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十二.絆に穿たれた溝

「斗音、どうだった?」
 短めの黒髪が、汗でぺたんと寝てしまっている。元気な漆黒の目。強い意志の光が宿る瞳。
(すごい、かっこよかったよ)
 そう言っているのに、声が出ない。聞こえているのだろうか。
(相手も強かったけど、慈恩の方が一枚上手だって、見てるだけで分かるんだ)
「なあ、斗音。去年はあいつに負けたんだ。ちゃんとみっともなくないくらいになってるだろ?」
(みっともないわけない。会場中誰もが今の試合に見とれてた。中学一年生が中学三年生を倒す様を)
 どうして声が出ないのだろう。一生懸命口を開けて、声帯を震わせようとしているのに。でも、漆黒の瞳の少年は、ちょっと大人びた笑みを浮かべた。
「いいよ無理しなくて。次もちゃんと見ててくれよ」
(もちろん。あ、まだ行かないで。頑張ってって、言ってない。言わせて)
 にこりと微笑んで、黒髪の少年は後ろを振り返る。そして、踵を返す。
(待って、慈恩。待って、行かないでよ)
 急に不安になる。彼が行ってしまうことに、恐怖に似た感情を覚える。
(やだよ、待って。呆れないで。頑張って、声にするから。できるはずだから。待っ・・・・・・)
 そうやって、どれだけ縛り付けるんだろう。どれだけ足手まといになるんだろう。一人で生きていけるようになりたい。せめて、大好きな人たちの足枷にならないように。目から涙が溢れる。
「ダメよ、迷惑かけちゃ」
 分かっている。散々迷惑をかけてきていることくらい、嫌というほど分かっている。
「あの子はあなたの弟なんかじゃないの」
 冷たい声。誰?顔が分からない。人がいるのは分かるのに。
(じゃあ、俺は何?慈恩の、何?)
「あの子には、輝く未来が待っているのよ。あなたにそれを邪魔する権利なんて、ないのよ」
(邪魔なんてしない)
「嘘おっしゃい。あなたはあの子から自由を奪っているのよ。あの子の翼を、その手で少しずつむしり取って、そうしてあの子を飛べなくする。代わりにむしり取った羽を自分のものにして、自分で羽ばたこうとでもいうの」
(俺だって、慈恩の羽ばたく姿が見たい。あいつは俺の自慢の・・・・・・)
「自慢の、なあに?下僕?」
 違う、違う、ちがうっ!!

 斗音は激しく首を振った。

(強くて凛々しい慈恩が誇りだった。そんな慈恩の兄であることが・・・・・・俺の誇り)

