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十四.鎖

 如月高校は二期制なので、一学期とかいう概念はない。しかし、夏休みに入る前には、それなりの心の準備みたいなものは必要となる。それで夏休みに入る前日は午前授業となり、最後に全校集会が開かれて、休み中の生活に対する注意や連絡が行われる。そして午後からは目一杯部活という設定になっている。
 目一杯とは言っても、四時には生徒たちも下校する。この日、慈恩と斗音は再び絢音たち夫妻と会うことになっていた。
 知り合ってからは、週末のどちらかに必ず食事の誘いを受けていた慈恩は、その連絡を受けた時、何だか久しぶりのような気がしたが、慈恩からそれを聞いた斗音は、明らかに表情に影を落とした。
「・・・・・・斗音、あの人たち苦手だっけ?」
 その変化をいぶかしんだ慈恩の純粋な質問に、斗音は努めて明るく微笑んで見せた。
「そんなことないよ。奥さんの方が突っ走らなきゃね」
「確かに」
 慈恩は苦笑する。生まれた時からのお嬢様である九条絢音は、金銭感覚が完全に麻痺している。前回食事に誘われた時、斗音のピアノの腕に惚れ込んだ彼女は、百八十万円のグランドピアノをいとも簡単に斗音にプレゼントしようとした。
「一般の常識を遠回しに教えて、丁重に断れば、すぐに納得してくれるんだけどな」
「・・・・・・慈恩は、もうあの人の特徴見抜いてるんだな」
 何気なく言った言葉に、妙に意味深な発言が続いて、慈恩は違和感を禁じえなかった。
「・・・・・・なあ、気が進まないなら断ろうか」
 斗音を気遣って言った慈恩は、分かるか分からないかくらいの微かな微笑を、兄の表情に見た。
「ううん、俺のことなんて気にしなくていいよ。それに、あの人たちが今回どんなことを言ってくるのか、ちょっと興味があるんだ」
「・・・・・・言ってくるって・・・・・・何を・・・・・?」
 ますます謎めく斗音の様子に慈恩は首をかしげた。残念ながら嵐や滝のような、読心術とも思える洞察力は、慈恩には備わっていなかった。
 斗音はその質問には答えず、にこりと笑った。
「慈恩は、俺が何してると一番嬉しい?」
 もうここまでくると、訳が分からない。慈恩は頭を切り替えて、斗音の質問に対する答えを考えることにした。
「・・・・・・元気でいること。ああ、あとお前の弾くピアノを聴いてるのも好きだよ」
 大して深く考えたわけでもなく、思いついたままにそう言ったら、斗音は、そう、と可愛らしく笑って、ピアノの置いてある客間へと歩き出した。
「斗音?」
 慌てて後を追うと、慣れた仕草でピアノの前に座り、楽譜を並べる斗音がいた。
「慈恩は何が一番好き?」
「そうだな。ピアノ曲も綺麗でいいけど、昔よく弾いてたサウンド・オブ・サイレンスのピアノバージョンとか、俺、好きだった」
「ああ・・・・・・小学校の頃、ちょっと弾けるようになって、母さんにねだって買ってもらった楽譜だ。あれなら、指が覚えてる」
 懐かしそうに、斗音は長い睫毛の影を、頬に落とした。目を閉じたまま斗音が奏で始めたのは、慈恩が好きだと言った曲だった。懐かしさに胸が震えるような気持ちを覚えつつ、慈恩はこの斗音の行動に疑問を持たずにいられなかった。
 そして九条夫妻に会うその日まで、慈恩はその疑問を胸に抱えたままでいた。部活が終わってから待ち合わせた二人は、一度家に帰り、シャワーを浴びて、斗音は黒いノースリーブのカットソーに白い半そでシャツを羽織り、明るいグレーのブーツカット調のパンツを合わせ、慈恩はざっくりした麻百パーセントの濃紺のサマーセーターに、ベージュのデニムパンツといういでたちで待ち合わせのレストランに向かった。
「ねえ、慈恩ちょっとラフすぎない?」
 やや心配げな斗音に、慈恩は肩をすくめた。
「ただでさえもちょっと堅苦しいから、服装くらいは楽でいいかと思って」
「だって、いつもきちんとしたカッコでなきゃ入りにくいような店じゃん」
「まあそうだけど。でも、今日はいつものとこじゃないから」
「え、そうなの?どこ?」
「えーと、何だっけ」
 メモ用紙をポケットから取り出して目をやる。その店の名前を読み上げると、斗音はややぎょっとした。
「それって、間違いなく席料取られる、有名なフレンチの高級レストラン・・・・・・」
「あ、そうなのか。知らなかった。何でお前そんなこと知ってるんだ?」
 どこまでも他人事のような慈恩である。
「料理番組の特集か何かで、有名なシェフがいるんだって紹介してたような気がする。外国からのビップ待遇の人が来た時に、その店に行くことがあるんだってさ」
「ふうん。相変わらず贅沢な人たちだな。何か美味しいもの食べられそうじゃないか?」
 いや、その前に服装はいいのか、と突っ込みたくなった斗音だったが、思わずくすくす笑った。あまり自分自身にこだわらない、慈恩らしい反応だった。
 しかし、すぐにその笑みがすうっと消え、斗音は表情に影を落とす。慈恩はその笑顔に惹かれて何だかほっとしたのもつかの間、それが失われてしまったことに寂しさを覚えた。そしてふと気がつく。こうして素直な表情で斗音が笑ったのは、久しぶりだということに。そして、この影のある表情に、最近よく出会うということに。慈恩の中でいきなり不安がむくむくと鎌首をもたげた。

