« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »

2008年12月

十五.条件

 早いところでは五月から、インターハイ予選が始まる。如月高校は文武両道の精神のもと、大概どの部も順調に勝ち進んでいた。
 武知玄道部長率いる柔道部は、八十一キロ以下級の武知以下六名が地区予選で優勝ないし入賞を果たし、優勝した武知はインターハイに進んだ。羽澄翔一郎や東雲嵐などの超強力な二年生プレイヤーを抱える男子バスケットボール部は、地区予選で他校を全て圧倒的に蹴散らし、見事優勝。男子テニス部は、あれだけ練習できなかったにもかかわらず、絶対に負けない今井文弥をシングルス1に控え、プレッシャーというものから開放されて戦うことができ、地区で準優勝。強豪ゆえに二チームが全国への切符を手にすることができる大会だったため、目標どおり地区大会を突破した。陸上部はハイジャンプで地区大会新記録を樹立した弓削清重副部長をはじめ、三名が長距離・幅跳びで高記録を残し、その中でも弓削と幅跳びのホープと言われた瀬名が全国に進んだ。伝統ある野球部は、甲子園にはたどり着かなかったものの、まだ一年生のピッチャーが押さえで好投球を見せて、地区予選で準優勝という好成績を収めていた。しかし,あと一歩のところで夏の甲子園を逃した野球部三年生のメンバーは、最後のバッターがライトフライで打ち取られた瞬間、みな悔しがって泣き崩れたと言う。
 伊佐治莉紗が部長を務める女子バレー部は、地区だけでも非常に多いチーム数の中で、全国への切符は逃したものの、見事ベスト4に入った。その他、ソフトボール部・レスリング部・新体操部・ハンドボール部・空手部・サッカー部・水泳部などが地区大会で上位成績を残した。残念ながら、素行の悪い連中・・・・・・つまり、サボりがちなメンバーの多いボクシング部は、ただ一人、部長であった瓜生が地区のベスト8に食い込んだが、それ以外は惨敗であった。暑い中締め切って頑張っていたにもかかわらず、周りに強豪チームが多かったため歯が立たなかったバドミントン部、同様に周りに強豪の多い卓球部・男子バレー部も、惜しいところまでは勝ち進んだが、インターハイへの出場権は逃してしまった。もともとメンバーが少ない女子テニス部や女子バスケットボール部なども、勝ち進むには戦力があまりにも不足していた。そう考えると、女子の少ない如月高校にあってそれでも上位まで勝ち進んだ女子バレー・ソフト部などは快挙と言えた。
 剣道部は近藤部長を大将に据え、副将に慈恩が控え、普段からそんな二人のいる部で鍛えられている中堅の橋本、次鋒の楠、先鋒若園と、慈恩以外は全て三年生のメンバーで団体戦に臨み、どんなチームに当たっても、最初の三人で一勝でもあげればあとは必ず、絶対に慈恩が鮮やかに勝ち、近藤は勝利をもぎ取ってくるので、負けなかった。大体、最初の三人で勝負がついてしまうことも多かったのだ。当然地区大会で団体戦は優勝である。個人戦でも、ベスト4に如月高校の中堅、副将、大将が入るという快勝ぶりである。優勝が慈恩、準優勝が近藤、三位が橋本と、私立高校の強豪、鷹羽(たかば)学園二年生の高天(たかま)という少年だった。鷹羽学園は団体戦でも如月に次ぐ準優勝を勝ち取ったところだった。ベスト4に三年生以外が二人も入るというのは、昨年度、慈恩が一年生で優勝し、二年生の近藤が準優勝したのに引き続き、大波乱であった。
「しかし、今年の如月の成績はすごいな。柔道、剣道、男バス、男テニ、陸上とインターハイだぜ。いつもなら柔道と剣道くらいなんだけどな。しかも剣道の個人戦と来たら、去年と上位二人は変わらずか。すごいな、二人とも敵なしだろ」
 如月祭の準備で二年五組がサスペンス喫茶の衣装や店内装飾、B.G.M、小道具、メニューとレシピ、レジ会計、予算、人数調整と担当配分など、役割分担をするために集まっていた。夏休み早々ではあったが、大体地区予選が終わった頃だったので、クラスで上がる話題は専らその結果に基づくものだった。
 例に漏れずその話題を振ってきたのは、地区大会でチームの得点王となった淡紫色の髪の友人だった。
「近藤さんが強敵だったよ。あの人とやると、本当にきつい。どんなに慎重に試合を運ぼうとしても、強引にくるから受けざるを得ない。荒れるんだよな」
 肩をすくめて見せた慈恩に、嵐はふん、と笑って見せた。
「個人戦はベスト4まで全国だっけ。全国でも近藤さんと決勝だったりしてな」
「知り尽くしてるし、知り尽くされてるだけに、小細工が効かないんだよな」
「小細工するようなレベルじゃないだろ、二人とも」
 図星だったので、慈恩は苦笑するしかなかった。今回は何とか二本とって勝ったのだが、果たして自分の高校部活最後をかけてくる近藤に、この不安定な精神でどこまで太刀打ちできるものか。
 個人戦の決勝が終わった直後、会場から人目に付かない控え室に引きずっていかれ、近藤にも言われたことだった。
『椎名、何小細工で逃げようとしてる』
 言い当てられて慈恩は寿命を削られた気がした。
『最近お前、おかしいぞ。そんなんで全国まで勝ち進む気か。全然集中力が感じられない』
 ぐさっとくる、厳しい一言だった。思わず唇を噛んでうつむくと、剣道着の合わせをつかみあげられた。
『何があった。ちょっとやそっとのことで精神的に崩れるお前じゃないだろう。何かあるなら言え。できるんなら今すぐにでも俺が何とかしてやるから!』
 最後の大会にかける思いが痛いほど伝わってきて、ますます申し訳なくて、まともに近藤の顔が見られなかった。
『すみません』
『誰が謝れって言った!一人で何苦しんでる。それが知りたい。俺には言えないのか』
 言えるわけがなかった。小さく首を振ってもう一度同じ言葉を繰り返すと、近藤はつらそうに顔を歪めた。
『・・・・・・そう、か』
 次にぎこちない手つきで引き寄せられた。それがどういう意味なのか、一度彼から想いを告げられていた慈恩はよく分かった。
『・・・・・・悔いの残る大会にはしたくない。高校を卒業しても、剣道は続けられる。だけど、お前と同じ部でできるのはこれが最後だ。お前と・・・・・・どこまでいけるか最後まで競ってみたい』
『近藤さん・・・・・・』
 そういう惚れ方をされるのは、ある意味慈恩にとって光栄だった。
『俺にできる限りのことを・・・・・・します』
 この部長の最後の大会を、この部長のために精一杯やろう。そう決心した。
(それにしたって、平静でなんかいられないだろう)
 深々と溜息をついた慈恩を、嵐が小首を傾げて見つめた。
「なんだよ。近藤さんと対戦するの、そんなに嫌なわけじゃないだろ?」
「え?ああ、別に嫌なんかじゃないよ。お互いにレベルを高め合える人が近くにいるってのは、ありがたいことだし」
「じゃあ何をそんなに悩んでるんだ。斗音のことか?」
 慈恩は思わず、何も飲んでいるわけではないのにむせそうになった。
(何者なんだよ、こいつはっ!)
 机の上に腰掛けたまま、嵐は軽く、形のいい眉を上げた。
「当たりなのか。そう驚かなくても解るさ。ちょっと前、斗音が一日で三回発作を起こしたことがあったろ。滝さんが言ってた。斗音は何か一人で苦しんでるみたいだって。電話で何かショックなこと聞いたんだと思うんだけど、それを斗音は言おうとしてなかった。・・・・・・斗音が何に苦しんでたかは解らないけど、お前もそのことを知ったんじゃないのか?これは俺の推測でしかないけど、斗音は何か慈恩に関わることで苦しんでた。だから打ち明けようとしなかった。けど、その内容をお前も知る機会があった。斗音がそれだけ苦しむようなことなんだ、お前に関わることだったら、お前だって多少なりと何か精神的にショックなことだったんじゃないかと」
 大当たりである。どうしてこれだけの情報でそこまで正しく推測ができるものか。慈恩は完敗の溜息をついた。この時点で、嵐はもちろん、慈恩も、斗音が一番苦しんだ事実については知らなかったのだが。
「お前はすごいよ、ほんと」
 感嘆の言葉をこぼして、ふと慈恩の心の中に、この頼もしい限りの友人だったら、この状況をどう判断するのか聞いてみたいという、藁にもすがる願いのような興味を持った。
「例えばだ、嵐。滝さんが医学の最高権威の下で勉強できることになって、外国に行くことになったとする。医学界では滝さんのその能力がそれだけ買われてるってことだ。でもお前は高校がある。なかなか会えなくもなる。・・・・・・お前なら、どうする?」
 唐突な質問に、嵐は大きいくせにやや切れ長の目を瞬かせた。
「お前それ、今思いついたのか?」
「そうだけど」
「・・・・・・そうか。じゃあいいんだ」
 やや不可解な言葉を残して、嵐は思っていた以上に神妙な表情になった。
「・・・・・・そうだな。・・・・・・滝さんが行くことを望んでるなら、賛成するよ。望まないのなら、自分の意思表示はしない。滝さんの判断に任せる。ただ・・・・・・もし俺のために行かないなんて言われたりしたら、つらいだろうな。俺があの人の可能性を束縛するなんて、俺は嫌だ。でも、そう思ってくれたら、きっと嬉しいだろうとも思うんだ・・・・・・」
 なるほど、と思う。斗音もそんなふうに思っているのだろうか。
「じゃあ、立場が逆だったら?お前の方が必要とされて、滝さんと離れなきゃならなくなったら?」
 嵐は不審そうにややグレーがかった大きな瞳で慈恩を見つめたが、小さく溜息をついた。
「それも難しいなあ。俺は何をおいても滝さん優先だと思うんだけど、滝さんはそれを許してはくれないと思う。滝さんがそう望んだら、俺はその気持ちを優先させるかもしれない」
「つまり、離れることになっても、行くってことか?」
「そうなるな」
 ほう、と吐息して、嵐は苦笑した。
「そんなことが現実にならないことを・・・・・・祈ってるけど」
 いつもの嵐に似つかわしくない、自信なさげな言葉だった。
(・・・・・・滝さんが望んだら、行く・・・・・・か。斗音は行くことを望んだ。それがお互いのためだと。・・・・・・・・・・・・だったら、俺は・・・・・・・・・・・・)
「そうだな。そんなこと、ないといいな」

 慈恩は少し笑って見せた。そんな慈恩を、嵐は怪訝そうな顔で見つめた。

   ***

 七月末になると、インターハイ地区予選はどこも終了して、全国大会・・・・・・つまり、インターハイを行うための準備が始まっていた。今年は愛知県が会場を担当することになっており、柔道・テニスは豊田市、陸上・バスケットボールは名古屋市、剣道は豊川市で全国大会が開催されることになっている。
 それぞれ開催期日が違うところもあるので、如月高校は応援団のことでおおわらわになっていた。
「私、絶対バスケは応援に行く!」
 そんな女子は多かったし、上を目指せそうな柔道部や剣道部も人気が高かった。
「武知、応援行くからな」
「近藤、頑張れよ。個人でも今年はベスト8狙えよ」
 どうも男子生徒が多いようではあったが。
「俺らの試合の日と剣道の試合の日はうまくかみ合ってるな。八月四日に俺らの一回戦、剣道の団体戦が五日、個人戦が六日、俺らが勝ってたら七日に二回戦だ。大した距離でもねえし、見に行くぜ。どうせ待ってる間は暇だし、体育館は使いっぱなしだから夜くらいしか練習できねえし」
 如月一の美形と名高い嵐が、クラスメイトでもある親友を捕まえてそう言ったのは、七月三十日だった。
「らしいな。俺も見に行く」
 斗音からの情報で、バスケ部の日程と剣道部の日程が見事にずれていることは知っていた。ちょうどバスケ部と剣道部の部活が終わったのが同時刻だったため、出来過ぎ集団と一緒に帰ることになったのだ。
「え、ほんと?知らなかった!俺も絶対行くからね、慈恩!」
 かなり嬉しそうにはしゃいだのが、愛らしい表情を浮かべた瞬である。行くことを前提にして話を進めようとしたのは翔一郎だった。
「何でもっと早く言ってくれないんだよ、嵐。俺も当然誘ってくれるんだろうな?」
「今、更衣室が蒸し暑いって先にお前らが出てった後に、斗音から話を聞いたんだよ。そしたらもうお前ら、慈恩としゃべってたじゃねえか」
 バスケ部員は剣道部と違ってシャワーなんて浴びられないので、それぞれにメンズ制汗剤を使用しているため、みんなして爽やかな香りをまとっている。
「よし、じゃあこうなったらその四日間はお互いの応援合戦だな」
 楽しそうに翔一郎が黒い瞳を輝かせる。瞬の大きな目もきらきらした。
「わあ、楽しくなりそうだぁ♪俺は試合には出られないしさ、もちろんバスケ部の応援は一生懸命するけど、物足りないと思ってたんだよね。俺、慈恩の勇姿、公式試合で見るのは初めてだよ」
「そうだな。なんだかんだ言ったって、練習とかあるし、試合とか見に行けないんだよな。俺も初めてだ」
「去年の全国大会は確か九州で、なかなか応援にも行けなかったんだよな」
 斗音はもちろん応援に行ったが、そのときの感動はなかなか味わえるものではなかった。ただ、今年は、慈恩と斗音の間には、大きくなるばかりのわだかまりが横たわっていた。互いにどう考えているのか、本音はどこにあるのか、探ろうとすればするほど、よそよそしいすれ違いが増えていた。
「名古屋から豊川まで、どれくらいかかるの?」
 無邪気に瞬が首をかしげる。嵐は携帯を取り出した。彼は携帯を許可されている一人である。
「えーと、九時に試合が始まるとして・・・・・・名古屋から豊川まで電車を使って、約一時間十五分。駅から、会場って近いのか?」
 乗換案内で調べながら、慈恩に珍しい色の瞳から視線を送る。
「確か車で豊川駅から二十分くらいだったと思う。ホテルも駅の近くで、バスで十五分くらいだって言ってたし」
「ふうん、じゃあ朝七時にホテルを出れば、十分間に合うな。片道千五百円くらい」
 翔一郎はちょっと肩をすくめた。
「よかった、バスケと剣道両方出てて。これで片方だけだったら、新幹線で片道一万くらいかかっちまうし、なかなか行けねえよな」
「ほんとだね」
 くすっと笑って斗音が相槌を打つ。高校生にしてみれば、その往復は結構大変な額になる。
「じゃあさ、泊まるところも考えたほうがいいんだ?一応慈恩は四日五日とホテルだよな。俺たちも前日から入るから、三日は泊まるところ押さえてあるみたいだけど、それ以降は勝てば泊まるけど勝たなきゃ帰るんだからな。泊まるところ、学校が押さえてくれるんなら、要望出してみようか」
 翔一郎が提案すると、嵐がうなずいて笑った。
「やってみる価値はあるかもな。つまり、五日は俺たちも慈恩たちの近くに部屋を取ってもらう。ただし、勝ったら、ってことだろ?四日は勝てば反省とかもあるだろうからさ。慈恩は自腹になるけど、俺たちと一緒に来て三日に泊まれるといいよな。朝早いし、愛知県までったって近くはないからな。で、個人戦が終わったら俺らは名古屋に帰って二回戦に備え、慈恩は打ち上げと。剣道の個人戦は時間がかかるから、その日まで泊まりらしいし、羽目外せるよなあ。次の朝早いからほどほどにしとけよ。俺、校長に掛け合ってみる」
 何だかすごいことを言っている嵐だが、彼は本当に特別であった。高校に通いながら、仕事を持っている。しかもそれは秘密裏のもので、給料は国から支払われているらしい。それは高校側も認めている、と言うより、国のある機関からお達しがあったらしく、校長だけがその仕事内容を知っているらしい。その仕事はいつ入るかも分からないから、彼は携帯電話も許されているのである。
 如月は受験にそれほどこだわらず、生徒の自主性を重んじるので、三年生は引退してからもよく部活の練習に顔を出して、後輩たちの相手を務めたりする。慈恩あたりは近藤にそうしてもらわないと、腕が鈍ってしまうだろう。
 とはいえ、近藤部長は少し寂しがるかもしれないな、と慈恩は思った。一緒にこんな大きな大会に参加することは、同じ大学にでも進学しない限り有り得ないだろう。きっと少しでも自分と過ごしたいと思っているに違いない。嵐たちの計画でいくと、一緒にいられるはずの四日五日六日のうち、少なくとも五日は彼らと行動を共にすることになるだろう。
「斗音も、しっかり養生しとかなきゃね」
 華やかに笑みを浮かべて、瞬が斗音に微笑みかけた。地区予選のメンバーの中に、瞬は含まれていなかった。瞬自身、自分にそれほど力があるとも思っていないので、あっけらかんとしたものである。斗音はスタメンではなかったが、毎試合短い時間でチームに加勢をしていた。顧問の先生も部長も、斗音の身体のことは人一倍気を遣っていたし、それでも斗音は使いたいと思わせるプレイヤーでもあったのだ。
「うん。・・・・・・気をつけるよ」
 ちょっと翳りを含んだ微笑みを、斗音は返した。
「何だよ、元気ないな。インターハイのレギュラーなんだぜ。もっと胸張っていいと思うぞ」

 翔一郎が斗音の肩を景気よくたたいたが、その表情は大して明るくはならなかった。

   ***

 その翌日、午前一杯の部活を終えて、慈恩は初めて自分の方から絢音に連絡を取った。インターハイに臨むに当たって、今のままの精神状態では、みんなの期待を裏切る結果になりかねないと思い、その禍根を取り除けるものなら取り除き、しっかり話をして心を決めておきたいと思ったからだった。絢音はもちろん、大喜びで会うことを約束してくれた。
 いつもの店で、だいぶ慣れた高級料理のランチを取りながら、慈恩は切り出した。
「先日の失礼な態度を許してください。激するとあまり周りを考えられなくて、斗音とも醜いやり取りをしてしまいました。すみません」
 まずは、前回この人たちの前で斗音と言い争い、養子の話を丁寧な言葉遣いではありながら、かなり手厳しく撥ねつけたことを謝る。すると絢音はまるで子供のようにひどくかぶりを振って、大きな漆黒の瞳に涙のベールをかけた。
「何をおっしゃるの?あれから私は悔やんで悔やんでずいぶん泣きましたわ。あなた方を、こんな醜い九条家の私情に巻き込んでしまって、ひどく傷つけてしまって・・・・・・。全ては私たち夫婦が共にありたいというわがままから生まれたことだったのに・・・・・・謝るべきはこちらです」
 半泣きの声に、慈恩は苦笑する。
「泣かないでください。俺もずっと考えていました。あの時はにべもなく断りましたが、斗音は俺が必要とされるところに行くべきだっていう主張を変えないし、あなた方が俺たちに提示してくださった条件は、俺たちには申し訳ないくらい贅沢なもので・・・・・・」
 言うことの重大さに、食べ物が喉を通らない。慈恩はやわらかな若鶏のクリームソース煮を無理やり喉に流し込んだ。
「・・・・・・・・・・・・俺、斗音が大事です。今までずっと、あいつのために生きてきたようなもんだったから・・・・・・。だけど、その斗音が俺を束縛したくないと言い、俺の人生をしっかり考えて欲しいと言うんです。俺は束縛されてきたつもりなんてなかったのに、あいつにとっては俺があいつのためにと思うこと、行動すること、全てが引け目に感じることで、俺が傍にいることであいつを苦しめている部分があって・・・・・・。俺がいなくても平気だと・・・・・・。斗音はそうはっきり言ったんです。あいつは俺に必要性を感じていない・・・・・・」
 絢音は思わずフォークとナイフを置いて、まじまじと慈恩を見た。
「そんな・・・・・・貴方たちは私から見ても、いつもお互いを思いやっている素晴らしい関係ですわ。必要性を感じないなんて、そんなこと絶対にないと思います」
 その台詞が、自分たちの目的のためには決して有効に働かないということは分かっていながらも、絢音は言わずにいられなかった。椎名兄弟は、互いを思いやるあまりに互いの真意を測り切れずにいるのだ。そして、恐らく二人ともがそのすれ違いに苦しんでいる。
 慈恩は翳りのある笑みを浮かべた。
「俺、こんなに斗音の気持ちが解らなくなったのは初めてで・・・・・・。俺もそう思えたらどんなに楽かと思うんです。でも、どんなに言葉を掛けても、斗音の気持ちは変わらないんです。俺はあいつの判断が信頼できるものだと思っています。そして、何より斗音が望むのなら、俺はあいつから離れることを選択すべきだと・・・・・・そう考えるようになりました」
「・・・・・・慈恩さん・・・・・・」
 若鶏の皿が空にならないうちに、鯛の香草グリル焼きが運ばれてきた。ウエイターが丁寧に皿を置いて立ち去るのを見届けてから、慈恩は改めて絢音の漆黒の瞳を見た。
「だから今日は、養子として九条に入ることを前提に、具体的なお話を聞かせて頂きたくて、お呼びしました」
 焦点を合わせていた絢音の瞳が、たちまち透明な膜に覆われ、照明をきらきらと反射した。と思った瞬間に、その透明な膜が溢れて頬を転がり落ちる。
「・・・・・・い、いいのですか・・・・・・?こ・・・・・・こんな・・・わたくし達で・・・・・・・・・・・・」
 ポケットからブルーの縁取りが美しいハンカチを取り出して、慈恩はそっと絢音に差し出した。
「・・・・・・そう、考えています。まだよく分かっていない部分もありますから、それを今日聞かせて頂いた上で、はっきりと決めたいと思っています」
 差し出された大きな手からハンカチを受け取り、絢音はこぼれる涙の量を倍増させた。
「・・・・・・ええ・・・・・・お、お話・・・・・・させて・・・・・・もらいますわ・・・・・・」
 言ったものの、絢音の涙は一向に収まらず、慈恩は己の存在が、斗音の言ったとおりどれだけ強く求められていたのかを実感した。
 結局絢音がまともに話せなくなってしまったので、せっかくの高級料理もそこそこに、九条の家まで行って、雅成も合わせて三人で話すことになった。絢音が車を呼ぶと、前回紹介された三神が、一目見て高級車だとわかる大きくて黒い車でやってきた。
「お待たせしました、絢音様」

