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十.受け入れられない血

 日差しとともに、蝉の声が日増しに強くなってきている。七月も中旬に差し掛かってきた土曜日。如月高校はひとまず如月祭に向けての流れも落ち着いて、今はインターハイに向けて部活の活気が最高潮になっていた。
「キャ―っ東雲先輩――っ!」
「椎名くん、素敵っっ!!」
「羽澄く――ん、こっち向いてっ!」
「樋口くん、可愛いっ!」
「東雲くん、かっこいいっ!頑張ってぇっ!」
 バスケ部男子がバッシュで床をこする音とともに、機敏に動き回っている体育館の入り口付近。インターハイに無関係な文化系の部活の女子がたむろっている。たむろうだけならまだしも、黄色い歓声が先ほどからやまない。部長の徳本はハーフタイムの合図とともに、嵐の肩をたたいた。嵐が振り返ると、徳本が笑みを引きつらせていた。
「東雲、あいつら追い払え」
 嵐が口を尖らせる。
「何で俺が」
「お前への声援が一番多い」
「で、俺に嫌われてこいと?」
「その方がまだ静かになるだろ」
 それはともかく、嵐への声援が一番多いのであれば、嵐が女子軍団に丁重に声を掛けるのが一番効果的だろう。嵐は深く溜息をついた。そして億劫そうに入り口まで歩み寄る。きゃあ、と大小の悲鳴がまばらに起こる。
「あのさ、応援してくれるのはありがたいんだけど、見ての通り今追い込みかけてるから。集中させてもらえねえかな。ここまで言えば、どうして欲しいか言わなくても分かってもらえるよな?」
 相手は如月の生徒。女子であっても自分の賢さとか、理解力にプライドを持っている。そこに訴えかけてみた嵐である。しかし如何せん、徳本ならずともこの歓声に迷惑をこうむっているわけで、優しげな言葉の中に、皮肉の欠片がちらついていた。敏感な女の子の何人かが、びくっと表情を固まらせる。
「応援、ありがとうございます。今が正念場だから、頑張って欲しいと思ってくれる気持ち、すごく嬉しい」
 嵐の後ろからハスキーボイスが優しく届き、固まった女の子たちの表情から、不安や怯えを消した。嵐が振り返るのと同時に、斗音がひょこ、と顔をのぞかせる。そして一人の女生徒に視線を向けた。

「特に、原田先輩。真剣に俺たちのこと見ててくれるの、分かりました。言葉にはしてなかったけど、すごく一生懸命応援してくださって。原田先輩は、いつもそうですよね。だからかえって覚えちゃいました。ありがとうございます」
 にっこりと微笑む。名前を言われたのは、一言も声を出せず、ぎゅっと手を握り締めて白熱した練習の様子を見ていた三年の女子だった。驚いたように瞬きをし、頬を染める。その様子を見ていた周りの女子軍団は、心の底から羨ましげに彼女を見つめた。
「行こ、嵐。ハーフタイムったって、そんなに取ってもらえないよ」
 嵐の腕を引っ張って、それじゃ、とまたにっこり。女の子たちの間から、熱い吐息がこぼれた。
 ハーフタイムが終わり、紅白戦が再開されたとき、黄色い声援はひとつも飛ばなかった。女子軍団は真剣に心の中で応援することにしたらしい。
「さすが副会長。外交担当は嵐の上を行く、か」

 ダンクを決めても小さな歓声が起こっただけで、一年生部員の掛け声に掻き消されたのを目の当たりにした翔一郎が、感心したようにつぶやいた。味方として近くを走っていた嵐がそれを耳にして、ああ、と嬉しそうに笑った。

「めぇぇぇぇぇんっ」
 ぱしいんっ、と、再び竹刀の打ち合わされる音と、ぱぁんっと防具が弾かれる音は、ほぼ同時。
「胴っ」
 更に同時に短く鋭い声が飛んだ。
「胴あり、一本!椎名!」
 きゃあっ、と格技場一階の入り口付近で悲鳴に近い歓声が上がる。途端、怒声とも罵声とも言えそうな近藤の声が道場を突き抜けんばかりの勢いでその歓声を打ち砕いた。
「やかましい、失せろ!!」
 歓声を上げた女子生徒たちはたちまち縮こまって、こそっとドアの影に身を潜める。それを確認してから、近藤は竹刀を引いて戻し、礼をする。慈恩もそれに合わせて竹刀を納め、礼をした。
「くそぅ、面返し胴か。基本の動きがきっちりできてやがる」
 悔しそうなその台詞に、審判をしていた田近は心の中でぶんぶん首を振る。
(ただの面返しじゃねえよ。滅茶苦茶早えって)
「力任せに打ってくるから、すり上げるつもりがちょっと弾かれそうになりました。相変わらず力強いですね」
「ちっ、それを〇コンマ何秒で流しやがるくせに、よく言うぜ」
「気が散る歓声を見事に退散させる技は、及びませんよ」
 慈恩がくすくすと笑った。近藤は、ふん、と息を吐き捨てた。
「ちっとも嬉しくねえよ」