「・・・・・・気づいた?」
 優しくて低い声。滲んだ視界に、漆黒の髪と瞳が映った。
「・・・・・・・・・・・・」
 弟だと思っていた相手の名を、呼ぼうとしたが、声が出なかった。発作を起こしたことを思い出す。
「無理しなくていい。ずいぶん身体が弱ってるって」
 言われて、思わず周りを見回した。全体に白かった。雰囲気ですぐに病院の一室だと分かった。腕には点滴の針が刺さっている。
「・・・・・・・・・・・・苦しかったよな。ごめん、俺も一緒に早退すればよかった」
 長い親指がそっと目頭から目尻をなぞっていった。滲んだ視界が少し明確になる。自分が泣いていたのだと知る。何だか首がずきずき痛んで、そっと手を持ち上げて触れようとしたら、ざらっとした布の感触だった。途端、慈恩が自分の胸に額を当て、今首に触れた手首を握り締めてきた。
「?」
「斗音、斗音・・・・・・」
 聞いている斗音の方が切なくなるような声で、慈恩はその名を呼んだ。斗音はどうしていいか分からずに、点滴をした方の手で、自分の腕を傷つけないように黒髪をそっと撫でる。
「お前から目を離すのが怖い・・・・・・俺のいないところで、もしまたこんなことがあったら・・・・・・そう思ったら気が狂いそうだ」
 ズキ、と、心臓が痛む。
『あなたはあの子から自由を奪っているのよ。あの子の翼を、その手で少しずつむしり取って、そうしてあの子を飛べなくする。代わりにむしり取った羽を自分のものにして、自分で羽ばたこうとでもいうの』
 夢の中の声。ああ、と思い出す。電話口から聞こえてきていた、あの声だ。九条・・・・・・何ていったっけ。道理で姿が見えなかったはずだ。すごく気に障る人だったけれど、現実でも夢の中でも、言っていたことは間違っていなかった。
(俺はこうやって、慈恩を縛り付けてきたんだ)
 足枷になりたくないだなんて、甚だしい思い上がりもいいところだ。自分が傍にいる限り、慈恩は大きな制限を受ける。いや、自分から制限の檻の中に入ってしまうのだ。羽ばたこうとせずに。
(俺は、慈恩の傍にいちゃいけない)
「・・・・・・お・・・れは・・・・・・」
 絞り出した声が、ようやく音になる。慈恩が顔を上げて、じっと斗音を見つめた。一言だって聞き漏らすまいと、真剣なのが分かる。また心臓が痛んだ。
「・・・・・・お前・・・の・・・・・・足・・・手・・・・・・まとい・・・に・・・な・・・りた・・・・・・くな・・・・・・い・・・・・・」
 慈恩が端正な顔を歪めたのが分かった。
「・・・何言ってる・・・・・・」
 斗音はふっと目を閉じた。溜まっていた・・・・・・いや、新たに湧き上がったものだろうか、目尻から一滴の涙がこめかみへ伝ったのが分かった。もうあまり気力がもたなさそうだった。

「・・・・・・慈恩・・・の・・・・・・そ・・・ば・・・・・・に・・・いた・・・くない・・・・・・」

 目の前で気を失った兄の、振り絞るように言った最後の一言が、慈恩の胸に突き刺さっていた。
「・・・・・・何でだよ・・・・・・斗音・・・・・・・・・」
 こんなに、胸が引き裂かれそうなのに。兄のことを思って、心臓が潰れそうなのに。胸にかかったクロスを、シャツの上からぎゅうっと握り締める。
「・・・・・・・・・ほっとけないだろ・・・・・・!」
 斗音が早退したのはいいが、また発作を起こしたりしたら、と思うと不安で、家についた頃に電話を入れてみた。ところが、話し中だった。話し中ということは、とりあえずちゃんと電話に出ているのだろう。ほっとしたものの、まともに食事を作るとも思えなくて、キッチンの戸棚にレトルトのお粥があることなど、ちゃんと伝えたくて、もう一度電話をしてみた。今度はちゃんとしたコールが鳴ったと思ったら、いきなりブツリと切れてしまったのだ。それからは何度かけても全く通じなくて、携帯にも出なくて、いてもたってもいられなくて、担任に訳を話してそのまま帰路についたのだった。
 帰る道でも何度も連絡を取ろうと試みたが、それが敵わず、できる限りの速さで慈恩は急いだ。玄関を乱暴に開け、人の気配がする居間へ駆け込んで、床に転がる華奢な兄の身体を見つけた時、心臓が止まるかと思った。右手が血まみれで、掻きむしったらしい首からは生々しい傷跡がじわじわと血を滲ませていた。そして、涙でぐしゃぐしゃになった顔は蒼白から紫に近い色になって、既に意識もあるかどうか怪しい様子だった。

 慌てて抱き起こし、万が一のために自分が持っていた携帯用噴霧吸入器をあてがったら、苦しげにもがいてそれを振り払おうとした。もうそれが何なのかすら認識できていないようだった。
 