 泣いているらしい絢音に怪訝そうな顔をするが、絢音が何でもないと頼りない言葉と手振りで説明すると、すぐに納得して、慈恩にも頭を下げた。
「椎名様、どうぞ」
 言って後部座席のドアを開ける。
「あ、ありがとうございます・・・・・・」
「いいえ」
 わざわざ返事をして微笑する。礼儀のしっかりした青年のようだ。
 ゆったりしたシートに身を預けて、慈恩は初めて、そうとは知らないままに、生まれた家の門をくぐったのだった。
 連絡を受けて会社を早退してきた雅成が、居間で妻と客人を迎えた。
「・・・・・・ようこそ、慈恩くん。さあ、掛けてくれ」
 慈恩はあっけに取られながら、勧められた豪奢な生地でできたソファに腰かけた。大体門をくぐってから、車で走るほどの距離が邸内にあるなんて、こんな高級住宅地では有り得ない。立派な玄関を経て、洋風の居間には落ち着きと気品を備えた調度品、大理石とヒノキを贅沢に使った柱やテーブル。外観が比較的和風だったので、まさかその中に洋館のような部屋が存在するとは思わなかったし、その部屋の広さや豪華なペルシャ絨毯の大きさ、立派なグランドピアノにシャンデリアなど、目が眩みそうなものばかりだったのだ。
(これは確かに、金銭感覚がおかしくなるのも分かる気がする)
 しばらくして上品そうな中年の女性が、細やかで上品な模様の薄い陶器のティーカップとポットを運んできて、香り高い紅茶を目の前で淹れてくれた。
「紹介しよう。彼女は沢村水那さん。今は私たちの身の回りの世話をしてくれているんだ。三神と一緒に椎名家に行ってもらおうと思ってる人だよ」
 雅成は言って、沢村に視線を移した。
「こちらは椎名慈恩くん。先日話したように、もしかしたら今度貴女に行ってもらうかもしれない家のご主人の弟さんだ」
 控えめそうな女性は丁寧に頭を下げた。
「沢村と申します。もしお勤めさせていただけることになりましたら、その時はよろしくお願いいたします」
「あの、こちらこそ」
「こちら、アールグレイの紅茶でございます。どうぞごゆっくりなさってくださいませ」
 どこまでも丁寧に言って、沢村は下がった。
「あの人は、絶対にプライベートに関心を持ったり立ち入ろうとしたりしない人だよ。仕事と割り切っているからね。そういう意味で、とても信頼のおける人なんだ。家事一般が趣味で、料理やお菓子作りも大好きって言う、根っからの家政婦さんだ」
 雅成が優しい口調で言う。慈恩が漆黒の瞳を向けると、微笑んだ表情がその視線を受け止めた。
「すまなかったね。絢音がみっともないところを見せて。今日は時間、あるのかい?ぜひゆっくりしていってくれ」
「はい、ありがとうございます」
 絢音を促して慈恩の対側に座らせ、その隣に雅成が腰を下ろした。
「まずはお礼を言わなくちゃならない。あれだけ君たちに嫌な思いをさせたにも関わらず、君は九条に養子に来ることを考えてくれた。それだけでも、僕たちは感謝の気持ちで一杯だ」
 そう言う雅成の瞳も、微かに潤んでいる。
「九条に養子に来ることになったら、具体的にどうなるかってことだったよね。と言っても、僕たちが考えているのは先日言った通りなんだけど」
 まだしゃくりあげる絢音の背を優しくなでながら、雅成が話し始めた。まずは戸籍が変わって、九条を名乗ることになること。この九条の家で暮らすこと。慈恩に求める九条夫妻の条件はそれだけだった。
「僕たちは今の君がとても好きなんだ。だから、何も変わってもらう必要はないと思う。ただ、ここでは義祖父・・・・・・君にとっては曾おじい様に当たる人が、一番の権力者だ。あの人が君に何か望むことがあると、僕たちもよほどのことがなければ賛成せざるを得ない。それだけは・・・・・覚えておいてくれ」
 慈恩は黙ってうなずいた。どんな人かは知らないが、斗音の存在を否定するようなことを言った人だ。少なくとも慈恩の印象は最悪である。ちょっとでも無茶なことを言ったら、養子の件は白紙に戻すと脅しをかけてやろう、と密かに心に決めた。
「それから、斗音くんの件だけど、後見人という形で公にはしないが、保険、学費、生活費、土地や家の維持費なんかも全部、斗音くんが社会人として自分でそれらをまかなえるようになるまで、九条で保障したい。もちろん返してもらうことなんて考えてない。椎名家の財産は、君たちのご両親が君たちの将来のために残されたものだから、それはいざというときまで残しておかなくちゃ」
 ね、と微笑む雅成は、本当に包み込むような優しさがあった。例え一目惚れするタイプではなくても、しばらく一緒にいたら、彼のことがきっと好きになるだろう。絢音が、この夫と別れたくないと強く願うわけが、慈恩にはよく分かった。
 前回説明してもらった通り、三神と沢村を椎名家に派遣すること、もちろん九条が雇う使用人なので、九条でその給料は支払うことも付け加えられた。
「でも、そうなるとここで三神さんたちがなさっていた分、新たに誰かを雇うことになるのではありませんか?」
 結局それも九条家の負担になるのではないかと、慈恩はハラハラする。
「いや、代わりになる家政婦や運転手なんて、九条にくさるほどいるよ。私たちはあまりたくさん使用人をつけたくなかったから、二人だけ私たちのためにつけているだけだ。余ってる人たちにいくらでも仕事はしてもらえるさ。ああ、それから」
 雅成は少し声を低めた。
「ここは三世帯住宅みたいに僕たち夫婦とお義父さん、お義母さん、それからおじい様と、部屋で住み分けしてる。この洋風の西屋は僕たち、現在当主のお義父さんたちが母屋、おじい様が離れの対屋という感じだ。ちなみに住み込みで働く使用人たちの部屋は大体東屋になってるんだよ。それで、夕食だけは家族が母屋でそろってとることになってる。この西屋だけでもかなり部屋があるから、君が来てくれることになったら好きな部屋を使ってくれればいい。三つくらいは君専用の部屋になると思うよ」
 三つって。と、思わず心の中で慈恩は突っ込んだ。ひとつで十分だと思うのだが。しかもどうせすごく広い部屋なのだろうから。
 そう思った時、部屋の外で小さな悲鳴が上がり、三人が同時にドアに視線を送った。そのドアが、三人の目の前で勢いよく開く。
「絢音さんっ!例の子が来てるって、本当ですの?!」
 大人しくしていれば気品の欠片も漂いそうだが、切羽詰っている表情は、少々お嬢様言葉であること以外、一般的なおばさんとなんら変わりないという感じの女性が勢いよくなだれ込んできた。その後ろで沢村がしりもちをついているのが見えた。
「叔母様!?いきなり何ですの?人としてモラルに欠ける行動なんじゃございませんこと?」
 すっくと立ち上がったのは、今まで感激のあまり涙ぐんでいた絢音だった。手厳しい言葉に、逆に慈恩が驚く。可愛らしいだけではないということは、彼女を素行の悪い連中から助けたときから知っていたが、改めてそんな気性の持ち主でもあるということを実感する。そして、もうひとつ脳裏にかすめる記憶。
(おば・・・・・・)

 確か、先走って斗音に余計なことを話したというのが、『おば』ではなかっただろうか。もちろん『おば』なんて親類は、一種類ではないし、たくさんいるのだろうが。
「あら、もしかしてこの方・・・・・・が・・・・・・?」
 絢音の詰問をあっさりと受け流して、中年の女性はじろじろと慈恩をぶしつけに眺めた。
「素敵な子じゃないの。写真で見たよりずっとスマートでかっこいいわ。これで優秀だっていうんだから、もうこれは九条を継いでもらうしかありませんわ」
 主観だけで自分のしゃべりたいことだけをしゃべる。その辺は、恥を忘れた品のないおばさんそのものだ。慈恩は失礼とは思いながらも、わずかに凛々しい眉をひそめた。
「叔母様!出て行ってくださいませんか。今大事なお話をしているところです」
 絢音の美しい眉もきりきりと吊り上っている。かなり怒りモードのようだ。しかし、次の一言が絢音と雅成の感情に二つのドライアイスを投げ込んだ。
「何おっしゃってますの?わたくし、お父様に頼まれてあなた方をお連れしに来たんですわ。絢音さんの子が来てるって聞いて、飛んで来たら、丁度母屋に来てらっしゃったお父様が、あなた方夫婦とその子を連れて来いって。だからわざわざ出向きましたのに」
 慈恩が訝しげに、招かれざるべき人物に目を向けた。

(・・・・・・・・・・・・何だって?今のは・・・・・・ただの言葉のあやか?)
 慈恩の心の中で、しっくり来ない表現が含まれていた。一瞬気のせいかとも思ったが、確かに自分の認識とずれている部分があった。

「分かりましたわ、叔母様。すぐに行きますと、おじい様にお伝えくださいますか」
 突き放すような言い方だった。今すぐに美弥子を出て行かせようとする絢音の気持ちが、全面に出ていた。その雰囲気を感じて、美弥子はややたじろいだ。そして、それに背を押されるようにしながら、何か言い訳がましいことを口の中でつぶやきながら、ちらちらと慈恩を振り返りつつ、部屋を出て行った。
「お義祖父様、今年でもう八十三になられるんだけど、ほんとお元気で・・・・・・厳格でいらっしゃるから、もしかして厳しいことをおっしゃるかもしれないけど、君はまだ九条に入ると決めたわけじゃないんだ。そんなに気にすることないからね」
 明らかに困惑した顔ではあったが、それでも優しさを忘れない雅成の言葉だった。慈恩は小さくうなずいた。
 絢音と雅成は不安げな瞳を交し合った。
「大丈夫だよ。何が何でも僕らで慈恩くんを守ろう。それが僕らにできる唯一のことだ」

 決意の目のまま、雅成は微笑した。それに勇気付けられたように、絢音もうなずいた。

 五分後、母屋の客間に通された慈恩は、完全に白髪で、品のある落ち着いた薄い茶色の羽織袴を着た老人と、先ほどの喋らなければ品を備えているように見える女性と、それと同じくらいの年齢であろうと思われる、絢音によく似た漆黒の瞳と黒くてやわらかい髪に自然なパーマをあてた、気品のある女性、その隣にやや気の弱そうな半分白髪の男性の四人と顔を合わせた。
「よく来てくださった。まあ、掛けなさい」
 白髪の老人が落ち着いた声で言ったので、慈恩は勧められるままに、これまた高級そうなソファに腰かけた。その隣に絢音と雅成が座る。
「君が、椎名慈恩くんだな。初にお目にかかる。わしは九条重盛。このうちの前当主だが、今の当主が頼りないのでこの歳でまだでしゃばっておる」
 威厳というものが人の皮をかぶったかのような重盛に、慈恩は知らず、頭を下げる。これは確かに、何人も逆らわせない雰囲気を持っている、と感じた。
 その重盛が、その場にいた絢音の母の貴美枝、父であり現当主の智満、貴美枝の妹である美弥子を順に紹介してから、一息ついて本題に入った。
「今回、絢音が君を引き取りたいと言い出して、さぞ驚いただろう。だが、わしらもそれには大賛成だった。君はもう、十七年ほども兄としてともに暮らしてきた斗音という少年から聞いているだろうが」
 そこまで重盛が話した途端、雅成が口を挟んだ。
「お義祖父様、失礼ながら申し上げます。まだ慈恩くんは、彼から何も。何も聞いてはいないのです。私たちも、今ようやく話を始めたばかりで、まだ重要なこと、何も慈恩くんは知りません。お願いいたします。私たちからゆっくり話をさせてください」
 明らかにつじつまが合わなかった。先ほど、大体の話は終えていたはずなのに、この雅成の慌てぶりはおかしいし、重盛の言い回しも慈恩の感覚を逆なでするような違和感があった。それに加えて先ほどの、絢音の叔母に当たる女性が言った言葉。全てがひとつのことを指しているように、慈恩には思えた。そしてそれは、慈恩の心の奥底を、凍りつかせた。
(そんな・・・・・・まさかそんなこと・・・・・・!)
 斗音から何を聞いているだろうと言うのだ。斗音が知っていたことは、これなのか。それであれほど自分がここに来ることを勧めたのか。そう考えると、完全につじつまが合うではないか。
「雅成くん。今はわしが話をしておるのだが、少々出すぎた真似だと思わんか」
 冷然とした声が雅成を直撃した。絢音が思わず身体を前にずらす。
「おじい様、お聞きください。まだ話していないことがございます。私たちの口から、それはいずれ慈恩さんに伝えたいと考えています。でも今は・・・・・・今はまだその話ができる段階ではありません。お願いです。まだ今日は、慈恩さんは、養子のことを考える上でお話を聞きに来てくださっただけなんです」
 その必死さは、尚更慈恩の中で、不安に満ちた確信を導いた。うつむいて、きり、と歯を食いしばった。
(斗音・・・・・・・・・・・・お前が聞いたのは、このことだったんだな。ずっと物憂げな顔をしていたのは・・・・・・・・・・・・俺たちは、双子でも兄弟でもなかったと知っていたからだったんだ)
「・・・・・・もう、いいです。九条さん、雅成さん」
 慈恩にいつも九条さんと呼ばれていた絢音は、雅成と一瞬顔を見合わせ、夫と同時に、うつむいてシャツの上に出していたクロスを握り締めたわが子を見つめた。
「・・・・・・・・・・・・慈恩・・・・・・さん・・・?」
 絢音の漆黒の瞳が潤んだ。雅成は静かに肩を落とした。
「・・・・・・・・・・・・すまない」
 重々しいしゃがれ声が、その空気を打ち破った。
「なんだ、まだ絢音の本当の子供だと、話しておらなんだのか。そんなふうに下手に隠そうとしても、結局最後には突きつけることになると言うただろうに。ましてこの子は絢音、お前に似て非常に聡いようだな」
 重盛は慈恩をじっと見つめて、笑みを浮かべた。
「艶のある黒い髪、黒くて長い睫毛に黒い瞳、凛と通った鼻筋。絢音、お前によく似ている。何もしていなくても若武者のように見える凛々しさも、間違いない九条の血だ。あの時は絢音が若すぎたゆえ、体裁を重んじたが、今こうして再び九条の跡継ぎをこの家に迎えることができるのだ。終わりよければ全てよしというわけだ」
「・・・・・・体裁・・・・・・?」
 思わず聞き返した慈恩に、美弥子が大いにうなずく。
「そうですわ。あの時は本当に大変だったんですのよ。まだ絢音さん、十七でしたでしょう?高校生でそんな」
「やめてください叔母様!」
 悲鳴が上がった。絢音だった。その白い肌が、白さを通り越して蒼白になっていた。
「いい加減になさってください。どこまでわたくしたちの邪魔をなさったら気が済まれるのですか!」
「絢音!」

「絢音さん!」
 厳しすぎる言葉に、雅成と貴美枝が同時に絢音を諫めた。二人とも、重盛の前での絢音の立場を心配したのだが、昂ぶった感情を愛する夫にまで否定された彼女は、大きな黒い瞳を涙に濡らし、それでも間に合わず次々と頬に透明な雫を伝わせた。
「どうして・・・・・・この子をこれ以上苦しめないで欲しいと思って、何がいけないのですか?どうしてこの子の気持ちを私たちから離してしまうようなことをおっしゃるんですか。やっとここまで来たのに・・・・・・やっとこの子が私たちの元に来ることを考えてくれるまでになったのに・・・・・・!」
 それだけ言うと、絢音は白くて華奢な両手で顔を覆い、嗚咽をこぼしながら本格的に泣き始めてしまった。
「絢音・・・・・・」
 雅成が哀しげな瞳でそっと妻を見つめ、優しく肩を抱いた。逆に美弥子は、自分に突きつけられた台詞に、ありありと不満を表していた。
「全くいくつになられてもお若いのね。大体あの時どれだけ九条家の親族が心配して困惑したか、ご存じないわけじゃないでしょう?あの数学の先生も先生で、全く恥知らずな方でしたわ」
 仕返しとばかりに話し始めた美弥子に、絢音は涙でぐしょぐしょになった顔を上げ、なお抗議する。
「叔母様!やめて、この子の前でそんな話しないでください!」
 やれやれ、とばかりに美弥子は肩をすくめる。本家の権力を持つ姉の娘に、彼女は恐らくずっと嫉妬心を抱いていたに違いない、と、初対面の慈恩にさえ思わせるような態度だった。
「全く、慈恩さんがお産まれになった時も、お父様に怒鳴られるまで絢音さんの傍にいさせて欲しいってしつこくおっしゃってましたわ。絢音さんは絢音さんで、九条のことを考えて、産まれた子を何とかしなくてはとする親類に向かって、泣き叫んで赤ちゃんを放そうとなさらないし、ほんと、手を焼いたんですのよ。覚えてらっしゃるでしょう?」
「やめてやめてやめて・・・・・・!」
 激しく頭を横に振って、絢音が叫ぶ。見かねて雅成が美弥子に厳しい視線を向ける。
「そのことで絢音がどれだけつらい思いをしてきたか、貴女もご存知だったと思っておりました」
 はっと唇を噛んだのは貴美枝で、うつむいたのは智満だった。二人とも九条の体面をおもんぱかることに精一杯で、自分の娘がしでかした不祥事を何とか揉み消そうと奔走したあとで、娘が心を失った人形のようになってしまっていることに気づいたのだ。
 しかしながら、雅成が一番精神的に杭を打ち込みたかった人物は、杭を杭とも思わなかったらしい。ある程度歳を経た女性で、人の気持ちより自分のプライド、というように、したたかになるタイプは確かにいる。どうやら美弥子はそういう人種だったようだ。雅成の台詞に、更に気を悪くしたらしく、顔をしかめた。
「そっちこそ、こっちの気持ちをお考えになったことがありまして?本家の跡継ぎとして婿入りしながら、跡継ぎをお作りになることもできずに、かといって遠慮もなさらずに九条にいらっしゃるから、どれほど私たちがヤキモキしたことか」
 雅成の眉根がぎゅっと寄せられる。
「今こうして慈恩さんが生きて九条に戻ろうとしているのは、せめて九条家の血を引く子供が死んでしまうようなことがないようにと考えた上で、産婦人科の病院にあの赤ちゃんを置いてきた私たちの判断が正しかったからですわ。それを感謝こそされ、なぜ全て私たちが悪いように言われなければならないんですの?」
「美弥子、口を慎め」
 厳しい声は、九条の一番の権力者の口から放たれた。名指しされたオバサンはびくっと固まる。
「絢音の暴言もみっともないが、言っていいことと悪いこともあろう。慈恩くんがいるのだ。もう少し配慮が必要だ」

 醜い光景だった。押し黙った美弥子に貴美枝に智満。重々しく溜息をつく重盛。そんな中で泣きじゃくる絢音を優しく抱き、優しく背をなでながらもつらそうに顔を歪める雅成。絢音の悲痛な泣き声が、ひときわ大きくなった。
『・・・・・・私はこれまでの人生で、失くしてはいけないものを失くしてしまいました。それを埋められるのは、私たちの中では貴方しかいないんです・・・・・・』
 慈恩の記憶の中で、絢音の言葉が甦っていた。それがどういう意味だったのか、今なら全部分かる。絢音と雅成にとって、自分は最後の砦だったのだ。そして、十七年前に失われてしまった幸福だったのだ。彼女たちは時間を掛けて自分の存在をつきとめ、さりげなさを装って、今の自分と斗音の生活をなるべく壊さないように気をつけて来たに違いない。それを、この醜い九条家の内側を見られたことで、きっと失うに違いないと感じて、絢音は泣いているのだろう。
(この人が・・・・・・・・・・・・俺の本当の母親・・・・・・)
 斗音が大事だった。斗音は恐らくこのことを知っていたから、自分を九条に戻そうと考えたのだ。この二人を救うことは、自分にしかできないと知っていたから。それを思って、斗音にできるだけのことをしようとしてくれたこの夫妻。こんなに苦しんで、つらい思いをしてきた人たち。
 そしてもうひとつ理解したことがあった。慈恩は握り締めていたクロスが、自分の体温で暖められているのを感じながら、そっと目を閉じた。
『・・・・・・これは私たちと・・・・・・あなたをつなぐものよ・・・・・・。これからはあなたが・・・・・・私の代わりに・・・・・・斗音を・・・・・・支えてあげてね・・・・・・』
 死の直前にそう言って母が託したこの十字架のネックレス。斗音に渡さずに自分に渡したのは、自分にだけ血のつながりがなかったから。信心深かった美しい母が、ずっと斗音のために祈りを込めていたそのクロスを、自分を家族の一員であるという証と、だからこそ斗音を支えて欲しいのだと、そういう思いを込めて託したのだ。そうとも知らず、ずっと形見だと思い、誓いの証だと思い、肌身離さず大切にしてきたのだけれど。
(・・・・・・母さん・・・・・・父さん・・・・・・置き去りにされていた俺を引き取って、本当に自分の子供のように育ててくれた。決して斗音との愛情の差なんてなかった。・・・・・・ありがとう。その気持ち、忘れない)

 斗音の想い、絢音と雅成の想い。どれも自分のわがままひとつで無駄にしてしまうことはできない。育ててくれた椎名の母から託された思いはあるけれど、今はその斗音自身が自分にこうすることを望んでいる。
 
慈恩は深い溜息とも、吐息ともつかないものをこぼし、その反動で大きく息を吸った。
(嘘でも本音でも、俺がいなくても平気だと言えてしまう斗音の傍にいて、斗音に引け目を感じさせ続けるくらいなら・・・・・・)
「・・・・・・曾おじい様。俺は・・・・・・九条さん、いえ、絢音さんを母と、そして雅成さんを父と・・・・・・呼べると思います」
(俺がここで必要とされているのなら、俺はここでこの人たちを少しでも支えたい)
「・・・・・・・・・・・・絢音さんと雅成さんがそれで喜んでくれるのなら」
 決して強くはないが、低く艶のある声が大きな客間の空気を振動させた。その振動が、鼓膜から脳に信号として発信されたものをキャッチしたはずの絢音と雅成は、一瞬呆然と慈恩を見つめた。絢音の両親も、意外そうな表情を隠しきれなかった。美弥子は最初からそれを前提としていたらしく、まあ当たり前だといわんばかりにうなずいた。重盛も、満足そうにうなずいた。
「なんと、器量のある子だ。今の醜い内情を見ても、絢音たち夫婦のことを思いやれるとは。頼もしい跡継ぎができたものだ。では、早速越して来るといい。それから貴美枝、彼の転入手続きを取ってやってくれ」
 貴美枝がうなずくのと、絢音たち夫婦がぎょっとして重盛の顔を見るのと、慈恩が一瞬呼吸を止めたのが同時だった。
「ちょっと待ってください、おじい様!転入って、どういうことですか!?」
 切羽詰ったような絢音に、重盛は溜息をついた。

