« 十二.絆に穿たれた溝 | トップページ | 十四.鎖 »

十三.斗音の決心

 ぎらぎらと午後の太陽が照り付けている中、それでも如月の生徒は元気よく部活動に励んでいる。インターハイが終わる頃には、間違いなくみんな真っ黒に日焼けしていることだろう。
 同じように過酷なのは、室内での部活である。日焼けとはあまり縁がないのだが、室内というのは大概ものすごく蒸し暑くなる。まだ椎名兄弟の属するバスケットや剣道などは、窓やドアを全開にして風の涼感を求めることが可能だが、見ていて可哀想になってくるのはバドミントン部である。風があっては活動できないので、休憩時以外は完全に締め切って活動していた。まさしくサウナ状態である。体育館の扉がきっちり閉ざされているのを見ると、生徒たちはその中の状態を思って、暑さの中、背筋を一瞬だけ冷やすことができた。
 しかし、剣道には剣道なりに悩みがある。
「ああ~、思いっきり顔が拭きてえよ~」
 厳しい練習の間に、五分間だけ与えられた休憩中である。ぼやいたのは田近だった。手ぬぐいでフォローしきれない汗が鼻に伝って、鼻がかゆみを訴えるのだが、面に遮られて手が届かない。いちいちそのたびに外すわけにもいかない。面をつけるのは結構面倒なのだ。
「それにこの臭い、何とかならねえのかよ~」
 なるわけがないのだが、どうも言わずにいられないらしい。慈恩は苦笑した。防具は洗えないので、とにかくしっかり乾かして消臭・殺菌スプレーで毎回手入れするのだが、これだけ汗だくになって、それが簡単に乾くはずがない。その汗の臭いと藍の臭いが絶妙な刺激臭となって、剣道部員を襲うのだ。
「お前ももうひとつ、防具買えば?」
「こんなくそ高いもん、おいそれと買えるかよ。いいよな慈恩は。全国に行くたびに奨励金とかもらえるし、練習用の防具が学校からプレゼントされたりするし、もともと持ってるのもあるし、試合用のもあるし、上手に使い分ければそれなりに清潔にできるもんな~」
 せっかく提案したのに、あっさりと否定されて、慈恩は苦笑を重ねる。その度に持ち帰って手入れをするという苦労を、慈恩は毎回しているのだが、そんなものは所詮、やっている者にしか分からないのだ。
「学校から支給されたのは、一応全国を目指すことが前提だし、俺だけじゃない。近藤さんもそうだし」
「うーん。でも、なんか近藤部長はあんまり羨ましくない」
「どういう理屈で?」
「何となく」

 夏休みは間近であった。三年生が最後に懸けるインターハイも、並行して近づいてきていた。おかげで練習時間もかなり長引いており、気合がなければみんな参っているだろう。
「慈恩、今回の目標は?」

 不意に話題を変えてきた田近に、慈恩は柔軟に対応した。
「団体では全国で二勝すること。個人は準決までいきたいな」
「去年はベスト8だったもんな」
「頼りない答えだな、椎名」
 いきなり割って入ってきたしゃがれ声に、田近はびくっと顔を上げ、慈恩は肩をすくめた。

「一応、去年のインターハイより一ランク上を目指してるんですが」
「馬鹿野郎。次期部長なら、士気を上げるために全国制覇が目標だと断言してみろ」
 近藤は毎日の長い練習の中で、威勢のいい声を張り上げ続け、すっかり声を枯らしている。そんなところは本当に部長として頼もしいものだと、慈恩は尊敬する。
「また勝手にそんなことを・・・・・・俺には先輩みたいにみんなの士気を高めるために声を枯らしたり、自分がへばってても部員の様子を見て回ったりするだけの気合が欠けてますよ」