気がふれるかと思った。絶対に失いたくなかった。
 
抱きしめて腕を締め付け、抵抗を抑えた。そうしたら、おとなしくなった。
 
しばらくそのまま動けなかった。身体に、弱々しいけれどはっきりと斗音の鼓動を感じて、無事発作がおさまったことに気づいた。
 
斗音はとうに気を失っていて、腕の中でぐったりとその身体の重みを完全に慈恩に任せていた。ほっとしたら、何だか急に涙が溢れてきた。
(どうしてついていなかったんだろう。どうして無理を許してしまったんだろう。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう。どうして俺は・・・・・・!)
 激しく自分を責めた。もし失っていたら。そう考えると、本当に気が狂いそうだった。激しい後悔に押し潰されそうになっていた時、携帯が震えた。嵐からだった。
「・・・・・・もしもし」
 声が震えるのを押し殺しながら出ると、鋭い友人はいきなりそれを見破った。
『慈恩、大丈夫か』
 全く頭が下がる。ひどく弱気になっていた慈恩は、嵐に今の状況を打ち明けた。自分がしっかりしなければ、と思いながら、この頼れる友に助けて欲しかったのだ。

『分かった、すぐ迎えに行く。病院、連れてった方がいいだろ。腕のいい医者、紹介するよ』
 三十分待て、と言われて、その間に首の傷に応急処置を施していたら、本当に三十分後に嵐が来た。なぜかBMWに乗って。運転席にはいつか見た裏家業の青年がいて、色々と指示と処置をしてくれた。そして、連れてこられたのは大きな総合病院だった。最優先で通してもらって、診察室に入った。
「はじめまして。俺はドクターの滝だ」
 すっと立ち上がって、流麗な仕草で一歩近づいたその人の名は、聞き覚えがあった。嵐が敬愛してやまない人物の名であるはずだった。そして、何より驚かされたのは。
「斯波さん、患者をこちらに寝かせてください」
 そう言って白衣を翻し、優雅なまでの身のこなしで、ベッドに寝かせた斗音に近づく医師は、まだ二十歳くらいの若者だった。斗音を抱いてきてくれた斯波とタメをはれるほどの長身で、金に近い薄茶の髪は見事なまでに綺麗に巻いていて、無造作にひとつに縛ったその先は、背の中ほどまで届いていた。それこそ無信心の慈恩でさえ、神の寵愛を受けるとはこういうことではないだろうかと思えるほど、美しく整った顔立ちは、誰もが見惚れずにはいられないものだった。
(聞いてない。嵐が惚れこんだ人が、医者で、こんなに美人で、男だったなんて)
 暴走族だと聞いていたのに、これではあまりにギャップが激しい。
「いつも使ってる薬は?」
 いきなり話しかけられて、慈恩は少々戸惑いながら、いつも医者でもらっている処方薬説明表を見せた。
「エフェドリンか。ハンド・ネブライザーも使ってるんだな。発作は頻繁に?」
「・・・・・・不定期に・・・・・・月に一・二回起きるかどうかくらいですが・・・・・・今朝は立て続けに三度起こしてます」
「三度?・・・・・・空気が汚染されたようなところにでも行ったのか」
 美しい眉をひそめて、滝が慈恩を見つめる。長い睫毛、大きいが切れ長の瞳、高く通った鼻筋、形のよい唇、それらが全てこれ以上ないというバランスで整っていて、慈恩は思わずそのつくりの見事さに感嘆の溜息をこぼしそうになり、慌てて自分を叱咤する。
「いえ、いつも通り家と学校を行き来しただけです。一度目は家でちょっと埃を吸い込んで・・・・・・」
「・・・・・・あとは?」
「分かりません。学校で突然・・・・・・養護の先生は疲れが溜まっているんだろうって。家では一人でいる時に起こしたらしくて・・・・・・」
「・・・・・・思い当たることもないのか?」
「え・・・・・・と・・・・・・」
 艶やかでまさに美声とはこういう声のことを言うのだろう。こんな完璧な人間が世の中に存在するとは思わなかった。でもそれ以上に、今慈恩の心の中の大部分を占めているのは、斗音の安否を気遣う以外の何ものでもなかった。一生懸命思い返してみる。
「電話をしてたはずです。電話中でつながらなくて・・・・・・でもそのあと電話が通じなくなって・・・・・・」
「てか、電話線抜いてあっただろ」
 嵐が口を添える。
「え?」
 思わず聞き返した慈恩に、淡紫色の髪を持つ友人は肩をすくめた。
「気づいてなかったのか。さっき部屋に入って、俺真っ先に思ったから覚えてる。慈恩、帰る前に家に電話が通じないってパニクってただろ。ああ、このせいかって」
「ふーん」
 淡いパープルのカッターシャツに紺色のシルク素材のネクタイ、夏仕様のくすんだ黒いスーツと、それなりに裏家業らしいがお洒落な服装の斯波が、滝の座っていた椅子に何の躊躇いもなく腰掛けた。
「精神的にキたかな」
「電話線を抜きたくなるほどの会話と言うわけですか」
 斯波の無礼を咎めることもなく、滝が応じた。しかもこの二人、息がぴったりである。
「そんな電話、なんか思い当たることあるか?」
 斯波に聞かれて、また慈恩はうーん、とうなる。
「大体、普通なら学校に行ってる時間だろ。電話が掛かってくること自体、お前らのことあんまり知らない人間じゃねえの。イタ電とか」
「イタ電ごときで取り乱すほど、斗音は安っぽくねえよ」
「例えばの話だ。そんなに噛み付くなよ」
 綺麗な目を吊り上げた嵐に、斯波は肩まで両手を上げて降参の意を示す。さすがの慈恩も全能の神であるわけでなし、斗音が受けた電話のことで、九条家の関わりを察知することは敵わなかった。

