« 物語タイトル&目次 | トップページ | ニ.黒髪の美人 »

一.椎名兄弟

 二人が一緒にいて、話題がなくなったりすると必ず言われる台詞があった。
「ほんと似てないね、おまえら」
 自分たちでもそんなことは十分承知だから、言われる度に顔を見合わせて、またかと苦笑した。
「しかも兄弟逆転だから」
 なんて、ちょっぴりハスキーな声で自分から茶化すのは、双子の兄である、斗音(とおん)の方だ。身長が173cmで、フランス人だった母の面影を色濃く受け継いだ、全体的に色素が薄く、華奢な印象を与える風貌の綺麗な少年である。
 
隣で口数少なく微笑むのが、弟の慈恩(じおん)。180cmというすらりとした体躯で、小さいころから剣道で鍛え上げている筋肉質な胸には、いつもクロスのペンダントが密かに揺れていた。漆黒の髪や瞳は凛々しい顔立ちを更に引き立てている。どちらも、何事にも秀でているという点では類似しているのだが、二卵性双生児とはいえ、その外見はあまりにも似ていなかった。
「斗音はいかにもハーフって感じだけど、慈恩は日本の若武者っぽいもんなあ」
「二卵性って、普通の兄弟くらいしか似てなくて当然っていうけど、普通の兄弟でももう少し似てるよな」
「二人とも美形ってところは共通してんだけど」
 「美形」のところは「頭脳派」など、大概褒める言葉が続いたが、その辺りは、二人の人柄の成せるところだろう。とにかく、好き勝手なことを言う周りにも十七年間ですっかり慣れた。似てない双子・椎名斗音、椎名慈恩は、高校二年生になったばかりである。

   ***

 如月高校、全国でも屈指の名門進学校で、公立の中では更に三本の指に入る。今時ブレザーの多い高校の制服の中で、漆黒に合わせがグレーのラインの伝統的な学生服は、街行く人の憧れの対象だった。斗音はその学生服に身を包み、黒のスクールバッグを肩にかけて、電車の扉近くにもたれかかっていた。そして、傍らで胴着や竹刀の入った大荷物を軽々と肩にかけ、同じ制服の慈恩が手すりにつかまって、窓越しに過ぎ行く桜の景色を見るともなしに眺めている。斗音がふと口を開く。
「・・・・・・」
「?何か言った?」
 慈恩に聞き返されて、騒がしい電車の音に掻き消されないように、斗音は声を強めた。
「俺、生徒会の副会長やらないかって言われたんだけど」
「・・・・・・誰に?」
「伊藤先生。と、この前の会長選挙で当選した今井先輩」
 今まで斗音が何か役をやっていなかったという記憶が、慈恩にはない。ちなみに慈恩の記憶力はやはり人並みはずれて優れているので、その辺は確かである。
「やるんだろ?」
「やろうかと思ってるんだけど。今井先輩なら信用できるし、あの人のもとで働くのは悪くないかなって。どうせ何か委員会には入らなきゃいけないんだろうし、だったら下手に誰だかわかんないような人を仰ぐよりはいいと思って。でさ、相談」
「俺に?」
「執行部、入らない?」
 にこりと斗音が笑う。電車の窓越しとはいえ、夕日の残す最後の光に、その笑顔の映えること映えること。慈恩は眉をしかめて額に手をやった。
「俺がか?」
 天使の笑顔で悪魔の誘いである。
「だって、一緒にやれたら、執行部活気付くと思うし。どうせなら仕事できる人間がいいだろ」
「でも、そういうのって先生の思い入れとかもあるんだろ。やらせたい奴とか、決まってんじゃないのか?」
「まだ副会長だけって言ってた。それに、慈恩がやりたいって言ったら百発百中、先生大喜びだと思うよ。なんだかんだ言っても、慈恩いろいろ今までやってきてるし。第一、有能だから」
 斗音が自分から買って出る人間なら、慈恩は頼まれて断れずにやる羽目になるタイプだった。できないわけではないが、斗音ほどのリーダーシップがあると思っていなかったので、特にやりたいとも思わなかった。そんな慈恩に、教師側は、リーダーとして力をつけさせようとすることが多かったのだが、慈恩には己に与えている使命があって・・・それ以上のものは、今のところなかったのだ。
「執行部って、大変じゃないのか?」
「まあ、その辺の委員よりはよっぽど仕事あると思うけど」
「俺はともかく・・・あんまり無理すると、また酷くなるぞ」
「平気だって。最近比較的安定してるじゃん」
 自信ありげに、笑顔でうなずいてみせる。斗音の顔にはやる気満々と書いてある。
「・・・・・・・・・・・・そうだな」
 
