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十八.個人決戦開始

 窓の外は既にとっぷり闇に沈んでいる。如月高校剣道部が泊まっているのは、旅館とホテルの間に位置しそうな宿舎である。部屋はどれも小さくて二人か三人部屋となっており、建物としては結構大きい。正面にはバスでも入れるロータリーがあり、その中央や周りは立派な植物園といった感がある。建物の構造上なのか、かなりの広さの中庭のようなものもあり、こちらもちょっと南国を思わせるような植物が茂っている。小さな池もあって、座った人の頭が見える程度の低い壁にベンチが取り付けられている、小屋風の小さな休憩場まで設けてある。ちょっと気晴らしに散歩したりする目的で作られたようだ。その割には、植物が成長しすぎていて、やや鬱蒼としているが。
 ベスト8に勝ち残った如月高校が次に対戦したのは、同じブロックの最大のシード・・・・・・つまり、トーナメント全体で第二シードに当たる、昨年度の準優勝校、香川県の私立光徳学園であった。隼の言葉を借りれば「光徳に勝てたら、決勝でうちといい勝負になる」というレベルである。篠田の苦肉のアドバイスは、やはりほとんど実力の差によって打ち砕かれてしまった。実力順に出てきた先鋒に、若園が2-1で敗れ、楠は実力では中堅クラスの次鋒相手にたちまち二本取られてしまった。橋本も、次鋒クラスの相手に2-1で中堅戦に負け、勝負はついてしまった。慈恩は遅ればせながら1-0で副将戦をものにしたが、近藤は相手の大将に2-1で、初めての負けを喫した。
「あぁあ、やっぱ光徳には勝てへんかぁ~っ。はぁ、椎名とやりたかったんやけどなあ」
 ひたすら自分の都合で悔しがっていた隼だったが、自分の高校のことをすっかり忘れて如月の試合に没頭していたため、大慌てで出雲第一のところへ戻ったら、監督や顧問の先生に大目玉をくらい、本当なら準々決勝から出してもらえるはずだったのが、準決勝からになってしまった。
「・・・・・・あいつはとことん変な奴だなあ」
 呆れ半分感心半分で、翔一郎がつぶやいたものだ。しかし、その間にすっかり如月高校の面々と打ち解けてしまっていたのだから、大したものである。
 団体戦の結果は、優勝が当初の予測どおり出雲第一高校、準優勝が光徳学園、三位が北海道の函館商業高校と熊本の日体大付属住吉高校という結果だった。
 剣道部全国ベスト8という連絡は、如月高校の職員室で待機していた教師陣を驚かせ、湧きかえらせた。昨年度は一勝しかできなかったのだから、大した成果である。
 そして、剣道部の生徒たちにはもうひとつおまけに驚くことがついてきた。
「あれ?如月さんもここに泊まらはるん?」
 宿舎の前のロータリーで止まったバスから降りた途端、先ほどついたばかりで大きな荷物を持った出雲第一高校の集団と出くわしたのである。彼らは練習場の都合で、先日は名古屋に宿を取っていたのだ。校長の計らいで、剣道の応援に来ていたバスケ部の何人かも、こちらの宿舎に予約してあり、バスの後をタクシーで追ってきて、その一団と遭遇した。
「お、隼じゃん。お前らもここなの?奇遇だな」
 楽しそうに翔一郎が声をかけた。
「ゆっくりできるの?できるんだったら、明日の個人戦予想、聞かせてよ」
 無邪気に言ったのは瞬だった。隼は、あはは、と笑った。
「遊びに行きたいんは山々やけど、今日どやされてしもたばっかやし、夜練もあるさかい。たぶん部屋で明日の朝まで爆睡や。かんにんな」
「そっかー、それじゃ仕方ないね」
 瞬としても、もともとそんなに期待していなかったらしい。
「今日も練習すんのか?逆に疲れが残ったりしねえか?」
 嵐が訊ねると、ん~と首をかしげる。
「普段の練習量からすれば、今日は全然足りてへん。いつも通りの体調キープしよ思たら、俺はやった方が調子ええけどな」
「こな、いつまでしゃべくっとる。はえことござっしゃい、隼」
 結構年配の、恐らく監督であろう人物に呼ばれ、隼はしまった、という顔になる。
「あかん、これ以上どやされたら、割に合わんわ。したら、またな」
 言って、くるりと向きを変え、小走りで出雲第一の集団を追いかける。斗音が思わずくすっと笑った。
「隼って、剣道はすごいのに、ほんとお茶目だね」
 外見は全然そう見えないだけに、尚更そのギャップが印象的である。
「出雲第一はこれから夜練だそうだ。個人戦に出る三人だけでも、練習するかい?」
