« 七.母と子の再会 | トップページ | 九.絢音の計画 »

八.空

 絢音がカツアゲに遭ったおかげで自分の息子と初めて会話を交わすことができ、至福の時を過ごしていた頃、その運転手兼ボディーガードであるはずの三神は、名前すら知らない一人の少年の居場所に見当をつけるところまで、成功していた。最近校門の辺りで部活が終わってから何か事件がなかったか、と数人固まってたむろっていた女生徒達に聞いたところ、彼女らは三神の外見に気を良くしたのか、いろいろしゃべってくれた。濃紺のブレザーにグレーを基調としたチェックのプリーツスカート、濃いブルーのタイの先端が三段階のグラデーションになっている如月の女子の制服は、これまた女の子たちの憧れであり、なかなかかわいらしいものだったが、三神には何の感銘も与えなかった。
 彼女らの話を聞く中で、あのアッシュの髪の色白の少年がこの学校の生徒会副会長という肩書きを持っているということ、喘息持ちで、つい最近トラブルで発作を起こし、煙草を押し付けられて火傷を負ったこと、バスケ部に所属していること、生徒会の仕事が忙しくて部活に行けないこともあること、全然似ていない双子の弟がいることなどの情報を得た。
(椎名斗音・・・・・・か。いい名だ。あの儚さによく似合っている)
 生徒会室になんて自分が入り込めるはずもないので、バスケ部が活動しているという体育館に向かう。二階建ての体育館の一階で、男女のバスケ部が体育館を半分に区切って二面つくってあるコートを使って、それぞれ練習しているようだった。武道場側には決して近づかないようにしながら、三神はさりげなさを装って体育館内をのぞいた。
(・・・・・・いない・・・・・・か・・・・・・?)
 見覚えのあるアッシュの髪が見当たらない。目立つのは淡い紫色の髪の少年だけだ。もう一人柔らかそうな、色の薄い髪の少年がいるが、そんなに長かった覚えはない。心底がっかりしながらも、三神は感嘆の思いを己の中に感じた。
(えらく上玉がいるじゃないか。・・・・・・あの髪は染めてるのか?男であれだけの美人はそう拝めるもんじゃない。・・・・・・あの可愛らしいのもレベルが高いな。椎名斗音といい、男子バスケは豊作だな)
 目線がばれないように、胸のポケットに挿してあった濃い色のサングラスをそっとかける。しばらくその二人の麗しさや愛らしさを堪能してから、それでもあの時の少年に心をくすぐられるまま、未練たらたらで三神は車へ戻った。あの綺麗に整った顔立ちや、はだけた襟首からのぞいていた白い肌を思い出すだけでぞくぞくする。
(くそ・・・・・・もう一回見たかったな。明日も許してもらえたら見にくるんだがなあ)

 そろそろ部活が終わる時間が近づいている。未練はあるが、仕事を怠るわけにはいかなかった。三神は諦めて車を出した。

 九条家に戻るなり、絢音はいつものうんざりするような台詞を母親から言われた。それでも絢音はとびきりの幸せに包まれていたから、ニコニコ笑いながら答えた。
「お母様、私、雅成さんとずっと幸せでいられるチャンスをつかみましたの。しばらくお時間を下さい。九条家を絶やすようなことは絶対にしませんわ。ご安心なさって」
 母親は訝しげな顔を見せたが、自分の娘が何かひとつのことを心に決めると、一直線に進んでいく性格だということをよく知っていたので、そこまで言うからには何らかの報告が近いうちに聞けるだろうという確信はした。しかし、走り出したら止まらないということもよく知っていたので、思わず口にせずにはいられなかった。
「絢音さん、あんまり突拍子もない報告だけは、勘弁してくださいね。あの時のような思いをもう一回したら、私心臓が止まってしまいます」
 絢音が返した微笑みは嬉しさ半分に、何か負の感情が混じっていた。
「突拍子もない報告かもしれませんわ。でも、私も雅成さんも不幸にならずにすむ報告には違いありません」
「・・・・・・絢音さん・・・・・・」
 その負の感情が、自分に・・・・・・いや、絢音にひどくつらい試練を与えた九条家の親類一同に対するものであることを、母は理解していた。それ故、それ以上の言葉を紡ぐことは敵わなかった。
 絢音はすぐさま雅成の待つ居間へ、蝶が舞い込むような軽やかさで戻った。
「・・・・・・何か進展が、あったんだね?」
 その浮かれぶりに、雅成は苦笑した。絢音はあいさつすら忘れて雅成に抱きつきそうな勢いで駆け寄る。
「雅成さん、私もう、嬉しくて・・・・・・何から話したらいいかわからない。あの子が、慈恩が私を助けてくれたの。話もしたわ。また会う約束もしたの。あの子と知り合えたの。初めて間近で・・・・・・」
 時間軸がめちゃくちゃになった説明を上擦った声でしながら、たちまち漆黒の瞳に涙のベールを覆わせた。
「私を・・・・・・見てくれた・・・・・・」
 ぽろぽろと大きな雫が零れ落ち、雅成は自分のハンカチを出してそっと頬を拭ってやった。
「よかったな。よかったな、絢音。ずっと願ってたんだから・・・・・・」