慈恩はしばしの沈黙の後、真剣な表情を和らげた。
「・・・・・・やろうか、執行部・・・」
 ぱっと斗音の顔が明るくなる。それを見て、慈恩は仕方ないな、という顔で苦笑した。

 二人とも部活にも熱心なので、春とはいえ、家につくころには辺りはすっかり暗くなっている。都心に、遠慮しても小さいとは言えない家。そこには二人が帰ったことで初めて明かりが灯る。
「早くシャワー浴びて、汗流してこいよ。また風邪でも拾ったら大変だぞ」
 慈恩の声に、斗音がありがと、と返して浴室へと向かう。慈恩はさっさと荷物を置くと、干してあった洗濯物を取り入れにかかる。更に手早くたたんで自分のものと斗音のものに分け、次は夕食の準備に取り掛かる。ほぼ下ごしらえが終わったところで、斗音が出てきた。綺麗にたたまれた洗濯物に、大きい目を更に大きくする。
「あっ、またたたむところまでやっちゃったの?それ、俺の仕事なのに」
「俺は有能なんだろ。そんなこと気にしてる暇があったら、早く髪乾かせよ」
「うん、ごめん、ありがと」
 慈恩が浴室に向かうところで、ぶぉーん、とドライヤーの音が聞こえてきた。
 椎名家に両親はいない。二人がまだ十一歳だった時、喘息もちだった母が風邪をこじらせて、肺炎を併発してあっけなくこの世を去ってしまった。フランスから日本に留学してきて、比較的名のある家出身で外交官の卵だった父と知り合い、親類の反対を押し切って結婚した母だったが、空気の綺麗なフランスの田舎に近いところから東京に出てきたことで、もともと虚弱だった体質は慢性的な喘息を患っていた。また、結婚のことで家から勘当を言い渡された代わりに、外交官としては名を馳せた父だったが、母を失ってからますます仕事にのめりこみ、くも膜下出血で倒れ、そのまま戻らぬ人となってしまった。二人が如月高校に合格した直後だった。
 仕事に成功していた父のおかげで、大きな家や遺産は残ったが、親類の言葉を聞かずに、外国籍だった母と結婚した父親のことを、快く思わない親類一同は、斗音と慈恩を引き取ろうとしなかった。斗音はあれだけ反対した外国人の血をはっきりと感じさせていたし、双子でありながら斗音とまるで似ていない慈恩に対しても、いぶかしむ者が多く、疎まれていたのだ。更に言えば、二人ともどの家の子供よりも優れていたので、避けられた部分も、少なからずあった。
 しかし、二人は全くそのことを意に介さず、逆に自由がきく生活が保障されたことを喜んだくらいだった。疎ましがられながら人の世話になるのは、斗音も慈恩も好まなかったのだ。まして二人とも母を早くに亡くしたことで、生活力もあり、大して困りもしなかったのだ。難しい書類や契約書なんかも、父が留守の間に何度もやっているので、何の障害にもならなかった。こうして、広い家での二人暮らしが始まった。

   ***

「お前、執行部やることにしたのか?・・・・・・本気か?・・・・・・でも、部活はちゃんと出ろよ。お前なしでは、俺たちが全国を目指すのが十パーセントくらい困難になる」
 慈恩が、自分が執行部に入ることを、真っ先に剣道部部長に告げると、なかなか頼もしい答えが返って来た。
 
剣道部の部長は、部の中で唯一、全国区の実力の持ち主である慈恩といい勝負をすることができる人物だった。去年のインターハイでは、三年生を差し置いて、慈恩と団体戦、個人戦ともに出場している。それこそ竹を割ったような性格で、いつも豪快で自信ありげな彼は、恐れられてはいたものの、部員からの信頼も一応厚かった。
「俺がいなくても、近藤さんがいれば絶対勝てると思いますけど」
 慈恩の言葉に、部長はからからと笑った。
「個人戦ならな。でも、団体戦は俺だけ勝っても負けちまう。お前が副将にいりゃ、俺は気苦労しなくて済むだろう」
 自分と近藤さんが勝ってもあとが勝てなければ負けますけど、と口に出すほど、慈恩は軽はずみではない。微笑して見せた。
「わかってます。部活にはなるべく支障を来たさないようにしますから」
「それなら思う存分、執行部でも頑張れ。それくらいのリーダー性も、次期部長としては持ち合わせてもらわなきゃならんからな」
 脈絡のない唐突な話に、慈恩が目をしばたたく。
「何ですか、その次期部長って」
 
