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十一.知らされた事実

 週末の休日が明けた翌日の朝、如月高校の教室前廊下には人だかりとざわめきの渦ができていた。
「何の騒ぎ?」
 あまり身長に恵まれていない瞬が、人だかりの後ろから背伸びをしているのを見つけて、斗音が声を掛ける。瞬はぱっと振り返って、にこっと笑った。これが、この少年を可愛いと思える大きな要因だろう。
「あ、おはよっ、斗音。今日はゆっくりだったんだね。ていうか、なんか顔青白くない?」
「そうかな」
 斗音が少し苦笑いを浮かべる。実は朝っぱらから、机の下にしまいこんであった一年生の時の資料集を探していて、埃を吸い込み、発作を起こしてしまったのだ。おかげで、今日あるはずの朝練に出そびれた慈恩は、格技場に直行して、今頃近藤部長にどやされているはずだ。
「忘れた頃に、これが来るんだよね。中間テストのランキングだよ」
 今時このようなことをする学校は少なくなりつつあるのだが、成績優秀で通ってきている如月の生徒は、とかく自分の位置を知りたがるので、競争意識や、一人一人聞きに来た生徒に教える教師側の面倒なども考慮し、こうしてテストが終わってしばらくした頃にランキングが張り出されるようになっている。
 瞬の声に、ああ、と答えて、斗音はそれがあるらしい掲示板の前にできている人の頭の壁を見つめた。
「見えないな」
 瞬とそれほど身長が変わらない斗音は苦笑する。瞬はうなずいた。
「でしょ。今翔一郎が見てくれてるんだけど・・・・・・あ、来た来た」
 押し寄せる人ごみを掻き分けながら、翔一郎が戻ってきた。
「おっ。おはよう斗音。なんだよ青白い顔して。発作でも起こした?」
 翔一郎にも言われて、斗音は三度目の苦笑を禁じ得なかった。
「おはよう。そんなに青白いかな?」

「そうだな。健康そうには見えないな。声も微妙にハスキーさが増してるし。大丈夫か?」
「もう平気だよ。軽い発作だったし」
 にこりと笑って見せる。そうか、と翔一郎はほっと安堵した表情を浮かべた。
「とにかく人だかりが過ぎて見えないだろ。めぼしい順位だけはチェックしたぜ。詳しいのはあとで自分の目で確かめるとして、教室入ろう。教えるよ」

「俺は?何番くらいだった?」
 待ちきれないように、歩きながら瞬が翔一郎をのぞき込む。
「瞬は百二番。前回は確か百十三番だったから、十一番アップ。進歩があって結構結構」

 ちょっと笑いながら言う翔一郎に、瞬はむくれた。
「ちぇ。百は切りたかったのにな。だって、周りがみんな勉強できすぎるんだもん」
「如月で学年の平均に入ってりゃ、いいんじゃねえの?」
「だって、どうせ嵐は一番だし、斗音とか慈恩は十番以内に入ってるし、翔一郎だっていつも結構上位にいるじゃん」
 教室の斗音の席に、自然に翔一郎は向かった。斗音がかばんを持ったままだったからだ。
「さて、簡単なクイズ。嵐は何番だったと思う?」
「「一番」」
 二人の声がハモった。翔一郎は軽快に笑う。
「クイズにならないか。じゃあ二番は?」
 瞬が小首をかしげる。
「俺の知ってる人?」
「知ってる知ってる」
「誰?藤堂?」
 いつもベストスリーには入る執行部員の名を斗音が答えると、翔一郎が肩をすくめた。
「惜しいね。藤堂は三番。聞いたら結構びっくりするぜ」
 楽しげに翔一郎が言うので、二人はますます考え込む。
「ヒント。今まで斗音より上に行ったことがない奴だよ」
 自分の名前が出たことで、斗音が少しびっくりしたように顔を跳ね上げる。同じように瞬も顔を跳ね上げた。こちらは満面の笑みである。
「分かった、慈恩だ!」
 どくん、と斗音の心臓が音を立てる。その答えが当たっていることを確信して、思わず口元を覆った。翔一郎は屈託なく笑う。
「せいかーい。な?びっくりしただろ?」
 瞬が大きな目をおどけたように見開いて、長い睫毛を瞬かせた。
「すごーい。マジで?ね、斗音は何番だったの?」
「六番。今回はちょっと調子が悪かったと見た」
「そうだね。斗音は大体五番以内に入ってるもん」
 ほら、ちょうど精神的に大変だった時期じゃん、と瞬が言って斗音を振り返る。そしてその微動だにしない友人を不思議そうに覗き込んだ。
「・・・・・・斗音?あれ、どした?」
 同じように斗音を覗き込んだ翔一郎が、はっと表情を変える。