 本当によかったな、と華奢な肩をぎゅっと抱きしめる。その腕の中で、絢音は何度も小さくうなずきながら、もう一度ゆっくりと、雅成に今日あったことの説明を試み始めた。

   ***

 梅雨の時期に入っても、如月高校の活気は衰えることがなかった。如月祭に向けて各クラスや部活、有志などの企画が申請され、具体的に動き始めたからだ。学力的に優れた者が集まれば、やはりそれなりに仕事も早く、計画もオリジナリティ溢れるアイデアがそれぞれで多彩に飛び出し、みんながわくわくし始めていた。
 多くの議論を呼んだ有志のオーディションも、執行部員と各クラスからの代表一名ずつ、更に先生も各学年と管理職から一名(今井の要望でなんと校長が参加し、全ての人物を驚かせた。)、更に専門職として音楽教師を審査員として招き、厳正な判定基準と項目のもとで公平に行われた。十組の合格者は、バンド演奏三組、漫才二組、大道芸、アカペラ演奏、ものまね芸、ダンス二組とバラエティに富んだものになった。バンド志望者は多かったが、それだけに競争率が高く、かなりレベルの高いところが選ばれた。その中に女生徒だけで組んだバンドが食い込んだことが、一時話題をさらった。有志志望がオーディションに決定してから、一生懸命練習を頑張ってきたバンドだった。審査員の見抜く目も高く、選ばれなかった者は気落ちしたものの、目の前で技術やレベルの違いを見せ付けられたことで、納得して諦めることができたのだ。当然栃沢たちのバンドもオーディションを受けたが、何事からも逃げてきた彼らがその中に残れるはずもなかった。
 しかし、そこで執行部は終わることなく、オーディションに落選した者たちには審査結果から足りなかった部分や評価できる部分を明確にして伝え、来年度またレベルアップして挑戦できるように、三年生であれば腕を磨いて大学や社会人になっても続けていける励みになるような言葉を送った。アフターケアまで完璧だった執行部に対して、毒づく者はもうどこにもいなかった。
 忙しかった時期を抜けて、久しぶりに部活に出て来られた斗音をいつもの出来過ぎ集団と男子バスケ部部長が嬉しそうに出迎えた。
「お疲れだったな。これでしばらくは部活に出てこられそうか?」
 徳本の問いに、斗音はわずかに微笑んで答えた。
「はい。勝手ばかりしてすいませんでした。遅れを取った分少しずつでも追いつけるようにします」
「仕方ないじゃん。副会長なんだから、忙しくて当たり前だし、今回の有志のオーディションで一番大変な目に遭ったのは斗音だったと思うし」
 ね、と可愛らしく笑いかけるのは瞬である。徳本もうなずいている。翔一郎は斗音の華奢な肩を軽くたたいた。
「発作連続で起こしてから、なかなか本格的にできなかったしな。待ってたんだぜ、みんな」
「ごめん。でも、足引っ張るかも」
「何言ってんだ。バスケットは集団のスポーツだろ。仲間を助けられないチームなんて結局勝てやしない」
 斗音のさらさらアッシュをくしゃりと乱して、嵐がその瞳をのぞきこんだ。嵐の瞳の色は不思議だ。完全な黒ではなくて、光の加減でグレーに見える。髪の色もそうだが、大和民族以外の血が混じっているのは確かなのだろう。
「斗音・・・・・・?」
「うん・・・・・・そうだね。ありがと」

 いつかも見せた、切なくなるような儚い微笑だった。嵐は密かに形のいい眉をひそめた。

 如月高校は二期制になっているので、六月末に中間試験があり、如月祭の二週間ほど前に期末試験がある。ラスト二週間は勉強のことを忘れて如月祭にかけるためだ。後期は十月から始まり、十二月中旬に中間試験、二月末に期末試験となる。三年生のみ受験の関係から中間試験が十一月、期末試験が一月頭に行われる。とはいっても、進学の名門校である如月は、よく希望者のために模擬試験も行われているので、その四回だけの試験をクリアすればいいと言うわけではないのだが。
 
慈恩のオリジナリティ溢れる天ぷら(この日はミニかき揚、蟹身、椎茸、しその葉にカマンベールチーズをくるんだもの、豚肉で鶉卵を巻いたものなどがあり、斗音は感激した)をメインにした夕食の後、かなり近づいてきた中間試験に向けて二人で額をつき合わせて勉強していた。斗音は嘆賞しながら弟に話しかけた。
「やっぱり今井さんはすごいね。あれだけ忙しかったのに、今回のオーディション、非の打ち所がなかった。きっとあの人は出世するだろうね、将来」
 慈恩も文句なしの賛同を示す。
「手間を一切惜しまなかった。二度と生徒の中から不満を出さないように、細心の注意を払って企画した。あの人以外にオーディションの担当は勤まらなかったと思う」
 さすがに如月のトップに立つだけある。と、慈恩は尊敬してやまない。二人とも、他人の優れた部分を素直に認め、尊敬の気持ちを持つことができる。
 うんうん、とうなずきながら、斗音がふと顔を上げる。
「そうだ、慈恩。試験終わった次の土曜日の部活の後、翔一郎たちと遊びに行こうって話してたんだけど、慈恩も来ない?部活、午前だろ?執行部の仕事も一段落したし」
 その唐突な誘いに、慈恩は何度か瞬きしてから、苦笑した。
「いいな、たまには気晴らしも。でも悪い、先約があるんだ」
 休みの日は大概用事のある斗音であるが、部活に縛られることの多い慈恩はそう頻繁には遊びに出ない。掃除や洗濯、食料品の買出しなどに残った半日を費やしたりすることが多い。時折図書館で本を探したり、一人でふらりと買い物に行ったりもする。その慈恩に先約があるというのは、慈恩に彼女がいなくなってからは久しかった。
「そうなんだ?残念。みんな慈恩が来るの楽しみにしてるんだよ。いつも剣道の練習でなかなか一緒に遊べないから。次はもっと早めに計画立てるから、バスケ部連中に付き合ってよね」
 そこまで言ってから、はっと思いついたように慈恩を見つめる。
「もしかして、誰かと付き合うことにした?」
 しかし、慈恩はあっさり首を横に振った。
「いや。そういうわけじゃないけど。ちょっと込み入った事情があって」
 斗音が首を傾ける。さらさらの色素の薄い髪が、さらさらとその綺麗な頬のラインから離れる。