聞いてない、という前に現部長は肩をすくめて、慈恩の言いたい言葉をさえぎった。
「お前以外、誰がやるんだ」
「如月に入ってる人物だったら、大概誰でも優秀だし、リーダー性の一つや二つ、持ち合わせてると思いますけど」
 ささやかな反論は、あっけなく次の言葉で片付けられてしまった。
「従えるには、強さも必要なんだ」
 あっけなく、執行部の激務とともに、慈恩は剣道部次期部長も約束させられたのであった。
 一方、斗音はというと。
「お前、生徒会副会長だってな。一年の時は前期級長後期執行部役員だったから、まあ妥当だな。実績と信頼度から言って、お前以外に二年で副が務まる奴いないだろ」
 男子バスケットボール部の中で、比較的仲のいいグループが斗音の周りに集まっている。慈恩を5㎝上回る長身を誇る羽澄翔一郎が、すっきりと整った顔をほころばせて言った言葉に、その中で唯一斗音と同じくらいの身長の、樋口瞬が頷く。
「執行部のこともよく知ってるしね。喘息で部活ができない時でも、悔しそうに練習見てる暇がなくなるんじゃない?」
 からかうように言ってみせるその笑顔は、斗音に負けない天使のそれである。瞬はドイツ人とのハーフで色が白く、やわらかそうな髪も長めで、父の再婚相手である継母にいつも気を遣われているという複雑な家庭環境に似合わない、その女の子顔負けの可愛らしさは校内でも有名である。
「あんまり無茶して、また慈恩を心配させんじゃねえぞ」
 瞬を小突きながら苦笑して見せたのは、淡い紫色の髪に端正な輪郭を縁取らせ、後ろでひとつにしているのが印象的な、校内一の美男子と噂の東雲嵐である。慈恩と同じクラスの嵐は、翔一郎よりやや斗音たちに視線の高さが近い。その三人に斗音を加えたこの集団は、傍目から見ても異様なほどの「出来過ぎ集団(Perfects)」だった。瞬以外はバスケットの腕も人並み外れて優れており、少々思考の歪んだ女子などに、おかしな妄想をさせるという特技も持ち合わせている。
「分かってるよ。でも、今できるチャンスがあるなら、やっぱやってみたいしさ」
 にこりと笑って応じる斗音に、嵐はわずかな笑いを表情から消した。
「・・・・・・いつできなくなるかわからない・・・・・・か?」
 残りの三人の表情が、一気に深刻さを漂わせる。が、すぐに斗音が笑みを取り戻した。
「まあ、ね」

 言ってから、嵐の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だって。俺、中学でバスケ始めてからかなり体力ついてきたし、発作もすごく減ったんだから。入院するほど酷かったのは、軟弱だった小学校の頃だけだって」
 ちょっと擦化音の混じる声・・・・・・いわゆるハスキーボイスも、斗音の魅力のひとつであるが、その声になる要因は斗音の持つ喘息にある。母親に似ているのは、姿形だけではなかった。
「それに、今回執行部に慈恩もいるから。心強いだろ?」
 斗音が嬉しそうに言うのを見て、三人は顔を見合わせた。
「慈恩が?あいつ執行部に入るのか?」
「斗音、慈恩にやってってねだったんじゃないの?」
 翔一郎と瞬が、たて続けに思い思いの言葉を口にする。瞬の言葉は全くの図星だったので、斗音は苦笑した。
「一緒にやって欲しいとは言った」
 嵐は少し遠い目をしてつぶやいた。
「・・・・・・ほんっと、あいつ苦労性だなあ・・・・・・」

 生徒会の認証式が終わってから、たちまち慈恩に言わせれば悪夢のような仕事量が、執行部に襲いかかってきた。
「新入生歓迎会と、組織でどんな取り組みをしていくのかだけは、今週中に決めないとなあ」

