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五.携帯電話

 はあ、はあ、はあ。
 自分の激しい呼吸だけが、ひどく大きく耳に聞こえる。鼓膜がどうにかなるんじゃないかと思うくらいだ。心臓もバクバクいっている。そんなに走ったはずはないのに。
「・・・・・・何やってんだ・・・」
 なじるのは、自分。校門に近い校舎の影で、空を仰ぐ。
「・・・・・・・・・・・・ばっかみたい」
 身体を投げ出すようにして、校舎の壁にもたれかかる。スクールバッグが右肩から滑り落ちて、どさりと音を立てた。
(何逃げてんだろ)
 全身を電撃に貫かれたかと思った。自分の目を疑った。とにかくその場にいることが、耐えられなかった。そして、そう感じる自分の浅ましさに気づく。
(俺は・・・・・・・・・・・・いつの間にか、慈恩を・・・・・・俺一人のものだと・・・勘違いして・・・・・・)

『弟をいつも従えてるんだよな。身体が弱いとか何とか言って』
『それを下僕扱いしてんだぜ』

 不意に、今朝浴びせられた言葉が、脳裏を駆け抜ける。
 その言葉は、斗音の心臓に鋭く突き刺さっていた。そんなつもりはない、と自分の中で打ち消したが、周りからはそう見えていたかもしれない、と思い、実は自分で違うと思っているだけで、他の人からすれば自分と慈恩の関係は、主従に近いものがあったのではないかと思い、心の底から何か冷たいものが湧き上って、自分を支配していった。慈恩や嵐の行動が、その不安を打ち消してくれたのだが、今再び、同じ冷たい思いに心が囚われていく。

(勘違いしてたのは・・・・・・・・・・・・・・・・・・俺の方だ。俺の身体を心配してくれる慈恩に甘えて・・・・・・散々甘えて・・・・・・俺のためにあいつがいるんじゃないのに!!)
 嫌だ、と思った。近藤が慈恩にキスしているのが、許せなかった。同性に慈恩がそのような行為をされることで、慈恩が穢れるような気がした。慈恩を、そんなことで穢されたくなかった。そう感じること自体、慈恩を私物化している証拠だと、理性で考え、納得させようとするが、それがどうしてもできなかった。だから、耐えられなかった。
(あの人、まだ慈恩といる・・・はず・・・)
 ふと考えて、背筋に悪寒が走る。慈恩が近藤に応えるとは思わないが、だからこそ無理強いされているのではないかと、不安や不快で思考が荒んでいくのを感じる。
(嫌だ・・・嫌だ・・・・・・嫌だ!!)

 思わずポケットを探って、淡いブルーメタリックの携帯を取り出した。
 
慈恩は、携帯の許可をもらっている。斗音の発作が起きて、一番に連絡をもらうべき人物が、唯一の家族である慈恩だからだ。逆に言えば、慈恩が許可されないのならば、斗音が携帯を持つ意味もあまりないだろう。
 
もし慈恩の携帯を鳴らして、慈恩が気づけば、二人の邪魔をすることができるかもしれない。音が鳴らないようにはしているだろうが、バイブが作動することで、気づいてくれるかもしれない。もし気づいたら、慈恩は絶対に自分を優先するだろう。
 
躊躇いに躊躇って、でも、いてもたってもいられなくて、ついに、校門で待っていると伝えるメールを打った。普段の斗音だったら、絶対にそんなところで携帯を使ったりはしなかっただろう。メールを送信してから、自分に激しい嫌悪を覚える。
(・・・・・・俺は・・・・・・・・・・・・何してるんだよ・・・・・・)
 携帯をたたんで、ぎゅっと握り締めた。うつむいて唇を噛む。情けなくて、涙が滲んだ。
 途端。頭上から、からかいと皮肉を込めた声が浴びせられた。
「あれえ、生徒会副会長が、そんなむやみに携帯使ってていいのかあ?」

 如月は、憧れの高校である。合格する者の中には、自分の能力以上に無理をして、何とか引っかかるような者もあった。しかし、そんなタイプは如月の授業ペースやレベルについていけず、自暴自棄になったり、いわゆる非行に足を踏み入れることが、時折ある。斗音の周りに近づいてきたのは、そのタイプの、後者の集まりだった。特に、ボス格である瓜生は身体が大きくて腕っ節も強く、恐れられていた。三年生の中でも、比較的有名な連中なので、斗音も彼らのことは知っていた。
「確か身体弱くて、万が一の時に助けを呼べるように、それ持たせてもらってんだよな」
 俺たちとは大違いだ、と嘲笑うように校則違反の携帯を出して見せる。周りの取り巻きがぎゃははは、と品のない笑いを起こした。長めの髪を茶色に脱色している瓜生がずい、と、顔を上げた斗音に詰め寄る。
「何でもできる優等生が、みんなにおだてられて、最近調子乗ってるって言われてんの、当然知ってるよな」