「今後のことを考えれば確かにその根源を断ち切ることも大切ですが、今の状況でその内容は特に必要ないですよ。発作の原因が精神的なものだということが分かれば十分です」
 あっさりと言ってのけた滝は、斗音の瞳孔の様子、目の充血の様子、顔色、口中や喉の奥、心音などを、慈恩がいつも見ている医者の半分ほどの時間で調べ終わり、机の上のカルテにさらさらと何かを書き込んだ。
「気管支喘息、しかも慢性的。アレルギーもあるし、風邪のひき終わりとか精神的なプレッシャーやストレスでも過敏に反応。このまま発作が起きたら沈めるってのは、薬の効果も薄れるし、発作自体も症状がひどい分気管腫なんかの原因になりかねない。それにこのハンド・ネブライザーは使いすぎると心臓に負担がかかる。特に今回みたいに立て続けに起こるようだとな。今はもっと負担の少ない薬もあるから、そっちにしよう。それに体質改善をもっと積極的に進めたほうがいい。これは普段の生活と、それから斯波さんの領域だな。・・・・・・今日のところはこの首の傷の処置と・・・・・・あと立て続けに発作を起こしたことで極度に疲労してるから、免疫力も体力もひどく低下している。点滴に、発作を起こしている粘液の分泌を抑える薬と、一時的に免疫力を高める薬、抗生物質を入れて投与する。傷ついている喉の炎症による痛みを和らげる薬、その炎症を抑える薬、精神を安定させる薬、引っ掻いた傷の化膿止めは錠剤でも出すから、食後に飲ませるといい。あと、傷に塗る薬。傷跡が残らないようにはしてやる。薬の使い方は書いてあるからそれに従ってくれればいい」
 流れるように、なるべく専門用語を使わないで説明しながら、滝は慈恩をその美しい瞳に捕らえる。
「とにかく今はストレスを与えないでゆっくり休ませることだ。点滴を打ち終わっても回復しないようなら、入院費は要らないから泊まっていくといい。空いてる個室を使えるようにしておく。今日中にまた発作が起こるようだと、かなり弱っているだけに危険性を伴う。・・・・・・ああ、それから」
 大きいくせに細くて長い指を持つ白い手を、軽く慈恩の肩に載せた。
「お前がついていることだ」
「え?あの」
 聞き返そうとした慈恩に、気づくか気づかないかの微笑を載せて見せ、滝は軽くうなずく。
「電話線のことにも気づかないほど兄貴のことを大事に思ってる人間の存在が、一番の薬だってよ」
 斯波がにやりと笑って見せた。嵐もうなずく。
「滝さんがそう言ってんだから、信じてればいい」
 嵐がここまで人を絶対視しているのを、慈恩は初めて見た。本当に信頼しているのだと、その絆の深さを知る。そして、自分が信頼している嵐の言うことは、素直に信じられたのだった。
 それなのに。
(足手まといって?そんな風に感じてるのか、斗音。それがお前のプレッシャーなのか。俺が傍にいることで、お前を追いつめているのか?)
 自分がついていなければ、といつも思っていた。母が亡くなり、父が亡くなり、斗音を守るのは自分しかいないと。身体に爆弾を抱えてなお輝くその生を、自分が守り抜くのだと。この胸のクロスと、死の間際にこれを渡して「斗音を守って欲しい」と言い遺した母に誓った。そのために己の存在があるのだと言い聞かせてきた。慈恩にとってそれが生の目的であり、斗音が精一杯生きられることが喜びであり、それを自分が守っていることが誇りだった。
(・・・・・・俺が傍にいることは、苦痛か。斗音)
 胸が空虚の痛みを訴える。自分が今までしてきたことは、斗音にとって余計なストレスを与える原因になっていたのだろうか。料理が苦手な斗音の代わりに自分がやるようにした。家事の不得意な斗音の代わりに、できる限り自分でやってきた。発作が起きれば、斗音に任せてある家の仕事も全部よかれと思って代わった。寝る時間にも気を遣ったし、風邪をひかないようにも気を遣ったし、何でも斗音を優先させた。
「・・・・・・苦痛だったのか、斗音・・・・・・・・・・・・」