(いつから?いつから斗音は笑ってない?)
 頭の中が一気にそれ一色になる。慌てて思い返す。一週間ほど前、絢音から電話をもらって、今日会うことになったと告げた時は、はっきり言って既に何だか変だった。にこりと笑って見せるのだが、自分に微笑んでいるのを見せるのが目的であるかのような表情だった。
(その前?どれくらい?如月祭の仕事が忙しかったから、疲れてるんだと思ってた。でも、もっと前からだ。・・・・・・立て続けに発作起こしてから、生活一つ一つ制限して、縛り付けてたから?・・・・・・あ・・・)
 不意に胸によみがえってくる痛み。
『・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・』
(・・・・・・あの時・・・・・・からだ・・・・・・)
 あのあと気を失ってしまって、再び意識を取り戻した時は、その言葉を覚えていないような感じで、ずっとぼんやりしていた。だから、慈恩も、あれは弱気になった斗音の突発的な言葉だったのではないかと考えた。いや、そう考えたかったのだ。
(もしかして、やっぱり今でもそう思ってるのか?俺が傍にいるから、だからこんな物憂げな顔ばっかりしてるのか?)
 慈恩の思いとは微妙にずれているのが真実だったが、互いの目に見えない心の中は知り得なかった。
「・・・・・・どうかした?何考えてるの?」
 訝しげな斗音のハスキーボイスに、慈恩ははっと我に返る。
「あ・・・・・・」
 物憂げなままの、綺麗な薄茶の瞳でのぞき込んで来る。一瞬、率直に、自分の傍にいるのがそんなにつらいのか、と言いそうになって、言葉を飲み込んだ。
(変にこじれたくない。何も、蒸し返す必要なんてない)
「いや、何でもない。高いんだろうと思って」
「・・・・・・レストランの話?そりゃ高いさ。俺たちの常識の一桁上をいってると思うよ」
 皮肉っぽく聞こえる一言だった。直感で、斗音らしくない、と思った。実際、斗音の表情も何だか投げやりっぽく見える。
 やはり、九条夫妻と会うことに気乗りしていないようだ。もしかして、斗音が塞ぎがちなのは、そのことにも関係があるのだろうか。でもやはり・・・・・・
(ああ、やめた!そんなこと考えたって、分かりゃしない。もっと判断できるだけのはっきりしたものが見つからなきゃ、今色々考えて気をもんだって、何の解決にもなりゃしない)

 ぶんぶん、と慈恩は首を振った。それを見ながら、斗音はやはり物憂げな表情のままで、軽く首をかしげた。

「よく来てくださったわね、斗音さん、慈恩さん」
 にこやかな笑顔で絢音が迎えてくれたレストランは、やはり高級感溢れて、溢れすぎて目がちかちかしそうだった。慈恩のラフな格好はやっぱり少々浮いていたが、すらりと背の高い慈恩があまりにも自然に着こなしているため、不自然さは感じなかった。それで当たり前、といった感じで、どちらかと言うと二人の容姿に注目が集まっているようだった。
 絢音の隣には雅成が、やはり微笑みで二人を迎えており、その後ろに一歩控えるようにしてもう一人、背の高い慈恩を見下ろさんばかりの精悍な青年が立っていた。スーツにその身長に似合った体躯を包み、青年がわずかばかり目を細めた。その青年の視線が自分に向いたように感じた瞬間、斗音は概視感を覚える。
「お久しぶりです。今日はご招待いただいて、ありがとうございます」
 慈恩がかしこまって言うのを、絢音は軽く手を振って止めた。
「そんな風におっしゃらなくてよろしいのですわ。こちらがご無理を言っているのですから。今日はあなた方にこの三神を紹介しようと思って・・・・・・来ていただいたのです」
 わずかに絢音の語尾が鈍った。脳の片隅でそれを気に留めた慈恩だが、大概の人より背の高い自分をゆうに越える身長の持ち主に、その意識を傾けてしまったので、たちまちその微かな記憶は消え去った。
「九条家で絢音様の運転手として使っていただいている、三神元爾(げんじ)と申します。お会いできて光栄です。以後、お見知りおきを」
 しなやかな身のこなしで頭を下げた青年は、その精悍な瞳を慈恩に向け、そして斗音に向けた。その唇の端がわずかに上がるのを、自身でも気づかないほどの微かな嫌悪とともに、斗音は網膜に焼き付けた。
「どこかでお会いしたことが・・・・・・ありましたか?」
 思わず斗音がやや擦れた声で問い掛けると、三神は一瞬驚いたように黒い瞳を瞬かせたが、ふっと笑みを浮かべた。
「いいえ。私は存じませんが・・・・・・何しろこの背丈ですから、どこかで貴方の目に留まったやも知れません」
(違う・・・・・・この姿には見覚えなんて・・・・・・むしろ覚えがあるのはこの視線・・・・・・まるで絡めとられそうな・・・・・・)
 直感でそう感じたものの、それ以上のものが思い出せるわけでもなく、斗音は目を逸らした。
「三神、こちらが椎名斗音さん、それからこちらが慈恩さん。二人とも、とても優秀な如月高校の生徒さんなのよ。さあ、お二人とも、今日は部活で大変だったのでしょう?ゆっくりお食事しながら、お話をしましょう。ね?」
 ややせかすように絢音は言って二人に席を勧め、さっそくウエイトレスが持ってきたメニューを開く。
「今日はこちらのコースディナーを五つお願いするわ。斗音さん、慈恩さん、お二人とも鴨肉は大丈夫ですか?」
「あ、はい。特にこれと言って食べられないものはないです」
 正式に言えば、斗音は納豆が嫌いで、慈恩はセロリが苦手だったが、この席で残すような真似をするほど毛嫌いはしていなかったし、セロリはともかく納豆が出ることはないだろうと判断した慈恩の返事だった。
 一体いくらのディナーコースを頼んだのかは定かではないが、慈恩の言ったとおり、素晴らしく美味しいものばかりが運ばれてきた。やわらかい和牛肉がマスタードソースと野菜でサラダ感覚になっているもの、ムール貝のスープ、鴨肉のフォアグラ添えトリュフソース仕立て、サーモンのミルフィーユ仕立て、口直しのグレープフルーツとミントのシャーベット、仔牛のメダイヨン、五種のチーズに自家製の焼き立てパン、イチゴを添えたホワイトチョコレートと抹茶のムース、挽きたての香り豊かなコーヒー・・・・・・。
 何だか慈恩は感心しながら食べている。いつも通りだが、その中に時折自分に視線を投げかけてくるような仕草で、気遣っているような素振りを見せる。いつもより、その頻度が高い。斗音はそれを感じて泣きたい気分と笑いたい気分がごちゃ混ぜになったまま込み上げてきて、無表情を保つのに努力が必要だった。