「有志の発表に難癖つけて、制限したんだってな。伝統ある行事を大事にするとか、偉そうなこと言いながら、伝統的にみんなが楽しくやってた発表に規制作ってりゃ、世話ねえよ」
 
瓜生に続いて言ったのは、髪を激しいオレンジ色に染めている男だった。続いて、周りからかぶせるように汚い言葉が投げつけられる。
「女からちやほやされて、付け上がり過ぎだぜ」
「こんな女みてえな顔の、どこがいいんだか」
「女にかわいがられる方なんじゃねえ?」
 また下卑た笑いが集団に広がり、斗音の肌を粟立たせた。それでも、きっ、と複数の相手を見上げる。
「有志の件なら、全校集会ではっきり理由を言ったはずです。そのことについては、執行部全員の一致した意見ですから、俺に何か言っても、撤回されることは有り得ません。携帯の使い方については・・・・・・自分でも恥じるところがある。それは認めます。でも、校則違反を見せびらかすようなあなた方にそれを言われるのは納得いきません」
 瓜生以外の取り巻き三人は、その毅然とした態度に鼻白んだ。瓜生だけが、ふん、と笑う。
「へえ、威勢いいんだな」
 からかうような、馬鹿にした顔つきが、肉食獣が本気で獲物を狙うそれに豹変した。
「正しいことばっかり言って、自分の非も素直に認めて、それこそ非の打ち所がない反論だなあ。え?有能で結構じゃねえか。その御立派な口先で今まで世間渡ってきたのか」
「口先・・・?」
 カチンと来て、斗音が聞き咎める。しかし、瓜生の猛獣じみた危険なオーラは、既に止めようもないほど膨れ上がっていた。
「俺がむかついてんのは、有能で御立派な脳みそと、すまし顔で自分はそれが当たり前みたいに振舞うその態度なんだよ。なんせ俺らは、如月の優秀な脳みそに置いてきぼりにされた落ちこぼれだからな」
 ぎらぎらした目が斗音を縛り付けるかの如く、睨みつける。
(・・・なに・・・・・・?)
「考えたことねえだろ、優秀な人間は。ある程度プライド持った人間がそれ以上に優秀な人間を前にして、自分はそいつに及ばないと悟ったときの屈辱感なんて。てめえが御立派な口をたたけばたたくほど、こっちはむかつくんだよ!!」
 瓜生がつかみかかってきたのは分かった。でも、それに対して自分の防衛本能が働いて身体が反射的にその命令を実行するより前に、斗音は校舎の壁にたたきつけるように押し付けられた。

(・・・強い・・・・・・こいつ・・・!)
 制服の胸倉をつかみ上げる厳つい手首を引き離そうと、両手を掛けるが、びくともしない。
「だから、そういう奴には思い知らせてやりてえんだよ。どんなに頭の中身が優秀でも恐怖とか力には敵わねえってよ。てめえみてえな口先だけの軟弱野郎なんか俺が潰してやる」
 それまで、斗音の態度に少々恐れをなしていた取り巻きたちが、瓜生の反撃に元気を取り戻す。
「弱っ。見かけどおりだな」
「だっせえの。英ちゃん、やっちまえよ」
 最初に斗音をからかってきた金髪のおちゃらけと、茶髪のだぼだぼの制服が囃し立てる。瓜生は怒りをその目に滲ませて、ぎろりと彼らをひと睨みする。
「やかましい。遠吠えしてんじゃねえ」
(・・・・・・こいつ・・・・・・)
 斗音は綺麗に整った顔を苦しさに歪めながら、瓜生が完全に彼らの上に立っていることを認める。
(格が違う。力もあって・・・・・・人の上に立てる素質も・・・・・・)