「事情?」
 そこで、半月ほど前に女性に絡んでいた栃沢たちを止め、その人からお礼がしたいと言われていたこと、何度かその人から連絡があって、半ば強引に日程などが決められたことなどを話した。
 斗音は綺麗で大きな目を何度か瞬かせながら聞いていたが、手の中でシャーペンをくるくる器用に回して言った。
「ねえ、その人って黒い髪の美人って言われてる人じゃないの?」
「知ってたのか?」
「ちょっと前から噂になってたよ。剣道場を見てる人がいるって。うちのクラスの百瀬、剣道部だろ。あいつから俺、聞いたよ。毎日部活の時間になるといつの間にか来てて、じっと剣道部の練習見てんだって。すごい上品そうな美人なんだって。俺思わず、何で遠くから見てんのに美人って分かるのって聞いちゃったよ」
 慈恩は思わずくすっと笑う。
「俺も最初その人のこと噂してる奴に、同じこと聞いた。でも、確かに遠くから見ても間違いなく美人だろうって感じがするんだ。なんかまとってる雰囲気がそんな感じで」
「で、で?間近で見たんだろ。どうだった?」
「いや、本当に綺麗な人だったよ。びっくりした」
「へえ・・・・・・。慈恩が言うんだから、かなりの美人なんだろうなあ。慈恩、芸能人とかでも滅多にそうやって言わないもんな」
 面白そうに斗音が笑みを浮かべる。斗音が笑うのは珍しいことではないが、慈恩は斗音が笑っているのを見るのが好きだった。あの白い部屋で、寂しさ一杯湛えた悲しそうな微笑じゃなくて、楽しそうだったり嬉しそうだったり、そんな感情を込めて斗音が自分を見ると、今の自分がここにいる意味があるのだと信じることができた。
「ねえ、もしかしてさ。その人最初から慈恩のこと見てたんじゃないの。だから、慈恩がその人のこと助けたのは偶然だったけど、その人にとっては慈恩と知り合うラッキーな出来事でさ。だから慈恩と知り合いになれたことが嬉しくて、そうやって友好関係を深めようとしてるんじゃないかな」
 絢音が聞いたらあまりの的確さに心臓が止まるような思いをしただろう。だが二人はそんなことを知るはずもなく、確かにそれなら筋が通るなあなんて笑い合っていた。
「でも、俺見られるような覚えもないけど」
「剣道の試合にでも来てたんじゃないの?それで見初められたとか」
「・・・・・・でも確かあの人・・・・・・結婚指輪してたような気がするぞ」
「じゃあ不倫だなあ。今度の慈恩の相手は年上の旦那持ちかなー」
「こら、勝手に俺の未来を決めるな」

 しばらく斗音が慈恩をからかうという構図が続き、彼らは勉強に一時間の半分ほどの支障を来たした。

   ***

 学力に多少なりとも覚えのある如月の生徒たちがしのぎを削りあう中間試験が金曜日に終わり、校内は解放感に溢れていた。これで部活が思い切りできる、如月祭の企画に力を入れられる、遊べる、勉強しなくていい、など生徒たちの解放感は様々であったが、梅雨のじめじめした天気も、生徒たちの気分と呼応したかのように中休みに入り、二・三日は晴れると予想されていた。
 予報どおり晴れた翌日の土曜日、斗音たちは久々のバスケットで汗を流し、近くの結構新しい銭湯に寄ってさっぱりしてから、まずは腹ごしらえと昼食ゲットに向かった。
 慈恩は同様に、午前中近藤の地獄メニューをこなし、シャワーを浴びながら仲間内でハンバーガーでも食べようと盛り上がっている中、申し訳なさそうにそれを断って、絢音との約束の場所に向かった。絢音は車で迎えに行くと言ったのだが、どうしてもそれは人目に付くし、相手の手の内に乗りすぎるような気がしたので遠慮した。絢音に説明されたとおり、電車で一駅通過したところの、高級住宅地が並ぶ中にある、高級そうな雰囲気を湛えているこじんまりとしたレストランの入り口を、慈恩は少々気後れしながらくぐった。どう考えても、制服のままでスクールバッグを肩にかけている自分が入るところではなさそうだ。
 如月高校の夏服は、ブレザーの高校の夏服に近くなる。白のカッターシャツに、女子の冬服のタイと同じタイプの濃いブルーのネクタイ、その襟元に白い鷺が羽ばたく様子をモチーフにした校章。ズボンは学生服のときと変わらない黒だが、夏用の薄い生地になる。シンプルなその夏服を着用した慈恩は、傍から見ればとても上品な雰囲気をまとっていて、それはそれは似合うので、その思いとは異なって、上品なレストランの雰囲気に溶け込めていた・・・・・・荷物以外は。
 しかし、そんなことは露ほどにも感じない慈恩が、どうしたものかと店内に視線を巡らせようとすると、上品な制服のウエイトレスが静かに近づいてきた。