 つかんだままの、男子高生とは思えない細い手首。もう一方の手でその血の気のないひやりとした手を包み込んだ。簡単に手の内に収まってしまう、頼りない手。
 
守ってきたつもりだったのに。
 
慈恩は自分の手ごと、その華奢な手を引き寄せて、額に当てた。己で掻きむしった首に、不思議そうに触れた斗音が、痛々しかった。この手が、赤く染まっていたのだ。
「・・・・・・俺が傍にいちゃ・・・・・・駄目か、斗音・・・・・・!」
 白い手をぎゅうっと握り締める。そこへ、静かなノックが鳴って、そうっと嵐が顔を出した。
「・・・・・・斗音、気がついたか?」

 はっと顔を上げると、嵐がそっと入ってきた。 そのあとに、すらりとした長身の、神から美という美の全てを与えられたのではないかと思える医師が続いた。
「・・・・・・まだ意識は戻らないか?とりあえず点滴を外そう」
 美の化身のような彼が言って、斗音の休息を妨げないように静かに、しかし手早く点滴を外していく。
「嵐、薬局に行って薬を取ってきてくれ。俺の名前を出せば渡してくれるはずだ」
「あ、嵐、代金」
 慈恩が立ち上がろうとすると、滝が手でそれを制した。
「斯波さんが払っていった。その見返りに、今度は弟も一緒に食事をしたいから、絶対に断るな、という伝言を受けている」
「・・・・・・え?・・・・・・でも」
 常識外れなその言い分に戸惑う慈恩に、部屋を出ようとしていた嵐がくすっと笑って付け加えた。
「無駄ムダ。そう言ってるなら、あいつは金返そうとしても絶対受け取らねえよ。ついでに、本当に食事に誘ってくるし、断らせてくれない。そういう奴だよ」
 裏家業でも悪い奴じゃないから、と言い残して、嵐は滝に言われたことを遂行するため、部屋を出て行った。斗音が気を失っている今、実質滝と二人になって、しんとした空気に慈恩はわずか緊張をまとう。それを察知したのか、ブロンドに見まごうばかりの薄茶の巻き毛を肩の後ろに流して、滝の方が口を開いた。
「・・・・・・慈恩、だったな。斗音は一度気付いたんじゃないのか」
 慈恩は舌を巻いた。嵐の周りには、こんな人物ばかりがいるのだろうか。類は友を呼ぶと言うが、この洞察力は人間業なのだろうか。
「・・・・・・どうしてそう思われるんですか?」
 問われた滝は、麗しい瞳を軽く伏せ、長い睫毛の影を頬に落とした。
「俺が診た限りでは、そろそろ意識が戻ってもいい頃だ。それに、お前の翳った表情が気になった。・・・・・・お前にそういう顔をさせられるのは、この兄貴くらいじゃないのか?」