「そうですか?褒めてるんですけど」
(部長をからかってるっっ!!)
 田近は恐れおののくが、慈恩はいつもどおりというか、和やか(?)に部長と話している。
(それにしても、慈恩の人気はとどまるところを知らないよな。前は黒髪の美女、今は数少ない如月の女子か)
 思ってから、田近はふとつぶやく。
「そういや最近見ないな・・・・・・」
「何を?」
 田近の独り言に反応したのは、当の慈恩である。田近は軽くうなずいた。
「黒髪の美人さ。結局、誰のこと見てたんだろうな」
 慈恩は苦笑するしかなかった。田近はその笑みを相槌代わりと取ったのか、肩をすくめた。
「俺はお前だと思うけどなあ。お前か部長には違いないだろ。でも部長は見てくれ悪くないけど、おっかねえもん。女子にだってあの調子だしさ。あんな野獣に惚れる女なんて、物好きの部類に属すると思わねえ?」

 思う、と言ったりして、それがばれたらまた近藤にどんなしごきを受けるやら。慈恩は重ねて苦笑した。

 部活を終えて、斗音は格技場で慈恩と落ち合い、シャワーを借りて夏服に変わっている制服に着替えた。校章の繊細な白鷺が襟元に羽ばたいている。
「慈恩、この前買ってもらったシャツとか着てきたほうがよかったんじゃない?」
 同じく制服に着替えた慈恩に、斗音が声を掛ける。
「学校からそんな格好で出られるわけないだろ。いったん家に帰って着替えるのがベストだけど、昼までに待ち合わせ場所に行こうとすると、間に合わないんだ」
 器用にネクタイを結びながら、慈恩が返した。ふうん、と斗音がつぶやく。
 電車で一駅通過したところの、いつものレストラン。最初はいつもここからだった。
 電車を降りて歩きながら、斗音は少々緊張気味のようだ。
「あんまり詳しいこと聞いてないけどさ、その九条さんって人、結局慈恩のことがお気に入りだったんだろ?だからいつも誘ってくれるんだろうけど、俺にも会いたいってのが何かよく分かんないんだよ」
 慈恩は困ったように苦笑した。結局、慈恩は斗音に養子の件を切り出さなかった。ただ、いつも自分が誘われている絢音が、斗音にも会ってみたいと言っている、と、それだけを告げた。何だかそれこそ慈恩にもよく分からないのだが、胸に渦巻く重苦しさみたいなものがあって、人は恐らくそれを不安、と呼ぶのだろうと、改めて慈恩は感じたのだ。何の不安なのかはさっぱり分からない。でも、とにかく斗音に話すのが躊躇われたのは確かだ。
「慈恩、九条さんに何か変なこと吹き込んだんじゃないの?」
「変なことは言ってないぞ。ありのままを言っただけで」
「なんて言ったの?」
「いや・・・・・・器の大きいやつだってことくらいか?でも、その前からお前にも興味あったような気がする」
「どこがありのままなんだよ。それに俺、九条さんには会ったことないし、見たこともないけど」
「まあ、そうなんだけど」
 レストランの入り口を慈恩がくぐろうとすると、斗音はぎょっとして立ち止まった。
「え、ここ?ここって、このカッコでいいわけ?」
「いつもは一人でそう思ってる。今日は心強いよ」
「えー、やっぱ着替えてくるべきだったんじゃないの?」
「待たせる方が悪いだろ」
「それもそうだけど・・・・・・」
 慈恩はだいぶ慣れてきているので、それほど躊躇いはない。さっさと入っていくので、斗音はついていくしかなかった。
「いらっしゃいませ。椎名様、お待ちしておりました。どうぞ」
 いつも通りの丁寧な対応で、いつも通りの席に案内される。そこに、慈恩はいつもの美しい女性と、初めて見る優しげな男性を、斗音は初めて見る噂の女性と、やはり初めて見る誠実そうな男性を見つけた。

