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十六.インターハイ開始

 八月四日、名古屋市の最も大きな体育館で、如月高校男子バスケットボール部は、一回戦、新潟県の代表であった新見高校と対戦した。互いにこれまでの試合でハイスコアを誇っており、速攻を得意としたチームであったにも関わらず、相手を38点に抑え、如月高校はその約三倍の得点を、電光掲示板に表示させた。得意のラン&ガンのレベルの高さを見せ付ける結果だった。
 
中でも部長の徳本、嵐、翔一郎の三名はスタメンから変わることなく、ずっと走り続けた。徳本はセンターとしてゴール下をよく守り、一人で18得点を叩き込んだし、スモールフォワードの翔一郎は中からも外からも打てるシューターとして22得点という数字を挙げ、パワーフォワードの嵐はとにかく攻めまくり、一人で新見高校が総がかりで如月高校から奪った得点の分を、そっくりそのままもぎ取った。
 
斗音は1クォーターが終了したところでメンバーチェンジし、2クォーターと3クォーターの二十分間、コートに入った。シューティングガードの斗音は、翔一郎と同じように外からも中からもシュートが打てるプレイヤーなので、重宝されているのだが、爆弾を抱えている身なので、無理はできなかった。それでも嵐や翔一郎に絶妙のパスを送り、自らもスリーポイント三回を含む13得点を挙げた。短時間でこれだけは、大したものである。
 
応援に来ていた慈恩は感心しながら、彼らの見事な連係プレーを観戦していた。
「集団競技もいいもんだな。ここまで互いに通じ合える仲間がいたら、ゲームしてても楽しいだろうな」
 慈恩の隣でそうつぶやいたのは、剣道部部長である近藤だった。嵐の計らいで、斗音の非常事態のための付き添いとして特別措置を組んでもらった慈恩と違い、彼は朝一の新幹線でこちらに到着した。
「何つーかこう、バスケがうまい奴はかっこいいよな。見たかよ、今の斗音から東雲へのパスとか、全然そっち見てないのに正確に飛んでくんだぜ。そこで最初から分かってたように受け取って、東雲は見事に敵をかわしてあのバネでダンクシュート。いいなあ、一回でいいからああいうの、やってみたいな」
 溜息交じりに肩をすくめたのは、同じく朝一で駆けつけた如月高校の生徒会長である。彼はなんと、テニスの大会が終わってから、あちこち回って顔を出していた。学校からいくらかの補助金は出たらしいが、自分のバイト代もかなりつぎ込んでいるらしい。テニスの方は、インターハイの一回戦で、春の優勝校と当たってあえなく敗退してしまっていたので、今は自分が会長を務める高校の応援に全力を尽くしているらしい。
 近藤は、勤勉な元クラスメイトをちらりと見やった。
「中学生みたいなことを言うな」
 その視線を軽く受けて、今井はにやりと笑う。
「心が純粋で素直な証拠だ」
「賢いんだから、もう少し語彙を工夫しろ」
「東雲が羨ましい」
「・・・・・・・・・・・・は?」
 怪訝な顔で近藤は目を眇めてから、苦い笑いで肩をすくめた。
「小学生みたいなことを言うな。お前の人格、間違って伝わるぞ」
「伝わればいいさ。あながち外れちゃいないだろうよ」
 今井の返答は、思いのほか複雑な気持ちから言葉になっていたらしい。
「・・・・・・ふん」
 隣で少々意味深な会話が繰り広げられているのも耳に入らず、慈恩は斗音と友人たちの活躍ぶりをじっと見つめていた。背が高い連中の多い中、斗音は目立って華奢で小柄だった。そんな華奢な斗音の放つスリーポイントシュートの綺麗なフォーム、正確なパス裁きは、華のある嵐の力強いプレーとはまた違った引力を持って、人々の目を惹きつけていた。
 時折、倒れてしまうのではないかと思うほど激しい動きをする斗音にひやひやしながらも、懸命にプレーする姿がどれほど輝いているのか、慈恩は改めて思い知った。
『ごめん、隠してて。正直、知って欲しくなかった』
 九条の養子に入ることを決断して、斗音にそのことを話した時、斗音はそれほど表情を変えなかった。一言、そう、とつぶやくように言っただけだった。その決断の理由のひとつとして、自分には九条の血が流れていること、自分たちは兄弟でも双子でもなかったことを挙げ、その事実を知っていたのかと柔らかく問うた時、斗音は哀しげに、儚いばかりの微笑を浮かべてそう言った。
『今までの人生、俺のために一体どれだけ犠牲にしてきただろう。あかの他人である俺のために。・・・・・・そう思われるのがつらかったんだ。ごめん』
(あかの他人って、何だよ)
 思い出すだけでも悔しい。事実だけが全てじゃない。今まで共にあった時間の存在が、そんな事実によって否定されてしまうほど軽いとは、思わない。そんな風に自分が考えるのではないかと思われたことも、寂しかった。
(犠牲って・・・・・・何だよ)
 そんなつもりは欠片もなかった。血がつながっていなかったことを知ったからといって、斗音を大切に思う気持ちは、変わりはしない。
「斗音がプレイするの、俺初めて見たよ。上手いんだな。あんな頼りなさそうな身体してるくせに、俊敏で正確で、視野が広くて。なんか、目が離せない」
 感心したような今井の言葉に、慈恩はふと我に返った。
「そうだな。でも目立つのはどっちかって言うと迫力のある徳本と東雲じゃねえか?」
 首をかしげる近藤に、今井がふっと微笑を見せた。
「繊細さより強さか。お前らしいよ」

