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七.母と子の再会

 斗音が二日連続で発作を起こしたらしいということは、今日やるはずの仕事を残して昨日帰っていった斗音の不在を不審に思って、何かと情報通の武知に彼の出席を確認したことで耳に入ってきた。
「詳しいことは知らねえが、さっき朝部の時に近藤に会ってな。自信過剰のあいつがなんか元気なさそうにしてたから、ちょっと声掛けたんだ。そしたらあいつ、一言。喘息の発作って、大変なんだな、ってつぶやいて去ってったんだ。あれ、斗音のことじゃねえかな」
「近藤が現場に居合わせたってことか」
「恐らくな。今井、お前直接聞いてみたら。気になってるんだろ」
 言われて生徒会室の椅子に深くもたれかかった生徒会長は、ふう、と大きく息をついた。
「あの責任感の強い斗音が、仕事をほったらかしにするはずないし、ちょっとな」
「丁度剣道も朝部終わってる頃だと思うぜ。ここに来るように声掛けといてやろうか」
 執行部員はトップの生徒会長がそうだからなのか、気さくな人物が集まっている。今井は浅くうなずいた。
「悪いな。頼めるか」
 武知も磊落な笑みを浮かべてうなずいた。

「すぐ来させる。ホームルームは用があって行けないって担任の先生に報告しといてやるよ」
「かさねがさねすまん。よろしく頼む」

 それに貫禄のある笑みを返し、武知は生徒会室を出ていった。
(・・・・・・発作か。あんなにできる奴なのに、なかなかパーフェクトってわけにはいかねえもんだな。人間何かひとつは背負うものがある・・・・・・か)
 今井はすっと通った鼻筋の上に寄せた縦じわを、指で押さえた。少し外側へ流れていたくせっ毛の前髪が落ちる。知的な切れ長の目をわずか細める。

 明後日には今までの如月祭のビデオを編集したものを流すことになっている。その担当は斗音だから、少なくとも今日中には編集を済ませなければならない。ぎりぎりで何か不備があっては、今の状態である。快く思わない人物が増えるだろう。それだけは避けたかった。残っているビデオの内容確認と編集する場面をまとめることなどは昨日やってあるのだが、ビデオそのものができなくてはどうにもならない。執行部員は全員自分なりの役割を持っているから、ビデオ編集という時間のかかる仕事を誰かが兼ねるというのは、かなりきつい。斗音が欠席となると、とても痛いのだ。遅刻でもいい、出てきてくれればと思うのだが、近藤がつぶやいていたという「大変な発作」だったりしたら、無理はさせられないというのも事実だった。
 そして、今井が何よりも気がかりなのは斗音の発作の原因だった。生徒会の激務や、有志発表からの斗音に対する心無い中傷が彼に負担を掛けていたのではないかという不安を、今井は生徒会を束ねる立場として不安に思わざるを得ない。
 そこへ、カラカラと引き戸がすべる音をさせて、近藤が鍛えられた体躯をその間から現した。
「呼び出してすまない、近藤」
 今井は立って客人を迎えた。自分の近くにあった椅子を勧めると、近藤は遠慮なくそれにどかっと腰掛けた。
「あまり人に聞かれたくない話だったから・・・・・・」
 確かに元気がないというか、機嫌が悪いというのか、いつもに似つかわしくない近藤の様子に、少し気を遣いながら今井が言葉を掛けると、近藤はすいと顔を上げた。
「意味もなくこんなところに呼び出すお前じゃないだろう。そんなことは分かってる」
 傲岸不遜な様子はいつもと大して変わらないようだ。今井はふっと笑みをこぼした。
「俺に聞きたい話って、何だ?」
「昨日、斗音が発作を起こしたところに居合わせなかったか?」
 今井の言葉に、近藤はきりっとした眉根を寄せた。
「情報源は、武知か」
「ああ。今日、斗音がまだ来ていないみたいだったからな。仕事を残してやすやすと欠席するような奴じゃない。それで、もしやと思ってな」
「・・・・・・そうか」
 そこでHRが始まることを告げるチャイムが鳴った。そのチャイムが終わるのを待って、近藤は口を開いた。
「確かに俺は、昨日あいつが発作を起こしているのを見た」
 やはり、と今井は苦い顔になる。
「ひどい発作だったのか?」
「分からねえよ。喘息の発作なんて初めて見たんだから。でも、軽そうには見えなかったぜ。少なくとも俺はやばいと思ったからな」
「何が原因だったのかは、分かるか?」
「・・・・・・瓜生とその取り巻きが、どうもあいつを脅してたみたいだな。直接の原因になったのは、貢平が煙草を近づけてその煙をもろに吸い込んじまったことらしい」
 途端、今井の表情が険しくなる。