「発作・・・・・・?」
 口元を押さえる手と、下ろしたままのカバンをつかんでいる手が小さく震えている。翔一郎は慌ててカバンの中を探った。携帯している吸入器を取り出す。
 
喉の奥にあふれ出す不快感に、斗音は顔を歪めた。
(どうして、急に)
 呼吸を邪魔されて、喉からヒューヒューと呼気が音を立てる。背筋を冷たいものが流れる。翔一郎が取り出してくれた吸入器を手に取ろうとして、冷たくなった指が言うことを聞かず、失敗する。下に落ちかけたそれを翔一郎が素早くキャッチしたのが分かった。
(嫌だ、こんなところで・・・・・・)
 周りが急に分からなくなる。喉に絡まったものが嫌な音を立てるまま、激しく咳き込んだ。急激に呼吸が困難になる。力のバランスが取れなくなってがくんと膝が折れ、床に膝をついた。

「おい、斗音、斗音、しっかりしろ」
 
あまり大きな声で言わないでいてくれるのは、肩を抱くようにして自分を支えた翔一郎だ。瞬はスクールバッグをごそごそあさっているようだ。しかし、斗音にその行動が何を意味するのかは分からない。
(薬・・・・・・早く、しなきゃ・・・・・・)
 ひどく手が震え始めている。咳き込んだことで吐き出してしまった酸素を取り込もうとして、喉の遮蔽物に邪魔され、苦しさに気が遠くなりそうだ。なにやら瞬が必死で誰かに向かって、早く来て、とせかす声が聞こえる。誰かを呼んでいるのだろうか。
「これでいいか?薬、吸い込めるか?」
 耳元でそう言って、吸入器をいつの間にか口元まで持ってきてくれていた翔一郎に感謝するが、わずかに遠い。それを引き寄せようとするが、苦しさで手に力が入って、うまく動かない。
「近づければいいのか?これでいい?」
 やっと薬が吸い込めるようになり、かすかに斗音はうなずいた。苦しいのが分かっているが、それでも吸い込もうと努力する。そのたびに血反吐でも吐きそうな咳を繰り返しながら、それでもゆっくりゆっくり、少しずつだが遮蔽物がおさまっていく。それにしたがって、わずかに周りが分かるようになって来た。
(・・・・・・最、悪・・・・・・)
 好奇の目、同情の目、いつもと違うものを見る目、珍しいものを見る目・・・・・・そんなものに取り囲まれている。見たくなくて、斗音は身体を預けていた翔一郎に、それらから目を逸らすようにしがみつく。
「苦しいのか?薬、ちゃんと届いてるか?」
 心配そうな翔一郎の声が上から降ってくる。小さく頭を縦に振りながら、苦しくて悔しくて情けなくて、斗音は目頭が熱くなるのを感じた。
(こんなところで泣いたりなんて、絶対しない)
 ぜいぜいという呼吸を繰り返しながら、斗音はきつく目を閉じる。
(泣くもんか、こんなことくらいで!)
『弟をいつも従えてるんだよな。身体が弱いとか何とか言って』
『だって、軟弱そうだろ、どう見ても』