 鋭い。医師としての有能さと、観察力と、その上での洞察力だ。少々近寄りがたい雰囲気を持ってはいるが、嵐がこの人物に惹かれたのがよく分かった。恐らく今まで生きてきて、嵐は自分が尊敬できる、自分を超えると感じられる人物に、初めて出会ったのだ。優しくすることには不器用そうだが、人情も持ち合わせているし、決して人に不快を与えるタイプではない。場の空気も読める。果たして人としての欠点を持ち合わせているのかすら、疑問に思う。
 
実はこのパーフェクトに見える医師には、予想もつかない弱点があって、嵐はそれを知った上で彼のことをこの上なく敬愛しているのだが、そんなことは今の慈恩に分かるわけがない。己の器量の狭さを感じながら、それでも慈恩は、この医師になら今の苦しさを吐露して、救いを求めたかった。
「・・・・・・先生、さっき、俺についてろって言われましたよね」
 秀麗な顔をやや傾けて、滝が慈恩に視線を送った。
「・・・・・・ああ。どうして?・・・・・・彼に何か言われたのか」

 やや間を空けて、慈恩はうなずいた。静かに、だが痛みを吐き出す。
「足手まといになりたくないと・・・・・・・・・・・・俺の傍には、いたくない、と」
 滝は斗音より少しくすんだ色の瞳を、軽く見開いた。慈恩は視線を上げる。
「俺、斗音についてなきゃと思ってました・・・ずっと。・・・・・・・・・・・・なのに、俺がいることで、斗音に喘息という負い目を常にプレッシャーとして感じさせていた。俺がしてきたことは、斗音にとって苦痛でしかなかったかもしれない。それでも、俺は斗音についているべきですか」

 最後の問いは血を吐くような祈りに似ていた。美しいラインを描く眉を寄せ、滝は白い親指をその唇に当てて、わずかばかり考える仕草を見せる。ややあって、今度は斗音に美しい瞳の焦点を合わせる。そして、もう一度慈恩に視線を定めた。
「もどかしいな。互いを大切に思うあまり、どちらも自分に引け目を感じるか・・・・・・。・・・・・・素直に愛してると、傍にいたいと言えるのは、己の気持ちに真正直な子供の心の持ち主だけだ」
「・・・・・・先生・・・・・・」
 滝は長い指でそっと斗音の涙の跡を拭った。
「・・・・・・ついているべきか、と言ったな。義務や責任感からそう思っているのか、お前自身がついていたいと思っているのか」
 今度は敢えて慈恩に視線を向けず、淡々と言葉を紡いだ。慈恩は唇を噛む。
 心配で、目を離したくなくて、ついていたいと思った。それは自分の意志に間違いない。でも、自分しかいない、自分がついていなければと思っている椎名慈恩が、確かに存在した。滝の問いに、簡単には答えられなかった。
 答えを返せずにいる慈恩に、滝はわずかにうなずいた。
「・・・・・・人の心ほど複雑なものはないな。・・・・・・でも、ひとつだけなら言える。少なくとも今、この状態で、お前が斗音の傍を離れるべきじゃない。今もしお前が離れたら、彼はもっともっと不安定になる」
「・・・・・・でも、斗音の発作はストレスだったみたいだし・・・・・・」
 信じきれずに、慈恩が言葉を濁す。美しい医者は、野に咲く一輪の清楚な花が風に揺れたかと思うような、微かな微笑みを浮かべた。
「言っただろう。人の心は複雑だと。・・・・・・恐らくお前の兄は、苦しんでいる。それがお前に対する引け目だけなのかは分からないが・・・・・・自分がつらい時は、心許せる人間に、傍にいてもらいたいものだ・・・・・・」
 最後の言葉は、慈恩にと言うより、自分の思いを心の内に確かめているようだった。それでも慈恩は少し、自分が斗音の傍にいることを許されたように感じた。滝が美神の生まれ変わりといっても過言ではないような外見の持ち主だったから、なのかどうかは分からないが。

