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六.九条夫妻の事情

 十七年前の七月二十一日。夜明け前のほぼ同じ時間に、二つの生命が誕生した。
 
一つは、都会のある病院で、父と母に見守られながら、元気に産声を上げた。望まれて産まれて来た、母の遺伝子を受け継いで、全体的に少し、一般の日本人より色素が薄かったその赤ん坊。身体の弱い母親によく似ていたその子に、両親は、メロディの主旋律のように、いつでも仲間の中で主人公になれるような、元気で明るい子に育って欲しいと願いを込めて、斗音と名づけた。
 
もう一つは、密かに呼びつけられた産婦人科医の手によって、大きな屋敷の中の部屋のひとつで、産声を上げた。母親は、まだ十七歳という若さで、父親はその場に存在しなかった。いや、存在することを許されなかった。母によく似た黒い髪と瞳が印象的な赤ん坊は、名をつけられるよりも前に、周りにいた大人たちによって、母親から引き離され、母親にはその所在を一切知らされることはなかった。若すぎる母親は泣き叫んだが、家名の重さに逆らい切れず、我が子を奪われるという過酷な試練を受け入れざるを得なかった。

   ***

 斗音が生まれた直後、その父親であった椎名絽登は、嬉しさに舞い上がっていた。身体が弱かったにも関わらず、その子を無事産んでくれた妻が、果汁百%のりんごジュースを望んだので、それを買うため、自動販売機コーナーへスキップしそうな勢いで向かった。自分をこんなに幸せにしてくれた妻の喜ぶことなら、何でもしてやりたかったし、早く戻って生まれたばかりの息子の顔をもう一度見たかった。そして、ひとつの自販機の前で、立ち止まった。
 真っ白な、高級そうなタオル地の布団に幾重にもくるまれた、かごに入った赤ん坊が目に入った。自販機コーナーに来た人なら、絶対に気づく場所である。
 絽登は、生まれたばかりの息子をもつ身として、それに不信感をもたずにはいられなかった。そして、思わずのぞいて、驚いた。わが子と同じくらい、生まれたばかりの赤ん坊だったのだ。そんな赤ん坊がこんなところにいていいはずがない。こんなところに誰かが連れ歩くはずがない。まして、忘れていくはずがない。賢かった絽登は、すぐに悟った。この子は、置き去りにされた子だと。
 絽登は、そのかごに買い込んだ百%りんごジュースを入れて、妻の待つ病室へ持って帰った。妻の驚いたことといったら、なかった。
「絽登、誰もかご一杯りんごジュース飲みたいなんて、言っていないわ」
「違うよ。りんごジュースは十箱しか買ってない。自販機のところに、この子が捨てられてたんだ」
「・・・・・・え?」
 更に驚いた妻は、胸のクロスに手をやりながら、先ほど絽登がしたように、かごを覗き込んだ。
「・・・・・・・・・・・・まあ・・・・・・まだ生まれたばかりのよう。泣きもしないで・・・・・・弱っているんじゃないのかしら」
「寝てるみたいだけど?」
「確かにそうだけど、いくら七月って言ったって、生まれてすぐに放り出されて、平気なわけないわ。・・・・・・看護師さんたちに、この子のことを確認してもらいましょう」