 だからこそ、それなりに高いプライドがあったのだ。茶髪に耳はピアスだらけの目の前の男は、如月に入っていなければ、きっと頼りがいのあるリーダーとして活躍していただろう。それは仮定でしかなく、今となっては、その仮定は虚しいものでしかないのだが。
「英嗣(えいじ)、
そんなに締め上げると首に痕が残っちまうよ。それを盾にされたら、俺たちまた停学だ」
 恐らくこの集団のナンバー2なのだろう。オレンジの髪にそり立つ眉毛の男が瓜生に忠告する。内ポケットから取り出したものを、瓜生に見せる。
「多分こっちの方が、恐怖だ」
 瓜生は一瞬目を剥いた。オレンジ頭は更にライターを取り出す。
「撤回することは有り得ねえって言ったよな。有志の制限。撤回させてやろうぜ」
 どうやらこのオレンジは、有志で何かをやろうと思っているらしい。普段の態度から、選抜制度に残れる自信がないに違いない。
「英嗣、こいつ羽交い締めにしててくれよ。俺、有志の制限だけは許せねえんだよ。英嗣が先にこいつ締め上げたら、しゃべることもできなくなっちまう。だから、先に撤回だけさせといていいだろ」
 瓜生は眉根を寄せた。少々躊躇いがあるようだ。オレンジ頭が顔をしかめた。
「なんだよ、この調子こいた二年坊主の肩持つのかよ」
「誰が!」
 煽られて、瓜生はつかんだ斗音の制服を力任せに引き寄せ、よろけた斗音の背後に回り込む。
(やばい!)
 一瞬の隙を突いて逃げようとしたが、やはり瓜生の方が速かった。両腕の付け根を抱え込まれ、腕の自由を奪われる。
「ようし、これでてめえは俺に逆らえねえな」
 オレンジ頭がにやりと笑って、ポケットから出した煙草を一本取り、口にくわえる。慣れた手つきでそれに火を点けた。

「な・・・にを・・・・・・!」

 斗音はぞくりと背筋に寒気が走るのを感じた。まさか、と思う。オレンジ頭は煙草をくわえたまま、斗音の制服のボタンを全て取り外した。中に着ているカッターの襟をつかみ、乱暴に左右へ引き開く。いくつかボタンが弾け飛んで、斗音の白い肌と、そこにくっきりと浮き出る鎖骨が現れる。
「よお、副会長。有志の制限、撤回するよな。今年もいつもどおり、有志希望は全部やらせるって、約束しろよ」

 斗音は小さく息を呑んだ。オレンジ頭がやろうとしていることは、少なからず恐怖だった。しかし、斗音は首を横に振った。
「全校に宣言をしたんです。それを今更撤回するとなれば、じゃあ去年の混乱はどうするのか。なぜ撤回するのか。新たな対策は何なのか。それらを説明しなければ、納得してもらえないでしょう。それを説明する自信は、俺にはありません」
 煙草の火をちらつかされてなお、理路整然と要求をはねつける姿に、金髪とだぼだぼは逆に息を呑んだ。瓜生も眉根を寄せる。オレンジ頭もしかめ面で考え込んだ。そして、改めて顔を上げる。
「なるほどな。それは確かにそうかもしれねえ。じゃあこうしよう。俺は有志でバンドのライブをしようと思ってる。俺の入ってるバンドをお前の権限で出場枠に入れろ。それくらいのことはできるはずだ」
 斗音は唇を強く噛んだ。きっ、と顔を上げる。
「それはできません。公平を期してこそ、生徒代表で構成されている執行部です。信用を失ったら、執行部は機能しなくなる」
 オレンジ頭の眉が吊り上がった。
「綺麗ごと言ってんじゃねえ!勘違いすんな、俺は命令してんだよ!もう一度だけ言う。俺たちのバンドを出場枠に入れろ。お前の返事次第で、お前の皮膚が焦げることになるぜ」
 つい、と煙草を浮き出た鎖骨の下に近づける。じわりと熱が伝わってくる。立ち上る煙に、斗音は眉をしかめた。軽く咳き込む。
「おら、どうすんだ。俺は短気なんだ。早くしねえと、消えねえ痕が残るぜ」
 斗音は目を閉じた。軽く息を吸う。
「・・・・・・できません」
 目の前の男が怒りの空気をまとったのを、斗音は感じた。
「やっろお・・・・・・後悔させてやる!!いいか、お前が要求を呑むまでいくつでも焼きいれてやっからな!」
 激しい苛立ちの声に、斗音はゆっくり瞼を上げる。視界を、たゆたう白い気体に阻まれ、濃い煙の匂いに襲われた。鎖骨の下を刺すような刺激がかすめる。瞬間、気管が斗音の呼吸を遮った。
(しまっ・・・・・・・・・・・・!)
 頭のてっぺんから背筋に冷たいものが突き抜ける。
「っ、・・・!」
(煙・・・振り切らなきゃ・・・!)
「な、何だこいつっ」