「勝手もくそもあるか。誰もが思ってることだ。思ってないのは本人くらいだろう」
 近藤は手にした竹刀で慈恩の面を小突いた。田近が怯えながらも慈恩に疑問を投げかける。
「え、慈恩、部長やらねえの?お前以外、いないじゃん」
「ほらみろ。大体、何でそうこだわるんだ」
 痛いわけでもないのに、慈恩は小突かれた辺りを軽くさすった。
「近藤先輩の後を務め上げる自信がないだけですよ」
 いや、むしろよりよく剣道部をまとめられると思う、と言いかけて、田近は言葉を飲み込んだ。
(あぶねえ、部長がいるっつーの)
「何言ってやがる。俺よりお前の方が、はるかに器だろうが。お前だったら何も言わなくても、何もしなくてもみんなついてくる」
 近藤の言葉に、むしろ驚いたのは田近である。彼自身、慈恩の近くにいるせいもあって、やや近藤の評価が低かっただけに、その考えを一瞬にして塗り変えた。
(この人、慈恩には滅茶苦茶厳しいから、部長にするために鍛えてんのかと思ったけど、そうじゃない。滅茶苦茶期待してんじゃん。すごい、ちゃんと人を見る目があるし、自分のこともちゃんと理解してるんだ)
 そして、気づく。
(さっき慈恩が言ったの、皮肉じゃない。この部長、マジで部員に気合入れるために自分が声出して、枯らして、みんなと同じメニュー、人一倍気合入れてやって、休憩の五分にこうやって様子見て回ってんだ・・・・・・)
 田近が、恐らく初めて尊敬の念を含んで近藤を見上げると、その視線の先で、面の奥の顔がにやっと笑った。
「いい加減、腹くくれ。インターハイが終わったら俺たちは引退だ。その時お前が部長を引き継いでくれるなら、安心して任せられるだろう」
 はあ、といまいちはっきりしない返事をして、慈恩も近藤を見上げた。
「考えておきます」

 慈恩の躊躇う理由は、多々あった。今現在、慈恩は手一杯だったのだ。執行部もあるし、部長になったばかりで、如月祭に追われて部活に出られないのが続くのは目に見えている。家のこと、剣道と並行する勉強のこと、そして何より斗音のことが気がかりだった。もし兄が倒れたりしたら、部活はそっちのけである。朝練に出られないこともある。それで果たして部長が務まるだろうか。全国を目指す剣道部である。学校の期待もある。近藤は器だと言ったけれど、自分がそれほどの器量を持ち合わせているとは思っていない慈恩であった。

 一方、インターハイを目前にしながら部活ができずにいるのは、斗音である。
「斗音、二年三組と三年三組から費用の増援要請が来てたろ。その内訳の検討って、できてるか?」
OKです。どれも割高になってるわけじゃないし、やむを得ないですね。自分たちで捻出した上でのヘルプですし、一応予備費の投入は可能だと思います。すいません、うちのクラス、計画性がなくて」
 それこそ、インターハイが近いのに、三年生として部活に参加できていない気の毒なテニス部部長の今井と、夏休みに入る前の必死の調整が続いていた。

「とは言っても、各クラス一万円が限度ですね。それ以上は、他のクラスからも苦情が来るし。うちのクラスは一人五百円徴収しましたけど、三年三組は一人七百円の徴収だったみたいですよ」
「一体何にそんな金が要るんだよ」
 溜息交じりの今井に、斗音が苦笑した。
「うちはとにかくセットです。いろんな場面をやるからいろんなものが必要で。レンタルでもけっこうするんですよ。ベルばらは言わずと知れた衣装代です。自分たちの手で作ってはいるようですが、それでもドレス一着にかなりかかるようですね。ベルサイユ宮殿の貴族たちがたくさん出てくるし、何よりマリー・アントワネットはかなり豪華にするらしくて」
「男のマリー・アントワネットのために、そんなに金かけてんのか」
「三十五人集まってますから、中には結構女装の似合う人がいるようですよ」
 オープニングの詳細と、開催宣言で行う執行部の寸劇プランを、生徒会専用のノートパソコンで打ち込みながら、今井は舌を出した。
「似合ったって、男だろ。そういや、オスカルは誰がやるんだ?」
「さあ、俺も知りません」
 リハーサルに使う体育館などの振り分けを用紙に書き込みながら、斗音はふと思う。
(あの人なら、ぴったりかも。ちょっと背が高すぎるけど)