 いつか浴びせられた言葉が、胸の底を焦がす。忘れることのできない、焼き付いた刻印のように斗音をさいなむ。
(弱みなんて・・・・・・見せない・・・・・・!)
『弟は強いもんな。虎の威を借る・・・・・・ってやつ?』
『でも、影に隠れてんじゃねえからさあ。それを下僕扱いしてんだぜ』
 強くて、有能な慈恩。それに比べて、まともに病院の外にも出られなかった自分。憧れて憧れてやまなかった。追いつこうと必死に努力した。慈恩が剣道に打ち込む分、勉強に励んで、テストや成績では慈恩より上を行くようになった。やっと少しは兄として胸を張れるものができたと思った。人並みに勉強をすることができる身体になって、頑張って斗音が得たものを、慈恩は心から喜んでくれた。この関係が、主従?
(強くならなくちゃ・・・・・・俺は強くならなくちゃいけないのに・・・・・・)
「あ、来た!慈恩、こっち!」
(弱いなんて・・・・・・思われたくない・・・・・・)
「悪い、遅くなった」
 聞き慣れた声が近づいてきた。艶やかで聞きよい声。
「とりあえずおさまってきてるとは思うんだけど、苦しそうなんだ。どうしたらいい?」
 しがみついた翔一郎の細く引き締まった身体が、その声を内にも響かせているのを感じる。
「ありがとう。とりあえずおさまってきてるなら、しばらく安静にすればいいと思う。吸入器だけしっかり固定して・・・・・・」

 大きな手が背中を優しくさすっている。
「斗音。大丈夫か。もう少しおさまったら保健室まで運ぶから、落ち着いてしっかり薬を吸入してろ」
 耳元で安心できる声に低く囁かれ、斗音はこくりとうなずいた。
「さ、心配してくれてんのはありがたいけど、喘息で苦しんでる奴のストレスになるようなことは勘弁してやってくれないか。はい、散った散った」
 皮肉交じりに外に放たれた声は、今回も学年トップを譲らなかった、頼もしい友人の声だ。恐らく慈恩と一緒に駆けつけてくれたのだろう。
(・・・・・・俺はどれだけ迷惑をかければ、気が済むんだろう。どれだけの手を借りなきゃいけないんだろう。)
 苦しさとつらさで、斗音は呼吸を乱す。

(一人で・・・・・・一人で、誰のお荷物にもならないように生きたい・・・・・・)
 また込み上げそうになる感情を、涙と一緒に飲み込んだ。

「全く分かんねえ。ランキングの話してて、気づいたら固まってたんだ。でも、最初から顔色悪かったのは確かだよ」
 保健室まで付いてきてくれた翔一郎が、慈恩と嵐に説明している。斗音はネクタイを外され、シャツのボタンを二つほど開けた状態でベッドに寝かされていた。まだ養護教諭は出勤しておらず、ベッドだけ借りて休むことになったのだ。
「朝軽い発作を起こしたんだ。それは純粋に気管に埃を吸い込んだからだったんだけど、やっぱり無理して登校したのがまずかったかな・・・・・・」
 とても後悔しているのが分かる、慈恩の曇った声。嵐は、閉じた目の上に手の甲を載せている斗音の髪を、そっと撫でた。
「そうでもないさ。家にいろって言われても、ストレス溜まるんじゃねえ?あんま、慈恩が気に掛けすぎると、逆に斗音がへこんじまうよな」
 嵐はことごとく、斗音の気持ちを言い当ててくる。読心術ができるんじゃないかと思うほどだ。
「・・・・・・もう平気だよ。HR、始まるし・・・・・・教室、先、戻ってて・・・・・・」
 斗音は手の甲をずらして仲間を見回し、できるだけの笑顔で、いつもの倍ほど擦れた声を、なるべく元気そうに絞り出した。そんな斗音の顔を見て、瞬と翔一郎、そして嵐は納得したようにうなずいた。
「ああ。とにかく完全に回復するまでは、ちゃんと休んでろよ」
「一時間目終わったら、また様子見に来るからさ」
 クラスメイトの二人が、いたわるように、励ますように声を掛けてくれる。嵐も首を縦に振った。
「きっと疲れも溜まってんだろ。先生には言っといてやるから」
「・・・・・・うん・・・・・・ごめん・・・・・・」
 斗音としては、何も考えたり思うところがあったわけでもなく、ごく自然に出た言葉だったのだが、次の瞬間、目を覆っていた手首を強い力でつかまれた。抵抗とかそんなこと思う間もなく、引き剥がされて、見慣れたすごく整った顔が眼前に迫り、さらさらの淡紫色の髪が触れ、斗音の頬をくすぐった。
「・・・・・・あら・・・し・・・・・・?」
「馬鹿」
「・・・・・・」
 翔一郎も瞬も、凍りついたように固まる。慈恩は微かに目を伏せた。
「お前、何か悪いことしたのかよ」
「・・・・・・」
 嵐の目は驚くほど真剣で、斗音はその澄んだ目に、思わず恐れながら見とれた。嵐が真剣に怒っている。
「誰も迷惑だとか、困るとか、そんなこと思ってねえだろ。みんなお前が大事で、お前が好きだからこうやって、一人で済むところ四人もくっついてきてんだろ」
「嵐、よせよ」
 翔一郎がその肩を軽くつかむが、嵐は動かない。
「卑屈になるな。お前が引け目を感じなきゃいけないことなんて何もない。いいか、同情なんかじゃない。これが斗音で、こんなところも含めてみんなお前についてきてるんだ。間違うな」
「もういいよ、嵐」