 いきなり信じがたい力で暴れだした斗音を、瓜生は反射的に押さえ込む。
 
斗音は焦った。死に物狂いで暴れるが、瓜生の力は斗音のそれを上回っていた。

(頼む、離せっ!!)
「うわ、お前何やって・・・・・・!」
 瓜生が叫んだのが分かった。先ほど刺すような刺激に襲われた辺りに、ジリ、と痛みが走った。でも、斗音はそれどころではなかった。煙草の煙を排除すべきものだと感知した、敏感すぎる斗音の身体は、その気管に異常な粘液や粘膜を発生させ、それを防ごうとしていた。苦しさのあまり無理に呼吸をしようとして、その粘液を気管に絡ませ、激しくむせ返り、それでも酸素を取り込もうとする本能が、斗音の呼吸を掻き乱していた。全身に冷たい汗が噴き出す。
「おい、これってまさか・・・・・・」

 青ざめた瓜生が、腕の力を緩める。喉を切り裂くかのように咳き込んでいた斗音は、そのまま身体をアスファルトの地面にたたきつけるようにして、倒れ込んだ。激しく身体を痙攣させながら、強張った白い指がアスファルトに爪を立てる。既に斗音は、自分で荷物を手繰り寄せて薬を取るという、ごく簡単な動作すらできなくなっていた。もう周りの声さえ聞こえない。ただただ苦しくて、いっそ殺して欲しい、とさえ、斗音は薄れそうな意識の片隅で思った。
「何やってんだ、てめえら」
 その時、いぶかしむような響きを含んだ声が投げかけられた。斗音以外の全員が、校舎沿いにこちらに向かってくる二人分の人影を、一斉に振り返った。
「近藤!」

 瓜生が縋るように声を上げる。名前を呼ばれたほうは、そのあまりに切羽詰った様子に不審な表情を浮かべ、その隣にいた人物は、はっと息を呑んだ。
「椎名?」
 近藤が一瞬固まった後輩の表情に、怪訝な顔をする。隣にいたはずの慈恩は、次の瞬間、もう近藤の傍にはいなかった。
「おい、椎名!」
 慌てて慈恩が駆け寄った集団の方へ、近藤も走り寄る。
「どけっ!」
 丁度校舎の角、三年生の素行の悪い連中がたまっているようだ。近藤と同じクラスの瓜生がいるところを見ると、恐らくその取り巻きの三人だろう。普段は冷静で大人びた慈恩が、如月の中では誰もあまり関わろうとしない不良軍団に向かって、怒りと焦りの感情を顕わにして怒鳴ったことに、近藤は驚いた。慈恩に遅れること数秒、剣道部の部長は、目にした光景から瓜生や慈恩の尋常ならざる様子を理解した。

 身体を強張らせて激しく咳き込む華奢な兄を抱きかかえ、慈恩はその脇にあったスクールバッグから見慣れないものを取り出した。何かを確認するように、軽くそれをいじってから、完全に血の気を失った形のいい唇に押し当てる。激しく震えながら慈恩にしがみつく白い指には、血が滲んでいる。
「・・・・・・椎名・・・斗音・・・・・・」

 近藤にとって、「椎名」は慈恩である。その似ていない双子の兄のことはよく知っていたが、名前を口にしたのは初めてだった。その斗音の制服がひどく乱れているのに、違和感を覚える。最初は発作を起こしたことで、苦しくて自分でそうしたのかとも思ったが、そんな苦しい中、学ランのボタンをご丁寧に外し、その上でカッターシャツのボタンを引きちぎったりするだろうか。
「おい、貢平(こうへい)。てめえら、ここで何してた」

 名を呼ばれたオレンジ頭はびくりと顔を上げる。その足元では、まだ長いままの煙草が、先から煙を上げていた。
 
何かを恐れたりしない近藤は、彼らとは別の意味でやはり三年生の中で恐れられている。そんな近藤に睨まれて声も出ないオレンジ頭に代わって、瓜生が斜め目線で斗音をうかがいながら答えた。
「脅してた。・・・・・・こいつが気に食わなかったから」
 ひどい咳が少しずつ収まってきた兄の頬に、呼吸を確かめるように己のそれを寄せていた慈恩が、きり、とまなじりを上げて瓜生を睨む。その鋭さに、不良のボスが言葉を躊躇う。
「・・・・・・初めは、生意気に携帯なんか使ってやがるから、からかってやろうと思ったんだ。けど、軽口じゃこいつは全く動じもしなかった。だから余計腹が立って、ちょっと痛い目見せてやろうと思って」
「痛い目だと?」
 どすを聞かせた近藤の声に、瓜生は黙り込んだ。代わりに金髪とだぼだぼが、自分の弁護をするため、喚きだす。
「俺は何もしてねーよ!からかってただけだし」
「俺もだ。手は一切出してねえかんな!!」
「大体最初に使用許可されてる以外の理由で、生徒会副会長の肩書き持ってる奴が、携帯なんか使ってるからわりいんだよ」
「そうだ、全校生徒の見本になろうって奴が、軽々しいっての」