 ニコニコと篠田が言った。橋本がげっそりした表情を見せる。
「真剣勝負三回なんて、普段の練習より何倍もきついっすよ。あいつは全然足りてないって言ってましたけど、それこそ化け物だ」
 慈恩も苦笑でうなずいて、同意を示す。剣道四段の顧問は、いつもの笑顔でうなずいた。
「今日はもう遅いし、とにかくゆっくり休んだ方がいいだろう。今から配る紙に、今日の部屋割りが書いてある。ほとんど変わらないけど、一部変わってるところがあるから、それにしたがって荷物を移動して、部屋で休憩しておいてくれ。食事は七時半。この階の桜の間になってる。遅れるとなくなってるかもしれないから、気をつけて。じゃあ、この紙、受け取った者から解散」
 もらった紙を見て、各々が自分の部屋を確認する。慈恩が首をかしげる。
「あの、俺だけ三〇三号室、一人なんですか?」
「いや、書いてないだけ。バスケ部のために部屋が二部屋取ってあるけど、どっちも三人部屋で、泊まれるのは六人。けど、応援に来てるのは七人なんだ」
 篠田のなぞなぞめいた言い方に、慈恩はああ、と納得する。
「バスケ部の誰かと一緒に使えってことですね」
「仲良しの四人グループが来てるからね」
 誰が一緒になるかは、彼らと一緒に決めればいいよ、とやんわり言う。出来過ぎ集団もそれを聞いて、なるほど、とうなずいた。
「じゃあ、慈恩と斗音でいいじゃん。気兼ねしないし、大丈夫だとは思うけど、もし発作起こしたりしても安心だしね。夜は二人で三〇八号室に遊びに来るよね。こっちの方が広いから」
 あっさりと決めたのは瞬である。嵐がちょっとだけ肩をすくめた。
「そうだな・・・・・・。俺、慈恩と一緒の部屋、楽しそうだと思ったけど、慈恩がリラックスできる方がいいよな」
「別に、嵐とでも俺、緊張はしないけど」
「でも、慈恩のこと一番分かってんのは斗音だろ?嵐は時々過激だからなあ」
 慈恩が眠れなくなるようなこと、言い出しかねない、と翔一郎が笑う。
 慈恩もくすくす笑った。とりあえず、最初の瞬の意見に反対する理由もなかったので、即座に部屋割りは決まった。
「修学旅行気分で楽しみたいのはよく分かってるけど、椎名慈恩は明日があることも忘れるなよ」
 篠田の言葉に、五人は顔を合わせて肩をすくめた。
「はい」
 返事をして、慈恩は苦笑した。

 食事までに入浴を済ませ、食事のあとは五人で持ってきた菓子類を広げて、カードゲーム大会となった。賭けるものがないと盛り上がらない、という理由で、勝った者が最下位だった者に何かひとつ、白状させるというルールがついた。白状ネタを選ぶ権利と、自分の秘密を賭けるわけである。盛り上がらないわけがない。
 ところが、UNOをやっても、大富豪をやっても、七ならべをやっても、ババぬきをやっても、七割は嵐の勝ち。残りの四人がいろいろ暴露させられる羽目になった。
「嵐、カジノで食ってけそう」
 翔一郎が溜息をついた。大富豪で負けたのである。
「ん~、じゃあ翔一郎。お前が初めて女の子からもらったプレゼントは?」
 白状させる側の嵐は、ニヤニヤしている。翔一郎は軽く顔をしかめて舌を出した。
「プレゼントなんてもらわねえよ」
「うっそだぁ。絶対もらってるって。ちゃんと白状しなよ」
 ポッキーを片手に瞬がせっつく。せっつかれた方は短めの黒髪をがしがしとかき上げた。
「ああっ、もう!そんなのっ、チョコレートに決まってんだろ!ありきたりで悪かったね」
「へえ、いついつ?」
「誰から?」
 重ねられる質問に、翔一郎は両腕でストップを掛けた。
「はい、ここまで。それ以上はちゃーんと勝負に勝ってから聞け!」
「ちぇ、けち」
「よし、じゃあ次のターゲットはもう一回翔一郎だな」
「うっそ、勘弁してくれよ」
「てゆーか、嵐まだ一回も白状してないっ!勝たなくても絶対負けないもん。ちょっとみんなで嵐ターゲットにしようよ」
「ははぁ、そうきたか。いいぜ、やってみな。多分負けねえと思うけど」
 嵐の異常な記憶力と洞察力にかかれば、カードゲームの勝敗すら左右されてしまうに違いない。瞬がカードの上にばたっと転がった。
「嵐の脳みそ自体が反則だよぉ~っ」
 駄々っ子のような瞬の仕草に、残りの四人が思わず笑い出す。慈恩がふと腕時計に目をやる。そろそろ十時近い。その仕草に、斗音が反応する。
「あ、ヤバ、時間忘れてた。もうそろそろ休んだ方がいいね」