 放課後の部活に行く前に集まった生徒会室で、三人いた立候補者の中で全校の八十パーセントほどの票を獲得して会長の座を射止めた今井文弥(ふみや)は、大きく息をついた。

「今日が火曜日だから、それぞれ仕事を分担して、あさってには持ち寄って話し合おう。それが水曜日で、新入生歓迎会の内容を決定するだろ。プログラムを組んで、文書出して、進行表を作って、使うもの準備して、先生にも許可もらって・・・・・・再来週の金曜日には歓迎会が予定通りできるな。で、組織の構成は・・・・・・各委員会の今までの取り組みを合わせて、執行部中心にどんな学校づくりをしていくのかってところから始めなきゃな。まずは生徒会スローガンだけど、そのビジョンが見えてないとスローガンも立てられないからなあ。歓迎会にはスローガン出していかなきゃいけねえし。執行部のメンバー七人で何とかこなさなきゃなあ」
「前期は一年生がいないのが、痛いわね」
 紅一点となった三年生の伊佐治莉紗(りさ)が、ショートボブの髪をさらさらと揺らして首を振った。如月高校は、学級の代表となる級長は前期と後期で入れ替わるが、執行部は一年間同じメンバーで存続する。ただし、後期には一年生からもメンバーが加わることになるのだ。
 同じく三年生のメンバーである弓削清重(ゆげせいじゅう)と武知玄道(たけちげんどう)が、頼もしい後輩を見て笑い合う。弓削は比較的さっぱり顔の賢い好青年。武知は中学時代やんちゃな集団のボス的存在でならした経験がある、ちょっと強面の、そしてその顔を裏切らない柔道三段の全国区選手である。なぜかこの二人は中学時代からの親友である。

「とりあえず、やること書き出して、分担だけしましょう。部活行かなきゃいけないメンバーもいるし」
 にこりと斗音が笑って言うのに、莉紗も難しい顔を緩めた。
「さすが副会長ね。前向きでいいなあ」
「俺らは会長と副会長を徹底的にサポートする役だから、言われたとおりに考えるし、動けるぜ。うちは伝統的に二年が副会長だけど、椎名なら支える方もやりがいがあるってもんだ」
 武知がどすのきいた声で言ってにやりと笑う。弓削がくすっと笑って武知にツッコミを入れる。
「お前が言うと脅迫じみてるよ。それに、椎名は一人じゃない」
「そうね。じゃあ、副会長は斗音くんね」
 莉紗がよろしく、と手を出すのを、斗音はぎゅっと握って笑顔で返した。
「よろしくおねがいします」
 そして執行部の紅一点は、快活な笑顔をもう一人の椎名という姓を持つ二年生メンバーに向けた。
「そして、慈恩くん。私たちと一緒に今井くんと斗音くんを支えようね」
「・・・・・・はい」
 誠実そうな漆黒の瞳をまっすぐ莉紗に向け、慈恩は差し出された彼女の手を優しく握った。
「慈恩は大人っぽいな。下手すると今井より紳士だよな」
 弓削がくすくす笑った。今井が舌を出して見せる。
「ふん。別にそんなところで勝とうと思ってねえよ。俺は一応全校を動かすトップってところで手腕を発揮すりゃいいんだ」
「ガキみてえな言い方してんなよ、全校のトップが」
 武知のツッコミで三年連中は爆笑し、メンバーの雰囲気が一気に和んだ。そして、まだ笑いの収まらない中で、莉紗が女性らしい気遣いというのか、まだ会話に参加できていなかった最後のメンバー、二年生の藤堂大河にも手を差し出した。
「藤堂くんも、よろしくね」
 藤堂も大概みんなの前に出る役を買って出るタイプで、サッカー部では唯一二年生でレギュラーを獲得するような運動神経も持ち合わせている。スポーツマンらしい爽やかな笑みで、藤堂も莉紗の手を強く握った。
「こちらこそ、よろしくッス」
「それじゃ、まずはあさってまでの宿題を手分けしようか。ここには各部の期待選手も多いからな」
 今井が武知、慈恩、藤堂、そして斗音の順に目を向けて、にっと笑った。
「だろ、斗音」
「そうですね。じゃあ、二年生で新入生歓迎会のほうを担当しますから、大元の組織とスローガンをお願いできますか」
「そうしよう。じゃ、早速それぞれでやらなきゃいけねえこと、まとめようか」

   ***

「ちこーーーーく!!」
 部活に行くなり近藤に言われ、慈恩は静かに頭を下げた。
「すいません」
「いきなり約束破りやがって。罰として、全員と掛り稽古だ!!」
「はい」
 サボっていたわけではなくても、口ごたえひとつしない。近藤もそんなことは百も承知である。慈恩が防具をつけるのを待って、地獄の稽古が始まった。独特の掛け声が剣道場内に響き渡る。慈恩はあまり声を上げないが(そこが部長に言わせれば欠点なのだが)、一本一本確実に防ぎ、確実に相手に打ち込んでいく。普通は一人相手でも死にそうになるのだが、慈恩は部員二十三人全てと、休憩を一切挟まずにそれをこなした。当然誰よりも慈恩はレベルが高いのだが、掛かれと言われたからには掛からなければならない。そして最後は部長の近藤である。
「死んでも恨むなよ。その代わり、最後だけは俺が掛かる」
「お願いします」
 気合の入った掛け声とともに近藤の竹刀が慈恩に襲い掛かる。さすがの慈恩も、必死にそれを受ける。鬼のような気迫で打ち込んでくる近藤は、言葉どおり容赦がない。何本受けただろう、慈恩は自分の腕が上がらなくなってきたのを感じた。その瞬間、
「やああああっ!!」
 力いっぱい振り下ろされた竹刀を、必死で流す形に受け止めたが、流しきれずに慈恩の竹刀が弾き飛ばされた。とたん、喉元に突きがぴたりと突きつけられる。
「・・・・・・よく死ななかったな。褒めてやるよ」
「・・・・・・ありがとう、ございました」
 近藤は竹刀を引いて、場内に響き渡る声で全員に整列を命じた。