 優しい低音が、その場の空気を和らげた。慈恩が微笑を浮かべて斗音をのぞき込んでいる。
「・・・・・・斗音はよく解ってるはずだ。それでも俺たちが斗音を思うのと同じくらい、斗音も俺たちのことを思ってる。だから、手を掛けさせてしまったと感じてしまう。・・・・・・嵐のもどかしさは、十分伝わってると思うよ」
 嵐は、強く握っていた華奢な手首を解放した。
「俺、言いたいことはずけずけ言うから。傷ついてたらごめんな、斗音」
 嵐の端正な顔が、悲しみの成分を含んだ。
「でも、お前のつらそうな顔、見たくねえよ。・・・・・・無理するな」

 しばらく、薄茶の大きな目を瞬かせていた斗音だったが、にこ、と微笑んだ。
「そうだな。俺がみんなに言わなきゃいけなかったのは・・・・・・ありがとう、だ」
 瞬がふわりと微笑んで、翔一郎と嵐も視線を合わせて微笑した。慈恩が持ってきていた斗音の携帯を、手に握らせた。
「さっき瞬が連絡くれて、助かった。安江先生が来るまでに何かあったら、すぐ連絡しろよ」

「うん」
 HRのための予鈴がなる。四人は最後まで斗音の容態を気にしながら、それぞれの教室へ戻っていった。

 斗音は白い天井を見上げて、用心しながら深く息を吸い込み、溜息をつく。
「こんなに情けないのは、久しぶりだな」
 擦れた声で独語する。目を閉じて思い起こすのは、朝の風景の一場面。学習面で慈恩に抜かれたことは、小学校五年生以来だった。唯一これだけは弟に負けないと思っていたもので、瞬の言ったとおり、正直かなりショックだった。何より、慈恩は剣道で部長のしごきを受け、休日返上の練習をしていたのだ。それなのに自分が敵わなかったということがショックだった。瞬間的にものすごく精神的な圧迫感を感じた。と思ったら、朝不完全な発作のおさまり方をしていたせいもあってなのか、いきなり気管に異物による粘膜が発生したのだ。
(慈恩は俺が成績で抜いたとき、心から喜んでくれた。なのに、俺のこの心の狭さって何。最低だ)
 まだ喉の奥が不快だった。そんな自分が不快だった。心の中を虚しさのようなものが駆け抜ける。
 やがてHRの始まったことを告げるチャイムが鳴り、養護教諭の安江がやってきた。
「発作を起こしたんですって?運動してたわけじゃないのに、珍しいわね。昨日よく眠れた?」
 ソバージュのかかった茶色の髪をきちんとまとめ、眼鏡をかけているこの三十路後半の女性は、斗音のことをよく知っている。一年の頃から発作で何度かここに来ているため、よく雑談をするのだ。
「・・・・・・眠れ・・・・・・てないかも」
「あら、どうしたの?また本でも読んでた?」
「いや・・・・・・なんか週末は色々あって」
 斗音は微苦笑した。
「気遣いしたから疲れたと思ったんですけど、何だか眠れなかったんです。でも、発作起こしたのは、朝ちょっとした事で埃を吸い込んじゃって・・・・・・発作のおさまりが不完全なまま登校したからかもしれません」
 眼鏡の奥の優しげな瞳を心配げに翳らせる。
「疲れが溜まってるんじゃないの?精神的に疲れたのに眠れなかったんでしょ?朝の発作もそのことから来てるかもしれないわ。この短時間で二度も発作を起こしてるんじゃ、今日はあまり無理できないわね」
「・・・・・・・・・・・・」
 斗音の表情が曇る。それに気づいて、安江はなだめるように言った。