 思い出したのは、一週間ほど前に世話になった医師である。とにかく美人だとか美しいだとか言う言葉は、この人のために存在するのだと思った。

(まさかあの人が嵐の想い人だったとはなあ・・・・・・)
 一瞬金色なのかと思うような薄い茶色の長い巻き毛は、すらりとした背の中ほどまであり、全く手を加えたわけではないと言うから驚いた。冷静沈着で、まるで穏やかに凪いだ海面か湖面に似たオーラをまとっていて、その外見の、あまりの麗しさも手伝って、容易に話しかけることが許されないような気持ちにさえなった。
 正式に医師免許を持っている彼は、小学校六年の時点で中学校過程を卒業し、本来なら中学校をみんなが卒業する時に、既に大学二年生だったという。現時点で十九歳。あの総合病院で去年一年研修医として働き、既に今年からは一人前の医師として務めているのだそうで、異例の天才医師なのだという。得意分野や専門分野というものは特になく、オールマイティーに診ることができるらしい。
(そんなすごい人間がいるとは思わなかった)
 如月にいると、ある程度能力があって当たり前で、その辺の感覚が麻痺することがある。その中でも彼の淡紫色の髪の友人は格が違うと思っていたのに、そのはるか上を行ってしまうような人だった。
(男の人だったけど、あれは嵐じゃなくても惚れるよなあ・・・・・・)
「・・・・・・思う、斗音?」

 ふと話を振られたことに気づいて、慌てて斗音は現実に意識を引き戻す。

「あ、すみません、なんでした?」 
 今井はちらりと斗音を見てから、特に気に留めた様子もなく、もう一度繰り返した。
「LOVE&PEACE+Pleasureだから、寸劇は戦いが終わって平和になるってのが無難だと思うんだけど、なんか暗いのは似合わねえだろ。ゴジラにしていいか?」
「ゴジラ?」
 思わず斗音は素っ頓狂な声を出してしまった。今井がにやっと笑う。
「人々の想い合う愛によって、ゴジラは自分の振る舞いの愚かさに気づき、母なる海に戻っていきました。めでたしめでたし」
「・・・・・・確かにそれならテーマに沿ってますが・・・・・・Pleasureの意味で・・・・・・ゴジラってことですか?」
「そうそう。なんかこう、面白味を入れねえとなあ・・・・・・と思って」

「はあ・・・・・・でもゴジラ・・・・・・作るの大変ですよ?」
 指摘され、今井は仰け反る。
「ああー、予算がないんだった。もっと軽装でいけるやつにしよう。何がある?」
「えぇっ・・・・・・?」
「ほら、ゴジラ系で・・・・・・」
 ここで松井と言うと自分の思考力が疑われるのを感じ、斗音は余計な思い付きを掃き捨て、慌てて考えてみた。
「特撮ですよね?か、仮面ライダーとか?」
 パチン、と指を鳴らして、今井は指を差した。
「あ、それいいね。・・・でも、仮面ライダーは単独行動だからな。あれだ、戦隊ものにしよう」
「戦隊もの・・・・・・?」
「何とかレンジャーってやつ。で、俺が赤で莉紗がピンク、弓削が青で武知が黄色。慈恩が緑でどうだ?」
 何だか末恐ろしいものになりそうな気がしてきて、斗音は身震いした。とりあえず今読み上げられた名前の中に自分のものがなかったことに、ほっとする。
(全身タイツでも、着る気なのか?)
「藤堂が助けを求める少年で、お前が敵の黒幕。よくいるだろ、そういうキャラ。どうだ?」
 なぜ自分に敵の黒幕が回ってきたのか、甚だしく疑問に思った斗音であるが、気がかりなもうひとつのことを、とても楽しそうな生徒会長に考えてもらわねばならなかった。
「あの・・・・・・ひとつ気がついたんですが」
 止まらない発想の宝庫である今井の頭の回転に、そっと石を投げ入れる。
「何だ?」
「あの・・・・・・戦隊ものの特徴として、一度やられた敵が必ず巨大化して復活し、それを五人が巨大なロボットを出動させて勝つというセオリーが・・・・・・」
「・・・・・・」
 今井の脳の回転が止まった。またしてもゴジラと同じ障害に、思考の中断を余儀なくされたのだ。
「ゴジラより厄介じゃねえか」
 あ~あ、と溜息をついて、今井は背もたれに身体を預けた。