 あまり食の進まなかった斗音を、慈恩が気遣うのは当然のことだったのだが、斗音はいつ九条夫妻が慈恩の養子の話を切り出すかが気がかりで、思考回路はほぼフリーズ状態だった。
 
その時が来たのは、すぐに分かった。デザートが運ばれてきた辺りで、急に絢音たちの口調が重くなったのだ。それまでは歯切れもよく、慈恩たちに聞きたい放題色々聞いていたのが、夫婦で顔を見合わせてどうしようか、といった感じになってきた。慈恩はデザートのムースをデザートスプーンでつつきながら、抹茶とホワイトチョコレートの相性のよさに感動している。そんなのんきな慈恩の隣で、斗音は高校の合格発表の百倍ほども緊張しながら、絢音たちの言葉を待った。
「・・・・・・斗音くん、慈恩くん。実は今日ここに来てもらって三神を紹介したのは、理由があるんだ」
 切り出したのは、雅成だった。雅成の前に運ばれてきたデザートとコーヒーは、手をつけられないままである。斗音は視線を固めたままびくりと肩を揺らし、慈恩は雅成の言葉よりどちらかというと斗音の様子に不審そうな顔を見せた。
「理由・・・・・・?」
 聞き返した慈恩と、目線を上げずに硬直した斗音を交互に見つめ、雅成の顔はつらそうに歪んだが、斗音にはそれが分からなかった。
「すまない。どんなに謝ったって、許されることじゃない。でも、私たちには謝ることしかできない。・・・・・・先走った叔母が斗音くんに言ったことで、斗音くんにどれだけつらい思いをさせただろうと・・・・・・考えただけで胸が押し潰されそうだった。斗音くんのことを何より大事に思っている慈恩くんにも、本当に申し訳なく思ってる。すまなかった」
 慈恩が眉根を寄せた。斗音は空気でそれを感じた。
「・・・・・・どういう・・・・・・ことですか・・・・・・?」
 剣呑な響きを込めた慈恩の口調。いぶかしむ思いの下に、ともすれば噴火しそうな怒りのマグマが潜んでいる。斗音は押し寄せてくる不安に、思わず慈恩を見上げた。普段穏やかな慈恩が本気でキレると、ただではすまない。九条夫妻が悪いわけではない。この二人も苦しんでいるのだということは、斗音にも分かっていた。
 雅成が苦しそうに慈恩の強い視線を、それでも真正面から受け止めた。
「やっぱり斗音くんは、話してなかったんだね。・・・・・・慈恩くん、君には絢音から養子の話をしてあったね。君と、そして斗音くんを、私たちは養子として九条家に迎えたいと考えていた。私が君たちを引き取りたいと心から思ったのは、君たちの人柄に惹かれたからだ。一度しか会ってなかったけれど、私は君たちの父親になれたらと本気で思って、夢にまで見た。だけど、九条のような旧家は考え方が保守的で・・・・・・私たちがどんなに願っても、九条で一番力を持っている先代の当主に許されなければ、それは叶わない」
 そこで雅成は、深く呼吸した。斗音は眼を逸らした。
「・・・・・・慈恩くん、どうか落ち着いて聞いて欲しい。君たちのお母様の外見を色濃く受け継いでいる斗音くんが九条に入ることを、先代当主はどうしても許さない。まして、二人を引き取るとなると、お兄さんの斗音くんが九条本家を継ぐことになる。身体の負担のこともあって、私たちも押し切れなかった」
 慈恩が息を呑んだのが分かった。雅成が感情を押し殺すように、微かに声を震わせた。
「そのことを、こともあろうに私たちの叔母が斗音くんに伝えて、挙句の果てに、私たち夫妻が頑固だから、自分から身を引いて欲しい、そうすれば何事もなくおさまるなどと、信じられないことを口走ったんだ」
 かちゃん、と、コーヒーカップにスプーンが当たる音がした。慈恩の指が持ち主の意に反して動いたせいだ。
「・・・・・・な・・・・・・」
 何てことを、という短い言葉さえ、今の慈恩には紡ぐ余裕がなかった。斗音はずっと隠してきたことだったので、愕然とした慈恩を見ているのが逆につらかった。でも、雅成が、自分たちには血のつながりがないのだと、決定的な事実を突きつけないでいてくれたことは嬉しかった。
「許してくれという資格はない。それでも私たちは・・・・・・子供がいないことで、夫婦でいることすら、もう許されない状況で苦しんできて・・・・・・どうしても君を・・・・・・慈恩くんだけでも・・・・・・・引き取りたいと願っているんだ・・・・・・」
 今度はがちゃん、と、ソーサーとカップが音を立てた。慈恩が両の握りこぶしを机にたたきつけたのだ。机がどっしりとした造りだったので、たたいた音よりその衝撃で踊った陶器の方が派手な音だったのだ。
「お断りします」
 低く、思ったよりは静かな声で慈恩は即答した。でも、怒りのオーラに包まれた言葉だった。慈恩は薄手のサマーセーターの上から、クロスをぎゅうっとつかんだ。
「俺は今のままで十分満足しています。九条家の考え方にも、ちょっと共感しかねる部分がありますし、俺は亡くなった両親に、斗音のことを託された。俺はその約束を違えるつもりはありません。斗音も一緒にという条件で初めて養子の件は考慮に値するのであって、斗音なしでというのであれば、お受けするわけにはいきません」

