痛な面持ちで頷いた。
「フリースロー、メンバーチェンジになりますね?」
 質問というより、確認だった。その言葉にも、如月チームの監督は同じように頷いた。慈恩は唇を噛んだ。残り時間、1分半弱。フリースローを決めて、あとワンゴール入れたら、如月の逆転勝利だ。もちろん、相手にはこの1分半、1点も入れられずに、が大前提だが。そのシュートを決められる確率が一番高いのが、今この腕の中で苦しげに身を捩る斗音だった。斗音なら、フリースローもまず外さない。このフリースローが入ると入らないでは、大きく違う。入らなければ、スリーを狙うしかない。尚更斗音のいないメンバーでは厳しい。木下はうつむいたまま、きりっと歯を食いしばった。もちろん、翔一郎も嵐も、スリーポイントは打てる。打てるが、驚異的な7割という斗音の成功率に比べれば、程遠い。門真と徳本は、どちらかというとゴール下タイプなので、期待はできない。
「岡崎、あとは頼む」
「せ、先生・・・・・・!」
 木下に指名されて、岡崎が固まる。木下は人のよい笑顔で微笑んだ。
「お前だってうちの立派なシューターだ。三年のお前が決めてこい」
「あ・・・は、はい・・・っ」
 がちがちになっている岡崎の肩を、徳本は勢いよく叩いた。
「ラスト1分半だ。そんで流れは今こっち。俺らの三年間、ここでぶつけようぜ」
 門真も満面の笑みで頷く。嵐と翔一郎は顔を見合わせた。そして軽く頷き合う。
「・・・・・・っ・・・・・・!」
 聞こえるか聞こえないかの小さな呻き。支える身体を、慈恩はそっと抱き寄せた。
「先輩にとっては最後の夏だ。・・・・・・あとは任せよう」

 大きな薄茶の瞳に透明な膜がかかった。雫となって溢れ出すのに、何秒もかからなかった。

   ***

 医務室のベッドで、冷たい汗ごと大きなタオルに包まれながら、斗音は慈恩にしがみついていた。その背中は嗚咽のたび頼りなく震える。そんな背中を、慈恩は優しく抱く以外、何もできなかった。
 試合は最終的に75-71。フリースローを外して完全に狼狽してしまった岡崎は、いとも簡単にディフェンスを突破されてしまった。それでも何とか崩れずに持ちこたえて、それ以上の得点は許さなかった。二度と抜かれはしなかった。しかし、追いつくには、時間も戦力も、不足していた。試合終了の合図とともに泣き崩れた岡崎を、徳本と門真が引っ張り上げて頭も肩も背中も、これでもかというくらい小突いたり叩いたりして、彼らなりにその活躍を褒め称えた。木下も、笑みを浮かべて何度も頷いた。そんな光景をあとに、とりあえず発作のおさまりつつある斗音を、医務室まで運んできたのだった。
「・・・・・・お前はよくやったよ。今のお前にできること、全部やってきたんだろ?」
 諭すように囁くが、斗音は小さく首を横に振る。あの残り1分半が悔やまれてならないのだ。もし自分が発作など起こさなければ。フリースローを決めていたら。あと一本でもシュートを打っていたら。
「あ・・・んな、大事、な、時に・・・・・・俺・・・・・・は・・・・・・っ!」
「・・・・・・でも、あれで倒されなくても、お前かなり無理してただろ」
「・・・・・・でも・・・っ」
 慈恩はそっとアッシュの髪をなでた。
「今のお前にはあれで限界だったと思う。あれ以上無理してやっても、シュートが入ったとは限らない」
 斗音の声が詰まる。慈恩はつらそうに柳眉を寄せた。
「誰もお前を責めたりしないよ。だからお前も、自分を責めるな」
 こらえきれない声が、斗音の喉の奥から漏れる。慈恩は片腕でそんな斗音の頭を、もう片方の腕で背中を、抱き締めた。
「・・・・・・分かってる。・・・・・・そうだな。そんな簡単に割り切れることじゃない。・・・・・・悔しかったよな。・・・・・・つらかった・・・よな」