「面白いと思ったんだけどな。となると、やっぱ仮面ライダーくらいのほうがいいか。仮面ライダーはあくまで人間サイズだからな。チャリに飾り付けてバイクにして、変身前が俺、変身後が弓削か慈恩だな。で、敵キャラが何人かいて、助けを求める女子高生が莉紗。愛と正義の戦士、仮面ライダーによって平和がもたらされました、と。それならOKかな」
「・・・・・・俺一人では何とも言えませんが」
 斗音は苦笑した。とりあえず、何とか面白いものが出来上がりそうなのは確かである。面白い物好きの弓削や武知は迷わず賛成するだろう。莉紗辺りがどのような反応を返すのか、ちょっと想像がつかなかった。
「よし、とりあえず大まかに決めとけば、反対も減るだろ。さて、部活にも顔出さなきゃいけねえし、あとは家でやるか。斗音、お前どうする?」
 斗音は一瞬言葉に詰まる。部活は滝から禁止令が出されているので、絶対にできない。
「・・・・・・あと少しでリハーサルのスケジュールができるので、これだけ完成させていきます。鍵は閉めておきますから、今井さん、部活行ってください。インターハイ前に部長がいないと、テニス部員も心細いでしょう」
 微笑んで言うと、今井はわずかに目を細めたように見えた。でもすぐに明快に笑った。
「部活に俺が行けなくて、一番心細いのは俺だ。やっぱり自分がどれだけやって、どれだけできるのかを知って、初めて自信ってものが持てるんだからな。インターハイまでは、なるべく部活に行きたいと思ってるよ」
 今井は自分が部活で練習できない分、学校帰りにちょっと離れたストリートテニスコートに寄ったりして、一人で特訓している。そのことを知っているのは数人だが、斗音もそのうちの一人である。それを知った時、この生徒会長のことを斗音は尊敬した。慈恩は近藤部長に強制されて、遅れた分の練習を取り返すが、今井の場合、その機会を作ってくれる者がいない。自分で埋め合わせるしかないのだ。そして、今井はそれができる人間だった。常に人一倍の仕事を抱え込んでなお、己の鍛錬にも手を抜かないその姿勢が、全校生徒に絶対の信頼を得ているのだろう。
 USBメモリーに今打ったデータを保存して、立ち上がった今井は、それをかばんに放り込んだ。
「あんまり根詰めるなよ。なんか今のお前は、ともすると壊れちまいそうな気がする」
 斗音の心臓がどくん、と収縮した。多分、表情にも表れてしまっただろう。一瞬の油断に後悔しながらも、すぐに微笑みに変える。
「久しぶりに病院に泊まることになりましたからね。あれはさすがに滅入りました。ああならないように気をつけます」
 取ってつけた対応だったが、今井は先ほども見せたように、わずかに目を眇めただけで、それ以上掘り返そうとはしなかった。
「そうして欲しいもんだな。お前の力を、俺はすごくアテにしてる。プレッシャー掛けるつもりはないけど、そのために自分を大事にしてくれ」
『・・・・・・身体大事にしろよ』
 今井の言葉に、いつかの近藤の言葉が重なった。慈恩に助けられたあの時の思いと、慈恩のことで苦しむ今の思いが混ざり合って、抱え込んでいたものが一気に膨れ上がっていくのを、胸の内に自覚する。
「あ・・・・・・りがとう、ございます・・・・・・」

 思わずじわりと涙の予感を感じて、斗音はうつむいた。
 
かなり精神的に参っているらしい。九条家に、慈恩のためには要らない存在なのだと言われた自分のことを、こんなふうに心配してくれる人がいるということが、こんなにも胸を突く。
 