 それでもこの一件が、二人の本音と遠慮が交錯した上で、少なからず、二人の関係に溝を穿つことになってしまったのだと、五ヵ月後の慈恩は気づくことになる。でも今は、この不安な思いに胸の内を支配されて、例え予知能力があったとしても、気づくことの敵わない慈恩であった。

   ***

「なんてことを・・・・・・!」
 絢音は激怒し、しかしそれをあからさまに表に出すことも敵わず、絶句した。雅成の緊張した顔も、青ざめている。
 椎名慈恩が正当に九条家の血を継いでいる少年であり、絢音たちが彼を本家の養子として迎えようとしているという大ニュースは、たちまち九条家親類全てが知ることとなった。十七年前体裁をおもんぱかるが故、親類一同で見捨てた子供が、九条家の血筋を守ってくれるのだ。外の人間には、親を亡くした可哀想な少年を引き取る九条家の美談であり、内々には正統な九条家当主となる人物を迎え入れる。その上、そのことで絢音に散々恨みの念を浴び続けてきた人間も、それから解放され、絢音は自分の本当の息子と幸せをつかむことができる。全く、これほどうまい話はない。
 しかし、絢音たちがそのために提示してきた条件は、その双子の兄として育てられてきた椎名斗音という、全く九条の血を引かない少年も一緒に引き取る、ということだった。彼自身、美少年と言うにふさわしい外見を持ち、その中身も外見に劣らず魅力的であったので、そこまでは何の問題もなかった。しかし、その外見が、ただの美少年ではなく、混血による美少年を象徴的に表していたがために、九条家の前当主である重盛に強固に撥ねつけられたのだ。
 現当主はいわゆる婿養子なので、発言権は低い。むしろその妻である貴美枝・・・・・・絢音の母や、九条の分家に嫁いだその妹である美弥子の方が、まだ力があった。絢音は気性から、母親に対して強く出ることがあるが、本来ならそんなことを許される立場ではなかった。
 絢音と雅成が慎重に運んでいた計画がばれて、それからの九条家の動きは無残なまでの家意識によって、それぞれの自己中心的な思いのままに、絢音たちが恐れている方角へ向かっていた。
 そして、緊急に事実を求める身内と、状況の進展を知ろうとする親族が集まり、その場で絢音と雅成は驚愕の事実を叔母である女性から聞かされたのである。
「どのみち、養子に迎えようとするのなら、打ち明ける事実でしょう?貴女の元へあの子を迎え入れられるように、わたくし手を回して差し上げたのですわ。残念ながら、本人がいらっしゃらなくて、お兄さんが出られたから、手っ取り早く事実を教えたまでです」
 美弥子は分家に嫁いだせいか、最も家意識に精神を支配されている一人である。本家が強くなければ、分家なんてともすれば忘れ去られてしまう。そんな状況も手伝って、彼女は他人を思いやるより先に、家を、そして自分を思いやってしまうという悪徳を持っていた。
「まだ私はあの子に何も言っていなかったのです。偶然にも自然な中で知り合って、親交を深めてきていたのに、それを知ったら、私たちのことをなんと思うでしょうか。最初から仕組まれていたのだと、その上斗音くんは必要ないだなんて・・・・・・養子どころか、呆れられて九条家は見捨てられます。どうしてそのことがお分かりにならないんですの」
 今までの自分たちの苦労に対しての、叔母のあまりの仕打ちとそれを理解しようともしない態度に業を煮やして、絢音は耐えかねて思いを言葉に載せた。ところが、それは重盛の、地に響くような声でやはり打ち砕かれた。