 担当の看護師に、ごくごく内密に調べてもらったのだが、やはりこの病院で生まれた子供ではないということは、すぐ分かった。明け方に生まれたのは、斗音だけだったのだ。
 
更に極めつけは、看護師がその赤ん坊を抱き上げたときに出てきた書き置きである。

「故あってこの赤ん坊の両親やその周りで、この子の存在は許されない。身勝手を承知で、この子に縁があった人に、この子の運命を託したい」と。
「斗音は私たちに望まれて、この世に生を受けたのに、この子は両親や家に望まれることなく、こうして今ここにいるのね・・・・・・。同じ日に、同じように生を受けているのに、この差は何なのかしら。こんなに可愛いのに・・・・・・可哀想に・・・・・・」
 絽登も、妻に共感した。
「大変な思いをして生まれてきたに違いないだろうに・・・・・・。私たちの子は幸せな家庭で育てられて、この子は親の愛情も知らず、病院から施設にでも送られるんだろうか。この子には何の罪もないのに・・・・・・」
「ねえ、絽登。私たち、それで幸せになれるかしら。この子のこと、ずっと一生背負っていくような気がするの」
 妻が言わんとしているところを、絽登はすぐに理解した。もともと、ノエルは身体が弱くて、これが最初で最後の子だろうと言われていた。だからこそ、斗音の誕生は舞い上がるほど嬉しかったのだが。

「賛成だよ、ノエル。私たちの子として、この子を育てよう。なに、担当の先生と看護師さんに言って、双子だったことにしてもらえばいいんだ。どうせ親戚には子供が生まれることしか言ってないんだし」
 妻はたいそう喜んだ。自分の思いを夫が理解してくれていること、同じ思いでいてくれることが嬉しかったのだ。そして何より、もしかすると身体が弱いかもしれない息子の、かけがえのない支えになってくれるかもしれない子だった。

「じゃあ、さっそくこの子にも名前をつけましょう。ね、絽登。いいわよね?」

「もちろんだとも。どんな名前がいいかな?」
「双子らしい名前がいいわ」

 さっそく二人は、勝手に自分たちの子供と決めた二人目の赤ん坊に、どんな名前をつけたものか盛り上がり始めた。
 その話を聞いた担当医は、初めひどく驚いた。誰の子かも分からないのに、それをあっさり、引き取るから自分の息子と同じ扱いをして欲しいと言われたのだ。法的にも認められているわけではないし、と悩む医師に、椎名夫妻は懇々と説教をしたものである。
「この子の両親を探して、この子は幸せになれるんですか?」
「そうです、捨てるほどの理由があるところに帰って、虐待でもされたらどうするんです」
「法律より人の心でしょう?」

「私たちにとって、斗音に兄弟ができる可能性は、今この時しかないんです。その千載一遇のチャンスを、先生は私たちから奪うと。そんな冷たいこと、おっしゃいませんよね?」

「大体、縁のあった人にこの子の運命任せるって、書いてあったじゃないですか」

「この子達が双子だったと、先生がそう承認してくだされば、全てが丸く収まるんですよ」
 覆い被せるように、次から次へと畳み掛けてくる夫妻に、医師は困惑した。

「でも・・・・・・」
「でもじゃありませんよ。先生だって人でしょう?先生がこの子だったら、どう思うんですか?」
 大概無茶な質問である。

「そうですよ。それに、私たち、この子の名前ももう決めたんです!」

 医者は、二人の押しの強さに、すでに心の中で片手を上げていた。
「どんな名前になさったんです?」
 絽登は、胸を張った。

「この子が幸せになれるように、たくさん慈しまれ、たくさん受けた恩恵を周りにも分け与えられる子になるように、慈恩、と」

「双子ということで、斗音とも合わせてみたんです」
 嬉しそうに言う二人に、ついに担当医師は完全にお手上げ、降参となった。
「分かりました。でも、このことは一切口外なさらないでくださいね。看護師の方にも、固く口止めしますから。この子の・・・・・・慈恩くんのためにも」
 二人の喜びようといったら、言葉では表せないくらいだった。その喜びようを見て、医師は自分がしたことに少し、くすぐったさを感じながらも、自分の判断は間違っていなかったと確信したのだった。

   ***

「絢音さん。あの桂家の次男の方、もしかして・・・・・・お悪いんじゃありませんこと?あの人が婿入りしてからもう十年になりますのよ。なのに、一人の子供にも恵まれないなんて・・・・・・」
 母親を含め、親類からそんな風に言われるのは、日常茶飯事だった。
「ねえ、いっそあの方と離縁させていただいて、別の御方と再婚なさったら?絢音さん、お美しいから、まだまだいくらでもお相手はいらっしゃいますよ」
 毎日毎日、必ず誰かがそう言いに来た。家意識にがんじがらめになっている親類。そして、絢音も例外ではなかった。平安から続くこの九条家を、己の代で絶やしてしまうことは、絢音にとって耐え難い罪だった。そういう点では、絢音とて、親類の意識の重さと、大差はなかった。
 ただひとつ違うのは、絢音が雅成のことも、とても大切に思っていることだった。