「・・・・・・どういう、ことだ」
「お前なら分かってるだろう。根性焼きを脅しの道具に使ったらしいってことぐらい」
 今井が身体を硬くする。繰り出された言葉も、ぎこちなかった。
「・・・・・・怪我、は?」
「貢平が押し付ける前に煙で発作を起こしたみたいだったな。俺はもう起こしてるところに通りがかっただけだから、詳しいいきさつは分からねえが、あいつらの言い分を聞いてると、瓜生が椎名斗音を捕まえて、貢平が煙草を近づけた。そこで発作を起こして、瓜生の手から逃れようとして暴れた時、自分でその煙草を押し付けることになった。そんな感じだった。右の鎖骨の下辺りに火傷を負ってた」
 今井は眉根をきつく寄せて、強く目を閉じた。栃沢貢平。確か素行の悪い連中と集まってバンドを組んでいる。煙草を近づけて脅して、何を迫ったのか、想像は容易だった。自分から押し付けたとは言っても、斗音に発作を起こさせてしまったこと、火傷を負わせてしまったこと、全ては有志の制限が原因であることに、変わりなかった。なぜ、と思わず言葉をこぼす。なぜ斗音がそんな目に遭わなければならないのだろう。必死で一生懸命に仕事をして、一生懸命企画を安全に運営するために動いていた彼が。
 今井がこぼした言葉に、近藤が反応した。
「なんか、きっかけになったのは椎名斗音がむやみに携帯を使ってたことらしいぜ。それが気に食わなかったらしい」
 その言葉に、如月高校という名門校で生徒会長を張る男が、聞き入れる耳を失った。
「馬鹿な。あいつは絶対にそんな軽はずみなことはしない。有り得ない!」
 その強く断定する口調に、近藤が肩をすくめた。
「俺に言うな。佐藤や志垣がそう喚いてただけだ。あいつらの言うことを信じるか否かはお前の器次第だが?」
 たしなめるように言われて、今井は激した自分に気づいた。
「・・・・・・ああ・・・・・・悪い、ちょっと取り乱した。・・・・・・あいつらの言うことはともかく、お前が言ってることは事実だ。そうだろ」
「それで結構だ、生徒会長」
 近藤は満足気に、自分の選んだ生徒会長に笑みを返した。そして、ふっとその表情に翳を載せた。
「お前ほどの男でも・・・・・・椎名斗音には入れ込むんだな」
「え?」

「いや、何でもない。昨日ちょっとフラれてな。そいつも椎名斗音が大事で・・・・・・その上俺はその椎名斗音に敵わないと思った。あいつは・・・・・・本当にすごい奴だ」
 近藤の元気がないと言っていた武知の観察力も大したものだ。まさかそんな話を聞くとは思わなかったので、今井も驚いた。近藤とは二年までクラスが同じで、それなりに気が合う仲だったが、三年でクラスが離れてからはあまり接点もなく、互いに忙しい身だったため、話す機会もほとんどなくなっていた。
「お前でも、人並みに恋心なんて持ち合わせてるんだな」
 苦笑を交えた今井に、近藤も同じものを返した。
「人並みかどうかは知らないが?まあ、とりあえず俺が昨日のことについて知ってるのはそれだけだ。もし副会長が欠席だったら、椎名が・・・・・・椎名弟の方がたぶん副会長の分まで仕事すると思うぜ。あいつはそういう奴だ。そしてその分部活時間を削るだろう」
 言って、今井の目をまっすぐに見つめる。
「なあ、今井。あいつなくして剣道部の全国は有り得ねえ。執行部の仕事が大変なのはよく分かってるつもりだが、俺は椎名の練習量を絶対に減らさない。あいつは執行部の仕事がずれ込むたびに地獄の練習をこなしている。考慮してやってくれとは言わないが、あいつがそういう奴だってことは、お前に知っておいて欲しい」
 軽く目を瞠ってから、今井は深く溜息をついた。
「そうか。あいつがいつも言う『大丈夫』は、その地獄の練習メニューに耐え抜く覚悟をした言葉だったんだな。全く、どいつもこいつも無茶ばっかりしやがって」
「椎名兄弟が、だろ。あの双子、外見は似てねえけど、根性あるところは似てやがる」
「・・・・・・そうだな。HR抜け出させちまって悪かった。でも、お前のおかげで事情を知ることもできたし、ちょっと放っておけない事態だったってこともよく分かった。感謝する」
 言って腕時計に目をやると、そろそろHRが終わる時間だった。
「構わねえよ。俺はお前のことも買ってる。・・・・・・執行部、頑張れよ」
 にやりと笑った近藤にいつもの彼らしさを感じて、今井も笑みを載せてうなずいた。
「ああ。お前も、剣道頑張れ。全国、上位まで行けるといいな」
「お前のテニス部はどうなんだ」
「俺がなかなか行けないからな。副部長に任せきりだが・・・・・・目指せ地区予選突破だ」
「そうか。身体ひとつで大変だな。お前こそ、無茶して身体壊したりしねえようにな」

 近藤が言ったところで、HRが終わったことをチャイムが知らせる。それをきっかけに、近藤はじゃあ、と手を上げて生徒会室を出た。
 出た途端、その目の前に、漆黒の髪と瞳を捉えて、近藤は一瞬のけぞった。ぶつかりそうになった慈恩も反射的に一歩下がる。
「・・・・・・椎名」
 早めにHRが終わったため、急いで仕事内容を確認しに来た慈恩だった。昨日のことで気まずい雰囲気が流れそうになったが、その前に慈恩が事務的な礼をする。
「すいません、近藤さん。今日は多分、部活に出られないと思います。罰は受けます。だから・・・・・・」

 続けようとする慈恩を、近藤は苦笑いで遮った。
「兄貴の分も、今日は仕事があるんだろ。兄貴、大丈夫か?」
「あ・・・・・・はい。とりあえず今日は休んでますけど」
「そうか・・・・・・よかった。お前もあんまり無茶はするな。今日の分は明日きっちりやってもらう。だから、今日は仕事に専念するといい。・・・・・・一人で抱え切れなければ、今井に手伝ってもらえ。あいつはきっと力になってくれる」
 慈恩がうなずくのも待たず、近藤はさっさと歩を進めた。一番気まずい思いをしたくなかったのは、近藤自身だった。慈恩もそれを感じ取って、その後ろ姿に小さく感謝の言葉を投げて、生徒会室の扉を開いた。
「会長?」