「そうだな。じゃ、悪いけど先休ませてもらうよ。けど、バスケの方も明日は調整に入らなきゃいけないんだろ?ほどほどにしとけよ」
 くすっと笑って、慈恩は立ち上がった。斗音も立ち上がる。
「俺も行くよ」
 瞬が転がったまま不満そうな顔をする。
「えぇーっ、斗音も行っちゃうのー?つまんないよー」
 そんな瞬の白い額を、嵐は軽く弾いた。
「斗音に本番までに養生しなくちゃね、って言ってたの、どこの誰だよ?」
「俺」
 答えてから、それでも瞬はごろごろ転がって斗音のジーンズを引っ張った。
「でも、斗音がいなかったら、翔一郎と俺では嵐を追いつめらんないじゃんかぁ」
「あ、瞬、今俺を愚弄したね?」
「気のせいだよ~。ねぇ斗音、もうちょっとだけ遊ぼうよぉ」
 一人っ子の上、いつも夜遅くまで塾に行っている瞬は、こうやって夜誰かと遊ぶといった機会が少ないのだろう。斗音は困ったように微笑んだ。
「分かったよ、じゃあ着替えたらまた来るから」
 瞬がぱっと明るくなるが、他の二人は苦笑いしながら首を振った。
「無理しなくていいぞ、斗音」
「そうそう、まあ、ほら、気が向いたら来いよ。気が向いたらでいいからな」
 翔一郎は軽く片目を閉じて見せた。このまま帰って休んでもいいよ、と暗黙のメッセージを視線に載せる。
 斗音も了解の笑みを浮かべた。コミカルなやり取りに、慈恩も思わず笑った。
「じゃあな。おやすみ」
「おやすみ。ゆっくり休んで、明日頑張れよ」
「おやすみっ。また明日な」
 部屋に戻った慈恩はさっそくTシャツとハーフパンツに着替え、斗音はその間に顔を洗って歯を磨く。
「お前、このあとどうする?」
「ごおあほ?」
 歯磨き中だった斗音は、慈恩の質問の意図を把握するのと、明瞭な発音で返すこと、両方を失敗した。慈恩の方は斗音の意味不明の発音の意図を汲み取って、苦笑する。
「あっちの部屋、行くのか?」
「うーん」
 口をゆすいで、タオルで拭う。
「どうしようかな」
 手洗い場から部屋に戻る。斗音としてはゆっくりしたいという気持ちが強いが、こんな時くらい瞬に付き合ってやってもいいかな、とも思う。それに、問答無用であの三人といるのは楽しい。
 慈恩が着ていた私服をかばんに片付けながら、何気なく言った。
「俺は一人でも平気だから、行きたかったら行って来いよ。俺に合わせる必要はない」
 そんなことを考えてついてきたわけではなかったつもりだったが、斗音の心に木枯らしのように冷たいものが駆け抜けた。楽しさで紛らせていたものが、いっきに押し寄せる。
(何だよ、これくらいで!何で・・・・・・)
 理性が叫ぶ。その裏側で、慈恩があの楽しい輪から抜けて、一人で部屋に戻るのは寂しいだろうと、無意識に思って行動した自分の気持ちが、冷たく冷える。楽しかったところをせっかく抜けてきたのに、自分は必要ないのかと訴える。
 斗音は気づいていないが・・・・・・いや、現時点では誰も気づいてはいなかったが、完全に情緒不安定に陥っていた。それを何とか理性でカバーしているので、周りはちょっと心配になる程度で済んでいるのだが、今の斗音の思考状態は、ほんの些細なことでも悪い方へ悪い方へ結びついてしまい、不安や寂しさに襲われるような状態だった。それは、以前、嵐の部屋に斗音が泊まることになったときに、嵐が気づいたもので、更に言えば、それは予兆に過ぎなかった。あれから一ヶ月強、症状は密やかに、しかしながら速やかに進行していた。
 いらない存在。九条からそう言われた。発作を起こして知らずかきむしった痕は、もうほとんど分からないけれど、知らず指でなぞる。九条と慈恩に関わることで、ショックを受けたことやつらい思いが次々と思い出され、込み上げてくるものに押されて、目頭がじわりと熱くなった。
(駄目だ、俺、もたない。こんな俺がいたら、慈恩に心配かける)
 既に潤んでしまった目を見られないように、身体をドアに向けた。そのままドアに向かって歩く。
「うん、瞬が待ってるし、俺、あっち行くよ」
 ドアを開けて、廊下に出てからわずかな隙間だけ開けて、のぞく。これなら、気づかれない。

「先休んでなよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ。鍵は開けとくからな。みんなによろしく」
 望み通り、慈恩は特に気に留めることもなくそう言った。斗音はそっとドアを閉める。ほっとした瞬間、信じられないくらいぼろぼろと涙が溢れた。