「九条の人間が公立高校に通っているわけにはいかんだろう。それくらい、九条の人間なら気がつかぬようでは困る。如月で執行部を務めるくらいの人間だ。どんな有名私立にだって入れよう。慶応大学付属の伝統ある桜花高校で転入試験を受けなさい。夏休み明けからはそちらに通うのだ」
「そんな・・・・・・!慈恩くんには慈恩くんの今までの生活がありますし、友達もいるでしょうし、部活の仲間だって・・・・・・それに執行部も途中で抜けてしまうなんて無理ですよ。彼は学校を動かす一人なのです」
 真っ先に異を唱えたのは雅成だった。絢音も必死に口を添える。
「そうです。それに斗音くんにも・・・・・・せめて学校では斗音くんに会えるようにしてあげてください。今まで兄弟として暮らしてきた子なんです。いきなり全く別の生活なんて、あまりにも残酷です!」
 しかし重盛は全く取り合おうとしない。
「何を言っておるか。友達など、これだけの人柄を持っておれば、どこでも自然にできよう。部活も今まで以上に指導者に恵まれた、素晴らしい環境で腕を磨ける。執行部に関しては、如月高校ともなれば、それくらいの交代要員はいくらでもあるに違いない。斗音という少年が気になるのであれば、彼にも転入手続きを取ってやればよい」
(斗音は・・・・・・斗音は絶対に如月を出るとは言わない)
 絶望的な思いを、慈恩は噛み締める。養子になると返事をした以上、この実の曽祖父の言うことを拒むわけにはいかない。この存在の強さを、慈恩はこのひと時でずいぶん感じた。
「あれだけ醜いところを見ながら、それでもせっかく養子に来てくれると言ってくれたのに、そのような身勝手な九条の私情を押し付けるのは、あまりにもひどい仕打ちです。そんな条件、私どもは慈恩くんに提示しておりませんでした。公立でも如月は屈指の有名進学校です。決して人に恥じるところなどありません」
 発言権の弱いはずの雅成は、それでも、必死の抵抗を続けた。慈恩を守ると言ったその言葉を、彼は打ち砕けんばかりの体当たりで実行しようとしていた。
「高校時代の友人とは大切なものだ。だからこそ、考えなければならない。あまり俗世間に浸かっていると、平安から続くこの貴族の家を継ぐ人間として、ふさわしい見識が持てなくなる。一般的なものはもう十分に学んだであろう。次はこういう旧家や高貴な家柄の世界も知るべきなのだ。もちろん、友人もだ。お前なら理解できるな?慈恩」
 その重盛の言い方に、既に九条家の一員として自分が扱われていることを、慈恩は知った。慈恩の心の中で、きらきら輝く斗音の姿、頼れる親友の嵐、翔一郎、瞬、一緒に如月祭を創り上げている執行部の面々、毎日汗にまみれてともに部長のしごきに耐えてきた剣道部の仲間たち、そして、自分に、後を継いでくれる人間として期待し、想いを寄せている近藤の姿が浮かんだ。
(みんなの・・・・・・近藤さんの期待を、俺は裏切らなきゃならないのか)
 整った形の唇をぎゅっと噛む。離れたくなかった。期待を裏切りたくなかった。思わず声に出す。
「理解は、できます。でも・・・・・・でも、もし叶うのなら、如月を卒業したいです」
 曽祖父の白い眉根が寄り、眉間に深いしわを刻んだ。
「お前の気持ちも、分からんではない。だが、本来なら九条本家の跡継ぎともあろう者は、最初からそういった私立の学園に通っているのだ。大学は能力によって国立私立どこにでも行って構わんが、それはこういう世界を十分に知って、その知識がある上での話だ。お前の場合、それがこれからの一年半しかないのだ。まして如月で卒業など、絶対にさせられん。理解できるのなら、自分を優先にするものではない」
「おじい様!この子の気持ちが分かるとおっしゃるのなら、九条を優先にしないでください。こんなつらい決断をしてくれた子に、私たちはできるだけのことをしてあげなくてはならないと思います。この子がそう望むのなら、頑張って受験して受かった学校を最後まで・・・・・・!」
 祖父の発言を逆手に取った絢音を、貴美枝が小声で制止する。
「絢音さん!あまりわがままを言うものではありません」

 その小声の配慮を絢音は叫び声で撥ね返した。
「わがままを言っているのはどっちですか!全部全部九条の家の都合を押し付けているのが、お分かりになりませんか!」
「絢音!全てはお前の十七年前の過ちから狂ってきているのだぞ。お前が若すぎる母親になったがために、慈恩は俗世間で育ち、今こうしてつらい思いをせねばならんのだ。全てはお前の過ちが発端なのだ!」
 今度は重盛が激した声を絢音にたたきつけた。絢音は激しくかぶりを振って涙をこぼした。
「過ちなどではありません!わたくしは今でも後悔はしておりません!後悔しているのは、九条という家の名に負けて、この子を手放してしまったことだけです!」
 絢音の衝撃的な言葉に、思わず貴美枝が立ち上がって手を上げた。ぴしっ、と、瞬間的に肌を打つ鋭い音が響いた。絢音をかばって、貴美枝の平手打ちの軌道上に割って入った雅成が、打たれた左手の甲をさする。
「もうやめませんか。こんな・・・・・・こんな醜いやりとりは。慈恩くんには私たちからもう少し話をします。それでも彼が、今の高校を辞めたくないというのであれば、もう自由にしてあげてください。そこまで彼を束縛する権利は、九条にいる誰にもありはしません。彼を元の世界に返して・・・・・・私が九条を出ます」

 静かな決意の声。その場にいる誰もが、重盛さえも、息を飲んだ。絢音が一瞬と、もうひとつ一瞬の沈黙を重ねた次の瞬間に、泣き崩れた。

 西屋に戻った三人の空気は、これ以上なく重かった。
「すまなかった、慈恩くん。僕の力が足りないばかりに・・・・・・嫌な思いをさせてしまったね」
 ソファでまだ声を立てて泣き続ける絢音を優しくあやすようになでながら、雅成が寂しそうに微笑んだ。
「・・・・・・絢音を愛してるし、別れたくなんてなかったから、結局君を利用することになってしまった。だけど・・・・・・だけど僕は、慈恩くん。君が大好きだよ。だからもうこれ以上、君を巻き込みたくない」
 迷う瞳を上げると、雅成は小さくうなずいた。
「僕が九条を出る。それであの人たちが納得するのなら・・・・・・。君が如月高校で大切な仲間と、斗音くんと創り上げてきた絆や生活。それがどんなに大切なものか、僕は分かるつもりだ。君は学校のことや斗音くんのことを話す時、いつも本当に楽しそうだったから。絢音も、解ってくれるね?」
 絢音の泣き声の悲痛さに輪がかかる。絢音は全てを失ってしまうのだ。今度は息子だけでなく、夫まで。それでも息子のことを思えば、解らないと、わがままを言葉に表すこともできなかった。
(どうして俺なんだろう。俺の判断ひとつで、この二人を不幸の底にたたき込んでしまう)
 慈恩は苦しさを吐息で吐き出した。大事な斗音、大事な友人たち、尊敬する先輩たち。離れたくない。でも、卒業するまでの一年半を自分が選べば、この二人は夫婦という、生涯ただ一人と決めた相手との別離を余儀なくされる。その痛みは、一体どれほどのものだろう。この二人の絆がどれほど深いものかは、あの場にいた慈恩にひしひしと伝わってきていた。それでも雅成は、自分のためにそれを手放そうとしている。
(跡継ぎができなくて離婚するなら、九条さんはまた別の人と結婚させられる。そうなったら、この二人は会うことすら許されない)
 慈恩は天井を仰いだ。自分は、会おうと思えばいつでも彼らに会える。毎日を一緒に過ごせなくなっても、彼らは必ず、いつでも自分を快く仲間として迎えてくれる。それは確信だった。そして、きっと斗音でも、この二人を不幸にしてしまうことを望みはしないだろう。
 自分は、けりをつけにここに来たのだ、と慈恩は自身に言い聞かせた。全国大会に臨むにあたって、色々抱え込んだままベストを尽くせずに終わるような、悔いを残したくなかった。だから、心の中のもの全てに、決着をつけるために。
(斗音、俺はこの人たちを見捨てることができない。お前には、嵐も翔一郎も瞬もついてる。けど、この人たちには本当に俺しかいない。・・・・・・・・・・・・俺さえ自分の気持ちを抑えれば、全てがうまくいく)
『俺だってもう高二だよ。一人でやってけるって』
(大丈夫・・・・・・・・・・・・斗音は、今まで以上にあいつらが大事にしてくれる)
 未練は大いにある。でも、慈恩はそれを捨てることを覚悟した。もう一度、母の形見を強く握り締め、ぐっと顎を引いて、雅成を見つめる。
「雅成さん・・・・・・いえ、お父さん。俺は、如月を辞めます」
 慈恩の視線の先で、雅成が目を瞠った。そして、つらそうに首を横に振る。
「慈恩くん。君が無理をする必要はないよ。ここまでのいきさつだけだって、十分に君はつらい思いをさせたんだ。これ以上君に犠牲を払わせるわけにはいかない」
 静かに首を振って、慈恩は続けた。
「彼らとこれで切れてしまうほどの絆だとは、思っていません。だから・・・・・・俺が九条に入ります」
 静かに、だがはっきりとそう告げる。泣きじゃくっていた絢音が顔を上げた。目が合った瞬間に、まだこれほど隠していたのかと思うほどの涙を溢れさせた。
「・・・・・・ごめんね・・・・・・そんなこと言わせて、ごめんね慈恩・・・・・・・・・・・・」
 それだけ言って、また雅成の胸に顔をうずめてしまう。切なそうにその髪を撫でながら、雅成は寂しそうに、でも優しい視線を慈恩に向けた。
「いいんだよ。私も、覚悟は決めた。絢音と別れても、心はつながっている。だから、君は如月を卒業して、いいんだ」
「・・・・・・・・・・・・」
 凛々しい瞳は静かで、自分の言葉を覆すつもりがないことをうかがわせる。雅成は不安や申し訳なさが混濁した複雑な表情を浮かべた。
「・・・・・・本当に?本当にそれでいいのかい?」
「・・・はい」
「・・・・・・・・・・・・そうか・・・・・・」
 九条慈恩の父親となる人は、震える唇でそうつぶやいて、静かに目を伏せた。すっとその頬を、透明な雫が滑った。
「・・・・・・・・・ありがとう・・・・・・」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

十六.インターハイ開始

 八月四日、名古屋市の最も大きな体育館で、如月高校男子バスケットボール部は、一回戦、新潟県の代表であった新見高校と対戦した。互いにこれまでの試合でハイスコアを誇っており、速攻を得意としたチームであったにも関わらず、相手を38点に抑え、如月高校はその約三倍の得点を、電光掲示板に表示させた。得意のラン&ガンのレベルの高さを見せ付ける結果だった。
 
中でも部長の徳本、嵐、翔一郎の三名はスタメンから変わることなく、ずっと走り続けた。徳本はセンターとしてゴール下をよく守り、一人で18得点を叩き込んだし、スモールフォワードの翔一郎は中からも外からも打てるシューターとして22得点という数字を挙げ、パワーフォワードの嵐はとにかく攻めまくり、一人で新見高校が総がかりで如月高校から奪った得点の分を、そっくりそのままもぎ取った。
 
斗音は1クォーターが終了したところでメンバーチェンジし、2クォーターと3クォーターの二十分間、コートに入った。シューティングガードの斗音は、翔一郎と同じように外からも中からもシュートが打てるプレイヤーなので、重宝されているのだが、爆弾を抱えている身なので、無理はできなかった。それでも嵐や翔一郎に絶妙のパスを送り、自らもスリーポイント三回を含む13得点を挙げた。短時間でこれだけは、大したものである。
 
応援に来ていた慈恩は感心しながら、彼らの見事な連係プレーを観戦していた。
「集団競技もいいもんだな。ここまで互いに通じ合える仲間がいたら、ゲームしてても楽しいだろうな」
 慈恩の隣でそうつぶやいたのは、剣道部部長である近藤だった。嵐の計らいで、斗音の非常事態のための付き添いとして特別措置を組んでもらった慈恩と違い、彼は朝一の新幹線でこちらに到着した。
「何つーかこう、バスケがうまい奴はかっこいいよな。見たかよ、今の斗音から東雲へのパスとか、全然そっち見てないのに正確に飛んでくんだぜ。そこで最初から分かってたように受け取って、東雲は見事に敵をかわしてあのバネでダンクシュート。いいなあ、一回でいいからああいうの、やってみたいな」
 溜息交じりに肩をすくめたのは、同じく朝一で駆けつけた如月高校の生徒会長である。彼はなんと、テニスの大会が終わってから、あちこち回って顔を出していた。学校からいくらかの補助金は出たらしいが、自分のバイト代もかなりつぎ込んでいるらしい。テニスの方は、インターハイの一回戦で、春の優勝校と当たってあえなく敗退してしまっていたので、今は自分が会長を務める高校の応援に全力を尽くしているらしい。
 近藤は、勤勉な元クラスメイトをちらりと見やった。
「中学生みたいなことを言うな」
 その視線を軽く受けて、今井はにやりと笑う。
「心が純粋で素直な証拠だ」
「賢いんだから、もう少し語彙を工夫しろ」
「東雲が羨ましい」
「・・・・・・・・・・・・は?」
 怪訝な顔で近藤は目を眇めてから、苦い笑いで肩をすくめた。
「小学生みたいなことを言うな。お前の人格、間違って伝わるぞ」
「伝わればいいさ。あながち外れちゃいないだろうよ」
 今井の返答は、思いのほか複雑な気持ちから言葉になっていたらしい。
「・・・・・・ふん」
 隣で少々意味深な会話が繰り広げられているのも耳に入らず、慈恩は斗音と友人たちの活躍ぶりをじっと見つめていた。背が高い連中の多い中、斗音は目立って華奢で小柄だった。そんな華奢な斗音の放つスリーポイントシュートの綺麗なフォーム、正確なパス裁きは、華のある嵐の力強いプレーとはまた違った引力を持って、人々の目を惹きつけていた。
 時折、倒れてしまうのではないかと思うほど激しい動きをする斗音にひやひやしながらも、懸命にプレーする姿がどれほど輝いているのか、慈恩は改めて思い知った。
『ごめん、隠してて。正直、知って欲しくなかった』
 九条の養子に入ることを決断して、斗音にそのことを話した時、斗音はそれほど表情を変えなかった。一言、そう、とつぶやくように言っただけだった。その決断の理由のひとつとして、自分には九条の血が流れていること、自分たちは兄弟でも双子でもなかったことを挙げ、その事実を知っていたのかと柔らかく問うた時、斗音は哀しげに、儚いばかりの微笑を浮かべてそう言った。
『今までの人生、俺のために一体どれだけ犠牲にしてきただろう。あかの他人である俺のために。・・・・・・そう思われるのがつらかったんだ。ごめん』
(あかの他人って、何だよ)
 思い出すだけでも悔しい。事実だけが全てじゃない。今まで共にあった時間の存在が、そんな事実によって否定されてしまうほど軽いとは、思わない。そんな風に自分が考えるのではないかと思われたことも、寂しかった。
(犠牲って・・・・・・何だよ)
 そんなつもりは欠片もなかった。血がつながっていなかったことを知ったからといって、斗音を大切に思う気持ちは、変わりはしない。
「斗音がプレイするの、俺初めて見たよ。上手いんだな。あんな頼りなさそうな身体してるくせに、俊敏で正確で、視野が広くて。なんか、目が離せない」
 感心したような今井の言葉に、慈恩はふと我に返った。
「そうだな。でも目立つのはどっちかって言うと迫力のある徳本と東雲じゃねえか?」
 首をかしげる近藤に、今井がふっと微笑を見せた。
「繊細さより強さか。お前らしいよ」

 先輩たちの会話に、実は彼らの想いが見え隠れしているなんて、慈恩は思いもしない。やや今井の台詞に、過剰なものが含まれているような気がして、一瞬不審を感じはしたが。
 
そんな観客席の視線が集中する中、自分についていた十センチ以上も身長を上回る相手にフェイクをかけ、斗音の白いしなやかな腕が、その隙を突いてスリーポイントシュートを放った。どよめきと歓声が起こり、如月の電光掲示板に3点が追加される。仲間たちから肩や背をたたかれ、笑い合う斗音は嬉しそうだった。
『信用されてないんだな、俺は』
 思わず言った一言。言った瞬間に後悔した。斗音が泣きそうな顔になって斜め下に目を逸らした。唇を噛んでぎゅっと目を閉じて・・・・・・傷つけたとすぐに感じた。肩に触れようとして・・・・・・手を止めた。どれだけ今まで一人で苦しんできたのか、理解したつもりだったのに、軽はずみに言葉の刃を投げつけてしまった自分に、何ができるというのだろう。それに、その言葉は慈恩の本音でもあった。事実現在まで引きずっているほど悔しいし寂しい。そんな思いを抱えて、一体何の言葉を掛けられるのだろう。慰め?否定?そんなの嘘っぱちだ。
(今の俺では、あいつにあんな嬉しそうな顔をさせること、できない)

 深い溜息が、知らず漏れる。会場中の観客がゲームに集中している中、近藤だけがその物憂げな後輩を気遣うような視線を向けていた。

 翌日、豊川市の武道場で、剣道の団体戦が予定通り開催された。この日は団体戦で、勝者数法であるから、どんなに近藤と慈恩が強くても、あとの三人が一勝もできなければそこで敗退である。よって、緊張が高まっているのは若園と楠、そして橋本だった。
「去年も団体戦、一勝はしてるもんなぁ。下手に相手がメンバー入れ替えてたりしたら、どうしよう。俺大将クラスに勝つ自信ないよ」
 剣道は基本的に先鋒、次鋒、中堅、副将、大将の五人で団体戦を競う。その強さは大将に近づくにしたがってレベルが上がっていく。それが基本中の基本だ。しかし、その五人で勝つための作戦は、どのチームもしっかり立ててある。本来なら大将を努めるべき実力の持ち主が前半に出てきて、確実な勝ちを狙うケースも多々ある。
 ぼやいた若園に、近藤がにやりと笑う。
「だとしたら、俺たちは百二十パーセント勝てるからいいじゃねえか」
 そして表情を改める。
「いいか。俺たちは東京都代表だ。激戦区で優勝してきたんだ。絶対に強い。自信持て」
 力強い声で言われると、自然メンバーの背筋が伸びる。そこに、選手登録に行っていた顧問の篠田がひょこりと顔を出した。
「さすが部長、いいこと言うなあ」
 にこやかな笑顔が好印象の、まだストレートに採用されて教員五年目というこの男性教師は、剣道四段の実力者である。大体練習も近藤にまかせっきりに見えるのだが、個々に的確なアドバイスを、みんなが気づかないところでしているし、練習メニューもよく近藤にアドバイスしている。だが、去年試合中にアキレス腱を切るという大怪我をしたため、今は自ら相手をするということはない。更に言えば、彼は二刀流の使い手なので、学校剣道としてはあまり合わないらしい。
「先生。初戦の相手校はどこです?」
 きりりとした表情で問う近藤に、あくまでやわらかな笑顔で答える。
「団体としては、まだ全国で無名に近いからねえ。愛媛県の強豪だよ。松山高校。去年はベスト16くらいまで行ったんじゃないかなあ」
 篠田の言葉に、若園と橋本がうなずく。
「まあ、力としては五分ってところか」
「技術が五分なら、あとは精神的な部分で補うしかないよな」
「近藤と椎名がいるから、五分じゃないよ」
 篠田がにっこり口を挟んだ。
「この二人は全国で名前を知られている。それだけでも相手校には大きなプレッシャーだ。それにさっき部長が言っただろ。正直、君たちは去年の如月高校よりずっと強い。まず松山には負けないよ」
 一瞬場が静まり返る。
「・・・・・・だったら、まだ無名だとか強豪だとか言う必要はないんじゃ・・・・・・?」
 楠が首をひねると、近藤が野獣のような笑みを浮かべた。
「それでも勝てる強さが俺たちにはあるってことだ」
 慈恩が小さくうなずく。その場にいた全員の瞳に、自信の輝きが宿った。
「なあ、篠さんと近藤のコンビって、いいと思わねえ?」
 そう言ったのは、昨日のバスケットボールの大会に引き続き、応援に来ている今井である。話題を振られた斗音はわずかに微笑んだ。
「理解し合って、上手く雰囲気を変えましたね」
 言いながら、如月高校生徒会副会長の視線は、部長の脇に控えるように立っている慈恩に向いている。インターハイの前に、全ての決着をつけようとした慈恩に聞かされた話のショックから、斗音は未だ立ち直れずにいる。
(昨日の試合中には、雑念全部消えてくれたのにな)
 斗音の集中力は目を瞠るものがある。しかし、さすがに慈恩を見に来ているのだから、気にするなというほうが無理である。朝からずっと塞ぎこんでいる斗音に、周りは心を痛めていた。それほど斗音の表情は痛々しかった。
『養子になることの条件で、学校を変わることになる』
 それを言ったときの慈恩の表情は、とてもつらそうだった。それを見ただけで、それがどれほど苦しい決断だったのか、斗音には理解できた。理由も打ち明けられたが、優しい慈恩があの夫婦の苦しみを放っておけるはずもなかった。何より、自分がそうしろと言ったのだ。今更口をはさむ資格はなかった。
『そう・・・・・・なんだ。・・・・・・普段会うことも、できなくなるね』

 不安から自分が不用意に口にしてしまった言葉に、慈恩が自分は信用されていないんだな、とポツリつぶやいた直後だった。慈恩を信用していないわけではない。自分が彼の心配に足る人間だという自信がないのだ。そもそも、斗音は自分自身にそれほど自信を持っているわけではない。家事が不器用なのは、そのせいでもある。「できない」ものが多い部分では消極的なのだ。
 
寂しくてつらくて、うつむいた自分に、慈恩はそう告げた。その瞬間、そんなの聞いてない、という反論が心の中に噴き上がっていた。でも、慈恩の表情がそれをさせてくれなかった。だから、無理に納得しようとした。まともに見られなかったけれど、慈恩は寂しそうに見えた。あんな顔をするときは、自分に何か言うべき言葉があるときだった。母を亡くした夜に、自販機の前でコインをぶつけたときと同じ、迷子のような漆黒の瞳。
(慈恩が欲しかったのは、俺の素直な気持ち・・・・・・でも学校変わるのは嫌だなんて、そんなのただのわがままだ)
 結局言えはしなかった。そのまま逃げるようにして部屋に閉じこもってしまった。
(俺はなんて弱いんだろう)
 そう思って、慈恩と離れることが今更ながら痛感されて、涙が溢れてきた。ベッドに転がり込んで、枕に顔をうずめて、絶対に声が外に漏れないように、そっと泣いた。ドアがノックされたが、応えられなかった。慈恩の決心を鈍らせることだけはできないと、そう思った。
『斗音・・・・・・斗音・・・・・・!起きてるんだろ、なあ!』
 珍しく鍵を掛けた部屋の外から、慈恩の静かだが強い声が聞こえた。
『お前はそれでいいのか?・・・・・・斗音!』
 よくない、よくない、よくない!ベッドの中で激しく首を振った。そして気づいたこと。
(行ってほしくない・・・・・・)
 その存在がいかに大きいのか。けれど、もうあとには戻れない。時間は決して遡ることはない。
(会おうと思ったらいつでも会える。あの夫婦が愛し合ってるのに別れなきゃならないことを思ったら・・・・・・俺だってその選択をする)
 そう思うことで納得しようとした。それは理性であって、本能的な感情を押さえ込むためのものでしかないから、こうして晴れない顔を周りに心配される羽目になっているのだが。
 如月高校は第六試合で松山高校と当たった。会場は広く、その室内に十二の試合会場がある。よって、それほど如月高校の応援団が待たされることはなかった。