 頑ななまでの壁で九条夫妻の申し出を跳ね返した慈恩に、斗音は唇を強く噛んだ。予想通りの反応だった。慈恩は・・・・・・自分の双子の弟として育てられてきた彼は、自分を守るという鎖に縛り付けられている。亡き父母の意思が、更にそれを強固にしているのだ。あのクロスで。
(慈恩にそんなことを感じる義務なんてないはずなんだ。父さんも母さんも、慈恩の本当の親じゃないんだから。俺の両親が、恐らく身体の弱かった俺のために慈恩につけてしまった足枷は、やっぱり俺が外すしかない)
 斗音はそっと深呼吸した。大丈夫だ。ずっとこの時を覚悟してきた。どうやって言うべきなのかも、考えてきた。言える。言わなきゃいけない。そう言い聞かせて、ゆっくりと口を開いた。
「どうして、慈恩。いい話なのに。お前はこの人たちに、切実に必要とされてるんだって、分からないのか?」
 やわらかいハスキーボイスが奏でたあまりに意外な台詞に、残りの四人は例外なく言葉を失った。斗音はにこりと微笑む。
「俺のこと心配してくれてるのは嬉しいけど、でもそうやってお前のことずっと縛り付けておくわけにもいかないだろ。お前にはお前の人生があるんだし、俺だってこれから一人で生きていけるようにならなきゃ、この先社会にだって出られないよ。高校から下宿で一人暮らしなんて、ざらにいるし、俺だってそれくらいできる。あんまり兄貴を見くびらないで欲しいな」
 慈恩は込み上げる思いがありすぎて、言葉を選ぶのにかなり時間を要したが、結局一番ありきたりの理由を言の葉に載せる結果になった。
「・・・・・・何言ってるんだ。一人でいる時に万が一ひどい発作が起こったりしたら・・・・・・」
 声がわずかに震えるのが押さえきれなかった慈恩の、その言葉を気持ちごと、斗音は鉄壁のポーカーフェイスではね返した。
「じゃあ慈恩は一生俺について、俺の発作の心配しながら過ごすわけ?」
 ぐっと言葉を飲み込んだ慈恩は、凛々しい端正な顔を苦しげに歪めた。自分の言ったことが慈恩を傷つけている。その事実は、斗音の胸をも抉った。泣きたい思いで微笑んで、斗音はそっと首を振った。
「そんな顔しないでよ。傷つけたいわけじゃないんだ。でも、俺はそんな風にずっと心配掛ける存在ではいたくないし、慈恩はすごく必要とされてる存在で、いい環境で俺のことを気にかけないで、思う存分自分のやりたいことをやっていけるところに行けて・・・・・・いい話だと思うんだよ。逆に言えば、俺がその機会をつぶす原因になりたくない。だから、慈恩には自分のことをもっと考えて欲しいと思ってる」
 なだめるように優しく、今まで考えてきた言葉を紡いでいく。だが、二週間以上悩んで考え続けてきた斗音とは違って、いきなり今聞いたばかりの慈恩は当然のごとく、納得できない。
「どこにいたって、気になるだろそんなの。絶対に元気でいるって保証なんか、どこにもないんだから」
 慕う兄に食って掛かる。その言葉はまた、斗音のコンプレックスを刺激した。儚い花のような微笑が消える。
「待ってくれ、慈恩くん。そのことについては、私たちも考えた。斗音くん一人残して君が九条に来るなんて、絶対に有り得ないことくらい、解っているよ」
 見かねて口を挟んだのは、雅成だった。絢音は大切に思う二人が、お互いに傷つけあっているのを見ているのがつらすぎて、何も言うことができなかったのだ。普段九条で発言権をあまり持たない雅成は、絢音にとって、この場で一番頼れる発言者だった。
「だから、彼を・・・・・・三神を紹介したんだ。彼はただの運転手なんかじゃない。誠実に忠実に、仕事のできる人間だ。教養も格闘技も身につけていて、とっさに何かがあった時でも、危険から主人である絢音を守るし、もし何かがあっても的確に行動できる判断力も持っている。もし慈恩くんが、斗音くんの身体のことで躊躇うのであれば、彼と、それから今まで私たちの世話をしてくれていた家政婦を、九条から椎名家に行かせることを考えてる。家政婦は通いの人だけれど、三神は独身だし、よければ住み込みで使ってくれ。そうすれば、いつなんどき、斗音くんの発作が起きたとしても、対応できると思うんだ。それで慈恩くんの心配ごとが少しでも減るのなら・・・・・・」
 最後に付け足した一言は、慈恩の心境を思ってのものだった。いきなり兄と引き離されるという話を持ちかけて、心穏やかでいられるはずはないのだ。どれだけ言葉を尽くして、最善の条件を整えてあったとしても。人には気持ちというものが存在するのだから。
 斗音はやや驚いた。九条家の親類に対してはどうしても好意的になれないが、この夫婦は決して悪い印象ではない。まして絢音は慈恩の本当の母親であるのだから、きっと慈恩を大切にしてくれるだろう。そう思って、自分は考えてきたのだが、まさかここまで考えていてくれるとは思ってもみなかったのだ。逆に言えば、それだけ慈恩のことを欲しているということでもあるのだろうが。
「それに、体面的には引き取ることはできないけれど、斗音くんにも慈恩くんと同じだけの保障をしたい。生活ももちろん、金銭面も全部だ。斗音くんはやっぱり慈恩くんのお兄さんだし、それが変わるわけじゃない。戸籍が変更されて住むところが変わるだけだ。そんなに遠いわけじゃない。君たちはいつでも会える。それでどうだろう。君たちのためになら、私たちは何だってしてみせる。僕たちの未来が、君たちにはかかっているんだ」
 ムースのデザートはすっかり冷たさを失い、熱かったコーヒーはすっかり熱を奪われていた。慈恩が信じられないように首を振る。