(なに、何なんだ俺、どうしちゃったんだろう・・・・・・)
 嗚咽が漏れないように、慌てて口を押さえる。こんな状態では三〇八号室に行くことすらできない。薄い青とグリーンの細かいチェックが入ったシャツの袖で、ごしごし目を拭った。部屋にはいられない。でも、ここにいればいつ誰と出くわすか分からない。動転しそうな気を何とか落ち着けながら、斗音は人目に付かない場所を目指した。
 初めに向かったのは非常の際に利用される階段だったが、コツンコツンと人の足音がするので、そのまま一階まで抜けてしまった。だが、フロントには人がいる。それで、フロントとは逆方向に向かうと、ゲーム機や自販機が少しだけ置いてある場所に出た。ずいぶん遅いので、さすがに誰もいない。ずっと進めば宴会場だろう。さすがにそこまで行く気にはなれなかった。しばらくそこで休もうかと思った時、数人の足音と、高校生くらいの少年の声が聞こえてきた。飲み物でも買いに来たのだろうか。
 慌てて周りを見回した斗音は、そのコーナーのガラスが開くことに気づいた。中庭に出られるようになっている。考える間もなく、斗音はそっとガラス戸を開け、やや鬱蒼とした感のある南国風の中庭に抜けた。音を立てないようにガラスを閉め、逃げるように中庭を横切っていく。月明かり以外に光はないが、満月に近いせいか、結構明るい。少し入ってしまえば、これだけ植物が茂っているので、自分の姿は見えなくなるに違いない。足早に奥へ奥へと向かった。
 ふと気がつくと、池があり、その脇へちょっと入った辺りに休憩所が設けられている。吸い込まれるように斗音はそこに向かった。夜中の十時である。涼しい夜の風以外に、その場を訪れるものはない。奥行きのある席の手前に腰を下ろし、木でできている机に臥せった。
(ここなら誰にも遠慮なんていらない。・・・・・・慈恩も、いない)
 家にいても、こうして突然不安になったり寂しくなったりして泣きたくなることはあった。そんな時は部屋に閉じこもって、枕を抱きしめて、声が外に漏れないようにそっと涙をこぼした。家には必ず、こうして心をかき乱す原因になる慈恩がいて、その慈恩には絶対に知られたくなかったのだ。
「・・・・・・ふっ・・・・・・ぅ・・・・・・」

 こらえていた涙が、遠慮なく溢れ出す。つらい、苦しい、寂しい。それらが身体中から溢れてくる。しばらくは、それらが溢れ出して来るままに、任せることにした。

 どれくらいそうしていただろう。二十分にも思えるし、五分しか経っていないようにも思える。それでも、この涙は底なしなのかと思うほど、臥せたシャツの袖にこぼれて染み込んでいく。永遠に続くのではないかと斗音が思った瞬間、不意に、しかも間近で人の声がした。
「・・・・・・お前・・・・・・斗音・・・・・・・・・・・・?」
 ピンポイントで名前まで当てられて、斗音は思わず涙で濡れた顔を上げた。全く人の気配などしなかったのに、視線の先には月の光を背負うようにした人影がある。
「泣いてはるんか・・・・・・?どないしてん・・・・・・?」
 聞き覚えのある訛り。心配そうに覗き込む、大人びたシャープな顔。
「はや・・・ぶさ・・・・・・?」
 思わず目を瞬かせると、溜まっていた涙が両方の目から時間差で流れる。それを隼は長い人差し指ですくうようにした。
「そんな泣いとると、せっかくのべっぴんが台無しやで」
 困ったように、ちょっとだけ笑って見せる。長い睫毛にびっしり水分を含ませたまま、斗音は呆然と突然現れた人物を見つめる。
「・・・・・・何、で、ここに・・・・・・?」
「夜練終わってシャワー浴びたら、あつうなってしもて。俺、冷房はコンディション崩すことあるさかい、あんま好かんのや。ほんで散歩でもしよか思てここ来たんやけど・・・・・・」
 ちょっと言いにくそうに口ごもる。
「なんかちょこっとだけしゃくりあげてるような声聞こえたんや。せやから、気配殺してここまで来てみたら、お前が伏せとってん」
 さすが剣道の実力者である。気配は完璧に消されていたのだから。半ば放心状態で、それでもつらさや悲しみの権化は止まることなく、次々と頬を伝わせたまま、まじまじと隼を見つめる。どうしてなのか、もう斗音にも分からない。隼がおたおたと取り乱して、とめどなくこぼれてくる涙を、両の手の平や指の腹で拭おうとする。
「かんにんな、俺今ハンカチ持ってへんのや」