「いらっしゃいませ。椎名様でいらっしゃいますか?」
「はい」
「お連れ様がお待ちでございます。どうぞこちらへ」
 ひとつの礼にしても丁寧な身のこなしを感じる。店のテーブルの半分くらいは、やはり上品そうな客で占められていた。そのウエイトレスに導かれるまま店の最も奥の、最も人目に付きにくいのに、景色が素晴らしく見える一角に進む。隣のテーブルから十分にスペースを取ってあるところや、それらの調度品ひとつをとっても、ここが間違いなく高級な店であることをうかがい知ることができる。
「こちらでございます」
 そう言われて、周りに気を取られていた慈恩が勧められた席の正面に目をやると、絢音がふわりと花の開くような微笑みで自分を迎えていた。
「ごゆっくりどうぞ」
 どこまでも丁寧な口調で言ったウエイトレスが立ち去ると、慈恩はぺこりと頭を下げた。
「すみません、お待たせしましたか」
 絢音はにっこり笑う。上品な微笑みは、控えめな照明の下でもやはり綺麗だった。
「いいえ、私も今来たところですわ。どうぞ、お掛けになって」

「はい」
 肩にかけていた荷物を椅子の脇に置き、言われたとおりに引かれてあった椅子に座る。硬くもやわらかくもなく、優しい座り心地のする椅子である。
(場違いだな。私服に着替えたほうがよかったかも)
 微妙な居心地の悪さを感じる慈恩だったが、そんなことは欠片も表情に出さない。
「ごめんなさいね、私強引にいろいろ決めてしまって。来てくださって、ありがとう」
 上品な言葉遣いに、慈恩も少々硬くなる。
「いえ、あの・・・・・・俺、大したことしてないのに、何だかかえって申し訳ないような・・・・・・」
「まあ、私がしたいと思ってるから勝手にしているだけですわ。逆に貴方の方がこんなおばさんに振り回されて・・・・・・ご迷惑おかけしてるのは重々承知ですのよ」
(おばさん?)
 見かけ二十代後半くらいに見えるのだが、自分の認識が間違っているのだろうか。それとも、自分の年齢に比べれば、ということなのだろうか。迷惑なんて、そんなこと、と言いながら慈恩は心の中だけで首をかしげる。
「あの、九条さんは、如月高校によくいらっしゃるんですか?」

 前回訊けなかった質問である。黒髪の美人として如月の一部の生徒に噂されるほど、多くの人間に目撃されているのだから、かなりの回数足を運んでいるはずである。

 絢音は軽く首をかしげるようにして、あまり濃くない色の紅で彩られた形よい唇に笑みを載せる。

「ええ・・・・・・そうね。如月高校の剣道部に興味がありましたの」

「剣道部に・・・・・・?」
「だから、名字しか存じませんけれど、剣道部に在籍なさってる方々は大体覚えておりますわ」
 少し躊躇ってから、慈恩は更に問いかけた。

「なぜ・・・・・・とお聞きしても、よろしいですか」

「ええ。構いませんわ」
 にっこりと小首をかしげるようにして、絢音は返した。
「・・・・・・実はあまり剣道というスポーツが分かるわけではありませんの。けれど、ちょっと落ち込んでいたときにあなた方の前向きな姿をお見かけしましたの。ずいぶん励まされましたのよ。・・・・・・特に、貴方に」

「えっ・・・・・・」

 斗音の言葉どおりの展開に、慈恩は言葉を失った。絢音はふふ、と笑った。
「私が武道場の外からいつもあなた方の練習を見せていただいていたこと、ご存知だったんでしょう?」
「あ、ええ。何度かお見かけしたことがあります」
 ウエイトレスが水を、失礼しますの言葉とともに置き、どうぞ、とお絞りを一人ずつに差し出す。運ばれてきたグラスには、ものすごく透明な水にものすごく透明な氷が浮いていて、微かにレモンのような香りが漂っている。渡されたお絞りは小綺麗な模様の付いた淡いブルーで、清潔感をいっそう高めている。今日は暑いからなのか、お絞りは冷たくて気持ちよかった。そして、拭いた手は爽やかなこれも柑橘系の淡い香りが移っていた。
「あの剣道部を・・・・・・かれこれ二ヶ月弱になるのかしら。ずっと見てましたから、剣道のことはよく分からなくても、貴方があの中で格段にお上手だということくらいは分かります。元気のいい方・・・・・・部長さんだと思うんですけれど、あの方もお強いですわね。けれど、貴方はそれを越えてらっしゃるわ」
 何だかとても嬉しそうに語る絢音が、不思議な感じだ。確かに斗音の言うとおり、この女性は自分に入れ込んでいるようだ。今までそういう女の子たちがいなかったわけでもないし、慈恩は比較的年上の女性にも受けがよかったのだが、何しろ慈恩が鈍かったし、そういうことに気づいたとしても、あまりそのことを考えたこともなかったので、少々戸惑う。