「慈恩か。今、近藤に会わなかったか」
 
HRが終わったばかりで絶対に誰もいないと思ったところに近藤に会って、更に今井までいたことに慈恩は少々驚きながらうなずく。
「会いました・・・けど。HR出なかったんですか?」
「ああ。昨日の斗音と瓜生たちのことについて、聞いていた」
 立ち上がって慈恩の前に歩み寄る。そしておもむろに頭を下げた。
「すまない。結局こんなことになるまで何もしてやれなかった。莉紗が言ってたみたいに、全校に先手を打つべきだったかもしれない。斗音にも、必ず納得いくように謝罪をする。斗音のことを一番に心配していたお前に、まず謝らなきゃいけないと思った。本当に申し訳ない」
「会長、やめてください」
 慈恩はあわてて今井の肩を押し上げようとする。
「会長には何の責任もありません。それに、あなたに謝ってもらいたいなんて、俺も斗音も思ってません」
「俺のけじめだ。それから、二度とこんなことが起こらないように俺から全校に直接話をする。・・・・・・斗音とお前の許可が欲しい。昨日のことを全校に話すことになるが、いいだろうか」
 今井の態度は潔くて、同性の慈恩から見てもとても男らしかった。顔を上げた今井としっかり視線を合わせて慈恩は応える。
「俺はそうしてもらえるとありがたいと思います。・・・・・・斗音は大げさにする必要はないって言うと思いますけど、一歩間違えば本当に大変なことになっていたのは確かです」
「・・・・・・分かった。今日の帰りのHRは緊急全校集会にする。それで、お前が朝のHR終わって急いでここに来たのは、斗音の分の仕事もやるつもりだからなのか」
 見抜かれて、漆黒の瞳を瞠る。
「あ、はい。斗音が、ビデオの編集をすることになってますから。テープと原案を取りに来ました。昼休みと放課後を使ってやります」
「ということは、斗音は欠席なんだな・・・・・・。お前が分担されてる食物関係を取り扱う企画への注意事項と各企画への予算案の文書は、できそうか?」
「・・・・・・明日までには完成させます」

 少し躊躇った慈恩に、今井が微笑した。
「全部一人でやろうなんて、無茶な話だ。食物関係の文書は去年のがあったよな。それは俺がやっておく。ビデオの編集も、昼休みだけで悪いが、手伝おう。その間だけでも予算の方に集中することができるはずだ。これ以上部活の時間を削るわけにはいかないだろう?」
「会長・・・・・・」
 今井は慈恩の肩を優しくたたいた。
「斗音と、それから今までお前に掛けていた負担に気づかなかったことに対する、せめてもの罪滅ぼしだ」
「でも、会長自身も一番仕事を抱えてるでしょう」
「生徒会長ってのは、自由もきくもんなんだ。あんまり詳しくばらすことはできないが、少なくともお前らより時間の確保はできる。気にしなくていいさ」
「・・・・・・ありがとうございます」
 この人の下でなら、働いてもいい。そう言った斗音の言葉を、慈恩はふと思い出した。思わず微笑む。

(斗音・・・・・・お前、人を見る目、あるな)

 教師陣の今井に対する信頼は厚い。昨日の事件のことを知って、放っておけないと感じた学校側は、今井の申し出を一も二もなく受け入れた。

「昨日、斗音があの瓜生たちに囲まれて大変だったんだって?俺、昨日仕事で早退してたから全然知らなかった。ごめん、役に立てなくて」
 緊急集会のため、体育館へ移動する途中にさりげなく嵐が慈恩に囁いた。
(ていうか、今現在知ってる奴の方が少ないと思うんだけど)
 嵐の情報網は侮れない。自分も忙しくてほとんど話す暇がなかったし、昨日のことについては言った覚えがない。
「お前が謝ることないだろ」
「分かってるよ。それでも役に立ちたかった。俺は椎名兄弟が好きなんだよ」
「・・・・・・さんきゅ」
 高校生なのに仕事もしていて(バイトではなく、しかも、かなり秘密裏なものらしい)、暴走族の彼女(?)を、命を懸けられるくらい愛していて、髪の色は淡い紫色(しかも地毛)で、テストではこの如月で学年トップを譲ったことがなくて、何をやらせてもトップに立てる能力を秘めていて、校内一の美形。そんな嵐は誰から見ても別格で、そんな嵐に気に入ってもらえるということは、端から見たら非常に羨ましいことだろう。しかも兄弟そろってだ。慈恩にとっては親友と呼ぶにふさわしい友人の一人に過ぎないのだが、それでもそう言ってもらえると嬉しいと思う。
 体育館に全クラスが集合したところで、今井がステージに上がった。壇上のマイクのスイッチを入れ、礼をしてから全校を見渡す。
「俺は一昨日、ここに立って全員に如月祭にかける思いを伝えた。それからたった二日でまたこうやって集まってもらうことになった。みんなにどうしても分かって欲しいことがあったからだ」
 全校を相手に丁寧語を使うでもなく、全校一人一人に向かって一分の一の姿で思いを語る。
「昨日、生徒会副会長の椎名斗音に、有志の制限のことから逆恨みして暴挙を働いた生徒がいる。動けないように羽交い絞めにして、煙草の火で脅した奴が如月の生徒の中にいるんだ。それがもとで彼は発作を起こし、火傷を負った」
 生徒会長の言葉に、全校生徒がざわめいた。初めて聞いた者が大半だったのだ。