 一生懸命涙を拭おうとしてくれる隼の優しさに、今度ははっきりと泣きたい気持ちが込み上げてくるのを感じ、斗音はうつむいた。ハラハラと大粒の涙が新たにこぼれた。
「あかん、間にあわへん。そんな泣いたら・・・・・・ちょお待ちや」
 慌てた隼が斗音の隣に腰掛けて、ほれ、と力強く肩をつかんだ。
「?」
「俺のシャツ貸したるさかい、ここで泣き」
 言うや否や、両腕で抱え込むようにした肩から上を、自分の胸に押し付けた。驚いた斗音がとっさに離れようとするが、鍛え上げられた隼の腕は、びくともしない。それどころか、ますます強く抱きしめられる。
「ええからじっとしときや。こないなとこ、他にだあれも来はらへん。我慢せんでええよ。俺ずっとこうしとったるさかい」
 目の奥がつんとした。あんなに外に出てしまったはずなのに、ぶわっと熱い雫が瞳から盛り上がり、たちまち溢れて、隼が中に来ている白いTシャツと、そこに羽織っている麻のような色合いのシャツに吸い込まれていく。
「・・・・・・ご、ごめん」
 いつもよりやや擦れた声を震わせて、斗音は麻色のシャツにしがみついた。しがみつく指も震える。
「・・・・・・ん。ええよ」
 隼の長い指を持つ手が、優しく斗音の柔らかな髪を撫でた。
「お前の気ぃ済むまで、俺、付きおうたる」

 な、と言い聞かせるような声も優しい。斗音は頬をシャツに擦り付けるようにして、わずかにうなずいた。

   ***

 翌日は快晴だった。朝から既にじりじりと暑く、じわりと額に汗が滲むほどである。昨日から引き続き剣道のインターハイ個人戦が行われる武道場は、中に入るとやや涼しく感じる。
「さて、今年はどこまでいけるかな」
 篠田の微笑みは、それでもやや緊張感を帯びているのが分かる。受付でもらってきたトーナメント表を近藤に渡した。橋本と慈恩も、それをのぞき込む。ややして、近藤が溜息をついた。
「一回戦は鹿児島商工の清水か。まずはこいつに勝つことだな」
 昨年度全国大会では耳にしたことのない名前である。慈恩はそれにつられて、近藤の勝ちあがる道をたどった。自分とは反対のブロックなので、近藤ともし戦うことがあるとすれば、決勝しかない。その近藤の前に最初に立ちはだかるのは、恐らく三回戦で当たる八百津高校の矢加部だろう。それに勝てたとしたら、ベスト8をかけて・・・・・・隼刀威と戦うことになる。
(近藤さんのベスト8は厳しいな・・・・・・)
 慈恩はやや眉根を寄せた。近藤が弱いとは思わない。隼が強いのだ。圧倒的に。昨日の団体戦でも、二回しか出場しなかったのだが、副将に位置し、その差の歴然たるやを見せ付けた。決勝ですら、光徳の三年生の副将相手に、二分数秒で2-0の圧倒的勝利。中堅までは引き分けできていて、副将でこの大差。大将戦も、出雲第一の部長飛鳥要(あすま かなめ)がほぼ四分フルに使って、光徳学園の実力者である加納相手に2-0と余裕の勝利で優勝を掴み取ったわけだ。彼も全国大会の上位常連である。そしてその飛馬は、もし慈恩が勝ち上がれば、決勝をかけて対戦することになる。
(俺が隼と対戦するのも、厳しいな、やっぱ)
「どうでもいいけど、各ブロックに絶対一人くらい出雲第一の選手いるんすけど」
 うんざりしたように橋本がぼやいた。篠田が苦笑する。
「そりゃそうだよ。全国大会の優勝ここ十年で六割っていう化け物高校なんだから」
 のぞき見していた嵐が、こんなもんか、といった顔でうなずく。
「なんか、決勝とか、下手すると出雲第一同士なんじゃねえか?」
「うん、去年もそうだった気がする。出雲第一の飛馬って人が準優勝で、優勝も出雲第一の三年生だった。ちなみに、三位は隼だったよ」
 斗音の笑みは、もうどうしようもないでしょ、と言っている。
「・・・・・・ほんとに化け物なんだな。近藤さんを化け物呼ばわりしてる場合じゃねえじゃん、あいつ」
 翔一郎が肩をすくめた。
「そして、今年の優勝候補は飛馬だ」
 にっこりと篠田が付け足す。篠田に日本史を習っている二年三組の三人は、それぞれに苦虫を噛み潰したり、溜息をついたりした。
「今日は今井が柔道に行ってるから、とりあえず無様な姿だけは見られなくて済むかも」
 最初っから弱気なのは橋本である。橋本の初戦の相手は、前日の団体戦で三位になっている函館商業高校の、大将を勤めていた少年だ。はなからかなり厳しい戦いである。
「函館商業の梶本か。確かに強いな。だが、そんな諦めモードでどうする。せっかくここまできたんだ。昨日だって勝てなさそうな試合でも、勝ってきただろう」