 先鋒若園は、スタンダードな中段の構えから素早い動きで守にも攻にも移れる。テクニックなら次鋒の楠にも勝る。素早い動きと部長直伝の威勢のいい掛け声で相手をひるませ、一本も取らせなかった。が、こちらも一本も取れず、引き分けとなった。
 
次鋒の楠も中段の構えであるが、若園と違うのは、そのパワーだ。打たれてもものともせず受けて、撥ね返すことができる。しかも、撥ね返したその竹刀で一本を打ち込むことができるのだ。しかし楠は、早めに勝ちを取っておこうという相手の作戦により、実力で行けば副将辺りがふさわしい相手と当たった。一本先制され、一本払い胴で返したが、それ以上追い上げることができず、ラスト十秒で一本取られてしまった。相手も全国に出てくる学校なのである。
「くそっ、若園は先鋒じゃなくて、中堅レベルと当たってたんだ。若園より強い先鋒なんてなかなかいねえからおかしいと思ったんだ。橋本、お前たぶん本来の相手の大将が相手だぞ」
 逞しい楠の悔しがり方は、結構迫力がある。地団太を踏むと床が揺れたので、篠田が苦笑した。
「楠、揺れてる揺れてる」
 そして責任の重さを感じて少々硬くなっている橋本ににこりと笑いかける。
「大丈夫だ。若園が引き分けてるから、お前が例え万が一負けたとしても、後の二人が二勝して、代表戦で近藤か椎名が勝つから、絶対にうちの負けはない。だから思いっきりやってこればいいだけの話だよ」
 大した買われようだ、と慈恩は肩をすくめた。近藤は当たり前だというようにうなずく。
「そうだ。橋本、お前普段椎名や俺とやってんだぞ。相手の大将は全国でそんなに名前聞いたことねえ奴だ。そいつと俺と、どっちが強いと思ってんだ」
 橋本は思わず苦笑した。
「ああ、お前らのほうがぜってえ強えだろうな」
 言って試合場に足を踏み入れて、もう一度振り返った。
「とりあえず全力で当たってくるよ」
 笑みを浮かべたその表情を見て、慈恩は納得する。試合が始まる前にも感じたのだが、篠田と近藤の絶妙な士気の上げ方は、見事に効を奏している。もう橋本に、硬さはない。こうなると、橋本は結構強い。間違いなく相手は普段大将をしているであろう技量の持ち主だったが、落ち着いた中段の構えで、これでもかと打ち込まれる技を払い、かわし、その隙を突いて引き面を決めた。それが見事に一本になり、結局四分間の中で一本が決まったのはその引き面のみであった。
 落ち着いて竹刀を納め、礼をして戻ってきた橋本は、正座をしている仲間に向かって、こっそりガッツポーズをして見せた。慈恩は思わず顔をほころばせながら、先ほどのやり取りがこの勝利につながったことを確信した。
(さすが近藤さん。部長ってのは、大きな存在だ。篠田先生も、やっぱり有段者だけある。心の落ち着け方を知ってる。全国でこの二人がいることは、如月にとって絶対に大きな武器だ)
 そして、心の中に生まれる苦味。明日の個人戦が終わったら、近藤に告げなければならない。如月高校剣道部の部長にはなれないということを。
「椎名!」
 力を込めて呼ばれ、はっと意識を現実に向ける。隣の近藤が、厳しい表情で見ていた。
「ぼんやりするな。負けたら殺すからな」
 近藤らしい。自分にはそれが一番効くと分かっているのだ。リラックスするために。
「近藤は本当にやりかねないからな。椎名、殺されないように頑張れ」

 くすくす笑いながら篠田が慈恩の肩をぽんぽん、とたたいた。誘われるままに微笑して、慈恩は立ち上がった。この試合で、慈恩は副将を務める。実力でいけば、大将でもいいだろう。しかし、そこは篠田の作戦である。近藤は、実力もある。最後の決戦になったときに、部長という誇りを懸けて自分の最高の力を出し切ることができる人間だ。信頼を置いている橋本と慈恩で確実に二勝を取って、最悪でも近藤につなぐ。その、確実な一勝を取るための布石であり、実状ではよくある「大将クラスの選手で副将戦をやって、勝負をつけておこう」という、チェックメイトのための、最高の駒であった。
 
慈恩は少し目を閉じて、軽く深呼吸する。暗闇の中に一点の白い光が見えてきた。精神統一完了である。漆黒の長い睫毛をゆっくりと持ち上げ、試合場の奥を見つめた。相手が歩いてきて、定位置につこうとしている。それに向かって、静かに足を踏み出した。

 まず正座に対する礼、次に相互の立礼を優雅にこなし、相手をじっと見つめて抜き合わせ、中段に構える。相手は恐らく普段の次鋒だろう。ぎらぎらする瞳は、何が何でも一本くらい決めてやろう、という気合に溢れている。
「始め!」
「ぃやああああああああ!」
 掛け声にも気合がみなぎっている。負けて当たり前、当たって砕けろというこういう相手は、結構思い切りよくできるので、危険だ。慈恩は静かに下段に構えた。守り重視で、相手の技に応じる構えである。
「・・・・・・慎重だな」
 嵐のつぶやきに、斗音は黙ってうなずいた。慈恩に心の乱れは全くない。悔しいくらいに。
(俺も昨日は試合に集中してたから、お互い様だけど)
「とぁああああああああ!」
 いきなり松山高校の副将が仕掛けてきた。慈恩が下段であるのを逆手にとって、上の面狙いである。慈恩は軽く左足から斜め左後方に引き、すばやく中段まで上げた竹刀で相手のそれを右にすりあげ、すかさず相手の右小手に打ち下ろした。
「小手ぇっ!」
 如月を示す白の旗が一斉に三本上がった。
「小手あり、一本!」
「はえぇ・・・・・・」
 電光石火のすりあげ技に、嵐ですらそうつぶやいただけで呆然とする。一瞬翻った慈恩の背の白い布と同じ、白旗が一斉に上がるのは、審判もさすがと言うべきだ。慣れていなければ分からないほどの速さだった。会場もそこで名の知れた椎名慈恩が戦っていることを知っているので、現在試合中の学校関係者以外は、注目していた。一瞬会場の雑音の音量がぐっと下がった。それをきっかけに、何が起こったのかと更にこちらに注目する人が増える。
「すっげぇ・・・・・・」
 息を飲んだのは今井である。
「一瞬何したのか分かんなかったぞ」
 斗音の胸は誇らしさで打ち震えた。斗音とて、それほど慈恩の剣道を見る機会があるわけではないが、少なくとも前回見たときよりははるかに技術が上がっているのが分かる。みんなが見とれている慈恩は、誰よりも自分に近い人間なのだ。その慈恩が褒められれば褒められるほど、まるで自分のことのように嬉しい。
「慈恩、かっこいい!すごいすごい!」
 試合場の雰囲気を壊さないように小声になりつつも、無邪気にはしゃいで喜ぶのは瞬である。
「何か、あんなすごい人間が俺らの友達だと思うと、誇らしいよな」
 翔一郎が感激あらわに、斗音に近い気持ちを代弁する。
「まだ試合は終わっちゃいない。最後まで瞬きもできねえな」
 半分苦笑、半分脱帽といった感で嵐が周りの視線を慈恩へと向けた。
 あまりにも早い一本に面食らった松山の副将だが、はなからそのつもりで戦っているらしい。すぐに立ち直って上段に構えた。攻撃重視の姿勢である。すかさず打ってきた。
「やぁああああああぁぁ!」
 全身全霊を込めた裏突である。突に対する応用技は、面や小手、胴に対するものよりよけづらい分少ない。その突に向けてわずかに出て、眼前に迫っていた剣先を右に払い上げるようにして流す。そしてそのまま鋭く面を打った。相手が瞬間的によけたせいで、竹刀が面をかすめる。
「おしいっ!」
 始まってまだ二十数秒である。瞬く間に繰り出される技に、またしても観衆がどよめく。
「打ち合うってことがねえのか、ここは。ひとつ手を出せば、たちまち応じられて逆に一本だ」
 感嘆の溜息交じりに如月のトップを張る男は、軽く首を振った。ほかの試合場からは、甲高い叫び声や掛け声とともに、竹刀の打ち合わされる音が響き合っている。
「今、一瞬突に向かって出たよね?勇気あるなあ」
「うん。でも、突に引いちゃうと余計打たれやすいらしいよ」
 瞬よりは少し、剣道のことが分かる斗音が解説する。
「ふぇぇ、そんなもんなんだ。ていうか、すごい見極めてるって感じだから、慈恩に当たる気がしないんだけどさ」
「ああ、何かそれは分かるな。動きが滅茶苦茶速いっていうか、鋭いんだよな」
「無駄な動き一切なしで、最小限の動きでかわして、流して打ってるよね」
 その言葉に今井が反応する。
「そういえば、慈恩は応じ技とか返し技が多いのか?」
「・・・・・・相手によってスタイルは変えるみたいですけど、自分から仕掛けるって言うよりは、相手が攻めてきたものを思い通り返すことで、自分の思うとおりの隙を作る方が多いと思います」
「はあ・・・・・・なるほどね」
 相手がどれだけ鋭く打ってきても必ず返せるという自信がなければできない戦法だろう。そう考えて、今井は溜息をついた。
「本当に全国レベルなんだなぁ、あいつは・・・・・・」
 打ち込めばたちまち応じられてしまうという事態に陥り、松山の副将は距離を取った。気合の入った掛け声で慈恩を圧倒しようとする。慈恩はあまり声を出さないので、そういう点では押されていると見られても仕方がない。小学生の頃は掛け声もしっかり出していたのだが、自分の場合それ以上に相手の動きをよく見て集中した方が決まるということに気づいて、声を出すことで気合を込めるよりも、相手の気合すら撥ね返す集中力を身につけるようにしてきた。逆にあまり声を出そうとすると、気が散ってしまうのだ。近藤はそのやり方にあまり好意的ではないが、篠田はこともなげに言う。
「いいんじゃないか?そんな剣士がいても」
 敵は間合いを詰めず、竹刀が届くぎりぎりで慈恩の竹刀をつつき、打つぞ打つぞとフェイントを掛けては跳び下がる。
「まるでヒットアンドアウェイだな。ほら、ボクシングの」
「そうだね。ヒットしてないけどね」
 翔一郎と瞬の、ややコミカルなやり取りの間に、慈恩は中段に構え直した。
「攻めるのか」
 嵐が独語した瞬間、如月高校副将が右足で踏み込み、その竹刀が宙に上がった。高さから言って右の小手か胴、といった感じで、思わず松山の副将が竹刀で払いにかかった。しかし、実際には払わせてもらえなかった。払おうとしたことでわずかに空いた喉頭部めがけて身体ごと鋭く突が入ったのだ。白旗が勢いよく上がる。
「突あり、一本!それまで!」
 うぉおおっ、と会場中がどよめいた。計時係はもちろんいるが、時間が分かりやすいようにと今回導入されているカウントダウンデジタルタイマーに電光掲示された残り時間は、三分二秒。
「一分経ってねえよ・・・・・・」
 は、と嵐は笑った。参った、といった表情だ。
「悪いけど、全然格が違うよ。ここ、全国なのに・・・・・・」
 饒舌な瞬も、言葉が出てこない。

 定位置で勝者の宣言を受け、竹刀を納めて礼をする。落ち着いた動作で静かに戻ると、観客席から拍手が沸いた。部活の仲間や友達、そして嬉しそうな斗音の姿を認めた慈恩は、微笑した。面の奥だから、その微かな微笑みが分かる人間はほとんどいないだろうが。そう思った時、斗音がまるでそれに応えるかのように微笑んだ。
(・・・・・・斗音)
 多分、斗音にも見えなかったはずだ。観客席までは距離もある。でも、斗音には分かったのだ。自分が笑ったということが。斗音にだけは、自分の心が通じているのが分かった。
(・・・・・・笑ってくれた。俺にはもう、あいつにあんな顔をさせること、できないと思ってた)
 集中していたことで意識の外に追いやっていた感情が、どっと押し寄せる。苦しみの中にじわりと甘い感情。
(・・・・・・・・・・・・よかった・・・・・・)
「見事だな、椎名」
 近藤がゆっくり立ち上がる。その様子ですら、余裕を抱いた獣のようなイメージがある。
「殺されずに済みました。でも、次負けたら同点になっちゃいますね。先鋒に出るべき相手にそれはないと思いますけど」
 微妙にからかうようなニュアンスを含めて、慈恩が応じた。剣道部の面々は色を失う。
(部長に対して何つーことをっ!!)
 ところが、近藤はぎらりと光らせた瞳で、にやりと笑った。
「誰に物言ってる。五十七秒で片つけてきてやる」
 慈恩は苦笑した。あくまで自分に勝ちたいらしい。相手なんて、眼中にすら入っていないようだ。
(近藤さんらしい)
 そして、その試合内容もらしさ全開となった。構えは上段、徹底的に攻撃するという姿勢に、既に松山の大将は腰が引けていた。もともと先鋒の選手である。恐らく彼には、近藤が何倍にも大きく立ちはだかって見えたに違いない。その上近藤が繰り出したのはかつぎ技である。
「やあああああああっ!!」
 気合の満ち満ちた掛け声とともにかつぎ小手を繰り出す。
「普通かつぎ技は十分攻めといて、いきなり出してびびらせるもんだよな」
 観客席で応援の田近が、溜息混じりにつぶやく。こんなことができるのは近藤部長くらいのものだと。
「だって、部長がやると怖いもんな。殺されそうな気がする。ていうか、絶対殺気こもってるし」
「あれにびびらないのは慈恩くらいだって」
 相手は必死に竹刀で受け止めたが、受け止めきれずにバランスを崩す。そこを、相手をひるませるような掛け声とともに打って出た。
「めぇえええええんっ!!」
 その恐ろしさに思わず足を引いてしまった松山の大将は、避け損なってバランスを崩し、打たれた勢いのまましりもちをついてしまった。如月高校の一本を告げる白旗が上がる。
「面あり!一本!」
 熱気のこもった会場で、多くの人間が背筋を駆け上る冷気を感じた。
「・・・・・・こぇえ・・・・・・」
 ぼそりとつぶやいた今井に、如月高校の面々はごくりと唾を飲み込んだ。今井をすら恐れさせる近藤に、恐れをなさずにはいられない。
「絶対脳細胞いくつか、今ので死滅してるよね」
「面だけは喰らいたくねえな」
 やや緊張感に欠ける恐れのなし方をしている瞬と翔一郎の会話を横目に、嵐は感心したように吐息した。
「慈恩がテクニック派だとしたら、近藤さんはパワーだな。どっちも強いんだろうけど、ほんと、全然違う強さだな」
 相手が立ち上がり、構えをするや否や、近藤は攻めに入る。やはり上段の構えで、今度は上段から面である。ぴしいっと竹刀同士が打ち合わさる音がしたと思ったら、その勢いで後ずさりせざるを得なかった相手に向かって一歩踏み込み、勢いよく面を狙った。必死に相手が、その間に竹刀を割り込ませる
 だぁんっ、と派手に音がして、ものの三十秒ほどの間に再び、今度は竹刀ごと力一杯弾き飛ばされてしまった松山の大将が、倒れたままうめき声を上げる。
「うわぁ・・・・・・いたそー・・・・・・」
 恐れを表情一杯に載せて、瞬が言葉をこぼす。
「剣道部が近藤さんを恐れるわけだよ。勝ち目の欠片もないじゃん。何か、相手可哀想になってきた」
 翔一郎もしみじみと言う。斗音も苦笑した。如月高校の一回戦突破は堅かった。
 その期待に見事に応えて、近藤は五十一秒経過したところで二本目となる面を打ち込み、すっかり逃げ腰になってしまった相手はそれを受ける動作すら間に合わず、またもや思い切り脳に衝撃を喰らう結果となった。
「面あり、一本!それまで!」
 悠々と戻ってきた近藤は、座して控えていた慈恩を見据え、野獣のような笑みを閃かせた。
「残り時間三分九秒。とりあえず、こっちの相手の方が弱かっただろうから、こんなもんだな」
「いっそ相手が気の毒でした」
 翔一郎と似たようなことを言って、慈恩は笑った。
「だから早く終わらせてやったじゃねえか。感謝してもらいたいくらいだ」
 尊大な態度も、強さに裏打ちされているので、嫌味ではなく、むしろハクがつく。
「とりあえず如月高校一回戦突破・・・・・・と。去年は二回戦で敗退してるから、今年はもう一回勝てるといいな」
 今井の言葉はまさに慈恩の目標そのままだった。
 二回戦は京都精華高校である。昨年度のベスト4に入っている高校で、今年も優勝候補の一角として注目されているところだ。篠田は苦笑した。
「うーん、これは強敵だなあ。去年も出てる選手が二人いるし。ええと、桐島くんと水野くんだね。三年になって更に強くなってるだろうし、彼らは間違いなく今年の副将と大将だ。椎名と近藤に絶対に勝ってもらわなくちゃならない。で、あとの三人だけど、それも当然強い。彼らはシードだから一回戦を戦ってなくて、力がはっきりとは分からないけど、これまでの地区大会の資料からいくとこんな感じだよ」
 トーナメント表にさらさらと相手校のオーダを書き出し、その名前を一つ一つ指しながら話し始める。
「先鋒の菊池くんは柔らかい剣道をするよ。そうだな。椎名に近いかもしれない。相手の技を流して打ってくる。あのチームでは中堅レベルだ。次鋒の葛山くんは体格もいいし、パワーもテクニックもある。中堅の一宮くんはとにかくパワーで押しまくる。まあ、本来なら先鋒だろう。この三人をどう攻略するかだね。桐島くんが副将、水野くんが大将だ。この二人に関しては、去年椎名も近藤も見てるから、少しは予想できるかな?」
 近藤は腕を組んでしばし考えてから、篠田を見上げた。
「先鋒が中堅レベル・・・・・・。若園にはつらいかもしれませんね。パワーとテクニックのバランスが取れている次鋒には、ちょっと楠が苦戦するかもしれません。本来の先鋒レベルの中堅に、橋本が勝ってもらうしかない」
 うなずきながら聞いていた篠田は、にっこり微笑んだ。
「そうだね。その通り。とにかく一勝はしないとどうにもならない。だから、橋本で確実に勝つ。この対戦なら絶対にうちの方に分があるからね」
 やや消極的な発言に、慈恩が少し驚いた表情を浮かべる。
「でも、先鋒と次鋒も・・・・・・」
「うん。でも捨て身なわけじゃない。楠はあくまでパワー勝負。次鋒戦だってそれにこだわればいい勝負ができるはずだ。で、若園は正直苦しいと思うけど、お前のテクニックを菊池くんにぶつけてきて欲しい」

 二人は黙ってうなずいた。篠田には絶対の信頼を寄せているのだ。強く信頼されている顧問は、優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫だ。君たちは強い。アドバイスはしたけど、普段の剣道でも決して負けるとは思っていないよ。このアドバイスは、いわば石橋をたたいて渡ってるようなものだ。で、桐島くんには椎名、水野くんには近藤と、最強タッグで挑むんだ。彼らも当然去年よりレベルアップしてるけど、君たちだってそれは同じだ。さ、自分たちを信じて精一杯戦っておいで」
「はいっ!」
 結構間近でその作戦タイムを見ていた如月高校の応援団最前列を陣取る如月生徒会長は、ほぅ、と溜息をついた。
「篠さんって、普段はすごく柔和で優しいイメージしかないけど、しっかり研究してるし、生徒の気持ちもよく分かってるし、結構やる人だな」
「頼もしいですね。剣道部が一生懸命にやるのも、篠田先生の存在に一因があるかもしれません」
 ちょっとハラハラしながら斗音は見ている。京都精華高校、覚えがある。去年九州で如月高校とは反対のブロックにいて、その時もシードだった。そして、やはり桐島、水野という名前に覚えがある。彼らは全国区の選手だ。中学の頃から全国に出るとよく目にした。二人とも慈恩と対戦したことはないと思うが、慈恩が専門的な語彙を使いながら感心しながら見ていたのを覚えている。
(勝てるのかな・・・・・・)
「近藤、お前なら絶対いける。お前の迫力でびびらねえ奴はいねえよ。だから、今度も安心して見てっからな」
 今井がやや大きめの声で声援を送り、片目をお茶目に閉じて見せた。如月高校の女の子たちが見たら、きっと騒ぐに違いない。今井のルックスは上中下で言えば上、松竹梅でいけば松に当たるだろう。もちろん嵐なんかと比べたりしたら、上の下ぐらいになってしまうかもしれないが。その上明るくてセンスがよくて積極的な性格、スポーツもよくできる、リーダーとしては抜群、将来有望というわけで、理想的な男性像に当てはまる。
(慈恩)
 斗音も思わず心の中で一番応援したい人物の名を呼ぶ。頑張れ、と一言言いたいけれど、今そんなことを言ったら、すごく白々しい上辺の会話になりそうな気がして、躊躇ってしまう。
(頑張れ・・・・・・!)
 会場と隔てるための仕切りの壁に載せた手で、それをぎゅっとつかんだ。その瞬間、本人とばっちり目が合う。
(・・・・・・・・・・・・あっ・・・・・・)
 慈恩も一瞬瞬きをした。でも、すぐに不敵ともいえる笑みをふっと載せた。自信過剰とは縁のない慈恩が、人に不敵な笑顔を見せることは滅多にない。ずっと昔から、見せるのは、ただ一人を元気付けるため。
「見てろよ。全開で行くから」
「あ・・・・・・うん、見てる、から・・・・・・」
 小さく息を飲んで、それから斗音は微笑んだ。
「頑張れ」
「ああ」
 自信に満ちた漆黒の輝き。憧れ続けた凛々しいその姿。誇り高い姿。斗音の脳裏に今までの様々な場面が甦る。小学校四年の冬、五年生の夏、初めての全国大会。六年生の夏の全国大会では、決勝で隼刀威(はやぶさとうい)という少年に当たり、慈恩は公式大会で初めて同学年に敗れた。その時も、慈恩は悔し涙を滲ませているくせに、斗音の前では気丈に笑っていた。