「俺はそれを聞いて目の前が真っ暗になった気がした。彼が何をした」
 
今井の声が感情を帯びて昂ぶる。ざわめきはその今井の思いの強さに打たれ、たちまち静まった。

「有志の制限の発表をしたのは、確かに副会長だ。だが、勘違いしないで欲しい。俺たちは執行部として、去年の後味の悪い如月祭を何とかみんなが楽しめるものにしたいと考えて、悩んで悩んで有志の制限を決めた。これは執行部全員が出した答えだった。俺は選挙で選ばれた会長として、最善の決定を下したつもりだ。それを勝手な想像で副会長を逆恨みして、心無い言葉で彼を中傷する生徒もいた。それでも彼は努めて平静に振舞っていた。毎日一般生徒の倍以上の仕事を一生懸命こなしていた。そんな彼が、どうしてそんな目に遭わなければならない。俺はそれが納得いかない!」
 マイクの余韻が静まり返る体育館内に染み渡る。ステージ上の生徒会長は、静かに吐息した。
「この中には、自分は関係ないと思っている者もいると思う。はっきり言って、今回の件に関しては関係ない生徒の方が多いと思う。だが、この際だから言わせてもらう。次またそんなことが起きるようなら、俺は会長として独断で、有志の発表そのものを如月祭から廃止する!!俺は何と言われようと構わない。誰かが傷つかなければならないような企画なら、無い方がましだ。それが例え、ほんの一部の人間の仕業であったとしても、そんな危険性のあるものをこの先伝統として続けることはできない。何のための如月祭なのか、今一度如月高校に所属する一員として、全員に考えてもらいたかった。俺がみんなに伝えたかったのはこれだけだ」
 きっちりと礼をして堂々とステージを降りた今井に、体育館の一角から拍手が起こった。慈恩は思わずその音の源である自分の後ろを振り返った。嵐だった。それにつられるかのように、たちまちまばらだった音が降り始めの雨から一気に降り始めた夕立のごとく体育館内を埋め尽くした。
「やるな、今井さん。さすが他を寄せ付けず選ばれただけあるぜ」
 嘆賞を込めた嵐の言葉に、慈恩もうなずいた。これで斗音に対する中傷はまずなくなるだろう。しかし、斗音がそんな目に遭ったという事実があったからこその説得力である。莉紗の言ったように最初からそういうことが起こると決めてかかって言っていたとしても、これほどの効果はなかったのだろう。慈恩としては複雑な思いを禁じ得ない。
「慈恩、気持ちは分かるよ。でも起きちまったことはもうどうしようもない。そこから前に進むなら、起きたことも無駄じゃなくなる」
「・・・・・・ああ、そうだな」
「明日は、斗音、来れそうなのか」
「今日発作を起こさなければ、駄目って言っても来ると思う」

「だろうな」
 嵐は、さもありなんと笑った。

 今井文弥が生徒会長として生徒集会で熱弁をふるってからは、見事なまでに斗音に対する中傷誹謗は影を潜めた。今井は全校の中で最も信頼厚く、正統派の強い権力を持つ人間の一人だったし、最高学年ということもあり、この生徒会長に逆らおうという輩は皆無に等しかった。誰もが身体が弱いにも関わらず懸命に仕事をしている斗音に同情したし、そんな斗音に乱暴な振舞いをした生徒についてあれこれ詮索し、非難した。今井や慈恩にしてみれば、それは瓜生やその取り巻きのしたことに対する当然の報いであり、そちらに同情する気持ちは持ち合わせてはいなかった。
 翌日から学校に出てきた斗音は周りから異常に心配され、下手をすると壊れ物を扱うかのように接する人間もいたので、それにはさすがに戸惑った。仲のいい友人や自分をよく知る仲間などはいつも通り接してくれたので、それで不便を感じたりすることはなかったのだが。
「椎名くん、怪我は大丈夫なの?そんなことする奴、サイテーだよね」
 そんな風に言ってくる女の子たちに、にこりと微笑んで「ありがとう、心配してくれて」の言葉を送っていた斗音に、一人の男子生徒が話し掛けてきた。普段あまり話すことのないクラスメイトだ。
「椎名、大変だったな。三年生の瓜生って人たちだろ、やったの」
「え、何で?」
 慈恩に今井のした話のことは聞いていたが、加害者の名を出したなんてことは聞いていなかったので、不審に思って問い返す。相手はやや優越感を滲ませた表情を浮かべた。
「おおっぴらにはなってないけど、陰で噂になってるぜ。情報の出所は分からないけど、結構筋は確かな話らしいぜ。当たり、だろ?」
 出所が分からないのに筋が確かなんておかしな話だ、と思いながら、斗音は困ったように微笑んで見せた。
「ごめん、それには答えられない」

 斗音自身、瓜生のことをそんなに恨んではいない。最終的に仲間の分も全部罪を被る形で謝った彼を、憎む気にはなれなかったし、逆に今こんなに知れ渡っているとなると肩身の狭い思いをしているのではないかと、気の毒にすら思えた。

その当の瓜生英嗣に、金髪と茶髪でだぼだぼの制服を身にまとった取り巻き二人が、その名のとおり付きまとっていた。
「英ちゃん、俺らがやったっての、大概の奴が知ってるぜ。周りの目がみんな突き刺すみてえじゃねえ?」