「お待たせしてすみません」
 慈恩が軽く頭を下げ、斗音が続く。絢音はしなやかな動作で男性を促して立ち、にっこり微笑んだ。
「来て下さってありがとう、慈恩さん。そして、お会いできて光栄ですわ、斗音さん」
 斗音は丁寧にお辞儀して、にこりと微笑みを載せる。
「お誘いいただいてありがとうございます。慈恩がいつもお世話になってます」
「まあ、お世話だなんて、とんでもないわ。私が無理を言ってご迷惑をお掛けしてますのよ。九条絢音と申します。今日は貴方にまで無理をさせてしまって、ごめんなさいね。こちらは私の夫、雅成です」
 ブルーのミクロ単位のチェックになっている半そでのカッターシャツに上品な紺のパンツと、飾らない格好だが、身につけているもの一つ一つに高級感を漂わせている雅成が、優しく微笑して、会釈する。
「いつも絢音がご迷惑を。慈恩くんと斗音くんのことは、いつも絢音から聞いてます。これでもかって言うくらい」
 おどけた感じで言うので、思わずそれぞれが笑みをこぼす。一気に場が和んだ。
「絢音がそこまで入れ込む君たちに会えて、本当に光栄だよ。よろしく。さ、立ち話もなんだから、掛けて」
 お坊ちゃま育ちには間違いないのだろうが、深層の令嬢である絢音とは違って、それなりに社会性を身につけている雅成は、椎名兄弟をずいぶんリラックスさせてくれた。
「何はともあれ、まずは注文にしよう。話は待ってる間にもできるからね。何でも好きなものを頼むといいよ。今日はちゃんと稼いでるスポンサーがついてるから、心配要らない」
 慈恩が思わず苦笑する。いつも主婦である絢音にお金を使わせることに、気兼ねを覚えていたからだ。それすらも、この雅成はよく分かっているようだ。メニューを見てかなりひいていた斗音も、躊躇いがちにではあるが、慈恩と頼みたいものを相談することができた。
 色々注文をしてから、まず慈恩が絢音と雅成に遠まわしに牽制を入れた。
「すみません、俺斗音には九条さんが会いたがってらっしゃるとしか伝えていません。だから、九条さんご夫妻のことは何も知らないままです」
 養子の件のことを、伝えていないということ、そして今はまだそのことについて触れて欲しくないのだということを言外に含ませたのだ。果たしてそれで九条夫妻が理解してくれるかは賭けだったが、雅成はすぐに優しく笑ってうなずいたし、絢音もずっと躊躇っていた慈恩のことを知っていたので、ふわりと笑った。
「あら、全然構いませんわ。だって初対面なんですもの。私が剣道をやってらっしゃる慈恩さんを見て勝手に励まされて、お話を聞くに連れてそのお兄さんにもお会いしたいと思うようになって、わがままを申し上げただけですもの。ね、斗音さん。男の子にこんなこと言うのはどうかと思うんですけれど、ほんと、お綺麗ですわね」
 斗音は困惑したように笑う。雅成が苦笑した。
「絢音、確かにそれはどうかと思うよ。でも、二人ともルックスがいいし、賢そうだし、生徒会の執行部をやってるんだって?モテるんじゃないかい?」
 椎名兄弟が顔を見合わせる。そして同時に互いを指差した。
「斗音は確かに人気者です」
「慈恩はモテますよ」
 言うのも同時。今度は絢音と雅成が顔を見合わせて、くすくすと笑った。
「人のことはよく見てるものなんだね。見かけがあまり双子っぽくないから、最初は信じられなかったけど、確かに双子だね」
「よく言われます」

 斗音が照れ笑いを浮かべながら返す。慈恩は苦笑である。
「彼女、いるの?」
 二人が首を振るのを見て、雅成は肩をすくめた。
「もったいない。どうして?如月は女の子が少ないって聞くけど、そのせい?」
「忙しいのもありますし。今は執行部と部活と勉強で手一杯です」
「やっぱり言うことが違うなあ、優秀な子は。僕もそういう台詞、言ってみたかったよ、現役時代に」
 四人の間に楽しそうな笑い声が上がった。その時、ふと斗音が後ろを振り返る。
「どうした?」
 慈恩の声に、斗音はちょっと首をかしげて答えた。
「何だろ、今見られてた気がしたんだ」
「お二人があんまり見目麗しくていらっしゃるから、店内のご婦人方が見とれていらっしゃったかもしれませんわね」
 絢音が鈴を転がすような声音で笑う。慈恩と雅成はつられて笑い、斗音だけは首をかしげたまま不思議そうにしていた。
 イタリアンの要素たっぷりの食事は、いつもながら豪華だった。アンティパストの盛り合わせでは、サーモンのクリームチーズ和えやかぼちゃのガーリックオイル揚げ、ささみとシメジのトマト煮、ホウレンソウとチーズとベーコンのキッシュなど、どれも美味だったし、小エビとモッツァレラチーズがたっぷりのった野菜中心の大皿サラダ、そら豆のクリームポタージュ、ウニとトリュフのクリームソースに絡めたニョッキ、夏野菜とキノコのオイルソースパスタ、生ハムと半熟卵のピザ、ワタリガニのトマトクリームパスタ、牛頬肉の赤ワイン煮込み、舌平目のソテーと続々運ばれてくるものどれも絶品で、慈恩はいつもながら一つ一つの食材の使い方や味付けの仕方、調理の丁寧さに感心したし、斗音は純粋にその美味しさに驚きを隠せなかった。
 二時間近くかけてそれらを十分に味わい、四人は腹ごなしにショッピングに出かけた。これもいつものコースである。慈恩はあまり気乗りしなかったが、九条夫妻がどうしてもと言うから、行かざるを得なかった。
「斗音さんは、どんなことに興味を持ってらっしゃるの?」
 問われて斗音は首をひねる。
「今は専らバスケですね。でも、音楽も好きです」
「音楽?どんな音楽を聴かれるの?」
「普通の流行とか、クラッシックも好きです」
「あら、お若いのに素敵な感性をお持ちなのね」
 ちょっと感心気味の絢音に、慈恩が付け加える。
「斗音はピアノを弾くんです。だからクラッシックにも興味があるんですよ」
 今度は雅成が感心する。
「そうなのかい?習ってたの?」
 斗音が少し、寂しげに笑った。
「ええ、小学校五年生から、少し。弾くと母が喜んでくれたので・・・・・・」
 慈恩はそんな斗音のアッシュの髪をくしゃくしゃと乱して、口を添えた。