『次に当たった時に勝てるように、俺はもっともっと強くなるからな!』
 中学校でもどんどん力をつけた慈恩は、全国大会の常連になった。いつも戦いに行く前には、斗音に不敵な笑みを見せた。腕を上げるにつれて、瞳の輝きは増していった。とても頼もしかった。
 隼刀威は島根出雲の少年で、家は新撰組の武田観柳斎という、出雲出身の五番隊隊長も務めたことのある人物と関わりの深かったという道場をやっている。観柳斎自身は剣より学問で身を立てた人物らしいし、道場ももともとは違う流派だったようだが、彼らが新撰組に入隊し、京都に彼らが常駐するようになって、その流派の影響が及んだため、現在は北辰一刀流の免許を皆伝されたのがそのまま現在に至る。隼少年は小学校の頃から、全国大会の優勝者の常連だった。
 慈恩が次に彼と対戦したのは、中学校三年の夏だった。やはり全国大会の決勝の場だった。慈恩もこの代では一、二を争う一人だから、彼とは絶対に違うブロックに設定されている。
 決勝では、さすがに緊張した面持ちの慈恩が、それでも自分にだけは笑みを見せたことを、斗音は今でもはっきり覚えている。
『今の俺じゃ、まだ敵わないかもしれない。だけど、絶対かっこ悪い試合はしないからな。よく見てろ』
 剣道部主将でもあった慈恩は、その台詞で剣道部員のみならず、応援に来ていた生徒たちの心を魅了した。結果は2-1でまさに惜敗といったところだった。小学校の時に2-0だったことを思えば、進歩といえよう。
「さあ、始まるぞ」
 気持ちを改めさせられるような緊張感を帯びた今井の声が、如月応援団と剣道部の背筋を伸ばした。
 さすがに若園は上手の相手で、読みどおりとはいえ菊池相手に苦戦を強いられた。何とか攻めなければとするのだが、相手はそれを上手にかわす上に、下手に攻めると応じ技が返ってくる。慈恩ほど鋭いわけではないので、その応じ技を受けたりかわしたりすることも何とかできるのだが、一本決めるどころではない。一本にはならなかったものの、何度か危ないところを打たれ、まさに悪戦苦闘だった。
「一本も取られないなんて、大したもんじゃないか」
 帰ってきた若園に、篠田はにっこり笑った。若園は、大きく溜息をついて楠の肩を勢いよくたたいた。
「わりぃ!でも、信じてる。あとは任せる!」
「お前の精一杯には俺の精一杯で応えてやるさ」
 得意なパワー勝負と言われた楠は、非常にリラックスして試合ができた。そして、やはり篠田の予想通り、パワー勝負となった。葛山はパワーだけではなく、技術も相当だったが、そのあたりは楠にしてみれば大したことはない。何せいつも慈恩とやっているのだから。最初に一本とられ、直後に豪快な胴で一本取り返し、更にがっちり打ち合ったところから引き面を決めて、勝ちをもぎ取った。
 中堅同士が前に出る。先鋒レベルと篠田が睨んだ、一宮が出てきた。楠が一勝していたため、橋本もまた精神的に余裕をもって、自分の剣道をすることができた。橋本は落ち着いて面を一本決め、ポイントを取り返そうとする必死の相手をかわしてかわして、最後まで逃げ切った。
「ま、カッコわりいけど一応勝ちだから。楠の一勝と、後に控えるお前のおかげで落ち着けた。お前に負けは似合わねえから」
「全力を尽くします」
 橋本に応えて、立ち上がっていた慈恩がうなずく。
「椎名」
 顧問に呼ばれて、二・三歩寄り道をする。篠田は真剣な顔だった。
「石橋をたたいて渡るつもりで、お前を副将にした。桐島にならお前で間違いなく勝てると踏んでる。近藤には消化試合をさせろ」
「・・・・・・はい」
 静かに受け止めて、慈恩は試合場に歩を進める。定位置について、審判の声が掛かるまで静かに目を閉じた。
 桐島は落ち着いていたが、それでも二年生には負けられない、というプライドを背負っているのがよく分かった。彼らにしてみれば、この副将戦と大将戦を、なるべく多くの本数を取って勝たねばならない。それ故のプレッシャーも相まって、丁度いいというところから少し行き過ぎた緊張感をまとっていた。しかし、中段の構えには全く隙がない。慈恩にしても仕掛けるのを避け、下段の構えで少し様子を見た。

「やあああっ」「たああああっ」
 掛け声でこちらを牽制しているのが分かる。足は常に動いているし、どんな動きにも対応できるようにしている。しかし、それでは当然、ポイントが稼げない。慈恩は今のところ強引に攻めなければならない状況でもないので、冷静に待った。審判から注意を受けない程度には踏み込んだり竹刀を打つぞと見せかけたりするが、試合はしばらく膠着した。そして、やはり待ちきれなかったのは先方の副将だった。小手のフェイントを掛け、それを受けた慈恩にすかさず面を打ち込んできた。
「めぇええええんっ!」
 慈恩は左足を斜め左前にすっと出し、竹刀の左側でその面に応じた。即座に身体を左に開き、すかさず竹刀を返して相手の右面を打った。しかし、ぎりぎりのところで竹刀で止められ、つばぜり合いとなった。
「な、何だ?」
「今すごい勢いで竹刀が動いたよな」
 あまりの早業に、素人ではどちらが何をしようとしたのか分からなかったに違いない。しかし、当然当人同士はよく状況が飲み込めている。焦ったのはやばかった桐島の方である。それをきっかけに、俄然攻勢に出た。身長は慈恩の方があるだろうが、体格的には相手の方が勝るようだ。パワーは慈恩を上回る。かなり本気で受けなければならなかった。
「うわ、いきなり攻めてきたな。あの慈恩が、なかなか返せずにいる」
 眉をひそめた翔一郎が、やや心配そうにつぶやく。
「でも、いつも近藤さんの相手してるんだぜ。パワーだけだったら、絶対あの人の方が上だ」
 嵐はそれほど不安を見せはしないが、それでも自分に言い聞かせるような言い方だった。
(・・・・・・これくらいじゃ、慈恩は負けない)
 試合場と観客席の境目を作っている壁を、指先が白くなるほど強くつかみながら、それでも斗音は信じた。まるでその心に応えるかのように、慈恩は猛攻の中のひとつの面に対して、左足を斜め左前に踏み出し、右へすりあげるような応じ方をして、直ちに手を返して右足を左足の斜め前に踏み出し、身体全体で相手の左胴を打った。
「どぉっ!」
 ばっと上がる白い旗。今回も如月は白側である。
「胴あり、一本!」
 どっと歓声が上がる。
「すげえ、冷静にあの中の一本から面返し胴だぜ」
 田近は感嘆の声を上げた。田近も小学校の時からやっているのだが、慈恩どころか、若園にも勝てるか勝てないかだ。しかし、慈恩に対しては羨ましさなどはるかに通り越して、尊敬の気持ちしかない。
 開始線に戻り、審判の「二本目」の声を聞いた瞬間、桐島は上段に構えに入った。その構えが終わるや否や、冷静に中段に構えていた慈恩が、いきなり右足から踏み込み、右小手を鋭く打った。
「小手あり、一本!勝負あり!」
 場内が驚嘆と感嘆の声に包まれた。慈恩にしてみれば普段それほど使わない、速攻の仕掛け技だった。最後の礼まで、きっちり行って自分の学校が控えるところまで行くや否や、桐島が膝から崩れ、ダン、と手をついた。剣道をする者にしては珍しい行動だった。よほど悔しかったのだろう。そのあともへたり込んで、なかなか立ち上がることができなかった。
「椎名、お疲れ様」
 戻ってきた慈恩に、篠田は少し目を細めて微笑んだ。
「ちょっとつらかったかな?」
「いえ、慣れてます」
 低く静かに返した慈恩に、そうか、と軽くうなずく。
「結局近藤は戦わずじまいか?」
「いえ、剣道は大将戦までやるんです、どんなに勝ちが決まってても」
 今井の素朴な疑問に、斗音はふわりと微笑んで答えた。今井が少し驚いたようだったが、すぐにうなずいて笑った。
「そうか、全部。でないと、あの大将はせっかく大会に出てきたのに試合もできないってことになっちまうもんな。剣道って、選手に優しいんだな」
 肩をすくめて今井が斗音をおどけたような目で捉える。
「テニスなんて、団体戦でも試合が決まっちまったら、残りの試合も打ち切られちまう。時間もかかるしな。一回戦だけは最後までやらせてくれるけど、いわゆる消化試合だな」
 そのいわゆる消化試合とも言える近藤の大将戦は、如月が勝利ムードに満ち満ちていて、京都精華高校はかなり暗く沈んでいたところから、勢いを武器にする近藤には非常に有利だった。もちろん全国区の水野も、翌日の個人選に向けた腕慣らしの意味も込めて、決して手を抜いた試合などしなかったので、互いに一本ずつ取り合い、ずっと攻め続けた近藤が最後の三秒で面抜き面を決めての勝利となった。普段の個人戦では、恐らく近藤が負けていたであろう技量の持ち主だった。
「2-2の場面で当たってたら、負けてたかもしれねえな」
 帰ってきてから、しみじみと反対側へ戻っていった水野の後ろ姿を眺めて、近藤はつぶやいた。
「あの人は間違いなく明日も出てくると思います。今日勝ったことは、大きいんじゃないですか?」
「・・・・・・そうだな。少なくとも、条件次第では勝つこともできるってことが証明されたわけだからな」
「珍しく、あまり強気じゃないですね」
 慈恩の少しからかうようなニュアンスの言葉に、近藤はにやりと笑った。
「俺だって何の根拠もねえ自信は持たねえよ」
 そのやり取りを聞いていた剣道部員と今井の心の中では、ほぼ同一の思いが湧き上がった。
(そうだったんだ・・・・・・・・・・・・)
 ここで如月とは反対のブロックの試合が遅れているからということで、少し休憩する時間が取れた。如月の選手たちは防具を外し、今までの緊張感と汗をタオルで拭った。
「三十分は休憩できると思うから、この間にしっかり休んでおいてくれ」
 篠田がやんわりと笑みを浮かべて言ったのを合図に、水分補給する者、他の学校の研究に走る者、応援団との会話で緊張をほぐす者、ばらばらに分かれた。
 慈恩は反対側の試合場で現在試合をしている、やはり昨年の優勝校である島根の出雲第一高校を見るために、同じ目的の近藤とともに一度会場を出て反対側の入り口を目指した。そのとき。
「椎名。椎名やろ」
 まだ目的の入り口まで半分も行っていないところで、突然名前を呼ばれて振り返る。さっぱりしたシャープな顔つきの少年が、両手を腰ににっと笑っていた。
(え・・・・・・?)
 慈恩は思わず目を見開いて、均整の取れた体つきの相手をまじまじと見つめた。そこに立っているはずのない人物だった。
「久しぶりやな。椎名」
 小首をかしげるようにして、更に少年は笑みを見せた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

十七.隼 刀威 (はやぶさ とうい)

「久しぶりやな、椎名。えーと、もう一人は如月の近藤さんでいてはりますね?直接やったことはあれへんけど、勇猛果敢ぶりはよう知っとります」
 関西系の柔らかい訛りがある。短めの髪に、大人っぽい顔つきのくせに子供みたいな表情。慈恩に劣らぬしなやかな長身を折り曲げて、優雅に礼をした。
「・・・・・・隼?」
 慈恩がつぶやくように言うと、笑顔を上げた。
「よかったわぁ、ほんま覚えてへんかったらどないしよ思たわ。お前、反応鈍いさかい」
 屈託のない笑顔に、慈恩は思わず苦笑を誘われた。
「椎名、先に行ってるぞ。ゆっくり話して来い」
「はい」
 気を利かせた近藤を見送って、慈恩は改めて一度も勝ったことのない強敵を見やった。
「今そっちのブロック、試合してるんじゃないのか?」
 隼が肩をすくめる。
「ああ、うちシードやから今頃一回戦始まるとこやろな。けど、一回戦くらいでは俺二年やし、先生出してくれはらへん。俺出んでも、先輩らで十分勝ててしまうよって。けど準決くらいからは出たいわ」
「出雲って、関西訛りか?」
 やや唐突な質問を繰り出した慈恩に、隼は、にゃはは、と舌を出した。
「俺、母親が京都やさかい、京都訛り入ってんのやわ。どっちかゆうと、出雲はじじむさい言葉やし、今の若いもんはあんま使わへんよ」
 正直慈恩はそれほどこの全国優勝常連の少年と話したことがあるわけではない。しかし、今までそれぞれの代で最高学年として二度戦っているので、それだけでかなり心通わせている部分がある。
「如月は順調に勝ってはるやん。さすが、椎名がおるだけあるわ」
「団体戦はそういうもんじゃないだろ」
「何言うとん。強い奴があとに控えとったら、みんな強気になれる」
 隼がにぱっと笑う。
「如月、去年は二回戦で消えてもうたし、俺楽しみにしとったのに。今年は決勝まで来れそうなん?」
 最初から自分たちが決勝に行くのは決まっているような言い振りである。慈恩は肩をすくめた。
「とりあえず目標をやっと突破したってところだよ」
「へ?ああ、去年二回戦敗退やったから、今年は二回戦突破が目標か。なぁんか、安直やなぁ。目標はもっと大きゅう持ったらええやんか」
「大将クラスを緒戦で控えに温存できる出雲第一とはわけが違う。俺だって、三年生相手となると勝てない相手はぞろぞろいるし、近藤さんも、全国ではまだまだ無名に近い。ここまで勝ち残れるだけでも本望だ」
「ふぅん・・・・・・せやったら、今日は手合わせできへんか。残念やわぁ」
「負けるって決め付けるなよ。まだ終わってないんだから」
「お前、脳みそのできばえええくせに、勝てへんゆうたり負けるてゆうなてゆうたり、矛盾しとらんか?」
 心の底から残念そうだったり不思議そうだったりする隼に、慈恩は苦笑せざるを得ない。悪気がないから尚始末が悪い。
「とりあえず勝つために全力を尽くすさ」
 結局それしかない。隼もうなずいた。
「期待して決勝で待っとるさかい、勝ち残ってや。俺、お前と対戦すんのが一番楽しいんや。上の学年やとたまに負けることもあるけど、パワーで押されることがほとんどや。そやさかい、お前ほど、次に何出しよるか分からん、ハラハラさせられてわくわくさせられる奴はおらん」
 切れ長の瞳を無邪気に細める。外見はいい男なのに、中身が子供っぽい上、この訛りっぷり。それが逆にこの少年の魅力だろう。その隼がポン、と手を打つ。
「そや、おまんとこの双子の弟、今年も来てはるん?」
「・・・・・・弟?」
 ひどく予想外の台詞に、慈恩は思わず問い返した。隼は一生懸命思い出しながら身振り手振りをつける。
「ほら、色の白いべっぴんさんや。こう、ちょっと髪の毛の色も薄い・・・・・・なんちゅうんや、ああゆうのは?俺アホやし、分からへん。んーと、頼りなさそーな、女みたいな身体つきの・・・・・・」
 斗音が聞いたら、さぞかし気を悪くするだろう。慈恩は思わず笑みをこぼした。
「斗音のことか。斗音は・・・俺・・・の・・・」
 兄だ、と言おうとして、いっきに心を暗い雲に支配される。急に翳った慈恩の表情に、隼の方が驚く。
「どないしてん?俺の・・・・・・て、何や?」
 兄ではない。双子でもない。人にそんなことを言うつもりはないが、その事実すら忘れていた慈恩は、気分がぐんぐん滅入っていくのが自分でも分かった。とりあえず微笑で取り繕う。
「あいつは、兄だ」
「あれ、うそぉ。兄貴?へえ、何か信じられへんな。俺、どこで聞きまちごうたやろ。そやけど、双子とは思えへん。ほんっま似てへんなあ」
「・・・・・・ああ、よく言われる」
 当然だ。まったく血のつながりなどないのだから。斗音はあの父と母から生まれた、望まれた命。自分はあの若い絢音と、未だ見も知らぬ、父とも認められていない男との間に生まれた、疎まれた命。
 ますますテンションの下がっていく慈恩を見て、隼は関西に近い地域の性なのか、明るく盛り立てるように話し始めた。
「なあ、椎名。俺、小学校で初めてお前と対戦して、その兄貴初めて見た時な、女の子や思て、都会にはえらいかわええ子がおるもんやて感心したんや。男やて聞いてショックやったわぁ、ほんま。一応一目惚れゆうやつや。その日のうちに幼い隼少年は失恋してしもたわけや。憐れやろ?」
 な?と同意を求めながら、カラカラと笑う。
「毎年お前が全国に来るたんびに、そのこと思い出すわ。ほんで応援席に目がいってまうんや。さすがにもう女の子には見えへんけど、いつ見てもやっぱべっぴんやなあ。あないな女の子おったら、俺絶対彼女にすんのやけど、最初にそんなべっぴん見てもうたのが運のつきやわ。あとがスッポンに見えてしゃーない」
 あ、もちろん似とらんでもお前もええ男やで、と付け足す。心の中のものを隠しもせず、おおっぴらにネタにしまくり、ちゃんと相手も立てようとする隼は、きっと人気者だろう。慈恩はようやく自然な微笑みを浮かべた。それを見て、隼もにかっと笑う。
「なんやよう分からへんけど、心ん中のもやもや、試合に引きずったらあかんで。もし万が一、そのこと思い出してもうたら、今の俺の話思い出してや。笑えて、リラックスできるやろ?な?そんで俺とやろうや」
 隼も、ただの変な奴ではない。しっかりライバルを元気付けるのだから。逆に言えば、それだけ自分に自信があるのだろうが。
 ふと柱の時計に目をやって、隼はやや慌てた。
「あ、あかん。俺、出してもらえへんなら如月見に行くわーとかゆうて出てきたんやけど、ちゃんと先輩の試合は応援せえゆわれとったんや。俺行ったらもう如月終わってはって、残念やったけど、お前としゃべれてよかったわ。お前、うち見に来るつもりやったんやろ?なら、一緒にいこか」
 肩をぽんぽん、とたたいて誘う。慈恩はうなずいて島根県代表
を見に向かった。

 出雲第一高校の試合を、隼の案内で間近で見ることができた如月高校の大将と副将は、隼の激励の言葉に見送られてその応援席を出た。
「圧倒的に強いな、出雲第一は。さすが優勝常連校だ。一人一人が椎名と同レベルか、それを上回る力の持ち主だ。お前と話してたあの隼も、全国の優勝候補だし」
「隼の家が昔からの剣術道場なんです。小さい頃からそこに通って、みんな剣道を習っている。もちろん少年団なんかも充実してるし、剣道を志す人にとっては理想的な環境でしょう。隼自身も、今は師範の一人だそうです」
 そんな道場の跡継ぎでもある人間が、妙な関西訛りの上、斗音を見かけて、女の子と間違えて一目惚れしてしまうようなうっかり者なんてなんだか信じられない。本当に笑い話だ。
「さて、そろそろ三回戦の準備に入るか。次に勝てばベスト8だ。如月にしたら現時点での全国ベスト16が最高タイ記録。俺たちの手で新記録を打ち立てるぞ」
 近藤の目は真剣だ。やれるところまでやりたいという近藤の熱意は、慈恩にもよく伝わってくる。
「次は宮城の大河原高校ですね。昨年度のベスト8・・・・・・確実に相手、強くなってきてますね」
「先生が資料を集めてくれてるはずだ。さ、行こう」
 如月が陣取っている席に戻ると、既に選手は集まってきていた。その中心に篠田がいる。
「お帰り。いいもの見せてもらえたみたいだね。お前たち、最前列で見てただろ」
 くすくす笑って、顧問は手招きする。
「さ、三回戦のことに頭切り替えよう。宮城県代表、大河原高校。まず先鋒で出てくるのが藤宮くん。小柄でスピードがあって、四分間動き続けることができるスタミナと、技術の持ち主だ。まあ、本来でいけば次鋒レベルかな。若園のスピードを一・五倍にして、技術は橋本レベルって感じかな」
 選手五人が、あとずさる。
「次鋒レベルでそれっスか」
 若園の声が裏返る。篠田は苦笑した。
「まあね。で、次鋒は浅井くん。去年個人戦で二年生にしてベスト16に入ってる。椎名、去年個人戦で当たって、彼に勝ってベスト8になったんだよな。もちろん、最後の夏に掛ける意気込みは半端じゃないと思うよ。まあ、間違いなくあのチームでは副将クラスだ。中堅は岩城くん。まあ、レベルからいって橋本くらいかな。体格がいいからパワー派だね。うん、橋本のパワーが一・五倍と思ってくれ。この子でこのチームなら先鋒くらいの実力かな」
 はあぁ、と橋本が溜息をついた。
「勝ち目、あるのかなあ?」
「作るしかないだろ」
 近藤が渋い顔をする。篠田はにっこり笑って続けた。
「で、副将が瀬田くん。とにかく実力がある。自分で打って出ても一本取れるし、返し技の切れ、鋭さ、どれも椎名とタメだね。パワーもある。ま、その力からいったら間違いなく大将だ」
 慈恩は軽くうなずく。
「そして大将は臼井くん。身長は椎名より少し低いくらいだけど、すごく筋トレしてて、さっき見たけど腕の筋肉とかすごいよ。だから竹刀の動きが尋常じゃない。椎名と同じくらい速いよ。それをこれまた四分間続けることができる。かなり強敵だ。まあ、相手校の中では中堅レベルだけど、うちにいたら・・・・・・ってとこだね。さて、そこでだ」
 不穏なことを口にしながら、それでも彼らの信頼する顧問はにこっと笑った。
「本来の実力では間違いなく相手が上だ。だから、それぞれのアドバイスは一番勝ちを取れる可能性が高い作戦でいくよ」
「はい」
 五人の返事は最も簡潔で、とても信頼に満ちていた。その表情を見やってから、篠田はまた微笑んだ。
「よし。じゃあまず若園」
「はい!」
 真摯な瞳で、篠田を見つめる。
「スピードは追わずにテクニック対テクニックだ。自分より上手は、二回戦で経験した。その経験をいかに活かせるかがこの試合の課題だ。相手の裏をかいて相手に先じろ」
「はい!!」
「次に楠」
「は、はい・・・・・・っ」
 慈恩と近藤の如月二強がいるため、副将と大将の座はこの二人以外が務めたことはない。だから、楠にしてみれば全国大会に出てくるような、しかも副将クラスの選手とは対戦したこともない。しかし篠田はにっこりのままである。
「さて、はっきり言おう。浅井くんに楠が勝てる確率は正直かなり低い。それほど実力の差がある。たったひとつ、狙うとしたら」
 言って楠の額を軽く弾いた。
「上段に構え終わった瞬間だ。思い切り面に行け。彼の構えは上段だ。二回戦で椎名が見せた最後の一本と同じタイミングで入れば、浅井くん相手でも必ず一本は取れるだろう。それをとにかく守り抜くんだ」
 具体的な策が授けられ、やることがひとつに絞られたからだろう。楠の瞳に決心が宿る。
「はいっ!」
「それから、橋本」
「はい!」
 橋本が緊張を帯びた、ぴんとした声で応える。篠田はうなずいた。
「いい返事だ。橋本が最も実力を発揮できるのは、適度な緊張感を伴って、それでいて自然体でいられる時だ。その気持ちのまま臨めば、先鋒レベルの相手には絶対勝てる。なぜなら、普段中堅を勤めている分、お前の方が勝たなければならない切羽詰まっている経験を何度もしているからだ。あと、ついでに言えば、相手がパワー全開で来る時は、かなり大振りになるから、テクニックでいくらでも補える。最強のお前で戦ってこい」
「はいっ!」
「椎名」
「・・・・・・はい」
 静かな返事は、既に決意が込められている。ここまでで判断すると、若園と楠は負けると仮定した勝負である。となると、絶対に勝たなくてはいけないのが、中堅、副将、そして大将戦だ。
「ここまでに絶対一勝はしていることが最低限の条件だ。そうでなければ、うちは一番の切り札を消化試合に使う羽目になる。一勝していて初めて五分の勝負ができる。実力レベルはそう変わらない。ただ、僕が見る限りでは椎名に分があると思う。相手は三年生で、二回戦の時と同じように、絶対に二年生には負けられないという意地で臨んでくると思うからだ。逆に言えば、そこをつくのは二年生の椎名にしかできない」
 相手は大将クラス。確実に勝つために出てくる副将だ。逆にそんな気負いもあるかもしれない。どちらにしろ、最初の二試合が厳しい分、近藤につなぐには、自分が勝つしかないということだ。
「いつも通りのお前で行け。お前は十分強い」