「お前、化け物だな。俺、お前一人とやっただけでかなりきつかったのに、二十人以上とやって、ラストに近藤先輩だろ。信じられねえ」
 二年生の田近が肩をすくめながら、汗だくの慈恩に声をかける。さすがの慈恩も、荒い呼吸が抑えられない。
「きつかった・・・・・・」
「そりゃそうだよな。シャワー、浴びてこいよ。また斗音を待たせるぞ」
「・・・・・・ああ・・・・・・でも、少し休んでからにさせてくれ」
「分かった。じゃあ、斗音見かけたらちょっと遅くなるかもって言っておくよ。お先」
「・・・ありがとう」
 
剣道着もそのままに、壁にぐったりと寄りかかって、慈恩は目を閉じた。
 
斗音はバスケ部の仲のいい連中と、ことごとく帰り道が異なるためか、よく慈恩を待っているのだ。慈恩はどちらかというと崇拝されることはあるが、親友といえるほどの仲間が剣道部にはいないので、決まった誰かと一緒に帰ったりすることはあまりない。だから、校門までは一緒に終わった剣道部の仲間と行って、そこで待っている斗音や、途中で別れることになるバスケ部の「出来過ぎ集団」と帰ることが多かった。「出来過ぎ集団」は慈恩のことも大好きなので、雑談をしながら慈恩を待っているのだ。ある理由から仕事を持っている嵐は忙しいらしく、先に帰っていることも多いのだが。
 身体が重くて、言うことをきかない。慈恩は急激に重くなる思考の中で、斗音が先に帰ることを願った。