 先輩たちの会話に、実は彼らの想いが見え隠れしているなんて、慈恩は思いもしない。やや今井の台詞に、過剰なものが含まれているような気がして、一瞬不審を感じはしたが。
 
そんな観客席の視線が集中する中、自分についていた十センチ以上も身長を上回る相手にフェイクをかけ、斗音の白いしなやかな腕が、その隙を突いてスリーポイントシュートを放った。どよめきと歓声が起こり、如月の電光掲示板に3点が追加される。仲間たちから肩や背をたたかれ、笑い合う斗音は嬉しそうだった。
『信用されてないんだな、俺は』
 思わず言った一言。言った瞬間に後悔した。斗音が泣きそうな顔になって斜め下に目を逸らした。唇を噛んでぎゅっと目を閉じて・・・・・・傷つけたとすぐに感じた。肩に触れようとして・・・・・・手を止めた。どれだけ今まで一人で苦しんできたのか、理解したつもりだったのに、軽はずみに言葉の刃を投げつけてしまった自分に、何ができるというのだろう。それに、その言葉は慈恩の本音でもあった。事実現在まで引きずっているほど悔しいし寂しい。そんな思いを抱えて、一体何の言葉を掛けられるのだろう。慰め?否定?そんなの嘘っぱちだ。
(今の俺では、あいつにあんな嬉しそうな顔をさせること、できない)

 深い溜息が、知らず漏れる。会場中の観客がゲームに集中している中、近藤だけがその物憂げな後輩を気遣うような視線を向けていた。

 翌日、豊川市の武道場で、剣道の団体戦が予定通り開催された。この日は団体戦で、勝者数法であるから、どんなに近藤と慈恩が強くても、あとの三人が一勝もできなければそこで敗退である。よって、緊張が高まっているのは若園と楠、そして橋本だった。
「去年も団体戦、一勝はしてるもんなぁ。下手に相手がメンバー入れ替えてたりしたら、どうしよう。俺大将クラスに勝つ自信ないよ」
 剣道は基本的に先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人で団体戦を競う。その強さは大将に近づくにしたがってレベルが上がっていく。それが基本中の基本だ。しかし、その五人で勝つための作戦は、どのチームもしっかり立ててある。本来なら大将を努めるべき実力の持ち主が前半に出てきて、確実な勝ちを狙うケースも多々ある。
 ぼやいた若園に、近藤がにやりと笑う。
「だとしたら、俺たちは百二十パーセント勝てるからいいじゃねえか」
 そして表情を改める。
「いいか。俺たちは東京都代表だ。激戦区で優勝してきたんだ。絶対に強い。自信持て」
 力強い声で言われると、自然メンバーの背筋が伸びる。そこに、選手登録に行っていた顧問の篠田がひょこりと顔を出した。
「さすが部長、いいこと言うなあ」
 にこやかな笑顔が好印象の、まだストレートに採用されて教員五年目というこの男性教師は、剣道四段の実力者である。大体練習も近藤にまかせっきりに見えるのだが、個々に的確なアドバイスを、みんなが気づかないところでしているし、練習メニューもよく近藤にアドバイスしている。だが、去年試合中にアキレス腱を切るという大怪我をしたため、今は自ら相手をするということはない。更に言えば、彼は二刀流の使い手なので、学校剣道としてはあまり合わないらしい。
「先生。初戦の相手校はどこです?」
 きりりとした表情で問う近藤に、あくまでやわらかな笑顔で答える。
「団体としては、まだ全国で無名に近いからねえ。愛媛県の強豪だよ。松山高校。去年はベスト16くらいまで行ったんじゃないかなあ」
 篠田の言葉に、若園と橋本がうなずく。
「まあ、力としては五分ってところか」
「技術が五分なら、あとは精神的な部分で補うしかないよな」
「近藤と椎名がいるから、五分じゃないよ」
 篠田がにっこり口を挟んだ。
「この二人は全国で名前を知られている。それだけでも相手校には大きなプレッシャーだ。それにさっき部長が言っただろ。正直、君たちは去年の如月高校よりずっと強い。まず松山には負けないよ」
 一瞬場が静まり返る。
「・・・・・・だったら、まだ無名だとか強豪だとか言う必要はないんじゃ・・・・・・?」
 楠が首をひねると、近藤が野獣のような笑みを浮かべた。
「それでも勝てる強さが俺たちにはあるってことだ」
 慈恩が小さくうなずく。その場にいた全員の瞳に、自信の輝きが宿った。
「なあ、篠さんと近藤のコンビって、いいと思わねえ?」
 そう言ったのは、昨日のバスケットボールの大会に引き続き、応援に来ている今井である。話題を振られた斗音はわずかに微笑んだ。
「理解し合って、上手く雰囲気を変えましたね」
 言いながら、如月高校生徒会副会長の視線は、部長の脇に控えるように立っている慈恩に向いている。インターハイの前に、全ての決着をつけようとした慈恩に聞かされた話のショックから、斗音は未だ立ち直れずにいる。
(昨日の試合中には、雑念全部消えてくれたのにな)
 斗音の集中力は目を瞠るものがある。しかし、さすがに慈恩を見に来ているのだから、気にするなというほうが無理である。朝からずっと塞ぎこんでいる斗音に、周りは心を痛めていた。それほど斗音の表情は痛々しかった。
『養子になることの条件で、学校を変わることになる』
 それを言ったときの慈恩の表情は、とてもつらそうだった。それを見ただけで、それがどれほど苦しい決断だったのか、斗音には理解できた。理由も打ち明けられたが、優しい慈恩があの夫婦の苦しみを放っておけるはずもなかった。何より、自分がそうしろと言ったのだ。今更口をはさむ資格はなかった。
『そう・・・・・・なんだ。・・・・・・普段会うことも、できなくなるね』

 不安から自分が不用意に口にしてしまった言葉に、慈恩が自分は信用されていないんだな、とポツリつぶやいた直後だった。慈恩を信用していないわけではない。自分が彼の心配に足る人間だという自信がないのだ。そもそも、斗音は自分自身にそれほど自信を持っているわけではない。家事が不器用なのは、そのせいでもある。「できない」ものが多い部分では消極的なのだ。
 