「母が亡くなって、しばらく弾けなくなってしまったので、それ以来習ってはいません。自己流で今は気が向いた時に弾く程度ですけど」
 申し訳なさそうに雅成が黒い長めの髪に手をやった。
「そうか、すまない、無神経なことを聞いてしまったね」
「いえ、構いません。今でもやっぱり、弾くのは好きですから」
 にっこり斗音が笑うのを見て、慈恩もふっと微笑んだ。それを見た雅成は、斗音の精神的な強さと、それを見守る慈恩の優しさに、少なからず胸を打たれた。
 百貨店を、特に目的もなく歩き回っているうちに、楽器を取り扱っている階に出た。中央に大きなグランドピアノがあるのを目にした絢音が、いきなりぽんと手をたたいた。
「ねえ、雅成さん。あれって、弾かせてもらっていいのかしら?」
 雅成は、その周りに展示してある楽器に触れ、音を試している客が何人かいるのを見て、うなずいた。
「よさそうだね。ちょっと訊いてみようか」
 言って、近くの店員に何やら一言二言告げる。店員はうなずいて、こちらに目を向けた。
「どうぞ」
 斗音と慈恩が顔を見合わせる中、絢音が斗音の肩を優しく押した。
「斗音さんのピアノを、ぜひ聴かせて頂きたいわ。ほら、行きましょう」
「え、でも」
「いいのよ、店員さんがいいっておっしゃってるんですもの。せっかくのご厚意ですもの、受けなくては損ですわ。さ」
 促され、斗音は慈恩に目をやる。慈恩は苦笑しながらうなずいた。
「こんな立派なピアノが弾けるチャンス、滅多にないだろ。弾かせてもらうだけなら、ばちは当たらないさ」
 ちょっと躊躇いつつも、斗音は案内されたグランドピアノの前に腰かける。
「何弾こう」
 ポーン、と深みのある響きを伴って、斗音が優しく押したキーが歌うように音を立てる。
「何かお聴きになりたい曲はありますか?」
 慈恩が期待をありありと表情に出している九条夫妻に訪ねる。二人はあれこれ考えて相談していたが、タイタニックのテーマがもし弾けるなら、聴きたい、と申し出た。
「弾ける?」
 斗音はうーんとうなった。

「弾いたことないなあ」

 慈恩が店員を振り返った。
「楽譜をお借りしてもいいですか?」

 店員は笑顔で、ええ、と応え、店の奥からリクエストの品を持ってきた。斗音はそれを受け取り、丁寧に並べる。
「慈恩、めくってくれる」
 弟がうなずいたのを確認してから、軽く深呼吸する。そして、両手を鍵盤の上にそっと載せた。その指が滑るように動いた。美しい響きがなだらかにつながる。周りにいた客が一斉に中央に目を向けた。

 斗音は初めて見る楽譜を真剣に見つめているので、もう周りの視線は感じない。時に優しく、時に激しく、映画で聴き慣れた雄大な音楽が、斗音の白くて長い指先から生まれていく。
 慈恩はある程度弾くことはできるが、それこそ並々でしかない。どちらかというと、自分が弾くよりも、こうして斗音が弾くのを聴いて、楽譜をめくっていた時間の方が多かった。その時間が、慈恩は好きだった。だから、楽譜は読めるし、めくるタイミングもよく分かっていた。
 グランドピアノが、それこそ生きているかのように豊かな感情を持って、一音すら間違えることなくタイタニックのテーマを歌い終えた時、そのフロア一体が自然発生した拍手に包まれていた。そこで初めて斗音は、みんなに見られていたことに気づき、うっすらと白い頬を赤らめる。
「すごい。これが初めて弾いた曲なのかい?信じられないよ」
 雅成が感嘆の声を上げた。絢音もうっとり陶酔してしまっている。周りも、一気に斗音の腕を褒め称えてざわめいた。
「久しぶりに弾いたから、気合入っちゃったよ。うわー、恥ずかしい」
 慌てて立ち上がった斗音が、慈恩に小さくこぼす。慈恩はくすくす笑った。
「かっこよかったぞ、斗音。プロのピアニストみたいだった」
「嘘つけ。いつも見てるくせに」
 頬に更に赤みを増した斗音が、慈恩を小突く。
「本当に、このピアノがお客様のためにあるのかと思うほどでした。お上手でいらっしゃいますね」
 店員は三十代前半くらいの女性だったが、深く溜息をついた。
「すいません、売り物なのに・・・・・・」
「とんでもございません。逆に宣伝になったと思います」
 まだ拍手をやめない絢音が、斗音に近づいてその手を目の前で組み合わせた。
「素晴らしい演奏でしたわ。私、感動してしまって。実は私も幼い頃ピアノをさせられておりましたの。でも、私にはその手の才能がそれほどあったわけではなくて・・・・・・。ご大層なグランドピアノが宝の持ち腐れになってるんです。ね、あなたのお家にあるピアノはどんな型のものですの?」
「ええと、小さい頃に退屈しのぎに買ってもらったものでしたから、小型の・・・・・・アップライトピアノです。詳しい型はよく分かりませんが」
 まだ頬が赤らんだままの斗音が、それでも丁寧に答える。絢音は、組み合わせた手に更に力を込めた。慈恩がその仕草にぎょっとする。
「斗音さん、このピアノ、私からプレゼントさせていただけませんこと?」
 今度は斗音がぎょっとする。
「えぇっ!?な、何をおっしゃるんですか!こんな高価なもの、いただけません!!」