 抑えていた声のたがが外れる。まるで子供みたいに声を上げて泣く斗音の背を優しくさすりながら、母親が死んだ時のことをふと思い出した。斗音がこんな泣き方をするのは、そのとき以来だった。慈恩の胸の十字架が、まるでその涙を受け止めるかのようで、斗音を誰よりもかわいがり、心配していた母の意志が、そこに宿っているように思えた。

   ***

 医務室の外まで来ていた如月のメンバーたちは、そのドアを開けられずに顔を見合わせていた。中から聞こえてくる号泣は、間違いなく斗音のもので、いつも、どんなに苦しくても決して弱音を吐いたり、まして泣いたりなどしない彼が、今どんな思いでいるのか痛いほど分かる。それゆえ、入るのが躊躇われた。
 慈恩の言った通り、誰一人として斗音を責める気持ちをもつ者などいなかった。そもそも、第4クォーターに出たこと自体、かなり無理をしていたのだ。それでも、誰もが彼を必要としていたように、彼も自分でそのことを痛感していたのだろう。自分から買って出たのは、自分のことよりチームのことを考えた結果だったのだ。それをどうして責められようか。
「岡崎、お前がへこんだりしてたら、椎名が余計つらい思いするぞ。あいつの前ではもう絶対へこむなよ?」
「分かってる。俺がもう少し、あいつの代わりができるくらいの技術を身につけていれば、あいつにあんな思いをさせずに済んだんだ。って、それを伝えたかったんだけどな」
「ま、今はもうちょっと、慈恩に任せといた方がいいんじゃねえ?あいつのこと、一番知ってるのは、なんだかんだ言っても慈恩だろうからな」
 なぜかメンバーに混じっていた今井が、軽く吐息する。木下も頷いて同意を示す。
「俺も、あいつが思った以上に点を取ってくれるもんだから、つい欲を出して、引っ込めずに無茶させたからな。少し落ち着いたら、椎名と、あと弟の方にも一言謝らにゃ」
 嵐と翔一郎は思わずくすっと笑った。さすが、みんなに慕われる「プーさん」だ。一人一人の気持ちを大事にしてくれるところが、慕われる一番の要因だ。
「斗音の気持ちを汲んで、第4クォーター、あいつを出したんでしょ?ほんとはあと一人、岡崎さんを投入するつもりだったんでしょ?」
 嵐に図星を突かれた木下がにやりと笑う。
「ばれてたか」
 岡崎が肩をすくめる。
「俺も目が合った瞬間、俺かよ!って思って、うわー俺では無理だーって、心の中で叫んでたから」
「でも、椎名を出したかったのも確かだぞ」
「そんなこと言っちゃって。でも、ほんと俺たちの考えてることお見通しだもんな。ほら、斗音のスリーが滅茶苦茶警戒されてたとき、俺たちがゴール狙おうって話してたら、先生OKサイン出してたじゃないスか。一瞬俺、あんなとこまで聞こえたのかと思いましたよ」
 笑いながら翔一郎が言うと、木下はきょとんとした。
「え?」
「覚えてないんスか?」
「いや、OKサイン出したのは覚えてるけど、そんなこと話してたのか」
 木下は磊落に笑った。
「俺はてっきり、椎名がこれ以上無理するようなら、やめさせなきゃいけないって言ってるんだと思って、そういうときはちゃんとメンバーチェンジしてやるから、任せとけって意味だったんだが」
 何度か素早い瞬きをしてから、翔一郎は嵐をちらりと見た。嵐は軽く肩をすくめる。
「だから、たぶんって言ったろ」
「・・・・・・しかも、任せとけとか言ってメンバーチェンジしなかったし」
「だから謝らにゃって言ってるだろ」
「・・・・・・・・・・・・何だよ」
 みんなの視線を一斉に浴びた翔一郎は、やや不服そうに唇を尖らせた。

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