「・・・・・・はい」
「そして、近藤」
「はいっ!」
 勢いのいい近藤の返事は選手たちの背を押し出すようだ。篠田はにっこり笑った。
「うちのパワー№1はお前だ。相手の最も自慢の筋肉パワーを完全に打ち負かしてこい。相手はあくまで本来の中堅。パワーとギリギリの試合を勝ち抜く精神力で相手を上回れるのは、お前しかいない」
「はいっ!!」
「じゃ、防具つけて準備しようか」
 生徒たちと同じように緊張感を帯びていた篠田は、またいつもの柔らかい笑みを表情に載せた。
「ねえ、先生」
 応援席から今井が問い掛けた。呼ばれた剣道部顧問の教師は肩越しに振り返る。
「相手は結構メンバー入れ替えてきてるんですね」
 人好きのする笑顔で、篠田はうなずいた。
「そうだね。剣道は途中でメンバー変えるとしたら、控えと入れ替えることしかできないからね。いろんなことを想定して、必ず勝てると思うところに最強の選手を置くんだ」
「相手は次鋒戦と副将戦で勝つ気なんですね」
「まあ、そうだね。あと、先鋒かな。先鋒で勝つか負けるかでは、かなりあとの選手の負担が違うから」
 いつもの柔和な笑顔が、自信ありげである。斗音も思わず質問した。
「だったら、こっちも先鋒を橋本先輩、次峰を慈恩、中堅を近藤さんとかにしたら、かなり最初に三勝取れる確率が高いんじゃないですか?」
「そうだね。でもそうなると、万が一前半戦で一人こけたとき、勝てる確率が激減するんだ。若園と楠で、副将と大将を相手にしなきゃいけない。今回にしても、若園に与えた課題、楠に授けた攻撃、どれも可能性は低いけど、勝てる見込みがなくはない。可能性の低い試合でも、二つあればどっちかがもしかしたら拾ってくるかもしれない。だけど、もし若園か楠を副将に据えてたとしたら、今回の副将瀬田くんには、絶対に勝てないんだ。それくらい、全国の副将、大将クラスは強い。そう、若園や楠が椎名に勝てないようにね」
「はあ・・・・・・なるほどね・・・・・・」
 心底感心したのは嵐である。いろいろな場合を考えての最善の賭け。こういうのは剣道のみではないが、スポーツというのは頭脳戦でもあるようだ。
 コールが入り、先鋒の若園が試合場に足を踏み入れる。その瞬間、観客席に珍客が紛れ込んだ。
「今度は間におうた!あ、ちょっとお邪魔させてもらいますよって。さっき部長さんと椎名に、うちの特等席で見てもろたさかい、代わりにこっちもいい席で見学させてもらえしまへんやろか」
 言わずとしれた隼刀威であるが、剣道部以外の如月高校応援団は彼の存在を知らない。ちゃっかり最前列の斗音に声を掛ける。
「あんた、椎名の弟、あ、いやまちごうた、兄貴やろ?俺のこと、知ってはる?」
 変な関西系の訛りで、なんだかおかしなことを言う珍客に、緊張感をすっかりかき消されてしまい、斗音は大きな瞳をぱちくりさせて、まじまじと声を掛けてきた少年を見やる。防具をつけていないので、名前は分からない。しかし、慈恩と対戦したことのある相手だ。黙っていれば、結構シャープで整った顔立ちの・・・・・・
(あっ、この人!)
「隼くん!?出雲第一高校の・・・・・・!」
「ぴんぽーん。さっすが椎名の兄貴や。脳みそのできはよう似てはる。なあなあ、俺に椎名の試合、見学させてくれはらへん?」
 屈託ない笑顔で、な?と言われれば、斗音としてはうなずくしかない。少し嵐の方に寄って、今井との間を開ける。遠慮なくそこに入り込んだ隼は、にこーぉっと笑った。
「おおきに。あ、こっちの方も、おおきに。あれ?ちょっと怒ってはる?」
 如月高校生徒会長の方を見て、首をかしげる。今井は大きく溜息をついた。
「俺の心が狭いと、示しがつかねえから、怒ってねえよ」
「?それって、怒ってはるんと違うん?」
 きょとんとした表情が、大人っぽいシャープな顔に載ると、妙に子供っぽい。斗音は慌てて説明した。
「この人はうちの生徒会長。だから、うちの生徒の前では常に理想の姿でなきゃってことだよ」
 すると、隼は心の底から感嘆の吐息をこぼした。
「はぁー、如月で会長やってはるんか。すごいなぁ。頭ええんやろなあ。羨ましいわ」
 言って、また首をかしげる。
「けど、人間やしな。示しがつかんからゆうて怒らんわけでもないような気ぃする。それにえらいご機嫌斜めみたいやさかい」
(それ以上突っ込んでやるなよ・・・・・・)
 如月高校の生徒がみんなそう思った時、先鋒戦が始まった。
「さて、ここで勝ってくれたら、あとはいっきに楽になるんだけど・・・・・・」
 つぶやいた篠田に、隼が反応する。
「そら無理でっしゃろ。藤宮さん、俺一回当たったけど、あの人はすばしこうて、隙見つけたって打ち込む前にいつの間にかこっちが攻め込まれとる。先んじられへんのや」
 篠田に向かって言ったというよりは、独語に近かった。少し不安そうに斗音が見つめる。それに気づいて、隼は慌てて笑って、手をぶんぶん振った。
「あ、いやそら俺がやったときの話やさかい、しかも、二年くらい前の話やし、あんまし参考にはならへん」
 斗音と嵐がやや青ざめた。二年間、更に磨きがかかっているということではないか。
「ちなみに・・・・・・どっちが勝ったの?」
 控え目に、やや上目遣いで斗音がたずねる。隼はからりと笑った。
「藤宮さんくらいのレベルやったら、俺は負けへんよ」
 悪気は全くない。嵐が身を乗り出した。
「どうやって勝ったんだ?」
「そないなもん、応じ技しかあらへん。先にやられるんやったら、それを受けて返す。正確に言やぁ、それも相手が動いた瞬間を見計らってなできへんのやけど、とにかくそうやってこっちから隙を作るんや。椎名もそういうタイプやん。ある程度技極めとれば、瞬時に技に対応できるようになるもんや」
 言いながら、試合場で既に竹刀を交し合っている二人に目をやる。
「けど・・・・・・こうゆうたらあれやけど、先鋒戦は如月さん、勝てやしまへんな」
 さすがに今井が苦い顔になる。斗音は慌てて隼の道着の袖を引っ張った。
「ここは如月高校の応援席だよ。みんな確率低いって分かってても精一杯応援して、悔いのない試合をして欲しいと思ってる。周りにも配慮しなきゃ」
 薄茶の大きな瞳で、厳しく見つめる。一瞬瞬きした隼は、あちゃ、とまずい顔になって頭をかいた。
「かんにん・・・・・・俺、アホやさかい、剣道のことんなると己の世界に没頭して、平気で己のウンチクぶつぶつゆうてしまうんやわ。如月の皆さん、かんにんな、ほんま、このとおりや」
 周りにくるくる顔を向けて、「かんにん」を連発する。とことんどこまでも悪気のない、正直な男である。今井も仕方なさそうに吐息した。
「罰として、如月を精一杯応援してもらおうか」
 顔だけはシャープで大人っぽい少年は、ぱっと笑った。

「ほんま、そんで許してくれはる?それやったら、もともと俺、如月には決勝に来てもらいたい思てますのや。心の底からこっちの応援させてもらいますわ」
 如月高校はこうして一人応援団員を増やしたわけだが、その甲斐もなく、そして隼の予言どおり、確率の低さを裏返す結果にはならなかった。若園は必死に攻めたが、如何せん、実力の差が大きかった。
「ドンマイ、若園。一本しか取られなかったんだから、よくやったよ。課題どおり、相手をよく見てた証拠だね」
 にっこり笑って篠田が若園を迎えた。若園も、自分が負け試合になることを仮定としてアドバイスされたことは分かっている。篠田の言葉に、一言「はい」と強く返した。課題を必死に意識していたことを、誰もが悟った。
「お前の分は俺たちが絶対に取り返す。如月の団体戦の一員として、胸張って待ってろ」
 若園がしっかりうなずいたのを確認して、近藤も力強くうなずいた。
「うわぁ、近藤さん立派やわぁ。やっぱ部長はこうでないとあきまへんな」
 なにやら感動しているらしい隼に、斗音が首をかしげる。
「出雲第一の部長さんって、どんな人?」
 言われた途端、隼の笑顔が固まる。
「あ、あーと、ええ人やで?堅物で洒落もギャグも笑ってくれはらへん人や」
「お前のその説明の中に、いい人の要素はないぞ?」
 翔一郎が思わず突っ込むと、更に隼は慌てる。
「あ?おかしいな、真面目で頑固で融通きかへん人なんやけど」
「ますますダメじゃん」
 思わず瞬が吹き出す。隼はぶんぶん首を振った。
「ちゃうで。真面目って、ええことやんか」
 嵐が苦笑する。
「それもギリギリだぜ。その上、頑固で融通きかねえってのは、明らかに欠点だろうが」
「え、あかん?うわ、俺あかんことばっか、よう部長にゆうてるから、いつもどやされんのやろか・・・・・・」
「本人に言ってんのかよ!」
 全くツッコミどころ満載の客だ。そんな中、篠田がいつも通りの微笑みで、楠に声を掛けた。
「思いがけないリラックスができたな。よし、この肩の力が抜けた状態のまま、さっきの作戦で、一本集中だ。大丈夫、後ろには橋本も椎名も近藤も控えてる。さ、自分のやるべきことを、きっちりとやってこい」
「はい!」
 勢いのいい返事で、楠は試合場に向けて歩き出した。
「相手は浅井さんか。次峰で出さはるんか。確実にここで一勝ってとこやな。けど、逆に言えばこっちは上手く外してるとも言えてるわ。瀬田さんより勝ち目あるしな」
 妥当なとこや、と言いながら隼がうなずく。篠田の意図を当たり前のように汲み取っているのだ。斗音は自分の中のこの少年の認識を、改めた。
(自分でアホやアホやって言うけど、そんなことない。こと剣道に関しては、作戦も含めてやっぱり天才だ)
 大河原の副将クラスに、どうやら緊張の色はない。当然だ。負けることなど頭の片隅にすらない。
「始め!」
 審判の声が掛かり、互いに気合の声を発する。浅井の掛け声は甲高く、やや奇声に近い。そして、上段の構え。楠は、いきなり狙いはしなかった。様子を見ている。
「・・・・・・ほぉ・・・・・・」
 興味深そうに隼は試合場を見つめる。
「ええ試合になりそうやな」
 出来過ぎ集団が思わず剣道の実力者を見つめた。この少年は本音で予想する。そして、先鋒戦の予想は当てている。
(実力差で言えば、圧倒的不利のはず。これでもし勝ってくれたら・・・・・・いや、引き分けだって、あとはすごく楽になるはずだ)
 既に斗音の心臓はかなりの緊張状態である。
 浅井はさすがに強かった。とにかく攻めまくるところは、近藤に近い。しかし、近藤と違って荒々しさがなく、代わりに洗練された動きがある。それを、たった一本狙うために心に決めた集中力で、楠は必死にかわした。二分十二秒が経過したところで、ついに浅井の一本が決まった。如月高校の応援席九十九パーセントが失意や落胆に襲われた。無理もない。今まで見てきて、楠が一本取れそうには、間違っても見えなかった。
 一人だけ違ったのは、出雲第一高校の控え選手だった。ひょいと斗音の肩を組むようにして引き寄せ、耳元で囁いた。
「椎名の兄貴、見ときぃや。ここやで」
 驚いて隼を見ると、いつものおどけた顔ではない。まるで獲物を狙う鷹のような目で、にやっと笑った。
「ほら、こっち見てる間に見逃してまうで」
「あ、うん」
 慌てて試合場に目を向ける。審判が双方に視線を送った。
「二本目!」
「キェ――――――っ!」
 独特の掛け声で浅井が上段に竹刀を構えた時だった。既に中段に構えていた楠が、ダンッと踏み込んだ。
「どぉおぅ―――っ!」
 これまで、完全に受けに回って、自らほとんど仕掛けなかった楠の不意をついた動きに、とっさに浅井は反応し切れなかった。防具と竹刀が派手に音を立てる。
「胴あり、一本!」
 うぉおおおおおおっと応援席が湧いた。
「やりやがった、あいつ・・・・・・!」
 今井の声も興奮状態を隠しきれない。斗音も篠田の作戦を聞いていただけに、思わず肌が粟立つ。
「ほらな。あの人、ずっとそれ狙ってはったんや」
 隼は得意そうに言う。きっと彼の頭の中では、全く同じように自分が試合運びをしているのだ。斗音は感心どころか、尊敬に近い思いを抱いた。
「すごい・・・・・・」
 その声は、楠に対してのものではなく、むしろそれを当てて見せた隼に向けたものだったが、隼はうなずきながら笑った。
「力の差は歴然や。そやけどあんだけできるのは、大したもんや。あとはとにかく守り切ることや。おんなじ手は通用せえへん」
 相変わらずそれ以降も、浅井の攻めは厳しかった。しかし、楠はもうひとつの課題「何が何でも守りきる」を遵守した。四分が経過した時、次鋒戦は審判の「引き分け!」と言う声で幕を閉じた。
「ほんとにいい試合になった・・・・・・」
 翔一郎が呆然とつぶやいた。またしても珍客の予想は完璧である。
「ここまで一敗一引き分け。どのみち後半戦勝負か」
「でも、こっちは強い選手が残ってる」
 応援席でちらほらと声が聞こえる。返ってきた楠を、慈恩が静かに迎えた。
「お見事です」

「ごめん、結局一本取られちまった。取られてなかったら、お前らに重荷、背負わせなくてよかったのに」
 楠の息は荒い。たった四分でも、どれだけ精神的にも体力的にも消費しているのかが分かる。慈恩は軽く首を振った。
「大きな引き分けです・・・・・・特に、橋本さんには」
 既に試合場には橋本が構えている。鋭い開始の合図が響く。
「やぁああああああ!」
 冷静に、己に気合を入れる掛け声。橋本だ。それを見て、隼はほぅ、とうなずく。
「あの人、ええ精神状態で構えてはる。結構な腕の持ち主やな」
 大河原高校の先鋒も、怒声のような掛け声で、まるで己を叱咤しているようだ。
「掛け声勝負でいくと、如月の勝ちやな~」
 隼が冗談のように笑いながら言う。如月高校の生徒の中には、密かに眉をしかめるものもあったが、全くお構いなしである。
 だが橋本は、隼の言ったとおり、最高の精神状態で試合に臨んだ。やや相手の方が上手だったようだが、力任せで押し切ろうとするところで素早く引き面を決め、あとはつかず離れず、徹底的に相手の仕掛け技を受けまくった。最後まで攻められっぱなしだったが、岩城はどうしても一本橋本から取ることはできなかった。
「ほぅら」
 最初から分かっていたかのように、隼は片目をつぶった。斗音は思わず息を飲んで、全国大会常連の少年を見つめた。
「まさか、本当に掛け声だけでこの勝負が分かったの?」
 隼はにっと笑った。
「技術では大河原の中堅が上やったけど、精神的に如月の中堅が凌駕してはった。剣道は精神面が普段からいかに鍛錬されとるかや。あの緊張感と気合のバランスが取れた掛け声は、相当鍛え上げとる証拠やさかい、総合的に見て如月さんが上やと思たんよ。あと、あちらさんの中堅、あの中では先鋒くらいの実力ちゃうかな」
「へえ・・・・・・隼、お前、すごいね。俺は剣道そんなに分からねえけど、おまえ自身も相当力があるんだろうな」
 嵐が興味深そうに、綺麗な形をした唇の端だけをやや持ち上げるようにした。隼はやはり笑顔で返す。
「俺は一応椎名のライバルのつもりや。まだ負けたことはあらへんけど、あいつは本物やわ」
 言ったあとで、あんさんえらい男前ゆうか、べっぴんゆうか、イケメンやな、と付け加えた。それには嵐も苦笑するしかなかった。
 橋本が篠田の元に帰ってくる。
「よくやった、橋本。ほんと、集中してる時のお前は強いね」
「なんか素直に喜べない表現っス」
 篠田の言葉に、橋本はそれでも嬉しそうだった。そのまま慈恩に目線を向ける。
「とりあえずこれで白紙だ。一からやり直しになっちまうけどな」
「いえ、ずいぶん気分的に楽になりましたから」
 慈恩が答えつつ、近藤に視線を向けると、こちらを納得させるように強くうなずいている。それだけで十分近藤の気持ちが伝わってくる。精一杯やれ。と。
 軽くうなずき返して、慈恩は試合場に向かった。相手はまだ周りの監督や仲間と話をしている。定位置についてから、慈恩はいつものように目を閉じ、精神統一に入った。
「きばりや椎名。こないなとこで負けてまったら、俺一生恨むで」
「隼くんは、慈恩と試合がしたいの?」
 慈恩へのこだわりぶりに、斗音が思わず訊ねる。隼が、ん?と首をかしげて、それからいかにも嬉しそうに笑った。
「もちろんや!今まで二回当たったけど、小学校の時も、荒削りながらえっらい鋭い技持ってはるし、応用技も上手いし、大したもんや思たわ。特に前回、中体連の個人戦、決勝で椎名と当たったやろ?今でも覚えとるわ」
 試合場の慈恩を切れ長の目で捉え、それを細めた。
「ほんま、ぞくぞくした。こいつとずっとやってたいとさえ思た。俺の知ってるあらゆる技に、椎名は対抗してくるんや。力で撥ねのけようとする上の学年とはわけが違う。身につけた全ての技総動員したんは、あれが初めてやった。めっちゃくちゃ楽しかったんや」
 陶酔したように熱っぽく言ってから、ふと我に返る。そして、照れたようにくしゃっと表情を崩した。シャープな顔なのに、とても親しみやすく感じる。斗音はつられるように笑った。
「あ、俺けったいなことゆうてる?気にせんといてな。俺剣道馬鹿やから、かんにんな。あ、それから」
 にこーぉっと笑顔になる。
「隼、でええよ。刀威でもええけど」
 本当に剣道をやるためにつけられた名前だ、と斗音は思う。この少年の家が剣術道場であることは、慈恩から聞いたことがあるので、それほど不自然だとは思わないが。斗音もふわりと微笑み返した。
「じゃあ俺も、椎名の兄貴じゃなくて斗音」
「とおん?」
「北斗の斗に音楽の音」
 説明を聞いて、へえ、と感心したような声を上げる。
「なんや綺麗な響きの名前やな。それに、椎名、ああ、あっちな。あいつの慈恩ってのと韻ふんでる感じなんやな。双子やから」
 瞬間、斗音の薄茶の瞳に翳りが落ちた。隼が敏感に反応して、心配そうに斗音をうかがう。
「・・・・・・どないしてん?・・・・・・なんか・・・・・・さっきも椎名としゃべっててこないな感じになってもうたんやけど・・・・・・俺変なことゆうてる?」
(こんな、全然普段しゃべったりもしない人にまで心配されるなんて・・・・・・情けない)
 胸の内に巣くう憂鬱を、斗音は一生懸命振り払った。
「何でもないよ。気に、しないで」
 今井が不安定になりかけた空気を押しのけるように、ほら、と促した。
「始まるぞ」
 隼と斗音が、はっと試合場に目を向けた瞬間、開始の合図が下った。
「あちらさんは勝つしかあらへん。残ってんのは中堅クラスやろ?負けは必至や。ここでできれば二本とって勝っときたいとこやで。大将戦で近藤さんが一本しか取れへんかったらそんで勝てるし、最悪でも代表戦に持ち込みたい思たら、一秒を惜しんで攻めるしかあらへん。近藤さん相手に、そういう試合慣れしてる椎名には、絶対的に有利や」
「冷静にチャンスを待ったりはしないのか?」
 嵐の問いかけに、すっかり慣れた様子で隼は試合から目を離さずに応えた。
「やってる方にしたら、結構なごう感じるもんやけどな、実質たったの四分や。相手の出かた待ってチャンスねろとるうちに、あっとゆう間に終わってしまう。まして椎名は強敵な上、あとに近藤さんがいてはるから別に自分から仕掛ける必要あらへんのや。一本決めよ思たら、一回でも多くそのチャンスつくらな」
「・・・・・・なるほど、な」
 如月一モテる男が、ごくりと唾を飲んで、はは、と笑った。大河原高校の大将クラスである瀬田が怒涛の攻撃に出たのだ。
(勘なんかじゃない。理論に裏打ちされた理由で、この人は試合を読む)