寂しくてつらくて、うつむいた自分に、慈恩はそう告げた。その瞬間、そんなの聞いてない、という反論が心の中に噴き上がっていた。でも、慈恩の表情がそれをさせてくれなかった。だから、無理に納得しようとした。まともに見られなかったけれど、慈恩は寂しそうに見えた。あんな顔をするときは、自分に何か言うべき言葉があるときだった。母を亡くした夜に、自販機の前でコインをぶつけたときと同じ、迷子のような漆黒の瞳。
(慈恩が欲しかったのは、俺の素直な気持ち・・・・・・でも学校変わるのは嫌だなんて、そんなのただのわがままだ)
 結局言えはしなかった。そのまま逃げるようにして部屋に閉じこもってしまった。
(俺はなんて弱いんだろう)
 そう思って、慈恩と離れることが今更ながら痛感されて、涙が溢れてきた。ベッドに転がり込んで、枕に顔をうずめて、絶対に声が外に漏れないように、そっと泣いた。ドアがノックされたが、応えられなかった。慈恩の決心を鈍らせることだけはできないと、そう思った。
『斗音・・・・・・斗音・・・・・・!起きてるんだろ、なあ!』
 珍しく鍵を掛けた部屋の外から、慈恩の静かだが強い声が聞こえた。
『お前はそれでいいのか?・・・・・・斗音!』
 よくない、よくない、よくない!ベッドの中で激しく首を振った。そして気づいたこと。
(行ってほしくない・・・・・・)
 その存在がいかに大きいのか。けれど、もうあとには戻れない。時間は決して遡ることはない。
(会おうと思ったらいつでも会える。あの夫婦が愛し合ってるのに別れなきゃならないことを思ったら・・・・・・俺だってその選択をする)
 そう思うことで納得しようとした。それは理性であって、本能的な感情を押さえ込むためのものでしかないから、こうして晴れない顔を周りに心配される羽目になっているのだが。
 如月高校は第六試合で松山高校と当たった。会場は広く、その室内に十二の試合会場がある。よって、それほど如月高校の応援団が待たされることはなかった。

 先鋒若園は、スタンダードな中段の構えから素早い動きで守にも攻にも移れる。テクニックなら次鋒の楠にも勝る。素早い動きと部長直伝の威勢のいい掛け声で相手をひるませ、一本も取らせなかった。が、こちらも一本も取れず、引き分けとなった。
 
次鋒の楠も中段の構えであるが、若園と違うのは、そのパワーだ。打たれてもものともせず受けて、撥ね返すことができる。しかも、撥ね返したその竹刀で一本を打ち込むことができるのだ。しかし楠は、早めに勝ちを取っておこうという相手の作戦により、実力で行けば副将辺りがふさわしい相手と当たった。一本先制され、一本払い胴で返したが、それ以上追い上げることができず、ラスト十秒で一本取られてしまった。相手も全国に出てくる学校なのである。
「くそっ、若園は先鋒じゃなくて、中堅レベルと当たってたんだ。若園より強い先鋒なんてなかなかいねえからおかしいと思ったんだ。橋本、お前たぶん本来の相手の大将が相手だぞ」
 逞しい楠の悔しがり方は、結構迫力がある。地団太を踏むと床が揺れたので、篠田が苦笑した。
「楠、揺れてる揺れてる」
 そして責任の重さを感じて少々硬くなっている橋本ににこりと笑いかける。
「大丈夫だ。若園が引き分けてるから、お前が例え万が一負けたとしても、後の二人が二勝して、代表戦で近藤か椎名が勝つから、絶対にうちの負けはない。だから思いっきりやってこればいいだけの話だよ」
 大した買われようだ、と慈恩は肩をすくめた。近藤は当たり前だというようにうなずく。
「そうだ。橋本、お前普段椎名や俺とやってんだぞ。相手の大将は全国でそんなに名前聞いたことねえ奴だ。そいつと俺と、どっちが強いと思ってんだ」
 橋本は思わず苦笑した。
「ああ、お前らのほうがぜってえ強えだろうな」
 言って試合場に足を踏み入れて、もう一度振り返った。
「とりあえず全力で当たってくるよ」
 笑みを浮かべたその表情を見て、慈恩は納得する。試合が始まる前にも感じたのだが、篠田と近藤の絶妙な士気の上げ方は、見事に効を奏している。もう橋本に、硬さはない。こうなると、橋本は結構強い。間違いなく相手は普段大将をしているであろう技量の持ち主だったが、落ち着いた中段の構えで、これでもかと打ち込まれる技を払い、かわし、その隙を突いて引き面を決めた。それが見事に一本になり、結局四分間の中で一本が決まったのはその引き面のみであった。
 落ち着いて竹刀を納め、礼をして戻ってきた橋本は、正座をしている仲間に向かって、こっそりガッツポーズをして見せた。慈恩は思わず顔をほころばせながら、先ほどのやり取りがこの勝利につながったことを確信した。
(さすが近藤さん。部長ってのは、大きな存在だ。篠田先生も、やっぱり有段者だけある。心の落ち着け方を知ってる。全国でこの二人がいることは、如月にとって絶対に大きな武器だ)
 そして、心の中に生まれる苦味。明日の個人戦が終わったら、近藤に告げなければならない。如月高校剣道部の部長にはなれないということを。
「椎名!」
 力を込めて呼ばれ、はっと意識を現実に向ける。隣の近藤が、厳しい表情で見ていた。
「ぼんやりするな。負けたら殺すからな」
 近藤らしい。自分にはそれが一番効くと分かっているのだ。リラックスするために。
「近藤は本当にやりかねないからな。椎名、殺されないように頑張れ」

 くすくす笑いながら篠田が慈恩の肩をぽんぽん、とたたいた。誘われるままに微笑して、慈恩は立ち上がった。この試合で、慈恩は副将を務める。実力でいけば、大将でもいいだろう。しかし、そこは篠田の作戦である。近藤は、実力もある。最後の決戦になったときに、部長という誇りを懸けて自分の最高の力を出し切ることができる人間だ。信頼を置いている橋本と慈恩で確実に二勝を取って、最悪でも近藤につなぐ。その、確実な一勝を取るための布石であり、実状ではよくある「大将クラスの選手で副将戦をやって、勝負をつけておこう」という、チェックメイトのための、最高の駒であった。
 