 金髪の方が溜息交じりに訴える。
「やっぱそう思うよな、夕人(ゆうと)。
あのクソガキの弟の方がばらしてやがんのかな」
 
茶色のだぼだぼが相槌を打つ。
「本人も言ってんじゃねえの。俺らにやられたって。近藤だって、俺らに義理立てする必要ねえしさ」

 二人のとめどない愚痴まがいの醜い会話に、瓜生は顔をしかめた。
「おい、夕人、渡(わたる)。お前ら、ほんとにそう思ってんのか」

 その怒りオーラに、二人が口ごもる。情けない二人を睨みつけて、瓜生は言葉を吐き捨てた。
「お前らはあいつらの器も見抜けねえような節穴野郎かよ。近藤はそんなちんけな野郎じゃねえし、椎名弟もそんなつまんねえ小細工する小物じゃねえ。最後に俺らを許そうと笑って見せたあの副会長も、そんなことするほど器小さくねえだろう。それも解らねえなら、お前ら二度と俺に付きまとうな。騒々しくて迷惑だ」
 縮こまる二人を残して歩き出す。
「え・・・・・・英ちゃん、どこ行くんだよ・・・・・・」
 おそるおそる金髪が声をかける。振り向きもせず、瓜生は答えた。
「もうすぐ午後の授業始まるだろ。サボりももう飽きた。教室に行く」
「え!?授業受けんのかよ・・・・・・?」
「それ以外に聞こえるんだったら、病院行った方がいいぞ。最後に一緒にいたよしみでいいとこ紹介してやる」
 瓜生の言葉は棘だらけで、金髪とだぼだぼ・・・・・・志垣夕人と佐藤渡は声も出せずうなだれるしかなかった。しばらくは、互いに目を見合わせることすら躊躇われるほどだった。
「あれ、英嗣は」
 そんな二人に声を掛けてきたのは、いつもつるんでいる最後の一人だった。
「貢平。それがさあ・・・・・・」
 志垣が元気のない声を出す。ついさっきまでいた自分たちのボス格の行動を、やや不満と、不安を含ませた口調で説明する。オレンジ頭の栃沢は眉をしかめた。
「・・・・・・英嗣は自分が認めた人間には甘いんだよ。近藤は同じクラスでよく知ってるだろうし、あの双子には英嗣を納得させるだけの何かがあったってことだろ。確かに弟の方は強かったし、まとうオーラは英嗣に勝るとも劣らないものがあった。軟弱兄貴の方はよく分からねえけどな」
 どうやら、未だに有志の恨みを持っているらしい。女々しい限りだが、そんなことに本人も話を聞いている二人も気づいてはいない。瓜生と違って自分たちの話に近い感覚でいてくれる栃沢に気をよくして、志垣と佐藤はここ数日で溜まった鬱憤を散々撒き散らし始めた。
「大体さ、何で俺らがこんな全校の目の敵にされなきゃなんねえわけ?今井があんなこと言わなけりゃ、あの軟弱野郎の決めたことに反発してる奴は多かったはずだぜ」
「全くだよ。俺らがそいつらの代わりにちょっと言ってやっただけじゃねえか。なあ」
「大体発作起こしたのだってあいつが素直にうなずきゃよかったものを、粘るからああなったんだぜ」
「そうそう、火傷とか言うけどさ、あいつ自分でやったんだしなあ。理不尽じゃねえ?」

 慈恩辺りに聞かれたら、今度こそ本当に剣道部はインターハイ出場権を失っただろうし、彼らは五体満足でいられなかったかもしれない。しかし、すでに授業の始まるチャイムが鳴ってから半時が過ぎようとしており、そんな会話を聞いている者はいなかった。
「英ちゃんもなんか俺らに冷てーしさ。確かにあんまり優しかったこともねえけど」
「あの発作見てから、なんか英嗣も臆病になってるんだろ」
 佐藤が伸びてきた茶髪を撫で付けながら、ふう、と溜息をついた。
「でもさ、実際あれはびびったよ。喉がつぶれて血が出てくるんじゃねえかと思ったし、アスファルト引っかいて指とか爪とか削ってさ。ヤベエと思ったもんよ」
 栃沢はあからさまに機嫌を損ねる表情を浮かべた。
「だからって何だよ。もうぴんぴんしてんじゃねえか。一時苦しいだけで、あとは大したことねえんだろ。そんなもんにびびるなんて、英嗣も焼きが回ったもんだ」
「はあ、それにしてもどこにいても居づれえんだよ。やってらんねー」
「この時間終わったら部活だろ。お前らどうする?」
 栃沢の言葉に、二人はぐっと詰まった。部活でも落ちこぼれている二人である。栃沢は自分でバンドを組んでいるので、大概その練習に軽音楽部でもないのに音楽室に出入りしている。
「めんどくせーな。もうフケようか」
「フケたってすることねーしな。ゲーセン行くにも金ねーしなー」
 どこまでも冴えない志垣と佐藤に、栃沢はオレンジの頭を軽く振った。
「今日みてーな気分わりー日はさ、その辺で金持ってそうな奴カモってリッチにゲーセンでも何でもぱーっと使わねえ?そんで憂さ晴らそうぜ」

 オレンジ頭の彼らの仲間が、当社比二倍で荒んでいるのは、その提案でよく分かった。しかし、彼らの中で瓜生がいなければ栃沢が一番の権力者だった。それに何より、彼ら自身の精神も栃沢と同じくらい荒んでいたので、大して迷うでもなく三人の意見は一致した。