 喚き立てる二人の見苦しさに、近藤は呆れ顔で溜息をついた。馬鹿馬鹿しすぎて、口を挟む気にもなれない。
 慈恩は眉根を寄せながら、だんだん強張っていた身体の力が抜けてきた斗音の、秀でた額の汗を拭い、自分の荷物を枕にして横たわらせた。だいぶ血の気が戻ってきたことにほっとしながら、乱れた襟元を直そうとしたその手が、ふと止まる。
「どうした、椎名?」
 近藤の問いかけに、慈恩は反応しなかった。ただ、斗音の襟元を握り締める手が小刻みに震えた。
「・・・椎名・・・・・・?」
 慈恩の視線が、ゆっくりとアスファルトで煙を漂わせ続ける煙草に止まり、その延長線上で立ちすくんでいるオレンジ頭を射抜く。その漆黒の瞳が、みるみる怒りと殺気を湛えていく。壮絶なまでに激しいその瞳の力に、オレンジ頭は怯え、震え上がった。
「お、俺がやったんじゃねえよ。こいつが勝手に・・・・・・」
「勝手に、何だ」
「え・・・・・・?」
 聞き返されて逆に言葉に詰まったオレンジ頭は、すくっと立ち上がった慈恩の威圧感に、ずず、とあとずさる。

「発作を起こして、あ、暴れだした時に、自分から押し付けたんだ」
 慈恩は一歩踏み出す。その足で、アスファルトが抉れるのではないかという勢いでタバコを踏みにじる。
「ほ、ほんとだ!嘘じゃなっ・・・・・・」
 オレンジ頭の抗議は慈恩に襟首をつかみ上げられて遮られた。金髪とだぼだぼが恐れおののきながらも、仲間をフォローする。
「ほんとだ、貢平は近づけて脅しただけで、あいつが勝手に暴れだして煙草に触ったんだ!」
「貢平は本気じゃなかったし・・・・・・っ」
 
慈恩は二人を視線ひとつで黙らせた。そして、オレンジ頭に向き直る。
「ひとつ聞く。斗音が喘息をもってるってことは、知ってたのか」
 とても先輩に対する態度ではないが、この場合、力関係は完全に慈恩が上をいっていた。逆らうことを一切許さない慈恩のオーラに、オレンジ頭は小刻みにうなずく。
「そ、それは、聞いてたけど、でもそれが・・・・・・」
 言った瞬間、オレンジ頭は首を締め上げられ、苦痛の声を上げた。
「く、ぅぅっ、は、なせ・・・っ」
 慈恩は、いつもなら艶やかで心地よい声を、怒りを織り交ぜるかの如く絞り出した。
「携帯を許可されるほど、斗音の喘息がひどいと知りながら、煙草の煙を近づけたのか!!!」

 椎名兄弟以外、その場にいた全員が、はっと身体を硬直させる。
 
もしここで慈恩が暴力沙汰を起こせば、剣道部が全国高校総体出場停止を食らう可能性があった。慈恩がそのことを念頭に置いているか、近藤は自信がなかった。恐らく今は、このぐったりと横たわる華奢で弱々しい兄のことで、慈恩は頭が一杯だろう。それでも、近藤は止めようとしなかった。殴りたいのなら殴らせてやりたかった。慈恩の怒りは、普段からどれだけ斗音を大事にしているかよく知っているだけに、痛いほど分かっていた。
 張り詰めた空気が、その時、音になりきらないほど擦れた声で、微かに振動した。
「慈恩」
 呼ばれた本人以外、全員が、ぐったり横たわっていたはずの斗音を振り返る。斗音は肘で自分を支えるようにして、わずかに身体を起こしていた。