「先生、今日はこれからすぐに出張で一日いないのよ。今、斗音くんが来てるって聞いて慌てて来たんだけど・・・・・・。だから、もし次発作が起きたりしても、処置してあげられないわ。今日は家でゆっくり休んだ方がいいわよ」
「家・・・・・・ですか」
「学校は何かと不慮の事故も起こりやすいし、気をつけていても周りから何かきっかけになるものを与えられることもあるわ」
 とは言っても、斗音は家に帰っても一人きりだ。その方がよほど発作のとき心細いのだが、養護教諭の言うことも一理あった。少なくとも、今自分がここで寝ているのはそのせいだった。
「なんなら、慈恩くんも特例で早退にしてもらったらいいわ。この学校、そういうことには理解あるから。そうしましょうか」
 思いついたようにポン、と手を打って、安江が提案した。その案にかなり自信があるようで、既に斗音に求めているのは同意である。斗音は焦って首を横に振った。
「いえ、俺は自業自得でいいんですけど、それで授業遅れて困るのは慈恩だし・・・・・・そんなことさせたくないです。俺は一人で帰れますし、じっと寝てれば発作が起こったりすること、まずないですから」

 今までだって、斗音が休んで慈恩が学校に来ていることだってある。こんなことで慈恩の手を煩わせたくなかった。弟の足枷になるのが怖かった。
 
安江はちょっと肩をすくめる仕草を見せた。
「そう?分かったわ。じゃあ、今日はもう帰りなさい。何かあったら携帯ですぐに慈恩くんに知らせるのよ。荷物を持ってきてもらえるように、担任の先生に頼んでおくわ」
 まだ学校に来て一時間もたたないというのに、あっという間に早退させられることが決定してしまった。恐らくそうなるだろうとは思っていたが、やはり気落ちしてしまう斗音である。
「じゃあ、先生準備もしなきゃいけないし、連絡がてら職員室まで行ってくるわ。一時間目が始まるまでには戻ってくるから、しばらく休んでて」
「はい、よろしくお願いします」

 忙しそうに小走りで行く安江を見て、斗音は小さく吐息して目を閉じた。
(仕方ない。先生も忙しいのに、このままじゃ本当に迷惑掛けちゃうし)

 そのとき、カラカラ、と扉の開く音がして、斗音は一瞬先生が戻ってきたのかと思って入り口を見た。
「・・・・・・・・・・・・椎名・・・・・・斗音か・・・・・・」
 しかし、目に映ったのは予想外の人物だった。シャツのボタンは留めずに、その下に着た黒のノースリーブシャツの上に羽織っているだけの状態、そのシャツの裾からのぞくベルトはごてごてと金属で飾られ、かなりウエストより低い位置にゆるく巻きついている。ピアスだらけの耳は相変わらずだ。どうやら遅刻の常習犯なのであろう。HRが終わるまで、いつもこの保健室で過ごしているに違いない。さも当然のように入ってきて、ベッドの近くに置いてあるソファに、大して重くもなさそうな薄っぺらなかばんを下ろし、腰かける。
「・・・・・・朝っぱらから景気の悪そうな顔色してんだな。発作でも起こしたのか」
 低い声でぼそぼそと、うつむいて長い前髪で目を隠すようにして、彼はつぶやくように言う。
「ええ、不本意ながら。・・・・・・瓜生先輩はよくここにいらっしゃるんですか」

 名を呼ばれて、遅刻常習犯は淡い自嘲を浮かべた。
「HRってやつが面倒でな。出る気になれねえ。俺はこの程度の人間だ」

「・・・・・・・・・・・・」
 茶色くした張りのある長めの髪をがしがしと乱すようにして、言いにくそうに瓜生が目を逸らす。
「・・・・・・あの時の火傷の傷、どうなった?」
 瓜生が今でもそのことに責任と負い目を感じているのが、よく分かった。斗音は思わず微笑する。
「もうあれから二ヶ月弱です。とっくに完治してますよ」