「だから・・・・・・本当は、貴方に助けて頂いた時、とても嬉しかったんです。ずっと・・・・・・勝手にですけれど、励まされていたんですもの。こうして強引にお誘いしたのも、今までの分、お礼をさせていただきたかったからなんですの」
 メニューを開きながら、絢音が貴方もどうぞ、と促す。優しい声は耳をくすぐるように涼やかで、心地よかった。はあ、と曖昧な返事をしながらウエイトレスが置いていったメニューを手に取る。
「今日も部活でいらしたのでしょう?こんな時間までお食事を遅らせてしまってごめんなさいね。私からのお礼ですもの、遠慮なさらずに何でも注文なさって。お腹すいてらっしゃるでしょう」
 メニューを開くと、西洋系の料理が並んでいる。料理に関してはそれなりの知識がある慈恩ですら、あまり聞いたことのないものもいくつかある。どうでもいいけれど、一品一品が一般的なレストランの二倍をゆうに越える値段なのに驚く。これで選べと言われても、一般市民の慈恩は躊躇ってしまう。
「どうかなさいまして?」
 なかなか選べずにいる慈恩に、絢音がにこりと微笑む。
「見慣れない名前が多くて・・・・・・」
 苦肉の策でそう答えると、絢音は、そう、とやっぱり微笑して、どれがどうお勧めかを説明し始めた。かといって、絢音のお勧めはメニューの中でも値の張るものばかりで、慈恩はおいそれと返事ができない。金銭感覚に疎い絢音も、やっとそのことに気づいたらしく、ちょっと慌てた。
「ごめんなさい、ここ、私の行きつけだったものだから、安直に決めてしまったのだけれど・・・・・・お金のことなら心配なさらないで。私のような人間にとっては、これくらいが普通なんですのよ・・・・・・」
 決してうぬぼれている言い方ではなくて、自分は世間とずれているという欠点を持っているのだと言うことで、慈恩に気を遣わせまいとする言い方だった。それでも躊躇う慈恩に、絢音は一問一答を始めた。
「ね、慈恩さん。スープはどんなものがお好きかしら?ビシソワーズなんて、お口に合うかしら。今日は暑いから、飲みやすいと思いますわ。あ、でも食べ盛りだからビーフシチューくらい、スープ代わりに頼んだ方がよろしいかもしれませんわ・・・・・・」
 慈恩の反応を見ながら、勝手に頼むものを片っ端から決め始める。その量は膨大で、慈恩は気が気でなかったが、絢音はお構いなしだった。勝手に決めて全部ウエイトレスに注文する。そして、くすくすと笑った。
「嫌味じゃなくて・・・・・・私、見てのとおり世間で言うお嬢様なんです。私の家は旧家で・・・・・・箱に入れられて育ってしまったものですから、こんな世間知らずになってしまって。結婚して家を継いだ身なんですけれど、夫も優しすぎるものですから、ちっとも直らないんですわ」
 嫌味でないことは、その表現からよく分かる。慈恩も思わず苦笑した。何だか可愛らしい人だと思った。
「武道場の前でうちの生徒が貴女に無礼を働いたとき、とても毅然としていらっしゃった気がします。彼らの方がずいぶんと動揺していたようですから。しっかりなさっていると思います」
 あら、お上手ね、と涼やかに笑う姿が美しい。涼しげな白を基調としたシースルーを重ねることで可愛らしさと上品さと不透明を手に入れたワンピースが、小刻みに揺れる。大きく開いた首もとから、綺麗に鎖骨が浮き出している。それを貧弱に見せないのが、上品な程度に付いた襟元のフリルである。
「綺麗だとか素敵な服だとかバッグだとか、そんなものを褒める人もいるけれど、そうやって中身を褒めていただけるほうがずっと嬉しいものですわね」

 考え方なども、ちょっとただのお嬢様ではなさそうである。
「私、結構一直線なところがあって、あの時もちょっとカッときてしまって。あの方たちにはずいぶん厳しいことを言ってしまいましたわ。後悔をしているわけではありませんけれど、それであの方たちのご機嫌を損ねてしまったのも、確かなんですの」
 ちょっぴり苦笑いである。

「どんなことを?」
「言ったら、引かれてしまいそうですわ」
 言いながらも、ちょっと遠まわしにあの時の名台詞を復活させる。慈恩は聞きながら思わず笑ってしまった。言葉遣いが丁寧な分、絢音の言葉はさぞかしきつかったことだろう。
「ちょっと大人気なかったとも思いますのよ。あなた方の倍も人生を経験している人間としては、もう少し寛大に接するべきだったかもしれませんわ」
「・・・・・・え?」
 慈恩は一瞬耳を疑う。そして、忘れもしない自分の年齢を振り返る。もうすぐ十七になる自分の倍、ということは、三十代前半ということだ。信じられない思いで絢音を見ると、こちらの思いに気づいたのか、上品にくすくすと笑った。
「今、計算なさったでしょう?私こう見えても三十三ですの。七月三十一日でもう三十四ですわ」
 そこでウエイトレスが前菜の鯛とサーモンのカルパッチョと、ビシソワーズを二人分運んできた。
「さあ、お腹すかれたでしょう?遠慮なさらずに食べてくださいね。私では注文した分全部食べることなんてできませんもの」
 にっこりと笑顔で勧める。ここまで言われてまだ遠慮したら、逆に相手の厚意を傷つけるだろう。
「はい。いただきます」
 運ばれてきたスプーンで、白いスープを口に運ぶ。ジャガイモの風味を殺さず、それでいて生クリームでまろやかにまとめられた味が心地よい。ジャガイモのざらざら感もほとんどないのが驚きだった。思わず、うまい、と言葉をこぼす。絢音は至極満足そうに、よかったわ、とうなずいた。刺身系や寿司が好物である慈恩は、カルパッチョの控えめなくせに絶妙の味や、歯ごたえに感動すら覚える。
「ここの食材はとても新鮮ですの。私、お刺身には目がなくて、ここのカルパッチョはお気に入りですのよ。お口に合いますかしら?」
「すごく美味しいです。俺も刺身は、好きです」
「まあ、本当に?奇遇ですわね」
 ころころと、実に楽しそうに絢音は笑う。絢音はもちろんだが、慈恩も彼女に対して好感を抱いていたので、話は弾み、初めの緊張感もすっかり消えて、そのあとも次々と出てくる絶品ぞろいの料理に、慈恩は一般の男子高校生としては少々高度な感動をしながら、楽しい時間を過ごすことができた。
(どうやったらこんなにやわらかく煮込めるんだろう。斗音にもこんなの食べさせてやりたいな)