 ついている値札は百八十万円。プレゼントなんて可愛いものではない。しかし絢音は熱に浮かされたように首を振る。
「いいえ、だって今店員さんもおっしゃったわ。このピアノが貴方のためにあるかと思ったって。私もそう思いましたわ。まるで一心同体みたいに・・・・・・このピアノだって、貴方に弾かれた方が幸せです」
「いや、でも家にもピアノありますし・・・・・・」
「グランドピアノは音が違いますもの。それくらい私にも分かりますわ。貴方ほどの腕を持つ方なら、これくらいのピアノでも足りないくらいです」
「そんな・・・・・・」
 滅茶苦茶困惑する斗音に、雅成が溜息をついて額に手を当て、軽く首を振った。こうなったら絢音はなかなか止められない。
「絢音、斗音くんたちにも事情があるんじゃないか?」
 一応水をかけてみたつもりだが、焼け石の絢音には全然効かなかった。
「でももったいないわ。この腕でアップライトピアノなんて。やっぱり、グランドピアノよ」
「あの、でもそういうわけには・・・・・・」

 斗音が口ごもる。そりゃアグランドピアノの弾き心地はよかった。でも、今日初めて会った全くの他人に、そんなもの買ってもらうわけにはいかない。いくら相手が金持ちでも、限度がある。
 
困り果てる兄の肩に優しく手を置いて、慈恩が絢音に微笑みかけた。
「九条さん、お気持ちはありがたいのですが、家には、父と母が遺してくれたピアノがありますから。確かに安物だし、斗音には俺もグランドピアノが似合うと思うんですけど、たぶん斗音は今使ってるピアノに思い入れがあると思います。それに、家にこんな大きなピアノを置くスペースは、ないと思うんですが・・・・・・」
 絢音ははっと正気に戻ったような顔をした。
「そうですわね・・・・・・今使ってらっしゃるピアノには、ご両親の思い出が詰まっているんですものね。そんな宝物を、簡単に新しいものに交換するわけにはいきませんわ。私、また先走ってしまって。お恥ずかしいわ」
 組みっぱなしだった手を解いて、頬に当てる。雅成は思わず心の中で、慈恩に拍手を送った。
「せっかくのご厚意なのに、すみません。でも、斗音はきっとこのピアノを弾けて、嬉しかったと思いますよ。いつも以上に生き生き弾いてましたから。だろ?」
 慈恩のフォローの最後で自分に振られて、斗音は照れたように笑った。
「すごく音が気持ちよかった」
 その笑顔がものすごく可愛らしくて、雅成も絢音も一瞬見とれた。そして、絢音が目をきらきらさせて斗音に微笑みかけた。
「斗音さん、うちで眠ってるピアノがありますから、もしよろしかったらいつでも弾きにいらして。またこうやってお会いできる機会を作りましょう。大歓迎で家にご招待しますわ」