「勝てなさ・・・・・・って、まあ確かにそうだけど、近藤、ひでえよ」
 うっ、なんて泣くふりをしている辺りは、かなりリラックスしているらしい橋本である。
『明日は俺、優勝狙ってんのや。見とき。絶対とったるさかい、そんでお前に元気分けたる。せやから、俺見とき』
 昨夜、別れ際に隼に言われた台詞を、斗音は思い返す。散々泣いた、大して見知っているわけでもない自分を、最後まで慰めてくれた隼。二年生でインターハイ優勝を取ると宣言して見せるその力強さに、勇気付けられた。おかげで、何もなかったように、いつも通りの顔で、慈恩と顔を合わせることができた。そっと視線を出雲第一の方に向けると、あちらもトーナメント表を見ながら、なにやら集まっているようだった。
「どしたの、斗音?」
 ぼんやりしていたところ、不意に声を掛けられて、慌てて瞬に目を向けた。
「出雲第一?やっぱ気になる?慈恩、当たる可能性、高いよね」
 にこっと笑う瞬に、思わず微笑み返す。
「勝ち進めば、絶対に当たるところだからね」
「椎名は去年ベスト8だから、何とか佐賀南高校の東漢十(あずま かんと)に勝って、ベスト4には行きたいところだな」
 近藤が慈恩を見やる。佐賀南は、団体として強いわけではないので、個人戦のみの出場だが、漢(おとこ)十人の名を持つ彼は全国区である。近藤より更に身長体重ともに勝っている辺りは、名前を裏切っていない。腕前も然りである。間違いなく勝ち残ってくるであろうという人物の名に、慈恩は苦笑した。
「そこまで勝ち残れるかどうかです。多分その前に出雲第一の林さんと当たると思いますから」
「林は先鋒だ。お前なら勝てる」
「そんなに買いかぶられても・・・・・」

 その時場内に、開会式の準備を促すアナウンスが流れた。

 試合は特に大きな波乱もなく、順調に力のある人物が勝ち進んでいった。予想通りというと寂しいが、橋本は一回戦で敗退した。善戦はしたのだが、結果としては1-0だった。近藤は一回戦、二回戦を危なげなくクリアした。慈恩は一応シードがかかっていたので、二回戦からだったが、敵がまるで相手にならなかった。三分ちょっとで試合は終了した。隼もシードがかかっているので、二回戦からになっていたが、それでも二分も戦わずに終わった。
 三回戦の近藤の相手は、去年ベスト16に入っている八百津高校の矢加部である。近藤は去年二回戦で敗退しているので、同学年としては相手の方に分があるだろう。と、誰もが予想した。もちろん、如月高校の面々は、そう思っていても近藤の化け物っぷりもよく知っているので、負けるところが想像できなかったのも確かであった。
 勝負は熾烈なものとなった。どちらも絶対に一本取らせようとはしない。どちらも一本も取れないまま四分が過ぎ、延長戦に突入した。延長戦二分三十四秒を経過し、そろそろこの三分でも決着がつかないのでは、とみんなの心の中に焦りが生まれた時、近藤が見事に胴返し面を決めて、勝利をものにした。
「やったな、近藤!矢加部に勝っちまうなんて」
 今日は応援席の若園が、自分のことのように興奮している。近藤は面を取りながら、荒い息を整える。
「ああ・・・・・・強かったな。技巧派だったから、いつも椎名とやってるのが幸いだった。椎名と比べりゃ、あいつはひとまわり、格下だったからな」
「格下・・・・・・」
 慈恩は苦笑いしかない。確かに矢加部と自分が対戦したら、負けはしないだろう。でも、仮にも全国大会に出てくる三年生を格下呼ばわりするつもりは、慈恩には全くない。
「次は・・・・・・あの騒がしい二年坊主か」
 ややうんざりという調味料が、近藤の声に混じった。
「隼の試合、もうすぐだぜ。見て研究しなきゃな」
 溜息交じりに楠が腕を組む。隼の強さは、前日にいやというほど見せ付けられている。それでも、見ないわけにはいかないだろう。
「俺らも見に行こうぜ」
 嵐が斗音の華奢な首にすらりと長い腕をかけ、出来過ぎ集団を誘う。瞬が楽しそうに笑い、翔一郎も当然、といったようにうなずいた。斗音は、自分が行くことで昨夜のことを思い出して、隼が集中力を乱してしまうのではないかと、少し要らぬ心配をしつつ、強引に引っ張っていかれた。
「なんだや?おまいち、如月かい。はぁ、おまいち隼がお目当てかいな」
 隼とはまた違う訛りで声を掛けられ、真っ先に反応したのは嵐だった。
「出雲第一?」