「なぜ。どうしてそこまでしようとするんです。そこまでできる覚悟があるのなら、俺たちじゃなくても、ほかにいくらでもふさわしい人物がいるはずです。なぜ俺なんですか」
 斗音は目を伏せた。長い睫毛が白い陶器のような肌に淡い影を落とす。絢音と雅成は唇を噛み、三神はやや視線を斜めに逸らした。今この場にいる人物の中で、慈恩が絢音の本当の子供だと、九条の本物の跡継ぎだと知らないのは、当の本人だけだった。絢音たち夫妻も斗音も、その事実について触れようとしないのであれば、三神の出る幕は全くなかった。彼は、あくまでこの場では傍観者であり、ただの使用人に過ぎなかった。
 しばしの沈黙を破ったのは、絢音だった。花びらのような唇が、静かに開いた。
「・・・・・・貴方に出会えたことは、私にとって天からの最大の幸福だったんです。私はこれまでの人生で、失くしてはいけないものを失くしてしまいました。それを埋められるのは、私たちの中では貴方しかいないんです。・・・・・・貴方は不思議に思うでしょうね。でも、これだけは知っていて頂きたいのです。・・・・・・貴方が私たちの、ただひとつの希望なのだということだけは・・・・・・」

 寂しげに微笑んだ絢音は、それはそれは美しくて、慈恩にも何か胸に来るものがあったのは、否定できなかった。

   ***

 椎名家に戻ってからも、斗音と慈恩は少しぎこちなかった。
「疲れたろ。もう今日は休めよ」
 労わる慈恩の言葉も、少ない。本当は、もっともっと斗音に色々言ってやりたかったし、逆に聞きたいことも一杯あったのだ。九条に自分は要らないといわれて、どんなにつらかっただろう。一体いつ知ったのか、なぜ自分に相談してくれなかったのか。なぜあんなふうに、自分に養子のことを勧めたのか。それほど自分の傍にいることに、窮屈さを感じているのか。自分は、斗音にとって必要ない存在なのか。
 でも、言えば言うほど今まで一人で苦しんできた兄を詰問し、追いつめるような気がして言えなかった。
 軽くシャワーを浴びてきた斗音も、短く「うん」と言っただけで、すぐに自分の部屋へ向かった。
「・・・・・・おやすみ」
 声をかけた慈恩に、斗音は物憂げで、少し哀を込めた視線を返した。
「・・・・・・・・・・・・ごめん」
 その言葉が、慈恩に対する斗音の気持ちを全て載せていた。しっとりと濡れたアッシュの髪が、いつもより重く瞳にかぶさり、翳を作った。
「・・・・・・でも、俺なりに最善の結論を出したつもりだよ。あの人たちは、きっと慈恩を真剣に、本当の子供として愛してくれると思う。・・・・・・結構古い家って大変そうだけどさ。慈恩なら絶対にやっていける。逆に、俺の肩には荷が重過ぎるよ。俺は、父さんと母さんが一緒にいたこの家を、椎名家の長男として守りたい。長い目で見て、俺も慈恩も、そうするのが一番だと思う」
 慈恩も視線を逸らした。比較的人の顔を見つめることに戸惑いのない慈恩にしては、珍しい仕草だった。
「お前の考えてることはよく分かったよ。だけど、俺は?俺の考えてることとか、俺の思ってることとか、そういうのはどうでもいいのか」
 斗音が薄茶の瞳をはっと見開いた。上りかけた階段の手すりを、細くて白い指でぎゅっとつかむ。
「違う!」
「違わない!!」
 まるで逸らした反動かと思うほど、慈恩は激しい感情を込めて、兄に視線をぶつけた。斗音はそれに射すくめられたように、びくりと身体を硬直させた。
「俺は今の生活が気に入ってる。兄弟二人だけで、忙しい、大変、だから充実してて楽しめる。九条なんて堅苦しいところ、別に行きたいとは思わない。そんな俺の気持ち、完全に無視してるだろ!」