 丁度その頃、九条家では絢音が出かける支度を済ませた頃だった。自分の息子が如月高校にいると知ってから、彼女は外から慈恩が見られる部活の時間に出かけるのを欠かしたことはなかった。
「三神、車を出してもらえるかしら?」
 家に仕える三神元爾は、五年前に体育系で名を馳せている大学を卒業した、空手・柔道・合気道の実力者だった。常にスーツの長身は、190に届きそうな勢いで、長い手足には無駄のない鍛えられた筋肉が備わっていた。彼は運転手という肩書きではあったが、箱入り娘の絢音につけられた体のいいボディーガードでもあった。
「はい、絢音様。如月高校でよろしかったでしょうか?」
「ええ、お願い」

 形よく弧を描いた黒い眉が精悍で、どちらかと言うと切れ長で上がり気味の目はその精悍さを更に増している。さすが名家に仕えるだけあって、外見も申し分ない男である。それでも決して、誰もがその美しさに一度は惹かれずにはいられない絢音に対して、邪な思いを抱いたりする素振りを全く見せず、誠実に仕えていたので、絢音の祖父にはいたく気に入られていた。
 
三神自身そのことは自覚しており、心の中ではこの高給が望める仕事に自分がついていられることに、内心ほくそえんでいた。絢音は三神の好みでは、全くなかったのだ。手を出したりなんて有り得なかった。そんなことで気に入られるのなら、いくらでも誠実ぶって仕事のできる男だった。
 
いつもと同じ時刻に同じ道を走らせながら、珍しく三神から絢音に話し掛けた。
「申し訳ありません、絢音様。私(わたくし)
五時から私用で行かなければならない場所があるのですが、絢音様が剣道部をご覧になっている間、しばし出掛けるお許しを頂く訳にはいきませんか?」
 絢音は一瞬きょとんとした。それから可憐な花が開くように微笑んだ。
「ええ、構わないわ。いつも私はしたいことしてるだけで、三神はじっと待たされているんですものね。部活が終わる時間には戻ってこられるの?」
「はい、それは必ず」
「じゃあ、行ってくるといいわ。私はいつもの場所で降ろして頂戴」
「ありがとうございます」
 高校の見学をしているだけで、なんら危険もあるまいと三神は判断したし、絢音は三神をボディーガードだと思ってはいないので、三神の交渉はあっさりと成立した。
 絢音を降ろして、三神は黒い大きなベンツを発進させた。三神の私用も、実は如月高校にあった。
(校門にいるはずはないな・・・・・・部活に参加していると見るべきか)
 三神が探そうとしていたのは、数日前に見た「上玉」の少年だった。あの日、一瞬で目に焼きついた儚げなあの少年が、ずっと脳裏から離れることはなかった。どうしてももう一度見てみたい。自分の目がどれほど確かだったかを、確認したかったのだ。
(といっても、剣道部じゃないってことしか分からないな)
 車を東側の駐車場につける。西の武道場の、更に西からのぞいている絢音には、この位置の車は絶対に見えない。来客用の駐車場のようだし、迷惑がかかることもなさそうだ。

 車から降りた三神は、さっそく例の少年を探す算段を練り始めた。

 瓜生というボスを抜いたその取り巻き三人は、獲物を探すべく、最初は授業中に抜け出しているような生徒を狙っていた。しかし、さすが名門進学校如月だけあって、そうそう授業を抜け出している者はいない。たまに彼らのように如月の進度についていけなくて落ちこぼれた生徒が図書室でぼんやりしていたり、校舎の陰で油を売っていたりしたが、司書がいて静まり返っている図書室で乱暴を働くことはできなかったし、外でサボっているような者でも彼らの姿を見るとこそこそ何か囁きあって、颯爽といなくなってしまった。「あいつらやばいぜ」と言う顔をして逃げていくから、追いかける気にもならない。結局授業はあっという間に終わり、そのあとのショートホームルームを終えると、掃除当番が掃除を始め、それ以外の者は部活に向かい始めた。
「くっそー、人目が増えてきたなー」
 志垣がうんざりしたようにうなった。佐藤は相槌をうち、栃沢は諦めがちの溜息をついた。
「これじゃあ中でやるとばれるかな。停学食らうのもうんざりだし、外でカモって来ようぜ」
 二人が同意を示すのを確認して、栃沢は裏門に向かった。正門から堂々と下校すれば間違いなく誰かに咎められるだろうし、外に出たという目撃があれば、外で恐喝に遭った人間が学校に訴え出た時に、自分たちが真っ先に疑われる可能性が高くなる。
 校舎の周りを三分の一ほど歩いたとき、三人は思わず足を止めた。ちょうど武道場の裏側で、道路との境の生垣の間からじっと中を見つめている女性が目に留まったのだ。
「・・・・・・何だろ、あの女。剣道部見てんのかな」
「見学か?にしては、えらく控えめな位置にいるよな。中からも生垣に隠れてあんまり見えなさそうだぜ」
 栃沢がにやりと唇を曲げた。
「あの格好からして、かなりいい家の御令嬢って感じだな。二十代後半くらいだけど。金持ってそうじゃねえ?」
「・・・・・・か弱そうだし。ちょっと脅せば軽いかもな」
「俺らの名前も知らねえだろうし」
「決定だな。よし、行こうぜ」
 三人は心持ち顎を上げ、気だるそうに歩きながら黒髪の女性に近づいた。女性は一心に中の様子をうかがっているようだったが、わずかに目線を武道場に向かう通路に向けたことで、自分に近づいてくる人間がいることに気づいた。
「なあ、あんた何してんだ。のぞき見か?悪趣味だな」
 栃沢が横柄さをいつもの倍くらいに増加させた口調で、相手を見下ろした。女性が改めて身体を三人の方に向ける。それで生垣となっている木と並ぶことになり、武道場からは死角になった。
「なあ、おネエさん。あんたえらく品のいいかっこしてるな。何、お金持ち?」
 からかうように言って、志垣が金髪を掻き上げながら相手をじろじろ品定めするように見た。