「駄目だ・・・・・・離・・・せっ」
 表情は、苦しげである。まだ無理をしてるのがありありと分かる。でも、慈恩は振り返らない。オレンジ頭を締め上げたまま、その腕を微かに震わせる。
「・・・分かっ・・・てる・・・だろ、今・・・・・・どん、な、時期、か・・・っ」
 斗音は必死だった。近藤はその言葉に、知らず感嘆の思いが湧くのを感じる。
(こいつは・・・・・・思った以上に器がでかいな・・・・・・)
「分かってる!!!分かってる、そんなこと!!!」
 叫んだのは慈恩だった。その表情には、やりきれない悔しさが溢れていた。
「それでも俺は、こいつが許せない!!」
 オレンジ頭がひいっと情けない声を上げる。
「じお・・・・・・っ」
 無理やり声を上げた斗音が、喉で声を詰まらせた。二、三度咳き込む。慈恩は全ての思いを振り払うようにオレンジ頭を突き放した。

「次はない」
 
怒りの炎を漆黒の瞳に燃え上がらせながら、瓜生を睨みつける。瓜生はギリ、と唇を噛んだ。
「・・・・・すまな・・・・・・かった・・・・・・」
「英ちゃん!」
「わりいのはあっちだよ!」

 性懲りもなく吠え立てる金髪とだぼだぼに、近藤は哀れみの表情を浮かべた。
「馬鹿野郎。瓜生がどんな思いで今言ったのか、分かんなかったのかてめえらは」
 二人がぎくりと近藤を見つめ、恐る恐る瓜生に視線を戻す。強く唇を噛み締めてうつむく瓜生に、今度はおろおろする。同じ三年として、情けないことこの上ない。近藤は溜息をついた。
「瓜生、もういい。こいつら早く連れてけ」
「・・・・・・すまない、近藤」
 顔を上げて、瓜生が斗音を振り返る。
「・・・・・・・・・・・・椎名。俺がもっと、早く離してればよかった。気づかなくて・・・・・・悪かった。・・・・・・二度としない。こいつらにも、させない」
 はっきりと断言する。斗音は微かに微笑んだようだ。そのあまりの儚さと、その微笑みを浮かべられる強さに、近藤は胸を打たれた。
(敵わない)
 思わず苦笑する。

(こいつに俺は、敵わない)

   ***

 車に戻ってきた絢音が、あまりにも呆けているので、運転手の三神がいぶかしむ。
「絢音様?」
「いいの、三神。出して頂戴」
「はい」

 言われたとおりに車を出す。ロボットのように、言われたことをただ遂行するのみの九条家の使用人ではあるが、人である。三神は、絢音がここまで呆ける理由が気になった。今まで絢音が様子をうかがっていた校門の中に、ちらりとその鋭い視線を流した。
服装や髪の様子から見て、明らかに校則違反の何人かと、絢音が見に来ている剣道部の少年と、もう一人、これも剣道部にいる生徒だと分かる。それから、アスファルトに横たわっている、色が白くてアッシュの髪の少年が、目に入る。その様子が気になって、じっと目を凝らした。
(これ・・・・・・は・・・)
 顔が白いのは、何か具合が悪いせいでもあるようだが、それでも透き通るくらいの白い肌に、淡い色のやわらかそうな髪。大きな目。日本人離れした、なんと整った顔であることか。制服がはだけているのも、気になった。襟元からわずかにのぞく白い肌に、ぞくりとする。
 あっという間に遠ざかっていく景色に名残惜しさを感じつつ、三神は自分の使命を果たすために前方に目線を戻した。
(・・・・・・上玉だな)

 視線の鋭い運転手の口元が、にやりと歪んだ。

   ***

 瓜生たちが立ち去って、立ち尽くす慈恩と、それを見つめる近藤と斗音が残された。沈黙を破ったのは、斗音のひどい擦れ声だった。
「慈恩」
 振り向いた慈恩の悔しそうな、悲しそうな顔に、近藤は切なくさえなる。
「無茶して・・・・・・!」
 つかつかと歩み寄って、名前を呼んで再び臥せってしまった華奢な兄を抱き起こす。そんな慈恩に斗音は身体を預けて、血の滲んだ指先でその制服にそっとしがみついた。
「・・・・・・よ・・・か・・・・・・った・・・」
「何がだ!こんな火傷負わされて!!」
 斗音が力なく、アッシュの髪を、制服にこすりつけるようにして首を振る。
「馬鹿・・・・・・あん・・・なに・・・・・・たいへ・・・んな・・・・・・練習・・・・・・して、るのに・・・・・・」
 微かではあるけれど、微笑みながら、音にならないような声で一生懸命に言葉を紡ぐ、その様子がいじらしい。
「・・・・・・俺のせぇ・・・で、大、会、出られなか・・・・・・ったり、したら・・・・・・俺」
 はぁはぁ、と、小さく呼吸を繰り返してから、慈恩の漆黒の瞳を見つめ、ふわ、と笑った。
「こぉ・・・や・・・って、お前の顔・・・・・・・・・・・・見れな・・・いよ・・・・・・」
 精一杯言ったのだろう、力尽きたようにくったりと胸にもたれかかってきた斗音の小さな頭を、慈恩は華奢な身体ごと抱きしめた。
「何でだよ。馬鹿はお前だろ!ちょっとは自分のことも・・・・・・考えろよっ!」
 また斗音が首を振る。今度はもたれかかったままで、ほのかに自嘲の笑いを含んでいた。