「そげだ。あげな悪たれ坊主気にしちょーか。だっせえな」
 あからさまに上からものを言う態度に、嵐はやや秀麗な眉目を寄せる。
「あんたら、隼の応援に来てんじゃねえのか?」
「応援?はっ」
 その声を合図に、どよっと周りに笑いが起こる。
「誰があげなアホ応援すんだぢ。俺らが応援すんのは飛馬じょ。三年生やけん、最後、絶対優勝してまいてえからな」
「じゃあ何でここに来てんだ?」
「負けせんか思って来ちょーだけじょ。相手ただものよえけん、ふとちだい負けせん。はよ負けえっちゅーに」
 翔一郎が、瞬にぼそりと囁く。
「何言ってるか、分かるか?」
 瞬が可愛らしい眉を目一杯ひそめて応える。
「何か、早く負けろって言ってない?」
「相手が弱いとか言ってるよな」
「負けんの見に来てるって?」
「どうでもいいけど、分かりづれえよなぁ」
「こいつらの頭の中身もね」
 一緒に来ていた慈恩も、凛とした眉根を寄せた。
(あんまり居心地いいところじゃないな。それに・・・・・・出雲弁なんて、かっこ悪いから若者は使わないとか言ってなかったっけ、あいつ)
「同じ学校だろ。応援してやろうって気持ちはねえのか?」
 語調の強くなった嵐の問いに、別の一人が応える。
「あいちゃ俺らがちょべん時から通うちょった道場の息子だぢ。ほーで生まれた時から徹底的に剣術しわぎこまれて、つえくなって当たり前ぢ。だどもあのアホ、それわかっとらん。自慢げにえーたい竹刀振り回して。あげなしたら顔、潰したったらええわ」
『あ、俺けったいなことゆうてる?気にせんといてな。俺剣道馬鹿やから、かんにんな』
 斗音の脳裏に昨日如月の応援席で言っていた、そんな隼の言葉がよぎる。剣道のことになると、それこそ周りが見えなくなってしまって、先輩後輩関係なく物事を口走ったり、相手を叩きのめしてしまったり、常にやらかしているのだろう。そして恐らくそのたびに、周りからいろいろ言われたりして、気にしているに違いない。それでも直せない辺りが自称「アホ」「剣道馬鹿」につながっているのだろう。
「そげそげ。先輩を先輩と思っとらんぢ。そげな奴は、一回痛い目見なえけん」
 嵐は露骨に鼻で笑った。そんな表情も、とてつもなく映えてしまうところが嵐らしい。
「へえ。出雲第一って、すげえ強ぇからどんな学校かと思ってたけど、本当のダサさを勘違いした挙句に棚に上げて、平気で己の器量の狭さを開けっぴろげに周りにひけらかしちまうような愚かしい輩もいるんだな」
 あからさまに小難しくこき下ろす。出雲第一の集団は、ん???と顔をしかめた。何やら、あまりよくないことを言われたらしいことはなんとなく分かったが、何を言われたのかがよく分からないらしい。瞬がくすくすっと笑った。
「俺もそう思うよ。これに隼が勝つと、今度如月の選手と対戦だから、その時は敵になっちゃうけど、今は少なくとも隼の応援がしたくなった。うん、すっごくしたくなった」
 悪意を感じさせない天使の微笑みに、さっきまで隼を散々なじっていた彼らは、戸惑った上に赤面する者までいる始末だ。慈恩はおかしいのを必死でこらえた。
「始まるぞ」
 翔一郎が促す。その場にいた全員が試合場に目を向ける。斗音は思わず声を掛けた。
「隼、実力、見せてよ」

 試合場に向かおうとしていた隼が、ふと振り返った。面の奥でいつもの屈託ない笑顔が閃いた。
「おう、見ときいや。お前が・・・・・・お前らが見とるんなら、俺ええ気分でできそうや」
 相手は兵庫県の西宮学園、各務雅士、強豪校の大将である。審判の合図で互いに礼をし、構える。
「始め!」
「やあぁあああああっ」
「あぁ------っ」
 互いに気合の入った掛け声である。慎重にすり足でタイミングを計りながら、互いに距離を取る。背に白い布を背負う各務選手が、バネのある動きで隼の竹刀を牽制しつつ、挑発している。隼は落ち着いて様子を見ているようだ。
「やぁあ------っ!」
 素晴らしい瞬発力で、西宮学園で大将を務める少年が、間合いを詰める。竹刀が隼の右小手に襲い掛かる。隼は落ち着いたまま左足から斜め後方にわずか身体をかわし、竹刀の先の方向を相手の正中線から外さないように、右拳を内側に絞って、相手の竹刀を右上にすり上げるや否や、正面を打った。その間、わずか〇コンマ何秒の世界である。その正確さと素早さたるや、まさに目にも留まらぬ早業だった。
「めぇぇんんっ」
 一斉に赤旗が上がる。
「面あり、一本!」
(速い!)