慈恩は少し目を閉じて、軽く深呼吸する。暗闇の中に一点の白い光が見えてきた。精神統一完了である。漆黒の長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、試合場の奥を見つめた。相手が歩いてきて、定位置につこうとしている。それに向かって、静かに足を踏み出した。

 まず正座に対する礼、次に相互の立礼を優雅にこなし、相手をじっと見つめて抜き合わせ、中段に構える。相手は恐らく普段の次鋒だろう。ぎらぎらする瞳は、何が何でも一本くらい決めてやろう、という気合に溢れている。
「始め!」
「ぃやああああああああ!」
 掛け声にも気合がみなぎっている。負けて当たり前、当たって砕けろというこういう相手は、結構思い切りよくできるので、危険だ。慈恩は静かに下段に構えた。守り重視で、相手の技に応じる構えである。
「・・・・・・慎重だな」
 嵐のつぶやきに、斗音は黙ってうなずいた。慈恩に心の乱れは全くない。悔しいくらいに。
(俺も昨日は試合に集中してたから、お互い様だけど)
「とぁああああああああ!」
 いきなり松山高校の副将が仕掛けてきた。慈恩が下段であるのを逆手にとって、上の面狙いである。慈恩は軽く左足から斜め左後方に引き、すばやく中段まで上げた竹刀で相手のそれを右にすりあげ、すかさず相手の右小手に打ち下ろした。
「小手ぇっ!」
 如月を示す白の旗が一斉に三本上がった。
「小手あり、一本!」
「はえぇ・・・・・・」
 電光石火のすりあげ技に、嵐ですらそうつぶやいただけで呆然とする。一瞬翻った慈恩の背の白い布と同じ、白旗が一斉に上がるのは、審判もさすがと言うべきだ。慣れていなければ分からないほどの速さだった。会場もそこで名の知れた椎名慈恩が戦っていることを知っているので、現在試合中の学校関係者以外は、注目していた。一瞬会場の雑音の音量がぐっと下がった。それをきっかけに、何が起こったのかと更にこちらに注目する人が増える。
「すっげぇ・・・・・・」
 息を飲んだのは今井である。
「一瞬何したのか分かんなかったぞ」
 斗音の胸は誇らしさで打ち震えた。斗音とて、それほど慈恩の剣道を見る機会があるわけではないが、少なくとも前回見たときよりははるかに技術が上がっているのが分かる。みんなが見とれている慈恩は、誰よりも自分に近い人間なのだ。その慈恩が褒められれば褒められるほど、まるで自分のことのように嬉しい。
「慈恩、かっこいい!すごいすごい!」
 試合場の雰囲気を壊さないように小声になりつつも、無邪気にはしゃいで喜ぶのは瞬である。
「何か、あんなすごい人間が俺らの友達だと思うと、誇らしいよな」
 翔一郎が感激あらわに、斗音に近い気持ちを代弁する。
「まだ試合は終わっちゃいない。最後まで瞬きもできねえな」
 半分苦笑、半分脱帽といった感で嵐が周りの視線を慈恩へと向けた。
 あまりにも早い一本に面食らった松山の副将だが、はなからそのつもりで戦っているらしい。すぐに立ち直って上段に構えた。攻撃重視の姿勢である。すかさず打ってきた。
「やぁああああああぁぁ!」
 全身全霊を込めた裏突である。突に対する応用技は、面や小手、胴に対するものよりよけづらい分少ない。その突に向けてわずかに出て、眼前に迫っていた剣先を右に払い上げるようにして流す。そしてそのまま鋭く面を打った。相手が瞬間的によけたせいで、竹刀が面をかすめる。
「おしいっ!」
 始まってまだ二十数秒である。瞬く間に繰り出される技に、またしても観衆がどよめく。
「打ち合うってことがねえのか、ここは。ひとつ手を出せば、たちまち応じられて逆に一本だ」
 感嘆の溜息交じりに如月のトップを張る男は、軽く首を振った。ほかの試合場からは、甲高い叫び声や掛け声とともに、竹刀の打ち合わされる音が響き合っている。
「今、一瞬突に向かって出たよね?勇気あるなあ」
「うん。でも、突に引いちゃうと余計打たれやすいらしいよ」
 瞬よりは少し、剣道のことが分かる斗音が解説する。
「ふぇぇ、そんなもんなんだ。ていうか、すごい見極めてるって感じだから、慈恩に当たる気がしないんだけどさ」
「ああ、何かそれは分かるな。動きが滅茶苦茶速いっていうか、鋭いんだよな」
「無駄な動き一切なしで、最小限の動きでかわして、流して打ってるよね」
 その言葉に今井が反応する。
「そういえば、慈恩は応じ技とか返し技が多いのか?」
「・・・・・・相手によってスタイルは変えるみたいですけど、自分から仕掛けるって言うよりは、相手が攻めてきたものを思い通り返すことで、自分の思うとおりの隙を作る方が多いと思います」
「はあ・・・・・・なるほどね」
 相手がどれだけ鋭く打ってきても必ず返せるという自信がなければできない戦法だろう。そう考えて、今井は溜息をついた。
「本当に全国レベルなんだなぁ、あいつは・・・・・・」
 打ち込めばたちまち応じられてしまうという事態に陥り、松山の副将は距離を取った。気合の入った掛け声で慈恩を圧倒しようとする。慈恩はあまり声を出さないので、そういう点では押されていると見られても仕方がない。小学生の頃は掛け声もしっかり出していたのだが、自分の場合それ以上に相手の動きをよく見て集中した方が決まるということに気づいて、声を出すことで気合を込めるよりも、相手の気合すら撥ね返す集中力を身につけるようにしてきた。逆にあまり声を出そうとすると、気が散ってしまうのだ。近藤はそのやり方にあまり好意的ではないが、篠田はこともなげに言う。
「いいんじゃないか?そんな剣士がいても」
 敵は間合いを詰めず、竹刀が届くぎりぎりで慈恩の竹刀をつつき、打つぞ打つぞとフェイントを掛けては跳び下がる。
「まるでヒットアンドアウェイだな。ほら、ボクシングの」
「そうだね。ヒットしてないけどね」
 翔一郎と瞬の、ややコミカルなやり取りの間に、慈恩は中段に構え直した。
「攻めるのか」
 嵐が独語した瞬間、如月高校副将が右足で踏み込み、その竹刀が宙に上がった。高さから言って右の小手か胴、といった感じで、思わず松山の副将が竹刀で払いにかかった。しかし、実際には払わせてもらえなかった。払おうとしたことでわずかに空いた喉頭部めがけて身体ごと鋭く突が入ったのだ。白旗が勢いよく上がる。
「突あり、一本!それまで!」
 うぉおおっ、と会場中がどよめいた。計時係はもちろんいるが、時間が分かりやすいようにと今回導入されているカウントダウンデジタルタイマーに電光掲示された残り時間は、三分二秒。
「一分経ってねえよ・・・・・・」
 は、と嵐は笑った。参った、といった表情だ。
「悪いけど、全然格が違うよ。ここ、全国なのに・・・・・・」
 饒舌な瞬も、言葉が出てこない。