「・・・・・・俺・・・・・・いつも・・・・・・・・・自分のこと・・・しか・・・・・・考えて、ない・・・よ・・・・・・」
 慈恩の顔を見られなくなるのが嫌だったから、ただそれだけ。大きな茶色の瞳だけで、そう訴える。慈恩は凛々しい眉を寄せ、唇を噛んだ。もう一度、馬鹿、と小さくつぶやく。
「椎名。どうやって帰るんだ?兄貴、歩いて帰るの、無理だろ」
 椎名兄弟のやり取りをずっと切なげに見つめていた近藤が、ふと慈恩に声を掛ける。掛けられた方も近藤に目を向けた。そして、ちょっと引け目を感じる。あれだけはっきり想いを打ち明けられておいて、完全に無視していたのだから。
「あ・・・えーと、タクシー呼びます」

「そうか・・・・・・。親がいないってのも、大変だな。一応、保護者ってのはいるんだろ?」
「父方の祖父母です。・・・・・・名前借りてるだけですけど」
「ふうん。・・・・・・じゃあタクシー呼んできてやるよ。んで、そのまま帰る」
 携帯で呼ぼうと思えば呼べるのだが、近藤が帰るきっかけを探していることが分かったので、慈恩はうなずいた。
「・・・・・・ありがとうございます」
 腕の中で兄が動いたのを感じて、慈恩は腕の力を緩めた。斗音が慈恩の肩を弱々しく押して身体を持ち上げ、近藤に向き直る。
「・・・助けて・・・いただいて、ありがと、う、ござ、い・・・ました」
 近藤は苦々しい思いが込み上げてくるのを感じながら、自嘲の笑みを見せた。
「俺は何もしちゃいねえよ」
「いえ、彼らが、おとなしく、引きさが・・・ってくれ、たの、は・・・・・・あなたが、いてくれた・・・おかげです」
 ふ、と近藤は笑った。自嘲の笑みではなく、それよりはもう少し近藤らしい顔になった。
「じゃあそうしとく。・・・・・・なあ、副会長。お前の双子の弟、いつもお前のこと心配して無茶しやがる。お前もそうみたいだけどな。弟の無茶が少しでも減るように・・・・・・身体大事にしろよ」
 斗音は、少し哀しげに微笑んだ。はい、とうなずく。その、どこまでも儚い微笑みに、にやりと笑い返して見せると、近藤はじゃあな、と別れを告げて門をくぐり抜けて行った。

  出てすぐ近くにある公衆電話には、近くのタクシー会社の電話番号も書いてある。恐らく彼なら、間違いなくすぐにタクシーを回してくれるだろう。そう思って、慈恩はほっと一安心する。

「・・・ねえ、慈恩」
 ひどく擦れた声に呼ばれて兄に視線を戻すと、薄茶の大きな瞳が、じっと自分を見つめていた。

「・・・何?」
 少しだけ薄茶の瞳が揺れた。

「・・・・・・瓜生って人は・・・・・・悪い、人じゃ・・・・・・ないかも、ね・・・」
 慈恩は眉根を寄せて目を逸らした。
「そうか?分からない」
 斗音が小さく刻んだのは、苦笑だったろうか。自嘲だったろうか。
「携帯・・・・・・メール入れたの・・・・・・気づいてた?」
「ああ。ここで待ってるってやつだろ?シャワー浴びて着替えようとしたら丁度震えてて、それで気づいた。学校でそんなメール送ってくるの、珍しいと思ったけど、それで急いで来た」

「・・・・・・そっか」
 斗音はうつむいた。笑みを浮かべているようだが、はっきりと翳っている。
「・・・無駄じゃ、なかったんだ」
 おかげで助かった、とつぶやくように言う。あまりにも落ち込んでいる様子に、慈恩が心配する。
「どうした?」
 再び長い睫毛に縁取られた瞳に見つめられたとき、それがわずかに潤んでいるのを知る。
「・・・・・・俺、嫉妬したんだ」
「・・・え?」
 一瞬何のことだか分からなくて、慈恩が不思議そうな顔をする。でも哀しそうな斗音の表情は変わらない。