 ドンドンと音を立てて階段を上がり、立ちすくむ斗音の二段下で止まる。下から見上げる慈恩の視線は怖いくらい真剣だった。
「それでもお前は、九条に行けって言うのか」
 まっすぐな視線に、思いの強さを感じて斗音はつらくなる。
(違うんだ慈恩。あの人は・・・・・・お前の本当の・・・・・・)
 でもその事実は、どうやら九条夫妻もまだ触れるつもりはないらしい。慈恩にこれ以上、今までの過去を裏切る事実を突きつけたくなどない。
「そうだよ。お前は九条に行くべきだ」
 哀しい瞳のまま、斗音は躊躇わずに言った。それが二週間の間考え抜いた答えだったのだ。揺らぐことのない、痛くて強い決意。
「じゃあ聞くけど、お前はあの人たちのあの切実な願いをはねのけることができるのか。あの人たちがどんな思いで、お前を最後の希望だと言ったのか、解ってるだろ」
 お前は必要とされてるんだ、と吐き捨てるように言う。慈恩が唇を噛んだ。
「・・・・・・・・・・・・お前は」
 かなり躊躇ってからようやく慈恩が零した言葉は、それでもまだ躊躇いを見せていた。一度止めて、今度は思い切ったようにいっきに音声にする。
「お前は俺がいなくても平気なのか」
 心臓をつかまれたような気がして、斗音は慈恩の漆黒の瞳を見つめた。
 一番ごまかして、さまざまな理由で押し殺してきた、核のような部分だった。
(平気なんかじゃ・・・・・・)
「・・・・・・言っただろ。俺だってもう高二だよ。一人でやってけるって」
 心の中に湧いた言葉を打ち消すように、軽く言ってみせた。慈恩が意図した意味をさらりと無視して。その言葉を発した慈恩の想いに気づく余裕もなかった。斗音はそれが精一杯だったのだ。
「それに、家政婦さんとかあの三神って人だって、来てくれるって言ってたじゃん。お前こそ、俺のこと一回頭から取っ払って、自分の将来のこと考えてみろよ。親がいないってだけで制限される将来もあるんだよ」
 すぐに結論を出す必要はないんだから、ゆっくり考えればいいよ、と兄貴ぶって言う。
「・・・・・・じゃ、おやすみ」
 こつこつ、と軽い足音で階段を上りきり、そのまま振り返りもせずに自分の部屋へと斗音の姿が消えた時、慈恩は思わず木製の手すりを殴りつけた。鈍い音がして、右こぶしにじわりと痛みが染みる。
「・・・・・・俺は必要じゃないのか」
 よく知りもしない九条の人間からはあれほど己の存在を必要とされているのに、自分が一番必要とされてきたと信じ、必要とされたいと思っている人物からは必要ないと、そう言われたわけだ。
(俺の言った意味に気づいていたにしろ気づかなかったにしろ、それはああやって流してしまえる程度のものなんだ、斗音にとっては)
 今まで自分を支えてきたもの。自分の使命だと思ってきたもの。そう心に課してきたもの。それこそが自分の存在意義、だったはずだ。それを、いとも簡単に斗音は受け流してくれた。
「・・・・・・・・・・・・なんでだよ・・・・・・」
 ペンダントのクロスを手の平に載せて、じっと見つめた。傍にいたくないと言った、あの言葉は本音だったのか。それで苦しんできたのか。自分が足手まといだと感じさせてしまう存在だったのか。これまで、喘息で思いのままにならない兄のためとあくせくやってきた自分自身が、ひどく道化に思えた。
(斗音にとって、俺が必要な存在じゃないのなら・・・・・・俺がここに居る意味はないんだ)
 それなら、あの九条夫妻があれほど必要としてくれているのだから、行ってもいいかもしれない、と、初めて慈恩の中に、苦しみを伴ったその選択肢が生まれた。
(・・・・・・あさってはきっと、史上最低の誕生日だ)