 定位置で勝者の宣言を受け、竹刀を納めて礼をする。落ち着いた動作で静かに戻ると、観客席から拍手が沸いた。部活の仲間や友達、そして嬉しそうな斗音の姿を認めた慈恩は、微笑した。面の奥だから、その微かな微笑みが分かる人間はほとんどいないだろうが。そう思った時、斗音がまるでそれに応えるかのように微笑んだ。
(・・・・・・斗音)
 多分、斗音にも見えなかったはずだ。観客席までは距離もある。でも、斗音には分かったのだ。自分が笑ったということが。斗音にだけは、自分の心が通じているのが分かった。
(・・・・・・笑ってくれた。俺にはもう、あいつにあんな顔をさせること、できないと思ってた)
 集中していたことで意識の外に追いやっていた感情が、どっと押し寄せる。苦しみの中にじわりと甘い感情。
(・・・・・・・・・・・・よかった・・・・・・)
「見事だな、椎名」
 近藤がゆっくり立ち上がる。その様子ですら、余裕を抱いた獣のようなイメージがある。
「殺されずに済みました。でも、次負けたら同点になっちゃいますね。先鋒に出るべき相手にそれはないと思いますけど」
 微妙にからかうようなニュアンスを含めて、慈恩が応じた。剣道部の面々は色を失う。
(部長に対して何つーことをっ!!)
 ところが、近藤はぎらりと光らせた瞳で、にやりと笑った。
「誰に物言ってる。五十七秒で片つけてきてやる」
 慈恩は苦笑した。あくまで自分に勝ちたいらしい。相手なんて、眼中にすら入っていないようだ。
(近藤さんらしい)
 そして、その試合内容もらしさ全開となった。構えは上段、徹底的に攻撃するという姿勢に、既に松山の大将は腰が引けていた。もともと先鋒の選手である。恐らく彼には、近藤が何倍にも大きく立ちはだかって見えたに違いない。その上近藤が繰り出したのはかつぎ技である。
「やあああああああっ!!」
 気合の満ち満ちた掛け声とともにかつぎ小手を繰り出す。
「普通かつぎ技は十分攻めといて、いきなり出してびびらせるもんだよな」
 観客席で応援の田近が、溜息混じりにつぶやく。こんなことができるのは近藤部長くらいのものだと。
「だって、部長がやると怖いもんな。殺されそうな気がする。ていうか、絶対殺気こもってるし」
「あれにびびらないのは慈恩くらいだって」
 相手は必死に竹刀で受け止めたが、受け止めきれずにバランスを崩す。そこを、相手をひるませるような掛け声とともに打って出た。
「めぇえええええんっ!!」
 その恐ろしさに思わず足を引いてしまった松山の大将は、避け損なってバランスを崩し、打たれた勢いのまましりもちをついてしまった。如月高校の一本を告げる白旗が上がる。
「面あり!一本!」
 熱気のこもった会場で、多くの人間が背筋を駆け上る冷気を感じた。
「・・・・・・こぇえ・・・・・・」
 ぼそりとつぶやいた今井に、如月高校の面々はごくりと唾を飲み込んだ。今井をすら恐れさせる近藤に、恐れをなさずにはいられない。
「絶対脳細胞いくつか、今ので死滅してるよね」
「面だけは喰らいたくねえな」
 やや緊張感に欠ける恐れのなし方をしている瞬と翔一郎の会話を横目に、嵐は感心したように吐息した。
「慈恩がテクニック派だとしたら、近藤さんはパワーだな。どっちも強いんだろうけど、ほんと、全然違う強さだな」
 相手が立ち上がり、構えをするや否や、近藤は攻めに入る。やはり上段の構えで、今度は上段から面である。ぴしいっと竹刀同士が打ち合わさる音がしたと思ったら、その勢いで後ずさりせざるを得なかった相手に向かって一歩踏み込み、勢いよく面を狙った。必死に相手が、その間に竹刀を割り込ませる
 だぁんっ、と派手に音がして、ものの三十秒ほどの間に再び、今度は竹刀ごと力一杯弾き飛ばされてしまった松山の大将が、倒れたままうめき声を上げる。
「うわぁ・・・・・・いたそー・・・・・・」
 恐れを表情一杯に載せて、瞬が言葉をこぼす。
「剣道部が近藤さんを恐れるわけだよ。勝ち目の欠片もないじゃん。何か、相手可哀想になってきた」
 翔一郎もしみじみと言う。斗音も苦笑した。如月高校の一回戦突破は堅かった。
 その期待に見事に応えて、近藤は五十一秒経過したところで二本目となる面を打ち込み、すっかり逃げ腰になってしまった相手はそれを受ける動作すら間に合わず、またもや思い切り脳に衝撃を喰らう結果となった。
「面あり、一本!それまで!」
 悠々と戻ってきた近藤は、座して控えていた慈恩を見据え、野獣のような笑みを閃かせた。
「残り時間三分九秒。とりあえず、こっちの相手の方が弱かっただろうから、こんなもんだな」
「いっそ相手が気の毒でした」
 翔一郎と似たようなことを言って、慈恩は笑った。
「だから早く終わらせてやったじゃねえか。感謝してもらいたいくらいだ」
 尊大な態度も、強さに裏打ちされているので、嫌味ではなく、むしろハクがつく。
「とりあえず如月高校一回戦突破・・・・・・と。去年は二回戦で敗退してるから、今年はもう一回勝てるといいな」
 今井の言葉はまさに慈恩の目標そのままだった。
 二回戦は京都精華高校である。昨年度のベスト4に入っている高校で、今年も優勝候補の一角として注目されているところだ。篠田は苦笑した。
「うーん、これは強敵だなあ。去年も出てる選手が二人いるし。ええと、桐島くんと水野くんだね。三年になって更に強くなってるだろうし、彼らは間違いなく今年の副将と大将だ。椎名と近藤に絶対に勝ってもらわなくちゃならない。で、あとの三人だけど、それも当然強い。彼らはシードだから一回戦を戦ってなくて、力がはっきりとは分からないけど、これまでの地区大会の資料からいくとこんな感じだよ」
 トーナメント表にさらさらと相手校のオーダを書き出し、その名前を一つ一つ指しながら話し始める。
「先鋒の菊池くんは柔らかい剣道をするよ。そうだな。椎名に近いかもしれない。相手の技を流して打ってくる。あのチームでは中堅レベルだ。次鋒の葛山くんは体格もいいし、パワーもテクニックもある。中堅の一宮くんはとにかくパワーで押しまくる。まあ、本来なら先鋒だろう。この三人をどう攻略するかだね。桐島くんが副将、水野くんが大将だ。この二人に関しては、去年椎名も近藤も見てるから、少しは予想できるかな?」
 近藤は腕を組んでしばし考えてから、篠田を見上げた。
「先鋒が中堅レベル・・・・・・。若園にはつらいかもしれませんね。パワーとテクニックのバランスが取れている次鋒には、ちょっと楠が苦戦するかもしれません。本来の先鋒レベルの中堅に、橋本が勝ってもらうしかない」
 うなずきながら聞いていた篠田は、にっこり微笑んだ。
「そうだね。その通り。とにかく一勝はしないとどうにもならない。だから、橋本で確実に勝つ。この対戦なら絶対にうちの方に分があるからね」
 やや消極的な発言に、慈恩が少し驚いた表情を浮かべる。
「でも、先鋒と次鋒も・・・・・・」
「うん。でも捨て身なわけじゃない。楠はあくまでパワー勝負。次鋒戦だってそれにこだわればいい勝負ができるはずだ。で、若園は正直苦しいと思うけど、お前のテクニックを菊池くんにぶつけてきて欲しい」