「・・・・・・椎名。大丈夫か?」
 自分の名前を呼ばれたことに気づいて、慈恩はふと目を開ける。目の前には心配そうにのぞき込む近藤がいた。

「・・・・・・大丈夫・・・・・・ですけど、今何時ですか?」
 まだ全身に疲れは残っているが、意識はすぐにはっきりした。眠ってしまったと気づいて、慌てて壁の時計を見る。
「六時半くらいか?お前、風邪ひくぞ」
 すっかり着替え終わっている近藤が肩をすくめて、慈恩の腕を引いて身体をぐいっと起こした。剣道部で慈恩より背が高く、力が上回るのはこの部長だけである。技術で慈恩が上回るので、近藤はなかなか勝てないのだが。
「わ、剣道着もぐっしょりじゃねえか。全く・・・・・・馬鹿だな」
「・・・・・・どうしてここに?」
「部長が最後の見届けをするのは当たり前だろ。ロッカーにまだお前の荷物が置いたままだったから、来てみた。死んでねぇかと思って」
 そして、引き起こした際に首からのぞいた金属の光に、ちっと舌打ちをする。
「こんなちゃらちゃらしたもんつけてやってるからだ、この軟弱者が」
 苦笑いをしたものの、慈恩は悪気の一切感じられない漆黒の瞳を、近藤に向ける。
「・・・・・・これだけは失くせないので・・・・・・」
 近藤は肩をすくめた。
「分かってる。今のも言葉の弾みだ。お前がかっこつけてやってるとは思ってねえよ。いいから早くしろ」
「・・・・・・ありがとうございます。すぐに着替えます」
 一歩踏み出そうとして、言うことをきかない足がもつれそうになる。慌てて近藤が支えた。
「死んでないけど、死にそうだな、お前。これだけ汗かいてんだし、熱いシャワーちゃんと浴びて着替えろよ。お前が倒れたら大変なんだからな」
「・・・そのわりに、よく死ねとか言いますよね」
「言葉のあやだろ」
「わかってますけど。っと・・・・・・」
 支えられた態勢を立て直そうとして、またバランスを崩す。それを抱きとめた近藤は、思わずその腕に力を込めた。
「馬鹿だな、お前は。ほんとに馬鹿だ」
「・・・・・・すみません」
 連発される馬鹿に、近藤の心配してくれる気持ちを感じて、慈恩はそんな思いをさせてしまったことに対して素直に謝った。そんな慈恩に、近藤は眉根を寄せて短く溜息を吐き捨てる。
「俺はお前の兄貴よりお前のほうが大事だから、お前が兄貴のために黙々といろんなものを被ってるのがたまらねえよ。周りから見りゃ、あの兄貴はきらきらしてて、明るくて、まるで太陽だ。それに比べてお前は静かに光を湛える月だろう。けどな。あの太陽が輝けるのは、お前の存在があってこそだ。本来なら太陽こそが月を輝かせるものなのにな。そしてお前は、それを自覚してる。あいつを輝かせるために、精一杯自分を削ろうとする。どうしてだ。お前だって、太陽になれる素質がある存在なのに!」
 慈恩は意外なほど感情を高ぶらせて、思ってもみなかった言葉を口にする近藤に、困惑の表情を浮かべる。
「・・・・・・近藤さん・・・・・・」
 色々言いたいことはあった。近藤がそう思ってくれているということも、決して悪い気はしなかった。常にたくさんの人に囲まれる斗音の近くにいて、体の弱い斗音を常に心配し、気遣う人たちの中にいて、自分のことをここまで気にしている人物に出会ったことは、あまりなかった。今までに、自分の彼女という名目を肩書きにしていた女の子たちが、時折「斗音くんのことを心配する気持ちはわかるけど、慈恩は損してるんじゃない?」と言うことはあった。しかし、彼女らもやはり斗音のことが好きだったし、大事にしなければならないと当たり前のように思っていた。
「・・・・・・いつ発作が起こるかわからない。だから、今を必死に生きてる。そんなあいつを見てると、放っておけないんです。多分、斗音のことを知ってる人間なら、誰でもそういう気持ちになる。その中で、俺が一番あいつの近くにいる・・・・・・。ただ、それだけのことです」
 まだ納得できない顔をしている近藤の二の腕をそっと押しやって、慈恩は相手の目を見つめた。
「もう、大丈夫そうです」
 近藤は腕を引いて、視線を一度、磨かれた床面に落とした。
「馬鹿は死ななきゃ治らねえからな」
 皮肉めいた笑いを閃かせて、慈恩を見据える。

「だから、今度遅刻したら本気で半殺しにしてやる。覚えてろよ」
 慈恩は苦笑した。

「分かりました。・・・・・・覚悟してます」

   ***

「おかえり、慈恩!田近に遅くなるって聞いたから、先帰ってきたけど、ごめんね」
 灯りのついた家に入ったとたん、斗音がダッシュで出てきて、手にしたおたまを慈恩に振って見せた。
「今日は俺が夕飯作ってるから。先に風呂入ってきてくれる?」
 慈恩は軽く目を瞬かせた。
「えっ・・・・・・何を作ってるんだ?」
「ふふふ。できてからのおっ楽しみっ!あ、そうそう、風呂、慈恩が帰ってくるまでに冷めちゃいけないと思ってちょっと熱めにしちゃったけど、熱かったら水入れといて」
 斗音のハイテンションに押されて、慈恩は自分の部屋に向かいながら首をかしげる。正直、斗音が家事に向いているとは、お世辞にも言えない。料理を作れば、味見をしすぎて舌を麻痺させ、かなり味の濃厚なものを作り上げるし、揚げ物は中が煮えているかどうか不安で、なかなか油から取り出さずに焦がしてしまう。風呂も湯加減をみすぎて神経を麻痺させ、かなり熱い風呂を入れる。掃除機をかければ丁寧すぎて、広い家全てを綺麗にするのに一日かかってしまうし、洗濯をすれば汚れが落ちるようにと洗剤を入れすぎ、すすぎが大変になる。要は、自分の不器用さをよく知っているがため、必要以上に心配性になり、それが失敗につながってしまうのである。だから斗音は、あまり家事を積極的にしたがらないのだ。
(とりあえず、遅くなってる分、やってくれるのはありがたいんだけど・・・・・・)
 着替えを持って風呂場に行くと、脱衣室のドアを開けた時点で既に湯気が立ち込めていて、熱すぎる湯を想像するのは容易かった。
(・・・・・・あいつ、まだ風呂に入ってないのか。今日は部活にほとんど顔も出せてないはずだから、風邪をひいたりすることはないかな)
 浴室のガラス戸を開けると、中が真っ白な水蒸気に満たされていて、浴槽すら見えなかった。そっと中の湯加減をみようと、湯に触れてみるが。
(あっつっ!!!)
 瞬時に手を引いて、慈恩はどきどきしながら熱かった右手を、左手で包み込んだ。