 ほら、とボタンの外れている襟元を広げて見せる。瓜生は言われて、白く浮き出た鎖骨の辺りを覗き込んでから、眉をしかめた。
「痕、残っちまったな」
「微かにですから、別に気にもなりません」
「・・・・・・・・・・・・・・・そうか」
 かなり躊躇ってから、瓜生はそうつぶやいた。斗音が気を遣っているのだと感じているようだ。斗音にしてみれば、ほぼ本音だったが。
「・・・・・・もういい、閉じておけ」
 開いた斗音の襟元を片手でつかむようにして、瓜生が傷を隠す。そして、今度は妙に居心地の悪そうな顔になった。
「お前、そういうのやめたほうがいいぞ」
「は・・・・・・?」
 思わず聞き返した斗音に、ますますバツの悪そうな表情を浮かべる。
「俺はあんまりそういうのに興味はないつもりだけど、むやみに見せねえ方がいいかもな」
 うーん、と、斗音は喉の奥でつぶやいた。瓜生が何を言っているのか、よく分からない。じれったそうに、瓜生は茶髪の頭をがしがし掻いた。
「見る奴が見たら興奮するって言ってんだ」
「・・・・・・はぁ・・・・・・」
 分かったのか分かっていないのか、どうも鈍感っぽい返事に、瓜生の口から溜息がこぼれた。
「襲われても知らねえぞ」

 誰が、誰に、と聞きたいのを、斗音は抑えた。弟と同じく、自分の魅力については無頓着な上に鈍感な斗音であった。気をつけます、と、とりあえずは返事を返す。瓜生にしても、あまり力説する義務もないし、そうすることでもないと思ったのだろう。それ以上突っ込みはしなかった。
 そうこうする内にHR終了を告げるチャイムが鳴り、養護教諭と、斗音の荷物を持った翔一郎と瞬と、そして斗音の早退を知った慈恩と嵐がほぼ同時に、慌しく保健室に戻ってきた。そして、それと引き換えに瓜生は黙ったまま出て行った。

(ちぇー、うちに帰ったって、ほんとに寝るしかないじゃん)
 とりあえず無事に家まで帰ってきたのはいいが、ベッドに入る気にもなれずにソファで横になって、斗音は溜息をついた。制服は着替えたものの、パジャマも着たくなかったし、ラフな普段着である。テレビをつけたら、時代劇の再放送やワイドショー、テレビショッピングなど、奥様向け番組ばかりである。またまた溜息をこぼして、斗音はテレビの電源を切った。
(時間もったいないなあ・・・・・・。如月祭前の取り組みの提案も、慈恩に任せてきちゃったし、宿題出る前に帰ってきちゃったし。本くらいなら読んでもいいかなあ・・・・・・)
 ひょこっと起き上がって、自分の部屋から買いだめしたもののなかなか読めずにいる小説をどっさりと、薄い上布団を居間に運んでくる。
 寝転がってクッションを枕代わりにして、気休めの布団をかぶって、本が読める体勢を整える。そして読みかけのページをめくった瞬間、ぴろろろろ、ぴろろろろ、と電話に呼び出された。
「・・・・・・」
 せっかくこれから読もうという時に、と、斗音はいささか機嫌を悪くしながら起き上がり、棚の上の子機を取った。
「はい、椎名です」
『あら、いらっしゃったんですの』
 いきなり非常識な台詞を耳にして、斗音はますます不愉快になる。いて悪かったな、いないと思ってるなら掛けてくるな、などと思いながら返した。
「どちら様ですか」
『九条と申します。貴方が慈恩さん?』

 九条、という名字には心当たりがあるのだが、この声や話しぶりには全く覚えがない。少なくとも絢音や雅成であれば、こんな聞き方はしないだろう。それに、何だかとっても気に障る言い方である。斗音はだんだん腹が立ってきた。
「いえ、慈恩は学校に行っていますが」
『あら、じゃあ貴方がお兄さんの斗音さん?学校の時間に、一体何をなさってらっしゃるの?』
(カッチーン)
 何なんだよこいつは、と、斗音は受話器をまじまじと見つめた。普段なら学校に行っている時間に掛けてきておいて、この言い草はないだろう。
「ちょっと体調を崩して、今早退してきたところです」
 それでもなるべく不機嫌さを表に出さないように心がけて答えた斗音は、更に報われない結果に見舞われた。
『この時間で早退?だったら最初から行かない方がよろしかったんじゃありませんこと?』
「うるさいな、何が言いたいんだよっ!!」
 思わず斗音は心の声を外に出した。それでも受話器の下をきっちり押さえている辺りが、斗音である。慈恩なら間違いなくもう少し丁寧に、相手に聞こえるように言うだろうし、嵐ならもっと苛烈な言葉を敢えて相手に聞かせているであろう。
 斗音の声が聞こえなかった相手は、どうやらその無音の時間を気にした様子もなく、続けた。