斗音の様子に、今井が不審そうに声を掛けた。

「・・・・・・・・・・・・斗音・・・・・・?」
 何でもない、と言いたかったけれど、今声を出せば、胸に込み上げている思いが溢れて止まらなくなるのが分かっていた。ほと、と自分の膝の上に、目にしか見えない音を立てて、透明な雫が零れた。
「・・・・・・斗音・・・・・・・・・・・・」
 今井の声の表情で、涙を零したことがばれてしまったと分かった。忙しい今井を引き止めてはいけないと、必死に感情を押さえ込もうとするが、そうしようとすればするほど、どうしようもないくらい涙が溢れてくる。
 その二粒が両目から転がり落ちて、〇コンマ何秒の時間差で制服のズボンを濡らした時、斗音は右腕を勢いよくつかまれ、次の瞬間にはその腕が引き寄せられた方向に、身体ごと移動させられていた。
 絨毯の上に、シャーペンが微かな音を立てて転がった。
「い・・・・・・今井、さん・・・・・・」
 震える声で、自分を抱きすくめた生徒会長の名を呼んだ。その声に反応したように、更にその腕の力が強くなる。
「・・・・・・お前は、無理しすぎだ」
「・・・・・・・・・」
 答えることのできない斗音のやわらかい髪を、今井はくしゃりとつかむように乱した。
「何があった。どうして一人で抱え込んで・・・・・・慈恩にも言わずにいる?このままじゃ・・・・・・本当にお前、潰れちまうぞ」
 斗音は、自分が今井を見くびっていたことに気づいた。全校一の信頼を集めている男は、見抜いていて、それでも知らないふりをしていてくれたのだ、今まで。
 今井の言う通りだった。あの日、絢音の叔母と名乗る女性から聞いたことを、斗音は慈恩に話さなかった。慈恩に同じ思いを味わわせたくなかった。自分たちが双子どころか、血のつながりすらないのだということを知って、自分は今まで創り上げてきたものが、全て嘘の上に成り立っていた、架空のものになってしまったような虚無感に襲われた。そんな思いに、何の意味があるだろう。それに、悟ったことがある。
(慈恩の翼を縛り付けて飛べなくしているのは、俺だ)
 慈恩は正統な九条の後継者なのだから、本当の母親である絢音の元で、ある限りの力で自由に羽ばたくことができるのだ。何にも囚われずに。そのためには、九条には要らないと言われた自分が離れるしかない。檻の扉を開放してやらなければ、慈恩は空を見ようとせず、その可能性をも閉ざしてしまう。慈恩が九条の血を継いでいるとか、そんなことはどうでもいい。自分という枷に囚われている慈恩の鎖を断ち切らなくてはならない。九条の人間がどんなに言葉を尽くしても、慈恩の心は動かないだろう。彼の心を変えることができるのは・・・・・・
(俺が、九条家に行けと・・・・・・言うしかない・・・・・・)

 ずっと病室で、慈恩が自分の脇に伏せて眠っているのを見ながら、斗音は考えていた。
 
傍にいたくないと言った自分。それでも慈恩は傍にいてくれる。ずっとこのまま時が止まればいい。苦しいだけの現実が全部夢だったらいい。今まで通り双子の兄と弟のままで・・・・・・。慈恩は自分のことを大事に思ってくれている。それは痛いほどよく分かる。このままでいられたらいい。何もなかったようにこのままで。そうして・・・・・・

(慈恩をずっと鎖につないでおくつもりなのか、俺は)
 そう思ったら、涙が溢れて止まらなかった。つらかった。自分からこの兄弟関係に終止符を打たねばならないのが、つらかった。でもそれでは駄目だ。慈恩は必要とされている。
『弟をいつも従えてるんだよな。身体が弱いとか何とか言って』
『弟は強いもんな。虎の威を借る・・・・・・ってやつ?』
『でも、影に隠れてんじゃねえからさあ。それを下僕扱いしてんだぜ』
 鮮明に記憶に刻まれた言葉。自分たちの真実はそうじゃない。でも、周りから見た現実。いつまでも縛り付けておくわけにはいかない。羽ばたく力をつけた慈恩を羽ばたかせてやるのは、兄としての・・・・・・それが例え虚無の上に成り立ってきたものであったとしても・・・・・・使命ではないのか。
 苦しくてつらくて、挫けそうになって、それでも一人で考え続けて、自分がどうすべきかという結論に、斗音は到達したのだった。
(慈恩のためになることを、今度は俺がしなきゃ)
 今まで信じてきたものを打ち崩され、自分の存在を拒否され、その上その決断を抱えていた斗音が、ろくに眠ることもできず、精神的に重い負担を背負い続けていたのは当然だった。もちろん、慈恩にも話すことはできない。
 一週間抱え続けてきた思いのタガを外されてしまった斗音に、もはやそれを止める術はない。今井に打ち明けることは叶わなくても、その頼れる腕と胸に、言葉にできない分の涙を受け止めて欲しかった。
 斗音は、言わないのではなく、言えないのだと、今井はすぐに悟っていた。抱きしめられたまま、腕の中で震えながら涙を零す、この優秀な後輩に、ひどく心を揺さぶられた。
(・・・・・・俺では駄目なのか。癒してやることは、できないのか)
 それを言葉にすれば、ますます斗音を困惑させることは分かっていた。だから今井は唇を噛む。今まで何度こうしてきたろう。言いたいことを言わず、気にしていない風を装って。
「・・・・・・泣きたいなら、泣けばいい。何も言えなくても、少しは楽になる」