(・・・・・・・・・・・・有り得ねえ、この熱さ・・・・・・)
 さっそく湯船に水を足しながら、その水に右手を浸す慈恩であった。

 かなり熱めの風呂から上がった慈恩は、心臓がバクバクするのを感じながら、ビーフシチューの香り漂う台所をのぞいた。
「斗音、上がったけど・・・・・・何か手伝おうか?」
 斗音は振り返り、にこりと笑って見せた。
「大丈夫。もう出来上がるから。あ、やっぱ熱かった?」
「ちょっとな。じゃ、皿出そうか」
 言って、シチュー皿を取り出すと、斗音は目をぱちくりさせた。
「何でシチューって分かった?」
「分からないわけないだろ。換気扇も回さずにそれだけ煮詰めれば」

「あっ、しまった。あんまり気にしてなかった。でも、今日は味はばっちりなはず!さ、飯にしよ」
(味、は?)

 ご飯を茶碗に、シチューをシチュー皿によそう斗音の横で、慈恩は神業的な速さで大根の明太子サラダを作り、一品追加した。
「うそ、はやっ!しかもすげーうまそう。よし、かんぜーい!いただきますっ」
「いただきます」
 斗音は一番にサラダに手をつけて、口に入れるなり絶賛した。
「美味い。慈恩天才」
 慈恩は苦笑しながらシチューをスプーンでゆっくり口に運んだ。
「・・・・・・・・・・・・」
 斗音はそれをじっと見て、評価が下されるのを待っている。慈恩はよく味わってから、微笑んだ。
「・・・・・・うん、美味しい。お前にしちゃ上出来」
 斗音の顔がぱっと明るくなる。
「だろ?!やった、良かった。今回はさ、ルーの裏に書いてある通りにちゃんと作ったから」
「なるほど。飯もちゃんと炊けてるし」
 ちょっとやわらかいけど、とは口に出しては言わなかった。ついでに、書いてある通りに作ったのだろうが、ジャガイモやにんじんがかなり小さめで、ほぼ形を成していないということにも、敢えて触れなかった。それを含めても、斗音にしては上出来だったのだ。大体、ルーを使って作る料理で、失敗も何もなさそうだが、それでも斗音は水を入れすぎたり、逆に入れなさすぎたり、具を焦がしたりするのである。
 斗音も自分でシチューを食べてみて、うん、美味しい、とうなずいた後、ポツリとつぶやく。
「でも、歯ごたえのないシチューだな・・・・・・」
「じっくり煮た証拠だよ」
 さりげなく慈恩がフォローしたが、斗音は首をかしげる。
「でも、慈恩が作るのは、もっと食べてる感じがする・・・・・・ご飯もちょっとやらかい?」
「たまにはいいよ」
 優しい慈恩である。それでもしゅんとした斗音を横目に、一気にシチューを掻き込んで言った。
「もう一杯、もらうよ。俺、今日は体力使い果たしてきたから腹減ってるんだ」
 斗音が寂しそうな顔を一瞬で輝かせる。
「あ、俺つける!」
 皿を受け取り、嬉しそうにお代わりをつける斗音を見ながら、慈恩も微笑した。

 時刻は九時を過ぎ、慈恩が明日のための宿題を始めた頃、斗音が風呂から上がり、髪を拭きながら慈恩のいる居間に入ってきた。
「ねえ、慈恩。風呂、かなり熱かったんじゃない?」
 濡れた前髪がなかなか色っぽい斗音を見ながら、慈恩が首をかしげる。
「どうして」
「だって、慈恩が入ったの二時間くらい前だろ。なのに、それでも熱いくらいだった」
「・・・・・・まあ、ちょっと熱かった・・・・・・かな・・・・・・」
 ごまかしながら慈恩は物理の問題に目を向ける。
「慈恩」
 咎めるような声色が頭上から降ってきた。ごまかすのはまずかったか、と声の降ってきた方を見上げた途端、ひやりと濡れた髪が頬にこすりつけられた。その髪に、やれやれ、と大きな手を載せる。
「・・・・・・重いぞ」
「ごめん。俺、何でそんなにドジなんだろ。ほんとごめん」
 首にぎゅっとしがみついてくる斗音は、本当に憎めない。わしゃわしゃと濡れた髪を乱して、慈恩は苦笑した。
「いいよそんなことは。全く、学校では完全無欠の兄貴なのにな。ほら、早く髪乾かさないと」
「誰が完全無欠だって?」
 慈恩から離れて、斗音は乱された髪をタオルでかきあげながら、口を尖らせる。
「お前だよ。如月で生徒会副会長の肩書きが背負える人間って、そういないだろ。バスケはうまいし成績はいいし、ルックスもいい、性格も明るい。全く非の打ち所がないだろ」
 立て板に水ですらすらと言葉が出てくる慈恩に、斗音は肩をすくめた。
「おまけに喘息持ちで家事は全く駄目と来た。それに比べて生徒会執行部役員の肩書き背負って、剣道は全国区、成績もトップクラス、ルックスも申し分なく、落ち着いて大人。家事は天才的で健康体」
 唖然としている慈恩の額を、軽く指で弾いた。
「いて」
「完全無欠ってのは、慈恩だろ。自覚してないな、お前」
「・・・・・・・・・・・・」
「考えたこともなかった、って顔してる」
 斗音はくすくすと笑いながら、ドライヤーの熱風を髪に当て始めた。
「俺なんかより、ずっと慈恩の方がすごい人間だよ」
「・・・・・・・・・・・・・」