 絢音の「買ってあげたい病」はひとまず治まったようであった。

   ***

いつもなら嬉しくて浮かれっぱなしになるはずの絢音であったが、今日はそうはいかなかった。そして雅成とともに、斗音の鋭さを感じることになったのである。
「絢音さん、はっきりしておいてもらいたいことがあります」
 絢音の母である九条貴美枝は、その台詞から入った。夕食後のコーヒーを、家族みんなで味わっている時だった。その言葉に絢音はぎくりとしたし、雅成は何か嫌な予感を覚えた。絢音の祖父、重盛は不穏な空気を感じ取って、いつも以上にいかめしい顔を構えたし、やはり婿養子であり、あまり九条家では発言権を認められていない絢音の父でさえ、眉根を寄せて、姿勢を正した。
「何でしょう、お母様」
 なるべく普通を装って、絢音は慎重に言葉を選んだ。相手を激昂させてはならない。もし慈恩たちのことで何かがばれたのだとしても、平和に事を運ばねばならなかった。
「最近、よく土日にお出かけになりますね。どこへいらっしゃるのか、正直にお答えになって」
 母の言葉遣いは、絢音よりはるかに丁寧である。その言葉の中に、自分が予想していた通りの非常事態が現れていた。
「ショッピングですわ」
 一応、そう答えてみる。その答えの中に、母の求める答えがないことくらい、分かっている。やはり、母親の反応は予想通りだった。
「あの若い男子高校生たちと、ですか」
 雅成がはっと伏していた目を上げる。「たち」というのなら、現場を見られたのは今日である。それまでは絢音が慈恩一人と会っていただけなのだから。誰かに見られているような気がする、と言っていた斗音の感覚は、正しかったのである。
 絢音は剣呑な雰囲気をその漆黒の目に湛えた。
「こちらが詳しくお聞きしたいですわね、お母様。何を根拠にそのようなことをおっしゃるのか」
 付け回したことを白状しろ、と、絢音が言っているのを雅成は感じた。恐らく、その言葉を受けた方もそう感じているだろう。あとの者がそれに気づいているかどうかは分からないが。母親はそれでもひるまずに答えた。
「その口ぶり、当に私のしたことに気づいているのでしょう」
 言って、一口分のコーヒーを喉に流し込む。そんな仕草ですら、上品極まりない。
「貴女が最近私たちに何かを隠したまま、何か事を進めていることには気づいていました。でも、それが何なのか分かりませんでした。それで少し調べていたのです」
 ひらり、と一枚の写真を出して見せる。パソコンのプリンタから出した映像である。
「それは・・・・・・!」
 思わず声を出したのは、雅成であった。自分のパソコンに、慈恩からメールで送られてきていた如月高校生徒会執行部役員たちの写真である。なぜここに、その写真があるのだろうか。
「今日お会いしていたのは、この中の二人でしたね。絢音さん、この方たちとは一体、どういった関係なんですか?」
 一緒に行ったはずの雅成の発言は必要とされない。いかに己が九条家の中で「おまけ」として扱われているかを、このようなことがあるたびに思い知る。
「知り合いですわ」
 毅然として絢音が答える。

「一月ほど前、素行の悪そうな高校生に、私絡まれたんですわ。その時に助けてくださった方々です。お礼にお食事にお誘いしたんですわ。それからあの方たちの人柄の素晴らしさに惹かれて、こうして時々お会いするようになりましたの」
 事実として嘘はないが、真実ではない。雅成はハラハラしながら成り行きを見守るしかなかった。
「本当にそうかしら。絢音さん、貴女まだ何か隠していませんか?」
「それでは聞きますけれど、お母様。お母様はどこまでご存知なのですか?色々お調べになったんでしょう?」
 だんだん険悪な雰囲気になってきたところに、一体どこに隠していたのやら、貴美枝は何枚かの紙が束になったものをばさりとテーブルの上に置いた。今度こそ、絢音がはっと目を瞠る。それは絢音が内密に探偵を雇って調べさせた慈恩の調書だった。きり、とまなじりを上げて絢音が突っかかる。
「勝手に私の部屋にお入りになりましたのね」
「ええ。こちらとしては、貴女がよく分からない人とお付き合いすることに不安がありましたからね。彼らのことを調べさせるつもりで、その手がかりを探そうとしたんです。でもその必要はなかった、と言うわけですね。貴女はあの方たちと知り合う前から、彼らのことを知っていたのでしょう?」
「お母様」
 それ以上、今の段階で話すつもりはなかった。まだ絢音の計画は中途半端で、慈恩と斗音を養子にするに当たって、相手の思いもまだ分からないし、それを主張する段階でもなかった。だから、食い止めるために絢音が掛けた声は、しかし、厳格な祖父の声のためにその役割を永遠に失った。
「どういうことだ。貴美枝。話しなさい」
 貴美枝は静かに深呼吸した。
「あの黒髪の少年・・・・・・椎名慈恩といいましたか?あの子は、あの時の・・・・・・十七年前に貴女と数学の教師との間に産まれた子・・・・・・そうでしょう?絢音さん」
 絢音と雅成の呼吸は、完全に一時停止した。
「・・・・・・本当なのか、それは」
 重々しく沈黙を置いてから、祖父の声が静かに、だが詰問するように絢音に向かった。絢音は、唇を噛んでしばらく膝の上に置いていた手を握り締めていたが、それでもきっと祖父に視線を向けた。
「今まで、九条家の方々がどれだけ私たち夫婦を追い詰めていらしたか、お分かりにならないとはおっしゃいませんわね、おじい様、お母様」
 意外な反応に、祖父と母親と、それから父親が思わず言葉を見つけられずに戸惑う。その間に、絢音は続けた。