 慈恩が息を飲む。何瞬かの間をおいて、嵐が呆れたように笑った。
「・・・・・・神速だな、こりゃ」
「つーか、開始十二秒だし」
 斗音は思わず長い睫毛をしばたたく。
(み、見えなかった、隼の動き)
 一瞬退いたようには見えた。と思ったら、もう面が打ち鳴らされていたのだ。
「今の、なんて技?」
 同じように細かく瞬きをしながら、瞬が慈恩を振り返る。
「小手すり上げ面だな」
 瞬はきょとんとしたあと、へえ、と言って視線を隼に戻した。
「聞いても分かんないなら、聞くなよ」
 翔一郎が小さな頭を小突いた。
 その一本に警戒したらしく、一気に各務選手の動きが慎重になった。なかなか仕掛けてこなくなったためか、次は隼が打って出た。それも素早かったが、敵もさる者、竹刀でがっちり受け止め、つばぜり合いとなる。身体は各務選手の方がひとまわり大きい。力任せに突き放されて、隼は大きく一歩後退した。その瞬間、力任せの技に出んと、各務選手が上段に構えた。隼の体勢はまだやや不安定である。
「危ねっ」
 思わず口走った翔一郎の横で、慈恩がぴくりと反応する。
(いや、これは)
 不安定に見えた隼の身体が、右足の大きな踏み込みと同時に力強く前に出て、片手に握られた竹刀がまるで相手の喉頭部めがけて吸い込まれるように突き出された。
「とぉおおおおっ」
 再び審判の赤旗が勢いよく上げられた。
「突あり、一本!それまで!」
「え、片手っ!?」
 瞬が大きな目を見開く。
「そんなん、ありなの?」
 慈恩はぎこちなくうなずいた。
「あるよ。片手技だ」
(それも、恐ろしく思い切りのいい)
 背筋がぞくっとする。この反応の速さは、ものすごい反射神経と、ボディコントロールと、勇気と、思い切りの良さと、正確さと、自信と、そしてその絶妙の場面で当たり前のようにその技を選んで出すための、膨大な練習が必要だ。
(・・・・・・強い。なんて強さだ)
「ちっ・・・・・・またかいな。ちーた腕の立つ敵はおらんのかいな」
 出雲第一の、恐らく三年生の集団は、その中の一人の、まるで負け惜しみのような呟きを合図に、つまらなそうにぞろぞろとその場から立ち去っていった。
「・・・・・・一分三秒。三回戦でもこの圧勝を見せつけるのか」
 近藤が溜息をついた。近藤とて自分の能力と隼のそれとの間に存在する隔たりは、嫌というほど分かっている。溜息をつく以外に、この時の心情の表し方ができなかったらしい。
「・・・・・・次の対戦の目標は?」
 橋本が近藤に問い掛ける。
「そうだな」
 如月高校剣道部のつわもの部長は、肩をすくめた。
「二分は試合する」
(うわぁ、消極的だぁ)
 如月応援団が思わず青ざめる。慈恩は高い天井を仰いだ。
「近藤さんには四分一杯試合するって、言って欲しいですね」
 己が見込んだ後輩の言葉に、近藤が視線で振り返る。
「一本に抑えろってか?」
「それくらいの力は、あるんじゃないですか?」
 慈恩は引き締めた唇の端を、わずかに上げた。
「隼は俺との対戦を熱望してます。でも俺は恐らくそこまで残れない。だから、俺の代わりに隼に如月の力を見せてやってください」
「お前の代理が俺に務まると思ってるのか。俺を過信してもらっちゃ困る」
 
近藤はフン、と笑った。
「でも、出雲第一の奴等に、相手が弱すぎるなんて台詞を言わせておくのは癪だからな。目標は四分きっちり戦うってことにしておく」
 慈恩は肩をすくめて笑った。

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