「私にとって、夫はあの人以外おりませんわ。全く可能性がないというわけではございませんもの。もう少し、長い目で見ていただけるとありがたいのですけれど」
 絢音はいつも、そう返していたが、それもいつまで納得してもらえるか分からない言い訳だった。現に、厳しく追及されることも、しばしばであった。
「長い目にも限度があろうに。そう言い続けて十年じゃ。お前に落ち度があるわけではないのだ。となれば、あの婿殿に原因があることは、分かり切っておろう。ならば、婿殿に理解してもらって、離縁するも仕方のない手であろうが」
 祖父に至っては、もうそれしか手段がないと言わんばかりで、絢音はいつも切り抜けるのに必死だった。
 絢音が三十四歳を迎える年の春、雅成がふと、口にした言葉があった。
「絢音。僕が重荷になってるのなら、言って欲しい。君の足枷には、なりたくないんだ」
 抽象的な言葉だったが、二人の間にその言葉の意味は一つしかなかった。絢音には、衝撃的な言葉だった。
「どうして・・・・・・?おじい様に、何か言われましたの?」
 たちまち泣き出しそうな顔になる絢音に、雅成は小さく笑って首を振った。
「うちは九条家ほど大した家柄じゃなかったけど、家の重さや、それを背負う者の苦しみは、多少理解できるつもりだよ。君が毎日、お義母様たちから色々言われてることも、知ってる」
「そのようなお話は、全てお断りしてるのよ。貴方は私に何か過去があるということをを知っていて、それでも私を思って今までそれを追及しないで、全てを受け入れてくださった人。貴方以外の方と生涯連れ添えるとは、私には思えないの」
「絢音・・・・・・」

 雅成は苦笑した。結局この時は、これ以上その会話が続くことはなかった。
 
雅成も絢音のことを大切に思っている。時々彼女の箱入り加減に振り回されることはあるが、子供を持たないせいか、まだ少女のような無垢なところを含めて、彼女を愛していた。
 
二人は見合い結婚だったのだが、絢音が一人娘であり、九条家にふさわしい家柄で、家を継ぐ必要がない人間ということで選ばれたのが、九条家には及ばないものの、由緒正しい貴族の血を受け継いできていた、桂雅成である。二十三だった絢音には、深い心の傷があって、家同士が進めようとするこの見合いには、乗り気ではなかった。雅成も、自分が家の手駒として使われることはあまりいい気がしないので、見合い自体には乗り気ではなかった。ただ、絢音の漆黒の瞳に宿る悲しみの翳が、気になった。
 
絢音の方でも優しい雅成には気兼ねなく接することができたせいか、二人は見合いのあとも何度か会うようになった。
 
激しく燃え上がるような恋ではなかった。それでも雅成は絢音を思いやり、絢音は雅成の優しさに心の安らぎを見出すようになっていた。絢音の瞳の翳りが、完全に消えることはなかったが、癒されていったことは確かだった。
 
そうして、二人は家の意志ではなく互いの意志を確かめ合って結婚した。二人は、ささやかな幸せに包まれていた。しかし、その幸せは家の重圧によって、徐々にすり減らされていくことになる。

 それでも初めの二年、三年はよかった。絢音の祖父母はしきりに孫が見たいとせっついていたが、周りがまだ若い二人だからとなだめていた。それが年を経るごとに少しずつ変わっていった。絢音ではなく、雅成に冷たい視線が向いていた。それでも、互いの家の関係があるため、雅成に直接その冷たい視線の訳を伝えることはなく、全て絢音が窓口にされた。
 