「雅成さんがそのことに気づいていなかったはずもありませんわ。じわじわと真綿で首を絞めるようなやり方で、私たちに子供ができないことをねちねちと毎日のようにおっしゃって。私、もうそんな言葉や視線には耐えられません」
「絢音さん、何てことを」
 母親の言葉は、鋭くとがった絢音の感情に途中から粉砕された。
「何てことを、ですって?十七年前に私にどんな仕打ちをなさったか覚えていらっしゃいませんか。その上家柄だけで雅成さんとの縁談を組んで。それで子供ができなかったら離婚ですって?冗談じゃありませんわ。初めの九条家のもくろみが何であれ、私は雅成さんを愛しています。雅成さんと別れるなんてこと、考えられません。ここまで散々苦しめられて、その上であなた方を納得させるための最善の手段を考えたところで、何てことをなんて言われる筋合いはありませんわ」
「絢音」
 雅成が、絢音の鋭さを包み込むような声音で制止の声をかけた。それ以上言えば、義理の祖父を怒らせることになる。ここは、素直に養子の考えを話す方がいい、と判断した雅成が、自分の発言権の弱さを自覚しつつ、一堂を見回して、静かに切り出した。
「ずっと絢音は苦しんでいました。私と出会った頃から、ずっと。それがなぜなのかを知ったのは、私もごく最近のことですが、九条家の・・・・・・絢音の血を受け継いでいる少年がいるのだと。絢音はその子をこの九条家に迎えたいと考えているのです」
 義祖父と貴美枝の顔がぴくりと動く。
「私は賛成です。未だ、絢音と私には子供がありません。恐らく私にその原因があるのではないかということも、皆さんは感じておられるでしょう。・・・・・・私は絢音の望むようにしたいと思っております。絢音にとって私という存在が重荷であれば、私は九条家を去ったでしょう。けれど、彼女は私と共にあることを望んでくれています。しかしそうあるためには、九条家の跡継ぎが存在することが絶対条件です」
 強張ったオーラが、九条家の中で最も発言権の強い一人と、次に強いもう一人を包んでいる。自分の言葉が遮られずに先を言うように促されているのを感じ、雅成は一呼吸置いて、続けた。
「椎名慈恩・・・・・・彼と、そして彼の双子の兄として育てられてきた斗音くんは、両親を亡くして今二人で生活しています。・・・・・・まだ斗音くんはこのことを知りませんし、慈恩くんも色々考えている段階ですが、彼らが了承してくれたら、私たちは彼らを養子として迎えたいのです」
 貴美枝がパクパクさせた口をようやく落ち着けて、混乱だらけの思考を言葉にした。
「ちょっと待ってください、それでは絢音の過去のことが表向きになってしまうのではありませんか?それに、あなた方の若さで、高校生の子供というのは・・・・・・」
 雅成は息も詰まりそうな貴美枝をそっと手で制した。
「九条家の親類の方々は、十七年前のことを皆さんご存知でいらっしゃると聞いています。今更表向きということはないでしょう。そして、それこそ一般的にはそのような過去は知られていないのですから、親をなくした身寄りのない優秀な少年たちを引き取ったのだと受け止められるはずです。ですから、私たちの年齢で高校生の少年でも、養子なのですから不自然ではありません。対外的には問題ないでしょう」
 それでも何か言いたそうにしているが、何も反論の見つからない貴美枝を置いて、今度は重盛がひとつ、重くうなずいた。
「なるほど。外には美談として映り、内ではしっかり九条家の血はつながると言うわけだな。ただ私としては、彼らが迎えるだけの条件を備えていなければ、その話、認めるわけにはいかん」
 とりあえず、反論されなかったことにほっとして、雅成はうなずいた。

「それに関して問題はないと思います。今日二人に会って、実感しました。彼らは優秀で、何より人として素晴らしいところをいくつも持っています」
 ようやく落ち着いた絢音も首を縦に振った。
「慈恩は素晴らしい子に育っていますわ。剣道は全国並みの腕前で、如月高校の執行部役員を務めるほどの人望と能力を兼ね備えています。その上、兄思いの優しい子です。斗音くんとは今日初めて会ったんですけれど、彼も同じように如月で生徒会副会長を務めているそうです。それに、びっくりするほどピアノが上手なんです。初めて見た楽譜を完璧に弾きこなして、周りから思わぬ拍手を受けてしまうほど。とても社交的で、気立ての優しい子ですわ」
「ほう、如月高校のな。あの学校は全国でも屈指の進学校だ。そこで人の上に立てるというのなら、九条財閥をまとめ上げていくこともできよう」
 感心したような祖父の言葉に、絢音も雅成も胸を撫で下ろした。
「まあ、九条家の血を継ぐ者なら、それくらいの人物であってもらわねば困るがな」
 言いながら、祖父は貴美枝が机の上に載せた写真に手を伸ばした。
「どれがお前の息子だ、絢音」
「後列の右端にいる子ですわ」
 重盛はなかなか満足そうにうなずく。
「ふむ・・・・・・なかなかの好青年ではないか。漆黒の髪や瞳、それに目の辺りはお前に似ているな。見栄えも悪くない。で、斗音という少年は?」
 当然の流れで出た質問に、絢音は隣で雅成が思わず不安そうになるのに気づかず、乗り気のまま答えた。
「前列右端の生徒です」
「前列右端・・・・・・?」
 義祖父の疑問符に、雅成は息を詰めた。
「・・・・・・絢音よ。この少年が、慈恩と双子として育てられたというのか?」
 絢音は一瞬不思議そうな顔をしてから、はっとする。