「何でこんなとこでのぞき見してんのかなんて、野暮なこと聞きゃしねえからさ。俺らにちょっとお小遣いくれねえかなあ」
 へらへら笑いながら佐藤がさっそく用件を切り出す。女性は美しい眉を寄せて、漆黒の瞳に蔑むような光を浮かべた。
「貴方たち、如月高校の生徒でしょう?如月の名を貶めるような行動は慎んだ方がよろしいんじゃなくて?」
 その毅然とした態度に、志垣と佐藤はひるみかけたが、栃沢は更に横柄に受け流した。
「言葉遣いまでお嬢様だなあ。わりーこと言わねえよ。お嬢さん一人で俺らには敵わねえだろ。それとも何?そのか細い腕に覚えでもあんの?」
「もしかして、優秀な兄弟でもこの学校にいるわけ?如月にだって、俺らみてーのいるんだよ。如月如月って、神聖視しちゃって、馬鹿じゃねえ?」
 女性はきり、と吊り上げた美しい目に力を込めた。
「情けない方々ね。如月の学力についていけなくなって、如月という名前にコンプレックスでもお持ちのようだけれど。高校や周りをどうこう言う前に、ついて行く努力を怠ったご自分に、まずは嫌悪のひとつでも感じた方がよろしいんじゃありませんこと?」
 当然三人は、彼女が彼らの恐れた椎名慈恩の実の母親だなどということは知りようもない。しかし、全くひるむ様子もなく、この痛烈な毒舌である。只者ではない、ということはすぐに感じた。
「なんだよてめえ。てめえに言われる筋合いねえぞ」
 佐藤が凄みを利かせると、女性は軽く吐息した。
「私もあなた方にお金をせびられる筋合いはありませんのよ。あなた方、ご自分のことしか見えてらっしゃらないようだけれど」
 鋭い言葉は全て図星だから、尚更腹が立つ。志垣と佐藤がギリ、と歯軋りをした。怒りに激した栃沢の手が女性の襟首をつかんだ。逆立った眉に拍車がかかる。
「偉そうな口きいてんじゃねえぞ。女だからって手加減してもらえるとでも思ってんのか。立場対等だと思ってんじゃねえぞ。力がある分こっちの方が立場つえーんだよ。勘違いしてんじゃねえよ」
 女性はひるまなかった。凛とした光が、漆黒の瞳に湛えられている。栃沢の脳裏を既視感が襲う。
(何・・・・・・だ?この眼・・・・・・?)

「立場ですって?何の関わりもない初対面の立場は、どんな人間でも対等なものよ。卑怯なやり方で力や権力をかざしさえしなければね」
「黙れ!てめえの口上聞く気なんかさらさらねえんだよ。さっさと金出しゃいいんだよてめえは」
「ウゼエんだよ、説教かましやがって。金持ちが偉そうに」
 佐藤がガードの甘くなっていた女性の右手から、ハンドバッグを奪い取った。口を開け、いきなり逆さにする。品のいい小物や化粧品、携帯電話や財布も転がり落ちてアスファルトに散らかった。きっ、と顔を上げて栃沢を鋭い視線で貫いた黒髪の美しい女性は、研ぎ上げた包丁のような言葉を相手にたたきつけた。
「これが犯罪だということ、当然分かってやってらっしゃるんでしょうね。曲がりなりにも如月に入ることのできた生徒さんですもの。ここまで落ちぶれるとは、入ったときは思ってもみずに、きっと喜びと希望に溢れていたんでしょうね。ここまで来ると哀れすぎて言葉も出ないわ」
 栃沢の顔が怒りで朱に染まる。財布を拾った佐藤もぎくりと硬直する。志垣は精神に最大級の傷を負って唇を噛み締め、その唇から赤い雫を、瞳には透明な雫を浮き上がらせた。
「死にてえか、このくそアマが!!」
 栃沢が握り固めた拳を思い切り引いた瞬間、その腕がものすごい力で後ろからつかまれ、その力に物理的にだけでなく、精神的にも固まらざるを得なかった。
「あんたら、人を傷つけることがどんなことなのか、ついこの間思い知ったんじゃなかったのか」
 低いいい声だが、凄みがある。志垣と佐藤は瞬間で振り返り、色を失う。二人の視界に映ったのは、漆黒の苛烈な瞳。数日前に目の当たりにしたその瞳は、彼らに恐怖と恐れを刻み込んだものだった。
「それとも、救いようのない愚か者だと、自らその行動で示すのか」
 椎名慈恩の研ぎ澄まされた皮肉な言葉は、今まで散々浴びてきた女性からの痛烈な言葉で傷つきまくっていた彼らのプライドに、とどめを刺すことになった。じりじり、とあとずさった佐藤は、手にしていた財布をぽとりと手からこぼすと、うめきと悲鳴をたして二で割ったような声を上げて、自分たちが来た方向へ猛然と走り出した。
「あ、あ、渡っ、待てよっ!」
 志垣が追いかける形で逃げ出す。