 相手も実力者である。さすがの慈恩もやや苦戦しているように見える。嵐のように襲いかかる技を受け、流し、応じ技に転じようとしてもそれを許さないほどの猛攻だった。
「なんか、近藤が技巧派になったような感じだな」
 今井がつぶやく。その間も、慈恩は上段からがんがん打ち込まれる技に対応していた。本人はそこそこ冷静だったが、返してもなかなか隙を作り出せないのには確かに苦労した。これだけの攻撃を続けようと思ったら、相当な体力と技術が必要だ。気合とともに一本取りに来る近藤とはまた違う。
(・・・・・・強いな。気を抜くと取られる)
 そのためには一本取っておきたいのだが、それがなかなかできないのだ。
「ふうん・・・・・・椎名苦戦やな。俺、あの瀬田さんとやったことあるけど、中学校の一年の時やし・・・・・・参考んならへんもんな」
 斗音の心臓は爆発しそうなほど派手に脈打っている。
(頑張れ・・・・・・頑張れ!)
 祈るように、握り締めた手に力を込める。その状態で、長いような短いような一秒が積み重ねられていく。タイマーの表示では分単位の表示が消え、秒単位のみの表示に変わる。大河原の副将が、上段から小手に落とし、慈恩がそれを受けるが、思ったように応じられない。その隙を突いて、今度は二段攻撃の面が正面から襲ってきた。素早く右後ろに退いて空を打たせ、右足で踏み込んで面抜き面を狙う。ところが読んでいたのか、相手も慈恩とほぼ同じ動きをし、慈恩の竹刀が空を打たされた。そして次の瞬間に、瀬田が踏み込んできた。
(ちっ)
 面抜き面が来る。そう思うと同時に慈恩の身体も反応する。右足で踏み込んだ。互いの距離がぐっと近づく。
「めぇええええんっ!」
 先に打ち込んだのは瀬田である。その手の右ひじが伸びようとする瞬間、慈恩は身体をごくわずかに右にかわした。
「打ち落とし!」
 隼が小さく声を上げる。慈恩の竹刀が鋭く瀬田の竹刀の左側にかかり、瀬田の竹刀が右下に弾かれた。
「めぇんっ!」
 ばしぃっという音と、慈恩の鋭い声と、慈恩の背に揺れるのと同じ色の白旗の上がるのが同時だった。
「面あり、一本!」
 わああああっと場内が歓声に包まれる。三分間の長い攻防の均衡が、ついに破れたのである。
「よし、こんで一本。もう取られんなや」
 まるで自分のことのようにガッツポーズをして、隼がうなずく。
「目にも止まらねえ・・・・・・」
「一体今の動きの中に、いくつの技があったんだろ」
 嵐も瞬も、放心状態に近い。斗音は固く握り締めた右手を更に左手で固く包み込んで、みぞおちに押し付けるようにしていた。
(守り切れ・・・・・・早く終われ!)
「二本目!」
 審判の掛け声とともに、瀬田が素早く上段に構える。構え終わっても隙は全くない。慈恩は中段に構えた。瀬田の攻撃は速いので、下段では面や小手に間に合わない。
「とあああああああ!」
 掛け声とともに打ち込んでくる。
(くぅっ)
 その鋭さと力に、慈恩は面の奥で顔をわずかしかめた。最後まで全く気は抜けない。ものすごい精神力と持久力である。先ほどのように技を繰り出そうと思えば、それを上回る集中力が必要だ。しかし、三分強、相手の猛攻を一切自分の身体に触れさせなかった慈恩の精神力、体力は、既に残り少ない。先ほどの動きが、瞬間的にできるかどうか。
(逃げ切るしか、ない)
「あと三十秒。持たへんようでは、俺には勝てへんで、椎名」
 隼は腕を組んでじっと見つめる。斗音は固めた両手が震えそうなほど力を込めている。
「8、7、6、5、4・・・・・・」
 如月高校の応援席から、自然発生的に囁くようなカウントダウンが始まる。慈恩は最後の力で、相手の小手を竹刀のつば近くで受け止めた。がちりと竹刀がかみ合い、つばぜり合いとなる。
「3」
 瀬田がぐんっと体重をかけて竹刀を押し込んできた。それに耐えようとしたが、次の瞬間その力のまま弾き飛ばされるように、半歩後ろに下がる。わずかな隙ができる。
「2」
(やばいっ!)
 瀬田が竹刀を振り上げた。慈恩は続けて左足を斜め左後方に引いた。
「1」
「めええええええんっ!」
 慈恩の身体が瀬田の竹刀の前から消え、代わりに瀬田の右小手を慈恩の竹刀が強襲する。
「0!」
「やめ!」
 小手を打つ寸前で、慈恩は力を抜く。ぱしん、と瀬田の小手が音を立てた。
「よっしゃあああ!!」
 如月高校の応援席が湧きかえった。
 最後の小手は時間切れで無効だったが、一本取った慈恩が見事、勝者の宣告を受けた。
(か・・・・・・勝ったぁ・・・・・・)
 斗音は大きな息とともに、身体中に張り巡らしていた緊張の糸をほどいた。ふと隣を見ると、隼がシャープな目を大きく見開いて、笑みを載せた唇をわずかに震わせている。
「・・・・・・隼・・・・・・?」
「・・・・・・やっぱ、あいつええよ。最後、隙作られて取られるか思たのに、あいつそっから面抜きかましよった。俺全身鳥肌立ったわ」
 言って武者震いをする。一瞬斗音は、羨ましさを感じた。斗音には剣道の云々はほとんど分からない。慈恩の本当のすごさも、この隼のように実感することができない。
「あ~あかんわ!俺も試合したなってきた!あー、なあ、如月のせんせ、うちと練習試合組んでや~。俺あいつとやりたい。めっさやりたいんや~」
 篠田は思わず苦笑した。出雲までの遠征はいくらなんでも無理である。まして、慈恩以外で出雲第一の相手ができる人間はいないだろう。
「決勝まで残れたら、対戦できるかもしれないけどね。とりあえず目の前の一勝、ひとつずつ目指して頑張るから、勘弁してくれる?」
 この緊張した試合の中で、隼はいい緊張緩和剤である。
「近藤さん、今現在、如月の団体戦の運命は、あなたが握ってますから。あなたに二勝一敗一引き分けで回した俺の努力は、報われますよね?」
 戻ってきた慈恩が、息の荒い中、囁くように言葉を送る。威厳ある部長は不敵に笑った。
「今の一戦で、責任の重さを感じながらの、最高の精神鍛錬に励めたな。安心しろ。そんな場をこれきりで終わらせてやるほど、俺は優しくねえ」
 言い捨てて、試合場に向かう。慈恩は微笑し、隼は目を輝かせた。
「近藤さん、カッコええわぁ~。なんかゆうてることはけったいやけど、こいつやったら耐えられるてことやん。椎名のこと信頼してはるんやな。椎名もや。俺もそないなこむずかしい会話、してみたいわぁ」
 いつでも直球の隼には無理だろう、と、如月応援団は思ったが、みんな理性のある人物ばかりだったので、それを本人が自覚することはなかった。
 本来の中堅クラスを相手にした近藤は、目を瞠るばかりに強かった。大河原の大将は、篠田の情報通り、竹刀さばきの速さが尋常ではなかったけれど、その技は近藤のパワーに押し戻され、跳ね飛ばされ、隙ができたところで確実に小手応じ小手、最後は先手で思い切り打ち込んだ面に相手がひるんだ隙に、思い切り二段技の小手を決め、臼井の手からは竹刀そのものが叩き落されてしまった。
「うっひゃー、ほんまかいな。近藤さんて、正直ゆうてバケモンやわ」
 思わず声を上げた隼が、慌ててまた周りを気にする。
「あ、俺またやらかしてもうた?」
 それには嵐がククッと肩を揺らして応えた。
「それは大丈夫だ。みんな思ってるけど、近藤さんが怖くて言えないだけだから」
 ほっと胸を撫で下ろして、変な関西訛りのつわものは、にぱっと笑った。
「ほんならええわ。また如月さんの席でそそうしてもうたら、俺ここにおられへん。せっかくこの場所確保さしてもろたのに」
「よくねえぞ、隼。誰が化け物だ」
 いつの間にか全員での挨拶も終えて戻ってきていた近藤に睨まれ、飛び上がらんばかりに驚く。
「うわぁ、聞いてはった!耳まで常人離れしてはるんやなあ」
「あのな。普通そこでやばいと思ったら、何とか取り繕おうとするもんだろうが。化け物扱いに輪をかけやがって」
 勢いよく溜息をついて、大将戦の勝者が面の奥から呆れたように睨む。周りは思わず笑いを誘われた。今の今までずっと緊張でカチコチになっていた斗音も、例外ではない。
「あ、あれ?いややわ、俺よいしょしたつもりやのに」
「それを言うなら、褒めたつもりだったのに、だろ」
「そうそう、『よいしょ』は心にも思ってないことを言って、相手を調子に乗らせて陰で馬鹿にしてるってニュアンスがあるんじゃない?」
 翔一郎と瞬が思わず突っ込む。へ?と困り果てた子供のような顔をした隼に、みんなして笑いさざめいた。例外なく笑みを浮かべた篠田が、近藤の肩をポン、とたたいた。
「三勝一敗一引き分け。思った以上の戦績が残せた。如月高校剣道部初、全国大会ベスト8達成だ」
 如月チームは力強くうなずいた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

十八.個人決戦開始

 窓の外は既にとっぷり闇に沈んでいる。如月高校剣道部が泊まっているのは、旅館とホテルの間に位置しそうな宿舎である。部屋はどれも小さくて二人か三人部屋となっており、建物としては結構大きい。正面にはバスでも入れるロータリーがあり、その中央や周りは立派な植物園といった感がある。建物の構造上なのか、かなりの広さの中庭のようなものもあり、こちらもちょっと南国を思わせるような植物が茂っている。小さな池もあって、座った人の頭が見える程度の低い壁にベンチが取り付けられている、小屋風の小さな休憩場まで設けてある。ちょっと気晴らしに散歩したりする目的で作られたようだ。その割には、植物が成長しすぎていて、やや鬱蒼としているが。
 ベスト8に勝ち残った如月高校が次に対戦したのは、同じブロックの最大のシード・・・・・・つまり、トーナメント全体で第二シードに当たる、昨年度の準優勝校、香川県の私立光徳学園であった。隼の言葉を借りれば「光徳に勝てたら、決勝でうちといい勝負になる」というレベルである。篠田の苦肉のアドバイスは、やはりほとんど実力の差によって打ち砕かれてしまった。実力順に出てきた先鋒に、若園が2-1で敗れ、楠は実力では中堅クラスの次鋒相手にたちまち二本取られてしまった。橋本も、次鋒クラスの相手に2-1で中堅戦に負け、勝負はついてしまった。慈恩は遅ればせながら1-0で副将戦をものにしたが、近藤は相手の大将に2-1で、初めての負けを喫した。
「あぁあ、やっぱ光徳には勝てへんかぁ~っ。はぁ、椎名とやりたかったんやけどなあ」
 ひたすら自分の都合で悔しがっていた隼だったが、自分の高校のことをすっかり忘れて如月の試合に没頭していたため、大慌てで出雲第一のところへ戻ったら、監督や顧問の先生に大目玉をくらい、本当なら準々決勝から出してもらえるはずだったのが、準決勝からになってしまった。
「・・・・・・あいつはとことん変な奴だなあ」
 呆れ半分感心半分で、翔一郎がつぶやいたものだ。しかし、その間にすっかり如月高校の面々と打ち解けてしまっていたのだから、大したものである。
 団体戦の結果は、優勝が当初の予測どおり出雲第一高校、準優勝が光徳学園、三位が北海道の函館商業高校と熊本の日体大付属住吉高校という結果だった。
 剣道部全国ベスト8という連絡は、如月高校の職員室で待機していた教師陣を驚かせ、湧きかえらせた。昨年度は一勝しかできなかったのだから、大した成果である。
 そして、剣道部の生徒たちにはもうひとつおまけに驚くことがついてきた。
「あれ?如月さんもここに泊まらはるん?」
 宿舎の前のロータリーで止まったバスから降りた途端、先ほどついたばかりで大きな荷物を持った出雲第一高校の集団と出くわしたのである。彼らは練習場の都合で、先日は名古屋に宿を取っていたのだ。校長の計らいで、剣道の応援に来ていたバスケ部の何人かも、こちらの宿舎に予約してあり、バスの後をタクシーで追ってきて、その一団と遭遇した。
「お、隼じゃん。お前らもここなの?奇遇だな」
 楽しそうに翔一郎が声をかけた。
「ゆっくりできるの?できるんだったら、明日の個人戦予想、聞かせてよ」
 無邪気に言ったのは瞬だった。隼は、あはは、と笑った。
「遊びに行きたいんは山々やけど、今日どやされてしもたばっかやし、夜練もあるさかい。たぶん部屋で明日の朝まで爆睡や。かんにんな」
「そっかー、それじゃ仕方ないね」
 瞬としても、もともとそんなに期待していなかったらしい。
「今日も練習すんのか?逆に疲れが残ったりしねえか?」
 嵐が訊ねると、ん~と首をかしげる。
「普段の練習量からすれば、今日は全然足りてへん。いつも通りの体調キープしよ思たら、俺はやった方が調子ええけどな」
「こな、いつまでしゃべくっとる。はえことござっしゃい、隼」
 結構年配の、恐らく監督であろう人物に呼ばれ、隼はしまった、という顔になる。
「あかん、これ以上どやされたら、割に合わんわ。したら、またな」
 言って、くるりと向きを変え、小走りで出雲第一の集団を追いかける。斗音が思わずくすっと笑った。
「隼って、剣道はすごいのに、ほんとお茶目だね」
 外見は全然そう見えないだけに、尚更そのギャップが印象的である。
「出雲第一はこれから夜練だそうだ。個人戦に出る三人だけでも、練習するかい?」
 ニコニコと篠田が言った。橋本がげっそりした表情を見せる。
「真剣勝負三回なんて、普段の練習より何倍もきついっすよ。あいつは全然足りてないって言ってましたけど、それこそ化け物だ」
 慈恩も苦笑でうなずいて、同意を示す。剣道四段の顧問は、いつもの笑顔でうなずいた。
「今日はもう遅いし、とにかくゆっくり休んだ方がいいだろう。今から配る紙に、今日の部屋割りが書いてある。ほとんど変わらないけど、一部変わってるところがあるから、それにしたがって荷物を移動して、部屋で休憩しておいてくれ。食事は七時半。この階の桜の間になってる。遅れるとなくなってるかもしれないから、気をつけて。じゃあ、この紙、受け取った者から解散」
 もらった紙を見て、各々が自分の部屋を確認する。慈恩が首をかしげる。
「あの、俺だけ三〇三号室、一人なんですか?」
「いや、書いてないだけ。バスケ部のために部屋が二部屋取ってあるけど、どっちも三人部屋で、泊まれるのは六人。けど、応援に来てるのは七人なんだ」
 篠田のなぞなぞめいた言い方に、慈恩はああ、と納得する。
「バスケ部の誰かと一緒に使えってことですね」
「仲良しの四人グループが来てるからね」
 誰が一緒になるかは、彼らと一緒に決めればいいよ、とやんわり言う。出来過ぎ集団もそれを聞いて、なるほど、とうなずいた。
「じゃあ、慈恩と斗音でいいじゃん。気兼ねしないし、大丈夫だとは思うけど、もし発作起こしたりしても安心だしね。夜は二人で三〇八号室に遊びに来るよね。こっちの方が広いから」
 あっさりと決めたのは瞬である。嵐がちょっとだけ肩をすくめた。
「そうだな・・・・・・。俺、慈恩と一緒の部屋、楽しそうだと思ったけど、慈恩がリラックスできる方がいいよな」
「別に、嵐とでも俺、緊張はしないけど」
「でも、慈恩のこと一番分かってんのは斗音だろ?嵐は時々過激だからなあ」
 慈恩が眠れなくなるようなこと、言い出しかねない、と翔一郎が笑う。
 慈恩もくすくす笑った。とりあえず、最初の瞬の意見に反対する理由もなかったので、即座に部屋割りは決まった。
「修学旅行気分で楽しみたいのはよく分かってるけど、椎名慈恩は明日があることも忘れるなよ」
 篠田の言葉に、五人は顔を合わせて肩をすくめた。
「はい」
 返事をして、慈恩は苦笑した。

 食事までに入浴を済ませ、食事のあとは五人で持ってきた菓子類を広げて、カードゲーム大会となった。賭けるものがないと盛り上がらない、という理由で、勝った者が最下位だった者に何かひとつ、白状させるというルールがついた。白状ネタを選ぶ権利と、自分の秘密を賭けるわけである。盛り上がらないわけがない。
 ところが、UNOをやっても、大富豪をやっても、七ならべをやっても、ババぬきをやっても、七割は嵐の勝ち。残りの四人がいろいろ暴露させられる羽目になった。
「嵐、カジノで食ってけそう」
 翔一郎が溜息をついた。大富豪で負けたのである。
「ん~、じゃあ翔一郎。お前が初めて女の子からもらったプレゼントは?」
 白状させる側の嵐は、ニヤニヤしている。翔一郎は軽く顔をしかめて舌を出した。
「プレゼントなんてもらわねえよ」
「うっそだぁ。絶対もらってるって。ちゃんと白状しなよ」
 ポッキーを片手に瞬がせっつく。せっつかれた方は短めの黒髪をがしがしとかき上げた。
「ああっ、もう!そんなのっ、チョコレートに決まってんだろ!ありきたりで悪かったね」
「へえ、いついつ?」
「誰から?」
 重ねられる質問に、翔一郎は両腕でストップを掛けた。
「はい、ここまで。それ以上はちゃーんと勝負に勝ってから聞け!」
「ちぇ、けち」
「よし、じゃあ次のターゲットはもう一回翔一郎だな」
「うっそ、勘弁してくれよ」
「てゆーか、嵐まだ一回も白状してないっ!勝たなくても絶対負けないもん。ちょっとみんなで嵐ターゲットにしようよ」
「ははぁ、そうきたか。いいぜ、やってみな。多分負けねえと思うけど」
 嵐の異常な記憶力と洞察力にかかれば、カードゲームの勝敗すら左右されてしまうに違いない。瞬がカードの上にばたっと転がった。
「嵐の脳みそ自体が反則だよぉ~っ」
 駄々っ子のような瞬の仕草に、残りの四人が思わず笑い出す。慈恩がふと腕時計に目をやる。そろそろ十時近い。その仕草に、斗音が反応する。
「あ、ヤバ、時間忘れてた。もうそろそろ休んだ方がいいね」
「そうだな。じゃ、悪いけど先休ませてもらうよ。けど、バスケの方も明日は調整に入らなきゃいけないんだろ?ほどほどにしとけよ」
 くすっと笑って、慈恩は立ち上がった。斗音も立ち上がる。
「俺も行くよ」
 瞬が転がったまま不満そうな顔をする。
「えぇーっ、斗音も行っちゃうのー?つまんないよー」
 そんな瞬の白い額を、嵐は軽く弾いた。
「斗音に本番までに養生しなくちゃね、って言ってたの、どこの誰だよ?」
「俺」
 答えてから、それでも瞬はごろごろ転がって斗音のジーンズを引っ張った。
「でも、斗音がいなかったら、翔一郎と俺では嵐を追いつめらんないじゃんかぁ」
「あ、瞬、今俺を愚弄したね?」
「気のせいだよ~。ねぇ斗音、もうちょっとだけ遊ぼうよぉ」
 一人っ子の上、いつも夜遅くまで塾に行っている瞬は、こうやって夜誰かと遊ぶといった機会が少ないのだろう。斗音は困ったように微笑んだ。
「分かったよ、じゃあ着替えたらまた来るから」
 瞬がぱっと明るくなるが、他の二人は苦笑いしながら首を振った。
「無理しなくていいぞ、斗音」
「そうそう、まあ、ほら、気が向いたら来いよ。気が向いたらでいいからな」
 翔一郎は軽く片目を閉じて見せた。このまま帰って休んでもいいよ、と暗黙のメッセージを視線に載せる。
 斗音も了解の笑みを浮かべた。コミカルなやり取りに、慈恩も思わず笑った。
「じゃあな。おやすみ」
「おやすみ。ゆっくり休んで、明日頑張れよ」
「おやすみっ。また明日な」
 部屋に戻った慈恩はさっそくTシャツとハーフパンツに着替え、斗音はその間に顔を洗って歯を磨く。
「お前、このあとどうする?」
「ごおあほ?」
 歯磨き中だった斗音は、慈恩の質問の意図を把握するのと、明瞭な発音で返すこと、両方を失敗した。慈恩の方は斗音の意味不明の発音の意図を汲み取って、苦笑する。
「あっちの部屋、行くのか?」
「うーん」
 口をゆすいで、タオルで拭う。
「どうしようかな」
 手洗い場から部屋に戻る。斗音としてはゆっくりしたいという気持ちが強いが、こんな時くらい瞬に付き合ってやってもいいかな、とも思う。それに、問答無用であの三人といるのは楽しい。
 慈恩が着ていた私服をかばんに片付けながら、何気なく言った。
「俺は一人でも平気だから、行きたかったら行って来いよ。俺に合わせる必要はない」
 そんなことを考えてついてきたわけではなかったつもりだったが、斗音の心に木枯らしのように冷たいものが駆け抜けた。楽しさで紛らせていたものが、いっきに押し寄せる。
(何だよ、これくらいで!何で・・・・・・)
 理性が叫ぶ。その裏側で、慈恩があの楽しい輪から抜けて、一人で部屋に戻るのは寂しいだろうと、無意識に思って行動した自分の気持ちが、冷たく冷える。楽しかったところをせっかく抜けてきたのに、自分は必要ないのかと訴える。
 斗音は気づいていないが・・・・・・いや、現時点では誰も気づいてはいなかったが、完全に情緒不安定に陥っていた。それを何とか理性でカバーしているので、周りはちょっと心配になる程度で済んでいるのだが、今の斗音の思考状態は、ほんの些細なことでも悪い方へ悪い方へ結びついてしまい、不安や寂しさに襲われるような状態だった。それは、以前、嵐の部屋に斗音が泊まることになったときに、嵐が気づいたもので、更に言えば、それは予兆に過ぎなかった。あれから一ヶ月強、症状は密やかに、しかしながら速やかに進行していた。
 いらない存在。九条からそう言われた。発作を起こして知らずかきむしった痕は、もうほとんど分からないけれど、知らず指でなぞる。九条と慈恩に関わることで、ショックを受けたことやつらい思いが次々と思い出され、込み上げてくるものに押されて、目頭がじわりと熱くなった。
(駄目だ、俺、もたない。こんな俺がいたら、慈恩に心配かける)
 既に潤んでしまった目を見られないように、身体をドアに向けた。そのままドアに向かって歩く。
「うん、瞬が待ってるし、俺、あっち行くよ」
 ドアを開けて、廊下に出てからわずかな隙間だけ開けて、のぞく。これなら、気づかれない。