 慈恩は心の中に、苦々しく吐き捨てた。

   ***

 二日後、丁度夏休みが始まって二日目に当たる日、斗音と慈恩は同時に誕生日を迎える。終業式の日の出来事を、慈恩の苦々しい予想どおり、まだ二人とも引きずっていた。朝の部活がないおかげで、いつもなら六時に起床の椎名家も、夏休みの間は七時になる。
 七時に起きてきた慈恩は、前日に引き続き無言で考え事をしながら、米ナスとトマトとビリ辛ソーセージのスクランブルエッグをバター多めでふんわり仕上げ、モッツァレラチーズをのせて香ばしく焼いたフランスパンに盛り付けた。サラダは小エビとキャベツとニンジンをマヨネーズで和えて、パプリカをふりかけたコールスロー。飲み物はアイスのキャラメルミルクティー。どれも斗音の好きなものばかりだ。最も、慈恩が作るもので斗音が嫌いなものなど、何一つなかったのだが、慈恩なりに、せめて斗音には嬉しい気分を味わえる一日のスタートを感じさせたかった。
 その間に庭の花や木々に水をやっていた斗音が戻ってきた。立派な庭の木や花は、あまり丁寧な手入れをしてやることができないのだが、母が好きでやっていたガーデニングだったので、週に一度草むしりくらいはしてやる。そして、一日一度、夏は二度、水をやるのが斗音の役目である。戻ってきた斗音は、やはり冴えない表情をしていた。その表情が、テーブルの上のメニューを見て、やや嬉しそうになる。
「すごい、おいしそうだね。今日はご馳走だ」
 言ってから、ふと慈恩を見る。
「そうだ・・・・・・誕生日だ。俺たちの」
「忘れてたのか。毎年この時期は部活とか大会で慌ただしいけどな」
「・・・・・・そうだね。今日は部活だけだから・・・・・・終わったらケーキでも買ってこようか?」
 にこりと微笑む斗音だが、その微笑みがほんの上辺のものでしかないことくらい、慈恩にはよく分かる。返すように笑みを載せた。
「ケーキか。学校の帰りにでも見に行くか」
「そうだ、ケーキもいいけどさ。今日はいつも家事で大変な慈恩のために、どっか食事にでもいこっか。俺はいつも、慈恩に好きなもの作ってもらってるからさ。スタミナつくもの・・・・・・焼肉でもどう?」
「でもお前、そんなに焼肉好きじゃないだろ?」
「そんなことないよ。でも、俺ちゃんと焼いた方がいいかと思うと、つい焼きすぎちゃうんだ」
 斗音らしいと思う。慈恩はくすっと笑った。
「今日の部活はほぼ一日だからな。それが終わった時点で、食べたいもの食べよう。食いたい時がうまい時、って言うしな」
 言いながら、昼のための弁当と水筒もテーブルに載せる。
「昼はおにぎり三昧だけど。この時期は腐りやすいから気をつけろよ」
「ん、ありがと」
 それ以降の会話といったら、斗音の「おいしい。これからずっと毎日こればっかりでもいいくらいおいしい」という言葉くらいで、慈恩はそれに微笑んだだけだった。
 だが、学校に行ったら出来過ぎ集団が二人を待ち構えていた。
「斗音、慈恩、誕生日おめでとうっ!」
 瞬がいきなり斗音に飛びつき、いつもより少し離れていた慈恩の腕をぎゅっと引っ張った。
「ね、今日部活終わったらさ、俺らで二人の誕生日祝いするからね。勝手に帰っちゃ駄目だよ、慈恩」
「急な申し出で悪いな。けど、全部今日は俺らのおごりだからさ。ぱーっと遊びに行こうぜ」
 翔一郎も爽やかな顔に笑みを浮かべている。嵐は慈恩の肩を軽くたたいた。
「あと、申し訳ない。みんなで遊んだあと、飯、付き合ってくんない?今日がお前らの誕生日って知って、絶対に飯に付き合わせるって息巻いてる馬鹿が、一人いるんだ」

 校内一の美貌に悪戯っぽい笑みが閃く。斗音と慈恩は一瞬目を見合わせて、くすっと笑った。以前、滝に診てもらったときの治療代や薬代を颯爽と払って、伝言を残していった彼に違いなかった。

   ***

 慈恩の不吉な予想図は、素敵な仲間たちと不思議な青年実業家のおかげで覆された形になった。嵐も翔一郎も瞬も、おやつだと言って部活のあとに喫茶店でクラブサンドとジンジャーエールをおごってくれたし、その後ボーリングとカラオケに連れまわしてくれた(それも全部三人のおごりだった)。三時過ぎまで部活をしていた後で、それはおなかもすいていたからありがたかったし、連れまわされたおかげで余計なことを考える暇は全くなかった。しかも、ボーリングでは、これまたプロ級の嵐、続いて上級者の翔一郎、器用な慈恩の身長百八十台トリオが賭けをして盛り上がり、どちらかと言うと華奢な瞬と斗音は、無理をしない程度にボーリングを楽しみながら、ダービー予想をして盛り上がっていた。ちなみに二人とも一位予想は見事的中させたが、二位を翔一郎にして外してしまった。
「だって、慈恩ってそんなに遊んでなさそうなのに、何で189もいくかなあ」
とは、瞬のぼやきである。
「何だよ、たった4ポイント差じゃん」
 最後の一投で取り落として逆転のチャンスを潰してしまった翔一郎は、相当悔しがっていたが、
「230を切ったことは、たぶんここ数年ないと思う」
という嵐の一言で、一気に4点にこだわる気力をなくしてしまった。ようやく100を越えたあたりの瞬などは、最初から競う気すら持ち合わせていない。
「嵐に張り合おうって方が間違ってるって」
 その後はカラオケで楽しく騒いで盛り上がって、そこらの歌手にひけをとらない嵐のうまさに感激し、天使のような瞬の歌声に、感心した。
「外見裏切ってないよな、瞬は」
「性格は出ないんだよな、歌には」
 慈恩と翔一郎の会話を聞いて、瞬が翔一郎に分厚い曲リストの本をどしどし投げつけたのに、斗音も慈恩も爆笑した。
「ほらみろっ、だって、こんな性格だぞ!?」
「お前が一言多いんだよっ!」
「だからって!せめて外国曲リストとか飲み物のメニューとか、もっと薄くて軽くて投げやすそうなのがあるだろ!」
「何ならこのでかいガラスの灰皿でも良かったんだよ?」
「いや、それ、死ぬから、マジで」
 同じように爆笑していた嵐が一言添えた。
「なんかお前らって、夫婦(めおと)漫才」
「「どこが夫婦!」」
 全く同時のツッコミに、三人は思い切り笑い転げた。
 夜の七時を過ぎるまでそうやって騒いでから、翔一郎と瞬に別れを告げ、残った三人は迎えに来た黒のBMWに乗り込んだ。連れて行かれたのは都内でも有名なカリフォルニア料理の高級店だった。