 舌の上でとろけるビーフシチューに、本日数度目の感激を覚えながら、慈恩は思っていた。

   ***

「うわぁ、広いんだなあ。一人でここ住んでんの?贅沢」
 都内の新しいマンションが立ち並ぶ、そのうちのひとつ。その八階の一部屋に入るなり、斗音は感嘆の声を上げた。
「お前んちの方がよっぽど広いだろ。上がれよ」
 苦笑しながら先に上がっていたこの部屋の主が、淡い紫の髪を掻き上げる。
「翔一郎たちは、ここに来たことあるの?」
 靴を脱いで一段上がりながら、斗音が嵐に問いかける。
「ないな。あんまり高校の仲間を連れてきたことはない」
 さらりと言う友人に、斗音は何気なく問いを重ねた。
「どうして?」
「ちょっと、俺のプライベートは世界が違うから」
 これまた何でもないことのように嵐が答える。斗音は、へえ、とつぶやきながら、風呂や洗面所につながる短い廊下を通って、案内された居間に足を踏み入れた。
「綺麗にしてるんだ。結構こだわり派?なんか、大人っぽい」
 広めの居間にはシルバーをモチーフにした感のある、テレビやビデオ、そしてそれを支えるラックがあり、正直生活感というものはあまり感じられない。しかし、戸棚などは温かみのある木製で、硝子のテーブルの上に落ち着いた色調のクロスがかけられている。三人くらい座れそうなソファは淡いブルーとグレーの柔らかいチェックのシートが掛けられていて、部屋の色調は崩さずに、優しい雰囲気にしていた。
「どうして俺は、よかったの?」
 改めて、というより、ソファの肌触りのいいシートを撫でながらさりげなく、斗音は言葉を紡いだ。嵐は少し、間を置いた。そんな彼に視線を向けると、相手の視線もこちらを射止めていた。
「お前が、帰りたくなさそうだったから」
「え?」
 斗音が二、三度瞬きをする。嵐は笑っていない。真剣な話をしようとしているのが分かった。
「・・・・・・帰りたく・・・・・・ない?」
「自分で気づいてないのか?翔一郎と瞬は、夕飯食って暗黙の了解で『じゃあな』って言ったろ。お前だけなんか取り残されたような顔してたぜ」
 嵐は真剣な眼差しで斗音を見つめていたが、斗音が物憂げな表情のまま首を傾げたので、軽く吐息した。
「ここ半月くらいだな。お前、ぼんやりしてることが増えた」
「・・・・・・そう、かな・・・・・・」
 言いながら考えるでもなく、ただつぶやくだけの斗音に、嵐はソファに座るように勧めた。
「何飲む?ジュースからワインまで、大概期待には応えられると思うぜ」
 言って、悪戯っぽい笑みを浮かべる。斗音はやっと笑った。
「生徒会副会長の前で堂々とアルコール勧めない。何でもいいよ、一番お手軽なので」
「お手軽でいいんだな?あとで文句言うなよ」
「言わないよ。多分」
 斗音の返事に嵐は肩をすくめた。
「まあ、ゆっくりくつろいでてくれ。腕によりをかけてお手軽を作ってやるから」
 言って、リモコンでコンポを作動させる。耳に心地よいサラウンドの音が、鼓膜をくすぐる。聴いたことのない洋楽だが、癒されるような綺麗な曲だった。

「ん、ありがと」
 ソファに座る。そのシートの座り心地がいいのに、一瞬驚く。リビングからカウンターを境にしてキッチンになっているところで、嵐はなにやら硝子の音をさせ始めた。
(ここにいられるって、もしかしてすごいことなんじゃないのか?)
 世界が違う、と断言した嵐の私生活は、確かに謎に包まれている。しかし、だからといって部屋をぐるりと見回してみても、大人っぽくて洒落た雰囲気の部屋だということ以外、特に変わった様子もない。強いて言えば、家具や電化製品の一つ一つが決して安い間に合わせのものではなく、こだわりを感じるものだということか。既にある職について収入のある身なのだから、それくらいのものは買えるのかもしれない。でも、このマンションにしても、きっと高いだろうと思うのだ。それを払って、それでもこれだけ家具にこだわれるほどの収入があるのだろうか、と考えるととても不思議な気がする。そんなのは、一般のサラリーマンでもちょっと難しいのではないだろうか。
「ねえ。この家具をそろえたのは、嵐の趣味?」
「一応、そうだな」
「一応って何?」
「選んだのは俺だけど、俺が買ったわけじゃない」
 嵐には親がいない。彼は孤児院で育ち、中学から既に一人暮らしを始めている。あまりそういったことを嵐から言うことはないが、訊かれれば何の躊躇いもなく事実を答える。だから、嵐と親しい仲間内なら大概そのことは知っていた。ということは、それを買ってくれたのが親ではないということくらい、斗音には分かる。

「お金出してくれる人がいるの?」
「俺が出すって言っても聞かねえから」
 言いながら、氷と炭酸の気体を発生させている、うっすら色のついた透明な飲み物の入ったグラスに、一つはレモンを添えて、もうひとつはチェリーを沈めてあるものを運んでくる。
「どっちがいい?」
「綺麗だね。俺、こっちがいいな」
 チェリーが沈んでいる、ほのかに桃色がかった縦長のグラスを手に取る。
「これでお手軽なの?なんかすごい、喫茶店で出てくる飲み物みたいだ」
「外見はな。こっちはつまんでくれ」
 更にナッツがミックスされたものを小皿に流し込む。斗音は手にしたグラスに綺麗な唇をつけ、わずかに傾けた。中の液体が形を変えて水平を保ち、その喉に流れ込んだ。
「・・・・・・ねえ、嵐。これ、何?」
 今自分が飲んだものが何なのか、はっきり判別できずに斗音が訊ねる。
「美味いだろ?」
 全く答えになっていない返事を返して、嵐は笑った。斗音はうなずきながら、首をかしげる。
「何だろ?ほんのり甘くて炭酸。この風味って・・・・・・えっと・・・・・・桜・・・・・・?」
「正解。チェリーブロッサム・リキュール。いい香りだろ?炭酸で割ってみた」
(リキュール?それって・・・・・・)