 本気で考えたことがなかったので、慈恩は言葉も出ない。自分の中では有り得なかった。自分にとって、常に一番にしてきたのが斗音だったのだから。その斗音にそんなふうに言われるとは、全く思ってもみなかった。
 
斗音がドライヤーで髪を乾かし始めても何も言えないので、途中にしていた物理の問題を考えようとしたが、さっぱり頭に入らない。しばらくしかめっ面をしていたが、諦めて溜息をつき、がしがしとハリのある黒髪を掻き回した。
「どうしたの。さっきから進んでない」
 いつの間にやらドライヤーの騒音がやんでおり、麗しい兄が慈恩のノートをのぞき込んでいた。
「俺も宿題やろっと。執行部で考えなきゃいけないこともあるし」
 自分の部屋からパタパタと色々抱えて居間に戻ってきた。自分の部屋でやることもあるのだが、文系の斗音と理系の慈恩は互いに得意な分野を教え合えるという利点もあるので、居間で額をつき合わせて勉強することも多い。ソファに座ると机が低すぎるので、慈恩の隣で絨毯にあぐらをかく。
「慈恩、物理得意だろ?そんなに難しいの、それ」
 のぞきこんでくる斗音に、苦笑して見せた。
「いや、集中できなかっただけ」
「なあんだ」
 言いながら斗音も数学を広げる。
「授業中解けなかったのが一問あってさ、慈恩に聞こうと思ってたんだ」
 どれだっけ、といいながら教科書をめくる。慈恩はふと口を開いた。
「今日、部長に、似たようなこと言われた」
「え?数学?」

 唐突な慈恩の言葉に、斗音がとんちんかんな反応を返す。
「いや、そうじゃなくて・・・・・・」
「ああ、完全無欠だって?」
 素早く頭を切り替えられるところは、さすがである。
「うん。その時も、意外なこと言う人がいると思った。・・・・・・俺にとっては、いつもお前が一番ってのがあったからさ。だから、考えてた・・・・・・。家で見せるお前の人間らしさは、俺にしか分からない・・・・・・」
 慈恩が何を言いたいのかよく分からない斗音は、きょとんとしている。
「だから・・・・・・周りは完全無欠なお前を見てお前を好きになるし、俺はその人間らしさ含めて・・・・・・お前の魅力だと思う。逆に、お前らしさが見られる俺は、みんなが知らないお前の魅力を知ってると思う」
「・・・・・・慈恩?」
 慈恩は苦笑した。自分の言っていることが、とりとめもなくて、まとまりもなくて、その上面と向かって言うには結構躊躇うような内容だということに気づいたのだ。
「つまり・・・・・・近藤さんはお前の一番人間らしい魅力を知らないし、お前もそれに気づいてない。それで俺は周り以上にお前のいいところ知ってるってことだよ」
 斗音は訝しげに慈恩を見つめていたが、その意図を理解してか、嬉しそうに微笑んだ。

「だから、自分より俺の方がいいって言ってくれるの?俺のドジなところ、フォローしてくれてるんだ?慈恩、優しいなあ」
 照れながら、でも開けっぴろげにこんな表情を見せられる斗音が、羨ましいと思う。自分には決してできないことだ。
「ありがと。そんな慈恩が、俺の中では一番だよ」
 天使の笑顔でそんなことを言ってもらえるのは、世界で慈恩だけだろう。誰もが憧れる、きらきら輝いている斗音。
(ある意味、俺は幸せ者なのかもしれないな)

 慈恩は小さく微笑んだ。

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