 本当は、打ち明けて欲しかった。一体何にそんなに苦しんでいるのか、理解してやりたかった。可憐な花がほころぶような笑顔を、取り戻してやりたい。その想いを自覚して、今井はアッシュの髪を、それを絡ませた指ごと握り込んだ。
(・・・・・・参ったな・・・・・・彼女(あいつ)を裏切っちまう・・・・・・)
 切ない想いを噛み締めて、今井は抱き締める腕に力を込めた。

   ***

 ところで、絢音が如月高校を訪れなくなり、不都合の生じた人間が一人いた。彼女の専属の運転手兼ボディーガードをしている三神である。
(ちっ、これだからお嬢様ってのは気まぐれで困る)
 完全に逆恨み状態なのだが、彼自身あまりそのことに気づいていない。彼はただの九条家に仕える使用人であり、九条家の内部事情を詳しく知っているわけではない。しかし、彼の仕事が密かに一つ増えてから、一般の使用人より、今九条家に起きている状況を知ることができるチャンスと情報を得ていた。
 これまで絢音のわがままに忠実に応えてきたことで、三神は絢音から絶対の信頼を獲得していた。そして、九条の人間からは、男性でありながら絢音の美貌に惑わされることなく、ちゃんと一線を引いた働き振りを示す姿から信用を得ていた。その立場を利用したのが、絢音の母であった。
 旧式的なお嬢様である絢音の母は、お決まりのように機械にとことん弱かった。絢音が企んでいることを調査するにも、パソコンは開けない、フロッピーの使い方も分からないで、あっという間に行き詰まってしまった。そんな時、絢音の側にいて彼女の動向を探ることができ、ちゃんと大学まで卒業している三神を、スパイとして起用したのだ。もちろん仕事次第で臨時の給与をつけて。
 三神は貴美枝の期待以上の働きをした。彼女が興信所から得た慈恩たちの情報を、フロッピーからこっそりプリントアウトし、彼女宛てに来ている慈恩からのメールを開き、彼らの写真も手に入れた。そして、椎名兄弟と絢音たち夫妻が会って、食事をしたりショッピングをしたりしたのをつけていたのも彼だった。彼が貴美枝に報告した情報は高額になった。そして彼は臨時収入とともに、自分の求める情報をも手に入れることになった。
(フランス人とのハーフで、先天的な気管支喘息を患うか。美人薄命とか、薄幸美人ってやつだな。ピアノをいとも簡単に奏でるあの白い細い指。そいつがその指で俺にしがみついたら・・・・・・)
 身体の奥底からぞくぞくするような興奮が三神を揺さぶる。
 今井が基本的にはノーマルな性志向を持っているのに対し、三神は完全にアブノーマルなそれの持ち主だった。彼は異性に魅力など欠片も感じない。よって、絢音の近くにいることで仕事に支障をきたすようなことなど何もなかったのだ。その三神が今一番興味を持っているのが、椎名斗音だった。

 ところが、絢音が如月高校へ通わなくなったことで、待っている間に用があると偽って、彼を遠目に見たり探したりするという密かな楽しみの機会が、なくなってしまったのだ。そうすると、忘れるどころかますます手に入れたいという欲望が、三神の中に沸き上がってきた。あの色白で華奢な身体に触れることを思う度、彼が恋しくてたまらなくなった。
 