それが繰り返された結果が、結婚十周年を迎える春の、雅成の言葉だったのだ。それ以上、その時は会話が展開することはなかったが、癒されつつあったはずの絢音の瞳の翳りが、再び濃くなるきっかけとなった。

   ***

いつもより遅くなった絢音を、いつものように出迎えた雅成は、絢音がぼんやりしているような気がして、思わずその目の前で手を振ってみた。
「・・・・・・なあに?雅成さんてば、お茶目な感じ・・・・・・」
 やっぱりぼんやりしてたな、と思いながら、雅成は苦笑した。
「どうしたの?何かいいことでも、あった?」
 絢音はようやく正気を取り戻した。そして目をきらきら輝かせる。
「今日はね、普段の姿も少し見たいと思って、部活が終わった後も校門の方であの子が現れるのを待っていたのよ。そうしたら、とんでもないことが起こって」
「とんでもないこと?のわりに、君は生き生きしてるような気がするけど?」
 雅成の問いかけに、漆黒の長い髪を揺らしてうなずく。
「ええ、とんでもないことなんですけど、思いもかけないところが見られて・・・・・・私ちょっとぼんやりしてたかもしれないわ」
 いや、してたし、と、雅成は心の中で突っ込む。
「何を見たんだい?」

 雅成が再び尋ねたとき、使用人の女性が二人のために薫り高い紅茶を運んできた。
お夕飯までもう少しお時間がありますので、お茶をお持ちしました」
「ありがとう、沢村。ちょっと下がっていてもらえるかしら?」
 中年の彼女にそう声をかけ、彼女の姿がドアから消え、完全に足音が遠ざかったのを確認してから、絢音は雅成に向き直った。
「校門で待っていたら、ちょっと外国の方の血を感じる子が来て、初めて見たんだけど・・・・・・その子があの子のお兄さんになってる・・・・・・確か、斗音くん、だったわ。とても綺麗な子で、賢そうな子だったわ」
 言いながら持ってきてもらった紅茶に、添えられていたミルクを少々入れる。
「雅成さんは、どうなさる?」
「僕はストレートでいいよ」

 そう?と自分のカップをかき混ぜながら、絢音は続けた。
「それで、しばらく見ていたら、柄の悪い四人にね、その斗音くんが囲まれてしまったの。よく聞こえなかったけれど、何か・・・・・・なんて言うんでしょう?難癖をつけている、というか・・・・・・」
「ああ・・・・・・俗に言う『イチャモン』ってやつだね」
「そう、そんな感じよ。で、煙草の火で脅されていて、私よっぽど三神を呼ぼうかと思ったんだけど、そうこうしてる内に、斗音くんが喘息の発作を起こしてしまって。あの華奢な感じからいって、あまり丈夫そうには見えなかったけれど、喘息持ちのようで。なのに、あの子達は斗音くんを離そうとしなくて、気づいて離したときにはもう自分では動けない感じだったわ。それで私、我慢できなくて三神を呼びに行こうとしたら、あの子ともう一人、剣道部の部長が来てね。あの子は異変を察してすぐに斗音くんのところに走っていったわ」
 そこまできて、雅成は、絢音が見た光景を何となく想像できた。
「彼が、そのお兄さんを助けたのかい?」
 絢音は嬉しそうにうなずいた。
「そうなのよ。本当に凛々しくて、頼りがいがあって・・・・・・周りにいた不良の子達も、あの子の怒りに恐れをなしていたのよ。手際よく発作の薬を処置しながら、周りをその精悍な視線だけで威圧していたわ。身体の弱いお兄さんを守るために、必死で、本気で怒って・・・・・・斗音くんに煙草を近づけた男の子なんて、あの子に締め上げられて。あの子、力もだけれど、心もとても強いの」
 その漆黒の瞳が、浮かれた熱っぽさから、真剣なものに変わった。