「さあ、あとはあんた一人だ。どうする」
 栃沢の耳に、低い声が更に低く流れるように入ってくる。ここで逃げるほど屈辱的なことはなかった。しかし、前回この後ろから腕をがっちりつかんでいる人間に、まさに殺されんばかりの空気を感じた栃沢は、ここでキレることの危険さも感じていた。ゆっくりつかんでいた女性の襟首から指を解く。
「この場面で都合よく出てくるなんて、正義のヒーローだな。見計らってたんじゃねえのか」
 それでもすぐに引き下がれず、憎まれ口をたたいてみる。内心かなりどきどきしていた栃沢だったが、意外にも拘束されていた腕が開放された。それに密かに胸を撫で下ろしつつ、今や瓜生より恐れを抱いている相手を振り返った。途端、凛とした漆黒の瞳に見返される。
「執行部の仕事で遅れて剣道場に来た。剣道場からは見えない位置だったようだが、その通路からこの状況が見えた。そんな俺にも気づかないほど、あんたらは加熱してたみたいだな」
 ち、と舌打ちして、栃沢は目を逸らした。つくづく自分たちには運がない、と思った。もうどうすることもできない。今この状況では、未遂だったことが何よりもありがたいことだった。
「てめえと関わるとロクなことにならねえ。その面見るのは二度とごめんだ」
 捨て台詞を控えめに放って、栃沢は二人が自分を見捨てて走り去った方に歩を向けた。
 ゆっくり遠ざかっていく姿を今一度眺めてから、慈恩は溜息をつき、武道場から何度か見かけたことのある黒髪の女性を、初めて間近から見つめた。
「うちの生徒が無礼を働いたようで、本当に申し訳ありません。この学校の生徒会役員を務める椎名といいます。彼らに代わってお詫びします」
 静かに頭を垂れる。品のいい女性はつかまれてしわの寄った洋服を調えながら、優しく声を掛けた。
「何をおっしゃるの。貴方がそんなふうに頭を下げる必要はないわ。私がお礼を言わなければならないのに。ね・・・・・・椎名、さん?」
 慈恩は頭を上げ、その品のいい女性を再び見つめた。間違いなく美しい女性だった。漆黒のやわらかそうな長い髪。長い睫毛の下の漆黒の大きな瞳。やわらかく通った鼻筋に形のよい唇。白く美しい肌に、その漆黒と唇のやわらかい色の紅がまた映えて美しかった。
(本当に美人だな)
 ちょっと感心する慈恩である。日本人の女性でここまで美しいと感じた人は、初めてだと思った。

「お礼なんて・・・・・・とんでもないです。うちの生徒に非があるのですから。すいません、これ、貴女のかばんですよね」
 言って上背のある身体を折り曲げて、ばら撒かれた小物をハンドバッグに収め始める。
「あら、いいですわ、私がやります・・・・・・。・・・・・・ありがとう。椎名さんはお優しいのね」
「人として当然のことをしているだけです。・・・・・・あ、すみません、これ、傷ついて・・・・・・」
 慈恩が拾い上げた携帯電話は、アスファルトによって大小いくつかの傷をつけられていた。女性はそれを受け取り、にこりと微笑んだ。
「構いませんわ。・・・・・・貴方にここでこうして拾っていただいた記念です。さっきの方たちに脅されたことで貴方にこうして親切にしていただくことができたんですもの。私、あの方たちに感謝したいくらいですわ」
「え・・・・・・?」
 あまりの極論に、慈恩が凛々しい眉をかすかに歪めると、美しい女性は少し慌てたように笑った。
「いえ、それくらい、貴方という素晴らしい人に助けていただけたことが嬉しかったのです。ねえ、よろしければ、貴方のお名前を聞かせていただけませんこと?」
 少々困惑したように笑みを浮かべてから、慈恩は応えた。
「椎名慈恩といいます」
「じおん・・・・・・さん?」
「はい。慈しむに恩恵の恩と書いて」
 言いながら、慈恩は拾ったもの全てを入れたバッグを女性に返した。
「・・・・・・そう・・・・・・。ありがとう。いいお名前ですわ。珍しい響きですわね」
「ええ、双子の兄がいて、両親が音をそろえてつけた名です」
「あら、そうなの?お兄さんはなんておっしゃるの?」
「北斗の斗に音(おと)と書いて、斗音と」

「まあ、そう。どちらもなんて素敵なお名前。素敵なご両親ですのね」
 誰もが見惚れそうなほどの美しい笑顔だったが、慈恩が返した笑みにはわずかに苦さが混じった。
「はい・・・・・・。いい両親・・・・・・でした」
 その様子に、女性は下の方だけ柔らかくカールした髪を後ろへ流しながら、笑みを消す。
「あの、私、もしかして余計なことを・・・・・・」
 女性に気を遣わせまいと、慈恩は苦笑した。
「いえ、母はもうだいぶ前に亡くなりましたし、父が亡くなってから一年以上経っていますから。お気になさることはありません」
 しかし、また戻ってきた美しい黒髪をしなやかに後ろへ流しながら、女性は神妙な顔を見せる。
「ごめんなさい。私、本当に気がつかなくて・・・・・・。助けていただいておきながら、本当にごめんなさいね」
「いえ、本当に・・・・・・」
 逆に戸惑いを見せる慈恩に、女性は優しい声で、しかし強い意志を込めて言った。

「ね、慈恩さん。今日のお礼と、それからお詫びをさせていただけないかしら。いえ、今すぐなんて無茶は言いませんわ。貴方のご都合のつく時で構いませんの。そうでないと、私、自分で自分が許せませんわ」
 強引なその誘いに、慈恩はどう反応したものか困惑した。しかし、あまりに押しの強い彼女の姿勢に、ついに折れざるを得なかった。自分への連絡先と引き換えに、慈恩は相手の携帯番号と、その美しい女性の「九条絢音」という名前を知ることになった。

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