「先休んでなよ。おやすみ」
「ああ、おやすみ。鍵は開けとくからな。みんなによろしく」
 望み通り、慈恩は特に気に留めることもなくそう言った。斗音はそっとドアを閉める。ほっとした瞬間、信じられないくらいぼろぼろと涙が溢れた。
(なに、何なんだ俺、どうしちゃったんだろう・・・・・・)
 嗚咽が漏れないように、慌てて口を押さえる。こんな状態では三〇八号室に行くことすらできない。薄い青とグリーンの細かいチェックが入ったシャツの袖で、ごしごし目を拭った。部屋にはいられない。でも、ここにいればいつ誰と出くわすか分からない。動転しそうな気を何とか落ち着けながら、斗音は人目に付かない場所を目指した。
 初めに向かったのは非常の際に利用される階段だったが、コツンコツンと人の足音がするので、そのまま一階まで抜けてしまった。だが、フロントには人がいる。それで、フロントとは逆方向に向かうと、ゲーム機や自販機が少しだけ置いてある場所に出た。ずいぶん遅いので、さすがに誰もいない。ずっと進めば宴会場だろう。さすがにそこまで行く気にはなれなかった。しばらくそこで休もうかと思った時、数人の足音と、高校生くらいの少年の声が聞こえてきた。飲み物でも買いに来たのだろうか。
 慌てて周りを見回した斗音は、そのコーナーのガラスが開くことに気づいた。中庭に出られるようになっている。考える間もなく、斗音はそっとガラス戸を開け、やや鬱蒼とした感のある南国風の中庭に抜けた。音を立てないようにガラスを閉め、逃げるように中庭を横切っていく。月明かり以外に光はないが、満月に近いせいか、結構明るい。少し入ってしまえば、これだけ植物が茂っているので、自分の姿は見えなくなるに違いない。足早に奥へ奥へと向かった。
 ふと気がつくと、池があり、その脇へちょっと入った辺りに休憩所が設けられている。吸い込まれるように斗音はそこに向かった。夜中の十時である。涼しい夜の風以外に、その場を訪れるものはない。奥行きのある席の手前に腰を下ろし、木でできている机に臥せった。
(ここなら誰にも遠慮なんていらない。・・・・・・慈恩も、いない)
 家にいても、こうして突然不安になったり寂しくなったりして泣きたくなることはあった。そんな時は部屋に閉じこもって、枕を抱きしめて、声が外に漏れないようにそっと涙をこぼした。家には必ず、こうして心をかき乱す原因になる慈恩がいて、その慈恩には絶対に知られたくなかったのだ。
「・・・・・・ふっ・・・・・・ぅ・・・・・・」

 こらえていた涙が、遠慮なく溢れ出す。つらい、苦しい、寂しい。それらが身体中から溢れてくる。しばらくは、それらが溢れ出して来るままに、任せることにした。

 どれくらいそうしていただろう。二十分にも思えるし、五分しか経っていないようにも思える。それでも、この涙は底なしなのかと思うほど、臥せたシャツの袖にこぼれて染み込んでいく。永遠に続くのではないかと斗音が思った瞬間、不意に、しかも間近で人の声がした。
「・・・・・・お前・・・・・・斗音・・・・・・・・・・・・?」
 ピンポイントで名前まで当てられて、斗音は思わず涙で濡れた顔を上げた。全く人の気配などしなかったのに、視線の先には月の光を背負うようにした人影がある。
「泣いてはるんか・・・・・・?どないしてん・・・・・・?」
 聞き覚えのある訛り。心配そうに覗き込む、大人びたシャープな顔。
「はや・・・ぶさ・・・・・・?」
 思わず目を瞬かせると、溜まっていた涙が両方の目から時間差で流れる。それを隼は長い人差し指ですくうようにした。
「そんな泣いとると、せっかくのべっぴんが台無しやで」
 困ったように、ちょっとだけ笑って見せる。長い睫毛にびっしり水分を含ませたまま、斗音は呆然と突然現れた人物を見つめる。
「・・・・・・何、で、ここに・・・・・・?」
「夜練終わってシャワー浴びたら、あつうなってしもて。俺、冷房はコンディション崩すことあるさかい、あんま好かんのや。ほんで散歩でもしよか思てここ来たんやけど・・・・・・」
 ちょっと言いにくそうに口ごもる。
「なんかちょこっとだけしゃくりあげてるような声聞こえたんや。せやから、気配殺してここまで来てみたら、お前が伏せとってん」
 さすが剣道の実力者である。気配は完璧に消されていたのだから。半ば放心状態で、それでもつらさや悲しみの権化は止まることなく、次々と頬を伝わせたまま、まじまじと隼を見つめる。どうしてなのか、もう斗音にも分からない。隼がおたおたと取り乱して、とめどなくこぼれてくる涙を、両の手の平や指の腹で拭おうとする。
「かんにんな、俺今ハンカチ持ってへんのや」
 一生懸命涙を拭おうとしてくれる隼の優しさに、今度ははっきりと泣きたい気持ちが込み上げてくるのを感じ、斗音はうつむいた。ハラハラと大粒の涙が新たにこぼれた。
「あかん、間にあわへん。そんな泣いたら・・・・・・ちょお待ちや」
 慌てた隼が斗音の隣に腰掛けて、ほれ、と力強く肩をつかんだ。
「?」
「俺のシャツ貸したるさかい、ここで泣き」
 言うや否や、両腕で抱え込むようにした肩から上を、自分の胸に押し付けた。驚いた斗音がとっさに離れようとするが、鍛え上げられた隼の腕は、びくともしない。それどころか、ますます強く抱きしめられる。
「ええからじっとしときや。こないなとこ、他にだあれも来はらへん。我慢せんでええよ。俺ずっとこうしとったるさかい」
 目の奥がつんとした。あんなに外に出てしまったはずなのに、ぶわっと熱い雫が瞳から盛り上がり、たちまち溢れて、隼が中に来ている白いTシャツと、そこに羽織っている麻のような色合いのシャツに吸い込まれていく。
「・・・・・・ご、ごめん」
 いつもよりやや擦れた声を震わせて、斗音は麻色のシャツにしがみついた。しがみつく指も震える。
「・・・・・・ん。ええよ」
 隼の長い指を持つ手が、優しく斗音の柔らかな髪を撫でた。
「お前の気ぃ済むまで、俺、付きおうたる」

 な、と言い聞かせるような声も優しい。斗音は頬をシャツに擦り付けるようにして、わずかにうなずいた。

   ***

 翌日は快晴だった。朝から既にじりじりと暑く、じわりと額に汗が滲むほどである。昨日から引き続き剣道のインターハイ個人戦が行われる武道場は、中に入るとやや涼しく感じる。
「さて、今年はどこまでいけるかな」
 篠田の微笑みは、それでもやや緊張感を帯びているのが分かる。受付でもらってきたトーナメント表を近藤に渡した。橋本と慈恩も、それをのぞき込む。ややして、近藤が溜息をついた。
「一回戦は鹿児島商工の清水か。まずはこいつに勝つことだな」
 昨年度全国大会では耳にしたことのない名前である。慈恩はそれにつられて、近藤の勝ちあがる道をたどった。自分とは反対のブロックなので、近藤ともし戦うことがあるとすれば、決勝しかない。その近藤の前に最初に立ちはだかるのは、恐らく三回戦で当たる八百津高校の矢加部だろう。それに勝てたとしたら、ベスト8をかけて・・・・・・隼刀威と戦うことになる。
(近藤さんのベスト8は厳しいな・・・・・・)
 慈恩はやや眉根を寄せた。近藤が弱いとは思わない。隼が強いのだ。圧倒的に。昨日の団体戦でも、二回しか出場しなかったのだが、副将に位置し、その差の歴然たるやを見せ付けた。決勝ですら、光徳の三年生の副将相手に、二分数秒で2-0の圧倒的勝利。中堅までは引き分けできていて、副将でこの大差。大将戦も、出雲第一の部長飛鳥要(あすま かなめ)がほぼ四分フルに使って、光徳学園の実力者である加納相手に2-0と余裕の勝利で優勝を掴み取ったわけだ。彼も全国大会の上位常連である。そしてその飛馬は、もし慈恩が勝ち上がれば、決勝をかけて対戦することになる。
(俺が隼と対戦するのも、厳しいな、やっぱ)
「どうでもいいけど、各ブロックに絶対一人くらい出雲第一の選手いるんすけど」
 うんざりしたように橋本がぼやいた。篠田が苦笑する。
「そりゃそうだよ。全国大会の優勝ここ十年で六割っていう化け物高校なんだから」
 のぞき見していた嵐が、こんなもんか、といった顔でうなずく。
「なんか、決勝とか、下手すると出雲第一同士なんじゃねえか?」
「うん、去年もそうだった気がする。出雲第一の飛馬って人が準優勝で、優勝も出雲第一の三年生だった。ちなみに、三位は隼だったよ」
 斗音の笑みは、もうどうしようもないでしょ、と言っている。
「・・・・・・ほんとに化け物なんだな。近藤さんを化け物呼ばわりしてる場合じゃねえじゃん、あいつ」
 翔一郎が肩をすくめた。
「そして、今年の優勝候補は飛馬だ」
 にっこりと篠田が付け足す。篠田に日本史を習っている二年三組の三人は、それぞれに苦虫を噛み潰したり、溜息をついたりした。
「今日は今井が柔道に行ってるから、とりあえず無様な姿だけは見られなくて済むかも」
 最初っから弱気なのは橋本である。橋本の初戦の相手は、前日の団体戦で三位になっている函館商業高校の、大将を勤めていた少年だ。はなからかなり厳しい戦いである。
「函館商業の梶本か。確かに強いな。だが、そんな諦めモードでどうする。せっかくここまできたんだ。昨日だって勝てなさそうな試合でも、勝ってきただろう」
「勝てなさ・・・・・・って、まあ確かにそうだけど、近藤、ひでえよ」
 うっ、なんて泣くふりをしている辺りは、かなりリラックスしているらしい橋本である。
『明日は俺、優勝狙ってんのや。見とき。絶対とったるさかい、そんでお前に元気分けたる。せやから、俺見とき』
 昨夜、別れ際に隼に言われた台詞を、斗音は思い返す。散々泣いた、大して見知っているわけでもない自分を、最後まで慰めてくれた隼。二年生でインターハイ優勝を取ると宣言して見せるその力強さに、勇気付けられた。おかげで、何もなかったように、いつも通りの顔で、慈恩と顔を合わせることができた。そっと視線を出雲第一の方に向けると、あちらもトーナメント表を見ながら、なにやら集まっているようだった。
「どしたの、斗音?」
 ぼんやりしていたところ、不意に声を掛けられて、慌てて瞬に目を向けた。
「出雲第一?やっぱ気になる?慈恩、当たる可能性、高いよね」
 にこっと笑う瞬に、思わず微笑み返す。
「勝ち進めば、絶対に当たるところだからね」
「椎名は去年ベスト8だから、何とか佐賀南高校の東漢十(あずま かんと)に勝って、ベスト4には行きたいところだな」
 近藤が慈恩を見やる。佐賀南は、団体として強いわけではないので、個人戦のみの出場だが、漢(おとこ)十人の名を持つ彼は全国区である。近藤より更に身長体重ともに勝っている辺りは、名前を裏切っていない。腕前も然りである。間違いなく勝ち残ってくるであろうという人物の名に、慈恩は苦笑した。
「そこまで勝ち残れるかどうかです。多分その前に出雲第一の林さんと当たると思いますから」
「林は先鋒だ。お前なら勝てる」
「そんなに買いかぶられても・・・・・」

 その時場内に、開会式の準備を促すアナウンスが流れた。

 試合は特に大きな波乱もなく、順調に力のある人物が勝ち進んでいった。予想通りというと寂しいが、橋本は一回戦で敗退した。善戦はしたのだが、結果としては1-0だった。近藤は一回戦、二回戦を危なげなくクリアした。慈恩は一応シードがかかっていたので、二回戦からだったが、敵がまるで相手にならなかった。三分ちょっとで試合は終了した。隼もシードがかかっているので、二回戦からになっていたが、それでも二分も戦わずに終わった。
 三回戦の近藤の相手は、去年ベスト16に入っている八百津高校の矢加部である。近藤は去年二回戦で敗退しているので、同学年としては相手の方に分があるだろう。と、誰もが予想した。もちろん、如月高校の面々は、そう思っていても近藤の化け物っぷりもよく知っているので、負けるところが想像できなかったのも確かであった。
 勝負は熾烈なものとなった。どちらも絶対に一本取らせようとはしない。どちらも一本も取れないまま四分が過ぎ、延長戦に突入した。延長戦二分三十四秒を経過し、そろそろこの三分でも決着がつかないのでは、とみんなの心の中に焦りが生まれた時、近藤が見事に胴返し面を決めて、勝利をものにした。
「やったな、近藤!矢加部に勝っちまうなんて」
 今日は応援席の若園が、自分のことのように興奮している。近藤は面を取りながら、荒い息を整える。
「ああ・・・・・・強かったな。技巧派だったから、いつも椎名とやってるのが幸いだった。椎名と比べりゃ、あいつはひとまわり、格下だったからな」
「格下・・・・・・」
 慈恩は苦笑いしかない。確かに矢加部と自分が対戦したら、負けはしないだろう。でも、仮にも全国大会に出てくる三年生を格下呼ばわりするつもりは、慈恩には全くない。
「次は・・・・・・あの騒がしい二年坊主か」
 ややうんざりという調味料が、近藤の声に混じった。
「隼の試合、もうすぐだぜ。見て研究しなきゃな」
 溜息交じりに楠が腕を組む。隼の強さは、前日にいやというほど見せ付けられている。それでも、見ないわけにはいかないだろう。
「俺らも見に行こうぜ」
 嵐が斗音の華奢な首にすらりと長い腕をかけ、出来過ぎ集団を誘う。瞬が楽しそうに笑い、翔一郎も当然、といったようにうなずいた。斗音は、自分が行くことで昨夜のことを思い出して、隼が集中力を乱してしまうのではないかと、少し要らぬ心配をしつつ、強引に引っ張っていかれた。
「なんだや?おまいち、如月かい。はぁ、おまいち隼がお目当てかいな」
 隼とはまた違う訛りで声を掛けられ、真っ先に反応したのは嵐だった。
「出雲第一?」
「そげだ。あげな悪たれ坊主気にしちょーか。だっせえな」
 あからさまに上からものを言う態度に、嵐はやや秀麗な眉目を寄せる。
「あんたら、隼の応援に来てんじゃねえのか?」
「応援?はっ」
 その声を合図に、どよっと周りに笑いが起こる。
「誰があげなアホ応援すんだぢ。俺らが応援すんのは飛馬じょ。三年生やけん、最後、絶対優勝してまいてえからな」
「じゃあ何でここに来てんだ?」
「負けせんか思って来ちょーだけじょ。相手ただものよえけん、ふとちだい負けせん。はよ負けえっちゅーに」
 翔一郎が、瞬にぼそりと囁く。
「何言ってるか、分かるか?」
 瞬が可愛らしい眉を目一杯ひそめて応える。
「何か、早く負けろって言ってない?」
「相手が弱いとか言ってるよな」
「負けんの見に来てるって?」
「どうでもいいけど、分かりづれえよなぁ」
「こいつらの頭の中身もね」
 一緒に来ていた慈恩も、凛とした眉根を寄せた。
(あんまり居心地いいところじゃないな。それに・・・・・・出雲弁なんて、かっこ悪いから若者は使わないとか言ってなかったっけ、あいつ)
「同じ学校だろ。応援してやろうって気持ちはねえのか?」
 語調の強くなった嵐の問いに、別の一人が応える。
「あいちゃ俺らがちょべん時から通うちょった道場の息子だぢ。ほーで生まれた時から徹底的に剣術しわぎこまれて、つえくなって当たり前ぢ。だどもあのアホ、それわかっとらん。自慢げにえーたい竹刀振り回して。あげなしたら顔、潰したったらええわ」
『あ、俺けったいなことゆうてる?気にせんといてな。俺剣道馬鹿やから、かんにんな』
 斗音の脳裏に昨日如月の応援席で言っていた、そんな隼の言葉がよぎる。剣道のことになると、それこそ周りが見えなくなってしまって、先輩後輩関係なく物事を口走ったり、相手を叩きのめしてしまったり、常にやらかしているのだろう。そして恐らくそのたびに、周りからいろいろ言われたりして、気にしているに違いない。それでも直せない辺りが自称「アホ」「剣道馬鹿」につながっているのだろう。
「そげそげ。先輩を先輩と思っとらんぢ。そげな奴は、一回痛い目見なえけん」
 嵐は露骨に鼻で笑った。そんな表情も、とてつもなく映えてしまうところが嵐らしい。
「へえ。出雲第一って、すげえ強ぇからどんな学校かと思ってたけど、本当のダサさを勘違いした挙句に棚に上げて、平気で己の器量の狭さを開けっぴろげに周りにひけらかしちまうような愚かしい輩もいるんだな」
 あからさまに小難しくこき下ろす。出雲第一の集団は、ん???と顔をしかめた。何やら、あまりよくないことを言われたらしいことはなんとなく分かったが、何を言われたのかがよく分からないらしい。瞬がくすくすっと笑った。
「俺もそう思うよ。これに隼が勝つと、今度如月の選手と対戦だから、その時は敵になっちゃうけど、今は少なくとも隼の応援がしたくなった。うん、すっごくしたくなった」
 悪意を感じさせない天使の微笑みに、さっきまで隼を散々なじっていた彼らは、戸惑った上に赤面する者までいる始末だ。慈恩はおかしいのを必死でこらえた。
「始まるぞ」
 翔一郎が促す。その場にいた全員が試合場に目を向ける。斗音は思わず声を掛けた。
「隼、実力、見せてよ」

 試合場に向かおうとしていた隼が、ふと振り返った。面の奥でいつもの屈託ない笑顔が閃いた。
「おう、見ときいや。お前が・・・・・・お前らが見とるんなら、俺ええ気分でできそうや」
 相手は兵庫県の西宮学園、各務雅士、強豪校の大将である。審判の合図で互いに礼をし、構える。
「始め!」
「やあぁあああああっ」
「あぁ------っ」
 互いに気合の入った掛け声である。慎重にすり足でタイミングを計りながら、互いに距離を取る。背に白い布を背負う各務選手が、バネのある動きで隼の竹刀を牽制しつつ、挑発している。隼は落ち着いて様子を見ているようだ。
「やぁあ------っ!」
 素晴らしい瞬発力で、西宮学園で大将を務める少年が、間合いを詰める。竹刀が隼の右小手に襲い掛かる。隼は落ち着いたまま左足から斜め後方にわずか身体をかわし、竹刀の先の方向を相手の正中線から外さないように、右拳を内側に絞って、相手の竹刀を右上にすり上げるや否や、正面を打った。その間、わずか〇コンマ何秒の世界である。その正確さと素早さたるや、まさに目にも留まらぬ早業だった。
「めぇぇんんっ」
 一斉に赤旗が上がる。
「面あり、一本!」
(速い!)
 慈恩が息を飲む。何瞬かの間をおいて、嵐が呆れたように笑った。
「・・・・・・神速だな、こりゃ」
「つーか、開始十二秒だし」
 斗音は思わず長い睫毛をしばたたく。
(み、見えなかった、隼の動き)
 一瞬退いたようには見えた。と思ったら、もう面が打ち鳴らされていたのだ。
「今の、なんて技?」
 同じように細かく瞬きをしながら、瞬が慈恩を振り返る。
「小手すり上げ面だな」
 瞬はきょとんとしたあと、へえ、と言って視線を隼に戻した。
「聞いても分かんないなら、聞くなよ」
 翔一郎が小さな頭を小突いた。
 その一本に警戒したらしく、一気に各務選手の動きが慎重になった。なかなか仕掛けてこなくなったためか、次は隼が打って出た。それも素早かったが、敵もさる者、竹刀でがっちり受け止め、つばぜり合いとなる。身体は各務選手の方がひとまわり大きい。力任せに突き放されて、隼は大きく一歩後退した。その瞬間、力任せの技に出んと、各務選手が上段に構えた。隼の体勢はまだやや不安定である。
「危ねっ」
 思わず口走った翔一郎の横で、慈恩がぴくりと反応する。
(いや、これは)
 不安定に見えた隼の身体が、右足の大きな踏み込みと同時に力強く前に出て、片手に握られた竹刀がまるで相手の喉頭部めがけて吸い込まれるように突き出された。
「とぉおおおおっ」
 再び審判の赤旗が勢いよく上げられた。
「突あり、一本!それまで!」
「え、片手っ!?」
 瞬が大きな目を見開く。
「そんなん、ありなの?」
 慈恩はぎこちなくうなずいた。
「あるよ。片手技だ」
(それも、恐ろしく思い切りのいい)
 背筋がぞくっとする。この反応の速さは、ものすごい反射神経と、ボディコントロールと、勇気と、思い切りの良さと、正確さと、自信と、そしてその絶妙の場面で当たり前のようにその技を選んで出すための、膨大な練習が必要だ。
(・・・・・・強い。なんて強さだ)
「ちっ・・・・・・またかいな。ちーた腕の立つ敵はおらんのかいな」
 出雲第一の、恐らく三年生の集団は、その中の一人の、まるで負け惜しみのような呟きを合図に、つまらなそうにぞろぞろとその場から立ち去っていった。
「・・・・・・一分三秒。三回戦でもこの圧勝を見せつけるのか」
 近藤が溜息をついた。近藤とて自分の能力と隼のそれとの間に存在する隔たりは、嫌というほど分かっている。溜息をつく以外に、この時の心情の表し方ができなかったらしい。
「・・・・・・次の対戦の目標は?」
 橋本が近藤に問い掛ける。
「そうだな」
 如月高校剣道部のつわもの部長は、肩をすくめた。
「二分は試合する」
(うわぁ、消極的だぁ)
 如月応援団が思わず青ざめる。慈恩は高い天井を仰いだ。
「近藤さんには四分一杯試合するって、言って欲しいですね」
 己が見込んだ後輩の言葉に、近藤が視線で振り返る。
「一本に抑えろってか?」
「それくらいの力は、あるんじゃないですか?」
 慈恩は引き締めた唇の端を、わずかに上げた。
「隼は俺との対戦を熱望してます。でも俺は恐らくそこまで残れない。だから、俺の代わりに隼に如月の力を見せてやってください」
「お前の代理が俺に務まると思ってるのか。俺を過信してもらっちゃ困る」
 
近藤はフン、と笑った。
「でも、出雲第一の奴等に、相手が弱すぎるなんて台詞を言わせておくのは癪だからな。目標は四分きっちり戦うってことにしておく」
 慈恩は肩をすくめて笑った。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年11月 | トップページ | 2009年1月 »