「雅成さん、私、あの子なら・・・・・・絶対に雅成さんも気に入ると思うの。正直私たち夫婦の年齢にしたら、大きすぎる子かもしれないけど、あの子なら九条家を継げるわ。そうしたら、私たちが別れる必要もなくなるし、周りも納得するはずよ。正真正銘、私の血を受け継いだ子・・・・・・・・・・・・慈恩なら」

   ***

二日連続で発作を起こした斗音は、結局張りつめた表情の慈恩とともに、タクシーで病院に直行させられた。そこでいつもより多めの薬をもらい、火傷の手当てをしてもらって、ようやく慈恩の表情が緩んだ。
「夜には火傷の方、薬を塗りなおして、ガーゼも変えてください。それから・・・・・・」

カウンターで薬などの説明を確認しながら、慈恩がうなずいている。斗音は少し情けなかった。
(どう見ても、慈恩が保護者だなあ)
 ふぅ、と溜息をつく。
「お待たせ。あれ、具合悪いのか?」

 冴えない顔をしていたらしく、慈恩が訝しそうな顔をする。斗音は苦笑した。
疲れた顔してた?ほら、色々ショックなことがあったなって、思い出してたから」
「あんな奴らの言うことなんて、気にする価値もないだろ。あいつらは自分たちの劣等感を・・・」
「そっちじゃなくて、お前のこと。俺、お前の兄貴って柄じゃないなあって」
「別にいいだろ、双子なんだから。俺は兄貴だと思ってるよ、ちゃんと」
「そう?どの辺が?」
 にこりと無垢に微笑んで聞く斗音は、かなり綺麗である。本人はあまり自覚していないが、周りにいたおばあちゃんでさえ、癒された顔になる。
「意志とか、精神的に俺より強いところ」
 慈恩の答えに、あっという間に綺麗な笑顔は首をかしげて疑わしそうな表情になる。
「そうかぁー?説得力ないなあ。嘘っぽーい」
 慈恩にしてみれば本音なのだが、斗音はあまり納得していない。今度は慈恩が苦笑する番だった。

 家に帰ると、再び斗音は何もやらせてもらえない地獄に悩まされた。挙句に慈恩から、翌日学校禁止令まで出て、大いに反抗を試みた。
「無理だよ、執行部の仕事、やりかけにしてきたんだよ。明日やるって言ったし、それに如月祭のビデオを流すのだって、俺が担当なんだから、明日中には編集しとかなきゃ」
「駄目だ。どうしてもやらなきゃいけないなら、俺がやっとくから」
「これ以上お前に迷惑掛けらんないよ」
「そう思うなら、じっとしててしっかり体力を取り戻すことだな。それが一番の近道だ」
「え--っ、これから明日にかけてしっかり寝てれば戻るよ~」
「大体、今日だって本当は休むべきだったんだ。それを無茶して行くからだぞ。だから絶対駄目」
 どこが俺より意志が強いだよ、と斗音はむすっと口を尖らせる。頑固なことこの上ない。
「今日はスタミナ粥作ってやるから、早く風呂に入ってこいよ」
「・・・・・・・・・・・・懐柔作戦だね?」
「梅干しでもいいけど?」
「分かったよ。入ってくるよ。でも、諦めないからな」
 最後の意地を見せつつ、斗音は素直に慈恩に従った。
 そのスタミナ粥。慈恩の創作料理である。発作が起きた後や、斗音の食欲があまり見られない時のために、食べやすく、野菜やスタミナの元になるようなものを密かにたくさん入れてあるお粥である。和風であれば、銀杏や鴨肉、大根にネギに卵など。時々海鮮風になっていることもある。中華風であれば鶏肉やにんにくに青梗菜、ちょっとピリ辛の唐辛子やごま油の風味が効いている。イタリアン風であればたくさんのきのこにフレッシュトマトにオリーブオイルかバター、ホウレンソウや白菜、魚介類にモッツァレラチーズやパルメザンチーズだったりもする。ここまでくれば、雑炊やリゾットに近いのだが、米はやっぱりお粥なのである。そして、斗音はどれもかなりお気に入りである。ちなみに、何が出来上がるかは、冷蔵庫の中身と慈恩の気分で決まる。
 冷蔵庫をのぞいた慈恩が取り出したのは、トマトに白菜やエリンギ、マイタケ、そして冷凍庫から海老やイカ。どうやら洋風であるらしい。