「過ぎたことを責めたてて、どうなると言うのだ、絢音。それに、美弥子の言うことも一理ある。このままいつまででもじらしておいても、結局最後に突きつけることになる。どっちにしろ、外の血だけではない。兄として育ってきた少年、病持ちだというではないか」
 絢音と雅成は、同時に視線を合わせた。彼らのことを調査してもらった時、既に斗音の喘息の情報は得ていたが、そのことは誰にも話していなかった。あれ以来、決して調査書も人目に触れぬよう、雅成しか番号を知らない金庫に入れてあったはずだ。なのに、なぜ祖父がそのことを知っているのか。
 二人の間に瞬間に交わされた疑問を知ってなのか、貴美枝が答えた。
「貴女が養子に迎えたいといっている人のことを、何もせずにはいそうですか、と受け入れるわけにはいきません。こちらで改めて調査させました。慈恩という少年、彼はどうやら本当にあなたの息子に間違いありませんし、剣道で全国まで名を馳せていて、頭脳明晰、容姿端麗、文武両道、本当に文句の付け所がありませんでした」
「さすが、九条家の血を引いているだけありますわ」
 雅成ですら、美弥子の言い方にはかなり悪意のない棘を感じる。妹の発言を大して気に止めず、貴美枝が続けた。
「けれど、斗音という少年は、今でこそまともに学校生活を送っているけれど、小学校四年生から五年生にかけて約一年間入院生活だったそうですね。気管支喘息でも、結構重いそうですわ。今でもたまに発作を起こすのだとか。更に言えば、あの子達を育てていた両親とも、病気で亡くなっているんですって?母親が同じ喘息で、そして父親はくも膜下出血で。どちらにしても、二人の間に生まれた子供ですから、決して身体が強いとは思えません。お父様でなくても、このような子を九条家に入れるのはどうかと思います。それに、絢音さん。二人は一応双子という形であれ、斗音という少年が兄。九条の本家を、血のつながらないこの子に継がせるわけにはいかないし、兄ではない弟に継がせるというのも、酷な話ではないのですか?」
 事情をよく知らない、貴美枝たちの従兄弟に当たる人たち、絢音の従姉妹たち、みんなして好き勝手なことを隣同士でつぶやき合いながら聞いている。斗音の生活も九条家の方で秘密裏に保障して、誰かに面倒を見させれば、慈恩も納得するのではないか、とか、既に話してしまったのだから、斗音から慈恩を説得させるよう頼んでみればいいのだとか、全く好き放題である。人としての心を、まるで存在していないかのように、彼らは話す。彼らにとっても、九条家が第一で、それ以外のものは二の次なのだ。それが例え、人であろうとも。

 絢音は、今まで抱いていた願望・・・・・・斗音と慈恩を九条に迎えて、誰もが幸せでいられるはずの方程式がどんどん狂っていくのを感じた。もう元には戻らないし、間違いなく彼らを巻き込んでいく。この九条の家という怪物に、飲み込まれていく。
「・・・・・・皆さんのおっしゃりたいことは、よく分かりました。それを踏まえた上で、やはり私たちが彼らと直接話をしていきたいのです。これ以上ことを複雑にしたくないんです。ですから、何も知らない彼らに九条家の事情を押し付けないでください。お願いします」
 眩暈をこらえながら、絢音はそう言うのが精一杯だった。雅成もお願いします、と頭を下げた。せめて、あの素敵な二人の兄弟が傷つくことのないように・・・・・・。そう願わずにはいられなかった。

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