だが、彼を一方的に知っているだけの自分が、妄想通りの未来を迎えるには、相当な遠謀とチャンスが必要である。三神はあらゆる場合を想定して、己の願望を現実に変えるべく、対策を練っていた。あとは最大の難関である、チャンスを射止めることができるかどうかが鍵を握っていた。

九条家の中では、慈恩を養子に迎えるにあたって都合の悪い斗音の存在が、今は専らの話題になっていた。絢音たち夫婦にしても、斗音が本家を継ぐのは本意ではなかった。あくまで絢音の血を分けた慈恩に継がせたい。それに、九条という重荷を、あの身体の弱い斗音に背負わせるのは、あまりにも忍びない。しかし今まで双子とはいえ、兄として育ってきた斗音を引き取っておいて、慈恩に継がせるのは体面的にもよくない。慈恩にも斗音にもずっと嫌な思いをさせることになる。絢音と雅成も、悩んでいた。
「あの慈恩くんと斗音くんを引き離すのは、可哀想だよ」
「分かってるわ・・・・・・。だけど・・・・・・このままじゃ私たち、一緒にいられなくなるわ。そんなのは嫌。・・・・・・慈恩が九条を継いでくれたら、それでいいんだけど・・・・・・」
「でも、あの慈恩くんの姿を見ただろう。病気を持つ斗音くんをいつも見守っている。さりげなくサポートしている。あの二人はお互いにお互いの存在を必要としてるはずだよ」
「どうしたらいいのかしら・・・・・・本当に、どうしたら・・・・・・」
 結局そこで行き詰まって、絢音はほろほろと涙をこぼすのが毎日のように続いた。夢にまで見た自分の息子との生活が目の前まで来て、大きな壁に遮られて見えなくなってしまったのだ。このチャンスを逃すということは、二人の関係も一気に危うくなる。まさに千載一遇のこの機会は、自分たちが何もかもを手に入れるか、何もかもを失うかの分岐点でもあったのだ。
「斗音くんが、せめて普通の男の子くらい丈夫になれば、慈恩くんもそれほど心配したりしないんだろうけど・・・・・・」
「先天的な上慢性的なものなんでしょう?それを治すことなんて、できるのかしら」
 できればとっくに治しているだろう。雅成は溜息をついた。
「早めに慈恩くんにも相談しなきゃいけないだろう。彼には養子のことを振ってあるんだし、斗音くんも一緒にと思っているのなら、早めに考えを改めてもらわなきゃならない。けど、このまま解決策もなしに相談したら、絶対に断られるだろうし・・・・・・」
 のろのろやっていたら、また先走る誰かが直接彼らとコンタクトを取ろうとして、ますます状況を悪くしかねない。斗音が先に全てを知ってしまったように。
「ねえ、雅成さん。もう慈恩は、あの子は全部知ってしまったんじゃないかしら。斗音くんが話さないはずないわ」
「でも、それならあっちから動いてもよさそうなものだよ。もちろんその場合は断られる確率が限りなく高いわけだけど・・・・・・」
 雅成は、賢明そうだった斗音が軽はずみなことをするようには思えなかった。自分たちが慈恩にすら話していなかったことを、簡単に打ち明けるだろうか。彼なりに、打ち明けていいものなのか、考えるのではないだろうか。
「そう言えば、叔母様は斗音くんに養子を自分から断ってくれって言ったら、分かった、そうするって言って電話を切ったって、おっしゃってたわよね」
「ああ、自慢げにね」
 その時の斗音の気持ちを思うと、雅成は胸が痛い。どんなに苦しかったことだろう。絢音もそれを聞いた時、我を忘れるくらい激怒した。しかし冷静に考えた上で、もしそうなれば万事うまくいくのではないかという、浅ましいまでの自己中心的な願いが存在していた。
「私、斗音くんがどんなにつらかっただろうって、想像したわ。到底彼の気持ちを解り切ることなんてできないけど・・・・・・。それでも彼自身が身を引いてくれたら、もしかしたらって・・・・・・。そんな自分が醜いことは、よく分かってるの。だから、どんどん自分が嫌になるの。私は・・・・・・どうしたらいいの・・・・・・」
 絢音は細い指を持つ両手で、自分の顔を覆った。
「絢音・・・・・・」