「お、お酒っ!?」
「製菓とかにも使われるやつだ。あんまり出回ってないんだぜ」
 お前、お目が高いよ、と言ってくすくす笑う。

「ちなみにこっちはよくあるレモンのやつ。甘くないけど、飲んでみるか?」

「ていうか、何でアルコールが出てくんの」
「お前、文句言わないって言ったろ?」
「言ったけど」
「それともまずくて飲めないか?」

「いや、美味しいけど、でも」
 声を上げて嵐は笑った。そして斗音のグラスに自分のそれを軽く当てる。透き通るような音が響く。
「大丈夫。大した分量じゃないよ。それに今のお前は、ちょっとたがを外さなきゃ駄目だ」
 言って、乾杯、とグラスを小さく掲げた。斗音も遅れて、乾杯、と口にする。嵐がそう言うのなら、と思わせる説得力や信頼するに値するものを、この淡紫色の髪の友人は持っていた。
 時計が八時半から九時まで針を移動させた頃、嵐はグラスを替え、顔色ひとつ変えずに白ワインを既に瓶の半分ほど自分の身体に収めていた。斗音は最初に嵐が作った縦長のグラスの、ようやく半分ほどを飲んだところだった。いつもの陶器のように白い頬が、ほんのりそのグラスに注がれている色を移したように染まっていた。
「嵐、そんなに飲んで平気なの?」
「これくらいじゃ俺は酔わない。これが全部泡盛だったら酔ってるけどな」
 笑いつつ、嵐は斗音の表情をうかがう。
「ていうか、お前もしかして滅茶苦茶弱い?」
 斗音はソファに寄りかかったまま、熱い息を吐き出した。
「知らないよ、飲んだことないんだから。でも、心臓がブレイクダンスしてる感じ?」
「そりゃまた派手に酔ってるな。アルコール度数で言えば四%未満なんだけど」
「それって、少ないの?多いの?」
「俺の今飲んでるワインが十七%」
「・・・・・・ねえ、横になっていい?」
 それなりにショックを受けながら気だるそうに言う斗音は、ちょっと目が潤んだりして、うっすら頬を染めて、かなり色っぽい。嵐は苦笑してうなずいた。薄い綿毛布を別の部屋から運んできて、ソファに身体を横たえた斗音に掛けてやる。
「眠いか?」
「ううん、そういうわけじゃないけど・・・・・・ちょっと休みたい感じ」
「・・・・・・話くらいはできるか?」
「大丈夫だよ」
 床に座り込んで、嵐はソファにもたれた。目を閉じて、長い睫毛の影を頬に落としている斗音の顔を間近に見ながら、嵐はことさら感情を消して問いかける。
「・・・・・・今日、まだ慈恩は帰ってないのか」
 耳の側で、吐息とも溜息とも判別できないような呼吸がこぼれる。
「どうかな・・・・・・。夕食まで済ませてくるって言ってたけど・・・・・・」
「帰りたくないのは、そのせいか」
 しばらく間が空く。その間に続いて活舌の悪い斗音のハスキーな声がつぶやくように言った。

「・・・・・・ああ、そうかも」
 斗音は白い華奢な手の甲を、己の額に当てる。
「・・・・・・よく考えると、俺、あいつがいない時に家にいることって、少ないんだ」
 グラスを傾けながら、嵐はうなずいた。
「だろうな。お前はよく出かける方だし、慈恩は剣道ばっかりで、あんまり出かけないもんな」
「・・・・・・あの家、広くて・・・・・・広すぎて、一人じゃ寂しいんだ」
 俺家事もできないし、と小さく笑う。何だか壊れてしまいそうな儚さだと、嵐は思った。
「慈恩のデートの相手・・・・・・黒髪の例の人、なんて名前?」
「んー・・・・・・確か、九条さん、だった気がする・・・・・・」

「九条?本当に、九条?」
 嵐は眉根を寄せて、ふと自分の脳裏によぎった記憶を追いかける。
「・・・・・・何、知ってるの?」

「知ってるって言うか・・・・・・九条って言ったら田園調布の馬鹿みたいにでかい豪邸の表札がそうだった気がする。それにその名字、旧家のひとつ。ありきたりにあるもんじゃない」
 額に載せた手の下で、斗音は薄茶の瞳をのぞかせた。

「そうなんだ。・・・・・・お嬢様って噂あったし、案外そうかもね」

 まるで他人事のようにつぶやく。それが逆に嵐には気になった。

「何が不安なんだ?」
「・・・不安・・・・・・?」
 また斗音がつぶやく。上辺で言葉をなぞっているだけで、あまり考えてはいないようだ。大丈夫か、と気遣いながら、嵐はそっと斗音の頬に自分の手の甲を触れさせた。アルコールのためか、熱を持っている。
「嵐の手、冷たくて気持ちいい・・・・・・」

 再び目を閉じて、斗音が少し、笑った。それなのに、嵐は胸が痛んだ。
(泣きそうな顔しやがって)
 間近に見える斗音の顔にすっと長い指を近づけ、優しいラインを描く頬を、そっとなぞる。長い睫毛を微かに震わせて、斗音が薄茶の瞳を嵐に向ける。
「・・・・・・?・・・なに・・・・・・?」
「一人で抱え込もうとしてるからつらいんだぜ。言ってみろよ。お前の中にあるもやもやしたもの」
 優しい目が斗音を包み込むようだ。斗音は、まだ波間を漂っているような頭にぼんやり浮かんできたことを、言葉にし始めた。