『私、絢音さんの叔母の美弥子と申します。あなた方兄弟のおかげで、今九条家は大騒動ですわ。そのことでちょっとお話がありましたの』
 あまりにも突飛で不穏な話に、斗音は今までの不快感を疑問と不安にすり替えられた。
「すみません、ちょっとお話がよく分からないのですが・・・・・・」
 すると、相手は失礼なほど呆れかえったような声を返してきた。
『分からないわけありませんわ。養子の件に決まってるじゃありませんか』
 その一言で、斗音は今までの不安と疑問がひとつの糸のようにつながったような気がした。殊更絢音が慈恩に近づく理由、慈恩が何か言いたそうにしていたけれど、結局言わずじまいだったこと。絢音たちが自分に会いたいと言ってきたこと。自分が聞かされていなかった計画が、自分の知らないところで、自分を少なからず巻き込んで勝手に動いている。斗音はひどい寒気を背筋に感じ、思わず身震いした。
「・・・・・・あいにく、身に覚えのない話で、残念ながらやはり僕には分かりません。一体どういうことですか」
 知ることはとても怖かった。できれば知らないでいたかった。でも、自分が知らないままに自分の望まない結果になることを、斗音は望まなかった。計画が動いているのであれば、正確にそれを知った上で、自分の身の振り方を考えるべきだった。
 そんな斗音の心の葛藤を知るはずもない相手は、まあ、そうなの、とちょっと意外そうにつぶやいた。

『絢音さん、まだ言ってらっしゃらなかったのね。まあいいですわ。どうせそのうち知ることになるんですもの』
 そう言って、九条美弥子と名乗る女性は斗音に何の躊躇いもなく、話し始めた。絢音たち夫妻は九条本家の跡取りであり、子供がいないことで悩んでいること。慈恩と斗音を養子に迎えたいと頑固に言い張っていること。しかし、一番の権力者である九条重盛が、斗音の外見に外国の血をはっきりと認め、それゆえ家に迎えることを頑として許さないでいること。そして・・・慈恩が九条家の血を継いでいる、正当な九条の後継者であることを。
 全身の力がことごとく抜けていくようで、言うことを聞かない膝が、カクンと折れて、斗音は床にへたり込んでいた。嘘だ、と言いたかった。でも、斗音の本能が告げていた。これは真実なのだと。
 何もかも、つじつまが合っていた。あまりにも似ていない双子。外見も体質も、得意なことも。いとも簡単に、全く望んでいなかった事実によって、全てが当たり前になって曝け出された。
(・・・・・・・・・・・・慈恩・・・・・・)
 いつの間にか目の前がぼんやりかすんでいた。パタパタと膝の上に雫の染みが増えていく。
『斗音さん?聞いてらっしゃるの?』
 気遣いの欠片もないという容赦ない声が、斗音の精神を攻め立てた。斗音はまるで抜け殻の人形のように、微かに唇を動かした。

「・・・・・・聞いてます」
『あらそう?それで、九条家を絶やすわけにはいきませんのよ。絢音さんも一人娘だし、分家は今更本家に入ることは許されないし、九条家が途絶えたりしたら、大変なことですわ。ですから、貴方にお願いがあるんです』
 べらべらとよく喋る。煩わしい、と、斗音は頭の片隅で思った。
『貴方、絢音さんの養子を辞退していただけませんこと?絢音さんがどんなに頑固におっしゃっていても、本人にその気がなければ養子は成り立ちませんわ。お父様とこれ以上こじれて、絢音さんが家を飛び出したりしても困るし、貴方さえ辞退してくだされば、万事上手くいくのです』
(もういい、聞きたくない。うるさい)
『ちゃんと九条の血筋は残るし、親御さんがいらっしゃらない慈恩さんは本当のお母さんの元に帰れるし、もっともっと理想的に剣道も練習できるし、大学も選び放題ですわ。それこそ、海外留学だって。今のあなた方の生活では、そこまで望めませんでしょう?逆に貴方は一人になる分、使えるお金も倍になるわけですし、もう高校生だし、一人暮らしでも構わないでしょう?ねえ、斗音さん。そうなさいませんこと?』
(うるさい、うるさい、うるさい・・・・・・・・・)
『ちょっと、聞いてらっしゃ』
「分かりました。そうすればいいんですね」
 ぶつっ。