「誘いを断らずにちゃんと来たから、前回の診察代及び薬代はチャラにしてやる。ついでにおごらせろ。ちょっとでも金払おうなんて、妙な気起こすなよ。俺様のプライドを傷つけたくなかったらな」
 いきなりその台詞で再会を果たした斗音と慈恩は、苦笑せざるを得なかった。嵐からそういう男だとは聞いていたが、実際目の当たりにするとかなり強烈な個性の持ち主だ。そんな裏家業と東洋医学をかけもつ青年は、髪や目、服装など、全体的に黒の印象が強い美丈夫だったが、とにかく気さくな俺様男だった。
 アボガドと鮪などのカリフォルニア巻き、牛フィレ肉のステーキ、オマール海老のホワイトソース煮、アワビの丸ごとステーキ肝ソースがけ、カリカリフライドチキン、ガーリック風味海鮮サラダなど、豪華なメニューをバリバリ頼んで豪快に、しかし品よくつつきながら、会話も飽きの来ない面白おかしいネタや感心させられるネタが溢れ、二人はたちまちその魅力に惹かれた。
「何だ、ボーリングやってきたのか。どうして俺も呼ばないんだ」
「お前なんか呼んだらしらけるだろ」
 嵐の呆れたような物言いに、斗音が首をかしげる。
「どうして?」
 肩をすくめた美貌の少年は、さらりと淡紫色の髪を揺らした。
「こいつとボーリング行って、270を切ったのを見たことがない」
 斗音と慈恩は思わず食べていたものを飲み込んで、顔を見合わせた。上には上がいるものだ。
「プロになれちゃいますね」
「そうか?でもあいにく興味がないんでな。やるならビリヤードの方がカッコがつく」
「ビリヤードもやるんですか?」
「いや、全然?」
「・・・・・・」
「でも俺は大概なんでも上手くできる性質(タチ)なんでな。ビリヤードもきっと上手い」
「・・・・・・」
「でも、斯波さんがそう言うと、本当にそんな気がしますね。本当に何でもできそうだし」
 思わずできてしまった沈黙をフォローした慈恩だったが、嵐がククッと笑った。
「そうだな、大概なんでもできるし、何やっても大概頂点極められる能力があるタイプだ。けど、できないことがひとつある」
「え?それって興味ある」
 思わず斗音が目を輝かせる。
「持たなくていい、そんな興味。東雲も、いちいち言わんでいい」
 ややツッコミ口調で、暴力団の組長が口を挟む。全くそれを意に介す様子もなく、嵐が暴露する。
「楽器が一切できない。音符も読めない」
「・・・・・・ああ」
 思わず納得した声をこぼした慈恩が、口を尖らせるように歪めた斯波に睨まれた。
「何納得してんだ」
「何となく、似合ってる気がして」
 ふん、と鼻を鳴らして、斯波が軽く慈恩を小突く。
「そもそも滝が俺に文句を言うから、尚更苦手意識がだな」
「お前がヴァイオリンかき鳴らそうとしたり、ピアノの鍵盤を叩き壊そうとしたりしたからだろ」
「どうせやるならダイナミックに鳴らしてみてえだろうが」
「やりたきゃ銅鑼でも叩いてろ」
 この二人もなかなか息の合った漫才コンビが結成できそうだ。それとも、最近不穏な空気を漂わせている自分たちを、みんなが気遣ってくれているのだろうか。どっちにしろ、斗音も慈恩もひっきりなしに笑い、会話と食事を楽しみ、最後にはその店で特別に作らせてあったイチジクと生クリームのババロアを基調にしたケーキまでお土産に持たされた。
「バースデーケーキだ。食前酒で飲んだドン・ペリもつけてやったから、あとは二人で祝い合え」
 斗音は極端にアルコールに弱いということが分かっていたので、一人だけアルコール度数一%未満のシャンペンだったのだが、この男は自分の好きなその飲み物を、斗音にも味わわせたかったらしい。寝る前なら構わないだろう、と強引に持たせた。お酒は二十歳から、ということをすっかり忘れ去っているらしい。
「何から何までいろいろと気を遣っていただいて、ありがとうございます」
 丁寧に挨拶した斗音に、斯波は磊落な笑顔で応えた。
「俺が勝手にとりつけた約束だからな。これくらいはやっておかないと失礼に値するだろ。それにお前の喘息、ストレスが一番よくないだろうからな。たまにはぱーっとやるのも悪くない」
 そして慈恩に目をやる。
「あと、弟の方にも興味があってな。兄貴とはまた違ったいい男だったし」
「・・・・・・?」
「お前、何か武道系やってるだろ?俺の予想では剣道か居合い。そういう感じの礼儀作法が身についてる。古風な良さを身につけている現代の若者ってのは、悪くない」
 慈恩は一瞬目を瞠ってから、表情を緩めた。
「斗音の喘息を見抜いたときも思いましたけど、本当に鋭い方ですね。確かに俺は剣道をやってますけど・・・・・・」
「ふん、なるほど。俺も空手と柔道と剣道は経験がある。それほど本格的にはやってないが、機会があったら手合わせ願いたいな。ちなみにお前、今何段だ?」
 既に慈恩を段持ちだと即断しているあたり、やはり大したものである。
「先日の昇段試験で三段になったところですけど・・・・・・」
「なるほど、その歳で三段ってのは最速だな。大したもんだ。俺はそこまで本格的にやっちゃいないから、お前には勝てないだろうけどな」
 言って屈託なく笑った斯波は、やはり二十歳ちょっと過ぎくらいにしか見えなかった。

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