 火傷に気をつけながら風呂に入ってきた斗音は、ほのかなバターやチーズの香りに心をくすぐられた。
(美味しそう。結局こうやって、俺、言いくるめられちゃうんだなあ・・・・・・)
 髪を乾かしてキッチンへ行くと、すっかり食事の準備が整えられていた。
「火傷、大丈夫だったか?」
 お茶を湯飲みに注ぎながら、慈恩が心配そうに尋ねる。それに返す言葉は、斗音がいかに自分のことより目の前の土鍋の中身に興味を持っているかが、よくわかるものだった。
「全然。今日は洋風?ふた開けていい?」

料理上手の弟ががっくり肩を落として苦笑いしながら、うなずくのを確認してふたを開ける。一気に立ち上る湯気の香りが、斗音に幸せな気分を運んでくる。
「暑いかも知れないけど、しっかり食べろよ」
「年がら年中これでもいいよ」
 知らず満面の笑みで、斗音が応える。慈恩も微笑した。二人で席について手を合わせる。
「いただきます」
 慈恩の前にはトマトスープと魚介類にキノコとチーズを乗せたホイル焼き、そして白いご飯とサラダといった感じである。あの短時間で、同じ食材で、違うメニューを作り上げていたらしい。
「これ、たかだか三十分で作ったの?」
「お前のは材料入れてほっとけばできるだろ。その間に自分の分を作ってただけだ」
「俺だったら土鍋の前で三十分間味見をし続けると思うね」

 だから味覚が麻痺して、必然的に味が濃くなるのだろう、と慈恩は思うのだが、斗音はそういったことはとことん不器用なのである。二つの料理を一度に作ったりしたら、絶対に両方失敗するに違いない。
「ん---うまいっ!マジうま。涙出そう。ほんとお前って、すごいやつ」
 ちょっと呆れ気味に笑みを見せる慈恩にお構いなく、斗音は感激を率直に、かなり擦れた声で表現する。
「どうやったらこんなの思いつくんだよ」
「冷蔵庫に残ってるもの入れるだけだろ」
「何と何が合うかとか、分かってなかったらそういうのもできないだろ?」
「テレビとか新聞とか、色々あるだろ。それに、外に食べに行けばそれがヒントになる」
「作る人の台詞だ。俺、食べて美味しいで終わりだもん」
「作るの担当してるのは俺なんだから、別に支障ないだろ」
「まあね。でも、一人になったら大変だろうな」
 何気なく言った自分の言葉に、斗音はふとスプーンを運んでいた手を止める。なんだか不安がよぎった気がした。慈恩はホイル焼きをつつきながら笑った。
「料理上手な人と、結婚することだな」
「・・・・・・だね」
 少し遅れて笑った自分が、ぎこちなくなかったか、慈恩の顔をうかがってみた。でも、慈恩はサラダを箸でつまんでいたので、どうもこちらを見てはいなかったようだ。
 とりあえず斗音は、なぜだか分からなかったけれど、ほっとした。
 食事の後も、散々翌日の登校をねだった斗音だったが、結局許可されず、更に休むんだから宿題も駄目、と言われて、ほんっとうに何もさせてもらえなかった。渋々自分の部屋で、ベッドにもぐりこんだ。
(ああ、迷惑掛けちゃうな・・・・・・一杯。今井さんに・・・翔一郎もきっとノートとか取ってくれるだろうし、何より慈恩・・・・・・俺がやりかけの仕事、全部やらせちゃうんだろうな・・・・・・)
 そう思うと、憂鬱になる。もぐりこんだ布団の中で、ぎゅっと自分の腕を抱きしめるようにした。
(っ・・・いて・・・・・・)
 鎖骨の下の火傷がジリ、と痛みを訴える。なんだか無性に悔しかった。