「ええ・・・・・・そうですわ。だって、双子でも一卵性でなければそれほど似ませんから・・・・・・」
 
斗音はフランス人だったという母親の面影を濃く受け継いでいる。純粋な日本の代々伝わる旧家に、彼の容貌が果たして受け入れられるかということに、絢音も気づいたのだ。

 案の定、祖父は渋面になった。
「綺麗な子でしょう?実際に会うと、本当に麗しいという言葉が似合うんです。この子がピアノを弾く姿なんて、本当に絵に描いたようで・・・・・・」
 にっこり笑いながら、絢音はまくし立てるように言葉を紡いだ。あからさまに、祖父の次の言葉が出る前に、少しでも好印象をという作戦が見え見えである。
「絢音さん。ちょっと落ち着いてお話なさいな」
 少々眉間にしわが寄り気味な貴美枝である。それでも、雅成は絢音と共に斗音の外見をフォローすべく、口を添える。
「私もそう思いました。でもそれ以上に私は彼の内面に惹かれました。芯のしっかりした、心の強い少年です。慈恩くんもそうですが、彼らには人としての魅力がたくさんあります」
 重盛は曲げた口元を更に歪めた。
「雅成くん。それは構わんが、この斗音という少年、純粋な日本人なのか」
 今まで発言を求められたことがなかったので、思わず雅成は言葉に迷って唇を噛む。
「母親はフランスの人だったそうですわ」
 答えたのは、雅成でも絢音でもなかった。調書を再び手にとってめくっていた貴美枝である。絢音と雅成は心の中で同時に力いっぱい舌打ちをしたが、表には何も出さなかったので、それを知る者がいたとしたら、それは神とか仏とか、そういった類の存在だろう。もちろんそんなことに気づくはずもなく、たとえ気づいたとしても全く意に介さないであろう重盛は、重々しく吐息した。
「九条家の中に、外国の血を入れるわけにはいかん」
「そんな・・・・・・」

 絢音はそれ以上続けることができず、絶句する。その夫として桂家から迎え入れられた雅成は、今度こそ自分が発言する場でないことを強く感じていたが、それでも自分たちと、何よりも今日出会った二人のために口を開いた。
「お義祖父(じい)様。差し出がましいことを承知で申し上げます。これからますます国際化が進んでいく中で、九条家を継ぐ者たちがそういった出会いや恋愛をしていく可能性は、決して低くありません。それが日本人であれ、外国人であれ、九条家の血が受け継がれれば、それでよいのではありませんか」

 義祖父は苦々しい顔つきになった。明らかに雅成の発言で気分を害された様子である。
「彼には九条の血は受け継がれていない。それに、お前では九条家の重さは分かるまい。純粋に代々伝わってきたこの九条の名、わしが生きているうちに、この日本以外の血で汚すことは許さん」
「汚すなんて、そんな考え方おかしいですわ、おじい様。外国の血が穢れているとでもおっしゃいますの?」
 人として当然の怒りに突き動かされ、猛然と反発した絢音は、見えない鞭のような祖父の怒声によって迎え撃たれた。
「黙れ愚か者が!それが九条の血を受け継ぐ者の言う言葉か!九条の今までの血の流れを知っているお前が、そのような口を利くのか!」

 人は年をとると保守的になることが多いというが、この老人はまだ老人と呼ばれる前から保守的だった。それが年輪を重ねるにつれ、自分の考えに堅固なまでに固執するようになっていた。そして、この老人に、九条家の中で逆らえる者はなかった。
 
絢音はこれ以上言えば祖父が尚更意固地になって斗音を拒否するのを悟って、押し黙った。ここは周りを固めて、時間を置いて、出直した方がいい。今となっては、慈恩が斗音には養子の件を話さないでいてくれたことがありがたいほどだ。それほど、今の状況は分が悪い。
「慈恩と言ったな。絢音の息子を養子に迎える件は考えた上で進めるとしよう。だが、外国の血を引いた方は諦めることだ。九条の姓を名乗らせることはならん」
 きっぱりと断言して、重盛は席を立った。貴美枝は写真と調書を手に取って立ち上がった。

「絢音さん。これはもう少し預からせていただきますわ。よろしいわね」
 了解を取るというよりは、念を押して、絢音の母が立ち去る。残された絢音と雅成に、全くこの場で発言することもなく、またその発言を必要とされることもなかった絢音の父、智満(ともみつ)が伏せていた目を上げて一言、申し訳なさそうに言った。

「すまない」
 雅成にはその心境が痛いほど分かった。苦い笑みを浮かべ、小さく首を振る。それを見届けた智満は、再度すまなそうに目を伏せて席を立った。
 その小さく見える後姿を見送ってから、雅成は固まっている絢音の肩を優しく抱いた。
「頑張ろう、絢音。幸せは自分たちでつかみ取らなきゃならない。まだ僕たちの戦いはこれからだよ」
 涙を滲ませた瞳で夫を見上げた絢音は、深くうなずいて、その胸に顔をうずめた。絹のようなしなやかな髪を優しくなでながら、雅成は小さく微笑む。
 この愛しい妻と共にいられるのなら、自分はきっと頑張れる。きっと、幸せをつかんでみせる、と。

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