「・・・仕事・・・遅くなって・・・・・・俺、お前に謝りたくて・・・剣道場に、行ったんだ」
「謝る?・・・・・・何を」
「・・・無理やり・・・・・・執行部に、誘ったこと」
 慈恩が眉根を寄せる。
「無理やりって。別に俺は俺の意志でやることにしただけだろ。確かに誘われてなかったらやらなかったかもしれないけど、俺だって考えて、自分がやる意義があると思ってやってるんだから、何もお前がそんな・・・・・・」
「けど、そのせいで、剣道・・・練習、大変になってる・・・・・・!」

 今日だって、残されて、と、擦れた声を絞り出す。
「・・・・・・お前のせいじゃないし、それで力がつくなら結構だ。俺は強くなりたい。ずっと・・・・・・強くなることを目標にしてきてる。だから、お前がそれを気に病む必要なんて、どこにもない」
 断言して斗音の綺麗な瞳を見返す。斗音は、気持ちの昂ぶりとともに目に込められていた力を、ふぅっと抜いた。そしてまた、哀しげにそれを翳らせる。
「・・・ありがと・・・・・・。でも、謝らなきゃいけないこと・・・・・・まだ一杯ある」
「一体どうしたんだよ。・・・・・・あいつらに色々言われたこと、気にしてるのか?」
 斗音が微笑した。刺さりそうなほど切ない微笑だった。原因は分からないものの、兄の心境がひどくマイナス方向に向かっていることだけは、慈恩にもはっきり分かった。こうなったらとことん聞いて、全部気にするほどのことじゃない、と言ってやろう、と心に決める。
「・・・・・・俺・・・道場で、あの人がお前に・・・・・・キスしてるの、見て・・・」
 歯切れが悪いのは、発作の後遺症のせいばかりではない。言いづらそうに口ごもる斗音の言葉に、決めたばかりの心構えを、いきなり慈恩は崩されそうになった。
(・・・・・・見られてたのかよ)
 思わず額に手をやる。その隙から斗音をちらりと見遣ると、斗音のおずおずとした綺麗な瞳に出会ってしまい、反射的にその瞳に逃げられてしまった。

「それで、俺、嫉妬して・・・・・・見ちゃいけないって、ここ、まで来て・・・・・・でも・・・・・・慈恩が誰かに取られるって・・・・・・勘違い、してる、俺がいて・・・・・・」
 焦っているのか、言葉はたどたどしいし、前後が入れ替わっているし、分かりやすい説明になっているとはお世辞にも言えない。そんな自分に苛々するらしく、斗音は吐き捨てるように言った。
「メール入れたら、お前が、気づくかも・・・って・・・・・・つまんないことして・・・・・・あいつらに、見つかってっ」
 自己嫌悪のあまり、斗音の薄茶の瞳に涙の幕がかかる。
「・・・・・・俺はいつも・・・・・・いつも・・・・・・自分のこと・・・ばっかり・・・・・・で・・・お前に・・・・・・迷惑かけて・・・・・・」
(・・・あっ)
 慈恩は思わずその瞳から転がり落ちた綺麗な雫を、受け止めたい衝動に駆られた。
「・・・・・・ごめん・・・」
 綺麗な頬に、すっと二つの涙の跡が描かれる。吸い寄せられるように、慈恩はその跡に指をなぞらせた。
「・・・馬鹿だなあ」
 優しく肩をつかんで、引き寄せる。傷に触れないように気をつけながら、ぽんぽん、と軽く頭を撫でる。
「・・・・・・?」
 まるで子供をあやすような仕草に、斗音が首を傾げるのに、慈恩は肩をすくめて笑って見せる。
「大丈夫だ」
「え?」
「俺はあの人を尊敬してるけど、そういう意味で好きなわけじゃない。あっちも俺にそういう見返りなんて、求めちゃいないよ」
 ほら、あの人野獣みたいなとこあるし、と、優しく見つめ、まだ残る涙の跡を親指で拭う。
「ごめんな。嫌な思いさせて」
 痛かったか?と。慈恩の表情は、笑っているのに少し悲しそうだった。少しだけ、と斗音が微笑んだら、火傷の周りについている灰をそっと長い指が払ってくれた。びりっと痛みが走ったが、斗音はびく、と肩を揺らしただけで、声は立てなかった。その痛みは、じわりとくすぐったさを伴って、斗音の身体の芯へ消えていった。

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