 二人は黙ってうなずいた。篠田には絶対の信頼を寄せているのだ。強く信頼されている顧問は、優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。君たちは強い。アドバイスはしたけど、普段の剣道でも決して負けるとは思っていないよ。このアドバイスは、いわば石橋をたたいて渡ってるようなものだ。で、桐島くんには椎名、水野くんには近藤と、最強タッグで挑むんだ。彼らも当然去年よりレベルアップしてるけど、君たちだってそれは同じだ。さ、自分たちを信じて精一杯戦っておいで」
「はいっ!」
 結構間近でその作戦タイムを見ていた如月高校の応援団最前列を陣取る如月生徒会長は、ほぅ、と溜息をついた。
「篠さんって、普段はすごく柔和で優しいイメージしかないけど、しっかり研究してるし、生徒の気持ちもよく分かってるし、結構やる人だな」
「頼もしいですね。剣道部が一生懸命にやるのも、篠田先生の存在に一因があるかもしれません」
 ちょっとハラハラしながら斗音は見ている。京都精華高校、覚えがある。去年九州で如月高校とは反対のブロックにいて、その時もシードだった。そして、やはり桐島、水野という名前に覚えがある。彼らは全国区の選手だ。中学の頃から全国に出るとよく目にした。二人とも慈恩と対戦したことはないと思うが、慈恩が専門的な語彙を使いながら感心しながら見ていたのを覚えている。
(勝てるのかな・・・・・・)
「近藤、お前なら絶対いける。お前の迫力でびびらねえ奴はいねえよ。だから、今度も安心して見てっからな」
 今井がやや大きめの声で声援を送り、片目をお茶目に閉じて見せた。如月高校の女の子たちが見たら、きっと騒ぐに違いない。今井のルックスは上中下で言えば上、松竹梅でいけば松に当たるだろう。もちろん嵐なんかと比べたりしたら、上の下ぐらいになってしまうかもしれないが。その上明るくてセンスがよくて積極的な性格、スポーツもよくできる、リーダーとしては抜群、将来有望というわけで、理想的な男性像に当てはまる。
(慈恩)
 斗音も思わず心の中で一番応援したい人物の名を呼ぶ。頑張れ、と一言言いたいけれど、今そんなことを言ったら、すごく白々しい上辺の会話になりそうな気がして、躊躇ってしまう。
(頑張れ・・・・・・!)
 会場と隔てるための仕切りの壁に載せた手で、それをぎゅっとつかんだ。その瞬間、本人とばっちり目が合う。
(・・・・・・・・・・・・あっ・・・・・・)
 慈恩も一瞬瞬きをした。でも、すぐに不敵ともいえる笑みをふっと載せた。自信過剰とは縁のない慈恩が、人に不敵な笑顔を見せることは滅多にない。ずっと昔から、見せるのは、ただ一人を元気付けるため。
「見てろよ。全開で行くから」
「あ・・・・・・うん、見てる、から・・・・・・」
 小さく息を飲んで、それから斗音は微笑んだ。
「頑張れ」
「ああ」
 自信に満ちた漆黒の輝き。憧れ続けた凛々しいその姿。誇り高い姿。斗音の脳裏に今までの様々な場面が甦る。小学校四年の冬、五年生の夏、初めての全国大会。六年生の夏の全国大会では、決勝で隼刀威(はやぶさとうい)という少年に当たり、慈恩は公式大会で初めて同学年に敗れた。その時も、慈恩は悔し涙を滲ませているくせに、斗音の前では気丈に笑っていた。