 妻が泣いているのがつらかった。自分たちのせいで、一度会っただけだが本気で二人を引き取りたいと、彼らの父親になれるのなら光栄だとすら思えた、あの椎名兄弟を苦しめることになってしまうのがつらかった。
「とにかく、今の状況の中で最善の策を考えて、慈恩くんに提案するしかない。斗音くんにも謝って、改めて話し合うしかないよ。絢音。ほらしっかりして。泣いてたって、何の解決策も出てこない」
 雅成が妻の肩を優しく揺すった時、軽いノックの音がして、背の高い九条家の使用人が姿を現した。咎められる前に、深々と礼をする。
「絢音様、雅成様。申し訳ありません、聞くつもりは毛頭なかったのでございますが、あまりに深刻そうなお声が中で聞こえたもので、お二人にとって、何か危険なことではとつい耳を傾けてしまったこと、お許しください」
 緊張感をみなぎらせた二人に、もう一度三神は深く頭を下げた。
「お二人があまりにもおつらそうなのを拝聴し、不肖ながら、差し出がましいことを承知で、わたくしめの考えをご提案させて頂ければと、こうして失礼を承知でお部屋に参りました」
 雅成は自分たちの会話を使用人風情に聞かれたことを悔やんだが、弱気になって藁にもすがりたい思いでいた絢音は、信頼している運転手兼ボディーガードの発言を許した。
「三神、あなたには何かいい考えがあるの?」
 しっかりした体躯の男は緩やかに笑みを載せ、うなずいた。
「はい。詳しいことは存じませんが、御養子にお迎えになりたい少年が気がかりなのは、斗音という少年の病気のこととお見受け致しました。ならば、その斗音という少年を常に気をつけて見ていられる者を、この九条家がお付けになるという条件を提示されてはいかがですか。家の世話をする家政婦と、泊まり込みで、今御養子候補がなさっている役割を果たせる者を派遣するのです。それで少なくとも、気がかりは解消されるかと存じます」
「・・・・・・理屈では確かにそうだが・・・・・・」
 雅成は何か苦いものを噛み締める。使用人として派遣された人間が、慈恩と同じだけ斗音を支えられるのだろうか。あれだけの絆を埋め合わせることが、果たしてできるのだろうか。そして、何より二人の気持ちは・・・・・・?
 絢音も同じことを思ったらしく、不安げに口を開く。
「あなたはあの二人のことを知らないから、簡単に言えるのだわ。斗音くんを支えてあげられるほどの人なんて、そうそう見つからないわ・・・・・・」
 もっともらしく、三神はうなずいた。
「わたくし、如月高校まで絢音様のお供をさせて頂いた際に、わずかながらではありますが彼らのことを見知っております。もし絢音様のお側を離れることをお許し頂けるのでしたら、この三神、力不足ではありますが、精一杯尽くさせて頂くことを約束いたします。今までお仕えさせて頂いた絢音様と、ひいては九条家に誓って、これまでに劣らぬ誠意を尽くしてご覧に入れます」
 今まで見たことがないほど真剣な眼差しでそう言い切った三神を、絢音は頼もしく感じた。雅成ですら、その真摯な思いに心を動かされた。
「・・・・・・雅成さん、三神をあの二人に会わせてみたらどうかしら。その上で私たちの事情を話して、二人に先日のことを謝って、改めて慈恩を引き取りたいって。二人はいつでも会うことができる距離なんだし、斗音くんの生活も心配ないって。慈恩が納得してくれたら、もしかしたら・・・・・・」
 まだ、あの二人の気持ちそのものの問題があったが、雅成としてもそれ以上の策は浮かばなかった。
「・・・・・・じゃあ、とりあえず二人に謝って、許してもらわないとね・・・・・・」
 雅成は、語尾をわずかに濁した。その前で、三神は深く頭を垂れた。その唇が吊り上がったことを知り得た者は、本人以外、この世のどこにも存在しなかった。

|

« 十二.絆に穿たれた溝 | トップページ | 十四.鎖 »

十字架の絆」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1084546/25557874

この記事へのトラックバック一覧です: 十三.斗音の決心:

« 十二.絆に穿たれた溝 | トップページ | 十四.鎖 »