 「切」のボタンがめり込むほど強く押し続けた。涙の染みは、途切れることなく一粒分ずつ面積を広げ続けていた。やっと煩わしい声が聞こえていないことに気づいて、指を緩める。途端、またコールが鳴る。瞬間、手を伸ばした斗音は、親機の電話線を引き抜いていた。コールがブツリと止まる。

 どれだけの間、放心していただろう。一時間にも思えるし、ほんの数分のような気もする。もう、何も考えたくなかった。頭の芯が焼き切れそうだった。
「・・・・・・・・・・・・慈・・・・・・恩・・・・・・・・・・・・」
 そっと、つぶやいてみた。なぜか声が出なかった。ずっと泣き続けているせいだろうか。泣く気力なんてどこにもないのに、涙は溢れて止まらない。
 どうしてこんな時に傍にいないのだろう。一番いて欲しい時に。
(当たり前だろ、今学校にいる。自分でそう望んだ)
 何が何だか分からない。何も信じられない。今まで信じてきたものが、引きちぎられてしまった気がする。
「・・・っごほ・・・・・・っぐ・・・・・・」
 息苦しい。苦しい、苦しい、苦しい。
(慈恩・・・・・・・・・助けて・・・・・・苦しい・・・・・・)
 双子じゃない。弟じゃない。慈恩が自分を助ける義理なんて、どこにもない。どこにも。
 気管がヒューヒューと音を立て、嫌な音で咳き込む。苦しくて、その息苦しさを引き剥がさんと、思わず力任せに喉をかきむしった。ずるりと指が滑った気がした。でも、薬を取りに部屋まで行く力は、心身のどこを探してもなかった。
(誰もいない・・・・・・このままにしておいたら、死ぬのかな・・・・・・)
 苦しさに喘ぎながら、頭の片隅でぼんやりとそんなことを思う。首が何だか、どくん、どくんと鼓動を訴えている。斗音は身体が求めるまま、床に倒れこんだ。目に、自分の指が映った。
 
赤かった。
(・・・・・・死ぬなら、その前に慈恩に会いたいなあ・・・・・・・・・・・・)
 今度は絨毯に、次々と染みが作られていく。息ができない。もう、苦しいなんてものはとうに越えている。いっそ死んだほうがまだましだろう。
(最後まで情けない兄貴だな・・・・・・ああ、兄貴じゃないんだっけ・・・・・・)
 ドン、と、床が何かの衝撃の音を伝えた。苦しくて暴れて、何か落としたかもしれない。割れていなければいいが。どうやら意識が朦朧としているらしい。現実かどうかもよく分からない。
(気を失ったら、楽になるのに・・・・・・でも、その間に死んでるかも・・・・・・)
 いきなり身体が、強い力にぐいっと引き起こされた。少しだけ意識がはっきりする。
「斗音っっ!!」
(・・・・・・あ、すごい。会いたいと思ったら、ほんとに慈恩がいる。・・・・・・夢?)
 口に何かを押し当てられて、肩をきつく締め付けられる。苦しくて、斗音はなけなしの力でもがく。
「馬鹿、じっとしてろ!」
(何言ってんだ、苦しいのに・・・・・・)
 押し当てられたものを振り払おうとする。
「斗音!!」
 悲鳴に近い声で名を叫ばれて、腕が動かなくなった。強い力。斗音は諦めて力を抜いた。何だか、少しだけ、酸素が吸える気がする。やっと、それが薬のおかげだと理解できた。
 徐々に発作がおさまり、呼吸の苦しさから開放された斗音は、ぎりぎりのところで支えていた気力がぷっつりと途切れて、闇に意識を飲み込まれた。

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