『次に当たった時に勝てるように、俺はもっともっと強くなるからな!』
 中学校でもどんどん力をつけた慈恩は、全国大会の常連になった。いつも戦いに行く前には、斗音に不敵な笑みを見せた。腕を上げるにつれて、瞳の輝きは増していった。とても頼もしかった。
 隼刀威は島根出雲の少年で、家は新撰組の武田観柳斎という、出雲出身の五番隊隊長も務めたことのある人物と関わりの深かったという道場をやっている。観柳斎自身は剣より学問で身を立てた人物らしいし、道場ももともとは違う流派だったようだが、彼らが新撰組に入隊し、京都に彼らが常駐するようになって、その流派の影響が及んだため、現在は北辰一刀流の免許を皆伝されたのがそのまま現在に至る。隼少年は小学校の頃から、全国大会の優勝者の常連だった。
 慈恩が次に彼と対戦したのは、中学校三年の夏だった。やはり全国大会の決勝の場だった。慈恩もこの代では一、二を争う一人だから、彼とは絶対に違うブロックに設定されている。
 決勝では、さすがに緊張した面持ちの慈恩が、それでも自分にだけは笑みを見せたことを、斗音は今でもはっきり覚えている。
『今の俺じゃ、まだ敵わないかもしれない。だけど、絶対かっこ悪い試合はしないからな。よく見てろ』
 剣道部主将でもあった慈恩は、その台詞で剣道部員のみならず、応援に来ていた生徒たちの心を魅了した。結果は2-1でまさに惜敗といったところだった。小学校の時に2-0だったことを思えば、進歩といえよう。
「さあ、始まるぞ」
 気持ちを改めさせられるような緊張感を帯びた今井の声が、如月応援団と剣道部の背筋を伸ばした。
 さすがに若園は上手の相手で、読みどおりとはいえ菊池相手に苦戦を強いられた。何とか攻めなければとするのだが、相手はそれを上手にかわす上に、下手に攻めると応じ技が返ってくる。慈恩ほど鋭いわけではないので、その応じ技を受けたりかわしたりすることも何とかできるのだが、一本決めるどころではない。一本にはならなかったものの、何度か危ないところを打たれ、まさに悪戦苦闘だった。
「一本も取られないなんて、大したもんじゃないか」
 帰ってきた若園に、篠田はにっこり笑った。若園は、大きく溜息をついて楠の肩を勢いよくたたいた。
「わりぃ!でも、信じてる。あとは任せる!」
「お前の精一杯には俺の精一杯で応えてやるさ」
 得意なパワー勝負と言われた楠は、非常にリラックスして試合ができた。そして、やはり篠田の予想通り、パワー勝負となった。葛山はパワーだけではなく、技術も相当だったが、そのあたりは楠にしてみれば大したことはない。何せいつも慈恩とやっているのだから。最初に一本とられ、直後に豪快な胴で一本取り返し、更にがっちり打ち合ったところから引き面を決めて、勝ちをもぎ取った。
 中堅同士が前に出る。先鋒レベルと篠田が睨んだ、一宮が出てきた。楠が一勝していたため、橋本もまた精神的に余裕をもって、自分の剣道をすることができた。橋本は落ち着いて面を一本決め、ポイントを取り返そうとする必死の相手をかわしてかわして、最後まで逃げ切った。
「ま、カッコわりいけど一応勝ちだから。楠の一勝と、後に控えるお前のおかげで落ち着けた。お前に負けは似合わねえから」
「全力を尽くします」
 橋本に応えて、立ち上がっていた慈恩がうなずく。
「椎名」
 顧問に呼ばれて、二・三歩寄り道をする。篠田は真剣な顔だった。
「石橋をたたいて渡るつもりで、お前を副将にした。桐島にならお前で間違いなく勝てると踏んでる。近藤には消化試合をさせろ」
「・・・・・・はい」
 静かに受け止めて、慈恩は試合場に歩を進める。定位置について、審判の声が掛かるまで静かに目を閉じた。
 桐島は落ち着いていたが、それでも二年生には負けられない、というプライドを背負っているのがよく分かった。彼らにしてみれば、この副将戦と大将戦を、なるべく多くの本数を取って勝たねばならない。それ故のプレッシャーも相まって、丁度いいというところから少し行き過ぎた緊張感をまとっていた。しかし、中段の構えには全く隙がない。慈恩にしても仕掛けるのを避け、下段の構えで少し様子を見た。