「・・・・・・馬鹿」
 自分をこんな気分にさせてくれた慈恩に向かって。同時に、自分に向かって。
 コホ、と軽い咳が喉をくすぐる。コホ、コホと続いた。今日いっぱいのストレスだろうか。それとも、風邪の前兆だろうか。まずいな、と思う。やはり、無理ができる状態ではないようだ。慈恩が言っていることは、正しい。
 そのとき、カチャリとドアノブの金属音がして、慈恩が入ってきた。
「斗音、ガーゼ、換えたのか?もらった分、減ってないけど」
 言いながら、布団をそっとめくる。
「・・・・・・どうした、もぐり込んだりして」
「・・・・・・拗ねてただけ」
 漆黒の髪が濡れて、いつもの精悍さに少し柔らかさが混じっている。暑いせいか、黒に白い縁の入った綿のパジャマの襟元を開けていて、そこからクロスのペンダントがのぞいている。
「風呂の時、ちゃんと換えたか?」
「ううん、濡らさないように気をつけて入って、そのまま」
「夜には換えろって言われただろう。ほら、傷見せてみろよ」
「いいよ、自分でやる」
「お前不器用だろ。いいから見せてみろ」
 持ってきた薬やガーゼを棚に置いて、慈恩が布団を剥がした。

「いいって、子供じゃないんだから」
 それくらいできる、と腕を伸ばして抵抗する斗音を完全無視である。のしかかるようにして左手首を押さえ、ボタンを上からいくつか器用に外して、綿素材の白地に黒い縁が入ったパジャマの襟を開く。白い肌に、仰々しいガーゼが張り付いている。
「ちょっと濡れてないか?」
「・・・・・・全く濡らさないってのは、難しいって」
「じゃあ換えなきゃ駄目だろ」
「すぐ乾くと思ったし、さっきやってもらったばっかりだったから、いいかと思って」
 大ざっぱなO型の斗音である。比べてA型の慈恩は、そういうところも几帳面である。白い肌を気遣いながら、そっとサージカルテープをはがす。慈恩の力に敵うはずのない斗音は、横を向いたまま、慈恩のするがままに任せる。
 かすかに湿ったガーゼをゆっくりはがすと、白い肌に赤くただれた部分が痛々しい。慈恩は長い指で、その周りにそっと触れてみる。傷は小さいものの、その周りもほんのり赤く、熱を持っている。
「つっ」
 かすかに顔をしかめて、小さく声を上げた斗音に、慈恩はすぐに指を浮かせた。
「ごめん。今、薬塗るから」
 医者にもらった塗り薬を多めに人差し指に絡ませて、優しく傷口をなぞった。
「・・・・・・っ」

 それでも痛みは感じる。斗音はぎゅっと目を閉じた。
「すぐ終わるから」
 手早く薬を塗って、ガーゼを当てる。
「もういいよ、自分でやるから」
 また手を伸ばそうとして、押さえつけられてしまった。
「お前がやると雑になる」
 言いながら、片手と口を使って、器用にテープを切り、最後まで綺麗に貼り付ける。濡れてしなやかになった黒髪と首から下がったクロスが、ふとした瞬間にひやりと触れて、斗音は思わずほのかに溜息をついた。
「慈恩、ねえ」
「ん、何」
「・・・・・・お前、色っぽいね」
 言われた方は、顔をあげて何度かその漆黒の瞳を瞬かせた。
「・・・・・・何が?」
「全体的に」
 長い指も、濡れた漆黒の髪に縁取られた、いつもより柔らかい精悍さを湛える顔も、その髪のしなやかさも、テープの張り方も。そして、自分の手首を押し付けるその力強さも。
(女の子がこんな風にされたら、きっと参っちゃうだろうな)

斗音は自分の脳裏に浮かんだ考えに、苦笑した。きっと、過去に既にあるだろう、と思いついたからだった。
(女の子の方が、放っておかないよな。絶対に)

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