「・・・・・・俺、今回の有志絡みのことで色々考えたんだ。投げつけられた言葉が痛かった。痛かったのは、事実だと思ったからなんだ」
 嵐は眉をひそめたが、いちいち言葉を遮ったりはしなかった。グラスを煽り、新たに淡い黄金色の液体を注ぐ。斗音は続けた。
「俺が気づいてなかっただけで、周りから見たら俺と慈恩の関係って、主従だったのかも。知らないうちに慈恩はずっと自分だけを大事に思ってくれるって・・・・・・俺勘違いしてた。違うのに。それどころか、俺は・・・・・・あいつの足枷なんだ。俺がいると、慈恩は自分のこと、何もできない」
 微かに擦れた声が震えた。潤んだ瞳は、アルコールのせいだろうか。
「でも、不安なのは・・・・・・それでも俺が、あいつにすごく依存してることなんだ。いつかは慈恩も俺から離れる。その時俺は・・・・・・どうしたらいいんだろうって」
 突然、くすっと笑う。
「慈恩にそうやって、何気なく言ったんだ。お前がいなくなったら大変だろうなって。そしたら、なんて返ってきたと思う?・・・・・・料理上手な人と結婚するんだな、だって。とんだ天然だよね。慈恩って」
 嵐もそれにはうなずいて見せた。しっかり者のくせに、斗音の弟は、自分自身のことが絡むと途端に鈍感になるのだ。
「今日あいつが九条って人に誘われたって聞いたときも、なんかよく分からないけど、やな気分になって。話聞いてると、その人最初から慈恩に興味があったとしか思えない。ずっと慈恩のことを見てたんだ。何が目的なのかよく分からないけど・・・・・・漠然とした不安みたいなものが・・・・・・なんでかな、その人が慈恩を連れて行っちゃうような気がして・・・・・・」
 自嘲を含んで斗音が笑った。
「馬鹿だね、俺は。でも、不安だったんだ。帰ってこなかったらどうしようって。一人でそれを待つのが耐えられなかった」
(連れてきて正解だったな)
 嵐は小さく吐息した。まさかここまで自分を追い詰めているとは。みんなと別れる時に一瞬見せた、あの迷子になった仔猫のような表情が、斗音のSOSだったのだ。嵐は優しくアッシュの髪を撫でた。
「お前、酔ってるな。・・・・・・でも、俺がこれから言うこと、ぼんやりでもいいから覚えとけよ」
 目を閉じて、こくりとうなずくのを確認すると、嵐は軽く息を吸った。
「俺は慈恩のこともお前のことも、すごく好きだ。どうしてだと思う?お前らの互いを思い合う気持ちとか、自分のことを過信しないところとか、そういう人柄が本当に信用できると思うからだ。それが嘘だとは思わない。少なくとも、お前に乱暴な言葉を投げつけてきた輩より、俺はお前たちのことを解ってるつもりだ。俺の言うこと、信じられるか」
 斗音は目を閉じたまま、熱い吐息とともにうなずいてみせる。嵐もそれを確認してうなずいた。

「お前が慈恩のことをすごく頼ってることは解ってる。だけど、慈恩はそんなお前だからこそ大事にしたいと思ってるし、それで自分が犠牲になってるとか、そんなこと欠片も思っちゃいない。剣道もそうだけど、あいつはお前が生きがいなんだぜ。お前がいるから頑張ってる。お前はあいつの足枷じゃない。お前があいつの空なんだ」
「・・・・・・空?」
 斗音は額に載せた手の下から、嵐をじっと見つめていた。嵐もそれをしっかりと見つめ返す。
「・・・・・・鳥は空があるから飛べる。自由に大きく羽ばたいて成長していく。慈恩があんなに剣道で強くなれたのは、お前を励ましたかったからだ。料理が上手なのは、お前に元気になってもらいたかったから。家事ができるのは、お前の不器用さをフォローできるように、だろ」
 斗音はソファの背もたれの方へ顔を傾けた。沸きあがった熱いものが、目から溢れて、頬を横切って滑った。
「もういいよ、嵐。ありがと」
 まだ酔っているのかもしれない、と斗音は思った。なぜこんなに涙が溢れてくるのか、分からなかったのだ。
「・・・・・・慈恩に連絡しといてやるよ。もうとっくに帰ってきてると思うから」
 ふわふわしたままで斗音がうなずくと、その後ろで嵐が微笑んだのが、雰囲気で分かった。携帯のボタン音が二、三発信され、快活な嵐の声が、電波の先にいる慈恩と話を始める。
「ああ、慈恩。もう帰ってた?え?九時に?早かったんだな。・・・・・・斗音、うちに来てる。ん。ごめん、酒飲ませたら寝ちまったんだけど・・・・・・わりい、だってそんなに弱いと思わなかったんだ。・・・・・・うん、だからさ、今日はうちに泊めるよ。うん。・・・・・・いいよ、構わない。ああ。じゃあな」
 そんな自分を除外した会話の片方だけを耳にしながら、斗音は流れた涙の後をそっと拭った。嵐が言ってくれたことは、少なからず斗音の不安に沈んだ心を引き上げてくれたし、嬉しかった。でも、完全に晴れ切らない雲も、斗音の心の中には残っていたのだ。

(飛ぶ力を充分につけた鳥は・・・・・・次はどこに行くんだろう・・・・・・・・・・・・)

|

« 七.母と子の再会 | トップページ | 九.絢音の計画 »

十字架の絆」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1084546/24607679

この記事へのトラックバック一覧です: 八.空:

« 七.母と子の再会 | トップページ | 九.絢音の計画 »