「やあああっ」「たああああっ」
 掛け声でこちらを牽制しているのが分かる。足は常に動いているし、どんな動きにも対応できるようにしている。しかし、それでは当然、ポイントが稼げない。慈恩は今のところ強引に攻めなければならない状況でもないので、冷静に待った。審判から注意を受けない程度には踏み込んだり竹刀を打つぞと見せかけたりするが、試合はしばらく膠着した。そして、やはり待ちきれなかったのは先方の副将だった。小手のフェイントを掛け、それを受けた慈恩にすかさず面を打ち込んできた。
「めぇええええんっ!」
 慈恩は左足を斜め左前にすっと出し、竹刀の左側でその面に応じた。即座に身体を左に開き、すかさず竹刀を返して相手の右面を打った。しかし、ぎりぎりのところで竹刀で止められ、つばぜり合いとなった。
「な、何だ?」
「今すごい勢いで竹刀が動いたよな」
 あまりの早業に、素人ではどちらが何をしようとしたのか分からなかったに違いない。しかし、当然当人同士はよく状況が飲み込めている。焦ったのはやばかった桐島の方である。それをきっかけに、俄然攻勢に出た。身長は慈恩の方があるだろうが、体格的には相手の方が勝るようだ。パワーは慈恩を上回る。かなり本気で受けなければならなかった。
「うわ、いきなり攻めてきたな。あの慈恩が、なかなか返せずにいる」
 眉をひそめた翔一郎が、やや心配そうにつぶやく。
「でも、いつも近藤さんの相手してるんだぜ。パワーだけだったら、絶対あの人の方が上だ」
 嵐はそれほど不安を見せはしないが、それでも自分に言い聞かせるような言い方だった。
(・・・・・・これくらいじゃ、慈恩は負けない)
 試合場と観客席の境目を作っている壁を、指先が白くなるほど強くつかみながら、それでも斗音は信じた。まるでその心に応えるかのように、慈恩は猛攻の中のひとつの面に対して、左足を斜め左前に踏み出し、右へすりあげるような応じ方をして、直ちに手を返して右足を左足の斜め前に踏み出し、身体全体で相手の左胴を打った。
「どぉっ!」
 ばっと上がる白い旗。今回も如月は白側である。
「胴あり、一本!」
 どっと歓声が上がる。
「すげえ、冷静にあの中の一本から面返し胴だぜ」
 田近は感嘆の声を上げた。田近も小学校の時からやっているのだが、慈恩どころか、若園にも勝てるか勝てないかだ。しかし、慈恩に対しては羨ましさなどはるかに通り越して、尊敬の気持ちしかない。
 開始線に戻り、審判の「二本目」の声を聞いた瞬間、桐島は上段に構えに入った。その構えが終わるや否や、冷静に中段に構えていた慈恩が、いきなり右足から踏み込み、右小手を鋭く打った。
「小手あり、一本!勝負あり!」
 場内が驚嘆と感嘆の声に包まれた。慈恩にしてみれば普段それほど使わない、速攻の仕掛け技だった。最後の礼まで、きっちり行って自分の学校が控えるところまで行くや否や、桐島が膝から崩れ、ダン、と手をついた。剣道をする者にしては珍しい行動だった。よほど悔しかったのだろう。そのあともへたり込んで、なかなか立ち上がることができなかった。
「椎名、お疲れ様」
 戻ってきた慈恩に、篠田は少し目を細めて微笑んだ。
「ちょっとつらかったかな?」
「いえ、慣れてます」
 低く静かに返した慈恩に、そうか、と軽くうなずく。
「結局近藤は戦わずじまいか?」
「いえ、剣道は大将戦までやるんです、どんなに勝ちが決まってても」
 今井の素朴な疑問に、斗音はふわりと微笑んで答えた。今井が少し驚いたようだったが、すぐにうなずいて笑った。
「そうか、全部。でないと、あの大将はせっかく大会に出てきたのに試合もできないってことになっちまうもんな。剣道って、選手に優しいんだな」
 肩をすくめて今井が斗音をおどけたような目で捉える。
「テニスなんて、団体戦でも試合が決まっちまったら、残りの試合も打ち切られちまう。時間もかかるしな。一回戦だけは最後までやらせてくれるけど、いわゆる消化試合だな」
 そのいわゆる消化試合とも言える近藤の大将戦は、如月が勝利ムードに満ち満ちていて、京都精華高校はかなり暗く沈んでいたところから、勢いを武器にする近藤には非常に有利だった。もちろん全国区の水野も、翌日の個人選に向けた腕慣らしの意味も込めて、決して手を抜いた試合などしなかったので、互いに一本ずつ取り合い、ずっと攻め続けた近藤が最後の三秒で面抜き面を決めての勝利となった。普段の個人戦では、恐らく近藤が負けていたであろう技量の持ち主だった。
「2-2の場面で当たってたら、負けてたかもしれねえな」
 帰ってきてから、しみじみと反対側へ戻っていった水野の後ろ姿を眺めて、近藤はつぶやいた。
「あの人は間違いなく明日も出てくると思います。今日勝ったことは、大きいんじゃないですか?」
「・・・・・・そうだな。少なくとも、条件次第では勝つこともできるってことが証明されたわけだからな」
「珍しく、あまり強気じゃないですね」
 慈恩の少しからかうようなニュアンスの言葉に、近藤はにやりと笑った。
「俺だって何の根拠もねえ自信は持たねえよ」
 そのやり取りを聞いていた剣道部員と今井の心の中では、ほぼ同一の思いが湧き上がった。
(そうだったんだ・・・・・・・・・・・・)
 ここで如月とは反対のブロックの試合が遅れているからということで、少し休憩する時間が取れた。如月の選手たちは防具を外し、今までの緊張感と汗をタオルで拭った。
「三十分は休憩できると思うから、この間にしっかり休んでおいてくれ」
 篠田がやんわりと笑みを浮かべて言ったのを合図に、水分補給する者、他の学校の研究に走る者、応援団との会話で緊張をほぐす者、ばらばらに分かれた。
 慈恩は反対側の試合場で現在試合をしている、やはり昨年の優勝校である島根の出雲第一高校を見るために、同じ目的の近藤とともに一度会場を出て反対側の入り口を目指した。そのとき。
「椎名。椎名やろ」
 まだ目的の入り口まで半分も行っていないところで、突然名前を呼ばれて振り返る。さっぱりしたシャープな顔つきの少年が、両手を腰ににっと笑っていた。
(え・・・・・・?)
 慈恩は思わず目を見開いて、均整の取れた体つきの相手をまじまじと見つめた。そこに立っているはずのない人物だった。
「久しぶりやな。椎名」
 小首をかしげるようにして、更に少年は笑みを見せた。

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